2019年06月17日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを
自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、
二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特
派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる
事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されて
もメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年06月16日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島副総裁と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員
河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05

2019年06月13日

◆敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎


公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国
鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下か
ら勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるよう
になった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学
会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価
学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5
月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年
7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横
領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁
判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道さ
れ、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認め
られない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同
日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパート
で夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことな
どを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高
等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合
は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。
学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複
数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしている
のは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学
会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明
している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開
始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去った
などの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人
が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報
じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長
と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と
矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万
円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに
謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合さ
れていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に
基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」
と請求を棄却。矢野は上告した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒
柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主
張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高
等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは
報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報
道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、
<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコント
ロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名
誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、
秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立ててからおかしくなっ
た(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎
く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数
は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院
選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有
力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行き
となっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・09・26


 

2019年06月12日

◆「尖閣」から遁走の売国政権

渡部 亮次郎


<尖閣ビデオは非公開、「日中」再悪化を懸念

政府・与党は7日、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件の様子を海上保
安庁が撮影したビデオについて、公開に応じない方針を固めた。

公開すれば日中両国で相互批判が再燃し、4日の日中首脳会談を機に改善
の兆しが出てきた日中関係が再び悪化しかねないとの判断からだ。

国会がビデオ提出を求める議決をした場合などは、予算委員会など関連委
員会の「秘密会」への提出とし、限定的な開示にとどめたい考えだ。

衆院予算委員会は7日開いた理事懇談会に法務省の小川敏夫法務副大臣ら
を呼び、ビデオの扱いについて協議した。法務省側は「中国人船長を起訴
するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出したケースは今まで
ない」と説明し、現時点での国会提出に難色を示した。与党側も慎重な姿
勢を示した。>
読売新聞 10月8日(金)5時14分配信

この答弁からして反日だ。あわてて釈放した船長を起訴する自信もハラも
無いくせに「起訴するか否かの結論が出ていない段階で、捜査資料を出し
たケースは今までない」とは誤魔化しもいい加減にしろ、だ。

今度の尖閣問題について菅首相には国家的見地にたった戦略がまるでな
い。背負っているのが日本という国家の運命であり、その誇りであるとい
う責任感がまるでない。

7日、偶然、取材できたところによると、最初、菅首相の訪米中、仙谷官
房長官は、困り抜いた挙句、民間人の手づるで元中国政府高官に接触。

そのルートで、ASEM会場での「偶然」の温首相との会談設営に成功した。
これが「改善の兆し」なんだそうだ。

その結果、菅首相と仙谷官房長官は「これ以上もめさせない」で一致。問
題のヴィデオの非公開の方針を決めたしまった。言うなれば「尖閣」を手
放す結果を招くかも知れないが、菅政権維持のためには、日中関係を穏便
に保つこと、止む無しと決めたのである。

これは明らかな「売国行為」である。或いは「偶然」会談をセットした
「根回し」の際、ここまで約束させられた疑いも濃厚だ。「今は書かない
で欲しい」というのが、7日取材の中国側の態度だったことからの推測だ。

尖閣諸島が日本固有の領土、東シナ海に領土問題が存在しない事は様々な
資料からも歴然たる事実である。たとえばジャーナリストの水間政憲氏が
「週刊ポスト」(10月15日号)で明らかにした1960年4月に北京市地図出版社
発行の「世界地図集」では尖閣諸島は日本の領土として日本名の「魚島」
「尖閣群島」と表記されている。

水間氏によれば、その12年後の1972年発行の同じ北京市地図出版社の地図
ではいきなり自国領として「釣魚島」「赤尾嶼)とか書き変えてある。

更に驚くべき事に中国は「清」時代の地図の改竄まで行なっているのだ。
「目的のためには、どんな手段も正当化してしまうのだ」(水間氏)。

1960年4月に北京市地図出版社発行の「世界地図集」は日本外務省中国課が
現在も所蔵しているはず。それなのに、中国と対等に向き合うのが厭だと
ばかり、遁走した菅首相。さっさと総辞職すべきだ。
私は中国人にされたくない。2010・10・8

2019年06月11日

◆ASEANの口頭試問

渡部 亮次郎


ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、
当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東
南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。
略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長
に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比
肩する存在になりつつある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわ
かったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。1978年になっ
て、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園
田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘
書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園
田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関す
るマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル。朝早く、会議会場の下見に出かけ
た。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打ち合
わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列の5人が並び、向かいに日本の席
がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤
君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参り
ましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本のペースに
なってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争
中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに
副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リター
ン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の
急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に
虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にし
ていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にして
ASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11
年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の
隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当
選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の
利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけ
だった。2010・11・24


2019年06月07日

◆脳卒中予防のために 

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所
に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、
新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えな
いから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本人の死亡原因
の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的に
も昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この
40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今
後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要に
なる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における
「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身
のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また
活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれているが、くも膜と脳の表面との間にあ
る小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて
出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常お
こらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来
た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。
長嶋茂雄氏など。私も軽い症状を体験した。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり
破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏ら。

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、
多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、
半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こし
ます。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられて
おり、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術
がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相
談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれる
わけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮った
CTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎
教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかった
そうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳
梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっ
ている。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭
痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれ
ば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、
今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにし
て詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方
期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のた
め使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助か
る薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時
間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症
が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決
めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になってい
る。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めて
いる。2012・7・19執筆


2019年06月06日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は
死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無
かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自
ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱え
ている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のこと
を調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東
京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力の
みならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってない
から文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時は
アッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろう
と思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本
がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきてい
る。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並
べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角
栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、
殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の
流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資
金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って
懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がい
くつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問
題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実
は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出
しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、
立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアン
ケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎
など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアン
ケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うな
ら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷っ
て売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)2010・2・10


2019年06月02日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。
だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」とし
て、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに
現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界
じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さん
は「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露し
て私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが
「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、
角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出
るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも
実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切
手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すの
が普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、
昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが
角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙
だった。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。
1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎であ
る。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。文中敬
称略  2011・1・24


◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆


              

2019年06月01日

◆敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎


公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国
鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下か
ら勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるよう
になった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学
会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価
学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5
月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年
7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横
領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁
判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道さ
れ、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認め
られない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同
日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパート
で夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことな
どを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高
等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合
は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。
学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複
数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしている
のは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学
会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明
している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開
始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去った
などの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人
が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報
じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長
と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と
矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万
円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに
謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合さ
れていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に
基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」
と請求を棄却。矢野は上告した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒
柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主
張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高
等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは
報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報
道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、
<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコント
ロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名
誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、
秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立て手てからおかしく
なった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎
く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数
は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院
選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有
力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行き
となっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・09・26

2019年05月31日

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止、10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における
田中総理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったと
か、青菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから
大学出は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった
話。周恩来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中国
製?」と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28


2019年05月30日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きた
ようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かさ
れた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も
「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に
身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事
(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように
見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少
なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけ
たのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能に
し、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひ
とたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)
時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。
稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団よ
り吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く
冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿
岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の
原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生
する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を
進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少
や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生
した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行っ
た。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配
を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。
ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、
日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称で
ある。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になる
こともある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では
元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く
吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜
が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地
方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達す
る回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆
地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響
を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないため
ビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため
晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、
収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候で
あったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのた
め、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が
東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・
京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱
した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に
弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱
くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品
種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、
「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どこ
ろに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が
発表するまで報じないだろう。2009・08・18
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2019年05月29日

◆08年の帰化許可者は86%

渡部 亮次郎


居住外国人に地方参政権を付与すべきか否かを巡って、これらの人たちに
日本人への帰化を簡略にすべきでは無いかとの論が起きている。

日本の法務省は、帰化許可数を年間7,000人に抑えていた一時期があった
から、帰化は極めて困難との誤解が生じた。いわゆる「純血主義」の意識
が残っていたからだ。しかし、現在では申請者の90%近くが許可されている。

国籍法(昭和25年法律147号)では、帰化を許可する権限は法務大臣にあ
り、普通帰化、特別帰化(簡易帰化)、大帰化の3種類(この区分名はい
ずれも通称)が認められている。

帰化を望む者は各地の法務局(一部の支局、全ての出張所を除く)又は地
方法務局(前同)へ帰化の申請手続を行う。許否の結果が出るまでの期間
は個々人で異なるがおおむね1年半程度を要するとされる。

帰化申請の内容が認められた場合は、法務大臣による許可行為として官報
に日本国内の現住所・帰化前の氏名・生年月日(元号表記)が告示(掲
載)され、告示の日からその効力を生じることとなる。

告示における氏名表記に外国文字(アルファベット・ハングル等)は用い
られず、すべて日本語(漢字・平仮名・片仮名)に置き換えて表記される。

過去においては、当該告示には帰化前の氏名に加え帰化後の日本名(帰化
前に日本的通称名を複数使用していた者についてはそれら全て)が括弧付
きで原則併記されていたが、1995(平成7)年3月以降は帰化前の氏名だけ
が記載されるようになっている。

1998(平成10)年以降の年ごとの帰化許可申請者数は、約1万3000人から1
万7000人の間で推移している。帰化許可申請者のうち、不許可者数は約
100人から270人の間で推移しており、ほぼ99%の割合で帰化が許可されて
いる。

帰化許可者のうち、およそ6割は韓国・朝鮮籍からの帰化で占められてお
り、およそ3割が中国籍からの帰化で占められている。

2008年(平成20年、暦年)の許可帰化申請者数は15,440人で、帰化許可者
数は86%にあたる13,218人(うち、韓国・朝鮮籍は7,412人、中国籍は
4,322人、その他は1,484人)、不許可者数は269人である

【大紀元日本(06年8月5日】によれば、1952年から2005年末までの間に日
本に帰化した中国人は9万6762人で、そのうち2005年に日本に帰化したの
は4427人であることが、法務省民事局で発表した資料により明らかになった

。日本に帰化した中国出身者の大部分は日本に住まいをもち職も安定し、
まじめに暮らしている。現在、多くの中国人の若者が日本国籍を取得した
後、再び中国に帰って事業を興している。

その理由は日本国籍を持つ中国出身者は中国では特別待遇を得ることがで
き、しかも給料待遇も優れているからであると言われている。1989年以来
日本に帰化しようとする中国人は増加化し続けているという。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・07




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