2015年12月31日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこったことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことであるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名ですが、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明ながらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかって いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたため、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動していた訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達との対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではないか」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創ではないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為でしょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツールが、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上でその影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学では統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされていた。>

2015年12月23日

◆言論の自由が勝利した無罪判決 

西岡 力



産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に無罪判決が下された。私は起訴後、加藤記者と何回も会って話を聞いてきた。だから記者本人も、周囲の関係者も無罪判決が出るとはほとんど予想していなかったことを知っている。ただ、私は以下の理由で無罪判決が出ることも十分あり得ると思っていた。

 ≪主張貫き曖昧な決着を拒否≫

韓国の言論界や法曹界では無罪判決が当然だという意見はかなり多かった。行政機関である検察とは異なり、韓国の司法は大統領の意向に左右されることはほとんどないが、世論の影響を受けることはある。

今回の事案 は世論が沸騰する日韓歴史問題や領土問題とは全く関係ない。裁判官の中 に左派的考え方の持ち主が多くなり、北朝鮮スパイ事件などでは過去には あり得ないほど刑が軽くなったりしていたが、韓国内左派はむしろ朴槿恵 大統領のセウォル号沈没事故の処理を問題視し続け、名誉毀損での起訴を 批判していた。

判決は理路整然とした立派なものだった。例えば結論部分に以下のくだりがある。

〈韓国国民として、前支局長の見解には受け入れ難い点が多い。ただ、外国メディアの討論の自由を差別的に制限する合理的な根拠はない。前支局長が公益目的で記事を作成したという側面を考慮すれば、本件の記事も、言論の自由の保護の領域内にある。


不適切な点も多いが、このような言論の自由の側面を法理的に検討すれば、公人である大統領の名誉毀損、誹謗目的があったと断定するのは難しい。公的事案に関する名誉毀損の場合、言論の自由の価値に優位を置いて審査すべきだ。さらに、疑わしくは被告人の利益とすべきだ。〉

このような判決が出た背景の一つは、加藤記者と産経新聞が「記事は言論の自由の範囲の中にある」という点をきちんと主張し続け、曖昧な決着を拒否したことがある。一部では、判決期日が3週間延期されたのは、その期間に加藤記者から改悛(かいしゅん)の意思を引き出し刑の宣告を猶予することが検討されたためといわれている。

 ≪裁判官も共有した「価値」≫

12月16日付産経新聞によると〈宣告猶予とは英国や米国で発達した 制度で、日本は採用していない。裁判所が被告の有罪を認定した上で、刑 の宣告を猶予する。一定期間(韓国の場合2年)、別の件で有罪判決を受けなければ、刑事罰を免れるだけでなく、有罪判決自体が消産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に無罪判決が下された。私は起訴後、 加藤記者と何回も会って話を聞いてきた。だから記者本人も、周囲の関係 者も無罪判決が出るとはほとんど予想していなかったことを知っている。 ただ、私は以下の理由で無罪判決が出ることも十分あり得ると思っていた。

 ≪主張貫き曖昧な決着を拒否≫

 韓国の言論界や法曹界では無罪判決が当然だという意見はかなり多かった。行政機関である検察とは異なり、韓国の司法は大統領の意向に左右されることはほとんどないが、世論の影響を受けることはある。今回の事案は世論が沸騰する日韓歴史問題や領土問題とは全く関係ない。

裁判官の中に左派的考え方の持ち主が多くなり、北朝鮮スパイ事件などでは過去にはあり得ないほど刑が軽くなったりしていたが、韓国内左派はむしろ朴槿恵大統領のセウォル号沈没事故の処理を問題視し続け、名誉毀損での起訴を批判していた。

判決は理路整然とした立派なものだった。例えば結論部分に以下のくだりがある。

〈韓国国民として、前支局長の見解には受け入れ難い点が多い。ただ、外国メディアの討論の自由を差別的に制限する合理的な根拠はない。前支局長が公益目的で記事を作成したという側面を考慮すれば、本件の記事も、言論の自由の保護の領域内にある。〉

2015年12月21日

◆「蕪村銅像」を大阪「淀川神社」に建立

毛馬 一三



平成28年1月から、いよいよ「蕪村生誕300年の年」。江戸時代三大俳人の与謝蕪村は、300年前の1716年享保元年に大阪毛馬村に生まれたことだけは、はっきりしていますが、肝腎の「生誕の日」は未だ不明です。

しかし2016年は上記の通り、「生誕年300年の年」を迎えることになります。

筆者が所属するNPO法人近畿フォーラム21は、6年前から「大阪俳句文化振興を図る活動のひとつとして、蕪村生誕300年を顕彰する「講座・蕪村顕彰俳句大学(学長川原俊明・弁護士)」を立ち上げ、同講座開講を運営しつつ、兜カ學の森とも共同して、全国俳句大会も開催し、最優秀句の表彰式をおこなって来ました。

ところがどうしても困惑極めるのは、「蕪村生誕の日」が分からないことです。分からないことは、大阪毛馬町生誕の「生誕300年」の「御祭り」を、来年のいつの日に、如何なる行事をすすめたらいいかが直面する難問でした。

そこで、まず世間に広く知られている大阪淀川堤防上の「生誕記念碑」に匹敵する「蕪村銅像」を建てることが、効果的だとの考えにNPO法人理事会の意見が合致し、立案作業を進めてきました。

では、「蕪村銅像」を建てる場所をどこにするのかが最大の課題でした。「銅像建立」によって蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを、地元だけでなく、全国・諸外国の俳句愛好家にどしどし「銅像」を見に来て貰うための「最適地」は、一体何処がいいのだろうか、これに関して詳しい調査をすすめました。

そんな時に、「最適の建立場所の候補地」が上がったのです。驚嘆でした。これはこれから追々。

蕪村は、摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)の庄屋で生まれました。庄屋は近郊にある「八幡神社」と「淀川神社」の「氏子」でした。江戸時代は、ともかく生誕のお祝いや商売発展の祈願、生活安泰の祈願、悩みからの脱皮の祈願などに期を捉えて、氏子たちが「神社」に参詣していたことは、江戸時代の慣習であり、熱の籠った常習でした。

ですから「二つの氏子神社」に、与謝蕪村(寅)が、東成郡友渕村で育った幼少の頃、庄屋の「氏子」の父と母につれられて氏子参詣を続けていたであろうということが、地元毛馬町の情報として急速に浮かび上がって来たのです。

序でながら記しますと、もうひとつの「八幡神社」は、明治に近郊の「桜宮神社」と合祀し、姿を消しました。従って、現存する毛馬町の氏子神社は、「淀川神社」だけになっています。

と云うことは、蕪村が参拝したと称される氏子神社の実像は、今では「淀川神社」だけしか、残っていないということになります。

このことから筆者は、動きだしました。早速注目の「淀川神社」を訪ね、横呂良宮司と神社の座敷で、同神社の歴史と蕪村参詣の歴史的風習を巡る話し合いを交わしたのです。
すると、横呂良宮司は、神社は焼却の過去もあり「淀川神社への参詣書はないものの、江戸時代慣習から察すれば、蕪村氏子一家がここに参詣したことは間違いないことでしょう」と、意見が一致しました。

ですから、蕪村が幼少の頃、悩みに包まれた母と参詣に通ったのは想像に難くなく、生家相続に絡まされ悩みの果てた蕪村が、駆け込み参詣を行ったことも推測出来る経過を飛び出してきました。

更には、17・18歳の頃、生家「庄屋」を整理して江戸に下る決意を問い掛ける参詣も、当然氏子の立場で「淀川神社」に命懸けで詣でたこととは、当然のことだと断言できることも一致しました。

そこで筆者は決意しました。その場で横呂良宮司に「淀川神社の境内」に「蕪村銅像」を建立させて頂けませんでしょうか。望郷の念に終生纏わり付かれた蕪村の心を迎い入れ、蕪村が参詣したのがここの「淀川神社」だと後世に伝承しましょうとお願いしました。

横呂良宮司も話の進み具合を快く受けいれられ、実はこのあと「神社役員会」を開催されて、この問題を協議して頂いたのです。その結果的、何と「神社役員全会一致」で、境内への建立が決定されました。
神社に俳人の銅像が建立されるということは、画期的なことでした。

筆者は歓喜し、早速これを川原俊明学長と「蕪村生誕300年行事実行委員会・村田正博委員長(大阪市大文学部教授)」に報告した処て喜ばれ、勿論NPO法人理事全員も「蕪村銅像建立先」に感動しました。

本当に「淀川神社境内」に歴史的、かつ蕪村幼少時代の本人と父母の参詣心情を取り入れて、「建立」賛同にご努力された横呂良宮司と「神社役員会の方々」に心から御礼を申し上げました。

これから本題。

NPO法人近畿フォーラム21と、淀川神社(大阪毛馬町)は事業協力して、大手建設会社に発注し、平成27年12月21日正午前から、神社境内で「蕪村銅像建立」工事を実施します。工事は、午後1時前には終わる予定です

そこで、出来上がる「蕪村銅像」の形は、下記の通りです。

・「蕪村銅像」自体の、高さは(地面より)1m60p。

・「蕪村銅像」正面は、台座石95pの上に、鉄製の「蕪村像本体」(土台付)65p。「銅像横幅」は、45p。
 
・「蕪村銅像」の正面高さ(台座付)は70p、銅像幅は(台座付)で45p。

・「銅像」正面の台座の中には、「与謝蕪村銅像」、「故郷毛馬生誕300年記念」と記しています。
更にその下に多数の「建立協賛者名」が記されています


そしてこの「蕪村銅像」が完成したあと、来年平成28年からの「蕪村生誕300年の年」のスタートに合わせて28年1月23日(土)13時から、「蕪村銅像建立の除幕式」を「淀川神社」で開催します。

 末尾になりましたが、蕪村銅像建立のため、地元・各界の方々から「賛助」にご協力を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

どうか、「蕪村生誕300年の年」幕開けの来年1月23日午後1時には、「淀川神社」での蕪村銅像建立の除幕式を開催致しますので、是非「淀川神社」にお越し頂きます様、お願い致します。 以上

◆なお、全国版「頂門一針」に、上記記事が掲載されました。蕪村顕彰を全国に発信して頂き感謝致します・
全国版「頂門一針」:バックナムバーは http://www.melma.com/backnumber_108241/

  

2015年12月20日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目があったのか。

2015年12月19日

◆知らなかったさるかに合戦

渡部 亮次郎



自宅でぼ昼食のあと、卓上に柿と梨を並べて食べていたら家人が突然「柿梨合戦じゃなかった、あれはさるかに合戦か。そういえばどういう筋書きだっけ」ときかれて私は知らなかった。

父は八郎潟干拓運動で留守勝ち、母は農耕と家事でてんてこ舞いとあっては猿蟹合戦を子どもたちに聞かせる何処路じゃなかった。或いは猿蟹合戦そのものを知らなかったかもしれない。

さるかに合戦。江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』。古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる。さるかに合戦(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺害し、殺された蟹の子供達に仕返しされるという話。「因果応報」が主題。

あらすじ(地方などにより色々あり)

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。

そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

『猿蟹合戦絵巻』より、子供の蟹たちの敵討ちの場面。本作品では臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっている。その子供の蟹達は親の敵を討とうと栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せた。

栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをして猿は火傷をおい、急いで水で冷やそうとしたら蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとしたら牛糞に滑り、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

現代では蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されたものが多く出回る。これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためである。

しかし、本来の内容を復活させるべきという声も多く上がっている。タイトルが「さるかに話」などといったものに変更されている場合もある。また、牛糞は登場しない場合もある。

近代日本を代表する小説家である芥川龍之介は蟹達が親の敵の猿を討った後、逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いている(題名は『猿蟹合戦』)。

また、1887年に教科書に掲載された『さるかに合戦』にはクリではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃している。また、牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしている。

地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在する。

なお、近年の派生作品としてはパスティーシュを得意とする作家清水義範による「猿蟹合戦」をネタに司馬遼太郎の文体を真似たパロディ小説『猿蟹の賦』及び丸谷才一の文体を真似たパロディ評論『猿蟹合戦とは何か』や、漫画家吉田戦車による中国の少数民族に伝わる同様の説話「ひよこの仇討ち」と「猿蟹合戦」をヒントにした作品『武侠 さるかに合戦』などがある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎 
  


北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。 (了)

2015年12月18日

◆好きな作詞家星野哲郎

部 亮次郎

流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなって大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。クラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 –―2010年11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

闘病期間中に作詞を勉強、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で再上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めている(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。>ウィキペディア

2015年12月17日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだが、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィルミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出などを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。

2015年12月16日

◆私の「身辺雑記」(291)

平井 修一



■12月14日(月)、朝は室温14度、曇。昨日からベランダの掃除とペンキ塗り、今朝からはLDKの床のニス塗り直しを始めたから無茶苦茶忙しく、疲労困憊して散歩不可。ニスを買いに雑貨屋へ行ってからスーパーでワインを4本買ったのが、まあ散歩みたいなもの。

自分で自分を褒めてやりたいと、とりあえず今日の分の仕事を終えたから3時から飲酒。「自褒め酒」。アル中一直線だな。

カミサンは昨日からスーパー銭湯へ。マッサージが何とも言えず快適だそうだ。小生は先日2週間ぶりにシャワーを浴びた。湯船にはここ1年ほど浸かったことがない。風呂は子・孫優先で、小生は仕舞湯を使うことに決めているが、それだと10時ころになってしまう。無理だ。

シャワーは3時半に浴びて、4時から料理を作りながらテレテレと飲み、9時には就寝。しょっちゅうウォシュレットでお尻は掃除しているし、股や足先も「ピジョンおしりマット」できれいにして、頻繁に着替えているから冬場は1週間に1回のシャワーで十分だ。

しかし2週間に1回というのはちょっとまずい・・・ヂイヂ臭い、と苦情が来る。いずれにしても「地球にやさしいヂイヂ」ではある。

アーミッシュはコップ1杯の水で清潔を保つというが、砂漠の民はどのようにしているのだろう。夏のスペインでの経験で言うと、乾燥しているから夏でも汗でべたつくことはない。肌はさらさらしている。西欧はそんな気候なのだろう。ベルサイユ宮殿にトイレがないことは知られているが、風呂場もないだろう。池で水浴したのだろうか。

日本では夏は毎晩風呂に入らないととても生きていけない。所変われば品、風習変わる。

疲れ果てて夕食後にソファーで転寝をしていたらカミサンに「布団で寝たら」と起こされたが、腰が半分抜けて歩行困難。もう無理が効かない体になったのだ。トイレへ行ったら尿漏れ防止マットに脱糞もしていた。

残りは数年だな。70歳はとても無理だ。カミサンは3000回愛したし、愛人も300回愛した。(人の3倍仕事をして、稼ぎは1.5倍だった。まあ、そんなものか)

忙しいから愛人をタクシーで送った後、駅のトイレでオシッコをしたら、やたらずっしりと重い。コンドームを付けたままだった。外す時間もなかった。

早く帰宅して(と言っても11時だが)、贖罪でカミサンも昇天させる。「カアチャン、ご免よ、勘弁してよ」と必死で抱いた。

こういう(多分バカな)ことを30歳から49歳までの20年間やった。いいことも悪いことも(人殺しと泥棒、詐欺以外)ほとんどすべてやったから未練なし。あの世では犬と散歩しよう。

■12月15日(火)、朝は4時起床、朝食を作って、そのあと二度寝したら、大いに寝坊して9時起床、エアコンがかかっていたので室温18度、曇。疲れすぎて寝床で新聞を読む。

軽減税率で安倍氏が公明党に譲歩して点を取らせたが、来年の選挙で学会票を目指しただけのことで、公明党は面目躍如だし、自民も大喜び。大体、安倍氏は消費税の10%引き上げをできるわけがないと充分知っているはずだ。

「安倍の晋三」を支持する人々は「蚤の心臓」なのだから。小生のように確定申告で400万円納めたときは誇りに思ったが、これはごく少数派だ(恥ずかしながら分割払いだったが。無茶苦茶な高金利! ほとんどサラ金だ)

明治の煙草王「天狗煙草」の創業者は、正月になると「日本一の納税者」と幟をつけた10台の人力車に愛妾を乗せて正妻に挨拶をさせたという。昔の金持ちはスケールが違う。

正妻もしっかり覚悟ができていた。正月の挨拶の際に「一年間ご苦労様でした。今年も旦那様を大切にしてくださいね」とお手当てを渡していたのだ。

小生は手ぶら、機動隊は「盾」という「矛」を持っていたが、クレーンのアーム上で取っ組み合ったから小生の方が有利だった。機動隊が墜落し、その後は小生も墜落した。一瞬で人はは死んだり気絶するから戦争は恐ろしいことではない。

少しずつ人を殺すのが好きな支那人やイスラム教徒はタチが悪いから、生きて虜囚の辱めを受けないことは正しい。

「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(土佐藩)の件。

<岡田以蔵が護衛した要人:

勝海舟(文久3年)勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。

その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている>(ウィキ)

安倍もトランプもプーチンもエルドアンも殺される覚悟を持っている。殺す覚悟ももっているだろう。習近平もモディもシーシーもジョコもそうだろう。

オランドとメルケルとキャラハンはそんなことは思っていないし、「殺すくらいなら殺される方がいい」という、ほとんど痴呆症。オバマは菅直人と同じくすぐに逃げ出すタイプ、「第4列の男」、人間のクズだ。

山本夏彦翁曰く――

「戦争がないことは何よりだが、以前戦争で解決してきたことが解決できなくなった。大量の破壊がなくて、大量の生産だけがある」

人口が半分になれば生産も半分になり“地球温暖化”とかいう問題もなくなるのではないか。

戦争を辞さない、文武両道のリーダーが望まれる。プーチンに「文=哲学=品格」があれば世界は今のような状態にはならなかったろう。習近平にはマルクス主義しかないから、ただの阿呆だ。

文部省は「実利、金になる学問を奨励しろ」と言ってバカにされたが、「文=哲学=品格」がないと国家経営は間違う。企業も同じだ。

安倍氏の後任は自衛隊出身者が望ましい。めぼしいのは“ヒゲの隊長”佐藤正久氏あたりだが、衆院に鞍替えさせて安倍氏が育てたらどうか。石破は只のリベラル、軍事オタクでしかない。稲田はどうなんだろう。高市の方が根性が坐っている感じがする。

クールビズの小池はなんとなくリベラルっぽい。女性総理でもサッチャーのように国家の名誉にかけて戦う政治家が必要だ。(バラマキをカットしたから貧困層には恨まれているそうだが)

世界は強力なリーダーを求めている。米国がマケインを選んでいたら世界はずいぶん安定していたはずだ。再び民主党のヒラリーになったら・・・防衛予算を減らして(票につながる)福祉に回すから中露は大喜びするだろう。世界はさらに壊れていく。(2015/12/15)

2015年12月15日

◆「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出 

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)12月14日(月曜日)弐 通算第4749号 > 

 〜中国軍の改変は難産、7軍区を「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出
         当面「副主任」をひとり増員し、軍紀律委書記に劉源か〜


習近平は軍の再編を指示し、9月の軍事パレードでは30万人を削減し、さらに後日、国連軍に8000名を派遣するとした。

しかし人民解放軍の効率的改変、再編作業は遅れに遅れている。

第一に既存の軍区それぞれが既得権益をもち、これを絶対に手放さないだろう。

また部隊長などは、2軍区が減らされると更迭、左遷、勇退、整理の対象になるのではないかと戦々恐々、再編への不満が爆発気味だという。

第二に軍区それぞれに付随する部隊の人事が必然的にともなくうえ、軍区所管の空軍、第二火砲部隊の再編は誰が決めるのか、どういう体系的方針があるのか不透明、これでは到底再編などとても無理であろうという声だ。

上層部の人事に関しては現在の「副主任」体制を、さらに1人増員させて、習近平側近らを充て、もっと強い人的結び付きで軍を掌握しようとしている。

現在の副主任は許其亮と氾長龍だが、いずれも胡錦濤の置きみやげ人事であり、習への忠誠心疑わしく、このため増員する「副主任」には太子党の張又峡(現「総装備部長」)か、北京武装警察司令員の王寧(習近平の子飼い)を充てるのではないか、との噂が飛んでいる。

他方、習の「軍師格」として昵懇の関係にあるのは劉源(総後勤部政治委員)を、中央軍事委員会の規律委員会書記に当て、反腐敗キャンペーンで、軍の腐敗構造に手をつっこませ、王岐山と同格の配置にするのではないか、との観測もある。

劉源はいうまでもなく劉少奇の息子、太子党でもあり、劉亜州と並んで「習近平のプライベートシンクタンンク」と言われた。

また軍のアルバイトは盛んであり、パキスタンを経由しての中国製武器が大量にISへ密輸されていることが判明した。

博訊新聞網(12月13日)に拠れば、中国は米ロについで世界3位の武器輸出国だが、「紛争当時国への武器輸出禁止」という列強の常識はまったく通じない。おもに小型ピストルなど中国製武器が確認されている。
  

2015年12月14日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」うまれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙にかいていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言っ。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。怪しげなフランス語で交渉したら
共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査した。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継者の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。文中敬称略(再掲)

2015年12月13日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。出典:フリー百科「ウィキペディア」

2015年12月06日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎


先にといっても1974年に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だったことを久々に思い出した。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そのうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさがありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目になるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してくれた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛細血管も走っているから義眼ではない。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門の脇で待っていると出てきた河野さんが私を手招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさせるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人きりの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬかとおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。まだ67歳だった。