2017年07月13日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎



メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても1954年以
開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だった
ことを久々に思い出した。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部
へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない。田舎者の
あいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そ
のうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖
がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさ
がありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目に
なるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと
答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してく
れた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛
細血管も走っているから義眼ではない。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門の脇で待っていると出てきた河野さんが私
を手招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家
の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余
程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも
畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担
当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさ
せるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人き
りの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝
日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの
吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ
正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。
池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出
来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴
うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治
家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフ
ルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死
んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬか
とおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。
まだ67歳だった。2015・8・3


2017年07月12日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンと
ニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪
ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コン
ピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので、当時は
仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョ
コヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみ
よう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州の
Brandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・
ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さ
だ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅
で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で
知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕
組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖
炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているの
を見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だっ
た。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみ
ついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日が
かりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持
ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できな
いから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界
第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・
デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィル
ミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレ
ネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大
財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラ
ヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取
り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するように
なった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マン
ハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所
でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは
1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に
就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一
の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製
作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占
が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出な
どを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポ
ン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研
究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロ
ンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和
19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開
発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす
典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その
研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、
化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商
人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテ
フロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への
危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで
合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、
CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンは
CFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を
続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロ
カーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリー
ダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問
題視されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』2007.04.18


2017年07月11日

◆佃煮にするほどある

渡部 亮次郎



佃煮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イカナゴの佃煮。佃煮(つくだに)とは、海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮
付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻
類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたもの
をこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にす
る。ご飯と一緒に食べると美味とされる。


歴史 [編集] 佃煮の由来

ご飯のおかずとして載せられたイカナゴ佃煮江戸時代、徳川家康は名主・
森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を
江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて
住まわせた(東京都中央区佃島。

佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小
魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさ
ん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存
性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が
江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる
[6][5][4]。

なお、以上の説に対しては異説もある。

1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説
1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説
日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説
大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では
雑魚を煮詰めたものを供えていた(?油煮説と塩煮説がある)。このこと
から、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来
するという説。

1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の
佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮
製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士
は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり
日常食となっていった。

現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により
販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった[8]。

各地の産地

今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮
が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛ん
である。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から
1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需
に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が
広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された[9][10]。焼津市は鰹
の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されてい
る。

製法

昆布の佃煮。現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は
以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤
などが加えられていることがある。

本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない
辛口のものが安心で重宝された。現在も数件だが、職人の技により手造り
の旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。

2017年07月10日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎



脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所
に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、
新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。
先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えな
いから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本人の死亡原因
の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的に
も昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、
その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと
変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今
後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要に
なる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における
「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身
のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また
活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれているが、くも膜と脳の表面との間にあ
る小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて
出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常お
こらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来
た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。
長嶋茂雄氏など。私も軽い症状を体験した。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり
破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、
多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、
半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こし
ます。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられて
おり、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術
がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相
談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれる
わけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮った
CTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎
教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかった
そうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳
梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっ
ている。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭
痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれ
ば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、
今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにし
て詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方
期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のた
め使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助か
る薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時
間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症
が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決
めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になってい
る。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めて
いる。2012・7・19執筆

2017年07月09日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていただけだったので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不
足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

2017年07月08日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28



2017年07月06日

◆「お前の女房は元から俺のもの」

渡部 亮次郎



わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969(昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。

それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

2017年07月05日

◆話 の 耳 袋

渡部 亮次郎


◎安倍首相が決断する大規模「内閣改造リスト」 進次郎氏入閣、橋下
氏ら民間人複数起用か−第3次安倍第3次改造内閣 予想される顔ぶれ

東京都議選で、自民党は過去最低23議席と大惨敗した。「森友・加計問
題」「豊田真由子衆院議員の暴言・暴行」「稲田朋美防衛相の失言」に加
え、「政権のおごり」への不満・批判が爆発したといえそうだ。

安倍晋三首相は、国民に「反省」の姿勢を示し、憲法改正に向けて「謙
虚」な政権運営を心がけるため、大規模な内閣改造に踏み切る覚悟を固め
た。新しい布陣で、一連の疑惑についても丁寧に説明するとみられる。入
閣候補には、小泉進次郎衆院議員を筆頭に、橋下徹前大阪市長ら、複数の
民間人が起用されそうだ。

「大変厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければならない」「政
権奪還したときの初心に立ち返り、全力を傾ける決意だ」

安倍首相は、都議選での歴史的惨敗から一夜明けた3日午前、官邸で記者
団にこう語った。この後、安倍首相は臨時役員会を党本部で開いた。惨敗
の原因を分析し、党勢の回復につなげる考え。

連立を組む公明党とは、都議選ではたもとを分かったため、政府与党連絡
会議で結束して政権運営に当たる方針を確認する見通し。

関係者によると、政権内では「経済政策や外交・安全保障政策などで決定
的失敗はない」という認識だが、「『森友・加計問題』での対応や、閣僚
や所属議員の失言・暴言が相次ぎ、都民に『政権のおごり』『安倍一強の
ゆがみ』と受け取られた」と痛感したという。

都議選惨敗を受けて、新聞やテレビが「永田町の潮目が変わる」「政局に
直結しかねない」と報じている。

安倍首相としては、強い「反省の姿勢」を国民に示し、「謙虚な政権運
営」を取り戻すため、大規模な内閣改造を断行する方針を固めた。

 現時点で、予想される「内閣改造リスト」は別表の通り。

まず、麻生氏と、岸田文雄外相、世耕弘成経産相、吉野正芳復興相は留任
となる見込みだ。麻生氏は「政権の支柱」である。岸田氏周辺には「幹事
長待望論」があるが、岸田、世耕両氏にはロシアとの北方領土交渉を引き
続き担当させる意向とされる。吉野氏は今年4月に就任したばかりだ。

麻生氏と意見がたびたび対立し、「森友・加計問題」の対応で批判を受け
た菅氏には退任論もあるが、官邸周辺が解説する。

「安倍首相は、麻生、菅両氏を評価している。菅氏の『加計問題』での対
応を批判する声もあるが、官邸としては『岩盤規制を国家戦略特区構想で
突破したことに、既得権益を死守したい勢力が抵抗してきた』と受け止め
ている。菅氏を交代させれば岩盤規制の守護者に屈服することになりかね
ない。現時点では、菅氏は留任方向だ」

一方、退任濃厚なのは、「自衛隊の政治利用」と受け取れる失言をした稲
田氏を筆頭に、「テロ等準備罪」を新設する改正組織犯罪処罰法の国会答
弁で不安のあった金田勝年法相、山本有二農水相、山本幸三地方創生担当
相、松野博一文科相ら。微妙なのは、就任から3年近い高市早苗総務相
と、2年近い石井啓一国交相、塩崎恭久厚労相、石原伸晃経済再生担当
相、丸川珠代五輪担当相らだ。

「経済政策を前進させ、2020年東京五輪・パラリンピックを成功させ、憲
法改正を実現させるためには、ここで局面を転換する必要がある。大規模
でインパクトのある内閣改造を行うために、退任閣僚は多くなるだろう。
豊田、稲田両氏は細田派出身。次の改造では、細田派からの起用を最低限
に抑えるはずだ」(同)

新しい布陣で、指摘された疑惑について、事実と証拠を示して、丁寧に対
応する方針という。

入閣候補としては、進次郎氏や、憲法改正で安倍首相と意見が近い橋下氏
らの名前が浮上する。「進次郎氏は、次世代のホープであり、十分に有資
格者だ。安倍首相は橋下氏について『国会議員になるべきだ』と考えてい
るが、まずは民間人閣僚として活躍してほしいと考えているようだ。民間
人閣僚は複数になる可能性がある。著名な官僚OBや学識者、企業人など
をリストアップしているのではないか」(同)

改造時期は、7月下旬に予定されていた日中韓首脳会談が先送りされたた
め、「7月下旬から8月上旬」にかけて行われるとみられる。最終的に時
期が決まるのは「身体検査」次第だという。

官邸周辺は「次期衆院選や憲法改正の国民投票を見据えて、次の内閣改造
は失敗できない。徹底的な身体検査が求められる。民間人起用も検討され
ているため、チェックに時間がかかるかもしれない」と語っている。

・ 安倍首相は「政権の緩みがあるとの厳しい批判があった」といい、反
省した=3日朝、官邸 安倍首相は「政権の緩みがあるとの厳しい批判が
あった」といい、反省した=3日朝、官邸 / 小泉進次郎氏 / 橋下徹氏
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/170704/soc1707040014-n1.html?ownedref=photo_not%20set_newsPhoto
【ZakZak】 2017.7.4 〔情報収録 − 坂元 誠〕

 ◎閉会中審査検討へ=都議選大敗受け方針転換−政府・自民

 政府・自民党は3日、学校法人「加計学園」の獣医学部新設などをめぐ
り野党が求めている閉会中審査に応じる方向で検討に入った。これまでは
応じない姿勢を示していたが、方針を転換した。東京都議選で自民党が歴
史的大敗を喫したことを受け、国民の批判に真摯(しんし)に向き合う必
要があると判断した。

閉会中審査の実施時期や、安倍晋三首相出席の有無など具体的な形式は、
自民、公明両党間で詰める見通しだ。

自民党の竹下亘国対委員長は、3日の政府・与党連絡会議で「国民に説明
するため、どこかの局面で(閉会中審査を)検討していきたい」と語っ
た。公明党の井上義久幹事長は「国民の疑問にしっかり答えていくことが
大事だ。積極的に説明責任を果たしてもらいたい」と政府に求めた。 

加計問題をめぐり、首相は通常国会閉幕を受けた記者会見で、丁寧な説明
に努めると表明。だが、民進、共産、自由、社民の野党4党の憲法53条
に基づく臨時国会の早期召集や、閉会中審査実施の要求を政府・与党は拒
否してきた。こうした対応が自民党惨敗を招いたとみて、野党の要求に一
定程度応じる方向に傾いた。

これに対し、民進党の野田佳彦幹事長は3日の記者会見で、加計問題や稲
田朋美防衛相の失言を挙げ、「きちっと説明されていない。不誠実な態度
を自民党は反省しないといけない」と強調。野党4党は近く幹事長・書記
局長会談を開き、改めて臨時国会召集を政府に求めることを確認する。
【時事通信】 2017/07/03-16:19 〔情報収録 − 坂元 誠〕


 ◎「こんな人たち」発言にみる安倍自民の本当の敗因

「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」

今回の都議選の最中に、閣僚や自民党幹部から出た様々な発言の中で、安
倍首相が発したこの言葉が、私にとっては最もインパクトがあった。

最終日、秋葉原で初めて街頭に立った安倍首相に対して、今回の政権を批
判する人たちから発せられた「安部やめろ」コールに怒り、「憎悪や誹謗
中傷からは、何も生まれない!」と語気を強め、声のするとおぼしき方向
を指さして、冒頭の言葉を言い放ったのだった。

それで思い出すのは、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー氏が、カ
リフォルニア州知事に立候補し、選挙運動中に、演説会場で反対派から生
卵をぶつけられた一件。彼は、そうした行為も「表現の自由」の一環だと
述べ、「ついでにベーコンもくれよ」と笑い飛ばした。

そんな風にユーモアで切り返すのは無理でも、「批判を謙虚に受け止め」
と大人の対応をするか、あえて知らん顔で主張を述べ続ける冷静さを見せ
て欲しかった、日本国の総理大臣なら。

安倍シンパたちは、「やめろ」コールをしていたのは一部の過激な集団と
決めつけているが、現場の状況を、客観的にレポートしていると思われる
記事を読むと、こんな記述があった。

〈中心となっていたのは一部の集団だったようだが、街宣が始まるととも
にコールは広がりを見せ、通行用のスペースを隔てた場所で演説を見てい
た人まで「安倍やめろ」と口ずさむ有様だった〉(東洋経済オンライン
「都議選の『安倍やめろ!』は尋常ではなかった

選挙戦最終日、安倍首相の目の前で大逆風」より)

言い始めたのは一部の集団でも、それに多くの人がそれに呼応した、とい
う現象に、本当は深刻さを感じなければならないところだったろう。とこ
ろが、安倍さんの対応は違った。

総理大臣という立場

内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する
人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だろう。仲間や支持者だけ
ではなく、批判勢力を含めた、あらゆる国民の命や生活を預かっている。
なのに安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉で
くくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させたのである。
「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と。

都議選の応援は、自民党総裁という立場で行ったものだろうが、安倍さん
を紹介する垂れ幕には、しっかり「内閣総理大臣」と書かれ、司会の石原
伸晃議員も「ただいま、安倍総理が到着しました」と紹介していた。

小泉内閣の総理秘書官だった小野次郎・元参議院議員は、ツイッターで次
のように書いている。


〈この方は、自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる。総
理になって何年も経つのに、この方は全国民のために選ばれた職にある自
覚は持ち合わせない、遺憾ながら。〉

同感である。

「みんなの大統領になる」

2008年の米大統領選で、共和党のマケイン候補と激しい選挙戦を戦った民
主党オバマ候補は、勝利が決まった後の演説で、マケイン氏を称え、こう
語った。

〈私がまだ支持を得られていない皆さんにも申し上げたい。今夜は皆さん
の票を得られなかったかもしれませんが、私には、皆さんの声も聞こえて
います。私は、皆さんの助けが必要なのです。私はみなさんの大統領に
も、なるつもりです〉(加藤祐子訳)

韓国の文大統領も、5月の就任宣誓で「私を支持しなかった国民一人ひと
りも国民」とし、その国民に奉仕することを約し、「皆の大統領になる」
と強調した。

国会で多数派の中から選ばれる議院内閣制の首相は、国民から直接選ばれ
る大統領とは選ばれ方や権限などに違いはあっても、政権を率いるリー
ダーであり、人々を代表する国の顔でもある。

「私たち」と「こんな人たち」を対決させる政治

常日頃から安倍さんは、「敵」、すなわち「こんな人たち」認定した者に
対しては、やたらと攻撃的だ。それは、首相でありながら、国会で民進党
の議員の質問にヤジを飛ばして、委員長から注意をされる場面からも見て
取れる。野党の議員の後ろにも、たくさんの国民がいるということを理解
していたら、こういう態度はとれないだろう。安倍さんにとっては、野党
議員に投票するような人たちは、自分が奉仕すべき国民というより、「こ
んな人たち」程度の存在なのではないか。

その一方で、彼は「私たち」の中に入る身内や仲間をとても大切にする。
第一次政権では、仲間を大事にしすぎて「お友だち内閣」との批判を浴び
た。稲田防衛相への対応などを見ていると、その教訓は未だ生かされてい
ないようだ。仲間を大事にするのは、1人の人として見れば美徳だが、特
区制度を利用した獣医学部新設をめぐっては「腹心の友」とまで呼ぶ親友
を特別扱いしたのではないかとの疑念を生む一因にもなっているように思
う。

敵を作り、それと「私たち」を対峙させることで、存在価値をアピールす
る。敵を批判し、嘲笑し、数の力で圧倒して、自らの強さと実行力を見せ
つける。そんな対決型の姿勢を、「決める政治」や「歯切れのよさ」「ス
ピード感」として評価する人たちがいる一方、無視され、軽んじられてき
たられた人々の不満はたまりにたまっていた。

そして、対決型を推し進めることで、政治はますます粗雑になり、できる
だけ広範な人たちの合意を得ていくという地道な努力をしなくなっていっ
た。これには、長年自民党を支えてきた保守層の中にも違和感を覚えた人
が少なくなかったろう。

そこに森友・加計問題が持ち上がり、財務省の木で鼻をくくったような対
応があり、文科省の前事務次官の証言があり、共謀罪審議での強引な採決
があり、豊田議員の暴言があり、稲田防衛相の失言があり、二階幹事長の
「落とすなら落としてみろ」発言が重なった。安倍首相の「こんな人た
ち」発言は、最後のだめ押しであると同時に、首相自身の個性に由来す
る、安倍政権の体質を、ものの見事に可視化してしまった。

安倍首相は、今回の敗因を、「政権の緩みに対する有権者の厳しい批判」
と述べた。長期政権ゆえの「緩み」は、確かにあるのだろう。だが、本当
の敗因はもっと根が深く、安倍さん自身のことさらな対決姿勢や粗雑な政
治もその1つではないだろうか。

また、菅官房長官は、記者会見でこの発言について問われ、「きわめて常
識的な発言」と述べたという。官房長官の立場で、これが「問題がある」
とは言えないだろうが、政権トップの発言として「常識的」だと言っての
けてしまうところに、「分かってないなあ」と思ってしまったのである。
7/3(月) 23:18 江川紹子 | ジャーナリスト



2017年07月03日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
まねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きた。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣が
おしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・
18mmと世界一の細さになった。また血糖値の自己測定器の小型のものが
発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)




2017年07月02日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから40年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報
(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時
の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だった
のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン
スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を
打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面
に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ
なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)
 このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン
自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月
を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイ
ンスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容
は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという
ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血
糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証
へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24


   

2017年07月01日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋か
ら春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日
に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平
賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万
葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ
云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋
と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わ
ずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・
臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さな
うなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さな
いので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシと
は関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギ
に転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼
にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむ
し)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶ
し」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀す
ることから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出
来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となった
が、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺し
て焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期から
で、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文が
あってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てく
るまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。し
たがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとって
は一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで
東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、
湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎ
のぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこ
に潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出
し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の
深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品
があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場
所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギ
の産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に
産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年に
は三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成
功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も
低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚に
なるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖
産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸
出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が
確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸
出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対
立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的
にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に
発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸
入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出さ
れた物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性
が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたこと
がある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であ
り、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。

出典:フリー百科「ウィキペディア」2007・11・16
 

2017年06月30日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。
悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。
結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。再掲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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All rights reserved.  2007・04・15


2017年06月28日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28



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