2016年07月27日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。
悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。
結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。

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2016年07月26日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07

2016年07月21日

◆トウ小平の刺身以後

◎<22日(金曜)から整形外科病院に入院しますので、再刊は26日
(火曜)となります。 「百家争鳴 主宰者>


渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。

2016年07月19日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年07月18日

◆1匹も獲れぬロシア流サンマ漁

渡部 亮次郎



昔、ソビエト(現ロシア)漁船が三陸沖へサンマを獲りに来たことがあった。そりゃ珍しいというので、態々見物に行った友人の話でる。。

貨物船みたいな大きな船である。

船上ところどころに、でっかいおっぱいをした中年女性が乗り組んでいる。日本では漁船に女は乗せないと聞いている。

それよりも驚いたのは、サンマの捕り方である。直径2メートルもある蛇腹を海中に突っ込んで盛んに海水を吸い上げている。何をしているのだろう、最初は理解できなかった。

暫くして分かった。サンマを海水ごと吸い上げようとしているのである。魚を食べたことも捕った事も無いから魚の習性を知らないのである。

魚は流れに乗って流されてくる餌を食うように、流れに逆らって泳ぐ。ソビエト船が海水を汲めば汲むほどサンマは逃げてゆく。だからサンマは1匹も捕れなかった。

近くに日本漁船がいても言葉が通じないから致し方ない。2,3日して空しく帰って行った。何年もしてから、今度は網で捕り始めたそうだ。

もともとロシア人は魚を食わなかった。それなのに食うようになったのは、ソビエトの崩壊寸前、家畜にやる餌が不足し始めたからである。しかし、北欧の海では各国から締め出され、止むを得ず北洋や三陸沖にやってきたものである。

しからばロシア人は如何にして魚を食べているのだろうか。焼くといっても道具は無いだろう。干物にする技術もあるまい。矢張り煮るしかないのだろうか。

後年、モスクワを訪問して分かった。煮るしかないのである。モスクワのスーパーでは20センチ角の塊が冷蔵庫に入って売られている。それがどんな魚のどの部位かは自宅に帰って冷凍が融けてみないとわからないのだ。

モノの本によれば、1Kgの肉を得るのに必要な飼料は鶏の場合は2Kg、豚の場合は4Kg、牛の場合は8Kgがそれぞれ必要なのだそうだ。

だとすると既に崩壊寸前だったソビエトでは、農業生産もあまり上手く行ってなかったから、餌が不足。人間も牛肉よりは豚肉、それよりは鶏肉と我慢してきたのだろうが、遂に餌の必要のない海の魚に目をつけたのであった。

これと逆なのが、最近の中国だと言われる。中華料理のメニューに出てくる肉は殆どが鶏か精々豚だった。それが経済の開放改革で豊かになり、ステーキやマグロといった高カロリーのものを食べるようになった。その結果、糖尿病患者が物凄い勢いで増え、其の方面の医者が足りなくなっているそうだ。


     

2016年07月17日

◆喜寿「バリ建」さんの豊かな声量

渡部 亮次郎



「バリ建」こと歌手・山本健二さんから「潮騒のうた」CDを戴いた。ゴンドラの唄、あざみの歌、さくら貝の歌、早春賦など20曲。

喜寿と言うのに、豊かな声量。驚く。最後に出身の福岡県立福岡高等学校の校歌を歌っている。

山本さんははじめから歌手になりたかったが、事情が許さず、大きな会社のサラリーマンとして過ごした。傍ら、音楽への希望を捨てず、会社を終えてからとか、休日に音楽に専念。以下HPより。

<昭和26 (1951)年、県立福岡高等学校卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

コンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

NHKラジオ深夜便では、山本健二のCDより日本の抒情歌などがよく放送されている。2002年各地の女子少年院(福岡、広島、丸亀、仙台、千歳)を訪問した時、「荒城の月」は少女達(15〜18歳)に深い感銘を与えた。その時の少女達からの感想文は、NHKラジオ深夜便「こころの時間」で放送された。

また2005年11月の柳川白秋祭においては、3日間連続の音楽会を行ない、それらの情景は11月5日のNHKラジオ深夜便インタビューコーナー・スペシャルで放送された。

都内におけるリサイタルは有楽町マリオン朝日ホール、銀座ヤマハホール、王子ホールにおいて連続23年間行った。その他、札幌、仙台、盛岡、象潟、浦和、横浜、宝塚、広島、北九州、長崎、宗像、福岡、名瀬市(奄美大島)などの日本各地で行っている。

言葉の情感にふれる歌唱をモットーに、日本の叙情歌を中心としたリサイタル活動並びにCDの制作を続け、 「山本健二歌唱アルバム」全22集(314曲)をリリースしている。

http://bariken.com/bariken-profile.shtml

問い合わせ先ヤマモト音楽事務所、2100円。電話:04-7147-1954
--                           
<「頂門の一針」主宰 >

2016年07月16日

◆五輪担当大臣の貫禄

渡部 亮次郎



メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても50年
以前に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者
だったことを久々に思い出した。

先日、ある酒席で今度の五輪担当大臣の貫禄が話題になった直後昔を思い
出すには時間がかかった。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部
へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあ
いつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そ
のうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖
がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさ
がありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目に
なるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと
答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してく
れた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を?いて見せた。なるほど毛
細血管も走っているから義眼ではない。

これはね若いころ弟の謙三からトラホームを伝染され、小田原の眼医者で
手術を受けた晩、安静にしろと言う医者の忠告を振り切って悪所に通って
こじらせたから殆ど見えなくなったんだよ。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門も脇で待っていると出てきた河野さんが私
てn招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家
の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余
程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも
畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担
当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさ
せるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人き
りの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝
日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの
吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ
正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。
池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出
来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴
うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治
家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフ
ルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死
んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬか
とおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、?離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。
まだ67歳だった。2015・8・3執筆。


2016年07月13日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎



メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても50年
以前に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者
だったことを久々に思い出した。

先日、ある酒席で今度の五輪担当大臣の貫禄が話題になった直後昔を思い
出すには時間がかかった。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部
へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあ
いつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そ
のうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖
がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさ
がありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目に
なるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと
答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してく
れた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を?いて見せた。なるほど毛
細血管も走っているから義眼ではない。

これはね若いころ弟の謙三からトラホームを伝染され、小田原の眼医者で
手術を受けた晩、安静にしろと言う医者の忠告を振り切って悪所に通って
こじらせたから殆ど見えなくなったんだよ。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門も脇で待っていると出てきた河野さんが私
てn招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家
の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余
程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも
畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担
当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさ
せるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人き
りの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝
日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの
吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ
正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。
池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出
来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴
うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治
家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフ
ルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死
んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬか
とおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、?離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。
まだ67歳だった。2015・8・3執筆。


2016年07月12日

◆レッドパージ

渡部 亮次郎



6月6日はレッド・パージの日である。1950(昭和25)年のこと。1950年の朝鮮戦争勃発(6月25日)前後の時期に、アメリカ占領軍の指示と支援のもとで、政府や企業が実施した日本共産党員とその支持者に対する一方的解雇のことである。赤は共産党の色、パージは追放。

これに先立つ1949年には行政機関職員定員法による〈行政整理〉や民間産業の〈首切り・合理化〉による〈企業整備〉が下山事件,三鷹事件,松川事件などが相つぐなかで強行されたが、この間、約3万人の事実上のレッドパージが行われた。

また49年から50年にかけて総司令部民間情報教育局顧問イールズが全国を回り〈赤色教員追放〉を演説し(イールズ声明)、小・中・高校の教職員約2000人が解雇された。その後の日教組教育を受けた人はこの事実を受け入れないだろう。

ただし大学では、学生を中心とする反対闘争によって、一部を除きレッドパージは阻止された。

まず50年5月3日,占領軍最高司令官マッカーサーは共産党を非難する声明を発表、6月6日には吉田茂首相に書簡を送り共産党中央委員24名(うち国会議員7名)の公職追放を指令した。

翌7日にも同党中央機関紙《アカハタ》編集委員17名を公職追放した。この指令には,占領当初の軍国主義者の公職追放措置が適用された。

6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、翌日に日本共産党機関紙《アカハタ》停刊が指令され、さらに7月24日に総司令部民政局が新聞社代表に指示して、28日から新聞・通信・放送関係でレッドパージが始まり,8月5日までに50社で704人が解雇された。私はその後の何人かと面会している。

次いで8月26日には電気産業で2137人が解雇されたが、電産労組の反共民同派が組合員再登録の特別指令を出して,共産党員を組合から排除することと会社のレッドパージが同時に進行した。

さらに9月から10月にかけて、映画、日通、石炭、私鉄、造船、鉄鋼、化学、機器など全産業に広がった。また9月1日、〈共産主義者等の公職からの排除に関する件〉が閣議決定され、国鉄、電通、農林、郵政、通産などの政府機関でも強行された。

こうした中で日本経営者団体連盟は10月2日、〈赤色分子排除処理要綱〉を各企業経営者に提示した。こうして民間企業のレッドパージは537社で1万0972人(労働省調べ、1950年12月10日現在)、政府機関では1171人(人事院調べ、1950年11月15日現在)となった。

このレッドパージは、朝鮮戦争の基地としての日本の治安維持の必要から占領軍権力により超憲法的に実施されたが、当時、日本共産党は分裂状態にあった。

従って有効な反対闘争を組織できず、労働組合から排除されて労働運動への影響力を決定的に弱め、産別会議も指導力を失い弱体化させられた。

<労働組合も反対の意思表示をしただけで、マッカーサーの前では具体的な運動はほとんどできず、以後の労働運動は大きな打撃を受けた。

アメリカでも、1950年代にマッカーシズムによる「赤狩り」がおこなわれた。

原爆の父とよばれたオッペンハイマーが水爆の開発に反対して公職追放され、戦争に反対した喜劇俳優で映画監督のチャップリンがイギリスからの再入国を拒否されるなど、多くの学者・文化人がその犠牲となった。


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2016年07月09日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎



子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。


2016年07月02日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる 鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々 たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁 として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸 の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに のっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒し て途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙 中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指 名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、 調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約 1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前 だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設 置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田 が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開 き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略 に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦 は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東 正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面 がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の 足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省 が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の 間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再 建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く 受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略)

2016年06月30日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子
だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日 本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂 で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は 皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負 け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権か ら退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時 50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中 国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた 後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠 実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。 1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席 から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任し た。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は 無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は 毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に 産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月 曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年 には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人 大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、?憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の 腐敗を監督?中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求め た。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようにな り、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国 鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届 を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今 日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒り を示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」 のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、 「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉 を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局 の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖 反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたよ うだが、結果は不明だという。(再掲)

2016年06月27日

◆NHK毛虱物語

渡部 亮次郎


NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。

学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。

たった1人の人物こそがNHK転落の犯人なのである。

40年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。

なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

<政治記者出身の島桂次は1989年4月、NHK会長に就任。任期中は衛星放送の本放送を開始したり、NHKエンタープライズなどの関連会社を活用した商業化路線を進めたりした。

島会長によるNHK商業化路線は、NHKに民間の手法を導入することによって番組の質を向上させ、受信料に頼らない経営で国際的なメディア戦争に生き残ろうとしたとの評価がある一方、金儲け第一主義で公共放送のあり方を歪め、2004年から相次いだ不祥事の元凶をつくったとする批判もある。

1991年4月、放送衛星の打ち上げ失敗の問題を巡って、国会の逓信委員会で滞在場所について虚偽の答弁をしたことが問題となり、7月に会長職を引責辞任した。ちなみに問題を追及したのは当時逓信委員長だった野中広務である。

会長辞任後1996年6月23日、急性呼吸不全のため死去。68歳。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛虱氏はこのとき、野中氏と組んで、島追放に大いに実績を挙げた。

解説者によると島氏は後輩の海老沢勝二氏に寝首を掻かれる恐怖感に駆られ海老沢氏を理事の地位から外郭団体の社長に追放。そこで海老沢氏は島氏に敵意を持ったとされる。事実かどうかは分らないが、普通はそうなる。

その時、毛虱氏は海老沢側近となり、島への復讐劇を演出、遂に成功する。その時、当然ながら海老沢氏の恥部を把握、いうなれば海老沢褌の中で毛虱として生息し始めたのである。海老沢氏は会長として復活。毛虱氏を寵愛せざるを得なくなった。

担当は国会。NHKは政府の監督を受け、予算を国会に握られているため、その対応の指揮をとる部局の存在意義は高く、責任者たる毛虱氏の存在は大きかった。そこで事件が起きた。というよりも毛虱氏の自作自演である。

朝日新聞がすっぱ抜いた番組改編事件。女性団体が2000(平成12)年12月、慰安婦問題を取り上げた民間法廷を開催。NHKが翌01年1月、特集番組でこの法廷について放送したが、内容について事前に安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が容喙して変更させたとするもの。

インテリがNHKに番組内容の変更を事前に求めたら如何なることが起きるかを知悉しているから、そのようなことをあの2人がやれるわけが無い。それをしもやる目的もないし、度胸も無い。

田中角栄はやった。政権批判を続ける政治記者渡部亮次郎が邪魔なので口実を設けて地方へ左遷するよう竹下登氏を通じてNHK政治部長に申し入れ、NHKは渡部の辞表を受理せず、大阪に飛ばした。それ1回きりである。

ところが毛虱氏は狐への変身を図った。予算案の説明に行ったら安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が、あの番組を批判していたよ、と局内に流した。ありもしないことをでっちあげて番組制作部局を脅したのである。毛虱が狐に化けた瞬間だった。

政界や国会の事情に疎いディレクターたちは震え上がり、担当者は狐を虎と思い込み朝日新聞に垂れ込んでしまった。裁判まで起こされ、2007年1月29日には東京高裁でおかしな判決まで出され、200万円の損害賠償を命じられ、上告する騒ぎになっている。

事件の後、毛虱氏はとうとう理事(役員)に上り詰めたが、虎が途中退陣したため狐も途中で辞めた。しかし己の欲望のためにはNHKの組織なんかどうなってもいいとする毛虱式の風潮はNHKの内部に広く深く蔓延した。モラルとは一朝にして崩れる。一大不払い運動を招き寄せる結果となって今に至る。

しかも毛虱氏は虱らしく退職後も今度は外郭団体に潜りこんだ。流れてくる情報では好き勝手をやって職員を腐らせている。毛虱氏本人に犯人意識は無いから、自分がNHK周辺にいる限りNHKが衰退して行くことを知らない。だから私も毛虱氏の本名も顔も知らない。