2015年05月02日

◆「生きている化石」の木

渡部 亮次郎


それは「メタセコイア」。東京都江東区の都立猿江恩賜公園近くに暮らすようになって20年近く経つ。その公園を毎日の散歩コースにしいるのだが、さすが昭和天皇から下賜された公園らしく、昭和天皇が好まれていたと言う「生きた化石」の木「メタセコイア」を沢山植えて、都民の「謝意」を表しているようだ。

まず、公園の入り口(新大橋通り側)に横並びにメタセコイアがそろって6本植えられ、公園のシンボルとなっている。通りを挟んで向かい側は区立江東公会堂(ティアラ江東)である。

私が散歩して居るのは「北部」地区。1周1・1キロ。3000歩である。その途中に、メテセコイアが数十本植えられている。木場(きば)の材木置き場を埋めたてて公園にしたのが昭和56年と言うから、既に34年、経っている。

メタセコイアはいずれも高さ30メートル近い大木に成長している。壮観だ。

メタセコイア。学名 Metasequoia glyptostroboides和名 アケボノスギ(曙杉)イチイヒノキ 和名アケボノスギは、英名dawnredwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と、現生種を別種とする学説もある)。

葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは1〜3cm程度、幅は1,2mm程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。樹高は生長すると高さ25〜30m直径1.5mになる。

1939年に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉種の植物遺体(化石の一種)が発見された。発見者の三木茂博士により『メタセコイア』と命名され、1941年に学会へ発表された。

当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることが多い。

その後、1949年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地に植えられているのだそうだ。

英国の種苗会社などから、インターネットで種子が入手できる。タネは直径2〜3mmの、淡黄色のおがくず状の物で、発芽率はあまり良くないが、日本の気候にはよく合い、生育が早いので、栽培してみる価値は十分にある。

早めにタネを入手し、1月中旬か下旬に浅鉢、浅箱などに蒔き、タネが隠れる程度に覆土し、乾かさないように管理する。櫻が咲く頃に、徐々に発芽してくるので、数センチになったら3寸のポットに仮植えする。

秋には30cmくらいの苗に生育する。翌春発葉する前に、定植する。苗は一年で1m近く生育し、最終的には30〜40mになるので、株間は7〜8mは必要である。

冬のソナタ。メタセコイアの並木道が登場し、ドラマのファンからはシンボルの一つとして扱われる。

三木町―発見者・三木博士の出身地。博士の功績を記念し、メタセコイアを町のシンボルとしている。三木町(みきちょう)は、香川県東部に位置する町。高松市のベッドタウンとなっている。

また香川大学医学部ならびに農学部を擁する、三木キャンパスの学生街でもある。9月下旬に行われる『獅子舞フェスタ』で知られる。

近年、香川県農業試験場にて開発された讃岐うどん用国産小麦・さぬきの夢2000の試験栽培が開始され、同品種の名産地として脚光を浴びている。

この事はNHK総合のドキュメンタリー番組「プロジェクトX 挑戦者たち」第149回(2004(平成16)年7月6日放映分)にて「さぬきうどん 至高のうまさとは」というタイトルで紹介された。         2010・6・15執筆    
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2015年05月01日

◆暗い日本メーデー史

渡部 亮次郎



1936年、二・二六事件発生。陸軍将校たちが政治・経済の改革を叫んで政府転覆を狙った事件。これにより戒厳令が敷かれた後、同年3月19日付けで治安維持を目的とする内務省警保局通牒が発せられた。

「集会及多種運動の取締方に関する件」(「多衆運動ハ従来慣行ニ依リ許容サレツツアルモノト雖(イエド)モ右期間中ハ凡テ之ヲ禁止スルコト、従テ愛国労働祭又ハメーデー等の計画アル向ニ対シテハ予メ之ヲ中止スル様諭旨スルコト」)が発せられたのである。

3月24日に予定されていたメーデーが開催禁止された。体制は共産中国でも明らかなように大衆が纏まって動く事を嫌う。しかしこれに反対する無産政党や日本労働組合全国評議会(全評)の組合らは3月26日にメーデー禁止措置反対行動を起こし、内務省や警視庁へ抗議。

4月27日に全評の山花秀雄が組合幹部個人の名義でメーデー実施を指令し、当日は小規模ながらも全国で様々な形の集会やデモが開催された。

指令を発した山花はメーデー終了まで愛宕署に検束拘置された。この年から1945年まで日支事変激化などの理由で開催されることはなかった。

私は全くの子供だったし、当時は新聞が読めない。ラジオもテレビもない時代だったから、こうして改めて勉強するまではメーデーの歴史など知る由もなかった。

大東亜戦争敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)。小学校5年生。草深い秋田では何も知らなかった。

1951年の第22回大会では、サンフランシスコ講和条約締結を控えて反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて芝公園で実質的な中央メーデーを開催し、戦後初の分散メーデーとなった。

日本の主権回復後に行われた1952年の第23回大会では、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約への抗議も主張に含まれた。その際に皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突した(血のメーデー事件)。

米軍政下で琉球政府時代の沖縄でもメーデーは開催されていた。1951年に恩納村万座毛に300人が集まったのが沖縄で初のメーデーであった。

1952年には「即時本土復帰」「サンフランシスコ講和条約第3条撤廃」などを掲げた本格的なメーデーとなり、これをもって第1回沖縄メーデーという。昭和27年、高校生だった。

1954年の場合、労働運動から反米運動への展開を恐れた米民政府はカール・マルクスの実際の誕生日は5月5日であるにもかかわらず、「5月1日はマルクスの誕生日であるため、非共産主義者はメーデーに参加しないように」という声明を出し、開催阻止に向けて圧力をかけた。東京で大学生だったが労組や社会党が大嫌いだったから近付かなかった。1度も参加しないまま、無縁になった。

高度成長期には総評、同盟などの共催で統一メーデーが続けられ、1984年の第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択された。

「時短(労働時間短縮)元年」と位置づけられた1985年の55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられた。

新たに「スポーツ祭典」が併催されて「お祭りメーデー」と呼ばれる家族ぐるみの行事に発展したが、他方で労働運動としての意義の喪失に繋がると社会党や共産党、日本高等学校教職員組合(日高教)などいくつかの労組から反対や再検討を求める批判がなされた。

その後、労働組合の全国中央組織の再編による組織対立の激化で、1989年以降は統一メーデーの開催ができなくなり、連合と非連合系の全労連や全労協による分裂開催となった。

また、前後がゴールデンウィークで長期休暇を取る例が増え、労働組合活動が低調になってきて参加者数が減少したことを理由に、連合系メーデーは2001年以降4月29日や土曜日に行うようになった。

一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続けており、その分裂と対立の構図は解消されていない。

2008年、連合は4月26日土曜日、東京の代々木公園で中央大会を開き、主催者発表で約4万5千7百人が参加した。「暫定税率の復活による増税反対」「後期高齢者医療制度廃止」などののぼりが立ち並んだ。

一方、平日の5月1日に同じ場所で開かれた全労連系中央大会は「貧困と戦争をなくせ!」を主テーマとし、主催者発表で約4万4千人が参加した。

連合と全労連のメーデーは、どちらも1920年からの通算回数をカウントしており、2015年で第86回目を迎えたとしている。
出典「ウィキペディア」

2015年04月30日

◆俺の女房だと毎日は叫べない

渡部 亮次郎


「これは俺の女房だと毎日叫ぶのは恥ずかしいことだ、と同様、尖閣諸島はわが国固有領土だと毎日叫び続けることは恥ずかしい」と日本外務省。「嘘も百編唱え続ければ真実になる」よろしく中国。これが尖閣諸島問題の本質だ。

1968年 10月12日―11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。この話は元首相岸 信介から直接聞いた。

その岸は総理辞任後、個人事務所を構えたのが新橋駅に近い日本石油の一郭だった。元通産官僚として、石油に深く関係する岸だった。

海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。

だが、関係者はともかく、日本国民の殆どは、この事実を知らず、尖閣諸島の名も知らなかった。後に外務大臣の秘書官になって深く知らざるを得なくなる私も、政治記者時代は全く関心がなかった。

1971(昭和46)年 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、いわゆる保釣運動へと発展した。

6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。

6月17日:日米が沖縄返還協定に調印。この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している。

12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。

72年7月5日、田中角栄が「角福戦争」を制して政権を獲得。

7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

9月27日:田中角栄内閣総理大臣が日中国交正常化交渉のため中国を訪問。私はNHK記者として同行した。

周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている。

この事実は同行記者団には発表されなかったので、最近知った次第。中国では当時まだ毛沢東が存命中。経済改革・開放論者のトウ小平は下放中。将来、中国共産党の首を絞めるほどの重要資源になることを周恩来は自覚できなかった。

9月29日:日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。

1973年8月、田中批判をTVや「文芸春秋。赤坂太郎」で展開することで田中側近の竹下登副幹事長がNHK政治部長に渡部亮次郎記者の左遷を要求。NHKはこれに抗することなし。

渡部は3度も辞表を提出するが受理を拒否される。止む無く大阪に転勤。3年後東京・国際局に副部長として戻ったが、1977年11月にNHKを退職、福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に横滑りした園田直の秘書官に就任(内閣総理大臣辞令)。日中平和友好条約の締結交渉に従事。

1978年4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。青嵐会(せいらんかい)の石原慎太郎らが主権の侵害だと福田政権を突き上げる。

この時私が日本外務省野幹部に質したところ「これは俺の女房だと毎日叫ぶ事は日本人の感性からすると恥ずかしくてとてもできることではない」という説明があったのだ。だから日本は始めから負けていると言えなくもない。

8月8日、園田外相が日中平和友好条約締結の最終交渉のため特別機で訪中。渡部随行。

滞在期間中、トウ小平副首相が園田外相に対し尖閣諸島問題の棚上げを表明。

10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。田中内閣による国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べる。

「ウィキペディア」によれば、<中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった]。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる。



  

2015年04月29日

◆つつじとさつき

渡部 亮次郎



今は都立猿江恩賜公園の躑躅(つつじ)の豪華さに酔っているが、私はこれでも20代の終わりごろ、三鷹で皐月(さつき)の盆栽作りに夢中になっていたことがある。

当時は花の色香よりも木が曲がりくねって生長してゆく様に魅かれた。花が終わったらすぐに剪定にかかり、薬剤散布もちゃんとやらなければ油虫が花の芯を食ってしまって咲くべき来春の花が咲かない。

だから忙しい政治記者の手には負えなくなって横浜の知り合いに全部くれてやったが、彼は手入れをし過ぎてすべてを枯らしてしまった。水のやりすぎによる根腐れ病を起こしたのかも知れない。

私に盆栽造りを奨めてくれたのは河野一郎氏の側に秘書官みたいにして付いていた藤尾正行代議士。選挙区の栃木県鹿沼まで招待してくれた上に何十鉢の皐月の盆栽を貰って下さったのである。

躑躅(ツツジ)の花には薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の花のような豪華さはないが、庶民的で親しみのもてる可憐さがある。そのような点にひかれてか,古くから世界各地で多くの園芸品種が育成されている。

冬にも枯れない常緑性ツツジの園芸品種は日本,落葉性ツツジの園芸品種はヨーロッパで育成されたものが多い。

日本で造られたツツジの園芸品種は、ケラマツツジからヒラドツツジ、サタツツジが、ヤマツツジからキリシマやクルメツツジなどが、マルバサツキからサツキの各園芸品種が育成されているように,日本固有の野生種を利用しての品種改良が行われてきた。

一方,ヨーロッパでは中国産、日本産やアメリカ産のジャコウツツジ,カフカス産などから各園芸品種が改良されているように,他の地域から導入されたツツジの野生種をもとに品種改良が行われている。

現在世界のツツジの園芸品種の総数は2000以上にのぼるものとみられ,栽培が容易であるため庭園用,鉢植え用として広く利用されている。

今後,より耐寒性,耐暑性の品種,あるいは花色が黄色や青色のツツジ園芸品種が育成されるならば,さらに利用されるようになるであろという。

ヒラドツツジは長崎県平戸市の旧武家屋敷の裏庭に植栽されている大型ツツジの中から選抜されたツツジとその近縁種の総称で,直径10cm前後の大輪の花をつけ,葉や樹姿も大型となり,平戸市内にある古木では高さ4m以上に達するものがある。

南九州から沖縄にかけて自生しているケラマツツジを母体に,モチツツジやキシツツジ,リュウキュウツツジが自然交雑してできたものである。

花色は紅,紫,桃,白と多彩であり,早く育つので公園や街路植栽用によく利用されている。耐寒性が弱いので利用は西日本が中心になるが,オオムラサキのような耐寒種もこの仲間に入る。


キリシマ R. obtusum Planch. は,小輪で濃紅色の花を数多く咲かせる。枝がよく伸び背の高い樹姿となるので,公園などに植え込むとたいへん美しい。

また,枝が伸びる性質を利用して,枝物として生花材料として利用されることも多い。鹿児島県の霧島山に自生するヤマツツジから江戸時代に品種選抜されたもので,日本の園芸ツツジ栽培の草分けとなった品種である。

クルメツツジは,キリシマと鹿児島県南部に自生するサタツツジを親に,江戸時代末期に久留米で品種改良されたツツジである。小輪で多花性,枝があまり伸びないのでコンパクトな樹型になり,花時には樹冠一面が花でおおわれるようになる。

花色は赤,白,桃,紫,淡紫,絞りなどと多彩で非常に派手な色彩のツツジであるため,公園や庭木としての利用が多い。大正年間にウィルソンE.H. Wilson によってアメリカに導入されて以来,ヨーロッパ,アメリカでもクルメ・アザレアの名で広く利用されている。

ミヤマキリシマ R. kiusianum Makino は九州の1000m以上の高山にだけ自生している極小型のツツジで,花の直径は2cm内外,枝は短くつまり,ツツジ類中ではもっとも小型の部類に属する。

可憐な花型とコンパクトな樹姿から小盆栽として利用される場合が多いが,耐寒性もあり庭木としても利用できる。ヨーロッパではダイヤモンド・アザレアとして近年注目をあびるようになっている。


リュウキュウツツジ R. mucronatum G. Don は日本に野生のあるキシツツジとモチツツジの間の雑種性のツツジとみられる。たいへん丈夫で,耐湿性,耐寒性があるため,江戸時代からリュウキュウツツジの名で栽培されてきた。花色は白であるが,近縁種には淡紫のもの,絞りのものもある。

皐月(サツキ 陰暦5月のこと)はツツジの仲間であるが,江戸時代からツツジと区別されてきた。花型,樹姿にそれほど差はないが,花の時期がサツキは5〜6月でツツジより際だって遅いのが特色で,サツキの名もこれにちなんでいる。

西日本各地に野生しているサツキと吐菓喇(とから)列島(九州南端から約130キロ南にある火山島群)付近に野生しているマルバサツキの交雑によって品種ができたもの。

両親の形質が対照的であるため,サツキの園芸品種は変異の幅がたいへん広く,サツキ愛好熱の高まる一つの理由になっている。

花色は紅紫,桃,白のほか,絞り花や底白花など,変化のおもしろ味があることや,樹姿,葉姿の均整がとれて美しいことから盆栽としてよく利用されている。

また,刈込みにも耐える性質をもっていることから,庭園用樹としても利用が盛んである。

ところでツツジの繁殖は一般に挿木による。常緑性ツツジはほぼ一年中挿木できるが,地温が15〜20℃の季節がいちばん早く発根する。ツツジは陽光を好むので,日当りのよい場所に植えるのがよい。

水はけが悪いと根腐れを起こしやすい。酸性土壌を好むので,植え穴にはピート,腐葉土などの有機質を多量に混入するのがよい。花芽は7〜8月に分化するので,それ以後に刈り込むと翌年の花が咲かなくなる。

剪定(せんてい)は花後すぐに行うのがよい。肥料は油かすを株の周辺の地表に置肥するのが安全で,化学肥料は根を傷めるおそれがある。ダニ,グンバイムシなどの害虫や褐斑病の発生がよくみられるので,5月から9月までは定期的に薬剤散布を行うとよい。

参考:平凡社『世界大百科事典』 2008・4・17

2015年04月27日

◆トウ小平のタン壷

渡部 亮次郎



記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞) =故人が2012年9月22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、トウの足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>ちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて北にしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した。ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだろうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的だった。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか。

2015年04月26日

◆北京で遺体を曝す毛沢東

渡部 亮次郎


モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けでは無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されている。

私が毛の遺体と初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。

そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。

帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現したケ(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。

毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。
http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php

その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。

観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。

さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。

田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。

それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる4人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。

それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もないケ(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。

1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ小平による改革開放路線の展開となる。

それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。

だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来とケ小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。2009・01・06


2015年04月25日

◆官邸襲撃のドローンは中国製だった

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)4月24日(金曜日)参 通算第4526号 > 
 
〜やっぱり首相官邸襲撃のドローンは中国製だった
   化学兵器を無人機に搭載して攻撃する軍事行動の予行演習ではないのか?〜


首相官邸の屋上に飛来した、セシウムを摘んだ無人機ドローンが中国製であることが判明した。危機管理の手抜かり、政府中枢が、これほど外敵の攻撃に脆弱なことが図らずも曝されることとなった。

現段階では推測の域を出ないが、もし某国が日本攻撃をするシナリオを想定した場合、こうした無人機に化学兵器を積んで、いちどに何十機も飛ばしたらどうなるのか。中枢が麻痺し、日本は身動きが取れなくなる。米国のように地下壕が造られ中央司令部がただちに置かれる状況が、平和国家日本では想定もされていない。

専守防衛を掲げるのであれば、皇居、首相官邸、国会、防衛省本部など、無人機の攻撃からいかに防御するかを真剣に考え、対策を講じなければなるまい。

この奇貨をいかそう。

◆“大阪都構想”論争に考えたこと A

眞鍋 峰松(評論家)
       

(承前) また、現在の“都構想”について、市民の間に大きな誤解を生じていると思われる点がある。
 
それは、大阪府を「大阪都」に変えるには、例えば「大阪府を大阪都にする」といった新法をつくらなければならない。だが、特定の自治体だけに適用される法律をつくるには憲法上、住民投票にはかる必要があり、府民全体に名称変更の是非を問うことになる。 

ほかに、名称を変更できるよう地方自治法を改正する方法も考えられるが、そもそも“都”という名称は何を意味するのか。常識的に考えれば、“都”は一国の首都を意味するのではないのか。 

それで果たして、現在当然の前提のように思われている“大阪都”というネーミングそのものが、法律名称として採択されるものだろうか、甚だ疑問である。
                    
さらに、大阪復興の観点からみれば、今の議論で完全に抜け落ちていると思うのが、学術・文化の発信機能の復権である。

元気なのは吉本興業系列ばかりという状況からの脱却である。考えれば、この問題もマスコミや印刷・出版界等のいつしか行われた首都圏とりわけ東京への一極集中に起因する事柄である。


橋下市長はこの問題にどの程度の危機意識を抱いているのだろうか。
                           
故会田雄次京大名誉教授は、文化面からの大阪の地盤沈下についてその著書「リーダーの条件」の中で『ハレとケの精神学:大阪は天下の台所、その住民も庶人気質を以て任じかつそれを売り物にして来た。だから大阪にはハレの場所は育たず、その機会もなかった。だが、そのことから思いもかけぬ結果が出て来た。大阪の地盤沈下である。

それは単に東京が政治の中心だということが原因ではない。それも大きな原因だろうが、その逆手をとる方法だってある。だが、そのケ主義のためケで満足する人は大阪に集まってもハレを求める人材は大阪に来なくなった。大学は育たない。出版社も生まれない。作法・デザイン文化は展開しない。インテリは住みたがらない。

ヨーロッパ風のおしゃれの町、日本調の凝った町、六本木風植民地的風景の町も出現しない。外人も興味を示さない。京都と神戸がなかったら大阪は巨大な場末都市になり終わるところだった。

こういう環境からは科学技術も、一般学問も醸し出されて来ない。情報文化は育たない。漫才と落語だけでは困るのだ。高度な知識産業の時代、情報化社会では大阪の地盤沈下は当然の結果であろう。』と、辛辣に指摘されている。

大阪府民・市民にとって敬聴するべき意見だろう。
      
最後に、橋下市長が問題提起するように、この狭い府域に、府知事と大坂市長という実際上同格の権力者が存在しているのは現実であり、二頭建て権力を一元化しようとする試みが“都構想”である。 

まさに橋下市長の言う「いまの大阪府と大阪市は中途半端な財布をそれぞれ持っている。大阪府と大阪市という行政体を1回ぶち壊して、新たな大阪をつくっていく」のだろう。
 
確かに「両雄並び立たず」「船頭多くして、船、山に登る」の状況は避けなければならない。 この点は誰しもが理解できるし、納得もできる。 


だが、果たして、大阪“都構想”がこの状況を解消のための唯一無ニの手法なのだろうか。

今、多大の経費をかけ採るべき手法なのだろうか。現在の知事と市長の法律上の両者間の権限分与が時代の変化に立ち遅れ、現状に合致していないのであれば、どう改変すれば良いのか、という判断もあろう。
 
もし都制にとなった事後に誤解と偏見に基づいたものであったと気付いても、今回のような巨大な体制・組織の本格的変更はそうそう簡単に修正の効くものではない。
 

本当に将来の大阪を真剣に考えるならば、マスコミの行った各種の世論調査の結果が“都構想の内容がもう一つ分からない”という回答が絶対多数を占める状態での住民投票の強行が果たして正しいのだろうか。 

また、こう言えば実も蓋もないことになるが、最近マスコミ等もよく指摘しているように、単なる就職先と化している状態の中での地方議員と首長との間の政党紛争や政策論争にのみ行方を委ねることにも危惧を抱く。 
過日の朝日新聞で記載されていた大阪大大学院北村亘教授(行政学)の話のように「大都市のあり方には様々な選択肢があっていいが、住民サービスへの影響が大きく、イチかバチかで進めてはいけない。提案者は街づくりの仕組みや教育、福祉がどう変わるのかしっかりと示し、市民がチェックできるようにすることが必要だ」との見解もある。 

また、同新聞で中田宏・元横浜市長(1964年生まれ。2002〜09年横浜市長。12年に大阪市特別顧問として橋下徹氏を支えた)は、「政令指定市長と知事は連携ができていない。二重行政やメンツの張り合い、責任の壁もある。大都市ではシステム論でないと改革できない。

指定市の市長経験者として限界は共有しているから、都構想の基本的方向性は大いに賛同します」としながらも、「橋下さんは正直、たいしたもんだとうなる力量です。ただ、結果は「100」か「0」かになってしまう。橋下政治のリスクは、結果が出るのかわからないというところですね」と指摘している。                                             
既に今月27日に告示、5月17日にはいよいよ住民投票が実施されようという現時点では若干遅きに失した感があるが、これらの発言からしても、私はやはりもっと地道な行政運営実態についての検証と政策提言の下、地方行政に精通した学者や識者の点検・検証結果を踏まえた上で、これを解り易く公開し、住民判断を求める方が良いのではないか、と考えるが、どうだろうか。(終)

2015年04月22日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎



「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから37年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平和友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。

あれから37年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。
(文中敬称略)2015・4・21

2015年04月19日

◆松茸がスカンク?

渡部 亮次郎

幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本何万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。

ところでマツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。2006年10月13日の毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。

ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち05年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。毎日新聞「余録」 2006年10月13日 0時04分)

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなどの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場所に生育する。

古くから日本人にこのまれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。

これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所を好むので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。

兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さんは「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>
とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。

中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。

2015年04月16日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん

歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信

昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ない
だろう。

春日八郎

●本名:渡部 実

●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

2015年04月12日

◆始まりはペンシルロケット

渡部 亮次郎



1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に従いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそいだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城(いわき)町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月に県の大館市へ転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者は出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪、東京と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。   2010・7・8
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2015年04月11日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。