2017年05月21日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人女性がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06


2017年05月20日

◆小畑実 (歌手)は北朝鮮出身

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集したえい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。

のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。

特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチック
な旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、
彼の歌唱の特徴が生かされた傑作である。NHK紅白歌合戦に3回出場している。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。


2017年05月18日

◆アカシアの雨がやむとき

渡部 亮次郎


言わずと知れた西田佐知子のヒット曲である。「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい 夜が明ける日が上る・・・」1960年の判安保の歌とあとで評判になった。

日米安保反対闘争を私は仙台でNHK記者として聞いた。23歳だった。鼻の頭に汗をかきながら冷害の心配をせっせとニュースにし、カメラマンの訓練も受けていて、国会議事堂をとりまく安保騒動には全く関心を寄せる暇が無かった。

1960年、昭和35年は心有る者には「大逆(たいぎゃく)事件の真実をあきらかにする会」が発足し、50年前、残虐非道の判決が下された「大逆事件」について、やっと再審を請求する動きの始まった年として、記憶されるべき年である。

しかも大逆事件の経緯を知れば、安保騒動なんかに付和雷同することは、とうてい出来なかった。

「たいぎゃくじけん。明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件。1910年(明治43)一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者・無政府主義者が検挙され、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含む24名が死刑を宣告され、翌年1月幸徳秋水・宮下太吉ら12名が処刑された。幸徳事件」(岩波広辞苑第5版)。

80歳の私ですら大逆事件のことを学校で習ったことは無い。戦後、アメリカ軍は日本の子供たちが自国の近現代史を習うことを嫌ったからである。そのまま成長してしまい、大逆事件の事を知るのは大人になって自分で本を読んでからである。

時は日本がロシアとの「日露戦争」にやっと勝った直後である。「日本政治裁判史録」(第一法規出版)に依ると、世には一種の挫折感がみなぎり、深刻な生活難が実在した。色あせた明治の栄光の陰から、社会主義運動は次第に形を整え、政治の舞台に登場してきたのである。

甲府生まれにして長野県内にある官営明科(あかしな)製材所職工長宮下太吉(34)が明治43年5月25日、明治天皇を暗殺する目的で作ろうとした爆裂弾の材料とともに逮捕されて事件の幕はあがった。

語らった友人、親族それに思想的指導者としての幸徳秋水や、管野スガらが次々に逮捕されて26人にのぼった。罪名は刑法73条「皇室に対する罪」である。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。どう考えても唆したとされる管野スガ、爆裂弾作りに手を下した4人以外は「口舌の徒」に過ぎない。

しかし、社会主義政党を許可した西園寺内閣を憎んで潰した桂内閣とその陰にいる元老山県有朋は、この事件をいいことに社会主義・無政府主義の根絶を図ろうと企てた。

引っ掛けられた方はたまらない。裁判は大逆罪に限り非公開1審のみ証人無し。検事側の主役を演じた平沼騏一郎でさえ後年「今なら10年ぐらいかかるだろう」と言うのを、証拠調べにわずか20日。なにしろ捜査開始から判決までたった8ヶ月だった。

24人に死刑、うち12人は恩赦で無期懲役となったが、とにかく12人は1週間後に処刑された。恐ろしい時代だったのである。からくも死を逃れた14人のうち3人は獄中病死、2人は自殺、残りはやっと昭和9年までに仮出獄や満期釈放となった。

昭和9年に仮出獄した坂本清馬本人と別の遺族が昭和36年から再審を請求し続けたが昭和42年7月5日、最高裁でも棄却されて事件は闇に葬られた。

戦後は刑法も改正されて大逆罪や不敬罪は無くなった。しかしそれをなくしたのは、占領軍アメリカだった。確かにアメリカは日本から自主防衛の権力も取り上げたので、岸信介首相はせめて相互協定にしようと日米安保条約改定を図ったのである。岸内閣は倒すべきでは厳として無かった。

それを社会党と共産党、労働組合・総評の逆宣伝に乗って全学連などと言って国会周辺で騒いで女子学生を踏み殺した。

ただそれだけの「はしゃぎ」だったのに「空しい」と「アカシアの雨がやむとき」なんぞ歌ってメソメソするとは、いい気なもんだった。

安保騒動の学生が殺されなかったのには大逆事件の犠牲による刑事訴訟法の改正が大きかった。なお、平沼騏一郎の子孫が平沼赳夫氏という。
                         2004.03.22

2017年05月16日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから40年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html

東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000人の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報
(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時
の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だった
のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン
スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を
打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面
に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ
なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)
 このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン
自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月
を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイ
ンスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容
は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという
ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血
糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証
へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24

2017年05月15日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
まねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれて
いる。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣が
おしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、
いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の
小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)






2017年05月14日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。

悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。

結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

2017年05月13日

◆お助け橋・「新」大橋

渡部 亮次郎



今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡るしかない。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかる。

車だと2Km走って新大橋で隅田川を渡れば日本橋と銀座だ。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

余談だが「川向こう」には韓国という意味もある。日本海を川に見立てるからである。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が運河を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また錦糸町駅周辺の再開発も進んでマンションや高層ビルが建った結果、両国の花火は我が家からは見えなくなって久しい。

東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口はいまや 48万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとはただの「大橋」だった。だから1つ下流は新大橋。

新大橋(しんおおはし)は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2丁目・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目(元安宅町)。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。


「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、

町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩(やすら)うべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m  着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

2017年05月12日

◆コショウ(胡椒)知らず

渡部 亮次郎



コショウを全く知らずに育った。米どころ秋田で生まれ育ったため、麺類を知らず、大学の食堂で友人がラーメンを食べる前に振りかけたのがコショウ(胡椒)というものであることを初めて知った。

田舎時代は肉料理といっても庭で放し飼いの鶏を潰すだけ。牛肉も大学に入って初めてだったから、肉料理に胡椒を振りかけたほうが美味しいというのも学生になってからである。

長じて「常識」を学んだ。ペッパー pepper はサンスクリット語のpippali(ナガコショウ)が転訛した語とされるが,インド産のものが中央アジアの通商路を経由して中国にもたらされたため,〈胡=西方〉の〈さんしょう(椒)〉とよびならわされた。

ギリシア・ローマ時代には南インドのマラバル産コショウがインド洋の貿易風(ヒッパロスの風)を利用して輸出された。中世に入るともっぱらアラビア商人が独占的に扱った。

15世紀末に新航路が開拓されると,ポルトガル,スペインなどは香料の獲得に力を入れ,マラッカ,キャンベイはその中継・集積港として栄え,また南インドのアラビア海沿岸の小海洋王国はコショウの輸出や関税収入を財源としていた。

17世紀にはイギリス東インド会社がアジア貿易を一手に握り,コショウはアイ(藍),キャラコとともにインドからの主要な輸出商品となった。

東インド原産のコショウ科の常緑つる植物。その実は最も古くから著名なスパイスの一つで,香辛味のほか防腐効果,食欲増進の効果などがある。

古代ローマ時代のヨーロッパでは,シナモンとともに最も珍重され,コショウの粒は同量の銀と等価といわれた。コショウ貿易の利益の独占をめぐって,15世紀からのいわゆる大航海時代には,ヨーロッパ列強の東方進出,植民地争奪戦争などの事件が相次ぎ,世界史をゆり動かす原動力にもなったといわれる。

青い未熟の果実を,房ごと収穫する。2日間日干しすると,しわがよって黒くなる。足で踏んで柄を除き,粒だけにしたものが黒コショウ blackpepper である。

完熟果を収穫し,流水に漬けるかした後,乾かしてから摩擦によって果皮と果肉を除去し,灰白色の種子だけにしたものが白コショウ whitepepper である。

コショウが日本にもたらされたのはかなり古いことで,天平勝宝8年(756)の《種々薬帳》(《東大寺献物帳》)に名が見えるように,はじめは薬種とされていた。

しかし,獣肉や魚の料理に用いられたこともあったようで,後三条天皇はしばしばサバの頭にコショウをぬって焼いて食べたと,《古事談》は記している。

いまでもトウガラシをコショウと呼ぶ地方がある(九州)が,トウガラシは渡来当初はコショウの一種と考えられていたらしい。


元禄(1688‐1704)ごろには薬屋で売られる一方,粉ザンショウなどといっしょにコショウの粉を売り歩く行商人があったことは,西鶴の作品などに見える。

近松門左衛門の《大経師昔暦》に〈本妻の悋気(りんき)と饂飩に胡椒はお定り〉とあるように,江戸前期、うどんにはコショウがつき物であった。後期になってそれが廃れたようで,大田南畝は〈近頃まで市の温飩に胡椒の粉をつゝみておこせしが,今はなし〉と《奴師労之(やつこだこ)》に書いている。

日本には,つる性常緑草本のフウトウカズラ P.kadzura (Chois.) Ohwi が関東地方以南の暖地に分布している。参考:世界大百科事典
2009・12・14

2017年05月07日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎



1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詞:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)
白いチャペルか・・・

フト、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。 ヨーロッパは
どこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを 一周した
が、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中 でも有
名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が2つあっ た。ハ
イリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と はあ
まり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を 聞
くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ
男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺
には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ
転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。
あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。

2017年05月05日

◆世の中を見る目

渡部 亮次郎

私に最も強い影響を与えた人は河野一郎、園田直、重宗雄三。いずれも政
治家である。私は大学に行ったが、友人は少なかった。NHKで20年近く暮
らしたが、まともな先輩は後に会長になる島 桂次と政治部長になる飯島
 博だけだった。

この中で政治家を見分ける手段を教えてくれたのは島である。島は海軍兵
学校から東北大学を経てNHKに入局。初任地仙台から盛岡
を経て東京政治部。

私は大学こそ違ったが仙台、盛岡を経て政治部という島と全く同じコース
を辿って島と会ったのだ。だが、島はそうしたことに無関心だった。つま
り「島派」の結成に無関心だった。

それで政治部長になれず、番組部門の部長に飛ばされてから、逆に参議院
クラブにいる私をしばしば訪ねてくるようになって、親しく話した。

政局はフィルターをかけて見なければいけない。ある推論で政治家を見直
すのだ。福田赳夫が佐藤栄作の後継者と目されているが、それは本当か、
佐藤が角栄に傾く事は無いか、カネで福田を見捨てることはないか。

今だったら小沢がまた党代表選挙に立つ事は本当にあり得ないか。
自民党の古手の連中と「大連立」の約束を取り付けて新自由党を立ち上げ
る事はあり得ないか、考えてみろ、と言うだろう。

菅は政権にしがみつくといっているが、果たして可能か。不可能だという
フィルターをかけて見てみろと言うに違いない。島にかかれば「角福戦
争」で角栄は福田を保護している佐藤首相にカネを積むんじゃないかとも
見ていた。

島は、単独会見しか信用しなかった。「不特定多数の記者の前で本音を語
れる、度胸のある政治家なんていない。特定の相手にしか話さないのが人
間の本性だ。だから記者会見を信用する奴はバカだ」

しかし、今の記者諸君は記者会見を頭から信用して紙面やテレビに流す。
単独会見を試みようともしないようだ。だから見通しをしばしば誤る。菅
や仙谷が例のビデオを隠してまで日中首脳会談の実現にはしる「愚」を止
める記事を書けない。

自慢話と受け取られたら不本意だが、昭和40年代に総選挙の投票日を的中
させて報道局長賞を受けたことがある。

NHK政治部の体勢は幹事長田中角栄の言う説を真実と放送したが、
その時佐藤首相と向かい合った角栄が緊張して椅子に極めて浅くかけてい
たといった国対委員長園田直の話から、角栄は投票日の決定を佐藤から一
任されていない証拠とみた。

そこで園田氏にどう見るか尋ねたところ「総理は縁起を担ぐから大安に拘
るよ」だった。この主張が後に真実となり「訂正記事」が報道局長賞と
なったのだった。(敬称略)



        

2017年05月04日

◆ジャガイモで命拾いした欧州人

渡部 亮次郎



16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。


<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア  


2017年05月03日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28


2017年04月30日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子
だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日
本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂
で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は
皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負
け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権か
ら退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時
50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中
国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた
後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠
実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。
1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席
から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任し
た。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は
無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は
毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に
産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月
曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年
には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人
大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の
腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求め
た。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようにな
り、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国
鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届
を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今
日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒り
を示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」
のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、
「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉
を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局
の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖
反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたよ
うだが、結果は不明だという。2008・10・23

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