2015年03月11日

◆不気味な「ボリュームゾーン不況」

平井 修一



マクドナルドの苦戦が著しい。1月の既存店売上高は前年同月比28.7%減となり、小生が経営者なら「ギャーッ」と悲鳴を上げて卒倒するところだ。前年を下回るのは13カ月連続だという。ケンタッキーフライドチキンもここ数年、右肩下がりだとか。

若い頃はマックもケンタも好きで、子供を連れてよく行ったものである。「マックでお昼にしよう」と買い物に付き合わせたのだが、中学生になるともうこのエサでは引っかからなくなってしまった。

以来ご無沙汰気味だが、チキンはコンビニで温かいものを売っているし、ハンバーガーはトーストサンドで代替できるから不自由はしない。それにしてもマックの落ち込みは激しすぎる。世の中は不景気なのか、それとも飽きられたのか。

2月の景気ウォッチャー調査(内閣府)によると、現状判断DIは、前月比4.5ポイント上昇の50.1となった。 家計動向関連DIは、小売関連が上昇したこと等から上昇した。企業動向関連DIも雇用関連DIも上昇した。先行き判断DIも前月比3.2ポイント上昇の53.2となったから、「景気は、一部に弱さが残るものの緩やかな回復基調」(同)ということだろう。

それならマックは飽きられたということなのか。週刊現代3/14日号「『ボリュームゾーン不況』とは何か?いま、この国の経済が大きく変わろうとしている」が示唆に富むというか、何やら不気味かつ不吉だ。以下引用する。

<いま経営者たちは新しい問題に頭を抱える。たとえヒット商品を生み出しても、その寿命が極端に短期化しているため、従来のビジネスモデルがまったく通用しなくなってきている。

商品のライフサイクルの短さは、「電気製品であればもって一年、食品などはせいぜい数ヵ月でヒット商品の寿命が終わってしまうほど」(企業のマーケティング事情に詳しいコア・コンセプト研究所代表の大西宏氏)。しかもそうしたブームの超短期化が、最も需要が豊富なマス市場、つまりはボリュームゾーンで巻き起こっているから、ただ事ではない。

そうした巨大市場で、昨日まで売れていたヒット商品がまったく売れなくなるという事例が最近頻発。

たとえば、日本マクドナルド。いままさに「リュームゾーン不況」に足を取られ、苦境にもがいている。客離れが止まらない同社の大不振は、昨年夏に発覚した期限切れ鶏肉問題が原因と言われるが、本質は違う。同社社員が言う。

「これまでうちは、チーズバーガーなどの定番の主力商品を大量に販売することで成長してきた。ところが最近は、そのボリュームゾーンの嗜好が飽きられているのです。

前社長の原田泳幸さんは『お客に常に驚きを与えろ』と声を大にして、『メガマック』など次々と奇抜な新商品を出すことでお客をどうにかつなぎとめていた。しかし、現在のカサノバ社長が時代のスピード感についていけなくなると、一気に不振に落ち込んだ。そうなると定番商品からも一気に客が引いていった。

消費者の飽きが早くなったのと同時に、一度離れたお客を取り戻すのがこれまでの何倍も難しくなっている。だから、一度始まった客離れはどんどん加速し、悪循環が止まらないのです」

企業幹部たちが「売れ続ける商品などない前提でビジネスをやっている」と口を揃えるように、企業にとって厳しいのは、「ボリュームゾーン不況」に対抗する術がないことにある。

元ジョンソン・エンド・ジョンソン社長で国際ビジネスブレイン代表の新将命氏も言う。

「この時代の『勝ち組企業』は『価値組企業』。新しい価値を提供し続けなければ生き残れない。ヒット商品が出たら、すぐに次のことを考えなければならない。経営者が安心している暇など、1秒もありません」

そもそもヒット商品の寿命の短期化はいまに始まったことではない。年々、ジワリジワリと進んでいたが、ここへきて一気に加速してきたのにはワケがある。「消費の『コンビニ化』が拡大しているのが大きい」と、セブン-イレブン・ジャパンOBで法政大学大学院教授の並木雄二氏は言う。

「いま消費者にとって一番身近な消費の場所はコンビニですが、そのコンビニは毎週新商品を100アイテムほど投入するほどの『改廃』を頻繁に行っています。

コンビニとしては新しい商品を常に入れ続けないと消費者に飽きられるからやっているわけですが、消費者はこのコンビニ消費に日常的に触れる中で、新しい刺激がないと満足しなくなってしまった。

コンビニが与えてくれる新鮮さを、ほかのあらゆるものに対して求めるようになってきたことが『ボリュームゾーン不況』の背景にあると思います」

より速く、より多くのヒット商品を生み続けることでしか生き残れない厳しい時代が幕を開けた。しかも、「『ボリュームゾーン不況』はまだ始まったばかり。これからますます深刻になっていく」とエコノミストの吉本佳生氏は指摘する。

「ボリュームゾーン不況がどんどん広がっていく中で、企業間の競争はますます熾烈になっていきます。これからは体力を奪われた企業から順に新しい商品を作る力がなくなっていくでしょう。

そうなると、消費者からすれば、いまはたくさんの選択肢から商品を選べる状況にありますが、その選択肢が減っていくことになる。結果として、魅力的な商品が減ることになるので、消費者はますますモノを買わなくなる。

そしてそれが経済全体を冷え込ませ、ますます企業は体力を奪われるという出口のない負の連鎖に入って行くわけです。企業にとっても、消費者にとっても、日本経済全体にとってもマイナスのことですが、もうその連鎖は始まってしまっている」

商品の寿命が短くなるにつれ、企業の寿命もどんどん短くなっていく。ひいてはそれが、日本経済全体の寿命を蝕んでいく。突然巻き起こった市場の激変は、いま日本経済の根本を大きく揺さぶろうとしている>(以上)

小生は物欲があまりない、と言うか、買い物が苦手であり、たとえば発泡酒ならコレ、ワインならコレと決めており、非常に保守的だ。逆にカミサンは新しいものに飛びつく。飛びついても長続きしないで、1週間後には他のものに浮気する。買い物に刺激を求めているのだろう。

この浮気性にボリュームゾーンがズブズブにはまっており、企業はそれに右往左往させられているというわけだ。「常に驚き」を与え続けないと客が離れていく。

メーカーにとって店舗の棚に商品を置いてもらわなければ話にならないから、ライバルとは棚争奪戦“スペース戦争”を繰り広げることになる。店舗としては売れるもの、儲かるものを置きたい。新商品が出ると刺激を求め
る浮気者が手を出すから売れる→スペース拡大→さらに売れる→定番になる。

これが理想なのだが、定番にならずに短期で飽きられて売上が減少し、またぞろ「新商品開発→売れる→スペース拡大→飽きられる」を繰り返すことになる。まるでシーシュポスの神話だ。

無駄と言えば無駄、虚しいと言えば虚しい。しかし、それを続けないとトップグループから脱落し、やがては倒れてしまう。資本主義の新たな成長 or 存続モデルを高3レベル以上の識者には提案してもらいたいが、今どきピケティに感動している程度では所詮無理か。異才、出でよ!
(2015/3/10)

2015年03月09日

◆「日中」を渋った福田総理

渡部 亮次郎


私にとって8月15日の敗戦記念日と共に忘れ難いのは8月12日である。1978年のことだ。耳をつんざくような北京・釣魚台の迎賓館の蝉の合唱。

その夜、人民大会堂での日中平和友好条約の署名式。少し興奮したか、園田直外務大臣は自分の名前を大きく書きすぎて、相手の黄華外交部長が署名のスペースを捜して一瞬、戸惑ったのを私は見ていた。

互いに署名した条約書面を交換したあとシャンパンで乾杯したら、園田さんはグラスをぶつけすぎて、上着の右袖口がすっかり濡れてしまった。「(締結できなかったら死ぬ覚悟で行くから)代えの洋服はもたないでくれ」と一張羅で来た。えぃ、ままよ。薄いグレイの右袖はシャンパンが次第に黒いしみのように広がっていった。

人民大会堂は6年前にも入っていた。1972年9月25日。梅原龍三郎描く「北京秋天」そのもの、それこそ抜けるような青空の下、北京空港に降り立ち、その夜には周恩来総理の歓迎宴に同行記者団80人も招かれて、人民大会堂なるどでかいビルでニクソン大統領は断わったという「海鼠の醤油煮」をご馳走になった。

記念写真で私の目の前に立った周恩来総理の頭はちじれっ毛だった。国全体を根底から揺すった紅衛兵による文化大革命はほぼ終息していたが、共産主義政権のマスコミ対処方針が変っていたので興味深かった。

<「近距離記者と遠距離記者があるんです」と説明されて日本側の記者一同は唖然とした。田中首相に同行する記者・カメラマンたちを集めての事前の説明会で、外務省報道課の担当官が言うのである。 記者・カメラマンを首脳に近寄れる範囲、4メートルが近距離記者とすると、遠距離記者は何メートルかい。それが20メートルなんですと、係官は言ったように記憶している。

近距離記者はしかも各社1人に限ると2度目のショック。3度目のショックは記者団機が首相機とは別で、首相機に同乗できるのも各社1人というのであった。

それから本当にびっくりしたのは、NHK政治部長はNHKを代表する近距離及び同乗記者に、それまで角福戦争の敗者・福田赳夫の担当記者だった私を指名した事であった。

角さんとは話をしたことも無い。官房長官・二階堂進についても同様。また外相・大平正芳とも話を交わした事も無いから、ただ機内で3人を交互に監視しているしかなかった。

角さんに沈思黙考しろというのは無理だが、それにしても大平外相の沈黙ぶりは異常だった。中国との下交渉など知る由も無いから、どうしたのかな、ぐらいにしか考えなかった。

大平は台湾との訣別をどう処理するかを考えあぐんでいたのだと、後で知った。北京空港からわれわれは何台かのバスに揺られてホテルに入れられた。首相たちはと言えば、迎賓館で面会謝絶だという。なんだ近距離も遠距離も無いじゃないかと毒づいてみたが、それっきり。>(ネットメディア大阪「百家争鳴」)

このとき、かのケ(とう)小平は島流し中。日本からカネと技術を徴発しての工業、農業、国防、科学技術の近代化(四化)はまだ話題にもなっていなかった。毛沢東が存命中だから、文化大革命失敗で全権力の掌握は出来ていなくても、共産党内は原理原則派が中心をなしていた。

だから共同声明で謳った日中平和友好条約の締結もすぐに可能だと田中総理もそう理解して帰国したが、ソ連(当時)との接近を警戒する中国が、条約の中に「この条約は覇権を求めるものではない」と明記するよう要求し続けたため、6年間も締結できなかった。

福田内閣を作り、自ら官房長官に就任した園田直氏は岸信介元総理の差し金により総理官邸を1年で追われたが、何しろ福田密約内閣の密約当事者であってみれば、福田総理としては閣内No.2の外務大臣として処遇するしかなかった。

園田氏はその間の事情を世間に明らかにするわけに行かなかったので、懸案の日中条約の締結に自ら当たるためとのポーズをとった。しかし肝腎の福田総理は締結に消極的で、条約が出来ても園田に政府代表の資格をなかなか与えようとしなかった。

多分、この頃の福田赳夫総理は「2年」の密約を一方的に破ろうとしており、 そのためには条約の締結という既成事実は「花道」として引退に結び付け られるのでは、と警戒したものであろう。

それはともかく、6年間も筋張っていた中国が「覇権条項」に見向きもせずに条約締結をさながら慌てるように急いだのは、現実主義者のケ(とう)小平の再度の復活があった。園田氏が若い頃に結んだ廖承志氏のルートからは「園田さんが来てさえくれれば間違いなく締結する」とさえ言ってきたものだ。

今考えてみれば4つの近代化の課題に加えて経済の改革開放体制の実施のためには、日本の協力、特に莫大な資金と技術の導入は不可欠である以上、条文の区々たる文言に拘っている時間的余裕はなかったのだ。しかし、福田総理に上がる在北京日本大使館の情報には残念ながら、そこまで突っ込んで分析した情報は皆無であった。

敗戦と共に日本は独立国家を目指すよりは、貧乏と戦争さえなければ幸せとでもいうインポテンツ国家に成り下がった。このため国家生存のための情報を収集する体制を捨ててしまった。

外務官僚上がりの総理吉田茂が外務省からスパイ機能(人員)と予算を取り上げてしまったのである。そこでわが外務省はアメリカからのいわば2次情報の分析ばかりやっているから、結果はどこかの絵描きと同じで、出来上がったものは「模写」ばかりである。

ソ連の崩壊と共に中国が「中華」に舵を切り替えて対日友好をとっくに捨ててしまったのに、未だに対中友好を推進しようと馬鹿の一つ覚えのような姿勢をとり、心ある人たちをして叩頭外交、属国外交と切歯扼腕させているのは、この「2次情報外交」にあるためである。絵描きだけでなくジャーナリストと称する物書きも「引用」を続けていると、結果が「盗作」として結実するのとそっくりである。最近は大学教授にも多くなった。


   

2015年03月08日

◆クラシックは新しい

渡部 亮次郎
 

「べートーヴェンは何かを語っているし、モーツアルトははしゃいでいる」と私は思う。

今の人は知らないだろうが、SP(standard play)版のレコードとは1枚に3分半しか録音されてない。もちろん裏面にも3分半録音されているが、その都度ひっくり返さなければならないから面倒だ。

クラシックの長い作品だと10枚で1曲なんていうのがあった。そのころからわずらわしさを感ぜずにクラシックを聞いていたというのは昭和1桁生まれの人たち。

SPがLP(long play)に変わるのは敗戦後しばらく経ってからだった。私は1950年を過ぎて高校に入った頃、ショパンの軍隊ポロネーズをLPで、生まれた初めて聴いた。

友人が「隠れて兄貴のレコードを持ち出してきた」と言った。ピアノの音にこれほど身を乗り出して聴く自分を発見して驚いた。高校で「音楽」は選択科目だったが選択しなかった。よく音楽教室からレコードで音楽が聞こえてきて授業が耳に入らなくなったものだ。

50年経って聴きなおすとあれはモーツアルトのセレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だったのだ。永年、刺身や寿司を食べずに大損をしたように、私は音楽でも読書でも他人に引けをとり実に貧しい半生を送ってきた、と臍を噛んでいる。

私の幼少期は「流行歌」という名の演歌と共にあって、クラシックとは全く無縁だった。家の周囲は見渡す限りが田圃。東の遠くに出羽丘陵が連なっていた。西側には男鹿半島の山2つ。だから学校で「写生」の時間に困ったものだ。描くものがどこにも無いのだから。

家の向かいに1歳上の少年がいて蓄音器と「種板」つまりレコードを持っていた。もちろん兄たちの持ち物。それを2人で鳴らして遊んだ。蓄音器はぜんまい式だった。

東海林太郎、霧島昇、伊藤久男、藤山一郎,渡邊はま子、ディック・ミネといった人たちのものばかり。今で言う元祖演歌の主たちである。擦り切れるまで聴いた。

やがてHNKのラジオ歌謡が流れ始めてそれに馴染んで行った。のど自慢の県大会に出て「チャペルの鐘」を歌ったが、チャペルってなんだか知らなかった。東海林太郎が秋田中学(旧制)の大先輩、上原敏が同じ秋田の人とは子供の頃は知らなかった。

いかなる因縁かラジオ会社のNHKに入り、やがてそれはTV会社になったが、配属された部門はニュースそれも政治関係だったから音楽には縁が無くて過ぎた。

30を過ぎた頃、新宿の飲み屋で演歌師のアコーデオン伴奏で歌ったら客の1人に「あなた、歌手になりませんか」と言われた。著名なコーラス・グループのマネージャーだった。政治記者が演歌歌手デビュー、面白いが冗談でしょう。

50を過ぎてCDというものが流行りだした。1枚3、000円で60分とか70分録音されている。これはいいというのでCDのコレクションができた。3,000枚ぐらいはある。だが気がついてみればそれらはみな演歌だ。

ある日突然、頭の中でモーツアルトが鳴った。20代の終わりごろ岩手県盛岡市でNHK交響楽団が聞かせてくれた曲。頭の中で何十年ぶりかでなぜか鳴り響いたのである。調べたらそれはピアノ協奏曲20番であった。

小島新太郎さん(ケーブル・パーソンズ社長・故人)によるとクラシックはまずメロディーの美しさが人間をひきつける。それからリズム、ハーモニーの美しさがわかればクラシックの虜になる、という。器楽はだから言葉が分からなくても理解できる。

その点、歌曲は言葉が分からなければ本当の理解は出来たとは言えない。言われればその通りである。20番のメロディーを美しいものとして頭が記憶していたらしい。

だから頭が「美しい音楽だな」と記憶すればその曲が好きになり、何度でも聴きたくなるそうだ。そうやってレパートリーが増えて行く。だとすれば芸術を好きになるためには経済力が親になければならないことになる。

昔、小島さんを先頭にして欧米のケーブル・テレビ事情を視察したことがあるが、その時のある青年は旅行中、レシーバーを両耳から離さなかった。毎日まいにちモーツアルトを聞き続けていたのである。モーツアルトってそんなにいいですか、いいですねえ。

私は60を過ぎるころモーツアルト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ベートーヴェンなども聴くようになった。面白いことにクラシックを聴きなれると演歌は薄っぺらく感じられて聴かないようになる。

人には演歌もクラシックも聴くといっているが、どうも耳は別のように思えてくる。クラシックは本だが、演歌は雑誌のようだ。しかもモーツアルトははしゃいでいるし、ベートーヴェンは演説をしているように重い。

モーツアルトの時代は宮廷音楽家が小さな部屋に集められた小人数の客を前にいわば温和しい音楽で済んだが、ベートーヴェンの時代になると一般大衆を大きな会場に集めての演奏となったから、ジャジャジャジャーンといった耳目を集める音楽の時代となった。

まさに演説するような音楽になったのではないか。勿論、作曲家自身の性格も反映されるだろう。チャイコフスキーはホモがばれて秘密法廷で自殺を強要されて毒をあおったとか。しかし数々の美しいメロディーはホモゆえの美しさだろうか。

1951年ごろ、毎朝、通学列車を降りると秋田駅で必ず鳴っていたのは彼の名作ピアノ協奏曲第1番だった。すさんだ世相に逆らうように駅構内にクラシックを流す職員があの当時の「国鉄」にはいたのだ、秋田に。

それにしてもこれら大作曲家に匹敵する作曲家が20世紀以後出現しない理由は何だろう。失われたのはメロディーかリズムかハーモニーか或いはそのすべてか。現代というものが美しい音楽を生み出させない何かのエネルギーを発散しているのか。いずれクラシックはいつまでも新しい。

2015年03月07日

◆金持ちはケチ(吝嗇)だから金持ち

渡部 亮次郎



「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような者は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと鈴木宗男は云ったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)

2015年03月05日

◆良識ある沖縄の人々に尋ねたい

田久保 忠衛



何もいまに始まったことではないが、東京と那覇とのやり取りを観察していると、うんざりする意味で「沖縄疲れ」に陥る。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に対して翁長雄志知事は「新基地建設反対」を唱え、沖縄防衛局が辺野古沿岸部の海底に設置したコンクリート製の大型ブロックが「サンゴ礁を傷つけている。前知事時代に県が岩礁破砕を許可した区域外の設置だ」と注文をつけ出した。あらゆる手段で移設を阻止するという。

2月22日には与那国島で自衛隊配備の是非を問う住民投票が実施された。幸いにして受け入れは認められたが、中学生以上の未成年者と永住外国人に投票権を与える、異常な投票であった。

記憶に新しいのは石垣市、竹富町、与那国町1市2町の中学校教科書採択地区で、竹富町だけが決定に反した行動を取り、国はコントロールできなくなった。

国家の専管事項である外交、防衛、教育、エネルギー政策などの枠を沖縄だけがはみ出しているにもかかわらず、誰もが口に蓋をしている。

日本における米軍基地の負担が沖縄に集中してきたとの「東京」の罪の意識と、その心理を結果的に利用してきた「那覇」の葛藤に根本の原因がある。

日本が国際社会の中で自らが置かれた立場をいかに知らないかは、1990〜91年の湾岸戦争で資金の提供以外に血も汗も流そうとせず、各国から奇異の念を抱かれたことで痛いほどに感じたはずだ。安倍晋三政権は日本を「普通の国」にしようと努力しているところだが、沖縄も「普通の県」を目指してほしい。

まるで独立した国の指導者

翁長知事が先の県議会で読み上げた所信表明演説の目玉は辺野古移設反対だけだった。「沖縄を取り巻く現状の認識」の項目には、日本がどのような方向を目指し、その中で防衛の第一線に位置する沖縄がどうあるべきかには全く触れていない。

沖縄県尖閣諸島の領海に中国の公船が入っている現状も、北朝鮮の脅威も知事の念頭には全くないらしい。

一方で、これまでの沖縄県知事の中には、基地問題などで米政府と直接交渉するためワシントンを何回か訪れた人物もいた。あたかも、沖縄は日本から独立した琉球国の指導者であるかのような言動には、日米両国にも首をかしげた向きは少なくなかったろう。

翁長知事も4月にワシントンに県駐在員として平安山英雄氏を派遣する。2月25日付の沖縄タイムス紙のインタビュー記事を読んだが、「名護市辺野古の新基地建設反対、米軍普天間飛行場の危険性除去は翁長知事の重要政策だ」との質問に対し、平安山氏は「知事の公約と政策を実現するため、しっかりと手伝いたい」と答えていた。

これは沖縄の伝統、文化や県産品の対米PRとは性格が違う仕事だ。平安山氏は琉球国の駐米大使になったつもりなのか。

沖縄国際大学で2月15日に「道標求めて−沖縄の自己決定権を問う」とのテーマによるシンポジウムが開かれた。姜尚中聖学院大学長は1854年に琉球国と米国との間で結ばれた琉米修好条約や琉球併合(「琉球処分」)を起点に、沖縄の自己決定権をめぐる問題を抱えた他地域との連帯によって問題を普遍化していくべきだと述べた(琉球新報2月16日付)そうだ。

辺野古移設に抗議する県民集会の記事は地元2紙によって派手に伝えられているが、「政府」と書けばいいのになぜ「日本政府」と表現し、「日本人警備員がゲート前に集合」などと不可解な言葉を使用するのか。   
              (たくぼ ただえ 杏林大学名誉教授)
                産経ニュース【正論】2015.3.4

  

2015年03月02日

◆ドレミファは禁句だった

渡部 亮次郎



ラジオ深夜便で超ベテランの筈の宇田川清江アンカーが「コトコトコットン」の「森の水車」が戦時中は発売禁止になっていた、だけど何の差障りも無いこの歌詞のどこに文句が付いたのかしら、と疑問符をつけたことがある。

昭和18年、女優の高峰秀子(三枝子にあらず)が唄ったが、間もなく発売禁止になった。戦後、NHK専属の歌手荒井恵子 がよく唄って普及したが、レコードは並木路子のしか残っていない。

そもそも、対外戦争をすると、歌や言論を統制するのは各国当然の措置だが、生まれた時から憲法により言論の自由を謳歌してきた世代には納得が行くまい。

結論を先に言うと「森の水車」の歌詞に「ファミレドシドレミファ」と言う箇所があり、この部分が外国語なので発売禁止になったのである。ドレミファソラシドは「イタリヤ語」である。戦争に伴って外国語=敵性語として使用禁止。ドレミは後ろから唄っても敵性語とされた。

ドイツとイタリアは三国同盟で「味方」のはずではなかったか。それでもドレミは禁止。検閲官に教養が無かった?詳しい経緯はまだ調べていない。

<日本語では「ハニホヘトイロハ」、英語では「CDEFGABC」となる。戦時中、唱歌の時間で音楽の先生は「ハニホヘトイロハ」で教えてくれた。今のこどもは「ハニホヘトってなんだ?」

ドレミファソラシの音階を使ったものでは、「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」が有名である。(註:この映画の中では「シ」は「tee」と発音されていた)

「新版 日本流行歌史」(中)=社会思想社=によると「森の水車」は作詞:清水みのる、作曲:米山正夫で作られ、昭和16(1941)年8月,唄:高峰秀子によりポリドールから発売された。

一、
みどりの森の 彼方から
陽気な唄が 聞えましょう
あれは水車の まわる音
耳を澄ましてお聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

二、
雨の降る日も 風の日も
森の水車は 休みなく
粉挽き臼の 拍子とり
愉快に唄を つづけます
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

三、
もしも貴方が 怠けたり
遊んでいたく なった時
森の水車の うた声を
ひとり静かに お聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

これが発売禁止処分。戦争をするとはこんなものなんだ。
2009・03・21初掲載。

2015年02月28日

◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎



そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可をどこかの役所から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質のコムギを産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。(新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で初めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

2015年02月26日

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破したのは元医者の作家・故渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。


2015年02月23日

◆見え始めた日本再生への道

櫻井よしこ
 


「恰(あたか)も、明治維新のあの大改革の嵐、日本開国の命懸けの戦いの中を駆け抜けたような感慨を抱いています」

中央教育審議会会長の安西祐一郎氏は2月9日の第7期中教審の締めくくりの会でこう語った。戦後教育の大改革といってよい成果を挙げ得たことへの安堵の気持ちが込められていた。

私も末席に連なった中教審の議論は、必ずしも全て順調だったわけではなかった。とりわけ教育委員会の在り方についての議論は白熱した。

教育委員会は教科書の採択に始まり教育現場が直面する問題全般に責任を有する。にもかかわらず、偏向した内容の教科書が多くの教育委員会によって採択され続けてきた。

また、2011年、大津市で発生した中学2年生男子のいじめによる自殺事件で見られたように、いじめを隠し、責任逃れに終始する教育委員会も存在した。

中教審はこのような現状を克服するために首長の責任を明確にし、新設した教育長の任免権を首長に与えるなど、首長の権限を強めた。この改革によって、有権者の意思で選ばれた首長が、教育現場により強い権限を及ぼすことができるようになった。教育現場に今も色濃く見られる日教組のあしき影響も緩和されるだろう。

教育内容の大きな変化の一つは、今年4月から「教科」として教えられる道徳教育にあるだろう。かつて修身と呼ばれた道徳教育は、昭和20年、占領軍が禁止して以降、日本の学校できちんと教える体制はなかったのだ。

06年の第1次安倍内閣で、教育基本法が改正され「道徳心を培う」ことが教育の目的として書き込まれた。今回、安倍晋三首相、下村博文文部科学大臣の下で道徳が正式に教科として教えられることになったのは、非常に大きな意味があると思う。

「朝日」「毎日」「東京」の3紙は社説で、多様な価値観が育たない、価値観の押し付けだなどと批判したが、そうした批判は当たるまい。どの時代でもどんな国でも、勇気、誠実、他者への思いやり、正義感などは普遍的価値観として大事に守られ、受け継がれてきた。

大人が実行して子供たちに範を示し、家庭や学校で重ねて大事な価値観として道徳を教えてきた。この当たり前のことをわが国は敗戦の結果、禁じられていた。70年ぶりに復活する道徳教育は必ず、日本人の善さを引き出し大きな力に育て上げていくと、私は確信している。

第7期中教審で決定されたもう一つの重要点は日本史を必修科目にしたことだ。これまで高校の歴史の必修は世界史であり日本史は選択科目にすぎなかった。自国の歴史を知らずして、世界の歴史を学んで何の意味があるのか。これもようやく改められた。

分野は異なるが、今週発表された戦後社会の大改革のもう一つの事例が農協改革である。農協の特権体質は、法人税率が19%で一般企業の25.5%よりずっと安いことや、農協会員の株の配当は損金算入されて課税されないことや、農協の事務所や倉庫には固定資産税が掛からないことなど幾つもあるが、私は「整促方式」という農協独自の制度に注目したい。

これは約700ある地方の単位農協や県連、全農など農協系組織の全てを利用して事業を行う仕組みである。肥料や種、農機具の買い付けから生産物の出荷まで全事業を全員で行い、各レベルで手数料を受け取る仕組みといえば分かりやすいだろう。

そこには合理化や効率化の考えはなく、そこに関わる人々の利益優先しかない。結果として日本の農業は衰退したが、この農協も改革されることに
なった。

教育改革も農協改革も具体的な法案作りの段階で骨抜きにされないように監視が必要だ。まだ油断はできないが、15年が力強い日本再生の年になることが実感される。

『週刊ダイヤモンド』 2015年2月21日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1072

◆「医学は科学ではない」

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家・故渡辺淳一氏
である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>2014(平成26年)4月30日没。

2015年02月22日

◆ふるさとは帰るところにあるまじや

渡部 亮次郎
   

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

大阪の俳人与謝蕪村が大阪に帰っても生地には絶対足を踏み入れなかったのも同じ理由だと私は思う。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)

2015年02月21日

◆中国富裕層は戦々恐々

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)2月20日(金曜日)弐通巻第4475号>

 〜HSBCスイス支店をジュネーブ検察が手入れした
    これから何がでてくるか。中国富裕層は戦々恐々〜


旧正月に日本へやって来て、高級炊飯器などの「爆買い」に熱狂する中国人観光客。免税店での買い物風景を、なんだか楽しそうに日本のメディアが伝えている。円安で大量にやってくる外国人観光客を手放しで喜んでいるのは一部業界でしかないのに。。。。

まして買い物をしているのは中国人富裕層でない、彼らは中産階級である。しかも買い物の目的は帰国後の「転売」である。

さてスイスにあるHSBC(香港上海銀行)の支店はプライベートバンク、顧客口座の秘密を秘匿してきたため世界の富裕層の隠し預金が集中した。「それがスイスの伝統的商習慣だった」(フランコ・モルラ同行CEO)

2001年9月11日以後、米国はスイスに最大の政治圧力をかけつづけた。「テロリストの資金洗浄に利用されているので、情報を公開せよ」と。ついにスイスは取引に応じた。3年ほどの猶予期間をおいてもらったので、その間にスイスの秘密口座からのカネはざっと世界のほかのタクスヘブンへ逃げた。

2007年、フランス当局にたれ込みがあった。HSBCスイス支店の元従業員だったヘルベ・フェルシアーニが秘密口座のリストを提供したのだ。

ルモンドは「国際調査ジャーナリスト会議」と共同で追跡調査を開始し、さらにはその多くのリストが「スイスリークス」に漏れた。

このネットから、どっと世界に流れ出た。そのなかには李鵬の娘、李小琳の名前もあった。日本人建築家の名前もあった。

2月18日、ジュネーブの検察はHSBCスイス支店を捜索した。容疑は「麻薬取引、マネーロンダリング、武器輸出入決済の疑いあり」。

2007年からのリストでは世界200ヶ国からおよそ10万人がスイスのプライベートバンクに合計で1000億ドルを秘匿していた。

これから何が飛び出してくるか? 中国の本当の富裕層は買い物どころではない筈だろう。
    

2015年02月20日

◆中国が取った人工島は競技場14個分

宮崎 正弘 

<平成27年(2015)2月19日(木曜日)弐 通巻第4473号 >
 
〜南シナ海で中国がかすめ取った岩礁の人工島は75、000平方メートル
           フットボール競技場が14個分、盗人の猛々しさ〜

http://www.wsj.com/articles/photos-expanding-fortresses-in-south-china-sea-1424289675

上の2枚の写真はガベン礁の比較で、ひとつは3014年3月30日に偵察衛星が撮影したもの。もうひとつは2015年1月30日。ウォールストリートジャーナル(2月18日)がつたえた。

その露骨な領土的野心が比較できる。

わずか1年足らずに間にセメントを流し込んだ人工島が完成し、ヘリポートも造成されていた。

永興島と赤爪礁には2600メートルの滑走路が完成している。

南シナ海はまさしく「中国の湖」と化けた。