2014年09月13日

◆「ふんど」を譲らぬ永田ラッパ

渡部 亮次郎


憤怒はふんぬと読むのが普通だが、昔あった大映映画の社長永田雅一はある時ばかりは「ふんどと読ませるのだ」と言って譲らなかった。昔の話なのだが、03年11月26日付け朝日新聞夕刊に論説委員高成田享と言う人がかつての大映映画「君よ憤怒の河を渉れ(わたれ)」の事を書き「ふんぬ」とあえて仮名を振っていたから思い出したのである。

あれは昭和39年の終りか40年の初めかである。当時の自民党でナンバー2の実力者は総理大臣の佐藤栄作に次ぐ河野一郎だった。洋平元衆議院議長の父、太郎衆議院議員の祖父である。国会議員何十人かを抱える河野派を率いていた。

ある時河野さんと麻布台の河野事務所で雑談をしていた。私は29歳、河野さん67歳である。そこへいきなり永田雅一さんが割りこんで来た。勝新太郎らを伴っていた。河野さんに対して永田さんはスポンサーらしく大きな態度であった。ホラも大きいので永田ラッパが通称だった。

折から永田さんの映画会社「大映」では「君よ憤怒の河を渉れ」の製作を検討中の時期だった。詳しいことは忘れてしまったが永田さんは「あれをふんぬと発音したのでは印象(インパクト)が弱いからふんどと読ませるんだ」と論を張って譲らなかった。

どうでもいいことなのか河野さんも何の反応も示さなかったように思う。
もちろん私はその映画を見ないでしまった。西村寿行原作、映画は初公開年月1976/02/11
となっているから、河野さん死して1年後となるが、どうしてだろう。

<中国が鎖国を止めて日本の映画を公開した嚆矢は高倉健の『君よ憤怒の河を渡れ』であった。中国版公演のタイトルは『追捕』である。冤罪に巻き込まれた刑事が警察を辞めて独力で犯人を探し、自らの冤罪を雪ぐ話だ。中野良子はこれを助けるお嬢さん役。彼女はこの映画でいっぺんに有名になった。当時は山口百恵か中野良子かといわれたもの。>
http://www25.big.or.jp/~yabuki/soso/pe910091.htm

ところで高成田氏が夕刊のコラム「窓」でこの映画の題名を引いたのは、主演した中野良子さんが中国での大ヒット以来の付き合いでその時49回目の訪中でポプラの苗木を数十本植えてきた、と言う話なのである。

その時は永田さんも死んで居なかったろうから「ふんど」と主張する人は居なかったのだろう。憤怒はふんぬと高成田氏はあえて仮名をふっている。

後に私が秘書官として仕える事になる園田直(そのだすなお)氏は長く河野派4天王の1人であった。79年には福田内閣から大平内閣にかけての外務大臣だったが、中野さんの猛烈なファンで、中野さんに会えるなら公務の1つや2つ、ほっぽり投げてもいいと言うので日程をやりくりした事がある。

その園田外務大臣の残した業績の1つが日中平和友好条約の締結であり、中野さんの仕事が日中の協力で中国に植林事業を進める「緑の長城」の平和大使と言う。そこに何かの因縁を感じる。

「君よ憤怒の河を渉れ」で中野さんは真優美(チェン・ヨウ・メイ)と言う中国女性なのだそうだ。朝日の記事によれば中野さんは「中国に行くたびに気になるのは貧富の差。豊かな人が先に行き、貧しい人が後から追いかけるという政策だそうですが、なかなか差が埋まらないように見えます」と顔を曇らせたそうだ。2003.11.28.追記:2006・07・03

君よ憤怒の河を渉れ      西村寿行

徳間文庫
「この人がうちに入った強盗です。」新宿の交番で未知の女性水沢恵子からそう言われた時、東京地検のエリート検事杜丘冬人は一瞬何を言われたのか分からなかった。しかし彼女の証言を裏打ちする目撃者寺町俊明も現れ万事休す、このままではすまされぬと一瞬の隙をついて逃げ出す。

能登金剛近くの田舎に水沢を尋ねるが、殺されており、水沢殺害の容疑まで背負ってしまう。ならば寺町と北海道幌別川の田舎を尋ねるがすでに警察の手が回っており、ようよう逃げ出すことに。逃げ惑ううちに、彼は羆に襲われている村の娘を発見し助ける。

娘の生家、さらにそこも追われて、ひっそりとあの娘遠波真由美を襲った羆を仇と狙って暮らす老人のもとに身を寄せる。羆はかって老人の妻と娘を食ったのだ!対決、ついに羆を倒すが、老人は命を失い、隠れ場所もしつこく杜丘を追う矢村刑事に発見され、ふたたび逃亡。

青函フェリーで北海道を脱出しようとはかるが失敗、危うく捕らえられそうになったところを真由美の父に助けられ、自家用機を操縦し脱出することになる。鹿島沖で海上着水、いったん北に登って、追手を撒き、奥多摩湖あたりから東京都に入り込む。

なぜ自分が罠を仕掛けられ、追われる事になったのか、考えるうちに厚生省医務局医事課技官朝雲忠志の死にぶつかった。自殺で服毒薬はアトロピンと結論が出されたが、その夜朝雲を東邦製薬営業部長の酒井義広等が訪問していた。そして煙を食う猿、ツグミ、羆の謎!これら事件とどう関わるのだろうか。

情報収集中に裏切られ、新宿で警察に囲まれる。しかし十頭のサラブレッドと共に駆けつけた真由美に救われる。杜丘は、酒井の愛人の亭主武井吉晴が城北病院という精神病院で不審な死を遂げたことに疑問を持つ。

東邦製薬が開発している向神経薬A=Zの実験を行っているのではないか。証拠を求めて城北病院に潜入する。しかしそこにはもっと恐ろしい現実があった。モルヒネの過剰投与、新薬投与、ロボトミー手術などで廃人に追い込むシステム。証拠はつかんだものの、院長堂塔康竹等との生死をかけた対決が始まる。

逃亡者を主題にした作品といえば外国では古くはレ・ミゼラブル、逃亡者、日本では熊谷独「最後の逃亡者」、夢野久作「氷の涯」、佐々木譲「五稜郭残党伝」などが浮かんだ。最後の作品はこの作品と似たような部分がある。

しかしこの作品は活劇としてのスリルが断然大きい。映画にしたいような作品である。おそらく最初によほど正確にプロットを考えておいたのであろう。最後の作者の「作品を書くまで」にその事情が書かれていて興味深い。

「白紙の状態だが、いつのまにか<逃亡検事>というイメージだけは出来上がっていた。さて、とぼくは原稿用紙に向かった。最初はコチョコチョといたずら書きから始める。人の名前とか、人間の目玉の絵とか、○や△を無意味に書いて、一日は終わる。二日、三日目になって数行のストーリーらしきものが書ければいいほうである。

そんなことを十日近く続ける。一種のセレモニーである。.原稿用紙に数枚、細字でビッシリ書き込んだ筋書きなるものが出来上がるのが約半月後である。陣痛までの苦しみが長いせいか、ぼくはこの筋書きなるものにいうにいえない愛着を感じる。右から見ようが左から見ようが、もうこれ以上のものはないような気になる。」

 ・アトロピンは日本にも自生するハシリドコロなどのナス科植物の根茎からとるもので、スコポラミン、ヒヨスアミンなどと似た化学構造式を持っていた、致死量〇・〇五グラムとされている。致死量を飲んだ場合は延髄に作用して急死することが多い。(86P)

・クモはAの薬を与えられればAの網をはり、Bの薬にはBの網をはる。....網を見れば薬の成分が分かるほどパターンは正確なのだ。(338P)000816 http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha/JKIMIYOH.html


  

2014年09月12日

◆ソースを食べられない

渡部 亮次郎

少年の頃、戦争による物資不足から田舎では醤油がなくなったことを書いたら、それじゃソースはどうなのと聞かれて恥じ入った。田舎に昭和10年代、ソースははじめっから無かったから、つい、今でも好きじゃない。

だから大阪では、お好み焼きに行く気にならないから、随分、デートでチャンスを逃した。家人の父親は都内で有名な老舗レストランの料理長だったそうだが、私と同年の義姉はソースより醤油が好きだというから、同じ戦争体験をしているのだ。

長じて大学の食堂に行ったら、どのテーブルにも醤油とソース、胡椒、唐辛子が置いてあった。ところがアメリカへ行ってみたところ、軽食屋のテーブルに置いてあるのは、ケチャップとタバスコに食塩はあったりなかったり。

醤油やソースを置いているのは日本だけだよ、と笑われた。然し、あの固くて分厚い、まずいステーキを飲み下すには少なくとも醤油は不可欠だと思っていたら、その後、アメリカで醤油が大流行で、現地生産もしている。経緯上、アメリカ人は醤油のことをキッコーマンと呼ぶ。

ところでソースはフランス料理の決め手だそうだが、わたしの言っているのは、日本で市販されているソースのこと。ウスターソースというのだそうである。イギリス生まれというが、イギリスで直接味わったことはない。

2014年09月10日

◆とんかつ万歳

渡部 亮次郎



敗戦7年後の昭和27年4月28日にサンフランシスコ条約が発効して日本ようやく再び、独立国となった。この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条 (b)そこで外務省もその機能を回復するため、語学研修を再開した。

冒頭、教師が「知っている英語があったら言ってみなさい」といったら「トンカーツ」という答えがあったという嘘のような本当の話が残っている。

とんかつ とは豚肉にパン粉をつけて油で揚げたもの。豚カツレツの略。日本で誕生した。豚カツ、トンカツ、とも表記する。ヨーロッパではポーク〔豚肉の〕カツレツというが、日本のは始めから箸で食えるように5つか6つに切ってある。どうも日本食と言っていいだろう。

ものの本によればとんかつを工夫したのは明治時代、宮内省で西洋料理の経験があった島田信二郎氏で、彼が現在のような厚切り豚肉のとんかつを工夫して売り出したものらしい。創業明治38年。今は4代目が上野松坂屋の隣で「ぽん多本家」を開いている。電話:03-3831-2351.月曜定休。

試みにウィキペディアを開いてもトンカツ屋の宣伝と食べ歩記だけがでてくるが、平凡社の百科事典にはちゃんと登場する。

<カツレツ 肉料理の一種で、英語のカットレット cutlet のなまった語。本来の語意はあばら骨のついた羊肉の切身のことで、イギリスでは子ウシやヒツジの肉の切身に塩コショウをして,小麦粉,卵黄,パン粉の順に衣をつけ,バターで両面をきつね色に焼きあげる料理の名としても使われている。

このイギリス料理の調理法が日本の書物に初登場したのは1872年(明治5)のことである。この年,2冊の西洋料理書が東京で出版された。いささかあやしげな豚肉のカットレットを紹介している《西洋料理通》(仮名垣魯文編)と、イギリス式の子ウシのそれの調理法を正確に記した《西洋料理指南》(敬学堂主人著)である。

この両書が刊行されたとはいえ,西洋料理は当時の日本人にはまだまったくなじみの薄いものだった。カットレットの〈ト〉をはぶいた日本式発音のカツレツが日本人の食生活に顔を出しはじめたのは明治30年代になってからで(どうも島田信二郎が始めたものらしい)。

洋食がまだまだ一般化していない時代、柔らかくて、ハシで食べられる洋食として売り出したところ、珍しがられて売れた。それには国産ウースターソースの市販と、ちまたの洋食屋のくふうによるところが大きかった。

日本人好みに工夫されたカツレツは、てんぷらの手法を取り入れたもので、深鍋にゴマ油、あるいは牛肉にはヘット、豚肉にはラードを入れ、大きく薄く切ってたたいた肉にイギリス式の衣をつけてこんがりと揚げる。その揚げたてに国産ソースをかけると米の飯によく合った。

こうしてカツレツは庶民の最も好む洋食となって大正、昭和とうけつがれ、豚肉のそれはせん切りキャベツを付けあわせとする「とんかつ」へとさらに日本化され、とんかつを卵とじにする「カツ丼」も考案されて今日に至っている 村岡 実>
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

東京・上野、正確に言えば文京区湯島3丁目〔松坂屋の真向かいの〕路地にとんかつ屋「井泉」本店がある。昭和5年、創業者が俳人萩原井泉水のファンで「井泉」を雅号にしていたことから「せいせん」の心算で「井泉」とつけたが、下町で「せいせん」と読める文人はトンカツを喰わなかったのか、いまではみんなが「いせん」と呼ぶに任せている。電話
03-3834-2901。定休日:水曜。

支店は全国に散らばっているそうだが、東京だけでも日本橋、銀座、丸ビル、浅草、五反田、吉祥寺、八王子と広がっている。しかし私は本店ムードが気に入っているので、待ってもカウンター席に座って、定(1250〜1350円)を待つ。

なぜかというと、注文を聞き取った女性が、トンカツの揚げ係(多分主任?)に告げるのを合図に各係りが一斉に動き出す。キャベツは既に冷蔵庫に入っている。それを出して盛り付ける係り。

おしんこを盛る係り、トン汁を温める係り。トンカツが揚がる。それを5つに切る係り。それを合図に「定食」1式がさっと整えられる。チームワークたるやみごとの一言。時々は浅草の店にも行くが、チームプレーの見事さを味わうたに、なるべく本店に行
く。

ところで、明治38年の日露戦争の折、海軍は豚肉(ビタミンb1が多い)を食って脚気を克服したが、陸軍の軍医総監森 林太郎〔鴎外〕は脚気は栄養からではなく黴菌だとして豚肉にも玄米にも感心を示さず、何万という兵士を脚気で死なせた話は有名である。

英邁な明治天皇ははやくから肉食の有用性を信じ、明治5年に自ら牛肉を召し上がられると共に、永らく禁じてきた庶民の肉食を解禁された。そこで東京では汁たっぷりの牛鍋、関西ではすき焼きが流行り始めたとされている。

【日本の肉食史】を「世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス」を引用しながら振り返ってみる。

世界的にみてきわめて特異な例に属するが,近代になるまで日本人の多くは獣肉食を忌避していた。675年(天武4)4月17日の詔が布告された。それは前段で魚や獣の濫獲をまねく捕獲法に制限を加え,後段では牛、馬、犬、猿、鶏の食用を禁じ,それ以外の捕獲用は禁制の限りではない,としたものである。

食用禁止の理由は、牛馬については上記天平13年詔のとおりであり、猿についてはよくわからないが(現代では中華料理ぐらい)犬(今は中韓人が強精剤と信じて多食する)は門を守り狩りで働き、鶏は時刻を知らせてくれるといったことのようである。

とにかく、人の仕事を分担してくれる家畜の環殺・食用を禁じたものあった。すでに豚も飼育されていたはずであるが、それも農作物に害を与える野獣一般とともに禁制の限りではなく、全体としてこの詔には農耕中心の国家意識が色濃く投影されている。

それが聖武天皇の時代以後になると、深刻な社会不安を仏教にすがって切り抜けようとした結果、殺生戒にもとづいて一切の殺生禁断、肉食禁制が布告されるようになった。

たび重なる禁令の発布は、まず貴族階級や都市民の間に獣肉食一般を罪悪視する感覚を醸成し、やがて日本人の多くが肉食を穢(けがれ)として、その忌避に傾いていったようである。しかし4つ足動物のトサツを「穢れ」視する解釈は被差別の意識を誘発することとなった。科学の実発達がこれを助長した。

そうした中でも《文徳実録》に見える藤原長良(ふじわらのながら)などのような肉食愛好者も,当然ながらたえず存在していた。

とくに武士たちは戦闘訓練をもかねた巻狩りなどを行った。また、《百錬抄》が伝える1236年(嘉禎2)の宍市(ししいち)のように、京都市民が不浄のことと顔をそむける中で、武士たちが町中に鹿の肉を集積し飽食するようなできごともあった。

清少納言は動物タンパク質のない食事を「精進(そうじ)物のいとあしき」といっているが、獣肉食を拒否すればこのことばはそのまま魚鳥こそが〈美物(びぶつ)〉、つまり、美味なものとする意識につながる。結果、平安期以降、とくに室町期には鳥料理が美物中の美物とされることが多かった。京都が発祥のがんもどき=雁もどき=は良い例だろう。

ちなみに、室町期の料理書に調理法が記載されている獣肉はタヌキとカワウソだけであるが、いずれも肉がくさいのであろうか、殺してから汁の実にするまでたいへんな手間をかけるように書いてある。

室町末期から江戸初期にかけてのヨーロッパ人の来航は,日本人の食生活に対して最大級の衝撃を与えた。彼らが牛、豚、鶏をなんの罪悪感ももたずに環殺食用する光景に接した日本人の中には、旧に倍する嫌悪感を抱いた者が多かったと同時に、奈良朝以来の呪縛(じゆばく)からの解放を感じた者も少なくなかった。

長崎でも京都でも牛肉をたしなむ市民が急増したという。やがてキリシタンの禁圧と鎖国、さらに将軍綱吉による〈生類憐みの令〉の布告などよって、開花しかけた肉食文化は再びタブーの中に閉じ込められたが、江戸後期に入って新しい展開を見せるようになった。

西欧の知識の洗礼をうけた蘭学者などが公然と肉食するようになり、一般にもこれを歓迎する者が多く、江戸で獣店(けものだな)ももんじ屋などと呼ばれた獣肉店が繁盛するようになった。平成の今も東京・両国橋のたもとには「ももんじ屋」の看板を掲げて猪を食べさせている。

儒医香川修徳(しゆうとく)(1683‐1755)のように「邦人ハ獣肉ヲ食ハザル故ニ虚弱ナリ」と栄養面から肉食の必要を説いた人もあり、寺門静軒のように、たわむれであっても来世は獣肉になりたいなどという者もあった。

こうして、全体としては、国学者などを中心にあくまで肉食を不浄視する保守派のほうが多く、幕末にいたるまで肉食の是非についての論議が盛んに行われた。

その一人,天保期国学の大家とされる小山田与清(おやまだともきよ)は《鯨肉調味方(げいにくちようみほう)》という鯨料理一式の本の著者に擬せられてもいるが「肉食の悪風が流行するのは蘭学者連中の始めたことだ、それが火の神祝融(しゆくゆう)の怒りにふれて江戸には火事がたえないのだ」と、とんでもない感情論をぶちまけている。

鯨が魚であった時代であるから,彼自身には矛盾はなかったのだが、いま欧米からみればまことに「けしからん」話だろう。

ところで,日本人の多くが肉食を避け、あるいは嫌ってきたことは、香辛料の使い方に大きな影響を与えた。たとえば、コショウは奈良時代以来輸入されていたが、室町時代以後うどんの薬味とされたくらいで、いっこうに用途がひろがらず、トウガラシが伝来するとまもなくその薬味の座をあけ渡してしまった。

また、どういう使い方をされたのか不明だが、コエンドロ(コリアンダー)が天皇の食膳に供されるために栽培されていたことが《延喜式》に見えるが、その後はまったく使われた形跡がない。

もし、日本の獣肉食がもっと盛んで多様化されていれば、これらの利用、栽培も続けられていたと思われる。また、明治以後の獣肉食をみても、すき焼、とんかつ、カレーなどいずれも米飯に合うものが最もひろく愛好されている。

米食中心の味覚が、西欧風の香辛料を排し、日本の肉料理の方向を決定したといえるようである。〔この項特に 鈴木 晋一氏の記述を参考とた〕


  

2014年09月08日

◆アカシアの雨がやむとき

渡部 亮次郎


言わずと知れた西田佐知子のヒット曲である。「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい 夜が明ける日が上る・・・」1960年の判安保の歌とあとで評判になった。

日米安保反対闘争を私は仙台でNHK記者として聞いた。23歳だった。鼻の頭に汗を浮かべながら冷害の心配をせっせとニュースにし、カメラマンの訓練も受けていて、国会議事堂をとりまく安保騒動には全く関心を寄せる暇が無かった。

1960年、昭和35年は心有る者には「大逆(たいぎゃく)事件の真実をあきらかにする会」が発足し、50年前、残虐非道の判決が下された「大逆事件」について、やっと再審を請求する動きの始まった年として、記憶されるべき年である。

しかも大逆事件の経緯を知れば、安保騒動なんかに付和雷同することは、とうてい出来なかった。

「たいぎゃくじけん。明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件。1910年(明治43)一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者・無政府主義者が検挙され、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含む24名が死刑を宣告され、翌年1月幸徳秋水・宮下太吉ら12名が処刑された。幸徳事件」(岩波広辞苑第5版)。

78歳の私ですら大逆事件のことを学校で習ったことは無い。戦後、アメリカ軍は日本の子供たちが自国の近現代史を習うことを嫌ったからである。そのまま成長してしまい、大逆事件の事を知るのは大人になって自分で本を読んでからである。

時は日本がロシアとの「日露戦争」にやっと勝った直後である。「日本政治裁判史録」(第一法規出版)に依ると、世には一種の挫折感がみなぎり、深刻な生活難が実在した。色あせた明治の栄光の陰から、社会主義運動は次第に形を整え、政治の舞台に登場してきたのである。

甲府生まれにして長野県内にある官営明科(あかしな)製材所職工長宮下太吉(34)が明治43年5月25日、明治天皇を暗殺する目的で作ろうとした爆裂弾の材料とともに逮捕されて事件の幕はあがった。

語らった友人、親族それに思想的指導者としての幸徳秋水や、管野スガらが次々に逮捕されて26人にのぼった。罪名は刑法73条「皇室に対する罪」である。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。どう考えても唆したとされる管野スガ、爆裂弾作りに手を下した4人以外は「口舌の徒」に過ぎない。

しかし、社会主義政党を許可した西園寺内閣を憎んで潰した桂内閣とその陰にいる元老山県有朋は、この事件をいいことに社会主義・無政府主義の根絶を図ろうと企てた。

引っ掛けられた方はたまらない。裁判は大逆罪に限り非公開1審のみ証人無し。検事側の主役を演じた平沼騏一郎でさえ後年「今なら10年ぐらいかかるだろう」と言うのを、証拠調べにわずか20日。なにしろ捜査開始から判決までたった8ヶ月だった。

24人に死刑、うち12人は恩赦で無期懲役となったが、とにかく12人は1週間後に処刑された。恐ろしい時代だったのである。からくも死を逃れた14人のうち3人は獄中病死、2人は自殺、残りはやっと昭和9年までに仮出獄や満期釈放となった。

昭和9年に仮出獄した坂本清馬本人と別の遺族が昭和36年から再審を請求し続けたが昭和42年7月5日、最高裁でも棄却されて事件は闇に葬られた。

戦後は刑法も改正されて大逆罪や不敬罪は無くなった。しかしそれをなくしたのは、占領軍アメリカだった。確かにアメリカは日本から自主防衛の権力も取り上げたので、岸信介首相はせめて相互協定にしようと日米安保条約改定を図ったのである。岸内閣は倒すべきでは厳として無かった。

それを社会党と共産党、労働組合・総評の逆宣伝に乗って全学連などと言って国会周辺で騒いで女子学生を踏み殺した。

ただそれだけの「はしゃぎ」だったのに「空しい」と「アカシアの雨がやむとき」なんぞ歌ってメソメソするとは、いい気なもんだった。

安保騒動の学生が殺されなかったのには大逆事件の犠牲による刑事訴訟法の改正が大きかった。


2014年09月06日

◆カレーライスと海軍

渡部 亮次郎

「北海道カレー会議」というグループが一時はあって、事務局を 札幌市に置いて北海道の産物のすべてをカレーライスにして食べ尽くそうと呼びかけていた。2006年現在は休止している。

そのホームページによると

<カレーライスは「印度のカリー」を原点とし、「英国」・「仏蘭西」などを経て「日本」にもたらされた。特に明治期の「英国式シチュー風カレー」が旧帝国海軍のメニューとして採用され、軍人を通じて日本への大きな影響を与え、その後「日本の米」と出会うことにより、独特の「ライスカレー、カレーライス」を作り出したといわれている。

この、明治期の日本海軍によるカレーライス導入こそ国民食への始まりとする見方も有力である。 しかし、明治9年頃、既に我が札幌農学校には「生徒ハ米飯ヲ食スべカラズ」という寮則があったことや、「但シライスカレーハ是ニ非ズ」と言ったといわれていることを知る人は少ない。

この一文を起こした人こそ、あのクラーク博士であり、近代日本の黎明期を支えた多くの偉人達が大志を胸に、日々カレーライスを食していたのだ。日本で、最も早くカレーライスを常食化した地こそ、この北海道であることは疑いもない史実なのだ。近代日本の英知を育んだ「北海道のカレーライス」は偉いのだ。>となっている。

明治政府の富国強兵策による軍隊の増強とともに,脚気は兵営に急速に増加し,明治初年には陸軍で兵士の5分の1から3分の1がこれを発症し,日清・日露の戦時には前線将兵のほぼ4分の1が脚気となり,それは総傷病者数の2分の1というありさまであった。

脚気の病因については,当時なお中毒説・伝染説・栄養障害説がこもごも論ぜられ,治療のきめ手を欠いていたが,イギリスの衛生学を学んできた海軍の高木兼寛は,いちはやく脚気対策の重点を食に置き,兵食改良に着手し,海軍では兵食を米麦混食にしてから脚気は急速に減少した。     

もともと脚気は江戸時代の元禄〜享保年間(17世紀末〜18世紀初め)に江戸で大流行した。この年代は日本人の米食がそれまでの玄米または半つき米から精白度の高い白米に移行した時期と一致している。

また寛政年間(1789‐1801)には京都,文化年間(1804‐18)には大坂で流行した記録がみられ,〈江戸煩い〉あるいは〈大坂腫れ〉などとよばれた。明治になると都市人口の激増や貧困層の増大につれ,食生活の低下とくに青年層における栄養の相対的低下が著しくなり,脚気の急増を招くことになった。

高木兼寛 1849‐1920(嘉永2‐大正9)たかぎかねひろ

明治・大正期の軍医。宮崎県生れ。幼名藤四郎。石神良策,W. ウィリスに医学を学び,1872年(明治5)海軍省出仕。75年ロンドンのセント・トマス病院医学校に留学し,80年帰国,東京海軍病院長となる。81年成医会をつくり,成医会講習所(京橋区鎗屋町、現在の銀座4丁目)の所長となる(東京慈恵会医大はこれを原点としている)。

翌82年有志共立東京病院(同大学付属病院の前身)を設立し,85年同院に看護婦養成所を設立し,日本最初のナイチンゲール式近代看護教育を開始した。成医会講習所は何回かの名称・組織の変更を経て今日の東京慈恵会医大に至るが,ドイツ医学主流の当時にイギリス医学を導入した。85年には海軍軍医総監となる。

海軍軍陣医学の近代化への貢献は大きいが,とくに脚気減少のために努力した。開化期の先端的文化人としての活躍(鹿鳴館のバザー,神前結婚,オーナードライバー,洋装のすすめ)も忘れることができな
い。

日露戦争と脚気をテーマとして書かれた吉村昭の小説「白い航跡」(講談社文庫)では海軍軍医総監として、理屈はまだ分からないけれど、とにかく肉や麦(パン)、カレーライスを食べさせれば脚気は治るんだから良いという高木。 

対する陸軍軍医総監森 林太郎(鴎外)はドイツ派医学の代表として脚気黴菌説のパスツールにしたがって農村出身の次男、三男たちに白米をたらふく食べさせ、結果として脚気患者を大量に出現させた。そればかりか、高木を、いわば学無き者として、罵詈雑言を浴びせて非難した。

明治天皇がこれに注目された。皇后が脚気を患っておられた。そこで高木を陪食に招き、栄養の話を聴かれた。その結果、脚気は治癒した。天皇は高木を4度も陪食に招かれた。鴎外は1度もなし。鴎外が「勲章なぞ貰うな」と遺言して死んだのは腹癒せではないかと私は思ってしまう。            

もともと英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、代わりに日持ちのよい香辛料のカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューはともかくパンでは力がでない、と白米にかけた。

カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けしてかけたところ好評を得て海軍カレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている。肉と小麦粉でビタミンB1が補給されて脚気も治った

日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用、海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。

肉は主に牛肉、太平洋戦争時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。その後、復員した兵士がこれを広めたため、カレーライスは全国に広がった。

戦後の復興期、カレーの普及に着目した食品メーカーなどが、海軍カレーに準拠するカレー粉を製造・販売したため、日本のカレーの由来は海軍カレーであるということができる。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日にすべての部署でカレーライスを食べる習慣となっている。これは単調な海上勤務で、曜日の感覚を取り戻すためというほか、余っても基地から外出せず週末に居残った者が手軽に食べられるという現実的な理由もあったらしい。

海上自衛隊で食べられているものは「海上自衛隊カレー」と呼ばれる。現在は、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なっている。従って今日の海上自衛隊のカレーには単一の味・レシピは存在しない。「×××スーパーカレー」というような呼び方をする。×××には艦艇番号などが入る。

なお、カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらにタンパク質補強に卵、ビタミンC補強に果物、を加えるなど、栄養学的に献立に工夫を加えることは、海上自衛隊での通例となっている。

護衛艦は優れた冷凍貯蔵設備(戦時には遺体安置室となる噂もある)を有し、食材はほぼ一般家庭と同程度の鮮度が保障されている。海上自衛隊カレーは、味、コク、香り、ボリュームの4拍子すべてが高レベルであり、一般の洋食屋にあるカレーの味では追従を許さない。

海上自衛隊カレーには各部隊、各艦艇で独特の隠し味がありたとえば赤ワイン、ミロ、ゆであずき、インスタントコーヒー、コカコーラ、ブルーベリージャムなどさまざまである。

実際海上自衛隊カレーの味に惹かれて海上自衛隊に入隊するものもあり、その中には自らの職種を給養として、海軍カレーの伝統継承に人生を投じるものまでいるのである。

給養員は勤務において実務経験を得ることができ、調理師、栄養士などの資格取得も可能である。海上自衛隊の給養員として勤務し、その後独立して店を構えたものもいる。


2014年09月05日

◆岡晴夫 自己注射禁止の犠牲者

渡部 亮次郎


昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

当時の厚生省は日本医師会に恐れおののいて、欧米では当然だった糖尿病患者による治療薬「インスリン」の女故注射をインスリン発見後、80年間も禁止した。その間、多くの患者が憤激の死を遂げた。

禁を破って自己注射許可の省令を出したのは2度目の厚生大臣を務める代議士園田 直'(すなお)だった。私はそれを手伝う秘書官だった。昭和56年のことだった。

岡 晴夫本名 佐々木辰夫は1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、 千葉県木更津市で育った。死没 1970年5月19日。

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをしながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはな
かった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれず糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバッ
クだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの急死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳
なのに。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たです。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は東京・江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。

2014年09月04日

◆きりたんぽ怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ警察電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

問題は「料亭」だ。1軒しかない。「芸者」もそこにしか出入りするところが無い。スポンサーは変われど、料亭も芸者も毎晩同じ顔ぶれ。しかも料理は決って「きりたんぽ」。

毎日、毎晩「きりたんぽ」だから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。


きりたんぽ(切蒲英)とは、つぶした粳米のご飯を竹輪のように杉の棒に巻き付けて焼き、棒から外して食べやすく切った食品。秋田県の郷土料理。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いたりして食べる。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。(ウイき)

   

2014年09月03日

◆夜と朝の間にピーター

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ1952年8月8日 大阪府堺市西区 生まれ。(62歳)血液型 A型 俳優、タレント、歌手 。

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。

「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。


2014年09月01日

◆何時まで「皆さんの」NHKか

渡部 亮次郎


東京の街を見回して気の付くことだが「喫茶店」が殆ど姿を消し、新たに登場したのが単身客相手のコーヒー屋だ。友達同士、喫茶店に入って音楽で癒しながら話に興じると言うことが無くなった。コーヒー屋では自分だけを癒している女性や男性を目にするが、話し込んでいる客は皆無だ。なんとなく「孤独」でパーソナルな時代になった。

企業や団体で、慰安旅行が忌避されてもはや久しい。会社の上役や同僚といること自体が「ストレス」であるから、温泉宿で一緒に酒を呑んでもストレスがたまるだけ。

だからストレスが溜まったら、こっそりコーヒー屋に一人で入り、独りで癒すのだろうか。団体を忌避し、孤独が癒しになる時代が到来したのだろう。

そうかと思うとNHKはいつまでも「皆さんの」を叫んでいる。ラジオ深夜便では午前4時の直前「何時でも何処でも安心をお届けするNHKラジオ。NHKのラジオとテレビの放送は皆さんの受信料で作られています」とコマーシャルを必ず放送している。

あれを聴くと「皆さん」というグループか階層かがあって、その人たちの出す受信料なる資金で、番組がNHKじゃない他の場所で制作されているのだ、と聞える。NHKが制作しているのではなく別の会社によって制作「されて」いると。

「あなたの払って下さる受信料で私共が番組を作っているのです。ですから受信料は必ず払って下さるよう御願します」とは聞えない。

聞えないコマーシャルは無駄。誰一人これに気が付かないというのだからNHKには人が沢山いるようで、「誰もいない海」なのだ。

日本でも、初め、ラジオの放送が始まった時、それは高価であって、番組は各家庭で家族一緒に茶の間で楽しむものだった。だからNHKも聞いているのが「あなた」ではなく「みなさん」だった。

だが、いまやテレビもラジオも一人ひとりで視聴する時代になっている。パーソナルなものに変化したのである。喫茶店がなくなったと同様、放送は家族団らんの道具ではなくなったのである。

だからNHKの呼びかけは「皆さん」から「あなた」に切り替えなければ時代遅れなのである。NHKは「みなさまの」から「あなたの」NHKにならなければならなくなっているのである。

あるいはNHKの経営陣はNHKを受信していないのかも知れない。少なくともラジオ深夜便の午前4時直前の「コマーシャル」を聞いてないのだろう。NHKには人はいるが「皆さん」から「あなた」に変える人材はいないからなぁ。

2014年08月30日

◆ハンケチはどこへ行った

渡部 亮次郎


昭和29(1954)年の流行歌に岡本敦郎(おかもと あつお、1924年12月25日- 2012年12月28日))の歌う「高原列車は行く」というのがあるが、ここで歌はいきなり「汽車の窓からハンケチ振れば・・・」と歌っているもんだから、いまどきの人から「なんでハンカチをハンケチと歌うんだ」という疑問が呈せられている。

私は、これは日本人にいかに英語が影響しているかの社会現象だと思う。戦前生まれの日本人はハンカチなんか知らないし、仮に知っている人でも、これがハンカチーフという英語の略だとは知らなかった。

ただ高原列車の歌より4年も前の昭和24年に二葉あき子が歌ったのは「水色のハンカチ」となっている。藤浦は長崎県平戸、丘は福島県の生まれ。「ケ」か「カ」か、出身地の違いからではなさそうだ。

なるほど、なんでも取り上げて解説してみせるフリー百科事典『ウイキペディア』は「ハンカチ」を取り上げ、ハンカチ王子も取り上げている。

<ハンカチとは、ハンカチーフの省略形。ハンケチと称されることもある。手を拭く、汗を拭う等に使う、通常は四辺を一にする正方形の布。欧米では鼻をかむことに使われている>。

これではなぜ「ケ」ができたかがわからない。広辞苑は「ハンカチに同じとそっけない。ただ、1936年生まれの私は少年時代はハンカチを持とうにも戦争中の物資不足のため生産されておらず、言葉すら知らないで育った。

野球をやるときはベンチのタオルで拭いたし、高校に入ってからは日本手拭を小さく畳んで腰にぶら下げているのが普通だった。その昔、旧制の高等学校の生徒は、その手拭が常に汚く「醤油で煮染めたような」と表現された、とものの本で読んだ。

再びハンカチ。

<素材は綿、絹及び麻(リンネル)などが多い。近年の清潔志向を反映し、抗菌加工を施した素材も広く出回っている。ズボンやジャケットのポケットなどに入れたり、鞄に入れて持ち歩く。マジックにおける重要な小物の一つである。

2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけてのイラク復興支援群などの派遣に際して、派遣自衛隊員の安全を願って黄色いハンカチを身につける運動が見られた。

2006年、第88回全国高等学校野球選手権大会の優勝校早稲田実業のエース斎藤佑樹が青いタオルハンカチで汗を拭くことから電子掲示板やマスコミから「ハンカチ王子」と呼ばれ青いハンカチが全国でブームになった。>

かまやつの歌にも出てくる。吉田拓郎作の『我が良き友よ』のよき友は腰に手拭をぶら下げてやってくる。決してハンカチで顔など拭かない。

戦前のサラリーマン(その頃は勤め人といった)がポケットに忍ばせたのは「ハンケチ」であって「ハンカチ」ではない。昭和30年ごろになってようやく英語教育が普及するようになると「ハンケチ」が実は「ハンカチーフ」という英語の略称と知るようになる。するともう「ハンケチ」とは発音できなくなった。

しかし「汽車の窓からハンケチ」と謳いあげた作詞家の丘 灯至夫(2009年11月24日、腎不全のために東京都内の病院にて永眠。92歳没)がこの歌を作詞する頃はハンケチがハンカチである事は知らなかったのではなかろうか。

それまでの日本人はハンケチすら持たずに手拭を常用としていたのである。

<手拭(てぬぐい、江戸弁・博多弁では、てのごい)は、手を拭いたり洗顔、入浴時に体を洗ったりするための木綿の平織りの布である。日よけや汗拭いなどの目的で頭にかぶることもある。

各種のものがあるが約90cm x 35cm程度の大きさで、白地に藍染による柄がある場合が多い。本来、日本古来のものを指すが明治時代に西欧からももたらされたタオルを含むこともある。特に区別する場合、日本手拭という言い方をする。

起源は明らかではないが、古くは手巾、江戸時代頃に手拭という言葉が使われるようになり庶民にも普及した。

現代日本での日常生活ではタオルあるいはハンカチの使用が多いが手拭が廃れたわけではない。

粗い平織りで長さのある手ぬぐいは吸湿性は劣るがタオル地の製品にはない利点があり、農作業、伝統芸能、祭、剣道などでのかぶり物、鉢巻、目隠し、汗ぬぐいなどとして、あるいは布巾として今なお利用されており、商店などの贈答品やイベントの際の記念品としての需要も少なくない。

近年、見直されいろいろな柄を和小物の店や手芸店で見ることができるようになった>(フリー百科事典『ウイキペディア』)ハンケチは死語になったがハンカチは盛んである。だが死んだと思われていた手拭も盛んである。

2014年08月29日

◆一番好きな果物は柿

渡部 亮次郎


夜はともかく、朝と昼の食後は果物を必ず食べる。春は連日苺である。最近は保存状態のよい林檎も出るが、なんと言っても好きなのは柿である。

秋田の水田地帯にはなかったため、大人になってから初めて食べてそのねっとりした歯ざわりと甘さには驚いたものだ。最近は秋になれば和歌山とか奈良、岐阜辺りの柿が待ち遠しい。

日本では5月の終わり頃から6月にかけて白黄色の地味な花をつける。果実は秋に橙色に熟す。枝は人の手が加えられないまま放って置かれると、自重で折れてしまうこともあり、折れやすい木として認知されている。

東アジアの固有種で、特に中国長江流域に自生している。熟した果実は食用とされ、幹は家具材として用いられる。葉は茶の代わりとして加工され飲まれることがある。

果実はタンニンを多く含み、柿渋は防腐剤として用いられ。現在では世界中の温暖な地域(渋柿は寒冷地)で果樹として栽培されている。

柿は学名もkakiだそうだ。その理由は日本から1789年にヨーロッパへ、1870年に北アメリカへ伝わったことからだという。

英語で柿を表す「Persimmon」の語源はアメリカ合衆国東部の先住民であるアルゴンキン語族の言葉で「干し果物」を意味する名詞「ペッサミン」であり、先住民がアメリカガキ(Diospyros virginiana L.)の実を干して保存食としていた事実によるという。

近年、欧米ではイスラエル産の柿(渋抜きした「Triumph」種)が「シャロンフルーツ(Sharon Fruit)」という名称で流通するようになったため、柿は「Persimmon」よりも「Sharon Fruit」という名で知られている。

国際連合食糧農業機関(FAO)の統計データ(2005年現在)によると、全世界におけるカキの生産量は256万1732トンである。このうち、72%(183万7000トン)を中国一国が生産している。

次いで韓国(25万トン)、日本(23万トン)、ブラジル(15万トン)、イタリア(5万1000トン)、イスラエル(4万トン)である。以上6カ国で生産量の99.8%を占める。他にニュージーランド(1300トン)、イラン(1000トン)、オーストラリア(650トン)、メキシコ(450トン)などの諸国でも生産されている。

ニュジーランドでは食べてみたが一向に甘くなかった。

地域別ではアジア州が92%、南アメリカ州(ブラジルのみ)が6%、ヨーロッパ州(イタリアのみ)が2%という比率である。

柿は北海道と沖縄県を除く日本の全都府県で栽培がされており、柿の栽培面積が多い県は和歌山県、福岡県、奈良県の順である。

日本国内の収穫量 2007年度 24万4800トン

全国1位:和歌山県 5万2400トン(21%)
全国2位:奈良県 2万8100トン(11%)
全国3位:福岡県 2万400トン(8%)

「柿が赤くなると医者が青くなる」と言うことわざがあり、豊富なビタミン類とミネラルが栄養価摂取の低い時代では医者いらずの万能薬として重宝された。

柿の季語は”秋(晩秋)”であり、多くの人物に詠まれている。

祖父親まごの栄や柿みかむ(芭蕉)
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)
山柿や五六顆おもき枝の先(飯田蛇笏)
髪よせて柿むき競ふ燈下かな(杉田久女)
さみしさの種無柿を食うべけり(三橋鷹女)
柿むく手母のごとくに柿をむく(西東三鬼)
柿もぐや殊にもろ手の山落暉(芝不器男)
柿色の日本の日暮柿食へば(加藤楸邨)
つまらなく夫婦の膝の柿二つ(石川桂郎)
柿食ふや遠くかなしき母の顔(石田波郷)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
       
  

2014年08月27日

◆プロポリスを飲んだ

渡部 亮次郎


わがメルマガ『頂門の一針』に坐骨神経痛にかかり、結果歩き方が悪くなったため、左足の親指に「肉芽」が出来て痛いと泣き言をいったら在外の読者から「老齢で抵抗力が弱っている、これを服用しなさい」とビタミン剤と「プロポリス」を送ってきてくださった。

60カプセルを20日間で飲み尽くした。

結果、肉芽はたちまち完治、坐骨神経痛も快方に向かっているのである。便通がよくなり、注射が不要なぐらい、血糖値が下がっていて、インスリンが膵臓から再びでているのではないかと考えたりしている。

とにかく感謝の極みである。西洋から始まった近代医学は抗生物質の発明により、一時、極致に達した観があったが、それらの薬は確かに強い薬効を発揮するものの、反面、副作用も強く、様々な弊害が問題となっている。

生薬にはその副作用があまりみられないというわけで「プロポリス」もそんな生薬のひとつであるようで、もっと関心を持つべきもののようだ。

しかも日本ではプロポリスは健康食品だが、ルーマニア、デンマーク、ドイツ、ロシアなどでは医薬品として扱われ、さまざまな治療に役立てられている。海外では積極的に治療の現場にプロポリスを取り入れているところもあるようだ。

実際、体験的に効果があったといわれるのは、皮膚疾患では、やけど、水虫、ウオノメ、アトピー性皮膚炎、ウイルス性皮膚疾患など。内科系では、胃炎、胃腸潰瘍、十二指腸炎、大腸炎、膀胱炎、腎臓炎、前立腺障害、喘息、気管支炎、結核、肝炎など。動脈硬化や貧血にも効果があるようだ。

他にも、「ものもらい」などの目の炎症、歯痛や口内炎、歯槽膿漏に良く、二日酔いや育毛効果もあり、ガンが治ったとの多くの報告もある。

特に日本でプロポリスが知られるようになったのは、1985年名古屋での国際養蜂会議で、多くのプロポリス症例が報告されてから。

さらに1991年10月に国立予防衛生研究所と協和発酵東京研究所の研究グループがブラジル国産プロポリスの成分中に抗ガン効果のある新たな化合物を発見したという発表は、新聞などでも大きく取り上げられひとり歩きをし、一気にブームとなった

プロポリスは蜜蜂がつくり出す。蜜蜂が作り出すもので、人間が有効利用できるものとしては、蜂蜜、ローヤルゼリー、蜜蝋、花粉などがよく知られている。

プロポリスは日本では、蜂ヤニとして知られていた。さまざまな樹木から集めてきた樹脂を、蜜蜂が唾液と共に噛み続け、ワックス状にしたものがプロポリス製品の原料となる原塊と呼ばれる物質である。

このようにしてつくり出したプロポリスを、蜜蜂は巣の補修などに使う。入り口や巣の中の通り道の通路を狭くして外敵の進入を防いだり、巣の内部を一定温度に保ったり、滑らかにしたりする。

しかし一番の目的は、巣を無菌状態に保つことにある。樹液には木自身を、守るための抗菌力があって複雑な成分で作られている。例えば巣に外敵が侵入したとき、多数の蜜蜂が蜂毒を用いそれを殺し、死骸は巣から運び出す。

死骸が大きくてそれが不可能な場合に注目。死骸をプロポリスで覆うのだ。プロポリスで覆われた死骸は腐敗せずミイラ化され、無菌状態で保たれると言うから驚きだ。

1つの巣箱内には多い時で5万羽以上の蜜蜂が集団生活をしていて文字通りの過密世帯のため、常に巣箱内の衛生状態を保つ必要がある。

そこで巣の出入り口にプロポリスを塗り蜜蜂1羽がやっと通過する事が出来る狭くて、長いトンネルを作り、外勤より帰巣するたびに自身の体をプロポリスと接触する事によって外部から持帰る有害菌の滅菌を行う、いわば関所のような役目をしているわけだ。

このような事から、プロポリスには強力な殺菌作用のみならず細胞活性化作用があり、この天然の抗生剤とも言える、非常に安全性の高い物質を人間の体内に取り入れる事により、健康を維持していこうとの考えにより、古来から用いられてきた。

プロポリスの語源はギリシャ語。プロはプロップ(支柱)というラテン語から、ポリスは都市の意味を持つギリシャ語で、「蜂の都市を支える柱」という合成語になった。

この名前で呼ばれるようになったのは17世紀以降だが、プロポリスはそれ以前からもミイラを意味するマミイという名前で知られていた。

古代ギリシャからその効用は知られていてアリストテレスも『動物誌』の中で皮膚疾患、切り傷、感染症に効果あり、と記述している。ローマのプリニウスも『博物誌』で体内に入ったトゲの摘出や神経症、皮膚病に有効としている。

他の文献の記述によれば、腫瘍や炎症、毛髪の発育促進などにも使われていた。古代エジプトでも、その防腐効果を利用してミイラづくりに一役買っていたと推測されている。

古代インカ帝国、アラビアでも薬として知られていて18〜19世紀にかけては外傷に対する治療薬として使用された。

イギリスと南アフリカのボーア戦争では、ワセリンにアルコール抽出のプロポリス液を加えプロポリスワセリンとして、兵隊の傷口の治療に使われていた。

その後の西洋医学の発達、特にペニシリン等の抗生剤の開発によって、その存在は忘れられていたが、近年抗生物質の乱用が問題化している中で、プロポリスは加速度的にその安全性と効果が見直されていると言う次第。

ブラジルなどでは、どこの薬局でも買えるポピュラーな民間薬として知られている。欧米諸国ではその歴史も古く、実際に医療薬として使用されている国も多くまた、民間療法としてのプロポリスの利用法は、やけどやニキビ、イボ、シミ、帯状疱疹に塗布するなどです。実際めざましい回復をするようだ。

プロポリスの原塊はひとつの巣箱から年間100〜300グラム程度しか採れない貴重なもの。現在は少しでもプロポリスの成分を有効に利用する目的から、三つの抽出法が行われている。

いちばんポピュラーなのが、アルコール抽出法だ。プロポリスの原塊と食用アルコールを一緒に2〜3週間攪拌し、その後、濾過してアルコールとプロポリス成分の融和を図る為、一定期間保存した後に使用する。

一般に熟成と称して保存期間が長期にわたる程良い商品であるかのようにうたっているものがあるが、これは定かではない。

樹脂から作られるプロポリス原塊は、独特の粘着質を持っている。色は黄緑色から暗褐色までいろいろで、味、香りとも異る。

日本には千差万別の品質を持つ原塊が輸入されている(日本国内では養蜂条件の違いにより商業的生産なし)。どの産地で取れた原塊が優れているかというランク付けは困難とか。

成長の早いユーカリ樹の植林が盛んで、ブラジル国産のプロポリス原塊は起源植物がユーカリ樹系より由来している物が多く、独特の香りと色調を持っているようだ。

ユーカリ樹液は大変殺菌力が強いと言われ、それに加えブラジルで展開されている養蜂はアフリカ蜂化された他国(ヨーロッパ種が主)では見られない特徴を備えたミツバチにより生産されているため、その原塊は大変興味深い成分により形成されていると言ってもよい。値段は東京のデパートでは「ピンキリ」 。

2014年08月26日

◆政治的ウソの見分け方

伊勢 雅臣


〜 国際政治学者・中西輝政氏に学ぶ

歴史を通じて磨かれた我々の素朴な感覚で、美しい言葉に隠された政治的ウソを見分けることができる。


■1.「予測をどこでどう間違えたのか?」

国際政治学者の中西輝政京都大学教授は、自ら政治的なウソに騙された事例を紹介している。

イラク戦争直後、教授は2、3年かかるにしろ、イラクの国内状況は次第に落ち着きを取り戻し、経済の発展も始まるだろうと考えていた。しかし、イラク情勢はその後何年経っても、依然として混迷状態にある。そこで教授は「予測をどこでどう間違えたのか」と何度も反芻した。

一つは情報の歪みである。ワシントンやニューヨークの一流メディアから流される情報はすべて楽観論一色で「アメリカはすでに並ぶものなき軍事大国で、その力は隔絶している」などというものだった。「いまから考えると、かなりの部分が情報操作だったのでしょう」と教授は言う。[1,p164]

もうひとつの反省点は、自身で「あれ?」という疑問を持ったのに、それを深くつっこまなかった事だ。その疑問とは、なぜアメリカ軍はイランやシリアとの国境を閉鎖しなかったのか、という事であった。

国境を閉鎖しなかったら、イランからアルカイダなどのゲリラ勢力が自由に入ってくるし、シリアからも武器や物資が運び込まれてくる。「こんなことでは危ない。なぜ閉めないのだろう」と教授は疑問に思ったが、「まあ、アメリカのことだから、そんな事は百も承知でやっているのだろう」
「人工衛星か何かで監視しているのだろう」などと、自分の疑問を押し込めて、自身を納得させてしまった。


■2.「ふと浮かんだ疑問」を大事にする

当時、大統領選を翌年に控え、ブッシュ政権は「アメリカの鮮やかな勝利」を強調していた。ラムズフェルド国防長官は「アメリカは軍事革命を果たした」「衛星とスリムな軍隊で、アメリカは世界のどの地域でも同じ事ができる」という新ドクトリンを打ち出していた。

しかし、国境を閉鎖しようとしたら、最低3、4万人の兵力を増派しなければならない。それでは「イラクは実はうまくいっていないのではないか」という批判を招きかねない。

その批判を避けるために、国境は閉鎖しなくとも何とかなるだろう、という大バクチをラムズフェルド国防長官は打ったのだった。そして、それに都合のよいウソの情報を流していたのである。はたしてバクチは裏目に出て、イラクは泥沼化し、アメリカは深い傷を負った。

中西教授は、もし「なぜ国境を閉めないのだろう」という疑問にこだわって、いろいろ調べていけば、かなりの情報が集めら、早い段階で「この戦争は泥沼化する」と分かったはず、と自省している。

ふと浮かんだ疑問は自分の素直な感覚であり、物事を考える際にこれがものを言うことが多いと、教授は言う。


■3.美しい言葉にはトゲがある

我々日本国民もさまざまなウソに騙されてきた。たとえば、「次の言葉のうちで、あなたが好感できるものを選んでみてください」と中西教授は問いかける。

「豪華」「自慢」「自由」「蓄財」「大物」「平等」「格安」「平和」「出世」「民主」

おそらく大部分の人は「自由」「平等」「平和」「民主」などを選ぶ。これらの「美しい言葉」は誰も疑わない。だからこそ、そこに危険なワナが仕掛けられている。これらの「美しい言葉」は、人々の思考停止を誘い、我々の素朴な感覚を押さえつけてしまう。

たとえば「平和」。軍隊をなくし、核兵器をなくせば、平和な世界が来る、と戦後教育では教えられてきた。そして「平和」を声高に叫ぶ人々は、「核兵器反対」を唱え、米国の艦船が核を積んでいるのかどうか、などと問題にしていた。

しかし、彼らは日本を狙うソ連や中国の核兵器には何も言わない。かつて広島の反核集会で、「米国の核ミサイルだけでなく、ソ連の核ミサイルにも反対する必要があるのではないか」と発言した学生が、演台から引きずり下ろされてしまった事もあった。

この学生のように素朴な疑問を大事にすることで、こういう美しい言葉に隠された危険なウソを見破ることができる。

美しいバラにはトゲがあるが、美しい言葉にはウソが隠されてることがしばしばある。政治的ウソを見分けるには、まずは美しい言葉を見たら、そこにはウソが隠されていないか、気をつける必要がある。そこから素朴な感覚が働き出す。


■4.化けの皮がはがれた「日中友好」

「日中友好」も、かつては多くの日本人を騙して、膨大な国富を奪った美しい言葉であった。

1980年代には「日中友好2千年」「日中は(同じ漢字を使う)同文同種の国」「一衣帯水(一筋の帯のように、細い海峡に隔てられた隣国)」など、マスコミの流す様々なスローガンが友好幻想をかき立てた。総理府(現・内閣府)の調査によると、1980年代前半では70%以上の日本国民が中国に親しみを感じていた。

もともと、これらの美しいスローガンは、中国がソ連と対立して、日本からの経済協力を必要としていた時代に、流されていたものである。[a]「日中友好2千年」などというスローガンが、いかに歴史的に見ても偽りに満ちたものかは[b]で述べた。

最近は尖閣諸島問題や反日デモなどで、こういうスローガンのうさん臭さが誰の目にも明らかになり、ここ数年では、中国に親しみを持つ人々は20%台にまで落ち込んでいる。

しかし、過去20年ほど「日中友好」に騙されてきた結果、3兆円以上(日本国民1人あたり3万円規模)も貢いできた対中ODAは感謝もされずに忘れ去られようとしている。

またマスコミの「中国経済賛美」に乗せられた日本企業の対中投資額も10兆円規模に達しているが、日本企業がいざ中国から撤退しようとしても、中国政府や合弁の相手企業は難癖つけて投資分を返さない。「日中友好」の美辞麗句に騙されて、膨大な国富を我々は奪われてきたのである。

孔子は「便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり(外見が良いだけの人を友とし、人当たりが良いだけの人を友とし、言葉巧みな人を友とするのは損である)」として、友を選ぶことの重要性を語っている。

国家間の関係も、我々の友人関係と同じである。相手が友として信頼してよい人物かどうかを見極めることが大切だ、という素朴な感覚を大事にしなければならない。


■6.米軍の刑法犯は国内平均の半分以下

近年、中国が太平洋に覇権を伸ばそうとするにしたがって、沖縄の米軍基地に関する政治的ウソがさかんに流されるようになってきた。沖縄の米軍基地こそが、中国の太平洋侵出にとっての最大の障害だからである。

たとえば、沖縄には在日米軍基地・施設の約75%が集中していると言われると、ほとんどの日本人は驚いて、いかに沖縄県民が米軍基地の「過重な負担」を堪え忍んでいるか、と思ってしまう。

しかし、この75%とは米軍が単独で使用している基地だけの話で、自衛隊と米軍が共同使用している三沢、厚木などの基地を加えると約25% というのが実態である。[2]

また、沖縄で数年に一度、米兵による強姦事件などが起きると、マスコミが大騒ぎするが、千人あたりの刑法犯検挙人数で見ると、

−沖縄の米軍  1.4人
−沖縄県民   3.0人
−来日中国人  15.7人(登録者・永住者+短期旅行者/日数)
−来日韓国・朝鮮人 19.4人 (同)

となっている[3]。外国人犯罪について騒ぐなら、10倍以上の刑法犯 を出している近隣諸国からの在留者、旅行者こそ問題にしなければならな いはずだ。

さらに最近は米軍の新型輸送機オスプレイの危険性がマスコミで騒がれているが、これもデータを見れば、そのウソが分かる。オスプレイは2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回で、いま 使われているヘリコプターCH-53Dの4.15の半分以下である。沖縄県民の 安全を本当に心配するなら、一刻も早くオスプレイ配備を願わなければな らない。

現在のヘリコプターCH-53Dでは尖閣諸島には届かないが、オスプレイなら1時間で着ける。オスプレイの「危険性」を本当に心配しているのは中国軍の方であろう。[4]

政治的なウソが、センセーショナルな犯罪報道や、巧みに作られた数字によって流されることがある、と知れば、ちょっと待てよと、素朴な感覚を働かせるチャンスが出てくる。

特に最近は、[2]や[3]のように、大手マスコミの報道する政治的ウソをデータで客観的に暴くインターネット・サイトも増えてきているのは、歓迎すべき傾向である。こういうサイトを見聞する事で、データを通じて、我々の素朴な感覚を磨くことができる。


■7.我々の素朴な感覚を磨く道

我々の素朴な感覚を磨くには、他にどのような道があるのか。一つは人生経験を積むことだが、もう一つは、他者の経験、すなわち歴史に学ぶことである。

中西教授はイギリス・ケンブリッジ大学に留学した際に、国際政治に関する分野を教わったのは、歴史学者のハリー・ヒンズリー教授だった。ヒンズリー教授は「歴史に還元しないと何事も本当の知識にはならない」と中西教授に教えたという。

中西教授の国際政治に関する独自の見方は、歴史的な視野を持っているところから来ることが多い。たとえば、現代の日本が直面している少子化、人口減少に関しても、こんなエピソードを紹介している。

1935年にアメリカ政府は、米国における長期人口予測を発表した。そこには、次のような予測が示されていた。

<1965年になったとき、アメリカの人口は3分の2に減っているだろう。大々的に移民を受け入れるか、それともこのままやっていくかの大変な分かれ道だ。>[1,p216]

この予測は見事にはずれた。第2次大戦が始まると、急に結婚率が上がり、それにつれて出生率も大幅にあがった。これが1965年まで続き、「大ベビーブーム」時代が出現したのである。

もし、1935年時点で、この予測にしたがって、大々的な移民政策がとられていたら、どうなっていたろう。現在でも、大規模な移民政策がうまく行っている国がないのは、トルコ移民問題に悩むドイツ[c]や、中国化しつつあるカナダ[d]を見れば明らかである。

アメリカは経済的にも社会的にも1960年代に黄金時代を迎えるが、もし1935年の時点で大規模な移民政策をとっていたら、貧しい移民たちへの生活保護に税金を投入せねばならず、また治安の悪化などで、その後の黄金時代を迎えられたかどうかは分からない。

大ベビーブームを経験したアメリカですら、その前に人口減少が政府によって予測されていたという歴史的事実を知っているだけで、我が国の少子高齢化はもはや覆せない傾向だとあきらめ、1千万人移民計画などに突っ走る危険性を感じとることができるだろう。

歴史を通じて、人類の過去の経験を知ることで、我々の素朴な感覚も磨かれていくのである。


■8.「宙ぶらりん」の状態に耐える

少子高齢化と人口減少を前にして、大規模な移民政策にも走らず、何か他の方策はないかと思い悩む状態は人間にとって、つらい状態である。弱い人間はえてして、「もう移民政策しかない」などと、一足飛びに結論に飛躍したがる。

イギリスの軍事史研究家かつ戦略思想家のリデル・ハートは次のような言葉を残している。


<ものごとがいずれにも決しない状態に耐えることはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて「死に至る道」(後先考えずに飛び込んでしまう衝動的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。

しかし、このつらい「宙ぶらりん」の状態に耐えることこそ、可能性の明確ではない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼(かいじん)に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである。>[1,p25]


「平和」とか、「日中友好」などという美辞麗句に踊るのも、現状の「宙ぶらりん」の状態に耐え続けることができず、政治的ウソとして与えられた明快な結論に飛びつく、という弱さの表れだろう。

フランス革命やロシアや中国の共産革命の歴史を知れば、政治的な嘘に踊らされて、「死に至る道」を突っ走った国民の悲劇を目の当たりにする事ができる。逆に、宙ぶらりんの状態に耐えつつ、一歩一歩、素朴な感覚に基づきながら危機を克服してきた英国の強さを知ることができる。

どちらの道を目指すかは、その国の人々がいかに政治的ウソにだまされずに、自らの素朴な感覚を磨き、働かせるか、にかかっている。



■リンク■

a. JOG(312) 「日中国交正常化」〜 幻想から幻滅へ
そもそものボタンの掛け違えは、田中角栄の「日中国交正常化」での「異常」な交渉にあった。
http://bit.ly/13L5wd7

b. JOG(367) 「日中友好2千年」という虚構
日本は、中国の冊封体制と中華思想を拒否し、適度の距離感を保ってきた。
http://bit.ly/WzZv0W

c. JOG(143) 労働移民の悲劇
ぼくたちには何のチャンスもありません。ドイツに夢を抱いていたことが間違いでした。
http://bit.ly/13L5ORv

d. JOG(784) 中国の列島蚕食
「日本列島は日本人だけのものではない」が現実になる日。
http://blog.jog-net.jp/201302/article_1.html

e. JOG(188) 人権思想のお国ぶり
「造花」型のフランス革命は200万人の犠牲者。「根っこ」型のイギ リスは無血の名誉革命。
http://bit.ly/14GMJMh


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 中西輝政『本質を見抜く「考え方」』★★★、サンマーク出版、H19
(2007/11)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4763197975/japanontheg01-22/

2. 濱口和久『だれが日本の領土を守るのか』、たちばな出版、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4813324401/japanontheg01-22/

3. 米兵犯罪は本当に多いのか?統計による比較まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135070313136901001

4.オスプレイは本当に危険か−ヘリコプターとの事故率の比較
http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/15968405.html