2015年01月14日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎



「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならない。

2015年01月13日

◆「お前の女房は元から俺のもの」

渡部 亮次郎



わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969(昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。

それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

2015年01月12日

◆ジャガイモで命拾い

渡部 亮次郎



16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。


その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネ
ディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。


<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。

2015年01月11日

◆末期ガン患者の「在宅ケア」

毛馬 一三



末期ガン患者の治療などの「緩和ケア」を如何に進めるかが、いま大きな社会問題になっている。行政・医療機関・開業医が、末期ガン患者を在宅でサポートするため、如何にして有機的な連携を取れるかという課題だ。


しかしその連携だが、決して円滑だとは言い難い。医療機関で治療を受けている末期ガン患者が、<自宅で痛みをコントロールし自分らしい人生の最後を過ごしたい>と思ったとしても、現状は医療機関と地域ケアの軸となる開業医との取り組みが希薄な上、肝腎の「在宅ホスピス」専門開業医の不足が障害となっているからだ。


そんな中、大阪北千里で、医療法人永仁会・千里ペインクリニック主催の「在宅ホスピス」の在り方を考える「勉強会」と「家族の会」とを兼ねた初会合が開かれた。出席者はスタッフを含め80人を超える予期以上の参加者に上った。


「千里ペインクリニック」は、「痛みの専門クリニック」の外来部門と、24時間・365日往診部門の「在宅ホスピス」を併設した診療所で、関西で数少ない「在宅ホスピス」を運用する診療所の1つだ。そして注目のこの「在宅ホスピス」部門では、2004年6月の開業以来ガン患者の在宅治療に当っている。

さて注目は、まず「在宅ホスピスとは・・」と題して医療法人永仁会の松永美佳子理事長の講演だった。

それによると、
<@ 在宅ホスピスの意義A家と病院の違いBチーム医療の重要性とサポート体制C延命の利点・欠点D在宅移行時の障害E入院に比べて費用は軽減F家と病院の違いG在宅ホスピスの課題などを軸に、医療現場での感激や悩み、それに病院との連携、経営維持の課題など現場で直面している諸問題についての分かりやすい解説だった。

特に「在宅ホスピスの意義」では、
☆最後まで自分らしい人生が送れる。☆残された時間を有意義に使える。☆家族の絆が強くなる。☆家族が死の受容をしやすい。☆みなが死について考える機会となる有意義性が顕著だと強調された。


また「家と病院の違い」の点では、点滴・各種ドレーン(体内の液を管で排出)の管理・人工呼吸など、(病院で行う手術・副作用の強い化学療法以外)殆ど家で出来ると、在宅ケアの実情を説明。


締め括りの「在宅ホスピスの課題」は、患者のためには、より早い時期からの病院との連携が不可欠であることを指摘することだった。>


会合はつづいて、在宅ホスピスを利用した家族の声を聞く「在宅ホスピスの体験発表」に移り、体験談を披瀝した。


この中で、末期ガンで夫を亡くした2人が、<在宅ケアに当ってくれた医師・看護師さんからの支えで、生前夫と心穏やかにゆっくり話が出来、なすべき事がすべて出来た。「在宅ホスピスの大切さ」を知ったし、この経験を広く伝えたい>と語った。


ところで問題はまだ山積している。医療機関と開業医の連携問題もその一つだ。大阪厚生年金病院では、医師・看護師・ソーシャルワーカーなどによる「緩和ケア対策チーム」が結成された。


大阪厚生年金病院と連携できる開業医のピクアップを、地域性や能力などの点から選定する作業に取り組む一方、ばらばらに実施している院内緩和ケアの現状を一本化する対策が進められている。主要医療機関も動きは大きい。


北千里で始った「緩和ケア現場」のささやかな運動が、他の診療所や医療機関にも波及して、「痛みで苦しむ患者の救済」に発展することを願っている人たちは多い。 (加筆修正:再掲)

2015年01月10日

◆スパイは普通のおっさん

渡部 亮次郎



スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

SPYは、espy(見つける、探し出す)と同じで古期フランス語でespion(見張る者)の意味がある。espionage(諜報活動:現仏語)の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「spek」に由来する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。


この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるからである。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件が大き
い。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必?(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智?(チャ・チチョル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第二次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄 健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日- 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

      

2015年01月09日

◆スパイからの領収書?!

渡部 亮次郎



朴正煕(パク・チョンヒ)氏(朴クネ大統領の父)が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。


スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いていた。

岡田外務大臣(当時)は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力した。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、最終的に国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。大学出のバカ?!

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だった。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。


戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えているようだが、国益優先に考えれば、行為はよほど慎重に運んで然るべきだ。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。
短期で政権崩壊した所以である。

      

2015年01月07日

◆貝原益軒を知らない?

渡部 亮次郎



貝原益軒 かいはらえきけん 1630年11月14日〜1714年10月05日(陰暦 08月27日)。世界最長寿国日本誕生のための学問の元祖とも言うべき大学者なのだ。或いは日本のアリストテレスと称える人もいる。

当時としては驚くべき長寿の83歳の正徳2年(1712年)に自身の実体験に基づいて「養生訓」(ようじょうくん)を遺し2年後、当時としては想像もできない長寿を実践した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく心の養生も説くというところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなんで、彼は養生という点からの三楽として次のものを挙げている。

 (1)道を行い、善を積むことを楽しむ

 (2)病にかかることのないのを快く楽しむ
 
 (3)長寿を全うすることを楽しむ。

また、その長寿を全うするための条件として、彼は、自分の内外の条件を指摘している。まず自らの内にある4つの欲を抑えることとして、次のものを我慢するべきだという。

 (1)あれこれ食べてみたいという食欲(メタボ)

 (2)色欲(SEX)

 (3)むやみに眠りたがる欲(宿酔い?)

 (4)徒らに喋りたがる欲(この輩は案外多い)

これらを押さえた上で、季節の暑さ、寒さ、湿度などの変化に合わせた体調の管理、これらが揃って初めて健康で長寿が生きられるという。結婚を39までせず、岡場所へも行かないと言うのでは私に長寿は無縁だ。

これらすべて彼自身の体験で、これは愛妻家であった彼は妻にもそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたという。

福岡市生まれ 福岡藩士。大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。

1630(寛永7)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後15年間仕えた。食禄百。50石ほどであった。

益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。6歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。

7歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいた。

8歳の冬、父の移動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している。彼が「四書」を始めて読むようになったのは14歳のときである。

11歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、この時に「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は終生特定の師について学ぶことはなかった。

次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第1歩を踏み出した。

一方、父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、17歳の時に「小学」を読んでいる。

1648(慶安元)年、19歳の時に初めて出仕、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり4人扶持を受けるようになった、これ以降48年間、光之・綱正と3人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。

出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(19-27歳)、生涯12回江戸へ。京都へは24回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(7年間)にもなっている。

この間自費で前後3回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。

長崎での医学修行等を経て、1655(明暦元)年26歳の時、父寛斎を世話するために江戸へ、その時、髪を剃り、名を柔斎と改め医者に。長崎での勉強、父の影響もあった。

江戸では藩邸内の藩士に親愛されその力量も認められていた。いわば独学でアリストテレスを目指す益軒は、この頃から医学より儒学に力を入れ、林羅山(1583-1657)又その第三子、当時38歳の林鵞峰(1618-80)らとしばしば交流している。

同年(27歳)福岡に帰り藩主交代(光之)微禄であるが6人扶持で再出仕。

再出仕・京都遊学(28歳−35歳)藩主、黒田光之に仕え、1657年水郷・柳川の立花家、立花勘左衛門重種の組に配置、この後長く交際する。

早々に京都遊学の命、儒者、松永尺五(1592-1657)・山崎闇斎(1618-82)等訪問、尺五死後、その門人木下順庵(1621-98)と交流して
いる。

1年近くその講義を聴き、2人の間には学友的な交情があった。又この間いろいろの人との出会いをしているが、中でも向井元升(1609-77)、宮崎安貞(1623-97)は益軒が本草学に興味を持つようになったことで多大の影響を与えている。1664(寛永4)年、35歳で帰藩、

(36歳−33歳)39歳で結婚、黒田藩の支藩、秋月藩士の江崎広道の娘初(はつ)と。当時17歳、東軒と称した。22歳年下である。

夫人は和歌にすぐれ、筝・胡琴の演奏に巧みで一緒に演奏を楽しんだり、夫婦合作の軸物も伝わっており、年齢は離れていたが仲の良い夫婦であった。

幼君の教育、京都等での他学者との交流等々を盛んにしている。この時期の著書類、京都での最初の著書「易学提要」又、「読書順序」等、40歳、藩主光之から久兵衛の名を賜り、計200石の扶持となる。

再度主君参府の伴って江戸に入り、他学者交友、又既に朱子学尊崇をしていた益軒は「近思録備考」、「朱子文範」を著し、さらに深めている。

帰藩後、福岡城郭に近い荒津東浜(荒戸町)に邸宅が与えられ、ここを終生の安住の地とした。京都遊学、その他各地巡遊・・・処々勉学に励み、又多数の書編纂等々の充実した活動をしている・・・

その後も諸国巡遊(56歳〜70歳)を続け1685年、「西帰吟行」・・等、また継続して多数の著書あり(略)

(71歳〜85歳)諸学の大成と晩年 1700(元禄13)年7月(70歳)益軒は辞職を許された。1701年、著書「近世武家年略」「至要編」「宗像風土記」1702年、「音楽記聞」「扶桑記勝」の修補、「黒田家譜」の最終改訂をした。

1703年、「和歌紀聞」「黒田忠之公譜」・・、1704年(宝永元)「宗像三社縁起並附録」「菜譜」その後も多数の著書(略)

1707(宝永4)年、78歳、久留米の高良山に登り、古蹟を探訪するなど心身ともに旺盛で健康に注意してきた彼は、本草学の造詣が深く自分や、妻を始め肉親・知人のために薬を調合したことが日記のあちこちに見える。

上京する弟子に和漢の薬草の注文を出したりもしており、晩年の「用薬日記」になり、有名な「養生訓」に繋がっていく。

1713(正徳3)年、東軒夫人が62歳で病没、福岡、金龍寺で葬儀、その墓は今もなお、益軒の墓と並んで長い年月、風雪に耐えている。この年「養生訓」が著されている。養生訓、和漢の事績を引用して通俗的に述べた書、8巻(広辞苑)。

しかし愛妻に先立たれすっかり意気消沈、翌1714(正徳4)年に8月27日息を引き取った、享年85。    .

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』08・08・24

2015年01月06日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は

<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。

2015年01月05日

◆マスコミ用語の変遷

渡部 亮次郎



NHKの記者研修で厳しく言われたことは○○を「上回った」と言う表現はあっても「下回った」と言ってはならない。上回ることは表面張力の点からある現象だが「下まわる」事はあり得ない物理現象だから、と厳しく言われた。

しかし、現在、NHKでは「下回る」がおおっぴらに使われている。NHKだけでない。新聞も使っている。天気予報など気象情報でもそうだ。マスコミが使えば、世間が使う。

先ごろ「未成年」はいまだ成年にあらず。未は「まだ」と「ず」と2回読む「漢文」から来ているのだから「まだ未成年」といっちゃいけないと自分のメルマガに書いた。

そしたら国語教師だった人から「使ってもおかしくない」といった趣旨の反論があった。あまり恥かしいから没にしたらご不満の様子である。国語の教師でも漢文を習わぬ時代になっているのだ。

私の若いころは政局の見通しについて判らなければ「成り行きが注目される」と逃げる記者が居た。これを称して「なり注原稿」と揶揄したものだが、いまの政治記者連中は「不透明」と言う言葉で逃げる。

「不透明」とは状態を示す言葉であって、記者の主観から逃げている。無責任な原稿と言われても仕方がない。例えば小澤が辞めるか否かは「不透明」なのではなく「ご本人も決断できない状態」であるのだから「不透明」というべきで「判らない」と書くべきだ。

最近はテレビも新聞も問題の見通しは「不透明だ」という表現を使う。見通しが立たない、解決の目途(めど)は立たないと言っていたものが、一層、他人事(ひとごと)に突き放したいいかたをする。

ニュースは利用者に「断定」の材料を提供する仕事である。それなのに「成り行きが注目」されたり「不透明」だと逃げたのではニュースとはいえない。

就中、私が1968年に入社したNHKでは聴取者からの反発を恐れて断定的な結論を出す事を嫌った。あとで結果的に外れた時の反発や抗議の電話集中的にかかってきて、交換機が炎上すると脅かされた。事実かどうかは知らない。

当方は血の気が多い方だからこれに反抗。「ああでもない、こうでもないでは,どうでもないニュースといわれるではないか」とむくれた。独自の見解を披瀝しないのだったらNHKは糊と鋏の頭文字かと毒づいたりもした。

佐藤栄作内閣時代のことだ。衆議院の解散に伴う投票日の設定が焦点になった。幹事長田中角栄は何日といい、国対委員長園田直はそれとは違う「大安吉日」を指定した。「総理はなんと言っても大安吉日が好きな性格だから、間違いない」との断定的な解説付きだった。

だが幹事長と国対委員長では総理・総裁との政治的距離が圧倒的に違う。幹事長の方が格段に上なのだ。だからNHKは角栄のいう説を選んだ。しかし、角栄は間違っていた。

佐藤栄作研究は時間的には角栄のほうが長かったが、突っ込み方は園田の方が鋭かった。解散日を決める三者会談の際、角栄は椅子に半分しか腰掛けていなかった。これは栄作を恐れている証拠。

園田は嘗ては栄作とライバル関係にあって戦っていた故河野一郎の直系の子分。従って総理と幹事長の関係を冷静に観察する余裕がある。園田説が真実に近い。だが私の主張は部長の決断で否定された。

だがやはり園田説が正しかった。投票日の日取りに間違いがあったという「訂正記事」を書かされ、それに対して報道局長賞(金一封)が出た。訂正記事に特ダネ賞はNHKでは空前絶後では無いか。

果たせるかな後年、ポスト佐藤の場面になった時、佐藤が自分に信を置いていないことを知っていた角栄は腕力で佐藤をねじ伏せるようにした。参議院の天皇は「カネを積んだのだ」と非難した。これで「禅譲確実」と言われていた福田赳夫を角栄は蹴落とした。

福田側についていた園田はこの結果、田中,三木亮政権の数年間、冷や飯をくうことになった。園田の佐藤研究は鋭かったが、田中研究はまるでなって居なかったのである。とんでもない方へ話は流れてしまった。
乞ご寛恕。


    

2015年01月04日

◆1月10日は 110番の日

渡部 亮次郎


110番の豆知泉

警察直通電話「110番」の正式名称は『警察通報用電話』。

110番の歴史

警察に緊急通報するための電話がGHQの勧告により開設されたのは1948(昭和23)年10月1日のことです。

これはヨーロッパやアメリカの緊急通報制度を取り入れたものですが、最初は全国ではなく、東京も23区内だけで、あとは大阪も中心部だけで、あとは名古屋(愛知県)・福岡(福岡県)・京都(京都府)・神戸(兵庫県)という六大都市のみでのスタートだった。

さらに、この時は東京と名古屋だけが「110」で、あとの都市では「110番」に統一できず、大阪・福岡・神戸・京都は「1110」と言う4ケタの番号だった。

しかも統一化しようと考えているにも拘わらず、その後、名古屋はなぜか一度「118」に変更したりしています。

全国統一の「110」になったのは、スタートから12年も経過した昭和35年5月からだ。

東京の場合は、23区内にあった32の電話局からそれぞれ1回線を確保して受信にあたった。

今から考えるとかなり間抜けだが、警察の電話室に32個の電話機を置いて、電話が鳴ったと同時に担当係員が、どの電話が鳴っているのかを確かめる為にそれぞれの電話に耳を近づけて確認すると言うものだった。

当時は、無線司令などのシステムは無く(当然、現場近くのパトカーに直接電話するなんて事は無理)、警察で受け取った電話の内容を、再び事件通報に関係した警察署に電話をしなおして報告すると言うシステムになっていた。

1・1・0の理由

警察への緊急電話は「110番」と言うのは子供でも知っているが、何故110なのか?

これは、ダイヤル式だった頃に考えられたもので、基本的に警察に掛けるときは急いでいるので、一番ストッパーに近く、シャッシャッと掛けられる1を2回、そして最後の1つは「でもとりあえず冷静になって見よう」と言うことでストッパーから一番遠い0が採用された。

と言っても、これはダイヤル式の時代の話なので、現在のようにプッシュ式が主流になってしまうと意味はなくなってしまう話ではある。

アメリカの場合、イギリスの場合

アメリカやイギリスの電話は日本とダイヤルの配列が逆になっている為に、警察緊急電話もちょっと事情が違ってきます。

アメリカの警察緊急電話番号は「911」

これは急いで掛けられる9を1回、ゆっくりの1を2回と言う状態です。

それに比べてイギリスの緊急電話番号は「999」で、とにかく迅速に掛ける事が出来るようになっている。

イギリス人はとにかくせっかちなのか、それともジェントルマンの国なので常に冷静なので、冷静に戻す必要はないのかも知れません。

1月10日 110番の日

年々増えつつある110番の利用に対し、いたずら電話を防止し、有効かつ適切な利用を呼かけるためのキャンペーンのため、1986年に警視庁が制定した。

「事件・事故・見たら聞いたら110番」などの標語も誕生している。
出典:知泉Wiki
http://www.tisen.jp/tisenwiki/?110%C8%D6

携帯からは単に「110」を押すこと。

    

2015年01月03日

◆A面あってのB面

渡部 亮次郎



昔はCDがまだ無くてレコードと言う板に録音していた。板には裏と表があり、表をA面、裏をB面と呼んだ。

昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

群馬県・榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合と発売中止となるも、それまでに大ヒット。当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)

東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、古関裕而が満洲から帰国、神戸から東京までの汽車の中で作曲した「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。

「暁に祈る」の「ああ、あの顔で」の出だしは、陸軍省の「ああでもない、こうでもない」のうるさい注文に難渋した作詞者の野村俊夫の愚痴を聞いた、作曲者の古関裕而が、それを使うように薦めたのがきっかけ。

この間の13年には赤坂百太郎と再婚、4人の子供を設ける。戦火が激しくなった18年暮れには伊藤は福島に帰郷し、レコード吹き込みの度に上京した。

戦後は主にラジオ歌謡で活躍、「イヨマンテの夜」はのど自慢で大人気を誇るヒットとなった。他にも「あざみの歌」「山のけむり」などの叙情的な歌のヒットがある。

私生活では宝塚の桃園みかと同棲し、妻であった赤坂百太郎から「生活費を入れない」と25年、家庭裁判所に訴訟を起こされ、後に離婚している。

53年に紫綬褒章、58年に勲四等旭日小綬章を受章。持病のぜんそくに加え晩年は糖尿病で、浅草の国際劇場のステージでは、痙攣からマイクにすがりつきながら鬼気迫る歌唱をみせたという。

55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。57年春には関係者の間では危篤とされ
ていた。

涙もろく、「酒を飲まない奴は信用できない」が口癖だった。その反面で、極度の潔癖症でもあり、楽屋なども絶対に他の歌手と同室しなかったという。

服装には無頓着で、10年以上前の体に合わなくなった背広でステージに上る事もしばしばであった。レパートリーは何でもこなしたが、本人は抒情歌を好んでいたという。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。

住まいは中野区沼袋だった。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。
 
昭和12年   露営の歌(松平晃、中野忠晴、霧島昇、佐々木章)
昭和14年   父よあなたは強かった(二葉あき子、霧島昇、松原操)
       白蘭の歌(二葉あき子)
昭和15年   暁に祈る
       高原の旅愁
       お島千太郎旅唄(二葉あき子)
       熱砂の誓い
昭和23年   シベリヤ・エレジー
昭和25年   イヨマンテの夜
昭和26年   あざみの歌
昭和27年   山のけむり
昭和28年   君いとしき人よ

引用:『日本流行歌通史』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

2015年01月02日

◆「検閲」を知っているか

渡部 亮次郎


「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一 歌 二葉あき子。

敗戦後昭和22(1947)年 の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世には出なかった。

戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分となったからである。

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召されての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。

若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命である。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。

新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫がコロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国との戦時下、女々しいと「発売禁止」。

<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。

満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。

すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。

国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべて排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」が存在したのである。

作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者もR・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを外国人と思って捜している。

戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌でヒットしたのが昭和22年だった。

戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。
社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。


     

2015年01月01日

◆ASEANの口頭試問を逆手に取る

渡部 亮次郎



ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。(Wikipedia)

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわかったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。1978年になって、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関するマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル。朝早く、会議会場の下見に出かけた。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打ち合わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列に5人が並び、向かいに日本の席がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参りましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本のペースになってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リターン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にしていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にしてASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。70歳、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけだった。2010・11・24