2015年09月30日

◆トウ小平 3度の失脚と復活

渡部 亮次郎



ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(ケ)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたケ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、しかも外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 
(執筆:2007・06・22)再掲

2015年09月26日

◆青年の幼稚化

寺本 孝一



青年の幼稚化現象を非常に危惧しています。 

来日外国人は「日本の大学生の精神年齢は10才の小学生だ」と揶揄します。また、評論家でもある立花隆・東大客員教授は「東大生は驚くほど無知であり、驚くほど幼稚であることが判った」と著書で公表しました。さらに、名古屋大学学長は入学式に際し「諸君の内面に巣食っているであろうその幼稚性を精算せよ」と檄を飛ばしました。

大学という最高学府に通う学生がことごとく幼稚であるという深刻な状況です。

その原因として先ずは中学高校の教育現場を視なければなりません。甲子園高校野球の勝利監督が「子どもたちが頑張った」と答えたりしますが、選手たち或いは生徒たちと言うべきではないでしょうか。実際に、中学校現場でも多くの教師が 「子どもたち」などと表現しています。

中学生ともなればほとんど妊娠し、妊娠させる能力があり、身体はすでに大人となっています。中学を卒業して就職すれば一人の立派な社会人です。

高校に進学して4月から順次16才になる女子生徒は結婚することができます。男子も3年生で18才になれば結婚できます。結婚すれば世帯主として主婦として、子どもが生まれれば父親として母親として、あるいは夫婦として高校に通学することもあり得ます。

それらの年代の青年たちを何故に「子どもたち」などと言うことが出来るのでしょうか。

「所詮子どもは未熟なのだから、大人である教師の言うことに黙って従え」という、生徒を見下し従属させる管理上のご都合からきているようです。

日本の評論家はテレビ番組の中で通学監獄と表現しました。また、イギリスの新聞は報道しました「日本の学校は捕虜収容所だ」と。

カナダから愛知県に来ている大学教授は中日新聞に寄稿しました。「欧米の中学高校生であればとっくに革命を起こしている」と。

あるテレビ番組で愛知県教育長は横に座った塾講師から罵倒されました。
「子どもたちをロボットにしたあなたは犯罪者だ」と。

名古屋でのシンポジウムである母親は叫びました「教育詐欺だ」と。 私は愛知県教育委員会に直接言いました。「生徒たちの個性を殺し、感性を潰し、人格を破壊する。あなた方のやっていることは大量殺人行為だ」と。先方は即答しました、「あなたが言うことは全部その通りだ」と。

NHK総合テレビの教育特集番組でオーストラリアのある公立中学の唯一の校則を紹介していました。「すべての生徒は学校をエンジョイする権利がある」です。もちろん制服強制もありません。それでなぜいけないのでしょうか。大人にさせるには、生徒を先ず強制と禁止の檻から開放することです。

中学高校にいるのは、教師と生徒なのですから、教師は普通に「生徒たち」と言うべきであり、子ども呼ばわり、子ども扱いすることを直ちに止めていただきたい。

来年6月から選挙権が18歳になりますが、日本の近未来のあらゆること(経済・環境・食糧・エネルギー・中国の挑発)が危機的状況の中、国の将来を担う青年の幼稚化は極めて緊急な課題です。

          子どもの感性を育む会 代表 (名古屋市)

        

       

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎



手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)

2015年09月23日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎



今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。

2015年09月19日

◆大阪都島区毛馬の「蕪村公園」 

毛馬 一三
    


与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかという肝腎なことになると、ご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区の毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)の辺りの出だ。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表句・「春風や堤長うして家遠し」が直筆の文字で、この記念碑に刻んである。

もう一つの顕彰物は、「記念碑」の立つ毛馬閘門から流れる大川を南へ500mほど下がった所のコンクリート橋に、蕪村直筆で橋名を刻んだ「春風橋」だ。

ところが、かの有名な蕪村でありながら、「大阪人である蕪村」として顕彰するメモリアルは、大阪にはこの2件にすぎない。

これには蕪村自身の生き方にも関わりがありそうだ。蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋で生まれたが、幼くして両親と家を失って艱難辛苦、20歳の頃毛馬村を出奔して江戸に出ている。

江戸では早野巴人の弟子として俳諧を学び、師が没した26歳の時から芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。宝暦元年(1751)京に移って俳諧に勤しむ一方、南宋画家として池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には帰っていない。この毛馬村の情景を詠った「春風馬堤曲」という文がある。これは生まれ故郷を懐かしく想いながら、脳裡の中でその当時の毛馬の情景を想いながら綴ったものと考えられている。

このように大阪とはすっかり縁遠くなった蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承の文献も殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これが長い間、大阪で蕪村を顕彰する「資料館」さえ作られなかった理由だった。

しかし、10年頃前から俳諧趣味の会や都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的な顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。

そこで、大阪市「ゆとりとみどり振興局」が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を作りあげた。

もともと「蕪村公園」には、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てる計画だったが、この「東屋」が建つと、浮浪者の宿舎になる恐れがあったため、建設は断念された。このため「俳句講座」など開催する場所は、残念ながら出来なくなったことになる。

しかし公園内には大きな広場に「蕪村生涯歴史版」と「蕪村俳句石碑」、その周辺には蕪村の俳句や絵に因んだ花木の植栽をすすめている。そして大阪が輩出した蕪村に親しみを取戻し、また俳句愛好家にも集まってもらって、「俳句つくり」を楽しむ場所にしたいとしている。

「蕪村公園」は、その後順次見事に整備され、我々のNPO法人主宰の「蕪村顕彰俳句大學」が、兜カ學の森とも共同して、毎年開催の「蕪村顕彰俳句大会表彰式」で選ばれた「優秀句の記念プレート碑」を、今年9月18日にも11期目の「プレート碑」として建立し、除幕式をおこなった。記念樹建設も協力している。

同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の北端に位置し、「毛馬閘門」から市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点になっている。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点でもある。

いま諸文化混迷から抜け出そうと必死の大阪市が、同公園の整備をきっかけに、桜回廊と同じ華やかな大阪俳句文化の振興をしたら、大阪俳人の蕪村本人もご満足ではないだろうか。(了)

2015年09月12日

◆外交に役立つか日本酒

渡部 亮次郎


NHK記者から外務省報道官を勤めた高島肇久(あつひさ)さんが,外務省OB会の機関誌「霞関会会報」平成18年4月号に寄せた「日本酒の味」によると、先ごろ、ホノルルのホテルで地元の人たち70人を招いての日本酒の会が開かれ大好評を得たという。

この会は日本にある「日本の酒と食の文化を守る会」の会員のうち20人が蔵元8社の協力を得て開いたもので、日本から吟醸酒や純米酒を持ち込み、地元産の鮪、鯛の刺身と見事に調和して瞬く間にたいらげられたそうだ。

高島さんによると、世界各地で日本食ファンが増えるにつれて日本酒の輸出量も「急速に」に伸び、「米国で日本酒ブーム」といった新聞記事を目にするようになっているとか。

そこで高島さんは「日本酒は米と米麹と水で作るもの。世界のどの酒とも違う日本の文化そのものだから、日本外交の現場でもっと活用されて欲しい」とむすんでいる。大使館や総領事館でもっと日本酒でもてなせということだろう。

ずいぶん前、産経新聞読書欄を読んでいたら「うまい日本酒はどこにある?」と言う本(草思社)の著者インタビューに日本酒の現状が載っていた。そこでは国税庁に依ると清酒(日本酒)の消費量は1973年をピークに減り続け、2002年にはとうとう90万キロリットルの大台を割り、全盛期の半分近くまで激減。

酒造免許を持つメーカーは2002年3月で2,360蔵あったが、実際に造っているのは1,500から1,700蔵という(その後もっと減っているに違いない)。

小売の酒屋さんに至っては規制緩和の影響もあって悲惨。1998年以降5年間で転廃業又は倒産24,039軒、失跡者2、547人、自殺者58人(全国小売酒販組合中央会調べ)。

一体、日本人の味覚はコメ、味噌、醤油からできていた。バターやチーズは皆無だった。ケチャップも無かったし、戦争中はカレー粉すら途切れた。

昭和30年(1955年)ごろから、食事の洋風化が始まった。経済白書が「戦後」が終わったと宣言した。コマーシャルが「蛋白質が足りないよ」と日本食を貶した。

肉、バター、チーズの食卓への進出が始まった。ケチャップが調味料として登場した。ステーキに合う酒は日本酒ではなくワイン。シチューにも日本酒は合わない。

先にあげた国税庁の調べで日本酒の消費量の減少が1973年から始まったとなっているが、思い起こせばこのころは田中角栄内閣。政治担当記者で日本酒を好む者は少数派になっていた。

ついでに書けば、いわゆる60年安保騒動のあと成立した池田勇人内閣の時は、池田邸の総理番記者待機小屋に時折、差し入れられるのは酸っぱくなりかけた日本酒だった。

思えば1960年代には記者たちも日本酒を呑んでいたのである。しかし東京オリンピックの頃から日本人の舌は次第に西洋化し、日本酒から遠ざかったのである。

70年代に入ってから仕事でよく海外に旅をするようになったが、そのころからアメリカ人が寿司を食べるようになった。日本人が世界一長命になったが、その理由は生魚を醤油で食べることにある、反対にアメリカ人に肥満と心臓病が多いのはバターやチーズの食べすぎにある、と大統領が発言したりしたためだ。

あの入れ歯を壊すほど固いテキサスのステーキも醤油を掛ければ何とか食べられるのに、と感じていたら、程なく日本のメーカーがアメリカで醤油や日本酒の現地生産を開始し、今や大変な勢いで醤油が普及し、パリなどヨーロッパでも優れた調味料として普及しているらしい。

アメリカ人の味覚には疑問があるが、パリで醤油が評価されているとなるとこれは本物だという気がする。このことは秋田県角館(かくのだて)で老舗の醸造業を営む安藤恭子(としこ)さんに聞いた話である。安藤さんに依ると日本でも最近、醤油や味噌を買って行く若い人が増えているそうだ。

一方、河北新報(仙台市)に依ると<近年の学校給食は成長に不可欠な栄養素の多い和食が見直され、煮物や魚料理の登場回数がふえている。しかし「家庭の食事は洋食中心」(仙台市教育委員会)のためか、和食ほど残食(食べ残し)が増え勝ちだ>そうだ。(2004年11月2日付)

味噌、醤油を買って行く若者はいわゆる共働きの家庭育ちではない、と言う指摘がある。成るほど東京で夕方、弁当屋を覘くと、仕事帰りの主婦らしい人が、洋風弁当を3つも4つも買って帰る風景を見る。

あれで一家の夕食を済ますのであれば、お父さんはビールかウイスキーか焼酎しか呑まない。ゆっくり日本酒で晩酌と参るには程遠いだろう。

「太平山」の5代目はアメリカ留学も体験したコンピュータの専門家でもある。その体験からして、日本では女性の社会的進出が今後増えることはあっても減ることはあり得ない、とすれば大人の舌が日本酒を欲しがることは益々少なくなるだろうと、結論付けたのかもしれない。「これからは中国に進出する」と言っていた。

そういえばフランスではワインの消費量が減っていて、その分を日本など海外への輸出で補っているのだそうだ。人類の味覚もまたボーダーレス化しているのだとなると日本酒の将来は日本には無い。むしろ醤油の普及に追随してアメリカ、フランスなどのヨーロッパ或いは中国などにあるということかもしれない。(了)

2015年09月09日

◆自衛隊の不条理な現状を直視せよ

櫻井よしこ


責任ある政治家は安全保障法制に関する机上の空論をやめて、日本を取り巻く情勢の厳しさに目を開くべきだ。

 9月3日、戦勝70周年記念の軍事パレードで中国が誇った数々の攻撃用弾道核ミサイルを見たか。人民服に身を包んだ習近平国家主席の演説も式典も「日本軍 国主義」打倒の抗日要素で色濃く染まり反日戦略の継続を予想させた。

アジア諸国は軍事力拡大路線の中国を恐れる一方、平和安全法制成立を目指す日本に70〜80%台の支持を寄せている。だが、わが国の国会議論にそうしたア ジアの声はほとんど反映されていない。

それどころか、「戦争法案」(社民党、福島瑞穂氏)、「法案を通すために中国脅威論をあおっている」(共産党、井上哲士氏)などと根拠のないレッテル 貼りが目につく。国民の理解が進んでいないと論難するが、的外れな彼らの主張が国 民の理解を妨げる大きな要因ではないのか。

現在の法制度がどれほど異常で、通常の国ではあり得ない不条理な負担を自衛隊員に強いているかを私たちは知っておくべきだ。その異常を普通の民主主義 の国のルールに近づけるのが、今回の平和安全法制である。

南スーダンに派遣されている350人の自衛隊員は宿営地に隣接する国連 事務所との緊密な関係の中でPKO(国連平和維持活動)に励んでいる。攻撃されても 彼らは自らを防護できる。しかし、隣接する国連事務所が襲撃された場合、国連から 正式に救援要請があっても国連職員やNGO(非政府組織)職員を守ることはできな い。その中に日本国民がいても救えない。

難民救援は国際社会の重大な責務だが、自衛隊はそれもできない。難民だけでなく、日本の大使館員や邦人が襲われても助けられない。

私たちは自衛隊が難民を見殺しにし、危機にある同胞に背を向けることなど是としない。しかし、現行法では自衛隊は助けたいと思っても、そうすることを 許されない。そのジレンマに自衛隊はどう対処しているのか。

元防衛相の小野寺五典氏が平成14年の事案を語った。東ティモールで、現地の邦人から救援要請があったとき、自衛隊員は自己責任と視察名目で現地に赴い た。

武装集団の攻撃という最悪の場合、自分たちが攻撃されること、反撃はその後で しかできないことを覚悟して救出に向かった。

このように現行法は自らの犠牲を前提にした行動に、自衛隊員を押しやる可能性がある。平和安全法制で自衛隊員のリスクが高まるとの批判があるが、それ は真逆なのである。

難民、邦人の救助にしても、まず自衛隊員の身を危険にさらすこ とを前提にするような現行法制はあってはならず、一日も早く安保法制を整えて、駆 け付け警護を可能にしなければならない。

               ◇

集団的自衛権の限定的行使は徴兵制につながる、あるいは憲法違反だと非難する政治家は、往々にして憲法学者や元最高裁長官らも違憲だと言っていると主 張する。彼らは慶応義塾大学名誉教授、小林節氏の6月22日、衆院特別委員会におけ る陳述を聴いただろうか。氏はこう語った。

「われわれは大学で伸び伸びと育ててもらっている人間で利害は知らない。条文の客観的意味について神学論争を言い伝える立場にいる。字面に拘泥するの がわれわれの仕事で、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、そちらが調整して ほしい。われわれに決定権があるとはさらさら思わない」

学者とは別に、政治は国際社会の現実に基づいて国益を考えよというわけだ。この点で氏の主張は正しい。

安保法制反対の野党政治家は学者の違憲論から離れて、現行法制で本当に日本国民と日本国を守り通せるかを論ずべきであろう。集団的自衛権の行使なしに は日米同盟が機能停止する危険性もある。事は深刻だ。安保法制には後方支援をより 機能的にする改正が盛りこまれているが、後方支援ができなかった21年前、米国が日 本に激しく詰めよった。元統合幕僚会議議長の西元徹也氏の述懐だ。

1994年3月、防衛庁で朝鮮半島有事に関する日米政軍セミナーが開かれた。金正日の挑発的な姿勢とIAEA(国際原子力機関)からの脱退などで緊迫する朝鮮 半島情勢への対処が主題だった。

米軍が自衛隊に後方支援を要請し、詳細な時系列展開計画を提出した。だが日本には後方支援を想定した法律もなく断らざるを得なかった。氏は「これは日 本の防衛そのものだ。なぜできないのか」という米側の激しい怒りと、何もできない 日本側の口惜しさを鮮明に覚えている。

 この苦い経験は99年の「周辺事態安全確保法」につながった。しかし、同法は「武力行使との一体化」という日本独特の憲法解釈を適用され、非戦闘地域の 「後方地域支援」「後方地域捜索救助活動」に分けられ、厳しい制限を課されたまま 今日に至る。

現在、米軍への物品、役務の提供は日本領域のみで許されており、その都度、日本領域に引き返さなければならない。それをその場で可能にするのが、今回 の法制である。

米軍への効率的な補給とスムーズな日米連携は有事発生を予防し、有事の早期収拾にもつながる。まさに戦争をおこすのではなく、抑止し、おさめるための 改正である。

国際社会の全ての国が行使する集団的自衛権を全く認めない場合、日本は個別的自衛権で、つまり単独で全ての防衛を担えるのか。安保法制に反対する人々 は、この問いに答えられるだろうか。
産経ニュース【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】 2015.9.7

2015年09月08日

◆秋田料理「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎



新米の獲れる頃、コメどころ秋田県でも大館(おおだて)など県北では盛んに「きりたんぽ」が造られる。秋田市の料亭でも何万本と造られ、全国に発送される。

昭和33(1958)年、記者生活を初めて大館で始めた私は年末の忘年会に連日招待された。市長、警察署長、商工会議所と連日の招待だが、狭い町のこと、料亭は1箇所。新米シーズン、しかも「本場」だから連日.供されるものは「きりたんぽ鍋」。

あの時はまだ゛22才。悪いけれどすっかり「きりたんぽ怖い」になって、残念ながら今日に至っている。秋田へ行っても駅や空港の土産店で買ってはいけません。防腐剤が入っているから美味しくありません。知人に聞いてしかるべきルートで求めるべきです。

きりたんぽ(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

きりたんぽ(切蒲英)とは、つぶした粳米のご飯を竹輪のように杉の棒に巻き付けて焼き、棒から外して食べやすく切った食品。秋田県の郷土料理。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いたりして食べる。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。

たんぽは、切る前の段階でのきりたんぽのことを指している。ただし、ほとんどの人がこれを「きりたんぽ」であると考えるが、切っていないので厳密には誤りである。

「たんぽ」とは、元来、稽古用の槍につける綿を丸めて布で包んだものであり、杉(秋田杉)の棒に半殺し(半分潰すという意味)のご飯を巻き付けたところがたんぽをつけた槍(たんぽ槍)に似ていることから、その名が付いた。

きりたんぽ鍋

鶏(比内地鶏)のガラでとっただし汁をベースにこいくち醤油、酒と砂糖(または味醂)で醤油ベースのスープを作る。煮えにくい順にゴボウ、マイタケ(金茸、銀茸)、比内地鶏を並べ中火で煮立てる。きりたんぽとネギを入れ、味が染みる直前でセリを投入する。セリに火が通ったら完成。

比内地鶏が品種開発される以前は、だし汁には比内鶏のものを用いていた。比内地鶏が手に入らない場合はブロイラーのトリガラ、もも肉、鳥皮、ネクタイ(首の肉)で代用すると良い味が出る。

基本的に鶏ベースのキリっとした醤油スープ。具材については邪道とされるものがいくつかあり甘味と水分が多く出る白菜、風味が変わってしまう魚肉(竹輪などの練りもの)、匂いが変わるニンジン、風味が変わるシイタケは入れない。

基本はゴボウ、鶏肉、マイタケ、ネギ、たんぽ、セリの6種である。

起源 きりたんぽ鍋は家庭料理であることから、鍋に入れる鶏肉に本来は決まりはない。比内地鶏が使われるようになった契機は、比内地鶏の産地である大館市の企業が、煮込んでも硬くなりすぎず鍋物に最適なことに注目してセットで売り出し、成功したことである。

その後、県北部の鹿角市が発祥、大館市が本場として定着し、秋田県の郷土料理として広く親しまれるようになった。これに対し県南部、つまり由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺では、北部ほどなじみがあるわけではない。県南部はむしろ、山形県や宮城県などで広く行われている芋煮会(いもにかい)が盛んである。

また、秋田県北部に住むマタギの料理が起源だったとの説もある。これは、マタギが山から帰った際、残した飯を潰して棒につけて焼き、獲物のヤマドリや山菜、キノコとともに煮たり味噌をつけて食べたりしていたことを理由とする説である。

しかし、当の阿仁町(現・北秋田市)のマタギ(熊狩り)は、マタギ料理源説を明確に否定している。曰く、「冬に米が食える身分なら(わざわざ危険を冒して)冬山に登らない。

マタギにとっての狩りとは米を食えない身分が生存権獲得のために行うギリギリの(山神から食を賜る)宗教行為なのであって、おにぎり片手に行うハンティングではない」。つまり、当時最高の贅沢であった米の料理法の一種であるきりたんぽはマタギの生業と矛盾している、というのがその理由である。

2015年09月01日

◆3度目は自発的失脚

渡部 亮次郎

トウ(ケ)小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「ケ(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」

2015年08月29日

◆「天津大爆発に謀略論」が蔓延

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)8月28日(金曜日)弐
  通算第4638号 >   

〜天津大爆発に謀略論」が蔓延するのは情報公開がないため
  ロシア化学者の見解は「ミニ版チェルノブイリ級」〜


天津大爆発で危険物取り扱い倉庫にはシアン化ナトリウム・硝酸アンモニウム・硝酸カリウム・炭化カルシウムなどが貯蔵されていた。

爆発の威力は地震計測指数でマグニチュード3と出たが、これはチェルノブイリ級だとロシアの科学者らが言う。

「ロシア化学者組合」のヴィクトル・イワノフ理事長は『プラウダ』の取材に対して、「これらの物質はプラスチックをつくる素材であり、それ自体では爆発することはない」

したがって「発表されていない何かほかの危険物質が混じって貯蔵されていたに違いない」と発言している(同紙英語版、8月18日)。

「また中国で抗議活動は厳密に規制されているのに、爆発直後から遺族等の抗議行動に警察は黙認したことも解せない。おそらく現地では高官の腐敗、権力と業者の癒着による人為的事故という見方が拡がっているのだろ
う」。

「しかし汚職、腐敗、権力との癒着、高官等のネポティズム(縁故主義)は中国伝統のものであり、常態ではないのか」と突き放しながら、他方でロシア専門家らは、「多くの疑問に一切の回答がないために、謀略論が蔓延するのも事実だが、付近の河川が汚染され大量の魚介類が死んだ報告はあっても、まだ住民の集団避難がおきていない点をみると、この爆発は『チェルノブイリの小型版』といえる」とプラウダは報じた。 
 

◆アマデウスとは誰

渡部 亮次郎



東京・国立(くにたち)に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。30年近く前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが「名前」だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

オペラ:後宮からの誘拐、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛

宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム

交響曲:第25番、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』

セレナード:アイネ・クライネ・ナハトムジーク

ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番

管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲

弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、弦楽五重奏曲:第3番、第4番

その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』

断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。

晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。

人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。

交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。

彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。

従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。

モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのはふたりがおかれていた社会的状況の差であると言える。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。

この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。

遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。

鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。

これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。

検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(出典:ウイキペディア)

2015年08月27日

◆総理談話と安保について

平井 修一



1990年代にネット言論が普及するまで、言論界は左翼が牛耳っていた。言論は商品であり、言論人は媒体を持っている左翼に言論を買ってもらっていた。だからタニマチの左翼に逆らう言論はごく少数派だった。

ネット言論はほとんどが無償だ。カネで左右されない。言論は本来的に拡散されたいという願望を埋め込まれているが、(建前はともかくも)著作権の縛りがないために、いい論考は拡散される。

多くのマスコミ(テレビ、新聞)は未だにアカが主導しているから、彼らの中共寄りの主張に沿わない言論は絶対に報道されない。ネット言論は百花斉放、百家争鳴で、左右のいろいろな内外の言論を知り、真実に迫ることができる。

嘘を書けば「炎上」するから、これがブレーキになっており、ネット言論はそれなりに、赤いマスコミよりはマトモである。朝日、毎日、東京・中日、沖縄タイムス、琉球新報が狂気的凶器、暗愚的狂気であるのならば、ネット言論は遥かに良識的正論に近い。

前書きが長すぎた。「細川珠生【総理談話「『謝罪』次世代に背負わせない」を評価】ジャーナリスト櫻井よしこ氏に聞く」(Japan In-depth8/18)から。

――今日(8/15)は「これからの日本の進むべき道」というテーマで、2週に亘り櫻井さんにお話を伺います。戦後からもう70年経って、終戦の貧しさとか大変さが嘘のような日本になりましたけれども、終戦記念日を迎え、改めてこれからの日本を考えてみたいなと思ってるんですね。櫻井さんも私も戦後世代ということで。

櫻井 私も一応そうですね。(平井:1945/昭和20年10月26日、ハノイの野戦病院にて出生)

――終戦のときの出来事であるとか、戦争の思い出は当然ないんですけれども、何かご両親からお聞きになって、戦争の話とか戦後の話で記憶に残ってらっしゃることはありますか。

櫻井 私のところはですね、母も父も、意外に戦争のことについてはたくさん話してくれたんですね。で、今日この番組の終了のあと、私、靖国神社に参拝に行くんですけれども、母方の伯父が一人、父方の叔父が一人、満洲で亡くなっているんです。おじいちゃん、祖父がですね、自分の亡くなった、戦死した子供のことを私によく話してくれました。

もちろん私はこの叔父たちには会っていないんですけれども、こういう方たちが戦ったんだなと、本当に一生懸命、ふるさとや国のために、家族のために戦って若い命を落としたわけですね。その叔父たちだけではなく幾百万の方たちがそういう風になくなったということは忘れてはいけない。

今珠生さんがね、とっても豊かな、平和な日本が築かれたと、仰いました。そのとおりなんですよね。でもその人たちが頑張ってくれたおかげで、今があるっていうのは、別に父母がそう言ったわけじゃないんですが、両親の話を聞きながらね、自然にそういう風に思うようになりました。

――それ、一番大事なところなのかなと思うんですけれども。

櫻井 今それがね、忘れられているというか、あまり思い出してもらえない。しかも、靖国神社に参拝することはね、右翼とか、軍国主義に通じるようなことだというふうに、非難する向きがありますけれども、これこそ、世界に向かってこんなことを言えば非常識だと言われます。おかしい。

日本のおかしいところをやはり、私たちは自覚をして、おかしかったらそれは改めていかなきゃいけないって、本当に思いますね。

――私も戦争体験はないんですが、私の父の細川隆一郎(平井:毎日新聞社記者・政治部長・編集局次長・東京本社編集局顧問など)は、戦時中に新聞社に入って、すぐ翌月に、もう入営したということで。

戦地に行きまして、新聞記者でしたから通信部隊だったんですけれども、ただ生きているときは、戦争の話をほとんど私にしてくれませんでしたが、ただ大本営発表の嘘とか非常にそういうことに憤慨をして、やはりその権力の暴走というのは止めなくてはいけない、国が判断を見誤ると、国民が本当に犠牲になってしまう。

そのことが、やはりジャーナリスト活動の原点だったような気がするので、私も常にその父の原点というのを思い出しながら、今これから、自分の人生というのを生きていかなきゃいけないなというのを感じるんです。

そういう意味ではですね、戦後70年、だんだん語り継がれなくなってきたということは大きな問題だと思うんですが、ここで、安倍総理が、昨日、70年の談話というのをだしました。

この談話についても、いろんな人がいろんなリクエストを出して、それそもそも談話を出す必要があるのかどうかということもあったと思うんですが、そのなかで、閣議決定をする談話を総理が出された、これについては、櫻井さんはどういうふうにお考えですか。

櫻井 談話が出される前ね、今細川さんが仰ったように、いろんな人がいろんなことを言って、この言葉を入れるべきだとか、いや入れたらだめだとか、言ってましたね。村山談話・小泉談話はですね、そういったものってなかったんですよね。村山さんはいきなり出しましたし、小泉さんも周りと相談した形跡って、聞かないんですね。

けれど、安倍さんの談話に対しては、本当に沢山の注文がついた。そのために、21世紀懇談会有識者の会まで設けたりしましたね。本当に、安倍さんらしいものが出せないのであるならば、私はむしろ出さないのが一つの手だと思ったくらい、外野の席の声が大きかったですね。

で、昨日出されまして、じっくりと記者会見も聞きました。談話の文章そのものも読み込みました。終わってみればですね、談話、非常に良い内容だったし、出して良かったのかなと。

当初は安倍さんも、閣議決定はしないつもりでいらしたとうかがっていますけれども、これを閣議決定したわけですね。で、閣議決定したということは、政府がこれを正式に認めて出しますということですので、この内容であるならば、私はむしろ閣議決定をして良かったのではないかというふうに思いましたね。

――私も、少し長かったんですけれども、いろんな人のリクエストというか、思いを受け止めながら、安倍さんご自身が自分の言葉で作られた文章というのが、良かったなと思うんですね。

先程櫻井さん仰ったように、いろんな人の犠牲とか命の上に今の日本があるということを忘れてはいけない。胸に刻んでいくとか、思いに致すとか、そういう言葉が繰り返し繰り返し出てきた、そこにそういうことが現れているような気がするんですね。

櫻井 そうですね。日本が戦争をして、その舞台となったアジアの国々、オーストラリアも他の国々も初めですね、そこで被害に遭った人たちに対する、痛切な思いっていうのは本当に繰り返し繰り返し十分に表現したと思いますね。

それからもう一つ戦後の日本が、敗戦国として、国際社会に復帰するのに、かつては熾烈な戦いを演じた相手、アメリカとかオーストラリアとかですね、アジアの国々に対しても、非常にその、きちんとした姿勢で、援助の手を差し伸べてくれたことに対する感謝の気持ちを表明していますよね。

この中に入っていない国が、中国とロシアですよ。これは中国とロシアに対する間接的なメッセージだというふうに思いますね。

そういったことに加えて、すごく良かったと思うのは、今人口の8割以上が戦後生まれですよ、戦争を体験したことのない、全く関係のない子供達に、未来永劫、謝らせるようなことはしたくないと、ここで謝罪は終わりですよと、今まで誰も言わなかったことをきちんと仰ったことはすごく良かったですね。

――そうですね。50年談話が出されたとき、私は27歳だったんですけれども、まだ謝るのかなと思ったんです。そして60年でまた謝って、で、いつまで謝るんだろうというのが、ずっと私は心配だったんですね。私ももちろんだし、これからのあとの世代のことを考えると、そういう意味で今回本当に心に響いたのが、この一文でした。

櫻井 やはり珠生さんもそう? やっぱり多くの人がね、他の人にも聞いてみましたけれども、一番印象に残ったのがそこだったという方が多かったですね。

私つい最近、シンガポールでの国際シンポジウムに出たんですけれども、そこでもアメリカの人とか、インドの人とか、それから現地の方からもですね、「70年前のことを、まだずっと謝りなさいという、中国と韓国はおかしい」と、中国と韓国という二つの国を名指しした非難が、国際シンポジウムの場で、繰り返し出てきました。

ですからやはり、反省することは大事だけれども、70年経った今、まだまだ謝れ、まだまだ謝れ、韓国は「1000年経っても恨みは消えない」と言っているわけですが、そのような考え方自体がやっぱりおかしいのであるというのが、国際社会の見方だということを私達は知っておくべきです。

安倍総理の談話は、そこをきちんと見て、「子供たちの謝罪は、なしにしましょうね」とはっきり線を引いてくださったことは、本当に良かったと思いますね。

――それに、国際社会がそう見ている中で、また謝ると、日本の信頼が損なわれてしまう。

櫻井 あまりにも自己を卑下する人は、他の人に認めてもらえないし、尊敬もしてもらえない、ということですね。本当に良いことだったということです。

――そういう意味では、この70年談話、いろいろ心配しましたが、閣議決定をしたこと、それから、内容についても、出して良かったものっていうふうに、私たちは考えていた方がいいということですね。

櫻井 終わってみたらバランスのとれた、前向きの立派な談話だったと思いますよ。

――戦後70年の今日、先の大戦に何を考え、何を思うのか、一人一人の日本人が問われていると思います。

「細川珠生【膨張する中国の脅威から日本を護れ】ジャーナリスト櫻井よしこ氏に聞く 2」(同8/24)から。

――終戦記念日が来て一つの区切りがつき、やはりこれからの日本を真剣に考えていかなくてはならない。櫻井さんは常々、「今日本は岐路に立たされている」と仰っていますが、この「進むべき道」ということをもう少し掘り下げて考えますと、やはり、きちんとした独立国になるということが、日本に今問われていることだと思うんですね。

その一つがこの安保法制をきちんと成立させる、これが大きな一歩になると思いますが、今、国会のやりとりというよりは、国民世論の中で反対の声が大きくなっていることに、私は大変危惧を抱いています。櫻井さんはどうお考えになりますか。

櫻井 確かに、国民の皆さん、統計をとれば、世論調査をすれば反対という人の方が多いですよね。国会の周りには10代の方も含めて、若い人たちが戦争法案反対と言って、デモをしてらっしゃる。みんなやはり、心配してるんだと思いますね。

「この法案を通したら、本当に日本は戦争をする国になるんじゃないか」。新聞によっては「殺し殺される国へ」とかですね、書きますけれども、よくよくしっかり見ればですね、私は、新聞の書いている「戦争法案」とか、「殺し殺される国へ」とか、「侵略する国になる」というのは、もっとひどいところは「徴兵制が実現される」って書くところもありますが、これみんな間違いだと思います。

安保法案を読んでみれば、どこにそんなことをする隙間があるのかと思いますね。これはあの、集団的自衛権、日本を除く世界のすべての国々が権利を認められていて、権利を行使しているのが今の世の中。日本だけが、自らの手足を縛って、日本は行使しませんと言っているわけですね。

安倍政権は本当に少しですよ。いろんな条件をつけて、「このような場合に限って、このような場合に限って、その上にこのような条件をつけて」というふうに、本当に厳しい条件をつけて、部分的に、集団的自衛権を行使しましょうと、それを可能にするための安保法制ですよと、やっているわけです。

日本がこれだけ、ちょっと緩めたからといって、戦争をする国になるということは有り得ない。徴兵制も有り得ない。そういうことを言う人達は、やっぱりきちんとその根拠を示して、若い人達にもその根拠を教えるべきだと思うんです。

今の若い人達はすごく一生懸命に、真面目にデモをしてらっしゃる。私はその姿を見てですね、自分が20歳だったときのこととか、18歳だった時の頃と比べても、今の若い人達、本当に、熱心だし、私は自分の若い頃の方がいかにも、ノンポリで恥ずかしいですよ。

だけどもそういった真面目な、若人達に対して、きちんとした情報を提供するのがマスコミの責務だと思うんですが、それをしていないですね。その意味において、固有の名詞を言うわけではありませんが、朝日新聞とかですね、東京・中日というのは、本当にバランスを欠いた、歪んだ情報を出している。

これが、若い人達をいたずらに不安に駆り立てている。間違っていると思います、今のメディアの伝え方が。

――正しい情報が得られないで、若い人達が、なんとなくそうなるのではないかという、感覚的なことや、印象論で反対しているというのが多いと思うんです。

実際には、例えば中国が、日中の境界線にあるガス田でプラットフォームを作っている。そういう脅威が具体的にあるという中で、安保法制がやるべきことの一つだろうというふうに思います。やはり中国の動きだけではないけれども、日本を取り巻く国際情勢の中で起きていることに対して、きちんと対応を取ることが、今安倍政権が求められている、と考えた方がいいわけですよね。

櫻井 そのとおりだと思いますね。国というものがどういった要素によって支えられているのかというと、まず経済力がないといけませんよね、そしてもう一つ、軍事力がないといけませんよね。どの国も経済と軍事という、この車の両輪に支えられて、その上に政治が成り立ち、外交が成り立っているんですね。

日本はこの軍事という意味においては、本当に、実力があるかもしれませんけれども、法律的にこれを使うことができないようにしているわけで、それを今回少し緩めるというのは、今珠生さんがおっしゃったように、日本の周りの安全保障の環境がガラっと変わっちゃったわけでしょ、だって今までは、アメリカがとにかく守ってくれるという体制があった。

ところがそのアメリカが、2年ほど前からですね、「もう僕たちは世界の警察官じゃないんだよ」と、「だからみんな一人ひとり自分でやってよ」という風に、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない」という演説をしましたよね。「軍事介入はしない」という演説をしたわけですね。

そしてそれを見た中国、そしてロシアが、アメリカが出てこないんであるならば我々にとって好都合だと、力による実行支配を強めていこうというので、このオバマ演説の半年後に起きたのが、クリミア半島の併合ですよね。

ちょうどその頃から、南シナ海で中国が闇雲に、島の埋め立てを始めたわけですね。最初は、平和利用だとか、漁民のためとか、そしてアメリカに対しても、埋め立てた島を一緒に使いましょうなどと言っていたのが、ある程度埋め立てが終わってしまって、逆立ちしてもアメリカが止めることができないという時になったら、軍事使用も有り得ると、言い始めたわけですね。

ちょうど同じ頃から、東シナ海の、さっき珠生さんが仰った、日中の中間線の、中国側ですけれども、ちょっと中国側に入ったところで、12もの新しいプラットフォームを作って、昔のものも合わせると16になったんですね。これは、軍事転用された場合は、日本にとっては大変な脅威になるんですね。

だからそのことを考えるとですね、中国は尖閣諸島も取りに来ていますし、沖縄も、中国の領土だとも、そういった論文がどんどん出ていますね。

そのようなことも考えると、アメリカが後ろ向きになり、中国がどんどん膨張し始めている、そのなかで、日本国を、そして日本国民をどう守るのかということになると、経済力だけではダメですから、ある程度力を使えるようにしておかなければならない。

ただこの使い方は、さっきから繰り返し言いますけれども、「侵略」なんてことは絶対にできないようになっている。危ないことが起きた時に日本を守るという意味の抑止力を作るという意味で、安倍さんはなさっているんだと思います。このような状況のなかで、安保法制を変えようとしない内閣がいるとしたら、それこそ無責任だと思いますよ。

――そうですね。安保法制もそうですが、中国の問題も、それからクリミア半島併合したロシアも、北方領土への実効支配もどんどん強めて、韓国も竹島での実効支配を強めています。

戦後70年経って、いろんなことが落ち着いたかのように、談話も発表されてですね、謝罪というのが一つの区切りもついて、良かったなと思う一方、でも日本は実は、意外にというか、気がつかないうちに、どんどん“侵略的”なことをされている。

平和で70年来ましたけれども、そういうことに無関心でいた日本国民というのは、やっぱり行き着くところは、憲法の、過剰なまでの平和主義といいますが、そういったものが、大きく影響しているんだと思うんですね。

櫻井 戦後の価値観を、憲法に書かれている価値観を、もっともわかりやすく体現している人は、誰かと考えたら、鳩山由紀夫さんだと思うんです。韓国に行って、土下座をした。新聞が写真を載せましたけれども、あの方はこちらが謝り、こちらが平和的な態度をとれば何でも解決するという風に考えてらっしゃる。善意でああいうことをなさったと思うんですね。

でもああいうことをなさっても、じゃあ韓国がどういうふうに譲ってくれるかということは、ないわけですよね。で、岡田克也さんも韓国に行って、二重外交した。先週は、安倍談話について、なぜ自分の言葉として、自身の思いとして「侵略」とか「反省」とかを安倍総理が言わなかったのかと言いました。その路線を辿って行くとこれも、鳩山さんの土下座に行き着くと思うんです。

今私たちは、民主党、鳩山さんは元民主党ですけれども、民主党路線の、土下座をする方向にいくのか、それとも積極的平和外交でそれなりの役割を果たしながら、日本としての立場を守っていくのかの、この2つの選択だと思います。どっちを選ぶかと言われたら、答えは明らかです。

――そうですね。それがまさに、岐路っていうことになるんですけれども、謝るだけでもだめだし、きちんと国としての体制を整える、そういうことが、今日本が求められている、日本の国内ももちろん、国際社会でもそう。

戦後70年を迎え、これからの子供達が生きていく社会は、そういうことを意識して、彼らのためにもそういう社会を今作ってあげる、大人たちが意識していかなければならないですね。

櫻井 まったく同感です>(以上)

国会周辺で騒いでいる若造は民青や過激派の類、中共の走狗だ。中共こければ皆こける。

蛇足ながら細川珠生氏は肥後細川家と遠い親戚関係に当たるそうだ。戦前、戦争を煽りに煽った朝日新聞をリードした細川隆元は、戦後の朝日をGHQ礼賛、共産主義(ソ連)信奉へと転向させたが(昔陸軍、今総評。朝日は強い者にすり寄ってきたわけだ)、珠生氏の父君、隆一郎氏は細川隆元の甥っ子だ。

細川護熙は朝日の記者だったが、肥後細川家はジャーナリストの血が流れているのかもしれない。玉石混交だろうが、珠生氏は文字通り「玉」だ。奮闘を期待したい。(2015/8/25)

2015年08月24日

◆フランス人も犬食った

渡部 亮次郎



犬食文化(けんしょくぶんか)は、中国や朝鮮半島のような古くからの農耕社会、或いはアジアやオセアニア島嶼域の様な農村的社会が支配的な地域に認められる。

一方、犬食が忌まれる地域は、牧畜社会、遊牧社会、狩猟採集社会の支配的な地域(ヨーロッパ)と食用動物に関する宗教上の禁忌が存在する西アジア地域がある。

犬肉料理としては、韓国料理のポシンタン等が有名だが、犬食の歴史は古く、中国大陸をはじめとする広い地域で犬を食用とする習慣があった。

習慣は日本を含めた東アジア、東南アジア及びハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オセアニアなどの島嶼に於いて多く存在した。

欧州では牧畜が盛んであった為、犬との共存生活が長く、家族同然の扱いをおこなっており、食用にはして来なかった。近年はアジア圏でも、生活習慣の変化に伴い、愛犬家や若者を中心に犬食を忌む傾向も生じている。

古代中国で犬肉を食べていた事実は、「羊頭狗肉」「狡兎死して走狗烹らる」などの諺、前漢の高祖に仕えた武将がかつて犬の屠殺を業としていたことからも窺える。

しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、或いは家族や家畜群を外敵から守る番犬として飼っており、犬肉を食べない。

農業生産性の低かったヨーロッパでは伝統的に牧畜が重要な生業であり、犬食いに対する嫌悪感には、北方民族と同じ源があると見られる。

広西狗肉料理古代よりの伝承では、黄(赤)、黒、花(斑模様)、白の順に美味いとされている。一般に、中国医学では、犬肉には身体を温める作用があると考えられているため、冬によく消費される。

広西チワン族自治区玉林市では、夏至の頃に「狗肉茘枝節」と称して、犬料理とレイシを食べる行事が行われている。夏に犬肉を食べるとのぼせるが、身体を冷やすレイシ(果物)と合わせて食べると問題ないとされる。

韓国では犬肉を「ケゴギ」、北朝鮮では「タンゴギ」と言う(「ケ」は犬、「タン」は「甘い」、「ゴギ」は「肉」の意)。

朝鮮半島では狗肉は新石器時代から食用とされている。滋養強壮、精力増強、美容に良いとされ、陰暦の夏至の日から立秋までの「庚(かのえ)」のつく日の中伏(チュンブク)には、犬料理を食べて暑気を払う習慣がある。黒犬には時別効能があるとされる。

日本の捕鯨が、鯨食文化のない地域から問題視されるのと同様、しばしば、犬肉料理文化を持たない国から問題視されることがあり、韓国では、1988年のソウルオリンピック開催に際して、欧米諸国の批判をかわす為、犬食に対する取締りが行われたが、犬肉料理を愛好する人も少なくない為に大通りから遠ざけられて黙認された。

2002年のFIFAワールドカップの際には、FIFA(本部イギリス)が「犬肉を追放してほしい」と韓国政府に要請してきたが、FIFAの副会長でもあるチョン・モンジュン氏は拒否した。

2008年4月にはソウル市当局が正式に犬を嫌悪食品とする禁止令を撤廃し、食用家畜に分類する発表を行った。これに対し韓国国内の動物愛護団体が反発を強めている。

韓国における犬食は、今なおきわめて盛んである。2006年、韓国国務調整室が行なった調査によると年間200万頭の犬が食べられている。

2008年の調査によると、ソウル市内だけで530店の食堂が犬食を扱っている。違法のため、当局による衛生管理が行なわれておらず社会問題化している。

北朝鮮においては、食糧難の中、数少ない蛋白源として珍重されている。平壌観光のガイドブックには「朝鮮甘肉店」と記載され紹介されており、案内員に希望すれば朝鮮甘肉店へ連れて行ってもらうことも可能である。

なお欧米の批判の影響を受けにくいこともあってか、平壌甘肉店は大通りに面した場所にある。犬は残飯を与えても育つので、家庭で小遣い稼ぎに飼われることがあり、中でも結婚資金を稼ぐために数頭の犬を飼う若い女性を「犬のお母さん」と呼ぶ。育った犬は自由市場で売買される。

明治維新以降、文明開化により西洋の肉食文化が持ち込まれ、日本は肉食タブーから解放されたが、同時に西欧の「愛玩動物」の概念も持ち込まれ、愛玩動物に該当する動物を食べる行為は嫌悪の対象となった。昭和時代に入ると、忠犬ハチ公の物語が多くの人々の感動を誘い、全国で犬を愛玩する風潮が高まった。

現在の日本国内では食用を目的とした犬の屠殺は皆無に等しいが、食用犬の犬肉は現在でも輸入されており、2006年の動物検疫による輸入畜産物食肉検疫数量によると中華人民共和国から31トン輸入されている。

東京・大久保のコリア・タウンでは、犬肉料理を食べることが出来る。

スイスの山間部では、犬肉を食べる風習が存在している。スイス国内での犬肉の流通は禁止されているが、消費する事自体は黙認されている。

ドイツにもかつては犬肉屋が存在したが、1986年以降は流通が全面禁止になっている。それまでは食用から医薬用まで、様々な用途で利用されていた。

フランスでは、パリで1910年頃に犬肉精肉店が開店したことや、横断幕で開店を示している例などが見受けられる。また数十種類に及ぶ犬肉料理本が販売されていたり、通信記事では牛肉のように美味しく色もピンクで歯触りもやわらかい、という記述などがある。

このことからも、飢饉で仕方なく食べたのではないことを示し、犬料理が特別なものではなく禁忌としての対象でもないことが明らかである。

この他20世紀初頭にパリ市郊外で発達したガンゲット(ダンスホールを兼ねる安食堂)において、ウサギ肉と称して実際は蚤の市に出入りする屑屋が拾い集めてきた犬や猫の肉を出す、という都市伝説も広まった。

こうした犬食文化がヨーロッパ大陸部に広く見られるのに対し、イギリス人の多くは、交通や狩猟等の高速移動手段として重用された馬と共に、犬が他文化で食用にされている事に嫌悪感を抱く。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』