2020年01月23日

◆「三猿」中国特派員

渡部亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2020年01月22日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネットを報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちによって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多くは来日後「反共」になった女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では週刊で発行している。 全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるなどについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表し、この中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へメッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓器狩り」を発表した。

この問題は世界のメディアや人権団体が注視している。この件でアルゼンチンやオランダ、スペインなどで江沢民らを「人道に対する罪」で起訴する動きがある。

受賞  2005年8月、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の全国報道賞、アジア・アメリカ問題ネット報道部門で優秀賞を受賞。 2005年9月、カナダ全国マイノリティーメディア協会の2005年メディア賞を受賞。

2006年4月20日、アメリカのホワイトハウスで行われた中国の胡錦濤国家主席の歓迎式典で、大紀元の女性記者・王文怡(ワン・ウェンイ)が式典中、ジョージ・ブッシュ大統領の目前で胡錦濤を批判する発言(中国共産党による臓器狩り問題に対して抗議する内容)を叫んだとして、国
際問題になった。その後、大紀元はアメリカ政府に謝罪し、王記者は解雇された。2012・4・9

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://www.epochtimes.jp/


2020年01月20日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になった が、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」と して通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、 「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べな い。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。

あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれてい る。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らな かった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館 市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていな い。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当な ものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午 前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウン サー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいった ニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の 「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、 毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は 止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考え ている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。 だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つ とかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年 以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5


2020年01月19日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。 死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては 殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで 建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、 川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と 目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に 党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を 拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天 王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と 滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし 記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の 七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、 「今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享 年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人 (大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法 蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の 言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫 だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年 後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を 歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由 民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選 出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので 神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自 由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員 河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元 よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・ との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例 であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬 で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍 団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川 崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起 こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際 に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日 は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい た、終生。2008・07・05

2020年01月18日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、「今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの
いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。


酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか!
今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05



2020年01月16日

◆「お富さん」で大学生

       渡部亮次郎
            

まだカラオケなど無い昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年
1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存知の通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ斬りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11

2020年01月14日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。


戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。2009・07・16

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2020年01月12日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。
だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」とし て、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰め て運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界 じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さん は「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露し て私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが 「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、 角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出 るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも 実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切 手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すの が普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30 年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦 争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だった。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。 1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎であ る。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。文中敬 称略  2011・1・24



2020年01月11日

◆人間の安全保障に生きた

渡部亮次郎


「小さな巨人」緒方さん
確か1993年だったと思う。日本経済新聞の国連担当だった私はニューヨー クの国連ビルの前を歩いていた。ふと前を見ると緒方さんがいる。
防弾チョッキ姿でサラエボ空港に降り立った勇姿とは違い物腰の柔らかい 古風な日本女性といった雰囲気だった。声をかけると、アラッと言って気 さくに国連難民高等弁務官の仕事の忙しさを語ってくれた。

1991年から10年間、国連難民高等弁務官をつとめたが、就任当時、日本政 府内にも、女性で大丈夫かという懸念の声があったと聞く。しかし、それ は杞憂だった。緒方さんの活躍ぶりは周知のとおり輝かしいばかりである
イラクのクルド難民危機では、トルコ側から押し返された難民を前に、慣 例を破って国境を越えなくても支援に当たるという英断を下した。バルカ ン紛争ではボスニアで民族和解を図る「共生の想像」プロジェクトを考案 した。
アフリカ大湖地域における大量虐殺と救済、アフガニスタンでの大量難民 の支援と帰還などその功績は数え上げればきりがない。

難民問題ではクリントン米大統領やシラク仏大統領説得に自ら乗り出した というエピソ−ドが残っている。小柄だが、度胸が良く、積極果敢。世界 の指導者から「スモ−ルジャイアント」(小さな巨人)として尊敬された というのもうなずける。
かつてこれほど国際的に評価された日本人もいまい。緒方さんという人を 形づくったものは何だろう。
犬養毅元首相は彼の内閣の外相、芳沢健吉に長女を嫁がせた。芳沢は駐仏 大使、国際連盟日本大使となり、満州事変の処理では大変な苦労をした。 その娘がフィンランド公使をつとめた外交官、中村豊一と結婚、生まれた のが貞子さんである。

吉田内閣で官房長官だった緒方竹虎の息子、四十郎に嫁ぎ、緒方姓となっ たのである。つまり、元々は国際関係の書物に埋まった外交官の家に生を 受けた研究者だったが、国連という実践の場に立つことで世界的な広い視 野と対応力、つまりは国際感覚を身に着けたといえるかもしれない。
難民がいなくなり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が消えてなくな るのが私の夢、とよく口にしていたが、残念なことに紛争と難民は今も絶 えることがない。

拙著『国連機関でグローバルに生きる』(現代人文社)の出版にあたり、 緒方さんに序文を寄せていただいたが、彼女はその中でこう記している。

「敗戦を経験し世界から孤立した経験を持つ日本は、これからも国際貢献 を政策の最優先課題とすべきである。そして、これからの日本を背負う若 い人たちが世界の人々のために働こうという意欲を持つことほどすばらし いものはない」
若者が緒方さんの後に続くこと、また、そういう若者を育てることこそ が、我々が「人間の安全保障を掲げた」稀代の巨人の遺志に応える道であ ると思う。


2020年01月07日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


アメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」 にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けること を最優先に考えており、私から言えば「アメリカは先覚問題から常に身を かくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指 導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては (日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とす る機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中 国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするた めの知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるか どうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答える のではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府 高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本 政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用され る」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の 平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないとい う立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日 本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米 国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入 を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言に ついて「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を 強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5 条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は 「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日 中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではな い)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、 日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、 クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え 「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政 府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の 条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処を する義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認 が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対 応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは 尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改 時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定を そこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般に は解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、 累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、 尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認し つつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。 軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示 した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締 結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先す るというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准 (国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や 政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄 として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄 としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会 によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでも サンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しな いことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争 いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本に はない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会 が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更する わけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリ ントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣 諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示 し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における 責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレ ン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明して いる。2013・12・27

2020年01月05日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。 秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた 旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたの は40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食 べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売って いて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっ つる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を 入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在 作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られてい る。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る 「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも 用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味 として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働 きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分 解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚な うま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働き が強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤 は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、 いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用 されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」 (魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されて いる。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発さ れ、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道 日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発 酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メー カーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっ け醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造 する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いく つかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアで は、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いら れる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している 地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマム とも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、 カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャン マーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・ イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露 (キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の 「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれ る魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペー ストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われて いた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっている が、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚 醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにした り、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚 をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレ などを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用 いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵さ せる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進 んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いも のから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚 と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調え るものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2019年12月30日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。1953(昭和28)年のこ とだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的 な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心 は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京 都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、 終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に 母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学 派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を 病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、 八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその 冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信 濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の 姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家 庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代 の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、 立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、 信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病 床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自 分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的 名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去 (満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年12月25日

◆「なめたらいかんぜよ」

   渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10