2014年02月13日

◆田中角栄と園田直

渡部 亮次郎


二人は同じ自民党に在りながら「角福戦争」では両端の別れ目を命を賭けて闘った。直氏は福田派の参謀として。しかし角栄氏が引退同然になってからの二人は元の友人に戻った。それを知らずに福田は大平の足を引っ張った。晩年の福田不幸の原因はそこにある。

二人に対する出会いは園田氏のほうが先。船田中衆院議長と田中伊三次副議長が日韓条約批准案の採決強行の責任を取って辞職した後、佐藤栄作自民党総裁(首相)が指名した後任の候補者は山口喜久一郎に園田直(そのだ すなお)だった・両人とも旧河野派所属。

既に河野一郎氏は、この年の7月8日に急逝していたので、党内では問題にならなかった。むしろ入閣経験の無い園田氏の副議長起用は、嘗ての池田勇人内閣当時、国会対策委員長としての園田氏の手腕を「記憶」していた「人事の佐藤」を称える声が大きかった。

当時、私は政治部配属2年目のNHK記者。1年目を首相官邸記者として過ごした後、衆議院記者クラブに配属されていた。ここは衆議院正副議長を担当しながら衆院本会議や各委員会全般の動きを掌握する部署。3ヶ月ぐらいで殆どを覚えた。

首相官邸当時はキャップの指示で河野氏担当記者の助手みたいなことをしていて、河野氏(当時は無任所相)が担当していた日韓基本条約締結交渉の経緯を河野氏から聞き、霞クラブ(外務省記者クラブ)のキャップ島 桂次記者(のちのNHK会長)に伝えることにしていた。

船田・田中コンビの後任となった山口・園田コンビは何をするか。正月の伊勢参りに同行してみたが、これといったものはかぎつけることができなかった。

ところがある日、議長室にはいった社会党の石橋国会対策委員長が出てきたのが副議長室だった。通じていなかった正副議長室が通じている。これを知ったことが建国記念「の」日創設をめぐる自社両党の妥協をスクープすることになった。

園田氏はそうした手腕を佐藤首相に買われ、副議長を山口、綾部健太郎、石井光次郎と3代の議長を補佐したのが認められ晴れて厚生大臣として初入閣、水俣病とイタイイタイ病を初の「公害病」として認定。

マスコミからは不人気の佐藤内閣にあってただ1人の「好一点」などとはやされたが選挙区でもあった水俣では「恥を暴露した」と不評。総選挙では得票が減った。だからあれを「売名」だったと評価する一部の人は間違っている。

園田氏は厚生大臣を辞めたところで佐藤首相の希望で国会対策委員長に就任。幹事長田中角栄の許で国会運営の責任を担うことになった。田中は既に佐藤のあと、首相の地位を狙って着々と自派勢力の拡大を進行させていた。これをマスコミは対抗馬福田赳夫外相による角福「戦争」と命名した。

このとき私は福田派担当。園田氏とは昵懇の仲になっていた。彼には田中支持に回るよう助言したが、親分の重政誠之が「昭和電工事件仲間で福田支持だから」と言って福田に走った。結果はご承知のとおり。

園田氏は角福戦争の後約10年を「無冠」で過ごした。その間、武道館に通ったり趣味のラジコンにこって無聊を慰めた。ラジコンで模型飛行機を飛ばすのに良く誘われて茨城県の牛久沼の小屋に泊った。

一方の角栄氏は戦争には勝ったものの、「金脈」でミソをつけた。問題の総合雑誌「文芸春秋」には渡部亮次郎が「赤坂太郎」の名で反田中の政治評論を書いていることをつきとめ、「背後に園田あり」と園田に濡れ衣を着せるという失策を演じた。

それは渡部の大阪左遷でカタをつけたが飛んでもない「ロッキード」事件による5億円の収賄事件が発覚して逮捕される事態に発展した。逮捕させたのは首相の三木武夫だとなり、とんでもない場面で角福共同による「三木おろし」となった。

三木を降ろさなければ田中の協力を得ての福田政権樹立の悲願達成は不可能というわけで園田氏は福田の身代わりとなって三木降しに奔走。私は大阪でやきもきしながら週に一回は上京して園田氏を応援した。

私を大阪に左遷させた田中を私は恨んだが、田中の立場にたてば当然だったと考えるようになっていた。今では人格的には福田より角栄のほうが立派だったと思っている。

園田氏は角栄氏を直接、間接的に説得。ポスト三木で2年間は福田氏、その後は大平正芳氏という密約を結ぶことに成功。品川のパシフィック・ホテルで文書を交わした。これが『大福密約』。

かくて福田氏は70歳にして首相に就任。園田氏は官房長官としてスポット・ライトを10年ぶりに浴びたが、福田氏は「密約」を反古にすべく着々と手を打ち始めた。その第一弾が園田氏の外務大臣への横すべりだった。

世間やマスコミはこれを念願の日中平和友好条約の締結と結びつけて考えたが、そうではなかった。とにかく密約支持の園田を官邸に置いていたのでは「反古」工作がままならない。

加えて親分岸 信介氏からの女婿 安倍晋太郎を官房長官にという熾烈な要求にも応えることが出来る。外交素人の園田を外務大臣で処遇すれば園田は横滑りを納得するだろう。

しかし園田はその昔、重光葵(しげみつ まもる)大臣の許で外務政務次官を勤め外務省新館を建設した実績さえあるし、何よりも密約反古を狙う福田の腹を知って立腹していた。NHK記者から秘書官に転じてきた私にはすべて語った。

園田氏は日中平和友好条約交渉を積極的に進める一方、田中角栄との連絡を蜜にするようになっていった。目白の田中邸に時々午前5時ごろ訪問した。いつも私を帯同した。勿論、いつも車内で待機していた。

福田の腹中は常に話題だった。情報は大平に常に伝えられたはずだ。既に福田に勝ち味はなかった。こういう戦いにかけては実際に戦争をした党人派に「経験」がある。

福田政権の末期、園田外相は森善朗官房副長官らの作戦参加要請をけってアフリカ訪問を敢行したりした。7月14日、パリで森氏を激しく叱責する場面もあった。

結局福田氏は密約を反古にして総裁選に立候補。しかしマスコミの予想を大きく覆して大平に敗れ「天の声にも変な声がある」との迷言を遺して官邸を去った。

「会長は後任の社長を暖かく見守っていれば返り咲きと言う場面が無いわけじゃない」と園田氏は言い続けた。しかし福田氏のいじめが効いて大平氏は総選挙のさなかに急死した。

虎ノ門病院で遺体と対面した園田氏は「これから何処へ行こうか」と私に言ったあと目白の私邸に田中氏を訪ね「後継首相は鈴木善幸」で一致。外国マスコミは「ゼンコウ Who」と打電した。          2012・12・23

     

2014年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。

                      (文中敬称略)

2014年02月06日

◆おでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。


日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

青森県青森市
ツブ貝、ネマガリタケノコ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。2005年には「青森おでんの会」が発足。

2010年予定の東北新幹線新青森駅開業へ向けて、生姜味噌おでんの全国ブランド化を図るべく、「B-1グランプリ」という食の祭典への出展等、PR活動が行われている。

長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。人気の具は豆腐である。

富山県
塩と昆布の出汁で煮たおでんに、玉子、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこなど入れて煮込み練り辛子かおぼろ昆布を添えて食べる。

静岡県静岡市
葵区の繁華街にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があったり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。

また静岡県のおでん自体も濃口醤油を使い牛スジ肉で出汁を取った黒いつゆが特長で、はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺してあるのが特徴で、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。

これは「静岡おでん」(発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」)と呼ばれている。2007年には「静岡おでんの会」という団体が「B-1グランプリ」という食の祭典に静岡おでんを出展し、3位となった。

愛知県
八丁味噌をベースとした甘めの汁で、ダイコン、こんにゃく等の定番の具を煮込んだ「味噌おでん」が有名。

味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。

醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。

また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。

しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。

兵庫県姫路市
薄味だが、関東煮ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。

香川県
讃岐うどん店では、必ずと言っても良いほど副食として販売されている。

コンビニのおでんカウンターのような保温器で煮込まれている竹串刺しのおでんを、客はセルフサービスで取ってきて、注文したうどんが出来上がるまでの間などに食べる。

香川のうどん店のおでんは、セルフサービスのうどん店だけでなく一般店(店員がうどんを上げ下げしてくれる店)であっても大抵はセルフサービスである。おでんには茶色く甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。

愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。

沖縄県
沖縄のおでんは「てびち」(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられるのが特徴である。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共に「てびち」も販売されている。

アメリカ施政権下の頃、ちょっと駐在(NHK特派員)したが、「おでんに茶飯」の昼食が一番高かった。薩摩揚げを憎っくき薩摩ではなく博多から空輸しているため、原価が高くなるとの説明だった。出典:「ウィキペディア」

2014年02月01日

◆放るもん料理は明治から

渡部 亮次郎


日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖も絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わされなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』

2014年01月26日

◆ショックを受けた細川氏

渡部 亮次郎


25日の「夕刊フジ」(産経系列)は、舛添氏リード 細川氏は落胆…一枚看板「脱原発」争点とみなされず 都知事選序盤情勢 と次のように報じた。

<東京都知事選(2月9日投開票)の序盤情勢で、舛添要一元厚労相(65)が、細川護煕元首相(76)らを引き離していることが25日、報道各社の情勢調査で分かった。

細川氏の一枚看板である「脱原発」が、都民から最重要の争点とみなされていないことも判明。細川陣営にとっては衝撃の結果を突きつけられた形で、選挙戦術の見直しを迫られそうだ。

「もう少し競っていると思ったが…。ジタバタしても仕方がない」細川氏の陣営幹部は24日、調査結果を聞き落胆の表情を隠せなかった。

産経新聞、共同通信、毎日新聞、東京新聞が23、24日に行った電話世論調査をもとに取材を踏まえて探った序盤情勢によると、それぞれ舛添氏がリードし、細川氏と宇都宮健児元日弁連会長(67)が追い、田母神俊雄元航空幕僚長(65)が続く分析で一致した。

細川陣営にとってさらにショックなのは、「脱原発」が最大の争点として認められていないことだ。

産経新聞の調査によると、都民が最も重視する政策テーマは「少子高齢化や福祉」がトップの26・8%。次いで「景気と雇用」が23・0%で、「原発・エネルギー問題」は第3位の18・5%に過ぎなかった。

これでは「脱原発」を単一争点に設定し、小泉純一郎元首相の全面支援を受けて戦う細川氏の選挙戦術は見直しを余儀なくされる

また、細川氏は中高年層(40代〜)にある程度浸透しているものの、若年層(20〜30代)への訴求力は今ひとつ。特に、小さな子供を持つ母親世代には「脱原25ンターネットに詳しい衆院議員を選挙対策本部に入れ、ホームページに工夫を凝らして若年層への浸透を図る。ただ、告示前日に出馬を正式表明するなど準備不足は否めない。

23日には、小泉氏の街頭演説に感激したのか、街宣車の上で泣き始めた細川氏。選挙結果に泣かないためには、「日程が合わない」(陣営幹部)として回避している公開討論会を受けて立つなど、巻き返しの秘策が必要となりそうだ。>夕刊フジ 25日 

2014年01月24日

◆マシュマロ君、元気かね

渡部 亮次郎


見出しにしたマシュマロとは丸いしふにゃふにゃした菓子である。精力の衰えた男性をからかう科白(せりふ)に使われる。

話題にこれを持って来たのは、総理大臣が衆議院議長の権勢をやんわりとしかし強く牽制するために、前夜の房事で君がマシュマロ状態だったのをオレは知ってるんだぜ、との意味を、肩を叩いて口に出した故事を持ち出して、情報収集の今昔を話そうというのである。

男性の精力。個人差は大きいというが、最も強いのは17歳ごろで、あとは次第に衰えるとの説がある。以後、若人は中年、壮年、老年と進んで死ぬわけだが、伴って生じる地位や権勢、所得がどこまで高く多くなっても、肉体の持つ精力が衰えてはなんとも味気ない、と嘆くのは大体、成功の人生を送った男である。

精神的な勢力の権化(ごんげ)こそは政治家だとは良く言われることだが、体験からするに政治家こそは肉体的にも精力の強い者でなければ勤まらない。

田中真紀子の父親の角栄氏が1970年前後、自民党幹事長を勤めた頃、国会で野党を抑えて採決を強行しようとする寸前、泣くような表情で「ちょっと、ちょっとにわとり、鶏」といいながら姿を消した。

記者たちはそれならばと現場指揮の国対委員長を探すと、こちらも秘書にも言わずに姿を消したという。野党も殺気だって来る。

田中幹事長はにわとり,にわとりといって姿を消したがなんの意味か。考えて、なるほど、オレは鶏のようにあっという間に(房事を)終わって来るから行かしてくれ、目をつぶってくれと言う意味だったのだ。

敵を攻めに行くとなると戦国武将は俄然、性欲が昂然ときざしたものだと何かで読んだ事がある。幹事長と国対委員長は現代の戦(強行採決)を目前にして戦国武将になったのだ。

第二次大戦の最後のところしか体験していない当方に戦国武将は理解できない。しかし幹事長らは間もなく戻って、国会は採決強行で大混乱。しかし幹事長らは既に涼しい顔だ
った。

政治家のそうした性(さが)を知ってそのウラをかき続けたのが佐藤栄作である。後に総理大臣となりさらにノーベル平和賞も受賞する佐藤だが、「人事の佐藤」と言われる前から「早耳の佐藤」と言われていた。

運輸省(今の国土交通省)事務次官からいきなり内閣官房長官に抜擢さ乞われて政界入りした佐藤は、外交官上がりの宰相吉田茂に重用され続け若くして自由党幹事長に達した。その時に危機が訪れる。

大汚職事件・造船疑獄の容疑者の一人に数えられ東京地検に逮捕寸前に追い込まれる。そこで吉田首相が伝家の宝刀を抜くが如く法相に指揮権を発動して捜査をやめさせるよう命じ、佐藤を逃がした。佐藤はこれが無ければ後世、首相に昇ることは叶わなかっただろうと言われた。

佐藤はこの頃から政界の弱点こそはヘソの下に有りと感得。赤坂、新橋、柳橋といった花柳界における政治家の隠れた動静の掌握(つかむこと)に励むようになる。

後年アメリカではニクソン大統領が上下両院議員の弱点掌握に努め、法案の通過に利用したと言われた。有名なウォーターゲート事件はその一環だったと言われたものだ。

ところで佐藤が目をつけたのは、料亭の玄関に立っている下足番の男たちである。料亭では客は必ず靴を脱いで上がるが、その靴を下駄箱に座敷ごとに整理して置かないと帰りの時に混乱するから、予め女将から今夜のお客はどこの座敷は、どなたとどなたと聞かされている。

どの座敷では如何なるメンバーが会っているかを手に取るように知っているわけだ。何時に来て何時ごろ帰ったか、上機嫌だったのは誰で、誰はどのように不機嫌だったとか。

佐藤はその手を何軒の料亭にも使っていた。秘書がメモを回収し、酒を飲めない佐藤は夜のうちに情報のいわば分析を済ませていた。マシュマロ君、どうかねの科白はこうして簡単に出てきたのである。

君は男としての能力は低下しているらしいね、困ったね、僕はそれを知っているよと言われれば、男は昨夜の秘密をこの男は何で知っているんだとの疑問を持つより先に恐れを抱くだろう。昔から朝何とかの立たない奴にカネは貸すなの喩えがある。マシュマロの旦夕(たんせき=政治生命)は長くないよ。

佐藤はそうやって党の内外を掌握して行った。ヒマさえあれば国会議員の経歴簿を見ている佐藤だった。

大なり小なり国会議員は自分が生きるも死ぬも情報を早く得る事にあるとは知っているから、どんな情報も知りたがる。しかし佐藤のように花柳界にまで特別な方法を尽くしてまで情報を集めた人物はほかに知らな
い。

翻ってマスコミの情報収集は、少なくとも永田町に関する限りは記者会見に限られるのが今日この頃である。いや、朝駆け夜回りもしているよといってもそれらもまたすべて群れてやるから、本当の情報は掌握していない。

政治家は情報を得たいからマスコミに会う。その時は一度に多数が良い。しかし情報を漏らすのは一対一でなければならない。漏らした情報がどこの誰によってどのように漏れて行ったかが判らなくては困るからである。

従って記者の取る情報は政治家と一対一(差し)の時に得たものでない限り信憑性に欠けるといわざるを得ないことになる。嘗て小泉首相が毎日マイクの前に来て喋る一言などは真実からは程遠い。自分の都合の良いことを短く切って言っているだけである。短い方がテレビ局のデスクには好都合だと知っているからである。

そうやって世の中を見直して見ると今更ながら気のつくことは幾らでもある。テレビは見ない方が自分を守ることである。また例えば授業で先生がしつこく喋る箇所は試験に必ず出る。先生は得意のところだから、生徒、学生に覚えてほしいからである。このエッセイは例えばこの4行に眼目がある。これまではここまで解説するのは失礼かと慮って書かなかった。(文中敬称略)

2014年01月22日

◆細川氏“古傷”再燃も

渡部 亮次郎
 

〜佐川問題、陳謝 へ〜       


2014.1.21 付けの産経新聞は東京都知事選(2月9日投開票)について選挙は、「5千万円受領問題を受けた猪瀬直樹前知事の辞職に伴うものだけに「政治とカネ」の問題がクローズアップされている。こうした中、出馬の意向を示す元首相の細川護熙氏(76)も、かつて佐川急便からの借り入れ問題で結果的に内閣総辞職に追い込まれた。細川氏側は22日の正式な出馬会見で、国民の信頼を裏切ったとして陳謝する方向で調整している」と次のように報じた。

               ◇

 ◆知事選前の提供

「経緯は猪瀬氏の辞任と酷似する」。平成6年の細川内閣の崩壊の際、衆院予算委員会で佐川急便からの1億円借り入れ問題を追及した元通商産業相で、自民党都連最高顧問の深谷隆司氏(78)は振り返る。

細川氏が1億円を借り入れたのは昭和57年9月で、熊本県知事に初当選する前。政治資金収支報告書への記載はなかった。野党側は「選挙の裏金だったのではないか」と厳しく追及。一方、猪瀬氏の現金受領も一昨年12月の都知事選直前で、同じく政治資金収支報告書への記載はなかった。

 ◆釈明と領収証

釈明の経過も、両者は重なる。細川氏は当初、都内のマンション購入のためだと説明したが、借り入れ前に代金を支払っていることが判明。「自宅の山門や土塀の修理に充てた」とも説明していたが、修理は借り入れから、かなりの月日が経過してから行われていた。

猪瀬氏も当初、「資金提供という形での選挙の応援」としていたが、一転、落選した際の生活への不安から借りたと説明した。

さらに、追及過程で出てきた領収証や借用証の信用性も疑惑を深める結果に。細川氏は、計9回に分けて返済したと説明したが、領収書については「引っ越しか何かで紛失した」などとしていた。

ただ、追及過程で示したものには、印紙や押印に加え、振出人の名前の記載もなかった。猪瀬氏が示した借用証にも押印や印紙がなかった。

 ◆「疑惑説明が筋」

細川氏には、義父名義のNTT株の巨額取引問題も浮上。細川氏は「あくまでも義父の購入だ」としたが、売買は事務所の口座を通して行われた。相次ぐ疑惑に国会は空転し、細川氏は退陣を表明した。その後、証人喚問が行われたが退陣決定後で事実関係の確認程度にとどまったという。

猪瀬氏も都政の停滞を招いたとして、辞任。強い調査権を持つ百条委員会も開かれずじまいだった。

深谷氏は「猪瀬氏が辞めた直後に1億円問題の古傷を抱える細川氏が知事選に出てくる。20年前の話だが問題は再燃する。国政の問題である原発を都知事選に持ち込む前に、疑惑を説明するのが筋だ」と話す。自民党も選挙戦で1億円問題を取り上げていく構えだ。

細川氏の関係者は「22日の会見で細川氏自身が佐川急便問題などについても説明する」と話している。

                ◇

【用語解説】細川内閣 8党会派の連立により、平成5年8月9日に誕生した内閣。これで、自民党は昭和30年の結党以来、初めて野党に転じた。

細川内閣は選挙制度改革などに取り組んだが、懸案の消費増税では8党会派で意見が割れた。

こうした中、細川首相は平成6年2月3日未明、突如国民福祉税構想を打ち出した。ただ厚生相や官房長官らにも知らせておらず、政権内外で反発を呼び内閣は求心力を失った。また細川氏の佐川急便1億円借り入れ問題なども浮上、4月25日に総辞職に追い込まれ、約8カ月の短命に終わった。


2014年01月18日

◆小野田寛郎さん死去、30年間潜伏

渡部 亮次郎


このニュースに私は強烈な思いでがある。

<戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間潜伏を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。

大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。

50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。>産経ニュース 2014.1.17

小野田さんの帰国については強烈な思い出がある。ルバング 島で彼が「投降」の形で姿を近くあらわすというので、私はテレビ中継班の一団を引率して大阪放送局から海南市の実家にはけんされた。

なかなかあらわれない。民放は一旦諦めて大阪に引き揚げていった。滞在中は1日で何十万円もかかるからである。しかし局は判断を「お前に任す」という。

考えあぐんだ末、東京の園田直代議士のもとへ電話して助言を仰いだ。彼は戦場に11年もいた猛者だ。

「ナベしゃん、それは明日たい。あす3月10日は陸軍記念日だもん」。それで私は滞在を1日延長する許可をとった。

果たして現地で小野田さんは翌日「投降」した。実父や実母とのインタヴューはNHK特ダネとして世界に流れた。小野田さんのご冥福を祈る。

なお、後日、私は園田外務大臣の秘書官になった。

2014年01月17日

◆カキの季節になった

渡部 亮次郎


既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅構内に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

我が国の一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

日本での主な食用種

マガキ(真牡蠣) Crassostrea gigas(Thunberg,1793)最も一般的な種で、日本でカキといえば本種。寒い時期に食べる。大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され市場に出ている。広島県、宮城県、三重県産が有名。韓国からの輸入品も相当量ある。

イワガキ(岩牡蠣) Crassostrea nippona(Seki, 1934)「夏ガキ」とも言われる。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通する。天然物と養殖物の両方がある。

スミノエガキ(住之江牡蠣) Crassostrea ariakesis(Fujita, 1913)有明海沿岸で食用にされるが、他所へはほとんど出回らない。マガキにごく近縁な種で、殻の表面はやや滑らか。

イタボガキ属 Ostreaイタボガキ(板甫牡蠣) Ostreadenselamellosa(Lischke, 1869)
かつては多く食用にされ、能登半島や淡路島周辺が有名な産地であったが、現在は瀬戸内海地方で僅かに市場に出回る程度で、絶滅危惧種状態。

食用のみならず貝殻が最上質の胡粉の原料となる点でも重要であり、本種の復活と養殖技術開発の努力がなされている。

ヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis(Linnaeus, 1758)ヨーロッパ原産で、イタボガキに似た外観で輪郭が丸く平たい貝。別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。

日本では宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などで僅かに養殖され、高級食材としてフランス料理店などに卸される。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えば本種のことであったが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになった。それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキであるという。

アメリカで人気の日本原産の牡蠣 クマモト(熊本牡蠣)1946年頃熊本県八代市鏡町からアメリカに輸出された牡蠣の子孫が現在アメリカ西海岸でクマモトの名で養殖されている。

クマモトは小振りながら味が濃く、クリーミーとしてアメリカ市場で最も人気が高い高級牡蠣。

カキは食用としての歴史は非常に長く、世界中で食され、最も人類が親しんできた貝の一つである。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていた。

生ガキはフランス料理における定番のオードブルとなっている。また、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも存在する(ニューヨーク)。ナポレオン、バルザック、ビスマルクなどがカキの愛好家であったことが知られている。

日本では縄文時代ごろから食用されていたとされ、多くの貝塚から殻が発見されており、ハマグリに次いで多く食べられていたと考えられている。

室町時代ごろには養殖も行われるようになったという。大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていた。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食された。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られている。

日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降であり、生食文化が欧米から輸入された珍しい食材である。

古来より食べられてきたカキであるが、その一方で「あたる」食品(食材)としても知られている。カキの食中毒が注目されるのは非加熱状態で食べられる機会が多いことと関係している。

現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために生産・流通段階で対策がとられている。 生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられている。 さらに、保存基準、表示基準も規定されている。

貝毒以外は十分に加熱することで食中毒を回避できるカキを含むいずれの二枚貝も、同様の処理で食用にする限り食中毒の危険度に関しては変わらないという点である。

一方、魚では鮮度を基準として「生食用」「加熱用」の区別がされていることから、カキも同様であると思い込んだ消費者が酢ガキなどに、「鮮度がいい」という理由から加熱調理用のものを生で出す事例が後を絶たないのは残念だ。

2014年01月16日

◆園田が教えた王の1本足打法

渡部 亮次郎


私がその晩年に外務大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)は剣道7段、居合道8段、合気道8段、柔道3段など「武道」の猛者としても知られた。

福田赳夫内閣の官房長官当時、王 貞治選手の本塁打数868本を祝って日本国民栄誉賞を初授与した時、私に「ワンちゃんに1本足打法を教授したのはワシたい」と胸を張った。

王に1本足打法を薦めたのは荒川博ということになっているから、それを「完成」させる過程で、居合や剣道の達人として手伝ったと言う事のようである。

<剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた。>(堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年)

当時、羽賀道場では既に園田が師範代だったから「球の芯を斬る」真髄を教えた、とよく言っていた。剣道家羽賀準一のもとに連れてきた荒川の見識を高く評価すべきだろう。

<特に天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあった。>(「ウィキペディア」)

王 貞治(おう さだはる、1940年5月20日―)は、日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。

日本国民栄誉賞の初受賞者。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、宮崎市名誉市民。73歳。

荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王の出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。

観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。

荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それで王はすぐに左打ちを実践したところ2塁打を打ち、以後左で打つようになった。

荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えた。

荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。

小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。

1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。

荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。

秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。

王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、2割7分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。

その1つが1本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れない。

2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から1本足で打つことを王に命じた。

なお、王本人によれば「1本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は2塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。

後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら1本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。

この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。

また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けたことは前述の通り。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」。

「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで1本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談では「2本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「1本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。出典:「ウィキペディア」(文中敬称略)


2014年01月14日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる 鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々 たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁 として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸 の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに のっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒し て途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙 中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指 名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、 調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約 1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前 だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設 置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田 が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開 き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略 に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦 は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東 正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面 がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の 足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省 が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の 間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再 建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く 受け「角影内閣」との異名をとった。>日本大百科全書(小学館)
                         (文中敬称略)

2014年01月11日

◆池上彰氏が逆提案 都選

渡部 亮次郎


〜「細川さんが出た方が…」〜

2014.1.10の産経新聞は細川氏からの出馬打診に池上彰氏が「細川さんが出た方が…」と逆提案していた、と報じた。それで細川氏に何かが芽生えたらしい。

<東京都の猪瀬直樹前知事の辞職に伴う都知事選(23日告示、2月9日投開票)で、都議自民党は9日の総会で、舛添要一元厚生労働相(65)の推薦を決めた。石破茂幹事長ら党本部の執行部との調整を進める。

一方で、細川護煕(もりひろ)元首相(75)が出馬を検討していることが9日、複数の関係者への取材で分かった。首相経験者の細川氏が名乗りを上げれば、選挙戦の構図が一変する可能性もある。

舛添氏は、都議会自民党の総会で、2020年東京五輪に向けた対応など都政の重要政策について説明。知事に就任した場合は都議会とも協力関係を構築する考えを表明した。

これを受け、都議会自民党は、行政能力・危機管理能力に優れ、都議会と信頼関係を築けることなどの3つの選考条件に合致すると判断し、舛添氏の推薦を決定した。

10日午前の都連役員会で確認し、党執行部に報告する。ただ、舛添氏への反発も根強いため、党本部として機関決定はせず、石破氏が談話を出して事実上の推薦とする方向だ。

一方、出馬を検討している細川氏は脱原発を主張しており、原発ゼロの立場を取る小泉純一郎元首相に支援を取り付けたい意向とされる。知名度の高い首相経験者2人が連携すれば、選挙戦の台風の目になる可能性が高い。

細川氏周辺によると、細川氏は今年に入ってジャーナリスト(NHK OB)の池上彰氏(63)と会談し、出馬を打診したが、池上氏は逆に「細川氏が出た方がよい」などと立候補を促したという。細川氏らは「池上氏が最適の候補者だ」として、引き続き出馬を要請している。

細川氏が出馬する場合は無所属で臨む意向のため、民主党が出馬を打診したものの固辞。小泉氏の対応や他候補の動きを見極めながら、来週にも最終判断するとみられる>。

2014年01月10日

◆スパイ防止法案概要

渡部 亮次郎


国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案は、1985(昭和60)年の第102通常国会で自民党所属議員により衆議院に議員立法として提出されたが、第103臨時国会で審議未了廃案となった法律案。通称「スパイ防止法案」。

全14条及び附則により構成。外交・防衛上の国家機密事項に対する公務員の守秘義務を定め、これを第三者に漏洩する行為の防止を目的とする。

また、禁止ないし罰則の対象とされる行為は既遂行為だけでなく未遂行為や機密事項の探知・収集と言った予備行為、過失(機密事項に関する書類等の紛失など)も含まれる。最高刑は死刑または無期懲役(第4条)。

憲法が保障する基本的人権に対する配慮から、第14条において「この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならない」と定められているが、飽くまでも政府の努力義務とされており、法律の適用により一般国民の人権が侵害された際の救済措置が担保されていない点が特に批判の対象とされた。

自民党内においてスパイ防止法の必要性は1980年代前半から活発に議論されるようになり、当時の内閣(海部)の許でその気運が高まった。

これに対し一般国民の権利制限に直結する法律であることや報道の自由が侵害されることに対する懸念から、大多数のマスメディアが反対に回った(推進の立場を表明した主たるマスメディアには世界日報がある)。

そのため、政府は内閣法案として提出することを断念するが通常国会の閉会を間近に控えた1985年6月6日に伊藤宗一郎ら10名が衆議院に議員立法として法案を提出した。

これに対し、当時の野党(日本社会党・公明党・民社党・日本共産党・社会民主連合他)は断固反対を主張。法案は継続審議となるものの10月に開会した第103臨時国会でも野党は徹底して審議拒否を貫き、12月21日の閉会に伴い廃案となった。

なお、2001年に改正された自衛隊法において従来の第59条における「秘密を守る義務」規定に加え第96条の2に「防衛秘密」規定が新設され、廃案となったスパイ防止法案の一部と同趣旨の規定が盛り込まれた。2007年2月には航空自衛隊の一佐が読売新聞記者に機密情報を漏洩し、この規定に違反したとして警務隊が事情聴取や家宅捜索を行ったと報じられている[防衛省、読売新聞に機密漏洩の疑いで一佐宅を捜索(J-CASTニュース)]。

世界基督教統一神霊協会(統一教会)及びその政治組織である国際勝共連合が本法の必要性を特に強く主張しており、系列紙世界日報がたびたび「スパイ防止法の早期制定」を訴える社説や記事を掲載している。その論調は概して「先進国でスパイ防止法が存在しないのは日本ぐらい」というものである。