2016年05月29日

◆山紫水明は貧しい

渡部 亮次郎



秋田県の角館から鷹角(ようかく)線に乗ると約50キロ、渓流と併せて紅葉も美しい。 日本一だと思う。今年は11月初旬までだそうだ。

私は1960年から盛岡に満4年在勤してNHKの県政記者をやったが、岩手県内に渓流の美しさを見るたびに貧困を感じて暗くなった。

山紫水明と言えば、京都の人たちが京都を自慢する言葉のように言う。山紫水明處という観光名所すらある。

江戸後期の儒学者、頼山陽が晩年、自宅の庭に建てた書斎。京都の鴨川沿いにあり、有名な『日本外史』はここで執筆されたといわれている。

草堂風の建物で、小さな床の間のついた4畳半の座敷と2畳の書斎、約1畳の水屋と板の間、廊下。

鴨川と東山の眺望は抜群で、「山紫水明」という言葉は、彼がこの書斎に使って以後、一般に使われるようになったとか。

<山紫水明さんしすいめい=日に映えて、山は紫に、水は澄んではっきりと見えること。山水の清らかで美しい様。自然の風景を愛でる語として、日本では最もなじみの有る表現になっている。

山が紫に見える事は実際に有るが、それよりも、紫は昔から尊い色、目出度い色とされており、「山紫」にもそのような褒め言葉の意味が含まれている。(「岩波四字熟語辞典」)。

確かに東北地方のブナ林は秋には真黄色になったあと落葉すると枝が太陽をあびて紫色に見える。直後に雪を被るが。

京都の貴族や文人墨客は「生産」と無縁だから、川の水の濁らぬことと東山の眺望の抜群であることを楽しむだけで良いわけだが、農林水産業で生きて行くしかない岩手県ではそんなに悠長なことは言っていられない。

山が紫とはブナ林のことだろうし渓流が濁っていないのは山肌が石で出来ており、そこには雑木しか生えないことを示している。このままでは貧乏と縁切りできないと宣言されているようなものだ。ブナは建築用材にも木炭にもならない。林野庁がブナ林を杉に植え替えにかかる所以だ。

京都はともかく、岩手県は岩の県といわれる県だから、雑木は木炭や薪にしかならない。カネになる松、杉,檜(ヒバ)などは生えない。これらの木は地下に根を張れないからだ。山紫水明は貧しい山の代名詞のようにさえ思えた。

県都盛岡郊外、小岩井牧場周辺など岩手山周辺の土地にはせいぜいキャベツなどの野菜しか植わっていない時代が長く続いた。岩手山という火山から降った火山灰による酸性土壌だから作物の種類に限りがあった。カネになる稲を植えようにも田圃の水持ちがいけない。せいぜいソバを植えるしかなかった。

ところが戦後、ビニールというものが出来て革命がおきた。岩手山麓でも水田の底にビニールを敷けば水は漏らないことになったから畑から水田への転換が大いに行われた。滝沢(今も村)では特に盛んだった。岩手はそうやってアワ、ヒエとの縁を切って行った。

その頃の北上川はひどかった。水が真っ赤だったからだ。それは上流にある松尾村の硫黄鉱山から流出する排水をそのまま北上川が受けていたためで、柔らかに柳青める、と啄木が宣伝してくれても、北上夜曲が唄われても、水清き流れが実在しないものだから来た客はがっかりして帰ったものだ。

またリアス式の三陸海岸も肝腎の道路が未開通ではどうにもならなかった。従って観光資源は無に等しかった。松尾の開拓農民が逃散した跡地を県が坪10円でどうだと東京から赴任してきた記者たちに誘いかけても誰も買わなかった。

まだ、東北自動車道や東北新幹線の話は具体化しておらず、知事の演説に「観光」と言う言葉は登場しなかった、と記憶している。

その北上川の清流がもどっている。下流花巻のイギリス海岸も無事だろう。宮沢賢治のことも、疎開していた高村光太郎のことも鮮やかによみがえる。高速道路も新幹線も出来た。岩手と秋田は出来秋の美味と紅葉の秋を迎える。

鷹角(ようかく)線・・・現在の秋田内陸縦貫鉄道(角館−鷹ノ巣)

註:<頼山陽 1780‐1832(安永9‐天保3)らいさんよう

江戸後期の儒学者,詩人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎,
山陽は号。別号三十六峰外史。朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれた。

京都文人社会でしだいに地歩を占め,1822年には三本木の水西荘に移居,ここに書斎〈山紫水明処〉を営んで,門弟教育のかたわら多くの文人墨客と交わり,各地を遊歴し,詩文・書画をつくり愛好する自由な境涯を楽しみとした。

1826年《日本外史》を完成,翌年松平定信に献上。続いて《通議》《日本政記》の執筆にとりかかり,前者を完成,後者をほぼ脱稿して病没した。

《日本外史》《日本政記》は簡潔な名文で多くの読者を得,その史観は幕末・維新期の思想界に大きな影響を及ぼしたといわれる。

著述は以上のほか門弟たちがまとめた《山陽先生書後題跋》《山陽遺稿》などがあり,《頼山陽全書》に伝記とともに集大成されている。頼 祺一>
世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。
2006/10/15


2016年05月27日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎



ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材」として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど勢力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田のかいがんでは8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。2011・10・09

2016年05月26日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。(再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年05月25日

◆失踪したアイ・ジョージ

渡部 亮次郎


演歌、ムード歌謡、ラテン、ポピュラー、民謡等幅広いジャンルの歌を類稀なる歌唱力で歌い上げるその姿は圧巻であった。さらに、この時代の人には珍しく、外国語の発音が完璧である。これは香港、上海、大連など外地で育ったことも関係するだろうが、現在でもここまで完璧な発音で歌う日本人歌手はまずいない。

「硝子のジョニー」「赤いグラス」などを引っさげてNHKの「紅白」にも12回連続出場したアイ・ジョージ。見なくなったな、とおもったら、借金で失踪してから16年経つという、


1972年、長年所属していたテイチクからコロムビアへ移籍(〜78年?)。この頃から実業家としての活動がさかんになり、沖縄国際海洋博覧会を見込んで作ったレストラン、八丈島のホテル、六本木のメキシコ料理店などを経営するものすべて失敗に終り、十数億の借金を抱えることになった。

1987年、借金をようやく返し終えたこともあり、NECアベニューへ移籍し、本格的に歌手活動を再開するも、同年末に金銭トラブルを起こす。

そのこともありメディア出演はさらに減っていき、1996年暮れテレビ東京の懐メロ番組に出演したのが現時点で最後のテレビ出演となっている。

あまりにも多い金銭トラブルのために日本での芸能活動が困難になったからではないかと一部では言われている。

1998年頃、永六輔がジョージを探すが、見つけ出すことは出来なかった。友人である坂本スミ子のもとには今も時折電話がかかってくることはあるが、連絡先を聞くと口ごもるという。

現在はアメリカ合衆国ロサンゼルス市在住でロスと日本を往復して生活を送っているという噂があるものの真偽は不明。

アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。芸名の由来は本名の石松譲治から苗字のイニシャル(「I」)から取ってアイ・ジョージとしている。

1933(昭和8)年、香港(当時の英国領)生まれ。父は石油会社の役員、母はスペイン系フィリピン人。

3歳の頃に母を亡くす。父の仕事の都合で、香港、大連、上海、マニラを転々としながらも不自由ない裕福な幼少時代を過ごす。

1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。。

NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。

1961年にはドドンパ・ブームを起こす。フィリピン起源のオフ・ビート・チャチャチャを、比人バンドが持ち込み、それにジョージの仲間であるクラブアローのバンドマンが目を付け、計画的に流行させたものである。ただ、三拍目を三連音符に換え、ドドンパと命名したのはジョージである。このことを考慮すると、アイ・ジョージはドドンパの生みの親
といっても過言ではない。

1963年、民音公演で「戦友」を反戦の意味合いで歌唱。これによって当時の学生が反戦の象徴曲として歌い始め、やがて当時軍人だった世代も巻き込み、軍歌ブームが起きる。

外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として長年親しまれている。

1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。

当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったが興行的には失敗に終わった。

他にも1967年にはソ連公演を果たすなど、「世界の流し」として活躍した。またこの年には富豪令嬢と結婚、一女を儲けるも1976年離婚した。原因はジョージの乱れた女性関係にあるとされる。

かくて借金に追われて失踪となる  (再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し2016年から「蕪村生誕300年祭諸行事」開催を進める。
淀川神社、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家とも、共同事業に参加して頂く。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2016年05月24日

◆松茸がスカンク?

渡部 亮次郎



幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本何万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。

ところでマツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。2006年10月13日の毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。

ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち05年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。毎日新聞「余録」 )

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなどの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場所に生育する。

古くから日本人にこのまれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。

これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所を好むので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。

兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さんは「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>
とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。

中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。(再掲)

2016年05月23日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎



「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

深夜便のアンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。


レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校(現東京芸大)出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。
(再掲)
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆「頂門の一針」、暫く休刊です

渡部 亮次郎



(2016(平成28)年5月23日(月))

  主宰者、急病で入院のため暫く休刊いたします
  御寛恕下さいます様お願い申し上げます

主宰者 妻(広子)  


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2016年05月22日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2016年05月21日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯

渡部 亮次郎



2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だっ
た。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平
総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に
「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思
い出した。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8
日)、一代議士に戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には
第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名を知られた東京虎ノ門病院。発
表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、
予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏
は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発
作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、
と早くから言っていた。

園田氏は30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所
持しており、暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まな
かったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこ
うこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症
したはずだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、
注射で体内に補給する必要がある、口から入れても胃液(酸)で無効になる
からである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは
無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚
生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、
園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べ
てよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったとい
うのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分
になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午
前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったと
いうことだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副
幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「こ
れから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、
首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福
田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。
目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を
落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したた
め、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって
出て来た。後継総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推進することで意見の
一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界
で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総
理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、
他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下
手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。
あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の
閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来な
かった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女
性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起
き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発
覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの
鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務
大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚
生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグ
ランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が表れるようになった。
腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷くなりだした。終いには顔も浮腫む
ようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射
器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど
痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴
せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。2007・06・17

2016年05月20日

◆小畑実 (歌手)は北朝鮮人

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集してい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。

のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。特に『星影
の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチックな旋律と
「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、彼の歌唱
の特徴が生かされた傑作である。

NHK紅白歌合戦に3回出場している(詳細は下記参照)。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。

2016年05月18日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を
殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身し
たみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 
2007.01.18

2016年05月17日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めてたべて美味しかった。しかし生を食べたのは大
人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。2012・11・06