2015年02月16日

◆スギ花粉症が治った!

渡部 亮次郎



東京の川向う(隅田川左岸)に住んでいるが、ここには杉など1本も植わっ ていない。それなのに10年ほど前、突然杉花粉症にかかって苦しんだ。遠 く多摩地方の杉林から飛んでくる杉花粉にやられたのだ。

それが突然に治った。医者も珍しがる珍現象だと思うが、それは今、密か に流行っている植物性乳酸水が効いた以外に考えられない。

私の花粉症は毎年2月末から3月初めに始まっていた。朝からくしゃみ、 涙目、水っ洟の連続。偶然乗ったタクシーの運転手さんに教えられて、数 年後にはある種のホルモン剤を注射して防止していたが、2007年は症状が 全く出なかった。これはこの年が花粉の飛散量が極端に少ない年という気 象庁の説明どおりで、良かったと合点していた。

ところで今年(2008)。例年になく花粉の飛散量は多量との予報。だから ホルモン注射にそろそろ行こうと覚悟していたが,1度もくしゃみをせぬ うちに気がつけば既に梅雨。もはや花粉症はシーズンそのものが終わって いた。つまり、いつの間にか私の杉花粉症は全快していたのである。

1度かかったら一生治らないのは糖尿病と同じといわれている花粉症。そ れから脱出出来た事例がここに出来したのである。何もしないのに、治っ た。くしゃみも、涙目も、水っ洟もどこかへ飛んで行ってくれた、良かっ たよかったと、梅雨入りの日に祝杯を挙げた。それにしても何故?

はたと膝を打った。一昨年から日にグラス1杯ずつ飲み始めた植物性乳酸 水。血糖値抑制に効くと聞いて呑んでいるが、そういえばこれはアトピー にとても効果があると聞いていた。だから花粉症にも効いたのではなかろ うか。

だが医学的に証明されているわけでは無いから宣伝するわけには行かな い。仮にも元厚生大臣の秘書官が薬事法違反の片棒を担ぐわけには行かな い。だがそれ以外に納得できる事実は無いのだから、話題ではあるだろう。

スギ花粉症になるのは日本人では5人に1人。元東京都知事石原慎太郎さ んもそうだと告白していた。

日本でスギ花粉症の症例が報告されたのは全く新しい。東京オリンピック の前年昭和38(1963)年である。記録を言えば栃木県日光の杉並木が植え られたのは17世紀だから、杉花粉は17世紀から飛んでいた。しかし杉花粉 症が発症したのは20世紀も後半だ。300年の間、日本人は花粉症をなぜ発 症しなかったのだろうか。

これについて東京医科歯科大学名誉教授藤田紘一郎氏はNHKラジオなどに 出演して「17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたか ら、それがアレルギーを抑えていたのです。

ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭和25)年には全くなかった。それが 1965(昭和40)年以降急激に増え出した。1950年の回虫感染率は62%でし た。回虫の感染率が5%を切った1965年から増えだしたわけです」と断言 している。

さらに藤田氏は驚くべき事例を挙げてサナダムシの効き目を説明している のだ。

<15歳の女の子ですが顔がアトピーでタダレて人前にも出られず、3度自 殺しかけたというのです。そこで、私にサナダムシで治療して欲しいとい うのです。

その子にサナダムシを飲ませ、ナオミと名前をつけ、お腹にナオミちゃん がいるんだから勝手に自殺してはいけないと諭しました。その後彼女はだ んだんアトピーが治り早稲田大学に入りました。

西洋医学の功績が非常に大きいのは、1つの原因を1つの物質で治すとい うことだと思います。たとえば、糖尿病はインシュリンの分泌が足りない から起きますので、インシュリンを与えればよいということです。

西洋医学で手をつけられないのは免疫のバランスが重要因子である疾患で す。アレルギーとガンは免疫の両極端にあります。日本癌学会は何十億円 と使って研究していますが、ガンの発生を止めることはできていません。

アレルギー学会も何十億円と使っていますが、毎年アレルギー患者が増え ています。今こそ、東洋医学的な発想が必要です。東洋医学とは個人個人 のバランスを見る学問です。

西洋医学では風邪を引けばみんな同じ薬が出ますが、東洋医学では脈をと り、舌を見てその人がどのようにバランスが崩れているかを見て、そのバ ランスを正しくすることによって病気を治そうということです。

西洋医学的な考え方で足りないことは「自然治癒力」という概念です。そ れをもっと大切にしなければなりません。自然治癒力とは、自然の中で生 きてきた力です。

私たちは地球上で40億年生きています。抗生物質が発見されて高々100年 ですが、もう限界が出ている。自然治癒力、たとえば皮膚常在菌というの は皮膚に棲んでいて皮膚を守っている。

腸には腸内細菌が百兆個もいて、腸内環境を正しく保っているのです。女 性の膣の中にはデーデルライン乳酸菌という細菌がいて膣を守っている。

寄生虫はみんな悪者かというとそうではないのです。人の寄生虫は人の中 でしか子供を産めないわけですから、人の寄生虫は人を大事にするわけです。

寄生虫、ウイルス、細菌というのは独りでは生きられない。必ず宿主が必 要です。だから、その宿主は大事にする。

人の腸内細菌は人を守っている。これまでの研究では寄生虫だけでなく、 いろんなウイルス・細菌もアレルギーを抑えていることが分かっています>。

私の植物性乳酸菌が杉花粉症にどうやってどのように効いたかが医学的に 証明されなければ宣伝してはいけない話ではある。だが花粉症に対する抵 抗力がついていたからこそ治ったのである。おそらく昨年、飛散量云々で はなく既に治っていたものと思われる。2008・06・12


    

2015年02月14日

◆死の恐怖が貫禄を作る

渡部 亮次郎



私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)氏は特攻隊長として出撃寸前、敗戦になった為生き残った人だった。昭和20(1945)年8月13日、北海道千歳基地を飛び立つべきところ、悪天候の為、17日に延期。ところが15日に敗戦。

助かったのですね、と言ったら「違う、一旦死を決意していたから、死ななくても良いと言われた途端、腰が抜けたよ」と言っていた。とにかく日中事変の頃を含めて計11年、戦争の現場にいた。

進軍(徒歩)の途中、途が2手に分かれている。右に進むべきか左にすべきか。必ず悪路のほうに進んだ。良い道の先では敵が待ち構えている危険があった。そういう体験があったのである。

帰還して国会議員になって間もなく野党の独身婦人議員と恋仲になって妊娠がばれた。直ちに4人の子供を抱えた夫人と離婚、野党議員と結婚した。堕胎と言う道もあったのにといったら「困難な途を敢えてえらんだのだよ」。

なるほど選挙区の女性たちには評判が良く、選挙地盤が固まっていない時期だったにも拘らず落選はしなかった。死ぬまで14回連続当選の実績を残した。

1980年代前半までの日本の国会議員たちの大半は従軍体験を持っていた。中曽根康弘氏だって海軍主計中尉だった。田中角栄氏も陸軍2等兵でノモンハン事件に狩り出されている。

死ぬか生きるか。人間は死を覚悟した時貫禄が出来る。園田氏を観察していると、政治のどんな場面でも恐怖を感じる風はなかった。戦争で死ななかった人間が政治で死ぬわけが無いと楽観していた。

そうした目で平成の政界を見ると、政治家に戦争体験の無いのは勿論、「失敗」の経験も少ない。受験だって「塾」で防備していて「貫禄」をつける暇も無い。

失敗で挫折を多く味わったのは小沢一郎氏ぐらいだ。だから菅も仙谷も面と向かって小沢には対決できない。仙谷は俺の合格した司法試験を小澤は落ちた、だから俺のほうが上と威張るが、落ちた小沢の貫禄にはたじたじでは無いか。

貫禄を得るためと言って戦争をする事は不可能だが、失敗を重ねた方に貫禄が出来る事は間違いないと勝手に考えている。ただし宇宙人にこれは適用できない。鳩山由紀夫氏は総辞職を失敗とすら考えていないようだから。


2015年02月12日

◆首相、農協改革・安保法制に意欲

〜施政方針演説〜
渡部 亮次郎


(朝日新聞デジタル 2月12日(木)13時49分配信)

 安倍晋三首相は12日午後、国会で施政方針演説を行った。今国会を「改革断行国会」と位置づけ、成長戦略の柱である農協改革などの規制改革を推進していく姿勢を強調。安全保障をめぐる法整備を進め、憲法改正に向けた国民的な議論の深まりにも期待を示した。

 演説の冒頭で、首相は過激派組織「イスラム国」による邦人人質事件を取り上げ、「日本人がテロの犠牲となったことは痛恨の極み。非道かつ卑劣極まりないテロ行為を断固非難する」と批判し、「日本がテロに屈することは決してない」と訴えた。

 続いて、首相は昨年末の衆院選で与党が勝利したことについて「『安定した政治の下で、この道をさらに力強く前進せよ』ということが総選挙で示された国民の意思」と主張。「『戦後以来の大改革』に力強く踏み出そうではないか」と呼びかけた。

 アベノミクスの第3の矢と位置づける「成長戦略」では農協改革を筆頭に挙げた。全国農業協同組合中央会(全中)を一般社団法人に移行し、地域農協への指導・監査権を廃止することで「意欲ある担い手と地域農協が力を合わせ、ブランド化や海外展開など農業の未来を切り拓(ひら)く」と訴えた。

 TPP(環太平洋経済連携協定)交渉については「最終局面、いよいよ出口が見えてきた」と指摘し、「米国とともに交渉をリードし、早期の交渉妥結を目指す」とした。

 また法人実効税率の引き下げやエネルギー市場改革、医療分野での「混合診療」の拡大などを改革のメニューに盛り込んだ。原発については「新規制基準に適合する原発は再稼働を進める」と改めて表明した。

 経済再生では、消費税を10%に引き上げる予定の2017年4月までに賃上げの流れを地方に届け、「経済再生と財政再建、社会保障改革の三つを同時に達成していく」と語った。

 また歴史認識をめぐり、「戦後70年の節目の年。我が国は先の大戦の深い反省とともに、ひたすら自由で民主的な国をつくりあげ、世界の平和と繁栄に貢献してきた。その強い意志を世界に向けて発信する」と述べ、戦後70年の首相談話への意欲を示した。

 憲法改正については、与野党に対して「憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこう」と呼びかけた。

 外交・安全保障では「あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする安全保障法制の整備を進める」と述べ、集団的自衛権の行使などを認めた昨年7月の閣議決定を踏まえた法整備を行う考えを改めて示した。

 日中関係については「様々なレベルで対話を深め、安定的な友好関係を発展させる」と主張。第2次安倍政権発足以来、首脳会談が行われていない韓国に対しては「関係改善に向けて話し合いを積み重ねる。対話のドアは、常にオープンだ」と呼びかけた。

 日ロ関係では「(プーチン)大統領訪日を本年の適切な時期に実現したい。平和条約の締結に向け、粘り強く交渉を続ける」として、北方領土問題の前進に意欲を示した。

 演説に先立ち、政府は総額96兆3420億円と過去最大の新年度予算案を国会に提出した。午後から麻生太郎財務相による予算案への財政演説のほか、岸田文雄外相による外交演説、甘利明経済再生相による経済演説も行われる。
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朝日新聞社

◆トウ小平は賢明で狡猾

渡部 亮次郎



トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところでは、この際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(SankeiWeb 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」

2015年02月11日

◆建国「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎



建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬称略)


2015年02月09日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。従業員の賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。10・7・9


2015年02月07日

◆禁煙恩人はサッチャー

渡部 亮次郎



私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは1979(昭和54)年5月22日、現地時間午後5時15分から、イギリス・ロンドン市マンチェスター地区、ダウニング街10番地にある首相官邸にマーガレット・サッチャー首相を訪問し、日本の外相として首相就任の祝賀を言上した。

始めにハウ財務相と会談。ハウ氏はヘビー・スモーカーぶりだった。

ついでサッチャー首相の執務室入り。同席を許された私が煙草を吸ってよろしいですか、と尋ねたところ「どうぞ」との返事。

そこでロング・ピースに火をつけたが、一向に灰皿が出てこない。

これは吸うなという意味だと思って、消しにかかったが、どうすりゃいいんだ。

袋から煙草を全部取り出し、銀紙に包んで、どうにか消した。後に聞けばサッチャーさんは大の煙草嫌い。そういえば表敬会談に同席したハウさんは「私は煙草なんて吸ったことはありません」てな顔で澄ましていた。その瞬間、私は禁煙を決意した。だからサッチャーさんは私の禁煙の恩人なのである。

高校のころ、数人の友人が煙草を吸っていて、指先の黄色に染まるのに気を遣っていた。それを見ても私は吸いたいとは思わなかった。むしろ、家では晩酌よろしく清酒を飲んで満足していた。学校では酒も禁止されているが、酒は醒めれば証拠が無いから楽だったのだ。

煙草を吸い始めたのは東京で大学生活を始めたころ。先輩の下宿で吸わされた。始めは眩暈がしたが、それでもやめなかったのはどうしてだろうか。いきなりニコチン中毒になってしまったのだろうか。

この当時は一番安価なゴールデン・バットを吸っていたが、やがて高級なピース(両切)になり、記者になってからはロング・ピースになり、禁煙するまで、それを吸い続けた。

次第に肺癌論が高まっていたが、一向に禁煙しようとは思わなかった。兄などは「俺は中学から吸っていたのだから、いまさらやめられない」と嘯いていた。それが5月に訪ねたらきっぱり、やめていたので驚いた。理由はあえて訊かなかった。

私が禁煙を始めた時、煙草とライターをいつも通り、ポケットに入れたままの試練に挑戦した。1時間我慢、2時間我慢、半日我慢、1日我慢と続けるうちに、いつの間にか禁煙に成功していた。「吸いたくなったら、いつでも吸ってやる」と思いながら禁煙を続けた。最早、嘗て喫煙者だったなんて顔もしなくなった。

禁煙したあと糖尿病になり、教育入院をさせられたが、糖尿病にとって喫煙は飲酒より悪いと教えられた。   

2015年01月31日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎



「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

深夜便のアンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。


レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校(現東京芸大)出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。
(再掲)
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年01月30日

◆加瀬俊一氏の再登場

渡部 亮次郎



日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に小沢一郎が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10時55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(のちの日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

その後、外務大臣秘書官、通商局3課長、アメリカ局1課長、政務局6課長、大東亜大臣秘書官、政務局5課長、情報局第3部長、情報局報道部長などを歴任し、この際に東郷平八郎海軍元帥の通訳を務めたこともあった。

また、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行した他、1935年(昭和10年)にロンドン海軍軍縮会議へ参加した。

1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)までは駐イギリス日本大使館に1等書記官として駐在し、首相になる前のウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージと親交を持った。

また、その後の松岡外務大臣秘書官時代の1941年(昭和16年)4月には、ソヴィエト連邦のモスクワで行われた日ソ中立条約の締結時に随行し、ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフとの交渉にも関わっている。

アメリカで教育を受け、さらに駐イギリス日本大使館への駐在経験もあったことから高い英語力を持ち、幣原喜重郎や吉田茂と近い親英米派として知られた。

1941年12月の日本と連合国との開戦時には、東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局6課(北米担当)課長であった。

第2次世界大戦終結時の1945年(昭和20年)9月2日に連合軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印には、重光葵外相ら全権団に随行し隻脚重光を艦上に担ぎ上げた。同年には報道局報道部長等を経て外務省参与に就任した。

その後、1955年(昭和30年)4月に行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の政府代表特命全権大使を務めたあと、同年から国際連合代表部特命全権大使。

1958年(昭和33年)から初代駐ユーゴスラビア特命全権大使などを務める。国連への加盟に尽力し、国連代表部特命全権大使就任の翌年である1956年(昭和31年)に、日本の国連加盟が実現した。

1960年(昭和35年)に退官し、外務省顧問等を歴任。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問を務める。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞にも尽力し、後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と『佐藤榮作日記』で述べている。

外務省退官後は鹿島出版会会長、京都外国語大学教授等を歴任し、外交評論家として数多くの著作を執筆した。松岡、東郷、重光、吉田といった第2次世界大戦前後の歴代外務大臣の側近であった加瀬の証言は、大戦前後の日本外交を知る上で貴重なものとなった。

また、保守・右派系の国民運動・政治団体である日本を守る国民会議(現日本会議)議長も務めた。2004年(平成14年)に神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年101。死の直前までフランス語を学んでいた。

妻寿満子は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。外交評論家でオノ・ヨーコの従弟の加瀬英明は息子。参照:「ウィキペディア』文中敬称略。

         

2015年01月29日

◆おでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

青森県青森市
ツブ貝、ネマガリタケノコ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。2005年には「青森おでんの会」が発足。

2010年予定の東北新幹線新青森駅開業へ向けて、生姜味噌おでんの全国ブランド化を図るべく、「B-1グランプリ」という食の祭典への出展等、PR活動が行われている。

長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。人気の具は豆腐である。

富山県
塩と昆布の出汁で煮たおでんに、玉子、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこなど入れて煮込み練り辛子かおぼろ昆布を添えて食べる。

静岡県静岡市
葵区の繁華街にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があったり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。

また静岡県のおでん自体も濃口醤油を使い牛スジ肉で出汁を取った黒いつゆが特長で、はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺してあるのが特徴で、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。

これは「静岡おでん」(発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」)と呼ばれている。2007年には「静岡おでんの会」という団体が「B-1グランプリ」という食の祭典に静岡おでんを出展し、3位となった。

愛知県
八丁味噌をベースとした甘めの汁で、ダイコン、こんにゃく等の定番の具を煮込んだ「味噌おでん」が有名。

味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。

醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。

また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。

しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。

兵庫県姫路市
薄味だが、関東煮ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。

香川県
讃岐うどん店では、必ずと言っても良いほど副食として販売されている。

コンビニのおでんカウンターのような保温器で煮込まれている竹串刺しのおでんを、客はセルフサービスで取ってきて、注文したうどんが出来上がるまでの間などに食べる。

香川のうどん店のおでんは、セルフサービスのうどん店だけでなく一般店(店員がうどんを上げ下げしてくれる店)であっても大抵はセルフサービスである。おでんには茶色く甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。

愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。

沖縄県
沖縄のおでんは「てびち」(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられるのが特徴である。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共に「てびち」も販売されている。

アメリカ施政権下の頃、ちょっと駐在(NHK特派員)したが、「おでんに茶飯」の昼食が一番高かった。薩摩揚げを憎っくき薩摩ではなく博多から空輸しているため、原価が高くなるとの説明だった。出典:「ウィキペディア」


    

2015年01月28日

◆NHKのど自慢の日

渡部 亮次郎



ものの本によると、日本では1年365日、毎日、何かの日である。たとえば2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、

(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過したのは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想はざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年には早くも全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオとテレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手としてその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったのだろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手になった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄ったがNHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードやCDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄うのは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るものだそうだ。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると音痴 おんち

<大脳の先天的音楽機能不全の状態。聴覚,言語など,ほかの精神的・肉体的機能が健常で,特に音楽的能力だけが劣っている場合をいう。これに対して,かつて音楽能力があった者が疾病,外傷など何らかの原因によってその能力を失った場合を〈失音楽症〉という。

音痴の原因は,大脳右半球に推定される音楽中枢の発育障害による機能不全であるとされ,遺伝と環境の双方に起因するものとみられているが,医学的には未解決である。

音痴は感覚性音痴と運動性音痴に大別される。前者は,音楽の認知,理解,記憶に障害があるために音高やリズムの感受そのものが不可能な状態を言いう。

後者は,音高の連続的変化のパターンを組み立てる運動統合中枢に支障があるため,歌うと調子はずれになるものを言う。しかし,俗に音痴といわれるのは難しい音程をうまく歌えない場合であり,正しい訓練や音楽環境をつくることで,矯正は可能とされている。山本 文茂>音痴についてインターネットで検索した。その結果、297万件も出てきた。如何に音痴に悩む人が多いかを物語るものではないだろうか。その中にこういうのがあった。

山本恵理子の「音痴について」である。
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/27ki/kadair21.htm

なぜ音痴になるか
『人はなぜ音痴になるのか』 音に対する感覚が鈍く、音程やリズムが正確にとれず歌が正しく歌えないこと。三重大学教育学部の弓場徹助教授は、「音痴の原因は、出力(脳から声帯に指令が伝わり、震わせて音を出す)する際の、輪状甲状筋の訓練不足によるものである。」と語った。

輪状甲状筋は声帯を引きのばす筋肉で、低い声を出す時に声帯を縮め、高い声を出す時は声帯を前後にのばす。そして、他の背中や足などの筋肉と同じく、鍛えなければ成長せず衰えてしまうのである。

歌を歌う時は、普通の会話のより高い音域を使う場合が多いため、輪状甲状筋の働きが不可欠だ。自分のことを音痴と思っている人は、歌う機会を避ける傾向がみられる。兵庫教育大学音楽科の鈴木寛教授は、小脳モデル(処理系)について次のように説明した。

初めて自転車に乗る時、バランスがうまく保てず、転びながらその問題点を修正して大脳が学習する。その情報は大脳に集約され「自転車に乗る」という一つのモデルが小脳に移り記憶される。

1度、小脳モデルが記憶されれば、何年も自転車に乗らなくもすぐに乗ることができるという。歌を歌う場合の小脳モデルは、音程を取り正しい音を発生し、リズムをとるというものである。大脳に作られた音の高さを判断する基準に音階スキーマというものがある。

正しいスキーマが形成されている場合は、耳からある音が入ってくるとA=Vという判断ができる。しかし誤ったスキーマが形成されている場合は、A=Vという判断ができずに音痴になってしまう。

人は6歳頃まで音階スキーマが形成されてしまう。赤ちゃんは知らず知らずのうちに母親の声を真似している。自分を守ってくれる母親と他人をなるべく早く認識し、コミュニケーションをとろうとするためである。そして、この特性のため母親の声や、音程までも真似するようになる。

他にも音痴の原因となる環境として、

1.音の出るおもちゃなどの電池がきれかかり、変な音を出す。

2.音楽や両親の会話を聞く機会がすくない等がある。

音痴を治すには裏声を意識的に出すことによって輪状甲状筋を鍛えたり、音を認識しながら根気よく練習し音階スキーマを改善する方法がある。

つまり、音痴は適切な訓練方法によって克服できる!『音痴を治すには?』音痴は運動音痴(運痴)と比較される。どちらも運動系の微妙な調節がうまくゆかない。それが原因で運動嫌い、歌嫌いになる可能性もある。運痴は指導によりある程度は矯正できるが、音痴はどうだろうか。

「歌う」運動のメカニズムは、喉頭筋群の複雑さもあり未だに不明な点が多い。聴覚能の問題もある。一体どのように声をだしたら良いのか科学的なアプローチは少ない。

発声には声帯を動かす伸展筋と声門を閉じる閉鎖筋という2つの拮抗的な筋の運動に、呼吸の圧力が加わった3要素が関係するのだが声帯を伸展させて裏声を生み出す輪状甲状筋の構造と機能に着目。

結果的に裏声(ファルセット)を中心に音を合わせてうまく歌うトレーニングが音痴矯正に有効という。骨格筋は伸展時により大きな力が発揮されるので、この方法は歌う運動の燃費を高めるかもしれない。

具体的に何をやればいいかというのには次のような説がある。

1)はっきりとした裏声を出せるようにする。

2)裏声で簡単なメロディーを歌う。

3)裏声で歌い始め、表声の音程まで下がっていく。※表声というのは胸声のこと。

誤りも多くて評判が良くないリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』だが、ここでは、音痴(おんち)とは、音感が無いか劣る人を言うと決め手、次のような珍談を紹介している。

<・・・リズムを合わせるという感覚が鈍い人もおり、歌っている途中でどんどんずれて早くなったり遅くなってしまう場合も見られる。

最も有名な例は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという富豪の夫人がオペラファンで、1944年にカーネギーホールで「客に金を払って」リサイタルを開いた。(あの戦争中!!)

このときの録音は現在The Glory of Human voices (RCAより発売、ASINB000003F97)(国内盤のタイトルは『人間の声の栄光』)というタイトルでCD化されている。

このCDが国内大手CDショップで発売された際、「チョーオンチ」という販促ポップが付けられた事がある。またこのジェンキンス夫人の音痴ぶりを題材にしたミュージカル"Souvenir"がある。

音痴は訓練で克服できる場合が大半だが、まれに音感がない(耳で聞いた音程を声で再現することが出来ない)人もいる。一種の病気(異常)であり、このタイプの音痴は直すことができないと言われる。有名人では俳優のジェームズ・ディーンがこのタイプだったと言われている。

転じて、音の認識に限らず特定の能力が劣る人に対しても使う。例えば、味覚に対しての味音痴、東西南北等方角把握能力に対しての方向音痴、運動能力に対しての運動音痴、機械に対しての機械音痴、等がある。>

痴呆とか痴人とかが差別語になっているようだが、音痴はどうなんだろう。


   

2015年01月27日

◆だまこもちも怖い?

渡部 亮次郎



だまこもちは、秋田県の郷土料理。潰した新米ご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれる。主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

五城目(ごじょうめ)町において、1959(昭和24)年に三笠宮崇仁親王が同町でだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、町を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。

これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。

旧八郎潟周辺の地域が発祥とされ、ここで生まれ育った私は少年のころから、厭というほど食べさせられた。昔は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

なお八郎潟町周辺にはだまこの原型と考えられる「つけご」という料理がある。潰した飯を箸で一口大にちぎって、かやきの汁に浸して食べる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八郎潟の魚は只だったから、家庭で摂る蛋白源は鮒か鯰。海の魚は高価だから子どもの口には全く入らなかった。肉と言えば飼っている鶏を潰すしかなかった。生まれて初めて豚肉を食べたのは中学2年のとき。刺身を食べたのは30歳近くなってから、握り寿司は60歳になってからだった。

少年時代からステーキやトンカツが食べられる境遇だったら、もっと背丈が伸びていただろうと残念に思うことがある。死んだ兄もそう思っていたに違いない。県立秋田高校を3年間首席で通しながら大学へ行けるカネが無く、地方の新聞記者で一生を終えた。享年81。

2015年01月26日

◆しゃべろん松岡洋右

渡部 亮次郎


細川護貞(故人)によれば、外務大臣時の松岡洋右(まつおか ようすけ)は大変な話し好きで朝から晩まで喋っていた。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにそのまま持帰ったということもあった。

また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していた。話が途中でも、時間がくれば1時間なら1時間で話相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編「語りつぐ昭和史」第2巻)。

妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する)―佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・寛子は佐藤栄作に嫁いだ。安倍晋三も血が繋がっている。

日本の国際連盟脱退を進め、アメリカ敵視の日独伊三国同盟の推進者、戦争犯罪人として68歳で病死した「まつおか ようすけ」。

1978年、日中平和友好条約の締結を急ぐ園田直外相は2代目松岡と党内から非難されたものだ。

1880(明治13)年3月4日、山口県光市室積で廻船問屋の四男として生まれる。11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米。

オレゴン大学法学部を1900年(明治33年)に卒業する。ポーカーの名手だったという。母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。

1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格、外務省に入省する。外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。

その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本粂太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。

1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。すぐに山本条太郎の引抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本粂太郎)。

1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月第17回衆議院議員総選挙で郷里山口2区から(政友会所属)当選する。議会内では、外務大臣幣原喜重郎の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。

なおイタリアを訪問した際に、同国で独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニと会見しているが、このころから親ファシズムの論調をとり始め、「ローマ進軍ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。

1932年10月、松岡は国際連盟総会に日本首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも当時の文芸春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。

日本政府は、満洲建国に関するリットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が1面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切 」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。

1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。

松岡はまず、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官四十数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

日独伊三国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。

この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかった。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。

しかし、開戦2日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第2次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。

その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語った。

しかし、結核悪化のため東京裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。

辞世の句
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉 (よみじ)」

山田風太郎(小説家 故人)は「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

昭和天皇は松岡を嫌っていたといわれる。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれている。

1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある。

妻:龍(工学博士進経太長女)
長男:謙一郎(実業家) - 山口淑子の恋人
長女:周子(愛知県、元宮内庁長官田島道治の長男譲治に嫁する)
甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市市長) - 三雄の長男は元参議院議員の松岡満寿男である。
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