2015年02月09日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。従業員の賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。10・7・9


2015年02月07日

◆禁煙恩人はサッチャー

渡部 亮次郎



私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは1979(昭和54)年5月22日、現地時間午後5時15分から、イギリス・ロンドン市マンチェスター地区、ダウニング街10番地にある首相官邸にマーガレット・サッチャー首相を訪問し、日本の外相として首相就任の祝賀を言上した。

始めにハウ財務相と会談。ハウ氏はヘビー・スモーカーぶりだった。

ついでサッチャー首相の執務室入り。同席を許された私が煙草を吸ってよろしいですか、と尋ねたところ「どうぞ」との返事。

そこでロング・ピースに火をつけたが、一向に灰皿が出てこない。

これは吸うなという意味だと思って、消しにかかったが、どうすりゃいいんだ。

袋から煙草を全部取り出し、銀紙に包んで、どうにか消した。後に聞けばサッチャーさんは大の煙草嫌い。そういえば表敬会談に同席したハウさんは「私は煙草なんて吸ったことはありません」てな顔で澄ましていた。その瞬間、私は禁煙を決意した。だからサッチャーさんは私の禁煙の恩人なのである。

高校のころ、数人の友人が煙草を吸っていて、指先の黄色に染まるのに気を遣っていた。それを見ても私は吸いたいとは思わなかった。むしろ、家では晩酌よろしく清酒を飲んで満足していた。学校では酒も禁止されているが、酒は醒めれば証拠が無いから楽だったのだ。

煙草を吸い始めたのは東京で大学生活を始めたころ。先輩の下宿で吸わされた。始めは眩暈がしたが、それでもやめなかったのはどうしてだろうか。いきなりニコチン中毒になってしまったのだろうか。

この当時は一番安価なゴールデン・バットを吸っていたが、やがて高級なピース(両切)になり、記者になってからはロング・ピースになり、禁煙するまで、それを吸い続けた。

次第に肺癌論が高まっていたが、一向に禁煙しようとは思わなかった。兄などは「俺は中学から吸っていたのだから、いまさらやめられない」と嘯いていた。それが5月に訪ねたらきっぱり、やめていたので驚いた。理由はあえて訊かなかった。

私が禁煙を始めた時、煙草とライターをいつも通り、ポケットに入れたままの試練に挑戦した。1時間我慢、2時間我慢、半日我慢、1日我慢と続けるうちに、いつの間にか禁煙に成功していた。「吸いたくなったら、いつでも吸ってやる」と思いながら禁煙を続けた。最早、嘗て喫煙者だったなんて顔もしなくなった。

禁煙したあと糖尿病になり、教育入院をさせられたが、糖尿病にとって喫煙は飲酒より悪いと教えられた。   

2015年01月31日

◆「発禁処分」を知らぬ団塊世代

渡部 亮次郎



「夜のプラットホーム」は戦時中「厭戦歌」と見なされて内務省から「発売禁止」処分。敗戦後も「検閲」は占領軍(マッカーサー司令官)も続けたが、「厭戦歌」は占領目的に合致したから大歓迎。

そこで敗戦2年後に再発売されて大ヒット。私のような戦中派は悲しい思い出で回顧するが、NHK「ラジオ深夜便」のアナウンサーは戦後生まれ団塊の世代。この歌の歴史を勉強してこないから、コメントに重厚さがなくなる。

<『夜のプラットホーム』(よるのプラットホーム)は、奥野椰子夫作詞、服部良一作曲の歌謡曲。1947(昭和22)年に二葉あき子が歌って大ヒットし、彼女の代表的なヒット曲の1つに挙げられる歌であるが、もともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。>

深夜便のアンカーも上記< >内は言ったが発売禁止処分の事は一言も触れなかった。日本という国が体制維持のためには、言論統制も余儀なくしたこと、共産主義体制、中国を笑えない歴史のあることなど無関係だった。

「都」新聞(現「東京」)の記者だった奥野椰子夫(おくの やしお)は昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で、支那戦線出征兵士を送る「歓呼の声」に背を向け、柱の陰でひっそりと別れを惜しむ若妻の姿に心を打たれた。もしかして「再び逢えぬ死出の旅」と言えぬこともない。

それなのに「無責任な」「歓呼の声」はそんな若妻の悲痛も知らぬげにただただ勇ましい。奥野はその悲しみを胸に刻んだ。

翌昭和14年、作詞家としてコロムビアに入社した奥野は、ためらわず「夜のプラットホーム」を筆下ろしとした。当初は1939(昭和14)年公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んだ。

だが、やはり出征する人物を悲しげに見送る場面は「厭戦」を連想させるとして、「戦時下の時代情勢にそぐわない」と内務省検閲に引っかかり、同年に発売禁止処分を受けた。

大日本帝国憲法26条では、通信・信書の自由・秘密が保障されていたが、日露戦争の後、内務省は逓信省に通牒し、極秘の内に検閲を始めた。

検閲は手数料を要し、内務大臣が許可したものは3年間、地方長官の許可したものは3ヶ月間有効であった。検閲官庁が公安、風俗または保健上障害があると認めた部分は切除され、検閲済の検印を押捺し検閲の有無が明らかにされた(大正14年3月内務省令10号、大正11年7月警視庁令15号)。


レコードについてはは、製品は解説書2部を添え、規定された様式に従って内務大臣に差し出して許可を要し、検閲上の取締方針は出版物と同様であった(明治26年4月法律15号、昭和9年7月内務省令17号)。

だが作曲の服部は諦めなかった。2年後の1941(昭和16)年、「I'll BeWaiting」というタイトルのが発売された。「洋盤」の検閲が緩かったところを突いた作戦である。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。また、R.ハッターとは服部が苗字をもじって作った変名。

ヴィック・マックスウェルとは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であった。この曲は洋楽ファンの間でヒットして、当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

余談だが、このときB面に、発禁済みの「鈴蘭物語」を「夢去りぬ」(Love‘s Gone)という題名で吹き込みなおしていたため、このタンゴを外国曲と誤解したままの人も多かった。

戦後の昭和22(1947)年、今度は検閲をしていた占領軍は、この「厭戦歌」を占領の趣旨に合うとして大歓迎。二葉あき子が新たに吹き込んだレコードが発売され、大ヒットになった。

二葉は広島原爆をたまたま列車がトンネルに入ったときだったため生き残った東京音楽学校(現東京芸大)出の歌手。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

たかが歌謡曲というなかれ。「日本流行歌史」を読めば、これだけの歴史があリ、ドラマを紹介できるのである。

団塊の世代は一面、幸せである。気がついた時から日本は平和であり、言論は自由であった。政府が流行歌まで統制した「検閲」や「発売禁止」を知らないできた。だが、そこに至る歴史をないがしろにしてはならない事、全世代、共通の願いではなかろうか。
(再掲)
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年01月30日

◆加瀬俊一氏の再登場

渡部 亮次郎



日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に小沢一郎が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10時55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(のちの日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

その後、外務大臣秘書官、通商局3課長、アメリカ局1課長、政務局6課長、大東亜大臣秘書官、政務局5課長、情報局第3部長、情報局報道部長などを歴任し、この際に東郷平八郎海軍元帥の通訳を務めたこともあった。

また、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行した他、1935年(昭和10年)にロンドン海軍軍縮会議へ参加した。

1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)までは駐イギリス日本大使館に1等書記官として駐在し、首相になる前のウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージと親交を持った。

また、その後の松岡外務大臣秘書官時代の1941年(昭和16年)4月には、ソヴィエト連邦のモスクワで行われた日ソ中立条約の締結時に随行し、ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフとの交渉にも関わっている。

アメリカで教育を受け、さらに駐イギリス日本大使館への駐在経験もあったことから高い英語力を持ち、幣原喜重郎や吉田茂と近い親英米派として知られた。

1941年12月の日本と連合国との開戦時には、東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局6課(北米担当)課長であった。

第2次世界大戦終結時の1945年(昭和20年)9月2日に連合軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印には、重光葵外相ら全権団に随行し隻脚重光を艦上に担ぎ上げた。同年には報道局報道部長等を経て外務省参与に就任した。

その後、1955年(昭和30年)4月に行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の政府代表特命全権大使を務めたあと、同年から国際連合代表部特命全権大使。

1958年(昭和33年)から初代駐ユーゴスラビア特命全権大使などを務める。国連への加盟に尽力し、国連代表部特命全権大使就任の翌年である1956年(昭和31年)に、日本の国連加盟が実現した。

1960年(昭和35年)に退官し、外務省顧問等を歴任。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問を務める。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞にも尽力し、後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と『佐藤榮作日記』で述べている。

外務省退官後は鹿島出版会会長、京都外国語大学教授等を歴任し、外交評論家として数多くの著作を執筆した。松岡、東郷、重光、吉田といった第2次世界大戦前後の歴代外務大臣の側近であった加瀬の証言は、大戦前後の日本外交を知る上で貴重なものとなった。

また、保守・右派系の国民運動・政治団体である日本を守る国民会議(現日本会議)議長も務めた。2004年(平成14年)に神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年101。死の直前までフランス語を学んでいた。

妻寿満子は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。外交評論家でオノ・ヨーコの従弟の加瀬英明は息子。参照:「ウィキペディア』文中敬称略。

         

2015年01月29日

◆おでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

青森県青森市
ツブ貝、ネマガリタケノコ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。2005年には「青森おでんの会」が発足。

2010年予定の東北新幹線新青森駅開業へ向けて、生姜味噌おでんの全国ブランド化を図るべく、「B-1グランプリ」という食の祭典への出展等、PR活動が行われている。

長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。人気の具は豆腐である。

富山県
塩と昆布の出汁で煮たおでんに、玉子、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこなど入れて煮込み練り辛子かおぼろ昆布を添えて食べる。

静岡県静岡市
葵区の繁華街にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があったり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。

また静岡県のおでん自体も濃口醤油を使い牛スジ肉で出汁を取った黒いつゆが特長で、はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺してあるのが特徴で、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。

これは「静岡おでん」(発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」)と呼ばれている。2007年には「静岡おでんの会」という団体が「B-1グランプリ」という食の祭典に静岡おでんを出展し、3位となった。

愛知県
八丁味噌をベースとした甘めの汁で、ダイコン、こんにゃく等の定番の具を煮込んだ「味噌おでん」が有名。

味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。

醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。

また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。

しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。

兵庫県姫路市
薄味だが、関東煮ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。

香川県
讃岐うどん店では、必ずと言っても良いほど副食として販売されている。

コンビニのおでんカウンターのような保温器で煮込まれている竹串刺しのおでんを、客はセルフサービスで取ってきて、注文したうどんが出来上がるまでの間などに食べる。

香川のうどん店のおでんは、セルフサービスのうどん店だけでなく一般店(店員がうどんを上げ下げしてくれる店)であっても大抵はセルフサービスである。おでんには茶色く甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。

愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。

沖縄県
沖縄のおでんは「てびち」(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられるのが特徴である。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共に「てびち」も販売されている。

アメリカ施政権下の頃、ちょっと駐在(NHK特派員)したが、「おでんに茶飯」の昼食が一番高かった。薩摩揚げを憎っくき薩摩ではなく博多から空輸しているため、原価が高くなるとの説明だった。出典:「ウィキペディア」


    

2015年01月28日

◆NHKのど自慢の日

渡部 亮次郎



ものの本によると、日本では1年365日、毎日、何かの日である。たとえば2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、

(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過したのは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想はざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年には早くも全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオとテレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手としてその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったのだろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手になった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄ったがNHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードやCDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄うのは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るものだそうだ。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると音痴 おんち

<大脳の先天的音楽機能不全の状態。聴覚,言語など,ほかの精神的・肉体的機能が健常で,特に音楽的能力だけが劣っている場合をいう。これに対して,かつて音楽能力があった者が疾病,外傷など何らかの原因によってその能力を失った場合を〈失音楽症〉という。

音痴の原因は,大脳右半球に推定される音楽中枢の発育障害による機能不全であるとされ,遺伝と環境の双方に起因するものとみられているが,医学的には未解決である。

音痴は感覚性音痴と運動性音痴に大別される。前者は,音楽の認知,理解,記憶に障害があるために音高やリズムの感受そのものが不可能な状態を言いう。

後者は,音高の連続的変化のパターンを組み立てる運動統合中枢に支障があるため,歌うと調子はずれになるものを言う。しかし,俗に音痴といわれるのは難しい音程をうまく歌えない場合であり,正しい訓練や音楽環境をつくることで,矯正は可能とされている。山本 文茂>音痴についてインターネットで検索した。その結果、297万件も出てきた。如何に音痴に悩む人が多いかを物語るものではないだろうか。その中にこういうのがあった。

山本恵理子の「音痴について」である。
http://www.osaka-c.ed.jp/matsubara/kadai/27ki/kadair21.htm

なぜ音痴になるか
『人はなぜ音痴になるのか』 音に対する感覚が鈍く、音程やリズムが正確にとれず歌が正しく歌えないこと。三重大学教育学部の弓場徹助教授は、「音痴の原因は、出力(脳から声帯に指令が伝わり、震わせて音を出す)する際の、輪状甲状筋の訓練不足によるものである。」と語った。

輪状甲状筋は声帯を引きのばす筋肉で、低い声を出す時に声帯を縮め、高い声を出す時は声帯を前後にのばす。そして、他の背中や足などの筋肉と同じく、鍛えなければ成長せず衰えてしまうのである。

歌を歌う時は、普通の会話のより高い音域を使う場合が多いため、輪状甲状筋の働きが不可欠だ。自分のことを音痴と思っている人は、歌う機会を避ける傾向がみられる。兵庫教育大学音楽科の鈴木寛教授は、小脳モデル(処理系)について次のように説明した。

初めて自転車に乗る時、バランスがうまく保てず、転びながらその問題点を修正して大脳が学習する。その情報は大脳に集約され「自転車に乗る」という一つのモデルが小脳に移り記憶される。

1度、小脳モデルが記憶されれば、何年も自転車に乗らなくもすぐに乗ることができるという。歌を歌う場合の小脳モデルは、音程を取り正しい音を発生し、リズムをとるというものである。大脳に作られた音の高さを判断する基準に音階スキーマというものがある。

正しいスキーマが形成されている場合は、耳からある音が入ってくるとA=Vという判断ができる。しかし誤ったスキーマが形成されている場合は、A=Vという判断ができずに音痴になってしまう。

人は6歳頃まで音階スキーマが形成されてしまう。赤ちゃんは知らず知らずのうちに母親の声を真似している。自分を守ってくれる母親と他人をなるべく早く認識し、コミュニケーションをとろうとするためである。そして、この特性のため母親の声や、音程までも真似するようになる。

他にも音痴の原因となる環境として、

1.音の出るおもちゃなどの電池がきれかかり、変な音を出す。

2.音楽や両親の会話を聞く機会がすくない等がある。

音痴を治すには裏声を意識的に出すことによって輪状甲状筋を鍛えたり、音を認識しながら根気よく練習し音階スキーマを改善する方法がある。

つまり、音痴は適切な訓練方法によって克服できる!『音痴を治すには?』音痴は運動音痴(運痴)と比較される。どちらも運動系の微妙な調節がうまくゆかない。それが原因で運動嫌い、歌嫌いになる可能性もある。運痴は指導によりある程度は矯正できるが、音痴はどうだろうか。

「歌う」運動のメカニズムは、喉頭筋群の複雑さもあり未だに不明な点が多い。聴覚能の問題もある。一体どのように声をだしたら良いのか科学的なアプローチは少ない。

発声には声帯を動かす伸展筋と声門を閉じる閉鎖筋という2つの拮抗的な筋の運動に、呼吸の圧力が加わった3要素が関係するのだが声帯を伸展させて裏声を生み出す輪状甲状筋の構造と機能に着目。

結果的に裏声(ファルセット)を中心に音を合わせてうまく歌うトレーニングが音痴矯正に有効という。骨格筋は伸展時により大きな力が発揮されるので、この方法は歌う運動の燃費を高めるかもしれない。

具体的に何をやればいいかというのには次のような説がある。

1)はっきりとした裏声を出せるようにする。

2)裏声で簡単なメロディーを歌う。

3)裏声で歌い始め、表声の音程まで下がっていく。※表声というのは胸声のこと。

誤りも多くて評判が良くないリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』だが、ここでは、音痴(おんち)とは、音感が無いか劣る人を言うと決め手、次のような珍談を紹介している。

<・・・リズムを合わせるという感覚が鈍い人もおり、歌っている途中でどんどんずれて早くなったり遅くなってしまう場合も見られる。

最も有名な例は、フローレンス・フォスター・ジェンキンスという富豪の夫人がオペラファンで、1944年にカーネギーホールで「客に金を払って」リサイタルを開いた。(あの戦争中!!)

このときの録音は現在The Glory of Human voices (RCAより発売、ASINB000003F97)(国内盤のタイトルは『人間の声の栄光』)というタイトルでCD化されている。

このCDが国内大手CDショップで発売された際、「チョーオンチ」という販促ポップが付けられた事がある。またこのジェンキンス夫人の音痴ぶりを題材にしたミュージカル"Souvenir"がある。

音痴は訓練で克服できる場合が大半だが、まれに音感がない(耳で聞いた音程を声で再現することが出来ない)人もいる。一種の病気(異常)であり、このタイプの音痴は直すことができないと言われる。有名人では俳優のジェームズ・ディーンがこのタイプだったと言われている。

転じて、音の認識に限らず特定の能力が劣る人に対しても使う。例えば、味覚に対しての味音痴、東西南北等方角把握能力に対しての方向音痴、運動能力に対しての運動音痴、機械に対しての機械音痴、等がある。>

痴呆とか痴人とかが差別語になっているようだが、音痴はどうなんだろう。


   

2015年01月27日

◆だまこもちも怖い?

渡部 亮次郎



だまこもちは、秋田県の郷土料理。潰した新米ご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれる。主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

五城目(ごじょうめ)町において、1959(昭和24)年に三笠宮崇仁親王が同町でだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、町を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。

これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。

旧八郎潟周辺の地域が発祥とされ、ここで生まれ育った私は少年のころから、厭というほど食べさせられた。昔は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

なお八郎潟町周辺にはだまこの原型と考えられる「つけご」という料理がある。潰した飯を箸で一口大にちぎって、かやきの汁に浸して食べる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八郎潟の魚は只だったから、家庭で摂る蛋白源は鮒か鯰。海の魚は高価だから子どもの口には全く入らなかった。肉と言えば飼っている鶏を潰すしかなかった。生まれて初めて豚肉を食べたのは中学2年のとき。刺身を食べたのは30歳近くなってから、握り寿司は60歳になってからだった。

少年時代からステーキやトンカツが食べられる境遇だったら、もっと背丈が伸びていただろうと残念に思うことがある。死んだ兄もそう思っていたに違いない。県立秋田高校を3年間首席で通しながら大学へ行けるカネが無く、地方の新聞記者で一生を終えた。享年81。

2015年01月26日

◆しゃべろん松岡洋右

渡部 亮次郎


細川護貞(故人)によれば、外務大臣時の松岡洋右(まつおか ようすけ)は大変な話し好きで朝から晩まで喋っていた。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにそのまま持帰ったということもあった。

また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していた。話が途中でも、時間がくれば1時間なら1時間で話相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編「語りつぐ昭和史」第2巻)。

妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する)―佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・寛子は佐藤栄作に嫁いだ。安倍晋三も血が繋がっている。

日本の国際連盟脱退を進め、アメリカ敵視の日独伊三国同盟の推進者、戦争犯罪人として68歳で病死した「まつおか ようすけ」。

1978年、日中平和友好条約の締結を急ぐ園田直外相は2代目松岡と党内から非難されたものだ。

1880(明治13)年3月4日、山口県光市室積で廻船問屋の四男として生まれる。11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米。

オレゴン大学法学部を1900年(明治33年)に卒業する。ポーカーの名手だったという。母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。

1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格、外務省に入省する。外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。

その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本粂太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。

1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。すぐに山本条太郎の引抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本粂太郎)。

1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月第17回衆議院議員総選挙で郷里山口2区から(政友会所属)当選する。議会内では、外務大臣幣原喜重郎の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。

なおイタリアを訪問した際に、同国で独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニと会見しているが、このころから親ファシズムの論調をとり始め、「ローマ進軍ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。

1932年10月、松岡は国際連盟総会に日本首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも当時の文芸春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。

日本政府は、満洲建国に関するリットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が1面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切 」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。

1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。

松岡はまず、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官四十数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

日独伊三国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。

この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかった。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。

しかし、開戦2日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第2次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。

その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語った。

しかし、結核悪化のため東京裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。

辞世の句
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉 (よみじ)」

山田風太郎(小説家 故人)は「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

昭和天皇は松岡を嫌っていたといわれる。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれている。

1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある。

妻:龍(工学博士進経太長女)
長男:謙一郎(実業家) - 山口淑子の恋人
長女:周子(愛知県、元宮内庁長官田島道治の長男譲治に嫁する)
甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市市長) - 三雄の長男は元参議院議員の松岡満寿男である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

       

2015年01月25日

◆!)小平に逆った人々

渡部 亮次郎



中国経済の改革開放を主張する?(とう)小平。その彼自身を含む八大元老こそが彼の敵だったのである。

八大元老(はちだいげんろう)とは八老とも呼ばれ、1980年代から1990年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団である。

非公式の集団ではあるが、中共中央政治局常務委員会(1987年11月は趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林の5人)をしのぐ権威を持っており、重要な決定は彼らにゆだねられる事もあった。

第2次天安門事件の武力行使【6・4事件】、趙紫陽の総書記解任(解任理由の1つに、訪中したゴルバチョフに「最終決定は?(とう)小平にある」と明かしたためとされる)や、後任を江沢民に据える決定は彼らの意思で行われたとされる。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。

メンバーのうち7人は以下の通り。

(1)!)(とう)小平 中央軍事委員会主席(1980年-1989年)、中央顧問委員会主任(1982年-1987年)

(2)陳雲 中央顧問委員会主任(1987年-1992年) 。彼がとうの最大の敵だった。つまり毛沢東路線の継承第一人者だった。

(3)彭真 全国人民代表大会主席(1983年-1988年)

(4)楊尚昆 中華人民共和国主席(1988年-1993年) 。彼はとう支持者。

(5)薄一波 中央顧問委員会副主任

(6)李先念 中華人民共和国主席(1983年-1988年)、その後全国政協会議主席

(7)王震 中央顧問委員会副主任

8人目が誰になるかについては諸説あるが、一般的には?頴超(中国人民政治協商会議議長(1983年-1988年)、周恩来未亡人)とされる。

長、全国人民代表大会主席(1988年-1993年)を勤めた万里、習仲勲が入った。

この中で2007年現在存命しているのは万里だけである。

とう反対派の実行部隊は?(とう)力群元中央宣伝部長、宋平政治局常務委員、李錫銘北京市党委書記らで、とうはいたるところで彼らを名指しで批判した。

とうの反対派は天安門広場での人民解放軍による人民虐殺、いわゆる6・4事件の結果冷えた自由国家群からの投資冷却の責任をとうに押し付けて、開放改革そのものを押しつぶそうとした。それを覆そうとしたのが南巡講話なのである。

!とう小平自身が提唱した改革開放政策が六四天安門事件(1989年) ソビエト連邦崩壊(1991年) によって頓挫の危機に陥いり、中国が国際社会から孤立したことからとうは最後の力と知力を振り絞ってひねり出した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

南巡講話(なんじゅんこうわ)は、?(とう)小平(Deng xiaoping)が1992年1月から2月にかけて武漢、深セン、珠海、上海などを視察し、重要な声明を発表したもの。

国内外の情勢を分析し、第11期第3回中央委員会総会以来の中国共産党(以下、党と呼ぶ)の主な実践と経験は全て終結し、日ごろの混乱と思想統制の多くの重要な認識問題に対して、明確に答えた。計画と市場は全て経済的手段であり、社会主義と資本主義の質において違いはないと指摘した。

その内容は、「社会主義の本質は生産力の自由、生産力の発展、搾取の削減、対立勢力の分裂をなくし、最終的には共に裕福になることである。

基準の判断の是非を問う。

主に考えてほしいのは社会主義の発展が社会の生産力に有益かどうか、社会主義の高まりは国家の総合的な国力に有益かどうか、人民の生活レベルを上げることは有益かどうか。チャンスを掴み続け、思い切った改革をし、発展に弾みをつけ、党の基本的な方針を長く維持し揺るぎないものとする」といったもの。

しかし、このことについての解説は日本側では全くされてなかった。その理由は日中記者交換協定があるからである。一般の日本人はほとんど知らない。

1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない。
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない。
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
の3点の遵守が取り決められた

要すれば中国政府が行う発表物(新華社記事)以外には書くなという足かせが履かされているのが在中国日本報道機関の束縛なのである。

隙間はある。共同通信の特派員の任期を終えてなお産経新聞社に転籍して中国報道を続けているのが伊藤正総局長。彼が今回初めて、とう小平の死力を尽くした最期の闘いを余すところなく描破しているのが「?小平秘録」である。

とう反対派は国内外に溢れていた。反対派は毛沢東思想を身にまとうことで自己を正当化し、とうの言う改革・解放路線は毛思想を否定し、崩壊したソ連のあとを追うものだと党の機関紙「人民日報」まで動員して攻撃した。

しかし、この動きは日本には全く伝えられなかった。なぜなら国営通信「新華社」には発表が一切無かった(当然である)からである。特派員たちは懸命の勘を働かせたろうが、取り付く島はどこにも無かった。無いまま21世紀に来てしまった。而して伊藤正なかりせば永遠の謎として葬られるところだった。

連載はいよいよ命を張った!!)(とう)の巻き返し「南方視察」に乗り出すところに差し掛かった。このときすでにとうトウは江沢民に失望していたのだ という。

   

2015年01月24日

◆ちゃんちゃら可笑しい

渡部 亮次郎



永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもなりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人きょうだいの次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参った」としみじみ述懐していた。

永野さんは男兄弟6人中5人が東大、1人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちがクビを並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。

通訳はみな秀才だが、世の中の酸い、甘いには通じていない人が多い。勉強は出来るが、常識に欠ける人物は古今、東西を問わないのでは無いか。「海千山千」を知らない通訳に私自身、往生したのはワシントンでだった。

海千山千 意味

長い年月にさまざまな経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くしていて悪賢いこと。また、そういうしたたかな人。▽「海に千年、山に千年」の略。海に千年、山に千年棲すみついた蛇は竜になるという言い伝えから。 2009・10・06

2015年01月22日

◆マルクスに染まらず

渡部 亮次郎



1954(昭和29)年4月に法政大学へ入ったら、大内兵衛総長が「新聞は朝日、雑誌は世界を読むように」と訓示があった。これは入るべき大学を間違えたと思った。

なるほど次の日からの講義のすべてがマルクスに終始した。これは駄目だと秋田に帰った。しかし、両親は社会党員だから話が通じない。とにかく隣近所への見栄えもある、来年、違う大学を受けなおすと言っても経済的余裕が無い、と言われて泣く泣く戻った。

<大内兵衛 おおうちひょうえ 1888〜1980 大正・昭和期の経済学者・財政学者。労農派マルクス主義の理論的指導者で、1938年には人民戦線事件で検挙されて東京帝大を休職した。戦後復職し、49年に定年退職。

50(昭和25)年から法政大学総長をつとめ、マルクス主義の立場から平和・憲法擁護運動の理論的根拠をしめして大きな影響をあたえた。

兵庫県淡路島に生まれ、1913年(大正2)東京帝国大学を卒業し、大蔵省勤務をへて19年に東京帝大助教授となる。翌年発行人をつとめていた雑誌「経済学研究」に掲載した森戸辰男同大助教授の論文がもとで森戸とともに起訴されて休職処分となった。

22年特赦により復職し翌年教授に就任。財政学を専門とし、その教科書として30年(昭和5)に出版した「財政学大綱」は、科学的社会主義の観点から財政学をとらえなおしたもので高く評価された。> Microsoft(R)「エンカルタ」


田舎では犬は自分の食う分の重さを背負えない、と爺さんに教え込まれたが、マルクスは人間は自分が食う以上のものを稼ぐ。雇った資本家はその稼ぎの余剰分を搾取する、と教える。

しかし人間は欲に駆られて生きて行く動物である。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うじゃないか。生きている限り働くのが人間の務めと教えられて育った。オレはマルクスは止めた。

だから法政大学の4年間は参考書らしきものを図書館か下宿で読んで過ごした。小説はあまり読まなかった。夜になると焼酎を飲んだ。私鉄駅のガード下で。

マルクスの「資本論」は政治や経済の教科書ではない。あれはお経だ。信ずる奴は騙されるが、信じない奴にとっては端(はな)から聞く耳を持たない。だからソビエトのように1度は騙されても70年ぐらいしか保(も)たない。予想通りだった。

社会党に在って小作人の僻み根性の代表だった佐々木更三から仇敵のように疎まれた江田三郎。彼は「構造改革論」の主張者として歴史に残る。参院議長だった江田五月の父親である。記者時代、1年だけ担当した。

1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。

しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田と彼を取り巻く、若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱えるようになった。

1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として

アメリカの平均した生活水準の高さ

ソ連の徹底した生活保障

イギリスの議会制民主主義

日本国憲法の平和主義

をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる江田ビジョンである。これが新聞報道されると、話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。

しかし、社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判され、江田は書記長を辞任して、組織局長に転じた。

この中で江田ビジョンですら「徹底した生活保障」としてソ連を目標の一つとしたが、ソ連は1991年12月25日に大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は解体され消滅した。

ソ連による「壮大な実験」が失敗した事により日本社会党もほぼ消滅したではないか。

私の父は秋田県で若いときから小作争議の先頭に立ち、戦前から社会主義者だったらしい。従って戦後は率先して日本社会党員として奔走していた。母も同調していた。

しかし私は社会党が農民の暮らしを楽にする政党と言うなら村中が党員になるはずなのに、投票すらしない。社会党の主張は何時まで経っても実現しない、これは宗教団体に過ぎないと反発した。

それでも大学では労働運動史や賃金論を一所懸命学んだが、ついに運動に走らずに済んだ。卒業が1958年だったので「60年安保」に巻き込まれることも無く済んだ。既にNHK仙台で記者として働いていた。

しかし、人生の終盤に至って考えれば、要するに私は人に説得されない性格のようであって、先輩や周辺も初めから匙を投げていたのかもしれない。

併せて父母や法政大学が反面教師になってくれて助かったのかもしれない。


   

2015年01月21日

◆中国にウォシュレット?

渡部 亮次郎



中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相の同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出合って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の長城に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが全く無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

洗った尻は汚れていないのだからと、ますます手を洗わなくなる事を恐れて、出来ることなら、中国へは行きたくないものだ。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらした。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。

2015年01月20日

◆NHK毛虱物語

渡部 亮次郎



NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。たった1人の人物こそがNHK転落の犯人なのである。

30年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。

なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

<政治記者出身の島桂次は1989年4月、NHK会長に就任。任期中は衛星放送の本放送を開始したり、NHKエンタープライズなどの関連会社を活用した商業化路線を進めたりした。

島会長によるNHK商業化路線は、NHKに民間の手法を導入することによって番組の質を向上させ、受信料に頼らない経営で国際的なメディア戦争に生き残ろうとしたとの評価がある一方、金儲け第一主義で公共放送のあり方を歪め、2004年から相次いだ不祥事の元凶をつくったとする批判もある。

1991年4月、放送衛星の打ち上げ失敗の問題を巡って、国会の逓信委員会で滞在場所について虚偽の答弁をしたことが問題となり、7月に会長職を引責辞任した。ちなみに問題を追及したのは当時逓信委員長だった野中広務である。

会長辞任後1996年6月23日、急性呼吸不全のため死去。68歳。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛虱氏はこのとき、野中氏と組んで、島追放に大いに実績を挙げた。解説者によると島氏は後輩の海老沢勝二氏に寝首を掻かれる恐怖感に駆られ海老沢氏を理事の地位から外郭団体の社長に追放。そこで海老沢氏は島氏に敵意を持ったとされる。事実かどうかは分らないが、普通はそうなる。

その時、毛虱氏は海老沢側近となり、島への復讐劇を演出、遂に成功する。その時、当然ながら海老沢氏の恥部を把握、いうなれば海老沢褌の中で毛虱として生息し始めたのである。海老沢氏は会長として復活。毛虱氏を寵愛せざるを得なくなった。

担当は国会。NHKは政府の監督を受け、予算を国会に握られているため、その対応の指揮をとる部局の存在意義は高く、責任者たる毛虱氏の存在は大きかった。そこで事件が起きた。というよりも毛虱氏の自作自演である。

朝日新聞がすっぱ抜いた番組改編事件。女性団体が2000(平成12)年12月、慰安婦問題を取り上げた民間法廷を開催。NHKが翌01年1月、特集番組でこの法廷について放送したが、内容について事前に安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が容喙して変更させたとするもの。

インテリがNHKに番組内容の変更を事前に求めたら如何なることが起きるかを知悉しているから、そのようなことをあの2人がやれるわけが無い。それをしもやる目的もないし、度胸も無い。

田中角栄はやった。政権批判を続ける政治記者渡部亮次郎が邪魔なので口実を設けて地方へ左遷するよう竹下登氏を通じてNHK政治部長に申し入れ、NHKは渡部の辞表を受理せず、大阪に飛ばした。それ1回きりである。

ところが毛虱氏は狐への変身を図った。予算案の説明に行ったら安倍官房副長官(当時)と中川昭一氏が、あの番組を批判していたよ、と局内に流した。ありもしないことをでっちあげて番組制作部局を脅したのである。毛虱が狐に化けた瞬間だった。

政界や国会の事情に疎いディレクターたちは震え上がり、担当者は狐を虎と思い込み朝日新聞に垂れ込んでしまった。裁判まで起こされ、2007年1月29日には東京高裁でおかしな判決まで出され、200万円の損害賠償を命じられ、上告する騒ぎになっている。

事件の後、毛虱氏はとうとう理事(役員)に上り詰めたが、虎(海老沢)が途中退陣したため狐も途中で辞めた。しかし己の欲望のためにはNHKの組織なんかどうなってもいいとする毛虱式の風潮はNHKの内部に広く深く蔓延した。モラルとは一朝にして崩れる。一大不払い運動を招き寄せる結果となって今に至る。

しかも毛虱氏は虱らしく退職後も今度は外郭団体に潜りこんだ。流れてくる情報では好き勝手をやって職員を腐らせている。毛虱氏本人に犯人意識は無いから、自分がNHK周辺にいる限りNHKが衰退して行くことを知らない。だから私も毛虱氏の本名も顔も知らない。