2014年06月21日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革は?小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞって?を避けようとした。

!)の3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活した?小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

 
          

2014年06月18日

◆おらゴム長と織田信長

渡部 亮次郎


「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこか田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受けた淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードのある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブルーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがある。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用しているという共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルース」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしている。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of SleepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。

2014年06月17日

◆「核」が日中開戦を抑止する(38)

平井 修一


元陸上自衛隊中部方面総監の松島悠佐(ゆうすけ)氏の論考「戦争の教科書」(2006年)を読んでいこう。

               ・・・

自衛官として38年間奉職し、防衛の実務を通して、戦争が起きるメカニズムと、それに備える諸外国の防衛体制を見てきた。

特に米軍との共同訓練、防衛研究などを通じて、米軍の特徴や我が国防衛の特異な問題点をよく理解することができたし、また、東西冷戦の最中に西ドイツ軍への留学や防衛駐在官としての勤務を通じてNATO(北大西洋条約機構)の実体をかいま見る機会も得た。

「戦争は起こるものだ」と考えている国と、反対に「戦争は起こらないだろう」と考えている国との間には、防衛に対する認識や備えの姿勢に大きな相違があるのは当然だろう。

日本は、まさに後者の方である。第2次世界大戦後、アメリカがわが国の防衛を含めて、北東アジアの安全保障に主体的な役割を担っていたために、わが国もそれに依存し、いつの間にか「戦争が起きないことを前提とした安全保障観」を持つようになってしまった。

幸いに60年に及ぶ平和が維持できたが、これはとりもなおさずアメリカとの共同防衛体制をとっていたからであり、1980年代末までわが国の脅威であったソ連も、アメリカとの衝突を好まず日本にも手を出せなかったと言えるだろう。

また、中国も10年ほど前までは、国内治安の安定と国内経済の改善施策が優先し、わが国に直接脅威を与えるような国力も備えていなかった。北朝鮮も同様であり、反日の底流はあるものの具体的な脅威とはなり得なかった。

したがってわが国も、有事法制もないままに、「専守防衛・非核3原則・戦略的兵器不保持」というような防衛体制で、「いざとなったらアメリカに頼る」という安易な防衛体制をとり続けることができたのだろう。

同時期、ヨーロッパの正面では事情は違っていた。ソ連ならびに東ドイツなどのソ連衛星諸国によるワルシャワ条約機構とNATOの諸国が相互に100万を超える軍隊を対峙させて緊張が続いていた。特に西ドイツはNATOの最前線として、戦争は起こるものとの前提に立って防衛準備を整えていた。

例えば有事法制は地方条例に至るまでしっかりと整備され、実効性検証のための訓練も定期的に行われていた。西ドイツに対する米軍の来援も具体的に計画され、戦車・大砲・重車両などの装備品はすでに西ドイツ内に事前集積してあり、アメリカ本土から兵員だけを空輸してくれば、すぐに戦力発揮できるようになっていた。わが国の安保体制との差は歴然としていた。

これまでの半世紀とは違って、これからの北東アジア情勢は緊張が激しくなって来る。中国の拡張政策は、経済力の発展、資源エネルギーの確保、軍事力の増大など、年ごとに顕著となり、周辺国への脅威となりつつある。

台湾問題は、中国とアメリカの衝突にもなりかねない。

朝鮮半島の情勢は、韓国の左傾化が進み、北朝鮮の意図する「赤化統一」に向けて動く可能性が強くなっている。この活動を支援する中国と、自由民主統一を望む日米が、半島情勢をめぐって対立する構図ができるかもしれない。

周辺のそのような事情を考えれば、わが国も、戦争は起きないだろうとの安易な気持ちで防衛を考えているわけにはいかなくなってきた。

戦争を避けるためにも、戦争に備えるためにも、戦争と軍事に真正面から向き合って、その現実を知らなければならない。(つづく)(2014/6/16)


◆少年時代はラジオ歌謡全盛

渡部 亮次郎


最近、メルマガを通じて知り合った前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラジオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラジオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりも登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響をえ、大阪の朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽化学工業(現・クレハ)の協賛で民放版のそれともいえる“クレハ・ホームソング”を企画・制作した。

ここからも「踊り子」(三浦洸一)、「白いボール」(王貞治・本間千代子)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。仲宗根美樹の「川は流れる」もそうだ(昭和36年)。

1960年代になると、テレビ時代になり、ラジオの名物番組が次々に姿を消すようになり、『ラジオ歌謡』も、1962年に終了し、テレビでも放映される『みんなのうた』に引き継がれた。

昭和28年(?)に岡本敦郎の唄った「チャペルの鐘」は大好きで受験勉強を放り投げてNHKのど自慢に出場したものだ。寺尾智沙作詞、田村しげる作曲(2人は夫婦)。

「テープ」も「CD」も「MD」も無い時代の事だったから正確な記録はNHKにも無い日本ラジオ歌謡研究会というファン・クラブが出来ていて、「歴史」を記録する事に努めている。

これまで研究会員が収集したり、全国のラジオ歌謡ファンから寄せられ、日本ラジオ歌謡研究会で現在所有している一覧表がある。全曲は845曲だそうだが、録音と楽譜のそろったものは300曲足らずという。

2000年にコロムビアが「20世紀の軌跡 ラジオの時代」としてCD5枚組をモノーラルで発売したが「国民歌謡」を含めてもたった109曲しか入っていない。研究会では、未収集の曲のピアノ譜及び音源を求めているそうだ。


2014年06月15日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よお前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たちお前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ1952年8月8日(61歳) 大阪府堺市西区 生まれ。血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに「文芸春秋」など雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治 記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。

2014年06月13日

◆ブタニクの特売日です

渡部 亮次郎


「今日はブタニクの特売日です。午後3時から何々町の」と言ったところで市役所の車の声は聞えなくなった。本人は言ったと思っているかもしれないが、こちらは聞こえなかったから、言われていない!

車はスピードを出している。のんびりと豚肉の特売日を宣伝しても、市民に情報を確実に届けていなかったら、放送、広報はしなかったと同じでは無いか。

東京湾岸の都立公園。散歩道に沿って看板が立てられた。「ローラースケートはご遠慮ください」と書いてあるが。スケーターは見もせず、すいすい。

スケーターに立ち向かうような方向で看板を立てるべきなのに彼らの走る方向に沿って横に立ててあるからスケーターが横を向かなければ、看板は見えないのだ。およそ意味のない看板。カネはかかっている。東京都の予算だ。典型的な役人仕事。

NHKの広報。どうかしている。ラヂオで皆様のNHKと言われると、少なくとも私以外の他人と思ってしまう。「NHKの番組は皆さんの聴取料で作られています」と言う。「皆さん」と言う集団があって、それが支えているように思う。私が納める必要は無いと。

なぜNHKの番組は「あなたの聴取料で作られています。宜しく」と言えないのだろうか。時代が変わったのに気付いていない。時代の変化に気付かないジャーナリスト。そんなの要らない。

「豚肉の特売、2丁目の加藤肉屋です。今日は豚肉の特売日です」と言えば済むことをわざわざ済まないように広報すること、NHKと同じだ。

◆NYのカレーライス

渡部 亮次郎


アメリカへ行くと、どういうわけか焼き魚とカレーライスが食べたくなっ たものだ。ところがアメリカ人はおしなべてカレーの匂いが大嫌いだそう で、どのレストランでもメニューには無い。

また魚を焼くにおいは人間を焼く匂いだといって厭がる。ロスアンジェル スでは、なんとか、ボイルで勘弁してくれないかといわれた。あれから何 十年、事情は変わったろうか。

先ごろ金沢市のレストランがNYのど真ん中マンハッタンにカレーライス の食堂を進出させたというニュースがあったが、大丈夫だろうかと思って しまう。客は日本人と何国人だろう。匂いが厭だと周囲から文句を付けら れないか。

1970年代の終わりごろからニューヨークでNHK特派員をしていた堀 徹 男君は元はといえば政治部の同僚だった。NYではメイン・ストリートの 五番街に程近いアパートで奥さんと2人暮らしだった。

この奥さんは10年くらい前、東京で急死されたが、早くにNHKを退職し た私だからネット・ワークが及ばず、とうとう葬儀に参列する事はできな かった。それが未だに気がかりであるぐらい、堀夫人には世話になったの である。

何を隠そう、NYでカレーライスを作って戴いたのである。下手をする と、アパートの管理組合に呼び出され、退去を命じられる危険を冒しての 「冒険」を強いたのである。

カレーソースを手軽に作るため、日本では市販の即席カレールーが使われ ている。製品としての粉末の即席カレールーはハウス食品が1926年に(商 品名・「ホームカレー粉」)、固形の即席カレールーは、エスビー食品が 1954年にそれぞれ日本で最初に製造した。

2004年度のカレールー(家庭用即席カレー)国内出荷額は676億円とさ れ、各社のシェアはハウス食品約61%、エスビー食品約28%、江崎グリコ約 10%と推計される(日本経済新聞社)寡占市場である。

しかしNYでは当時、そんな物はどこにも売っていない。堀夫人はどこを どう捜して私にカレーライスを作って下さったのだろうか。今では謎である。

いずれ話はワルドーフ・アストリア・ホテルに滞在中だった園田外務大臣 にばれた。「ナベしゃん、ワシも食いたかったとバイ」とこぼされた。

カレーライス 肉や野菜を、さまざまな香辛料をブレンドしてつくられた カレー粉で調味したカレーソースで煮こみ、米飯にかけて食べる料理。ラ イスカレーともいう。

カレーの語源は、ソースを意味するタミル語のカリだといわれている。も ともとはインド料理であるが、日本へは1859年(安政6)の開港以降イギリ スから伝えられたとされている。国産のカレー粉は1923年(大正12)山崎峯 次郎によりつくられ、発売された。

本場インドのカレーは粘り気がなく、また、ヨーロッパでは米飯は副えも のであるのに対し、日本では米飯が主で、かけるソースもとろみがある (小麦粉=ビタミンB1が多い)という日本独特のものとして発達した。

薬味に福神漬けやラッキョウを副えるのも日本特有である。固形の即席カ レーが1954年(昭和29)ヱスビー食品から初めて売り出されて以来、さまざ まな味の即席カレーが各社から発売され、カレーライスは家庭料理だけで なく、レストランなどのメニューでも定番となっている。

カレーソースに用いる主材料によって、ビーフカレー、ポークカレー、チ キンカレー、野菜カレーなどがある。関西と関東の食肉文化の違いから一 般的にカレーといえば関西では牛肉を使用したビーフカレーが、関東では 豚肉を使用したポークカレーが定番とされている

またカレーライスにカツをそえたカツカレーや、うどんにカレーソースを かけたカレーうどんといったものもある。

カレーライスが全国に広まることとなった経緯として「戦前、普段米を食 べることが少ない農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海 軍だったが、当初カレーには英国式にパンを供していた。

しかし、これは概して不評だったため白米にカレーを載せたところ好評と なり、調理が手早く出来て肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事と してカレーライスを兵員食に採用した。

その後、除隊した兵士がこのカレーライスを広めたため、全国に知られる ことになった」という説がある。日本の海軍は英国から習得したものだか らである

ただし、陸軍が普及に貢献したとする説もある。いずれにせよ、日本にお いては軍隊がカレーの普及に大きな役割を果たしたとみられる。

日本以外の国のカレーライス

日本のカレーライスの原型となった料理は、世界中に文化的影響圏を広げ たイギリスの食文化のため、現在は世界中の多くの地域で見られる食文化 である。その国でカレーライスの食文化が定着した理由として、「イギリ スの影響」「戦前の日本の影響」「戦後の日本の影響」。

イギリス

日本にカレーライスを伝えた国とされるイギリスには、見た目や味が日本 のカレーライスと酷似した料理「curry and rice」が存在する。パブや学 生食堂で安い値段で気軽に食べられる点でも日本でのカレーライスと共通 する。

イギリスには多くのインド料理店が存在するが、それらの本格的なインド 料理とは別物の大衆料理として親しまれている。

香港

イギリスの統治を長く受けていた香港では、茶餐廳と呼ばれる喫茶レスト ランにカレーライスを揃えている店が少なくない。日本のものと比べる と、若干スープカレーに近い、さらっとしたものが多い。

ハワイ

明治初期から日本人移民の多かったハワイにおいてもカレーは日常食とし て普及しており、日本料理店のみならず大衆的なレストランや伝統的なハ ワイ料理を扱う店のメニューにもカレーライスの名前を見ることができる。

以前は日本人にとっては懐かしい昔ながらのライスカレーを供する店が大 半であったが、近年はタイやベトナムなど東南アジア系移民の増加や、日 本のチェーン店であるCoCo壱番屋の進出などによりさまざまなスタイルの カレーライスが食べられるようになってきた。

台湾

日本統治時代に日本人がカレーライス食べる習慣を持ち込んだとされてい る。そのため台湾では一般的なカレーライスをごく気軽に屋台や食堂など で昔から食べてきた。

「古典的なこれは薄口の黄色いスープに片栗粉などでとろみを付けてお り、日本の昭和24年頃から50年代にかけて食べられていた即席カレーの趣 を残している。

近年では本格的な日本風のカレーライスを提供するレストランも増加して おり、片栗粉でとろみを付けた「古典的な日式」は衰退している。

韓国

日本統治時代からの伝統として軍隊食などとして食されている。家庭で 作ったり大衆食堂で出されるカレーは、台湾の場合と同じく薄口の黄色が 強いカレーが多い。

キムパプ(酢を使わないご飯を用いた韓国風海苔巻き)にカレーをかけて 食べるなど日本では考えられないようなアレンジも存在する。

中国

洋食のひとつとして、ホテルなどでカレーを食べることができたが、一般 の中国人にはあまりなじみのない料理であった。

しかし最近は上海に日本資本のカレーショップも開店し、日本風のカレー ライスの人気も出て来ている。中国語では「珈竰」などと表記される。


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2014年06月12日

◆「核」が日中開戦を抑止する(36)

平井 修一


日一日と凶暴化、孤立化する中共。中共内部でも「これはまずいだろう」という声があがりだした。韓国の中央日報が「経済・軍事力が強まるほど脅威論も広がる…中国が“実力の逆説”警戒」と報じている(2014/2/4)。以下引用する。

              ・・・

中国社会科学院が「アジア・太平洋地区発展報告書」で取り上げたテーマは、中国のG2(米中)世界戦略と関連している。経済・軍事力が強まるほど脅威論も広がる「実力の逆説」という言葉で、今後10年間の中国の世界戦略問題を表現した。

中国の浮上が周辺国との葛藤を深めて中国脅威論が広がれば、米国に追いつくのがそれだけ難しくなるという問題意識を反映したものといえる。

報告書はまず、中国が現在の発展速度を維持すれば、今後5−10年後には米国と対等またはそれを上回る5大力量を持つと分析した。

一つ目、経済規模の面で米国を上回るのが確実ということだ。すでにハーバード大経済学科のデイル・ジャーガンソン教授が中国の経済規模は2018年に米国を超えると予想しており、インド国際関係委員会も2017年に中国が米国を超え、2050年には米国の2倍になると予想している。

二つ目、中国の軍事力は米国並みにはならないが、アジア太平洋地域で中国の核心利益を守り、領域内の安定に主導的な役割をする程度には強まるという分析だ。

清華大国際問題研究所の閻学通所長は、2023年に中国は3−5隻の空母、射程距離8000キロ以上のミサイルを搭載した4、5隻の原子力潜水艦、第5世代ステルス戦闘機の保有などで、米国の軍事力の60−70%に迫ると予想した。

三つ目、インターネットを前面に出したニューメディアで世界を圧倒するという評価だ。中国インターネット情報センターが明らかにした昨年の中国のネット人口は6億人で、すでに世界最高だ。2023年には10億人を超えると予想され、ツイッターなどを利用した人々の媒体力が国際社会の世論を形成するパワーに浮上することが確実視される。

四つ目、このような力を前面に出しながら、周辺国に対する政治外交的な影響力が強まり、結局、ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3(韓日中)はもちろん、インド・豪州との経済協力強化で形成される領域内の単一経済圏で、中国の影響力が米国を上回ると、報告書は分析した。・・・

問題は、中国が5大力量を前面に出しながら副作用が生じる「実力の逆説」だ。中国の影響力が大きくなるにつれ、周辺国の期待が強まる国際環境が形成され始めたのが代表的な例だ。

力ばかり強調するのではなく、「国際平和を維持する責任ある大国外交をすべきだ」という要求が強まっているということだ。北朝鮮の核実験と長距離ミサイル発射時、国際社会が中国に対北朝鮮制裁を促す圧力を加えたのが良い例だ。

また中国と米国の格差が縮まり、周辺国との格差は広がることで、「周辺国との葛藤は地域の不安定を引き起こす」ほど悪化する可能性があるということだ。

中国が強くなるほどロシアやインドで中国脅威論が浮上し、両国の協力が深まる可能性がある。実際、中ロが近づいただけに、ロシアとインドも軍事的な関係を強化している。

報告書は、こうした問題が日本と朝鮮半島、東南アジアに広がり、これに対応しなければ「中国の浮上戦略は大きな難関に直面する」と分析した。このため、強力な中国が周辺国と国際社会にとって利益になるという「新関係モデル」を構築する必要があるということだ。

したがって周辺国を韓国・日本・ベトナムなど儒教圏国家と非儒教圏国家、北方国家などに分け、文化交流を強化してウィンウィンの経済圏モデルを作るべきだと、報告書は建議した。(以上)

               ・・・

中共の最大のシンクタンクが「平和的台頭でいかないと周辺国と衝突したり、反発を買うことになるから気をつけろ」と習近平率いる中共中央に注意喚起した図だ。血で血を洗う権力闘争で尻に火がついている習近平はカエルの面になんとかで、聞く耳はなし。暴走し自滅するがいい。(つづく)(2014/6/11)


◆中国経済の成長鈍化で北京の思惑は

山本 秀也


日中「政冷経熱」再演の危うさ 

経済や民間交流の分野に限れば、このところ日中関係の潮目が少し変わった印象を受ける。政治、安保問題で険悪な状況が続いているので、全然安心はできないのだが、閣僚級を含めた官民要人の訪問や、地方レベルでの往来は動き始めた。

中国経済の成長鈍化が確実とみられる中で、冷え込んでいる日中経済を少し動かせないか、というのが北京の思惑だろう。折しも、日本からは経団連の新旧会長が正式交代を控えた5月下旬に訪中した。

中国側の説明によると経団連一行と会談した李源潮国家副主席は、歴史、尖閣問題で原則を繰り返しながらも「日本経済界に両国関係改善への積極的な役割を期待する」と述べた。このところの北京での日本人「冷遇」を思えば、一行が歓迎されたことは間違いない。

小泉政権当時の関係冷え込みで、中国側は「政冷経熱」という策略をとった。政治は冷たくても経済は熱く、という図式には、中国ビジネスに関わる日本企業にもそこそこの支持があったように思う。

いまの習近平政権は、国内政治の比重が高すぎて江沢民時代とは同列に論じにくいのだが、最近の動きはやはり「政冷経熱」の再構築への動きのようにみえる。そこの呼吸は日本側にも伝わって、いわば東京と北京で瀬踏みが始まっているとみてよいだろう。

関係悪化が「一過性」原因でないだけに深刻とはいえ、先行きは決して容易ではない。この2年間の関係後退は、日中間に焼け野原の惨状をもたらした。貿易や投資は戻るときが来れば戻るだろうが、国交正常化後、ボトムのところまで冷え込んだ日本人の対中マインドは、そう簡単に温まるとは思えない。

その冷え込みは、対中認識に関する世論調査というような抽象的な数字ではなく、駐在員の家族や若い留学生を含めた在留邦人数の増減に表れる。

最近の数字をみると、中国での在留邦人数(昨年10月1日現在)は、前年比で約1万5000人減った。香港、マカオを含めて邦人総数は約13万5000人となったわけだが、今回の邦人減少は、天安門事件(1989年)直後のような一過性の減少とは違う。

尖閣国有化後の反日暴動の記憶も鮮烈だが、政治の高みから号令された「日本たたき」の影響は強烈だ。普通の日本人には、毒餃子事件から大気汚染までひっくるめて、中国全般への印象がひどく悪くなった。意識の硬直化はたかだか2年間で起きた話ではないだけに厄介だ。

しかも、肝腎の政治、安保問題での雪解けは見通しが立たない。中国軍の戦闘機が公海上で自衛隊機に危険行動を挑む状況は、海南島沖での米中軍用機衝突が東シナ海で再演されてもおかしくないことを示している。「政冷経熱」もある種の知恵かもしれないが、賽(さい)の河原の石積みのように政治対立という“鬼”に蹴倒される危うさをはらんでいる。(産経新聞中国総局長)

             (フジサンケイビジネスイ)2014.6.11

   
  

2014年06月11日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2014年06月09日

◆「核」が日中開戦を抑止する(34)

平井 修一


地政学者の奥山真司氏が「ミアシャイマーの提案する四つの対中戦略」をアップしている。

氏はジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』の第二版の翻訳作業中で、「最後の第十章がすべて今後の中国の分析に書き換えられており、いくつか興味深い記述があります。とくに気になったのが、今後の中国に対してアメリカやその同盟国がとるべき戦略についてのもの。ミアシャイマー自身によれば四つあるとのことですが、今回はここで特別に要約して掲載しておきます」とある。以下ざっくりと転載する。(見出しとカッコ書きは平井による)
・・・

■中国を封じ込めるのは困難

台頭する中国に対処するための最適な「第一の戦略」は「封じ込め」である。これによれば、アメリカは北京政府が領土を侵略したり、アジアにおいて影響力を拡大するために軍事力を行使するのを牽制することに集中すべきであることになる。

この目標のために、アメリカは中国周辺のなるべく多くの国々を巻き込んで(軍事力均衡のための)バランシング同盟の結成を狙って動くことになる。そこでの究極の狙いは、NATOのような形の同盟関係を構築することだ。冷戦期のNATOは、ソ連の封じ込めという意味ではかなり効果的な制度だったからだ。

また、アメリカは世界の海の支配の維持に努めなければならず、これによって中国がペルシャ湾や、とりわけ西半球のように、離れた地域に戦力を投射するのを困難にしなければならないからだ。

オフショア・バランサー(沖合から影響力を行使し安定を図る国)として豊富な歴史を持つアメリカにとって理想的な戦略というのは、なるべく背後にいて、中国の周辺諸国に中国封じ込めのほとんどの重荷を負わせるというものだ。

つまりアメリカは実質的に中国を恐れるアジアの国々にバック・パッシング(脅威を及ぼしてくる国に対して別の国を使って対抗させる)をするということだが、これは以下の二つの理由から、実際には行われない。

その理由としてまず最も重要なのは、「中国の周辺国が中国を抑え切れるほど強力ではない」ということだ。したがって、アメリカには反中勢力をリードするしか選択肢は残されておらず、アメリカの強力な力のほとんどをリードすることに傾けることになるはずだ。

さらにもう一つの理由は、中国に対抗するためのバランシング同盟に参加する「アジアの多くの国々の間には大きな距離の開きがある」という点であり、これはインド、日本、そしてベトナムの例を考えてみても明白だ。

したがって、ワシントン政府には「彼らの間の協力関係を取り持ち、効果的な同盟体制を形成する」必要が出てくる。もちろんアメリカは冷戦時代に似たような状況にあったわけであり、ヨーロッパと北東アジアでソ連を封じ込める重荷を背負う他に選択肢はなかった。

現地の国々が潜在覇権国(中国)を自分たちの力で封じ込められない場合には、沖合に位置しているオフショア・バランサー(米国)というのは、実質的にオンショア、つまり岸に上がらなければならなくなるのだ。(米中激突になりかねないから中国封じ込めは難しい)

■それでも「封じ込め」は最も効果的

「封じ込め」の代わりとなる戦略は三つある。最初の二つは、「予防戦争」を起こしたり、中国経済の発展を遅くするような政策を採用することによって中国の台頭を阻止することが狙われている。

ところがこの二つのどちらもアメリカにとっては実行可能な戦略とはならない。三つ目の戦略は「巻き返し」(rollback)であるが、これは実行可能でありながらその利益はほとんどない。

「予防戦争」が実行不可能な理由は、単純に中国が核抑止を持っているからだ。アメリカは自国、もしくは(日本など)同盟国に対して(核による)報復可能な国(この場合は中共)の本土に対して破壊的な攻撃を仕掛けることはできない。また、中国が核兵器を持っていなかったとしても、アメリカの大統領が中国に対して予防戦争を仕掛けることは想像しづらい。

中国がこのまま急激な経済成長を続けることができるのか、そして最終的にアジアを支配しようとして脅威となるのかは誰にも確実なことが言えないのだ。この未来の不確実性も予防戦争を見込みのないものにしている。

「中国経済の成長を遅くする」という戦略は、核戦争に比べれば確かに魅力的な選択肢ではあるが、これもまた実行不可能なものだ。この場合に一番の問題となるのは、アメリカの経済にダメージを与えずに中国経済を鈍化させる実際的な方法が存在しないという点だ。

「封じ込め」に代わる三つ目の戦略は「巻き返し」であるが、これにはアメリカが中国の弱体化を狙って、その友好国の政権の体制転換をしたり、さらには中国国内でトラブルを起こしたりすることを含む。

たとえばパキスタンが中国側と密接な関係を結んでいるとすれば(これは将来確実に実現しそうなことだが)、ワシントン政府はパキスタン政府の体制転換をして、親米派のリーダーにすげ替えるのだ。もしくはアメリカは新疆ウイグル自治区やチベットなどで独立派を支援するなどして政情不安を煽ることもできる。

アメリカは冷戦時代にソ連に対して主に「封じ込め」を実行していたが、現在わかっているのは、いくつかの面で同時に「巻き返し」をやっていたということだ。一九四〇年代後半から五〇年代前半にかけてソ連国内で反乱工作をしかけていただけでなく、親ソ派と思しき世界中の無数の政府のリーダーたちを次々と追放していった。

実際にもワシントン政府は、一九五〇年代から六〇年代にかけて中国に対していくつかの隠密工作を直接仕掛けている。

このような「巻き返し」工作は、超大国の間のバランス・オブ・パワーにはわずかな影響しか与えておらず、ソ連崩壊を早めることにはつながらなかったと言えるが、それでもアメリカのリーダーたちはあらゆるところで「巻き返し」を実行しており、ワシントン政府の政策担当者たちが将来強力になった中国に対して、この政策を使わないはずがないとは言い切れないのだ。

それでもアメリカにとっても最も効果を発揮する戦略が、今後も「封じ込め」である事実は変わらない。 (以上)
・・・

米国を後ろ盾とするアジア版NATOの盟主は日本が務めざるをえない。経済力と基本的な通常兵器と優秀な将兵を持ち、同盟国に最新兵器を供与する能力があるのは日本しかないからだ。しかし、最大の問題は、核武装のない盟主に付いてくる国があるか、ということだ。

日本とアジアが中共に侵略されたくないのなら、日本の核武装は絶対的な必要条件である。(2014/6/8)

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◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争(戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼ばれなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた)による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   (新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で始めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

2014年06月08日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎


7年前、2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨で、それでも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。


音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。「ウィキペディア」