2014年08月22日

◆終戦特集:アメリカ原因説

MoMotarou


経済は経済単独で存在しているわけではない。この当たり前のことを忘れている日本人が多い。経済のためには威圧・恫喝・軍事力、そのほか何でも使うのが国家の歴史であり、いまも世界の趨勢である。(日下公人)
        
              ★

本年8月15日の当地(岡山)は台風一過の涼しい1日でした。台風の影響か安倍首相の所為か不明であります。靖国神社の蝉の声が「戦後の終わり」を告げているようです。(以下「思考力の磨き方」(日下公人)より転載)

■武士道の源泉

――「カ」の前では「徳」という選択肢はない。力があって自制しているのが、徳の根元である。力のない国が自制しても、それはただ弱いというだけで、ほとんど意味がない。

■「アメリカ原因説」

――アメリカ依存症を治療するには、なんでも「アメリカのせい」にするという方法もある。「反省すべきはアメリカであって、被害者は日本だ」という「アメリカ原因説」である。これは意外にアメリカ人の反発を招かない。

アメリカ人の心理は、「俺が原因なのか。やっぱり俺はそんなに力があるのか」と内心喜んでいる。

――彼らが日本叩きをしたり、日本に警戒心を抱いたりするのは、「日本が何かの原因になる」と感じたときである。「日本は原因になりうる力をもっている」と彼らは認識し、恐怖を感じている。

そこで「いや、日本が行動に立ち上がるときの原因は、いつもアメリカにある」というと、アメリカ人は大いに安心して喜ぶ。

しかし、大事なのはその先である。その裏には「これ以上日本を怒らせると怖いぞ」という脅しがついていないといけない。

「その気になれば、われわれはかつての特攻隊のように究極の奮戦ができる」という意思表示である。そのためにも、すべからく日本人は、心の奥に特攻隊精神を刻んでおくべきである。

何も実際に拳を振り上げる必要はない。そこから交渉を始めると、たいへん効果があるということだ。

■日下公人さんは「しぶとい」

いつも独創的な発想で魅了されます。生い立ちもおもしろい。詳しくはch桜の番組で語られます。安倍さんの「軍師」かなぁ。。。

"「一億総特攻」といっても、いまの人たちにはまったく現実感がないだろうが、あの時代を生きた私にはあった。そして、いざとなればその精神を発揮するのが日本人だといまも思っている。"

  *日下公人氏に聞く[桜H26/1/3]http://youtu.be/Abn4vwNoZaQ

◆1匹も獲れぬロシア流サンマ漁

渡部 亮次郎


昔、ソビエト(現ロシア)漁船が三陸沖へサンマを獲りに来たことがあった。そりゃ珍しいというので、態々見物に行った友人の話でる。。

貨物船みたいな大きな船である。

船上ところどころに、でっかいおっぱいをした中年女性が乗り組んでいる。日本では漁船に女は乗せないと聞いている。

それよりも驚いたのは、サンマの捕り方である。直径2メートルもある蛇腹を海中に突っ込んで盛んに海水を吸い上げている。何をしているのだろう、最初は理解できなかった。

暫くして分かった。サンマを海水ごと吸い上げようとしているのである。魚を食べたことも捕った事も無いから魚の習性を知らないのである。

魚は流れに乗って流されてくる餌を食うように、流れに逆らって泳ぐ。ソビエト船が海水を汲めば汲むほどサンマは逃げてゆく。だからサンマは1匹も捕れなかった。

近くに日本漁船がいても言葉が通じないから致し方ない。2,3日して空しく帰って行った。何年もしてから、今度は網で捕り始めたそうだ。

もともとロシア人は魚を食わなかった。それなのに食うようになったのは、ソビエトの崩壊寸前、家畜にやる餌が不足し始めたからである。しかし、北欧の海では各国から締め出され、止むを得ず北洋や三陸沖にやってきたものである。

しからばロシア人は如何にして魚を食べているのだろうか。焼くといっても道具は無いだろう。干物にする技術もあるまい。矢張り煮るしかないのだろうか。

後年、モスクワを訪問して分かった。煮るしかないのである。モスクワのスーパーでは20センチ角の塊が冷蔵庫に入って売られている。それがどんな魚のどの部位かは自宅に帰って冷凍が融けてみないとわからないのだ。

モノの本によれば、1Kgの肉を得るのに必要な飼料は鶏の場合は2Kg、豚の場合は4Kg、牛の場合は8Kgがそれぞれ必要なのだそうだ。

だとすると既に崩壊寸前だったソビエトでは、農業生産もあまり上手く行ってなかったから、餌が不足。人間も牛肉よりは豚肉、それよりは鶏肉と我慢してきたのだろうが、遂に餌の必要のない海の魚に目をつけたのであった。

これと逆なのが、最近の中国だと言われる。中華料理のメニューに出てくる肉は殆どが鶏か精々豚だった。それが経済の開放改革で豊かになり、ステーキやマグロといった高カロリーのものを食べるようになった。その結果、糖尿病患者が物凄い勢いで増え、其の方面の医者が足りなくなっているそうだ。


     

2014年08月21日

◆トイレット・ペーパー騒動

渡部 亮次郎


昔、モスクワの迎賓館で、トイレット・ペーパーにはボールペンで字が書けるほど硬かった。そんな話をメイル・マガジンに書いたら、記者の先輩古澤襄さん(元共同通信社常務理事)が、今はそんな事はなくなった、と教えてくださった。

<新聞紙のようなトイレット・ペーパーは古い話。8年前にはブリヤート共和国でお目にかかったのですが、イルクーツク、ハバロフスク、ウラジオストックでも柔らかい紙。ただ、幅が狭い。

3年前に行ったら日本と同じトイレット・ペーパーでした。幅も広くなっていた。韓国から輸入しているとの話。モスクワは、それ以前から柔らかいペーパー。ドイツあたりから輸入しています。何しろ石油や天然ガスを売って、ユーロやドルをふんだんに持っていますから・・・。>

古澤さんは父親をシベリア抑留で失っているので、ロシアへ度々鎮魂の旅をされるから、私の周囲では最もロシア事情に詳しい方である。庶民のトイレがそうならば、迎賓館だもの、字は書けなくなって、目出度し、目出度しでした。

ロシア人は社会主義を放棄して初めて尻の平和を得たと言うわけか。とにかく「紙」と言うものは、扱いが厄介だ。大事、無くてはならない品にして、しかし必ず捨てなければならない物だからだ。社会主義のうちは尻まで面倒みられない? いな、技術が無かった、或いは軍備に追われて、尻に手が回らなかった。


最近の日本では、トイレット・ペーパーなど話題にもならないが、私がNHK大阪放送局に赴任したときだから、昭和48(1973)年夏、田中角栄内閣の下で大阪から「トイレット・ペーパー騒動」が始まった。知らない方も多いだろう。

<日本国内でもっとも広範に広まった流言に、オイルショックによるトイレット・ペーパー騒動がある。

1973年、あるスーパーの宣伝用の広告用紙に(激安の販売によって)「紙がなくなる!」と書いたところから始まった。(確か大阪が初)石油ショックという背景もあり、紙がなくなってしまうことは本当かもしれないということから連鎖的に広まり、マスコミにもとりあげられて全国的に広まった。パニックの火付け役は新聞の投書だとする説もある。


ただこの当時、日本の紙生産は安定しており、実際には生産量自体は同流言飛語が全国的に広まるまで、ほとんど変っておらず、パニックが発生した後は、むしろ生産量増加も行っていた模様である。

マスコミ報道や流言飛語によって不安に駆られ、高値でたくさんのトイレットペーパを買った消費者は、トイレに山積み保管していた。

それまでトイレット・ペーパーは主に特売用商品(消費者を商店に足を向けさせ、客足の増加を見込む)として扱われていたが、この当時は一変して定価どころか倍の値段をつけても売れる程だったという。このため商店は在庫確保に奔走し、結果として問屋在庫すら空になる程だったとされている。

このような連鎖的現象により、最初の内こそ楽観視していた人までもが実際に店頭からトイレット・ペーパーが消えたため確保に走ったといい、小売店では店頭にトイレット・ペーパーが並ぶや否や客が押し掛け、商品を奪い合って殴る蹴るの喧嘩を始める人すら見られた。デパートでは余りの混雑振りにトイレット・ペーパー販売のたびに迷子も多数発生した。>(ウィキペディア)


この頃はまだウォシュレットが全く普及していなかった。某社が試作を始め、高名な女流作家に使ってもらったところ、吹きだしたのが熱湯。作家が火傷をして大怒り、という話が記者仲間に膾炙していたものだ。

<トイレット・ペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。

その当時は皇帝用であった。(非水洗)。

便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセフ・カエティによってつくられた。カエティの名前はすべての紙に印刷された。

トイレット・ペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いていたか、川で排便したか、ぼろ布、かんなくず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。


帝政ロシアでは、部下が皇帝の用いるトイレット・ペーパーに皇帝の刻印を押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所担当の廷臣がいた。

安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎日2人っきりになる好機であるので、影響力を得たいために部下にこの仕事は望まれた。>(ウィキペディア)

地球上のある地域では屋外で用便後、尻に砂を巻き上げて終わり、というところがある。その際使う手は「左手」。だから左手は不浄の手。遊牧を止めて鉄筋のアパートで水洗トイレをどうぞ、と政府が言ってもなかなか入らない、と某産油国の役人がこぼしていたっけ。

日本ではどれもほぼ一定の大きさであって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によってはロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものとなっている。また、これが個室の入口に設置され、必要分を取ってから個室に入るようになっている場合もある。


各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがある。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられている場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。

日本では、昔はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されていたが、水洗便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途のために次の条件を満たす必要がある。

 1..肌に触れて不快感がないこと。最近では2枚重ねのものが増えてきている。

 2.強度があること。使用中に崩れてしまうと不快である。

 3.吸水性に優れていること。

 4.水に濡れると繊維がほぐれること。下水処理が行いやすくする必要がある。また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれないようにしなければならない。

 5.コストが安いこと。消耗品であるので、低コストである必要がある。また再生紙がよく使われる。

この他にも使用者の利便性のためにミシン目などがいれられていたり、芳香を放つような物も作られている。

トイレット・ペーパーには、厚紙で芯を作ってある物と、芯が無く最後まで使いきれるものがある。 芯の無い物は特にコアノンロール等と呼ばれ、環境問題や資源問題などの点から注目されている。

が、芯のあるものにしか対応していないペーパーホルダーも多い。(芯なしの場合、中心一杯まで紙を巻いたものが多く、中心の小さい穴に細い鉛筆のような軸を入れてからホルダーに装着するが、中心部の穴を芯の太さ程度まで大きくして、通常の芯ありホルダーに装着可能なものもある)


静岡県富士市で32%を占める。(2002年)>(ウィキペディア参照)

このところ大変な原油高のためトイレット・ペーパーもティッシュ・ペーパーもかなり値上がりしているが、騒動にはなっていない。大衆が賢くなったせいもあるが、何しろ41年前のオイル・ショックというものが、日本人にとって初めて経験するものだったからだ。

日本各地では公衆トイレからトイレット・ペーパーの持ち去り事件が連発している。犯人は日本人ではないそうだ。誰だ。簡単に推理できる。他人のものも自分のものと主張する国はどこだ。

2014年08月20日

◆「核」が日中開戦を抑止する(68)

平井修一


「中国の挑発は先手を打って食い止めよ」という論考が米国で話題になっていると古森義久氏が報告している(JBプレス8/13)。以下は要約。
         
            ・・・

アジアでの米中関係のこうした(サラミ戦術による中国の進出拡大の)現状に対し、オバマ政権の発想の根本を変える新提案が、7月末にワシントンで公表された。提案したのは、中国研究者のロバート・サター氏である。

サター氏は国務省、中央情報局(CIA)、国家情報会議、議会調査局などの中国関連部門で専門官として中国の動向を調べ、その意味を分析し、米側の対応策の決定に関与してきた。

しかも、民主、共和両党の政権に加わり、政治的にも党派性の薄い専門家として知られる。退官後はジョージタウン大学教授を経て、現在はジョージワシントン大学の教授を務める。

米国政府の各機関で30年以上も中国研究に基づく対中政策の形成に関わってきたサター氏は、米側の中国研究者たちの間でその名を知らない人はいない著名な研究者である。

そのサター氏が今回発表したのは「米国にとってのアジアでの中国問題への対処――中国の弱点を標的とせよ」と題する論文だった。この政策提言はインターネットでまず公表され、まもなく同氏が出版する著書の中で詳述されるという。

*中国の弱点を突いて膨張主義に歯止めを

サター氏は論文の冒頭でまず以下の諸点を強調していた。

・中国は近年、軍事力を背景に、アジアで海洋領有権を少しずつ確実に広げ、米国の信頼性や影響力をサラミを削ぐように低下させ、同盟関係を弱めている。しかしオバマ政権は、日本など米国の同盟諸国の独立、主権、安定への懸念が深まる状況に対して、実効性のある政策をほとんど取っていない。


・中国の「サラミ戦術」の挑発的な行動にただ単に対応するという現在のオバマ政権のパターンは危険かつ不毛だとする意見が、デニス・ブレア元太平洋統合軍司令官、連邦議会の国家安全保障関連の議員たち、他の官民の中国関連専門家たちなどの間で、非常に強くなった。

・これらの識者たちは、米国はこれまでの受け身の対応型の政策を止めて、中国に膨張政策の代償や危険を悟らせるための積極果敢な新政策を採用すべきだとしている。米国のアジアでの影響力を削ごうとすれば必ず反撃や反発を受けることを、中国に自覚させなければならない、という主張が広まってきた。


・中国のこれまでの膨張政策は、米国の弱点を巧みに突くというケースが多かった。それに対して米国側も中国の弱点や欠点を突き、中国の膨張能力を削ぎ、しかもその種の膨張に対して米国から強固な反撃を受けることを中国側に知らしめねばならない。

・米国は中国の弱点を標的とする積極果敢な措置を取る一方、従来の対中関与政策は継続する。中国が米国のアジア態勢を侵害する措置を取った場合、中国にとっての損失や代償、リスクも高くなることを自覚させ、抑止とする。つまり米国も中国同様にポジティブとネガティブをミックスした政策を取るべきである。


*新たな対中戦略の5つのポイント

サター氏はこうした前提を明らかにしたうえで、新たな対中戦略として以下の5つの具体策を提唱していた。いずれの策も大幅な予算増や米国の安全への大きな危険を伴わずに実行できるという。

(1)東シナ海と南シナ海の紛争海域で、米軍の攻撃型潜水艦と弾道ミサイル搭載潜水艦を増強し、頻繁に浮上させて、中国側の艦艇や地上基地への攻撃能力を誇示する。

これら米軍潜水艦は紛争海域で中国軍に探知されずに航行することが可能であり、しかも同海域での有事の際に、中国側の艦艇を一気に壊滅できる破壊力を有している。中国側は潜水艦戦力や対潜能力が米側より大きく劣ることを十二分に認識しており、対応策に苦慮する。

(2)台湾への安全保障関連支援を強化する。例えば、オバマ政権はこれまで拒んできたが、台湾政府が切望するF16戦闘機66機を新たに供与する。

中国は近年、台湾への軍事的優位を強め、国民党政権の親中路線により、台湾問題の比重を減らしてきた。米国が軍事支援を再強化することで、中国は台湾制圧の軍事能力がまだ不十分であることを実感させられる。

同時に米国は、国民党政権の親中姿勢に反対する台湾国内の「ひまわり運動」への支持を表明する。中国に台湾への懸念を抱かせることは、海洋拡張を抑える効果があり得る。

(3)表現の自由などを求める香港での反中抗議運動への強い支持を明示する。香港問題は中国共産党指導部が神経を過敏にする対象である。

香港では、中国の主権を受け入れながらも、共産党独裁による言論の自由、結社の自由などへの抑圧に反対する動きが絶えない。米国政府がその反対運動を強く支援し、ハイライトを当てれば、中国政府は国際的にも不利な立場となる。

香港問題での米国との摩擦は、アジアで挑発的な行動を取ることの代償や危険性を改めて中国指導部に意識させることになる。

(4)危険な軍事挑発を続ける北朝鮮政権を中国が支援し続けることへの非難を強める。北朝鮮の好戦的な言動がアジア全体への脅威となっていることは周知の事実だが、北朝鮮のそうした言動を可能にする基盤として中国の支援が存在する。

中国と北朝鮮の不仲も最近は伝えられるが、基本的な絆は揺らいでいない。この点で中国の「共犯者」としての責任を追及することが、東シナ海と南シナ海での中国の強引な拡張主義を抑制する効果を生み出し得る。 

(5)中国は、在日米軍基地や周辺地域の拠点を標的として、非核の中距離弾道ミサイルを配備している。米国はそのミサイルへの具体的な対応策を取るべきである。

過去20年余、アジアでの中距離ミサイル戦力に関して、中国は米国よりも優位を保ってきた。米国はその状態を放置してきたが、中国のその種のミサイルを破壊する能力を新たに確保する。

米国はそのために、多弾頭の弾道ミサイルを本土、あるいは中国周辺地域に配備する。米側によるこの不均衡の是正は、ミサイル防衛能力の弱い中国への抑止となる。

以上、「潜水艦」「台湾」「香港」「北朝鮮」「中距離ミサイル」と、中国側にとっての欠点や弱点を選び、それらを標的として照準を合わせる攻撃型の戦略である。

これまでの消極的な戦略を積極的な戦略へと変えるという発想であり、こうした発想が表面に出てくること自体が米中関係が新たな局面を迎えた現実の反映だとも言える。 

これらの提案がいずれも日本の安全保障にも密接に絡んでいることは明白である。(以上)

             ・・・

中共・習近平はいつ暴発するか分からない。周辺諸国は準戦時体制で警戒すべきだ。(2014/8/18)

◆真正面からの言葉・教えほど尊いA

眞鍋 峰松


中学時代の先生で、今でもその先生のお顔もお名前も鮮明に記憶しているが、確か、復員軍人上がりの、しかも将校経験のある人であった。 

その先生の授業中で、担当教科に何の関係もない一言が今でも忘れられない。

それは、黒板に大書された「男子、青雲の志を抱き、郷関を出れば・・・・」という言葉。今から思い起こしても、少々時代錯誤的な言葉に聞こえるようだが、間違いなくその後の私の人生に影響を及ぼした言葉であることは事実だ。

最近になって、陳 舜臣氏の著書「弥縫録」の中で、久し振りにその言葉に出逢えた。
  〜青雲の志を抱いて郷関を出る〜といった表現がある。

この場合の青雲の志とは、功名を立てて立身出世しようという意欲のことなのだ。 辞典には、この外に「徳を修めて聖賢の地位に至る志」といった説明もある。 

だが、実際には功名心の方にウェイトがかかっている。「ボーイズ・ビ・アンビシャス! 青雲の志を抱け」というのだ。  

青といえば、すぐに連想されるのが、春であり、東であり、竜である。

東は日の出る方角であり、人生に日の出の時期を「青春」というのは、これに由来している。青は若く、さわやかである。それに「雲」という言葉をそえると、心はずむような語感がうまれる。雲は天の上にあるのだから。若い日の功名心は、まさに天に昇ろうとするかのようである。


流石に、良い言葉ではないか。要は、望ましい教師像として私が言いたいことは、19世紀英国の哲学者ウイリアム・アーサー・ワードの次の言葉に簡潔に表現されている気がする。

        ・凡庸な教師は しゃべる。
        ・良い教師は  説明する。
        ・優れた教師は 示す。
        ・偉大な教師は 心に火を付ける。
                               (完)

2014年08月19日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから36年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には福田総裁再任で協力を得たい総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。外務大臣秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめて
いた。

日中国交正常化は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。

しかし正常化を具体化するための「日中平和友好条約ソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に任命された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えただけのことというのが真相であった。


園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。


あれから36年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。


2014年08月18日

◆私の情報論

前田 正晶


私は在職中の1955年(昭和30年)から実質的に1993年末まで営業を担当し、その中で主要な部分を占め多くの時間を費やしてきたのが情報収集だった。情報とは"information"という言葉出てくるように、何となく諜報機関を思わせるものがあります。

1932年頃だったか、担当した我が国最大の印刷会社の購買担当者に「あなた方流通機構の方々は我々に市況報告をしたがる傾向がある。これは認識不足で、市況を作り出しているのは我々需要家側である。

私が知りたいことは競争相手の動きであり、メーカー側の経営方針であり、世界の変化の状況である」と指摘され、初めて情報には"intelligence" の側面があると知りました。

そこで不見識かも知れませんが、何となく開始したのが業界での交際範囲を広げて方々に顔を売り、情報網を構築することでした。その際に当時の上司からは「話し合っている相手が何気なく語ったことが、こちらにとっては飛び上がるほどの重大な情報であることが間々ある。それと知ったならば、直ちに話し合いを止めて帰社し私に報告せよ。その重大性の判断は私がするが」と指導されました。


また、業界の言わば(私が嫌うカタカナ語ですが)ベテランからは「何か聞き出そうと思ったらメモを取るような愚かな真似をしないこと。全て記憶力で勝負せよ。要するに聞き上手になれ」とも教えられました。何れも重要な情報収集のテクニックだと思うのです。とは申せ、私はその頃から熱心に情報収集活動をしていた訳ではなく、他人様から話を聞く(聞ける?)ことを楽しんでいた側面もありました。


その間に解ってきたことは「情報収集活動は何処までいっても所謂「ギブ・アンド・テーク」(give-and-take=持ちつ持たれつ?)である点でした。何かを得るためには時には「肉を喜んで提供し、骨を奪う」くらいの覚悟が必要だったということでした。

次ぎに重んじたことはアメリカの会社で痛感した「伝聞をそのまま伝えるのではなく、自分で十分に消化・咀嚼して、自分の意見を加えて報告するというか提供すること」でした。単純な例を挙げれば「業界新聞の特ダネかも知れないことを伝えるようなやり方は情報提供でも何でもない」とでもなるでしょうか。


上記の「自分で消化・咀嚼して」は1995年からお手伝いした紙パ業界の専門出版社の社長と意見を交換した時に主張して「私は常に当社の記者たちにその点を心掛けよ。記事はそうしてから書けと指導している」と賛成されました。これは偉そうに言うことではなく、単なる基本だと思っております。


もう一つ忘れてはならない重要なことは「自分の独自の情報網を築き上げて、これに関連することは何処の誰にその場で電話しても聞き出せる次元にまで持っていっておくこと」でした。

これに関しては、日本の会社からアメリカの会社に変わって原料の分野に出た時には、如何に速く情報網を築くかに注力しました。結果的には各分野で作った情報網は何処に行っても役に立ったということでした。

最後に書き物にしにくい点があります。それは如何にして「良き聞き手になるか」でした。ここには勿論「ギブ・アンド・テーク」の技法もありますが、意外だったのはテレビ番組で(見たくもないグループの)エクザイル(EXILE)の一人が、語りかけている相手が微動だにせず熱心に聞いていた時に「話し辛い」と悲鳴を上げたことでした。

実は、私は生まれつき(?)ジッとしていられないので、話し合っている間に同じ姿勢を2分も維持できないのです。それかあらぬか、屡々「何故貴方にこんな事まで語ってしまうのだろうか。不思議だ」と言われたほど「そこまで他社の私に語って良いのですか」と言いたくなったほど社外秘かも知れないと思う事柄を聞かせて貰ったことがありました。



2014年08月17日

◆岩手?の偉人東條英機

渡部 亮次郎


岩手のNHKに記者として在勤中(1960-64年)、ほぼ県政を担当したが、県の幹部も県議会の幹部級も「東條英機は岩手県人」と言って譲らなかった。

原 敬(歴代19代)、斉藤實(30代)、米内光政(37代)。それに東條(40代)も岩手だと言うのだった。しかし父親は岩手人だが、本人は東京生まれの東京育ちだ。今になってみれば、その後、鈴木善幸が総理になった。岩手出身の総理はやはり4人だからいいじゃないか。

東條はアメリカとの戦争を始めた総理大臣で、敗戦後その責任を戦勝国に問われて極東軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられた。

その後何年もしてから靖国神社に合祀されていることが分って、さらに何年もしてから中国、韓国が「戦犯を祀っている靖国神社に総理大臣が参拝する事は許されない」と騒いで、若い人でも耳にするようになった名前である。

インターネットで「大日本帝国陸海軍資料館長」と言う方が「東條英機陸軍大将について」として東條の事績を詳細に記録しておられる。
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/toujou-memo.htm

これによると東條は、明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第1期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の3男(2人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生した。

因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條の三男である東條俊夫元空将補によると、次のような事情があったためだ。

本籍は既に東京に移していたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、英機も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していた。

このため、「東條は岩手出身」であると言われていたそうだ。いわば周囲の勘違い、といったらそれまでだが、「偉い人」を身びいきするのはどこにもあることで、岩手の人たちも東條が偉かったうちは身びいきし、戦犯になったら、無情な人たちはあれは本籍は岩手に無かったといいたいのだろう。


<東條と不仲で東條に予備役にされた山形出身の石原莞爾は戦後、盛岡に講演に来て「東條はご当地の出身」とわざわざ揶揄したと伝えられている・・・これは誤っています。

昭和16年の陸軍異動で東条陸相は、京都師団長だった石原莞爾中将を解任、予備役に編入したのですが、これを契機にして石原は東亜連盟顧問として活動します。昭和17年9月14日に盛岡に招かれ、東亜連盟主催の講演会で講演しました。

石原は開口一番「諸君は内閣総理大臣東条英機なる男を同郷の先達と誇っておられるようだが、これは大きな誤りで、東条の先祖はそもそも」・・・ここで臨監の警官が立ち上がって「弁士、注意!」。

だが石原は「東条は盛岡出身でない。彼の先祖は江戸からの流れ者。風来坊の一芸人で南部藩の出ではない」とやって「弁士、中止」となった。古津四郎氏の「同郷の将星たち」に詳しく出ております。

「陸軍の異端児 石原莞爾」を書いた小松茂朗氏も、盛岡講演会で「あの東条という男は、盛岡の本当の市民ではない。祖父が能役者で・・・」と石原発言を書いています。揶揄どころか師団長を首になった憎しみが露骨。

東条の出生は明治17年12月30日とされていますが、これは戸籍上の届け出。実際には7月30日生まれで、本籍は岩手県。長男と次男を亡くしていた東條英教が、英機を里子に出したためだといいます。東條英教の陸軍中尉説と大尉説が分かれるのも、これが理由のようです。>(この項、古澤襄氏のご指摘)。

東條英機少年は、城北中学校から東京地方幼年学校に入り、陸軍中央幼年学校を経て明治37年6月陸軍士官学校に入校、翌38年3月陸軍士官学校を360人中10番の優秀な成績で卒業した。

明治42年4月11日、当時日本女子大学国文科の学生だった伊藤勝子(かつこ)と結婚、同44年には長男英隆が誕生している。

次男の東條輝雄はゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1(輸送機)の設計に携わった有能な技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。

他に三男東條敏夫、長女東條光枝、次女東條満喜枝、三女東條幸枝、四女東條君枝らの子がいた。家族の殆どが軍閥であり日本最大の軍閥名家でもあった。 A級戦犯分祀に強硬に反対し続ける東條由布子は孫(英隆の子)。

アメリカ軍は残酷なことをする。東條ら7人の絞首刑執行を日本の皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日の1948年12月23日にした。

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬にされた。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

しかし、小磯国昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺の住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画して成功した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。

回収された遺骨は全部で骨壷1つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。

1958年には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

靖国神社へのA級戦犯合祀が問題になった際、木村兵太郎陸軍大将の妻で、処刑されたA級戦犯の遺族の会である白菊遺族会の会長でもあった木村可縫夫人らがA級戦犯分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。

一方、東條家の墓所である。元共同通信社常務理事の古澤襄さんの調べによると、東條家の墓は岩手県盛岡市大慈寺町1の5の曹洞宗・久昌寺にある。

墓石には「東条英・・・」と刻まれているが、後の字が風化して読み取れない。裏側には「明治10年2月18日没」とあるから英教の母、英機の祖母のものだろう。他の刻字は、やはり風化していて読みとれないとか。

久昌寺は享保14年の盛岡大火(1932戸全焼)で罹災して、過去帳を焼失しているが、2月18日没の人物については過去帳が現存していて、戒名が本照院現安妙大姉、在世年数が41年8ヶ月、続柄が妻、戸主が東条英俊とある。英俊も南部藩士。

東条英機の墓は東京にあるというが、骨は無いのだから遺髪か何かが納められているのだろう。

東条家の先祖は江戸の能楽師だったという。28代南部藩主・重直が江戸で能楽宝生流に凝って、宝生流わき方の能楽師を盛岡に連れ帰ったとされている。

この能楽師が非凡な人物で、南部の窮状を見てとり、芸を捨てて武士となり重直に仕えている。爾来、「英」の一字を子孫に伝えて、英勝、英正、英照、英俊と代を重ね、英教は6代目。東条英機は7代目に当たる。

英教は盛岡中学(現在の盛岡一高)の出身。明治陸軍の建軍で功労があったプロイセン(ドイツ)のメッケル少佐の愛弟子であった。

陸軍大尉(東京・青山連隊)の時に英機が生まれた。東京生まれの東京育ち。それなのに岩手出身とされた事情は既に述べた。

古澤さんは<東條は私の母校・東京府立四中の1年修了で、陸軍東京幼年学校に入学している>と結んでいる。
文中敬称略。007・04・22。参考:フリー百科「ウィキペディア」


◆初代「安全保障法制担当相」は誰?

峯 匡孝


安倍晋三首相(59)は9月第1週の内閣改造にあわせて「安全保障法制担当相」を新設する。7月1日の集団的自衛権の行使容認に向けた閣議決定を踏まえ、必要な法整備を担わせるのが狙いだ。自民党内では、初設置となる安保担当相をめぐり、複数の議員の名前が取り沙汰されている。

■求められる答弁能力

首相は安保担当相起用の条件として「安保法制の整備は国民の理解が第一であり、丁寧で分かりやすく説明できる能力を持った人」と述べている。

政府は一連の関連法案を一括して来年の通常国会に提出する構えだ。国会審議では、行使容認に反対する一部野党の追及に理路整然と反論し、「徴兵制につながる」「米国の戦争に巻き込まれる」といった歪曲(わいきょく)された批判をはね返す力が求められる。

つまり、集団的自衛権の行使容認の意味は、日本が紛争に巻き込まれないための「抑止力」であるということを国民に理解させる能力だ。

そこで名前が挙がるのが、自民党の石破茂幹事長(57)だ。元防衛相の石破氏は政界随一の安保政策通で、行使容認を議論した与党協議会のメンバーでもある。

だが、石破氏は首相からの安保担当相就任の打診に難色を示したとされる。首相が石破氏を閣内に取り込み、次の総裁選に向けた動きを封じ込めようとしていると見て、石破氏周辺が自重を促しているためともいわれる。

与党協議会の座長を務めた高村正彦自民党副総裁(72)も外相や防衛相時代に「スーパー政府委員」と呼ばれ、国会答弁は安定している。弁護士でもあり、法理に明るいが、産経新聞のインタビューで、自身の就任は「ない」と明言している。

■中谷氏を推薦

石破氏が自身の就任の代わりに推挙したのが、中谷元・元防衛庁長官(56)だ。元陸上自衛隊員で与党協議会のメンバーも務めた。石破氏は「安保法制にも詳しく適任だ」と推薦した。

党内では、同じく与党協議会に参加し、「防衛計画の大綱」や「中期防衛力整備計画」の改定に向けた党内議論を引っ張ってきた岩屋毅安全保障調査会長(56)の名前も挙がる。

今回の閣議決定に深く関わった礒崎陽輔首相補佐官(56)も安全保障法制に通じている。総務官僚出身の礒崎氏は安全保障・有事法制担当の内閣参事官を務め、首相補佐官としても、国家安全保障会議(NSC)創設、国家安全保障戦略(NSS)策定、集団的自衛権の行使容認に向けた議論について、政府と与党の調整役を務めた。


だが、礒崎氏については、安倍首相自らが他の補佐官とともに留任させる考えを既に表明している。

自民党内には、小野寺五典(いつのり)防衛相(54)の安保担当相兼任も取り沙汰されている。ただ北朝鮮や中国といった日本を取り巻く安全保障上の脅威に迅速に対応するため防衛相は危機管理に専従させべきだとの見方もあり、首相の判断が注目される。

小野寺氏を防衛相として留任させるかどうかも内閣改造のポイントの一つだ。日米両政府は年末までに、自衛隊と米軍の役割分担を定める「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を再改定する。

この作業には、日本政府が7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認や、有事に至らない「グレーゾーン事態」への対処などが反映される見通しで、これまでチャック・ヘーゲル米国防長官(67)と良好な関係を築いてきた小野寺氏を敢えて変える必要があるのか、思案のしどころとなるためだ。


仮に小野寺氏が防衛相を外れるとしたら、その後任には岩屋氏や今津寛元防衛副長官(67)、江渡聡徳前防衛副大臣(58)らの起用が党内ではささやかれている。
産経ニュース2014.8.16

       

◆岡晴夫 糖尿病の犠牲者

渡部 亮次郎


昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前昭和14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

本名 は佐々木辰夫  1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、日千葉県木更津市で育った。死没 1970年5月19日

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをしながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはなかった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれず糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバックだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳なのに。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たす。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。


   

2014年08月16日

◆情報は入手方法さえ

渡部 亮次郎


「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠)

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。


「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。(だが古澤さんは入院し花岡さんは亡くなられて私は落胆している)。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。其の岩見さんも亡くなった。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。(福島さんはその後、フリーになられた)。


現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だが英語に堪能、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。


元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。
                           09・04・13


   

2014年08月15日

◆ジョン・レノン空港

渡部 亮次郎


<リバプール・ジョン・レノン空港 (Liverpool John Lennon Airport)は、イギリスのリバプールにある空港である。


が、リバプール出身の偉大なアーティストであるジョン・レノンを称えて、2002年「リバプール・ジョン・レノン空港」という名称に変わった。

空港内にはジョン・レノンの銅像が建つ。また空港のロゴには、彼の曲である「イマジン」の歌詞の一節“above us only sky”が使われており、この歌詞は空港の屋根にも書かれている。

近年、ヨーロッパの空港の中でも格安航空会社の乗り入れによって発展している空港の一つであり、1998年から2007年の間に乗客数は約7倍になっている。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若い頃、と言っても40は過ぎていたが、ニューヨークのダコタ・アパートに住んでいたレノン夫妻を訪ね、イタリア街のレストランでご馳走になったことがある。

案内してもらった友人の加瀬英明氏(国際問題評論家)がレノン夫人のオノ・ヨーコさんと従姉弟だから出会えたのである。加瀬氏の母上とヨーコさんの父上が兄妹だった。

それまでの私はビートルズもジョン・レノンもまるで知らなかった。NHKは前田義徳(よしのり)会長の一声で長髪青年を番組から締め出した時代。わたしもまた、政治記者としてニュース以外の番組を見る暇はなかったから、ジョン・レノンは知らなかった。

古い、と言うか重厚なアパートがダコタ・アパート。薄暗くしてあるのは上品なたたずまいの演出とか。エレベータの扉が開いたらレノン氏が待っていた。長髪。

ロビーに幾つもの三角テントを張り、一人息子のショーンとうずくまっていた。何とかのエネルギーが身体に宿って丈夫になれると言っていた。「よくいらしてくださいました」とヨーコさんはにこにこ。

勿論、私も英会話の個人授業を受ける以前の時代だから、会話はすべて加瀬氏の通訳。

「僕は今、音楽活動を休んで主夫としてショーンの養育に専念している」と自己紹介。「僕の発音が叫んでいるようで、可笑しいでしょう。これは生まれたリバプールというところが坂のきつい港町。坂を登ってくる海風もまたきつい為、皆、叫ぶようにして喋らないと通じないんだ、だから大人になってもこういう発音は直らないんだ」とも。

「それじゃ出かけようか」となって下へ降りたら玄関でリムジン(大型高級ハイヤー)が待っていた。

案内されたところはイタリア街の小さなレストラン。勿論馴染の店なんだろう。ふと気づくと、ファンと思しき若い男女が大勢、レストランを取り巻いていた。

イタリア街というところは中華街に接し、「決して上品一点張りというわけではないが、とにかく料理が美味しいんだ」と薦めてくれる。ワインもじゃんじゃん。

食事の後、ヨーコさんを先に帰し、私たちを市内の印刷所に案内した。間もなく来るヨーコの誕生日。シルクのスカーフを一枚、印刷してプレゼントする。そのためにこの印刷所を買収したのだ、と。

何しろヨーコはモナリザにそっくりだろう、とヨーコさんの顔を印刷したスカーフ。その試し刷りを繰り返していた。

それから2年。レノンはリムジンの待っていたあの玄関で狂人に射殺されてしまった。

<レノンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」などの根拠に欠ける陰謀説も持ち上がったが、その後の捜査により現在は単独犯行として結論づけられている。

しばしば犯人は「レノンの熱狂的なファン」と言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったとされ、また一種の精神疾患的な症状があり、現在この説は疑問視されている。>(ウィキ)

2014年08月14日

◆他人に教える難しさ

渡部 亮次郎


日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれ ば田舎弁を覚える。私の英語はアメリカ訛りで日本語は秋田訛りだ。アメ リカ語は50を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究が あるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋 田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留 学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語 を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できな かった。

アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だっ た。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではな い、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3 日ぐらい分からなかった。

日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさ しの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、 わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。し かも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思 うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日 米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカ のパートナーである教育省は共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭う から力が無い。

私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが会議はしばしば地下室で開 かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さずカネを出し渋るから である。

最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことから しても日本における英語教育の責任は教師一人ひとりの肩に架かっている と言わざるを得ない。

英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということでもある。ただ英語 教師に願いたいのは、生徒に対して、君たちになぜ、今、英語を習わせる のかを最初に説明してやってほしい。「今のあなたの頭脳は柔軟で英語を 覚えやすいから」と。(わたなべ りょうじろう 1936年1月生まれ NHK 政治記者約20年 外相・厚相秘書官約5年 社団法人日米文化振興会理事 長17年。 最後は日本健康医療専門学校校長7年。 78歳。