2014年06月09日

◆「核」が日中開戦を抑止する(34)

平井 修一


地政学者の奥山真司氏が「ミアシャイマーの提案する四つの対中戦略」をアップしている。

氏はジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』の第二版の翻訳作業中で、「最後の第十章がすべて今後の中国の分析に書き換えられており、いくつか興味深い記述があります。とくに気になったのが、今後の中国に対してアメリカやその同盟国がとるべき戦略についてのもの。ミアシャイマー自身によれば四つあるとのことですが、今回はここで特別に要約して掲載しておきます」とある。以下ざっくりと転載する。(見出しとカッコ書きは平井による)
・・・

■中国を封じ込めるのは困難

台頭する中国に対処するための最適な「第一の戦略」は「封じ込め」である。これによれば、アメリカは北京政府が領土を侵略したり、アジアにおいて影響力を拡大するために軍事力を行使するのを牽制することに集中すべきであることになる。

この目標のために、アメリカは中国周辺のなるべく多くの国々を巻き込んで(軍事力均衡のための)バランシング同盟の結成を狙って動くことになる。そこでの究極の狙いは、NATOのような形の同盟関係を構築することだ。冷戦期のNATOは、ソ連の封じ込めという意味ではかなり効果的な制度だったからだ。

また、アメリカは世界の海の支配の維持に努めなければならず、これによって中国がペルシャ湾や、とりわけ西半球のように、離れた地域に戦力を投射するのを困難にしなければならないからだ。

オフショア・バランサー(沖合から影響力を行使し安定を図る国)として豊富な歴史を持つアメリカにとって理想的な戦略というのは、なるべく背後にいて、中国の周辺諸国に中国封じ込めのほとんどの重荷を負わせるというものだ。

つまりアメリカは実質的に中国を恐れるアジアの国々にバック・パッシング(脅威を及ぼしてくる国に対して別の国を使って対抗させる)をするということだが、これは以下の二つの理由から、実際には行われない。

その理由としてまず最も重要なのは、「中国の周辺国が中国を抑え切れるほど強力ではない」ということだ。したがって、アメリカには反中勢力をリードするしか選択肢は残されておらず、アメリカの強力な力のほとんどをリードすることに傾けることになるはずだ。

さらにもう一つの理由は、中国に対抗するためのバランシング同盟に参加する「アジアの多くの国々の間には大きな距離の開きがある」という点であり、これはインド、日本、そしてベトナムの例を考えてみても明白だ。

したがって、ワシントン政府には「彼らの間の協力関係を取り持ち、効果的な同盟体制を形成する」必要が出てくる。もちろんアメリカは冷戦時代に似たような状況にあったわけであり、ヨーロッパと北東アジアでソ連を封じ込める重荷を背負う他に選択肢はなかった。

現地の国々が潜在覇権国(中国)を自分たちの力で封じ込められない場合には、沖合に位置しているオフショア・バランサー(米国)というのは、実質的にオンショア、つまり岸に上がらなければならなくなるのだ。(米中激突になりかねないから中国封じ込めは難しい)

■それでも「封じ込め」は最も効果的

「封じ込め」の代わりとなる戦略は三つある。最初の二つは、「予防戦争」を起こしたり、中国経済の発展を遅くするような政策を採用することによって中国の台頭を阻止することが狙われている。

ところがこの二つのどちらもアメリカにとっては実行可能な戦略とはならない。三つ目の戦略は「巻き返し」(rollback)であるが、これは実行可能でありながらその利益はほとんどない。

「予防戦争」が実行不可能な理由は、単純に中国が核抑止を持っているからだ。アメリカは自国、もしくは(日本など)同盟国に対して(核による)報復可能な国(この場合は中共)の本土に対して破壊的な攻撃を仕掛けることはできない。また、中国が核兵器を持っていなかったとしても、アメリカの大統領が中国に対して予防戦争を仕掛けることは想像しづらい。

中国がこのまま急激な経済成長を続けることができるのか、そして最終的にアジアを支配しようとして脅威となるのかは誰にも確実なことが言えないのだ。この未来の不確実性も予防戦争を見込みのないものにしている。

「中国経済の成長を遅くする」という戦略は、核戦争に比べれば確かに魅力的な選択肢ではあるが、これもまた実行不可能なものだ。この場合に一番の問題となるのは、アメリカの経済にダメージを与えずに中国経済を鈍化させる実際的な方法が存在しないという点だ。

「封じ込め」に代わる三つ目の戦略は「巻き返し」であるが、これにはアメリカが中国の弱体化を狙って、その友好国の政権の体制転換をしたり、さらには中国国内でトラブルを起こしたりすることを含む。

たとえばパキスタンが中国側と密接な関係を結んでいるとすれば(これは将来確実に実現しそうなことだが)、ワシントン政府はパキスタン政府の体制転換をして、親米派のリーダーにすげ替えるのだ。もしくはアメリカは新疆ウイグル自治区やチベットなどで独立派を支援するなどして政情不安を煽ることもできる。

アメリカは冷戦時代にソ連に対して主に「封じ込め」を実行していたが、現在わかっているのは、いくつかの面で同時に「巻き返し」をやっていたということだ。一九四〇年代後半から五〇年代前半にかけてソ連国内で反乱工作をしかけていただけでなく、親ソ派と思しき世界中の無数の政府のリーダーたちを次々と追放していった。

実際にもワシントン政府は、一九五〇年代から六〇年代にかけて中国に対していくつかの隠密工作を直接仕掛けている。

このような「巻き返し」工作は、超大国の間のバランス・オブ・パワーにはわずかな影響しか与えておらず、ソ連崩壊を早めることにはつながらなかったと言えるが、それでもアメリカのリーダーたちはあらゆるところで「巻き返し」を実行しており、ワシントン政府の政策担当者たちが将来強力になった中国に対して、この政策を使わないはずがないとは言い切れないのだ。

それでもアメリカにとっても最も効果を発揮する戦略が、今後も「封じ込め」である事実は変わらない。 (以上)
・・・

米国を後ろ盾とするアジア版NATOの盟主は日本が務めざるをえない。経済力と基本的な通常兵器と優秀な将兵を持ち、同盟国に最新兵器を供与する能力があるのは日本しかないからだ。しかし、最大の問題は、核武装のない盟主に付いてくる国があるか、ということだ。

日本とアジアが中共に侵略されたくないのなら、日本の核武装は絶対的な必要条件である。(2014/6/8)

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◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争(戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼ばれなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた)による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   (新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で始めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

2014年06月08日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎


7年前、2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨で、それでも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。


音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。「ウィキペディア」

2014年06月07日

◆毛による餓死者は3755万人

渡部 亮次郎


中華人民共和国が1949(昭和24)年10月1日、毛沢東によって建国宣言された国である事は知っていた。またその同じ毛沢東によって強行された大躍進政策が悉く失敗し、厖大な餓死者を出した事も知っていた。

だが餓死者の具体的な数字については、「ウィキペディア」では「2000万から5000万と言われているがはっきりした数字は解っていない」とし、「岩波現代中国事典」(1999年刊)も「1500万〜4000万人」としか表現していない。

ところが共同通信社以来、北京に10年以上駐在している産経新聞社中国総局長の伊藤正氏(その後退社)が2008年2月21日付産経紙に掲載した「トウ小平秘録」第 152回で「餓死者は3755万人」と具体的数字を報じた。おそらく世界初で ある。

これを明らかにしたのは中国、国防大学の元研究員辛子陵氏で2007年7月に刊行した著書「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)の中であった。そこには飢餓の末、子供や死体を食した例などを暴露していた。

辛子陵氏は中国人民大学元副学長の謝韜氏とのコンビで「中国共産党は中国社会民主党と改称しスウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張。

そこで毛沢東が大躍進政策や文化大革命でいかに大きな誤りを犯したかを具体的に暴露する必要があり、その一環として大躍進政策の失敗による餓死者数を明らかにしたものである。激しい批判に曝されているのは当然だから数字の根拠には自信が有るのだろう。

1957(昭和32)年11月6日、ソ連共産党第1書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

毛沢東はこれに触発され、政権樹立後9年目の1958年の第2次5ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという壮大(無茶)な計画を立案した。

しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の下で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。

それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。

しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

1958年2月から、4害(伝染病を媒介するハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開され、スズメを大量に駆除した。

北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除したが、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。

スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。

人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がった。

また、今は完全に間違いだとされているルイセンコ(ソビエト)の学説に基づいた稲の密植など農業開発は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。私も郷里の秋田県で、親戚の若者が親たちの止めるのも聞かずに密植をやり大失敗したのを見た。

地方政府が誇大な成果を党中央に申告した結果、中央政府は申告に従って地方に農産物の供出を命じ、地方政府は農村から洗いざらい食料を徴発したため、広範囲の農村で餓死者続出の惨状が起きたというのである。

飢饉の最悪期にも都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。

1959年毛沢東はこの政策失敗を認めて国家主席を辞任した。毛沢東はこれによって実質的な権力を失い、代わってケ小平・劉少奇などが修正主義的路線に基いて経済を再建していくことになる。

しかしこの後も中国共産党指導部における権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すために文化大革命を引き起こし空白の10年を作った。出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

2014年06月06日

◆3度目は意識的失脚

渡部 亮次郎


トウ(!))小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は作らせなかった。

参考:産経新聞「?(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」

                        執筆 2007・07・19




2014年06月05日

◆トウ小平の歩んだ途

渡部 亮次郎


!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、?は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1972年9月、田中角栄内閣により日中国交正常化。トウはいなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、?小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。

1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。

1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、?小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。

すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、?小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。

しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に3度目の復活を果たす。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。

?小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。

この訪日で?小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。?小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、?小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。

前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した?は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深せん市など4つの経済特別区の設置を決定する。

!)小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、?小平は華国鋒の追い落としを目論む。

華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、?小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、?小平を支持するものであった。

華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記に就任し、?小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には?小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに?小平体制が確立した。

!)小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。

1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、?は政治改革に全く反対だというわけではなかった。
第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。

ただし、?自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には?小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、?小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた?小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した。

!)小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた?小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。

中国に帰国した?小平は、第11期3中全会において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。

代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。

但し、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管?猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた?小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。

経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

一方対日政策では、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒し、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。

これを受けて1983年、江蘇省党委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館設立を決定し、南京市党委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。

!)小平は1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、?小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争40周年に当たる同年8月15日にオープンした。

!)小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。

本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは娘の?楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台は?の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

!)小平の死後、?が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、?小平理論として中国共産党の指導思想に残された。


名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「?蝟子(ハリネズミの?)」、「?矮子(チビの?)」と呼ばれたりもした。毛沢東は?小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった?小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからと後年、語っていた。

!)小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。

これは最も?が好んだ言葉であり、毛沢東が?を弾劾する際にその理由の一つとしている。

実子である?樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、?小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。?小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した。

日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、?小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。

その際に?小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとした。

近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。

新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、?小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。

また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。
「ウィキペディア」


2014年06月04日

◆哀れ 唐人お吉

渡部 亮次郎


若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別し、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。     

2014年06月03日

◆「核」が日中開戦を抑止する(30)

平井 修一


(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
・・・

米ソ両国がミサイル大国となったのは、核戦略と切っても切れない関係がある。ともに核兵器の運搬にナチス・ドイツが開発したミサイルを用いることを考えた。

このミサイルはジェットエンジンとロケットエンジンの二つの種類があり、ナチス・ドイツは二つを使ってロンドン市を攻撃したが、当時のジェット式は速力が遅く、飛行するのが肉眼で見えるため、戦闘機に迎撃されて大した戦果は挙げられなかった。

一方、ロケット式は高速のため肉眼でも飛行音でも察知できず、迎撃は不可能だった。にもかかわらず、ヒトラーはジェット式の製造に力を入れ、好機を逸した。

ナチス・ドイツのミサイル開発は連合軍を驚かせた。その効能に目をつけた米ソは、東西からベルリンへ向かって進撃する途中に、ドイツのロケット研究施設および研究者をできるだけ自国のために捕獲した。

米ソがまず採用したのは「ロケット式の弾道ミサイル」である。多種多様のICBM(大陸間弾道ミサイル)、IRBM(中距離弾道ミサイル)を開発し、完成させた。

この成果により、通常弾頭を使用する地上用「戦術ミサイル」が開発された。砲兵では攻撃できない遠距離を攻撃するためだ。「対戦車ミサイル」、航空機や飛行物体を撃ち落す「対空ミサイル」、艦艇を攻撃する「対艦ミサイル」も開発し、性能は著しく向上した。

今日のミサイル戦争の時代は、米ソによる核の対決があったからこそ生まれたといえよう。

ロケット式弾道ミサイルの時代が華々しく開花したのに比べ、ジェット式の巡航ミサイルの時代は大いに遅れた。最大の欠点は速度が遅く、発見されて撃墜される可能性が高いことだ。しかし、速度が遅いことで、飛行途中で方向や高度を変え、目くらましを行い、秘匿性を増すことができる。それは誘導システムの改良によって可能だ。

高度を低く飛べることは、レーダーによる捕捉をきわめて難しくする。これが現代の巡航ミサイルの論理なのである。

(平井:弾道ミサイルは弾丸のように高速でピューンと高度に昇り、そこから「目標地域」に向かってまっしぐらに進む猪突猛進型。一方で巡航ミサイルは低速で「目標物体」を定めて、目くらましをしつつ右往左往しながら目標を破壊するようだ。弾道ミサイルは巨大な砲弾、巡航ミサイルは頭脳付きの特攻か)

巡航ミサイルの研究はソ連が先行し、60年代には200〜300メートルの高度を保って飛行する制御システムを完成させた。米国もそれを追いかけ、さらにTERCON(等高線照合システム)を完成させた。

これは、巡航ミサイルのコンピュータに、飛行経路の地形情報を入力しておき、飛行中にその情報と実際の地形とを照合しながら、飛行経路の誤差を修正して(正確に目標地点へ)飛行するものである。

湾岸戦争で活躍した米国製巡航ミサイル「トマホーク」はTERCONを積み、地表100メートルを飛行し、高度なピンポイント攻撃を可能とした。

巡航ミサイルは対艦攻撃に使われる場合が多い。一度高く打ち上げてから海面すれすれに飛び、敵艦のレーダーに捕捉されないようにする。最後に目標をセンサーでキャッチしてから突進する。飛行方向も直線ではなく、途中で左右どちらかに偏向しながら飛んでいく。最終目標を秘匿するためだ。

第二次大戦末期に英国機にバタバタ撃ち落とされたジェット式ミサイルは、新技術を得て新兵器として甦ったのだ。

ただし、巡航ミサイルにも弱点はある。速度は速くなったとはいえ、所詮はジェットエンジンのため限界がある。飛行経路と高度を察知され、対空機関砲で待ち伏せされると弱い。実際、湾岸戦争やその後の米軍のイラク攻撃において、かなりの数の巡航ミサイルが撃ち落とされている。

それを避けるには、巡航ミサイルに一定の高度と経路を与えないようにTERCONにインプットすればよいのだが、そのためには偵察衛星などによる地形データの収集や多数の技術者、膨大な金が必要になり、実戦ではやっていられない。

さて、核戦争を意識して開発されたミサイル技術は、通常兵器を用いる局地型紛争にも大きな影響を与えてきた。その代表的なものがフォークランド紛争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争などである。

フォークランド紛争は、海戦におけるミサイル時代の到来を如実に示した。空対艦ミサイル「エグゾセ」、艦対空ミサイル「シーウルフ」の活躍が目覚ましかった。


イラン・イラク戦争は8年近く続いた長期戦となったが、イラクの軍事的優位で停戦となった。最終段階でイラン側の総崩れとなった大きな要因に、イラクによるミサイル攻撃があった。後方を双方ともミサイルで攻撃し、1988年2月末、双方は相手方の首都をミサイルで撃ち合った。

同年5月26日までの間、イラクはイランへ180発(内テヘラン向け133発)、イランはイラクへ74発(内バグダッド向け57発)で、イラクは2.4倍の優勢を示した。


この首都ミサイル攻撃合戦の最中、テヘラン市民の間に、イラクがミサイルに化学(毒ガス)弾頭をつけて撃ってくるとのうわさが流れ、避難騒ぎとなった。これを裏書きするように、イラクはイラン南部のアフワズ市を化学弾頭付きミサイルで攻撃し、イラクの外相がこの事実を記者会見で明らかにした。テヘランへの化学攻撃はいつでもありうることになった。

(この恫喝により)イランは同年7月18日、停戦を求める国連決議を受け入れざるを得なくなった。後方の市民の安全に対する脅威が、いかに戦争の行く手に影響するかを物語っている。

1990年4月、イラクのフセイン大統領は、「イスラエルの核兵器に対して“貧者の核兵器”である化学兵器で対抗する」と宣言した。


この宣言とイラン・イラク戦争における実績とが、湾岸戦争の際、イスラエルへの大きな脅威となった。イラクの化学弾頭付きミサイルの攻撃を恐れたイスラエルは、ミサイル攻撃の警報があるたびに、市民が防護マスクをつけて防空シェルターへ避難しなければならなかった。そのため、イスラエルの経済活動は大きく阻害されたのである。(つづく)(2014/6/3)

◆トウ小平のタン壷

渡部 亮次郎


記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞) =故人が2012年9月22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、トウの足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>ちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて北にしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した。ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだろうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的だった。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか

2014年06月02日

◆「核」が日中開戦を抑止する(29)

平井 修一


(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
・・・

先に、核兵器があたかも使えない兵器となったかのように論じた。ただし、これは米ソ間のオーバーキル(過剰)状態、あるいは「核兵器を最初に使った」ことに対する国際世論の非難を恐れる場合のことである。

核兵器が「高度の政治兵器」であることの意義は少しも薄れていない。そこでフランス、中国が昨今、核実験を再開し、北朝鮮、イラク、ブラジルなどが核兵器の開発を推進してきたのであった。

フランスの場合、スエズ動乱(1956、注)に出兵し、作戦目的をほぼ達成しながら、すでに水爆を開発したソ連の核の恫喝に屈せざるを得なかった屈辱を味わっている。その時、米国の核の傘はフランスの味方とならなかった。こうした苦い思い出が独自の核兵器体系の開発にフランスを走らせたのである。

さらに近年の東西冷戦構造の崩壊によるヨーロッパにおける米核戦力の大幅削減、英国の核戦力の現状維持(フランスの約3分の1程度)、およびドイツが当面核武装を行わないことなどが、フランスをしてヨーロッパの核大国となる機会を与えた。

これは、経済面で米国、日本、ドイツに大差をつけられたフランスが、政治大国として甦る絶好の機会であった。これと先の苦い思い出とが、1996年の核実験再開の背景にある。それだけに、なまじっかな反対運動で引っ込むはずはない。


中国の場合、将来生じるであろう米中対決に備えて、核戦力の質量両面における増強を図っている。米中交渉におけるバーゲニング・パワー(国際間の交渉・折衝などにおける対抗力、交渉能力)として核戦力を位置付けているのだ。さらに近隣の台湾、日本、ベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどへの軍事的圧力をも考慮してのことである。

核兵器が「究極の兵器」であるゆえんは、通常兵器と異なり、その大量破壊性にある。すなわち、たとえ一発であろうと、核大国に対し相当の損害を与え得る。もしその命中地点が政治、経済、軍事の中枢地域であったならはかり知れない不利益をもたらす。そこで米国、ロシアのような核大国といえども、小国の核戦力を無視できない。


この事実と、核兵器を持つことで地域の覇権を握れることが、第三世界における核拡散を招いている。米朝交渉において米国が北朝鮮に大幅に譲歩したのは、北朝鮮が核兵器を完成させる可能性を考えたからである。湾岸戦争において、もしイラクが事前に原爆を完成させていたなら、米国はあのように一方的に戦争に邁進できなかったであろう。


核兵器開発の潜在能力があるのは北朝鮮、イラク、ブラジル、アルゼンチン、イラン、アルジェリア、リビア、シリア、台湾、韓国、日本、オーストラリア、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ドイツ、イタリア、カナダなどの諸国である。依然として核拡散の恐怖は消えていない。(つづく)
・・・

注)スエズ動乱:スエズ戦争、第2次中東戦争とも。1956年、英・米両国のアスワン・ハイダム建設援助計画撤回を機に、エジプトのナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言。これに反対して英・仏・イスラエルが出兵したが、親米諸国を中心とした国連の停戦決議や、ソ連の英仏へのミサイル攻撃警告(核恫喝)などに押され、1957年完全撤兵した。

フランスにとって、米国は頼りにできないことになり、ソ連の核恫喝には屈するしかなかったのだ。

1958年、フランス大統領に選出されたドゴールは、国益のために核武装に踏み切った。当時のフランスは、今の日本と同じく、ソ連の核の脅威をアメリカの核の傘でしのいでいたのだが、第二次大戦生き残りのリアリスト、ドゴールは核の傘に疑問を持ち、NATOの総司令官(米軍大将)やケネディ大統領に率直に疑問点を表明した。

「どんな状況であろうとも、アメリカは、ソ連がフランスを核攻撃した時、報復のためにソ連と核戦争をするのか、それならば、その軍事シナリオを具体的に説明してほしい」

ドゴールは具体的な核戦争時の保障を求めたのだが、ケネディも総司令官も答えられず沈黙したままだったという。

核を保有しなければ核恫喝に屈して、戦う前に敗戦国になってしまうのである。世界の現実とはこういうものだ。(2014/5/31)

◆出てこない「まぼろしの」

渡部 亮次郎


どうしたものか、25日払暁、古賀政男の作曲した「影を慕いて」が頭をよぎり、だが冒頭のフレーズが思い出せず、とうとう目が覚めてしまった。まだ明治大学の学生だった古賀が失恋し、自殺しようとした時、この詞を思いつき、珍しく作詞、作曲ともに古賀政男という一曲である。

勿論、私が生まれる前。戦時中は唄えない「軟弱」な歌だから、戦後、ラジオで聴いて耳に残っていたのだろう。なにしろ演歌好きの私も自身で唄ったことは無い。

作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
  永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
  儚(はかな)き影よ 我が恋よ

以下の解説は「二木紘三のうた物語」による。歌にまつわる物語や思い出など配信しています。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_469a.html


<《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなかで、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。

友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。

その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固め、帰京します。このときの懊悩を歌にしたのが『影を慕いて』で、これが作曲家古賀政男のデビュー作となりました。

昭和3年(1928)11月、24歳のとき、古賀政男は、創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会でこの曲を発表することにし、佐藤千夜子に歌を依頼します。

佐藤千夜子は当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれ、無償で出演することを承知します。

彼女が歌った『影を慕いて』はそこそこ好評でした。それがきっかけとなって、古賀政男はコロムビアの専属作曲家となり(のちにテイチクに移籍)、以後順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

『影を慕いて』は佐藤千夜子の唄でレコード化されましたが、あまりパッとせず、昭和7年(1932)に藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。藤山一郎は、まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生でした>。

藤山はこのほかにも流行歌をいくつか吹き込んだ。日本橋にあった実家が倒産した為のアルバイトであったが、学校では禁止していたので、ばれて停学を喰らった。いまでは考えられない出来事。その後、後輩の松平晃も藤山の奨めで流行歌を吹き込み、こちらは退学処分となった。

なお古賀は生涯、独身を貫いた。

<古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学卒。

本名、古賀正夫。少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽。大正琴を愛した。プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、国民的な作曲家としての地位を確立。多くの流行歌をヒットさせた。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)首席卒業のクラシックの正統派藤山一郎から、演歌の女王・美空ひばりまで、その作品は5000曲とも言われている>。(「ウィキペディア」)


2014年05月30日

◆か゜き゜く゜け゜こ゜

渡部 亮次郎


生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなった
ころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にかからないガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以て示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。でも八代亜紀や大川栄策は出るがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

また公明党が衆院に初めて進出した時に大阪出身の書記長に放送討論会の出演交渉をした。「考えておきまっさぁ」というので2-3日後に尋ねたら「断ったではないですか」。考えておくは大阪弁では断りの言葉だったのである。なんとも。

標準語(ひょうじゅんご)は、ある民族、共同体、国家、組織、場などで標準となる言語とある。日本語においては明治政府により関八州の東京方言(征夷大将軍徳川家城下町の中流家庭の言葉)を基礎にして「標準語」を作成する政策がとられた。

これは主に官公庁の発行する各種の文章というかたちで実施された。そのうちもっとも代表的で、革新的であったのは、小学校における国語の教科書である。これに文壇における言文一致運動が大きな影響を与えて、現在の標準語の基が築かれた。

明治期に標準語制定を任された役人の「苦闘」を描いた井上ひさしの作品が 『国語元年』である。読んだことがあるが、評定の中で京都弁が標準後になりかけたことがある。

標準語と類似のものに共通語があるが、厳密には同じものではない。共通語がその地域内で意思疎通を行うための便宜的な言葉であるのに対して、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指す。

日本語においては、もともと共通・標準となる日本語のかたちを標準語という用語によってあらわしていたが、ある時期から共通語に言い換えられるようになった。

これは「標準」という言葉に強制のニュアンスがあるという理由によって、主に教育関係やマスコミにおいて用語の交代が行われたものであるから、注意を要する。

歴史的には国民国家成立時に方言および少数言語を廃止するため、主方言または主言語を基に国語として作成、強制使用されてきた。特にフランスの絶対王政時に打ち出されたフランス語の標準語化政策において顕著である。英悟排除の思想の源もここにあるか。

日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重であることであって、口頭言語については、発音、イントネーション、アクセント等の面でまだ固定した規範が完全に成立しているとはいいがたい。

かつてはNHK のアナウンサーがこの「教科書のための言葉」に近い日本語を話すとされた時期もあったが、現在のNHK では地方に焦点が当てられてアナウンサーによる画一的な標準語がかつてほど重視されなくなってきているため、放送メディア上でこのような規範を追求しようという傾向は以前よりは弱まっている。

また規範的な標準語と東京弁は混同される傾向にある。実際は東京弁は関東方言の一種でしかなく、標準語で「〜してしまう」を「〜しちゃう」等々と転訛して居る。

しかるに、アナウンサーや俳優らメディア関係者たちは平気で東京弁を用いているのが現状である。洋画に日本語の吹き替えをする時や、テレビに出ている外国人の言動を翻訳する時でさえ、標準語ではなく東京弁で編集される場合がほとんどである(例「やっちまったよ。」「しょうがねぇだろ」など)。

日本語における書記言語偏重は、標準語形成期に音声メディアが未熟であったこと、江戸時代から識字率が高く日本語が伝統的に筆記言語を重んじる伝統を持っていたこと、言文一致運動が新聞記事における臨場感あふれる報道や小説を書くための文章をつくるという目的意識に支えられていたこと、などがその理由としてあげられる。
参照:「ウィキペディア」

2014年05月28日

◆エンパイア・ステート・ビル

渡部 亮次郎


「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に案内してもらっての贅沢な旅だった。もう40年近く前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは一度は珍しいが、そんなに見るのは変質者なのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと所望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食べない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時は醤油が殆ど普及してなかった。塩だけ。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はNYを象徴する超高層のエンパイア・ステート・ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベさん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁のふちへは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノンにイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。ビートルズを知らない政治記者だった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「ボクも高所恐怖症なんだよ」。

エンパイア・ステート・ビルディングは、同じくマンハッタンを代表する高級ホテルであるウォルドルフ=アストリアが建っていた跡地に建設された。

工事はクライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急いで行われ、1931(昭和6)年5月1日に年に竣工した。私の生まれる5年も前だ。当時、わが国のビル高さ制限は100尺(30m=8階)。

ところが折からの世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くの部分が空室であり、「エンプティ(空の)ステートビルディング」と揶揄されたこともあった。

その後は約1万のテナントが入り,約2万5000人を収容。世界最高の建物として約40年間王座を保ってきたが,今日ではさして高さは誇れない時代になった(世界大百科事典)

73基のエレベーター(貨物用の6基を含む)、1860個の階段などで構成されている。

ビルの、1950年代に付け加えられた電波塔をあわせると443・2mになる。頂上部分では電飾がされており、日によって色が変化する。

日本との戦争が終わる寸前の1945年7月28日の午前9時49分に、深い霧の中ニュージャージー州のニューアーク国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍のB-25爆撃機が、79階の北側に衝突して機体が建物に突入、搭載エンジンが衝突の衝撃で機体から脱落し、エレベーターシャフトを破壊した。

この際に79階と80階で火災が発生したが約40分で消火した。 着陸直前で燃料の搭載量が少なかった上、比較的小型の機体であったことから、14人の死者を出したものの建物自体への損害は比較的少なかったこともあり事故後2日で営業を再開した。

日本の建築基準法は英国法に倣って作成されたもので、建物の高さについては、原則として100フィート(百尺、約31m)という制限が課されていた。

この制限は、関東大震災を教訓として長い間維持され、これが撤廃される1962(昭和37)年まではおよそ9階建て程度の建物しか建てられなかった。この当時、日本で最も高い建物は国会議事堂の中央塔(65m)であった。

60年代には、隆盛していたメタボリズムの建築家から、超高層ビル建築を伴った丹下健三の築地再開発計画や磯崎新の新宿計画などの様々なプランが提案されたが、いずれも実現には至らなかった。

しかし、1963年および1970(昭和45)年(佐藤栄作内閣)の建築基準法改正により、高さ制限が「無制限」とされたために、高さ60mを超える超高層ビルが次々に建てられるようになった。

東京ではビジネス街の中心たる皇居濠端のビルは軒並み8階建てだったが、このところ建て替えられるのがすべて超高層なのは以上の経緯があるためである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』