2014年10月10日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎



2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨で、それでも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。

音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。
出典:フリー百科「ウィキペディア」


        

2014年10月09日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎



子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。

2014年10月08日

◆ノーベル平和賞の怪しさ

渡部 亮次郎



<赤崎、天野、中村氏にノーベル賞=青色LED開発―物理学、日本人6年ぶり

スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2014年のノーベル物理学賞を、実用的な青色発光ダイオード(LED)を開発した赤崎勇名城大教授(85)と天野浩名古屋大教授(54)、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)に授与すると発表した。

青色の登場でLEDは赤、緑とともに光の三原色がそろい用途が拡大。消費電力が少なく、耐久性が高い特長が注目され、白熱電球や蛍光灯に代わる白色照明のほか、携帯電話などのディスプレー、交通信号などに広く利用されている。

日本人のノーベル賞は、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発で医学生理学賞を受賞した山中伸弥京都大教授以来。米国籍の南部陽一郎米シカゴ大名誉教授を含め計22人となった。物理学賞は08年に南部氏と小林誠高エネルギー加速器研究機構名誉教授、益川敏英名古屋大特別教授が受賞して以来6年ぶり。

LEDは先に赤色や黄緑色が開発され、電気機器の動作表示ランプなどに応用されたが、発光に高いエネルギーが必要な青色の実現は難しかった。1970年代に炭化ケイ素系半導体の青色LEDが作られたが、暗くて実用的ではなく、次に結晶が作りやすいセレン化亜鉛系での実現を目指す研究が主流だった。

しかし、赤崎氏は松下電器産業(現パナソニック)東京研究所に在籍して73年、性能がはるかに優れた窒化ガリウム系の青色LEDの開発を始めた。名古屋大工学部教授に転身後の89年、天野氏らと同系の青色LED開発に世界で初めて成功した。

製品化に向けた技術開発は、当時日亜化学工業(徳島県阿南市)に在籍していた中村氏が先行し、93年に同社が発表。赤崎氏の技術は豊田合成(愛知県清須市)によって95年に製品化された。特許をめぐり両社は訴訟合戦を繰り広げたが、青色LEDは急速に普及した。

赤崎氏らは窒化ガリウム系半導体で青色レーザーも開発。この技術を発展させた青紫色レーザーにより光ディスク「ブルーレイ」が実用化された。
 
授賞式は12月10日にストックホルムで行われ、賞金計800万スウェーデンクローナ(約1億2000万円)が贈られる。> 
時事通信 10月7日(火)18時52分配信

以下は2009年に執筆したものである。

ノーベル賞は日本人にとって遠いものだったが、受賞者は2009年7月23日現在 1949年の湯川秀樹氏(物理学賞)をはじめとして12人に達している。科学者以外でも佐藤栄作(元首相)、大江健三郎(作家)がいる。


<賞を作ったノーベルはスウェーデンの人で、ダイナマイトの発明などで富を得て、1896年に亡くなりました。彼の遺言で物理、化学、医学、生理学の科学部門3賞と文学賞、平和賞の授与が始まりました。

ほかに経済学賞がありますが、これはノーベルの遺言とは関係なく、スウェーデン銀行(中央銀行)が1969年から授与しています。

ノーベル平和賞だけはちょっと違う。

ほかの賞はスウェーデンの首都ストックホルムで選考され、授与されますが、平和賞だけは選考はノーベル財団ではなくノルウェー国会による委員会が選んでノルウェーの首都オスロで授与されます。ノーベルがなぜ平和賞だけをノルウェーに任せたのかは、はっきりしません。

賞の対象も、平和賞以外が学問研究や文学作品で世界的な成果をあげた人におくられるのに対し、平和賞は、国と国の関係を良くしたり、戦争のための設備を減らしたりといった社会的な業績に贈られてきました。

最近では環境問題への取り組みも選ばれるようになっています。

2007年は地球温暖化の危機を訴えている前の米国の副大統領アル・ゴアさんと、この問題を調べて対策を提案している国際組織に決まりました。

温暖化問題と平和とは何の関係もないように見えます。でも温暖化が進むと、水や食べものが不足したり、土地が水没して住む場所を失う人が大量に出たり、資源の奪い合いが起きたりする危険が大きくなります。

2004年にはアフリカで植林活動をしたケニアのワンガリ・マータイさんが平和賞を受賞しました。マータイさんは「戦争は資源をめぐって起きる。環境保護は平和につながる」と話しています。>岐阜新聞Web(2007年10月29日)より。
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/nie/news/news20071029.htm

宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 2009年7月22日(貳)通巻第2672号に依ると、中国で「08憲章」の起草者劉暁波にノーベル平和賞を、という動きを巡って共産党政府との対立が予想され「平和賞」とは裏腹なことになりそうだ。中国政府は猛烈に反対し、まず米国に圧力をかけるだろう、というのだ。

それによると、「中国民主論壇」は米国の人権団体と中国人留学生らが中心のグループで、劉暁波にノーベル平和賞を!のキャンペーンを開始するための委員会を設立する(多維新聞網、7月21日付け)。

劉は「08憲章」起草者として著名な活動家で、現在中国当局に拘束されている。

同憲章は中国の平和的発展と民主化を基軸に中国政治の変革を希求したもので、300人あまりの知識人らが署名した。

「世界の普遍的価値観と中国の特殊状況は乖離し過ぎており、世界最大の人口を抱える国が平和に発展することは世界の平和に繋がる」ので、あり、この価値観を推進する劉暁波に、この時点でノーベル平和賞を与えることは有意義である、と「中国民主論壇」は声明で述べている。

宮崎氏によると中国の反応はまだないが、嘗て魏京生のノーベル平和賞を直前で巧妙に潰し、昨年はカディール女史(「世界ウィグル会議=在ワシントン=代表」の平和賞受賞も政治力を駆使して潰した「実績」があるだけに、ノーベル財団やノルウェー議会に巨大な圧力をかけることが予測される、という。

この際、佐藤元首相の受賞についての論評は避けるが、ノーベル平和賞を巡る争いは当に戦争である。多分、戦いは共産党が勝つだろう。負けたら共産党政府が立ち行かなくなるから。

最後に「Yahoo智恵袋」から。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119726571

<中国人は基本的にノーベル賞が大っ嫌いです?

ダライラマが受賞したなんか、やつらからすると、われわれの感覚で言ったら麻原がノーベル賞取ったぐらいの感覚なので。そりゃ嫌いになりますよ。

あくまで「あいつらにとっては」ってことですよ。断っておきますが、私はダライラマを尊敬してます。あと台湾人がとってるのも気に入らないらしいです。

中国人の知り合いがノーベル賞のことぼろっかす言ってました。あんなものは欧米人の感性ですばらしいということで、われわれ東洋人は関係ない。

「あんなものに迎合していてはいけない。日本人の皆さんは、いっそのことノーベル賞なんか全部お返ししてしまったほうがいいです。そして中国が中心になって、アジアのノーベル賞を作るべきだ」と主張していました。

中国からは当分ノーベル賞に値する研究は出ないと思います。最近中国は数学オリンピックなんかで頑張っていますが、はっきり言って方向性間違えてます。

特に大学教育はひどいものだと思います。奴ら論文がまともに書けないんですよ。

自分で考えて、理論を組み立てることがまったく出来ません。本を引き写して、最後に「私もそう思います」みたいな、しょうもない論文しか書けません。それが、結構勉強ができる優秀な連中なんですよ。

中国人は勤勉だといわれます。確かに非常に勤勉です、でも「勉強」と「研究」は違います。中国は優秀な奴らに「研究」ではなく「がり勉」させて、ドンドン潰しています。
「公文式」で研究はできません。

国としては都合がいいんでしょうね、従順な奴が増えて。

実際に、中国人での受賞者は例外なく、海外の研究施設で受賞してますよね。おそらく北京大学からも、上海大学からも、当分はノーベル賞は出ないでしょう>。2009・7.22

2014年10月06日

◆朝日と3人目の「吉田」

平井 修一


世界日報9/13が「朝日新聞と3人の吉田氏」で朝日記者が窃盗で得た報告書を元にスクープ記事を書き、何と記者は日本新聞協会賞を得ているのだとこう報じている。泥棒に追い銭だ。新聞協会もイカレている。

             ・・・

「慰安婦」問題と「福島第1原発事故」で大きな影響を与えた2人の名前は偶然、「吉田」だったが、朝日新聞が世界的スクープとしてこれまで誇示してきた「チェルノブイリ原発事故報告書」(ロシア語)のスクープ報道は、ウォーターゲート事件報道のような地道な取材によるものではなく、国際原子力機関(IAEA)の広報部長のテーブルにあった報告書を盗んだ結果だったことが後日、当時のIAEA広報部長自身が認めているのだ。

その広報部長とは、NHK国際局報道部次長から国連職員に転身した吉田康彦氏だった。

それにしても朝日新聞社は「吉田」という名前の人物と不思議と縁があるのだ。3人の「吉田」氏は本人の意向と関係なく、「天下の朝日」を崩壊へ導いているのだ。(以上)

            ・・・

世界日報は2009年にもこの件を報道している。

            ・・・

ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)は創設されて早や50年以上が過ぎ、2005年にはその活動が評価されノーベル平和賞が与えられた。多くある国連専門機関の中でも花形だ。そのIAEAの外部への窓口が広報部。IAEAを取材するジャーナリストの最初の取材先でもある。

ところで、人間でも50年以上生きていると、良し悪しは別としてさまざまな体験を重ねるが、IAEA広報部も例外ではない。その中でもチェルノブイリ原発事故報告書の「横流し事件」は広報部の「汚点」として今も語り継がれている。

読者のために同事件を少し説明する。

チェルノブイリ原発事故発生(1986年)、IAEAから事故の詳細な報告書の提出を要請されたソ連政府(当時)はウィーンに報告書を送付したが、朝日新聞がIAEA広報部長(当時)から同事故報告書を入手し、その内容をいち早く報道したのだ。朝日新聞社は当時、「世界的スクープ」と豪語したものだ。

しかし、真相は公文書の窃盗事件だった。朝日新聞本社は事前にロシア語翻訳のためにロシア語専門の学者たちを本社に待機させ、ウィーンから報告書が届くと即訳し、報じたのだ。

報告書を朝日に横流しした広報部長は当時、「朝日だからあのような離れ業ができたのだ。他社だったら、送られてきたロシア語の報告書の訳に手間取ったはずだ」と告白していることから、この公文書窃盗事件は朝日と当時のIAEA広報部長による確信犯罪だったわけだ。

ハンス・ブリクス事務局長(当時)は報告書を横流しした広報部長を即解雇しようとしたことはいうまでもない。(以上)

               ・・・

しかし、国連機関初の「日本人広報部長」ということで注目されていた吉田氏の解雇はまずいと判断した日本外務省の要請を受け、IAEA側は吉田氏を後日、ジュネーブの国際機関に異動したという。

窃盗なのか横流しなのか。吉田が「俺はトイレに行ってくる」(その間に持っていけ)と離席し、阿吽の呼吸で朝日記者が持ち去ったのだろう、と小生は思う。

調べたらこの記者は朝日新聞東京本社企画報道室・原発問題取材班代表/科学部の西村幹夫氏のようで、1987年度新聞協会賞を受賞している。あるいは報告書を実際に入手したのは彼の部下なのかもしれない。

ネットにはこうあった。

<西村幹夫氏 元朝日新聞記者、ジャーナリスト

1940年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。1964年朝日新聞社入社、西部本社社会部記者、東京本社科学部デスク、大阪本社科学部長、東京本社調査研究室主任研究員、編集委員などを経て、フリージャーナリスト。

編著訳書に『心のデザイン』(86年、朝日新聞)、『地球被爆 チェルノブイリ事故と日本』(87年、朝日新聞)、『スペースシャトルチャレンジャーはなぜ爆発したか』(92年、朝日新聞調査研究室社内報報告211)など。

現在、水俣病事件の詳細な年表を作成中>

西村は新聞協会賞受賞という「名誉」を自身の履歴に載せていないようだ。窃盗を恥じたのか。ウィキによれば吉田康彦もかなり怪しい人物だ。

<吉田康彦氏は大学院情報学環・学際情報学府修士課程中退。

日本放送協会(NHK)に23年間勤務し、ジュネーヴ支局長、国際局報道部次長を務めた後、1982年に国連職員となる。ニューヨーク、ジュネーヴ、ウィーンにて勤務し、国際原子力機関(IAEA)広報部長などを務め、1990年に帰国。

1993年より埼玉大学教養学部教授となり、国連、国際機構、NGO(非政府組織)、核・原子力問題、朝鮮半島問題についての解説・評論記事を数多く執筆。また、テレビ・新聞等のメディアで頻繁に登場し、発言している。

北朝鮮による日本人拉致問題について、1997年に「(拉致は)伝聞に基づくものであり、工作員の特定もされておらず、実態として韓国安企部の情報操作に躍らされている」と述べ、北朝鮮による犯行を否定していた。

これらの発言などから、拉致被害者家族の支援者や右派系メディア・論壇などから「拉致否定派」として批判を受けることがある。

批判に対して吉田は、北朝鮮による日本人拉致そのものを否定したことはないと弁明しているが、「拉致軽視」と取られかねない主張を自身のホームページや毎日新聞などへ寄稿しており、「私は拉致疑惑事件は韓国公安機関の安全企画部による謀略ないしデッチあげ、と信じる」とも述べていたこともあったが、北朝鮮が拉致を認め、謝罪してからは不明を恥じ、謝罪した>

謝罪で済む問題か。嘘つきだろう。朝日や岩波と同じく中朝の手先、代弁者としか思えない。

朝日とNHKは赤い糸で結ばれている。ともに慰安婦で大騒ぎをし、原発再稼働にブレーキをかけている。アカのネットワークには警戒しなくてはならない。(2014/9/13)

--

2014年10月05日

◆マスコミは正義に味方せず

渡部 亮次郎


信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような
マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから顔をした。

だが民放が本格的になって来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」人間だったからだ。

流石に大衆はもう気づいていたから先の東京都知事選では小泉が原発即時廃止といくら叫んでも小泉にはそのための備えも対策も無くただ叫んでいるだけだと見破っていたから細川は惨敗した。

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦はかじった人は「騙された」という批判をしたくなる。

衆院「解散」を巡る動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。麻生は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことだからである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしないでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。なぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)

2014年10月03日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2014年10月01日

◆情報は入手方法さえ

渡部 亮次郎



「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠) 

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。


「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。(だが古澤さんは入院し花岡さんは亡くなられて私は落胆している)。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。其の岩見さんも亡くなった。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。(福島さんはその後、フリーになられた)。


現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だが英語に堪能、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。


元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。

2014年09月29日

◆しゃべろん松岡洋右

渡部 亮次郎

細川護貞(故人)によれば、外務大臣時の松岡洋右(まつおか ようすけ)は大変な話し好きで朝から晩まで喋っていた。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにそのまま持帰ったということもあった。

また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していた。話が途中でも、時間がくれば1時間なら1時間で話相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編「語りつぐ昭和史」第2巻)。

妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する)―佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・寛子は佐藤栄作に嫁いだ。安倍晋三も血が繋がっている。

日本の国際連盟脱退を進め、アメリカ敵視の日独伊三国同盟の推進者、戦争犯罪人として68歳で病死した「まつおか ようすけ」。

1978年、日中平和友好条約の締結を急ぐ園田直外相は2代目松岡と党内から非難されたものだ。

1880(明治13)年3月4日、山口県光市室積で廻船問屋の四男として生まれる。11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米。

オレゴン大学法学部を1900年(明治33年)に卒業する。ポーカーの名手だったという。母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。

1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格、外務省に入省する。外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。

その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本粂太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。

1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。すぐに山本条太郎の引抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本粂太郎)。

1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月第17回衆議院議員総選挙で郷里山口2区から(政友会所属)当選する。議会内では、外務大臣幣原喜重郎の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。

なおイタリアを訪問した際に、同国で独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニと会見しているが、このころから親ファシズムの論調をとり始め、「ローマ進軍ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。

1932年10月、松岡は国際連盟総会に日本首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも当時の文芸春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。

日本政府は、満洲建国に関するリットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が1面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切 」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。

1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。

松岡はまず、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官四十数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

日独伊三国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。

この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかった。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。

しかし、開戦2日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第2次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。

その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語った。

しかし、結核悪化のため東京裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。

辞世の句
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉 (よみじ)」

山田風太郎(小説家 故人)は「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

昭和天皇は松岡を嫌っていたといわれる。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれている。

1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある。

妻:龍(工学博士進経太長女)
長男:謙一郎(実業家) - 山口淑子の恋人
長女:周子(愛知県、元宮内庁長官田島道治の長男譲治に嫁する)
甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市市長) - 三雄の長男は元参議院議員の松岡満寿男である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2014年09月27日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎



中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はケ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってケを避けようとした。

ケの三度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

三度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活したケ小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第2位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

 


2014年09月26日

◆NHK退職後の37年

渡部 亮次郎

給料を貰っていた日本健康医療専門学校の校長を2008年5月末日限りで退職したので、年金生活者になった。以後はメルマガ「頂門の一針」主宰者。要するに「無職」。

人生で一番嬉しかった事は大館から仙台への転勤だった。見送りは誰もいなかったが、晴れてNHKの正社員。1年後れの「34年組」3級放送記者に7月10日付で発令された。そこで1年。チリ地震津波を取材した。

今度は岩手県の盛岡放送局。放送部は別棟の木造瓦葺平屋建て。明らかに「付け足し」だった。取材で「NHKです」と言うと「聴取料は先ごろ納めましたよ」と言われる時代だった。

NHKがニュースの自主取材を開始したのは敗戦後の昭和26年。どこの官庁でも記者クラブに入れて貰えず、先輩たちは苦労したようだ。そのあとの民報の加入には結構、意地悪したらしいが。

家は米作農家。しかし長男は地元秋田の新聞記者になったので、親は大學出の私に後継を期待した。折角の大學出、勿体無いとNHK生活を許してくれた。家は妹が婿を迎えて継いでくれた。

盛岡では県政を担当。参院選挙で社会党候補が勝つと予報。東京政治部では奇想天外な事だったらしく、すぐに政治部に発令。あの時も嬉しかった。もはや「通信員上がり」ではなくなっていた筈だからである.盛岡中の芸者が見送りに来た。誰とも寝ていないのに。

昭和40年日韓基本条約の批准案が衆院で強行採決。社会党の楢橋代議士のセンターベンツが自民党代議士に裂かれた。これほどまでに自社対決を招いた朝鮮半島とは何だろう。

1972年、日中国交回復の田中角栄総理に同行して北京を訪問した翌年、韓国の朴政権に招かれて38度線などを視察。それを表向きの理由にされて大阪に左遷。単身で3年を過ごした。

大阪には赴任しないと辞表を3度出したが受理されなかった。政治部長が告白したところでは「君の転勤は、田中総理の意向なのだ」。私がTVに出て喋る解説が田中政権の邪魔なのだと言う。受理されれば田中金脈をある雑誌で暴く計画が出来つつあった。

報道局長が「3年経ったら政治部に戻してやるから」と言ったので「そんな事は信じない。3年後にあなたはそこに坐っていない」と憎まれ口を利いた。

3年経ったところで大阪ではこのまま大阪人にする計画のあることを知り、自分で計略を立てて東京に戻った。しかし政治部ではなく国際放送局(ラジオジャパン)だった。

もはや40歳。このまま居てもNHKに自分の居場所は無い、と考えているところへかねた親しかった福田赳夫内閣の官房長官園田直さんから自宅に電話。「なべしゃん、秘書官やってくれんね」。

誰にも相談せずに承諾。国立(くにたち)の自宅からバスと電車を乗り継いで総理官邸に到着したら、内閣改造で園田さんはただ1人居残り、ただし外務大臣に横滑りしていた。私は行ったこともない外務省の大臣秘書官になっていた。

実は福田さんの任期切れが迫っていた。幹事長大平正芳さんとの密約(メモ)で任期は「2年」。既に1年しか残っていない。密約の福田側立会人は園田。園田の機嫌をとりながら密約を反故にするための外相への横滑りだった。

世間は密約なぞ関知せぬところ。これは田中、三木の両政権でも成就できなかった日中平和友好条約の締結を成さしめるための人事と解説した。なるほど、園田氏は官房長官当時から早期締結の主張者ではあった。

側近になって気付いた事実。園田氏は黒衣(くろこ=忍者)を官房長官当時から中国に放って、外務省ルートでは得られない中国中枢部の情報をつぶさに得ていたのである。それは確実にトウ小平氏につながっていた。北京の日本大使館にこのルートは存在しなかった。

この忍者は条約の締結調印まで北京を2年間で14往復した。その結果「園田さんが来てくれさえすれば条約は締結する」という言質を早くに得ていたのだ。なるほど北京到着の翌日、日本側主張のとおりに妥結した。

締結の後、北京の日本大使館では「あれは世界情勢の変化を反映したもので、園田さんの功績でもなんでもない」と偉そうなことを言う人がいたが、それなら「だからじっとしても締結は成る」と電報で進言してきたらよかった、ね。

外務省で園田さんは福田、大平、鈴木の3内閣の大臣を務めた。,鈴木内閣でははじめに厚生大臣も務め、中国残留孤児帰国問題に手をつけた。糖尿病患者80年来の念願だったインスリン自己注射を許可した。昔、初入閣で公害病認定の決断に並ぶ功績である。

秘書官を終えたところで園田さんが70歳で逝去。やがて元防衛庁長官栗原祐幸さんの世話で井上美由紀さん(当時アルバイトニュースの学生援護会社長)を紹介され、井上会長の下で社団法人日米文化振興会の理事長に就任した。改めて英会話を習い日米間を17年間往来した。

続いて私学を手広く世界に展開する創志学園理事長の要請で柔道整復師と鍼灸師などの養成専門学校日本健康医療専門学校の校長となり7年間務めたが、都合で2008年5月一杯で退任した。

気がつけば72になっていた。省みていろいろな方にお世話になりっぱなしの半生だった。有難う御座いました。サラリーマンの退職じゃないから退職金はなかった。今は78歳。

2014年09月25日

◆マシュマロ君、元気かね

渡部 亮次郎



この欄に書くのは、謹厳にして皮肉屋の某教授が決して口にはしない、それでいて人生の真実と思うことにしようと決めている。そこで見出しにしたマシュマロとは丸いしふにゃふにゃした菓子である。精力の衰えた男性をからかう科白(せりふ)に使われる。

話題にこれを持って来たのは、総理大臣が衆議院議長の権勢をやんわりとしかし強く牽制するために、前夜の房事で君がマシュマロ状態だったのをオレは知ってるんだぜ、との意味を、肩を叩いて口に出した故事を持ち出して、情報収集の今昔を話そうというのである。

男性の精力。個人差は大きいというが、最も強いのは17歳ごろで、あとは次第に衰えるとの説がある。以後、若人は中年、壮年、老年と進んで死ぬわけだが、伴って生じる地位や権勢、所得がどこまで高く多くなっても、肉体の持つ精力が衰えてはなんとも味気ない、と嘆くのは大体、成功の人生を送った男である。それらと無縁の小生はとうに人畜無害である。

精神的な勢力の権化(ごんげ)こそは政治家だとは良く言われることだが、体験からするに政治家こそは肉体的にも精力の強い者でなければ勤まらない。

田中真紀子の父親の角栄氏が1970年前後(大学生の生まれるはるか昔)、自民党幹事長を勤めた頃、国会で野党を抑えて採決を強行しようとする寸前、泣くような表情で「ちょっと、ちょっとにわとり、鶏」といいながら姿を消した。

記者たちはそれならばと現場指揮の国対委員長を探すと、こちらも秘書にも言わずに姿を消したという。野党も殺気だって来る。田中幹事長はにわとり,にわとりといって姿を消したがなんの意味か。考えて、なるほど、オレは鶏のようにあっという間に(房事を)終わって来るから行かしてくれ、目をつぶってくれと言う意味だったのだ。

敵を攻めに行くとなると戦国武将は俄然、性欲が昂然ときざしたものだと何かで読んだ事がある。幹事長と国対委員長は現代の戦(いくさ)を目前にして戦国武将になったのだ。

第2次大戦の最後のところしか体験していない当方に戦国武将は理解できない。しかし幹事長らは間もなく戻って、国会は採決強行で大混乱。しかし幹事長らは既に涼しい顔だった。

政治家のそうした性(さが)を知ってそのウラをかき続けたのが佐藤栄作である。後に総理大臣となりさらにノーベル平和賞も受賞する佐藤だが、「人事の佐藤」と言われる前から「早耳の佐藤」と言われていた。

運輸省(今の国土交通省)事務次官からいきなり内閣官房長官に抜擢されて政界入りした佐藤は外交官上がりの宰相吉田茂に重用され続け若くして自由党幹事長に達した。

その時に危機が訪れる。大汚職事件・造船疑獄の容疑者の一人に数えられ東京地検に逮捕寸前に追い込まれる。そこで吉田首相が伝家の宝刀を抜くが如く法相に指揮権を発動して捜査をやめさせるよう命じ、佐藤を逃がした。佐藤はこれが無ければ後世、首相に昇ることは叶わなかっただろうと言われた。

佐藤はこの頃から政界の弱点こそはヘソの下に有りと感得。赤坂、新橋、柳橋といった花柳界における政治家の隠れた動静の掌握(つかむこと)に励むようになる。後年アメリカではニクソン大統領が上下両院議員の弱点掌握に努め、法案の通過に利用したと言われた。有名なウォーターゲート事件はその一環だったと言われたものだ。

ところで佐藤が目をつけたのは料亭の玄関に立っている下足番の男たちである。料亭では客は必ず靴を脱いで上がるが、その靴を下駄箱に座敷ごとに整理して置かないと帰りの時に混乱するから、予め女将から今夜のお客はどこの座敷はどなたとどなたと聞かされている。どの座敷では如何なるメンバーが会っているかを手に取るように知っているわけだ。何時に来て何時ごろ帰ったか、上機嫌だったのは誰で、誰はどのように不機嫌だったとか。

佐藤はその手を何軒の料亭にも使っていた。秘書がメモを回収し、酒を飲めない佐藤は夜のうちに情報のいわば分析を済ませていた。マシュマロ君、どうかねの科白はこうして簡単に出てきたのである。

君は男としての能力は低下しているらしいね、困ったね、僕はそれを知っているよと言われれば、男は昨夜の秘密をこの男は何で知っているんだとの疑問を持つより先に恐れを抱くだろう。昔から朝何とかの立たない奴にカネは貸すなの喩えがある。マシュマロの旦夕(たんせき=政治生命)は長くないよ。

佐藤はそうやって党の内外を掌握して行った。ヒマさえあれば国会議員の経歴簿を見ている佐藤だった。

大なり小なり国会議員は自分が生きるも死ぬも情報を早く得る事にあるとは知っているから、どんな情報も知りたがる。しかし佐藤のように花柳界にまで特別な方法を尽くしてまで情報を集めた人物はほかに知らない。

翻ってマスコミの情報収集は、少なくとも永田町に関する限りは記者会見に限られるのが今日この頃である。いや、朝駆け夜回りもしているよといってもそれらもまたすべて群れてやるから、本当の情報は掌握していない。

政治家は情報を得たいからマスコミに会う。その時は一度に多数が良い。しかし情報を漏らすのは一対一でなければならない。漏らした情報がどこの誰によってどのように漏れて行ったかが判らなくては困るからである。

従って記者の取る情報は政治家と一対一の時に得たものでない限り信憑性に欠けるといわざるを得ないことになる。小泉首相が毎日マイクの前に来て喋る一言などは真実からは程遠い。自分の都合の良いことを短く切って言っているだけである。短い方がテレビ局のデスクには好都合だと知っているからである。

そうやって世の中を見直して見ると今更ながら気のつくことは幾らでもある。テレビは見ない方が自分を守ることである。また例えば授業で先生がしつこく喋る箇所は試験に必ず出る。先生は得意のところだから、生徒、学生に覚えてほしいからである。このエッセイは例えばこの4行に眼目がある。これまではここまで解説するのは失礼かと慮って書かなかった。 
                          (文中敬称略)

2014年09月24日

◆ヒトゲノムって知ってる?

渡部 亮次郎



不摂生な食事や運動不足の生活をしていても糖尿病にならない人もいる。同じ場所で同時に横綱に昇進した大鵬と柏戸。共に巨漢だったが、大鵬は脳卒中に悩まされ、柏戸は糖尿病に取りつかれた。

<引退後の柏戸は過去10人の柏戸は全員が伊勢ノ海部屋を継承した伝統に反して年寄鏡山として独立、自身の現役時代の戦場蔵前国技館最後の本場所となる昭和59年9月場所で優勝の多賀竜などを育てた。

平成8年12月8日58歳で亡くなると鏡山部屋は元多賀竜の勝ノ浦が継承した。腎臓病の悪化は深刻で亡くなる数年前には人工透析を受け続けた副作用で骨が弱くなり「おい、見てくれよ、脚こんなになっちゃったよ」と言っていたという。

これを見たかつての好敵手大鵬は少しでもよくなるようにと考えてカルシウム剤を渡したという。>『ウィキペディア(Wikipedia)』

腎臓病の悪化。その原因が糖尿病だった。わが師園田直とおんなじだ。糖尿病でまず盲目になり、腎臓機能不全を補うため人工透析開始したが、すぐ尽きた。享年70。

産経新聞によると、徳島大学の板倉光夫教授(ゲノム機能学)は日本人2000人以上の比較から「SOCS2」や「MYL9」と呼ばれる遺伝子の微妙な差が、糖尿病になりやすい体質に関係することを突き止めた。(2006年10月2日付)

この結果、板倉教授は、将来(5-10年後)は、自分が糖尿病になりやすい体質かどうか、子供の時に分るようになる可能性がある、と言っている。

恐ろしいことになっているのだ。人間は死ぬのがいつか分らないから漫然と生きていられる、といってきたのに、科学が進歩した結果、何の病気で死ぬのかが分るようになるというのだ。

従って結婚の相手を選ぶのは、容貌や出自よりも遺伝子を調べることが先というロマンのないことになるかもしれない。

<ヒトゲノムはヒトのゲノムである。 ヒトゲノムは核ゲノムとミトコン
ドリアゲノムからなる。

ヒトゲノムの塩基配列の解読を目的とするヒトゲノム計画は1984年に最初に提案され、1991年から始まり、2000年6月26日にドラフト配列の解読を終了、2003年4月14日に全作業を終了した。

ヒトの遺伝子数は3万〜4万個あると考えられている。

核ゲノムは30億塩基対あり、24種の線状DNAに分かれて染色体を形成しており、最も大きいものが2億5千万塩基対で、最も小さいものが5500万塩基対である。 染色体は22種類の常染色体とXとYの2種類の性染色体に分類される。

核を持たない赤血球をのぞく体細胞は2倍体であり、同じ種類の常染色体を2本ずつ、性染色体を2本(女性はXとX、男性はXとY)の合計46本の染色体を持っている。 生殖細胞は1倍体であり、常染色体を1本ずつ、性染色体を1本の合計23本の染色体を持っている。

ミトコンドリアゲノムは16569塩基対の環状DNAでミトコンドリアの中に多数存在している。 体細胞も生殖細胞も約8000個ずつ持っている。>(同)ヒトゲノム計画の成果と問題点

<すでにほぼ完成している染色体地図をもとに遺伝学的手法を使って、いくつかの病気に関係する遺伝子が発見されている。

嚢胞(のうほう)性線維症や筋ジストロフィー、ハンチントン舞踏病(→ 舞踏病)などの遺伝性疾患に関与する遺伝子も同定(!)同一であることを見極めること?生物の分類上の所属を決定すること)されてきている。

日本の研究機関も、大腸癌(がん)抑制遺伝子、急性骨髄性白血病遺伝子などを明らかにするという成果をあげている。これらは遺伝性疾患を治療するために、よりよい遺伝子スクリーニングや新薬、遺伝子治療を開発するための第1歩である。

ヒト遺伝子に存在する致命的な欠陥が修正できるようになれば、疾患に対する取り組みは激変する可能性がある。

しかし、遺伝子変異が発見されても治療法がないことも多く、患者への告知などが課題となっている。

また一方で、ヒトゲノムに関する情報が増加するにつれて、倫理的、社会的、法的な面から多くの論議が出ている(→ バイオエシックス:応用倫理学)。

すでにヒトゲノム計画の初期の発見をめぐって、塩基配列の特許を認めることが適切かどうか、保険会社やその従業員が遺伝子情報を入手できるようにするのは妥当なのか、悪用や乱用の規制はどうするのか、本来なら子孫に伝えられるはずの遺伝的な欠陥を修正してもいいのか、といった問題が世界中ではげしく議論されている。>

Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005Microsoft Corporation. All rights reserved. 

医学に詳しくなった元NHK記者石岡荘十さんのコメント。

DNAの解析が話題になるずっと前から循環器内科の医者は、初診で糖尿病の家族がいないかどうかをしつこく訊くことになっていたそうです。

理由は―ー
<米国では、ほかの病気ではすべて死亡率が下がっているのに、糖尿病患者だけは死亡率が上がっているそうだ。

「それは日本でも同じ」と指摘するのは京都大医学部の臨床教授で、JR京都専売病院の桝田出(いずる)内科部長。

▽虚血性心疾患による死亡19%に上昇

「肥満などが原因で起こる2型糖尿病患者の最近10年間の死亡率は同傾向にある」という。

死亡率が高い原因は、糖尿病の合併症として知られている腎症・腎不全に加え、虚血性心疾患などの心臓病の発症が増えているためと考えられている。

「日本の2型糖尿病患者の死因分析では、虚血性心疾患による死亡が年とともに増加中。1970年代後半では全体の10・9%だったが、90年代前半には19%に上昇している」と桝田部長。

糖尿病を合併した心臓病(虚血性心疾患)については、いくつか問題点があるらしい。>(以上、共同通信Medical News web版)

このため循環器内科の医者はまず家族に糖尿病患者はいないか、しつこく聞くことにしています。DNAの解析以前に症例データの数から統計的に、「糖尿病体質は高い確率で受け継がれる」と考えていたからです。遺伝子レベルでの新たな研究成果はそのことを裏付けたことになるのかもしれません。

また癌についても慶応大学の放射線科部長、近藤誠医師が著書の中で、おおむねこんなことを言っています。「癌には2つある。癌を克服したとよく言うけどそれは本物(?)の癌ではない。癌もどきなのだ。だから治った。

本物の癌は生まれたときからDNAに組み込まれていて、全摘をしたからといって完治はしない。例の逸見(フジTVキャスター)さんの全摘はすべきでなかった」と自分の病院の心臓外科医を批判して話題になりました。彼の著書「患者よ、 がんと戦うな」(文春刊)はベストセラーになりました。

そんなわけで、いずれ遺伝子操作をめぐる大問題が確実に起きると私は思っています。ただし、それまでに早くて20年というところだそうでまあ、孫子の時代のことでしょう。

2014年09月23日

◆クラシックは新しい

渡部 亮次郎

「べートーヴェンは何かを語っているし、モーツアルトははしゃいでいる」と私は思う。

今の人は知らないだろうが、SP(standard play)版のレコードとは1枚に3分半しか録音されてない。もちろん裏面にも3分半録音されているが、その都度ひっくり返さなければならないから面倒だ。

クラシックの長い作品だと10枚で1曲なんていうのがあった。そのころからわずらわしさを感ぜずにクラシックを聞いていたというのは昭和1桁生まれの人たち。

SPがLP(long play)に変わるのは敗戦後しばらく経ってからだった。私は1950年を過ぎて高校に入った頃、ショパンの軍隊ポロネーズをLPで、生まれた初めて聴いた。

友人が「隠れて兄貴のレコードを持ち出してきた」と言った。ピアノの音にこれほど身を乗り出して聴く自分を発見して驚いた。高校で「音楽」は選択科目だったが選択しなかった。よく音楽教室からレコードで音楽が聞こえてきて授業が耳に入らなくなったものだ。

50年経って聴きなおすとあれはモーツアルトのセレナード「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だったのだ。永年、刺身や寿司を食べずに大損をしたように、私は音楽でも読書でも他人に引けをとり実に貧しい半生を送ってきた、と臍を噛んでいる。

私の幼少期は「流行歌」という名の演歌と共にあって、クラシックとは全く無縁だった。家の周囲は見渡す限りが田圃。東の遠くに出羽丘陵が連なっていた。西側には男鹿半島の山2つ。だから学校で「写生」の時間に
困ったものだ。描くものがどこにも無いのだから。

家の向かいに1歳上の少年がいて蓄音器と「種板」つまりレコードを持っていた。もちろん兄たちの持ち物。それを2人で鳴らして遊んだ。蓄音器はぜんまい式だった。

東海林太郎、霧島昇、伊藤久男、藤山一郎,渡邊はま子、ディック・ミネといった人たちのものばかり。今で言う元祖演歌の主たちである。擦り切れるまで聴いた。

やがてHNKのラジオ歌謡が流れ始めてそれに馴染んで行った。のど自慢の県大会に出て「チャペルの鐘」を歌ったが、チャペルってなんだか知らなかった。東海林太郎が秋田中学(旧制)の大先輩、上原敏が同じ秋田の人
とは子供の頃は知らなかった。

いかなる因縁かラジオ会社のNHKに入り、やがてそれはTV会社になったが、配属された部門はニュースそれも政治関係だったから音楽には縁が無くて過ぎた。

30を過ぎた頃、新宿の飲み屋で演歌師のアコーデオン伴奏で歌ったら客の1人に「あなた、歌手になりませんか」と言われた。著名なコーラス・グループのマネージャーだった。政治記者が演歌歌手デビュー、面白いが冗談でしょう。

50を過ぎてCDというものが流行りだした。1枚3、000円で60分とか70分録音されている。これはいいというのでCDのコレクションができた。2,000枚ぐらいはある。だが気がついてみればそれらはみな演歌だ。

ある日突然、頭の中でモーツアルトが鳴った。20代の終わりごろ岩手県盛岡市でNHK交響楽団が聞かせてくれた曲。頭の中で何十年ぶりかでなぜか鳴り響いたのである。調べたらそれはピアノ協奏曲20番であった。

小島新太郎さん(ケーブル・パーソンズ社長)によるとクラシックはまずメロディーの美しさが人間をひきつける。それからリズム、ハーモニーの美しさがわかればクラシックの虜になる、という。器楽はだから言葉が分からなくても理解できる。

その点、歌曲は言葉が分からなければ本当の理解は出来たとは言えない。言われればその通りである。20番のメロディーを美しいものとして頭が記憶していたらしい。

だから頭が「美しい音楽だな」と記憶すればその曲が好きになり、何度でも聴きたくなるそうだ。そうやってレパートリーが増えて行く。だとすれば芸術を好きになるためには経済力が親になければならないことになる。

昔、小島さんを先頭にして欧米のケーブル・テレビ事情を視察したことがあるが、その時のある青年は旅行中、レシーバーを両耳から離さなかった。毎日まいにちモーツアルトを聞き続けていたのである。モーツアル
トってそんなにいいですか、いいですねえ。

私は60を過ぎるころモーツアルト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ベートーヴェンなども聴くようになった。面白いことにクラシックを聴きなれると演歌は薄っぺらく感じられて聴かないようになる。

人には演歌もクラシックも聴くといっているが、どうも耳は別のように思えてくる。クラシックは本だが、演歌は雑誌のようだ。しかもモーツアルトははしゃいでいるし、ベートーヴェンは演説をしているように重い。

モーツアルトの時代は宮廷音楽家が小さな部屋に集められた小人数の客を前にいわば温和しい音楽で済んだが、ベートーヴェンの時代になると一般大衆を大きな会場に集めての演奏となったから、ジャジャジャジャーンといった耳目を集める音楽の時代となった。

まさに演説するような音楽になったのではないか。勿論、作曲家自身の性格も反映されるだろう。チャイコフスキーはホモがばれて秘密法廷で自殺を強要されて毒をあおったとか。しかし数々の美しいメロディーはホモゆえの美しさだろうか。

1951年ごろ、毎朝、通学列車を降りると秋田駅で必ず鳴っていたのは彼の名作ピアノ協奏曲第1番だった。すさんだ世相に逆らうように駅構内にクラシックを流す職員があの当時の「国鉄」にはいたのだ、秋田に。

それにしてもこれら大作曲家に匹敵する作曲家が20世紀以後出現しない理由は何だろう。失われたのはメロディーかリズムかハーモニーか或いはそのすべてか。現代というものが美しい音楽を生み出させない何かのエネルギーを発散しているのか。いずれクラシックはいつまでも新しい。