2015年05月21日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 1953)年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月20日

◆原発に先鞭つけたは中曽根氏

渡部 亮次郎


第次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止されたが、サンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

そこで1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出された。

日本における原子力発電はこのことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている。

1955(昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力3原則」であった。

中曽根氏はこの頃既に衆議院に籍を置いていた読売新聞社主正力松太郎氏に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31)年1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は正力氏であった。 

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の九電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

中曽根氏は正力派の結成に失敗後、河野一郎派に所属するも、友人渡辺恒雄氏を通じて近付いた実力者大野伴睦氏の推薦で1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。正力氏のバトンを握って原子力発電を後押し。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月 26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

あれから48年。遂に事故は起こった。この間電力会社も通商経済省も「安全」の宣伝はしたが「安全策」は全く行なわなかった。「津波」対策は全くなされなかった。

2015年05月19日

◆東條の頭叩いて助かった人

渡部 亮次郎



常連寄稿者平井修一さんが70周年「真珠湾の真実」(12月8日号)で取り上げた大川周明のことは少年のころからどっかでひっかかっていた。

著名な学者だったのに、東京裁判では前に坐っていた被告東條元首相の頭をピシャピシャと何度も叩いて周りの度肝を抜いた。

裁判長の指示で検査の結果脳梅毒と判って、裁判免除。だが免除されたら普通に戻った、あの振る舞いは「演技」だったのだと理解してきた。

平凡社の世界大百科事典には次のようにしか出ていない。

{ファシズム運動家,思想家。山形県に生まれる。旧制第五高等学校を経て,東京帝大文学部でインド哲学を学ぶ。1911年卒業。

のち,植民地インドの現状に関心をもち,反欧米的思考を強める。18年,満鉄に入社し,翌年東亜経済調査局調査課長。20年,拓殖大学教授となる。

1918年,米騒動の衝撃のなかで生まれた老壮会に入会。19年,北一輝(死刑)とともに〈国家改造〉を目ざす猶存社を結成。

23年,北と袂(たもと)を分かって後,翌24年,行地社を創立。啓蒙宣伝活動にあたるとともに,軍部との関係を深める。

29年東亜経済調査局が独立の財団法人となると理事長に就任。31年,陸軍桜会によるクーデタ計画,三月事件に関与。翌32年2月,神武会を組織し,軍部と結びついた大衆的ファシズム運動を目ざす。五・一五事件に連座して反乱罪により禁錮5年に処せらる。37年10月,仮出所。

以後,法政大学教授(大陸部長)をつとめるとともに,《日本二千六百年史》(1939),《近世欧羅巴植民史》(1941),《米英東亜侵略史》(1942)などを刊行。

敗戦後,A 級戦犯として逮捕されたが,精神障害を起こし,裁判から除外,病棟で《コーラン》の翻訳に没頭する。1948年末,不起訴釈放。自伝《安楽の門》(1951)を著す。《大川周明全集》全7巻がある。}
       

「ウィキぺデイア」を近年知ったので検索してみたら出てきた。

この記事を書いた方のお名前は知らないが、肝腎なことは後半の出てく
る。

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。

1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。

その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。五高時代には、栗野事件で活躍した。

インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆して、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。

また、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)やアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。

一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。

同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。

大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。

またルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介している(「三重国家論」として翻訳)。

満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。

北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。

太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。

太平洋戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され、東京裁判に出廷した。

大川は水色のパジャマを着用。素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(東條は最初は苦笑していたが何度も叩かれたため睨みつけたという)、

「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、

または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」(I,I think 英訳私は、私は思う)と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。

15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した。

大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。

入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。

その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。

東條の頭を叩いたのは狂人と思わせる「演技」。裁判長は騙された。
                  2011・12・08


2015年05月18日

◆4人目の金日成とは

渡部 亮次郎



金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだ。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分が多く、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(2000年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはスターリンソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。  2011・10・11執筆

2015年05月17日

◆わたなべりやうじらう

渡部 亮次郎


幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。たとえば産経の阿比留瑠比さんのように。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。

2015年05月16日

◆論ずべき政治が無い

渡部 亮次郎



元政治記者が政治を論じなくなって久しい。論ずべき政治がなくなったからだ。夢と希望を政治に賭けなくなったからだ、とも言える。

だから、強いて政治を論じれば、政治家の悪口になってしまう。そこでなるべく政治を取り上げないように苦心しているわけだ。

特に小選挙区になってから、大局を論ずる政治家が登場しなくなった。否、論ずる必要がなくなったのだ。天下、国家の将来を論ずるよりも、ちんけな「公約」をばら撒けば当選出来るようになったから政治家は楽である。小選挙区制主義者はこのことが予想できなかったのだ。お粗末クン。

だから、まるで隣近所で御用聞きのような物言いをする政治家ばかりになった。思想も政策も必要ない。辻立ちして「政権交代」と世論に一致する声を挙げていれば当選だもの。

時々は国会の論戦に耳目を集中させようとするが、くだらないアラ探しばかり。週刊誌にまかせておくだけでいいようなものばかり。とても聞いていられない。

一昔前は日米安保論で日が暮れたものだが、最近は防衛問題はさっぱり聞かれなくなった。国民に関心が無いから票にならないからだろう。それでも論じなければならないのが、安保、防衛問題なのだが。今回は安保法制で少しは国会も賑わうかも知れないが。

教育についてもそうだ。昔は日教組と文部省(当時)は激しく対立して緊張関係にあったが、昨今は役人が日教組と癒着して自分たちの週休2日制さえ確保されれば、後はどうでもいいようだ。

民主党すなわち日教組だから、少しは残っていた教育の中立性はどこかに消し飛んで、教育に関する限り、日本社会党左翼の風、復活という不愉快な事態になるだろう。

私は、日本がだんだん、つまらなくなって行くのは、みんなが塾教育を是認したからではないかと密かに思っている。塾では試験に失敗しない方法ばかりを教える。無駄の集積の結果としての成功などとは絶対に教えない。

しかし、世の中の実際は殆どが失敗の連続と、失敗から導き出された成功への道である。失敗を重ねる事が結果的に人間のスケールを大きくするし、金太郎飴でない、個性的な人材を育成する。

政治の世界も、戦争帰りが国会議員であるうちは、度胸の据わった大物が沢山いて面白かった。しかもなぜか社会党には戦争帰りが少なかった。思想犯としてブタ箱を経験した「闘士」は左翼思想をさらに左に傾けてやまなかった。

彼らは自民党体制のブレーキ役を任じていた。ブレーキが如何に利いてもエンジンにはなれないことに気付かぬまま、社会党は消滅した。

自民党の戦争帰り。役人上がりの後藤田でも主計将校。中曽根もそう。田中角栄は2等兵でノモンハンに行ったが病気で帰還した経験があった。園田直の如きは特攻隊生き残り。竹下も立川にいた。しかし、シベリア抑留を体験した宇野宗佑で戦争体験の首相は終わった。

それ以後の自民党政治家は塾体験の2世ばかりが首相。失敗や敗戦の体験が無いから、人間として余りにもスケールが無い。小さすぎる。貫禄も風格も無い。タダの人だから国民を惹きつける魅力が全く無い。

民主党は、自民党に風格や貫禄や魅力のあった時代に、そこから撥ね退けられた人物や、自民党の隙間を探せなかった人物と社会党と民社党の残滓である。要するにかすでしかない。

経済の高度成長と共にあった頃の自民党に比肩する実績など挙げられるわけが無い。化けの皮はすぐ剥げるが、それまで長かった。 (文中敬称略)

2015年05月13日

◆人民軍内に江蘇省人脈が急拡大

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)5月12日(火曜日)通算第4537号 > 

〜そして軍内に山東省人脈に負けず劣らず、江蘇省人脈が急拡大
  人民解放軍の高官は南京軍区出身者が最多に〜


山東省は孫子を生んだ故郷でもあり、軍人がやけに多い地域である。

中国共産党のいう「抗日戦争」でも「英雄」が輩出したのは山東省だった(抗日戦争の主体は国民党だったが、これについては、この稿では触れない)。

胡錦涛時代、軍閥の台頭や地域的人脈の特性よりも、宇宙・航空関連、とりわけミサイルの開発に功労のあった軍人が多数出世した。習近平政権は、この点も重視するが、軍の統一と団結を維持するために、地方軍閥化を懼れずに、江蘇省関係者ならびに南京軍区出身者を幹部に多数抜擢し始めた。

最近の44名の軍高官の人事異動がなされたが、山東省、江蘇省出身が それぞれ8名。ついで遼寧省、河北省、河南省、浙江省出身が各四名。異様である。

山東省出身は軍委員会副主任の許基亮、第二砲兵司令員の魏鳳和、副参謀長の威建国、総装備部副政治委員の王洪晃、北京軍区司令の宋普洗らである。

また上記44名中、40歳代が5名、ほかの大半が50歳代で若返りが 目立つ。

また出身地比較ばかりか、勤務の長い出身軍区をみると44名中、14名が南京軍区勤務経験者がしめており、南京閥を形成している。

南京軍区は前身が新四軍、華東野戦軍、第三野戦軍。国共内戦で活躍した第四野戦軍出身者が革命以後、軍の主要ポストをしめたが、最近は南京軍区出身者が主流ということになったようだ。

他方、エリート軍といわれる瀋陽軍区出身は副主任の氾長龍と許基亮、総参謀部長の房峰輝、国防部長の常万全、武装警察主因の王寧らである。

2015年05月12日

◆中国が「糖尿病大国」に

渡部 亮次郎



(CNSPHOTO)2008/10/15によると2008年10月11日、上海で米国糖尿病学会主催の第2回アジア太平洋地区育成会議が開催され、中華医学会糖尿病学分会の主任委員である楊文英教授は中国における糖尿病の増加傾向に懸念を表わした。

楊教授によると、最近行った調査から、生活レベルの向上のため国内の都市部では糖尿病の発病者数が増加しており、特に男性では30歳から60歳の間に発病する確率が急激に高くなっていることが分かった。

現在、中国の糖尿病患者数はインドに次いで世界第2位となっており、2050年には5930万人に上ると予測されている。中国がインドに次いで世界第2位の「糖尿病大国」になったのである。


中華料理を見れば明らかなように、材料は、四足は椅子以外、飛ぶ物は飛行機以外、何でも食べている。香港では蛇も平然と入っている。しかし、牛肉料理は少ない。鶏か、せいぜい豚肉が多い。

ところが、経済の開放、改革路線の結果、懐の豊かな階層が出現し、彼らはこれまで食べたことの無かったステーキ(牛肉)をふんだんに食べるようになった。鶏の何倍もの高カロリーだ。また日本人の常食する生魚も海のものなら安全なことを知り、鮪を競って買うようになった。

有史以来、アジアは長い事飢餓に苦しんできた。このため、栄養過多になると、インスリンがすぐ不足して、余剰なカロリー(ブドウ糖)は消化できず尿と共に排出される。これが、糖尿病である。

中国では共産革命を起こさざるを得ないくらい、冨が偏在していた。毛沢東による革命(1949年)後も、人民は栄養不良に悩んできたが、トウ小平による経済の事実上の資本主義化の結果、少なくとも沿岸部では、美味い物を好きなだけ食べられる階層が出現した。

その結果の糖尿病である。以前は聞いたこともない病気であるから患者に予防知識が無い。発病しても痛くも痒くもないため、症状は猛烈な勢いで悪化し、ある日、突然、盲目になったり、腎機能不全に陥ってようやく糖尿病と分かる始末である。

日本人だって総理大臣を務めた田中角栄も大平正芳も糖尿病患者だった。田中はその合併症として脳梗塞を患った末に、身内にひっぱたかれながら死んだ。

大平は酒は嗜まなかったが、甘いもの大好き。主治医に言わせると最低の患者だった。首相在任中、合併症としての心筋梗塞の発作2度目で冥土へ旅立った。

中国では急激な糖尿病患者の大出現に、医者も教育係も追いつかない。だから先進国から専門医を大量に招いている。日本からも相当の数の医者が駆けつけている。

しかし、患者の発生の多さにはとても追いつかない。共産党政権は経済の高度成長こそが存在の正当性を裏付けるものだから、「食」の高度化をますます進めてゆく以外に無い。即ちそれは糖尿病大国の肥大化の道に他ならない。

実に皮肉なことだが、経済の開放、改革こそは糖尿病への道だったのである。

予防のためには適度な運動と食事制限意外に無いのだが、中国人に食事制限の知識はないし、適度な運動のための時間的な余裕は考えられない。日本人も同様だが。(文中敬称略)

2015年05月09日

◆ラジオ歌謡の頃

渡部 亮次郎



投稿して下さる常連の前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラヂオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。

当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラヂオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりも登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響を与え、大阪の朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽化学工業(現・クレハ)の協賛で民放版のそれともいえる“クレハ・ホームソング”を企画・制作した。

ここからも「踊り子」(三浦洸一)、「白いボール」(王貞治・本間千代子)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。仲宗根美樹の「川は流れる」もそうだ(昭和36年)。

1960年代になると、テレビ時代になり、ラヂオの名物番組が次々に姿を消すようになり、『ラジオ歌謡』も、1962年に終了し、テレビでも放映される『みんなのうた』に引き継がれた。

昭和28年(?)に岡本敦郎の唄った「チャペルの鐘」は大好きで受験勉強を放り投げてNHKのど自慢に出場したものだ。寺尾智沙作詞、田村しげる作曲(2人は夫婦)。

「テープ」も「CD」も「MD」も無い時代の事だったから正確な記録はNHKにも無い。日本ラジオ歌謡研究会というファン・クラブが出来ていて、「歴史」を記録する事に努めている。

これまで研究会員が収集したり、全国のラジオ歌謡ファンから寄せられ、日本ラジオ歌謡研究会で現在所有している一覧表がある。全曲は845曲だそうだが、録音と楽譜のそろったものは300曲足らずという。

2000年にコロムビアが「20世紀の軌跡 ラヂオの時代」としてCD5枚組をモノーラルで発売したが「国民歌謡」を含めてもたった109曲しか入っていない。研究会では、未収集の曲のピアノ譜及び音源を求めているそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月08日

◆産経新聞の「大誤報」

渡部 亮次郎


産経新聞が6日の電子版で厳然と存在した「大福密約」を“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。と堂々と誤報した。無かった従軍慰安婦の強制連行を有ったとほうじてはじなかった朝日新聞は誤報だったが、この産経の記事も誤報だ。その理由は末尾で明らかにするが、まず問題の記事を全文紹介しよう

産経ニュース【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新

<“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は

昭和32年7月、13回忌となる池田勇人元首相をしのぶ会でのシーン。このときの3人は笑顔だが、田中と福田は長年にわたり「角福戦争」を繰り広げ、福田と大平は53年以降、激しい総裁争いを演じた。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

               ◇

 一、ポスト三木の新総裁及び首班指名候補には大平正芳氏は福田赳夫氏を推挙する。

 一、総理総裁は不離一体のものとするが、福田赳夫氏は、党務を主として大平正芳氏に委ねるものとする。

 一、昭和52年1月の定期党大会において党則を改め総裁の任期三年とあるのを二年に改めるものとする。

右について、福田、大平の両氏は相互信頼のもとに合意した。

 昭和五十一年十一月

                ◇
 この文章の後に、保利を除く4人の署名と花押(園田は署名と捺印)がある、というものだった。

“大福密約”について、福田の長男の福田康夫元首相は「そういうものはなかった。ある人が発言したことで一気に、本当のごとく広がっただけだ。福田(赳夫)もはっきりと『ない』と言っていた」と存在を強く否定する。

一方、大平の項で登場する娘婿で首相秘書官を務めた森田一(はじめ)元運輸相は(ネタバレになるが)「書面を見た」と語る。両者は今も正反対なのだ。

そこで、康夫氏が「ある人」と語った人がキーマンになる。同氏は名言こそしなかったものの、園田のことを指しているとみられる。

園田は会談の後、「これじゃ2年後、私たちは大平政権樹立のために走り回るということを約束させられたようなものだ」などと語ったという。しかも園田は、大平内閣で外相に再任され、54年に大平と福田がそろって首相指名選挙に臨んだときは大平に投票した。これにより“大福密約”の存在は定着するようになった。

また、平成16年に週刊誌「読売ウイークリー」(現在廃刊)が「大福密約の覚書」を“公開”し、話題になった。

「読売ウイークリー」によると、「覚書」は園田の次男、園田博之衆院議員が所持していたもので、当時は大平派といわれた宏池会の便箋に「福田・大平了解事項」のタイトルで先の内容が記されていた。

ただ、タイトルから4人の署名まで同じ人物が書いたとみられる。花押も、少なくとも福田については官邸のホームページにあるようなものと微妙に異なるようにみえなくもない。

そこで、博之氏に取材したら意外な回答が返った。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

「あの紙はどこかにいってしまった」

「覚書」は園田の妻で衆院議員だった天光光(てんこうこう)が預かっていたもので、天光光から博之氏に託されたという。

その上で、博之氏はこう言い切った。

「あれを『密約』というのは疑わしい。文章を見ればわかるが、署名が本人のものとは思えない。となれば、文章も本物にはならない」

「覚書」をなくした理由はこうだった。

「大切なものとは思わなかったから」

福田サイドには有利になった感はあるが、博之氏の発言をもって“大福密約”はなかったとも十分には言い切れない。もし、“密約”がないのであれば、園田はなぜあのような「覚書」を大事に保管していたのか。疑問はさらに深まったといえる。

同時に、大事な「史料」を失ったこともわかった。“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。(政治部次長 今堀守通)

【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新
“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は>

園田氏は福田内閣の官房長官だったが、1年後の内閣改造で、たった1にん留任し、但し外務大臣に鞍替えさせられた。その際、福田首相は官房長官を辞めさせる理由として「あのことを(官房長官番の記者たちにしゃべりすぎた」と言った、と「密約」の存在を認めた。 

園田氏は外務大臣就任にあたって政務担当の秘書官に当時NHK記者だった私を任命すると同時にこのことを私に告げた。なぜならば彼に官房長官就任を薦めたのが私だったから、改造に当たって官房長官を辞める理由を私に説明する「義務」があると考えたからであろう。

密約の書類は園田氏が自家用車のトランクの中の鞄に大切にしまっていたが、ある時私に見せた。用紙は大平派の用箋で、本文は見慣れた鈴木善幸氏の手になるものだった。そういえば園田氏の死後、あのトランクの中から現金1億2000万円が発見されたが、天光光未亡人はその金を息子たちには秘匿し遺産として分けず独り占めしてしまった。

産経の政治部次長 今堀守通氏は園田氏の次男博之氏の言葉を「証言」として持ち出しているが、博之氏は当時はまだサラリーマンであり、かつ継母たる天光光(てんこうこう)と暮らしている親父の家には一度も立ち寄ったことはないし、政局の内情に通じてもいなかった。父親から政局話を聞ける立場でもなかった。したがって彼の「密約」に関する話には信憑性は極めて低い。

一方、福田康夫氏だが、彼もまた当時はサラリーマンであり「密約」を知る立場にはなかった。

その後康夫氏は総理秘書官となるが、父親が密約文書を見せるわけないし、父親として「俺は密約で総理になれたのだ」とは恥ずかしくていえるものでもないでしょう。

このような次第だから、今回の産経新聞政治部次長 今堀守通氏の記事は全くの誤報と断ぜざるを得ない。(2015・5・7)

2015年05月07日

◆アマデウスとは誰

渡部 亮次郎


東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。20年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

オペラ:後宮からの誘拐、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛

宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム

交響曲:第25番、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』

セレナード:アイネ・クライネ・ナハトムジーク

ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番

管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲

弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、弦楽五重奏曲:第3番、第4番

その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲

ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』

断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。

晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。

人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。

交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。

彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。

従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。

モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのはふたりがおかれていた社会的状況の差であると言える。

モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。

しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。

老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。

この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。

遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。

鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。

これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。

検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(出典:フリー百科事典ウイキペディア)

2015年05月06日

◆スターリン批判の勇気

渡部 亮次郎



子どもの頃、恐ろしかったのは進駐軍だったが、それより恐ろしかったのはソヴィエトのスターリンだった。政敵や邪魔者を何千万人も殺したから、敗戦国に遣ってきて、私も殺されるかも知れないと思うと、夢にまで出てきた。

長じて高校2年の春3月5日に、そのスターリンの死が公表された。年表で見ると、当時はこれで平和が来ると見たのか、東京証券取引所では、軍需株を中心に暴落し、スターリン暴落と記録されている。

入る大学を間違えてマルクス経済学者・大内兵衛を総長に戴くところへ入ってしまった。だが共産党員学生が幅を利かせる学風に反発、子どもながらに物凄い反共主義者になった。

そうしたところへ3年生の春、3月24日、ソヴィエトで第1書記のニキタ・フルシチョフがスターリンを公然と批判した。話題にするだに恐ろしいスターリンを、死後とは言えど、批判するとは、大変な勇気を持った人もいるものだと感服した。

学内の共産党員学生が小さくなった。そのうちの女子学生が口紅を付け始めたのには笑ってしまった。

1956(昭和31)年3月24日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが政治報告を発表し、スターリン執政期における秘密の一部を暴露し、個人崇拝がを批判した。

1939年、スターリンは次のように述べた。

「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在しない」。

しかし、数多くのソ連国民が、シベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所で強制労働に従事させられていた。

第2次世界大戦後も、スターリンは国際共産主義運動に君臨していた。1951年、日本共産党が所感派と国際派に分裂したときも、所感派に軍配を上げ(スターリン判決)、国際派は涙を呑むより他になかった。

そのスターリンの死から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。

特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。フルシチョフは、全ソ労評議長として、スターリンに直接仕える立場にあった。

すでに西側の共産主義シンパからソ連とスターリン体制への失望が表明されることはあったが、これにより、スターリンは国際共産主義運動の玉座から決定的に引き摺り下ろされる形となった。

フルシチョフの秘密報告の要旨。

<個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニン死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すはおろか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。

すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指摘、彼を書記長職から異動させることを提案していた。

だがレーニン死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。

1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。

党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。

スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。

ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義の抹殺の意図を隠さなかったにも拘わらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追放、逮捕さらには処刑に追いやった。

「大祖国戦争」(独ソ戦)の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。

スターリンの専横ぶりは、第2次世界大戦後のソ連と「社会主義兄弟国」(東側諸国)との関係にも悪影響を及ぼした。

その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂しユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。>

ただし、この演説の内容自体はフルシチョフのオリジナルではなく、政敵であるマレンコフが考え出した物であり、フルシチョフがそれを横取りしたということも指摘されている。

また、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に働いたのかを隠していた。大粛清に積極的に加担し、自分の出世に利用した点も考慮する必要があるだろう。

しかし、当時はスターリンに「NO」ということはすなわち「死」を意味する時代であったわけで、一般国民だけでなく党や政府などスターリンに使える立場にあるものまで生命の危険にさらされていただけに、何を思おうがスターリンのやり方に従わざるを得なかった。

数年後、もう一度フルシチョフによるスターリン批判が行われた。この結果スターリンの遺体は撤去され、燃やされた。

時は流れ1987年11月、在任中のゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典でスターリンを批判し、レーニンをもスターリン主義の元凶として批判した。

スターリン神話が崩壊したとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視するという恐怖支配の構図はソ連崩壊まで変わらなかった。

フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民革命(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧された。

また、構造改革などの影響で既にスターリン主義とは一定の距離を置いていた西欧の共産党には、スターリン批判は自己に直接影響を及ぼすものとは受け止められなかった。

かつてスターリンが退けた「国際派」が主流となっていた日本共産党も同様で、スターリン批判と共に打ち出された平和共存の学習の推進を訴えただけだった。

スターリン批判は中国(中華人民共和国)との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降中ソ関係は急速に悪化する事となる。代わりに中国は、アメリカとの関係を修復していった。

朝鮮民主主義人民共和国においては、すでにスターリン型の支配体制を築き上げて、その正統性を人民に要求しつづけていた金日成政権が、中国同様フルシチョフ路線を「修正主義」として強く批判した。

これはソ連との関係が冷却化する契機となった。実際にフルシチョフによる消費財生産重点化政策をきっかけに、金日成派の執権は脅かされていた。一方、延安系とソ連系の幹部がスターリン批判を受けてクーデターを計画したが失敗に終わり、粛清された(8月宗派事件)。

日本において、スターリン批判を重く受け止めたのはトロツキストであった。これと前後して、日本のトロツキストは、新しい前衛党=新左翼の結成に進んだのであった。

1997年のモスクワ放送では『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、内4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送した。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆3度目は意識的失脚

渡部 亮次郎



トウ(!))小平は、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「?(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」
                         執筆2007・07・19