2016年11月29日

◆日本における売春の現状

渡部 亮次郎



私の大学在学中に国会で売春防止法案が審議されて成立。卒業とともに売
春宿はなくなった。しかし法律は「防止」であって「禁止」ではないこと
が示す如く、売春はなくなっていない。

売春防止法は『何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならな
い。』としている。

しかし、売買春そのものに刑罰は設けられておらず、売春防止法におい
て、売春行為自体は禁止されていても、刑罰の対象とはならない。

その理由としては、売春防止法制定当時の官僚による国会答弁が参考となる。

<性欲の捌け口を作ることで性犯罪を防止すること、諸先進国では合法化
されている国が多いこと、風俗業従事者の生活維持、地域経済・税収への
深刻な影響を挙げている>。

他方、売春防止法では単に売春を行ったという単純売春(条例に反さない
範囲において)は刑事処分対象外であるが、売春の勧誘、周旋、売春契
約、売春をさせる業(俗にいう「管理売春」は、これに含まれるなど売春
を助長する行為は禁止されており、刑事処分の
対象となる。

売春防止法が売春そのものを禁止するのではなく、売春を助長する行為を
禁止しているのは、そもそもの立法経緯において、女性の性的役務の隷属
被害や、暴力団等や親による搾取行為を無くすのが主
目的で、売春行為自体を取り締まる事が主目的ではなかった。

『売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗もので
あることから、売春を助長する行為等を処罰すると共に、性行又は環境に
照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置
を講ずることによって、売春の防止を図るこ
とを目的とする』為である。

売春防止法の他に、児童買春・児童ポルノ禁止法が存在する。児童に対す
る性的搾取・性的虐待を防止し、児童の権利を擁護することを目的として
いる。

売春の斡旋、あるいは売春をさせる業を為すことは刑罰の対象となってい
るが、斡旋ではなく知り合った男女が売春しているにすぎないという建前
を用いてソープランドでは公然と売春が行われている。

旧赤線地帯などでは、ソープランドのような風呂を設けずに個
室で売春させている所も多く、ファッションヘルス、ホテトルなどにおい
ても、店が売春を黙認している所もあるなど、売春の斡旋、売春をさせる
業を為したということで処罰されないよう、店側は関知しないという建
前、暗黙の了解のもとに営業している例は見られる。

この外、テレクラ、出会い系サイトを発端として当事者同士の合意で売買
春がなされる場合や、ラブホテル付近に売春する側が立ってが客待ちを
し、売買春が為される場合などもある。

また、韓国で2004年に性売買特別法が施行された結果、韓国人売春従事者
が日本をはじめとする海外諸国で「遠征売春」が増加しているといわれる。

2016年11月28日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めてたべて美味しかった。しかし
生を食べたのは大人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。


2016年11月27日

◆糖尿病で起きる合併症

渡部 亮次郎



48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく
放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ
人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に
遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したの
だ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症して
いた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直
(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しない
まま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを
所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣
のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能
しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生
きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅
らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めた
が、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインス
リン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩
恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つ
くので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」
と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済
生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだっ
た。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても
私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖
尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本で
は全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、そ
の原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病
院。患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥な
んだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う
態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区
葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も
継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出
血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台
にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサング
ラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして
出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じると
いう。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受け
た。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常な
し」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大
事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもこ
こを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らな
かった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてイ
ンスリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の
日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなく
なった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失
神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下
がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすか
るたすかったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの
注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、
現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器
に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛み
は殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから
逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がり
だった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として
田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。
園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それ
を防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管
や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑える
が、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された
「T−pa」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以
内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さん
がそれだ。その後の主治医が私と共通。

教授はまず脳梗塞に掛からないよう血液の粘りを少なくしようと
ワーファリンという薬の服用を命じた。だから毎日飲んでいるが、
効き過ぎて関節内血腫を起こしてしまった。2011年9月5の緊急入院の理由
である。次に起きるのは何だろうと思う。しかし心配しても始まらない。
           2011・9・24

2016年11月26日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

2016年11月25日

◆日中正常化同行取材記

渡部 亮次郎



日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材
チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田
中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが
正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ
去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたとき
のこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの
広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底に
しゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見ら
れているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよ
う、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以
外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以
上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に
銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが
西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたとこ
ろ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行く
バスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこち
らは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を
出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフラン
ス語はすっかり忘れた。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バス
は40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが
通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書け
た。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言
動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だ
から同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから
35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には
低血糖に陥り死に掛けた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知っ
たのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜
中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作
する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中
国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後初
めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28

2016年11月23日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎



50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれであ
る。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対
し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、
北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づか
ない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」で
ある。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言に
は仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対し
て、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相
まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可
能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。この
ギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、
かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船
やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止し
た。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはず
なのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくと
するこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまい
か」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど
「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有
国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特
異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者の
しりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4
原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査に
よれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えて
いる。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成
18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載
「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死
す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」
であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党など
は開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主
張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般につ
いて統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山
氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろう。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私
の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、こ
の時期についての理解は小説のみに依存していた。

阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中
首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれら
のすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見
方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保
7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山
市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座で
あった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座とな
る。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を
求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、
ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神
奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉
永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大
統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商
を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸
大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが
経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかた
ちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間
続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派
の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派で
あった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首
座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は
江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆
らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを
創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改
革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死
する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後ま
で拒んだという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2016年11月22日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
まねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれて
いる。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直が初めてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がお
しきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・
18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが
発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)

2016年11月20日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎



ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材」として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど勢力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田のかいがんでは8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。2011・10・09

2016年11月19日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎



子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。

2016年11月18日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2016年11月17日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。

そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。

それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11

2016年11月16日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。(再掲)


2016年11月15日

◆アメリカ料理?知らないな

渡部 亮次郎



アメリカ料理 (American food) とは、「ウィキペディア」が喝破する如く「今日ではファーストフードとして世界中に普及しているもの」も多い。

昔の日本人のファーストフードは饂飩や蕎麦。せいぜい「お握り」。

晩餐に出るものこそ「料理」というべきもの。アメリカでは美味しいものは食べたことはあるが、殆どはフランス、イタリア料理。他にアメリカ人の好むものといえば日本料理だった。

ニューヨーク、コロムビア大学のある教授は、この指摘に対していや、アメリカにも美味しい料理はあるよ、とレストランに案内してくれたが、出てきたビフテキは硬くて参った。せめて醤油でもあれば、と思ったが、その頃はアメリカ本土にキッコーマンは未進出だった。

ニューヨークではよく、オイスター・バーへ行き、クリーム・チャウダーを食べたが味付けはフランス料理だった。純粋のアメリカ式ならレモン添え生牡蠣だろう。

蟹が安いから大量に食べたが、あれは料理と呼べる物ではない。材料そのものだ。茹でただけだから。

そこでジョン・レノン夫妻にご馳走になったのはイタリア料理だった。

<アメリカ料理とはアメリカ合衆国で生まれた料理、アメリカ合衆国外で発生したもののアメリカ合衆国内で独自の発展をとげた料理、ならびにアメリカ合衆国で普遍的に常食とされている料理である。

トマトを使用したものが多く、トマトケチャップやトマトジュースもアメリカが発祥となっている。

早くから冷凍食品が普及しており、特に冷凍野菜が頻繁に使われる。肉料理はアメリカ南部発祥が多い。>(ウィキ)

ウィキに依れば、以下がアメリカ料理だそうである。要するに余り手を掛けないのがアメリカ料理かと思ってしまう。

美味くないものを多量に押し込むためか、アメリカの人たちはバター、チーズ、砂糖、コーラ、アイスクリームを多量に摂取する。だから肥満を気にしていないアメリカ人は見かけない。肥満は成人病を招く。それを中国人富裕層が追いかけている。

パン類ピザ (Pizza) - 元々はイタリア料理だがアメリカで変化し、イタリアのそれとはかなり違うものになっている。

ドーナツ (Doughnuts)
ベーグル (Bagel)

ビスケット (Biscuit) - イギリス料理のスコーン(Scone)に相当する。
プレッツェル (Pretzel)
パンケーキ (Pancake)
マフィン (Muffin)
ワッフル (Belgian Waffle)
フレンチトースト (French toast)
コーンブレッド (Cornbread)

パスタ類イタリアや日本よりスパゲッティをかなり柔らかめに茹でる習慣がある。

スパゲッティ・ウィズ・ミートボール (Spaghetti with Meatballs) -
ミートボール入りのトマトソースのスパゲッティ。

フェットチーネ・アルフレード (Fettuccine Alfredo) - チーズの入ったクリームであえたフェットチーネ。
マカロニ・アンド・チーズ (Macaroni and Cheese)
飯類ジャンバラヤ (Jambalaya)

カリフォルニアロール (California Roll) - アメリカの寿司は酢を利かさないものが多い。

ホッピン・ジョン (Hoppin' John) - 米と黒目豆を炊き込んだ料理。
シアトルロール (Seattle Roll) - カリフォルニアロールの一種。
スープ類チャウダー (Chowder)
ガンボ (Gumbo)
ヴィシソワーズ (Vichyssoise)
チキンスープ (Chicken Soup)
ピーナッツスープ (Peanut Soup) - ヴァージニア州の名物スープ。
サンドイッチ類ハンバーガー (Hamburger)
ホットドッグ (Hotdog)

スロッピー・ジョー (Sloppy Joe) - トマトソースで煮込んだ挽肉をバンズではさんだもの。

肉料理
バーベキュービーフステーキ (Beef Steak)
バーベキュー (Barbecue)
ミートローフ (Meatloaf)
ローストチキン (Roast Chicken)
フライドチキン (Fried Chicken) - 主に骨付きの鶏肉を揚げたもの。

テリヤキ (Teriyaki) - 日本とは違い、テリヤキソースは肉料理にしか使わない。

ポークチャップ (Pork Chop) - 下味を付けた豚の骨付き肉を焼いたもの。

ローストターキー (Roast Turkey) - 感謝祭に家族で食べる七面鳥の丸焼き。

バッファローウイング (Buffalo Wings) - 辛く味付けした鶏の手羽。セロリとブルーチーズドレッシングが添えられる。

魚介料理ゲフィルテ・フィッシュ (Gefilte Fish)
シュリンプ・スキャンピ (Shrimp Scampi)
ソフトシェルクラブ (Soft Shell Crab)
クラブケーキ (Crabcake) - 蟹肉を寄せて固めたもの。
オイスター・ロックフェラー (Oysters Rockefeller) - カキにホウレンソウ、ホワイトソース、チーズを乗せ、オーブンで焼きグラタン風にしたもの。

野菜料理フライドポテト (French Fries) - ジャガイモのフライ。アメリカではフレンチフライと呼ばれる。
マッシュポテト (Mashed Potato)
ハッシュドポテト (Hashed Potato)
コールスロー (Coleslaw) - キャベツのサラダ。
シーザーサラダ (Caesar Salad)
コブサラダ (Cobb Salad)
デザート
アップルパイアップルパイ (Apple Pie) - リンゴを使ったパイ。
パンプキンパイ (Pumpkin Pie) - カボチャを使ったパイ。
ピーカンパイ (Pecan Pie) - ピーカンを使ったパイ。
キーライムパイ (Key Lime Pie) - キーライムを使ったパイ。
シフォンケーキ (Chiffon Cake)
ジャーマンケーキ (German Cake)
ジンジャーブレッド (Gingerbread)
ブラウニー (Brownie)
カンノーロ (Cannolo)
パーシモンプディング (Persimmon Pudding) - 柿を使ったプディング。
ファッジ (Fudge)
アイスクリーム (Ice Cream)
シャーベット (Sherbet)
サンデー (Sundae)

ミシシッピーマッドパイ (Mississippi Mud Pie) - チョコレートを使ったアイスデザート。

エンゼル・フード・ケーキ (Angel food cake) - 穴のあいた専用の型で焼かれる、卵白のみを使った白いケーキ。

デビルズ・フード・ケーキ (Devil's food cake) - チョコレートやココアを多く使用した、コクのある茶色のケーキ。

シリアルオートミール (Oatmeal)
コーンフレーク (Corn Flakes)
グラノーラ (Granola)
その他ポーク・アンド・ビーンズ (Pork and Beans)

チリコンカーン (Chili Con Carne) - 一般的には通称のチリ (Chili)の
名で呼ばれる。

ポットパイ (Pot Pie)
キャセロール (Casserole)
クロケット (Croquette)
ブリンツ (Blintz)
クレプラハ (Kreplach)
トルティーヤ (Tortilla)
エッグベネディクト (Eggs Benedict)
アメリカンドッグ (Corn Dog) - ソーセージに衣を付けて揚げたもの。
アメリカではコーンドッグと呼ばれる。
チャプスイ (Chop Suey) - 中華風の煮込み料理。

アメリカは土木建築の「飯場」のような寄せ合い所帯の国だから独特の料理が無いのは当然。いうなればランチの国?