2015年09月08日

◆秋田料理「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎



新米の獲れる頃、コメどころ秋田県でも大館(おおだて)など県北では盛んに「きりたんぽ」が造られる。秋田市の料亭でも何万本と造られ、全国に発送される。

昭和33(1958)年、記者生活を初めて大館で始めた私は年末の忘年会に連日招待された。市長、警察署長、商工会議所と連日の招待だが、狭い町のこと、料亭は1箇所。新米シーズン、しかも「本場」だから連日.供されるものは「きりたんぽ鍋」。

あの時はまだ゛22才。悪いけれどすっかり「きりたんぽ怖い」になって、残念ながら今日に至っている。秋田へ行っても駅や空港の土産店で買ってはいけません。防腐剤が入っているから美味しくありません。知人に聞いてしかるべきルートで求めるべきです。

きりたんぽ(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

きりたんぽ(切蒲英)とは、つぶした粳米のご飯を竹輪のように杉の棒に巻き付けて焼き、棒から外して食べやすく切った食品。秋田県の郷土料理。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いたりして食べる。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。

たんぽは、切る前の段階でのきりたんぽのことを指している。ただし、ほとんどの人がこれを「きりたんぽ」であると考えるが、切っていないので厳密には誤りである。

「たんぽ」とは、元来、稽古用の槍につける綿を丸めて布で包んだものであり、杉(秋田杉)の棒に半殺し(半分潰すという意味)のご飯を巻き付けたところがたんぽをつけた槍(たんぽ槍)に似ていることから、その名が付いた。

きりたんぽ鍋

鶏(比内地鶏)のガラでとっただし汁をベースにこいくち醤油、酒と砂糖(または味醂)で醤油ベースのスープを作る。煮えにくい順にゴボウ、マイタケ(金茸、銀茸)、比内地鶏を並べ中火で煮立てる。きりたんぽとネギを入れ、味が染みる直前でセリを投入する。セリに火が通ったら完成。

比内地鶏が品種開発される以前は、だし汁には比内鶏のものを用いていた。比内地鶏が手に入らない場合はブロイラーのトリガラ、もも肉、鳥皮、ネクタイ(首の肉)で代用すると良い味が出る。

基本的に鶏ベースのキリっとした醤油スープ。具材については邪道とされるものがいくつかあり甘味と水分が多く出る白菜、風味が変わってしまう魚肉(竹輪などの練りもの)、匂いが変わるニンジン、風味が変わるシイタケは入れない。

基本はゴボウ、鶏肉、マイタケ、ネギ、たんぽ、セリの6種である。

起源 きりたんぽ鍋は家庭料理であることから、鍋に入れる鶏肉に本来は決まりはない。比内地鶏が使われるようになった契機は、比内地鶏の産地である大館市の企業が、煮込んでも硬くなりすぎず鍋物に最適なことに注目してセットで売り出し、成功したことである。

その後、県北部の鹿角市が発祥、大館市が本場として定着し、秋田県の郷土料理として広く親しまれるようになった。これに対し県南部、つまり由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺では、北部ほどなじみがあるわけではない。県南部はむしろ、山形県や宮城県などで広く行われている芋煮会(いもにかい)が盛んである。

また、秋田県北部に住むマタギの料理が起源だったとの説もある。これは、マタギが山から帰った際、残した飯を潰して棒につけて焼き、獲物のヤマドリや山菜、キノコとともに煮たり味噌をつけて食べたりしていたことを理由とする説である。

しかし、当の阿仁町(現・北秋田市)のマタギ(熊狩り)は、マタギ料理源説を明確に否定している。曰く、「冬に米が食える身分なら(わざわざ危険を冒して)冬山に登らない。

マタギにとっての狩りとは米を食えない身分が生存権獲得のために行うギリギリの(山神から食を賜る)宗教行為なのであって、おにぎり片手に行うハンティングではない」。つまり、当時最高の贅沢であった米の料理法の一種であるきりたんぽはマタギの生業と矛盾している、というのがその理由である。

2015年09月01日

◆3度目は自発的失脚

渡部 亮次郎

トウ(ケ)小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「ケ(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」

2015年08月29日

◆「天津大爆発に謀略論」が蔓延

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)8月28日(金曜日)弐
  通算第4638号 >   

〜天津大爆発に謀略論」が蔓延するのは情報公開がないため
  ロシア化学者の見解は「ミニ版チェルノブイリ級」〜


天津大爆発で危険物取り扱い倉庫にはシアン化ナトリウム・硝酸アンモニウム・硝酸カリウム・炭化カルシウムなどが貯蔵されていた。

爆発の威力は地震計測指数でマグニチュード3と出たが、これはチェルノブイリ級だとロシアの科学者らが言う。

「ロシア化学者組合」のヴィクトル・イワノフ理事長は『プラウダ』の取材に対して、「これらの物質はプラスチックをつくる素材であり、それ自体では爆発することはない」

したがって「発表されていない何かほかの危険物質が混じって貯蔵されていたに違いない」と発言している(同紙英語版、8月18日)。

「また中国で抗議活動は厳密に規制されているのに、爆発直後から遺族等の抗議行動に警察は黙認したことも解せない。おそらく現地では高官の腐敗、権力と業者の癒着による人為的事故という見方が拡がっているのだろ
う」。

「しかし汚職、腐敗、権力との癒着、高官等のネポティズム(縁故主義)は中国伝統のものであり、常態ではないのか」と突き放しながら、他方でロシア専門家らは、「多くの疑問に一切の回答がないために、謀略論が蔓延するのも事実だが、付近の河川が汚染され大量の魚介類が死んだ報告はあっても、まだ住民の集団避難がおきていない点をみると、この爆発は『チェルノブイリの小型版』といえる」とプラウダは報じた。 
 

◆アマデウスとは誰

渡部 亮次郎



東京・国立(くにたち)に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。30年近く前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが「名前」だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

オペラ:後宮からの誘拐、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛

宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム

交響曲:第25番、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』

セレナード:アイネ・クライネ・ナハトムジーク

ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番

管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲

弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、弦楽五重奏曲:第3番、第4番

その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』

断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。

晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。

人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。

交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。

彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。

従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。

モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのはふたりがおかれていた社会的状況の差であると言える。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。

この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。

遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。

鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。

これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。

検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(出典:ウイキペディア)

2015年08月27日

◆総理談話と安保について

平井 修一



1990年代にネット言論が普及するまで、言論界は左翼が牛耳っていた。言論は商品であり、言論人は媒体を持っている左翼に言論を買ってもらっていた。だからタニマチの左翼に逆らう言論はごく少数派だった。

ネット言論はほとんどが無償だ。カネで左右されない。言論は本来的に拡散されたいという願望を埋め込まれているが、(建前はともかくも)著作権の縛りがないために、いい論考は拡散される。

多くのマスコミ(テレビ、新聞)は未だにアカが主導しているから、彼らの中共寄りの主張に沿わない言論は絶対に報道されない。ネット言論は百花斉放、百家争鳴で、左右のいろいろな内外の言論を知り、真実に迫ることができる。

嘘を書けば「炎上」するから、これがブレーキになっており、ネット言論はそれなりに、赤いマスコミよりはマトモである。朝日、毎日、東京・中日、沖縄タイムス、琉球新報が狂気的凶器、暗愚的狂気であるのならば、ネット言論は遥かに良識的正論に近い。

前書きが長すぎた。「細川珠生【総理談話「『謝罪』次世代に背負わせない」を評価】ジャーナリスト櫻井よしこ氏に聞く」(Japan In-depth8/18)から。

――今日(8/15)は「これからの日本の進むべき道」というテーマで、2週に亘り櫻井さんにお話を伺います。戦後からもう70年経って、終戦の貧しさとか大変さが嘘のような日本になりましたけれども、終戦記念日を迎え、改めてこれからの日本を考えてみたいなと思ってるんですね。櫻井さんも私も戦後世代ということで。

櫻井 私も一応そうですね。(平井:1945/昭和20年10月26日、ハノイの野戦病院にて出生)

――終戦のときの出来事であるとか、戦争の思い出は当然ないんですけれども、何かご両親からお聞きになって、戦争の話とか戦後の話で記憶に残ってらっしゃることはありますか。

櫻井 私のところはですね、母も父も、意外に戦争のことについてはたくさん話してくれたんですね。で、今日この番組の終了のあと、私、靖国神社に参拝に行くんですけれども、母方の伯父が一人、父方の叔父が一人、満洲で亡くなっているんです。おじいちゃん、祖父がですね、自分の亡くなった、戦死した子供のことを私によく話してくれました。

もちろん私はこの叔父たちには会っていないんですけれども、こういう方たちが戦ったんだなと、本当に一生懸命、ふるさとや国のために、家族のために戦って若い命を落としたわけですね。その叔父たちだけではなく幾百万の方たちがそういう風になくなったということは忘れてはいけない。

今珠生さんがね、とっても豊かな、平和な日本が築かれたと、仰いました。そのとおりなんですよね。でもその人たちが頑張ってくれたおかげで、今があるっていうのは、別に父母がそう言ったわけじゃないんですが、両親の話を聞きながらね、自然にそういう風に思うようになりました。

――それ、一番大事なところなのかなと思うんですけれども。

櫻井 今それがね、忘れられているというか、あまり思い出してもらえない。しかも、靖国神社に参拝することはね、右翼とか、軍国主義に通じるようなことだというふうに、非難する向きがありますけれども、これこそ、世界に向かってこんなことを言えば非常識だと言われます。おかしい。

日本のおかしいところをやはり、私たちは自覚をして、おかしかったらそれは改めていかなきゃいけないって、本当に思いますね。

――私も戦争体験はないんですが、私の父の細川隆一郎(平井:毎日新聞社記者・政治部長・編集局次長・東京本社編集局顧問など)は、戦時中に新聞社に入って、すぐ翌月に、もう入営したということで。

戦地に行きまして、新聞記者でしたから通信部隊だったんですけれども、ただ生きているときは、戦争の話をほとんど私にしてくれませんでしたが、ただ大本営発表の嘘とか非常にそういうことに憤慨をして、やはりその権力の暴走というのは止めなくてはいけない、国が判断を見誤ると、国民が本当に犠牲になってしまう。

そのことが、やはりジャーナリスト活動の原点だったような気がするので、私も常にその父の原点というのを思い出しながら、今これから、自分の人生というのを生きていかなきゃいけないなというのを感じるんです。

そういう意味ではですね、戦後70年、だんだん語り継がれなくなってきたということは大きな問題だと思うんですが、ここで、安倍総理が、昨日、70年の談話というのをだしました。

この談話についても、いろんな人がいろんなリクエストを出して、それそもそも談話を出す必要があるのかどうかということもあったと思うんですが、そのなかで、閣議決定をする談話を総理が出された、これについては、櫻井さんはどういうふうにお考えですか。

櫻井 談話が出される前ね、今細川さんが仰ったように、いろんな人がいろんなことを言って、この言葉を入れるべきだとか、いや入れたらだめだとか、言ってましたね。村山談話・小泉談話はですね、そういったものってなかったんですよね。村山さんはいきなり出しましたし、小泉さんも周りと相談した形跡って、聞かないんですね。

けれど、安倍さんの談話に対しては、本当に沢山の注文がついた。そのために、21世紀懇談会有識者の会まで設けたりしましたね。本当に、安倍さんらしいものが出せないのであるならば、私はむしろ出さないのが一つの手だと思ったくらい、外野の席の声が大きかったですね。

で、昨日出されまして、じっくりと記者会見も聞きました。談話の文章そのものも読み込みました。終わってみればですね、談話、非常に良い内容だったし、出して良かったのかなと。

当初は安倍さんも、閣議決定はしないつもりでいらしたとうかがっていますけれども、これを閣議決定したわけですね。で、閣議決定したということは、政府がこれを正式に認めて出しますということですので、この内容であるならば、私はむしろ閣議決定をして良かったのではないかというふうに思いましたね。

――私も、少し長かったんですけれども、いろんな人のリクエストというか、思いを受け止めながら、安倍さんご自身が自分の言葉で作られた文章というのが、良かったなと思うんですね。

先程櫻井さん仰ったように、いろんな人の犠牲とか命の上に今の日本があるということを忘れてはいけない。胸に刻んでいくとか、思いに致すとか、そういう言葉が繰り返し繰り返し出てきた、そこにそういうことが現れているような気がするんですね。

櫻井 そうですね。日本が戦争をして、その舞台となったアジアの国々、オーストラリアも他の国々も初めですね、そこで被害に遭った人たちに対する、痛切な思いっていうのは本当に繰り返し繰り返し十分に表現したと思いますね。

それからもう一つ戦後の日本が、敗戦国として、国際社会に復帰するのに、かつては熾烈な戦いを演じた相手、アメリカとかオーストラリアとかですね、アジアの国々に対しても、非常にその、きちんとした姿勢で、援助の手を差し伸べてくれたことに対する感謝の気持ちを表明していますよね。

この中に入っていない国が、中国とロシアですよ。これは中国とロシアに対する間接的なメッセージだというふうに思いますね。

そういったことに加えて、すごく良かったと思うのは、今人口の8割以上が戦後生まれですよ、戦争を体験したことのない、全く関係のない子供達に、未来永劫、謝らせるようなことはしたくないと、ここで謝罪は終わりですよと、今まで誰も言わなかったことをきちんと仰ったことはすごく良かったですね。

――そうですね。50年談話が出されたとき、私は27歳だったんですけれども、まだ謝るのかなと思ったんです。そして60年でまた謝って、で、いつまで謝るんだろうというのが、ずっと私は心配だったんですね。私ももちろんだし、これからのあとの世代のことを考えると、そういう意味で今回本当に心に響いたのが、この一文でした。

櫻井 やはり珠生さんもそう? やっぱり多くの人がね、他の人にも聞いてみましたけれども、一番印象に残ったのがそこだったという方が多かったですね。

私つい最近、シンガポールでの国際シンポジウムに出たんですけれども、そこでもアメリカの人とか、インドの人とか、それから現地の方からもですね、「70年前のことを、まだずっと謝りなさいという、中国と韓国はおかしい」と、中国と韓国という二つの国を名指しした非難が、国際シンポジウムの場で、繰り返し出てきました。

ですからやはり、反省することは大事だけれども、70年経った今、まだまだ謝れ、まだまだ謝れ、韓国は「1000年経っても恨みは消えない」と言っているわけですが、そのような考え方自体がやっぱりおかしいのであるというのが、国際社会の見方だということを私達は知っておくべきです。

安倍総理の談話は、そこをきちんと見て、「子供たちの謝罪は、なしにしましょうね」とはっきり線を引いてくださったことは、本当に良かったと思いますね。

――それに、国際社会がそう見ている中で、また謝ると、日本の信頼が損なわれてしまう。

櫻井 あまりにも自己を卑下する人は、他の人に認めてもらえないし、尊敬もしてもらえない、ということですね。本当に良いことだったということです。

――そういう意味では、この70年談話、いろいろ心配しましたが、閣議決定をしたこと、それから、内容についても、出して良かったものっていうふうに、私たちは考えていた方がいいということですね。

櫻井 終わってみたらバランスのとれた、前向きの立派な談話だったと思いますよ。

――戦後70年の今日、先の大戦に何を考え、何を思うのか、一人一人の日本人が問われていると思います。

「細川珠生【膨張する中国の脅威から日本を護れ】ジャーナリスト櫻井よしこ氏に聞く 2」(同8/24)から。

――終戦記念日が来て一つの区切りがつき、やはりこれからの日本を真剣に考えていかなくてはならない。櫻井さんは常々、「今日本は岐路に立たされている」と仰っていますが、この「進むべき道」ということをもう少し掘り下げて考えますと、やはり、きちんとした独立国になるということが、日本に今問われていることだと思うんですね。

その一つがこの安保法制をきちんと成立させる、これが大きな一歩になると思いますが、今、国会のやりとりというよりは、国民世論の中で反対の声が大きくなっていることに、私は大変危惧を抱いています。櫻井さんはどうお考えになりますか。

櫻井 確かに、国民の皆さん、統計をとれば、世論調査をすれば反対という人の方が多いですよね。国会の周りには10代の方も含めて、若い人たちが戦争法案反対と言って、デモをしてらっしゃる。みんなやはり、心配してるんだと思いますね。

「この法案を通したら、本当に日本は戦争をする国になるんじゃないか」。新聞によっては「殺し殺される国へ」とかですね、書きますけれども、よくよくしっかり見ればですね、私は、新聞の書いている「戦争法案」とか、「殺し殺される国へ」とか、「侵略する国になる」というのは、もっとひどいところは「徴兵制が実現される」って書くところもありますが、これみんな間違いだと思います。

安保法案を読んでみれば、どこにそんなことをする隙間があるのかと思いますね。これはあの、集団的自衛権、日本を除く世界のすべての国々が権利を認められていて、権利を行使しているのが今の世の中。日本だけが、自らの手足を縛って、日本は行使しませんと言っているわけですね。

安倍政権は本当に少しですよ。いろんな条件をつけて、「このような場合に限って、このような場合に限って、その上にこのような条件をつけて」というふうに、本当に厳しい条件をつけて、部分的に、集団的自衛権を行使しましょうと、それを可能にするための安保法制ですよと、やっているわけです。

日本がこれだけ、ちょっと緩めたからといって、戦争をする国になるということは有り得ない。徴兵制も有り得ない。そういうことを言う人達は、やっぱりきちんとその根拠を示して、若い人達にもその根拠を教えるべきだと思うんです。

今の若い人達はすごく一生懸命に、真面目にデモをしてらっしゃる。私はその姿を見てですね、自分が20歳だったときのこととか、18歳だった時の頃と比べても、今の若い人達、本当に、熱心だし、私は自分の若い頃の方がいかにも、ノンポリで恥ずかしいですよ。

だけどもそういった真面目な、若人達に対して、きちんとした情報を提供するのがマスコミの責務だと思うんですが、それをしていないですね。その意味において、固有の名詞を言うわけではありませんが、朝日新聞とかですね、東京・中日というのは、本当にバランスを欠いた、歪んだ情報を出している。

これが、若い人達をいたずらに不安に駆り立てている。間違っていると思います、今のメディアの伝え方が。

――正しい情報が得られないで、若い人達が、なんとなくそうなるのではないかという、感覚的なことや、印象論で反対しているというのが多いと思うんです。

実際には、例えば中国が、日中の境界線にあるガス田でプラットフォームを作っている。そういう脅威が具体的にあるという中で、安保法制がやるべきことの一つだろうというふうに思います。やはり中国の動きだけではないけれども、日本を取り巻く国際情勢の中で起きていることに対して、きちんと対応を取ることが、今安倍政権が求められている、と考えた方がいいわけですよね。

櫻井 そのとおりだと思いますね。国というものがどういった要素によって支えられているのかというと、まず経済力がないといけませんよね、そしてもう一つ、軍事力がないといけませんよね。どの国も経済と軍事という、この車の両輪に支えられて、その上に政治が成り立ち、外交が成り立っているんですね。

日本はこの軍事という意味においては、本当に、実力があるかもしれませんけれども、法律的にこれを使うことができないようにしているわけで、それを今回少し緩めるというのは、今珠生さんがおっしゃったように、日本の周りの安全保障の環境がガラっと変わっちゃったわけでしょ、だって今までは、アメリカがとにかく守ってくれるという体制があった。

ところがそのアメリカが、2年ほど前からですね、「もう僕たちは世界の警察官じゃないんだよ」と、「だからみんな一人ひとり自分でやってよ」という風に、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない」という演説をしましたよね。「軍事介入はしない」という演説をしたわけですね。

そしてそれを見た中国、そしてロシアが、アメリカが出てこないんであるならば我々にとって好都合だと、力による実行支配を強めていこうというので、このオバマ演説の半年後に起きたのが、クリミア半島の併合ですよね。

ちょうどその頃から、南シナ海で中国が闇雲に、島の埋め立てを始めたわけですね。最初は、平和利用だとか、漁民のためとか、そしてアメリカに対しても、埋め立てた島を一緒に使いましょうなどと言っていたのが、ある程度埋め立てが終わってしまって、逆立ちしてもアメリカが止めることができないという時になったら、軍事使用も有り得ると、言い始めたわけですね。

ちょうど同じ頃から、東シナ海の、さっき珠生さんが仰った、日中の中間線の、中国側ですけれども、ちょっと中国側に入ったところで、12もの新しいプラットフォームを作って、昔のものも合わせると16になったんですね。これは、軍事転用された場合は、日本にとっては大変な脅威になるんですね。

だからそのことを考えるとですね、中国は尖閣諸島も取りに来ていますし、沖縄も、中国の領土だとも、そういった論文がどんどん出ていますね。

そのようなことも考えると、アメリカが後ろ向きになり、中国がどんどん膨張し始めている、そのなかで、日本国を、そして日本国民をどう守るのかということになると、経済力だけではダメですから、ある程度力を使えるようにしておかなければならない。

ただこの使い方は、さっきから繰り返し言いますけれども、「侵略」なんてことは絶対にできないようになっている。危ないことが起きた時に日本を守るという意味の抑止力を作るという意味で、安倍さんはなさっているんだと思います。このような状況のなかで、安保法制を変えようとしない内閣がいるとしたら、それこそ無責任だと思いますよ。

――そうですね。安保法制もそうですが、中国の問題も、それからクリミア半島併合したロシアも、北方領土への実効支配もどんどん強めて、韓国も竹島での実効支配を強めています。

戦後70年経って、いろんなことが落ち着いたかのように、談話も発表されてですね、謝罪というのが一つの区切りもついて、良かったなと思う一方、でも日本は実は、意外にというか、気がつかないうちに、どんどん“侵略的”なことをされている。

平和で70年来ましたけれども、そういうことに無関心でいた日本国民というのは、やっぱり行き着くところは、憲法の、過剰なまでの平和主義といいますが、そういったものが、大きく影響しているんだと思うんですね。

櫻井 戦後の価値観を、憲法に書かれている価値観を、もっともわかりやすく体現している人は、誰かと考えたら、鳩山由紀夫さんだと思うんです。韓国に行って、土下座をした。新聞が写真を載せましたけれども、あの方はこちらが謝り、こちらが平和的な態度をとれば何でも解決するという風に考えてらっしゃる。善意でああいうことをなさったと思うんですね。

でもああいうことをなさっても、じゃあ韓国がどういうふうに譲ってくれるかということは、ないわけですよね。で、岡田克也さんも韓国に行って、二重外交した。先週は、安倍談話について、なぜ自分の言葉として、自身の思いとして「侵略」とか「反省」とかを安倍総理が言わなかったのかと言いました。その路線を辿って行くとこれも、鳩山さんの土下座に行き着くと思うんです。

今私たちは、民主党、鳩山さんは元民主党ですけれども、民主党路線の、土下座をする方向にいくのか、それとも積極的平和外交でそれなりの役割を果たしながら、日本としての立場を守っていくのかの、この2つの選択だと思います。どっちを選ぶかと言われたら、答えは明らかです。

――そうですね。それがまさに、岐路っていうことになるんですけれども、謝るだけでもだめだし、きちんと国としての体制を整える、そういうことが、今日本が求められている、日本の国内ももちろん、国際社会でもそう。

戦後70年を迎え、これからの子供達が生きていく社会は、そういうことを意識して、彼らのためにもそういう社会を今作ってあげる、大人たちが意識していかなければならないですね。

櫻井 まったく同感です>(以上)

国会周辺で騒いでいる若造は民青や過激派の類、中共の走狗だ。中共こければ皆こける。

蛇足ながら細川珠生氏は肥後細川家と遠い親戚関係に当たるそうだ。戦前、戦争を煽りに煽った朝日新聞をリードした細川隆元は、戦後の朝日をGHQ礼賛、共産主義(ソ連)信奉へと転向させたが(昔陸軍、今総評。朝日は強い者にすり寄ってきたわけだ)、珠生氏の父君、隆一郎氏は細川隆元の甥っ子だ。

細川護熙は朝日の記者だったが、肥後細川家はジャーナリストの血が流れているのかもしれない。玉石混交だろうが、珠生氏は文字通り「玉」だ。奮闘を期待したい。(2015/8/25)

2015年08月24日

◆フランス人も犬食った

渡部 亮次郎



犬食文化(けんしょくぶんか)は、中国や朝鮮半島のような古くからの農耕社会、或いはアジアやオセアニア島嶼域の様な農村的社会が支配的な地域に認められる。

一方、犬食が忌まれる地域は、牧畜社会、遊牧社会、狩猟採集社会の支配的な地域(ヨーロッパ)と食用動物に関する宗教上の禁忌が存在する西アジア地域がある。

犬肉料理としては、韓国料理のポシンタン等が有名だが、犬食の歴史は古く、中国大陸をはじめとする広い地域で犬を食用とする習慣があった。

習慣は日本を含めた東アジア、東南アジア及びハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オセアニアなどの島嶼に於いて多く存在した。

欧州では牧畜が盛んであった為、犬との共存生活が長く、家族同然の扱いをおこなっており、食用にはして来なかった。近年はアジア圏でも、生活習慣の変化に伴い、愛犬家や若者を中心に犬食を忌む傾向も生じている。

古代中国で犬肉を食べていた事実は、「羊頭狗肉」「狡兎死して走狗烹らる」などの諺、前漢の高祖に仕えた武将がかつて犬の屠殺を業としていたことからも窺える。

しかし、狩猟や遊牧を主たる生業とする北方民族は、犬を狩猟犬として、或いは家族や家畜群を外敵から守る番犬として飼っており、犬肉を食べない。

農業生産性の低かったヨーロッパでは伝統的に牧畜が重要な生業であり、犬食いに対する嫌悪感には、北方民族と同じ源があると見られる。

広西狗肉料理古代よりの伝承では、黄(赤)、黒、花(斑模様)、白の順に美味いとされている。一般に、中国医学では、犬肉には身体を温める作用があると考えられているため、冬によく消費される。

広西チワン族自治区玉林市では、夏至の頃に「狗肉茘枝節」と称して、犬料理とレイシを食べる行事が行われている。夏に犬肉を食べるとのぼせるが、身体を冷やすレイシ(果物)と合わせて食べると問題ないとされる。

韓国では犬肉を「ケゴギ」、北朝鮮では「タンゴギ」と言う(「ケ」は犬、「タン」は「甘い」、「ゴギ」は「肉」の意)。

朝鮮半島では狗肉は新石器時代から食用とされている。滋養強壮、精力増強、美容に良いとされ、陰暦の夏至の日から立秋までの「庚(かのえ)」のつく日の中伏(チュンブク)には、犬料理を食べて暑気を払う習慣がある。黒犬には時別効能があるとされる。

日本の捕鯨が、鯨食文化のない地域から問題視されるのと同様、しばしば、犬肉料理文化を持たない国から問題視されることがあり、韓国では、1988年のソウルオリンピック開催に際して、欧米諸国の批判をかわす為、犬食に対する取締りが行われたが、犬肉料理を愛好する人も少なくない為に大通りから遠ざけられて黙認された。

2002年のFIFAワールドカップの際には、FIFA(本部イギリス)が「犬肉を追放してほしい」と韓国政府に要請してきたが、FIFAの副会長でもあるチョン・モンジュン氏は拒否した。

2008年4月にはソウル市当局が正式に犬を嫌悪食品とする禁止令を撤廃し、食用家畜に分類する発表を行った。これに対し韓国国内の動物愛護団体が反発を強めている。

韓国における犬食は、今なおきわめて盛んである。2006年、韓国国務調整室が行なった調査によると年間200万頭の犬が食べられている。

2008年の調査によると、ソウル市内だけで530店の食堂が犬食を扱っている。違法のため、当局による衛生管理が行なわれておらず社会問題化している。

北朝鮮においては、食糧難の中、数少ない蛋白源として珍重されている。平壌観光のガイドブックには「朝鮮甘肉店」と記載され紹介されており、案内員に希望すれば朝鮮甘肉店へ連れて行ってもらうことも可能である。

なお欧米の批判の影響を受けにくいこともあってか、平壌甘肉店は大通りに面した場所にある。犬は残飯を与えても育つので、家庭で小遣い稼ぎに飼われることがあり、中でも結婚資金を稼ぐために数頭の犬を飼う若い女性を「犬のお母さん」と呼ぶ。育った犬は自由市場で売買される。

明治維新以降、文明開化により西洋の肉食文化が持ち込まれ、日本は肉食タブーから解放されたが、同時に西欧の「愛玩動物」の概念も持ち込まれ、愛玩動物に該当する動物を食べる行為は嫌悪の対象となった。昭和時代に入ると、忠犬ハチ公の物語が多くの人々の感動を誘い、全国で犬を愛玩する風潮が高まった。

現在の日本国内では食用を目的とした犬の屠殺は皆無に等しいが、食用犬の犬肉は現在でも輸入されており、2006年の動物検疫による輸入畜産物食肉検疫数量によると中華人民共和国から31トン輸入されている。

東京・大久保のコリア・タウンでは、犬肉料理を食べることが出来る。

スイスの山間部では、犬肉を食べる風習が存在している。スイス国内での犬肉の流通は禁止されているが、消費する事自体は黙認されている。

ドイツにもかつては犬肉屋が存在したが、1986年以降は流通が全面禁止になっている。それまでは食用から医薬用まで、様々な用途で利用されていた。

フランスでは、パリで1910年頃に犬肉精肉店が開店したことや、横断幕で開店を示している例などが見受けられる。また数十種類に及ぶ犬肉料理本が販売されていたり、通信記事では牛肉のように美味しく色もピンクで歯触りもやわらかい、という記述などがある。

このことからも、飢饉で仕方なく食べたのではないことを示し、犬料理が特別なものではなく禁忌としての対象でもないことが明らかである。

この他20世紀初頭にパリ市郊外で発達したガンゲット(ダンスホールを兼ねる安食堂)において、ウサギ肉と称して実際は蚤の市に出入りする屑屋が拾い集めてきた犬や猫の肉を出す、という都市伝説も広まった。

こうした犬食文化がヨーロッパ大陸部に広く見られるのに対し、イギリス人の多くは、交通や狩猟等の高速移動手段として重用された馬と共に、犬が他文化で食用にされている事に嫌悪感を抱く。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年08月23日

◆ニンニク(大蒜)

渡部 亮次郎



韓国の人たちはニンニクをよく食べる。観光地慶州で私を担当した観光案内人は「だから韓国人は虫歯が少ないです」と自慢した。ホントかどうかは知らない。

そんなことを言っても郷里・秋田にいた子供時代は食べたことがなかった。明治生まれの母は利用する料理も知らなかったようだし、風邪に薬用ありと聞いても一家で誰も食べなかった。

例によって東京へ出てきて初めて出合ったようなもの。韓国では強精剤だからと、7個つながりを輪切りにした醤油付けを食べたら、夜中に胃痛を起こし、強精どころの話ではなかった。

調べてみるとニンニクには確かに滋養強壮の効果があり、栄養ドリンクや健康食品、一部の薬品にも使われる。生のニンニクの強烈な香りと辛味は、刺激が強過ぎて胃壁などを痛める場合があるが、この症状も主成分アリインの影響といわれる。

栄養主成分のアリイン、クレアチンなどは元来は無臭である。ところが刻んだ際に細胞膜が破れ中からアリナーゼなどの分解酵素が出て栄養成分を分解しアリシン・アリルスルフェン酸といった成分に変化する。これらが独特な臭いのモトである。

古代ギリシア人の間でも,ニンニクを口にしたものは神殿に入ることを許されなかった。一方,古代ローマ人も強臭を嫌ったが,強精な成分があるとして,兵士や奴隷には食べさせたといわれている。

原産地は中央アジアと推定されるが、すでに紀元前3200年頃には古代エジプトなどで栽培・利用されていた。日本には中国を経て8世紀頃には伝わっていたと見られる。

現在の栽培は近東方面から地中海地方,インド,アフリカ,中国,韓国に多く,アメリカにも広がっている。

日本では《本草和名》以後に記載がみられるところから,導入,栽培されたのは10世紀以前からのことといわれる。中国や韓国から渡ってきたとみられ,品種には早晩性があり,〈遠州極早生〉〈壱州早生〉〈6片種〉〈佐賀大ニンニク〉〈香港〉などがある。繁殖は種球(鱗片か珠芽)で行う。9月に種球を植え付けて翌年5月に収穫する。

ニンニクは、僧侶が荒行に耐えうる体力を養うために食したとされ、その語源はあらゆる困難に耐え忍ぶという意味の仏教用語の「忍辱」とされる。「葷酒山門に入るを許さず」のクンシュの中には入るのじゃないのか。

日本の古代医術ではニンニクは風湿や水病を除き,山間の邪気であるところの瘴気(しようき)を去り,少しずつ長期にわたって食べれば血液を浄化し,白髪を黒くするほか,生で食べれば虫蛇を殺す効能があるが,一度にたくさん食べると目を損なうとされていた。

ニンニクには強烈な異臭にまつわる俗信が多い。ヘビ,サソリ,疫病を駆逐する強力な薬草として古くから各地で用いられた。ハローウィーン(万聖節の宵祭)にはこれを戸口につるして厄を払い,ペスト流行時には死体を清めるのに用いられた。

吸血鬼よけの効能も,B. ストーカーの《ドラキュラ》などの作品でおなじみである。さらに大プリニウスは《博物誌》において,天然磁石をニンニクで擦れば磁力がうせると述べ,ディオスコリデスは《薬物誌》で,ヘビや狂犬による咬傷(こうしよう)や歯痛の特効薬としている。花言葉は〈勇気と力〉。

日本では江戸時代、その臭気により公家・武士階級では食べる事を禁止されていた。ニンニクが広く食べられる様になったのは明治以降になってからである。

しかし、徳川家康は、茶屋四郎次郎に招かれ鯛の天ぷらにニンニクのすりおろしをつけたものが、たいへん美味かったので食べ過ぎて食中毒を起こし、死につながったとも言われる。

ニンニクは油脂によくなじみ、肉類のうまみを引き立てるので,日本でもスープ,いため物,煮込み物その他の肉料理などに多用され,洋風料理,中国風料理などの普及にともなって身近な食品になった。第2次大戦後のことである。

よく行く東京・向島の洋食屋ではメニューに「ニンニク揚げ」がある。必ずと言っていいくらいに頼む。加熱すると匂いが全くしなくなるから安心。しかし家で鰹の刺身に副えるニンニクは生でなくては効き目がない。

食べた後の匂いを防ぐためには、食後に緑茶を飲むと良いとされる。これは、緑茶の成分であるカテキンの殺菌、消臭効果による。また、牛乳やコーヒーを飲むのもよい。

水を飲むだけでも一定の効果があると言われている。なお、近年エジプト産のニンニクをもとにして、品種改良の結果、無臭ニンニクも流通している。

日本の主な生産地。青森県で70%を占める。田子町、十和田市などが多い。青森県内には特に高級品として知られるブランドがある。次いで香川県など。参考資料:平凡社「世界大百科事典」「ウィキペディア」

2015年08月19日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



8年前の2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がっている。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、3年ぐらいで、人工細胞ができるかもしれないと言う。激しい競争があるからだ

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友ニュース」
91号(2008・7・1)  

2015年08月18日

◆安保法制反対派が語らない奴隷の平和

古森 義久


いまの日本では「平和」という言葉が暴力的な効果をも発揮するようである。より正確に述べるならば、「平和」が日本の国民や国家を守ろうとする努力を破壊する政治的武器に使われる、という印象なのだ。

朝日新聞などが扇動する安保法制関連法案への反対運動での「(同法案成立は)この国を再び戦争に巻き込む」という類の主張が例証である。

同法案は平和を崩し、戦争を求めるのだという虚構の非難が放たれる。集団的自衛権解禁への賛成側は平和の敵と断じられる。個々の政治家の片言隻句を軍国主義とか好戦主義と攻撃する乱暴さは暴力的という表現まで連想させる。

一方、原爆と終戦の8月の日本では平和は国民の心から真に祈られるといえよう。平和の恩恵と戦争の惨禍を語ることは貴重である。だがその種の言葉が「日本の平和主義」という域まで進むとなると、その「平和」を政策として点検することも欠かせなくなる。

日本でとくに8月に語られる「平和」は単に「戦争のない状態」を指すといえよう。平和の内容が決して論じられないからだ。戦争さえなければ、他国に支配された「奴隷の平和」でもよいのか。自由も人権も民主主義もない平和でもよいのか。

この点で忘れられないのは40年前、ベトナム戦争の終わりに目撃した「独立と自由より貴いものはない」という民族独立闘争の標語だった。独立や自由のためには平和も犠牲にして戦争をする、という意味のベトナム共産党のホー・チ・ミン主席の言葉だった。

米国の歴代政権が国家安全保障の究極の目標として「自由を伴う平和」と条件をつけるのも同じ趣旨である。オバマ大統領もノーベル平和賞の受賞演説で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳に基づかねばならない」と述べた。

単に戦争のない状態の平和を守るには絶対に確実な方法がある。外部からの軍事力の威嚇や攻撃にすぐ降伏することだ。相手の要求に従えば、この平和は保たれる。尖閣諸島も中国に提供すれば、戦争の危険は去るわけだ。

だが安保法制反対派もここまでは語らない。そのかわり戦争には侵略と自衛の区別をつけず、すべて邪悪として排する。日本は現行憲法でも自衛戦争の権利は有しているのに、反対派は日本の自衛のための防衛力や抑止力の整備さえも認めないようなのだ。

反対派が悪だとする日本の「植民地支配」や「侵略」は米国の対日戦争で除去された。その手段はまさに戦争だった。だから米国は、そして中国も、あの戦争は正当で必要だったと宣言する。オバマ大統領も前記演説で「正義の戦争は存在する」と強調していた。

8月の米国では対日戦争の勝利が必ず祝われる。日本にとっては悲しいが「原爆投下に神への感謝を」(大手米紙の今年8月5日の論評)という主張さえ出る。

どんな戦争も否定しようとする日本の一部の認識が、国際的にいかに異端かがわかるだろう。それでも安保法制法案は自衛ではない戦争はきわめて明確に排している。だが、その趣旨に賛成する側はあたかも平和自体に反対するかのようなぬれぎぬを着せられるのだ。
(ワシントン駐在客員特派員)
産経ニュース【あめりかノート】8・16

◆カツ丼で勝てるか

渡部 亮次郎



受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。

福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えてくれた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはデミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

ソースカツ丼
福井県ヨーロッパ軒のソースカツ丼。キャベツを下に敷かない。おおよそのスタイルとして、ウスターソース系のソース(トマトケチャップ・酒などを加えたソース)にとんかつをくぐらせてから丼飯の上に盛ったものである。

北海道の訓子府町では、ご飯の上に海苔を敷いて揚げたてのカツを乗せ、それにタレをかける。

カレー風味カツ丼
山形県西村山郡河北町の料理。醤油やソースをベースに数種類のスパイスを加えてカレー風味にしたタレをかける。

かつ皿
静岡県富士市の料理。ご飯の上にゆでキャベツとカツをのせた後、卵をそばつゆで伸ばしたタレをかける。

タルタルカツ丼
群馬県安中市の料理。醤油だれがかかったトンカツの上にタルタルソースが載せられている。

味噌カツ丼
名古屋市の料理。味噌カツを丼にしたもの。味噌だれの卵とじが本来の形であるが、愛知万博に合わせた名古屋ブームを創るにあたって、ソースかつ丼風で付け合わせとしてキャベツの千切りも乗った形のものが開発された。

あんかけカツ丼
岐阜県瑞浪市の料理。鰹節やムロアジでとった和風だしと醤油、砂糖などをベースとしている。戦後、卵が貴重だった時代に考案されたとされ、卵加えて、とろみをつけた餡をかけている。

てりカツ丼
岐阜県土岐市の料理。ドミグラスソースにソース、ケチャップ、和風だしを加え、ワインなどで味を調えたタレをかけた洋風のカツ丼。

塩カツ丼
ソースやタレを使わず、塩味をつけたカツをそのまま丼飯に乗せて供する。下味以外に、味を付けない豚カツを丼飯の上に乗せ、塩ダレをかけたもの。

おろしカツ丼
下味以外に、味を付けない豚カツを丼飯の上に乗せ、大根おろしを乗せたもの。好みで、一味唐辛子、七味唐辛子、白醤油、濃口醤油、ポン酢、刻み海苔、刻みネギなどをかけて食べる。

大阪周辺では一般的なメニューになりつつある。「別れ」(具を丼飯の上に乗せず、調理時の手鍋に入れたままの状態)で供する店も多い。冷製のものもある。

カレーかつ丼
カツ丼の上にカレーをかけたもの。カツカレーに近い。主体がカレーである店では「カツカレー丼」と呼ばれることもある。
洋風カツ丼の例

(新潟県長岡市)カツを載せたご飯に、ハヤシライスのソース・ケチャップ・醤油などを混ぜたもの、もしくはデミグラスソースをかけた料理。

福岡県大牟田市にあった百貨店「松屋」の食堂(現在は閉店)や、新潟県長岡市周辺などで供されるものが知られている。兵庫県加古川市の「かつめし」に近い。

「卵とじカツ丼」が一般的でありそれを単に「カツ丼」と呼ぶエリアで、ソースカツ丼などそれ以外のカツ丼をさすときの名称。逆に「ソースカツ丼」などが一般的でありそれを単に「カツ丼」と呼ぶエリアでは、卵とじカツ丼のことを「煮カツ丼」などと呼んで区別する場合がある。

トマトカツ丼
豚カツを丼飯の上に乗せ、トマトとタマネギなどを煮た酸味のあるソースをかけたもの。

煮カツ丼
カツ煮カツ丼の山梨や新潟における呼称。醤油味、玉子とじである一般的なカツ丼によく類似する。やや煮込み時間が長く、カツの衣はとろける状態になっている。

さらに山梨県、新潟市近郊におけるカツ丼は、酒、醤油、ケチャップ、みりん等を煮詰めたたれにカツをくぐらした、通称タレカツ丼を意味する。

えびカツ丼
カツ丼のトンカツを海老カツに置き換えたもの。店によっては、えびカツではなくエビフライが載っていることもある。

ビフカツ丼
カツ丼のトンカツをビフカツに置き換えたもの。牛肉料理の専門店では、単に「カツ丼」と呼ぶ事がある。

チキンカツ丼
カツ丼のトンカツをチキンカツに置き換えたもの。鶏肉料理の専門店では「カツ丼」として供される。

メンチカツ丼
カツ丼のトンカツをメンチカツに置き換えたもの。

わらじカツ丼
埼玉県秩父郡小鹿野町の料理。甘めのタレがかかった2枚の大きなカツが乗っている。

変わりカツ丼
チーズ、キムチなどを合わせた変わりカツ丼を販売している店もある。

沖縄県のカツ丼
沖縄県の大衆食堂に見られるもので、カツの上にニンジンやタマネギ、もやし、キャベツ、ピーマンなどの野菜の煮込みや野菜炒め、野菜入りあんかけをかける。濃厚な味付けに特色があり、卵でとじない例も多い。

カツ丼は戦後しばらく日本が貧しかった時代に庶民にとってはご馳走であった。その頃の刑事ドラマの取調室のシーンでは、刑務所に行ったら二度と食べられないだろうと、刑事が自分の安月給から店屋物のカツ丼をとってやり、被疑者に食べさせると、被疑者はその情にほだされ、泣きながら「私がやりました」と、犯行を自供をするというシーンがあった。

だが、それがモチーフとなってパロディ化されたものが広まったことから、「本来やってはいけない事を被疑者を信じて特別にした人情刑事」というエピソードのはずが「取調中の食事はカツ丼が出る」「自白するとカツ丼を食べさせてもらえる」などと誤解されるようになってしまった。

ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こした際、取調中に捜査員から食事を促されたときに「取調べで食事といえばあれしか無いだろう」とカツ丼を注文したが食後に代金を請求されたため(捜査員から「600円オールね」と言われたらしい)、「金取られる位なら注文するんじゃなかった」と毒舌交じりに語っている。(1987年6月25日、『たけし軍団のオールナイトニッポン』にて)

現在では通常、留置中の被疑者については専用の弁当が用意されており、留置所での食事時間が必ず取られている。また、投げつけるなどして警察官がひるんだ隙をついて逃走される可能性もある事から、取調室で食事が出されることはなく、仮にあったとしてもその費用は被疑者の自己負担であり、警察官が費用負担した場合は利益誘導として裁判の際に供述の任意性が否定される場合がある。

ここで出される店屋物がカツ丼である根拠としては、店屋物の発注先として歴史的に最もポピュラーな店舗は蕎麦屋であり、蕎麦屋に注文可能なもので取り調べのスケジュールを阻害せず、時間が経っても伸びずに、冷めても魅惑的なメニューがカツ丼であったからとする見解がある。

2006年9月6日、埼玉県警所沢署の警部が、取調室で被疑者にカツ丼を食べさせるなどしたとして、減給100分の10(3か月)の懲戒処分を受けた(この警部は同日に依願退職)。

このカツ丼は被疑者の両親の知人が持ち込んだものだが、県警の規定では食事は留置場内で取ることとなっており、これに違反していた(ただし、上記のドラマとは異なり、被疑者が暴力団関係者だったために接見室ではなく取調室で家族と接見させるなど、今後の捜査で利用できないかと思い便宜を図ったことが重い懲戒処分に至った原因であり、単に取調室でカツ丼を食べさせたことだけが原因ではない)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年08月17日

◆北東風「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎



江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、兵隊たちが政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。
出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年08月15日

◆戦前・戦中の真の平和追求団体

天下の無法松



本当に暑くてたまりませんね。

北九州地方は梅雨が明けるのが非常に遅く、先月末近くになってようやく梅雨が明けたと思ったら、北九州地方も猛烈な激暑が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。

今週は大東亜戦争後の事では無く、戦前・戦中のことについて先に述べた国民文化研究会の前身の各団体、人物を再度、取り上げてみます。

その団体は先に述べた様に、大きくは日本学生協会と精神科学研究所と言う2つの団体があり、今回は次のURLの内容を紹介しながら、その団体におられた方々の人物像について触れたいと思います。

国民文化研究会Wikipedia:https://goo.gl/k32476

戦前の東京帝国大学で、日本学生協会のメンバーであられた小田村寅二郎先生は戦前から既にマルクス・レーニン主義に侵されていた東大教授達の共産主義的洗脳教育を批判して、当時の新興宗教団体の一つの「生長の家」の機関紙にその批判を投稿したそうです。

東京帝国大学における学生思想問題と学内管理に関する研究:http://goo.gl/2PEQvz

小田村寅二郎先生は日本反日協会の大河ドラマに出ている小田村伊之助(楫取素彦)の御子孫ですが、この公然たる東大学風批判事件(小田村事件)が、帝国議会でも大きく取り上げられたそうです。

そして、日本学生協会の運動を精神的に指導者したのが、三井甲之、田所廣泰、黒上正一郎先生達でありましたが、その運動は大東亜戦争中に東條内閣と対立し、開戦後は、南方作戦の終了後も東條内閣が一向に終戦工作に取り掛からないのを見て、早期講和を求める運動を展開したそうです。

また、古代の防人や日露戦争中の軍人の和歌には、家族と別れて入営する辛さ悲しみも素直に詠まれていたにもかかわらず、大東亜戦争中はこの様な歌を発表すること自体を軍部が禁止したことを強く批判したそうです。

そして、国のために尽くしたいとする「公」の気持ちも、家族を心配する「私」の気持ちも共に偽りなき人間の「まごころ」であると主張したそうです。

つまり、戦争当時に流行した「滅私奉公」のスローガンに対して、「私」を大切に思いながらも、尚「公」に向かおうとする「背私向公」こそが人間の自然な感情とするものであると主張したのでした。

ところが、東條英機は司法省や内務省に取締りを命じ、彼らに同情的であった両省とも取締りをサポタージュしたため、東條英機は自ら子飼いの憲兵隊を使って、徹底的な弾圧を実行して日本学生協会及び精神科学研究所を壊滅に追い込んだとのことです。

この様な団体こそが本当に平和を追求する団体であり、戦前に前身を持つ戦後の平和団体の殆どは、大東亜戦争遂行の為に組織化された大政翼賛会的団体を前身としているのではないかと無法松は考えております。

では、今週も国民文化研究会の合宿を次に紹介して終わります。

国民文化研究会:http://goo.gl/YGUdGY

このホームページから合宿参加の申し込みができ、大学生のみならず一般社会人も参加できますので、是非とも皆様のお申し込みをお勧め致します。

日程は8月29日(土)から9月1日(火)の3泊4日で、費用は大学生2万円、社会人3万5千円(その他、交通費・必携書書籍費必要)で、講師は「長谷川三千子」先生(演題:三種の神器の謎を解こう!)です。

今年の合宿は60回目で、還暦を迎えます。

■無法松の本音

今年は大東亜戦争終結後70周年と言うことで、日本半日協会ことNHKを始めとして多くのマスゴミでは色々な反戦映画の放送を行っておりますが、先週の8日(土)より全国で半藤一利原作の「日本のいちばんながい日」の映画が放映されております。

無法松は昨年の今頃も次の様なことを述べましたが、なぜあの大東亜戦争はもっと早く終結できなかったのかと言う問いに、無法松は我が大和民族の魂がちょうどこの8月15日を大東亜戦争終結の日に選んだと答えたいと数年前より思っております。

明治以来、我が国は西欧列強の制度を形振(なりふ)り構わず採り入れ、暦は旧暦より新暦へと改暦され、西欧合理主義を知らぬ我が大和民族の悠揚たる精神は、侍の没落と共に次第にせせこましい、余裕のない窮屈な精神へと変貌を遂げて行ったのであります。

それでもまだ明治時代には侍の末裔達が生きており、日清・日露戦争に勝利するなど、我が国は一応の近代化には成功したものの、西欧合理主義に侵された我が大和民族の精神は明治45年の乃木さんの自決と共に、大きく変貌していきました。

しかしながら、ラフカデェオハーンこと小泉八雲先生が明治時代と言う大きく変わろうとしている時代においても感じられた大和民族の魂は今でも生きております。

その大和民族の魂が、蘇るのが盆なのです。

だからこそ、この盆の最終日の8月15日が大東亜戦争終結の日となり、翌日16日には送り火を焚き大東亜戦争で亡くなられた人々の魂を、70年間、大和民族の魂の故郷へお送りしているのです。

そこで話しは総理大臣談話に変わりますが、この大東亜戦争終結後70周年の談話としては、本来はこの大和民族の魂に触れ、先の戦いに斃れし人々の魂を御慰め申し上げることが先決であります。

そこから始めなければ戦中、戦前に亡くなられた人々の魂に対する戦後70年間の裏切りと偽善の時代はこれからも続くことになり、真の平和な時代は来るどころか、またも今よりも酷い時代がやって来ることでしょう。


天下の無法松

本当に暑くてたまりませんね。

北九州地方は梅雨が明けるのが非常に遅く、先月末近くになってようやく梅雨が明けたと思ったら、北九州地方も猛烈な激暑が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。

今週は大東亜戦争後の事では無く、戦前・戦中のことについて先に述べた国民文化研究会の前身の各団体、人物を再度、取り上げてみます。

その団体は先に述べた様に、大きくは日本学生協会と精神科学研究所と言う2つの団体があり、今回は次のURLの内容を紹介しながら、その団体におられた方々の人物像について触れたいと思います。

国民文化研究会Wikipedia:https://goo.gl/k32476

戦前の東京帝国大学で、日本学生協会のメンバーであられた小田村寅二郎先生は戦前から既にマルクス・レーニン主義に侵されていた東大教授達の共産主義的洗脳教育を批判して、当時の新興宗教団体の一つの「生長の家」の機関紙にその批判を投稿したそうです。

東京帝国大学における学生思想問題と学内管理に関する研究:http://goo.gl/2PEQvz

小田村寅二郎先生は日本反日協会の大河ドラマに出ている小田村伊之助(楫取素彦)の御子孫ですが、この公然たる東大学風批判事件(小田村事件)が、帝国議会でも大きく取り上げられたそうです。

そして、日本学生協会の運動を精神的に指導者したのが、三井甲之、田所廣泰、黒上正一郎先生達でありましたが、その運動は大東亜戦争中に東條内閣と対立し、開戦後は、南方作戦の終了後も東條内閣が一向に終戦工作に取り掛からないのを見て、早期講和を求める運動を展開したそうです。

また、古代の防人や日露戦争中の軍人の和歌には、家族と別れて入営する辛さ悲しみも素直に詠まれていたにもかかわらず、大東亜戦争中はこの様な歌を発表すること自体を軍部が禁止したことを強く批判したそうです。

そして、国のために尽くしたいとする「公」の気持ちも、家族を心配する「私」の気持ちも共に偽りなき人間の「まごころ」であると主張したそうです。

つまり、戦争当時に流行した「滅私奉公」のスローガンに対して、「私」を大切に思いながらも、尚「公」に向かおうとする「背私向公」こそが人間の自然な感情とするものであると主張したのでした。

ところが、東條英機は司法省や内務省に取締りを命じ、彼らに同情的であった両省とも取締りをサポタージュしたため、東條英機は自ら子飼いの憲兵隊を使って、徹底的な弾圧を実行して日本学生協会及び精神科学研究所を壊滅に追い込んだとのことです。

この様な団体こそが本当に平和を追求する団体であり、戦前に前身を持つ戦後の平和団体の殆どは、大東亜戦争遂行の為に組織化された大政翼賛会的団体を前身としているのではないかと無法松は考えております。

では、今週も国民文化研究会の合宿を次に紹介して終わります。

国民文化研究会:http://goo.gl/YGUdGY

このホームページから合宿参加の申し込みができ、大学生のみならず一般社会人も参加できますので、是非とも皆様のお申し込みをお勧め致します。

日程は8月29日(土)から9月1日(火)の3泊4日で、費用は大学生2万円、社会人3万5千円(その他、交通費・必携書書籍費必要)で、講師は「長谷川三千子」先生(演題:三種の神器の謎を解こう!)です。

今年の合宿は60回目で、還暦を迎えます。

■無法松の本音

今年は大東亜戦争終結後70周年と言うことで、日本半日協会ことNHKを始めとして多くのマスゴミでは色々な反戦映画の放送を行っておりますが、先週の8日(土)より全国で半藤一利原作の「日本のいちばんながい日」の映画が放映されております。

無法松は昨年の今頃も次の様なことを述べましたが、なぜあの大東亜戦争はもっと早く終結できなかったのかと言う問いに、無法松は我が大和民族の魂がちょうどこの8月15日を大東亜戦争終結の日に選んだと答えたいと数年前より思っております。

明治以来、我が国は西欧列強の制度を形振(なりふ)り構わず採り入れ、暦は旧暦より新暦へと改暦され、西欧合理主義を知らぬ我が大和民族の悠揚たる精神は、侍の没落と共に次第にせせこましい、余裕のない窮屈な精神へと変貌を遂げて行ったのであります。

それでもまだ明治時代には侍の末裔達が生きており、日清・日露戦争に勝利するなど、我が国は一応の近代化には成功したものの、西欧合理主義に侵された我が大和民族の精神は明治45年の乃木さんの自決と共に、大きく変貌していきました。

しかしながら、ラフカデェオハーンこと小泉八雲先生が明治時代と言う大きく変わろうとしている時代においても感じられた大和民族の魂は今でも生きております。

その大和民族の魂が、蘇るのが盆なのです。

だからこそ、この盆の最終日の8月15日が大東亜戦争終結の日となり、翌日16日には送り火を焚き大東亜戦争で亡くなられた人々の魂を、70年間、大和民族の魂の故郷へお送りしているのです。

そこで話しは総理大臣談話に変わりますが、この大東亜戦争終結後70周年の談話としては、本来はこの大和民族の魂に触れ、先の戦いに斃れし人々の魂を御慰め申し上げることが先決であります。

そこから始めなければ戦中、戦前に亡くなられた人々の魂に対する戦後70年間の裏切りと偽善の時代はこれからも続くことになり、真の平和な時代は来るどころか、またも今よりも酷い時代がやって来ることでしょう。

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだが、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィルミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出などを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア)』