2019年02月24日

◆「味の素」発明は108年前

渡部亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特
許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明
家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を
豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無
かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝
国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学
の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような
応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」
の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できる
のではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸
ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第
14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108
年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料と
して広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており
食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の
食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、
池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京
帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注
ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研
究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代
目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手
を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工
業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味
の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。
大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を
開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統
制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法
へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門
を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工
食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨ
ネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,イン
スタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部
門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開
始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高
比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れてい
る。>世界大百科事典  2008・07・27

2019年02月23日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎


中国に派遣されている日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。
知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視さ
れ、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 
聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる
事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されて
もメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(元NHK政治記者、元外務大臣秘書官)

2019年02月22日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎
      

「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。
秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた
旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたの
は40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食
べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売って
いて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっ
つる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を
入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在
作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られてい
る。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る
「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも
用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味
として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働
きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分
解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚な
うま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働き
が強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤
は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、
いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用
されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」
(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されて
いる。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発さ
れ、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道
日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発
酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メー
カーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっ
け醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造
する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いく
つかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアで
は、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いら
れる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している
地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマム
とも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、
カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャン
マーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・
イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露
(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の
「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれ
る魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペー
ストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われて
いた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっている
が、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚
醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにした
り、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚
をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレ
などを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用
いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵さ
せる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進
んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いも
のから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚
と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調え
るものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2019年02月20日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派4天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野
一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員
外務大臣河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。
2008・07・05

2019年02月18日

◆「お前の女房は元から俺のもの」

渡部 亮次郎


わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは
1969(昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディ
アは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ
「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭
された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔
から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈
だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首
相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や
違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能に
ならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応
じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏
便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているよ
うだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするとこ
ろ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張
らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国
は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今
では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の
「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島
は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されて
いるからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。
「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この
地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。
それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから
昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つか
もしれない。2010・10・5執筆 

2019年02月15日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州
夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支
那」という言葉は使いたくないのでしょうか。)

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出
てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたの
で、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く
機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番
組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺は
ま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育
ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和
国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝
や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼
称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみな
される場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華
民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称を
めぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省
は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に
「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるよ
うになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という
言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取っ
て代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化
している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、
これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事
変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が
学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間で
は特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、
自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権
の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いら
れた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「か
ら、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでか
らは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にあ
る中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支
那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」
「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に
「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来
の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から
取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、
それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする
主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」など
と同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあった
が、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われること
もあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるとい
う感覚が生じた。2009・07・16

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2019年02月14日

◆憲政の神様の落選

渡部 亮次郎


日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。
また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)が
ある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。

政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ
事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂の「バカヤロー解散」による落選
だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)である。

尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20
日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。

当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より
8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘
れ去られていたのである。95歳では無理だった。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野
村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議
員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明
治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高
崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。

その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を
移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に
上京し慶應義塾童児局に入学する。

しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち
帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。

1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23
年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続
25回当選という記録をつくる。

その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大
臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正
義が対立するとともに辞任した。

1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任
するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分
裂、大隈内閣も総辞職した。

その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して
憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、そ
の後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正
3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相
を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。

だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して
政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内
閣では司法大臣となる。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第1次世界大戦後の
ヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者と
なった。

また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であった
が、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第
に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法
改正運動などを支援した。

また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿
勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942年(昭和17年)の第
21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。

1943年(昭和18年)、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家
と唐様で書く3代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬
罪で起訴される(一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。

公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂
から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢
堂とした)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力す
るが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙 
1953年4月19日)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。

1950年には英語国語化論を提唱したこともある。

1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。
享年96。墓所は鎌倉の円覚寺。

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院
の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮
に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内に
ある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものである。

東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマッ
ク川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されて
しまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生ま
れた三女。

「牧野伸顕日記」昭和6年(1931年)2月17日条によると、内大臣牧野伸顕
(大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から

「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと
思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧
に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国
家を思ふもの一人もなし」

という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾
崎の失意の心情を伺わせる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2008・04・17


2019年02月13日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本
首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事は
あったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番
が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ている
ところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は
不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交
即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを
果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って
「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随
員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証
人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引
見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初
めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと
考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とば
かり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」を
いつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に
陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ
一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽
蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周
恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある
奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりする
が心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈
放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では
「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見
で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに
(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前
原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日
中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲
気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボール
は向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したこと
について、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよい
のか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国
関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだ
が、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から
「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直
(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、その
うちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラ
である。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはなら
ない。2010・10・22

2019年02月12日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園
田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長
のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の
11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53
歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日で
あった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の
始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された
「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25
号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見ら
れ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員
立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を
「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかっ
た。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日
本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して
推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目
を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された
熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記
念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しない
と言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたと
いう事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したの
である。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法
改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛
する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に
規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとする
ときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければなら
ない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、
総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、
「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出さ
れた。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日とな
る日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当
に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかっ
た事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策へ
の「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良
さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そ
うした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。

(文中敬称略)2008・2・10

2019年02月11日

◆安倍総理大臣「閣下」と

渡部 亮次郎


昔、映画に「拝啓天皇陛下様」というのがあった。極貧の家庭に育った青
年。徴兵された日本陸軍の衣食住が立派なので除隊になりたくない、と天
皇陛下に「おねがい」の手紙を書くという筋であった。

天皇陛下に対して陳情するのが可笑しいから笑える映画になったのだろう
が、陛下に様を付けるのも可笑しかった。無学を笑う話でもある。実際は
起こりえない話だろう。

ところがちゃんとした教育をうけた大人でも敬称のことを習う機会は無い
のが昨今のようだ。メイルで「安倍総理大臣殿」という公開質問状が来
た。総理大臣の殿とは失礼だとは思わぬご仁らしい。

そこで「大使ですら閣下なのに総理大臣に殿では失礼では無いですか」と
言ってあげたらだいぶ経ってから礼のメイルがあった。ご自分なりに調べ
て納得がいったらしい。

様とか殿以上の人に手紙を書くことの無いまま過ぎると、総理大臣に付け
る敬称など知らぬまま、或いは恥をかいていることを知らぬまま死ぬこと
になる。そういう私は、人生の畑違い、外務省で大臣秘書官をさせられて
あらためて知った。

大臣以上は「閣下」であり、大統領も閣下である。外交官では大使は閣
下、総領事は「殿」を用いる。フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』で「敬称」について書き込みがあったから引用、紹介する。

閣下(かっか)

身分や地位の高い人を敬って、その名の下に付けていう敬称。 貴族、大
統領や首相、大使などの高位の官職、軍の高官などに用いられ、またはそ
れ自体が独立した呼称として用いられる(例:大統領閣下)。

もともと勅任官(天皇からの被任命者)以上の者に用いた。現在では主に外
交儀礼として大臣や(他国の)将軍などの官名・職名につけられる。ま
た、英国など貴族制度のある国の場合は爵位の下に敬称としてつける。

閣下の敬称をつける際に、相手が博士の学位を有している場合は、官名、
名前の下に博士閣下と呼称することもある。「〜大統領●●博士閣下」


殿(どの)

主に書き言葉で用いられる。「様」などを使う場合のような特別な敬意を
示す必要は無いが、便宜上なんらかの敬称が必要な際に使われる。事務的
な連絡に用いられる敬語である。

公式な場合や組織内の文書のやり取りでは上下の区別なく用いられる。
私的な文書のやり取りでは目上の人には使われない。

役職に続けて用いることがある(例、部長殿)。ただし「○○部長殿」のよ
うに「名前+役職+殿」のように用いるのは役職名も敬称として用いること
から二重敬語とみなされ、使用には注意が必要である。

現在、「殿」は見下している印象を与えかねないため、事務的連絡でも
「様」を用いる動きが見られる。

様(さま)

相手を尊敬する意味で使用される。口頭でも文書でも使われ、どの場面で
も用いることに違和感が少ない敬称である。 ただし中国では「先生」で
ある。

文書では、基本的に「様」と「さま」は区別なく使われる。
「お客様」の意味合いとされる為、病院の患者の名札は「様」代わりに
「殿」を用いることが多い(ただし呼ぶ時は「さん」付け)。


各位(かくい)

複数の人に対する敬称。 相手が複数である場合に、相手の後ろに付けて
用いる(例、広報担当者各位、報道関係者各位)。 対象者を省略し単に
「各位」として使う場合も多い。

「各位殿」という表現は、二重敬語にあたるため間違いである。

氏(し)

肩書きを別にして紹介する時に使用し、一般に会話ではあまり使われず、
文書または報告や報道といった感情を伴わない場面で使う。また、古風に
は「うじ」とも読む(用法は同一)が、同様に一般には殆ど使われない。

御中(おんちゅう)

文書の宛先などで、相手が企業や官公庁、学校などの団体などの場合に用いる

貴下(きか)

同輩以下の者(主に男性)へ対する敬称。通常は文語体の書面上(手紙など)
で用いる

医師への手紙では「先生」の後に「御侍史(おんじし)」や「御机下(お
んきか)」をつけ「○○先生御侍史(御机下)」とすることが多い。

関取(せきとり)

大相撲で十両以上に位置する力士の敬称。「○○(四股名)関」としても使
用される。これに対し、幕下以下は「取的」とされ、さん付けで呼ばれる。


陛下(へいか)

天皇、皇帝、国王の敬称。君主、皇后に対して呼びかける語。またはそれ
自体が独立した呼称として用いられる(例:皇帝陛下)。

尊敬の対象を直接呼び掛けることを忌むことで敬意を示す敬称であり、
「玉座、高御座(たかみくら)の陛(階段)の下においでのお取り次ぎの
方にまで申し上げます」程度の意味。

日本では天皇、三宮(皇后、中宮など)、皇后、皇太后、太皇太后の敬
称。使用の規定は皇室典範にある。日本以外の王室の相当する地位にある
者への敬称としても用いられ、この場合は英語のYour/His/Her Majestyと
ほぼ互換。

殿下(でんか)

皇太子以下皇族の敬称。 王族、皇族の男性に用いられる。



2019年02月08日

◆「なめたらいかんぜよ」

                          渡部亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10

2019年02月05日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎


朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めてたべて美味しかった。しかし生を食べたのは大
人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。2012・11・06

2019年02月03日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎


高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」
を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ
深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートー
ヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌や
フォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風
物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメ
タナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響
詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にあ
る会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭の
オープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場
と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴け
ば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の
座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受
け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この
出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド
『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大
きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯
盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部
分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれている。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最
も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴ
ルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様
子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ち
が現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登
場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意
した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しにす
る、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風
景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族
的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名
である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描い
ている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられて
いるが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山
地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖
人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼らがよ
みがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という
内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich)
Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリト
ミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを
学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、あ
る貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストか
らの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち
1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終え
た。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であ
るといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』
は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを
多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品
中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな
影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開
催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィ
ルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発
売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14


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