2015年01月06日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は

<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。

2015年01月05日

◆マスコミ用語の変遷

渡部 亮次郎



NHKの記者研修で厳しく言われたことは○○を「上回った」と言う表現はあっても「下回った」と言ってはならない。上回ることは表面張力の点からある現象だが「下まわる」事はあり得ない物理現象だから、と厳しく言われた。

しかし、現在、NHKでは「下回る」がおおっぴらに使われている。NHKだけでない。新聞も使っている。天気予報など気象情報でもそうだ。マスコミが使えば、世間が使う。

先ごろ「未成年」はいまだ成年にあらず。未は「まだ」と「ず」と2回読む「漢文」から来ているのだから「まだ未成年」といっちゃいけないと自分のメルマガに書いた。

そしたら国語教師だった人から「使ってもおかしくない」といった趣旨の反論があった。あまり恥かしいから没にしたらご不満の様子である。国語の教師でも漢文を習わぬ時代になっているのだ。

私の若いころは政局の見通しについて判らなければ「成り行きが注目される」と逃げる記者が居た。これを称して「なり注原稿」と揶揄したものだが、いまの政治記者連中は「不透明」と言う言葉で逃げる。

「不透明」とは状態を示す言葉であって、記者の主観から逃げている。無責任な原稿と言われても仕方がない。例えば小澤が辞めるか否かは「不透明」なのではなく「ご本人も決断できない状態」であるのだから「不透明」というべきで「判らない」と書くべきだ。

最近はテレビも新聞も問題の見通しは「不透明だ」という表現を使う。見通しが立たない、解決の目途(めど)は立たないと言っていたものが、一層、他人事(ひとごと)に突き放したいいかたをする。

ニュースは利用者に「断定」の材料を提供する仕事である。それなのに「成り行きが注目」されたり「不透明」だと逃げたのではニュースとはいえない。

就中、私が1968年に入社したNHKでは聴取者からの反発を恐れて断定的な結論を出す事を嫌った。あとで結果的に外れた時の反発や抗議の電話集中的にかかってきて、交換機が炎上すると脅かされた。事実かどうかは知らない。

当方は血の気が多い方だからこれに反抗。「ああでもない、こうでもないでは,どうでもないニュースといわれるではないか」とむくれた。独自の見解を披瀝しないのだったらNHKは糊と鋏の頭文字かと毒づいたりもした。

佐藤栄作内閣時代のことだ。衆議院の解散に伴う投票日の設定が焦点になった。幹事長田中角栄は何日といい、国対委員長園田直はそれとは違う「大安吉日」を指定した。「総理はなんと言っても大安吉日が好きな性格だから、間違いない」との断定的な解説付きだった。

だが幹事長と国対委員長では総理・総裁との政治的距離が圧倒的に違う。幹事長の方が格段に上なのだ。だからNHKは角栄のいう説を選んだ。しかし、角栄は間違っていた。

佐藤栄作研究は時間的には角栄のほうが長かったが、突っ込み方は園田の方が鋭かった。解散日を決める三者会談の際、角栄は椅子に半分しか腰掛けていなかった。これは栄作を恐れている証拠。

園田は嘗ては栄作とライバル関係にあって戦っていた故河野一郎の直系の子分。従って総理と幹事長の関係を冷静に観察する余裕がある。園田説が真実に近い。だが私の主張は部長の決断で否定された。

だがやはり園田説が正しかった。投票日の日取りに間違いがあったという「訂正記事」を書かされ、それに対して報道局長賞(金一封)が出た。訂正記事に特ダネ賞はNHKでは空前絶後では無いか。

果たせるかな後年、ポスト佐藤の場面になった時、佐藤が自分に信を置いていないことを知っていた角栄は腕力で佐藤をねじ伏せるようにした。参議院の天皇は「カネを積んだのだ」と非難した。これで「禅譲確実」と言われていた福田赳夫を角栄は蹴落とした。

福田側についていた園田はこの結果、田中,三木亮政権の数年間、冷や飯をくうことになった。園田の佐藤研究は鋭かったが、田中研究はまるでなって居なかったのである。とんでもない方へ話は流れてしまった。
乞ご寛恕。


    

2015年01月04日

◆1月10日は 110番の日

渡部 亮次郎


110番の豆知泉

警察直通電話「110番」の正式名称は『警察通報用電話』。

110番の歴史

警察に緊急通報するための電話がGHQの勧告により開設されたのは1948(昭和23)年10月1日のことです。

これはヨーロッパやアメリカの緊急通報制度を取り入れたものですが、最初は全国ではなく、東京も23区内だけで、あとは大阪も中心部だけで、あとは名古屋(愛知県)・福岡(福岡県)・京都(京都府)・神戸(兵庫県)という六大都市のみでのスタートだった。

さらに、この時は東京と名古屋だけが「110」で、あとの都市では「110番」に統一できず、大阪・福岡・神戸・京都は「1110」と言う4ケタの番号だった。

しかも統一化しようと考えているにも拘わらず、その後、名古屋はなぜか一度「118」に変更したりしています。

全国統一の「110」になったのは、スタートから12年も経過した昭和35年5月からだ。

東京の場合は、23区内にあった32の電話局からそれぞれ1回線を確保して受信にあたった。

今から考えるとかなり間抜けだが、警察の電話室に32個の電話機を置いて、電話が鳴ったと同時に担当係員が、どの電話が鳴っているのかを確かめる為にそれぞれの電話に耳を近づけて確認すると言うものだった。

当時は、無線司令などのシステムは無く(当然、現場近くのパトカーに直接電話するなんて事は無理)、警察で受け取った電話の内容を、再び事件通報に関係した警察署に電話をしなおして報告すると言うシステムになっていた。

1・1・0の理由

警察への緊急電話は「110番」と言うのは子供でも知っているが、何故110なのか?

これは、ダイヤル式だった頃に考えられたもので、基本的に警察に掛けるときは急いでいるので、一番ストッパーに近く、シャッシャッと掛けられる1を2回、そして最後の1つは「でもとりあえず冷静になって見よう」と言うことでストッパーから一番遠い0が採用された。

と言っても、これはダイヤル式の時代の話なので、現在のようにプッシュ式が主流になってしまうと意味はなくなってしまう話ではある。

アメリカの場合、イギリスの場合

アメリカやイギリスの電話は日本とダイヤルの配列が逆になっている為に、警察緊急電話もちょっと事情が違ってきます。

アメリカの警察緊急電話番号は「911」

これは急いで掛けられる9を1回、ゆっくりの1を2回と言う状態です。

それに比べてイギリスの緊急電話番号は「999」で、とにかく迅速に掛ける事が出来るようになっている。

イギリス人はとにかくせっかちなのか、それともジェントルマンの国なので常に冷静なので、冷静に戻す必要はないのかも知れません。

1月10日 110番の日

年々増えつつある110番の利用に対し、いたずら電話を防止し、有効かつ適切な利用を呼かけるためのキャンペーンのため、1986年に警視庁が制定した。

「事件・事故・見たら聞いたら110番」などの標語も誕生している。
出典:知泉Wiki
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?110%C8%D6

携帯からは単に「110」を押すこと。

    

2015年01月03日

◆A面あってのB面

渡部 亮次郎



昔はCDがまだ無くてレコードと言う板に録音していた。板には裏と表があり、表をA面、裏をB面と呼んだ。

昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

群馬県・榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合と発売中止となるも、それまでに大ヒット。当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)

東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、古関裕而が満洲から帰国、神戸から東京までの汽車の中で作曲した「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。

「暁に祈る」の「ああ、あの顔で」の出だしは、陸軍省の「ああでもない、こうでもない」のうるさい注文に難渋した作詞者の野村俊夫の愚痴を聞いた、作曲者の古関裕而が、それを使うように薦めたのがきっかけ。

この間の13年には赤坂百太郎と再婚、4人の子供を設ける。戦火が激しくなった18年暮れには伊藤は福島に帰郷し、レコード吹き込みの度に上京した。

戦後は主にラジオ歌謡で活躍、「イヨマンテの夜」はのど自慢で大人気を誇るヒットとなった。他にも「あざみの歌」「山のけむり」などの叙情的な歌のヒットがある。

私生活では宝塚の桃園みかと同棲し、妻であった赤坂百太郎から「生活費を入れない」と25年、家庭裁判所に訴訟を起こされ、後に離婚している。

53年に紫綬褒章、58年に勲四等旭日小綬章を受章。持病のぜんそくに加え晩年は糖尿病で、浅草の国際劇場のステージでは、痙攣からマイクにすがりつきながら鬼気迫る歌唱をみせたという。

55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。57年春には関係者の間では危篤とされ
ていた。

涙もろく、「酒を飲まない奴は信用できない」が口癖だった。その反面で、極度の潔癖症でもあり、楽屋なども絶対に他の歌手と同室しなかったという。

服装には無頓着で、10年以上前の体に合わなくなった背広でステージに上る事もしばしばであった。レパートリーは何でもこなしたが、本人は抒情歌を好んでいたという。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。

住まいは中野区沼袋だった。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。
 
昭和12年   露営の歌(松平晃、中野忠晴、霧島昇、佐々木章)
昭和14年   父よあなたは強かった(二葉あき子、霧島昇、松原操)
       白蘭の歌(二葉あき子)
昭和15年   暁に祈る
       高原の旅愁
       お島千太郎旅唄(二葉あき子)
       熱砂の誓い
昭和23年   シベリヤ・エレジー
昭和25年   イヨマンテの夜
昭和26年   あざみの歌
昭和27年   山のけむり
昭和28年   君いとしき人よ

引用:『日本流行歌通史』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

2015年01月02日

◆「検閲」を知っているか

渡部 亮次郎


「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一 歌 二葉あき子。

敗戦後昭和22(1947)年 の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世には出なかった。

戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分となったからである。

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召されての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。

若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命である。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。

新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫がコロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国との戦時下、女々しいと「発売禁止」。

<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。

満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。

すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。

国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべて排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」が存在したのである。

作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者もR・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを外国人と思って捜している。

戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌でヒットしたのが昭和22年だった。

戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。
社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。


     

2015年01月01日

◆ASEANの口頭試問を逆手に取る

渡部 亮次郎



ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。(Wikipedia)

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわかったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。1978年になって、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関するマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル。朝早く、会議会場の下見に出かけた。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打ち合わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列に5人が並び、向かいに日本の席がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参りましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本のペースになってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リターン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にしていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にしてASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけだった。2010・11・24

2014年12月31日

◆メジロを捕ろうとした大臣

渡部 亮次郎



私が大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)さんは、政界では 寝業師と呼ばれた異能の代議士だったが、少年の頃、生まれ故郷の天草 (熊本県)でメジロを捕って遊んだ頃が忘れられず,厚生大臣でありながら 70近くなって、メジロを捕しようとして厳重注意を食らったことがある。

『夕刊フジ』(2006・6・02)を読んでいたら、似たような記事に出会ったので思い出した。

<庭のメジロを捕獲しペットに…通りがかった警官気付く

鳥獣保護法で捕獲などが規制されている野鳥のメジロを捕り、飼育してい たとして警視庁向島署は31日までに、同法違反容疑で東京都墨田区内の会 社員(58)ら3人を書類送検した。

会社員は「いけないと知りながら、自宅の庭に飛んできたメジロをつい 捕ってしまった」と話している。

調べでは、会社員は2003年12月ごろから今年2月までの間、ミカンなどを 使って自宅の庭に呼び寄せたメジロ計7羽を網などで捕獲し、ペットとし て飼育していた疑い。

署員が会社員宅をたまたま通り掛かり、軒先につるされた鳥かごでメジロ が飼われているのに気付き発覚したという。 ZAKZAK 2006/05/31>

園田さんは昭和59(1984)年4月2日に70歳で逝去。06年の3月に23回忌を営 んだ。だからもうこの話を披露しても故人は苦笑いするだけだろう。

剣道7段、居合道8段、合気道8段、空手3段という猛者(もさ)だった が、気はほんとのところは優しかった。中学生の頃は、美男子ゆえ、女学 生に大勢で取り囲まれ、泣き出したという人。軍隊では絶対、ビンタを張 らなかったそうだ。

だからこそ武道によって自己改革を図ろうとしたのだろうと思う。また軍 隊には血書志願。陸軍で、落下傘部隊が発足すると知るや、長男は駄目 (確実に死ぬ危険性大だから)というのを押し切って第1期生。

戦争末期には特別攻撃隊、いわゆる特攻隊に志願。若い人は知るまいが、 単駆、爆雷を巻き、戦闘機で爆弾ごと敵軍艦に体当たりすると言うもの。 中東の自爆テロの先祖だ。

園田中尉は昭和20年8月に千歳基地から飛び立とうとしたが悪天候で中 止。次は8月17日が予定日とされたが、15日に敗戦。

話を聞いて私は「命拾いですね」といったら「一度死ぬ覚悟を決めたの に、突如、死ぬなと命令されると、逆に腰が抜けたよ。あれ以来、私の人 生は<お釣り>だよ」。

こうした反面、ラジオコントロールの飛行機や船を操作するのが趣味だっ たが、何と言っても好きなのが、小鳥にエサをやることだった。

外務大臣を福田内閣、大平内閣と2期勤めた後、厚生大臣に転じた。その 時も私が秘書官だった。ある月曜日の朝、目黒の私邸に伺ったら、珍しく 沈んでいる。

こっそり秘書さんに聴いたら「昨日(日曜日)、川崎の山で警護官(警視 庁警部)とメジロを捕まえようと、藪の中にしゃがんでいるところを、環 境庁の監視員に見つかってお説教を食らったんだって。厚生大臣がこんな ことでどうするって」

マスコミに漏れたら大事だ。幸い漏れなかった。この直後、園田さんは糖 尿病による腎機能低下に陥り、本郷の日本医科大学病院に10日ぐらい入院 した。それも極秘にして、病院から閣議に通った。以前、マスコミにいた ものがマスコミ対策をするのだから、普通の人よりは楽だったが。

ワーズワースだったか「私の心は虹を見ると踊る」と謳った。園田さんも 小鳥や亀にエサをやっている時、天草の海に遊んだ少年の心になっていた のだろう。そんなこと新聞記者に言い訳したって通用しなかったろう。危 なかった。

2014年12月30日

◆「葱」知らずでクイズ不合格

渡部 亮次郎



葱知らずで不合格は石原慎太郎の息子良純。家人のかじりついている民放のクイズ番組で勝ち抜き、最終、「ネギ」を漢字で書けと言われて書けなくて海外旅行をのがした。

そういいえば、まだ子供のころ笠置シヅ子の歌う「買い物ブギ」(作詞、作曲服部良一)で「東京ねぎ」というフレーズがあって、ねぎに品種がいろいろあることを知らないものだから不思議に思っていた。

長じて大阪に左遷されたら関西では葱の白いところじゃ無しに青いところしか食べない。だから白い部分の長い葱は東京葱、と知った。

ネギ(葱)の英名はScallion。植物分類体系ではネギ科ネギ属。原産地は中国西部・中央アジアとする植物。日本では食用などに栽培される。

ネギは「シボル」とも呼ばれ、古名は「き」という。別名の「ひともじぐさ」は「き」の一文字で表されるからとも、枝分れした形が「人」の字に似ているからとも言う。

ネギの花は坊主頭を連想させるため「葱坊主」(ねぎぼうず)と呼ばれる。萌葱色(もえぎいろ)は葱の若芽のような黄色を帯びた緑色のことである。

日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられる他、鍋料理に欠かせない食材のひとつ。硫化アリルを成分とする特有の辛味と匂いを持つ。

料理の脇役として扱われる事が一般的だが、青ネギはねぎ焼きなど、白ネギはスープなどで主食材としても扱われる。ネギの茎は下にある根から上1cmまでで、そこから上全部は葉である。だから食材に用いられる白い部分も青い部分も全て葉である。

関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれる。一方、関東以北では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれる。また秋田など東北地方では「曲がりねぎ」という栽培法もある。

関東と同様に土を盛上げながらある程度育てたら、一度抜いて横向きに植え直し、植物の光に向かって伸びる性質を利用して曲げる。これは、地下水位が高い土地で効率よく白葱をつくる方法だと言われる。ただし、栽培に手間がかかるため、作付面積は減少している。

欧米ではチャイブ、リーキなどが栽培されている。

古くから薬効成分が含まれている植物と知られていた。痰や鼻水を押さえる作用があるようで、風邪をひいた時に、ネギをくるんだ手拭やガーゼなどを首に巻くというものは有名な民間療法である。 お尻に刺しても効果があると言われるが効果の程は不明である。

病虫害の予防効果を狙って、しばしばユウガオ、トマト、ナス、ホウレンソウなどの畑に混植される(→ コンパニオンプランツ)。

ネギの種類
<青葱>
九条葱(京野菜)
万能葱
谷田部ネギ
観音ネギ
ワケネギ(わけねぎ) 株分れ(分けつ)しながら成長する葉ねぎ

<白葱>
深谷ねぎ(埼玉県)
下仁田ネギ(太く短い)
ポロねぎ 地中海料理などで普通に使われるネギ。
曲がりねぎ(白葱)
一関曲がりねぎ(岩手県一関市)
仙台曲がりねぎ(宮城県仙台市)
横沢曲がりねぎ(秋田県大仙市)
阿久津曲りねぎ(福島県郡山市)

その他
越津ネギ 愛知県発祥。日本の東西の中間だけあり、根の部分も葉の部分
も丁度同じぐらいの長さで、白葱と青葱の中間にあたる。
徳田ねぎ 岐阜県特産。白葱と青葱の両方の特徴を持つ。
出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年12月28日

◆ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ

渡部 亮次郎



生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなったころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものを大事に保管して置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出したされたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ。」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。
(参照:フリー百科「ウィキペディア」)

2014年12月27日

◆カレーライスと海軍

渡部 亮次郎



「北海道カレー会議」というグループが一時はあって、事務局を 札幌市に置いて北海道の産物のすべてをカレーライスにして食べ尽くそうと呼びかけていた。現在は休止している。

そのホームページによると

<カレーライスは「印度のカリー」を原点とし、「英国」・「仏蘭西」などを経て「日本」にもたらされた。特に明治期の「英国式シチュー風カレー」が旧帝国海軍のメニューとして採用され、軍人を通じて日本への大きな影響を与え、その後「日本の米」と出会うことにより、独特の「ライスカレー、カレーライス」を作り出したといわれている。

この、明治期の日本海軍によるカレーライス導入こそ国民食への始まりとする見方も有力である。 しかし、明治9年頃、既に我が札幌農学校には「生徒ハ米飯ヲ食スべカラズ」という寮則があったことや、「但シライスカレーハ是ニ非ズ」と言ったといわれていることを知る人は少ない。

この一文を起こした人こそ、あのクラーク博士であり、近代日本の黎明期を支えた多くの偉人達が大志を胸に、日々カレーライスを食していたのだ。日本で、最も早くカレーライスを常食化した地こそ、この北海道であることは疑いもない史実なのだ。近代日本の英知を育んだ「北海道のカレーライス」は偉いのだ。>となっている。

明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに,脚気は兵営に急速に増加し,明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し,日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり,それは
総傷病者数の2分の1というありさまであった。

脚気の病因については,当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ,治療のきめ手を欠いていたが,イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は,いちはやく脚気対策の重点を食に置き,兵食改良に着手し,海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。     

もともと脚気は江戸時代の元禄〜享保年間(17世紀末〜18世紀初め)に江戸で大流行した。この年代は日本人の米食がそれまでの玄米または半つき米から精白度の高い白米に移行した時期と一致している。

また寛政年間(1789‐1801)には京都,文化年間(1804‐18)には大坂で流行した記録がみられ,〈江戸煩い〉あるいは〈大坂腫れ〉などとよばれた。明治になると都市人口の激増や貧困層の増大につれ,食生活の低下とくに青年層における栄養の相対的低下が著しくなり,脚気の急増を招くことになった。

高木兼寛 1849‐1920(嘉永2‐大正9)たかぎかねひろ

明治・大正期の軍医。宮崎県生れ。幼名藤四郎。石神良策,W. ウィリスに医学を学び,1872年(明治5)海軍省出仕。75年ロンドンのセント・トマス病院医学校に留学し,80年帰国,東京海軍病院長となる。81年成医会をつくり,成医会講習所(京橋区鎗屋町、現在の銀座4丁目)の所長となる(東京慈恵会医大はこれを原点としている)。

翌82年有志共立東京病院(同大学付属病院の前身)を設立し,85年同院に看護婦養成所を設立し,日本最初のナイチンゲール式近代看護教育を開始した。成医会講習所は何回かの名称・組織の変更を経て今日の東京慈恵会医大に至るが,ドイツ医学主流の当時にイギリス医学を導入した。85年には海軍軍医総監となる。

海軍軍陣医学の近代化への貢献は大きいが,とくに脚気減少のために努力した。開化期の先端的文化人としての活躍(鹿鳴館のバザー,神前結婚,オーナードライバー,洋装のすすめ)も忘れることができな
い。

日露戦争と脚気をテーマとして書かれた吉村昭の小説「白い航跡」(講談社文庫)では海軍軍医総監として、理屈はまだ分からないけれど、とにかく肉や麦(パン)、カレーライスを食べさせれば脚気は治るんだから良いという高木。 

対する陸軍軍医総監森 林太郎(鴎外)はドイツ派医学の代表として脚気黴菌説のパスツールにしたがって農村出身の次男、三男たちに白米をたらふく食べさせ、結果として脚気患者を大量に出現させた。そればかりか、高木を、いわば学無き者として、罵詈雑言を浴びせて非難した。

明治天皇がこれに注目された。皇后が脚気を患っておられた。そこで高木を陪食に招き、栄養の話を聴かれた。その結果、脚気は治癒した。天皇は高木を4度も陪食に招かれた。鴎外は1度もなし。鴎外が「勲章なぞ貰うな」と遺言して死んだのは腹癒せではないかと私は思ってしまう。            

もともと英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、代わりに日持ちのよい香辛料のカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューはともかくパンでは力がでない、と白米にかけた。

カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けしてかけたところ好評を得て海軍カレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている。肉と小麦粉でビタミンB1が補給されて脚気も治った

日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用、海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。

肉は主に牛肉、太平洋戦争時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。その後、復員した兵士がこれを広めたため、カレーライスは全国に広がった。

戦後の復興期、カレーの普及に着目した食品メーカーなどが、海軍カレーに準拠するカレー粉を製造・販売したため、日本のカレーの由来は海軍カレーであるということができる。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日にすべての部署でカレーライスを食べる習慣となっている。これは単調な海上勤務で、曜日の感覚を取り戻すためというほか、余っても基地から外出せず週末に居残った者が手軽に食べられるという現実的な理由もあったらしい。

海上自衛隊で食べられているものは「海上自衛隊カレー」と呼ばれる。現在は、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なっている。従って今日の海上自衛隊のカレーには単一の味・レシピは存在しない。「×××スーパーカレー」というような呼び方をする。×××には艦艇番号などが入る。

なお、カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらにタンパク質補強に卵、ビタミンC補強に果物、を加えるなど、栄養学的に献立に工夫を加えることは、海上自衛隊での通例となっている。

護衛艦は優れた冷凍貯蔵設備(戦時には遺体安置室となる噂もある)を有し、食材はほぼ一般家庭と同程度の鮮度が保障されている。海上自衛隊カレーは、味、コク、香り、ボリュームの4拍子すべてが高レベルであり、一般の洋食屋にあるカレーの味では追従を許さない。

海上自衛隊カレーには各部隊、各艦艇で独特の隠し味がありたとえば赤ワイン、ミロ、ゆであずき、インスタントコーヒー、コカコーラ、ブルーベリージャムなどさまざまである。

実際海上自衛隊カレーの味に惹かれて海上自衛隊に入隊するものもあり、その中には自らの職種を給養として、海軍カレーの伝統継承に人生を投じるものまでいるのである。

給養員は勤務において実務経験を得ることができ、調理師、栄養士などの資格取得も可能である。海上自衛隊の給養員として勤務し、その後独立して店を構えたものもいる。


神奈川県横須賀市は、「よこすか海軍カレー」というキャッチフレーズを用いて海軍カレーの振興につとめている。これは、日本海軍横須賀鎮守府が海軍カレーを採用していたことから、カレーライスは横須賀から全国に広がったととらえたためである。

横須賀市のウェブサイトに「カレーの街よこすか」というホームページを設け、地元の商工会議所や飲食店などで「海軍割烹術参考書」などを基に海軍カレーのオリジナルレシピを再現するなど、町おこしを行なっている。

ところで脚気である。ビタミン B1の欠乏によって起こる栄養障害性の病気。ビタミン B1は酵母,穀類の胚芽,もやし,豆類に多量に含まれているので,日本人の標準的な食事をとっているかぎり,B1欠乏になることは少ない。

しかし,精米して胚芽をとり除いた白米にはB1はほとんど含まれていないので,白米ばかり食べていると B1欠乏となる可能性がある。江戸時代の中ごろから白米食の習慣が普及したため,脚気の病因がつきとめられ,その対策がとられるようになる大正時代ころまでは,脚気は日本全国において多発し,毎年2万人以上が脚気のために死亡したという。

昭和になってからは脚気とビタミン B1との関係についての知識が一般にも普及し,胚芽米,七分づき米,強化米(B1添加米)などが奨励されて脚気は激減し,それによる死亡例などはほとんどみられなくなった。

ところが1973年以降,高校生(男子に多い)を中心に脚気と思われる症例の多発が気づかれ,学会に報告されて問題となっている。

2014年12月26日

◆ジョン・レノンのご馳走

渡部 亮次郎


ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者で、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパート5階の自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋で三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプール(英国)は強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後の1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山一郎内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に旅費付で了承を取り付けてしまったのだ。

確かに私は国内政治の記者だったから海外特派員の経験といえばアメリカ時代の沖縄に1ヶ月ぐらい駐在しただけ。北京と上海は国交回復の田中訪中に同行のみ。当然アメリカは知らなかった。

ロス・アンジェルスを経てニューヨーク入り。当に摩天楼の都会。ナベちゃん、NYでビルの階数を数えるな、首が折れるというよとからかわれながら、セントラルパークの北隅に接しているダコタアパート5階へ。全フロアを所有していた。

暫くしてヨーコ夫人に促されて階下の玄関へ。3年後に射殺される現場とは当然思いもよらず、べら棒に長い車に乗った。リムジン初体験のおのぼりさん。イタリア街でワインを沢山頂いたが料理は記憶に無い。記念写真が残っている。

外へ出たら黒山の人だかり。なるほど大変な人気。噂は瞬時に駆け巡りこれだけのファンを寄せ付けるとは凄いものだ。

ヨーコさんを先に帰して「ちょっと面白い物を見てくれないか」という。坂の途中の工場に立ち寄った。印刷工場を買収していた。ヨーコの顔を印刷したスカーフを造る、たったそれだけをヨーコに秘密裏に造るため。印刷工の男女数人も雇っていた。写真を撮った。

ヨーコさんの誕生日は2月18日。印刷所を買収して造ったなんて一言も言わない、この世でたった1枚しか存在しない絹のスカーフ。どんなに喜んだ事だろう。

この記事を書くために加瀬氏に電話したところ、あの時は三角屋根は流行中だった。味が良くなると、ジョンはマリファナと煙草と牛肉をあの下に置いていたという。

殺される前に来日した時、「ピラミッド・パワーより天皇パワーが凄いよ」といったら皇居遥拝に行き、さらに伊勢神宮にも参拝した。牛肉好きだったから東京日本橋・人形町のステーキ屋に案内したら神戸牛をお代わりしたそうだ。

加瀬氏によればジョン・レノンは「NYハドソン川の上空でUFOを見た」と言い、その存在を主張してやまなかったそうだ。

「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた名前で、造語である。昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、かぶとむしの複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いついた。

クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。

ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ、でも字を見るとビートミュージックというわけさ」
                  引用:「ウィキペディア」


  

2014年12月24日

◆遺体を曝す毛沢東

渡部 亮次郎



モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けでは無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されている。

私が毛の遺体に初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。

そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。

帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現した?(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。

毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php

その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。

観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。

さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。

田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。

それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる四人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。

それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もない?(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。

1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ小平による改革開放路線の展開となる。

それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。

だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来と?小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。


2014年12月23日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎


中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いにおいしかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。トウ小平の現代化には5つ目があったのか。