渡部 亮次郎
西条八十は早稲田大学仏文科の教授でありながら、童謡「歌を忘れたカナリヤ」から「とんこ節」「芸者ワルツ」まで数多くの作詞を通じて日本の歌謡界に君臨した粋人である。
文末にリストを掲載しますが、戦前、戦中、戦後と筆者が歌わなかった歌はないくらい、歌謡界に尽力している。それでいて本人は音痴だったと子息らは明かしている。
「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)の作詞をデパート社長から依頼された宴席でのこと。「なんですか、最近の歌は。とんこ節、なんて下品なんでしょう」と社長。「あれは私の作品です」。
それは失礼しました。それよりひどいのは芸者ワルツですと社長が嘆けば八十「あれも私の作詞です」と。結局「有楽町で逢いましょう」は弟子の佐伯孝夫が担当した。ちなみに作曲はシベリア抑留帰り「異国の丘」の吉田正。
「トンコ節(昭和24年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政雄
唄:久保幸江・加藤雅夫、
あなたのくれた おびどめの
達磨の模様が チョイト気にかかる
さんざ遊んで ころがして
あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコトンコ
言えばよかった ひとことの
何故に言えない 打明けられない
バカな顔して また帰る
恋は苦しい おぼろ月
ネー トンコトンコ
こうしてこうすりゃ こうなると
知りつつこうして こうなったふたり
ほれた私が 悪いのか
迷わすお前が 悪いのか
ネー トンコトンコ
ゲイシャ・ワルツ 昭和27年(1952年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:神楽坂はん子
(一)
あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスのなやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ
(二)
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか
(三)
あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体
(四)
気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し
戦時中は「軍歌」も多く作詞した。
若鷲の歌
作詞 西条八十
作曲 古関裕而
歌手 霧島 昇
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く
燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み
仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない
生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい
西條 八十(さいじょう やそ 1892(明治25)年1月15日 ー 1970(昭和45)年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。
親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しい。
東京府出身。1898(明治31)年、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。
吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。
早稲田大学在学に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。
後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。
象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。
王将は作詞、作曲 船村徹、歌 村田英雄の3人とも将棋を全く指せなかった。
また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。
名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。
天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。
森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、4度製作放映された(2009年8月現在)。
1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。
担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。
主な著作
『西條八十全集』 (全17巻 国書刊行会刊 1991年-2007年)
『西條八十著作目録・年譜』 (中央公論事業出版 1972年)
同刊行委員会、西條八束編
研究書・著作
『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社 1967年)
『西條八十自伝 唄の自叙伝』(人間の記録29:日本図書センターで再刊、1997年)
『女妖記』(中公文庫で再刊 2008年) 自伝的小説集
詩集(象徴詩・純粋詩)
『砂金』(1919年、自費出版)(復刻:日本図書センター、2004年)
『見知らぬ愛人』(1922年)
『美しき喪失』(1929年)
『一握の玻璃』(1947年)
詩集(その他)
『空の羊』
『少女純情詩集』 (国書刊行会で復刻、1984年)
『水色の夢』
『西條八十詩集』 (角川春樹事務所:ハルキ文庫で再刊、2004年)ISBN4758430942
訳詩集
『白孔雀』(1920年)
『世界童謡集』 水谷まさる共訳 (冨山房百科文庫で再刊、1991年)
『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
『水たまり』
『西條八十 名作童謡西条八十…100選』上田信道編 (春陽堂書店、2005年)
歌謡曲(流行歌)
『当世銀座節』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年)
『お菓子と娘』(作曲:橋本国彦、1929年)
『東京行進曲』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『鞠と殿さま』(作曲:中山晋平、歌唱:平井英子、1929年)
『愛して頂戴』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『唐人お吉の唄(明烏編)』(作曲:中山晋平、歌唱:藤本二三吉、
1930年)
『アラその瞬間よ』(作曲:中山晋平、歌唱:藤野豊子1930年)
『この太陽』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)
『女給の唄』(作曲:塩尻精八、歌唱:羽衣歌子、1931年)
『侍ニッポン』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)、1931年)
『ルンペン節』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?、(たまき)1931年)
『わたしこの頃変なのよ』(作曲:町田嘉章、歌唱:四家文子、1931年)
『銀座の柳』(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)
『天國に結ぶ戀』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)・四家文
子、1932年)
『涙の渡り鳥』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小林千代子、1932年)
『東京音頭』(作曲:中山晋平、歌唱:小唄勝太郎・三島一声、1933年)
『佐渡を想えば』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)
『サーカスの唄』(作曲:古賀政男、歌唱:松平晃、1933年)
『来る来るサーカス』(作曲:古賀政男、歌唱:淡谷のり子、1933年)
『十九の春』(作曲:江口夜詩、歌唱:ミス・コロムビア(松原操)、1933年)
『祖国の護り』(作曲:村越国保、歌唱:小野巡、1934年)
『勝太郎子守唄』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)『花言葉の唄』(作曲:池田不二男、歌唱:松平晃・伏見信子、1936年)『戦友の唄』(『同期の桜』の元歌、作曲:大村能章、歌唱:樋口静雄、1938年)
『旅の夜風』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・ミス・コロムビア、1938年)
『悲しき子守唄』(作曲:竹岡信幸、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)
『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)
『東京ブルース』(作曲:服部良一、歌唱:淡谷のり子、1939年)
『純情二重奏』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・高峰三枝子、1939年)
『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)
『春よいずこ』(作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎・二葉あき子、1940年)
『お島千太郎旅唄』(作曲:奥山貞吉、歌唱:伊藤久男・二葉あき子、1940年)
『熱砂の誓い(建設の歌)』(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)
『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)
『愛馬花嫁』(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・菊池章子・渡辺はま子、1940年)
『そうだその意気』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)
『高原の月』(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)
『若鷲の歌』(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・波平暁男、1943年)
『風は海から』(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)
『湖畔の乙女』(作曲:早乙女光、歌唱:菊池章子、1943年)
『麗人の歌』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)
『悲しき竹笛』(作曲:古賀政男、歌唱:近江俊郎・奈良光枝、1946年)
『旅の舞姫』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)
『三百六十五夜』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)
『恋の曼珠沙華』(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)
『トンコ節』(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1948年)
『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)
『花の素顔』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)
『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
『赤い靴のタンゴ』(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)
『越後獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)
『角兵衛獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
『こんな私じゃなかったに』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『娘十九はまだ純情よ』(作曲:上原げんと、歌唱:コロムビア・ローズ、1952年)
『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『丘は花ざかり』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)
『伊豆の佐太郎』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1952年)
『ひめゆりの塔』(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)
『哀愁日記』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)
『白鷺三味線』』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)
『ピレネエの山の男』(作曲:古賀政男、歌唱:岡本敦郎、1955年)
『この世の花』(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
『りんどう峠』(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)
『娘船頭さん』(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)
『別れたっていいじゃないか』(作曲:上原げんと、歌唱:神戸一郎、1956年)
『しあわせはどこに』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)
『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
『絶唱』(作曲:市川昭介、歌唱:舟木一夫、1966年)
『夕笛』(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)
『芸道一代』(作曲:山本丈晴、歌唱:美空ひばり、1967年)
『乙女はいつか星になる』 1972年、ツームストーンズの歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。
西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に「西条八十生誕100周年記念曲」として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。
「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。
小説
1924年(大正13年)3月「少女倶楽部」読みきり『はかなき誓』から、1960年(昭和35年)11月「なかよし」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。
『人食いバラ』 ゆまに書房で復刻、2003年、解説唐沢俊一
校歌
「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品に
『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
『横浜市立大学校歌』
『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
『藤沢市立藤沢小学校校歌』
『富山県立富山中部高等学校校歌』
『茨城県立下館第一高等学校校歌』
『富山県立桜井高校』
『日出学園(千葉県)園歌』
『姫路市立琴丘高等学校校歌』
『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
『高岡市国吉小学校校歌』
『北海道立北海道池田高等学校校歌』
『小松島市立小松島中学校校歌』
『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
『練馬区立石神井東小学校校歌』
『私立桜丘中学・高等学校校歌』
『平和生命保険株式会社 社歌』
未収録作品には、
『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)
軍歌
『若鷲の歌』
『同期の桜』
『戦友の唄(二輪の桜)』
『桜進軍』
『比島決戦の歌』
『決戦の大空へ』
『乙女の戦士』
『そうだその意気』
『祖国の護り』
?『学徒進軍歌』
『ああ梅林中尉』
(「ウィキペディア」)