2015年06月17日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

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2015年06月16日

◆ある腰痛患者の思い出

渡部 亮次郎



私が秘書官として遣えた園田 直(すなお)氏は外務大臣3期の途中、鈴木善行内閣で、半年間、厚生大臣を務めたことがる。その時だ。ある日警備の警戒の目をくぐって、刃物を持った若者が大臣を襲おうとして、私に取り押さえられた。

なだめてから話を聞くと同情を禁じえなかった。

腰痛のためある国立病院を訪れた所、整形外科で「手術」を勧められて受けた。ところが、腰痛がまったく治らないばかりかとんでもない事態となった。インポテンツになって女房に逃げられた。

そればかりか小便の調整が出来なくなって運転手をしていたトラックから降ろされてしまった。


何とか小便だけはとめてくれと屎尿器科を訪れたところ、ここは小便をどうにかして出すところであって止めるところではない、と見放された。

かくなるうえは国立病院の監督者である厚生大臣を殺して自殺しょうとおもって、やってきた、というのである。

私は「カイロプラクティック」の受診を薦めて帰ってもらった。その後は知らない。

省内の識者に聞くと日本の整形外科は戦前、ドイツの流れを受けたものだそうで、すぐ手術したがる。


ところがアメリカ生まれのカナダ人が発明したカイロプラクティック」の指導者たちに聞くと腰痛は生活習慣が原因の背筋の異常に根ざすものであって絶対,手技で治るのであって手術は不要だと言う。

そういえばわたしも38のころぎっくり腰になった。さいわい周囲の友人たちが、かねてしっていた、NHK近くの渋谷カイロプラクティック院」にかつぎこんでくれて一回の治療で全く事なきを得、爾来予防体操を教えられ、あれから40年まったく事なきを得ている。


腰痛は手術してはいけない。事態をこじらすだけだ、というカイロプラクティックの偉大なる指導者甲木(かつき)さんの言葉を信じている。だから、さいわい、79の今日、腰痛とは無縁だ。


なおカイロプラクティックはアメリカでは公認された医療行為だが、日本では有資格者のそれは医療類似行為として、禁止されてはいないものの、按摩団体の反対で公認はまだされていない。按摩団体から多額の献金をいけている国会議員の反対を恐れる厚生労働省の役人の抵抗のためだ。

2015年06月13日

◆沖縄県ではなく琉球王国だった

渡部 亮次郎


1429年―1879(明治12)年まで琉球王国(りゅうきゅうおうこく、が存在した。正式国名:琉球國で沖縄本島を中心に存在した王国である。

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国の明(みん)・清(しん)の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結びつきが知られる。

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと高宮広士札幌大学教授が指摘する。

近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。


明、および清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。


1945(昭和20)年、沖縄戦により住民に多数の犠牲者が出る。その後、アメリカの統治下に入る。

1972(昭和47)年5月15日、日本に復帰した。

復帰に先立って事実上の知事を公選することになりそれを取材にNHKから当時政治部記者だった私が特派員として派遣され、およそ1ヶ月滞在した。

当時まだ主権者だったアメリカから派遣されていた弁務官が私を警戒し二六時中、スパイに尾行させた。

文句を言うと弁務官曰く、「新聞は意に沿わぬ記事を載せたと分覇空港で差し止めれば済むが、ミスター・ワラナベの記事はどうにも止められないから根元を監視する以外にない、だから監視するのだ。ほれあなたが東京の本社へ掛ける電話はこの通り録音しています」と装置を見せてくれた。

二の句を告げず沈黙した。4万票差で野党候補が勝つ、という予想を当てて東京に帰った。あれ以来沖縄には行っていない。

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2015年06月09日

◆中共は軍事独裁国家に変貌?

平井 修一



習近平は虎退治のブーメランで自分も危なくなったのか、攻めあぐねているような印象だ。その一方で南シナ海侵略は急いでいる。もしかしたら南シナ海は中共軍の独走で、習はコントロールできないのかもしれない。

「政権は銃口から生まれる」という国柄だから、武力を持った者、軍を掌握した者が強い。先のシャングリラ対話に中共軍の孫建国・副総参謀長が出席し、南シナ海での人工島建設について「中国の主権の範囲内で、合法で正当かつ合理的な活動だ。目的は軍事、防衛上のニーズだ。防空識別圏を設定するかどうかは中国領空への脅威などで総合的に判断する」と述べた(産経5/31)。

孫建国とは何者か。読売6/1から。

<会場に、中国代表団長として講演に立った孫氏の「ドス」の利いた声が響き渡った。「信じるも信じないも(我々の)行動を見てほしい」

孫氏は、原子力潜水艦「長征3号」の艦長として航行時間の最長記録を持ち、「鉄の艦長」との異名も取る中国軍内の伝説的存在。中国国防大学教授は、中国軍が海軍で尊敬を集める孫氏を今回の会議に送り込んだことに、「中国が南シナ海で妥協をしない意思の表れ」と解説する。

中国は「米国は強硬手段に踏み切れない。粛々と埋め立てを進めるだけ」(軍関係筋)と今後も強気の姿勢を崩す気配はない>

孫の直接の上司は総参謀長の房峰輝上将だ。何者か。すでに1年前には軍は習近平等チャイナセブンの上に君臨しているかのようだ。

産経2014.6.26「石平のChina Watch『掘削は続ける』政府方針まで宣言、習政権乗っ取る強硬派軍人」から。

<今月13日、中国中央テレビは習近平国家主席が「中央財経指導小組」の会議を主宰したことを報じた。国民はこれで初めてこの「小組」の存在を知るようになったが、大変奇妙なことに、関連ニュースは一切なく、その構成メンバーの名簿も公表しなかった。

そこで同14日、一部国内紙は、中央テレビが流した「小組」の映像で参加者の顔ぶれを確認し、リストを作って掲載した。確認された列席者の中には、中国人民解放軍の房峰輝総参謀長の姿もあった。

しかし解放軍は普段、国の経済運営には関与していない。軍の幹部が本来、中央の「財経会議」に顔を出すようなことはない。特に解放軍総参謀長という職務は軍の作戦計画や遂行をつかさどるものであって、国の経済運営とはまったく関係がないはずだ。

ならばなぜ、房峰輝氏は堂々と習主席主宰の「財経会議」に出席しているのか。これに対する一つの答えは、房氏自身が先月、中国とベトナムとの紛争についておこなった際どい発言にあった。

5月初旬、中国がベトナムとの係争海域で石油の掘削を断行したことが原因で、中国海警の船舶とベトナム海上警察の船舶が南シナ海のパラセル(西沙)諸島周辺海域で衝突し、中越間の緊張が一気に高まり、現在までに至っている。

同月15日、訪米中の房峰輝氏は、米軍関係者との共同記者会見でベトナムとの紛争に言及した。彼は「中国の管轄海域での掘削探査は完全に正当な行為だ」とした上で、「外からどんな妨害があっても、われわれは必ずや掘削作業を完成させる」と宣した。

ベトナムとの争いが始まって以来、中国側高官が内外に「掘削の継続」を宣言したのは初めてのことだが、宣言が中国外務省でもなければ掘削を実行している中国海洋石油総公司の管轄部門でもなく、解放軍の総参謀長から発せられたことは実に意外である。

中国の場合、軍の代表者は外国との外交紛争に関して「中国軍として国の主権と権益を断固として守る」とコメントするのが普通だ。あるいは掘削の件に関して、もし房氏が「中国軍として掘削作業の安全を守る決意がある」と語るならば、それはまた理解できる。

しかし、一軍関係者の彼が、政府そのものとなったかのように「掘削の継続」を堂々と宣言するのは、どう考えても越権行為以外の何ものでもない。本来ならば政府の掘削行為を側面から支援する立場の軍幹部が、政府に取って代わって「掘削継続」の方針を表明したことに大いに問題があるのである。

軍総参謀長の彼が「掘削継続」と宣言すれば、その瞬間から、中国政府は「やめる」とはもはや言えなくなっている。つまり、房氏の「掘削継続発言」は実質上、政府のいかなる妥協の道をも封じ込めてしまった。

実際、今月18日に中国の外交担当国務委員、楊潔チ氏が「問題解決」と称してベトナムを訪問した際、中国側が「掘削継続」の強硬姿勢から一歩たりとも譲歩せず、双方の話し合いが物別れとなった。つまり楊氏のベトナム訪問以前から、前述の房氏の「掘削継続発言」によって、中国政府の基本方針はとっくに決められた、ということである。

だとすれば、習政権の政治と外交の一部が既にこの強硬派軍人によって乗っ取られた、と言っても過言ではない。そして今月、房氏は、本来なら軍とは関係のない「中央財経会議」にも出席している。軍人の彼による政治への介入が本格的なものとなっていることが分かるであろう。

もちろん房氏の背後にあるのは軍そのものである。軍がこの国の政治を牛耳るという最悪の事態がいよいよ、目の前の現実となりつつある>(以上)

隣の国では金正日というタガが外れてから軍がカルーイ神輿を担いで高射砲と火炎放射器で政敵を処刑しまくっている。中共軍が習近平に「軍に虎退治の手をつっこむな。軍の意向に逆らえば江沢民派を支持するぞ」と脅したら習近平は従わざるを得ないだろう。武器を持っている方が強い。

そういえばずいぶん前に奇妙な記事があった。「中国・習近平主席『軍事外交の比重をこれまで以上に突出させる』」サーチナ2015-01-30から。

<中国の習近平国家主席(共産党中央総書記、中央軍事委員会主席)は29日、中国人民解放軍の一部幹部に接見した際、「新たな情勢の下、軍事外交は国家の外交と安全戦略の中における重要性が更に強まり、その地位はこれまで以上に突出したものになる」と述べた。新華社などが報じた。

習主席は29日午後、北京市内で全軍外事工作会議と第16期武官工作会議のメンバーと接見。中国の軍事外交のこれまでを振り返り、「わが党は歴史的にも重視してきた。それぞれの歴史時期において、軍事外交は国家の外交全体の推進や国家の安全維持のため、わが軍の建設のために重要な役割を果たしてきた」と説明した。

今後については、「新たな情勢の下、軍事外交は国家の外交と安全戦略の中における重要性が更に強まり、その地位はこれまで以上に突出したものになる」と説明。さらに、その場にいた軍人に向い「皆が政治意識を強化してほしい。思想上、政治上、行動上、党中央と高いレベルで一致してほしい。党の軍事外交に対する絶対的な指示を揺らぐことなく堅持してほしい」と、共産党中央の決定に対する服従を改めて求めた>(以上)

「共産党中央への服従を改めて求めた」・・・つまり軍は服従していないようだ。面従腹背か。この記事について名物編集者の如月隼人氏がこう解説している。

<「軍事外交」とは、外国の軍組織との合同演習や訪問、意見や情報の交換、場合によっては技術導入などを含む協定締結などの活動を指す。また、対象を外国の軍組織に特定していない軍による発表や意見表明(宣伝活動)も、軍事外交の一種と考えることができる。

中国の「軍事外交」には、宣伝の比重が大きい特徴がある。さらに、軍事外交にかぎらず外交全般として、自国の利益と力量を相手と比較して――

「対抗するが衝突は避ける」(米国)、

「基本的には利益獲得を狙うが、場合によっては厳しい対立も辞さない」
(日本やインド)、

「他の対抗相手への対策として、接近する」(ロシア、パキスタン)、

「利益獲得のため、相手側政権への利益を誘導」(ミャンマー、カダフィ政権下のリビア」

など、自国と相手国の関係をパターン化して、中長期戦略をはっきりとさせる特徴がある。

「軍事外交」には、交流により「疑心暗鬼を解消し、危機を回避する」との効用がある。一方で、「事実上の威嚇による、目的の達成」を意識する場合がある。「相手に何をどこまで伝えるか」が極めて重要になる>(以上)

日本で統合幕僚長が政府に先駆けて「南シナ海での抑止力を高めるために周辺国にミサイルを配備する」と言ったら大問題になる。文民統制、つまり政治家が軍を支配するという普通の国ではそうなるのだが、軍事政権ではまったく問題にならない。

現場の中共軍のトップである正副総参謀長が非常にきわどい発言をしても中共国内からは苦情どころか拍手が起きる。中共に限らないが、軍は常に危機を煽る。煽って国民の支持を高め、予算もしっかり獲得するためだ。

中共は習をお飾りとした軍事独裁国家に変貌しつつあるのかもしれない。
やがてお飾りも捨てるのだろう。(2015/6/8)



       

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎



流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」
梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に 西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
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作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

• 福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春(はる)」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒット
する。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

「涙の渡り鳥」(作詞:西条八十、歌:小林千代子)
「島の娘」(作詞:長田幹彦、歌:小唄勝太郎)
「僕の青春」(作詞:佐伯孝夫、歌:藤山一郎)
「東京セレナーデ」(作詞:佐伯孝夫、歌:山口淑子 (李香蘭))
「無情の夢」(作詞:佐伯孝夫、歌:児玉好雄)
「雨の酒場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「あなたなしでは」(作詞:佐伯孝夫、歌:能勢妙子)
「長崎物語」(作詞:梅本三郎、歌:由利あけみ)
「燦めく星座」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「新雪」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「明日はお立ちか」(作詞:佐伯孝夫、歌:小唄勝太郎)
「月よりの使者」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎、藤原亮子)
「別れの夜汽車」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎)
「桑港のチャイナタウン」(作詞:佐伯孝夫、歌:渡辺はま子)
「アルプスの牧場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「高原の駅よ、さようなら」(作詞:佐伯孝夫、歌:小畑実)
「野球小僧」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「お俊恋唄」(作詞:吉川静夫、歌:榎本美佐江)

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渡部 亮次郎

2015年06月08日

◆懐かしや鯰の味噌煮

渡部 亮次郎



毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。

「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だった。

春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上にそれを広げて食べたものだった。

長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生以後は鯰にはお目にかかってない。

その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどうぞ、というわけだ。

だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨みは深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶものもある。

とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長60cmに達する。

湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌(えさ)を探るのに使われる。また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息している。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサにして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。

かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰は、「洗い」にして賞味される。

鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によっては下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。

2008・01・16資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」

2015年06月07日

◆らい予防法廃止の大谷さんの死

渡部 亮次郎


<大谷藤郎(ふじを)氏死去、ハンセン病尽力 国際医療福祉大学長

旧厚生省医務局長で、らい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに取り組んだ国際医療福祉大初代学長の大谷藤郎氏が2010年12月7日午後7時24分、埼玉県内の病院で死去した。86歳。

滋賀県出身。葬儀・告別式は12日午前11時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長女すみれさん。

1983年に旧厚生省を退官するまでハンセン病行政に従事。退職後の95年、厚生省「らい予防法見直し検討会」の座長として同法廃止を答申した。

熊本地裁で99年に行われたハンセン病国家賠償訴訟の証人尋問では、原告・被告双方の証人となり「らい予防法の制定は誤りだった」と証言した。>【共同通信】2010/12/09 12:25

この記事を見落としていた。2月4日午後、すみれさんからのハガキで初めて知った。なんとも悲痛な知らせだった。「昨年、弟健、父藤郎、叔父芳郎を亡くしたので」とあった。

大谷藤郎さんとは厚生大臣のピンチヒッターとして鈴木善幸内閣に入った元外務大臣園田直に従いて秘書官として厚生省に入ったときに初めて会った。大谷さんは医系のトップ医務局長だった。

間もなく彼がらい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに熱心に取り組んでいることを知った。岡山県でらい病院のある離れ小島に橋を架ける運動にとりくんでいた。

それに関連して園田大臣に対してらい予防法廃止の緊急性を説き、大臣自らがらい患者の収容病院を視察するよう説得した。大臣は出かけていった。

大臣はそこで食事を患者とともにしたり、お茶を飲んだりした。あとで「怖く無かったですか」と訊いたら「伝染力が弱い菌だから怖くはなかった。仮に伝染しても発症するころ俺は既に死んでいるだろうよ」と言ったので見上げた。

鈴木内閣ではその後、伊東外務大臣が急に辞任、その後任に園田氏が指名されたので、大谷さんとの縁は切れたかに見えたが、そうではなかった。大谷さんの活動に関するあらゆる報告書や著書が、園田氏の死後も私宛に送られて来ていた。

正月前、大谷さんから「消えた山」序曲が送られてきて読んだ。出自と身辺のことを書いた50ページ足らずの本。先に逝った長男や妻とのことや先祖のことを書いたものだが、あとがきがご自分ではなくお嬢さんのすみれさんが書いておられたので、死期を悟るような病状かなと疑っていた。

なんのことは無い、本が届いた頃、大谷さんはすでに逝っていたのだ。なんたることだ。惜しい人を亡くした。わたしより、丁度一回り先輩だった。ご冥福を祈るのみ。

<大谷 藤郎(おおたに ふじお、1924年3月27日 ―2010年12月7日)は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。


1924年3月27日、滋賀県に生まれる。1952年、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事)。1959年、旧厚生省に医系技官として入省した。

入省後は、1962年から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会(略称・全家連、2007年破産・解散)の創設支援、1965年の精神衛生法の改正などに携わった。また、1972年に国立療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。

その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。

退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。1993年に寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、らい予防法廃止運動に取り組んで廃止を実現。

さらに、らい予防法人権侵害による国家賠償訴訟では証人となって患者勝訴に導いた。また、「精神障害者の社会復帰と社会参加を推進する全国会議」の創設にも関わり、1987年の精神保健法(後の精神保健福祉法)等の法改正に貢献した。

1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与された。

2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去。86歳没。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「社会全体が人権意識を高めてほしい」 大谷藤郎さんに聞く

現在(2009年当時)84歳の大谷藤郎さんハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に寄与した国立ハンセン病資料館名誉館長で元国際医療福祉大学総長の大谷藤郎さんは、ハンセン病問題を解決するには社会全体の人権意識を高めることが必要だと指摘する。

3月で85歳という高齢ながら笹川記念保健協力財団の理事としてもハンセン病問題について助言を続けている大谷さんは、生きる上で大きな影響を受けた恩師について執筆するなど、多忙な日々を送っている。以下、大谷さんに人生の一部を振り返ってもらった。

?ハンセン病問題について 日本のハンセン病問題は解決したといっても、まだ社会的な差別解消とかやるべきことは多い。もう一つは、精神障害や難病の人々など社会的、経済的に被害を受けている人のことを社会全体で考えないといけない。

社会全体が人権について考え直す必要がある。このままでは平等な社会とはいえない。(大谷さんの信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指す」ことだという)

生きる上で支えになったことは 京大在学中に「らいは恐ろしい伝染病ではないと」いう信念でハンセン病の患者を大事にした小笠原登先生と出会ったことだ。

先生は僧侶で兄の哲学者の秀実先生もすごい人だった。登先生との出会いが支えになり、何をやっていても「先生ならどう思うか」と考えた。

在学中に結核になり、滋賀県の実家で2、3年寝たきりの生活を送り、生きる希望を失った。ストレプトマイシンが無い時代だった。厚生省(現在の厚生労働省)に入ってからは結核体験を隠していたが、課長時代にある難病団体との交渉の席で初めて自分も元結核患者だと話した。

大声で抗議していた団体の人たちが急に静かになったことを覚えている。医者は優しさが必要だ。私は結核を経験してそれを痛感した。(小笠原博士らの思い出について、現在執筆中だ)

団塊の世代の人々など、人生の後輩へのアドバイスは 働ける限り働くことが大事だと言いたい。病気になってまで働けとは言わないが、私は結核をやりさらにがんにもかかってもくじけずに働いた。

振り返ると、がんセンターに通いながら国際医療福祉大学や高松宮記念ハンセン病資料館の仕事を続けた。激務だったと思う。周囲からはいい加減に休んだらといわれたが、自分の限界は分かるのでやることができた。大事なことは、社会のために恩返しをして役立つことだと思う。

急激に進行する高齢化社会の社会福祉のあり方について 高福祉・高負担の北欧方式で行かざるを得ないと思う。かつて北欧に半年留学し、帰国後北欧の社会福祉を賞賛したら袋だたきにあったことがある。

しかし、中福祉・中負担では中途半端でうまく行かない。日本を救うためには、国民の暮らしを質素にしても高福祉・高負担を実現すべきだ。消費税の引き上げは難しいが、政治家は国民が納得するよう話をしてほしい。

歩んだ道の思い出は 大学を出た後、保健所でアルバイトをしていた。その時の上司が中央に行って揉んでもらって来いと、厚生省に入ることを勧めてくれた。

ハンセン病を専門にやろうと思っていたが、医療を国や社会が大事にしないといけない、日本の医療をよくしようと思い、自信がないまま厚生省に入ったのは35歳の時だった。私よりも若い人が上にいてショックを受けた。

結核によって、人生では10年近いブランクがあったが、この間に医学以外の哲学書や宗教書を読み、ラジオでクラシック音楽を聞いたことが教養を高めることになり、あとで考えればよかったのだと思う。(趣味は絵を描くことであり、著書は「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難=頸草書房=など多数」

大谷さん略歴 1924年滋賀県生まれ、京大医学部卒。滋賀県内の保健所や京都府衛生部勤務後、旧厚生省に入り、医系技官トップの医務局長で83年に退官。

退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年に「らい予防法」が廃止された。その後提訴された熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」と証言した。

裁判は原告が勝訴し、当時の小泉首相が控訴を断念した。国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任した。93年に社会医学・公衆衛生分野で功績があったとしてWHOレオン・ベルナール賞を受賞した。「日本財団が取り組むハンセン病制圧プロジェクト」より転載 (2009・02.25)2011・2・4

2015年06月06日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



あなたはアベサダって知ってる?

阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから78年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定は、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・05・13

2015年06月05日

◆七夕の朝に倒れた河野一郎

渡部 亮次郎



半世紀前の話だが、それだけに 先の短い身だから、私が居間ここで証言しておかないと記録に残話になる。昭和40年、自民党の実力者河野一郎は「中曽根クンを河野派から除名する」と 爆弾発言を私にしたまま、翌朝、中目黒の私邸で倒れ、8日に死んでしまった。 

だから「中曽根氏 河野派から除名」という大特種はならなかったわけだが、もし現実のものとなっていたら、中曽根政権はあった老化、と考えたりする。中曽根さんにこの話をしたことはない。

<「中曽根君を除名する!」

         渡部亮次郎

河野一郎さんの命日がまた巡って来る。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため、退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は洋平の長男である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。

2015年06月04日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎



私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の犠牲者?ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるように
なった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。(ウイキペディア)

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2015年06月03日

◆リラかライラックか

渡部 亮次郎


日本語にすると何かしらロマンチックになるのだろうか、アルプスの牧場には楡(にれ)の木に鳥が啼いたり、札幌の時計台には楡の花が咲くと、高校の先輩東海林太郎(しょうじ たろう)が歌っている。

同じように情緒的に歌われるのが「リラ」の花である。長じてヨーロッパへ旅するまでは実物に出会ったことはなかった。ブリュッセルのレストランの庭に紫色の薫り高い花が満開だった。「あれはライラック即ちリラの花だよ」とドイツ育ちの友人が教えてくれた。

吉岡妙子「リラの花かげ」、岡本敦郎(あつを)「リラの花咲くころ」倍賞千恵子「リラの花散る町」、加門 亮「リラ冷えの街」は、みんな「ライラック」を歌っていたのだ。それを知っていたかどうかは無関係だ。リラはフランス語、英語がライラック。

ライラック(Lilac、学名:Syringa vulgaris)はモクセイ科ハシドイ属の落葉樹。ライラックの呼称は英語の仮名転写に由来し、他にフランス語由来のリラでも呼ばれる。和名はムラサキハシドイ(紫丁香花)。

ヨーロッパ原産。春(日本では4―5月)に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく香水の原料ともされる。

日本には近縁種ハシドイ(紫丁香花) (Syringa reticulata) が野生する。開花はライラックより遅く、6―7月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある。

花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。

ハシドイの名は、木曽方言に由来する。属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという。

欧州の民間伝承では白い花のライラックを家に持ち込むと不吉なことが起こるとされている。(「ウィキペディア」)2010・7・4

リラ=Lilas、Lilac。そう、リラはライラックの別称ですが、音楽にも乗り安いし、何となく情緒的な叙情的な感じがするから、リラの方が良いでしょう。寺尾智沙・田村しげる夫妻の手によるものですが、白い花の咲く頃より、より抒情的でよりメランコリックな出来上がりになっております。

この作品も岡本敦郎が歌って大ヒットさせました。リラの花弁は白、ピンク、薄紫、紫と色々ありますが、宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」のフランス原曲も実は原詩を訳すと「リラの花咲く頃」。この場合は白いリラの花です。さらに、このフランス曲にも原曲があって、ドイツ原曲の「ニレトコの花が咲く時」というらしいです。ニレトコ(ドイツ)→リラ(フランス)→すみれ(日本)となったわけです。リラの花咲く頃

   JASRAC Code No.094−2028−2

   リラの花咲く頃
    
作詞:寺尾智沙
   作曲:田村しげる
   歌唱:岡本敦郎
   MIDI制作:滝野細道

   1.リラの花が 胸に咲く今宵
     ほのかな 夢の香に
     ああ 思い出の あの囁き
     遠く遥かに 聞こえ来るよ


   2.リラの花が 胸に散る今宵
     やさしく 手を組し
     ああ 過ぎし日の あのメロディー
     霧の彼方に 流れ行くよ


   3.リラの花が 胸に哭く今宵
     はるばる 別れきて
     ああ 懐かしの あの面影
     ひとり狭霧の 小径(みち)を行くよ

2015年06月02日

◆駅弁大学の日5月31日

渡部 亮次郎


秋田県に大学は無かったが、占領軍によって各県に1つは国立大学を置くべきだとの考えから秋田師範学校と秋田鉱山専門学校が合併する形で秋田大学が出来た。昭和24年5月31日である。

新制国立大学設置法がこの日、公布されたことに伴うもので、この日、全国で68もの国立新制大学が発足。国立山形高等学校は格下の山形師範学校と一緒にされて山形大学となった。

北隣の青森県・師範学校と国立弘前(ひろさき)高校を一緒にして青森ではなく弘前大学とした。青森大学はその後出来た私立大学である。

同時に東京では東京商科大学は一ツ橋大学、東京女子高等師範学校がお茶の水大学と改称された。

占領米軍は対米戦にいたる軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足を指摘し、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになったわけだ。

しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。

とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。

その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。

そこで辛口論評を得意としていた評論家の大宅壮一がこれを諷して「急行の停まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言した。

かつての進学校生徒などが「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」などと使うのが、典型的な用例であった。先生に「でも」なろうか、先生に「しか」なれない人を称して「でもしか先生」と揶揄した。


戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。

この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになった。

その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。

なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。

一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。

その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。

これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。

大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。

「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないか。

主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」(小樽、東京、神戸)などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。

1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い各地の帝国大学は改称し、学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。

その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各旧制大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学
も無くなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年06月01日

◆ジャガイモで命拾い西欧

渡部 亮次郎


16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、外皮も黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。

<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア