2015年11月02日

◆行方不明の秋田音頭

渡部 亮次郎



秋田生まれの私にとって「秋田音頭」こそは性教育の原典だった。田植えの終わった後の宴会「早苗振り」とか稲刈りのあとの「酒盛り」で男たちが次々の歌い続けるのである。また戦前は隣町の民謡歌手鳥井森鈴(とりいしんれい)がレコードに吹き込んでいたから、これでも覚えた。森鈴が作詞、作曲したものと思っていたが、要するに農民たちが歌い継いで歌詞を増やしてきたものらしく、秋田弁とは言いながら地域によって詞は多少異る。

とにかく本歌は凄いのだ。

「おみゃがた(あなたがた) おみゃがた 踊りこ見るとて 立って見るな 立っていいのは電信柱とあんちゃ(兄さん)のがも(マラ)ばかり

「オラ家のあねちゃ(嫁)田の草取りに行って 穴コさ泥鰌いれたあねちゃもあねちゃ 泥鰌コも泥鰌コ あちゃこちゃぶつかって出た時ゃ ほんわ ほわ

「他人(ひと)の嬶(かかあ)すりゃ、忙しもんだと来たもんだ湯文字紐解く褌外す、 いれる もちゃげる 気をやる いく抜く 拭く 下駄めっけるやら逃げるやら

「ぎっちもち ぎっちもち 板の間ぎっちもち たましコ(幽霊)来たかと 念仏コ申したら 鼠コ夜這いに来た


「白玉食(く)にあべ(行こう)、白玉食(く)にあべ(行こう)
白玉食に行ったら 上から白玉 下から金玉 腹中(はらなか)玉だらけ

「おら家の爺様と隣の婆様と この世の名残に 一発ぶっぱめた 行くよ
行くよと 気ばかり焦って とうとう夜が明けた

「あの税 この税 役場の税金 息つく暇もねぇ いっそこれだば 有る物 ぶち売って 1発 ぶっぱめて 死んだほいい。

『ウィキペディア』では恰好ばかりつけて真実を語らない。<秋田県の民謡。1663年(寛文3年)秋田藩主佐竹義隆に上覧した時に成立したといわれる。三味線、笛、太鼓、鐘などの伴奏で滑稽な歌詞をリズミカルに並び上げるのが特徴>などとあるが、要するに、昭和三十年近く、秋田にも民報ラジオ局が出来た。

追っかけるように「放送コード」なる艶物の自主規制基準を作って自縄自縛を始めた。誌面で読むだけでも「刺激的」なのだから、小母さんたちに「教育上・・・」と居直られるとNHKも放送しなくなった。

だが「秋田音頭」そのものを失くすのは惜しいとばかり、替え歌を作ってお茶を濁した。

<出だしの「ヤートナー」というかけ声以外はあまり音程がなく、7-7-9を基本としたリズムに乗せて台詞を述べ上げるだけである。いわゆる地口のようなもの。

多くの歌詞があるが、「秋田名物八森ハタハタ…」と秋田名物を並べたものが有名である。その他にも、小野小町が秋田美人の代表であるなどを歌った有名な歌詞がいくつかあるが、即興でおもしろおかしい事を歌うというのが本来であった。

このため、時事の風刺や、卑猥な話が歌われる事も多い。これを春歌というが、秋田音頭はもともと春歌だったという説もある。>

馬鹿なことを書いては困る。秋田音頭は「春歌だったという説もある」どころでは無い。春歌そのものだったのである。

「女という奴、純情な顔して鬼よりまだおっかね。生きたヘンノゴ(マラ)生でまぐらて(食って)似たよなガギ(赤子)こしゃる(作る)」と聞けば立派な性教育だった。

「難産だ、難産だ、難産した時ゃ、一生すめぇと神コさ願かけた。(高言ぬがしゃがて、と唄う地域もある)3日も経たたねで むりっと入れたら 嗚呼 これだば死んでも止められね」。

<(ヤートナー)コラ、秋田音頭です(ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー)

コラ、いずれこれよりご免こうむり音頭の無駄をいう(アーソレソレ)お耳障りもあろうけれどもさっさと出しかける
(以降、歌詞の終わりに「ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイ
ナー」のかけ声が入る)

コラ、秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ」>

ここまでは元歌にもあった冒頭の掛け声である。だが後がいけない。まるでぶち壊しだ。替え歌は理屈ばかりで可笑しさが全く無い。

<コラ、秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ(アーソレソレ)手頃な蕗の葉さらりとからげてサッサと出しかける

コラ、秋田の女ご,なんとしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげコラ、お前(め)がたお前がた踊りコ見るならあんまり口開(あ)ぐな(アーソレソレ)今だばええども春先などだば雀コ巣コかける >

放送では以上のような歌しか歌えないだろう。全く空疎である。本物の秋田音頭は失踪して久しいわけだ。放送の普及が本物を隠し、県民に忘れさせたのである。秋田の文化である以上、地元の放送業界は守護に責任を感ずるべきだと思うが、そんなホネのある奴は地元には帰らないらしい。

本名 鳥井儀助は「秋田追分」や「秋田馬方節」の普及に功績があったとして昭和46(1971)年に 民謡の分野で秋田県文化功労者に選ばれている。

潟eイチクエンタテインメントが制作・販売している「日本民謡名人撰」CD10枚組/カセット10巻組・全160曲の中に森鈴の「秋田追分」と「秋田馬方節」が収録されているが、最高の力作「秋田音頭」は入っていない。「秋田音頭」は行方不明になったのだ。

放送が文化遺産を消滅させる。2008・10・23

2015年11月01日

◆行方不明の秋田音頭

渡部 亮次郎



秋田生まれの私にとって「秋田音頭」こそは性教育の原典だった。田植えの終わった後の宴会「早苗振り」とか稲刈りのあとの「酒盛り」で男たちが次々の歌い続けるのである。また戦前は隣町の民謡歌手鳥井森鈴(とりいしんれい)がレコードに吹き込んでいたから、これでも覚えた。森鈴が作詞、作曲したものと思っていたが、要するに農民たちが歌い継いで歌詞を増やしてきたものらしく、秋田弁とは言いながら地域によって詞は多少異る。

とにかく本歌は凄いのだ。

「おみゃがた(あなたがた) おみゃがた 踊りこ見るとて 立って見るな 立っていいのは電信柱とあんちゃ(兄さん)のがも(マラ)ばかり

「オラ家のあねちゃ(嫁)田の草取りに行って 穴コさ泥鰌いれたあねちゃもあねちゃ 泥鰌コも泥鰌コ あちゃこちゃぶつかって出た時ゃ ほんわ ほわ

「他人(ひと)の嬶(かかあ)すりゃ、忙しもんだと来たもんだ湯文字紐解く褌外す、 いれる もちゃげる 気をやる いく抜く 拭く 下駄めっけるやら逃げるやら

「ぎっちもち ぎっちもち 板の間ぎっちもち たましコ(幽霊)来たかと 念仏コ申したら 鼠コ夜這いに来た


「白玉食(く)にあべ(行こう)、白玉食(く)にあべ(行こう)白玉食に行ったら 上から白玉 下から金玉 腹中(はらなか)玉だらけ

「おら家の爺様と隣の婆様と この世の名残に 一発ぶっぱめた 行くよ行くよと 気ばかり焦って とうとう夜が明けた

「あの税 この税 役場の税金 息つく暇もねぇ いっそこれだば 有る物 ぶち売って 1発 ぶっぱめて 死んだほいい。

『ウィキペディア』では恰好ばかりつけて真実を語らない。<秋田県の民謡。1663年(寛文3年)秋田藩主佐竹義隆に上覧した時に成立したといわれる。三味線、笛、太鼓、鐘などの伴奏で滑稽な歌詞をリズミカルに並び上げるのが特徴>などとあるが、要するに、昭和三十年近く、秋田にも民報ラジオ局が出来た。

追っかけるように「放送コード」なる艶物の自主規制基準を作って自縄自縛を始めた。誌面で読むだけでも「刺激的」なのだから、小母さんたちに「教育上・・・」と居直られるとNHKも放送しなくなった。

だが「秋田音頭」そのものを失くすのは惜しいとばかり、替え歌を作ってお茶を濁した。

<出だしの「ヤートナー」というかけ声以外はあまり音程がなく、7-7-9を基本としたリズムに乗せて台詞を述べ上げるだけである。いわゆる地口のようなもの。

多くの歌詞があるが、「秋田名物八森ハタハタ…」と秋田名物を並べたものが有名である。その他にも、小野小町が秋田美人の代表であるなどを歌った有名な歌詞がいくつかあるが、即興でおもしろおかしい事を歌うというのが本来であった。

このため、時事の風刺や、卑猥な話が歌われる事も多い。これを春歌というが、秋田音頭はもともと春歌だったという説もある。>

馬鹿なことを書いては困る。秋田音頭は「春歌だったという説もある」どころでは無い。春歌そのものだったのである。

「女という奴、純情な顔して鬼よりまだおっかね。生きたヘンノゴ(マラ)生でまぐらて(食って)似たよなガギ(赤子)こしゃる(作る)」と聞けば立派な性教育だった。

「難産だ、難産だ、難産した時ゃ、一生すめぇと神コさ願かけた。(高言ぬがしゃがて、と唄う地域もある)3日も経たたねで むりっと入れたら 嗚呼 これだば死んでも止められね」。

<(ヤートナー)コラ、秋田音頭です(ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー)

コラ、いずれこれよりご免こうむり音頭の無駄をいう(アーソレソレ)お耳障りもあろうけれどもさっさと出しかける
(以降、歌詞の終わりに「ハイ、キタカサッサー、ヨイサッサ、ヨイナー」のかけ声が入る)

コラ、秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ」>

ここまでは元歌にもあった冒頭の掛け声である。だが後がいけない。まるでぶち壊しだ。替え歌は理屈ばかりで可笑しさが全く無い。

<コラ、秋田の国では雨が降っても唐傘などいらぬ(アーソレソレ)手頃な蕗の葉さらりとからげてサッサと出しかける

コラ、秋田の女ご,なんとしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげコラ、お前(め)がたお前がた踊りコ見るならあんまり口開(あ)ぐな(アーソレソレ)今だばええども春先などだば雀コ巣コかける >

放送では以上のような歌しか歌えないだろう。全く空疎である。本物の秋田音頭は失踪して久しいわけだ。放送の普及が本物を隠し、県民に忘れさせたのである。秋田の文化である以上、地元の放送業界は守護に責任を感ずるべきだと思うが、そんなホネのある奴は地元には帰らないらしい。

本名 鳥井儀助は「秋田追分」や「秋田馬方節」の普及に功績があったとして昭和46(1971)年に 民謡の分野で秋田県文化功労者に選ばれている。

潟eイチクエンタテインメントが制作・販売している「日本民謡名人撰」CD10枚組/カセット10巻組・全160曲の中に森鈴の「秋田追分」と「秋田馬方節」が収録されているが、最高の力作「秋田音頭」は入っていない。「秋田音頭」は行方不明になったのだ。

放送が文化遺産を消滅させる。      2008・10・23

2015年10月31日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎



秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、59年を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している>。007・06・30

2015年10月29日

◆「生きている化石」の木

渡部 亮次郎



それは「メタセコイア」。東京都江東区の都立猿江恩賜公園近くに暮らすようになって20年以上経つ。その公園を毎日の散歩コースにしいたのだが、さすが昭和天皇から下賜された公園らしく、昭和天皇が好まれていたと言う「生きた化石」の木「メタセコイア」を沢山植えて、都民の「謝意」を表しているようだ。

まず、公園の入り口(新大橋通り側)に横並びにメタセコイアがそろって6本植えられ、公園のシンボルとなっている。通りを挟んで向かい側は区立江東公会堂(ティアラ江東)である。

私が散歩して居たのは「北部」地区。1周1・1キロ。3000歩である。その途中に、メテセコイアが数十本植えられている。木場(きば)の材木置き場を埋めたてて公園にしたのが昭和56年と言うから、既に34年、経っている。

メタセコイアはいずれも高さ30メートル近い大木に成長している。壮観だ。

メタセコイア。学名 Metasequoia glyptostroboides
和名 アケボノスギ(曙杉)イチイヒノキ 和名アケボノスギは、英名dawnredwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と、現生種を別種とする学説もある)。

葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは1〜3cm程度、幅は1,2mm程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。樹高は生長すると高さ25〜30m直径1.5mになる。

1939年に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉種の植物遺体(化石の一種)が発見された。発見者の三木茂博士により『メタセコイア』と命名され、1941年に学会へ発表された。

当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることが多い。

その後、1949年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地に植えられているのだそうだ。

英国の種苗会社などから、インターネットで種子が入手できる。タネは直径2〜3mmの、淡黄色のおがくず状の物で、発芽率はあまり良くないが、日本の気候にはよく合い、生育が早いので、栽培してみる価値は十分にある。

早めにタネを入手し、1月中旬か下旬に浅鉢、浅箱などに蒔き、タネが隠れる程度に覆土し、乾かさないように管理する。櫻が咲く頃に、徐々に発芽してくるので、数センチになったら3寸のポットに仮植えする。

秋には30cmくらいの苗に生育する。翌春発葉する前に、定植する。苗は一年で1m近く生育し、最終的には30〜40mになるので、株間は7〜8mは必要である。

冬のソナタ。メタセコイアの並木道が登場し、ドラマのファンからはシンボルの一つとして扱われる。

三木町―発見者・三木博士の出身地。博士の功績を記念し、メタセコイアを町のシンボルとしている。三木町(みきちょう)は、香川県東部に位置する町。高松市のベッドタウンとなっている。

また香川大学医学部ならびに農学部を擁する、三木キャンパスの学生街でもある。9月下旬に行われる『獅子舞フェスタ』で知られる。

近年、香川県農業試験場にて開発された讃岐うどん用国産小麦・さぬきの夢2000の試験栽培が開始され、同品種の名産地として脚光を浴びている。

この事はNHK総合のドキュメンタリー番組「プロジェクトX 挑戦者たち」第149回(2004(平成16)年7月6日放映分)にて「さぬきうどん 至高のうまさとは」というタイトルで紹介された。 2010・6・15執筆    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年10月27日

◆伏すより露(あらわ)る

渡部 亮次郎



<隠し事は、隠せば隠すほど、却って人に知られるものである。伏(かく)すことは露(あらは)るならい>とは日本人が昔から言い習わして来た言葉だった小学館「故事俗信ことわざ大辞典」>。

また「隠すことは口より出すな」は口止めするよりは、まずじぶんが口を慎め、ということである。

なぜこんなことを言い出したかというと、いわゆる差別用語の禁句について考えてみると、どうも、言い換えれば換えるほど、結果が反対になるような気がするからである。

若い頃、政治家の手伝いをしたことがあるが、大々的に宣伝したい時には逆に隠すに限ることを知った。そんな時、役人は記者を一杯集め、微細に亘って広報をやれば,大々的な記事になると考えてやるが、記事は豆粒のように小さくなる。

これは記者精神を知らないからである。発表物はどう弄っても発表物で、功名心という記者の魂を揺さぶらない。だから隠すのである。たった1社に洩らす。特種だから記事は大きく出る。仕方無しに他社は追いかける。PRは大々的に成功する。

これの逆が差別用語の言い換えである。「言い換え」語は本質を相当ぼかしているから、頭のいい人は本質を追及して、差別語の本物にたどり着いてしまう。隠した方が現れるどころか、結果は逆に出る。

昔から人間社会はちっとも変っちゃいないのである。豆売りおばさんと言っても東京では売っているのは大豆だと思っちゃうが、関西へいったら、全くの別物と知って逆効果だ。

ちょっと話題になった「片手落ち」論争もそうだ。これは「片手」落ちなのではなく片「手落ち」が本当なのであって「片手」が落ちたと教えた先生が間違っている。

挙げればキリがない。いま

2015年10月25日

◆隠れ共産主義は、増殖する癌細胞だ

池田 法彦

何時の頃からか、ゆとり教育、女性の自立、弱者や子供の尊重等が唱えられ、全国学力テストの廃止、子供への過剰な性教育、被害者よりも加害者優先等が現実のものとなってきた。尤もらしいがよく考えれば、皆古き良本の伝統社会、風習、習慣、道徳を破壊するような毒が満載だ。
 
日本人の特長である謙虚、誠実、勤勉、正義感、正直、和の精神、家族愛等が、このままでは崩壊するとの危惧を覚えた。

単純に自虐史観の悪影響とも考えたが、この反日政策は、実は共産党を始とする左翼反日日本人が密かに、かつ計画的に長期戦略の一環として地道に推進したものだ。

共産党は、戦前ソ連主導コミンテルン日本支部として共産革命を目指し非合法活動をした。戦後は当初GHQのお墨付きで日本解体を目指し画策したが、暴力革命路線の見直しを迫られた。天皇制打倒等の究極目的を衆目から隠し、表向き穏健な左翼ソフト路線へと方針転換をしたのだ。

搾取される都会労働者ではなく、農民国ロシアで初めて一党独裁暴力政権が生まれ、世界は恐怖に浸った。以降、文化破壊による革命実現方針に切替え、日本もその対象となり工作が進んだ。

非暴力の文化破壊によるブルジョワ革命を第1段階とし、その土台の上に最終目的の共産革命へ進むのだ。労働者に頼らずマスコミの支配、文化人・知識人洗脳、政財界、官僚、教育界等に深く潜行し、日本文化伝統を法制化による破壊を目指すのだ。国民は茹でガエルと化し気付かない。

ジェンダーフリー、男女共同参画社会、夫婦別姓、子供の人権、地球市民、外国籍人の地方選挙参加等は、皆スローガンであり、且つ手段なのだ。愛国心、皇室を含む権威への尊敬心、道徳、宗教、家族愛や、伝統、習慣、風俗、羞恥心、正義感等が、遅効性ながら現に破壊されつつある。

幾らでも実例はある。反日米・親中韓政策一点張りの民主党政権時代は、「天皇は逮捕されるべきだった」と菅直人、「日本列島は日本人だけのものじゃない」とは鳩山由紀夫、「自衛隊は暴力装置」との仙谷由人、「いかに国家を転覆させるか」は原口一博等、皆本音が漏れた瞬間の言葉だ。

共産党も負けてはいない。安保法案以前は「自衛官は人殺し!」、 安保法審議中は「自衛官の命を守れ!」と騒ぎ、安保法成立後は再び「自衛官は人殺し!」に戻った。共産党等の左翼反日日本人は、目的の為には何でも平気で嘘を吐く。誠実さの欠片もない。甘言に騙されないことだ。

安保法制関連法廃止の為なら野党連立政権で、綱領に反するが日米安保条約維持に賛同すると、志位和夫委員長が提言した。有事の在日米軍出動、緊急時の自衛隊活用迄容認するとした。

共産党の綱領では、今も共産主義社会実現、天皇制廃止が最終目標と明記し、自衛隊・米軍基地撤廃、生産手段の社会化(国有化・集団化はせず?)と公言する。

反日日本人の平和攻勢、政策ではなくスローガンによる印象操作で、深く静かに日本破壊中だ。日本人よ、覚醒せよ。

最近の調査では、自衛隊の印象が悪いは5%足らず、92%以上は好感。又安保法制時のデモについては、共感するが25%以下、共感しないが74%以上で一安心だが、文化面は要警戒だ。

近年神社仏閣の焼失が数十件、仏像等盗難が数千件発生しているが、文化破壊の一環と思える。

レーガン大統領辞任演説は言う「未完の課題がある。文化を左翼から奪い返すことだ」。左翼は官公庁、政治家、教育界で日本文化・伝統・愛国心崩壊の為、共産化を日々も画策している。民主党の半数も、自民党の一部にも工作員が潜入している。党ではなく人物で選別すべき秋だ。

2015年10月24日

◆八九三でない者の刺青

渡部 亮次郎



小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと
誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区
大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。
昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。

妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている。

2015年10月23日

◆次の大物失脚が近いか、大事件発生か

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)10月22日(木曜日)通算第4694号 >

 
〜王岐山、じつに24日間の雲隠れ
  次の大物失脚が近いか、大事件発生か〜


中国共産党政治局常務委員の王岐山といえば、泣く子も黙る中国版の長谷川平蔵。

ばったばったと腐敗幹部を摘発し、拘束し、逮捕、起訴に踏み切り、これまでの失脚幹部は数えきれず、石油派、鉄道閥、通信閥、そして電力閥をかたづけ、ついには「大虎」に手を出す寸前とまでいわれた。

ところが9月3日の軍事パレードに江沢民、曽慶紅、李鵬らが雛壇に立つたので、大虎対峙はこれまでと手打ちが言われた。

また天津大爆発以来、権力闘争も新局面に入ったようで、マスコミ種となる摘発はない。

そもそも王岐山がおおやけの場に現れなくなって、すでに24日間も経つのである。

トップセブンのトップ、習近平は訪米、訪英と重ね、李克強首相は北京のハイテク特区中関村に現れ、張徳江は月末に詳細を審議するAIIB会議準備に余念が無く、愈正声は民主諸党派との調整に忙しい。

劉雲山は北朝鮮訪問、張高麗は一帯一路の具体的討議の場に現れるなど、六人は毎日のようにマスコミに登場している。

なのに王岐山だけが、「所在不明」なのである。
 
とはいえ、彼の神出鬼没は、これまでも数回あり、7月には20日間あまりも所在不明だった。

3月には河南省に現れ、いずれもが省長クラスの失脚に繋がり、先に大物だった郭伯雄の拘束へと連動した。したがって、今回の雲隠れも、相当深く潜り込んでの捜査網の中枢にいるものと推測されてはいる。
   

2015年10月21日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎



高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートーヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌やフォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にある会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭のオープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴けば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれている。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ちが現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しにする、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描いている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられているが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼らがよみがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich)Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリトミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終えた。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14

2015年10月19日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。従業員の賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。

2015年10月18日

◆拒否された通産からの首相秘書官

渡部 亮次郎



1976年、この年12月24日に福田赳夫内閣(自民党)が成立し、官房長官に園田直(そのだ すなお)氏が就任した。

内閣総理大臣 - 福田赳夫

法務大臣 - 福田一(- 1977年10月4日)/瀬戸山三男(1977年10月5日 -)
外務大臣 - 鳩山威一郎
大蔵大臣 - 坊秀男
文部大臣 - 海部俊樹

厚生大臣 - 渡辺美智雄
農林大臣 - 鈴木善幸
通商産業大臣 - 田中龍夫
運輸大臣 - 田村元
郵政大臣 - 小宮山重四郎

労働大臣 - 石田博英
建設大臣 - 長谷川四郎
自治大臣、国家公安委員会委員長、北海道開発庁長官 - 小川平二
内閣官房長官 - 園田直
総理府総務長官、沖縄開発庁長官 - 藤田正明

行政管理庁長官 - 西村英一
防衛庁長官 - 三原朝雄
経済企画庁長官 - 倉成正
科学技術庁長官 - 宇野宗佑
環境庁長官 - 石原慎太郎

国土庁長官 - 田沢吉郎
内閣法制局長官 - 真田秀夫
内閣官房副長官(政務) - 塩川正十郎
内閣官房副長官(事務)- 道正邦彦
総理府総務副長官(政務) - 村田敬次郎
総理府総務副長官(事務)- 秋山進(「ウィキペディア」

官房副長官は塩川正十郎氏だった。そこへ密かに大問題が発生した。各省から出向してくる総理大臣秘書官のうち、通産省からの人物を他の秘書官たちが拒否して秘書官室への入室を断ったのである。

もともと佐藤栄作内閣までは、通産からの秘書官は無かったのだが、次の首相田中角栄氏は、通産大臣時代の秘書官をそのまま首相秘書官に起用した。かねて首相秘書官を派遣したがっていた通産省は喜び、続く三木内閣にも当然の如く送った。

だから福田内閣にも当然、送ってきたのだが、今度はなぜかすんなりとは行かない。秘書官たちが意地悪したのは、首相自身が、通産からの秘書官を不要と考えていたからではないか、と今では推測する。

しかし、既にその人物を総理秘書官として出向を発令してしまった通産省としては、いまさら取り消すわけにはいかない。そこで園田官房長官に事務次官がとりなしを依頼してきた。

ここから先が特攻隊生き残りの直さんらしい解決策である。首相には黙って、首相官邸内の官房長官室に机を入れさせ、そこに問題の人物を坐らせたのである。内閣記者会にたちまち知れ渡り、危く記事にされそうになった。

かくて他の首相秘書官たちが音をあげ、当該人物を秘書官室に引き入れざるを得なくなった。問題は音も無く起き、音も無く解決したのである。

その1年後、内閣改造で園田氏はただ一人留任し、外務大臣に横滑りした。つまり総理官邸を去った。私はここから彼の秘書官となり、1年前のことの次第を知る。通産省のOBから「園田さんに財界から後援会を作って差し上げたい、と言っている。ついては秘書官、打ち合わせに来てください」。

一旦は着任を拒否されたあの首相秘書官が、奔走して財界を説得。「恩返し」を工作していたのである。間もなく日本商工会議所会頭の永野重雄氏を会長とする大規模な園田後援会が発足。住まいが借家、貧乏政治家に初めて財界の後援会ができたのであった。

余談だが、当時、永野さんの政界関係の日程を管理していたのはY社の広告局長。現在某民放の実力会長である。これはどうなっているのだ、と未熟な頭は仰天した。NHKではこんなスケールの記者は育たない。

それから1年後、福田首相は「天の声にも、たまには変な声がある」と言う有名な科白を残して官邸を去った。後継首相は幹事長だった大平正芳氏。園田氏はこの内閣にも外務大臣に指名された。

通産省からのあの人物は内閣が変わったので本省に戻った。やがて省内の頂点である事務次官になった。官邸を「追放」された福田氏は派閥を上げて大平内閣を妨害し、大平氏は遂に急死する。

「社長はポストを譲って会長になり、社長を助けていれば、再び社長にと言うこともある」と福田氏に聞えるように批判していたが、社長を助けるどころか死地に追いやってしまっては返り咲きの余地はなかった。

大平氏を見送った足で目白の田中邸を訪れた園田氏は「後継は鈴木善幸」で合意した。ゼンコウWhoと揶揄された鈴木内閣登場の舞台裏である。

2015年10月17日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎



中国にいる日本の特派員は誰といわず「真実」を取材する自由がない。知ったことを 自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、 二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特 派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない

(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。『ウィキペディア』

2015年10月16日

◆「味の素」発明は108年前

渡部 亮次郎



「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。
<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れている。>世界大百科事典