2014年08月17日

◆岡晴夫 糖尿病の犠牲者

渡部 亮次郎


昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前昭和14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

本名 は佐々木辰夫  1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、日千葉県木更津市で育った。死没 1970年5月19日

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをしながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはなかった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれず糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバックだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳なのに。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たす。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。


   

2014年08月16日

◆情報は入手方法さえ

渡部 亮次郎


「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠)

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。


「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。(だが古澤さんは入院し花岡さんは亡くなられて私は落胆している)。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。其の岩見さんも亡くなった。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。(福島さんはその後、フリーになられた)。


現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だが英語に堪能、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。


元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。
                           09・04・13


   

2014年08月15日

◆ジョン・レノン空港

渡部 亮次郎


<リバプール・ジョン・レノン空港 (Liverpool John Lennon Airport)は、イギリスのリバプールにある空港である。


が、リバプール出身の偉大なアーティストであるジョン・レノンを称えて、2002年「リバプール・ジョン・レノン空港」という名称に変わった。

空港内にはジョン・レノンの銅像が建つ。また空港のロゴには、彼の曲である「イマジン」の歌詞の一節“above us only sky”が使われており、この歌詞は空港の屋根にも書かれている。

近年、ヨーロッパの空港の中でも格安航空会社の乗り入れによって発展している空港の一つであり、1998年から2007年の間に乗客数は約7倍になっている。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若い頃、と言っても40は過ぎていたが、ニューヨークのダコタ・アパートに住んでいたレノン夫妻を訪ね、イタリア街のレストランでご馳走になったことがある。

案内してもらった友人の加瀬英明氏(国際問題評論家)がレノン夫人のオノ・ヨーコさんと従姉弟だから出会えたのである。加瀬氏の母上とヨーコさんの父上が兄妹だった。

それまでの私はビートルズもジョン・レノンもまるで知らなかった。NHKは前田義徳(よしのり)会長の一声で長髪青年を番組から締め出した時代。わたしもまた、政治記者としてニュース以外の番組を見る暇はなかったから、ジョン・レノンは知らなかった。

古い、と言うか重厚なアパートがダコタ・アパート。薄暗くしてあるのは上品なたたずまいの演出とか。エレベータの扉が開いたらレノン氏が待っていた。長髪。

ロビーに幾つもの三角テントを張り、一人息子のショーンとうずくまっていた。何とかのエネルギーが身体に宿って丈夫になれると言っていた。「よくいらしてくださいました」とヨーコさんはにこにこ。

勿論、私も英会話の個人授業を受ける以前の時代だから、会話はすべて加瀬氏の通訳。

「僕は今、音楽活動を休んで主夫としてショーンの養育に専念している」と自己紹介。「僕の発音が叫んでいるようで、可笑しいでしょう。これは生まれたリバプールというところが坂のきつい港町。坂を登ってくる海風もまたきつい為、皆、叫ぶようにして喋らないと通じないんだ、だから大人になってもこういう発音は直らないんだ」とも。

「それじゃ出かけようか」となって下へ降りたら玄関でリムジン(大型高級ハイヤー)が待っていた。

案内されたところはイタリア街の小さなレストラン。勿論馴染の店なんだろう。ふと気づくと、ファンと思しき若い男女が大勢、レストランを取り巻いていた。

イタリア街というところは中華街に接し、「決して上品一点張りというわけではないが、とにかく料理が美味しいんだ」と薦めてくれる。ワインもじゃんじゃん。

食事の後、ヨーコさんを先に帰し、私たちを市内の印刷所に案内した。間もなく来るヨーコの誕生日。シルクのスカーフを一枚、印刷してプレゼントする。そのためにこの印刷所を買収したのだ、と。

何しろヨーコはモナリザにそっくりだろう、とヨーコさんの顔を印刷したスカーフ。その試し刷りを繰り返していた。

それから2年。レノンはリムジンの待っていたあの玄関で狂人に射殺されてしまった。

<レノンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」などの根拠に欠ける陰謀説も持ち上がったが、その後の捜査により現在は単独犯行として結論づけられている。

しばしば犯人は「レノンの熱狂的なファン」と言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったとされ、また一種の精神疾患的な症状があり、現在この説は疑問視されている。>(ウィキ)

2014年08月14日

◆他人に教える難しさ

渡部 亮次郎


日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれ ば田舎弁を覚える。私の英語はアメリカ訛りで日本語は秋田訛りだ。アメ リカ語は50を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究が あるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋 田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留 学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語 を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できな かった。

アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だっ た。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではな い、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3 日ぐらい分からなかった。

日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさ しの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、 わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。し かも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思 うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日 米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカ のパートナーである教育省は共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭う から力が無い。

私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが会議はしばしば地下室で開 かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さずカネを出し渋るから である。

最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことから しても日本における英語教育の責任は教師一人ひとりの肩に架かっている と言わざるを得ない。

英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということでもある。ただ英語 教師に願いたいのは、生徒に対して、君たちになぜ、今、英語を習わせる のかを最初に説明してやってほしい。「今のあなたの頭脳は柔軟で英語を 覚えやすいから」と。(わたなべ りょうじろう 1936年1月生まれ NHK 政治記者約20年 外相・厚相秘書官約5年 社団法人日米文化振興会理事 長17年。 最後は日本健康医療専門学校校長7年。 78歳。

2014年08月13日

◆APECの中国批判トーン軟化

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)8月12日(火曜日)通巻第4312号>  

〜焦点は11月の北京APECに移行したが
     中国の攪乱工作つづき、APECの中国批判トーンが軟化〜


ミャンマーの首都ネピドーで開催されていたAPEC外相会議は、議長国ミャンマーが「中立」の立場を貫いたため、加盟国全体での中国批判はなかった。27ヶ国全部が賛同することは考えにくいが、米国のケリー国務長官が、中国の挑発的行為をいさめると、中国は「部外者は介入するな」と開き直った。

日本のマスコミは岸田外相が王毅外相と秘密会談をもったこと、北朝鮮外相と会談したことを「成果」のように伝えたが、まったくノー天気である。

岸田は必死になって11月北京での習近平、安倍首相会談の実現を迫ったようだが、「まだ条件は整っていない」と王毅にあしらわれた。

逆ではないか。日本が言うべき台詞を中国に先に取られた格好である。

中国が条件として提示したのは安倍首相の靖国参拝をやめること、尖閣諸島では「領土問題が存在することを日本が認めよ」と高飛車な要求で、とくに後者は絶対に飲めない条件、要するに日中首脳会談は開かなくても良いと暗示しているのだ。

しかし安倍首相は「対話のドアはいつでも開かれている」と何回も表明してきたのであり、会談の必要性があるとすれば、中国の方から歩み寄るべきである。関係悪化の元凶はすべて中国にあり、日本が歩み寄る必要性は一つもないのではないか。

一方で中国は北京APECで中国の外交的成果を狙い着々と手を打っている。

インドのモディ首相が米国訪問に先立ち、習近平は9月15日にインド訪問を打診していることが分かった。インドのマスコミに拠れば、「日程的に都合がつかないので9月17日に延期を要望している」。

習近平はインドの米国、日本への篤い接近にくさびを打つ方針なのである。

9月初旬に日本を訪問するモディ首相は、明らかに中国に批判的スタンスをとるが、経済となると話は別物である。

日本は9月のプーチン訪日を実現させたいが、米国が不快感を表明しており、難しい情勢とも言われる。外交関係で、いつものように日本の独自性が失われている。

こうした環境のもと、11月APECは、海洋ルールの確立、法の支配などを大会決議として謳えるのか、どうか。北京は「アジアインフラ銀行」の設立で日本主導のアジア開発銀行に正面から揺さぶりをかけており、APEC加盟国への大盤振る舞い外交を展開して比較優位を回復しつつあるともみられる。
   

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から十代、二十代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、59年を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している>。

2014年08月10日

◆私の「身辺雑記」(131)

平井 修一


■8月7日(木)。朝は室温30度、快晴、すごい日射し。風はあるものの8時には32度、犬はハーハー、クーラーをつけた。

「朝雲」8/7から。

<防衛大学校1期生として、創成期から自衛隊とともに歩み、冷戦後は海上幕僚長として、ペルシャ湾に機雷掃海部隊を派遣、国際協力への扉を開けた佐久間一氏が、7月18日に亡くなられた。

掃海部隊の派遣前、氏は隊員に死傷者が出た時のことを考えていた。「国内ではごうごうたる非難が沸き起こるかも知れない。しかし、自衛隊は何のためにあるのか。国のためだ」――。そう自ら納得して送り出した。

今では9割を超す国民が、「信頼できる」と答える自衛隊だが、かつては陰湿な非難や中傷も多かった。作家の大江健三郎氏が毎日新聞に寄稿した一文もその一つ。「防大生を『恥辱』と決めつけたあの言葉は許せない」。

自衛隊を語る口調も、時に優しく、時に厳しかった。不祥事に対しては、「若い集団だからトラブルは避けられない。しかし、犯罪を犯すようでは組織はダメになる。軍の規律は厳しいが、必要性があって積み重ねてきた知恵だ」と言い切る。

退官の日は、次の世代に自衛隊を託すかのように、創隊記念日の7月1日だった。「自衛隊の任務の高さ、尊さは、我々を無視し、あるいは非難する人々を含めた、すべての日本人の平和と安全を守るということにある」との言葉で締めくくった。

集団的自衛権をめぐって国内を二分する議論が続いている。「常にあらゆる問題に対し、周到な準備と心構えを持ち続けてほしい」が、氏の願いだった。享年79歳。合掌>(以上)

オーエ真理教徒などのアカを封じないと国を守れない。

同じ紙面から小倉春樹氏(外交評論家)の論考。

<(ガザは)地区全体がいわば「巨大な監獄」状態に置かれ、住民は生活物資不足と物価高に苦しみ、停電が慢性化している。若者の失業率は40%を超える。これが、地下トンネルで密輸品を入れ、イスラエルへの敵意をあおるハマスへの支持を強めている。

ラビン(イスラエル)首相(当時)の下でオスロ合意をめぐるパレスチナ側との交渉を担当したダニエル・レヴィ氏は「今回の作戦目的はガザの征服ではない。軍はいずれ撤退し、ハマスは当分、ガザの統治者であり続けるだろう。ハマスと粘り強く交渉し、ロケット攻撃停止を働きかけるほかない。海上封鎖の緩和といった当方の譲歩も必要だろう」と提言する。

ホロコースト研究で知られる歴史学者イェフダ・バウアー氏も「ハマスのようなイデオロギー集団を武力のみで攻めるのは逆効果。こちらが交渉に応じる意向を示せば相手の立場を弱くできる」と説く。

そして「イスラエル軍にはアラブ系の兵士がいる。彼らはハマスや『イラクとシリアのイスラム国(ISIS)』のような組織がイスラム教徒全体にとって危険な存在だと知っており、イスラエルとパレスチナの相互理解に貢献できる」と語る。

両識者の見解は、国際社会にとっても傾聴に値するヒントを含んでいるのではないか>(以上)

小倉春樹氏は以前、こんなことも書いていた。

<歴史認識をめぐる日中・日韓の感情的対立のエスカレートは、余りにも大人気ない。数年前まで、3国の歴史学者や教師たちによる学術的な対話が行われ、東アジアの歴史の副教材(共同編纂)も出版されていた。政治家や圧力団体の声高な論争を凍結し、3国の専門家による冷静な歴史教育対話を日本の主導で再開させることを願う>

かなり甘い(赤い)見方だ。小生はイスラエルは大切な友好国と思っており、その視点から以下指摘する。

1)今回のガザについては、イスラエルの存在自体を抹殺したいハマスが秘密トンネルなどを使ってロケット砲を搬入し、ガザ全体を「人間の盾」で基地化して攻撃していたことに、イスラエルが反撃したものだ。トンネルはイスラエル軍の兵舎近くまで掘られており、奇襲されかねなかった。イスラエルの危機感はとても強い。

2)相手の生存権を認めないハマスとの対話はあり得ない。共存を認めるファタハの汚職に愛想を尽かしてハマスを選挙で勝たせたのはパレスチナ民衆である。汚職豚を捨てて人食い狼を選んだ代償は大きい。

3)まずハマスを駆逐してから「共存共栄」の対話を始めるべきだ。豚のファタハは少しは役立つ犬になるかもしれない。

次の問題。反中嫌韓の小生は東アジアの歴史認識、歴史解釈を共有する件についてこう思う。

1)日本ではどのような歴史認識を持つかは個人の自由である。明治維新について薩摩、長州、会津、徳川家では歴史認識はバラバラだろう。同じだったら異常だ。

中国は独裁国家で中共中央の歴史認識以外は排除、禁止されている。言論の自由はなく、中共中央に都合の良いように歴史は解釈されており、反日が国是だ。

韓国も同様に反日が国是で、憲法より上位の“国民感情法”により「すべて日本が悪い」ことになっている。それに反する言論は一切許されず、その論者は社会的に抹殺される。事実上、言論の自由はない。

2)日本と中韓が共有できる歴史認識はない。「過去の歴史認識が同じではないから、日本との関係改善は現在も未来もない」という中韓。一方で「70年以上も前の過去に縛られて現在と未来を見つめないのは双方の利益にならない」という日本。

接点はまったくない。なくていいのだ。朱に交われば赤くなってしまう。政冷経温あるいは政冷経冷で充分である。

夕方から風が吹いて21時には28.5度まで下がったが、体感温度は27度くらい。「涼風」で結構だ。夕方には空が高くなっていわし雲。そうか、今日は立秋だ。

■8月8日(金)。朝は室温29度、晴のち曇、9時過ぎに久々の微雨、それほど暑くない。アジサイがへたっていたので、もう少し降るといいが。

中共が「中国の人権白書2014」を発表したそうだ。中共の言うとおりにクチパクしていれば刑務所に送られないという支那に人権はない。“人権派”も“公民権派”も人権や最低限の生きる権利を求めたら刑務所行きになった。その中共が「人権白書」? 嗤うべし。「金権・利権・汚職白書」でも書くがいい。

不正手段で莫大な資産を築いた中共幹部は、それを隠匿するのに大いに悩まされている。ばれれば資産没収のみならず刑務所送りになるからだ。いかに隠すか、清貧の小生には関係ないと思っていたが、とんでもない、チャイナマネーが日本に押し寄せそうな印象だ。

アジア問題ジャーナリストの日暮高則(ひぐらし・たかのり)氏の論考「スイス、米国の銀行口座情報公開で、中国幹部、富裕層の金の持ち込み先がなくなった 」(霞山会8/5)が現況を伝えている。以下要約。

              ・・・

米国が2010年に成立させた外国口座税務コンプライアンス(FATCA)法の影響が今、中国の富裕層、腐敗幹部らの身辺にも及んでいる。FATCA法によって米当局はまず、個人情報の秘匿を“売り”にしていたスイスの金融機関に迫り、情報開示を約束させた。

同国には、中国共産党の高級幹部らが大量の資金を預託しているとされ、口座内容の暴露はすなわち幹部らの不正の証拠にもなりうるため、不安感を募らせている。そして、米中間も、7月1日から相手国の国民が自国内金融機関に口座を持つ場合、その情報を互いに開示することで合意した。

これは、米国政府が国内にある中国人口座情報を要求があり次第、中国当局に伝えることも意味する。このため、「今後、中国人が脱税した金や、汚職などで得た金を米国に持ち込むことが難しくなった」とも指摘される。海外資金を持つ人たちは今後、どういう対応をするのか。

スイスの金融機関は1934年成立の「連邦銀行法」に裏打ちされて、長い間、顧客の秘密保持に厳格対応し、それをまたセールスポイントとしていた。このため、世界各国の独裁者たちは、たとえ自らの政権が倒れることがあっても、その後に逃亡先の外国で悠々自適の生活ができるよう、その資産管理をスイスの銀行に任せるケースが多かった。

ムバラク元エジプト大統領、ベンアリ前チュニジア大統領、カダフィー元リビア最高指導者らの中東の独裁者は言うに及ばず、北朝鮮の権力者である金正日、金正恩親子もスイスの銀行に頼った。金正恩第一書記に至っては、自らスイスに滞在し、学校生活を送りながら、直接資産管理するほどだった。

スイスの銀行には、中東、アジアの独裁者ばかりでなく、中国の高級幹部も多額の金を預金している。2013年に出されたウィキリークス情報によれば、中国政府幹部でスイスに個人口座を持っているのは5000件以上、そのうち3分の2は党中央・政府の要人だという。

党幹部の多くはそのランクの高低にかかわらず口座を開き、特に2002年以降、香港に勤務した党局級幹部のほとんどはスイスに口座を持ち、賄賂の預入先にしていたという。

ある香港情報によれば、「江沢民(元国家主席)はスイス銀行に3億5000万ドルの秘密口座を持っている」という話がある。「(今回正式に党内処分が公表された)周永康前政治局常務委員は、汚職した金を海外に運び、海外に100億ドル以上をため込んでいるが、その多くはスイス銀行にある」という指摘もある。

米FATCA法は、米国人が海外金融機関に口座を持ち、税逃れするのを防ぐことを目的に、各国の金融機関に対して口座情報を米側に報告するよう求めたものだが、引き換えに、米側も自国金融機関の情報を各国に開示する義務を負うことになった。

すでに多くの国が報告義務順守を米側に約束してきたが、米中両国も6月26日、相互に情報交換を約束する協定に調印した。中国人民大学反腐敗・清廉政策研究センターの毛昭輝主任は香港文匯報の取材に対し、

「これは、中国の反腐敗キャンペーンに対する米国の態度が根本から変わったサインだ。すでに米国にいる汚職幹部がびくびくするばかりでなく、これから国外逃亡を図ろうとする連中にも大きな警告、圧力になる」

と評価した。

スイスの銀行の秘匿性がなくなり、米国の金融機関もあてにならない。さらに、カナダが投資移民を制限し、オーストラリアもそういう動きに出ている。となると、中国人の金はどこに行くのか。

今年3月下旬、日本のある大手商社が上海市内のホテルで、都内一等地の新築マンション展示会を開催したが、中国各地の不動産関係者が多数集まった。もちろん、投資目的の販売を目指したものだが、移住を目的にした人を意識していないわけではない。というのは、展示会では、日本の医療制度や教育制度などを詳細に説明したところもあったからだ。

「中国の不動産はバブル消滅で値下がり必至。そこで住宅価格がほとんど下がらない東京都心の物件が注目されている」とある不動産業者は話す。
(日中は)国家関係が悪いから却って情報開示などあり得ないとばかり、中国人は新たな投資先として日本に目を向け始めたのかも知れない。(以上)

                 ・・・

チャイナマネーが東京の住宅を買い漁る→高騰する→普通の真面目で勤勉な日本人中流階層が買えない→支那人が増える→公立の小中高は支那人の子供でいっぱいになる→日本人中流階層は郊外や地方へ逃げる→中共の「オキュパイ!東京」は成功する、平和的手段で……

チャイナマネーが日本を狙う!最悪の事態を考えて対策をとるべきだ。

■8月9日(土)。朝は室温27度、曇、涼しい。秋が遠慮がちにやってきたか。久し振りにホッとする。

長年愛用していたパンツが擦り切れて穴が空いてしまったので、カミサンに「当て布をして繕ってよ」と頼んだら、侮蔑を込めた顔つきになって、こう反論された。

「アンタねえ、パンツくらい買いなさいよ、パンツ屋が泣くわよ、まったくアンタって人は・・・」

呆れられた。

小生は「ものには寿命があるから、傷んでも直しなおし、もうどうしても直らないときは諦めて買い換える」という考えだ。小生の子供の頃まで木綿の寝間着は何回も繕って、やがてオムツになり、最後は雑巾になった。もったいない、ということを父母から、さらには本から学んだ。

ただ、カミサンの言うことにも道理はある。パンツ屋が泣くのだ。資本主義では質素倹約されると成長しないのだ。皆が、たとえ1年間でも質素倹約、窮乏生活、欲しがりません勝つまでは、とやったらパンツ屋のみならず全産業が激しく衰退する。

日本人は食品など生活必需品以外、たとえば小生の衣料品などは数年分のストックがあるから、実は衣料品なんて買う必要はないのだ。カミサンなんて箪笥から押入れまで衣料品が溢れている。もう買う必要はないのに「あら素敵」と飽きずに買ってくる。

ところが不要なのに買ってもらわないと資本主義は成り立たない。国民すべてが質素倹約すると、企業は売上減で人員カット、給料は低下、人々の購買力は落ちる、税収も減る、福祉を削る、乞食が溢れる、道路の補修もできない、結婚できないから人口も減る・・・亡国になってしまう。

たとえ無駄遣いであれ、去年より多少なりとも消費を増やし、企業の売上が伸び、給料と雇用が増え、消費が増えないと国の体力が減退するのが資本主義なのだ。自転車操業みたいに停まったら倒れてしまう。

だから企業は新型の商品を開発し続け、国民は旧型を捨て新型に買い換えるということを永遠に続けることになる。新型とか最新技術を開発しないと国際競争に敗けてしまうから、最低でもトップグループ(G7)にいないとまずいこともある。

とにもかくにも毎年GDPをそこそこのプラス成長にさせないうまくいかない。“失われた15年”のように活気がなくなる。とにもかくにも国民はできる限り消費し続けるしかない、たとえ借金してでも。

小生は成長率ゼロとかマイナスでも、そこそこ国民が幸せに暮らせる経済システムはないものかと考えているが、発見あるいは発明すればノーベル賞ものだろう。

先日、生まれて初めて民族衣装を着たブータンの青年を見かけたが、「国民総幸福量(Gross National Happiness、GNH)」をトレードマークにしているブータンは参考になるのどうか。

<ブータンの1人当たりの国民総所得は1,920米ドル(世界銀行,2010年)であるにもかかわらず,国勢調査(2005年)ではブータン国民の約97%が「幸せ」と回答しています。

「国民総幸福量(GNH)は国民総生産(GNP)よりも重要である」と,1970年代にGNHの概念を提唱したのは,先代のジグミ・シンゲ国王でした。

GNHは,経済成長を重視する姿勢を見直し,伝統的な社会・文化や民意,環境にも配慮した「国民の幸福」の実現を目指す考え方です。

その背景には仏教の価値観があり,環境保護,文化の推進など4本柱のもと,9つの分野にわたり「家族は互いに助け合っているか」「睡眠時間」「植林したか」「医療機関までの距離」など72の指標が策定されています。

国家がGNH追求のために努力することは憲法にも明記され,政策を立案,調整するGNH委員会が重要な役割を担っています>(日本外務省)

一方で「幸福の王国ブータンで苦しむ若者たち」(AFP2013/6/26)という記事もある。以下要約。

               ・・・

そこは「最後の理想郷」として知られている──美しい自然と仏教文化あふれるヒマラヤ奥地の国、国民の幸福が経済成長より重視される所。

だがそのバラ色の評判に、ブータン王国の都市に暮らす若者たちは迷うことなく異議を唱える。

「人びとが幸福でないことは見てとれる」と、ソーシャルワーカーのジグメ・ワンチュクさん(24)は語る。薬物依存から立ち直ったワンチュクさんは、首都ティンプーにある薬物依存の若者たちの相談所で働いている。

「私たちはとても多くの課題に直面しており、多くの人が苦しんでいる」

薬物乱用、アルコール依存、犯罪率上昇・・・最大の懸念は、多くの人と同じく、ブータン国内に若者向けの望ましい雇用がないことだ。しかもブータンの年齢中央値は26歳。今後さらに多くの人びとが生産年齢に到達する。

公式には、ブータンの失業率は2009年の12.9%から、2012年には7.3%に減少しているが、この統計には疑問の声も上がっている。

民間事業が発達していないことから高学歴のブータン人向けの事務職はごく限られている。一方で、成長する建設産業での手仕事は、国境を越えて来るインドの労働者が大半を担っている。

問題の背景にあるのは、ブータンが隣国インドに投資、支援、輸入で大きく依存していることだ。昨年、過剰な需要の結果、ブータンはインドルピーが枯渇し、結果として大規模な信用危機が起きた。

この経済危機のピークは、ちょうどジグメ・ティンレイ首相がニューヨークの国連会議で幸福哲学を説いていたころ訪れた。(以上)

             ・・・

表と裏、光と陰か。GNHも決め手にはなりそうもない。「資本主義に代わる経済システム」……一時期はソ連式計画経済の共産主義が有望だったが、全部失敗した。中共やロシアの国家独占(寡占 or 利権?)資本主義もやがて失敗するだろう。小生が昇天する前に解を見つけられるかどうか、本当に難しい問題だ。

夕べ遅く、帰省ラッシュの魁として長男一家3人が来たが、今朝は臨月の嫁さんが“お印”があったそうで朝食後に急遽帰宅した。大丈夫だろうか。

夕方には長女一党とN母子がジョインする予定だったが、長女の3歳男児が発熱してキャンセル。キッチンのカレンダーには娘たちが「SummerVocation イェーイッ! 西瓜わり、宝探し、プール、花火!」、小生との連絡ノートには食べたいメニューが書かれていたが、10人前用意した食材は他に転用するしかない。

夕食は結局、N母子と4人で、宴会の予定通りに冷やし中華、鶏もも唐揚げ、野菜炒め、生ハムサラダなど。想定外ばかりでいささか脱力、困惑。人生は、まあこんなものだろう。

午後に一時間ほど小雨、夜には25度になった。秋めいた風が心地よい。ツクツクホウシの声を聞く。(2014/8/9)

◆首相、内閣改造「菅長官は留任」

渡部 亮次郎


3副長官・5補佐官も 産経紙単独インタビューと9日付 けの産経新聞が以下のよう報じた。安倍首相の「守り」の姿勢がありあり。これだと注目の幹事長の処遇も大山鳴動ねずみ1匹と言う事態もありうる。

安倍晋三首相は8日、官邸で産経新聞の単独インタビューに応じ、9月第1週の内閣改造・自民党役員人事について「内閣の要である菅義偉(すが・よしひで)官房長官には引き続きやってほしい」と述べ、菅氏を留任させる考えを明らかにした。

加藤勝信、世耕弘成、杉田和博の3官房副長官に加え、木村太郎、礒崎陽輔、衛藤晟一、和泉洋人、長谷川栄一の5首相補佐官も留任させることをした。

首相は改造の狙いを「9月に自民党総裁に就任して2年になる。その機をとらえて、新たな気持ちで新たな目標にみんなが向かうことで、さらに政策推進力をパワーアップしたい」と説明した。

官房長官人事について「官房長官は政策を推進していく上で軸になる。官房長官には引き続きやってほしい。副長官も留任していただく」と語った。

閣僚や党四役への女性起用に関し「自民党には能力を持った女性陣がたくさんいるので生かしたい」と積極的に登用する考えを重ねて表明した。

民間人の閣僚登用については、「基本的には、国会議員の中からと思っている」と否定的な姿勢を示した。

一方、野党などから「集団的自衛権の行使容認が徴兵制につながる」との批判を受けていることについて「議論をゆがめる不真面目な対応だ。攻撃のための攻撃だ。徴兵制は憲法違反なのでやらないということを明確に申し上げている」と語った。

北朝鮮による拉致被害者らの再調査に関しては「調査の進捗(しんちょく)状況を慎重に見極めたい。その中で誠実に対応しているかどうか明らかになる」と述べた。

首相がかねて意欲を示してきた憲法改正については「国民的な関心と理解が深まらなければできない。どの条文からやるべきかも含め議論を深めたい」と述べるにとどめた。産経新聞 8月9日(土)7時55分配信


◆園田をたじろがせたヘイグ

渡部 亮次郎


<唯一、園田外務大臣をたじろがせた男の死が2010年2月21日、ひっそりと産経新聞の国際蘭で寂しく報じられた。レーガン米政権で国務長官を務めたアレグザンダー・ヘイグ氏。20日、感染症による合併症のため、米メリーランド州ボルチモアの病院で死去した。85歳だった。

鈴木善幸政権時、レーガン政権の国務長官に就任、日本の防衛費の飛躍的増額要求を表明。マニラでの初会談を前に、あの強気で通った園田氏をたろがせた。

<園田氏死して既に26年だが、園田氏はあの世でもヘイグ氏にたじろぐだろうか。いや、会談してみたら、戦闘士としては自分がはるかに上だったことを確認できたのだったから、もはや、絶対たじろぐような事は無いはずだ。>(「頂門の一針」2010年2月22日號)

ヘイグ死は1924年生まれ。園田氏は1913年生まれだから、園田が一回りも年上だったのに、たじろいだのは就任したばかりのレーガン政権を背景に、日本に対する防衛予算の莫大な増額要求の圧力の為だった。

園田氏は既に外務大臣を福田、大平の両政権で務めた後、鈴木政権では、厚生大臣のピンチヒッターとして入閣した後、日米首脳会談に伴う共同声明を巡って引責辞職した伊東正義外務大臣の後任として3度目の外務大臣に横滑りしたばかりであった。

鈴木・園田の交流は河野一郎時代は全く無かったが、「三木降し」で急速に接近、ポスト三木で「福田・大平2年後に政権譲渡」の密約交渉で深い関係が成り立った。

一方のヘイグ氏。陸軍軍人として朝鮮動乱、ヴェトナム戦争に従軍。ニクソン、フォード両政権で首席補佐官、北大西洋条約機構(NATO)の最高司令官を務めた。

そうした経歴を背景に、この年(1981)発足したレーガン政権に国務長官(外務大臣に相当)として入閣、日米安保体制のもと、日本の国防予算の格段の増額を要求するレーガン大統領の尖兵として初の日米外相会談を行なうべく、フィリピンの首都マニラで待ち受けていた。

鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。19日はマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートでヘイグ氏と相対した。

会談前はやや緊張気味だった園田氏だが、ヘイグ氏の要求する、韓国防衛に関する防衛費の負担については、筋論を展開、結論を急ぐヘイグ氏を押さえ込んだ恰好で、1時間は過ぎた。ヘイグ氏に言質を与えなかったのである。

結論を先に言えば、鈴木総理は翌年、突如、退陣。この問題は次の中曽根政権の宿題として持ち越され、中曽根氏が、瀬島龍三氏を韓国に派遣するなどして解決した。

それ以前に園田氏は11月の内閣改造で下野、急速に健康を害し、人工透析を余儀なくされ3年後の1981年4月2日に、僅か70で死んだ。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシードに限るとのお達し。

主従ともにそれを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

園田氏の死に先立ってマニラでは2月25日、コラソン・アキノ女史が大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。(「ウィキペディア」)

ヘイグ氏の訃報に接し、こうして29年前を思い出した。お退屈様。
                            (再掲)


     

2014年08月08日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理がルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言われて初めて牛肉を召し上がられたよいう報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQの指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋澤栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んで以降である。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年においては、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第二巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。

私がすでに20年近く通っている向島の洋食屋「あきら」での定番はイギリス料理「ビーフシチュー」だし、品切れならハンバーグ。2014・8・7 
<ウィキペディア>

◆安倍長期政権に早期解散の選択はない

杉浦 正章



衆参ダブル選挙を目指せ
 


衆院解散は首相が自ら主導権を握って断行するケースと、追い込まれてさせられるケースがある。大きくその可能性を分ければ自ら断行するケースは再来年夏の衆参ダブル選挙だろう。


させられるケースは政治状況によっていつでもあり得るが、最大の山は来年の通常国会末だ。この山を首相・安倍晋三が解散に追い込まれずに逃げ切れば、同年9月の総裁選挙で再選され、ダブル選挙への道が開かれる。


永田町でささやかれている今秋の臨時国会での解散などは“ど素人の政局観”であり、ありえない。新聞記事を検証すれば記者も利口と馬鹿がいることが分かる。
 

首相側近や自民党幹部が「解散は秋だぞう〜〜」と、何にも知らない若手議員や駆け出し政治記者を脅すのは戦略的な意味あいがある。今回も夏前にその話が流れたのは、若手議員らが夏休みで外遊に出て選挙区をおろそかにする事を恐れてのことなのだ。


夏休みは「田の草取り」をさせないと、“風”で当落を左右される基盤の弱い議員らが落選する恐れが大きいからだ。


来春の統一地方選に向けても、今から動きださないと大敗する可能性がある。普通の政局担当記者は秋の解散説などには踊らされないが、未熟だと踊らされる。


産経は「安倍晋三首相の念頭にあった平成28年夏の衆参同日選は影を潜め、今ささやかれているのは、北朝鮮による日本人拉致被害者が帰国した場合の10月解散説だ」と、もっともらしく書いたが、これは“解散様”を安易に見た政局記事の典型だ。


“解散様”は神棚にしまって、めったに口にしてはならないのだ。政権が多数を維持して安定しているときに何で解散しなければならないかが分からない記者が、こういう記事を書く。だからあり得ない。
 

しかしもっと頭の良い、巧妙な“落とし穴”を仕掛けた記事も見られる。それは朝日が書いた「もっとも順当とされるのは来夏の通常国会閉会後(の選挙)だ。


来年の通常国会が終われば総裁レースが幕を開ける。そこで、このタイミングで解散・総選挙に踏み切って勝利し、国民の信任を得れば、安倍首相を総裁選で交代させる理由が消え、無投票再選は確実になる。」というものだ。


だが、安倍ちゃんはこの通常国会末解散の誘惑に決してはまってはいけないのだ。朝日の狙いは来年の通常国会後半で集団的自衛権の行使関連法案が俎(そ)上にあがることをにらんでいる。
 

というのも同関連法案をめぐっては久しぶりの保革の激突が予想され、朝日はその激突を背景に総選挙をさせれば確実に自民党が大敗するチャンスと踏んでいるのだ。通常国会末の混乱を狙って、朝日は社説などを動員して「解散で国民の信を問え」というキャンペーンを打ち出すのは確定的だ。


毎日などがこれに乗り、解散・総選挙の合唱になり得る。そして安倍を解散に追い込むのだ。記事はその布石を今から打っているのだから、さすがに老舗だけあって読みが深いし、頭が良い。


しかし筆者に看破されては安倍周辺も警戒するから駄目だろう。だいいち朝日の言うように「総裁選で無投票再選が確実になる」などと言う読みは噴飯物だ。与野党激突は野党の息を吹き帰らせ、仮死状態の民主党ですら議席が増える。


自民党議員は血みどろの戦いで、解散をした安倍に恨み骨髄に達する状況で永田町に帰り、石破茂に投票する。かくて総裁選での再選は不可能となり、安倍政権は2年半で潰え去るのだ。
 

さらに極めて重要なのは安倍が今年末に消費税再増税に踏み切るかどうかだ。踏み切ればちまたは怨嗟の声で満ちあふれ、民主党は自分で法律を作ったことを忘れて通常国会は増税批判一色になる。古来増税で選挙に勝ったためしはない。しかも増税実施が来年10月になることも政局を直撃する。


どこかの馬鹿評論家が来年末から解散の可能性と書いているが、消費増税実施直後の解散などはあり得ないのだ。
 

従って安倍が長期政権を狙うなら、あらゆる政局を再来年夏の衆参同日選挙に向けて収れんさせてゆくことだ。


ダブル選挙は自民党に有利であることは過去2回の歴史が実証している。公明党が反対すれば、今度こそ切ればいい。自民党はあだやおろそかで衆院295議席を維持できているのではない。これを天が与えた僥倖(ぎょうこう)と受け止め、大切に大切に維持して安定した政治を行うことが安倍に課せられた使命なのである。

【筆者より】来週はお盆休みに入ります。再開は18日から。

     <今朝のニュース解説から抜粋>  (政治評論家)

2014年08月07日

◆かやき(貝焼き)で育った

渡部 亮次郎


「かやき」とは、主に秋田県、青森県など日本海側の東北地方で食べられる鍋料理の一種。「かやき」は、貝焼きが訛った言葉で、現在では貝でなく小型の鍋を用いた1人用の鍋料理を「貝焼き=かやき」という。

元々は鍋は農漁民にとっては高価だったこともあり、大きな貝殻を鍋に代用した。ホタテが多いが、アワビの貝殻が用いられる事もある。

中味は季節の魚(ハタハタ、カワヤツメなど)、野菜、豆腐、茸などを味付けしただし汁で煮込むもので、東京で言う寄せ鍋の調理法と類似している。

昔はこれを七輪に炭をおこして煮るから手間がかかって皆、厭がったものだが、いまは卓上ガス・こん炉だから簡単。

ハタハタの場合、調味にしょっつる(ハタハタから作られた魚醤)を用いる事から、しょっつるかやき(貝焼き)と呼称する事もある。

また、カワヤツメのかやきは、新鮮なカワヤツメをぶつ切りにしてネギやゴボウと共に味噌味のだし汁で煮た鍋である。日本で賞味されることの少ないカワヤツメの鮮魚を用いた秋田の冬の味覚となっている。

「かやき」は、本来は貝殻を用い、貝からの出汁も利用しようとするものであるが、秋田県内陸部などでは貝を利用しない鍋物料理も「かやき」と呼ばれることが多い。

私の場合は目の前が旧八郎潟。そこへ流れ込む川や用水路にも鮒や鯰がうようよいたから、網や釣り針で釣り、ぶつ切りににしたり、鮒は一匹ごと、葱、豆腐と一緒に煮た。美味しかった。

肝腎なのは煮るのは醤油ではいけないこと。淡水魚はみな泥(ごみ)臭い。それを消すのは味噌である。だから私の食べた「かやき」はすべて「味噌かやき」だった。

実を言うと、小学校(戦時中は国民学校)2年までは味噌汁が医者から止められていた。腎臓が弱く、塩気を摂れば死ぬといわれていた。だが、ある日、盗み飲みで味噌汁を飲んでしまった。ところが死ぬどころか、却って元気になり、運動会では常に1等ではないか。

母親は喜んだ。私の前に生まれた次男坊「琢次郎」が夭折しているので、腎臓の弱く生まれてきた補欠次男坊についても覚悟していたらしい。医者が枕元で「学校へ上がれるかどうか」と父母に言ったのを私は記憶していたから。

それが、味噌汁を飲み始めてから急に元気になり、敗戦後は野球を始めたら、学校では投手で4番バッター、主将になった。爾来、私のおかずは鮒の「味噌かやき」が定番になってしまった。

勿論、貧しい、戦中、戦後の農村。肉屋1軒あるわけじゃなし、スーパーも無い時代。同居していた祖父の捕ってくる鮒と鯰しか「具」は無かった。海の魚は高価。現金収入の乏しい農家の口にははいらなかった。

だから上京後も私が刺身を食えなかったのは厳密に言えば貧しすぎる少年時代を過ごしたためであり、よく考えれば悲しい話なのである。

経緯は省略するが、60歳にしてトロの味に目覚めたものの、いまも豚肉と豆腐、葱の「豚かやき」を醤油味で仕立て、家人も食べている。忙しい時は簡単で助かるそうだ。

別に「茄子かやき」もやる。鰹のナマリ節を買い置きしておき、小鍋に茄子と豆腐を加えて、味噌で煮るのだ。最近は茄子が年をつうじて入手できるから、最も安くて簡便な「かやき」である。

なお、貝殻を用いる鍋料理の方法は『料理物語』などで古くから知られており、島根県には鴨肉やセリを用いたすき焼き風の貝焼きがある。こちらは貝焼き(かいやき)と呼ぶそうだ。
2010・2・19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


       

◆ジャガイモで命拾いした欧州人

渡部 亮次郎



16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。


<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア