2020年01月18日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、「今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの
いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。


酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか!
今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05



2020年01月16日

◆「お富さん」で大学生

       渡部亮次郎
            

まだカラオケなど無い昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年
1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存知の通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ斬りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11

2020年01月14日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。


戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。2009・07・16

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2020年01月12日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。
だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」とし て、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰め て運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界 じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さん は「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露し て私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが 「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、 角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出 るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも 実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切 手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すの が普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30 年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦 争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だった。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。 1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎であ る。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。文中敬 称略  2011・1・24



2020年01月11日

◆人間の安全保障に生きた

渡部亮次郎


「小さな巨人」緒方さん
確か1993年だったと思う。日本経済新聞の国連担当だった私はニューヨー クの国連ビルの前を歩いていた。ふと前を見ると緒方さんがいる。
防弾チョッキ姿でサラエボ空港に降り立った勇姿とは違い物腰の柔らかい 古風な日本女性といった雰囲気だった。声をかけると、アラッと言って気 さくに国連難民高等弁務官の仕事の忙しさを語ってくれた。

1991年から10年間、国連難民高等弁務官をつとめたが、就任当時、日本政 府内にも、女性で大丈夫かという懸念の声があったと聞く。しかし、それ は杞憂だった。緒方さんの活躍ぶりは周知のとおり輝かしいばかりである
イラクのクルド難民危機では、トルコ側から押し返された難民を前に、慣 例を破って国境を越えなくても支援に当たるという英断を下した。バルカ ン紛争ではボスニアで民族和解を図る「共生の想像」プロジェクトを考案 した。
アフリカ大湖地域における大量虐殺と救済、アフガニスタンでの大量難民 の支援と帰還などその功績は数え上げればきりがない。

難民問題ではクリントン米大統領やシラク仏大統領説得に自ら乗り出した というエピソ−ドが残っている。小柄だが、度胸が良く、積極果敢。世界 の指導者から「スモ−ルジャイアント」(小さな巨人)として尊敬された というのもうなずける。
かつてこれほど国際的に評価された日本人もいまい。緒方さんという人を 形づくったものは何だろう。
犬養毅元首相は彼の内閣の外相、芳沢健吉に長女を嫁がせた。芳沢は駐仏 大使、国際連盟日本大使となり、満州事変の処理では大変な苦労をした。 その娘がフィンランド公使をつとめた外交官、中村豊一と結婚、生まれた のが貞子さんである。

吉田内閣で官房長官だった緒方竹虎の息子、四十郎に嫁ぎ、緒方姓となっ たのである。つまり、元々は国際関係の書物に埋まった外交官の家に生を 受けた研究者だったが、国連という実践の場に立つことで世界的な広い視 野と対応力、つまりは国際感覚を身に着けたといえるかもしれない。
難民がいなくなり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が消えてなくな るのが私の夢、とよく口にしていたが、残念なことに紛争と難民は今も絶 えることがない。

拙著『国連機関でグローバルに生きる』(現代人文社)の出版にあたり、 緒方さんに序文を寄せていただいたが、彼女はその中でこう記している。

「敗戦を経験し世界から孤立した経験を持つ日本は、これからも国際貢献 を政策の最優先課題とすべきである。そして、これからの日本を背負う若 い人たちが世界の人々のために働こうという意欲を持つことほどすばらし いものはない」
若者が緒方さんの後に続くこと、また、そういう若者を育てることこそ が、我々が「人間の安全保障を掲げた」稀代の巨人の遺志に応える道であ ると思う。


2020年01月07日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


アメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」 にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けること を最優先に考えており、私から言えば「アメリカは先覚問題から常に身を かくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指 導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては (日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とす る機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中 国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするた めの知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるか どうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答える のではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府 高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本 政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用され る」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の 平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないとい う立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日 本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米 国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入 を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言に ついて「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を 強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5 条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は 「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日 中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではな い)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、 日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、 クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え 「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政 府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の 条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処を する義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認 が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対 応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは 尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改 時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定を そこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般に は解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、 累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、 尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認し つつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。 軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示 した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締 結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先す るというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准 (国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や 政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄 として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄 としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会 によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでも サンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しな いことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争 いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本に はない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会 が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更する わけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリ ントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣 諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示 し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における 責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレ ン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明して いる。2013・12・27

2020年01月05日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。 秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた 旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたの は40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食 べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売って いて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっ つる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を 入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在 作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られてい る。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る 「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも 用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味 として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働 きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分 解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚な うま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働き が強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤 は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、 いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用 されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」 (魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されて いる。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発さ れ、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道 日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発 酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メー カーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっ け醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造 する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いく つかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアで は、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いら れる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している 地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマム とも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、 カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャン マーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・ イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露 (キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の 「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれ る魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペー ストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われて いた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっている が、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚 醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにした り、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚 をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレ などを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用 いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵さ せる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進 んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いも のから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚 と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調え るものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2019年12月30日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。1953(昭和28)年のこ とだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的 な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心 は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京 都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、 終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に 母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学 派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を 病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、 八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその 冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信 濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の 姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家 庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代 の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、 立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、 信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病 床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自 分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的 名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去 (満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年12月25日

◆「なめたらいかんぜよ」

   渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10


2019年12月19日

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎


9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における田中総
理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったとか、青
菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから大学出
は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった話。周恩
来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中製?」
と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレ
トルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品
の具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品
自給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28

2019年12月18日

◆「食育」の魁石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選
択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、
知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられ
ている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化
についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思
想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸
軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学
的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育と
いう言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理
念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山
東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺る
がす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除く
ことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り
上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではない
かと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』とい
う著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃
の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民
が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的とし
ている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医
師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵
助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症
の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がま
だ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食
同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民
に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための
寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究
所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ
語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。
1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医
薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担
架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食
物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国
から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政
治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の
病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血
液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は
穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るよ
うな自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯
8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であると
いう天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をと
る。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にす
ることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム
(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバラ
ンスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウム
の多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物
や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によっ
て陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は
末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少な
い食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランス
に注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍
耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会
人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養
成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短く
なってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つよう
に食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年12月17日

◆「食育」の魁石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選
択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、
知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられ
ている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化
についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思
想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸
軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学
的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育と
いう言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理
念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山
東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺る
がす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除く
ことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り
上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではない
かと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』とい
う著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃
の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民
が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的とし
ている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医
師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵
助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症
の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がま
だ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食
同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民
に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための
寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究
所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ
語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。
1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医
薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担
架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食
物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国
から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政
治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の
病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血
液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は
穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るよ
うな自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯
8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であると
いう天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をと
る。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にす
ることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム
(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバラ
ンスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウム
の多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物
や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によっ
て陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は
末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少な
い食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランス
に注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍
耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会
人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養
成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短く
なってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つよう
に食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2019年12月15日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になった
が、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」と
して通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、
「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べな
い。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。

あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれてい
る。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らな
かった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館
市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていな
い。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当な
ものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午
前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウン
サー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが前夜仕組んでいった
ニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の
「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、
毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は
止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考え
ている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。
だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つ
とかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年
以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5