2015年03月07日

◆金持ちはケチ(吝嗇)だから金持ち

渡部 亮次郎



「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような者は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと鈴木宗男は云ったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)

2015年03月05日

◆良識ある沖縄の人々に尋ねたい

田久保 忠衛



何もいまに始まったことではないが、東京と那覇とのやり取りを観察していると、うんざりする意味で「沖縄疲れ」に陥る。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に対して翁長雄志知事は「新基地建設反対」を唱え、沖縄防衛局が辺野古沿岸部の海底に設置したコンクリート製の大型ブロックが「サンゴ礁を傷つけている。前知事時代に県が岩礁破砕を許可した区域外の設置だ」と注文をつけ出した。あらゆる手段で移設を阻止するという。

2月22日には与那国島で自衛隊配備の是非を問う住民投票が実施された。幸いにして受け入れは認められたが、中学生以上の未成年者と永住外国人に投票権を与える、異常な投票であった。

記憶に新しいのは石垣市、竹富町、与那国町1市2町の中学校教科書採択地区で、竹富町だけが決定に反した行動を取り、国はコントロールできなくなった。

国家の専管事項である外交、防衛、教育、エネルギー政策などの枠を沖縄だけがはみ出しているにもかかわらず、誰もが口に蓋をしている。

日本における米軍基地の負担が沖縄に集中してきたとの「東京」の罪の意識と、その心理を結果的に利用してきた「那覇」の葛藤に根本の原因がある。

日本が国際社会の中で自らが置かれた立場をいかに知らないかは、1990〜91年の湾岸戦争で資金の提供以外に血も汗も流そうとせず、各国から奇異の念を抱かれたことで痛いほどに感じたはずだ。安倍晋三政権は日本を「普通の国」にしようと努力しているところだが、沖縄も「普通の県」を目指してほしい。

まるで独立した国の指導者

翁長知事が先の県議会で読み上げた所信表明演説の目玉は辺野古移設反対だけだった。「沖縄を取り巻く現状の認識」の項目には、日本がどのような方向を目指し、その中で防衛の第一線に位置する沖縄がどうあるべきかには全く触れていない。

沖縄県尖閣諸島の領海に中国の公船が入っている現状も、北朝鮮の脅威も知事の念頭には全くないらしい。

一方で、これまでの沖縄県知事の中には、基地問題などで米政府と直接交渉するためワシントンを何回か訪れた人物もいた。あたかも、沖縄は日本から独立した琉球国の指導者であるかのような言動には、日米両国にも首をかしげた向きは少なくなかったろう。

翁長知事も4月にワシントンに県駐在員として平安山英雄氏を派遣する。2月25日付の沖縄タイムス紙のインタビュー記事を読んだが、「名護市辺野古の新基地建設反対、米軍普天間飛行場の危険性除去は翁長知事の重要政策だ」との質問に対し、平安山氏は「知事の公約と政策を実現するため、しっかりと手伝いたい」と答えていた。

これは沖縄の伝統、文化や県産品の対米PRとは性格が違う仕事だ。平安山氏は琉球国の駐米大使になったつもりなのか。

沖縄国際大学で2月15日に「道標求めて−沖縄の自己決定権を問う」とのテーマによるシンポジウムが開かれた。姜尚中聖学院大学長は1854年に琉球国と米国との間で結ばれた琉米修好条約や琉球併合(「琉球処分」)を起点に、沖縄の自己決定権をめぐる問題を抱えた他地域との連帯によって問題を普遍化していくべきだと述べた(琉球新報2月16日付)そうだ。

辺野古移設に抗議する県民集会の記事は地元2紙によって派手に伝えられているが、「政府」と書けばいいのになぜ「日本政府」と表現し、「日本人警備員がゲート前に集合」などと不可解な言葉を使用するのか。   
              (たくぼ ただえ 杏林大学名誉教授)
                産経ニュース【正論】2015.3.4

  

2015年03月02日

◆ドレミファは禁句だった

渡部 亮次郎



ラジオ深夜便で超ベテランの筈の宇田川清江アンカーが「コトコトコットン」の「森の水車」が戦時中は発売禁止になっていた、だけど何の差障りも無いこの歌詞のどこに文句が付いたのかしら、と疑問符をつけたことがある。

昭和18年、女優の高峰秀子(三枝子にあらず)が唄ったが、間もなく発売禁止になった。戦後、NHK専属の歌手荒井恵子 がよく唄って普及したが、レコードは並木路子のしか残っていない。

そもそも、対外戦争をすると、歌や言論を統制するのは各国当然の措置だが、生まれた時から憲法により言論の自由を謳歌してきた世代には納得が行くまい。

結論を先に言うと「森の水車」の歌詞に「ファミレドシドレミファ」と言う箇所があり、この部分が外国語なので発売禁止になったのである。ドレミファソラシドは「イタリヤ語」である。戦争に伴って外国語=敵性語として使用禁止。ドレミは後ろから唄っても敵性語とされた。

ドイツとイタリアは三国同盟で「味方」のはずではなかったか。それでもドレミは禁止。検閲官に教養が無かった?詳しい経緯はまだ調べていない。

<日本語では「ハニホヘトイロハ」、英語では「CDEFGABC」となる。戦時中、唱歌の時間で音楽の先生は「ハニホヘトイロハ」で教えてくれた。今のこどもは「ハニホヘトってなんだ?」

ドレミファソラシの音階を使ったものでは、「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」が有名である。(註:この映画の中では「シ」は「tee」と発音されていた)

「新版 日本流行歌史」(中)=社会思想社=によると「森の水車」は作詞:清水みのる、作曲:米山正夫で作られ、昭和16(1941)年8月,唄:高峰秀子によりポリドールから発売された。

一、
みどりの森の 彼方から
陽気な唄が 聞えましょう
あれは水車の まわる音
耳を澄ましてお聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

二、
雨の降る日も 風の日も
森の水車は 休みなく
粉挽き臼の 拍子とり
愉快に唄を つづけます
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

三、
もしも貴方が 怠けたり
遊んでいたく なった時
森の水車の うた声を
ひとり静かに お聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

これが発売禁止処分。戦争をするとはこんなものなんだ。
2009・03・21初掲載。

2015年02月28日

◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎



そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可をどこかの役所から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質のコムギを産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。(新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で初めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

2015年02月26日

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破したのは元医者の作家・故渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。


2015年02月23日

◆見え始めた日本再生への道

櫻井よしこ
 


「恰(あたか)も、明治維新のあの大改革の嵐、日本開国の命懸けの戦いの中を駆け抜けたような感慨を抱いています」

中央教育審議会会長の安西祐一郎氏は2月9日の第7期中教審の締めくくりの会でこう語った。戦後教育の大改革といってよい成果を挙げ得たことへの安堵の気持ちが込められていた。

私も末席に連なった中教審の議論は、必ずしも全て順調だったわけではなかった。とりわけ教育委員会の在り方についての議論は白熱した。

教育委員会は教科書の採択に始まり教育現場が直面する問題全般に責任を有する。にもかかわらず、偏向した内容の教科書が多くの教育委員会によって採択され続けてきた。

また、2011年、大津市で発生した中学2年生男子のいじめによる自殺事件で見られたように、いじめを隠し、責任逃れに終始する教育委員会も存在した。

中教審はこのような現状を克服するために首長の責任を明確にし、新設した教育長の任免権を首長に与えるなど、首長の権限を強めた。この改革によって、有権者の意思で選ばれた首長が、教育現場により強い権限を及ぼすことができるようになった。教育現場に今も色濃く見られる日教組のあしき影響も緩和されるだろう。

教育内容の大きな変化の一つは、今年4月から「教科」として教えられる道徳教育にあるだろう。かつて修身と呼ばれた道徳教育は、昭和20年、占領軍が禁止して以降、日本の学校できちんと教える体制はなかったのだ。

06年の第1次安倍内閣で、教育基本法が改正され「道徳心を培う」ことが教育の目的として書き込まれた。今回、安倍晋三首相、下村博文文部科学大臣の下で道徳が正式に教科として教えられることになったのは、非常に大きな意味があると思う。

「朝日」「毎日」「東京」の3紙は社説で、多様な価値観が育たない、価値観の押し付けだなどと批判したが、そうした批判は当たるまい。どの時代でもどんな国でも、勇気、誠実、他者への思いやり、正義感などは普遍的価値観として大事に守られ、受け継がれてきた。

大人が実行して子供たちに範を示し、家庭や学校で重ねて大事な価値観として道徳を教えてきた。この当たり前のことをわが国は敗戦の結果、禁じられていた。70年ぶりに復活する道徳教育は必ず、日本人の善さを引き出し大きな力に育て上げていくと、私は確信している。

第7期中教審で決定されたもう一つの重要点は日本史を必修科目にしたことだ。これまで高校の歴史の必修は世界史であり日本史は選択科目にすぎなかった。自国の歴史を知らずして、世界の歴史を学んで何の意味があるのか。これもようやく改められた。

分野は異なるが、今週発表された戦後社会の大改革のもう一つの事例が農協改革である。農協の特権体質は、法人税率が19%で一般企業の25.5%よりずっと安いことや、農協会員の株の配当は損金算入されて課税されないことや、農協の事務所や倉庫には固定資産税が掛からないことなど幾つもあるが、私は「整促方式」という農協独自の制度に注目したい。

これは約700ある地方の単位農協や県連、全農など農協系組織の全てを利用して事業を行う仕組みである。肥料や種、農機具の買い付けから生産物の出荷まで全事業を全員で行い、各レベルで手数料を受け取る仕組みといえば分かりやすいだろう。

そこには合理化や効率化の考えはなく、そこに関わる人々の利益優先しかない。結果として日本の農業は衰退したが、この農協も改革されることに
なった。

教育改革も農協改革も具体的な法案作りの段階で骨抜きにされないように監視が必要だ。まだ油断はできないが、15年が力強い日本再生の年になることが実感される。

『週刊ダイヤモンド』 2015年2月21日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1072

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家・故渡辺淳一氏
である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。

2015年02月22日

◆ふるさとは帰るところにあるまじや

渡部 亮次郎
   

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

大阪の俳人与謝蕪村が大阪に帰っても生地には絶対足を踏み入れなかったのも同じ理由だと私は思う。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)

2015年02月21日

◆中国富裕層は戦々恐々

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)2月20日(金曜日)弐通巻第4475号>

 〜HSBCスイス支店をジュネーブ検察が手入れした
    これから何がでてくるか。中国富裕層は戦々恐々〜


旧正月に日本へやって来て、高級炊飯器などの「爆買い」に熱狂する中国人観光客。免税店での買い物風景を、なんだか楽しそうに日本のメディアが伝えている。円安で大量にやってくる外国人観光客を手放しで喜んでいるのは一部業界でしかないのに。。。。

まして買い物をしているのは中国人富裕層でない、彼らは中産階級である。しかも買い物の目的は帰国後の「転売」である。

さてスイスにあるHSBC(香港上海銀行)の支店はプライベートバンク、顧客口座の秘密を秘匿してきたため世界の富裕層の隠し預金が集中した。「それがスイスの伝統的商習慣だった」(フランコ・モルラ同行CEO)

2001年9月11日以後、米国はスイスに最大の政治圧力をかけつづけた。「テロリストの資金洗浄に利用されているので、情報を公開せよ」と。ついにスイスは取引に応じた。3年ほどの猶予期間をおいてもらったので、その間にスイスの秘密口座からのカネはざっと世界のほかのタクスヘブンへ逃げた。

2007年、フランス当局にたれ込みがあった。HSBCスイス支店の元従業員だったヘルベ・フェルシアーニが秘密口座のリストを提供したのだ。

ルモンドは「国際調査ジャーナリスト会議」と共同で追跡調査を開始し、さらにはその多くのリストが「スイスリークス」に漏れた。

このネットから、どっと世界に流れ出た。そのなかには李鵬の娘、李小琳の名前もあった。日本人建築家の名前もあった。

2月18日、ジュネーブの検察はHSBCスイス支店を捜索した。容疑は「麻薬取引、マネーロンダリング、武器輸出入決済の疑いあり」。

2007年からのリストでは世界200ヶ国からおよそ10万人がスイスのプライベートバンクに合計で1000億ドルを秘匿していた。

これから何が飛び出してくるか? 中国の本当の富裕層は買い物どころではない筈だろう。
    

2015年02月20日

◆中国が取った人工島は競技場14個分

宮崎 正弘 

<平成27年(2015)2月19日(木曜日)弐 通巻第4473号 >
 
〜南シナ海で中国がかすめ取った岩礁の人工島は75、000平方メートル
           フットボール競技場が14個分、盗人の猛々しさ〜

http://www.wsj.com/articles/photos-expanding-fortresses-in-south-china-sea-1424289675

上の2枚の写真はガベン礁の比較で、ひとつは3014年3月30日に偵察衛星が撮影したもの。もうひとつは2015年1月30日。ウォールストリートジャーナル(2月18日)がつたえた。

その露骨な領土的野心が比較できる。

わずか1年足らずに間にセメントを流し込んだ人工島が完成し、ヘリポートも造成されていた。

永興島と赤爪礁には2600メートルの滑走路が完成している。

南シナ海はまさしく「中国の湖」と化けた。

◆医者・森 林太郎が嫌いなわけ

渡部 亮次郎


森鴎外(本名:森 林太郎)1922(大正11)年7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。

「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎」とのみ刻されている。明治天皇に「虚仮にされた」反発がこうさせた。

東京・向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と島根県津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折(明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家)によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。

森を文学者としてしか見ない人はこの遺言を不思議に思うらしいが、医者として見た場合は「明治天皇に嫌われた医者」として当然である。1度も陪食を賜らなかったのに、ライバルの高木兼寛は4度も賜った。今の言葉で言えば「アタマサ キノコ」だったのだ。

文久2年1月19日(1862年2月17日) 石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。

東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。留学中は、ペッテンコーフェルらに従いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。

また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマン(ドイツの地質学者)を批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。

帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の1つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる。

1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。

陸軍軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。

よく知られているように、日露戦争当時陸軍で増発した「脚気」による日本陸軍の死亡者は27,800人に達したにも拘わらずなすすべなく、防止策として米の胚芽(ぬか)摂取を主張する海軍省軍医総監高木兼寛を評して「糠が有効なら小便も有効なのか」と非難している(別人との説もあり)。

しかし、その後の研究は糠=ビタミンB1=脚気特効薬が証明され黴菌説の森は科学的に否定された。森に「非難」された高木兼寛こそは日本初の医学博士に任じられ慈恵大学の創立者となった。

<帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり>ということについて、私は「鴎外は狡い」と思う。

脚気について功績のあった高木兼寛はイギリス流の実証主義で、脚気が麦食で治る理由を明らかにできなかったのは確かに難点ではあったが、だからと言って口を極めて非難した森の黴菌説にも説得力のある論理はなかった。あるはずが無い。

そこにあるのは悪臭紛々のエリート意識。エリート意識をひけらかしたいやらしい男の初代が森と言えないか。あぁ厭だ厭だ。2008.04.28執筆

2015年02月18日

◆1億総白痴化は成った

渡部 亮次郎



<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>
『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

     
     

2015年02月17日

◆鳩を寄せる老人の悲しみ

渡部 亮次郎



公園では鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階の我が家のベランダにも番(つがい)が産卵しに来たことがあった。


ところで、老人と話してみると、たいていは独り暮らし。関東大震災をくぐり、昭和20年3月の大空襲では、親兄弟を失いながら、悲しみに耐えて生きてきたが、寄る年波でもういけねぇ。

ヨチヨチと散歩に来て、エサに寄って来る鳩の羽ばたきが生きてるシルシよ、というのだ。かと思えば、家では嫁に掃きたてられるようにして公園に出てきても話し相手はいない。

なにしろ下町と言っても、個人主義の時代が長すぎた。公園で出合っても挨拶する人は年寄りでも稀になった。仕方が無いから、たばこ銭を詰めて買った玉蜀黍(とうもろこし)を撒いて鳩の群れを寄せ付けるのさ。だから、鳩が頭に立とうが、肩にとまろうが嬉々としてその老人は張り切っている。

まさに公園管理所の考えている鳩問題は、鳩問題ではなく、すぐれて老人問題、福祉問題なのである。都知事殿もこのあたりは判らない。

公園には嘗ては常時10人ぐらい住み着いていたホームレスも管理所の妨害作戦により全く居なくなった。だがエサをやる老人たちは管理所に隠れるように木陰に立って撒いている。

犬は放すんじゃないと管理所、幾ら叫んでも、放し飼いだから、何時噛まれないとも限らない。まこと、老人たちの鳩寄せ事業は歩きながらで大変なのである。

ある日から、パンくずを持って仲間入りしてみたが、あれほど面白くないものは無い。第一、鳩は根っからの馬鹿だ。記憶と言うものが無い。ア、昨日のおじいさんだということが絶対ない。わかってない。

エサに興味があるのであって,くれる人に興味は無い。記憶もない。愛がわかない。老人の鳩寄せは実に悲しい限りだ。益々老人になって行く当方だが、エサやりはやめた。