2015年02月26日

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破したのは元医者の作家・故渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。


2015年02月23日

◆見え始めた日本再生への道

櫻井よしこ
 


「恰(あたか)も、明治維新のあの大改革の嵐、日本開国の命懸けの戦いの中を駆け抜けたような感慨を抱いています」

中央教育審議会会長の安西祐一郎氏は2月9日の第7期中教審の締めくくりの会でこう語った。戦後教育の大改革といってよい成果を挙げ得たことへの安堵の気持ちが込められていた。

私も末席に連なった中教審の議論は、必ずしも全て順調だったわけではなかった。とりわけ教育委員会の在り方についての議論は白熱した。

教育委員会は教科書の採択に始まり教育現場が直面する問題全般に責任を有する。にもかかわらず、偏向した内容の教科書が多くの教育委員会によって採択され続けてきた。

また、2011年、大津市で発生した中学2年生男子のいじめによる自殺事件で見られたように、いじめを隠し、責任逃れに終始する教育委員会も存在した。

中教審はこのような現状を克服するために首長の責任を明確にし、新設した教育長の任免権を首長に与えるなど、首長の権限を強めた。この改革によって、有権者の意思で選ばれた首長が、教育現場により強い権限を及ぼすことができるようになった。教育現場に今も色濃く見られる日教組のあしき影響も緩和されるだろう。

教育内容の大きな変化の一つは、今年4月から「教科」として教えられる道徳教育にあるだろう。かつて修身と呼ばれた道徳教育は、昭和20年、占領軍が禁止して以降、日本の学校できちんと教える体制はなかったのだ。

06年の第1次安倍内閣で、教育基本法が改正され「道徳心を培う」ことが教育の目的として書き込まれた。今回、安倍晋三首相、下村博文文部科学大臣の下で道徳が正式に教科として教えられることになったのは、非常に大きな意味があると思う。

「朝日」「毎日」「東京」の3紙は社説で、多様な価値観が育たない、価値観の押し付けだなどと批判したが、そうした批判は当たるまい。どの時代でもどんな国でも、勇気、誠実、他者への思いやり、正義感などは普遍的価値観として大事に守られ、受け継がれてきた。

大人が実行して子供たちに範を示し、家庭や学校で重ねて大事な価値観として道徳を教えてきた。この当たり前のことをわが国は敗戦の結果、禁じられていた。70年ぶりに復活する道徳教育は必ず、日本人の善さを引き出し大きな力に育て上げていくと、私は確信している。

第7期中教審で決定されたもう一つの重要点は日本史を必修科目にしたことだ。これまで高校の歴史の必修は世界史であり日本史は選択科目にすぎなかった。自国の歴史を知らずして、世界の歴史を学んで何の意味があるのか。これもようやく改められた。

分野は異なるが、今週発表された戦後社会の大改革のもう一つの事例が農協改革である。農協の特権体質は、法人税率が19%で一般企業の25.5%よりずっと安いことや、農協会員の株の配当は損金算入されて課税されないことや、農協の事務所や倉庫には固定資産税が掛からないことなど幾つもあるが、私は「整促方式」という農協独自の制度に注目したい。

これは約700ある地方の単位農協や県連、全農など農協系組織の全てを利用して事業を行う仕組みである。肥料や種、農機具の買い付けから生産物の出荷まで全事業を全員で行い、各レベルで手数料を受け取る仕組みといえば分かりやすいだろう。

そこには合理化や効率化の考えはなく、そこに関わる人々の利益優先しかない。結果として日本の農業は衰退したが、この農協も改革されることに
なった。

教育改革も農協改革も具体的な法案作りの段階で骨抜きにされないように監視が必要だ。まだ油断はできないが、15年が力強い日本再生の年になることが実感される。

『週刊ダイヤモンド』 2015年2月21日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1072

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家・故渡辺淳一氏
である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。

2015年02月22日

◆ふるさとは帰るところにあるまじや

渡部 亮次郎
   

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

大阪の俳人与謝蕪村が大阪に帰っても生地には絶対足を踏み入れなかったのも同じ理由だと私は思う。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)

2015年02月21日

◆中国富裕層は戦々恐々

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)2月20日(金曜日)弐通巻第4475号>

 〜HSBCスイス支店をジュネーブ検察が手入れした
    これから何がでてくるか。中国富裕層は戦々恐々〜


旧正月に日本へやって来て、高級炊飯器などの「爆買い」に熱狂する中国人観光客。免税店での買い物風景を、なんだか楽しそうに日本のメディアが伝えている。円安で大量にやってくる外国人観光客を手放しで喜んでいるのは一部業界でしかないのに。。。。

まして買い物をしているのは中国人富裕層でない、彼らは中産階級である。しかも買い物の目的は帰国後の「転売」である。

さてスイスにあるHSBC(香港上海銀行)の支店はプライベートバンク、顧客口座の秘密を秘匿してきたため世界の富裕層の隠し預金が集中した。「それがスイスの伝統的商習慣だった」(フランコ・モルラ同行CEO)

2001年9月11日以後、米国はスイスに最大の政治圧力をかけつづけた。「テロリストの資金洗浄に利用されているので、情報を公開せよ」と。ついにスイスは取引に応じた。3年ほどの猶予期間をおいてもらったので、その間にスイスの秘密口座からのカネはざっと世界のほかのタクスヘブンへ逃げた。

2007年、フランス当局にたれ込みがあった。HSBCスイス支店の元従業員だったヘルベ・フェルシアーニが秘密口座のリストを提供したのだ。

ルモンドは「国際調査ジャーナリスト会議」と共同で追跡調査を開始し、さらにはその多くのリストが「スイスリークス」に漏れた。

このネットから、どっと世界に流れ出た。そのなかには李鵬の娘、李小琳の名前もあった。日本人建築家の名前もあった。

2月18日、ジュネーブの検察はHSBCスイス支店を捜索した。容疑は「麻薬取引、マネーロンダリング、武器輸出入決済の疑いあり」。

2007年からのリストでは世界200ヶ国からおよそ10万人がスイスのプライベートバンクに合計で1000億ドルを秘匿していた。

これから何が飛び出してくるか? 中国の本当の富裕層は買い物どころではない筈だろう。
    

2015年02月20日

◆中国が取った人工島は競技場14個分

宮崎 正弘 

<平成27年(2015)2月19日(木曜日)弐 通巻第4473号 >
 
〜南シナ海で中国がかすめ取った岩礁の人工島は75、000平方メートル
           フットボール競技場が14個分、盗人の猛々しさ〜

http://www.wsj.com/articles/photos-expanding-fortresses-in-south-china-sea-1424289675

上の2枚の写真はガベン礁の比較で、ひとつは3014年3月30日に偵察衛星が撮影したもの。もうひとつは2015年1月30日。ウォールストリートジャーナル(2月18日)がつたえた。

その露骨な領土的野心が比較できる。

わずか1年足らずに間にセメントを流し込んだ人工島が完成し、ヘリポートも造成されていた。

永興島と赤爪礁には2600メートルの滑走路が完成している。

南シナ海はまさしく「中国の湖」と化けた。

◆医者・森 林太郎が嫌いなわけ

渡部 亮次郎


森鴎外(本名:森 林太郎)1922(大正11)年7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。

「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎」とのみ刻されている。明治天皇に「虚仮にされた」反発がこうさせた。

東京・向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と島根県津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折(明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家)によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。

森を文学者としてしか見ない人はこの遺言を不思議に思うらしいが、医者として見た場合は「明治天皇に嫌われた医者」として当然である。1度も陪食を賜らなかったのに、ライバルの高木兼寛は4度も賜った。今の言葉で言えば「アタマサ キノコ」だったのだ。

文久2年1月19日(1862年2月17日) 石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。

東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。留学中は、ペッテンコーフェルらに従いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。

また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマン(ドイツの地質学者)を批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。

帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の1つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる。

1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。

陸軍軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。

よく知られているように、日露戦争当時陸軍で増発した「脚気」による日本陸軍の死亡者は27,800人に達したにも拘わらずなすすべなく、防止策として米の胚芽(ぬか)摂取を主張する海軍省軍医総監高木兼寛を評して「糠が有効なら小便も有効なのか」と非難している(別人との説もあり)。

しかし、その後の研究は糠=ビタミンB1=脚気特効薬が証明され黴菌説の森は科学的に否定された。森に「非難」された高木兼寛こそは日本初の医学博士に任じられ慈恵大学の創立者となった。

<帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり>ということについて、私は「鴎外は狡い」と思う。

脚気について功績のあった高木兼寛はイギリス流の実証主義で、脚気が麦食で治る理由を明らかにできなかったのは確かに難点ではあったが、だからと言って口を極めて非難した森の黴菌説にも説得力のある論理はなかった。あるはずが無い。

そこにあるのは悪臭紛々のエリート意識。エリート意識をひけらかしたいやらしい男の初代が森と言えないか。あぁ厭だ厭だ。2008.04.28執筆

2015年02月18日

◆1億総白痴化は成った

渡部 亮次郎



<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>
『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

     
     

2015年02月17日

◆鳩を寄せる老人の悲しみ

渡部 亮次郎



公園では鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階の我が家のベランダにも番(つがい)が産卵しに来たことがあった。


ところで、老人と話してみると、たいていは独り暮らし。関東大震災をくぐり、昭和20年3月の大空襲では、親兄弟を失いながら、悲しみに耐えて生きてきたが、寄る年波でもういけねぇ。

ヨチヨチと散歩に来て、エサに寄って来る鳩の羽ばたきが生きてるシルシよ、というのだ。かと思えば、家では嫁に掃きたてられるようにして公園に出てきても話し相手はいない。

なにしろ下町と言っても、個人主義の時代が長すぎた。公園で出合っても挨拶する人は年寄りでも稀になった。仕方が無いから、たばこ銭を詰めて買った玉蜀黍(とうもろこし)を撒いて鳩の群れを寄せ付けるのさ。だから、鳩が頭に立とうが、肩にとまろうが嬉々としてその老人は張り切っている。

まさに公園管理所の考えている鳩問題は、鳩問題ではなく、すぐれて老人問題、福祉問題なのである。都知事殿もこのあたりは判らない。

公園には嘗ては常時10人ぐらい住み着いていたホームレスも管理所の妨害作戦により全く居なくなった。だがエサをやる老人たちは管理所に隠れるように木陰に立って撒いている。

犬は放すんじゃないと管理所、幾ら叫んでも、放し飼いだから、何時噛まれないとも限らない。まこと、老人たちの鳩寄せ事業は歩きながらで大変なのである。

ある日から、パンくずを持って仲間入りしてみたが、あれほど面白くないものは無い。第一、鳩は根っからの馬鹿だ。記憶と言うものが無い。ア、昨日のおじいさんだということが絶対ない。わかってない。

エサに興味があるのであって,くれる人に興味は無い。記憶もない。愛がわかない。老人の鳩寄せは実に悲しい限りだ。益々老人になって行く当方だが、エサやりはやめた。


   

2015年02月16日

◆スギ花粉症が治った!

渡部 亮次郎



東京の川向う(隅田川左岸)に住んでいるが、ここには杉など1本も植わっ ていない。それなのに10年ほど前、突然杉花粉症にかかって苦しんだ。遠 く多摩地方の杉林から飛んでくる杉花粉にやられたのだ。

それが突然に治った。医者も珍しがる珍現象だと思うが、それは今、密か に流行っている植物性乳酸水が効いた以外に考えられない。

私の花粉症は毎年2月末から3月初めに始まっていた。朝からくしゃみ、 涙目、水っ洟の連続。偶然乗ったタクシーの運転手さんに教えられて、数 年後にはある種のホルモン剤を注射して防止していたが、2007年は症状が 全く出なかった。これはこの年が花粉の飛散量が極端に少ない年という気 象庁の説明どおりで、良かったと合点していた。

ところで今年(2008)。例年になく花粉の飛散量は多量との予報。だから ホルモン注射にそろそろ行こうと覚悟していたが,1度もくしゃみをせぬ うちに気がつけば既に梅雨。もはや花粉症はシーズンそのものが終わって いた。つまり、いつの間にか私の杉花粉症は全快していたのである。

1度かかったら一生治らないのは糖尿病と同じといわれている花粉症。そ れから脱出出来た事例がここに出来したのである。何もしないのに、治っ た。くしゃみも、涙目も、水っ洟もどこかへ飛んで行ってくれた、良かっ たよかったと、梅雨入りの日に祝杯を挙げた。それにしても何故?

はたと膝を打った。一昨年から日にグラス1杯ずつ飲み始めた植物性乳酸 水。血糖値抑制に効くと聞いて呑んでいるが、そういえばこれはアトピー にとても効果があると聞いていた。だから花粉症にも効いたのではなかろ うか。

だが医学的に証明されているわけでは無いから宣伝するわけには行かな い。仮にも元厚生大臣の秘書官が薬事法違反の片棒を担ぐわけには行かな い。だがそれ以外に納得できる事実は無いのだから、話題ではあるだろう。

スギ花粉症になるのは日本人では5人に1人。元東京都知事石原慎太郎さ んもそうだと告白していた。

日本でスギ花粉症の症例が報告されたのは全く新しい。東京オリンピック の前年昭和38(1963)年である。記録を言えば栃木県日光の杉並木が植え られたのは17世紀だから、杉花粉は17世紀から飛んでいた。しかし杉花粉 症が発症したのは20世紀も後半だ。300年の間、日本人は花粉症をなぜ発 症しなかったのだろうか。

これについて東京医科歯科大学名誉教授藤田紘一郎氏はNHKラジオなどに 出演して「17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたか ら、それがアレルギーを抑えていたのです。

ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭和25)年には全くなかった。それが 1965(昭和40)年以降急激に増え出した。1950年の回虫感染率は62%でし た。回虫の感染率が5%を切った1965年から増えだしたわけです」と断言 している。

さらに藤田氏は驚くべき事例を挙げてサナダムシの効き目を説明している のだ。

<15歳の女の子ですが顔がアトピーでタダレて人前にも出られず、3度自 殺しかけたというのです。そこで、私にサナダムシで治療して欲しいとい うのです。

その子にサナダムシを飲ませ、ナオミと名前をつけ、お腹にナオミちゃん がいるんだから勝手に自殺してはいけないと諭しました。その後彼女はだ んだんアトピーが治り早稲田大学に入りました。

西洋医学の功績が非常に大きいのは、1つの原因を1つの物質で治すとい うことだと思います。たとえば、糖尿病はインシュリンの分泌が足りない から起きますので、インシュリンを与えればよいということです。

西洋医学で手をつけられないのは免疫のバランスが重要因子である疾患で す。アレルギーとガンは免疫の両極端にあります。日本癌学会は何十億円 と使って研究していますが、ガンの発生を止めることはできていません。

アレルギー学会も何十億円と使っていますが、毎年アレルギー患者が増え ています。今こそ、東洋医学的な発想が必要です。東洋医学とは個人個人 のバランスを見る学問です。

西洋医学では風邪を引けばみんな同じ薬が出ますが、東洋医学では脈をと り、舌を見てその人がどのようにバランスが崩れているかを見て、そのバ ランスを正しくすることによって病気を治そうということです。

西洋医学的な考え方で足りないことは「自然治癒力」という概念です。そ れをもっと大切にしなければなりません。自然治癒力とは、自然の中で生 きてきた力です。

私たちは地球上で40億年生きています。抗生物質が発見されて高々100年 ですが、もう限界が出ている。自然治癒力、たとえば皮膚常在菌というの は皮膚に棲んでいて皮膚を守っている。

腸には腸内細菌が百兆個もいて、腸内環境を正しく保っているのです。女 性の膣の中にはデーデルライン乳酸菌という細菌がいて膣を守っている。

寄生虫はみんな悪者かというとそうではないのです。人の寄生虫は人の中 でしか子供を産めないわけですから、人の寄生虫は人を大事にするわけです。

寄生虫、ウイルス、細菌というのは独りでは生きられない。必ず宿主が必 要です。だから、その宿主は大事にする。

人の腸内細菌は人を守っている。これまでの研究では寄生虫だけでなく、 いろんなウイルス・細菌もアレルギーを抑えていることが分かっています>。

私の植物性乳酸菌が杉花粉症にどうやってどのように効いたかが医学的に 証明されなければ宣伝してはいけない話ではある。だが花粉症に対する抵 抗力がついていたからこそ治ったのである。おそらく昨年、飛散量云々で はなく既に治っていたものと思われる。2008・06・12


    

2015年02月14日

◆死の恐怖が貫禄を作る

渡部 亮次郎



私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)氏は特攻隊長として出撃寸前、敗戦になった為生き残った人だった。昭和20(1945)年8月13日、北海道千歳基地を飛び立つべきところ、悪天候の為、17日に延期。ところが15日に敗戦。

助かったのですね、と言ったら「違う、一旦死を決意していたから、死ななくても良いと言われた途端、腰が抜けたよ」と言っていた。とにかく日中事変の頃を含めて計11年、戦争の現場にいた。

進軍(徒歩)の途中、途が2手に分かれている。右に進むべきか左にすべきか。必ず悪路のほうに進んだ。良い道の先では敵が待ち構えている危険があった。そういう体験があったのである。

帰還して国会議員になって間もなく野党の独身婦人議員と恋仲になって妊娠がばれた。直ちに4人の子供を抱えた夫人と離婚、野党議員と結婚した。堕胎と言う道もあったのにといったら「困難な途を敢えてえらんだのだよ」。

なるほど選挙区の女性たちには評判が良く、選挙地盤が固まっていない時期だったにも拘らず落選はしなかった。死ぬまで14回連続当選の実績を残した。

1980年代前半までの日本の国会議員たちの大半は従軍体験を持っていた。中曽根康弘氏だって海軍主計中尉だった。田中角栄氏も陸軍2等兵でノモンハン事件に狩り出されている。

死ぬか生きるか。人間は死を覚悟した時貫禄が出来る。園田氏を観察していると、政治のどんな場面でも恐怖を感じる風はなかった。戦争で死ななかった人間が政治で死ぬわけが無いと楽観していた。

そうした目で平成の政界を見ると、政治家に戦争体験の無いのは勿論、「失敗」の経験も少ない。受験だって「塾」で防備していて「貫禄」をつける暇も無い。

失敗で挫折を多く味わったのは小沢一郎氏ぐらいだ。だから菅も仙谷も面と向かって小沢には対決できない。仙谷は俺の合格した司法試験を小澤は落ちた、だから俺のほうが上と威張るが、落ちた小沢の貫禄にはたじたじでは無いか。

貫禄を得るためと言って戦争をする事は不可能だが、失敗を重ねた方に貫禄が出来る事は間違いないと勝手に考えている。ただし宇宙人にこれは適用できない。鳩山由紀夫氏は総辞職を失敗とすら考えていないようだから。


2015年02月12日

◆首相、農協改革・安保法制に意欲

〜施政方針演説〜
渡部 亮次郎


(朝日新聞デジタル 2月12日(木)13時49分配信)

 安倍晋三首相は12日午後、国会で施政方針演説を行った。今国会を「改革断行国会」と位置づけ、成長戦略の柱である農協改革などの規制改革を推進していく姿勢を強調。安全保障をめぐる法整備を進め、憲法改正に向けた国民的な議論の深まりにも期待を示した。

 演説の冒頭で、首相は過激派組織「イスラム国」による邦人人質事件を取り上げ、「日本人がテロの犠牲となったことは痛恨の極み。非道かつ卑劣極まりないテロ行為を断固非難する」と批判し、「日本がテロに屈することは決してない」と訴えた。

 続いて、首相は昨年末の衆院選で与党が勝利したことについて「『安定した政治の下で、この道をさらに力強く前進せよ』ということが総選挙で示された国民の意思」と主張。「『戦後以来の大改革』に力強く踏み出そうではないか」と呼びかけた。

 アベノミクスの第3の矢と位置づける「成長戦略」では農協改革を筆頭に挙げた。全国農業協同組合中央会(全中)を一般社団法人に移行し、地域農協への指導・監査権を廃止することで「意欲ある担い手と地域農協が力を合わせ、ブランド化や海外展開など農業の未来を切り拓(ひら)く」と訴えた。

 TPP(環太平洋経済連携協定)交渉については「最終局面、いよいよ出口が見えてきた」と指摘し、「米国とともに交渉をリードし、早期の交渉妥結を目指す」とした。

 また法人実効税率の引き下げやエネルギー市場改革、医療分野での「混合診療」の拡大などを改革のメニューに盛り込んだ。原発については「新規制基準に適合する原発は再稼働を進める」と改めて表明した。

 経済再生では、消費税を10%に引き上げる予定の2017年4月までに賃上げの流れを地方に届け、「経済再生と財政再建、社会保障改革の三つを同時に達成していく」と語った。

 また歴史認識をめぐり、「戦後70年の節目の年。我が国は先の大戦の深い反省とともに、ひたすら自由で民主的な国をつくりあげ、世界の平和と繁栄に貢献してきた。その強い意志を世界に向けて発信する」と述べ、戦後70年の首相談話への意欲を示した。

 憲法改正については、与野党に対して「憲法改正に向けた国民的な議論を深めていこう」と呼びかけた。

 外交・安全保障では「あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする安全保障法制の整備を進める」と述べ、集団的自衛権の行使などを認めた昨年7月の閣議決定を踏まえた法整備を行う考えを改めて示した。

 日中関係については「様々なレベルで対話を深め、安定的な友好関係を発展させる」と主張。第2次安倍政権発足以来、首脳会談が行われていない韓国に対しては「関係改善に向けて話し合いを積み重ねる。対話のドアは、常にオープンだ」と呼びかけた。

 日ロ関係では「(プーチン)大統領訪日を本年の適切な時期に実現したい。平和条約の締結に向け、粘り強く交渉を続ける」として、北方領土問題の前進に意欲を示した。

 演説に先立ち、政府は総額96兆3420億円と過去最大の新年度予算案を国会に提出した。午後から麻生太郎財務相による予算案への財政演説のほか、岸田文雄外相による外交演説、甘利明経済再生相による経済演説も行われる。
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朝日新聞社

◆トウ小平は賢明で狡猾

渡部 亮次郎



トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところでは、この際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(SankeiWeb 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」