2019年08月26日

◆35年目の日中友好

渡部亮次郎


9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。
しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における
田中総理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったと
か、青菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから
大学出は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった
話。周恩来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中国
製?」と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28



2019年08月19日

◆「バカヤロー」はつぶやき

渡部亮次郎


産経新聞(2010.1.3)の【産経抄】に

 <昭和28(1953)年2月28日、衆院予算委の席だった。右派社会党の西村
栄一氏が国際情勢について吉田茂首相に質(ただ)していると、首相は次
第に興奮してきた。西村氏が「興奮しない方がいい」などといさめるうち
に、とうとう「バカヤロー」と叫んでしまった。>とあるが、あれは叫ん
だのではなかった。「つぶやき」だった。

あの頃私は、高校3年生、まだテレビは無かった時代。それでも国会紛糾
の図が脳裡に残っているという事は、映画の「ニュース」を見たのだろう。

西村氏への答弁の最後に「バカヤロー」と呟き、それが録音されてしまっ
たのだ。産経抄の筆者は戦後生まれか。いずれ、現場は現認してなくて知
識としての「バカヤロー」だから、つい「叫んだ」と覚えたのだろう。筆
者の若輩さを感じる。若さと未熟さ。調べればすぐ分かることなのに調べ
ていない。

「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄
一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐い
たことがきっかけとなって衆議院が解散された。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、映像資料で
見れば分かるように、吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろ
う」とつぶやいたのみで、それを偶然マイクが拾った為に騒ぎが大きく
なったというのが実態である。

問題となった、吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべき
であるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」

吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が
遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハ
ウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておる
から、私もそう信じたのであります(中略)」

西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総
理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽
観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、

(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。
(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお
述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」

吉田「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたので
あります。私は確信するのであります」

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃ
ないか」

吉田「無礼なことを言うな!」

西村「何が無礼だ!」

吉田「無礼じゃないか!」

西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻
訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが
何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」

吉田「ばかやろう……」
西村「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!
(以下略)」

直後に吉田は発言を取り消し、西村栄一もそれを了承したものの、この失
言を議会軽視の表れとした右派社会党は、吉田首相を「議員としての懲罰
事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出(この背
景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれる)。

3月2日に行われた採決に際しては自由党非主流派ばかりか主流派と見られ
ていた広川弘禅農相らの一派も欠席し(この欠席を理由に広川は農相を罷
免された)、懲罰委員会への付託動議は可決された。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事
犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派三十余名が脱党し不信任
案に賛成したために3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を
解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。

さすがの吉田茂も発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」
としょげ返っていたが、数日後には元気を取り戻し、会合で「これからも
ちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃく
のスピーチを行っている。

吉田と西村栄一の関係は以前からしっくりいっていなかった。第2次世界
大戦中、吉田は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される
憂き目にも遭っていた。

逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様な
やっかみも手伝って、吉田は西村に好感情を抱いていなかった。これが
「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。

このときの新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後、場内は鎮まり返
り、そんな中、岡崎勝男外相に何事かを囁かれた吉田は「ニヤリと笑って
立ち上がり丁重に取り消すとある。このことから、吉田の心中は「緊張の
ための照れ笑いといい過ぎたとの思いが交錯した複雑な心境であったこと
がうかがわれる。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持し
たものの少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていった。これが吉
田退陣につながる。

晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任
案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇
怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。

上記のように、吉田が発言を取り消したため、議事録の中の、西村と吉田
が発言した「無礼」と「バカヤロー」という部分は削除されており、現在
の議事録で全てを確認する事はできない。

西村氏は西村真悟氏(落選中)の父であり、鳩山首相は、当時、吉田の足を
引っ張った鳩山一郎の孫である。

産経抄も冒頭でチョンボはしたが、材料にして突いた点はただしい。
▼そこらの夫婦げんかではない。国会での首相の発言だった。歴史家の半
藤一利氏は著書『21世紀への伝言』で、映画の寅さんの「それをいっ
ちゃおしめえよ」のそれだったと書く。その通りこの暴言は、首相懲罰動
議や内閣不信任案の可決へと展開していった。

▼こんな古い話を持ち出すのは鳩山内閣の閣僚の言動がちょっと気になる
からである。先日の参院予算委の質疑で答弁中に野党からヤジが飛ぶと
「うるさい!」と怒鳴る。質問者が「全大臣にお聞きしたい」と言うと
「私は全という名前ではない」と答弁を拒否する。

▼野党を小馬鹿にしたようなこの「高圧病」は鳩山由紀夫首相にも伝染し
たようだ。米軍普天間飛行場の移設先を5月までに決められなかった場合
の責任を何度も問われると、すぐけんか腰になる。「その質問自体があり
えない」と答えるのを拒否してしまった。

▼民主党などが野党であれば、ある程度許されるかもしれない。だが権力
を握る与党になった以上、常に謙虚に自らを律しなければならない。民主
主義の要諦(ようてい)である。「それをいっちゃおしめえよ」がわから
ないようでは「政権交代をしたのだから」と胸を張る資格はない。

 ▼もっとも民主党などのイラダチもわからなくはない。小沢一郎幹事長
への疑惑などで、守勢一方に立たされているからである。そういえば「バ
カヤロー」も、吉田の「ワンマン政治」に対する与野党の批判が強まって
いるころに飛び出した。2010・1・30


◆「あきたこまち」の誕生

渡部亮次郎


郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能
した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、比べるのもお
かしいぐらい秋田産が美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」
1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・
7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかっ
た」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに
県外における知名度向上に弾みがつき29年の歴史が流れた。

29年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場
が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行
い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の
歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛
されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥
羽292号」から早熟性を受け継いでいる。このことから、寒冷地北部でも
新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」
病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は
申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、
戦前(1945年以前)の200s台から1950年頃には350s台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450s、1965(昭和40)年には550sと大幅な伸び
を示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増
産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈
り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県
民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、1980年には
「単収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけられた。ま
た、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出するなど、
多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まっ
た。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地
であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれ
る、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を
県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育
成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・
享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の
「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統
名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目
(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒ
カリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31
号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善し
た早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズ
を発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種V類の中で破格の仮渡
し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち
娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味し
い米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

出典:秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹 氏作成の資料。

2019年08月13日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部亮次郎


ある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽祭があ
る、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭という
のはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。
急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1

2019年08月12日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆

2019年08月11日

◆「喧嘩は済みましたか」 

       渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本
首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事は
あったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番
が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ている
ところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は
不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交
即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入り
を果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って
「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随
員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証
人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引
見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初
めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと
考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とば
かり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」を
いつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に
陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ
一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽
蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周
恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある
奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりする
が心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈
放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では
「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見
で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに
(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前
原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日
中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲
気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボール
は向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したこと
について、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよい
のか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国
関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだ
が、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から
「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直
(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、その
うちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラ
である。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはなら
ない。2010・10・22


2019年08月09日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の
判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンス
の原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いて
も発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今
月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。

「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27


2019年08月08日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の
判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原
稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても
発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今
月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。

「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27

2019年08月06日

◆「08憲章」石平氏の見方

渡部亮次郎


中国の民主化を求める「08憲章」は世界人権宣言採択60周年にあわせ、
2008年12月10日、インターネット上で発表された(AP)

中国の学者や弁護士ら303人が公表したものだが、89年の天安門事件で母
国と「精神的に決別し」、2007年日本に帰化した石平(せきへい)氏は12
日の産経紙上で論評した。

「共産党政権おそらく彼らは、08憲章の発表を中国の発展を阻害しようと
する外国勢力の陰謀だと決めつけ08憲章」の連邦共和構想を「祖国を分裂
させるたくらみだと断罪した上で、いわば愛国主義の大義名分において民
主化運動を潰しにかかってくるのであろう」と分析した。

石平氏はさらに「それでも事態の収拾がつかなくなる場合、国民的なナ
ショナリズム情念をもう1度焚付け、対外的な危機を人為的に作り出すこ
とによって、内部統制を強化して生き延びていくというのは、政権にとっ
ての魅力的な選択肢の一つとなってくるはずである」とし以下のように述
べている。

「08憲章」の原文に接したとき、昔の天安門民主化運動にかかわったこと
のある私は、久しぶりに血が湧くような思いをした。民主化の夢は再び、
かの国の大地で蘇ってくるのか。

「08憲章」の示した民主化の理念と構想は、私たちの時代の単純な「理想
論」と比べれば、実によく成熟して高次元なものとなった。

それは、中国の現状に対する冷徹な分析と、民主化の障害となる諸問題に
対する深い洞察の上、政治・経済・教育・司法・宗教などの多方面におけ
る変革の構想と問題解決の道筋を提示し、中国民主化のための総合的なガ
イドラインを打ち出したものである。

その中で、たとえば「軍の国家化」の主張はまさに現体制の核心部分を突
いた鋭い切り口であり、「連邦共和制」の構想はまた、「中国のような巨
大国で民主化が実現可能なのか」という長年の難題の解消に方向性を示し
た歴史的な突破である。

発起人の多くが天安門民主化運動の中心人物の生き残りであることからす
れば、今の成熟は過去の運動の挫折に対する反省の結果であると思うが、
完成度の高い「08憲章」の発表自体は、民主化運動の一歩前進を示した画
期的な出来事である。

何よりも注目すべきなのは、天安門事件から19年目の2008年に、この「08
憲章」が発表されたタイミングの重大な意味である。

天安門事件以来の19年間、中国の民主化運動が低潮期に入ったことは事実
だが、その最大の原因はやはり、1990年代から始まった市場経済への本格
的な移行と、その結果としての高度経済成長にある。

つまり、時代のパラダイム(思考の枠組み)が「政治」から「経済」へと
変えられていく中、この国のエリートと民衆が富と豊かさを求めて市場経
済の波に呑(の)み込まれていくと、民主化の理想と欲求が徐々に忘れ去
られる。そして高度成長のもたらす経済の繁栄はまた、共産党の一党独裁
に新たな正当化の根拠を与えて政権安定の基盤を作った。

その結果、党と政府の思惑通りに、十数年にわたる「繁栄と安定」の時代
が「めでたく」出現したわけである。

しかしその半面、政治的一党独裁と経済的市場化との矛盾が棚上げにされ
たままの経済成長は、やがて腐敗の蔓延(まんえん)や貧富の差の拡大や
農村の疲弊などの問題を生み出し、経済が繁栄しながらも年間に数万件の
暴動が起きるようないびつな社会を作り出すに至った。

かくて運命の2008年から、肝腎の経済繁栄も陰りを見せ始め、特に08年後
半に入ってからは、「急落」、「減速」、「減産」、「リストラ」、「倒
産」などの不吉な単語が毎日の新聞記事に登場してくる中、十数年間の高
度経済成長はその終焉を告げようとしている。

これまで経済の繁栄によって覆い隠されていた社会的諸矛盾が一気に噴出
してきて、経済の後退がもたらす失業の拡大が社会的不安をさらに増大さ
せる事態の発生が必至だ。つまり今度は、「繁栄と安定」の時代に取って
代わって、衰退と混乱の時代が再びやってくるのである。

そうすると、中国はどこへ向かうべきか、という忘れ去られていた根本問
題が再び浮上してきて、変化と改革を求める声は再び時代のパラダイムと
なってくる。

したがって、このような歴史的な節目に堂々と登場してきた「08憲章」
は、まさに中国の直面する難局を打開し、国づくりの新しい道を切り開こ
うとする民主化運動の「再出発宣言」となるのである。

インターネットが発達し、市場経済の広がりが党の直接支配の及ばない自
由空間を作り出したこの時代、彼ら民主派知識人や人権活動家を中軸に、
いびつな経済繁栄から取り残された農民工や都市部労働者、経済衰退の中
で生活破綻(はたん)をきたしていく中産階層、卒業しても職にありつけ
ない大学生、そして「中華帝国」の支配に反発するウイグル人やチベット
人などが、自由・人権・民主の普遍的価値を掲げた「08憲章」の旗印の
元に結集してくるのであれば、それが間違いなく、中国の行方を決定する
大きな流れを作り出していくのであろう。

日本がどう対応すべきかこそはわれわれにとっての大問題であるが、とに
かく、08年12月から、巨大隣国・中国の変革と激動の時代がいよいよ
その幕を開けようとしていることを、まず認識しておくべきであろう。

              ◇

■天安門事件 1989年6月、中国政府が軍隊を出動させ、民主化を求める
学生らを弾圧した事件。4月15日に急死した中国共産党の改革派指導者、
胡耀邦氏の追悼を契機に、学生らが北京の天安門広場でデモを繰り返し、
党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。トウ()小平氏ら指
導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて、軍を動
員して広場を制圧し、少なくとも数百人の死者が出た。


 ■せき・へい 1984年北京大哲学科卒。88年に来日。89年の天安門事件
で母国と「精神的に決別」。95年神戸大大学院で博士課程修了。2007年日
本に帰化し08年拓殖大客員教授。「私は『毛主席の小戦士』だった」
(飛鳥新社)など著書多数。四川省出身。46歳。産経ニュース2008.12.23
18:18

2019年08月04日

◆3度の失脚と復活

渡部 亮次郎


ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に
同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好
条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だっ
たが、隠れたる主役がトウ(ケ)小平だったと思う。だから産経新聞連載
中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺
身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国
し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無
計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソ
ヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部
は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。
これが生涯3度の失脚の1回目。

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、
次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が
政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたケ小平は国家主席の
劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとら
れ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と
批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌
年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事
した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げ
るが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺に
までは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の
手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材し
たとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに
触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジア
のシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活
がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1
次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったこと
がのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると
後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月
に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在
中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにし
ていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田
直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて
積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の
憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか
締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結
を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1
副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官
から外務大臣に追われて就任。
そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結
果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えた
ことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、但し外交について
は素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾ
の広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相
と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのため
には日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和
友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家で
あることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至
るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながら
ジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をや
や究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしている
が、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参
考:ウィキペディア他2007・06・22

2019年07月31日

◆「わが祖国」スメタナ

渡部 亮次郎


元気の出ない時に聞く曲はスメタナの「我が祖国」だ。ポロン、ポロンと
珍しくハープの演奏から始まる交響詩組曲である。私のクラシック教室に
は先生がいないから、ここ20年ぐらい、手に入るだけのCDをやたら聴いて
好きな曲を探す。スメタナはそうした1人である。

ベドルジハ・スメタナSmetana,Bedrich (1824〜1884)はチェコの作曲
家。幼いころから音楽への才能を示し,ピアノと作曲を学ぶ。1848年フラ
ンスの2月革命がチェコにも及び,プラハで急進派が蜂起したときそれに
参加,革命軍のための行進曲や《自由の歌》を書いた。

革命が鎮圧された後は,リストの援助を得てプラハに音楽学校を開設。56
年から5年間はスウェーデンのイェーテボリ市の音楽協会〈ハーモニー協
会〉の指揮者を務めた。

61年帰国ののちは,再び大きな盛上がりをみせていたチェコの民族運動の
音楽的スポークスマンとして大活躍を始め,チェコ人のための国民劇場完
成までの仮劇場のために,《チェコのブランデンブルク人》(1863)や《ダリ
ボル》(1867)のようなナショナリズムを鼓吹した愛国的なオペラを作曲した。

また,理想化されたチェコの農村の姿をミュージカル・コメディ風に描い
た《売られた花嫁》(1866。1870改訂)の大成功によって,歌劇場の首席指揮
者の地位も手中に収めた。

しかし74年,50歳のときに聴覚を失い,晩年はチェコ北部のヤブケニツェ
村に隠とんし,肉体的・精神的状態の悪化と戦いながら作曲に専念。祖国
の風物と民族を賛美した6曲から成る交響詩組曲《わが祖国》(1879。

その第2曲《モルダウ》はとくに親しまれている)や自叙伝的な2つの弦楽四
重奏曲,《第1番わが生涯より》(1876)と《第2番ニ短調》(1883)を完成したの
ち,プラハの精神病院で狂死した。

作品にはなお合唱曲と歌曲,多数のピアノ曲などもあるが,〈ボヘミア楽
派〉といわれるチェコの国民楽派の創始者であり,ロシアのムソルグス
キーやフランスのベルリオーズと並んで,音楽におけるリアリズムのあり
方を後世に示した先駆者の一1人でもあった。 佐川 吉男

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。


またhttp://www.kk.iij4u.or.jp/~takuya/vltava.htm  に拠ると、

スメタナは同じチェコ出身で後輩格であるドヴォルジャークと共に、土地
に根ざした作風を持つ、いわゆる「チェコ国民楽派」として有名な作曲家
である。

ヨーロッパ各地で研鑚を積みつつも、やはり自らが生まれ育ったチェコの
ことが忘れられず、帰国後「ヴィシュフラド(高い城)」「モルダウ」
「シャールカ」「ボヘミアの森と草原にて」「ターボル」「ブラニーク」
という一連の交響詩を次々と世に出し、祖国への熱い思いを託した。

この6曲は1882年11月、この順番で連作交響詩「我が祖国」としてプラハ
にて初演され、大好評を博した。

以来この曲はチェコ国民の愛国心を象徴する傑作として、現在チェコで毎
年行われている「プラハの春音楽祭」の初日は決まってチェコ・フィル
ハーモニーにより「我が祖国」全曲が演奏される等、スメタナの生涯をか
けた愛国心はたくさんのチェコ国民に受け継がれているという。

この「モルダウ」はその連作交響詩の2曲目で、しばしば単独でも演奏さ
れる。幸いなことに作曲者自身により、ここは何を描写しているのか具体
的な注釈が残っており、曲を初めて聴く人でも容易にその場面を想像できる。

以下その必見ポイント(?)を順を追って記す。

○「モルダウの最初の源流」
水源地はチェコ西部の山の奥深くである。2本のフルートにより雪が溶け
てやがて流れとなる様子が表されている。繊細なハープのハーモニクスと
ヴァイオリンのピチカートは、あちこちで陽の光に当たってきらめく水の
しずくである。

○「モルダウの第2の源流」
さきの源流(フルート)にやや温度差のある別の流れ(クラリネット)が
合流し、少しだけ水に温かさが加わる。こうして徐々に楽器の数が増え、
水が集まり、河の流れが出来上がってくる。ここでオーボエを伴った弦楽
器により、最も有名なモルダウ河の主題が提示される。

○「森〜狩り」
流れは森の中に入り、ホルンのシグナルとともに馬に乗った勇壮な狩人が
横切る。角笛の音が森のあちこちにこだまする。牧場のカウベルも時折聞
こえ、弦楽器による河の流れは絶え間なく続く。

○「村の婚礼」
拍子は6/8拍子から2/4拍子に変わり、森を抜けると少し視界が開け、村の
集落が見えて来る。今日は村の若者の結婚式。教会から出てきた若い2人
を、村人たちの陽気なフォークダンスが迎え、祝福するヨーデルの歌声が
響く。

○「月の光〜水の精の踊り」
結婚式の夜も更け、あたりは静けさを取り戻す。ファゴットとオーボエの
先導により水の精が登場し、フルートとクラリネットが冒頭と同じような
無窮動を繰り返しつつ楽しげに浮遊する。弦楽器群によりまた水量が徐々
に増え、さきのモルダウ河の主題が再現される。

○「聖ヨハネの急流」
突如として傾斜が急になり、水の勢いが速くなる。岩にぶつかり、激しい
水しぶきを上げる様子がリアルに描写されている。

○「モルダウの力強い流れ」
曲はホ短調からホ長調に転調し、モルダウ河はプラハ市内に入る。オーケ
ストラ全体によりこの「モルダウ河のテーマ」が賛歌として力強く歌われる。

○「ヴィシュフラド(高い城)の主題」
かくてプラハ市内にある歴史的な古城、ヴィシュフラド(高い城)に挨拶
する。ここは前作である交響詩「ヴィシュフラド(高い城)」(「我が祖
国」第1曲)のテーマが回帰する瞬間でもあり、本来ならば全曲を連続演
奏した時に効果が得られるように作られており、プラハ市内を抜けてなお
果てしなく続く流れを見送りつつ、フェードアウトされて曲は締めくくら
れている。

この「モルダウ」の作曲に着手した頃、スメタナは耳の病が悪化し、あの
ベートーヴェンと同様に聴覚を失ってしまった。したがってこの「モルダ
ウ」以降、スメタナ自身は自分の作品を音として聴いていない。

スメタナは1884年に世を去り、自らの作品で歌い上げたモルダウ河とヴィ
シュフラドのすぐ近くの墓地に静かに眠っている。と書かれているが狂死
とはあまりに可哀想だ。2007・06・08

2019年07月29日

◆「わが祖国」スメタナ

渡部 亮次郎


元気の出ない時に聞く曲はスメタナの「我が祖国」だ。ポロン、ポロンと
珍しくハープの演奏から始まる交響詩組曲である。私のクラシック教室に
は先生がいないから、ここ20年ぐらい、手に入るだけのCDをやたら聴いて
好きな曲を探す。スメタナはそうした1人である。

ベドルジハ・スメタナSmetana,Bedrich (1824〜1884)はチェコの作曲
家。幼いころから音楽への才能を示し,ピアノと作曲を学ぶ。1848年フラ
ンスの2月革命がチェコにも及び,プラハで急進派が蜂起したときそれに
参加,革命軍のための行進曲や《自由の歌》を書いた。

革命が鎮圧された後は,リストの援助を得てプラハに音楽学校を開設。56
年から5年間はスウェーデンのイェーテボリ市の音楽協会〈ハーモニー協
会〉の指揮者を務めた。

61年帰国ののちは,再び大きな盛上がりをみせていたチェコの民族運動の
音楽的スポークスマンとして大活躍を始め,チェコ人のための国民劇場完
成までの仮劇場のために,《チェコのブランデンブルク人》(1863)や《ダリ
ボル》(1867)のようなナショナリズムを鼓吹した愛国的なオペラを作曲した。

また,理想化されたチェコの農村の姿をミュージカル・コメディ風に描い
た《売られた花嫁》(1866。1870改訂)の大成功によって,歌劇場の首席指揮
者の地位も手中に収めた。

しかし74年,50歳のときに聴覚を失い,晩年はチェコ北部のヤブケニツェ
村に隠とんし,肉体的・精神的状態の悪化と戦いながら作曲に専念。祖国
の風物と民族を賛美した6曲から成る交響詩組曲《わが祖国》(1879。

その第2曲《モルダウ》はとくに親しまれている)や自叙伝的な2つの弦楽四
重奏曲,《第1番わが生涯より》(1876)と《第2番ニ短調》(1883)を完成したの
ち,プラハの精神病院で狂死した。

作品にはなお合唱曲と歌曲,多数のピアノ曲などもあるが,〈ボヘミア楽
派〉といわれるチェコの国民楽派の創始者であり,ロシアのムソルグス
キーやフランスのベルリオーズと並んで,音楽におけるリアリズムのあり
方を後世に示した先駆者の一1人でもあった。 佐川 吉男

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。


またhttp://www.kk.iij4u.or.jp/~takuya/vltava.htm  に拠ると、

スメタナは同じチェコ出身で後輩格であるドヴォルジャークと共に、土地
に根ざした作風を持つ、いわゆる「チェコ国民楽派」として有名な作曲家
である。

ヨーロッパ各地で研鑚を積みつつも、やはり自らが生まれ育ったチェコの
ことが忘れられず、帰国後「ヴィシュフラド(高い城)」「モルダウ」
「シャールカ」「ボヘミアの森と草原にて」「ターボル」「ブラニーク」
という一連の交響詩を次々と世に出し、祖国への熱い思いを託した。

この6曲は1882年11月、この順番で連作交響詩「我が祖国」としてプラハ
にて初演され、大好評を博した。

以来この曲はチェコ国民の愛国心を象徴する傑作として、現在チェコで毎
年行われている「プラハの春音楽祭」の初日は決まってチェコ・フィル
ハーモニーにより「我が祖国」全曲が演奏される等、スメタナの生涯をか
けた愛国心はたくさんのチェコ国民に受け継がれているという。

この「モルダウ」はその連作交響詩の2曲目で、しばしば単独でも演奏さ
れる。幸いなことに作曲者自身により、ここは何を描写しているのか具体
的な注釈が残っており、曲を初めて聴く人でも容易にその場面を想像できる。

以下その必見ポイント(?)を順を追って記す。

○「モルダウの最初の源流」
水源地はチェコ西部の山の奥深くである。2本のフルートにより雪が溶け
てやがて流れとなる様子が表されている。繊細なハープのハーモニクスと
ヴァイオリンのピチカートは、あちこちで陽の光に当たってきらめく水の
しずくである。

○「モルダウの第2の源流」
さきの源流(フルート)にやや温度差のある別の流れ(クラリネット)が
合流し、少しだけ水に温かさが加わる。こうして徐々に楽器の数が増え、
水が集まり、河の流れが出来上がってくる。ここでオーボエを伴った弦楽
器により、最も有名なモルダウ河の主題が提示される。

○「森〜狩り」
流れは森の中に入り、ホルンのシグナルとともに馬に乗った勇壮な狩人が
横切る。角笛の音が森のあちこちにこだまする。牧場のカウベルも時折聞
こえ、弦楽器による河の流れは絶え間なく続く。

○「村の婚礼」
拍子は6/8拍子から2/4拍子に変わり、森を抜けると少し視界が開け、村の
集落が見えて来る。今日は村の若者の結婚式。教会から出てきた若い2人
を、村人たちの陽気なフォークダンスが迎え、祝福するヨーデルの歌声が
響く。

○「月の光〜水の精の踊り」
結婚式の夜も更け、あたりは静けさを取り戻す。ファゴットとオーボエの
先導により水の精が登場し、フルートとクラリネットが冒頭と同じような
無窮動を繰り返しつつ楽しげに浮遊する。弦楽器群によりまた水量が徐々
に増え、さきのモルダウ河の主題が再現される。

○「聖ヨハネの急流」
突如として傾斜が急になり、水の勢いが速くなる。岩にぶつかり、激しい
水しぶきを上げる様子がリアルに描写されている。

○「モルダウの力強い流れ」
曲はホ短調からホ長調に転調し、モルダウ河はプラハ市内に入る。オーケ
ストラ全体によりこの「モルダウ河のテーマ」が賛歌として力強く歌われる。

○「ヴィシュフラド(高い城)の主題」
かくてプラハ市内にある歴史的な古城、ヴィシュフラド(高い城)に挨拶
する。ここは前作である交響詩「ヴィシュフラド(高い城)」(「我が祖
国」第1曲)のテーマが回帰する瞬間でもあり、本来ならば全曲を連続演
奏した時に効果が得られるように作られており、プラハ市内を抜けてなお
果てしなく続く流れを見送りつつ、フェードアウトされて曲は締めくくら
れている。

この「モルダウ」の作曲に着手した頃、スメタナは耳の病が悪化し、あの
ベートーヴェンと同様に聴覚を失ってしまった。したがってこの「モルダ
ウ」以降、スメタナ自身は自分の作品を音として聴いていない。

スメタナは1884年に世を去り、自らの作品で歌い上げたモルダウ河とヴィ
シュフラドのすぐ近くの墓地に静かに眠っている。と書かれているが狂死
とはあまりに可哀想だ。2007・06・08

2019年07月27日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


アメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」
にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有り、何よりも中国への刺激を避けること
を最優先に考えており、私から言えば「アメリカは尖閣問題から常に身を
かくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指
導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては
(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とす
る機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中
国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするた
めの知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるか
どうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答える
のではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府
高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本
政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用され
る」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の
平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないとい
う立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日
本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米
国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入
を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言に
ついて「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を
強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5
条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は
「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日
中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではな
い)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、
日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、
クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え
「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政
府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の
条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処を
する義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認
が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対
応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは
尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改
時の情勢に鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定を
そこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般に
は解釈されている。

なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、
累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、
尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認し
つつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。
軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示
した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締
結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先す
るというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准
(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や
政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄
として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄
としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会
によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでも
サンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しな
いことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争
いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本に
はない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会
が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更する
わけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリ
ントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣
諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示
し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における
責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレ
ン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明して
いる。2013・12・27