2014年06月15日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よお前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たちお前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ1952年8月8日(61歳) 大阪府堺市西区 生まれ。血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに「文芸春秋」など雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治 記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。

2014年06月13日

◆ブタニクの特売日です

渡部 亮次郎


「今日はブタニクの特売日です。午後3時から何々町の」と言ったところで市役所の車の声は聞えなくなった。本人は言ったと思っているかもしれないが、こちらは聞こえなかったから、言われていない!

車はスピードを出している。のんびりと豚肉の特売日を宣伝しても、市民に情報を確実に届けていなかったら、放送、広報はしなかったと同じでは無いか。

東京湾岸の都立公園。散歩道に沿って看板が立てられた。「ローラースケートはご遠慮ください」と書いてあるが。スケーターは見もせず、すいすい。

スケーターに立ち向かうような方向で看板を立てるべきなのに彼らの走る方向に沿って横に立ててあるからスケーターが横を向かなければ、看板は見えないのだ。およそ意味のない看板。カネはかかっている。東京都の予算だ。典型的な役人仕事。

NHKの広報。どうかしている。ラヂオで皆様のNHKと言われると、少なくとも私以外の他人と思ってしまう。「NHKの番組は皆さんの聴取料で作られています」と言う。「皆さん」と言う集団があって、それが支えているように思う。私が納める必要は無いと。

なぜNHKの番組は「あなたの聴取料で作られています。宜しく」と言えないのだろうか。時代が変わったのに気付いていない。時代の変化に気付かないジャーナリスト。そんなの要らない。

「豚肉の特売、2丁目の加藤肉屋です。今日は豚肉の特売日です」と言えば済むことをわざわざ済まないように広報すること、NHKと同じだ。

◆NYのカレーライス

渡部 亮次郎


アメリカへ行くと、どういうわけか焼き魚とカレーライスが食べたくなっ たものだ。ところがアメリカ人はおしなべてカレーの匂いが大嫌いだそう で、どのレストランでもメニューには無い。

また魚を焼くにおいは人間を焼く匂いだといって厭がる。ロスアンジェル スでは、なんとか、ボイルで勘弁してくれないかといわれた。あれから何 十年、事情は変わったろうか。

先ごろ金沢市のレストランがNYのど真ん中マンハッタンにカレーライス の食堂を進出させたというニュースがあったが、大丈夫だろうかと思って しまう。客は日本人と何国人だろう。匂いが厭だと周囲から文句を付けら れないか。

1970年代の終わりごろからニューヨークでNHK特派員をしていた堀 徹 男君は元はといえば政治部の同僚だった。NYではメイン・ストリートの 五番街に程近いアパートで奥さんと2人暮らしだった。

この奥さんは10年くらい前、東京で急死されたが、早くにNHKを退職し た私だからネット・ワークが及ばず、とうとう葬儀に参列する事はできな かった。それが未だに気がかりであるぐらい、堀夫人には世話になったの である。

何を隠そう、NYでカレーライスを作って戴いたのである。下手をする と、アパートの管理組合に呼び出され、退去を命じられる危険を冒しての 「冒険」を強いたのである。

カレーソースを手軽に作るため、日本では市販の即席カレールーが使われ ている。製品としての粉末の即席カレールーはハウス食品が1926年に(商 品名・「ホームカレー粉」)、固形の即席カレールーは、エスビー食品が 1954年にそれぞれ日本で最初に製造した。

2004年度のカレールー(家庭用即席カレー)国内出荷額は676億円とさ れ、各社のシェアはハウス食品約61%、エスビー食品約28%、江崎グリコ約 10%と推計される(日本経済新聞社)寡占市場である。

しかしNYでは当時、そんな物はどこにも売っていない。堀夫人はどこを どう捜して私にカレーライスを作って下さったのだろうか。今では謎である。

いずれ話はワルドーフ・アストリア・ホテルに滞在中だった園田外務大臣 にばれた。「ナベしゃん、ワシも食いたかったとバイ」とこぼされた。

カレーライス 肉や野菜を、さまざまな香辛料をブレンドしてつくられた カレー粉で調味したカレーソースで煮こみ、米飯にかけて食べる料理。ラ イスカレーともいう。

カレーの語源は、ソースを意味するタミル語のカリだといわれている。も ともとはインド料理であるが、日本へは1859年(安政6)の開港以降イギリ スから伝えられたとされている。国産のカレー粉は1923年(大正12)山崎峯 次郎によりつくられ、発売された。

本場インドのカレーは粘り気がなく、また、ヨーロッパでは米飯は副えも のであるのに対し、日本では米飯が主で、かけるソースもとろみがある (小麦粉=ビタミンB1が多い)という日本独特のものとして発達した。

薬味に福神漬けやラッキョウを副えるのも日本特有である。固形の即席カ レーが1954年(昭和29)ヱスビー食品から初めて売り出されて以来、さまざ まな味の即席カレーが各社から発売され、カレーライスは家庭料理だけで なく、レストランなどのメニューでも定番となっている。

カレーソースに用いる主材料によって、ビーフカレー、ポークカレー、チ キンカレー、野菜カレーなどがある。関西と関東の食肉文化の違いから一 般的にカレーといえば関西では牛肉を使用したビーフカレーが、関東では 豚肉を使用したポークカレーが定番とされている

またカレーライスにカツをそえたカツカレーや、うどんにカレーソースを かけたカレーうどんといったものもある。

カレーライスが全国に広まることとなった経緯として「戦前、普段米を食 べることが少ない農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海 軍だったが、当初カレーには英国式にパンを供していた。

しかし、これは概して不評だったため白米にカレーを載せたところ好評と なり、調理が手早く出来て肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事と してカレーライスを兵員食に採用した。

その後、除隊した兵士がこのカレーライスを広めたため、全国に知られる ことになった」という説がある。日本の海軍は英国から習得したものだか らである

ただし、陸軍が普及に貢献したとする説もある。いずれにせよ、日本にお いては軍隊がカレーの普及に大きな役割を果たしたとみられる。

日本以外の国のカレーライス

日本のカレーライスの原型となった料理は、世界中に文化的影響圏を広げ たイギリスの食文化のため、現在は世界中の多くの地域で見られる食文化 である。その国でカレーライスの食文化が定着した理由として、「イギリ スの影響」「戦前の日本の影響」「戦後の日本の影響」。

イギリス

日本にカレーライスを伝えた国とされるイギリスには、見た目や味が日本 のカレーライスと酷似した料理「curry and rice」が存在する。パブや学 生食堂で安い値段で気軽に食べられる点でも日本でのカレーライスと共通 する。

イギリスには多くのインド料理店が存在するが、それらの本格的なインド 料理とは別物の大衆料理として親しまれている。

香港

イギリスの統治を長く受けていた香港では、茶餐廳と呼ばれる喫茶レスト ランにカレーライスを揃えている店が少なくない。日本のものと比べる と、若干スープカレーに近い、さらっとしたものが多い。

ハワイ

明治初期から日本人移民の多かったハワイにおいてもカレーは日常食とし て普及しており、日本料理店のみならず大衆的なレストランや伝統的なハ ワイ料理を扱う店のメニューにもカレーライスの名前を見ることができる。

以前は日本人にとっては懐かしい昔ながらのライスカレーを供する店が大 半であったが、近年はタイやベトナムなど東南アジア系移民の増加や、日 本のチェーン店であるCoCo壱番屋の進出などによりさまざまなスタイルの カレーライスが食べられるようになってきた。

台湾

日本統治時代に日本人がカレーライス食べる習慣を持ち込んだとされてい る。そのため台湾では一般的なカレーライスをごく気軽に屋台や食堂など で昔から食べてきた。

「古典的なこれは薄口の黄色いスープに片栗粉などでとろみを付けてお り、日本の昭和24年頃から50年代にかけて食べられていた即席カレーの趣 を残している。

近年では本格的な日本風のカレーライスを提供するレストランも増加して おり、片栗粉でとろみを付けた「古典的な日式」は衰退している。

韓国

日本統治時代からの伝統として軍隊食などとして食されている。家庭で 作ったり大衆食堂で出されるカレーは、台湾の場合と同じく薄口の黄色が 強いカレーが多い。

キムパプ(酢を使わないご飯を用いた韓国風海苔巻き)にカレーをかけて 食べるなど日本では考えられないようなアレンジも存在する。

中国

洋食のひとつとして、ホテルなどでカレーを食べることができたが、一般 の中国人にはあまりなじみのない料理であった。

しかし最近は上海に日本資本のカレーショップも開店し、日本風のカレー ライスの人気も出て来ている。中国語では「珈竰」などと表記される。


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2014年06月12日

◆「核」が日中開戦を抑止する(36)

平井 修一


日一日と凶暴化、孤立化する中共。中共内部でも「これはまずいだろう」という声があがりだした。韓国の中央日報が「経済・軍事力が強まるほど脅威論も広がる…中国が“実力の逆説”警戒」と報じている(2014/2/4)。以下引用する。

              ・・・

中国社会科学院が「アジア・太平洋地区発展報告書」で取り上げたテーマは、中国のG2(米中)世界戦略と関連している。経済・軍事力が強まるほど脅威論も広がる「実力の逆説」という言葉で、今後10年間の中国の世界戦略問題を表現した。

中国の浮上が周辺国との葛藤を深めて中国脅威論が広がれば、米国に追いつくのがそれだけ難しくなるという問題意識を反映したものといえる。

報告書はまず、中国が現在の発展速度を維持すれば、今後5−10年後には米国と対等またはそれを上回る5大力量を持つと分析した。

一つ目、経済規模の面で米国を上回るのが確実ということだ。すでにハーバード大経済学科のデイル・ジャーガンソン教授が中国の経済規模は2018年に米国を超えると予想しており、インド国際関係委員会も2017年に中国が米国を超え、2050年には米国の2倍になると予想している。

二つ目、中国の軍事力は米国並みにはならないが、アジア太平洋地域で中国の核心利益を守り、領域内の安定に主導的な役割をする程度には強まるという分析だ。

清華大国際問題研究所の閻学通所長は、2023年に中国は3−5隻の空母、射程距離8000キロ以上のミサイルを搭載した4、5隻の原子力潜水艦、第5世代ステルス戦闘機の保有などで、米国の軍事力の60−70%に迫ると予想した。

三つ目、インターネットを前面に出したニューメディアで世界を圧倒するという評価だ。中国インターネット情報センターが明らかにした昨年の中国のネット人口は6億人で、すでに世界最高だ。2023年には10億人を超えると予想され、ツイッターなどを利用した人々の媒体力が国際社会の世論を形成するパワーに浮上することが確実視される。

四つ目、このような力を前面に出しながら、周辺国に対する政治外交的な影響力が強まり、結局、ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3(韓日中)はもちろん、インド・豪州との経済協力強化で形成される領域内の単一経済圏で、中国の影響力が米国を上回ると、報告書は分析した。・・・

問題は、中国が5大力量を前面に出しながら副作用が生じる「実力の逆説」だ。中国の影響力が大きくなるにつれ、周辺国の期待が強まる国際環境が形成され始めたのが代表的な例だ。

力ばかり強調するのではなく、「国際平和を維持する責任ある大国外交をすべきだ」という要求が強まっているということだ。北朝鮮の核実験と長距離ミサイル発射時、国際社会が中国に対北朝鮮制裁を促す圧力を加えたのが良い例だ。

また中国と米国の格差が縮まり、周辺国との格差は広がることで、「周辺国との葛藤は地域の不安定を引き起こす」ほど悪化する可能性があるということだ。

中国が強くなるほどロシアやインドで中国脅威論が浮上し、両国の協力が深まる可能性がある。実際、中ロが近づいただけに、ロシアとインドも軍事的な関係を強化している。

報告書は、こうした問題が日本と朝鮮半島、東南アジアに広がり、これに対応しなければ「中国の浮上戦略は大きな難関に直面する」と分析した。このため、強力な中国が周辺国と国際社会にとって利益になるという「新関係モデル」を構築する必要があるということだ。

したがって周辺国を韓国・日本・ベトナムなど儒教圏国家と非儒教圏国家、北方国家などに分け、文化交流を強化してウィンウィンの経済圏モデルを作るべきだと、報告書は建議した。(以上)

               ・・・

中共の最大のシンクタンクが「平和的台頭でいかないと周辺国と衝突したり、反発を買うことになるから気をつけろ」と習近平率いる中共中央に注意喚起した図だ。血で血を洗う権力闘争で尻に火がついている習近平はカエルの面になんとかで、聞く耳はなし。暴走し自滅するがいい。(つづく)(2014/6/11)


◆中国経済の成長鈍化で北京の思惑は

山本 秀也


日中「政冷経熱」再演の危うさ 

経済や民間交流の分野に限れば、このところ日中関係の潮目が少し変わった印象を受ける。政治、安保問題で険悪な状況が続いているので、全然安心はできないのだが、閣僚級を含めた官民要人の訪問や、地方レベルでの往来は動き始めた。

中国経済の成長鈍化が確実とみられる中で、冷え込んでいる日中経済を少し動かせないか、というのが北京の思惑だろう。折しも、日本からは経団連の新旧会長が正式交代を控えた5月下旬に訪中した。

中国側の説明によると経団連一行と会談した李源潮国家副主席は、歴史、尖閣問題で原則を繰り返しながらも「日本経済界に両国関係改善への積極的な役割を期待する」と述べた。このところの北京での日本人「冷遇」を思えば、一行が歓迎されたことは間違いない。

小泉政権当時の関係冷え込みで、中国側は「政冷経熱」という策略をとった。政治は冷たくても経済は熱く、という図式には、中国ビジネスに関わる日本企業にもそこそこの支持があったように思う。

いまの習近平政権は、国内政治の比重が高すぎて江沢民時代とは同列に論じにくいのだが、最近の動きはやはり「政冷経熱」の再構築への動きのようにみえる。そこの呼吸は日本側にも伝わって、いわば東京と北京で瀬踏みが始まっているとみてよいだろう。

関係悪化が「一過性」原因でないだけに深刻とはいえ、先行きは決して容易ではない。この2年間の関係後退は、日中間に焼け野原の惨状をもたらした。貿易や投資は戻るときが来れば戻るだろうが、国交正常化後、ボトムのところまで冷え込んだ日本人の対中マインドは、そう簡単に温まるとは思えない。

その冷え込みは、対中認識に関する世論調査というような抽象的な数字ではなく、駐在員の家族や若い留学生を含めた在留邦人数の増減に表れる。

最近の数字をみると、中国での在留邦人数(昨年10月1日現在)は、前年比で約1万5000人減った。香港、マカオを含めて邦人総数は約13万5000人となったわけだが、今回の邦人減少は、天安門事件(1989年)直後のような一過性の減少とは違う。

尖閣国有化後の反日暴動の記憶も鮮烈だが、政治の高みから号令された「日本たたき」の影響は強烈だ。普通の日本人には、毒餃子事件から大気汚染までひっくるめて、中国全般への印象がひどく悪くなった。意識の硬直化はたかだか2年間で起きた話ではないだけに厄介だ。

しかも、肝腎の政治、安保問題での雪解けは見通しが立たない。中国軍の戦闘機が公海上で自衛隊機に危険行動を挑む状況は、海南島沖での米中軍用機衝突が東シナ海で再演されてもおかしくないことを示している。「政冷経熱」もある種の知恵かもしれないが、賽(さい)の河原の石積みのように政治対立という“鬼”に蹴倒される危うさをはらんでいる。(産経新聞中国総局長)

             (フジサンケイビジネスイ)2014.6.11

   
  

2014年06月11日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎


「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2014年06月09日

◆「核」が日中開戦を抑止する(34)

平井 修一


地政学者の奥山真司氏が「ミアシャイマーの提案する四つの対中戦略」をアップしている。

氏はジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』の第二版の翻訳作業中で、「最後の第十章がすべて今後の中国の分析に書き換えられており、いくつか興味深い記述があります。とくに気になったのが、今後の中国に対してアメリカやその同盟国がとるべき戦略についてのもの。ミアシャイマー自身によれば四つあるとのことですが、今回はここで特別に要約して掲載しておきます」とある。以下ざっくりと転載する。(見出しとカッコ書きは平井による)
・・・

■中国を封じ込めるのは困難

台頭する中国に対処するための最適な「第一の戦略」は「封じ込め」である。これによれば、アメリカは北京政府が領土を侵略したり、アジアにおいて影響力を拡大するために軍事力を行使するのを牽制することに集中すべきであることになる。

この目標のために、アメリカは中国周辺のなるべく多くの国々を巻き込んで(軍事力均衡のための)バランシング同盟の結成を狙って動くことになる。そこでの究極の狙いは、NATOのような形の同盟関係を構築することだ。冷戦期のNATOは、ソ連の封じ込めという意味ではかなり効果的な制度だったからだ。

また、アメリカは世界の海の支配の維持に努めなければならず、これによって中国がペルシャ湾や、とりわけ西半球のように、離れた地域に戦力を投射するのを困難にしなければならないからだ。

オフショア・バランサー(沖合から影響力を行使し安定を図る国)として豊富な歴史を持つアメリカにとって理想的な戦略というのは、なるべく背後にいて、中国の周辺諸国に中国封じ込めのほとんどの重荷を負わせるというものだ。

つまりアメリカは実質的に中国を恐れるアジアの国々にバック・パッシング(脅威を及ぼしてくる国に対して別の国を使って対抗させる)をするということだが、これは以下の二つの理由から、実際には行われない。

その理由としてまず最も重要なのは、「中国の周辺国が中国を抑え切れるほど強力ではない」ということだ。したがって、アメリカには反中勢力をリードするしか選択肢は残されておらず、アメリカの強力な力のほとんどをリードすることに傾けることになるはずだ。

さらにもう一つの理由は、中国に対抗するためのバランシング同盟に参加する「アジアの多くの国々の間には大きな距離の開きがある」という点であり、これはインド、日本、そしてベトナムの例を考えてみても明白だ。

したがって、ワシントン政府には「彼らの間の協力関係を取り持ち、効果的な同盟体制を形成する」必要が出てくる。もちろんアメリカは冷戦時代に似たような状況にあったわけであり、ヨーロッパと北東アジアでソ連を封じ込める重荷を背負う他に選択肢はなかった。

現地の国々が潜在覇権国(中国)を自分たちの力で封じ込められない場合には、沖合に位置しているオフショア・バランサー(米国)というのは、実質的にオンショア、つまり岸に上がらなければならなくなるのだ。(米中激突になりかねないから中国封じ込めは難しい)

■それでも「封じ込め」は最も効果的

「封じ込め」の代わりとなる戦略は三つある。最初の二つは、「予防戦争」を起こしたり、中国経済の発展を遅くするような政策を採用することによって中国の台頭を阻止することが狙われている。

ところがこの二つのどちらもアメリカにとっては実行可能な戦略とはならない。三つ目の戦略は「巻き返し」(rollback)であるが、これは実行可能でありながらその利益はほとんどない。

「予防戦争」が実行不可能な理由は、単純に中国が核抑止を持っているからだ。アメリカは自国、もしくは(日本など)同盟国に対して(核による)報復可能な国(この場合は中共)の本土に対して破壊的な攻撃を仕掛けることはできない。また、中国が核兵器を持っていなかったとしても、アメリカの大統領が中国に対して予防戦争を仕掛けることは想像しづらい。

中国がこのまま急激な経済成長を続けることができるのか、そして最終的にアジアを支配しようとして脅威となるのかは誰にも確実なことが言えないのだ。この未来の不確実性も予防戦争を見込みのないものにしている。

「中国経済の成長を遅くする」という戦略は、核戦争に比べれば確かに魅力的な選択肢ではあるが、これもまた実行不可能なものだ。この場合に一番の問題となるのは、アメリカの経済にダメージを与えずに中国経済を鈍化させる実際的な方法が存在しないという点だ。

「封じ込め」に代わる三つ目の戦略は「巻き返し」であるが、これにはアメリカが中国の弱体化を狙って、その友好国の政権の体制転換をしたり、さらには中国国内でトラブルを起こしたりすることを含む。

たとえばパキスタンが中国側と密接な関係を結んでいるとすれば(これは将来確実に実現しそうなことだが)、ワシントン政府はパキスタン政府の体制転換をして、親米派のリーダーにすげ替えるのだ。もしくはアメリカは新疆ウイグル自治区やチベットなどで独立派を支援するなどして政情不安を煽ることもできる。

アメリカは冷戦時代にソ連に対して主に「封じ込め」を実行していたが、現在わかっているのは、いくつかの面で同時に「巻き返し」をやっていたということだ。一九四〇年代後半から五〇年代前半にかけてソ連国内で反乱工作をしかけていただけでなく、親ソ派と思しき世界中の無数の政府のリーダーたちを次々と追放していった。

実際にもワシントン政府は、一九五〇年代から六〇年代にかけて中国に対していくつかの隠密工作を直接仕掛けている。

このような「巻き返し」工作は、超大国の間のバランス・オブ・パワーにはわずかな影響しか与えておらず、ソ連崩壊を早めることにはつながらなかったと言えるが、それでもアメリカのリーダーたちはあらゆるところで「巻き返し」を実行しており、ワシントン政府の政策担当者たちが将来強力になった中国に対して、この政策を使わないはずがないとは言い切れないのだ。

それでもアメリカにとっても最も効果を発揮する戦略が、今後も「封じ込め」である事実は変わらない。 (以上)
・・・

米国を後ろ盾とするアジア版NATOの盟主は日本が務めざるをえない。経済力と基本的な通常兵器と優秀な将兵を持ち、同盟国に最新兵器を供与する能力があるのは日本しかないからだ。しかし、最大の問題は、核武装のない盟主に付いてくる国があるか、ということだ。

日本とアジアが中共に侵略されたくないのなら、日本の核武装は絶対的な必要条件である。(2014/6/8)

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◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争(戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼ばれなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた)による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   (新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で始めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

2014年06月08日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎


7年前、2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨で、それでも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。


音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。「ウィキペディア」

2014年06月07日

◆毛による餓死者は3755万人

渡部 亮次郎


中華人民共和国が1949(昭和24)年10月1日、毛沢東によって建国宣言された国である事は知っていた。またその同じ毛沢東によって強行された大躍進政策が悉く失敗し、厖大な餓死者を出した事も知っていた。

だが餓死者の具体的な数字については、「ウィキペディア」では「2000万から5000万と言われているがはっきりした数字は解っていない」とし、「岩波現代中国事典」(1999年刊)も「1500万〜4000万人」としか表現していない。

ところが共同通信社以来、北京に10年以上駐在している産経新聞社中国総局長の伊藤正氏(その後退社)が2008年2月21日付産経紙に掲載した「トウ小平秘録」第 152回で「餓死者は3755万人」と具体的数字を報じた。おそらく世界初で ある。

これを明らかにしたのは中国、国防大学の元研究員辛子陵氏で2007年7月に刊行した著書「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)の中であった。そこには飢餓の末、子供や死体を食した例などを暴露していた。

辛子陵氏は中国人民大学元副学長の謝韜氏とのコンビで「中国共産党は中国社会民主党と改称しスウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張。

そこで毛沢東が大躍進政策や文化大革命でいかに大きな誤りを犯したかを具体的に暴露する必要があり、その一環として大躍進政策の失敗による餓死者数を明らかにしたものである。激しい批判に曝されているのは当然だから数字の根拠には自信が有るのだろう。

1957(昭和32)年11月6日、ソ連共産党第1書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

毛沢東はこれに触発され、政権樹立後9年目の1958年の第2次5ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという壮大(無茶)な計画を立案した。

しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の下で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。

それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。

しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

1958年2月から、4害(伝染病を媒介するハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開され、スズメを大量に駆除した。

北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除したが、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。

スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。

人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がった。

また、今は完全に間違いだとされているルイセンコ(ソビエト)の学説に基づいた稲の密植など農業開発は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。私も郷里の秋田県で、親戚の若者が親たちの止めるのも聞かずに密植をやり大失敗したのを見た。

地方政府が誇大な成果を党中央に申告した結果、中央政府は申告に従って地方に農産物の供出を命じ、地方政府は農村から洗いざらい食料を徴発したため、広範囲の農村で餓死者続出の惨状が起きたというのである。

飢饉の最悪期にも都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。

1959年毛沢東はこの政策失敗を認めて国家主席を辞任した。毛沢東はこれによって実質的な権力を失い、代わってケ小平・劉少奇などが修正主義的路線に基いて経済を再建していくことになる。

しかしこの後も中国共産党指導部における権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すために文化大革命を引き起こし空白の10年を作った。出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

2014年06月06日

◆3度目は意識的失脚

渡部 亮次郎


トウ(!))小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は作らせなかった。

参考:産経新聞「?(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」

                        執筆 2007・07・19




2014年06月05日

◆トウ小平の歩んだ途

渡部 亮次郎


!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、?は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1972年9月、田中角栄内閣により日中国交正常化。トウはいなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、?小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。

1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。

1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、?小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。

すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、?小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。

しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に3度目の復活を果たす。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。

?小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。

この訪日で?小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。?小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、?小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。

前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した?は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深せん市など4つの経済特別区の設置を決定する。

!)小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、?小平は華国鋒の追い落としを目論む。

華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、?小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、?小平を支持するものであった。

華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記に就任し、?小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には?小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに?小平体制が確立した。

!)小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。

1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、?は政治改革に全く反対だというわけではなかった。
第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。

ただし、?自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には?小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、?小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた?小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した。

!)小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた?小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。

中国に帰国した?小平は、第11期3中全会において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。

代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。

但し、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管?猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた?小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。

経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

一方対日政策では、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒し、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。

これを受けて1983年、江蘇省党委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館設立を決定し、南京市党委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。

!)小平は1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、?小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争40周年に当たる同年8月15日にオープンした。

!)小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。

本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは娘の?楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は?の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

!)小平の死後、?が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、?小平理論として中国共産党の指導思想に残された。


名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「?蝟子(ハリネズミの?)」、「?矮子(チビの?)」と呼ばれたりもした。毛沢東は?小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった?小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからと後年、語っていた。

!)小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。

これは最も?が好んだ言葉であり、毛沢東が?を弾劾する際にその理由の一つとしている。

実子である?樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、?小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。?小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した。

日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、?小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。

その際に?小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとした。

近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。

新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、?小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。

また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。
「ウィキペディア」


2014年06月04日

◆哀れ 唐人お吉

渡部 亮次郎


若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別し、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。