2015年12月17日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだが、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィルミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出などを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。

2015年12月16日

◆私の「身辺雑記」(291)

平井 修一



■12月14日(月)、朝は室温14度、曇。昨日からベランダの掃除とペンキ塗り、今朝からはLDKの床のニス塗り直しを始めたから無茶苦茶忙しく、疲労困憊して散歩不可。ニスを買いに雑貨屋へ行ってからスーパーでワインを4本買ったのが、まあ散歩みたいなもの。

自分で自分を褒めてやりたいと、とりあえず今日の分の仕事を終えたから3時から飲酒。「自褒め酒」。アル中一直線だな。

カミサンは昨日からスーパー銭湯へ。マッサージが何とも言えず快適だそうだ。小生は先日2週間ぶりにシャワーを浴びた。湯船にはここ1年ほど浸かったことがない。風呂は子・孫優先で、小生は仕舞湯を使うことに決めているが、それだと10時ころになってしまう。無理だ。

シャワーは3時半に浴びて、4時から料理を作りながらテレテレと飲み、9時には就寝。しょっちゅうウォシュレットでお尻は掃除しているし、股や足先も「ピジョンおしりマット」できれいにして、頻繁に着替えているから冬場は1週間に1回のシャワーで十分だ。

しかし2週間に1回というのはちょっとまずい・・・ヂイヂ臭い、と苦情が来る。いずれにしても「地球にやさしいヂイヂ」ではある。

アーミッシュはコップ1杯の水で清潔を保つというが、砂漠の民はどのようにしているのだろう。夏のスペインでの経験で言うと、乾燥しているから夏でも汗でべたつくことはない。肌はさらさらしている。西欧はそんな気候なのだろう。ベルサイユ宮殿にトイレがないことは知られているが、風呂場もないだろう。池で水浴したのだろうか。

日本では夏は毎晩風呂に入らないととても生きていけない。所変われば品、風習変わる。

疲れ果てて夕食後にソファーで転寝をしていたらカミサンに「布団で寝たら」と起こされたが、腰が半分抜けて歩行困難。もう無理が効かない体になったのだ。トイレへ行ったら尿漏れ防止マットに脱糞もしていた。

残りは数年だな。70歳はとても無理だ。カミサンは3000回愛したし、愛人も300回愛した。(人の3倍仕事をして、稼ぎは1.5倍だった。まあ、そんなものか)

忙しいから愛人をタクシーで送った後、駅のトイレでオシッコをしたら、やたらずっしりと重い。コンドームを付けたままだった。外す時間もなかった。

早く帰宅して(と言っても11時だが)、贖罪でカミサンも昇天させる。「カアチャン、ご免よ、勘弁してよ」と必死で抱いた。

こういう(多分バカな)ことを30歳から49歳までの20年間やった。いいことも悪いことも(人殺しと泥棒、詐欺以外)ほとんどすべてやったから未練なし。あの世では犬と散歩しよう。

■12月15日(火)、朝は4時起床、朝食を作って、そのあと二度寝したら、大いに寝坊して9時起床、エアコンがかかっていたので室温18度、曇。疲れすぎて寝床で新聞を読む。

軽減税率で安倍氏が公明党に譲歩して点を取らせたが、来年の選挙で学会票を目指しただけのことで、公明党は面目躍如だし、自民も大喜び。大体、安倍氏は消費税の10%引き上げをできるわけがないと充分知っているはずだ。

「安倍の晋三」を支持する人々は「蚤の心臓」なのだから。小生のように確定申告で400万円納めたときは誇りに思ったが、これはごく少数派だ(恥ずかしながら分割払いだったが。無茶苦茶な高金利! ほとんどサラ金だ)

明治の煙草王「天狗煙草」の創業者は、正月になると「日本一の納税者」と幟をつけた10台の人力車に愛妾を乗せて正妻に挨拶をさせたという。昔の金持ちはスケールが違う。

正妻もしっかり覚悟ができていた。正月の挨拶の際に「一年間ご苦労様でした。今年も旦那様を大切にしてくださいね」とお手当てを渡していたのだ。

小生は手ぶら、機動隊は「盾」という「矛」を持っていたが、クレーンのアーム上で取っ組み合ったから小生の方が有利だった。機動隊が墜落し、その後は小生も墜落した。一瞬で人はは死んだり気絶するから戦争は恐ろしいことではない。

少しずつ人を殺すのが好きな支那人やイスラム教徒はタチが悪いから、生きて虜囚の辱めを受けないことは正しい。

「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(土佐藩)の件。

<岡田以蔵が護衛した要人:

勝海舟(文久3年)勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。

その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている>(ウィキ)

安倍もトランプもプーチンもエルドアンも殺される覚悟を持っている。殺す覚悟ももっているだろう。習近平もモディもシーシーもジョコもそうだろう。

オランドとメルケルとキャラハンはそんなことは思っていないし、「殺すくらいなら殺される方がいい」という、ほとんど痴呆症。オバマは菅直人と同じくすぐに逃げ出すタイプ、「第4列の男」、人間のクズだ。

山本夏彦翁曰く――

「戦争がないことは何よりだが、以前戦争で解決してきたことが解決できなくなった。大量の破壊がなくて、大量の生産だけがある」

人口が半分になれば生産も半分になり“地球温暖化”とかいう問題もなくなるのではないか。

戦争を辞さない、文武両道のリーダーが望まれる。プーチンに「文=哲学=品格」があれば世界は今のような状態にはならなかったろう。習近平にはマルクス主義しかないから、ただの阿呆だ。

文部省は「実利、金になる学問を奨励しろ」と言ってバカにされたが、「文=哲学=品格」がないと国家経営は間違う。企業も同じだ。

安倍氏の後任は自衛隊出身者が望ましい。めぼしいのは“ヒゲの隊長”佐藤正久氏あたりだが、衆院に鞍替えさせて安倍氏が育てたらどうか。石破は只のリベラル、軍事オタクでしかない。稲田はどうなんだろう。高市の方が根性が坐っている感じがする。

クールビズの小池はなんとなくリベラルっぽい。女性総理でもサッチャーのように国家の名誉にかけて戦う政治家が必要だ。(バラマキをカットしたから貧困層には恨まれているそうだが)

世界は強力なリーダーを求めている。米国がマケインを選んでいたら世界はずいぶん安定していたはずだ。再び民主党のヒラリーになったら・・・防衛予算を減らして(票につながる)福祉に回すから中露は大喜びするだろう。世界はさらに壊れていく。(2015/12/15)

2015年12月15日

◆「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出 

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)12月14日(月曜日)弐 通算第4749号 > 

 〜中国軍の改変は難産、7軍区を「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出
         当面「副主任」をひとり増員し、軍紀律委書記に劉源か〜


習近平は軍の再編を指示し、9月の軍事パレードでは30万人を削減し、さらに後日、国連軍に8000名を派遣するとした。

しかし人民解放軍の効率的改変、再編作業は遅れに遅れている。

第一に既存の軍区それぞれが既得権益をもち、これを絶対に手放さないだろう。

また部隊長などは、2軍区が減らされると更迭、左遷、勇退、整理の対象になるのではないかと戦々恐々、再編への不満が爆発気味だという。

第二に軍区それぞれに付随する部隊の人事が必然的にともなくうえ、軍区所管の空軍、第二火砲部隊の再編は誰が決めるのか、どういう体系的方針があるのか不透明、これでは到底再編などとても無理であろうという声だ。

上層部の人事に関しては現在の「副主任」体制を、さらに1人増員させて、習近平側近らを充て、もっと強い人的結び付きで軍を掌握しようとしている。

現在の副主任は許其亮と氾長龍だが、いずれも胡錦濤の置きみやげ人事であり、習への忠誠心疑わしく、このため増員する「副主任」には太子党の張又峡(現「総装備部長」)か、北京武装警察司令員の王寧(習近平の子飼い)を充てるのではないか、との噂が飛んでいる。

他方、習の「軍師格」として昵懇の関係にあるのは劉源(総後勤部政治委員)を、中央軍事委員会の規律委員会書記に当て、反腐敗キャンペーンで、軍の腐敗構造に手をつっこませ、王岐山と同格の配置にするのではないか、との観測もある。

劉源はいうまでもなく劉少奇の息子、太子党でもあり、劉亜州と並んで「習近平のプライベートシンクタンンク」と言われた。

また軍のアルバイトは盛んであり、パキスタンを経由しての中国製武器が大量にISへ密輸されていることが判明した。

博訊新聞網(12月13日)に拠れば、中国は米ロについで世界3位の武器輸出国だが、「紛争当時国への武器輸出禁止」という列強の常識はまったく通じない。おもに小型ピストルなど中国製武器が確認されている。
  

2015年12月14日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」うまれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙にかいていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言っ。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。怪しげなフランス語で交渉したら
共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査した。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継者の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。文中敬称略(再掲)

2015年12月13日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。出典:フリー百科「ウィキペディア」

2015年12月06日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎


先にといっても1974年に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だったことを久々に思い出した。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そのうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさがありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目になるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してくれた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛細血管も走っているから義眼ではない。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門の脇で待っていると出てきた河野さんが私を手招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさせるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人きりの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬかとおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。まだ67歳だった。

2015年12月03日

◆日中正常化同行取材記

渡部 亮次郎 


日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたときのこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底にしゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見られているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよう、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたところ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行くバスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこちらは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフランス語はすっかり忘れた。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バスは40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書けた。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だから同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には低血糖に陥り死に掛けた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知ったのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後初めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28

2015年11月29日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、とされている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植えられている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前からすでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられた。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカスズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がならんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身したみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前にばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良くなった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示しているのかな、と思ったりする。
参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 

2015年11月28日

◆星野哲郎「えん歌」4000曲

渡部 亮次郎



戦後、演歌界の大御所作詞家は石本美由紀だが、それに優るともおとらない作詞家は星野哲郎だろう。2人ともこの世の人では既にない。

星野は、石本に遅れること1年、2010年11月15日,85で死んだ。若い頃、高等商船を出て船員になったものの、腎臓結核で断念、腎臓の片方を摘出するなどしたが、幸運にも長生きだった。

晩年の美空ひばりの「みだれ髪」、北島三郎の「なみだ船」を作ったかとおもうと「黄色いサクランボ」や渥美清の「男は辛いよ」も星野の作詞。演歌だけでなく応援の援歌だとも言って4000曲を遺した。

世に出していない「遺作」が数千曲があるといわれており、今後も新作が出現するだろう。

星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 - 2010年11月15日)は日本の作詞家。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。

しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

4年に及ぶ闘病期間中に作詞を独学。家庭教師の傍ら1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしらがいる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及んだ。

1996(平成8)年7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め、2001(平成13)年10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めた(2004年9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第1号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与された。

1985(昭和60)年2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」(歌唱:北島三郎)の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。享年85。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。喪主は長男の有近真澄が務めた。

葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

星野哲郎の死去に当たり、NHKが追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という[。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。

主な作品
青山ミチ 叱らないで(1968年)
渥美清 男はつらいよ(1970年)

北島三郎
なみだ船(1962年) 兄弟仁義(1965年)
函館の女(1965年) 風雪ながれ旅(1980年)
北の大地(1991年)
小林旭  自動車ショー歌(1964年)
昔の名前で出ています(1975年)

小林幸子  雪椿(1987年) 福寿草(1989年)

島津亜矢
愛染かつらをもう一度(1991年)母ごころ宅配便(1993年)
海鳴りの詩(1995年)女にゃ年はいらないよ(1996年)
感謝状〜母へのメッセージ〜(1997年)
波(2001年) 海で一生終わりたかった(2003年)
大器晩成(2005年) 温故知新(2010年)

水前寺清子

涙を抱いた渡り鳥(1964年)
いっぽんどっこの唄(1966年)
いつでも君は(1967年)
三百六十五歩のマーチ(1968年)
真実一路のマーチ(1968年)

スリー・キャッツ、ゴールデンハーフ
黄色いサクランボ(1959年)

瀬川瑛子
函館の雨はリラ色(1970年)
たそがれ港町(1971年)
高知の夜(1972年)
あのひとの雪国(1972年)
再見上海(1973年)
釧路の夜白い夜(1974年)
噂・モトマチ・涙町(1974年)
たばこ(1975年)
長崎霧情(1977年)
東京夜景(1978年)
月あかり(1978年)
相生橋(1981年)
サザン瀬戸ブルース(1987年)
春の海(1989年)
潮騒の町(1989年)
海の城下町(1990年)
帰らぬ夢(2006年)

鳥羽一郎
兄弟船(1982年)

西方裕之
北海酔虎伝(1987年)
流れる(1988年)
恋文流し(1993年)

美川憲一
お金をちょうだい(1971年)(2010年)

美空ひばり
みだれ髪(1987年)
塩屋崎(1987年)
都はるみ
アンコ椿は恋の花(1964年)
夫婦坂(1984年)

山形英夫
親子鯨(1958年)
山口瑠美
寿宝船 ことぶきたからぶね(1999年)

山本譲二
長州の男(1986年)
七夕月(萩の花咲く頃)(1993年)
生きる(2003年)

鰐淵晴子
春うらら(1967年)

その他 母校の後継校である東京海洋大学の新校歌を作詞している。作曲は鈴木淳。また、旧東和町の大半の小中学校の校歌の作詞を手がけている。

長崎国際大学の校歌の作詞している。作曲は都倉俊一。

周防大島の伊保田港と柳井港・松山港を結ぶ周防大島 松山フェリーの就航船「しらきさん」は周防大島の白木山にちなんで星野が命名したものである。

自らが元船乗りと言うこともあってか、海や船・港にちなんだ歌詞が多く、これがきっかけで1971(昭和46)年には運輸大臣より海事功労賞が、1985(昭和60)年には運輸大臣より交通文化賞を送られている。(「ウィキペディア」)12・5・3

2015年11月22日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争があるからだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28

2015年11月17日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎

肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞をまねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをした事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあってはいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはなかったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がすることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎた。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をやられ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がおしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころからの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をしたのだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もない病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げていたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。

2015年11月13日

◆流行歌手の晩年

渡部 亮次郎

ブログに「誰か昭和を想わざる」があって昭和のはじめから今に至る歌謡
曲とその時代背景を厖大な量で論述している。だが著者名は明らかにされ
ていない。信用はおける。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

この中で様々な流行歌手の経歴も詳しく紹介されているが、興味を持った
のは、病名と墓地を詳しく述べていることである。私(1936年=昭和11年
生まれ)の興味を持った歌手の晩年を引用させていただいた。見出しは西
暦だが、本文中の年号はほぼ「昭和」である。

赤坂小梅(1911-1992)
福岡の田川郡川崎町の生まれ。9人兄妹の末っ子。大正9年、16歳のとき
に八幡で梅岩の名前で芸者となる。昭和4年に藤井清水、野口雨情に認め
られレコードデビュー。

佐藤栄作、岸信介など著名人のお座敷も多くつとめ、紅白歌合戦にも数回
出場、恰幅のいい体型が特徴的だった。56年に国立劇場の公演を最後に引
退後は、晩年を千葉の老人別荘地で過ごし、民謡教室なども主宰した。

平成4年1/17午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。本名
は向山コウメ。住まいは千葉県館山市安房自然村だった。葬儀は館山市の
能忍寺で行われた。

暁テル子(1921-1962)
浅草出身。松竹少女歌劇団卒業後は古川緑波一座や東宝、松竹の舞台で活
躍。脚線美が話題で、26年「ミネソタの卵売り」「東京シューシャイン
ボーイ」で大ヒット。笠置シヅ子との軋轢は有名。「テリー」の愛称で親
しまれた。

33年に肺を患ってからは事実上、引退状態となった。37年7/20午前2
時、中野区江古田4丁目の自宅で心臓麻痺で死去。本名は関根ひさ子。

天津乙女(1905-1980)
神田出身。大正7年に宝塚に入団。12歳にして宝塚の東京出身団員第1号
に。「すみれの花咲く頃」のオリジナル盤を吹き込む。「引退公演の最中
にファンの結婚反対署名が殺到した事から破談に。

その後はファンのため、生涯独身を貫いた。54年10/18の「鏡獅子」が最
後の公演となった。55年5/30午後7時、急性心不全で西宮の香雪記念病
院で死去。本名は鳥居栄子。住まいは兵庫県宝塚市武庫山2丁目。谷中霊
園に眠る。

淡谷のり子(1907-1999)
青森の旧家の生まれだが大火で没落、ヌードモデルなどで家計を助けなが
ら東洋音楽学校を首席で卒業。「ブルースの女王」と呼ばれるようにな
る。ある時に自分のテープを聴いて「こんな歌ならお客さんに聴かせられ
ない」とステージに上がるのを拒否したともいう。

平成6年には一過性吐血症で倒れる。自宅で妹と2人での車椅子生活の
中、11年9/22午前4時30分、老衰で大田区上池台2丁目の自宅で死去。
本名は淡谷のり。猛暑がこたえたという。一時期、ピアニストの和田肇と
結婚、和田との娘ではないが一女がある事はまったく知られていない。

長女は同じ敷地で暮らしていた。タンゴやシャンソンを日本に紹介した功
績もあり、礼儀正しい反面、人にも厳しかった。また美容器具のゲルマニ
ウム美容ローラーを片時も離す事もなかった。

井口小夜子(1914-2003)
東京出身。童謡歌手として昭和10年にデビューし、14年に武蔵野音楽学校
を卒業。流行歌や軍歌などを吹き込み、36年の「紅孔雀の歌」で知られ
る。平成15年11/9午後5時35分、急性呼吸不全で死去。本名は田沼とみ
子。住まいは神奈川県藤沢市鵠沼桜が岡4丁目だった。

生田恵子(1928-1995)
東京出身。戦前は宝塚歌劇団に参加。昭和24年に歌手デビュー。芸名はビ
クターで稽古をもじったもの。27年よりブラジル巡業を行い、28年に「東
京ティナティナ」でヒット。「ティナティナ」とはチャップリンが「モダ
ン・タイムス」で歌った曲。その後は青山で、曲と同じ名前の喫茶店を経
営。晩年は老人ホーム慰問を行った。

池 真理子(1918-2000)
京都出身。宝塚歌劇団で三日月美夜子の名前で活躍。昭和21年に「愛のス
ウィング」がヒットするや、スウィングの女王として人気を得る。アンデ
スの子供にミルクを飲ませる運動などに従事。

平成12年5/28、都内のホテルのステージで「センチメンタル・ジャー
ニー」を歌った直後に倒れ、そのまま5/30午後10時24分、クモ膜下出血
で還らぬ人となった。 住まいは世田谷区豪徳寺1丁目だった。

石田一松(1902-1956)
広島の府中出身。演歌師として活躍。1946年に衆議院選挙に当選し、代議
士として4期つとめる。その後はラジオや舞台の出演をこなしていた1956
年1/11午後7時52分、豊島区雑司ヶ谷3丁目の自宅で、胃ガンで死去。

市丸(1906-1997)
19歳で長野の松本より上京し、浅草で芸者に。清元、宮園節、小唄など邦
楽を身に付け、昭和6年「花嫁東京」で歌謡界にデビュー。同年には「茶
切節」がヒット。8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。当時の
歌手には珍しい美貌から、「歌より先に顔で評価されて損」などと当時の
一般紙で書かれたりもしている。勝太郎との不和は有名であった。

ただ勝太郎が亡くなる前には、病室に見舞うなど、良き「戦友」として最
後はお互いを認識していたらしい。柳橋近くの瀟洒な邸宅は、たまに料亭
と間違えられる造りであった。

晩年は歌舞伎界の中村一門に推挙され、江戸小唄中村流の17代家元として
後進の指導にあたるかたわら、歌番組にも出演。平成9年2/17午後3時
44分、呼吸不全のため台東区の病院で死去。本名は後藤まつゑ。住まいは
台東区柳橋1丁目だった。

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男と
する。男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、「露営の歌」や「父よあ
なたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。昭和55年
頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、その
まま事実上、歌手活動を引退。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術
を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼
袋病院で死去。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩
した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。

上原敏(1908-1944)
秋田県大館出身。専修大学では野球部のエース。昭和11年に歌手デ
ビュー。「青空道中」「旅笠道中」「妻恋道中」を、ポリドールが敢えて
新人売り出しのために上原に歌わせたところ、25万枚の大ヒットとなっ
た。「流転」「裏町人生」「上海だより」とヒットを連発、特に女性に絶
大な人気を博した。

しかし18年に出征。赤紙(召集令状)が来た時、ステージで「男散るなら」
を熱唱し、それがファンの前に見せた最後の姿となった。歌手として慰問
活動にまわる道もあったが、一兵卒としての扱いを本人自ら希望し、激戦
地へ。

昭和19年にニューギニアで戦病死。従来のアイタペ戦病死説は上原の部隊
の生き残りの軍医や、上原の周辺を取材したライターなどによって否定さ
れている。

上原の戦病死の頃、既にアイタペは米軍の手中に陥落しており、上原の部
隊はウエワクで反攻の機会をうかがっていたという。東部ニューギニア戦
線の生還者はわずか1割で、苛烈な戦場だったために、生存者も余り当時
の話を語りたがらないため、上原の最後はなお謎が多い。

宇都美清(1928-1973)
宇都宮出身。昭和21年デビュー。渡辺はま子とのデュエット「ああモンテ
ンルパの夜は更けて」で知られる。36年から作曲も行った。48年3/4午
後7時、肝硬変で都立荏原病院で死去。本名は吉田清男。

エト邦枝(1916-1987)
浅草出身。大蔵省に勤務しながらクラシックを勉強。帝国音楽学校を卒業
し、昭和22年に歌手デビュー。30年「カスバの女」を吹き込み、42年に
なってヒットする。観光バスのガイドの指導を10年つとめた後、晩年は自
宅でカラオケ教室を主宰した。62年3/13午前10時45分、大動脈瘤破裂で
世田谷区の長谷川病院で死去。本名は笠松エト。

榎本健一(1904-1970)
麻布出身。日本の喜劇王として君臨した。27年に右足を脱疽、32年には1
人息子(26)が死亡、37年暮れには右足切断と幸福な晩年ではなかった。
44年12/8に風邪を引き、治りが遅く衰弱してきたのだが、入院を拒否、
45年1/1の朝には新宿区市谷加賀1丁目の自宅で雑煮に餅を3個、酒を
お猪口で1杯飲むなどしたが、夜になって容態が急変、そのまま入院と
なった。1/4夜より昏睡状態が続き、1/7午後2時50分、駿河台の日
大病院で肝硬変のために死去、危篤とされてから7時間後の事だった。

菊田一夫、金語楼、徳川夢声、中村是好、藤原釜足、南利明、森川信、由
利徹、笠置シヅ子、森光子、大宮敏光、益田喜頓、コロムビアトップ、坂
本九などが病院に詰めかけ、回復を祈ったが、ならなかった。西麻布の長
谷寺に眠る。

榎本美佐江(1924-1998)
川口出身。昭和21年にデビュー。28年「お俊恋唄」をヒットさせる。その
後「十三夜」をリメイク。30年にプロ野球の金田正一と結婚し引退する
が、38年に離婚してカムバックする。

平成10年9/23午前0時30分、大腸ガンで新宿区の病院で死去。住まいは
渋谷区西原1丁目のマンション。葬儀は大久保の金龍寺で行われた。

江利チエミ(1937-1982)
入谷に4人兄妹の末っ子として生まれる。父は浅草のピアノ弾きでクラリ
ネットも得意な久保益雄、母は浅草で映画スターだった柴崎ゆき子、レ
コードでアメリカの流行歌を覚えた。27年、15歳で少女歌手として「テネ
シー・ワルツ」のカバーでデビューし、これが20万枚のヒット。芸名の江
利チエミは進駐軍キャンプまわり時代の「エリー」の愛称を「江利」と
し、これに本名である久保チエミの「チエミ」をつなげたもの。

美空ひばり、雪村いづみと「三人娘」として人気を得、女優としても活躍
した。34年に俳優の高倉健と結婚。46年に離婚、47年には芸術祭賞優秀賞
を受賞する。晩年は寂しい一人暮らしで、知人にいま観ているテレビ番組
の事などで電話をかけてきたほどであったという。

57年2/13未明、港区高輪2丁目のマンション4階の自室で吐瀉物を喉に
詰めて窒息死。同月初めにファンであった近鉄のキャンプ地である高知に
慰問した際より風邪気味だったため、2/12は、夕方に熊本から帰京し、
自宅で寝ていた。

午後4時過ぎに泥酔して帰宅したのを目撃されている。その後、一旦、寝
た後にウィスキーの水割りを3、4杯飲んだ形跡があった。2/13、午後
4時過ぎから帯広での仕事で羽田空港へ向かう用事があり、午後3時にマ
ネージャーの妻が迎えに行ったところ、自宅10畳間のベッドの上で赤と黒
のジャンパーに赤のパンタロン、赤のブラウス姿で布団を胸まで被り、う
つ伏せで死んでいるのを発見された。一面には吐いた後があった。

三人娘として扱われていた美空ひばりは、埼玉県深谷の公演先で電話で一
報を聞き「いたずら電話と思った」「朝6時半にゴム風船が割れるような
音で目覚めた」とも語った。雪村いづみは札幌のホテルで電話で一報を聞
いた。

親しくしていた清川虹子は新宿コマでの公演終了後に訃報を聞かされ「う
そだー」と泣き崩れた。世田谷の法徳寺に眠る。林真理子の「テネシー・
ワルツ」はモデル小説である。

笈田敏夫(1925-2003)
ベルリン生まれ。父はピアニストの笈田光吉。昭和20年よりハワイアンバ
ンドを転々とした後、28年にレコードデビュー。32年に慶応大学を卒業
し、33年に映画「嵐を呼ぶ男」に出演。36年に恐喝で逮捕。宇治かほるは
2人目の妻だったが死別している。戦後を代表するジャズ歌手として活
躍。愛称は「ゲソ」。平成6年にニューヨーク公演、7年には勲四等瑞宝
章を受章。15年9/2正午、腎盂ガンで死去。

近江俊郎(1918-1992)
東京出身。武蔵野音楽学校を教授と喧嘩して中退。戦後、「悲しき竹笛」
「山小舎の灯」がヒット。23年の「湯の町エレジー」の大ヒットでスター
ダムに。51年には歌手生活40周年で全国縦断リサイタルを開き、歌手を引
退。その後は大蔵映画の副社長となったり、「家族対抗歌合戦」のコメン
テーターなどで死の直前まで活躍した。

人柄の良さでも知られ、近江を悪く言う関係者は皆無。平成2年に前立腺
ガンとなり、回復したが、平成4年7/5午後7時5分、肝不全で港区の
病院で死去。本名は大蔵敏彦。
              
大橋節夫(1925-2006)
昭和22年、慶応大学を卒業し、23年に大橋節夫とハニー・アイランダース
を結成。「小さな竹の橋の下で」「倖せはここに」などでヒットを飛ば
し、愛称は「オッパチ」。18年6/7午後8時37分、呼吸不全で大田区の
病院で死去。
岡晴夫(1916-1970)
木更津出身。上野松坂屋の店員を経て、流しをしていたが、酒場で偶然に
東海林太郎から誉められた事をきっかけとして、昭和13年に歌手デ
ビュー。爆発的な人気を誇ったのは戦後になってからであった。「オカッ
パル」の愛称で「東京の花売娘」「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」
「憧れのハワイ航路」などがヒット。

春日八郎の「お富さん」は元々、岡晴夫のために書かれたものだが、岡の
移籍で立ち消えになったという経緯がある。しばらく低迷し、38年に「南
の島に雪が降る」で再びカムバック。死の直前の44年にテレビ出演をして
いるが、関係者いわく、声も容姿も別人で唖然としたとの感想が大半を占
めている。45年5/19午後3時36分、肝臓障害で千代田区の東京警察病院
で死去。本名は佐々木辰男。江東区の本立院に眠る。 

音丸(1906-1976)
麻布出身。芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった。芸名
は音は丸いレコードから、という意味。10年に「船頭可愛や」がヒット
「満洲想えば」「下田夜曲」「博多夜船」がヒット。

23年には人吉を訪れ、「五つ木の子守唄」を見つけ出した。24年にキング
に移籍、「五つ木の子守唄」を初めてレコード化した。後に人吉市長から
感謝状を受けている。51年1/18午後0時半、世田谷区代田1丁目のマン
ションの自宅で急性心不全で死去。

小畑実(1923-1979)
朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手
にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは
出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、
訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。14歳で来日「婦系
図の歌」「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。

戦後は「長崎のザボン売り」「星影の小径」などヒットを連発。時の韓国
大統領の李承晩とは実懇で、献金を欠かさなかったという話もある。32年
に紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引退表明。

54年4/24午後4時40分、千葉県野田市の紫カントリーすみれコースで、
ゴルフの最中に倒れ、同市内の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、
急性心不全で死去。当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性
3人とまわっていた。

1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャ
ディが駆けつけた時には意識不明だった。このゴルフ場には月に5、6回
来ていたという。住まいは港区六本木5丁目のマンションだった。大変な
愛妻家でもあり、年を取っても人前でも新婚当初と変わらぬ様子を見せた
という。

織井茂子(1926-1996)
目黒生まれ。少女時代から童謡歌手として活躍。作曲家大村能章の弟子。
昭和28年、松竹映画「君の名は」の主題歌「君の名は」「黒百合の歌」が
大ヒットとなる。33年には「夜が笑っている」がヒット。平成8年1/23
午前9時24分、膵腫瘍で港区の病院で死去。本名は伊東茂子。住まいは目
黒区洗足1丁目だった。

神楽坂はん子(1931-1995)
東京出身。16歳から神楽坂で芸者をしていたが、昭和26年にコロムビアの
伊藤部長に連れられた古賀政男の座敷で「アリラン」を披露した事から気
に入られ、27年に「こんな私じゃなかったに」でデビュー。

その後、「ゲイシャワルツ」の大ヒットを皮切りに、「セ・シ・ボン」を
直訳した28年の「見ないで頂戴お月さま」、オペラの手法をヒントにした
掛け合い歌の「こんなベッピン見たことない」などのヒットを連発した。
晩年は消息が聞こえなくなり、平成7年6/10、川口の武南病院で肝臓ガ
ンで窮死。本名は鈴木玉子。死去の事実は1ヶ月近く近親者以外は誰にも
知らされなかった。

笠置シヅ子(1914-1985)
香川出身。昭和22年夏に録音した「東京ブギウギ」が爆発的なヒットとな
り、ブギの女王として、そのパワフルな歌声に身振りで一世を風靡。「買
物ブギ」の作詞者の村雨まさをは服部良一のペンネームである。

現在、市販されている「買物ブギ」のラスト近くの「わて聞こえまへん」
の歌詞は「わてつんぼで聞こえまへん」なのだが、ある時期よりの復刻で
は意図的に歌詞を削除したものが出回っている。

懐メロブームにも「私は時代の歌手だった」と再登場を拒否し、歌を再び
歌う事はなかった。潔癖症でもあり、自宅の庭でのバラ栽培が趣味だった。

昭和60年3/30午後11時43分、卵巣ガンで中野区の佼成病院で死去。本名
は亀井静子。住まいは世田谷区弦巻1丁目だった。杉並区の築地本願寺別
院和田堀廟所に眠る。

春日八郎(1924-1991)
会津出身。東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビュー。27年、ようや
く「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒッ
ト。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈で
あった。

平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、9/6に中野サンプラザで
のキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬
変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。足の切断手術を本人は覚悟して
いたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢
5丁目だった。
 
川田晴久(1907-1957)
東京生まれ。昭和9年に吉本興業に入り、川田義雄の名前で、あきれたぼ
ういず、ミルクブラザーズ、ダイナブラザーズなどを率い、「地球の上に
朝が来る」などで知られる。25年には渡米した。32年6/21午後1時35
分、結核性腎臓炎で牛込の厚生年金病院で死去。本名は岡村郁二郎。多磨
霊園に眠る。

川田正子(1934-2006)
東京出身。8歳から音羽ゆりかご会で活躍し、昭和18年から22年にかけ
て、「みかんの花咲く丘」「里の秋」などを吹き込む。30年に武蔵野音大
を卒業してカムバック、成人してよりも童謡歌手として活躍し、54年には
森の木児童合唱団を主宰。

平成18年1/22午後8時31分、虚血性心不全で世田谷区の病院で死去。自
宅で入浴後に倒れていた。本名は渡辺正子。1/21の五島列島でのステー
ジが最後だった。夫渡辺一男は元NHKディレクター。初任地秋田。
           (4)
菊池章子(1924-2002)
下谷出身。天才琵琶少女として騒がれ昭和14年に「お嫁に行くなら」で歌
手デビュー。18年の「湖畔の乙女」などでヒット。戦後は「星の流れに」
や、「岸壁の母」がヒット。23年には大久保徳二郎と結婚、31年に離婚。

平成14年4/7に心不全で死去。本名は菊池郁子。住まいは品川区上大崎
3丁目だった。妹も歌手で多摩幸子。孫の一仁はEvery Little Thing
や浜崎あゆみの作品の作曲などを手がけている。

岸井明(1910-1965)
東京出身。歌うスターとして「タバコやの娘」などでヒット。158キロの
巨漢を生かして活躍していたが、35年に眼底出血で倒れる。38年に引退。
40年7/3午前5時7分、世田谷区世田谷3丁目の自宅で心臓衰弱で死
去。葬儀は台東区元浅草の吉祥院で行われた。

霧島昇(1914-1984)
福島のいわき出身。新聞配達、タクシー運転見習いなどをしながら、東洋
音楽学校を卒業。昭和11年にコロムビアでデビュー。13年に映画「愛染か
つら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。翌14年には、ミス・コロムビア
と、山田耕筰の媒酌で帝国ホテルで結婚した。

またステージに出演中に赤紙が届き、客席から「若鷲の歌」の大合唱で送
られたという逸話もある。戦後は「リンゴの唄」を皮切りに、夫人松原操
の引退記念曲「三百六十五夜」などのヒットを飛ばした。

ステージに上がる前にはハーモニカを手に必ず楽屋で発声練習を怠らず、
無口で真面目な人柄であった。大変なあがり症でこれは死ぬまで治らな
かった。綺麗好きでもあり、楽屋の掃除を怠らなかったという。ステーキ
好きな一方で、マラソンもかかさなかった。

58年にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出演したのが最後のステー
ジ。59年1月に入院し手術、3月には退院し元気にしていたが、4/24午
後4時12分、腎不全で豊島区の一心病院で死去。本名は坂本栄吾。住まい
は大田区田園調布1丁目だった。港区の長谷寺に眠る。子息の坂本紀男は
東京音大教授。

楠木繁夫(1904-1956)
高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デ
ビュー「白い椿の歌」「緑の地平線」「女の階級」、「人生劇場」などが
代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれな
かった。

30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養
を余儀なくされたが、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばか
りの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首
吊り自殺。

妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュー
スで夫の悲報を聞き絶句したという。当時売れっ子の歌手を含め、この自
殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺に
は楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の
前で号泣したという。

小唄勝太郎(1904-1974)
新潟生まれ、11歳で料亭の養女となり、昭和4年、13歳で上京し日本橋葭
町で芸者となる。芸の葭町と呼ばれた東京屈指の花街の名を負って、5
年、新内の美声を買われてレコードデビュー。

試験盤を37枚使って吹き込んだ「島の娘」が大ヒット。当時としては破格
の60万枚のセールスという余りの人気ぶり。「東京音頭」、二匹目のど
じょうを狙った「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒット
し、一大ブームを巻き起こした。

軍医の真野博士と戦後に結婚、家庭人と歌手の二足の草鞋を生涯、履き続
けた。真野博士は中国で10年の抑留生活の末の帰国だったが、ずっと思い
続けていた勝太郎が銀座の喫茶店に呼び出したもの。

実は競馬好きで、競走馬まで所有していた事は知られていない。48年12月
の東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が最後のステージ。その後、風
邪をこじらせ、慶応病院に入院。49年6/21午前3時、肺ガンのため、府
中市八幡町2丁目の自宅で死去、葬儀は中野区の竜興寺で行われた。本名
は真野かつ。

小坂一也(1935-1997)
名古屋出身。成城学園高校時代より進駐軍まわりのバンドに参加。18歳で
ワゴン・マスターズを結成し、昭和29年に歌手デビュー。カウボーイスタ
イルでカントリーなどを歌っていたが、32年には「青春サイクリング」が
ヒット。その後は映画、テレビなどで活躍。49年には十朱幸代と結婚、翌
年に離婚。平成9年11/1午前6時10分、食道ガンで死去した。

小林千代子(1910-1976)
小樽出身。東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団で活躍。昭和7年「涙の
渡り鳥」をヒットさせる。9年に夏川静江に婚約者だった新進作曲家を奪
われて話題となった。51年11/25午後5時13分、膵臓壊死で赤坂病院で死
去。住まいは渋谷区上原1丁目だった。 
             (5)
佐藤千夜子(1897-1968)
山形の天童出身。終生、歌唱から山形訛りが消えなかった。東京音楽学校
を中退後、昭和3年、「波浮の港」によって日本の国産レコード歌手第1
号となる。「当世銀座節」「東京行進曲」「紅屋の娘」などヒットを飛ば
し一躍、スターダムにのしあがった。
本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人
気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。しかしこれが千夜子
の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席
を用意していなかった。

43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、12/13午後、ガン
のため死去。生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。訃報
は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一
部に限られた。その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデル
となった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。

小夜福子(1909-1989)
沼津出身。大正11年に宝塚少女歌劇団月組に入り、昭和2年に男役で人気
に、14年には月組の組長になる。15年に「小雨の丘」でヒットを出すが、
結婚し引退。

63年の舞台を最後に、芸能活動から引退。平成1年12/29午前9時、心不
全で目黒の東京共済病院で死去。本名は東郷富美子。住まいは目黒区下目
黒6丁目だった。

塩まさる(1908-2003)
福島のいわき出身。早稲田大学卒業後、千葉鉄道管理局に勤務。昭和12年
にレコードデビュー。同年に「軍国子守唄」がヒット。14年には「九段の
母」がヒットし、軍国調の歌を多く吹き込む。

同世代の歌手のほとんどが鬼籍に入る中、21世紀に入ってからも「私の子
供みたいな年齢の」老人達の慰問に東奔西走する日々だった。平成15年
10/16午前5時32分、老衰で死去。享年95.本名は塩正吉。

東海林太郎(1898-1972)
秋田出身。秋田中から早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の職
員として8年間勤務。早大在学中より佐野学に師事して左翼思想に傾斜
し、満鉄時代にも労働組合の調査研究などをしたため、図書館長という閑
職に左遷させられる。一時期は特高にマークされるほどであったという。

9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込
んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。「国境の町」、「旅笠道中」、むらさ
き小唄」、野崎観音のPR盤として制作された「野崎小唄」、「麦と兵
隊」など次々とヒットを飛ばした。戦後の一時期は進駐軍によって、封建
的な歌を歌うと干されるなど不遇が続いた。

23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静
を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。終戦近くから南軽井沢に住
み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりして
いたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年
7月からマネージャーの住む立川市の羽衣町3丁目に引越し、地元に溶け
込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地
元の障害者施設に寄付するなどした。

44年に勲四等旭日小綬章、47年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、
調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問わ
れて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午
前には病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて
10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。

47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参
列した。秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うス
タイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」
「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語
るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。

戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキー
とキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。酒豪としても知られ、歌手
協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間
にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名
である。
 
 新橋喜代三(1903-1963)
西之表島出身。大正5年、芸者に出る。15年に鹿児島で小原節の歌い手と
して名をあげ、昭和6年にレコードデビュー。9年に日本橋三越の鹿児島
名産展での「鹿児島小原節」でヒット。10年には「明治一代女」で大ヒッ
トを飛ばす。
12年に中山晋平と結婚、引退。ステージの前には立てひざで樽酒を飲む事
で知られ、中山晋平のプロポーズも樽酒を家に贈るというものだった。中
山晋平の死後は、一時期、歌手として復帰したが、熱海で暮らしながら中
山晋平音楽祭などに関与した。

杉狂児(1903-1975)
福岡出身。昭和11年に美ち奴とのデュエット「うちの女房にゃ髭がある」
が大ヒット。映画出演は36年の「東京ドドンパ娘」が最後になったが、テ
レビなどで活躍。50年9/1午前3時、世田谷中央病院で心筋梗塞で死
去。葬儀は世田谷区の妙寿寺で行われた。本名は杉禎輔。

鈴木三重子(1931-1987)
福島出身。31年に「愛ちゃんはお嫁に」が大ヒット。33年には藤山愛一郎
や山野愛子らと「愛ちゃん会」を結成した。62年3/12午後0時30分、肝
硬変で都立府中病院で死去。本名は菊池ミヘ子。

瀬川伸(1916-2004)
函館出身。昭和14年デビュー。26年「上州鴉」がヒット。その後も40年頃
まで歌手を続ける。娘の瀬川瑛子も歌手。平成16年3/14午後2時3分、
心不全で死去。

関種子(1907-1990)
東京生まれ。東京音楽学校を卒業後、「日本橋から」「窓に凭れて」、10
年には「雨に咲く花」などのヒットを矢継ぎ早に連発し、草創期のコロム
ビアを支えた。

戦後は藤原歌劇団に所属し、長門美保、佐藤美子とコンセールFを結成す
るなどした。平成2年6/6午前9時5分、急性腎不全で熊谷の聖ヨゼフ
クリニックで死去。葬儀は早稲田の亮朝院で行われた。うたごえ運動で知
られる関鑑子は実姉である。女優の関弘子は娘。
             (6)
高田浩吉(1911-1998)
尼崎出身。昭和10年に「大江戸出世小唄」で歌手デビュー。同名の映画の
中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として評判になる。
同26年に松竹京都に復帰。鶴田浩二は地方巡業の際に浜松で拾った弟子に
あたり「浩二」の「浩」は「浩吉」の「浩」にちなんだもの。

京都に住み、夜の10時以降は取材禁止と、公私の別をはっきりとさせた人
であった。元々、歌手は副業だったためか、晩年は美声の衰えを隠せな
かった。平成2年10年5/19午前8時32分、肺炎のために京都府北区の病
院で死去。本名は梶浦武一。娘の高田美和も女優である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校
卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。15年の榛名
湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局
に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心
情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府
首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。21年には松竹
を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29
年に離婚。

昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。岐阜県明
智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に
行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後
5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りす
がって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目
だった。

竹山逸郎(1918-1984)
浜松出身。昭和19年に慶応大法科卒業後、18年に歌手デビュー。22年、
「酒は涙か溜息か」の戦後版を目論んだ「泪の乾杯」が、A面の平野愛子
「港が見える丘」ともどもヒット。

23年の「異国の丘」は、当初、作曲者不詳のまま、NHKラジオの「のど
自慢」で8/1に復員兵の中村耕造が歌い、かつてない勢いで鐘が乱打さ
れた。その後の調べで作曲者は吉田正と判明。

晩年は学習塾を経営。酒豪で1升酒も平気であった。59年4/4午後4時
半、肝機能障害で中野区の国立療養所中野病院で死去。本名は竹山逸平。
葬儀は練馬区のセブンズデー・アドベンチスト関町教会で行われた。

田谷力三(1899-1988)
神田生まれで旧士族の家系の根っからの江戸っ子。19歳からは浅草オペラ
のトップスターとして本領を発揮。観音劇場、金竜館などで、関東大震災
で浅草オペラが消滅するまで活躍した。

バラックに暮らしながら、青山墓地で発声練習をし、23年5月にNHKラ
ジオ「陽気な喫茶店」でカムバック。61年には不忍池にゴンドラを浮かべ
てカンツォーネを披露。

62年には上野精養軒で米寿記念コンサートを開くが、声量は全く衰えな
かった。「老いらくの恋」と騒がれ83歳で再婚した愛妻を亡くし、自身も
心臓発作に倒れるが回復、63年3/13、豊島区の教会で親類の結婚式に
「恋はやさし」を歌ったのが最後となった。

3/14に倒れ、3/30午後0時10分、心筋梗塞と心不全で千代田区の日本
歯科大病院で死去。89歳だった。化粧をせずに舞台に出るのは失礼という
考えから、最後まで素顔でステージに立つ事はなかったという。

津村謙(1923-1961)
富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。「ビ
ロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上
海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。36年11/28朝7時半、杉並区
神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見さ
れ、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。

午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家
から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒー
ターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になった
らしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名
は松原正。小平霊園に眠る。

鶴田浩二(1924-1987)
浜松出身。巷間伝えられているような飛行機乗りではなく、見送る立場の
飛行整備士であったというのは複数の海軍関係者の見解。28年には大阪で
暴漢に襲われる。同年には東宝と契約。歌手としても、27年にポリドール
から「男の夜曲」でデビューし「街のサンドイッチマン」、30年に「赤と
黒のブルース」などがヒット。

35年に東映と契約し、38年の「人生劇場・飛車角」が東映任侠映画の最初
となった。45年には「傷だらけの人生」がヒットし、この頃から戦没者遺
骨収集のチャリティーコンサートを行う。晩年は特攻隊に絡んだ右寄りの
スタンスの発言で知られた。

春日八郎との不和はあまり知られていない。耳が悪く左手を耳にあてて歌
うポーズは有名。映画は60年の「最後の博徒」が最後の出演、咳がひどく
なり、61年肺ガンで2ヶ月半入院し、62年5月に再入院、月末には1週間
自宅に戻ったものの、6/16午前10時53分、慶応病院の5階で死去。本名
は小野栄一。葬儀では海軍の知人らに「同期の桜」の合唱で送られた。

ディック・ミネ(1908-1991)
徳島出身。父は土佐高校創立者。古賀政男の推薦もあって昭和9年に歌手
デビュー。芸名はスキー場で悪友に付けられたもので、ディックは男性器
を意味する。同年「ダイナ」がヒット。「二人は若い」「人生の並木路」
「旅姿三人男」「上海ブルース」などのヒットを飛ばす。

晩年には学生時代に相撲部で骨折した後遺症から車椅子生活となったが、
歌手生活は続けた。平成3年4月に前立腺肥大で入院、6/10午前4時7
分、急性心不全で埼玉県飯能市の病院で死去。享年83。本名は三根徳一。

徳山l(1903-1942)
神奈川の藤沢出身。東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となる
が、佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁から昭和6年に流行歌手に転向し、
「侍ニッポン」でスター歌手の仲間入りを果たした。

「侍ニッポン」では「新納(にいろ)鶴千代」を「新納(しんのう)鶴千
代」と誤って歌ったまま、それがレコード発売された経緯がある。四家文
子と歌った「天国に結ぶ恋」がヒット。9年には藤山一郎、小唄勝太郎、
渡辺はま子と共に皇族懇話会で美声を披露、それまで地位の低かった流行
歌の扱いが、この御前演奏で変わったともされる

戦中はノモンハンの陸軍飛行隊をテーマにした「空の勇士」や15年の「隣
組」などの戦時歌謡で一世を風靡した感がある。他にも14年には「大陸行
進曲」「太平洋行進曲」、16年には「戦陣訓の歌」なども吹き込んだ。17
年1/28午後5時に慶応病院で敗血症で死去。神奈川県藤沢市の常光寺に
眠る。

轟夕起子(1917-1967)
東京出身。「お使いは自転車に乗って」がヒット。42年5/11午後5時15
分、慈恵医大第3病院で、閉塞性黄疸のため死去。本名は西山都留子。

トニー谷(1917-1987)
銀座生まれ。昭和26年に中国から復員し、アニー・パイル劇場で進行係を
したのを皮切りに日劇ミュージックホールで司会をつとめ、キザなメガネ
にチョビヒゲ、そろばん片手の異色なポーズと毒舌で一世を風靡。「さい
ざんすマンボ」などを吹き込む。

引退後はハワイで生活。61年12月、渋谷ジアンジアンでの「トニー谷
ショー」が最後の舞台。62年7/16午前0時14分、港区の慈恵医大病院で
死去。享年70。

永田絃次郎(1909-1973)
平壌生まれで本名は金永吉。「出征兵士を送る歌」なども吹き込む。35年
1月、祖国の北朝鮮に帰還。しかし労働党幹部の前で歌ったイタリア歌曲
「オー・ソレ・ミオ」を資本主義的と批判された。

余りに不自由な生活から、日本人妻と1男3女の子供を日本に帰そうとす
るなどした事で一家全員処刑されたとされる。一説には収容所や炭鉱で窮
死したという説もあるが、家族ごと忽然と姿を消した事は確実なようだ。

永田とよ子(1928-1987)
浪曲師伊丹秀子の娘で、天中軒雲月として知られる。「津軽の子守唄」な
どを歌う。青木光一と結婚し、その後、離婚。

中野忠晴(1909-1970)
愛媛出身。武蔵野音楽学校卒業後、恩師山田耕筰の推薦で、昭和7年春に
コロムビアから徳山lの対抗馬としてデビュー。山の人気者」「小さな喫
茶店」が大ヒット。その後、作曲家として活躍、「おーい中村君」「赤い
夕陽の故郷」「達者でナ」などを作曲した。45年2/19午前10時40分、板
橋区東新町1丁目の自宅で肺ガンで死去。

並木路子(1924-2001)
台湾出身で東京育ち。「リンゴの唄」が翌21年に発売されるや、全国を席
巻する大ヒットに。レコードの吹き込みは昭和20年代を最後に、61年に新
曲を発表するまで、およそ30年近く行われなかった。

平成13年にかつて5人の会として活動していた二葉あき子との4/8の草
加でのコンサートの舞台を前に連絡が取れなくなった関係者が自宅に出向
いたところ、4/7午後11時、渋谷の自宅マンションの浴室で急死してい
るのが発見された。心筋梗塞だった。本名は南郷庸子。

奈良光枝(1923-1977)
弘前出身。弘前高女卒業後、兄の知己、明本京静の薦めで東洋音楽学校卒
業。戦後の21年に浅草でステージに出ていたところを、映画監督の千葉泰
樹によって「或る夜の接吻」の主演に抜擢され、主題歌の「悲しき竹笛」
がヒット。24年12月にはNHKプロデューサーの佐藤邦彦と結婚。

その後も、24年に藤山一郎とのデュエット「青い山脈」や「赤い靴のタン
ゴ」などがヒットした。51年7月の日立市での公演が最後になった。歳を
経ても物静かで清楚な美人であったが、52年5/14午前4時9分、聖路加
国際病院でガン性腹膜炎にて死去。本名は佐藤みつえ。

日本橋きみ栄(1915-1993)
東京出身。昭和9年に歌手デビュー。12年に「蛇の目のかげで」がヒッ
ト。戦後の22年に「炭坑節」をヒットさせる。平成5年10/9午前2時10
分、急性心不全で千葉県市川の病院で死去。葬儀は台東区の一乗寺で行わ
れた。本名は荒井きよ子。

野村雪子(1937-2000)
弘前出身。中学時代にコロムビア全国歌謡コンクールで4位。昭和27年に
「伊豆の十三夜」でデビュー。30年に「おばこマドロス」がヒット。平成
12年4/23午前2時10分、胃ガンで品川区の病院で死去。本名は佐々木雪子。

灰田勝彦(1911-1982)
ホノルル生まれの日系二世。「ハワイ生まれの江戸っ子」というネーミン
グは灰田が死去した際に、親友だった別所毅彦が毎日新聞からコメントを
求められ、そのように表現したもの。15年に

「燦めく星座」がヒット。また「森の小径」は特攻隊や学徒兵に愛唱され
た。17年には「新雪」、後に海外で「スシ」として紹介された「鈴懸の
径」、18年には「加藤部隊歌」とヒットを続けた。「ラバウル海軍航空
隊」は発売時には肝腎の航空隊はすでに壊滅していたという話もある。

57年10/26午前10時5分、肝臓ガンのため半蔵門病院で死去。本名は灰田
稔勝。

林 伊佐緒(1912-1995)
下関出身。明治大学中退。「若しも月給が上がったら」がヒット。作曲家
としても数多くの作品を残し、「出征兵士を送る歌」「リンゴ村から」
「長崎の女」などの他に、持ち歌の大部分は自作によるもの。

戦後「ダンスパーティの夜」、29年の「真室川ブギ」、30年の「高原の
宿」などのヒットで、紅白歌合戦の初期には常連であった。最晩年まで懐
メロ番組への出演を続け、死のわずか3日前にはラジオ収録までこなし
た。平成7年9/29午前2時16分、肺炎で死去。本名は林勲。

平野愛子(1919-1981)
新宿出身。22年に作曲家の東辰三が新人歌手養成用に作ったビクター戦後
第一号のレコード「港が見える丘」でデビュー。これが大ヒットとなり、
舞台の横浜には、港が見える丘公園が作られた。

23年には「君待てども」がヒット。25年には「白い船のいる港」がヒッ
ト。東辰三は神戸高商出身で深川で木工場を経営するという異色の経歴、
東の子息が山上路夫である。平野は江戸っ子気質だったが、大変な読書家
でもあった。気難しいインテリで処世術が下手だったという評価もある。

晩年は自宅で音楽教室を開いた。56年11/22午後9時24分、新宿区の国立
医療センターで卵巣ガンで死去。娘の淑子はシャンソン歌手。

藤島桓夫(1927-1994)
大阪出身。電話局勤務を経て昭和25年、レコードデビュー。「初めてきた
港」「かえりの港」「お月さん今晩は」がヒット。35年「月の法善寺横
丁」が大ヒットし、大阪物はヒットしないというジンクスを破った。平成
6年1/20に倒れ、2/1午後8時47分、高血圧性脳出血で死去。本名は
坂本義明。同月下旬には新曲を予定していた。住まいは中野区本町5丁目
だった。

藤本二三吉(1897-1976)
浅草千束生まれ。正真正銘の江戸前の芸者。昭和3年4月にビクターの専
属歌手となる。4年に「浪花小唄」、5年に「祗園小唄」がヒット。芸者
歌手の草分け的存在。江戸を離れた事がないのが自慢で、晩年に浜町から
渋谷へ引越す事となった際には悔し泣きをしたという。

野球は巨人ファンだった。51年10/29午後4時半、脳出血で西宮の兵庫医
科大病院で死去。本名は藤本婦美。娘の藤本二三代も紅白歌手として、30
年代半ばに「夢見る乙女」などのヒットを飛ばした。

藤本二三代(1946-2001)
東京出身。吉田正に師事し、昭和31年に「花の十九よさようなら」でデ
ビュー。33年に「夢見る乙女」がヒット。最後の吹き込みは48年の「ふた
りの北新地」。晩年は神戸で暮らした。平成13年3/28、大動脈解離で急
逝。本名は三谷綾子。藤本二三吉の娘。娘の藤本じゅりも歌手。

藤山一郎(1911-1993)
日本橋生まれの生粋の江戸っ子。慶応普通部では岡本太郎と同窓であっ
た。東京音楽学校在学中の昭和6年、家計のあまりの苦しさを見かねてア
ルバイトとして「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などを吹き込むが、こ
れが予想に反して大ヒット。
あまりの反響のすごさでわざわざ変名まで使って吹き込んだ、このアルバ
イトが学校に知られて停学処分となる。同時期に吹き込んだ「影を慕い
て」も爆発的なヒットとなり、歌手藤山一郎の名は作曲家古賀政男の名と
共に全国区になった。

24年「青い山脈」がヒット。被爆体験記を書いた永井隆博士に捧げる形の
「長崎の鐘」もヒット。流行歌を「コジキ節」と蔑視したサトウハチロー
が初めて本気で書いた作詞で、永井博士はこの曲の流行の直後、被爆の後
遺症で死を遂げた。29年にはNHK嘱託となる。

5年8/21午前2時まで目黒区中町1丁目の自宅で妻が腰をさすりそのま
ま就寝したが、3時半に「痛い」と大声を発した。医師は20分後にやって
来たがすでに心臓は停止状態で、4時25分に急性心不全で死去。本名は増
永丈夫。「ピアノをがーんと弾いてぴたっと止まるような死に方」を望ん
でいたという。

自動車狂としても知られ、戦後の一時期は自ら外車ショップを経営した事
もあった。煙草は戦後から始めたという。後輩では岡本敦郎や伊藤久男を
正統派として評価していた。美空ひばりについては「見せる歌手」「歌え
る女優」と思っていたという。

藤原義江(1898-1976)
スコットランド人を父に下関に生まれた。イタリアで本格的に声楽を学ん
だ。「出船の港」は大正14年にアメリカのビクター本社で吹き込みされて
いたもの。

別れたあき子夫人は国会議員として活躍していたが義江より先に他界して
いる。あき子の死後は帝国ホテルで1人住まい、部屋で1人、倒れて意識
を失っているのを知人に発見された事も数回に及んだ。

51年3/22午前8時35分、パーキンソン氏病に肺炎を併発し、日比谷病院
の6階で死去。大歌手である事を鼻にかけず一般からの絶大な支持を受け
た。義江の没後、57年には下関に藤原義江記念館が開設され、また記念切
手のモデルにもなるなど、昭和の日本を代表する国際的歌手としての評価
はいささかも色褪せない。

二村定一(1900-1948)
下関生まれ。浅草オペラで有名となる。「青空」「アラビアの唄」が同年
にヒットして一世を風靡、「君恋し」でもヒットを放つ。日本で最初に
ジャズソング、コミックソングを普及させた人である。同性愛癖も示唆さ
れていて、極度の女嫌い。

戦後の23年、かつての後輩エノケンに救われる形でエノケン一座の客分と
して復活。しかし間もなく、有楽座の「らくだの馬さん」を最後の舞台と
して、10/12朝、国分寺病院で死去。享年48.本名は林貞一。

星玲子(1915-2003)
東京出身。ダンサーから昭和7年、映画デビュー。10年にディック・ミネ
とのデュエット「二人は若い」がヒット。同年に映画監督のマキノ光雄と
結婚し、14年に引退。平成15年10/24午後3時56分、肺炎で死去。本名は
多田琴子。

松島詩子(1905-1996)
山口の柳井出身。地元の音楽教師から歌手に転身。10年に「夕べ仄かに」
がヒット。12年には自らのピアノの弾き語りによる「マロニエの木陰」が
大ヒット。小学校歌唱指導の旅で「月の砂漠」を全国に広める。

晩年は声が出なくなるとテレビ出演を断り、公の場で歌う事はなくなっ
た。平成8年11/19午後10時21分、心不全で死去。本名は内海シマ。故郷
の柳井には松島詩子記念館があり、松島詩子を記念した音楽コンクールも
行われている。夫も歌手の内海一郎。

松平晃(1911-1961)
佐賀の旧家の出身だが実家が破産。東京音楽学校在学中、家計の苦しさか
ら藤山一郎の紹介で昭和7年の「忘られぬ花」のヒットで学校に知られ退
学。「サーカスの唄」が大ヒット。「急げ幌馬車」、「夕日は落ちて」
「花言葉の唄」や同年の「人妻椿」など次々にヒット。

戦後の25年にブラジルへ公演旅行に渡るが、現地で原因不明の血液の病気
になり5回も手術、声質が落ちた上、興行主の不手際から帰国費用がなく
なり、現地の日本人のカンパで日本へ戻るまで1年半の滞在となった。

テレビ東京などが火をつけた懐メロブーム以前に急死したため、他の懐メ
ロ歌手に比べて知名度が不当に低い。晩年は東中野で歌謡学院を主宰し明
石光司などのレコード歌手を送り出した。女優の森光子は旅巡業時代の弟
子筋にあたる。

36年3/8午後10時半、東京の昭和医大病院で心筋梗塞で死去。本名は福
田恒治。

松山恵子(1938-2006)
千住生まれで愛媛の宇和島育ち。「未練の波止場」「だから云ったじゃな
いの」「お別れ公衆電話」がヒットした。平成18年3/22に入院、
5/7、肝臓ガンで 埼玉の越谷市の病院で死去。本名は岡崎恒好。昭和
44年の自動車事故の輸血でC型肝炎となり、10年近く闘病をしていた。

ミス・コロムビア(1911-1984)
小樽出身。青山学院を経て、東京音楽学校声楽科を卒業。「十九の春」
「並木の雨」とヒットを続ける。元々、流行歌の吹き込みには前向きでな
かったのだが、相次ぐヒットは彼女を不動のスター歌手の座に押し上げた。

13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を霧島昇とのデュ
エットで吹き込み、翌14年、帝国ホテルで山田耕筰媒酌によって霧島昇と
結婚。霧島の四十九日の1週間後に後を追うようにして、59年6/19午前
7時20分、腎不全で川崎市中原区の井田病院で死去。本名は坂本操。港区
の長谷寺に眠る。

美空ひばり(1937-1989)
横浜に魚屋「魚増」の娘として生まれる。昭和21年にアテネ劇場で9歳で
デビュー。61年頃から不摂生が祟って体調を崩した。この頃のヒットには
「愛燦燦」「川の流れのように」がある。

62年4月に両側大腿骨骨頭壊死と肝臓病で済生会福岡総合病院に入院、8
月には退院し、帰京。63年4月の東京ドームコンサートはスポーツ各紙が
一面トップで成功を報じたが、11月から歩くと息切れがするようになり、
平成1年3月に再入院、6/10に容態が急変し、間質性肺炎と呼吸不全、
肝硬変と大腿骨骨頭壊死で6/24午前0時28分に順天堂大学病院で死去。

一般紙各紙もその死を一面トップで報じ、テレビ各社も特別番組を流し続
けて、ひばりの全盛期を知らない若年層に相当のインパクトを与えた。同
年、国民栄誉賞を受賞。死後10年経っても映像でのコンサートチケットは
完売するなど、その影響力はいまだ衰えない。本名は加藤和枝。生涯の歌
手生活43年で4000万枚のレコードを売った。

美ち奴(1917-1996)
樺太出身。昭和9年にレコードデビュー。11年に杉狂児とのデュエットに
よる「うちの女房にゃ髭がある」がヒット。「あゝそれなのに」もヒット
させる。他に作曲者の古賀政男がレコーディングで鳴咽したという「軍国
の母」、150万枚ともいわれる15年の「吉良の仁吉」などのヒットがある。

30年代後半から神経症に悩み、芸能活動を退く。晩年は深川の老人ホーム
むつみ園で起居した。平成8年5/29午前3時15分、大腸ガンで江東区の
病院で死去。本名は久保染子。弟の芸人、深見千三郎はビートたけしの師
匠である。

三波春夫(1923-2001)
新潟出身。4年間のシベリア抑留生活を送る。復員後は社会主義浪曲など
を演じていたが、浪曲の衰勢に見切りをつけて32年に三波春夫として歌手
デビュー。「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が大ヒット、同年の「雪
の渡り鳥」もヒット。

45年には万博の「世界の国からこんにちは」を歌い、国民的歌手、お祭り
男の面目躍如であった。36年の司会者宮尾たかしとの掛け合いの中から生
まれた「お客さまは神様です」の台詞は流行語となった。

13年4/14午後4時5分、前立腺ガンで死去。本名は北詰文司。ショーと
芝居という歌手興行のスタイルを確立した事でも知られ、付き人が着物を
畳む際に思わず「無法松の一生」を口ずさむと足蹴にしたなど村田英雄と
は終生、ライバル関係にあった。俳優の三波豊和は子息。

三橋美智也(1930-1996)
北海道の上磯出身。11歳で全道民謡コンクールに優勝。30年に「おんな船
頭唄」が大ヒット。31年には「リンゴ村から」「哀愁列車」が、33年には
「夕焼けとんび」がヒット。その後も「古城」や「達者でナ」「武田節」
「星屑の町」など次々にヒットを連発。

58年には史上初のレコード総売上げが1億枚を突破、民謡三橋流を起こ
し、門下に細川たかしなどを配したが、ホテル経営の失敗や声質が衰える
などの不幸もあった。

平成7年10月に滋賀県内のゴルフ場からの帰途、大阪の西成区北里東の路
上を走行中の車中で意識不明となり、8年1/8午前11時30分に大阪府阿
倍野区の病院で多臓器不全で死去。本名は北沢美智也。

三船浩(1929-2005)
新潟出身。昭和31年に「男のブルース」でデビュー。柔道三段の腕から、
三船久蔵にちなんで芸名をつける。平成7年の「大地よ」が526曲目で最
後のリリースとなった。17年7/8午前7時48分、東京の府中市の病院で
心筋梗塞で死去。本名は森田肖三。

村田英雄(1929-2002)
佐賀出身。浪曲師酒井雲坊として九州を巡業して歩く。古賀政男にスカウ
トされて門下に。33年に「無法松の一生」でヒット。34年にはリメイクの
「人生劇場」でヒットを飛ばす。

36年には作詞家の西条八十の許に通い、船村徹の作曲による「王将」が
150万枚の戦後初のミリオンセラーの大ヒット。村田の独断に古賀政男は
激怒し、しばらく門前払いが続いた。三者とも将棋を知らなかった。

平成7年8月には糖尿病の悪化で血性心不全で倒れる。これと前後して親
しかった春日八郎や三橋美智也、そして最愛の妻が次々に先立つなどの不
幸にも見舞われた。

12年1月には左足を切断、6月には右足を切断。14年5/22に入院、
6/13午前9時52分、肺炎で死去。本名は梶山勇。

四家文子(1906-1981)
東京下谷の根岸生まれ。東京音楽学校を昭和3年に首席で卒業、皇后陛下
の御前でベートーベンの「荘厳ミサ」のアルト独唱を行うなど在学中から
知られ、同級には徳山lがいた。流行歌「不壊の白珠」でデビュー。

5年の「アラその瞬間よ」、6年の「わたしこのごろ変なのよ」、7年の
「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」などのヒットを飛ばし、大スター佐藤千夜
子がイタリアへ渡った後の穴を見事に埋めた。

56年2/10にはドイツ歌曲のリサイタルも行っていたが、7/16午後10時
7分、胃ガンで川崎市多摩区の聖マリアンナ医科大病院で死去。本名は横
田ふみ子。

若原一郎(1931-1990)
横浜出身。高校2年の時にNHKのど自慢で上位入賞を果たし、戦後の10
代歌手第一号として「船に灯がつきゃ」で昭和24年にデビュー。「吹けば
飛ぶよな」が30万枚のヒット。33年には「おーい中村君」が大ヒットと
なった。女優の若原瞳は娘で、娘の米国人との結婚に反対して話題を撒いた。

最後のレコードは「アカシア列車」と「恋する街角」。平成1年秋に一時
入院、2年7/16午後5時45分、肝臓ガンで神奈川県茅ヶ崎市の長岡病院
で死去。葬儀は港区の南福寺で行われた。本名は田野倉仲義。

渡辺はま子(1910-1999)
横浜出身。終生、横浜から離れる事はなかった。武蔵野音楽学校卒業後、
昭和8年に歌手デビュー。11年「忘れちゃいやヨ」は爆発的なヒットと
なったが、エロ歌謡として発禁処分に。戦前はスカルノ大統領の愛唱歌
「愛国の花」「支那の夜」、「何日君再来」に「蘇州夜曲」などのヒット
がある。

戦後は渡辺自身が演奏旅行でサンフランシスコを訪問した際に、そこで食
べた中華料理が美味かったと関係者に話した事から生まれた「桑港のチャ
イナタウン」、フィリピンのキリノ大統領に戦犯釈放を決断させた「ああ
モンテンルパの夜は更けて」などのヒットを飛ばした。晩年は「徹子の部
屋」出演時に痴呆症特有の言動を見せ、そのすぐ後の63年暮れのテレビ東
京の「年忘れにっぽんの歌」で「桑港のチャイナタウン」2番の出だしを
間違えるというミスをしてからは、一切、表舞台に出る事はなかった。平
成13年12/31午後7時15分、脳梗塞で横浜市中区山手町の自宅で死去。
 



主宰者より。不快な思いをさせて済みません。すべては私のPCが不調の
ためです、お許し下さるようお願いいたします。しばらく我慢して下さ
い。お願い致します。


2015年11月12日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯

渡部 亮次郎


誕生したとき駐在する駐在する外国人記者のすべてが「ゼンコウWh0to]と母国に打電した鈴木善行内閣誕生のいきさつにつえてそばで直接,見聞して知っているから、古いことだが、今や知る人も無区成ったようだから、この機会に書いておく。

2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だった。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思い出す。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8日)、一代議士に戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名を知られる東京虎ノ門病院。発表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、と早くから言っていた。

園田氏は30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所持しており、暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まなかったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこうこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症したのだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、注射で体内に補給する必要がある、口から入れても胃液(酸)で無効になるからである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べてよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったとい
うのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったということだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「これから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したため、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって出て来た。後継総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推挙することで意見の一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来なかった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が表れるようになった。腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷くなりだした。終いには顔も浮腫むようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。2007・06・