2020年02月17日

◆敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎



公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下から勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるようになった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道され、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認められない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパートで夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことなどを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。
学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしているのは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去ったなどの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合されていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」と請求を棄却。矢野は上告した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、
<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコントロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立ててからおかしくなった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行きとなっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・09・26


2020年02月13日

◆「なめたらいかんぜよ」

    渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でになるのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画であることを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のものを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がったのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に次ぐ失態になる。2010・1・10


2020年02月08日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日生まれ( 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝
の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。2010・2・27

      

2020年02月05日

◆「やませ」は凶作の使者

  渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。
稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように昇って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。2009・08・18
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2020年02月01日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎


元NHK政治記者 元外相・厚相秘書官

<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告をしていた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは当然だ。

安倍政権にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであり、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。>産経新聞{主張}(2006/12/28
05:10)

産経の主張は最後に≪安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。≫と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要がある。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。

有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて言ったところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。

ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。
議員会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費で賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

佐田氏の政治団体が平成2年の発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、12年まで事務所費や光熱費の名目などで約7800万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費に秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。それは殆ど警察の目をくぐる。

警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。冒頭の産経論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。2007.01.10



2020年01月31日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎


高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートーヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌やフォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にある会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭のオープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴けば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド
『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれて いる。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ちが現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しに する、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描いている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられているが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼ら がよみがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich) Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリトミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち 1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終えた。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』 は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14


2020年01月28日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部 亮次郎


手許に残っている「文芸春秋」2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にもに弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ってるようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。

今更小澤を論ずるなどやめようという論稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明してしまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)2010・2・10


2020年01月24日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。


1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。


しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬称略)2008・2・10
 

2020年01月23日

◆「三猿」中国特派員

渡部亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2020年01月22日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネットを報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちによって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多くは来日後「反共」になった女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では週刊で発行している。 全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるなどについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表し、この中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へメッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓器狩り」を発表した。

この問題は世界のメディアや人権団体が注視している。この件でアルゼンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがある。

受賞  2005年8月、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門で優秀賞を受賞。 2005年9月、カナダ全国マイノリティーメディア協会の2005年メディア賞を受賞。

2006年4月20日、アメリカのホワイトハウスで行われた中国の胡錦濤国家主席の歓迎式典で、大紀元の女性記者・王文怡(ワン・ウェンイ)が式典中、ジョージ・ブッシュ大統領の目前で胡錦濤を批判する発言(中国共産党による臓器狩り問題に対して抗議する内容)を叫んだとして、国
際問題になった。その後、大紀元はアメリカ政府に謝罪し、王記者は解雇された。2012・4・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://www.epochtimes.jp/


2020年01月20日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になった が、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」と して通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、 「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べな い。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。

あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれてい る。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らな かった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館 市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていな い。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当な ものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午 前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウン サー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいった ニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の 「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、 毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は 止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考え ている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。 だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つ とかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年 以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5


2020年01月19日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。 死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては 殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで 建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、 川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と 目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に 党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を 拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天 王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と 滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし 記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の 七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、 「今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享 年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人 (大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法 蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の 言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫 だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年 後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を 歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由 民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選 出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので 神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自 由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員 河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元 よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・ との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例 であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬 で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍 団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川 崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起 こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際 に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日 は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい た、終生。2008・07・05

2020年01月18日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、「今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの
いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。


酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか!
今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05