2015年10月16日

◆「味の素」発明は108年前

渡部 亮次郎



「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。
<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れている。>世界大百科事典  

2015年10月10日

◆ジャガイモの不作

渡部 亮次郎



2009年、日本の夏は日照不足だったため、各地からジャガイモの不作が伝えられ、3割以上の値上がりが報じられている。この芋はすでに麦、トウモロコシ、コメについで世界4番目の「主食」の地位を確保している。

日本人が敗戦直後の食糧難に頼った芋はジャガイモではなく、薩摩芋だった。生産の都合でああなったのだろうか。いまでも薩摩芋は好物ではない。ジャガイモが好物だ。

ジャガイモは南米ペルー南部に位置するチチカカ湖の畔が発祥とされ、現在、世界中で広く普及するに至った。

国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計資料 (FAOSTAT)によると、2005年の全世界におけるジャガイモの生産量は3億2310万トンであり、主食となるイモ類では最も生産量が多い。

生産地域は大陸別ではアジアとヨーロッパが4割ずつを占め、インドを除くといずれも中緯度から高緯度北部に分布する。上位5カ国で全生産量の54%を占める。日本の生産量は275万トン(世界シェアはわずか0.85%)。

1.中国 7346万トン(22.7%)
2.ロシア 3728万トン(11.5%)
3.インド 2363万トン(7.3%)
4.ウクライナ 1946万トン(6.0%)
5.アメリカ合衆国 1909万トン(5.9%)
6.ドイツ 1162万トン(3.6%)
7.ポーランド 1037万トン(3.2%)
8.ベラルーシ 819万トン(2.5%)
9.オランダ 678万トン(2.1%)
10.フランス 668万トン(2.1%)

このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシだとされていたが、複数の研究の結果、食基盤はジャガイモであったことが分かった。

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っていない。

スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士達によってもたらされたものであろうと推測されている。

さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない。

いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが登場するのはさらに時を待たねばならない。

さらにジャガイモは18世紀にはアイルランド移民の手によりアメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源と
なった。

このように、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから鳥害にも影響されないジャガイモは庶民の食料として爆発的な普及を見せた。

アダム・スミスは『国富論』において「小麦の3倍の生産量がある」と評価しており、瞬く間に麦、米、トウモロコシに並ぶ「世界4大作物」としてその地位を確立した。

栽培にはpH6前後の酸性の土地が適している。また冷涼な気候や硬く痩せた土地にも強い。その反面、病害や虫の被害を受けやすく 連作障害も発生しやすい。

ジャガイモの地下茎は水分と栄養が豊富なため雑菌が繁殖しやすく、保存状態の悪い種芋や、収穫から漏れて地中へ残された芋は病害の原因となる。そのため、日本では植物防疫法の指定種苗となっており、種芋の売買が規制されている。

ジャガイモは連作障害が発生しやすい。連作を行うと土壌のバランスが崩れ単純に生育が悪くなるだけでなく、病害や寄生虫が発生しやすくなる。

特にジャガイモに大きな被害を与える原因として、ジャガイモシストセンチュウによる生育阻害がある。このセンチュウは地中で増殖し高密度になるとジャガイモの生育を大きく妨げる。

2015年10月05日

◆サッチャーは禁煙の恩人

渡部 亮次郎



イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret HildThatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう30年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」

マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - 2013年4月8日)

女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年―1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。尊敬する政治家は同国のウィンストン・チャーチル元首相である。

1979年の総選挙で、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導いた党首だったので女性として初めてイギリス首相に就任した。

新自由主義の立場に基づき、電話会社(1984年)やガス会社(1986年)、空港(1986年)、航空会社(1987年)、水道事業(1990年)などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。

また、改革の障害となっていた労働組合の影響力を取り除く政策を多く打ち出した。さらに、所得税は25%〜80%の11段階から、25%と40%の2段階へ、法人税は50%から35%へ、それぞれ段階的に大きく引き下げられた。

一方で、付加価値税(消費税)は、8%から15%まで大胆に引き上げられた(1979年)。

300万人を数えるまでとなる失業者はその後も1986年半ばまで減少に転じることはなかったため、小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じた。

その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンらはサッチャーの変節を攻撃したが、総じてイギリス国民には受け入れられ、総選挙で連勝を重ね、任期を延ばしていく。

だが、人頭税(community charge)の導入を巡って国民的な反対運動が起こり、最後は辞職に追い込まれた(1990年)。

この時期、日本においても、1982年に誕生した中曽根内閣によって、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。

この間1982年には、南大西洋のフォークランド諸島においてフォークランド戦争に勝った事により経済の低迷から支持低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りはしないのです!」と力強く宣言、支持率は驚異の73%を記録する。

彼女はこれで2度目の総選挙にも勝利し、より保守的でラディカルな経済改革を断行していく。

3回の総選挙で勝利したサッチャーであったが、任期の終盤では人頭税の導入により世論の反発を招き、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したことから、財界からも欧州統合に乗り遅れる危機感が出て与党内にも批判が広まっていた。

1990年11月20日の保守党党首選挙で、1回目の投票で過半数の票を獲得したものの、2位との得票差を15%以上にすることができず、規定により第2回投票に持ち込まれたことで、求心力の低下にさらに拍車がかかり、11月22日に辞任を表明した。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年10月03日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから79年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定はは、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2015年10月02日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎



河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日 - 昭和40(1965)年7月8日)は、昭和時代の政治家。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を「天皇」と呼んで対抗していた.

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長をつとめた河野洋平(引退)は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

終戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで河野を怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私が担当記者となる。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであった。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。

2015年10月01日

◆哀れ 唐人お吉

渡部 亮次郎



若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別され、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。 

2015年09月30日

◆トウ小平 3度の失脚と復活

渡部 亮次郎



ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(ケ)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたケ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、しかも外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 
(執筆:2007・06・22)再掲

2015年09月26日

◆青年の幼稚化

寺本 孝一



青年の幼稚化現象を非常に危惧しています。 

来日外国人は「日本の大学生の精神年齢は10才の小学生だ」と揶揄します。また、評論家でもある立花隆・東大客員教授は「東大生は驚くほど無知であり、驚くほど幼稚であることが判った」と著書で公表しました。さらに、名古屋大学学長は入学式に際し「諸君の内面に巣食っているであろうその幼稚性を精算せよ」と檄を飛ばしました。

大学という最高学府に通う学生がことごとく幼稚であるという深刻な状況です。

その原因として先ずは中学高校の教育現場を視なければなりません。甲子園高校野球の勝利監督が「子どもたちが頑張った」と答えたりしますが、選手たち或いは生徒たちと言うべきではないでしょうか。実際に、中学校現場でも多くの教師が 「子どもたち」などと表現しています。

中学生ともなればほとんど妊娠し、妊娠させる能力があり、身体はすでに大人となっています。中学を卒業して就職すれば一人の立派な社会人です。

高校に進学して4月から順次16才になる女子生徒は結婚することができます。男子も3年生で18才になれば結婚できます。結婚すれば世帯主として主婦として、子どもが生まれれば父親として母親として、あるいは夫婦として高校に通学することもあり得ます。

それらの年代の青年たちを何故に「子どもたち」などと言うことが出来るのでしょうか。

「所詮子どもは未熟なのだから、大人である教師の言うことに黙って従え」という、生徒を見下し従属させる管理上のご都合からきているようです。

日本の評論家はテレビ番組の中で通学監獄と表現しました。また、イギリスの新聞は報道しました「日本の学校は捕虜収容所だ」と。

カナダから愛知県に来ている大学教授は中日新聞に寄稿しました。「欧米の中学高校生であればとっくに革命を起こしている」と。

あるテレビ番組で愛知県教育長は横に座った塾講師から罵倒されました。
「子どもたちをロボットにしたあなたは犯罪者だ」と。

名古屋でのシンポジウムである母親は叫びました「教育詐欺だ」と。 私は愛知県教育委員会に直接言いました。「生徒たちの個性を殺し、感性を潰し、人格を破壊する。あなた方のやっていることは大量殺人行為だ」と。先方は即答しました、「あなたが言うことは全部その通りだ」と。

NHK総合テレビの教育特集番組でオーストラリアのある公立中学の唯一の校則を紹介していました。「すべての生徒は学校をエンジョイする権利がある」です。もちろん制服強制もありません。それでなぜいけないのでしょうか。大人にさせるには、生徒を先ず強制と禁止の檻から開放することです。

中学高校にいるのは、教師と生徒なのですから、教師は普通に「生徒たち」と言うべきであり、子ども呼ばわり、子ども扱いすることを直ちに止めていただきたい。

来年6月から選挙権が18歳になりますが、日本の近未来のあらゆること(経済・環境・食糧・エネルギー・中国の挑発)が危機的状況の中、国の将来を担う青年の幼稚化は極めて緊急な課題です。

          子どもの感性を育む会 代表 (名古屋市)

        

       

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎



手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)

2015年09月23日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎



今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。

2015年09月19日

◆大阪都島区毛馬の「蕪村公園」 

毛馬 一三
    


与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかという肝腎なことになると、ご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区の毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)の辺りの出だ。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表句・「春風や堤長うして家遠し」が直筆の文字で、この記念碑に刻んである。

もう一つの顕彰物は、「記念碑」の立つ毛馬閘門から流れる大川を南へ500mほど下がった所のコンクリート橋に、蕪村直筆で橋名を刻んだ「春風橋」だ。

ところが、かの有名な蕪村でありながら、「大阪人である蕪村」として顕彰するメモリアルは、大阪にはこの2件にすぎない。

これには蕪村自身の生き方にも関わりがありそうだ。蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋で生まれたが、幼くして両親と家を失って艱難辛苦、20歳の頃毛馬村を出奔して江戸に出ている。

江戸では早野巴人の弟子として俳諧を学び、師が没した26歳の時から芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。宝暦元年(1751)京に移って俳諧に勤しむ一方、南宋画家として池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には帰っていない。この毛馬村の情景を詠った「春風馬堤曲」という文がある。これは生まれ故郷を懐かしく想いながら、脳裡の中でその当時の毛馬の情景を想いながら綴ったものと考えられている。

このように大阪とはすっかり縁遠くなった蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承の文献も殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これが長い間、大阪で蕪村を顕彰する「資料館」さえ作られなかった理由だった。

しかし、10年頃前から俳諧趣味の会や都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的な顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。

そこで、大阪市「ゆとりとみどり振興局」が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を作りあげた。

もともと「蕪村公園」には、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てる計画だったが、この「東屋」が建つと、浮浪者の宿舎になる恐れがあったため、建設は断念された。このため「俳句講座」など開催する場所は、残念ながら出来なくなったことになる。

しかし公園内には大きな広場に「蕪村生涯歴史版」と「蕪村俳句石碑」、その周辺には蕪村の俳句や絵に因んだ花木の植栽をすすめている。そして大阪が輩出した蕪村に親しみを取戻し、また俳句愛好家にも集まってもらって、「俳句つくり」を楽しむ場所にしたいとしている。

「蕪村公園」は、その後順次見事に整備され、我々のNPO法人主宰の「蕪村顕彰俳句大學」が、兜カ學の森とも共同して、毎年開催の「蕪村顕彰俳句大会表彰式」で選ばれた「優秀句の記念プレート碑」を、今年9月18日にも11期目の「プレート碑」として建立し、除幕式をおこなった。記念樹建設も協力している。

同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の北端に位置し、「毛馬閘門」から市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点になっている。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点でもある。

いま諸文化混迷から抜け出そうと必死の大阪市が、同公園の整備をきっかけに、桜回廊と同じ華やかな大阪俳句文化の振興をしたら、大阪俳人の蕪村本人もご満足ではないだろうか。(了)

2015年09月12日

◆外交に役立つか日本酒

渡部 亮次郎


NHK記者から外務省報道官を勤めた高島肇久(あつひさ)さんが,外務省OB会の機関誌「霞関会会報」平成18年4月号に寄せた「日本酒の味」によると、先ごろ、ホノルルのホテルで地元の人たち70人を招いての日本酒の会が開かれ大好評を得たという。

この会は日本にある「日本の酒と食の文化を守る会」の会員のうち20人が蔵元8社の協力を得て開いたもので、日本から吟醸酒や純米酒を持ち込み、地元産の鮪、鯛の刺身と見事に調和して瞬く間にたいらげられたそうだ。

高島さんによると、世界各地で日本食ファンが増えるにつれて日本酒の輸出量も「急速に」に伸び、「米国で日本酒ブーム」といった新聞記事を目にするようになっているとか。

そこで高島さんは「日本酒は米と米麹と水で作るもの。世界のどの酒とも違う日本の文化そのものだから、日本外交の現場でもっと活用されて欲しい」とむすんでいる。大使館や総領事館でもっと日本酒でもてなせということだろう。

ずいぶん前、産経新聞読書欄を読んでいたら「うまい日本酒はどこにある?」と言う本(草思社)の著者インタビューに日本酒の現状が載っていた。そこでは国税庁に依ると清酒(日本酒)の消費量は1973年をピークに減り続け、2002年にはとうとう90万キロリットルの大台を割り、全盛期の半分近くまで激減。

酒造免許を持つメーカーは2002年3月で2,360蔵あったが、実際に造っているのは1,500から1,700蔵という(その後もっと減っているに違いない)。

小売の酒屋さんに至っては規制緩和の影響もあって悲惨。1998年以降5年間で転廃業又は倒産24,039軒、失跡者2、547人、自殺者58人(全国小売酒販組合中央会調べ)。

一体、日本人の味覚はコメ、味噌、醤油からできていた。バターやチーズは皆無だった。ケチャップも無かったし、戦争中はカレー粉すら途切れた。

昭和30年(1955年)ごろから、食事の洋風化が始まった。経済白書が「戦後」が終わったと宣言した。コマーシャルが「蛋白質が足りないよ」と日本食を貶した。

肉、バター、チーズの食卓への進出が始まった。ケチャップが調味料として登場した。ステーキに合う酒は日本酒ではなくワイン。シチューにも日本酒は合わない。

先にあげた国税庁の調べで日本酒の消費量の減少が1973年から始まったとなっているが、思い起こせばこのころは田中角栄内閣。政治担当記者で日本酒を好む者は少数派になっていた。

ついでに書けば、いわゆる60年安保騒動のあと成立した池田勇人内閣の時は、池田邸の総理番記者待機小屋に時折、差し入れられるのは酸っぱくなりかけた日本酒だった。

思えば1960年代には記者たちも日本酒を呑んでいたのである。しかし東京オリンピックの頃から日本人の舌は次第に西洋化し、日本酒から遠ざかったのである。

70年代に入ってから仕事でよく海外に旅をするようになったが、そのころからアメリカ人が寿司を食べるようになった。日本人が世界一長命になったが、その理由は生魚を醤油で食べることにある、反対にアメリカ人に肥満と心臓病が多いのはバターやチーズの食べすぎにある、と大統領が発言したりしたためだ。

あの入れ歯を壊すほど固いテキサスのステーキも醤油を掛ければ何とか食べられるのに、と感じていたら、程なく日本のメーカーがアメリカで醤油や日本酒の現地生産を開始し、今や大変な勢いで醤油が普及し、パリなどヨーロッパでも優れた調味料として普及しているらしい。

アメリカ人の味覚には疑問があるが、パリで醤油が評価されているとなるとこれは本物だという気がする。このことは秋田県角館(かくのだて)で老舗の醸造業を営む安藤恭子(としこ)さんに聞いた話である。安藤さんに依ると日本でも最近、醤油や味噌を買って行く若い人が増えているそうだ。

一方、河北新報(仙台市)に依ると<近年の学校給食は成長に不可欠な栄養素の多い和食が見直され、煮物や魚料理の登場回数がふえている。しかし「家庭の食事は洋食中心」(仙台市教育委員会)のためか、和食ほど残食(食べ残し)が増え勝ちだ>そうだ。(2004年11月2日付)

味噌、醤油を買って行く若者はいわゆる共働きの家庭育ちではない、と言う指摘がある。成るほど東京で夕方、弁当屋を覘くと、仕事帰りの主婦らしい人が、洋風弁当を3つも4つも買って帰る風景を見る。

あれで一家の夕食を済ますのであれば、お父さんはビールかウイスキーか焼酎しか呑まない。ゆっくり日本酒で晩酌と参るには程遠いだろう。

「太平山」の5代目はアメリカ留学も体験したコンピュータの専門家でもある。その体験からして、日本では女性の社会的進出が今後増えることはあっても減ることはあり得ない、とすれば大人の舌が日本酒を欲しがることは益々少なくなるだろうと、結論付けたのかもしれない。「これからは中国に進出する」と言っていた。

そういえばフランスではワインの消費量が減っていて、その分を日本など海外への輸出で補っているのだそうだ。人類の味覚もまたボーダーレス化しているのだとなると日本酒の将来は日本には無い。むしろ醤油の普及に追随してアメリカ、フランスなどのヨーロッパ或いは中国などにあるということかもしれない。(了)

2015年09月09日

◆自衛隊の不条理な現状を直視せよ

櫻井よしこ


責任ある政治家は安全保障法制に関する机上の空論をやめて、日本を取り巻く情勢の厳しさに目を開くべきだ。

 9月3日、戦勝70周年記念の軍事パレードで中国が誇った数々の攻撃用弾道核ミサイルを見たか。人民服に身を包んだ習近平国家主席の演説も式典も「日本軍 国主義」打倒の抗日要素で色濃く染まり反日戦略の継続を予想させた。

アジア諸国は軍事力拡大路線の中国を恐れる一方、平和安全法制成立を目指す日本に70〜80%台の支持を寄せている。だが、わが国の国会議論にそうしたア ジアの声はほとんど反映されていない。

それどころか、「戦争法案」(社民党、福島瑞穂氏)、「法案を通すために中国脅威論をあおっている」(共産党、井上哲士氏)などと根拠のないレッテル 貼りが目につく。国民の理解が進んでいないと論難するが、的外れな彼らの主張が国 民の理解を妨げる大きな要因ではないのか。

現在の法制度がどれほど異常で、通常の国ではあり得ない不条理な負担を自衛隊員に強いているかを私たちは知っておくべきだ。その異常を普通の民主主義 の国のルールに近づけるのが、今回の平和安全法制である。

南スーダンに派遣されている350人の自衛隊員は宿営地に隣接する国連 事務所との緊密な関係の中でPKO(国連平和維持活動)に励んでいる。攻撃されても 彼らは自らを防護できる。しかし、隣接する国連事務所が襲撃された場合、国連から 正式に救援要請があっても国連職員やNGO(非政府組織)職員を守ることはできな い。その中に日本国民がいても救えない。

難民救援は国際社会の重大な責務だが、自衛隊はそれもできない。難民だけでなく、日本の大使館員や邦人が襲われても助けられない。

私たちは自衛隊が難民を見殺しにし、危機にある同胞に背を向けることなど是としない。しかし、現行法では自衛隊は助けたいと思っても、そうすることを 許されない。そのジレンマに自衛隊はどう対処しているのか。

元防衛相の小野寺五典氏が平成14年の事案を語った。東ティモールで、現地の邦人から救援要請があったとき、自衛隊員は自己責任と視察名目で現地に赴い た。

武装集団の攻撃という最悪の場合、自分たちが攻撃されること、反撃はその後で しかできないことを覚悟して救出に向かった。

このように現行法は自らの犠牲を前提にした行動に、自衛隊員を押しやる可能性がある。平和安全法制で自衛隊員のリスクが高まるとの批判があるが、それ は真逆なのである。

難民、邦人の救助にしても、まず自衛隊員の身を危険にさらすこ とを前提にするような現行法制はあってはならず、一日も早く安保法制を整えて、駆 け付け警護を可能にしなければならない。

               ◇

集団的自衛権の限定的行使は徴兵制につながる、あるいは憲法違反だと非難する政治家は、往々にして憲法学者や元最高裁長官らも違憲だと言っていると主 張する。彼らは慶応義塾大学名誉教授、小林節氏の6月22日、衆院特別委員会におけ る陳述を聴いただろうか。氏はこう語った。

「われわれは大学で伸び伸びと育ててもらっている人間で利害は知らない。条文の客観的意味について神学論争を言い伝える立場にいる。字面に拘泥するの がわれわれの仕事で、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、そちらが調整して ほしい。われわれに決定権があるとはさらさら思わない」

学者とは別に、政治は国際社会の現実に基づいて国益を考えよというわけだ。この点で氏の主張は正しい。

安保法制反対の野党政治家は学者の違憲論から離れて、現行法制で本当に日本国民と日本国を守り通せるかを論ずべきであろう。集団的自衛権の行使なしに は日米同盟が機能停止する危険性もある。事は深刻だ。安保法制には後方支援をより 機能的にする改正が盛りこまれているが、後方支援ができなかった21年前、米国が日 本に激しく詰めよった。元統合幕僚会議議長の西元徹也氏の述懐だ。

1994年3月、防衛庁で朝鮮半島有事に関する日米政軍セミナーが開かれた。金正日の挑発的な姿勢とIAEA(国際原子力機関)からの脱退などで緊迫する朝鮮 半島情勢への対処が主題だった。

米軍が自衛隊に後方支援を要請し、詳細な時系列展開計画を提出した。だが日本には後方支援を想定した法律もなく断らざるを得なかった。氏は「これは日 本の防衛そのものだ。なぜできないのか」という米側の激しい怒りと、何もできない 日本側の口惜しさを鮮明に覚えている。

 この苦い経験は99年の「周辺事態安全確保法」につながった。しかし、同法は「武力行使との一体化」という日本独特の憲法解釈を適用され、非戦闘地域の 「後方地域支援」「後方地域捜索救助活動」に分けられ、厳しい制限を課されたまま 今日に至る。

現在、米軍への物品、役務の提供は日本領域のみで許されており、その都度、日本領域に引き返さなければならない。それをその場で可能にするのが、今回 の法制である。

米軍への効率的な補給とスムーズな日米連携は有事発生を予防し、有事の早期収拾にもつながる。まさに戦争をおこすのではなく、抑止し、おさめるための 改正である。

国際社会の全ての国が行使する集団的自衛権を全く認めない場合、日本は個別的自衛権で、つまり単独で全ての防衛を担えるのか。安保法制に反対する人々 は、この問いに答えられるだろうか。
産経ニュース【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】 2015.9.7