2015年08月11日

◆ハマ「ナス」は「ナシ」の訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお印でもある。晩夏の季語。

東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培される他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれる園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道

市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町、岩手県 - 野田村青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市新潟県 - 村上市、聖籠町石川県 - かほく市、内灘町福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」といい、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うのも、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナスはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティーもなかなか美味しいですよ。>(唸声)

2015年08月09日

◆黒衣の功績日中友好条約

渡部 亮次郎



2008年の「八月八日は吉祥にて北京五輪」の開会式だが37年前のこの日は外務大臣園田直(そのだ すなお)が吉祥と思って訪中したものの、後になって見ればトウ小平に騙された日だった。

いうまでも無く日中平和友好条約の締結こそは日中友好の「鉄の橋」(福田赳夫首相)と信じて羽田から日航特別機で出発したのだった。1978年。今年が2015年だから、ちょうど37年前だ。

その6年前、NHK記者として同行した田中角栄総理大臣が、国内世論に押されたとは雖も、昭和47年7月の就任から僅か3ヶ月にも満たないうちに対中国との国交正常化を決断。9月末に共同声明を発表して目的を遂げた。

その共同声明の第8項目にこうある。

<日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行なうことに合意した。>

つまり日中平和友好条約は共同声明にそって日本からの経済・技術協力など支援策を具体化するための基本条約だから、中国側はすぐにでも手にしたい条約である。それなのに中国が反対して田中に続く三木内閣でも締結できなかった。6年が流れていた。

ソ連(当時)が日中離間を策して条約締結に反対を表明。これが「覇権」条項となって交渉は乗り上げたからである。改革開放派のトウ小平は失脚、下放中。主導権を握る強硬派はいわば原理派であった。

三木に続く福田赳夫内閣。外務大臣は大蔵事務次官から参議院議員になって間が無い鳩山威一郎。目立つ実績を挙げられないまま1年で退任。その後を襲ったのが官房長官だった園田直(そのだすなお)。初外遊をソ連にして環境整備に成功した。

その前に内閣改造の朝に自宅へ電話を掛けてきて「ナベしゃん、ワシの秘書官になってよ」というから「いいですよ、何大臣ですか」「ま、官房長官留任だと思うがね、なんでもいいじゃない」

簡単に転身を了承してしまったが、電車で総理官邸に辿り着いてみたら「外務大臣園田直」になっていて私は足を踏み入れた事も無い外務省で大臣秘書官になっていた。

マスコミや世間は園田の外相への転出を誤解した。予て官房長官時代から、鳩山外相よりも日中条約締結に積極姿勢を見せていた園田氏を外相に据えたのだから福田首相は愈々条約締結を決断という誤解である。

確かに園田氏は締結に積極的な態度を示していた。国交の無い時代に政府の制止を振り切って中国入りした過去もあるし、非公式に来日した廖承志(対日関係責任者)と面談するなどの実績もあるから誤解も当然といえた。

しかし福田首相のハラは逆だった。日中平和条約の締結よりも「総裁(総理)の任期2年」という大平正芳幹事長との密約を反故(ほご)にする事に、密約の立会人たる園田に了承を求めるための外相起用だった。確かに内閣改造では園田だけが残留、横滑りだった。

予て記者の則を越えて親しくしていた園田さんだったが、さすが秘書官(使用人)になってみると私邸に伺っても以後は玄関ではなく勝手口から入れとう言われるなど「矩」を強いられた。

その分、大臣との一体感を要求されてゆくわけだが私の場合は違って、もう1人の自分が自分を冷静に見るようになっていった。その目で見ると、園田の対中戦術の要点が見えてきた。官房長官時代から対中「黒衣(くろこ)」を密かに放って直に中国首脳の動きを掌握していたのである。

この人物は父親が石炭採掘の学者だった故を以て終戦後も中国残留を余儀なくされた人の息子で、園田氏とは趣味の剣道の弟子として結ばれていた。

この人物にカネを渡し、予て交流のあった廖承志(対日関係責任者)とその周辺の動きを探らせ、定期的に情報を得ていたのである。それが裏付けとして黒衣と会うのは記者たちが押しかける前の早朝、私邸の寝室に限られていた。

私は黒衣氏との直接の接触は極力避けたが、絶無ということは無かった。黒衣氏から報告を聴取した後の園田氏の表情から逆に報告の内容を推測できるようになっていった。

1978年の2月ごろから「とにかく園田外務大臣が訪中してくれさえすれば絶対恥はかかせない」という報告が入り始めた。外務省でアジア局長や中国課長からは全く入ってこない情報だった。彼の秘密訪中は計14回に及んだ。

後で考えれば前年(1977年)7月、生涯3度目の復活を果たしたトウ小平が毛沢東、周恩来亡き後の党主導権を握り、念願とする経済の改革開放に向けてカジをきり始めた頃である。廖承志氏はトウに近いから園田大臣への黒衣情報はトウ情報だったのである。

この頃、外務省も北京大使館もトウ氏の動きは全くつかめていなかった。だから1978年8月8日に至って有田圭輔事務次官が日航特別機で飛び立って下さいと言ってきたとき、園田氏は黒衣氏の情報と外務省の情報の一致は無いものの北京での「成功」を最早疑っていなかった。

確かに北京では2回目の外相会談であれほど「覇権問題」に拘ってきたのにあっさり日本案を受け入れた。あっけなかった。「引退の花道にされる」として条約の締結に消極的だった福田首相は日中間に鉄の橋がかかった」と喜んだ。しかし、自らの任期延長作戦には失敗、大平に敗れた。

かくて中国のその後の発展を見るとき、地下の福田、園田両氏は如何なる感慨を持っているだろうか。秘書官に過ぎなかった私から見れば資金や技術のとてつもない援助。トウ小平にしてやられたという反省が消えない。

日中平和友好条約の締結と時を同じくするように東京ー大阪の新幹線のスピードに鞭を入れられたケ小平が経済だけの改革開放政策を実施。日本は今日の繁栄の貢献者なのだが感謝されたことはない。元秘書官風情としては何か起きる事を期待する。騙されたままで終わってはならない。

2015年08月07日

◆いっそ小田急で逃げましょか

渡部 亮次郎



「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は歌が大変な宣伝になったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

佐伯孝夫は「有楽町で逢いましょう」をつくり、は「高校三年生」を作詞した。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田
英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の影に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

東京は7月22日に梅雨明けとなり本格的な夏に突入。秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。

 
渡部 亮次郎

「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は歌が大変な宣伝になったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

佐伯孝夫は「有楽町で逢いましょう」をつくり、は「高校三年生」を作詞した。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田
英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の影に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

東京は7月22日に梅雨明けとなり本格的な夏に突入。秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。

2015年08月06日

◆これほどの大物が居た 後藤新平

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結することになった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の下で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation.
All rights reserved.  2007・04・15

2015年08月04日

◆五輪担当大臣の貫禄

渡部 亮次郎

メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても50年以前に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だったことを久々に思い出した。

先日、ある酒席で今度の五輪担当大臣の貫禄が話題になった直後昔を思い出すには時間がかかった。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そのうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさがありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目になるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してくれた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛細血管も走っているから義眼ではない。

これはね若いころ弟の謙三からトラホームを伝染され、小田原の眼医者で手術を受けた晩、安静にしろと言う医者の忠告を振り切って悪所に通ってこじらせたから殆ど見えなくなったんだよ。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門も脇で待っていると出てきた河野さんが私てn招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさせるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人きりの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬかとおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。まだ67歳だった。        2015・8・3執筆。

2015年07月25日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎



「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

ご記憶のように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅(かん)首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならなかった。

2015年07月22日

◆犀星 遠きにありても

渡部 亮次郎



ふるさとは遠きにありて思ふもの、と歌った金沢出身の作家室生犀星はなぜ「そして悲しく歌うもの、たというらぶれ異土のかたいとなるとても かえるところにあるまじや」とうたって嘆いたのだろうか。

高校で国語の先生は多くを語らなかった。最近はお盆や正月に都会から人々が田舎へ帰省する理由として、阿呆なアナウンサーが、一つ覚えに使うが、歌の真意を知っていれば使えないフレーズとは知らないのだろ
う。

2006年7月24日の産経新聞でコラムニストの石井英夫さんがコラム「蛙の遠めがね」で、犀星が遠きにありて思うもの、それは、ふるさとの先に存在したはずの真の母、真の父だったと紹介した。芸者と小学校長(妻子持ち)の間に出来た子だったという。

本名照道(てるみち)1889〔明治22〕年、加賀藩の足軽頭だった小畠弥左衛門吉種と母春の間に生まれるが、生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院の住職、室生家に養子に出される。

筆名の犀星は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。

石井さんに最近、情報を寄せた金沢市出身の詩人で文藝詳論家安宅夏夫さんのリポートによると母は既に明らかになっていたように芸者「ちか」だが父は吉種ではなく息子の生種と分ったのだそうだ。昭和51年、小畠家の仏壇の後ろから出てきた1通のハガキがきっかけだった。

「山崎ちか(のちに林)は20歳の時、高岡市〔富山県〕の遊郭の芸者になり、犀星の本当の父小畠生種と出会い、犀星を産んだ。しかし生種は26歳ながら小学校の校長であり、妻子を残しての単身赴任だった。

宴会に出る機会も多く、そこでちかを知り、愛し合うようになった。妻子ある教育者が芸者と懇ろになって子を成したというのでは世間に顔向けができない。そこで父の吉種の子としたのだ。吉種は当時63歳で、21歳の芸者を身籠らせるには無理がある」と石井さん。

1902年金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受ける。

新聞へ投句を始め1904年10月8日付け北國新聞に初掲載。この時の号は照文。その後、詩、短歌などにも手を染める。1913年 北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。

同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。 1916年 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行した。この1919年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。

1929年初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年 『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言。(実際にはその後も多くの詩作を行っている。) 1935年 芥川賞の選考委員となり、1942年まで続ける。

1959年 野間文芸賞を受賞。この賞金から翌年 室生犀星詩人賞を設定。1962(昭和37)年3月26日、肺癌の為に死去。抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。>

「生前の犀星はこれらの事実を知っており、生母にも会ったフシがある。しかしすべてを胸の奥、腹の底に折りたたんで苦悩してきた。父の伝記を書いた室生朝子も、書けない、書いてはいけないこととし、室生家のタブーとして封印してきたのである」

「安宅さんはすべての経緯を今年6月発刊の『人物研究』第17号(近代人物研究会)に発表。・・・若き日のちかの写真には、鹿鳴館スタイルのもある。モダンな感じもあるが、細面の寂しげな眼差しを持つ美しいひとだった」。(石井)

朝日新聞社の「現代人物事典」1977年3月1日刊では室生犀星について滝口雅子氏が「9歳の時、生母が行方不明となり、その後母に会わなかった」と書いているが、これも訂正しなければならない。

明治時代のことである。犀星の出生の秘密を近所の人たちは早くに知っただろう。知って照道少年を芸者の子として差別しただろう。だからふるさとは犀星にとっては決して帰るべき懐かしいところでなんか無かった。しかし父と母にはどうしても逢いたかった。胸つぶれる想いの詩なのである。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)
2006・07・24

2015年07月19日

◆マロニエとは栃の木のこと

渡部 亮次郎



日本の歌で、「栃の木」は出てこない、なぜかフランス語「マロニエ」と歌われる。「ウィキペディア」で「マロニエ」と索引したら「栃の木」と出てきた。

なんとなくシャンソンといえば洒落ているが「栃の木」では歌になりにくいのか。尤も、日本人は「7月14日」を「パリ祭」とはしゃぐが1789年 フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発の革命記念日なのである。

私は1978年のこの日、パリのコンコルド広場に展開された軍事パレードを観て、自分が世界の田舎者であることを痛感した。フランス人にとって7月14日はギロチンの日であり、祭りだけの日ではないのだ。

だからマロニエは、はじめっから栃の木なのである。

トチノキ(栃、橡、栃の木、学名:Aesculus turbinata)とは、トチノキ科(APG植物分類体系ではムクロジ科とする)トチノキ属の落葉広葉樹。

近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキ (Aesculus hippocastanum)が、フランス語名「マロニエ:marronnier」としてよく知られている。

日本では東日本を中心に分布、中でも東北地方に顕著に見られる、と「ウィキペディア」は言うが、郷里秋田ではお目にかかったことがない。

落葉性の高木で、温帯の落葉広葉樹林の重要な構成種の一つ。水気を好み、適度に湿気のある肥沃な土壌で育つ。谷間では、より低い標高から出現することもある。サワグルミ(猿江公園には2本だけある)などとともに姿を見せることが多い。

木はとても大きくなり高さ25m、太さも1mを越えるものが少なくない。葉も非常に大きく、この区域では最大級の葉である。葉柄は長く、その先に倒卵形の小葉5〜7枚を掌状につけ(掌状複葉)、全体の長さは50cmにもなる。葉は枝先に集まって着く。

5月から6月にその葉の間から穂状の花序が顔を出す。穂は高く立ち上がり、個々の花と花びらはさほど大きくないが、雄しべが伸び、全体としてはにぎやかで目立つ姿である。花は白〜薄い紅色。

江東区の猿江公園では花は未だ咲かない。

秋にツバキのものを大きくしたような丸い果実が熟すと厚い果皮が割れて少数の種子を落とす。種子は大きさ、艶、形ともに、クリのてっぺんのとんがりをなくして丸くしたようなものを想像すれば、ほぼ間違いない。ただし、色はより黒っぽい。

日本では渋抜きをした上で「栃餅」という和菓子をつくるが、友人安宅峯夫がパリで実を拾ったところ、ホテルのボーイが「食べられない」といったので捨てた。

どうも品種が違うようだ。

栃の無垢一枚板木材として家具などの材料となる。巨木になるものが多いので、昔はくり抜いて臼を作るのにもよく使われたが、最近は乱伐が原因で産出量が減り、主にテーブルなどに使用される。

木質は芯が黄金がかった黄色で、周辺は白色調。綺麗な杢目がでることが多い。また真っ直ぐ伸びる木ではないので変化に飛んだ木材となりやすい。比較的乾燥しにくい木材であるが、乾燥が進むと割れやすいのが欠点であるが、21世紀頃にはウォールナットなどと同じ銘木級の高価な木材となっている。

デンプンやタンパク質を多く含有する種子は栃の実として渋抜きして食用になる。同様に渋抜きして食用になるコナラやミズナラなどの果実(ドングリ)よりも長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど高度な技術が必要で手間がかかるが、かつては米がほとんど取れない山村ではヒエやドングリと共に主食の大きな一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(飢救作物)として重宝された。

そのために森林の伐採の時にもトチノキは切り残す慣習を持つ地域もあった。私有の山であってもトチノキを勝手に伐採することを禁止していた藩もあったほどである。

また、各地に残る栃谷や栃ノ谷などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。現在では、渋抜きしたものをもち米と共についた栃餅(とちもち)などとしてあちこちの土産物になっている。

縄文時代の遺跡からも出土しており、ドングリやクルミ同様、古くから食用とされてきた。保存もきくので、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。

花はミツバチが好んで吸蜜に訪れ、養蜂の蜜源植物としても重要であったが、拡大造林政策などによって低山帯が一面針葉樹の人工林と化していき、トチノキなどが多い森林は減少し日本の養蜂に大きな打撃を与えた。

そのほか、街路樹に用いられる。パリの街路樹のマロニエは、セイヨウトチノキといわれ実のさやに刺がある。また、マロニエと米国産のアカバナトチノキ (Aesculus pavia) を交配したベニバナトチノキ(Aesculus x carnea) も街路樹として使用される。

日本では大正時代から街路樹として採用されるようになった。しかし湿気のある土地を好むため、東京などの大都市とは相性が悪い。

小学校の国語の教科書にも採用されている斎藤隆介著の児童文学『モチモチの木』に登場する木は、このトチノキである。

トチノキは栃木県の県木であり、関連用語としてトチノキの葉を表す「栃の葉」(とちのは)や「マロニエ」共々栃木県に関連する物象に冠される。(「ウィキペディア」)

--

2015年07月17日

◆2倍美味しかった豚肉

渡部 亮次郎



秋田の田圃の中で育った私は蛋白質といえば旧八郎潟から網で掬える淡水魚と家で飼っている鶏、それに大豆を摺り潰した呉汁で大きくなった。だから豚肉を初めて食べたのは13歳、刺身を食べたのは60歳だった。

ブタの先祖である野生のイノシシは、アジア、ヨーロッパに広く分布していた。そのため、イノシシを食用にすること、捕えて飼育することは早くから中国やエジプト、ギリシアなどで同時発生的に行われていた。

中国では紀元前2200年ごろにはすでにブタが飼育され、豚肉は羊肉とともに重要な食肉となっている。また、古代エジプトの原始農耕時代(前5000以降)に養豚が行われていたことが壁画にうかがえる。

古代ギリシア(前2000ころ)では豚肉を食べることが一般的に広がり、ハムやソーセージのような肉加工品もつくられている。

一方、イスラム教やユダヤ教、ヒンドゥー教では豚肉をタブー視し、徹底して豚肉を避けている。中国のように豚肉を多く食べる国では、イスラム教徒専門の飲食店が存在し、主として羊肉や牛肉を用いている。

日本では、縄文・弥生(やよい)時代の貝塚からイノシシの骨が出土しており、中には鏃(やじり)の刺さったままの骨片もあった。銅鐸(どうたく)には、イヌを使い、弓矢でイノシシを狩る図も描かれている。

中国の影響を受けて、沖縄地方で早くから豚肉が食用とされていた(室町中期には豚肉を用いた沖縄料理のあったことが記録にある)。江戸時代には、沖縄から養豚が鹿児島に伝わり、鹿児島でも豚肉を食用とすることになった。

長崎では中国から養豚が伝わり、在留する外国人のためにも養豚と豚肉を食べることがかなり一般化していた。全国的には明治になって肉食が奨励されたが、豚肉よりも牛肉が中心で、豚肉が全国的に普及したのは明治中ごろからである。

豚肉は脂肪、タンパク質のよい給源で、ビタミンでは牛肉や鶏肉に比べB1が多い。とくにヒレ、もも肉など脂肪の少ない部位にビタミンB1が多く、牛肉や鶏肉の約10倍含まれる。脂肪は牛肉に比べ、リノール酸が多いのが特徴。

中学3年の夏休み、野球部の合宿中、心臓脚気で死に損なったが、豚肉をもっと食べていれば罹らなかった。だが、貧しくて家では豚肉を滅多に買えなかった。(Yahoo!百科事典検索Yahoo!百科事典)

日本では天武天皇の675年に最初の肉食禁止令が出され、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・ニホンザル・ニワトリ・イヌ)の肉を食べてはいけないとされたがこれに豚は含まれていなかった。

戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。

その後、大部分の地域では豚肉を食べる習慣は廃れ、わずかに薩摩藩と南西諸島では日常的に養豚が為されていた。

琉球では17世紀以前は牛肉がその座を占めていたが、羽地朝秀の改革によりウシの食用が禁止され、その後冊封使節団を接待するため王府によりブタの大量生産が奨励された事なども相まって、牛肉に代わる存在となっていった。

現在の沖縄料理では最も重要な食材となっている。沖縄で飼育されている豚は、1385年に渡来したという琉球王国時代より続く血統の黒豚「アーグ」が有名。「アグー」または「シマウヮー(“島豚”の意)」とも。

一方薩摩でも、豚肉を用いた薩摩料理が発達した。西郷隆盛も脂身のたっぷりついた豚肉が大好物だったという。1827年の佐藤信淵著『経済要録』には、薩摩藩の江戸邸では豚を飼育し、それによって取れた豚肉を町で売っていたという記録が為されている。また、江戸ではももんじ屋などで食べられた。

1845年5月2日の書簡によれば、江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜は、島津斉彬から父・徳川斉昭宛てに豚肉が送られていたという。

そのせいか、彼は豚肉を好んで食べており、下々の者たちから「豚一様」と呼ばれていた。「豚一様」とは、「豚肉がお好きな一橋様」の略称である。

新選組も西本願寺駐屯時に、松本良順の勧めで神戸から子豚を持ち込んで養豚し、食べていた。豚の解体は京都木屋町の医者・南部精一の弟子に依頼していた。

福澤諭吉著『西洋衣食住』には、大坂にあった緒方洪庵の適塾にて学ぶ塾生たちも豚を食べていたとの記録がなされている。

明治維新以後は日本全土で豚肉が一般に食べられるようになり、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にもそのことに関する記述が見られる。

特に関東大震災後の関東地方ではにわかに養豚ブームが起き、豚肉の供給量が増え安価になったため、庶民たちにも比較的手の届くものとなった。関東を中心とする多くの地方で「肉」と言えば豚肉のことを指すようにもなった。

なお、関西で「肉」と言えば牛肉のことを指し、豚肉は「豚」と呼ばれる事が多い。従って関西では、豚肉などを使った中華まんのことを「肉まん」とは呼ばず「豚まん」と呼ぶ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2015年07月15日

◆やくざでない人の刺青

渡部 亮次郎



小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後、議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。

昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。

妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている

2015年07月12日

◆欧米の肥満人口増深刻

渡部 亮次郎



親戚に「体重0・1トン」と自称する男が居る。若いころ、ラグビーの選手だったとかで、相当筋肉質の太り方。体重が100キロを超えているとは想像できない。

そういう自分も85キロに達したことがあった。37歳の頃。健康診断で医者に「痩せなけりゃ駄目ですね」と言われて秋の検診までに13キロ痩せていったら「こんなに急に痩せては身体に悪い」と言われて苦笑した。

しかし、糖尿病になりやすい遺伝子を持った人が肥満をきっかけに発症するとは知らなかった。もともとアジア人は貧困の歴史が長く、過食の歴史がない。そのせいでちょっとの過食で糖尿病になりやすいらしい。

中国でも経済事情も改善された沿岸部では猛烈な勢いで糖尿病が増えている。中国料理を見ればカロリーの高い物は少ない。肉類だってハイカロリーの牛肉はまともに使っていない。

ところが懐が豊かになったものだからステ−キをやたら喰って、結果、糖尿病患者急増という事態を招いている。専門医が各国から招かれ、日本からも相当、駆けつけている。

ところで産経新聞(2007・03・27)によれば、もともと肥満者の多い欧米だが「体重220キロにも対応できる救急車、重い患者を動かすリフトマン」と言う記事。もはや肥満は個人の健康問題にとどまらず、公害問題、社会問題ともなりつつある、というのだ。

以下、産経新聞に記事。

近年の肥満人口の増加ぶりは急激で、医療費の負担増を招くばかりでなく、交通機関の燃料消費も増え、排出される二酸化炭素の増加で環境にも負担がかかる。

欧米における肥満の増加は深刻だ。世界保健機関(WHO)によると、肥満の指標であるBMI(体重÷身長÷身長)数値が30以上の肥満人口は、1995年から2000年の間に世界で2億人から3億人以上に増加した。

人口に占める肥満者の割合(大人の場合)は米国で30.5%、英国で22.14%、オーストラリアは16.4%。日本(3.1%)や中国(2.9%)などアジア諸国に比べると、その数字は際だって高い。

肥満人口の増加に悩む米フロリダ州の病院では、重い患者を運ぶため、男性6人による特別リフトチームが結成された。体重約150キロを超える入院患者は、20年前は年に1人いるかどうかだったが、このごろは毎日のように運ばれてくるという。

一方、豪州のサウスオーストラリア州では、3月、引っ越しトラックのような大型救急車を導入した。体重110キロを超える患者は8年前は年間10人ほどに過ぎなかったが、いまでは100人近くに上るからだ。

ニューサウスウェールズ州でも最近、救急車の担架積載能力を180キロから220キロに強化した。同州では、大型救急車の出動回数が過去3年で2倍以上も増えたといい、救急ヘリコプターも、重い患者を搬送できる機材に変更する予定だ。

大型救急車の導入は、英国などでも相次いでいる。

肥満患者に対応できる救急車は1台約3000万円。行政側の負担も大きい。米国では肥満に関連した医療費支出が年間約750億ドル、うち約400億ドルが税金でまかなわれている。

米国人の場合、1990年代に平均4・5キロ体重が増えたために旅客機の燃料消費を押し上げ、年間380万トンの余分な二酸化炭素を排出しているとのデータもある。

英国では旅客機で太った乗客の隣に乗り合わせたために身動きが取れず、血液が凝縮し筋肉を切断する手術を受けたケースまで報告されている。WHOは「肥満は最も目に見えていながら最も放置されている公共的な健康問題だ」と警告している。(坂本英彰)
(Sankei Web 2007/03/27 22:53)

2015年07月11日

◆伊藤律の帰国事件? 知らん

渡部 亮次郎



伊藤律(りつ)とは日本共産党初期の大物。戦後、マッカーサーに睨まれて地下に潜ったまま行方不明となった。ところが実は中国に密入国で渡り暮していたが1980年9月3日に突然帰国して世間を驚かせた。彼にとって「帰国」は「事件」だったのである。

ところが頼りにしているフリー百科「ウィキペディア」では伊藤律に関しては何方も手を下していない。三省堂の「コンサイス人名辞典 日本編」第1刷(1976年3月20日発行)により生まれは1913(大正2)年、岐阜県出身とわかったが、今のところ没年月日は不明である。

一高中退とあるのは、在学中、共産党運動に参加し放校処分となったため。1933年検挙され、出獄後、39年、満鉄東京支社調査部に入る。

この間、小林陽之助らの「人民戦線グループ」に参加し、40年には満鉄共産党事件で検挙。41(昭和16)年再び検挙され、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなった。

事件の発覚は、日本の特別高等警察(特高)資料などをもとにまとめたアメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件の真相」(1949年に公表)によれば、共産党再建容疑で取り調べ中の伊藤律の自供により、1941年9月、元アメリカ共産党員の北林トモが検挙されたことにはじまる。

伊藤自身は、死後の93年に出版された回想録で、自分は陰謀の被害者で、後の議長野坂参三こそがゾルゲの諜報網を「売った」と主張している。野坂も100歳で死ぬ直前、スパイ容疑で除名された。

ゾルゲ事件 ゾルゲじけん 1941年(昭和16)10月におきたリヒャルト・ゾルゲらの諜報(ちょうほう)活動と尾崎秀実らの反戦活動に対する検挙事件。

41年9月〜42年6月にゾルゲや尾崎ら35名がスパイ容疑で逮捕され、18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法の各法違反などで起訴された。逮捕者の中には、機密情報提供の容疑者として近衛文麿首相のブレーンだった犬養健(たける)や西園寺公一(きんかず)らもふくまれていた。

検挙は極秘にされ、事件が「国際諜報団事件」として司法省から公表されたのは1942年5月だった。

43年の裁判の結果、ゾルゲと尾崎は死刑判決、2名が無期懲役のほか全員が有罪判決をうけた。

西園寺は執行猶予、犬養は上告審で無罪となった。44年にゾルゲと尾崎は上告が棄却され、同年11月7日(ロシアの革命記念日)に死刑が執行された。ブーケリッチや宮城ら5人は獄死した。

伊藤律は、敗戦後、日本農民組合結成に参加しながら日本共産党再建に従事。徳田球一の下で政治局員、書記局員を歴任、農民部長として極左的な農業綱領を作成した。No.2にのし上がった。

1950年、コミンフォルム批判後は徳田と行動を共にし、地下活動に入るが宮本顕治に追われ、55年、スパイ活動を理由に除名された。コンサイス人名辞典はここまでで「その後、消息不明。」で切れている。

後に明らかになるが伊藤は早くに建国間もない中華人民共和国に密航、中国共産党に幽閉されていたらしい。それなのに1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

これが真っ赤な嘘。記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」 と弁明。「戦後生まれ変わった朝日新聞の輝かしいねつ造の扉を開いた金字塔」とは「頂門の一針」798号(07・05・11日)で私が朝日新聞を得意技は捏造?と揶揄した文章である。

伊藤律氏はレッド・パ−ジ(1949-50年に行われた共産党員の公職追放)で地下に潜行中だったが、その記事の見出しは「姿を現した伊藤律氏 本社記者宝塚山中で問答」

「徳田氏は知らない 月光の下 やつれた顔」となっていた。この記事は、3日後の9月30日付け夕刊で「ねつ造記事と判明した」として、陳謝と全文取り消しの社告で抹消され、縮刷版のこの日の社会面の中央は白紙になっている。『朝日新聞社史』昭和戦後編125ページに「伊藤律架空会見記」の項がある。

さて、
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/index.htm

による「事件史探求 伊藤律・帰国事件」によると昭和55年9月3日午後1時45分、日本共産党No.2(昭和20年代前半当時)で潜伏先の中国で死亡したと思われていた伊藤律(当時67歳)が中国民航の臨時便で帰国した。

羽田空港は300人以上の報道陣が詰め掛けて騒然となった。伊藤律は報道陣のフラッシュの中を濃紺のスーツを着て車椅子に乗って現れた。伊藤律は昭和26年9月に忽然と姿を消した日本共産党の大物政治局員で実に30年振りの日本帰国となった。

これに先立つ昭和24年2月10日、米国陸軍省はウイロビー報告で「ゾルゲ事件」の全容を明らかにした。これによって、日本共産党は伊藤律が「党を裏切った密告者」であると断じた。

日本共産党は昭和28年9月、伊藤律をスパイとして処分し除名した。さらに昭和30年には六全共で除名が確認された。公安当局も伊藤律は昭和45年6月に中国で死亡したと判断し捜査を打ち切った。公安は辻褄あわせをして嘘をいうのだ。

当の伊藤律は昭和26年9月に日本を脱出し中国で生きていた。が、帰国後の伊藤律は脱出の経緯、ゾルゲ事件での裏切り行為の真偽、帰国までの活動その他の事実を一切語らぬまま死んだ。

参考:マイクロソフト『エンカルタ総合大百科』2007・08・31執筆

2015年07月09日

◆オイカサラマサ予算

渡部 亮次郎



自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」と判断できた。他社の連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていた。

打ち続く野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やして伝家の宝刀宜しく、採決強行(強行採決)を断行するぞと予告をしているのであった。記事やニュースには出なかったが、記者クラブでは以後しばらくガッポウテキが流行語となった。

それからしばらくして委員長はなんと入閣した。佐藤首相はそれをガッポウテキと判断したのだろう。

日本のみならずどこの国でも、国民に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

どこか大国の大統領ですら、最近、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいるくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかいた。

昔のある代議士は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。お気づきだろうか、追加更正予算のことである。今の世は更正の語を使わないから、オイカサラマサと言われて判る人は少なかろう。

いずれにしろ議場は大爆笑に包まれたか否か。そういえば、演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)やった兵(つわもの)がいたそうだ。

学識が足りないから原稿は誰かに書いて貰ったのだろうが、筆者は気を利かせたつもりで、アドバイスよろしく(このへんで一息入れて、水を飲みなさい)を書いたところ、代議士はそのまま読んじゃった。口に蓋をしたかっただろう。しかしこの場合は書いた方が良くないと思わないか。

津軽(青森県の西側半分)出身の作家・石坂洋次郎の小説「青い山脈」で女学生宛てのラブレターを先生が取り上げていきなり「へんしい、へんしい」と誤字どおり読んで笑わせる場面がある。

もちろん恋しい、恋しいなのであるが、文字とか言葉というものは、子どものうちこそ注意してくれる人があって直せるが、大人になってからでは、誰も失礼と思うから下を向いて笑いを堪(こらえ)たままだから、本人がどでかい恥を掻く事になる。まさに聞くは一時(いっとき)の恥云々である。

「夫妻」を「ふうさい」といって直らない社長がいる。「夫婦」は「ふうふ」だから「ふうさい」と覚えてしまったのである。別の人は「熾烈」を「しきれつ」と発音する。だからか「旗幟」を「きし」ではなく「きしょく」と言って恥じない。

そうかと思えば雑談の中で「さつじん」を連発するが意味は通じない。映画の話だから「殺陣」(たて)のことなのであるこの人は頻繁に国連総会の演説で「漸次」を「暫時」と読み替えて側近を苦笑させた。

「次第に」を「しばらく」に変えたのでは意味が大分違うが、彼はどちらも「ざんじ」とよむのだった。そういえば朝日新聞ですら「まだ」未青年だ、などと書く。漢文をやめたからこうなった。

代議士ではないが「お土産」を「おどさん」としか読めないタレントがいた。さすがにディレクターがそっと呼んで事なきを得たそうだ。NHKのアナウンサーですら「愛娘」を「まなむすめ」ではなく「あいろう」と読んだり、「春日」を「はるひ」と読む。

こうしたことはその人の学識と無関係なことだから、「珍語」と打ってパソコンが「鎮護」としか出せないように、これからもいろいろあって恥をかいたり笑わせたりするだろう。(再掲)