2014年06月05日

◆トウ小平の歩んだ途

渡部 亮次郎


!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、?は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1972年9月、田中角栄内閣により日中国交正常化。トウはいなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、?小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。

1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。

1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、?小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。

すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、?小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。

しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に3度目の復活を果たす。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。

?小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。

この訪日で?小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。?小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、?小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。

前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した?は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深せん市など4つの経済特別区の設置を決定する。

!)小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、?小平は華国鋒の追い落としを目論む。

華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、?小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、?小平を支持するものであった。

華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記に就任し、?小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には?小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに?小平体制が確立した。

!)小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。

1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、?は政治改革に全く反対だというわけではなかった。
第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。

ただし、?自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には?小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、?小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた?小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した。

!)小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた?小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。

中国に帰国した?小平は、第11期3中全会において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。

代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。

但し、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管?猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた?小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。

経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

一方対日政策では、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒し、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。

これを受けて1983年、江蘇省党委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館設立を決定し、南京市党委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。

!)小平は1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、?小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争40周年に当たる同年8月15日にオープンした。

!)小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。

本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは娘の?楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は?の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

!)小平の死後、?が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、?小平理論として中国共産党の指導思想に残された。


名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「?蝟子(ハリネズミの?)」、「?矮子(チビの?)」と呼ばれたりもした。毛沢東は?小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった?小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからと後年、語っていた。

!)小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。

これは最も?が好んだ言葉であり、毛沢東が?を弾劾する際にその理由の一つとしている。

実子である?樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、?小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。?小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した。

日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、?小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。

その際に?小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとした。

近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。

新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、?小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。

また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。
「ウィキペディア」


2014年06月04日

◆哀れ 唐人お吉

渡部 亮次郎


若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別し、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。     

2014年06月03日

◆「核」が日中開戦を抑止する(30)

平井 修一


(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
・・・

米ソ両国がミサイル大国となったのは、核戦略と切っても切れない関係がある。ともに核兵器の運搬にナチス・ドイツが開発したミサイルを用いることを考えた。

このミサイルはジェットエンジンとロケットエンジンの二つの種類があり、ナチス・ドイツは二つを使ってロンドン市を攻撃したが、当時のジェット式は速力が遅く、飛行するのが肉眼で見えるため、戦闘機に迎撃されて大した戦果は挙げられなかった。

一方、ロケット式は高速のため肉眼でも飛行音でも察知できず、迎撃は不可能だった。にもかかわらず、ヒトラーはジェット式の製造に力を入れ、好機を逸した。

ナチス・ドイツのミサイル開発は連合軍を驚かせた。その効能に目をつけた米ソは、東西からベルリンへ向かって進撃する途中に、ドイツのロケット研究施設および研究者をできるだけ自国のために捕獲した。

米ソがまず採用したのは「ロケット式の弾道ミサイル」である。多種多様のICBM(大陸間弾道ミサイル)、IRBM(中距離弾道ミサイル)を開発し、完成させた。

この成果により、通常弾頭を使用する地上用「戦術ミサイル」が開発された。砲兵では攻撃できない遠距離を攻撃するためだ。「対戦車ミサイル」、航空機や飛行物体を撃ち落す「対空ミサイル」、艦艇を攻撃する「対艦ミサイル」も開発し、性能は著しく向上した。

今日のミサイル戦争の時代は、米ソによる核の対決があったからこそ生まれたといえよう。

ロケット式弾道ミサイルの時代が華々しく開花したのに比べ、ジェット式の巡航ミサイルの時代は大いに遅れた。最大の欠点は速度が遅く、発見されて撃墜される可能性が高いことだ。しかし、速度が遅いことで、飛行途中で方向や高度を変え、目くらましを行い、秘匿性を増すことができる。それは誘導システムの改良によって可能だ。

高度を低く飛べることは、レーダーによる捕捉をきわめて難しくする。これが現代の巡航ミサイルの論理なのである。

(平井:弾道ミサイルは弾丸のように高速でピューンと高度に昇り、そこから「目標地域」に向かってまっしぐらに進む猪突猛進型。一方で巡航ミサイルは低速で「目標物体」を定めて、目くらましをしつつ右往左往しながら目標を破壊するようだ。弾道ミサイルは巨大な砲弾、巡航ミサイルは頭脳付きの特攻か)

巡航ミサイルの研究はソ連が先行し、60年代には200〜300メートルの高度を保って飛行する制御システムを完成させた。米国もそれを追いかけ、さらにTERCON(等高線照合システム)を完成させた。

これは、巡航ミサイルのコンピュータに、飛行経路の地形情報を入力しておき、飛行中にその情報と実際の地形とを照合しながら、飛行経路の誤差を修正して(正確に目標地点へ)飛行するものである。

湾岸戦争で活躍した米国製巡航ミサイル「トマホーク」はTERCONを積み、地表100メートルを飛行し、高度なピンポイント攻撃を可能とした。

巡航ミサイルは対艦攻撃に使われる場合が多い。一度高く打ち上げてから海面すれすれに飛び、敵艦のレーダーに捕捉されないようにする。最後に目標をセンサーでキャッチしてから突進する。飛行方向も直線ではなく、途中で左右どちらかに偏向しながら飛んでいく。最終目標を秘匿するためだ。

第二次大戦末期に英国機にバタバタ撃ち落とされたジェット式ミサイルは、新技術を得て新兵器として甦ったのだ。

ただし、巡航ミサイルにも弱点はある。速度は速くなったとはいえ、所詮はジェットエンジンのため限界がある。飛行経路と高度を察知され、対空機関砲で待ち伏せされると弱い。実際、湾岸戦争やその後の米軍のイラク攻撃において、かなりの数の巡航ミサイルが撃ち落とされている。

それを避けるには、巡航ミサイルに一定の高度と経路を与えないようにTERCONにインプットすればよいのだが、そのためには偵察衛星などによる地形データの収集や多数の技術者、膨大な金が必要になり、実戦ではやっていられない。

さて、核戦争を意識して開発されたミサイル技術は、通常兵器を用いる局地型紛争にも大きな影響を与えてきた。その代表的なものがフォークランド紛争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争などである。

フォークランド紛争は、海戦におけるミサイル時代の到来を如実に示した。空対艦ミサイル「エグゾセ」、艦対空ミサイル「シーウルフ」の活躍が目覚ましかった。


イラン・イラク戦争は8年近く続いた長期戦となったが、イラクの軍事的優位で停戦となった。最終段階でイラン側の総崩れとなった大きな要因に、イラクによるミサイル攻撃があった。後方を双方ともミサイルで攻撃し、1988年2月末、双方は相手方の首都をミサイルで撃ち合った。

同年5月26日までの間、イラクはイランへ180発(内テヘラン向け133発)、イランはイラクへ74発(内バグダッド向け57発)で、イラクは2.4倍の優勢を示した。


この首都ミサイル攻撃合戦の最中、テヘラン市民の間に、イラクがミサイルに化学(毒ガス)弾頭をつけて撃ってくるとのうわさが流れ、避難騒ぎとなった。これを裏書きするように、イラクはイラン南部のアフワズ市を化学弾頭付きミサイルで攻撃し、イラクの外相がこの事実を記者会見で明らかにした。テヘランへの化学攻撃はいつでもありうることになった。

(この恫喝により)イランは同年7月18日、停戦を求める国連決議を受け入れざるを得なくなった。後方の市民の安全に対する脅威が、いかに戦争の行く手に影響するかを物語っている。

1990年4月、イラクのフセイン大統領は、「イスラエルの核兵器に対して“貧者の核兵器”である化学兵器で対抗する」と宣言した。


この宣言とイラン・イラク戦争における実績とが、湾岸戦争の際、イスラエルへの大きな脅威となった。イラクの化学弾頭付きミサイルの攻撃を恐れたイスラエルは、ミサイル攻撃の警報があるたびに、市民が防護マスクをつけて防空シェルターへ避難しなければならなかった。そのため、イスラエルの経済活動は大きく阻害されたのである。(つづく)(2014/6/3)

◆トウ小平のタン壷

渡部 亮次郎


記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞) =故人が2012年9月22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、トウの足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>ちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて北にしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した。ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだろうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的だった。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか

2014年06月02日

◆「核」が日中開戦を抑止する(29)

平井 修一


(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
・・・

先に、核兵器があたかも使えない兵器となったかのように論じた。ただし、これは米ソ間のオーバーキル(過剰)状態、あるいは「核兵器を最初に使った」ことに対する国際世論の非難を恐れる場合のことである。

核兵器が「高度の政治兵器」であることの意義は少しも薄れていない。そこでフランス、中国が昨今、核実験を再開し、北朝鮮、イラク、ブラジルなどが核兵器の開発を推進してきたのであった。

フランスの場合、スエズ動乱(1956、注)に出兵し、作戦目的をほぼ達成しながら、すでに水爆を開発したソ連の核の恫喝に屈せざるを得なかった屈辱を味わっている。その時、米国の核の傘はフランスの味方とならなかった。こうした苦い思い出が独自の核兵器体系の開発にフランスを走らせたのである。

さらに近年の東西冷戦構造の崩壊によるヨーロッパにおける米核戦力の大幅削減、英国の核戦力の現状維持(フランスの約3分の1程度)、およびドイツが当面核武装を行わないことなどが、フランスをしてヨーロッパの核大国となる機会を与えた。

これは、経済面で米国、日本、ドイツに大差をつけられたフランスが、政治大国として甦る絶好の機会であった。これと先の苦い思い出とが、1996年の核実験再開の背景にある。それだけに、なまじっかな反対運動で引っ込むはずはない。


中国の場合、将来生じるであろう米中対決に備えて、核戦力の質量両面における増強を図っている。米中交渉におけるバーゲニング・パワー(国際間の交渉・折衝などにおける対抗力、交渉能力)として核戦力を位置付けているのだ。さらに近隣の台湾、日本、ベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどへの軍事的圧力をも考慮してのことである。

核兵器が「究極の兵器」であるゆえんは、通常兵器と異なり、その大量破壊性にある。すなわち、たとえ一発であろうと、核大国に対し相当の損害を与え得る。もしその命中地点が政治、経済、軍事の中枢地域であったならはかり知れない不利益をもたらす。そこで米国、ロシアのような核大国といえども、小国の核戦力を無視できない。


この事実と、核兵器を持つことで地域の覇権を握れることが、第三世界における核拡散を招いている。米朝交渉において米国が北朝鮮に大幅に譲歩したのは、北朝鮮が核兵器を完成させる可能性を考えたからである。湾岸戦争において、もしイラクが事前に原爆を完成させていたなら、米国はあのように一方的に戦争に邁進できなかったであろう。


核兵器開発の潜在能力があるのは北朝鮮、イラク、ブラジル、アルゼンチン、イラン、アルジェリア、リビア、シリア、台湾、韓国、日本、オーストラリア、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ドイツ、イタリア、カナダなどの諸国である。依然として核拡散の恐怖は消えていない。(つづく)
・・・

注)スエズ動乱:スエズ戦争、第2次中東戦争とも。1956年、英・米両国のアスワン・ハイダム建設援助計画撤回を機に、エジプトのナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言。これに反対して英・仏・イスラエルが出兵したが、親米諸国を中心とした国連の停戦決議や、ソ連の英仏へのミサイル攻撃警告(核恫喝)などに押され、1957年完全撤兵した。

フランスにとって、米国は頼りにできないことになり、ソ連の核恫喝には屈するしかなかったのだ。

1958年、フランス大統領に選出されたドゴールは、国益のために核武装に踏み切った。当時のフランスは、今の日本と同じく、ソ連の核の脅威をアメリカの核の傘でしのいでいたのだが、第二次大戦生き残りのリアリスト、ドゴールは核の傘に疑問を持ち、NATOの総司令官(米軍大将)やケネディ大統領に率直に疑問点を表明した。

「どんな状況であろうとも、アメリカは、ソ連がフランスを核攻撃した時、報復のためにソ連と核戦争をするのか、それならば、その軍事シナリオを具体的に説明してほしい」

ドゴールは具体的な核戦争時の保障を求めたのだが、ケネディも総司令官も答えられず沈黙したままだったという。

核を保有しなければ核恫喝に屈して、戦う前に敗戦国になってしまうのである。世界の現実とはこういうものだ。(2014/5/31)

◆出てこない「まぼろしの」

渡部 亮次郎


どうしたものか、25日払暁、古賀政男の作曲した「影を慕いて」が頭をよぎり、だが冒頭のフレーズが思い出せず、とうとう目が覚めてしまった。まだ明治大学の学生だった古賀が失恋し、自殺しようとした時、この詞を思いつき、珍しく作詞、作曲ともに古賀政男という一曲である。

勿論、私が生まれる前。戦時中は唄えない「軟弱」な歌だから、戦後、ラジオで聴いて耳に残っていたのだろう。なにしろ演歌好きの私も自身で唄ったことは無い。

作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
  永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
  儚(はかな)き影よ 我が恋よ

以下の解説は「二木紘三のうた物語」による。歌にまつわる物語や思い出など配信しています。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_469a.html


<《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなかで、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。

友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。

その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固め、帰京します。このときの懊悩を歌にしたのが『影を慕いて』で、これが作曲家古賀政男のデビュー作となりました。

昭和3年(1928)11月、24歳のとき、古賀政男は、創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会でこの曲を発表することにし、佐藤千夜子に歌を依頼します。

佐藤千夜子は当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれ、無償で出演することを承知します。

彼女が歌った『影を慕いて』はそこそこ好評でした。それがきっかけとなって、古賀政男はコロムビアの専属作曲家となり(のちにテイチクに移籍)、以後順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

『影を慕いて』は佐藤千夜子の唄でレコード化されましたが、あまりパッとせず、昭和7年(1932)に藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。藤山一郎は、まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生でした>。

藤山はこのほかにも流行歌をいくつか吹き込んだ。日本橋にあった実家が倒産した為のアルバイトであったが、学校では禁止していたので、ばれて停学を喰らった。いまでは考えられない出来事。その後、後輩の松平晃も藤山の奨めで流行歌を吹き込み、こちらは退学処分となった。

なお古賀は生涯、独身を貫いた。

<古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学卒。

本名、古賀正夫。少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽。大正琴を愛した。プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、国民的な作曲家としての地位を確立。多くの流行歌をヒットさせた。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)首席卒業のクラシックの正統派藤山一郎から、演歌の女王・美空ひばりまで、その作品は5000曲とも言われている>。(「ウィキペディア」)


2014年05月30日

◆か゜き゜く゜け゜こ゜

渡部 亮次郎


生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなった
ころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出されたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。
参照:「ウィキペディア」

2014年05月28日

◆エンパイア・ステート・ビル

渡部 亮次郎


「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に案内してもらっての贅沢な旅だった。もう40年近く前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは一度は珍しいが、そんなに見るのは変質者なのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと所望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食べない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時は醤油が殆ど普及してなかった。塩だけ。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はNYを象徴する超高層のエンパイア・ステート・ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベさん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁のふちへは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノンにイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。ビートルズを知らない政治記者だった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「ボクも高所恐怖症なんだよ」。

エンパイア・ステート・ビルディングは、同じくマンハッタンを代表する高級ホテルであるウォルドルフ=アストリアが建っていた跡地に建設された。

工事はクライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急いで行われ、1931(昭和6)年5月1日に年に竣工した。私の生まれる5年も前だ。当時、わが国のビル高さ制限は100尺(30m=8階)。

ところが折からの世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くの部分が空室であり、「エンプティ(空の)ステートビルディング」と揶揄されたこともあった。

その後は約1万のテナントが入り,約2万5000人を収容。世界最高の建物として約40年間王座を保ってきたが,今日ではさして高さは誇れない時代になった(世界大百科事典)

73基のエレベーター(貨物用の6基を含む)、1860個の階段などで構成されている。

ビルの、1950年代に付け加えられた電波塔をあわせると443・2mになる。頂上部分では電飾がされており、日によって色が変化する。

日本との戦争が終わる寸前の1945年7月28日の午前9時49分に、深い霧の中ニュージャージー州のニューアーク国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍のB-25爆撃機が、79階の北側に衝突して機体が建物に突入、搭載エンジンが衝突の衝撃で機体から脱落し、エレベーターシャフトを破壊した。

この際に79階と80階で火災が発生したが約40分で消火した。 着陸直前で燃料の搭載量が少なかった上、比較的小型の機体であったことから、14人の死者を出したものの建物自体への損害は比較的少なかったこともあり事故後2日で営業を再開した。

日本の建築基準法は英国法に倣って作成されたもので、建物の高さについては、原則として100フィート(百尺、約31m)という制限が課されていた。

この制限は、関東大震災を教訓として長い間維持され、これが撤廃される1962(昭和37)年まではおよそ9階建て程度の建物しか建てられなかった。この当時、日本で最も高い建物は国会議事堂の中央塔(65m)であった。

60年代には、隆盛していたメタボリズムの建築家から、超高層ビル建築を伴った丹下健三の築地再開発計画や磯崎新の新宿計画などの様々なプランが提案されたが、いずれも実現には至らなかった。

しかし、1963年および1970(昭和45)年(佐藤栄作内閣)の建築基準法改正により、高さ制限が「無制限」とされたために、高さ60mを超える超高層ビルが次々に建てられるようになった。

東京ではビジネス街の中心たる皇居濠端のビルは軒並み8階建てだったが、このところ建て替えられるのがすべて超高層なのは以上の経緯があるためである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2014年05月27日

◆不如帰 薄倖 村上幸子

渡部 亮次郎


「命 二つを結ぶ糸
ちぎれて哀し 相模灘
あなた あなた あなた
この世の次の 次の世は
私のためにしたさい と
泣いて血を吐く ほととぎす」

徳冨蘆花原作の小説「不如帰」を基につくられた歌謡曲「不如帰」(作詞:星野哲郎 作曲桜田誠一)。これを歌っているのが村上幸子。聞けばこれを大ヒットに仕立てた直後わずか31歳で癌のため死去したという。4半世紀まえのこと。だからよほどの歌好きでないと名さえ知らない。

パソコンで演歌を聴けると知らなかったがYouTubeを開けば簡単に聞けるのでこの所何回も聞いている。

村上 幸子(むらかみ さちこ、本名:鈴木幸子、1958年10月21日 - 1990年7月23日)は新潟県村上市(旧・岩船郡荒川町)出身。1979年に『雪の越後を後にして』でクラウンレコードから歌手デビュー。1984年の「酒場すずめ」が人気を集め、歌唱賞レースに参戦した。

1988年にリリースされた「不如帰(ほととぎす)」を自らの勝負曲と位置づけたが、歌詞の一部が、当時昭和天皇が重体で「時期的にも適切な表現とは言えない」という理由から放送中止(自粛)になったというエピソードを持っている(「不如帰」の歌詞中に「血を吐く…」という形容の表現があり、当時昭和天皇は下血・吐血を繰り返し、危篤と小康状態を往復していたため、このことを気遣った放送局は同曲の放送を自粛した)。後に「不如帰」は村上の死後、2006年に瀬口侑希がカバーした。

また、文化放送のラジオ番組『走れ!歌謡曲』のパーソナリティを務めるようになる。しかし、1989年、喉部に大豆状のしこりが見つかり、検査の結果、急性リンパ腫と診断され入院。その間もリスナーなどからの激励の手紙が多数村上のもとに寄せられたが次第に病状は悪化、1990年7月23日、31歳で死去。

『走れ!歌謡曲』のパーソナリティ仲間である小池可奈は、村上の半生とその交流を語った伝記本「さっちゃん物語」(三五館)を著している。 

「想い続けて死ぬことの
しあわせ知った逗子の海
そうよ そうよ そうよ
あなたの船の丸窓で
夜啼く鳥がいたならば
それは私のほととぎす」

この歌の浪子もそうだが「さっちゃん」も現代の業病のためちっとも幸せでない幸子であった。

主な曲

? 雪の越後を後にして

? 盛り場かもめ

? 酒場すずめ(2010年に和田青児がカバー)

? 恋椿

? やがて港は朝

? にごりえ

? 不如帰

? 放浪記(『不如帰』同様星野哲郎作詞、桜田誠一作曲、2009年に瀬口侑希がカバー)

? 嵯峨情話

? それなりに青い鳥

? 京の川

? 雪の舞

? 女の旅路

? 笹舟

? 螢火情話

? みちのくしぐれ(鳥羽一郎とデュエット)

? デュオ「雨あがり」(琴風とデュエット)

? 純情物語(梅宮辰夫とデュエット)

? 帰郷

? 恋風

不如帰 (小説)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『不如帰』は、明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。なお徳冨蘆花自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年「ふじょき」としたが、現在では「ほととぎす」という読みが広まっている。

片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。

しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」、「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」は日本近代文学を代表する名セリフとなった。

家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。

作中人物にはモデルが存在する。しかしベストセラーとなったが故に、当時小説がそのまま真実と信じた民衆によって、モデルとなった人物に事実無根の風評被害があった。。

後にはこれを原作とした映画や演劇などの演劇作

2014年05月26日

◆「食育」の魁:石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育という言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺るがす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除くことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではないかと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るような自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であるという天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をとる。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウムの多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によって陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少ない食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランスに注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短くなってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つように食養する。

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2014年05月25日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなっている。2007年10月24日のラジオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出した
のである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
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石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。


  

◆月の沙漠(非砂漠)

渡部 亮次郎


月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさを(1897年4月10日 - 1977年11月1日)の作品の一つ。作曲家の佐々木すぐる(本名:佐々木 英、1892年4月16日 - 1966年1月13日)によって曲を付けられ、童謡として有名になった。

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、講談社発行の雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。

佐々木はまた教育現場での音楽指導用の教本として「青い鳥楽譜」と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。

上記の経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年にラヂオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみ(後の松島詩子)の歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている。

「沙」の字について

この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く情景を描いており、異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「砂漠」と誤記されるが、題名、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。この字が用いられる理由として

「沙」には「すなはま」の意味がある。

学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。

海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「砂漠」ではなく「沙漠」としている。(生前の加藤の述懐による)。

私は43才のときはじめて中東の砂漠を見たが、そのあらあらしい様からは王子や姫は連想できなかった。多分、加藤もここではあの詩は書けなかったろう、と思った。

また、モチーフとなった海岸は御宿ではなく、加藤の生地である静岡県志太郡西益津村(現・藤枝市)近隣の海岸であると「加藤が公言した」とする資料もあるが、定かではない。

月の沙漠記念館

千葉県夷隅郡御宿町の御宿海岸には、『月の沙漠』に登場する、2頭のラクダに乗った王子と姫をあしらった像が建てられている。その数メートル脇には、『月の沙漠』の冒頭を刻んだ月形の詩碑が存在する(加藤の直筆による)。

また、海岸より道一本を隔てて「月の沙漠記念館」が建てられており、加藤の作品や生前愛用した楽器などが展示されている。

初めて「月の沙漠」のレコードを吹き込んだ「柳井はるみ(1905年5月12日 - 1996年11月19日)」は、後に松島詩子として歌謡界で活躍した。

作曲家の芥川也寸志(1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、映画『八甲田山』のテーマ音楽の作曲の際、この曲からモチーフを得た、と語っている。

月の沙漠記念館のある千葉県夷隅郡御宿町では、毎日朝昼夕の3回、防災行政無線からこの音楽が流れる。また、作詞者の加藤まさをの出身地である静岡県藤枝市でも、7月・8月の夕方に防災行政無線でこの音楽が流れる。
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2014年05月24日

◆「核」が日中開戦を抑止する(23)

平井 修一


地政学者の奥山真司氏が「中共はなんとかに刃物」と、中共軍による突発的衝突の危険性を指摘している。以下はその要約。
・・・

最近、南シナ海上でベトナムと中国の衝突が懸念されているおりますが、まずは去年の年末に報じられた以下のニュースをお読み下さい。

これは、去年のバイデン副大統領の訪中時に起こったとされる、米ミサイル巡洋艦カウペンスと中国の揚陸艦のニアミス事件です。

<米中軍艦が接近、衝突は回避 南シナ海(CNN2013.12.14)

米海軍のミサイル巡洋艦「カウペンス」が今月5日、南シナ海の公海上で中国海軍の艦船との衝突を避けるための回避行動を取っていたことが明らかになった。情報筋は、中国による極めて異例かつ意図的な行動だとしている。

米軍関係者によると、カウペンスが公海上を航行中、中国の艦船が突然、空母遼寧を含む中国海軍艦の編隊から離れ、カウペンスに近づいてきたという。カウペンスは接近しすぎだと無線で警告したが、中国の艦船は停止しなかった。

中国の艦船がカウペンスの船首から約450メートルの距離まで接近したため、カウペンスの艦長は「全面停止」の命令を出した。その後、中国の艦船はカウペンスの前を無事に通過した。同関係者は「海上で衝突を避けるための回避行動を取るのは異例」と付け加えた。

また別の軍関係者は、2隻の船が接近している間、両艦の艦長間で無線交信が続いていたとし、「中国艦船の接近は意図的だった」と指摘した>

この事件の真相(?)を、私は最近ある人物から聞きました。

いわゆる「裏」の取れているお話ではありませんが、往々にして、こういうところに真実の一端を知るヒントがあったりします。ですので、とりあえず「ああ、そういう話もあるかもね」という姿勢で気楽に読んで頂ければよろしいかと。

私が聞いたその話の結論を一言でいえば、「あれは中国艦船の船長のスタンドプレーだった」というもの。「いやいや、中国政府もしくは人民解放軍の意図的な嫌がらせなんじゃないの?」と、読者の皆さんはお思いかもしれません。

ところが、私が話を聞いたこの人物は、以下のようなことを言っておりました。曰く、

<ニアミスを起こした中国海軍の艦船は空母遼寧に随行していた二隻の艦船のうちの一隻。バスタブにエンジンをつけたような小型の揚陸艦(LSM)だが、このLSMの船長は、ある強烈な不満を抱えていた。

それは、この時の空母遼寧ともう一隻の船が中国側のメディアに大々的に取り上げられて紹介されていたのに、自分の船はまったく取り上げられなかったこと。

しかし、ようやく自分がメディアの注目をあびるチャンスがやってきた。南シナ海で訓練中の空母遼寧を、アメリカ海軍ミサイル巡洋艦カウペンスが公海上で監視していたからだ(これは報道通り)。

中国海軍のLSMが停船要求信号を発しながら衝突危険距離まで急接近した。そのためカウペンスは緊急回避行動を取り、衝突を回避した(これも報道通り)。

しかし、このニアミス事件の実態は、このLSMの船長の独断でおこなったスタンドプレー。要するに自分が目立つためにやった。

このニアミス事件の最中には、空母遼寧側からLSMの船長に対して必死の制止の命令が出ていた。事件の後、この船長はメディアから英雄扱いされ、軍の中でも昇進することになった。

つまりこのカウペンス事件で明らかになったのは、中国には戦術も戦略もなく、ただ武功を急ぐ規律のない兵士同士のライバル関係によって軍全体が引きづられてしまうというカオスっぷり。ということでした・・・

くどいようですが、これはあくまでも「私が聞いた話」です。本当にそうだとすれば、まさに「カオス」で恐ろしいことなのですが、ことの真偽の判断は読者の皆さんにお任せします。

もしこの話に信憑性があるとすれば、中国周辺の国々にとっては、さらなる脅威です。なぜなら、ここがとても大事な点なのですが、

「アクシデント的な衝突が北京政府の意図しない形で起こる」

というリスクがあるということになりますし、ましてや大規模な戦争が、現場の兵士の勝手な行動によって起こされる!?・・・という、さらに恐ろしい事態さえ想定されてしまうわけです。「なんとかに刃物」というのが一番コワいですね。(以上)
・・・

小生思うに、普通の国ならこの船長は規律違反で降格や懲戒免職になるだろうが、拍手されて昇進したのだとしたら空恐ろしい。わが国の巡視艇に体当たりした船長の比ではない。中共中央は軍を把握しているのかどうか。習近平は汚職撲滅で軍幹部も摘発したが、これや利権縮小に不満を抱く軍幹部もいるという。

国際問題評論家の井野誠一氏が言う。

「習主席の(汚職撲滅の)出方が今後とも軍に厳しければ、軍としても、さまざまな形で習執行部に揺さぶりをかけてくるはずです。たとえば、人民解放軍の尖閣強行上陸だってありえないことではありません。軍独断での強行作戦遂行で習指導部を慌てさせ、軍の主張を飲ませる意図です」
(日刊大衆4/21)

昨日もウルムチでテロ事件が起きた。支那では中共への憎悪が煮えたぎっている。中共中央への軍の憎悪もそのうち発火点に達するかもしれない。習近平は軍の大リストラも検討しているといわれる。軍が存在感をアピールするために暴走すれば、日本との軍事衝突、尖閣強奪へ向かうだろう。
(つづく)(2014/5/22)