2014年11月22日

◆オムライスは大阪? 東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2014年11月17日

◆か゜き゜く゜け゜こ゜

渡部 亮次郎


生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなった
ころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出されたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。
参照:「ウィキペディア」

2014年11月13日

◆「ヴェルサイユ便り」B

寺田 輝介

(安保政策研究会常務理事・元メキシコ駐在大使  元韓国駐在大使)


−混迷するフランスの内政―

久方振りにフランスに来て驚かされたことは、会うフランス人が異口同音にオランド大統領の悪口を言うことであった。大統領の不人気の最大の理由はフランス経済の不振である。

具体的数字を見てみよう。2014年に入って、第1、第2四半期とも経済成長率はゼロ、失業率は10%を超え、失業者は12万人の増、民間投資はマイナス0.8%。まさに経済は八方塞がりである。フランス人に言わせると、大統領は口先ばかりで信用できない。

就任以来2年も経ったのに、具体的成果を何も出していないと言うことに尽きるようである。

今年の夏は冷夏であったが、政治的には予想外の「熱い夏」であった。

本年4月オランド大統領は、不人気を挽回すべく、前内閣で内務大臣として国民的人気があったマヌエル・バルスを首相に任命した。バルス首相は4月の施政方針演説で、法人税の減税に加え、来年以降3年間で500億ユーロ(約7兆円)の歳出削減を公約し、経済再建の方途を国民に示した。


しかし経済再建策をめぐって与党社会党の中でかねてより路線の対立があった。
然るにモントブール経済・生産力再建相は、8月24日の「ル・モンド」紙とのインタヴユーの中で、バルスの再建策はドイツ、EU委の意向を受けた財政緊縮策であるとして見直しを求め、公然と叛旗を翻した。

モントブールは社会党左派に属するが、彼の見方によればユーロ・ゾーンの財政赤字削減を柱とする「耐乏政策」では経済成長を確保できぬ、政策変更をしないと、有権者は右翼政党「国民戦線」に走ると言う。

モントブール発言はバカンス中の政界に強烈な衝撃を与えた。バルスの受けた衝撃が如何に大きなものであったかは、翌25日に大統領に内閣総辞職を申し出たことからも明らかである。

しかしホランド大統領はバルスに新たな組閣を命じ、財政再建路線を堅持する方針を示した。組閣は急ピッチで進み、第ニ次バルス内閣は早くも26日には誕生した。新内閣はオランド・バルス路線の支持者のみで固められた。

第二次バルス内閣の前途は多難である。社会党内の強力な左派がモントブールを先頭に、オランド・バルス路線に強く反対していることから、下院で総議席のうち過半数を1議席上回る290議席しか有しない社会党にとり、議会運営は一段と厳しくなる。

国民のバルス政権を見る目も次第に厳しくなりつつある。第一次内閣発足時41%あった世論の支持率も、9月上旬には31%にまで下った。オランド大統領の不人気は目を覆いたくなる程である。


2012年5月の大統領当選時58%を得た支持率が、本年9月上旬には13%にまで低落した。経済の不調に加え、大統領の前パートナーの女性の書いた私生活暴露本が支持率激落に追い打ちをかけたことは間違いない。

フランスの大統領制度の下では、大統領は任期を全うするまで職に留まることが出来る。しかし第二次バルス内閣が短期間で経済面での成果を出せない場合、オランド大統領の執れるオプションは限られている。

議会解散か内閣改造である。政局の混迷は必至である。フランスはこれから「厳寒の冬」を迎えることになる。

――9月に入るとヴェルサイユ市の表情もすっかり変ってきた。バカンス中の閑静な街が、子供達であふれ、活気を取り戻してきた。そろそろヴェルサイユ市に暇を告げる時が来たようである。――ヴェルサイユにて。<終>
(2014・9・8記。)



         
       −

2014年11月10日

◆資本主義をリセットしよう

平井 修一



「ノーベル経済学賞は仏ティロール教授に」(日経10/13)から。

<【ロンドン=小滝麻理子】スウェーデンの王立科学アカデミーは13日、2014年のノーベル経済学賞を仏トゥールーズ第1大学のジャン・ティロール教授(61)に授与すると発表した。同アカデミーは「市場の力や規制についての分析」を授賞理由と発表。同氏の産業組織論や規制理論での研究を高く評価した。同氏は1953年フランス生まれ>

どんな研究なのか、あまり情報がないので調べたら、ブルームバーグ・ニュース10/13にコラムニストのマーク・ギルバート氏が「ボーナスは悪になり得るとティロール教授」の見出しで以下を寄稿している。

<ジャン・ティロール教授は、授賞理由となった「市場と規制」だけでなく、「経営幹部の報酬とボーナスのカルチャー」に関する分析も過去に発表している。業績連動型の報酬は短期主義に陥りやすく、言い換えれば、バンカーの賞与は悪になり得るというのがティロール氏の結論だ。

「ボーナスカルチャー:競争的な報酬、スクリーニングとマルチタスキング」と題するプリンストン大学教授との共同論文(12年4月公表、13年3月改訂)は、奨励金が勤労者の仕事への取り組み方をゆがめ、望ましくない結果をもたらす危険があると分析している。

「最も有能な人材の獲得競争の結果、成果主義に基づく報酬や他の強力なインセンティブへの依存がエスカレートし、長期的投資やリスク管理、社内協力といった容易に達成できない仕事を避ける傾向が助長される。最も利益を生む人材の獲得競争とインセンティブ報酬の体系が相互作用し、職場の倫理観が損なわれる恐れがある」という>

小生は資本主義市場経済をあまり好きではないが、これに代わるシステムがないから支持してはいる。自由放任すると米国のようにトップとボトムの所得格差がどうしようもないほどに広がってしまうから、ある程度の規制とかルールは必要だと常々思っていた。ティロール教授はそれを学術的に説いたのだろう。

戦前の日本では、部長は平社員の10倍、社長は100倍の給料だった。平が月給30万円なら、部長は300万円、社長は3000万円。接待交際費なんていう概念はなかったから、ポケットマネーで部長は部下におごり、社長はさらに運転手、女中を雇い、書生やらお妾さんの面倒も見た。山本夏彦翁がそう書いていた。

米国では大企業のトップは平の1万倍の30億円とかの月収をとる人も珍しくないのではないか。セレブはノブレス・オブリージュで慈善事業に拠出をするそうだが、それでも1万倍というのはインモラルだ。公序良俗を毀損する。ティロール教授は、そうした資本主義の“行き過ぎ”とか“暴走”に警鐘を鳴らしているのかもしれない。

カミサンによると精神病に治療において重要な役割を担っているのは臨床心理士なのだそうだ。

「普通の病気は血圧とか心電図とか血糖値とかMRIとかのいろいろなデータをもとに病名を判断する。ところが精神病はね、データが何もないの。そこで臨床心理士が患者に問診したり、家族などから話を聞いて、この患者は統合失調症、あの患者は発達障害などと判断するのよ。

そうなれば医師や看護師が病名に従って適切な治療をしていくわけ。あいつら物凄い記憶力で、患者の名前と何を言ったかを全部記憶している。記憶術を身に付けているのよ」

臨床心理士をカミサンが「あいつら」と呼ぶのは、同僚だし、さらに月1回ほどカミサンが講師を務める患者向けの勉強会(データがない世界だから暗中模索、患者とともに病院も学ぶ場)にお目付けのように同席するから、不気味であり、かつプレッシャーになっているからだ。抜群の記憶力のある臨床心理士が苦手なのだ。

経済分析には各種データがあるけれど、市場に吹く風とかマインドに左右される部分は結構大きいのではないか。いわゆる「街角景気」とかの庶民感覚(特にタクシー運転手)が正確に「今」と「これから」を語っていることがある。

経済学者はマクロ、臨床心理士のような経済評論家、エコノミストはミクロの分析、判断という大雑把な区分はあるかもしれないが、大筋、戦略に影響するのは病名を決めるマクロ経済論だ。ところが有効な理論を打ち出した経済学者はどうも少ないようで、欧州は経済不振から脱却できずにいる。

代々のノーベル経済学賞受賞者やエコノミストを集めて「資本主義をリセットしよう 今、世界は何をなすべきか」の提言なり理論構築ができればいいのだが。(2014/10/15)

2014年11月09日

◆「ラジオ歌謡」の頃

渡部 亮次郎



最近、メルマガを通じて知り合った前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラジオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラジオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりもに登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響を与え、大阪の朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽化学工業(現・クレハ)の協賛で民放版のそれともいえる“クレハ・ホームソング”を企画・制作した。

ここからも「踊り子」(三浦洸一)、「白いボール」(王貞治・本間千代
子)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。仲宗根美樹の「川は流れる」もそうだ(昭和36年)。

1960年代になると、テレビ時代になり、ラジオの名物番組が次々に姿を消すようになり、『ラジオ歌謡』も、1962年に終了し、テレビでも放送される『みんなのうた』に引き継がれた。

昭和28年(?)に岡本敦郎の唄った「チャペルの鐘」は大好きで受験勉強を放り投げてNHKのど自慢に出場したものだ。寺尾智沙作詞、田村しげる作曲(2人は夫婦)。

曲名一覧。「テープ」も「CD」も「MD」も無い時代の事だったから正確な記録はNHKにも無い日本ラジオ歌謡研究会というファン・クラブが出来ていて、「歴史」を記録する事に努めている。

これまで研究会員が収集したり、全国のラジオ歌謡ファンから寄せられ、日本ラジオ歌謡研究会で現在所有している一覧表がある。全曲は845曲だそうだが、録音と楽譜のそろったものは300曲足らずという。

2000年にコロムビアが「20世紀の軌跡 ラジオの時代」としてCD5枚組をモノーラルで発売したが「国民歌謡」を含めてもたった109曲しか入っていない。研究会では、未収集の曲のピアノ譜及び音源を求めているそうだ。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年11月07日

◆哀れ 唐人お吉 鎖国の犠牲者

渡部 亮次郎



若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別し、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。

唐人お吉哀れ 鎖国により世界情勢に無知になった時代の犠牲者と言わずしてなんというべきだろうか。

2014年11月04日

◆演歌はヨナ抜き音階

渡部 亮次郎



フランスで教育を受け、102歳まで生きた高木 東六(たかぎ とうろく)という作曲家は終始、演歌や童謡を「ヨナ抜き音階」だと非難して死んだ。

勿論、私は作曲のことはからきし知らないが、「ウィキペディア」によればヨナ抜き音階(ヨナぬきおんかい)は近代以降の日本固有の音階(五音音階)だそうである。

ヨナ抜き音階とニロ抜き音階には以下のものがある。

音階名     音階       備考
ヨナ抜き長音階 C, D, E, G, A, C 呂音階と同じ

ヨナ抜き短音階 A, B, C, E, F, A 陰音階の主音をAに変更

ニロ抜き短音階 D, F, G, A, C, D 陽音階と同じ

ニロ抜き長音階 C, E, F, G, B, C 琉球音階と同じ

「四七抜き音階」とも表記し、ヨナ抜き長音階を西洋音楽の長音階に当てはめたときに主音(ド)から4つ目のファと、7つ目のシがない音階(ドレミソラ)のことである。

雅楽の呂旋法がこれに当たり、西洋音楽関係者が日本音階の特徴として名付けた物である。なお、ピアノなどにおける黒鍵部分の5音にも相当する。

明治以前から伝わる日本の童歌や民謡のうち、陽旋法の物はすべてヨナ抜き長音階と同じ音程を使う音階である。

東北の童歌「どんじょこ・ふなっこ」(教科書に載っている「どじょっこ・ふなっこ」ではない)や、木曾節、稗搗き節、田原坂などが該当する。

なお、民謡と古い童歌は、西洋音楽の影響がないのでドで終止するという考え方はなく、ラ(陽音階)かレ(律音階)で終わる曲が多い。

現在叙情歌として親しまれている唱歌や童謡などが作曲され始めるのは明治の中頃からである。但し、ファやシが入っている洋音階のものもある。

例えば「村祭り」や「ふるさと」などは、ヨナ抜きではない。文部省唱歌は、西洋音楽の理論で作られたため、長調の曲はすべてドで終わっている。

スコットランド民謡で使われる五音音階はヨナ抜き音階と同じ音階の曲が多い。“Long long ago”のようなヨナ抜き音階でない曲も例外的にはある。

明治以降に作られた日本の唱歌には、外国の曲に詞をつけた物がかなりある。そのうち、「螢の光」や「故郷の空」は、スコットランドの民謡のヨナ抜き長音階(と同じもの)である。また、ラテンアメリカのフォルクローレでも同様の音階が一般的であるほか、世界各地に同様の音階が見られる。

演歌は現在でもヨナ抜き音階が主流である。「北国の春」、「夢追い酒」や、21世紀になってから登場した氷川きよしの「箱根八里の半次郎」、「星空の秋子」まで、ヨナ抜き長音階のものも多い。

また、「リンゴ追分」、「りんとう峠」、「達者でナ」、「津軽平野」などの民謡調演歌には、ニロ抜き短音階のものがある。これらはコード進行で、VIm(ラドミ)や IIm(レファラ)などマイナーコードを多く使ってあるが、短調ではほとんど使われないソが多く使われている。

アイドル歌謡、フォーク、ニューミュージック、J-POPのなかにも曲の一部、あるいは全体がヨナ抜き長音階でできているもの少なくない。「上を向いて歩こう」(坂本九)、「夏祭り」(JITTERIN'JINN) 「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)、「昴」(谷村新司)等が該当する。

しかしヨナ抜き短音階やニロ抜き短音階でできた楽曲で目立った作品はない。なお「島唄」(THE BOOM)は珍しくニロ抜き長音階(ベース)による楽曲である。

高木は演歌や歌謡曲に関しては、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった(しかし、演歌歌手の島津亜矢が少女時代にデビューした際に、藤山一郎とともに絶賛したという逸話も伝えられている)。

現在の鳥取県米子市に正教会の神父(司祭)の子として生まれる(本籍地は岡山市)。幼い頃より音楽教育を受ける。1924年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)ピアノ科に入学。

しかし1928年に学内の事情で中退を余儀なくされフランスに留学し、パリ音楽院教授アルマン・フェルテにピアノを師事した後、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに作曲を学び、またガブリエル・ピエルネからも多くの教示を受けた。

1932(昭和7)年に卒業して帰国。フランス滞在中に知り合った山田耕筰の勧めで作曲家に転向した。

2006年8月25日、肺炎のため埼玉県内の病院で死去、102歳没。高木は日本ハリストス正教会に所属する正教徒であったため、埋葬式は8月28日に、ニコライ堂で行われた。聖名はアファナシイ。これはギリシャ語語源で「不死の者」を意味する。

高木が作曲した曲 のうち歌謡曲・歌曲には以下のものがある。

「空の神兵」(作詞:梅木三郎、歌:鳴海信輔・四家文子、灰田勝彦・大谷冽子)

「水色のワルツ」(作詞:藤浦洸、歌:二葉あき子)(ピアノ用変奏曲もある)

「あまんじゃくの歌」(作詞:深尾須磨子、歌:美空ひばり)

「浅き春に寄せて」(詩: 立原道造)

「夢見たものは」(詩: 立原道造)

「テラス」(詩: 高木東六)


2014年11月02日

◆干拓された八郎潟 その経緯

渡部 亮次郎



秋田県南秋田郡大潟(おおがた)村は、昭和32(1957)年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きい”八郎潟”(はちろうがた)という湖だった。

八郎潟は、男鹿市船越(ふなこし)で日本海とつながっていて、淡水と海水がまる汽水湖だった。そのため、淡水と海の両方の魚がとれた。八郎潟のまわりの町や村の人々は、美しい”潟”の景色を眺めながら、漁業や農業で暮らしていた。

ワカサギ・シラウオ・フナ・ハゼ・ボラなど、淡水の魚と海の魚をあわせて約60種類もの魚がたくさんいた。潟のまわりには、約3000人もの漁民が生活しており、春から秋には船で網を引き、冬には氷を割って網をかけ、いろいろな道具を使いながら、たくさんの魚をとっていた。

また、工場で佃煮を作る人もたくさんいた。このように、八郎潟は、まわりの町や村の人々に多くの恵みを与えていた。しかし、雨が多い時などは、岸の近くの人々に水害をもたらすこともあった。

干拓は海産物に恵まれなかった秋田では、八郎潟の水産資源はかけがえのないものだった。また、秋田では昭和23(1948)年頃になると米の自給体制が終わっていていた。

しかし、日本全体としては食糧難という事情があった。

干拓への計画

八郎潟周辺では、昔から、いろいろな人が干拓をして土地をつくることを考えていた。江戸時代には、払戸(ふっと)村(若美町)の渡部斧松(わたなべ おのまつ)という人が、岸の浅い場所を干拓して田を造った。

明治時代には、島義勇県令(県知事)がはじめて大がかりな干拓計画を立てたが、実行できなかった。大正、昭和にはいると、こんどは国の力で干拓しようと、何度も計画を立てたが、戦争が始まり、実行できなかった。

昭和20年、長く続いた戦争が終わり、日本全国が大変な食糧不足になった。そこで、今度こそ八郎潟を干拓して広い土地をつくり、米を作ることになった。

しかし、漁業をやっている人々は、魚が捕れなくなるので反対した。そこで、漁業をやっている人々には、お金で償なったり、干拓した土地を与えたりすることで賛成してもらった。私の父の「干拓運動」もやっと実を結んで終わった。

私の祖父は日露戦争に狩り出されたが、その留守の間に、家督を継いでいた兄が氷上漁業中、氷が融けて流され水死していた。祖父が家督を継いだ。その長男が私の父だが、若いころから八郎潟干拓論を唱えて奔走。「ワタケイ バカケイ」といわれたものらしい。

干拓がはじまる

昭和27(1952)年7月、秋田県庁に八郎潟干拓調査事務所が発足し、干拓の計画づくりが始まった。

調査計画には、国の土地の約2分の1が干拓地というオランダから応援してもらうことになった。昭和29年に、オランダのデルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が計画について報告した。この年の春、私は大学入学のため秋田を後にした。

昭和29年の世界銀行、翌30年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められた。昭和31年に農林省でオランダの協力を得て、今の大潟村を作るための計画ができあがった。

昭和32(1957)年、いよいよ干拓工事が始まった。最初は八郎潟の内側に堤防をつくり、南部と北部の排水機場も作った。堤防に使う石をとるために、湖岸の八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。

昭和38年に堤防や排水機場などができてから、堤防でかこまれた中の水をかき出した。さらに2年後の昭和40年、すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15,600ヘクタールの陸地になった。この面積は、一辺が100mの正方形の15,600倍もある広さ。

この干拓工事は、当時の最も進んだ科学技術の力で行われ、延べ約300万人もの人々が働き、20年におよぶ歳月と852億円の巨費を投じ、20世紀の大事業と言われるほどの大きな工事だった。

ヤンセン教授 (1902-1982)

日本滞在中は、八郎潟だけでなく全国の干拓地を見てまわった。

干拓をするためには、台風や洪水などの自然災害に遭わないよう、工期を短くすること、そのために徹底した調査と設計の必要性を説いた。

フォルカー技師 (1917-2000)

干拓地に村をつくる。

干拓でできた新生の大地に、いよいよ村をつくることになった。村の名前は、全国から募集して、「大潟村」と決定。この名前は、八郎潟のことを昔「大潟」とよんでいたことから。

村の誕生日は、昭和39(1964)年10月1日。そのころ、無数の貝殻でおおわれた大地があらわれはじめた。干拓で陸地になったと言っても、村には何もなかった。大潟村に住む人々が安心して暮らせるように、その後、道路や田んぼ、用水路や排水路、それに家やいろいろな建物が少しずつつくられた。


村民の入植

大潟村は、広い農地で大型機械を使った新しい農業のモデルをめざし、たくさんの食糧を生産するためにつくられた村。入植する村民は、全国から募集した。入植した人々は、試験を受けて合格し、1年間、入植指導訓練所で新しい農業の勉強をした。

それから家族といっしょに大潟村に住むことになった。このようにして、北は北海道から南は沖縄まで、全国38の都道県から589戸の農家の人々が入植した。また、農家だけでなく、他の職業の人々も住むようになッたのは当然。

新しい農業 

全国から入植した人々は、希望にもえて新しい農業に取り組んだ。しかし、もともと湖の底だった土地は、ヘドロというたいへん柔らかい粘土でできた土。そのため、大きなトラクターやコンバインが土に埋って動かなくなったり、ヘリコプターで田んぼに直接種籾をまいても失敗したりして、たいへん苦労した。

そこで村の人々は、力を合わせて一生懸命頑張った。そのかいがあって、今では、たくさんの米もとれるようになったし、麦や豆、カボチャなども作られるようになった。また、たいへんおいしいと評判のアムスメロンやリンゴも作られるようになった。


2014年10月30日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、4度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなか
った

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

                       

2014年10月28日

◆青春時代へタイムスリップ(その一)

眞鍋 峰松


以前、一度記述(平成22年7月25日の“我が畏友の死”)したのだが、毎年一回高校同期の仲間の集まりがある。 

同期生全体では8クラス400人だが、その中で色々な経過を経て、日常的に連絡を取り合う仲間が13人(当初は14人で物故者1人)。 この13人の仲間達も、15〜16才の紅顔(厚顔)の美少年時代(?)から55年以上も経ち、今や全員前期高齢者。 

卒業した大学や専門分野が違い、社会人としてのその後の身の振り方も様々だが、今ではその殆どが現役を引退。 今では、僅かに現役に医者が二人、大学教員一人として残るのみ。 

そして、高校卒業後現在に至る迄、年一回の総会と大阪と東京それぞれの地区に分れ、勉強会と称し、かっての青春時代を懐かしみながら、親睦を深めてきた。

今年の総会が、先週、東京の上野近辺の森鴎外ゆかりの宿“水月ホテル鴎外荘”で開かれた。

 何しろ名目だけでも勉強会と称しているので、集合場所も両国の江戸東京博物館前。 幹事の計画した最初の催しが同博物館の見学。初めて入館した施設だったが、さすが財政裕福な東京都の建設。 

入館者の多くが全国からの小・中学校の修学旅行生と大勢の外国人観光客であった上、その展示内容と手法の豊富さに驚くと同時に、生粋の大阪人の私としては、大阪の同種施設に比べ、“やはり負けるな〜”と残念無念の感を抱かざるを得なかった。

その後、夕刻前にホテルへ到着し晩食の前後を挟み、直ちに部屋で勉強会。

その内容も多岐に渡り、データ―からみる東京の現状についての説明、家庭裁判所調停員約10年及び参与員2年の経歴を持つ会員から見た相続紛争に絡む経験談、約10年の俳句歴を有する仲間から地元新聞での入選7句の解説、今年10月初旬開催の54年振りに再現した疑似高校修学旅行の報告。

最後に、現在でもボランティアとして活躍中の音楽専攻の仲間からの「受け継がれてきた日本音楽の仕組み」と題する講演など。

この真面目な勉強会?で一番盛り上がった話題の一つが、遺言の仕方・遺言状の作成。 

このテーマも取り上げられたのは今回でニ回目。さすがに年齢相応というべきか、全員が相続問題を心配する程の財産持ちなのかと、然したる資産を持たぬ我が身を振り返ってみながら、その深刻さを考えさせられたテーマ。 

また、彼が調停員として体験した相続紛争案件の中で一番深刻なケースとして取り上げたのは、長男と結婚し子供に恵まれず、夫の両親の介護に懸命に当っていた女性が夫に先立たれた場合。 

夫の両親と嫁との関係は法律的には赤の他人なので、女性が幾ら懸命に介護し面倒をみていても相続人にはなり得ず、夫の兄弟が法律上の相続人になるという悲劇が起こる。

この場合、この女性を救済するためには、夫の両親が遺言状を残し女性に財産分与することが絶対に必要不可欠とのこと。 

また、もう一つの方策は、女性が夫の両親と養子縁組をする方法だが、これもなかなか現実味が薄い。 

しかも、その場合においても、夫の兄弟には遺留分があるため、女性は最大でも相続財産のニ分の一しか相続することができず、夫の両親と共に住んでいた家屋を処分し換金するしか無いことになった、とのこと。

54年振りの疑似高校修学旅行(北九州方面)に関しては、在学当時には生徒400人の比率が男2:女1であったのに、参加人数70人弱の男女比率が逆転し、1:2の参加であったとのこと。 その現象の発生は果たして偶然なのか。
 
現在の世の中、女性の方がなべて体力的に壮健で活動が活発化し、何事につけ積極的になっている証拠なのか、或いは参加費用の点からみて、女性の方がやはり家計の財布の紐を握っている加減なのか、その理由はもう一つ判然としない。(続く)

2014年10月26日

◆お邪魔虫共産党 汚職は永遠

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。私は中学生だった。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。

       

2014年10月23日

◆慰安婦批判に潜む韓国の「意図」

ジェームス・E・アワー



中国が日本を批判するのは、ある意味で当然といえる。中国政府は、自国民の民主的権利を否定する一方で、中華人民共和国の歴史全体よりも長期にわたり民主国家として成功している日本におびえているとみられる、中国共産党の専制支配下にあるからだ。

しかし韓国は、日本に続き民主国家として成長し、その経済・教育制度は日本統治時代を手本にして発展してきたのに、なぜ1990年代に入って日本を非難するようになったのだろう。それも、日本が今後、韓国の自由や独立への脅威となるからという理由でなく、優に半世紀以上も前の行為に対し、日本が行ったはずの謝罪と償いが不十分だとの理由でだ。

 ≪慰安所は処罰対象とならず≫

日本は30年代から45年まで中国の日本軍に慰安所が提供されたことや、そこで働いていた女性のなかに朝鮮人がいたことを否定していない。日本は、政府として慰安所を管理した記録は存在しないと度々述べているものの、日本の首脳級の人たちはこれまであらゆる機会に、いかなる形の強制にせよ、行われたと想定される場合には謝罪し、朝鮮の女性が経験した虐待や苦痛に関して、謝ってきた。

人体実験(731部隊)を含む医学的研究を計画し、それに関与した日本の当局者たちは、米国が研究資料を欲したために、連合国軍の占領期間中に告発や起訴されることはなかった。

これに対し、慰安所の制度が処罰の対象とならなかったのは、朝鮮や日本の女性の多くは、自ら進んで慰安婦になるか、困窮する親に売られたのであって、拉致されたり、本人の意思に反して強制されたりしたのではないことが、彼女らへの聞き取り調査で結論づけられたからだ。

多くの日本人は今日に至るまで、慰安婦は比較的高給をもらい、総じて待遇も良く、中には日本兵と結婚する者もいたと信じている。他方、多くの韓国人は現在、慰安婦への強制行為や虐待が横行していたと信じ込んでいる。

 ≪日本の隠蔽工作とみる韓国≫

ここで、確認しておくべきとみられる幾つかの事実を挙げたい。

 (1)昔も今も売春婦の中には、奴隷とまでいえずとも不本意な労働をさせられている人はいる。が、売春は肉体的束縛という意味では必ずしも「奴隷」ではない。

(2)30年代の日本の慰安婦制度は、日本政府の目には違法ではなかったし、日本政府の民間人や軍当局者を起訴し、戦犯として処刑またはそれより軽い刑で処罰した占領当局の誰もが、それを起訴に値する問題だとは考えなかった。

 (3)韓国政府が70年代、自国経済を救済する目的で韓国駐留米兵のために売春制度を組織したことは、戦後生まれの韓国人の多くが知っているが、彼らは日本が30年代に朝鮮人女性を違法に誘拐、抑圧、虐待したりはしなかった、とは考える気がないようだ。

 (4)日本が強制行為への当局の関与をいくら否定しようとしても、韓国人の多くや日本人ではない一部の人々には、日本政府の隠蔽(いんぺい)工作と受け取られる。

 (5)朝日新聞が今年8月、同紙が長年報じてきた、済州島の朝鮮人女性が日本に強制連行されたとする一連の衝撃的な記事は誤報だったと認めた。韓国などにいる日本を批判する人々は、これに関し、これらの記事が原因で韓国人が日本に怒りを向けるようになったのではないとしつつ、朝日新聞が日本の強制行為を繰り返し強調したことで、その信憑(しんぴょう)性が一層増したことは否定し難い、としている。

≪法の順守を批判される日本≫

今日、日本や韓国、その他多くの国々で売春は違法とされる。だが、「世界最古の職業」としばしば呼ばれる売春は、ほとんどの場合は無理強いというよりも、人間の性(さが)により、いまだに存在する。

また、日本人は過度に順法主義だと類型化されるのに対し、日本を批判する人々は、日本は民主的な意思決定と法の支配の面で弱点を抱えると主張する。30〜40年代の慰安婦問題、70〜80年代の「不公正」な取引慣行、そして現在の捕鯨やイルカ漁は、日本の特質を表す証拠に挙げられる。

公平を期すれば、国内法や国際法を順守しようとする日本の努力は、こうした法律を称揚しつつも日本ほど熱心に順守するわけではない諸外国から、何の法的根拠もなく批判されることがあるという事実は認識されるべきだ。

戦時中にどのような強制行為や虐待があったとしても、それに対して日本が謝罪するときに誠実さを表す最大の根拠となるのは、敗戦後六十数年間にわたる日本の良き振る舞いだ。

98年、金大中(キム・デジュン)大統領は小渕恵三首相と発表した共同宣言で日本の謝罪を受け入れた。

だが、金氏の後任の大統領たちは、いかなる理由からか、小渕氏と金氏の合意をほごにする代わりに、45年以降の日本の行いを無視し、物議の的となっている歴史を強調することに決めた。

国内政治が動機となっていると推察するのは難しくないが、日本の成功への嫉妬と、日本が順法国家であろうとする努力に対し、故意に知らないふりをしているか、本当に無知だという事情もあるのだろう。
                 ヴァンダービルト大学名誉教授 

                産経ニュース【正論】2014.10.22
 

2014年10月19日

◆偉い人の女性スキャンダル

渡部 亮次郎


マスコミだけでなく、短期間ながら外交の世界にも身をおいた若い頃があったので、おおっぴらにはできない、偉い人のスキャンダルを多く耳にした。

戦前の外交官で、ほれた彼女を外交行嚢のトランクに詰めて持ち出そうとして、空港でばれて、大騒ぎになった人がいた。戦後、なんと東南アジア某国の大使になった、と言う。

余談ながら赴任する大使は必ず料理人を伴って行くが、資格申請をする時、料理人をサーヴァント(従者)としていた時期がある。現在は知らない。

ところで特に秘密警察が辣腕を振るったソビエト時代のロシアは日本人もターゲットにされた。目的は様々。KGB手回しの女に新聞記者を誘惑させ、同衾中を撮影。家族や関係者に見せたくなければ当方の言うことをきけ。

本国帰国後、スパイになれと言って脅かされたケース。女との写真があるといわれたら、焼き増しして、皆に配ってくれと言えばよいそうだ。しかしそれは余程、度胸のある例で、大抵の人は震え上がる。ただ、男が男との写真は命取りだという話がある。欧米の人間は男と寝ている写真でゆすられて落ちたと聞く。

M内閣の顧問格だった元外交官。内閣は知らずに彼を内閣の特使として、アメリカに出そうとしたら、アメリカ側に馬鹿にされた。何かの機会にポーランド女性とセックスしているところをKGBに撮影されて脅かされていることをCIAは知っていたのだ。

日本の外務省は知らなかったが、以後はお役ご免にした。この人の甥が私の友人で、NHKで取材部局の部長を勤めて先に逝去したが、伯父さんのスキャンダルは知らなかった。

Z新聞の特派員だったQ氏。モスクワ市内で、すごく細めの女子大生だったと伝えられている。Q氏は帰国後、本社の専務に就任した。例の件は不問とされたのか。いや、知らぬは本社ばかりなりだったのではないか。

Qさんはコワレンコの指揮下にその後もあり続けたと理解している人は多い。「Qさんを専務にまでしたZ新聞は愚劣だと思います」と言うのは某社の元モスクワ特派員。

Qさんの息子は放送局に入り、PDをやっていたが、外国で、車が崖から落ちて、死亡した。

M内閣顧問格氏は元は外務省で枢軸派の白鳥などの子分だったので、Y項(吉田)パージになり、英字新聞に転身させられた。テレビのニュース解説に出演する時は、まえにいつも、水割りを数杯飲んでから出演したそうです。

岩手県の寒村の出身ながら、あれほど、能弁な人は珍しい、と未だに高く評価するひとがいる。毀誉褒貶さまざま、である。