2014年12月13日

◆「歴史の教訓」:渡部昇一号

MoMotarou



専業主婦を尊敬し、子育ては最重要な社会活動であるという空気を醸成しよう。日本再生の鍵はそこにある。

           渡部昇一 「致知」 1月号より

                ★

選挙中。しばし休憩。30年近く読んでいる雑誌「致知」より213回連載されている渡部昇一さんの記事を見てみましょう。解散前の記事で落ち着いたものであります。(以下転載)

■副題

<政府はいま「女性が輝く日本へ」というビジョンを打ち出している。だが、その大本にはクオータ制導入という危険思想が潜んでいる事実を忘れてはいけない。どうすれば真に女性が輝く社会が実現できるのか。それを見極める見識が国民にも必要だ。>

■見出し

<「政治家は大局を見て役目を果たせ」→「『女性が輝く日本へ』の裏側に見えてくるもの」→「男女共同参画政策の不都合な真実」→「専業主婦を否定する発想は看過できない」→「世界一歴史ある神話の国が科学の最先端を走っている」→「日本の科学技術力に白人たちが目を見張った」→「生まれも育ちも違うのに妙に気が合った岡崎久彦氏」etc.>

■岡崎久彦氏と渡部昇一氏

両氏とも1930年生まれ。保守の論客。育った環境はまるで違う。岡崎氏は「気功」の名人で酒の味まで変えてしまったりする。渡部氏はあの伝説の啓発本「眠りながら成功する」を日本に紹介した。

■外交評論家岡崎久彦氏死去(致知より要約)

外務省時代、情報調査局長を経験。外務省が対米決着を米国に度々覆されるのを見て、米国は厳格な三権分立の国で議会が強いの発見。米議会で何が議論されているかを丹念に調べることで外交予測が当たるように成った。

集団的自衛権の重要性を認識。長期的視野に立ってみると、400年間アングロサクソンと組んで損をした国はないことを知った。日米安保条約見直し時、日英同盟を破棄した日本の末路をあげ危険性を警告。日英同盟を破棄したハト派幣原喜重郎を評価しなかった。

現在の国際情勢を分析し、集団的自衛権があれば今後30年間、中国は日本に手を出すことは出来ないと判断。睨(にら)み合いを続けている内に中国はいずれ自滅の道を辿(た)どると予測をした。ご冥福をお祈りします。


■サッチャー登場期の生き証人がいる

渡部昇一氏はサッチャーさんが登場する前の英国に留学。中西輝政氏はサッチャーさんが登場する頃に留学。お二人は英国派とも言うべきで、米国派竹中平蔵氏とちょっと違う見方で、歴史を背景にした論調が多かった。

最早「特区」の時代では無いように思う。特区は例外で「絡み合う要素」が少ないのでやりやすいが「利権・特権」の発生もある。「歴史に学ぶ」という姿勢が必要だ。選挙後の日本に「我が国の視点に立って。」と云う為政者から出てくるのを期待したい。

<小泉グローバル路線の修正論者というべきかもしれない。財務省の増税延期による安倍経済路線批判を押し切った背景には、これだけの歴史的な因果関係がある。学校の歴史教育でも説明し切れない自民党史の世界だから、やはり結果で国民に納得して貰うしかない。>杜父魚ブログより 
http://blog.kajika.net/?eid=1008866

2014年12月12日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが、薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が、雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は、日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8(1996)年頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11(1999)年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に、『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16(2004)年秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて、「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し、「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。(再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年12月10日

◆ジャンバーと唄っていた頃

渡部 亮次郎



ジャンパーが日本に初登場したのは、敗戦(1945年)直後である。その当時は小学(国民学)校4年 9歳だったが、岡 晴夫が「粋なジャンバー」と唄ったのでジャンバーと覚えた。しかし、実はジャン「パ」−が正解のようである。

東京の花売り娘 1946年

佐々詩生作詞 上原げんと作曲 歌: 岡晴夫 

青い芽を吹く 柳の辻に
花を召しませ 召しませ花を
どこか寂しい 愁いを含む
瞳いじらし あの笑くぼ
ああ 東京の花売娘

夢を見るよに 花籠抱いて
花を召しませ 召しませ花を
小首かしげりゃ 広重描く
月も新たな 春の宵
ああ 東京の花売娘

ジャズが流れる ホールの灯かげ
花を召しませ 召しませ花を
粋なジャンバー アメリカ兵の
影を追うよな 甘い風
ああ 東京の花売娘

仮にも占領軍の兵士を「粋」と唄ったのは、子ども心にも可笑しかった。日本人はすぐに狎れたがる国民だ、と。だから直後に憲法をオシツケラレタ。それなのにマッカーサーに「感謝」して羽田空港まで「歓送」する始末。


ジャンパー (衣服)

ジャンパー 革ジャンジャンパー(英: jumper)とは、男女、子供ともに着用する上着のことで、フランス語のブルゾン(仏: blouson)にあたる。日本ではジャンバーと呼ばれることも多い。

もとは、粗綿、麻などで作った仕事着で、運動量に富んだゆったりとしたジャケット(英: jacket)のことをいったが、現在はスポーツウェア、レジャーウェア、普段着など広範囲に着られる。

デザインは前開きボタン留め、またはファスナー付き、あるいはプルオーバー(英:pull-over)ふうのものなので、裾や袖口にベルトやボタン、ゴム編みの付いたものがみられる。

英語圏でジャンパーとは、主にセーター、プルオーバー、スウェットシャツを意味し、日本語でジャンパーと呼ばれるものは、英語圏ではジャケットと呼ばれる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年12月08日

◆私の身辺雑記(168)

平井 修一



■12月5日(金)。朝は室温12度、快晴、寒いなか、フル散歩。

伴侶をいかに手なずけるか。若い頃は「下」を攻める、それが終わった頃は「舌」を攻める。死ぬ近くまで食欲はそこそこあるから、旨いものを用意すれば、小生のようないささかエキセントリックなアル中っぽい夫でも、まあ受け入れる(だろう)。

いい加減といえばいい加減。まあアバウトなのだが、それでお互いがハッピーなら結構なことである。

韓国の「クネの元秘書が国政壟断か」という青瓦台ゲート報道は堰を切ったように一斉にクネ叩きになった。これまでのマスコミ各社の「クネ支持の国民感情法には逆らえないから」と自粛していた報道の鬱屈を一気に晴らすような勢いだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、そんな感じ。支持率急減!

それに比べると中共はさすがにスケールが大きい。日本の国家予算の2年分、240兆円がどこかへ消えちゃったというのだ。弓野正宏・早稲田大学現代中国研究所招聘研究員の論考「監査で発覚 中国での国有地売却で消えた15兆元!」にはびっくりした(ウェッジ12/5)。

<中国の会計監査部門が全国各地で行った土地取引を巡る会計監査において驚くべき事実が発覚した。2008年から2013年の6年間に中国各地で行われた土地割譲(期限70年の使用権)を巡る資金に対して会計監査を行ったところ15兆元(当時レートで約240兆円)分の土地取引収入があったにもかかわらず、その行方に疑問が呈されているというものだ。多くが役人の懐に入った疑いがあるという>

中共は国民からすべての土地を奪って「最大かつ唯一の巨大地主」になり、今はそれを切り売りしているのだが、240兆円を中共幹部は飲み食い、蓄財、蓄妾、海外移住でつまみ食いした。いやはや立派な国である。

夕食は6歳児の希望によりチャーハン。豚肉、イカ、エビ、メンマ、ザーサイ、ニンニク、ネギ、ピーマン、筍、コーン、青豆、ニンジン、シメジを入れたからとても旨い。肉団子の中華スープ、冷凍だけれどギョーザと焼売も。残りはすべてお土産に持たせた。

ザーサイは中国産(桃屋)しか売っていなかった。ちょっと残念だ。もっともっとチャイナフリーを!

■12月6日(土)。朝は室温11.5度、今季最低、快晴、かなり寒いなか、フル散歩。幼稚園の入園手続きのためだろう、7時にはお父さんたちが8人行列していた。寒いから足踏みしている人も。散歩の復路でも数えたら16人に増えていた。

お父さんは大変だ、子供が一人前になるまで最低20年間は時速120キロでぶっ飛ばさなくてはならない。頑張ってくれー。

オランダ発祥の家具店イケアが韓国で叩かれているが、あんな国によく出店するものだ。クネは売春婦を叩くつもりらしい。朝鮮日報12/5「韓国政府、売買春拠点25カ所を一斉閉鎖へ」から。

<韓国政府が売買春の拠点を一斉に閉鎖する措置を打ち出した。女性家族部(省に相当)は4日、政府ソウル庁舎で行われたチョン・ホンウォン首相主宰の「第59回国家政策調整会議」で、売買春の拠点の閉鎖を含む「売買春の根絶および性的暴力予防教育の推進方策」を報告した。

女性家族部は「10年前に性売買(売買春)特別法が施行されたことにより、2004年に35カ所あった売買春の拠点は減少の一途をたどったが、依然として25カ所残っている。売買春の拠点を閉鎖するため、政府が集中的に行政力を行使する」と説明した。

また「キス部屋(性交類似行為を行う業者)」や耳かきサロンなど、新手または変わり種の売買春業者に対する取り締まりも強化する。これらの業者に対する警察庁の摘発件数は、2010年に2068件、11年に2932件、12年に4371件、昨年には4706件と、増加の一途をたどっている>

売春は人類最古の商売だという。根絶するなんて不自然だし、不可能だろう。もてない男はどうすればいいのか。兵隊さんがかわいそう。クネは潔癖症なのか。

7時間、何をしていたか、クネクネか? クネのお友達?の国政介入を含めてはっきりしてくれ。韓国マスコミも「事実はどうなんだ」という論調になってきた。

売春叩きについては韓国名物の戦闘的売春婦がデモで抗議するだろうが、見ものだな。

今晩カミサンは奄美高校の同窓会。夕食は小生のみなので豚、鶏の生姜焼き、残り物の焼うどんの明太子味付け焼きを作った。予想外の旨さで完食。

頂門・渡部氏は再び三度ころんだというが、一回り以上若いとはいえ、小生もこのところ転げまわって左手首を痛めた。加齢による体力低下は免れない。用心するしかないな。

■12月7日(日)。朝は室温10度、今季最低、快晴、かなり寒いなか、Wスキー帽でフル散歩。

中央日報12/7「【社説】漂流する韓国国政、青瓦台改編が優先だ」から。

<徐々に佳境に入る青瓦台(大統領府)報告書流出問題を見つめる国民の心はとても憂鬱でもどかしい。韓国は十常侍の国なのか。青瓦台はチラシを作ってあちこちに流すアマチュアの巣窟なのか。グローバル時代の無限生存競争に勝ち抜いて上っていかねばならない国の国格が実体さえ不明な“秘線勢力”議論に振り回され終わりなく墜落している>

「十常侍」(じゅうじょうじ)とは、中国後漢末期の霊帝の時代に専権を振るった宦官の集団。クネの私的なお友達=秘線勢力を韓国のマスコミは十常侍と揶揄しているわけだ。クネはレームダックを免れまい。同紙曰く「泣いて馬謖を斬ろ」。加藤氏拉致の報いだな。

ところで「地方創生」と言うが、地方に仕事があるのなら皆そこに暮らすだろうが、現実には家族を養えるような仕事はあまりない。農林水産業では収入は高が知れているだろう。子供を大学へ行かせるほどの収入を得られまい。都市へ行けば仕事は、まあある。努力と運で高収入も得られるかもしれない。そういう機会が地方には少ないだろう。

都会に人と企業が集まるのは便利だからだ。店も多いし、病院や学校なども多いし、交通も便利だ。肉体労働から頭脳労働までいろいろな仕事もある。人が集まるのは当然だ。地方創生は理想ではあるけれど、現実には無理だ。近代化というのは地方が過疎化し、都会がどんどん大きくなることだ。市場も大きくなる。

地方で商売を始めても市場が小さいから成功しない。人がいないのだから繁盛しない。駅前はいずこもシャッター通りだ。まず再生しない。駅前再開発といっても人口が少ないから商売にならない。

この際、地方は大企業に農林水産業を経営させるしか生き残る道はないのではないか。農家は農地という現物出資で経営に加わるか、農地を貸すかという選択になる。今のような零細泡沫的な農業ではとてもじゃないが後継者も育たない。嫁さんも来ない。

地方創生で政府がやるのは補助金のバラマキだろう。ばらまいたところで人は集まらないし、仕事が増えるわけではない。まったく効果はない。2040年に全国の約半数の896の自治体で20〜39歳の女性が10年の半分以下となり、急激な人口減によって将来消滅するという推計がある。

農林水産業の構造転換=企業による経営しか地方を消滅から救う手だてはないだろう。(2014/12/7)

◆天に唾するマスコミ批判

渡部 亮次郎



最近はマスコミ批判が花盛りである。だが、マスコミこそは戦争に敗けた日本の生んだ仇花そのものだから、マスコミを批判する事は即ち己や衆愚を批判する事である。だからマスコミは昔流に言えば当に「天に唾するもの」、私は恥ずかしくてできない。

お前は以前、NHKという代表的なマスコミに棲んでいたから「言い訳」をしているのだろうと勘繰るなら勘繰れ。そうではないことを諄々と説く心算で夜中に起きだした。

現代日本のマスコミは、敗戦の廃墟から立ち上がるに際して、生きることのすべてを生産優先に置き,大和精神を置き去りにしたことすらも忘れて経済主義に奔走した結果の産物である。既に今から数十年前、評論家の大宅壮一が民放のアチャラカ番組をダシに「一億総白痴化」と予言していた。

結果、半分白痴化した一億人が、テレビの偏向をとらえて「白痴化だ」と批判するのは、天に唾するもの。唾は己の面を汚すから、批判する事自体,滑稽だ。

例の田母神論文で、常識ある人たちは、日本政府が既に中国と韓国に迎合するために、いわゆる東京裁判史観を認めてしまっている事を知り、やや逆上したが、これも噴飯物である。

連合国に対して無条件降伏を受け入れ、日米安保条約を受け入れた日本に独立国家としての矜持は所持しえなかった。これを是正すべく安保条約をせめて双務条約に改めようとした1960年、今マスコミ批判を口にする知識階層は岸政権に対して何をなしたか。

4大紙とグルになって岸を倒したではないか。デモに加わった左翼東大生加藤紘一の潜り込んだ自民党政権を認知してきたではないか。

昭和20年の敗戦は消える事の無い悲しみである。だが、それよりも悲しいのは大和民族が誇りとしたモラルのすべてがマッカーサー憲法によって悉く否定された事である。それを悲しむのは愚か,嬉々としてマッカーサーを肯んじ結成されたのが日教組である。

その日教組が展開している運動こそは1950年(昭和25年)以降、国旗掲揚と国歌斉唱の反対である。国家統一の象徴たる行為が教育の国家統制だとか戦争反対だから国家統一反対というのは陳腐にして牽強付会な理屈である。

それでいながら今やわが国公教育の現場は完全に日教組に支配され、その「製品」たる記者たちに支配されているのが新聞、通信社、放送局の実態であり、憲法を容認し、日教組を泳がし、アチャラカテレビを楽しんできた人々からいまさらマスコミ偏向批判の声をあげられても私は聞く耳を持たない。マスコミに感覚を閉ざすと同時に批判にも目や耳を閉ざしたくなる。

私は生まれてこの方、左翼と呼ばれたことは無いが右翼と言われたこともない。若いころの41歳までNHKで国内政治担当の記者をしていたことがあるから、少しは事物を視野を広く見る習慣がついた。

例えば自民党に代って政権を担おうとしている民主党は日教組に支えられている。また、日教組支持を厭わないマスコミ各社は概ね民主党支持である。だからこそ反日教組の人々のマスコミ批判の声が高まっているのだろう。

しかし、マスコミ批判を叫ぶ人々は遅すぎる。例の村山談話の時には何も騒がなかった。あの時、自社連立という変形政権は、イデオロギーを超越せざるを得ない立場にあり、そこを中国と韓国に対して叩頭的立場を肯んずる売国連中に押し切られてああなった。

マスコミは騒がなかった。当然である。だが、反マスコミ勢力も全く沈黙を守った。以後、自民党政権を自虐史観で厳しく縛る材料となった村山談話であるだけに、保守論客の沈黙が惜しまれる。保守論客それ自体がマスコミに依存しているからである。

あえて言おう。ソマリヤ沖で海賊に襲われるタンカーを初めとする日本の運搬船。野党の攻撃を恐れて拱手傍観する政府。与党。それを追究せぬマスコミ。そのマスコミが支持する民主党。すべて国家の対面と義務を忘れている。

しかし、私はマスコミを非難しない。それでも朝日、毎日や放送各局が潰れないのは国民に支持されているからである。即ちマスコミを批判する事は、その読者,視聴者たる国民を批判する事である。

日本国民が海賊を見逃して左翼論調とアチャラかに酔い痴れている以上、何を言っても無駄なのである。

2014年12月06日

◆古寺旧跡巡礼 住吉神社(山口)

石田 岳彦


一) 住吉神は、あまり知られていませんが、1柱の神様ではなく、「底筒男神(そこつつおのかみ)」、「中筒男神(なかつつおのかみ)」、「表筒男神(うわつつおのかみ)」という3神の総称です。

そして、住吉神を祀る神社の総本社といえば、当然、大阪の住吉大社です。

もっとも、住吉大社は必ずしも最古の住吉神社ではありません。

日本書紀によれば、仲哀天皇の未亡人の神功皇后が、住吉神の神託に従って朝鮮半島に遠征して凱旋帰国し、まず、「穴門(あなと)の山田邑」に住吉神社を建てたと記されています。

更に日本書紀では、その後、神功皇后が近畿に帰り、留守中に起こった皇族の反乱を、やはり住吉神の助けを借りて鎮圧し、そのお礼として住吉大社を建てたとされているので、住吉大社よりも前に、少なくとも「穴門の山田邑」の住吉神社が存在したことになります(なお、最古の住吉神社としては、福岡市博多区の住吉神社を挙げる学説が有力なようです。)。

そして、今から述べます下関市にある住吉神社がこの「穴門(長門)の山田邑の住吉神社」と目されているそうです。

ただし、神功皇后の実在自体に争いがあるので(継体天皇以前の古事記や日本書紀の記載をどこまで信用するかについては学界で争いがあるそうです。)、あくまでも伝説の中ではということになりますが。

二)JR新下関駅は、山陽新幹線の開業前は「長門一ノ宮」という駅名でした。

この「長門一ノ宮」とは長門の国で最も格式の高い神社という意味で、要は住吉神社を指しています。新下関駅からバスで10分足らず、バス停から更に少し歩いたところにある森。そこが住吉神社です。

この神社の見所は、室町時代初期に守護大名の大内氏により再興された国宝の本殿で、九間社流造という変わった形をしています。

ここで「九間」とは、庇を支える柱の間が9つ(つまり柱は10本)という意味になります(京都の三十三間堂も同様に柱の間が33という意味です)。

他方、「流造」というのは、切妻平入(「切妻」とは屋根の形状です。本を半開きにして、開いている方を下にして置いた形を思い浮かべてください。また、「平入」は長方形の建物の長い辺の側に入り口のあることです。)の建物の正面側の屋根を前方に長く延ばして、それを柱で支えて庇(向拝)にしたものです(横から見ると、屋根が「ヘ」型です。)。

流造自体は神社の本殿としては極めてメジャーな形状で、現在日本にある神社の過半数がこの形式の本殿といわれているそうです。

しかし、通常、流造の神殿は小型のもので一間、中型から大型のもので三間という場合が多いので、九間というのは、神社の本殿として異常なほどに横幅が広いということになります。

とりあえず、百聞は一見に如かずで、写真をご覧ください。1枚の写真に収めようとすると、横に長いうえに、前の拝殿が邪魔(毛利元就のこさえた重要文化財の拝殿に対して失礼な言い草ですが)になる関係で、空撮でもしない限り、真横に近い方向からの撮影を余儀なくされます。

構造的に見ると、一間社流造の神殿を横に5つ並べて、屋根を繋ぎ合わせて1つにしたものです。

また、各神殿の正面には千鳥破風という三角形の飾りがそれぞれ設けられていて、視界の左右いっぱいに延びる桧皮葺の焦げ茶色の屋根(これを美しいと思えるか否かで、古社寺巡りを楽しめるかどうかが決まるというのは言い過ぎでしょうか?)の上に整然と5つの千鳥破風が並ぶという、おそらく日本ではここだけという偉観を作り出しています。

5つの神殿には、向かって左側の第一殿から順に、住吉神の荒魂(神々の荒々しい側面を指します。対義語は和魂−ニギタマ−です。)、神功皇后、応神天皇(神功皇后の息子)、武内宿禰(神功皇后の功臣)、建御名方命(タケミナカタノミコト。大国主命の息子で、諏訪大社の神様)が祀られているそうですが、建御名方命だけは住吉神や神功皇后との繋がりがよく分かりません。何故でしょう?

下関に行くのであれば、この住吉神社は一見の価値ありです。私のように古い建物が好きな方なら、この神社自体を目的に下関に行かれてもよいかと思います。(再掲)

2014年12月04日

◆角栄に追いつけなかった

渡部 亮次郎



私はNHK記者は20年弱しかつとめていない。その間担当した政治家は河野一郎、園田直、重宗雄三、福田赳夫である。福田を担当するとき本当は政治部長は田中を担当させる心算だったが、飯島副部長の主張で福田になった、と後で聞かされた。

飯島副部長は「角福戦争」は福田の勝利と読み「渡部にも主流派担当の味を味わわせてやりたい」との親心だったそうだ。しかし、結果は福田の惨敗。1年も経たずに田中派の要求で大阪に左遷。

3年後、自分で「工作」して東京に戻ったが、この組織での私の将来は無いと判断。誘いに応じて福田内閣の外務大臣園田直の秘書官となりNHKを離れた。

したがって記者時代に角栄とじかに話をしたことは無い。記者会見でも質問したことも無かった。そのうちに角栄は1993(平成5)年12月16日、75歳で死亡してしまった。糖尿病の合併症としての脳梗塞の末の死だった。

角栄は汗っかきでバセドウ病を自称していたが、後になって分かった事は元々かなり重度の2型糖尿病だったのだ。だから早くにインスリンを毎日注射していれば、あんなに早く脳梗塞になるはずは無かった。

斯く言う私も48歳で2型糖尿病を発症したがインスリンの注射でピンピンし、やがて77歳ではないか。なお糖尿病の2型とは中年を過ぎて発症する糖尿病。1型は出生時既に発症しているもののこと。

さて、角栄の死から既に20年が過ぎ世間は角栄を話題にする事は少なくなった。話題にするとすれば、あれほどの政治的天才からどうしてあんな馬鹿な娘真紀子が生まれたのかと貶す度だ。しかしその真紀子もとうとうと言おうか、やはりと言おうか落選してしまった。

そうした折、大阪で共に働いたいうか毎晩のようにミナミで一緒した呑み友達の城取俊昭から贈られた本「田中角栄」を読んだ。朝日新聞で角栄を一番良く知っていた早野 透が書いた中公新書2186である。

何故かサブタイトルが「戦後日本の悲しき自画像」となっている。このタイトルはおかしい。殆どは早野による褒め言葉ばかりだからである。

私も田中と言うよりも「番頭」格の竹下登(後首相)からの指令で大阪に左
遷されたから角栄を恨むのが筋だが、恨んではいない。今となっては、むしろその政治的天才ぶりに敬服しているぐらいだ。

小学校高等科卒だけの歴だが、頭脳は抜きん出てよかったらしいし、すべてにチャンス(戦機)をつかむ能力が天才的だったようだ。16歳で単身、上京したのは理化学研究所の大河内正敏を頼ってのことだったが手違いで会えず東京での手づるを失ってしまった。しかし挫けなかった。

大河内とやっと出会えたのは2年後だったが田中はその時すでに中央工学校を卒業し建築事務所に勤務していた。大河内は密かにその努力と頭の良さに注目したらしい。

25歳で田中土建を設立した時は既に田中に大きな土建工事を発注していた。田中はここで大いに財をなす。その金をバックに政界に乗り出し、2回目、29歳で衆院議員に地元新潟3区から初当選した。

はじめは民主党系を走っていたが、いつの間にか自由党系に転じ、吉田茂の周辺者となり「保守本流」の有資格者となった。これはその後の出世に格別役立った。親分佐藤栄作や首相池田勇人につながるからである。

余談だが園田直も30代で衆院議員になったが親分河野一郎が長く主流派を維持できなかったこともあって出世が遅れ、初入閣は当選9回を過ぎていた。

角栄が佐藤にどれぐらい献金していたか、早野の記述では触れられていないが、角栄は佐藤派に所属しながら大平正芳を通じて池田に可愛がられたのが出世の糸口となった。

池田政権下で池田と対立する佐藤派に属しながら自民党三役の政調会長に引き立てられ、更に大蔵大臣に出世したからである。これで権力の味を占め、「ひょっとして総理大臣」を目指すことを決意する。

とにかく「戦機」を見出し掴むことに天才的な能力があった。加えて気配りに長じ、カネを散ずることを惜しまなかった。やがて政権が池田から佐藤に移ると幹事長に「出世」した。

それまでに既に神楽坂の芸者を妾とし、2人の男の子をなしていた他、若いときから秘書にしていた女性にも女の子を生ませていた。本妻は当然知っていた。但し女の子は認知していない。

私が記者として角栄を知ったのは自民党幹事長としての角栄であり「番」ではないから私邸まで押しかけた事は無かった。

そのうちにポスト佐藤を争う「角福戦争」になったので益々角栄を取材するチャンスを失くした。早野のように毎日そばで角栄を見ていれば角栄の勝利は初めから判っていただろう。党内の隅々までの気配りとカネ配りを重ね合わせれば判って当然だったろう。

グタグタと書き続けてもしょうがないから止めるが、要するに自民党内には政治能力において角栄に追いつき追い越せる有能者はまだ現れてはいない。

なお角栄は妾宅にいるのに忙しく真紀子の教育には時間を割けなかった。真紀子もまた角栄の表現を借りれば「じゃじゃ馬」の性格で父親の言うことなんか聞くような温和さなど端からなかった。
(文中敬称略)

2014年12月02日

◆スキーの出来ぬ雪国男

渡部 亮次郎



秋田生まれといえば、れっきとした雪国男といわれるが、事情があってスキーが全くできない。東京・向島生まれの家人は出来るそうだ。

雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。

夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。

少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。

だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。

ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。

それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。

尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。

冬の八郎潟はなるほど氷結したが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。

父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流され溺死した。日露戦争から凱旋した祖父は止むを得ず次男ながら家督を相続、孫に私が生まれてという次第。

そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。


        

2014年12月01日

◆ジャンバーと唄っていた頃

渡部 亮次郎


ジャンパーが日本に初登場したのは、敗戦(1945年)直後である。その当時は小学(国民学)校4年 9歳だったが、岡 晴夫が「粋なジャンバー」と唄ったのでジャンバーと覚えた。しかし、実はジャン「パ」−が正解のようである。

東京の花売り娘 1946年

佐々詩生作詞 上原げんと作曲 歌: 岡晴夫 

青い芽を吹く 柳の辻に
花を召しませ 召しませ花を
どこか寂しい 愁いを含む
瞳いじらし あの笑くぼ
ああ 東京の花売娘

夢を見るよに 花籠抱いて
花を召しませ 召しませ花を
小首かしげりゃ 広重描く
月も新たな 春の宵
ああ 東京の花売娘

ジャズが流れる ホールの灯かげ
花を召しませ 召しませ花を
粋なジャンバー アメリカ兵の
影を追うよな 甘い風
ああ 東京の花売娘

仮にも占領軍の兵士を「粋」と唄ったのは、子ども心にも可笑しかった。日本人はすぐに狎れたがる国民だ、と。だから直後に憲法をオシツケラレタ。それなのにマッカーサーに「感謝」して羽田空港まで「歓送」する始末。


ジャンパー (衣服)

ジャンパー 革ジャンジャンパー(英: jumper)とは、男女、子供ともに着用する上着のことで、フランス語のブルゾン(仏: blouson)にあたる。日本ではジャンバーと呼ばれることも多い。

もとは、粗綿、麻などで作った仕事着で、運動量に富んだゆったりとしたジャケット(英: jacket)のことをいったが、現在はスポーツウェア、レジャーウェア、普段着など広範囲に着られる。

デザインは前開きボタン留め、またはファスナー付き、あるいはプルオーバー(英:pull-over)ふうのものなので、裾や袖口にベルトやボタン、ゴム編みの付いたものがみられる。

英語圏でジャンパーとは、主にセーター、プルオーバー、スウェットシャツを意味し、日本語でジャンパーと呼ばれるものは、英語圏ではジャケットと呼ばれる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年11月30日

◆オイカサラマサ予算

渡部 亮次郎



昔の噺。自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」と判断できた。他社の記者連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていた。

打ち続く野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やして伝家の宝刀宜しく、採決強行(強行採決)を断行するぞと予告をしているのであった。記事やニュースには出なかったが、記者クラブでは以後しばらくガッポウテキが流行語となった。

それからしばらくして委員長はなんと入閣した。佐藤首相はそれをガッポウテキと判断したのだろう。

日本のみならずどこの国でも、国民に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

どこか大国の大統領ですら、最近、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいるくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかく。

昔のある代議士は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。お気づきだろうか、追加更正予算のことである。今の世は更正の語を使わないから、オイカサラマサと言われて判る人は少なかろう。

いずれにしろ議場は大爆笑に包まれたか否か。そういえば、演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)やった兵(つわもの)がいたそうだ。

学識が足りないから原稿は誰かに書いて貰ったのだろうが、筆者は気を利かせたつもりで、アドバイスよろしく(このへんで一息入れて、水を飲みなさい)を書いたところ、代議士はそのまま読んじゃった。口に蓋をしたかっただろう。

しかしこの場合は書いた方が良くないと思わないか。

津軽(青森県の西側半分)出身の作家・石坂洋次郎の小説「青い山脈」で女学生宛てのラブレターを先生が取り上げていきなり「へんしい、へんしい」と誤字どおり読んで笑わせる場面がある。


もちろん恋しい、恋しいなのであるが、文字とか言葉というものは、子どものうちこそ注意してくれる人があって直せるが、大人になってからでは、誰も失礼と思うから下を向いて笑いを堪(こらえ)たままだから、本人がどでかい恥を掻く事になる。まさに聞くは一時(いっとき)の恥云々である。

「夫妻」を「ふうさい」といって直らない社長がいる。「夫婦」は「ふうふ」だから「ふうさい」と覚えてしまったのである。別の人は「熾烈」を「しきれつ」と発音する。だからか「旗幟」を「きし」ではなく「きしょく」と言って恥じない。

そうかと思えば雑談の中で「さつじん」を連発するが意味は通じない。映画の話だから「殺陣」(たて)のことなのであるこの人は頻繁に国連総会の演説で「漸次」を「暫時」と読み替えて側近を苦笑させた。

「次第に」を「しばらく」に変えたのでは意味が大分違うが、彼はどちらも「ざんじ」とよむのだった。そういえば朝日新聞ですら「まだ」未青年だ、などと書く。漢文をやめたからこうなった。

代議士ではないが「お土産」を「おどさん」としか読めないタレントがいた。さすがにディレクターがそっと呼んで事なきを得たそうだ。

NHKの女性 アナウンサーですら「愛娘」を「まなむすめ」ではなく「あいろう」と読 んだり、「春日」を「はるひ」と読む。

こうしたことはその人の学識と無関係なことだから、「珍語」と打ってパソコンが「鎮護」としか出せないように、これからもいろいろあって恥をかいたり笑わせたりするだろう。

2014年11月28日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。


鈴木善幸内閣は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を惹いたことを覚えている。病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えていた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。>

日本大百科全書(小学館) (文中敬称略)

2014年11月22日

◆オムライスは大阪? 東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2014年11月17日

◆か゜き゜く゜け゜こ゜

渡部 亮次郎


生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなった
ころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出されたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。
参照:「ウィキペディア」