2015年05月24日

◆ペンシルロケット

渡部 亮次郎


1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。

東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に従いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそ
いだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城(いわき)町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月に県の大館市へ転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者こそ出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は鹿児島県内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪、東京と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月23日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町によく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名された。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えながらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆 再掲

(池部良は2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。92歳没)

2015年05月22日

◆角栄のマスコミ買収を猫ババ

渡部 亮次郎


文中に登場する作詞家は2008年4月6日ニ88歳で逝去した川内康範氏、政治評論家は故戸川猪佐武氏である。田中、早坂両氏既に亡く、それより早く児玉が死んだ。かくて川内氏死して「角栄もみ消し事件」の一つが歴史の闇に消えた。

世間では田中が総辞職したのは立花隆の「田中角栄研究」と思われていますが、違います。あの時の文芸春秋に同じく載った「淋しき越山会の女王」と言う記事だったのです。後に田中が私に言いました。「とにかく真紀子にあのことで連日ワーワー言われて、それで参ったのだよ」と。

角栄に神楽坂の芸者だった辻なる女性に男の子2人のいることは側近なら皆、知っていることだったそうだが、越山会なる角栄後援会の会計責任者、佐藤昭の娘・敦子が角栄との不倫の子であると喝破したのは、この原稿の筆者・児玉隆也が初めてだった。

児玉があの原稿を書いた後、私を訪ねてきて「政治家が自分に不利な記事を差止めるため800万円を差し出すことはありますか」と訊かれた。半端な数字だから「それは無いだろう、半端すぎる」と答えた。

児玉によれば光文社の「週刊女性」誌デスク在任中、田中の(まだ幹事長)女関係を記事にしようとしたら、著名な作詞家が800万円を差し出して「止めてくれ」といった。断ったが、社内では「児玉は田中からカネを取って記事を差し止めた」との噂が流され、とうとう社を辞める破目になったのです、と言う話だった。

退社して何年もしないで児玉は文春に「淋しき・・・」を書き憂さを晴らした。ただし児玉はガンに冒され、それからいくばくも無く、40前に死んだ。

片方の立花は有名になったが児玉は死んで、マスコミに乗る機会が途絶えたまま忘れ去られてしまった。そのことを塩田潮は『田中角栄失脚』という本(文春新書)紹介している。戦後政治史の裏面が単行本で暴かれたのは初めてである。

私の身分にも異変があった。記者(NHK)として田中首相の哲学の無さをブラウン管で攻撃するものだから、角栄側近(竹下)から来た抗議の電話に唯々諾々と従ったNHK首脳によって大阪に飛ばされた。飛ばす担当者(政治部長、故人)が告白したのだから間違いあるまい。昭和48(1973)年のことである。問題はその後だ。

こんなNHKにいたって将来はないとみた私は自民党代議士・園田直の招きで彼の外務大臣秘書官になった。福田赳夫内閣である。この内閣は三木憎しで固まる田中の支持で出来た政権である。その関係で私は、かつては仲の良くなかった角栄やその側近とも付き合うようになった。

そのため「あの時、児玉対策にどれほど使ったのか」をマスコミ担当の早坂茂三秘書に質すチャンスが来た。そしたら「3000万円を作詞家らに渡したが記事は止まらず、カネも返って来なかった」との答えを得たと言うわけであった。

それにしても3000万円がなぜ800万円にしかならなかったのか。おそらく作詞家と相棒の政治評論家(元読売政治記者)が山分けで猫糞しちまった残りが800万円だったのだろう。

「田中角栄失脚」を読めば作詞家と政治評論家は誰であるか、すぐ推測がつきます。こうしたカネを角栄氏はどうせ阿漕な悪事で稼いだんだからいいじゃないか、というのが一般的かもしれないが、あなたは、この話を聞かされて、何を思われますか。

以上を2006年11月26日のわがメイルマガジン「頂門の一針」641号に掲載したら、NHK政治部で同僚だった大谷英彦氏から興味深い話を教えてくれたので追加する。

<角栄のマスコミ買収」を読んで7〜8年前の記憶が蘇りました。共産党の市会議員もネコババをやりかねないという話です。

川崎市の住宅街に必死の思いのローンでマンションに移って間もなく、裏の谷底みたいな空き地に学生寮が立つというニュースが入り、マンション住民は大騒ぎになった。

その空き地は「取り付け道路もないから、建物は建たない。将来は緑地にでもなる」と聞いて入居した人も多かったので、早速「建設反対住民集会」が開かれ、誰が呼んだのか、川崎市の共産党市議が「反対闘争」を指導することになった。

「タスキを作れ」「座り込みをやれ」という指導に、居住者の中の最高検の検事らと共に反旗をひるがえし、理事会メンバーも一新。

言い出した以上は解決策が必要。調査の結果、建築主は賄い付き社員寮で成功、今度は学生寮にも進出しようという神田の会社と分かった。

@会社は来年4月の新学期までに完成させないと儲けが減る。A大手銀行から1人、役員が入っている。

この2点を突破口に当方の要求をのませようという作戦で、地元選出の小泉純一郎代議士が衆院大蔵委員長だったのに目をつけ「協定書の実行保証人」ということで案文を作った。

といっても、議員会館で飯島勲秘書に口頭了解をも求めただけだが・・

4月完成には1日でも惜しいだろうから、交渉中も工事をやらせた結果双方まずまずの解決になった。

日照を失う時間に応じて各戸が補償金を受取ったが、合計額は共産党市議が最初に持ち帰った返事の6倍になった。

相手の社長も満足だったのかホテルオークラに理事を招待してくれた。その席で「いくらなんでも補償金600万では無理ですよ」と発言したら社長は色をなした。「冗談じゃない。私は1千万は提示してましたよ」

あの市議は400万抜く気だったのか。共産党でもやるんだ!

九州で公安調査庁の関係者と飲んだ席で、それを披露した。翌年の統一地方選挙で共産党の候補者は交代していた。「へー、公安と代々木(日本共産党)はパイプがあるんだ!」深く感じ入りました。>

2015年05月21日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 1953)年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月20日

◆原発に先鞭つけたは中曽根氏

渡部 亮次郎


第次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止されたが、サンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

そこで1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出された。

日本における原子力発電はこのことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている。

1955(昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力3原則」であった。

中曽根氏はこの頃既に衆議院に籍を置いていた読売新聞社主正力松太郎氏に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31)年1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は正力氏であった。 

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の九電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

中曽根氏は正力派の結成に失敗後、河野一郎派に所属するも、友人渡辺恒雄氏を通じて近付いた実力者大野伴睦氏の推薦で1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。正力氏のバトンを握って原子力発電を後押し。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月 26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

あれから48年。遂に事故は起こった。この間電力会社も通商経済省も「安全」の宣伝はしたが「安全策」は全く行なわなかった。「津波」対策は全くなされなかった。

2015年05月19日

◆東條の頭叩いて助かった人

渡部 亮次郎



常連寄稿者平井修一さんが70周年「真珠湾の真実」(12月8日号)で取り上げた大川周明のことは少年のころからどっかでひっかかっていた。

著名な学者だったのに、東京裁判では前に坐っていた被告東條元首相の頭をピシャピシャと何度も叩いて周りの度肝を抜いた。

裁判長の指示で検査の結果脳梅毒と判って、裁判免除。だが免除されたら普通に戻った、あの振る舞いは「演技」だったのだと理解してきた。

平凡社の世界大百科事典には次のようにしか出ていない。

{ファシズム運動家,思想家。山形県に生まれる。旧制第五高等学校を経て,東京帝大文学部でインド哲学を学ぶ。1911年卒業。

のち,植民地インドの現状に関心をもち,反欧米的思考を強める。18年,満鉄に入社し,翌年東亜経済調査局調査課長。20年,拓殖大学教授となる。

1918年,米騒動の衝撃のなかで生まれた老壮会に入会。19年,北一輝(死刑)とともに〈国家改造〉を目ざす猶存社を結成。

23年,北と袂(たもと)を分かって後,翌24年,行地社を創立。啓蒙宣伝活動にあたるとともに,軍部との関係を深める。

29年東亜経済調査局が独立の財団法人となると理事長に就任。31年,陸軍桜会によるクーデタ計画,三月事件に関与。翌32年2月,神武会を組織し,軍部と結びついた大衆的ファシズム運動を目ざす。五・一五事件に連座して反乱罪により禁錮5年に処せらる。37年10月,仮出所。

以後,法政大学教授(大陸部長)をつとめるとともに,《日本二千六百年史》(1939),《近世欧羅巴植民史》(1941),《米英東亜侵略史》(1942)などを刊行。

敗戦後,A 級戦犯として逮捕されたが,精神障害を起こし,裁判から除外,病棟で《コーラン》の翻訳に没頭する。1948年末,不起訴釈放。自伝《安楽の門》(1951)を著す。《大川周明全集》全7巻がある。}
       

「ウィキぺデイア」を近年知ったので検索してみたら出てきた。

この記事を書いた方のお名前は知らないが、肝腎なことは後半の出てく
る。

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。

1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。

その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。五高時代には、栗野事件で活躍した。

インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆して、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。

また、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)やアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。

一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。

同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。

大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。

またルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介している(「三重国家論」として翻訳)。

満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。

北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。

太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。

太平洋戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され、東京裁判に出廷した。

大川は水色のパジャマを着用。素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(東條は最初は苦笑していたが何度も叩かれたため睨みつけたという)、

「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、

または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」(I,I think 英訳私は、私は思う)と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。

15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した。

大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。

入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。

その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。

東條の頭を叩いたのは狂人と思わせる「演技」。裁判長は騙された。
                  2011・12・08


2015年05月18日

◆4人目の金日成とは

渡部 亮次郎



金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだ。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分が多く、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(2000年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはスターリンソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。  2011・10・11執筆

2015年05月17日

◆わたなべりやうじらう

渡部 亮次郎


幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。たとえば産経の阿比留瑠比さんのように。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。

2015年05月16日

◆論ずべき政治が無い

渡部 亮次郎



元政治記者が政治を論じなくなって久しい。論ずべき政治がなくなったからだ。夢と希望を政治に賭けなくなったからだ、とも言える。

だから、強いて政治を論じれば、政治家の悪口になってしまう。そこでなるべく政治を取り上げないように苦心しているわけだ。

特に小選挙区になってから、大局を論ずる政治家が登場しなくなった。否、論ずる必要がなくなったのだ。天下、国家の将来を論ずるよりも、ちんけな「公約」をばら撒けば当選出来るようになったから政治家は楽である。小選挙区制主義者はこのことが予想できなかったのだ。お粗末クン。

だから、まるで隣近所で御用聞きのような物言いをする政治家ばかりになった。思想も政策も必要ない。辻立ちして「政権交代」と世論に一致する声を挙げていれば当選だもの。

時々は国会の論戦に耳目を集中させようとするが、くだらないアラ探しばかり。週刊誌にまかせておくだけでいいようなものばかり。とても聞いていられない。

一昔前は日米安保論で日が暮れたものだが、最近は防衛問題はさっぱり聞かれなくなった。国民に関心が無いから票にならないからだろう。それでも論じなければならないのが、安保、防衛問題なのだが。今回は安保法制で少しは国会も賑わうかも知れないが。

教育についてもそうだ。昔は日教組と文部省(当時)は激しく対立して緊張関係にあったが、昨今は役人が日教組と癒着して自分たちの週休2日制さえ確保されれば、後はどうでもいいようだ。

民主党すなわち日教組だから、少しは残っていた教育の中立性はどこかに消し飛んで、教育に関する限り、日本社会党左翼の風、復活という不愉快な事態になるだろう。

私は、日本がだんだん、つまらなくなって行くのは、みんなが塾教育を是認したからではないかと密かに思っている。塾では試験に失敗しない方法ばかりを教える。無駄の集積の結果としての成功などとは絶対に教えない。

しかし、世の中の実際は殆どが失敗の連続と、失敗から導き出された成功への道である。失敗を重ねる事が結果的に人間のスケールを大きくするし、金太郎飴でない、個性的な人材を育成する。

政治の世界も、戦争帰りが国会議員であるうちは、度胸の据わった大物が沢山いて面白かった。しかもなぜか社会党には戦争帰りが少なかった。思想犯としてブタ箱を経験した「闘士」は左翼思想をさらに左に傾けてやまなかった。

彼らは自民党体制のブレーキ役を任じていた。ブレーキが如何に利いてもエンジンにはなれないことに気付かぬまま、社会党は消滅した。

自民党の戦争帰り。役人上がりの後藤田でも主計将校。中曽根もそう。田中角栄は2等兵でノモンハンに行ったが病気で帰還した経験があった。園田直の如きは特攻隊生き残り。竹下も立川にいた。しかし、シベリア抑留を体験した宇野宗佑で戦争体験の首相は終わった。

それ以後の自民党政治家は塾体験の2世ばかりが首相。失敗や敗戦の体験が無いから、人間として余りにもスケールが無い。小さすぎる。貫禄も風格も無い。タダの人だから国民を惹きつける魅力が全く無い。

民主党は、自民党に風格や貫禄や魅力のあった時代に、そこから撥ね退けられた人物や、自民党の隙間を探せなかった人物と社会党と民社党の残滓である。要するにかすでしかない。

経済の高度成長と共にあった頃の自民党に比肩する実績など挙げられるわけが無い。化けの皮はすぐ剥げるが、それまで長かった。 (文中敬称略)

2015年05月13日

◆人民軍内に江蘇省人脈が急拡大

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)5月12日(火曜日)通算第4537号 > 

〜そして軍内に山東省人脈に負けず劣らず、江蘇省人脈が急拡大
  人民解放軍の高官は南京軍区出身者が最多に〜


山東省は孫子を生んだ故郷でもあり、軍人がやけに多い地域である。

中国共産党のいう「抗日戦争」でも「英雄」が輩出したのは山東省だった(抗日戦争の主体は国民党だったが、これについては、この稿では触れない)。

胡錦涛時代、軍閥の台頭や地域的人脈の特性よりも、宇宙・航空関連、とりわけミサイルの開発に功労のあった軍人が多数出世した。習近平政権は、この点も重視するが、軍の統一と団結を維持するために、地方軍閥化を懼れずに、江蘇省関係者ならびに南京軍区出身者を幹部に多数抜擢し始めた。

最近の44名の軍高官の人事異動がなされたが、山東省、江蘇省出身が それぞれ8名。ついで遼寧省、河北省、河南省、浙江省出身が各四名。異様である。

山東省出身は軍委員会副主任の許基亮、第二砲兵司令員の魏鳳和、副参謀長の威建国、総装備部副政治委員の王洪晃、北京軍区司令の宋普洗らである。

また上記44名中、40歳代が5名、ほかの大半が50歳代で若返りが 目立つ。

また出身地比較ばかりか、勤務の長い出身軍区をみると44名中、14名が南京軍区勤務経験者がしめており、南京閥を形成している。

南京軍区は前身が新四軍、華東野戦軍、第三野戦軍。国共内戦で活躍した第四野戦軍出身者が革命以後、軍の主要ポストをしめたが、最近は南京軍区出身者が主流ということになったようだ。

他方、エリート軍といわれる瀋陽軍区出身は副主任の氾長龍と許基亮、総参謀部長の房峰輝、国防部長の常万全、武装警察主因の王寧らである。

2015年05月12日

◆中国が「糖尿病大国」に

渡部 亮次郎



(CNSPHOTO)2008/10/15によると2008年10月11日、上海で米国糖尿病学会主催の第2回アジア太平洋地区育成会議が開催され、中華医学会糖尿病学分会の主任委員である楊文英教授は中国における糖尿病の増加傾向に懸念を表わした。

楊教授によると、最近行った調査から、生活レベルの向上のため国内の都市部では糖尿病の発病者数が増加しており、特に男性では30歳から60歳の間に発病する確率が急激に高くなっていることが分かった。

現在、中国の糖尿病患者数はインドに次いで世界第2位となっており、2050年には5930万人に上ると予測されている。中国がインドに次いで世界第2位の「糖尿病大国」になったのである。


中華料理を見れば明らかなように、材料は、四足は椅子以外、飛ぶ物は飛行機以外、何でも食べている。香港では蛇も平然と入っている。しかし、牛肉料理は少ない。鶏か、せいぜい豚肉が多い。

ところが、経済の開放、改革路線の結果、懐の豊かな階層が出現し、彼らはこれまで食べたことの無かったステーキ(牛肉)をふんだんに食べるようになった。鶏の何倍もの高カロリーだ。また日本人の常食する生魚も海のものなら安全なことを知り、鮪を競って買うようになった。

有史以来、アジアは長い事飢餓に苦しんできた。このため、栄養過多になると、インスリンがすぐ不足して、余剰なカロリー(ブドウ糖)は消化できず尿と共に排出される。これが、糖尿病である。

中国では共産革命を起こさざるを得ないくらい、冨が偏在していた。毛沢東による革命(1949年)後も、人民は栄養不良に悩んできたが、トウ小平による経済の事実上の資本主義化の結果、少なくとも沿岸部では、美味い物を好きなだけ食べられる階層が出現した。

その結果の糖尿病である。以前は聞いたこともない病気であるから患者に予防知識が無い。発病しても痛くも痒くもないため、症状は猛烈な勢いで悪化し、ある日、突然、盲目になったり、腎機能不全に陥ってようやく糖尿病と分かる始末である。

日本人だって総理大臣を務めた田中角栄も大平正芳も糖尿病患者だった。田中はその合併症として脳梗塞を患った末に、身内にひっぱたかれながら死んだ。

大平は酒は嗜まなかったが、甘いもの大好き。主治医に言わせると最低の患者だった。首相在任中、合併症としての心筋梗塞の発作2度目で冥土へ旅立った。

中国では急激な糖尿病患者の大出現に、医者も教育係も追いつかない。だから先進国から専門医を大量に招いている。日本からも相当の数の医者が駆けつけている。

しかし、患者の発生の多さにはとても追いつかない。共産党政権は経済の高度成長こそが存在の正当性を裏付けるものだから、「食」の高度化をますます進めてゆく以外に無い。即ちそれは糖尿病大国の肥大化の道に他ならない。

実に皮肉なことだが、経済の開放、改革こそは糖尿病への道だったのである。

予防のためには適度な運動と食事制限意外に無いのだが、中国人に食事制限の知識はないし、適度な運動のための時間的な余裕は考えられない。日本人も同様だが。(文中敬称略)

2015年05月09日

◆ラジオ歌謡の頃

渡部 亮次郎



投稿して下さる常連の前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラヂオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。

当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラヂオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりも登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響を与え、大阪の朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽化学工業(現・クレハ)の協賛で民放版のそれともいえる“クレハ・ホームソング”を企画・制作した。

ここからも「踊り子」(三浦洸一)、「白いボール」(王貞治・本間千代子)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。仲宗根美樹の「川は流れる」もそうだ(昭和36年)。

1960年代になると、テレビ時代になり、ラヂオの名物番組が次々に姿を消すようになり、『ラジオ歌謡』も、1962年に終了し、テレビでも放映される『みんなのうた』に引き継がれた。

昭和28年(?)に岡本敦郎の唄った「チャペルの鐘」は大好きで受験勉強を放り投げてNHKのど自慢に出場したものだ。寺尾智沙作詞、田村しげる作曲(2人は夫婦)。

「テープ」も「CD」も「MD」も無い時代の事だったから正確な記録はNHKにも無い。日本ラジオ歌謡研究会というファン・クラブが出来ていて、「歴史」を記録する事に努めている。

これまで研究会員が収集したり、全国のラジオ歌謡ファンから寄せられ、日本ラジオ歌謡研究会で現在所有している一覧表がある。全曲は845曲だそうだが、録音と楽譜のそろったものは300曲足らずという。

2000年にコロムビアが「20世紀の軌跡 ラヂオの時代」としてCD5枚組をモノーラルで発売したが「国民歌謡」を含めてもたった109曲しか入っていない。研究会では、未収集の曲のピアノ譜及び音源を求めているそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月08日

◆産経新聞の「大誤報」

渡部 亮次郎


産経新聞が6日の電子版で厳然と存在した「大福密約」を“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。と堂々と誤報した。無かった従軍慰安婦の強制連行を有ったとほうじてはじなかった朝日新聞は誤報だったが、この産経の記事も誤報だ。その理由は末尾で明らかにするが、まず問題の記事を全文紹介しよう

産経ニュース【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新

<“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は

昭和32年7月、13回忌となる池田勇人元首相をしのぶ会でのシーン。このときの3人は笑顔だが、田中と福田は長年にわたり「角福戦争」を繰り広げ、福田と大平は53年以降、激しい総裁争いを演じた。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

               ◇

 一、ポスト三木の新総裁及び首班指名候補には大平正芳氏は福田赳夫氏を推挙する。

 一、総理総裁は不離一体のものとするが、福田赳夫氏は、党務を主として大平正芳氏に委ねるものとする。

 一、昭和52年1月の定期党大会において党則を改め総裁の任期三年とあるのを二年に改めるものとする。

右について、福田、大平の両氏は相互信頼のもとに合意した。

 昭和五十一年十一月

                ◇
 この文章の後に、保利を除く4人の署名と花押(園田は署名と捺印)がある、というものだった。

“大福密約”について、福田の長男の福田康夫元首相は「そういうものはなかった。ある人が発言したことで一気に、本当のごとく広がっただけだ。福田(赳夫)もはっきりと『ない』と言っていた」と存在を強く否定する。

一方、大平の項で登場する娘婿で首相秘書官を務めた森田一(はじめ)元運輸相は(ネタバレになるが)「書面を見た」と語る。両者は今も正反対なのだ。

そこで、康夫氏が「ある人」と語った人がキーマンになる。同氏は名言こそしなかったものの、園田のことを指しているとみられる。

園田は会談の後、「これじゃ2年後、私たちは大平政権樹立のために走り回るということを約束させられたようなものだ」などと語ったという。しかも園田は、大平内閣で外相に再任され、54年に大平と福田がそろって首相指名選挙に臨んだときは大平に投票した。これにより“大福密約”の存在は定着するようになった。

また、平成16年に週刊誌「読売ウイークリー」(現在廃刊)が「大福密約の覚書」を“公開”し、話題になった。

「読売ウイークリー」によると、「覚書」は園田の次男、園田博之衆院議員が所持していたもので、当時は大平派といわれた宏池会の便箋に「福田・大平了解事項」のタイトルで先の内容が記されていた。

ただ、タイトルから4人の署名まで同じ人物が書いたとみられる。花押も、少なくとも福田については官邸のホームページにあるようなものと微妙に異なるようにみえなくもない。

そこで、博之氏に取材したら意外な回答が返った。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

「あの紙はどこかにいってしまった」

「覚書」は園田の妻で衆院議員だった天光光(てんこうこう)が預かっていたもので、天光光から博之氏に託されたという。

その上で、博之氏はこう言い切った。

「あれを『密約』というのは疑わしい。文章を見ればわかるが、署名が本人のものとは思えない。となれば、文章も本物にはならない」

「覚書」をなくした理由はこうだった。

「大切なものとは思わなかったから」

福田サイドには有利になった感はあるが、博之氏の発言をもって“大福密約”はなかったとも十分には言い切れない。もし、“密約”がないのであれば、園田はなぜあのような「覚書」を大事に保管していたのか。疑問はさらに深まったといえる。

同時に、大事な「史料」を失ったこともわかった。“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。(政治部次長 今堀守通)

【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新
“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は>

園田氏は福田内閣の官房長官だったが、1年後の内閣改造で、たった1にん留任し、但し外務大臣に鞍替えさせられた。その際、福田首相は官房長官を辞めさせる理由として「あのことを(官房長官番の記者たちにしゃべりすぎた」と言った、と「密約」の存在を認めた。 

園田氏は外務大臣就任にあたって政務担当の秘書官に当時NHK記者だった私を任命すると同時にこのことを私に告げた。なぜならば彼に官房長官就任を薦めたのが私だったから、改造に当たって官房長官を辞める理由を私に説明する「義務」があると考えたからであろう。

密約の書類は園田氏が自家用車のトランクの中の鞄に大切にしまっていたが、ある時私に見せた。用紙は大平派の用箋で、本文は見慣れた鈴木善幸氏の手になるものだった。そういえば園田氏の死後、あのトランクの中から現金1億2000万円が発見されたが、天光光未亡人はその金を息子たちには秘匿し遺産として分けず独り占めしてしまった。

産経の政治部次長 今堀守通氏は園田氏の次男博之氏の言葉を「証言」として持ち出しているが、博之氏は当時はまだサラリーマンであり、かつ継母たる天光光(てんこうこう)と暮らしている親父の家には一度も立ち寄ったことはないし、政局の内情に通じてもいなかった。父親から政局話を聞ける立場でもなかった。したがって彼の「密約」に関する話には信憑性は極めて低い。

一方、福田康夫氏だが、彼もまた当時はサラリーマンであり「密約」を知る立場にはなかった。

その後康夫氏は総理秘書官となるが、父親が密約文書を見せるわけないし、父親として「俺は密約で総理になれたのだ」とは恥ずかしくていえるものでもないでしょう。

このような次第だから、今回の産経新聞政治部次長 今堀守通氏の記事は全くの誤報と断ぜざるを得ない。(2015・5・7)