2014年05月03日

◆和歌に登場する京都山科

渡邊 好造


百人一首など平安、鎌倉時代の和歌集に登場する山科の代表地は、「これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」と、蝉丸が詠んだ"逢坂の関"である。

清少納言や藤原定方ら有名歌人もこの地を取上げているのは以前に紹介した。行政的には隣の滋賀県大津市になるが、現地に立ちその地形をみれば山科エリアだと十分頷けるはず、、。

今回はそのすぐ隣りの"音羽山"など、和歌に詠まれた古都京都の奥座敷、山科の優雅な雰囲気を感じとっていただきたい。
 
音羽山は高さ593メートル、逢坂の関の南西、山科四ノ宮の南東に位置し、山科盆地を囲む山の一角にある。音羽山が登場する和歌として有名なのは次の2首。

紀貫之(平安時代の歌人・土佐日記の作者・原典は古今集)= 「秋風の吹きにし日より音羽山 峰のこずえも色づきにけり」。

貫之の従兄弟にあたる紀友則(歌人・古今集)= 「音羽山けさ越えくれば時鳥 梢はるかに今ぞ鳴くなる」。

逢坂の関と音羽山の両方を詠んだ和歌も多い。

代表例をあげると、、

・源実朝(鎌倉幕府3代将軍・金槐集)=「逢坂の関やもいづら山科の 音羽の滝の音にききつつ」。

・後鳥羽院(鎌倉時代第82代天皇・原典不明)=「逢坂の関の行き来に色変わる 音羽の山のもみぢ葉」。

・源俊頼(平安時代歌人・金華和歌集)=「音羽山もみぢ散るらし 逢坂の関の小川に錦織りかく」。

・慈円(慈鎮・鎌倉時代天台宗の僧・原典不明)=「音羽山卯の花垣に遅桜 春を夏とや逢坂の関」。

・在原元方(平安時代歌人・古今集)=「音羽山音にききつつ 逢坂の関のこなたに年をふるかな」。

この他、当時の和歌集には小野、花山(かざん)、栗栖野、日の岡といった山科の地名が、いくつも登場する。

・藤原権中納言長方(平安時代公家、歌人・続古今集)=「見渡せば若菜摘むべくなりにけり 栗栖の小野の萩の焼原」。

・後鳥羽院(平安・鎌倉時代の天皇・夫木和歌抄)=「秋はけふくるすの小野のまくずはら まだ朝つゆの色ぞにほひぬ」。

・藤原定家(鎌倉時代公家、歌人・定家の歌集拾遺愚草)=「花山の跡を尋ぬる雪の いろに年ふる道の光をぞみる」。

・土御門院(鎌倉時代の天皇、後鳥羽天皇の皇子・続古今集)=「はし鷹のすすしの原 狩りくれて 入り日ノ岡にききす鳴なり」。

和歌に登場する1千年程前の山科の眺望は想像し難いが、現在の山科の絶景はと問われたなら筆者は次の3つを挙げる。

@ 東山ドライブウエー将軍塚辺りから見下ろす京都中心部の眺望(京都タワーは目障りだが、、)。

A 山科疎水道からの山科の展望(写真・左にJR琵琶湖線、白い土手の右下は京阪電車京津線、後方は東山連峰)。

B 音羽山から眺める東山連峰に沈む夕陽。

夕陽については、朝陽のような眩しさや暑さを感じさせないのでじいっと見つめるうち、両手を合せてつい願い事を呟きたくなる。

平安・鎌倉時代の歌人達が眺めた山科の夕陽は、三方を山に囲まれた盆地にあって、今とはまったく異なる自然が一杯の目を見張らせる光景だったはずだが、各種の資料をひっくり返してもこの夕陽を詠んだ和歌は発見できなかった。

京都古人、宮廷人、天上人の視点は、大地、天空、山脈、天下の情勢、庶民生活などを大きく広く見渡すことよりも、恋人、愛人(不倫)、片想い(失恋)、鳥、植物など目前の夢の世界にのみ向けられているかにみえる。

こうした天上人のお気楽な暮らしぶりに対し不満がくすぶり、やがては積重なって鎌倉時代以降の武家社会へと変革していく、そうした様が和歌には窺える。(完)

2014年05月02日

◆ビッグ3が煽った反捕鯨

渡部 亮次郎


アメリカの自動車メーカー「ビッグスリー」こそは日本等の望む捕鯨に対して、資金を出して反対運動を煽った元凶である。排気ガスに対する反対運動に正面から向き合うことを避け手方向を間違えた事が今日の危機を招いたのだと思うと、ビッグ3の救済問題には複雑な陰がある。

このことについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も指摘している。

<この問題は一時期、欧米諸国の自然保護団体を始め、彼らに同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、日本人に対しての人種偏見や反日運動ジャパンバッシングなどの一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。>

1970年代から80年代の前半にかけて私は園田直(故人)の下で外務大臣や厚生大臣の秘書官として、捕鯨反対運動に直面した。ワシントンDCでは外務大臣一行の車列にデモを掛けられたことがあり、担当の経済局幹部は欧州での国際会議で反対グループに生卵をぶつけられたりもした。

そこで私はワシントンに留まって背景を詳しく調査してみた。その結果、驚く べき事実が判明した。ビッグ3が、自らに向けられた公害問題とくに排気 ガスの排出責任を追及するラルフ・ネーダー主導の反自動車運動とも言え る消費者団体の攻撃を一時的に回避するため、彼らに莫大な資金を提供 し、運動のうねりを捕鯨反対に向かわせて煽ったのである。

その結果、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同様の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブーとする意見が高まるなど資源としてのクジラ問題を離れた問題に捻じ曲げられる結果になった。このため捕鯨問題は感情問題に発展し、解決を一層難しくしている。

最近、反捕鯨の運動にも参入しているグリーンピースやシーシェパードといったNGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブル、特にシーシェパードの暴力的な示威活動。

日本国内の世論の多数は捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、他国による自国文化への干渉に対するナショナリズム的な反応として反捕鯨を非難することが多い。

今でこそビッグ3と反捕鯨は無関係だが、ビッグ3は反捕鯨運動に資金を投入するよりは低燃費や小型車の開発に頭を切り替えるべきだったのに、遠い将来を考慮できないアメリカ式経営としては止む を得なかったのだろう。

一方、オーストラリア政府は牛肉の輸出量の減ることを恐れての捕鯨反対運動支援である。

2014年05月01日

◆2度敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎


公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下から勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるようになった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道され、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認められない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパートで夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことなどを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしているのは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去ったなどの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合されていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」と請求を棄却。矢野は控訴した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコントロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立て手てからおかしくなった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行きとなっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・26

◆中国で糖尿病患者が急増

〜30年で10倍〜
渡部 亮次郎


2012年3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。環球時報(電子版)が伝えた。

この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しきれていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセット」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦しむ人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%から、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さらにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をしのぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられている。(翻訳・編集/NN)Record China2012年04月06日10時09分

主宰者の体験によれば、一般的な中国料理で使われる「肉」はせいぜい鶏肉か豚肉でしかないところが経済が資本主義化して懐が豊かになるに従い豚肉の何倍もカロリーの高い牛肉を多食するようになった。つまりカロリー過多による糖尿病患者が多発するようになったのだ。

加えて糖尿病に詳しい医者が極端にすくない。

そんな状態にも拘らず庶民は医学知識のないまま「過食」に走る。中国の糖尿病患者はこれから増えることはあっても減ることはありえない。

私が学んだところでは糖尿病で死ぬことはまず無いが、おきる合併症で死ぬ。脳卒中、腎不全など。それに眼底出血放置による失明もこわい。なお、高血糖で死ぬことは殆ど無意が、極端に血糖値が低下すると失神し、放置するとそのまま死ぬ。私は中国旅行中、低血糖失神を2度経験した。

其のときは幸い友人が手当てしてくれて助かった。だが友人は、その後自分も糖尿病患者であることを自覚しながら何の手当てもしてなかったので脳梗塞を起こして急死した。

2014年04月30日

◆発送電分離、インフラに不安

橘川 武郎


−−エネルギー基本計画が閣議決定された

「高速増殖炉原型炉『もんじゅ』の役割見直しや、石炭火力発電の位置づけを高めるなど、個々の項目では従来の基本計画より踏み込んだ。一方で、ベストミックス(最適な電源構成)の明示が見送られたため、方向性は分かってもボリューム感が分からない不十分な内容に終わった。全体として『木を見て森を見ず』という印象は否めない」

−−基本計画では原発の活用方針が示された

「多くの国民は『当面は原発を活用せざるを得ない』との考えだろうが、再稼働に向けたプロセスの不透明さが反感を招いている。しっかりと説明するのが政治の責任だ。

また、原子力規制委員会が進める原発の安全審査が見通せないとして、ベストミックスを決められないという理屈もおかしい。原発の推進と規制を分けるために規制委がつくられたわけで、その判断とは切り離してエネルギー政策のあるべき姿を考えるべきだ」

−−再生可能エネルギーの導入拡大に向けた課題は

「当面は固定価格買い取り制度の効果で順調に伸びるが、送電線の整備が進まなければ導入に歯止めが掛かる。例えば、政府が力を入れる洋上風力発電も送電線をどう引くかが問題で、これは再生エネ導入で先行するドイツなどが直面している課題だ。民間事業者で解決できなければ国による支援が欠かせない」

−−電力システム改革に対する懸念は

「電力大手の発電と送配電部門を別会社にする『発送電分離』は、日本の良質な送電網を毀損(きそん)する恐れがある。競争で電力大手の経営に緊張感を与えることは結構だが、電力会社の高い現場力を損なうようなことがあってはならない」(一橋大大学院教授)
産経ニュース【政策を問う】  2014.4.29

                   ◇

【プロフィル】橘川武郎

きっかわ・たけお 東大経済学部卒、東大大学院博士課程単位取得退学。
昭和62年青山学院大経営学部助教授。東大社会科学研究所教授などを経て
平成19年から現職。62歳。和歌山県出身。

◆M・サッチャーの登場

渡部 亮次郎


マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語: Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日〜 )は、イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任:1979年 ―1990年)。

5月4日は首相就任記念の日である。就任直後、表敬する園田直外務大臣に随行して首相官邸を訪れた。煙草を吸っても灰皿を出してくれないので弱った。それを機に私は禁煙して今日に至っている。

彼女が極端な煙草嫌いであることを知らなかった私が悪かったのであり、その業績は尊敬している。

「ウィキペディア」によれば、首相退任後は1992年から貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)あるいはアッティラ(Attila the Hun)の異名を取った。

首相退任後の2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載した。

それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている。現在は表舞台には姿を見せていない(2013/4/8死去 87歳)。

1925年、リンカンシャー州グランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

父・アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。

大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革(所謂サッチャリズム)の源流になった。

下院議員 [編集]1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選。翌1951年には10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「ミルク泥棒」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ(現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した。

皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。

仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった。

選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。

1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣した。

多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。

この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。

イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。

フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。

1990年の党首選では苦戦。結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。

2012年12月21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた。

2013年4月8日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。87歳没。

2014年04月28日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だった。「それが70過ぎまで来れたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫子ら一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけた。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無かったそうで、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に親友を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

ウィルス性肝炎とは肝炎ウィルスが原因の肝臓の炎症性疾患のことを指す。急性肝炎と慢性肝炎および急性肝炎の劇症化した劇症肝炎に分けられる。

現在知られているウィルス性肝炎には以下のものがある。
A型肝炎  B型肝炎  C型肝炎  D型肝炎  E型肝炎  F型肝炎
G型肝炎  TT型肝炎

このうち、日本での肝炎の原因のほとんどはA型、B型、C型である。

主な感染経路は

A型・E型は汚染された食べ物や水で。

B型は血液媒介・親子(垂直)・性行為(水平)。

C型はウィルスの混入した血液を介したもの(輸血や集団予防接種の注射針の回し射ち、刺青など)である。C型での性行為での感染、母子感染は稀である。

アメリカではB型肝炎の予防接種を受ける事が義務付けられている。

殆どのC型肝炎感染者は医療行為が原因で感染と推測される(上記の注射針が主因と考えられる)。

非A非B型(現在のC型)肝炎ウィルスに感染すると肝癌などに進行する危険性が疫学的に示されている。義兄は輸血を受けた経験が無いといっていた。何かの予防注射というのも記憶がない、とも。

慢性肝炎:自覚症状に乏しい事が多い。B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがある。

C型慢性肝炎においてはインターフェロン(α or β)、PEG-インターフェロン、リバビリン+(インターフェロン or PEG-インターフェロン)といった治療法がある。ウィルス量・型、年齢、性別、貧血の程度などにより治療法を選択する。

肝癌。B型肝炎では推定10%前後、C型肝炎では推定25%前後と高率に肝癌を発症する。義兄はこの25%に引き込まれたのだった。

参考:フリー百科「ウィキペディア」

◆64%「中国人に生まれたくない」

渡部 亮次郎


【産経新聞2006年9月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。

このサイトは今月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。


2014年04月27日

◆俺の女房だと毎日叫ぶのは恥かしい

渡部 亮次郎


「これは俺の女房だと毎日叫ぶのは恥ずかしいことだ、と同様、尖閣諸島はわが国固有領土だと毎日叫び続けることは恥ずかしい」と日本外務省。「嘘も百編唱え続ければ真実になる」よろしく中国。これが尖閣諸島問題の真相だ。

1968年 10月12日―11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。この話は元首相岸 信介から直接聞いた。

その岸は総理辞任後、個人事務所を構えたのが新橋駅に近い日本石油の一郭だった。元通産官僚として、石油に深く関係する岸だった。

海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。

だが、関係者はともかく、日本国民の殆どは、この事実を知らず、尖閣諸島の名も知らなかった。後に外務大臣の秘書官になって深く知らざるを得なくなる私も、政治記者時代は全く関心がなかった。

1971(昭和46)年 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、いわゆる保釣運動へと発展した。

6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。

6月17日:日米が沖縄返還協定に調印。この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している。

12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。

72年7月5日、田中角栄が「角福戦争」を制して政権を獲得。
7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

9月27日:田中角栄内閣総理大臣が日中国交正常化交渉のため中国を訪問。私はNHK記者として同行した。

周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている。

この事実は同行記者団には発表されなかったので、最近知った次第。

中国では当時まだ毛沢東が存命中。経済改革・開放論者のトウ小平は下放中。将来、中国共産党の首を絞めるほどの重要資源になることを周恩来は自覚できなかった。まして海洋国家になることなど予想もしてなかった。

9月29日:日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。

1973年8月、田中批判をTVや「文芸春秋。赤坂太郎」で展開することで田中側近の竹下登副幹事長がNHK政治部長に渡部亮次郎記者の左遷を要求。NHKはこれに抗することなし。

渡部は3度も辞表を提出するが受理を拒否される。止む無く大阪に転勤。3年後東京・国際局に副部長として戻ったが、1977年11月にNHKを退職、福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に横滑りした園田直の秘書官に就任(内閣総理大臣辞令)。日中平和友好条約の締結交渉の従事。

1978年4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。青嵐会(せいらんかい)の石原慎太郎らが主権の侵害だと福田政権を突き上げる。

この時私が日本外務省野幹部に質したところ「これは俺の女房だと毎日叫ぶ事は日本人の感性からすると恥ずかしくてとてもできることではない」という説明があったのだ。だから日本は始めから負けていると言えなくもない。

8月8日、園田外相が日中平和友好条約締結の最終交渉のため特別機で訪中。渡部随行。

滞在期間中、トウ小平副首相が園田外相に対し尖閣諸島問題の棚上げを表明。

10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。

こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」
と述べる。

「ウィキペディア」によれば、<中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった]。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる>。


<国際司法裁への提訴「不要だ」 外相「尖閣は固有の領土」

産経ニュース 2014.4.25 13:58

岸田文雄外相は25日の衆院外務委員会で、沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張している中国を相手に国際司法裁判所(ICJ)へ提訴する必要はないとの認識を示した。民主党の玄葉光一郎氏への答弁。

理由について、岸田氏は「尖閣は歴史的にも国際法上もわが国固有の領土だ。領有権問題は存在しない」と説明。「(提訴は)日本が言い出す話ではない。わが国の有効支配に挑戦しようとしている中国が考えるべき問題だ」と強調した。

中国が提訴した場合の対応に関し、「仮定の話を申し上げると、さまざまな影響を及ぼすので控えたい。中国に向けられるべき質問だ」と述べた>。


2014年04月26日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」として、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰めて運んだ。この閣僚とは」私も食事を共にしたことがある。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さんは「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部がのちに月刊誌「文芸春秋」で暴露して私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした地方の記者時代は出るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すのが普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だった。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎である。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。文中敬称略  

2014年04月25日

◆おでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

青森県青森市
ツブ貝、ネマガリタケノコ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。2005年には「青森おでんの会」が発足。

2010年予定の東北新幹線新青森駅開業へ向けて、生姜味噌おでんの全国ブランド化を図るべく、「B-1グランプリ」という食の祭典への出展等、PR活動が行われている。

長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。人気の具は豆腐である。

富山県
塩と昆布の出汁で煮たおでんに、玉子、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこなど入れて煮込み練り辛子かおぼろ昆布を添えて食べる。

静岡県静岡市
葵区の繁華街にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があったり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。

また静岡県のおでん自体も濃口醤油を使い牛スジ肉で出汁を取った黒いつゆが特長で、はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺してあるのが特徴で、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。

これは「静岡おでん」(発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」)と呼ばれている。2007年には「静岡おでんの会」という団体が「B-1グランプリ」という食の祭典に静岡おでんを出展し、3位となった。

愛知県
八丁味噌をベースとした甘めの汁で、ダイコン、こんにゃく等の定番の具を煮込んだ「味噌おでん」が有名。

味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。

醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。

また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。

しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。

兵庫県姫路市
薄味だが、関東煮ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。

香川県
讃岐うどん店では、必ずと言っても良いほど副食として販売されている。

コンビニのおでんカウンターのような保温器で煮込まれている竹串刺しのおでんを、客はセルフサービスで取ってきて、注文したうどんが出来上がるまでの間などに食べる。

香川のうどん店のおでんは、セルフサービスのうどん店だけでなく一般店(店員がうどんを上げ下げしてくれる店)であっても大抵はセルフサービスである。おでんには茶色く甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。

愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。

沖縄県
沖縄のおでんは「てびち」(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられるのが特徴である。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共に「てびち」も販売されている。

アメリカ施政権下の頃、ちょっと駐在(NHK特派員)したが、「おでんに茶飯」の昼食が一番高かった。薩摩揚げを憎っくき薩摩ではなく博多から空輸しているため、原価が高くなるとの説明だった。出典:「ウィキペディア」

2014年04月24日

◆マルコス大統領下賜のタガログ

渡部 亮次郎


マルコス元フィリピン大統領閣下に恐れ多くもシャツのタガログ1枚を下賜されたことがあるが小さくて着られないまま、どこかで失くしてしまった。その3年後、園田氏は逝去、大統領は亡命を余儀なくされた。「歴史」を思う。

バナナ繊維かパイナップル繊維でできたバロンタガログだ。フィリピンではこれを着用すれば、「正装」なのだそうだ。高温多湿な土地での凌夏服装で都合が良かろう。

1981(昭和56)年、鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、イタリア、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。秘書官として随行していた私はイタリアから胸やけ続き。マニラにいた知人に貰った太田胃酸で霧消、万歳。

園田外相は19日はフィリピンのマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートで待機中のアメリカ国務長官ヘイグ氏と相対した。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシード或いはタガログ・シャツに限るとのお達し。タガログを送ってくれていたが、小さくて着られなかった。

そこで主従ともに急遽、白のタキシードを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

晩餐会で何をご馳走になったかも忘れたが、イメルダ夫人の香水がきつくて参った。それに、きつい「冗談」にも。「日本人の大人たちは買春も団体でやるから目だって反感を買う。

そこへ行くと、積み立て貯金をして買春に来るドイツ人は凄い。女性の大事なところに怪我を負わせて帰るけど、決して団体でやらないからニュースにはならないのよ」。高貴なお方から、こんなお話を伺うとは予想してなかった。

これから3年後の4月2日の朝、糖尿病に伴う腎不全により、園田氏は70歳と言う若すぎる死を遂げてしまうが、園田氏の死に先立ってマニラでは1984年2月25日、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。

「ウィキペディア」によれば、マルコス政権下のフィリピンで、国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より開始された観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段であった。

1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。

続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6・30%から1985年には12・55%まで増大した。

さらに政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。

アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。

1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。

同盟国からの圧力の結果、マルコス氏は大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命したのだった。

    

2014年04月23日

◆放るもん料理は明治から

渡部 亮次郎


日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖も絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わされなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』