2020年03月10日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。

もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなっている。2007年10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか
ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎 、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、
ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、
笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために
張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町によく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名された。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えながらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆


2020年03月03日

◆「なめたらいかんぜよ」

渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でになるのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画であることを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のものを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がったのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に次ぐ失態になる。2010・1・10


2020年03月02日

◆「なめたらいかんぜよ」

渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でになるのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画であることを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のものを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がったのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に次ぐ失態になる。2010・1・10


2020年02月26日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり
たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。


堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。
最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。
このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2020年02月22日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が
16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならない。
2010・10・22

2020年02月19日

◆「国策捜査」ってなんだ

渡部 亮次郎


<小沢氏、続投表明 民主党緊急役員会

民主党は4日午前、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕されたことを受け、緊急役員会を開き、小沢代表が経緯を説明した。出席者によると、小沢氏は「この時期になってこんなことになって申し訳ない。しかし、政治資金規正法にのっとって適切に処理している」と述べ、代表職を辞任しない意向を示した。

この後、小沢氏は緊急役員会終了後、記者会見し、事実関係や役員会の結論について説明。小沢氏は、秘書の逮捕容疑となった西松建設OBが代表を務めていた政治団体からの献金に関し「適切に処理している」と違法性を一貫して否定。同氏や鳩山由紀夫幹事長らによる3日の幹部会では、党として献金の正当性を訴えていくことを確認した。

事件が野党第一党党首の秘書逮捕という異例の展開となったことに対し、民主党内では「国策捜査」と政府・与党に反発する声が上がっている。執行部には、小沢氏の進退問題に発展する事態は避けたいとする空気が強い>。
3月4日9時53分配信 産経新聞

「国策捜査」と言う言葉は「鈴木宗男事件」の際、東京地検に逮捕された外務省元主任分析官・佐藤優の著書『国家の罠』で主張されたもの。

ここから、政府の政治的意図によって行われたものだと関係当事者らが主張する刑事事件の捜査のこと。

佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社(原著2005-03-26)。ISBN
9784104752010。この書の文庫版P365-367によれば、佐藤氏の取調べに当った西村検事は、逮捕後3日目の時点で「本件は国策捜査だ」と明言、「我々と闘っても無駄だ」と言う事を理解させようとした。

西村検事の弁。「これは国策捜査なんだから、あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、なにか象徴的な事件を作り出してそれを断罪するのです」

「見事僕はそれに当ってしまったわけだ」

「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」

「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行なわれてきた,否、それよりも評価されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」

「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下ってくるんだ」

「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」

「しかし、法律は元々ある。その適用基準が変わって来るんだ。特に政治家に対する国策捜査は、近年驚くほど下ってきているんだ。

一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下っていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショウと週刊誌の論調で事件が出来ていくことになるよ」

「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

以上のような方針が東京地検の時代認識ならば小沢氏の判断は甘かったと言うべきだろう。

東京地方検察庁特別捜査部は特定のマスコミにリークしながら、大きく注目を集める人物を小さい犯罪でも逮捕することにより世論、ひいては国家全体を「彼等自身が考える、あるべき姿に直す」という目的で捜査しているとされる。

最近では特捜部の捜査手法が社会秩序の安定を目的に、一罰百戒を狙った逮捕に重きを置くものになっているという指摘もごく一部でなされる。

私が参考人として東京地検特捜部で事情聴取を受けた昨年の防衛省不正事件も目論見は国策捜査に見えたが、結局は見込み違い。単なる個人の脱税事件で終わった。

今回の小沢事件は完全な国策捜査だが、検察は確実な証拠を握って居るはずで、小沢氏の見込みは甘い。

関係当事者により国策捜査だと主張される例としては他に以下のようなものがある。

造船疑獄の指揮権発動

三井環逮捕事件

ライブドア事件における堀江貴文逮捕

日歯連闇献金事件における村岡兼造起訴

構造計算書偽造問題

いわゆるムネオハウス事件における鈴木宗男逮捕
佐藤優起訴

石橋産業手形詐欺事件における田中森一起訴

植草一秀逮捕(りそな銀行国有化の裏側を研究していた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09・03・04



2020年02月17日

◆敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎



公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下から勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるようになった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道され、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認められない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパートで夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことなどを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。
学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしているのは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去ったなどの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合されていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」と請求を棄却。矢野は上告した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、
<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコントロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立ててからおかしくなった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行きとなっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・09・26


2020年02月13日

◆「なめたらいかんぜよ」

    渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でになるのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画であることを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のものを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がったのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に次ぐ失態になる。2010・1・10


2020年02月08日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日生まれ( 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝
の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。2010・2・27

      

2020年02月05日

◆「やませ」は凶作の使者

  渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。
稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように昇って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。2009・08・18
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2020年02月01日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎


元NHK政治記者 元外相・厚相秘書官

<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告をしていた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは当然だ。

安倍政権にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであり、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。>産経新聞{主張}(2006/12/28
05:10)

産経の主張は最後に≪安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。≫と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要がある。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。

有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて言ったところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。

ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。
議員会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費で賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

佐田氏の政治団体が平成2年の発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、12年まで事務所費や光熱費の名目などで約7800万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費に秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。それは殆ど警察の目をくぐる。

警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。冒頭の産経論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。2007.01.10



2020年01月31日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎


高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートーヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌やフォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にある会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭のオープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴けば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド
『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれて いる。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ちが現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しに する、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描いている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられているが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼ら がよみがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich) Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリトミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち 1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終えた。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』 は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14


2020年01月28日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。

今更小澤を論ずるなどやめようという論稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)2010・2・10