2015年06月09日

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎



流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」
梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に 西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     
作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

• 福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春(はる)」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒット
する。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

「涙の渡り鳥」(作詞:西条八十、歌:小林千代子)
「島の娘」(作詞:長田幹彦、歌:小唄勝太郎)
「僕の青春」(作詞:佐伯孝夫、歌:藤山一郎)
「東京セレナーデ」(作詞:佐伯孝夫、歌:山口淑子 (李香蘭))
「無情の夢」(作詞:佐伯孝夫、歌:児玉好雄)
「雨の酒場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「あなたなしでは」(作詞:佐伯孝夫、歌:能勢妙子)
「長崎物語」(作詞:梅本三郎、歌:由利あけみ)
「燦めく星座」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「新雪」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「明日はお立ちか」(作詞:佐伯孝夫、歌:小唄勝太郎)
「月よりの使者」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎、藤原亮子)
「別れの夜汽車」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎)
「桑港のチャイナタウン」(作詞:佐伯孝夫、歌:渡辺はま子)
「アルプスの牧場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「高原の駅よ、さようなら」(作詞:佐伯孝夫、歌:小畑実)
「野球小僧」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「お俊恋唄」(作詞:吉川静夫、歌:榎本美佐江)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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渡部 亮次郎

2015年06月08日

◆懐かしや鯰の味噌煮

渡部 亮次郎



毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。

「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だった。

春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上にそれを広げて食べたものだった。

長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生以後は鯰にはお目にかかってない。

その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどうぞ、というわけだ。

だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨みは深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶものもある。

とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長60cmに達する。

湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌(えさ)を探るのに使われる。また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息している。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサにして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。

かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰は、「洗い」にして賞味される。

鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によっては下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。

2008・01・16資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」

2015年06月07日

◆らい予防法廃止の大谷さんの死

渡部 亮次郎


<大谷藤郎(ふじを)氏死去、ハンセン病尽力 国際医療福祉大学長

旧厚生省医務局長で、らい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに取り組んだ国際医療福祉大初代学長の大谷藤郎氏が2010年12月7日午後7時24分、埼玉県内の病院で死去した。86歳。

滋賀県出身。葬儀・告別式は12日午前11時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長女すみれさん。

1983年に旧厚生省を退官するまでハンセン病行政に従事。退職後の95年、厚生省「らい予防法見直し検討会」の座長として同法廃止を答申した。

熊本地裁で99年に行われたハンセン病国家賠償訴訟の証人尋問では、原告・被告双方の証人となり「らい予防法の制定は誤りだった」と証言した。>【共同通信】2010/12/09 12:25

この記事を見落としていた。2月4日午後、すみれさんからのハガキで初めて知った。なんとも悲痛な知らせだった。「昨年、弟健、父藤郎、叔父芳郎を亡くしたので」とあった。

大谷藤郎さんとは厚生大臣のピンチヒッターとして鈴木善幸内閣に入った元外務大臣園田直に従いて秘書官として厚生省に入ったときに初めて会った。大谷さんは医系のトップ医務局長だった。

間もなく彼がらい予防法廃止運動や精神障害者の社会参加などに熱心に取り組んでいることを知った。岡山県でらい病院のある離れ小島に橋を架ける運動にとりくんでいた。

それに関連して園田大臣に対してらい予防法廃止の緊急性を説き、大臣自らがらい患者の収容病院を視察するよう説得した。大臣は出かけていった。

大臣はそこで食事を患者とともにしたり、お茶を飲んだりした。あとで「怖く無かったですか」と訊いたら「伝染力が弱い菌だから怖くはなかった。仮に伝染しても発症するころ俺は既に死んでいるだろうよ」と言ったので見上げた。

鈴木内閣ではその後、伊東外務大臣が急に辞任、その後任に園田氏が指名されたので、大谷さんとの縁は切れたかに見えたが、そうではなかった。大谷さんの活動に関するあらゆる報告書や著書が、園田氏の死後も私宛に送られて来ていた。

正月前、大谷さんから「消えた山」序曲が送られてきて読んだ。出自と身辺のことを書いた50ページ足らずの本。先に逝った長男や妻とのことや先祖のことを書いたものだが、あとがきがご自分ではなくお嬢さんのすみれさんが書いておられたので、死期を悟るような病状かなと疑っていた。

なんのことは無い、本が届いた頃、大谷さんはすでに逝っていたのだ。なんたることだ。惜しい人を亡くした。わたしより、丁度一回り先輩だった。ご冥福を祈るのみ。

<大谷 藤郎(おおたに ふじお、1924年3月27日 ―2010年12月7日)は、日本の元厚生官僚(テクノクラート)、大学教授。精神障害者やハンセン病患者の人権保護・待遇改善に積極的に取り組み、1993年にはWHOからレオン・ベルナール賞を授与された。


1924年3月27日、滋賀県に生まれる。1952年、京都大学医学部卒業(在学中は小笠原登に師事)。1959年、旧厚生省に医系技官として入省した。

入省後は、1962年から精神衛生課に勤務し、全国精神障害者家族会連合会(略称・全家連、2007年破産・解散)の創設支援、1965年の精神衛生法の改正などに携わった。また、1972年に国立療養所課長に就任すると、ハンセン病入所者の生活環境改善に取り組んだ。

その後、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任し、1983年退官。

退官後も、財団法人藤楓協会理事長、高松宮記念ハンセン病資料館館長、国際医療福祉大学総長などを歴任。1993年に寄付金を募って高松宮記念ハンセン病資料館を開館させたほか、らい予防法廃止運動に取り組んで廃止を実現。

さらに、らい予防法人権侵害による国家賠償訴訟では証人となって患者勝訴に導いた。また、「精神障害者の社会復帰と社会参加を推進する全国会議」の創設にも関わり、1987年の精神保健法(後の精神保健福祉法)等の法改正に貢献した。

1993年にWHOから社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を授与された。

2010年12月7日、埼玉県内の病院で死去。86歳没。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「社会全体が人権意識を高めてほしい」 大谷藤郎さんに聞く

現在(2009年当時)84歳の大谷藤郎さんハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に寄与した国立ハンセン病資料館名誉館長で元国際医療福祉大学総長の大谷藤郎さんは、ハンセン病問題を解決するには社会全体の人権意識を高めることが必要だと指摘する。

3月で85歳という高齢ながら笹川記念保健協力財団の理事としてもハンセン病問題について助言を続けている大谷さんは、生きる上で大きな影響を受けた恩師について執筆するなど、多忙な日々を送っている。以下、大谷さんに人生の一部を振り返ってもらった。

?ハンセン病問題について 日本のハンセン病問題は解決したといっても、まだ社会的な差別解消とかやるべきことは多い。もう一つは、精神障害や難病の人々など社会的、経済的に被害を受けている人のことを社会全体で考えないといけない。

社会全体が人権について考え直す必要がある。このままでは平等な社会とはいえない。(大谷さんの信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指す」ことだという)

生きる上で支えになったことは 京大在学中に「らいは恐ろしい伝染病ではないと」いう信念でハンセン病の患者を大事にした小笠原登先生と出会ったことだ。

先生は僧侶で兄の哲学者の秀実先生もすごい人だった。登先生との出会いが支えになり、何をやっていても「先生ならどう思うか」と考えた。

在学中に結核になり、滋賀県の実家で2、3年寝たきりの生活を送り、生きる希望を失った。ストレプトマイシンが無い時代だった。厚生省(現在の厚生労働省)に入ってからは結核体験を隠していたが、課長時代にある難病団体との交渉の席で初めて自分も元結核患者だと話した。

大声で抗議していた団体の人たちが急に静かになったことを覚えている。医者は優しさが必要だ。私は結核を経験してそれを痛感した。(小笠原博士らの思い出について、現在執筆中だ)

団塊の世代の人々など、人生の後輩へのアドバイスは 働ける限り働くことが大事だと言いたい。病気になってまで働けとは言わないが、私は結核をやりさらにがんにもかかってもくじけずに働いた。

振り返ると、がんセンターに通いながら国際医療福祉大学や高松宮記念ハンセン病資料館の仕事を続けた。激務だったと思う。周囲からはいい加減に休んだらといわれたが、自分の限界は分かるのでやることができた。大事なことは、社会のために恩返しをして役立つことだと思う。

急激に進行する高齢化社会の社会福祉のあり方について 高福祉・高負担の北欧方式で行かざるを得ないと思う。かつて北欧に半年留学し、帰国後北欧の社会福祉を賞賛したら袋だたきにあったことがある。

しかし、中福祉・中負担では中途半端でうまく行かない。日本を救うためには、国民の暮らしを質素にしても高福祉・高負担を実現すべきだ。消費税の引き上げは難しいが、政治家は国民が納得するよう話をしてほしい。

歩んだ道の思い出は 大学を出た後、保健所でアルバイトをしていた。その時の上司が中央に行って揉んでもらって来いと、厚生省に入ることを勧めてくれた。

ハンセン病を専門にやろうと思っていたが、医療を国や社会が大事にしないといけない、日本の医療をよくしようと思い、自信がないまま厚生省に入ったのは35歳の時だった。私よりも若い人が上にいてショックを受けた。

結核によって、人生では10年近いブランクがあったが、この間に医学以外の哲学書や宗教書を読み、ラジオでクラシック音楽を聞いたことが教養を高めることになり、あとで考えればよかったのだと思う。(趣味は絵を描くことであり、著書は「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難=頸草書房=など多数」

大谷さん略歴 1924年滋賀県生まれ、京大医学部卒。滋賀県内の保健所や京都府衛生部勤務後、旧厚生省に入り、医系技官トップの医務局長で83年に退官。

退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年に「らい予防法」が廃止された。その後提訴された熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」と証言した。

裁判は原告が勝訴し、当時の小泉首相が控訴を断念した。国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任した。93年に社会医学・公衆衛生分野で功績があったとしてWHOレオン・ベルナール賞を受賞した。「日本財団が取り組むハンセン病制圧プロジェクト」より転載 (2009・02.25)2011・2・4

2015年06月06日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



あなたはアベサダって知ってる?

阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから78年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定は、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・05・13

2015年06月05日

◆七夕の朝に倒れた河野一郎

渡部 亮次郎



半世紀前の話だが、それだけに 先の短い身だから、私が居間ここで証言しておかないと記録に残話になる。昭和40年、自民党の実力者河野一郎は「中曽根クンを河野派から除名する」と 爆弾発言を私にしたまま、翌朝、中目黒の私邸で倒れ、8日に死んでしまった。 

だから「中曽根氏 河野派から除名」という大特種はならなかったわけだが、もし現実のものとなっていたら、中曽根政権はあった老化、と考えたりする。中曽根さんにこの話をしたことはない。

<「中曽根君を除名する!」

         渡部亮次郎

河野一郎さんの命日がまた巡って来る。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため、退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は洋平の長男である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。

2015年06月04日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎



私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の犠牲者?ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるように
なった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。(ウイキペディア)

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2015年06月03日

◆リラかライラックか

渡部 亮次郎


日本語にすると何かしらロマンチックになるのだろうか、アルプスの牧場には楡(にれ)の木に鳥が啼いたり、札幌の時計台には楡の花が咲くと、高校の先輩東海林太郎(しょうじ たろう)が歌っている。

同じように情緒的に歌われるのが「リラ」の花である。長じてヨーロッパへ旅するまでは実物に出会ったことはなかった。ブリュッセルのレストランの庭に紫色の薫り高い花が満開だった。「あれはライラック即ちリラの花だよ」とドイツ育ちの友人が教えてくれた。

吉岡妙子「リラの花かげ」、岡本敦郎(あつを)「リラの花咲くころ」倍賞千恵子「リラの花散る町」、加門 亮「リラ冷えの街」は、みんな「ライラック」を歌っていたのだ。それを知っていたかどうかは無関係だ。リラはフランス語、英語がライラック。

ライラック(Lilac、学名:Syringa vulgaris)はモクセイ科ハシドイ属の落葉樹。ライラックの呼称は英語の仮名転写に由来し、他にフランス語由来のリラでも呼ばれる。和名はムラサキハシドイ(紫丁香花)。

ヨーロッパ原産。春(日本では4―5月)に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく香水の原料ともされる。

日本には近縁種ハシドイ(紫丁香花) (Syringa reticulata) が野生する。開花はライラックより遅く、6―7月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある。

花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。

ハシドイの名は、木曽方言に由来する。属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという。

欧州の民間伝承では白い花のライラックを家に持ち込むと不吉なことが起こるとされている。(「ウィキペディア」)2010・7・4

リラ=Lilas、Lilac。そう、リラはライラックの別称ですが、音楽にも乗り安いし、何となく情緒的な叙情的な感じがするから、リラの方が良いでしょう。寺尾智沙・田村しげる夫妻の手によるものですが、白い花の咲く頃より、より抒情的でよりメランコリックな出来上がりになっております。

この作品も岡本敦郎が歌って大ヒットさせました。リラの花弁は白、ピンク、薄紫、紫と色々ありますが、宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」のフランス原曲も実は原詩を訳すと「リラの花咲く頃」。この場合は白いリラの花です。さらに、このフランス曲にも原曲があって、ドイツ原曲の「ニレトコの花が咲く時」というらしいです。ニレトコ(ドイツ)→リラ(フランス)→すみれ(日本)となったわけです。リラの花咲く頃

   JASRAC Code No.094−2028−2

   リラの花咲く頃
    
作詞:寺尾智沙
   作曲:田村しげる
   歌唱:岡本敦郎
   MIDI制作:滝野細道

   1.リラの花が 胸に咲く今宵
     ほのかな 夢の香に
     ああ 思い出の あの囁き
     遠く遥かに 聞こえ来るよ


   2.リラの花が 胸に散る今宵
     やさしく 手を組し
     ああ 過ぎし日の あのメロディー
     霧の彼方に 流れ行くよ


   3.リラの花が 胸に哭く今宵
     はるばる 別れきて
     ああ 懐かしの あの面影
     ひとり狭霧の 小径(みち)を行くよ

2015年06月02日

◆駅弁大学の日5月31日

渡部 亮次郎


秋田県に大学は無かったが、占領軍によって各県に1つは国立大学を置くべきだとの考えから秋田師範学校と秋田鉱山専門学校が合併する形で秋田大学が出来た。昭和24年5月31日である。

新制国立大学設置法がこの日、公布されたことに伴うもので、この日、全国で68もの国立新制大学が発足。国立山形高等学校は格下の山形師範学校と一緒にされて山形大学となった。

北隣の青森県・師範学校と国立弘前(ひろさき)高校を一緒にして青森ではなく弘前大学とした。青森大学はその後出来た私立大学である。

同時に東京では東京商科大学は一ツ橋大学、東京女子高等師範学校がお茶の水大学と改称された。

占領米軍は対米戦にいたる軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足を指摘し、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになったわけだ。

しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。

とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。

その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。

そこで辛口論評を得意としていた評論家の大宅壮一がこれを諷して「急行の停まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言した。

かつての進学校生徒などが「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」などと使うのが、典型的な用例であった。先生に「でも」なろうか、先生に「しか」なれない人を称して「でもしか先生」と揶揄した。


戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。

この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになった。

その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。

なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。

一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。

その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。

これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。

大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。

「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないか。

主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」(小樽、東京、神戸)などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。

1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い各地の帝国大学は改称し、学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。

その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各旧制大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学
も無くなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年06月01日

◆ジャガイモで命拾い西欧

渡部 亮次郎


16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、外皮も黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。

<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア 

2015年05月31日

◆園田直のサバイバル論

渡部 亮次郎


園田直(そのだ・すなお)は昭和59(1984)年の4月2日に70歳で死んだ。九州・天草の村長から代議士となり、衆議院副議長、厚生大臣、官房長官、外務大臣2期、再度厚生大臣に続いて3期目の外務大臣を務めた後3年して死んだ。病名は腎不全。

ところでこの人は、戦場に11年もいた。しかも日本陸軍落下傘部隊第1期生、天雷特別攻撃隊(いわゆる神風特攻隊)隊長を経験した。

そのかん中国、東南アジアで銃撃戦を体験し、最後の特攻隊では原爆を積んだアメリカの艦船に体当たりすべく飛び立つ予定だったが天候不良に阻まれ、では17日に飛べ、と言われたが15日に敗戦、万事休すであった。

その経歴をみて気づくのは彼ははじめから「死」を求めて戦っていたことである。それなのに生き延びたのだ。それだからこそ、戦場においていかに死の恐怖を乗り越え、いかに部下を統率すべきかをよく聞かされた。

私がNHK政治記者を辞めて彼の秘書官になったのは、そういう彼の戦争哲学に酔わされたためだった。秘書官になってからは出張先の外国のホテルのスイートで、従いてきた外務省の役人が夜は勝手に遊びに出掛けたあと、自身、酒を呑めないものだから、大酒呑みの私に自らウイスキーの水割りを作ってくれながら話をした。初め、私42歳、彼は65歳であった。

 1.ジャングルで道が2股に分かれている。右に行こうか、左にしようか。部下たちが一様に注目する。私も判断がつかない。私が敵だったらどうするかと考えると、来て欲しい道は来て欲しいように整えるだろう。

そうだ整備されてない道を行こう。それが正しかった。良い道の先では敵が待ち構えていた。初めはそれが判らず失敗した。それで会得した。だから失敗を恐れちゃいかん。

2.代議士になってすぐ今で言う不倫を野党の女性代議士と起し、相手を妊娠させた。どうするか。事態から逃避できないわけじゃないが、あえて妻と離婚しこの代議士と結婚した。

随分非難されたが、選挙区の女性は好意的だった。事件への対処の仕方が真面目だ、というものだった。そのせいか以後も落選しなかった。

 3.逃げる時は一番先に逃げなきゃいかん。2番目は撃たれる。トーチカ(ロシア語。コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地=広辞苑)にこもって敵と対峙する時がある。

膠着状態だな。最後にいざ出て逃げようとした時、初めに出た人は助かるが、2番目の奴は必ず足を撃たれる。相手は あ、逃げた、撃てというが、今まで長い事、待っていたものだから、あ、と一息ついちゃうんだね、一番の奴はそれで逃げられるが、二番手は足を撃たれる事になる。

だから何でも逃げる時は一番先に逃げなきゃ駄目さ。戦場では日中条約を遅疑逡巡する福田さん(当事の首相)のような人の態度はダメだ。遅疑逡巡していては戦争は出来ない。

部下の信頼を得られない。それと、弾というのは逃げる奴を追ってくるような気がするよ。弾に対してこちらが向かっていけば弾が俺を避けたよ。

 4.野戦では、弾の流れが見えているうちは大丈夫だよ。見えなくなったらコトだ。そうだろう、こっちに向かっている弾は点になるもの。点になって初めて緊張すればいいんだ。初めから構える事はないのさ。部下にバカにされるよ。

戦争とか喧嘩とかは常時、緊張しているわけじゃない。いわゆる戦機というものが必ずある。その時だけ緊張すればいいのさ。あとは風の吹くまで待とう風車。

 5.どんなに今のようなコンピューターが付いたって、大砲の射手は連続して同じ着弾点に命中さすことは不可能だよ。だから、さっきの弾の炸裂した穴に飛び込めば、弾には当たらない。「弾に向って進めば弾がよけてくれる」と言ったな。一番良くないのが逃げること。

そのうちに部下たちも心得たものだ、みんなそうするようになって1人も戦死者が出なかった。逆にいえば人生、同じ失敗を2度繰り返すのはかなり難しいものだということでもあるね。

 6.ある時、士官学校出の若い隊長が着任した。いやに張り切っとる。ダダダダダ。いきなり敵が撃ってきた。隊長、上がってしまった。「あれは敵か、味方か」そればっかり。士官学校では銃の撃ち方は習ってきたが撃たれ方は習うわけがない。

それが着任と同時に撃たれたのだから舞い上がって仕舞うのは当然だ。撃った事はあるが撃たれた事はない。ところが、こっちだってどっちの弾かわからん。でたらめに「あれは味方でございます」といってやったらフッとため息をついてたっけ。まだ22か3だものね。

角さんが幹事長、私が国対委員長のとき佐藤総理が法案の採決強行が遅いと角さんをどなりつけたらしい。おまえ何とかなだめてくれと言うからなだめてきた。

「総理、今日は仏滅、明日は大安」と言ったら総理は「そうか」と納得した。角さんが「ほんとにそうか」と聞くから「わしゃ知らん」と言ってやった。要は総理が採決の延期を納得すればいいわけだから、理屈はいらん。

 7.ある隊長は銃撃戦のさなか、先頭に立とうとするが、戦死されて困るのはこっちだから、みんなは「隊長、そこでは危のうございます」と言うばかり。士官学校出が危ないと言われて引っ込むわけに行かない。ますます弾に身を晒そうとする。

仕方ないから出て行って「隊長、そこじゃ戦況が良く見えません、どうぞこちらへ」と岩陰に案内したらため息をついていた。そんなもんさ。誰でも怖いものは怖いんだよ。

 8.角栄は俺のことを「俺は人を殺した事は無い」と言う。殺したくて殺す奴なんかいないよ。殺さなければ殺されるから殺すんだ。戦争好きなんているのかね。

 9.人間は何時死ぬか分からないから生きていられるんだよ。癌で余命幾許も無いと宣告されて自殺する人居るじゃないか。すぐ死ぬのに。特攻隊でも「明日出動」の命令がくだった途端、クビを吊る奴がいたよ。何時死ぬか分からないから生きていられるんだとつくづく思ったね。

逆に言えば明日とわかってなお生きている奴は大変なものだ。オレはそこらに落ちているちり紙を拾い、他人の鼻をほほにこすり付けていた。それに「生」を感じ取ったのだろう、と思い返すね。

最後に国会対策も女口説きも戦争と同じ、違うところは弾と口説と言ったので、顔を見た。戦争は人間をかくも鍛えるものか。

ガン治療の蓮見ワクチンの蓮見博士から「喉頭ガンの疑い濃厚です」と診断された帰り、車の中では高鼾だった。真実は糖尿病による腎臓の機能低下を死神が捕えたのだった。

田中角栄は国民要求の最大公約数を即座に実行して人気を得た。園田氏の頭脳は同じぐらい良かったが、ただ言ったりやったりすることに奇策が多かったので、並みの人は従(つ)いていけなかった。だから派閥を作れなかった。日本の政治家として唯一最大の欠陥だった。(再掲)

2015年05月30日

◆マスコミは金儲けだけ

渡部 亮次郎



最近のインターネット界ではマスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで

全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。79歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーがはなれて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元職員の会社が多い。勢い本部の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。

2015年05月28日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎



5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 1953)年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月27日

◆木津川だより 相楽神社 A

〜 郷土の式内社 〜                

白井 繁夫



式内社「相楽神社(サガナカ)」は、古代の郡名(旧相楽郡木津町:現木津川市)を負っているところから、相楽地方の中心的神社の一つと考えられて来ました。

木津川沿いの左岸に在り、水陸交通の要衝として、重要な大和の玄関港「泉津」の地に佇み、外交にも関係する神社でした。

重要な拠点に在る神社と云われた訳は、藤原京、平城京建設に必要な膨大な資材等が木津川の水運を利用して、全国から「泉津」へと集められ、陸揚げ仕分けされて、木津の浜(奈良街道)や吐師の浜(歌姫街道)から大和へ運びだされたからです。

例えば、藤原京建設の檜材の場合:近江の田上山(たなかみやま)大神山の峰々(大津市田上)から宇治川経由で檜を筏に組んで木津川を遡上し、泉津まで運び大和飛鳥へ陸送されました。

天武天皇は壬申の乱後、中国の唐の都を参考にした「都城」(新しい律令国家に相応しい都):藤原京建設のプランを立てたのですが、我が国最初の条坊制を布いた本格的な都城「藤原京」の完成は、夫の遺志を継いだ持統天皇から文武天皇まで要した、大事業になりました。

「都城」は、飛鳥淨御原宮から694年藤原京へ遷都して、10年後の704年やっと完成したのです。

奈良時代の泉津(木津)は平城京の外港として整備されました。

その結果、相楽地方の重要度が更に高まり、相楽神社近くには郡役所である相楽郡衙(大里付近)や大寺院(東大寺、興福寺等)の木屋所等が出来ました。政府の泉木屋所では領(うながし)が塩、海産物なども取り締まっていました。

泉津の周辺は、中央官司や大寺院の荘が建ち並び、川船が頻繁に出入りし繁栄しましたが、
陸上交通の場合も、平城遷都後の幹線道路網は奈良盆地の南起点から平城京中心に再編されました。

和銅4年(711)正月、各幹線道路には岡田駅(うまや)などの諸駅が設置され、北へ向う東山道と北陸道は泉津で木津川を渡るようになりました。律令制支配の深まりと共に、交通量も増加し、渡河点(泉津)の重要性はさらに増してきました。

この相楽村の産土神は同時にここを通る旅人の安全も守る神社でもありました。

祭神 足仲彦命(仲哀天皇) (たらしなかひこのみこと)
   誉田別命(応神天皇) (ほむだわけのみこと)
   気長足姫命(神功皇后) (おきながたらしひめのみこと)
  (武勇の神でもある、八幡神を祭祀しているので、「八幡宮」と呼ばれてきたのです。)

★相楽神社の有形文化財

相楽神社本殿  明治44年(1911)重要文化財に指定されました。
   室町時代初期に造営:三間社流造檜皮葺(さんけんやしろながれつくりひわだぶき)
   本殿は技法から南北朝期の建立と推測されています。身舎(もや)正面の欄間や蟇
   股(かえるまた)の透彫などを初め各所に秀麗な建築彫刻が施されています。
 
若宮神社本殿(末社) 昭和60年 京都府登録文化財に指定されました。
   室町時代後期に造営:一間社春日造檜皮葺
   相楽神社本殿の左(南側)にあり、室町後期の古式を留めている造営です。
   末社は他に南側に3社、北側に2社、拝殿の南側に豊八稲荷社が祀られています。 

その他
 氏子より寄進:
手洗石 ... 旱魃で苦しみ雨乞い祈願が成就 寛政5年(1793)
   鳥居  ... 大坂での商い成功       元禄14年(1701)
        氏子が信じる神の加護に感謝し、寄進された礼物です。
 
無くなった建造物:
   神宮寺(不動寺) 明治の廃仏毀釈の結果、廃寺となり境内から撤去
(昔からの土着の神教と伝来の仏教との神仏混淆が廃止されたのです。)
   能舞台      明治29年、鎮守の森の東部を小学校用地に提供した結果、
            大正6年倒壊 現在は礎石のみ (台風の破壊力に敗北)
 
南座籠所の南側にあった鐘撞堂からの朝夕の鐘の音も、不動寺の廃寺と共に消えました。
相楽神社所蔵の大般若経600巻(欠巻11巻)の僧の声明も唱えられなくなりました。
しかし、鳥居をくぐり、神社に参詣する神社正門は古式豊かな四脚門の寺院形式を留めており、南山城地区の神社では、貴重な遺産です。

★相楽神社の無形民俗文化財

「相楽神社」の宮座は南北両座合わせて、9座90人の十人衆が輪番で、一老(又は二老)が当番神主(宮守)となり、宮座祭祀を執り行ってきました。昔は宮座の上部に「一族:帯刀を許された郷侍.郷士」がいて、秋の大祭の場合、流鏑馬等の神事を采配していました。

その後、一族は江戸時代末、文化3年(1806)以降、藤井.吉田の二姓のみになり、権力も弱まり、流鏑馬も無くなりました。代わりに宮座(村方)から「競べ馬」が奉納されました。しかし、現在はそれも有りません。

「相楽神社」の行事として、無形民俗文化財に指定されている正月行事「豆焼:降水量占」や「御田祭:豊作祈願」、2月1日の「餅花祭」、秋の大祭等に関して大変ユニークな祭事の伝統文化を綿々と伝えてきています。

それらの文化は次回につづけます。

参考資料: 木津町史 本文篇  木津町
      相楽の民俗    京都民俗学談話会 南山城調査会