2019年05月14日

◆5・15も2・26も知らない

                           渡部亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大
日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校
たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、せめて「ウィキペディア」に頼ら
ざるを得ない。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政
治を否定し手起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した
2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁
固刑でしかなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だっ
たという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち
向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡羽状態となった。経済
は復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違
い。私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相
次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られた
ほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府は
これを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和
7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍
との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮
次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物
だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を
知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡し
た藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和
維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、
大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説い
て、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映
範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行
計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終
の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期し
て行動を開始、

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣
官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投
げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近
辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、こ
の機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に
陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人
を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官
邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡す
る)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引い
たが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日
本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部
を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らは
すぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の
若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語った
と言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱
銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。


6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、
橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提
供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。


この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高
明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多
かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結
果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日
し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで
相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」と
して、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮
15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人
未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年


2019年05月12日

◆「国策捜査」ってなんだ

渡部亮次郎


<小沢氏、続投表明 民主党緊急役員会

民主党は4日午前、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反容
疑で逮捕されたことを受け、緊急役員会を開き、小沢代表が経緯を説明し
た。出席者によると、小沢氏は「この時期になってこんなことになって申
し訳ない。しかし、政治資金規正法にのっとって適切に処理している」と
述べ、代表職を辞任しない意向を示した。

この後、小沢氏は緊急役員会終了後、記者会見し、事実関係や役員会の結
論について説明。小沢氏は、秘書の逮捕容疑となった西松建設OBが代表
を務めていた政治団体からの献金に関し「適切に処理している」と違法性
を一貫して否定。同氏や鳩山由紀夫幹事長らによる3日の幹部会では、党
として献金の正当性を訴えていくことを確認した。

事件が野党第一党党首の秘書逮捕という異例の展開となったことに対し、
民主党内では「国策捜査」と政府・与党に反発する声が上がっている。執
行部には、小沢氏の進退問題に発展する事態は避けたいとする空気が強
い>。 3月4日9時53分配信 産経新聞
「国策捜査」と言う言葉は「鈴木宗男事件」の際、東京地検に逮捕された
外務省元主任分析官・佐藤優の著書『国家の罠』で主張されたもの。

ここから、政府の政治的意図によって行われたものだと関係当事者等が主
張する刑事事件の捜査のこと。

佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社(原著
2005-03-26)。ISBN 9784104752010。この書の文庫版P365-367によれば、
佐藤氏の取調べに当った西村検事は、逮捕後3日目の時点で「本件は国策
捜査だ」と明言、「我々と闘っても無駄だ」と言う事を理解させようとした。

西村検事の弁。「これは国策捜査なんだから、あなたが捕まった理由は簡
単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけ
じめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、なにか象徴
的な事件を作り出してそれを断罪するのです」

「見事僕はそれに当ってしまったわけだ」

「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」

「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行なわれてき
た,否、それよりも評価されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」

「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下ってくるんだ」

「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」

「しかし、法律は元々ある。その適用基準が変わって来るんだ。特に政治
家に対する国策捜査は、近年驚くほど下ってきているんだ。

一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかっ
た。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下ってい
くんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳
しくなっている。時代の変化としか言えない」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショウと週刊誌
の論調で事件が出来ていくことになるよ」

「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

以上のような方針が東京地検の時代認識ならば小沢氏の判断は甘かったと
言うべきだろう。

東京地方検察庁特別捜査部は特定のマスコミにリークしながら、大きく注
目を集める人物を小さい犯罪でも逮捕することにより世論、ひいては国家
全体を「彼等自身が考える、あるべき姿に直す」という目的で捜査してい
るとされる。

最近では特捜部の捜査手法が社会秩序の安定を目的に、一罰百戒を狙った
逮捕に重きを置くものになっているという指摘もごく一部でなされる。

私が参考人として東京地検特捜部で事情聴取を受けた昨年の防衛
省不正事件も目論見は国策捜査に見えたが、結局は見込み違い。単なる個
人の脱税事件で終わった。

今回の小沢事件は完全な国策捜査だが、検察は確実な証拠を握って居るは
ずで、小沢氏の見込みは甘い。

関係当事者により国策捜査だと主張される例としては他に以下のようなも
のがある。

造船疑獄の指揮権発動

三井環逮捕事件

ライブドア事件における堀江貴文逮捕

日歯連闇献金事件における村岡兼造起訴

構造計算書偽造問題

いわゆるムネオハウス事件における鈴木宗男逮捕
佐藤優起訴

石橋産業手形詐欺事件における田中森一起訴

植草一秀逮捕(りそな銀行国有化の裏側を研究していた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09・03・04




    

2019年05月10日

◆1秒でも早く政界引退を

渡部 亮次郎


<鳩山首相「私腹を肥やしたわけではない」と辞任否定 元秘書起訴で会
見(12月24日18時10分配信 産経新聞)


鳩山由紀夫首相は24日、自らの資金管理団体「友愛政権懇話会」の偽装献
金問題で、東京地検特捜部が元公設秘書を在宅起訴するなど一連の処分を
行ったことを受け、東京・平河町のホテルで記者会見を行った。

首相は国民に謝罪しながらも首相辞任は否定、その上で実母からの12億6
千万円の資金提供を贈与と認め、平成14年に遡って修正申告し、贈与税約
6億円を納める考えを表明した。

偽装献金事件について「国民が疑問に思うのは当然だが、(秘書が献金処
理を)滞りなく処理していると任せていた」と説明。贈与についても「承
知してなかった」と繰り返した。

一方、首相は、過去に「秘書の行為の責任は議員の責任だ」などと発言し
てきたことについて「私は私腹を肥やしたり、不正な利得を得た思いは一
切ない」と釈明。>

<「努力だけは認めて」=政権3カ月で鳩山首相>(12月16日11時19分配
信 時事通信)。努力したのではなく、すべての難問を先送りしただけで
はないか。嬶を連れての派手な外遊を続けただけではないか。

<「すべてがまだ完ぺきとは言えないと思う。一生懸命努力していること
だけは認めていただきたい」。鳩山由紀夫首相は16日午前、政権発足3カ
月を迎えたことについて、記者団を前にこう訴えた。

米軍普天間飛行場移設問題や2010年度予算編成作業などの懸案に関し「閣
僚の中でいろいろと声が上がって、(首相の)指導力がどうだという話が
ある」と認め、「それは分かっているが、いずれ国民もこの答えが最適
だったと分かるときが来ると思う」。

重要課題の政策決定で足踏みが目立つことへの理解を求めた。> 

私が国内政治の現場を去って既に30年。したがって、現場の情景は全く知
らないが、鳩山由紀夫の馬鹿さ加減だけは、インターネットを通じてよく
分かる。

政治家になったのに、常識が無い。哲学が無い。困ったことがないから他
人の痛みが分からない。したがって戦略も戦術もない。努力を認めろと
いっても、見える努力は一つも無い。

母上から一と月に1500万円もの小遣いを貰っておいて、知らなかったとい
う。そんなことが世間に通用すると思っているから、宇宙人だといわれ
る。だが宇宙人は確認されていない。

それなのに宇宙人と、敢えて言われるのは、無形人といわれているのと同
じだ。まず悩みがない。有っても悩まないから、悩みが無いのと同じなのだ。

だから本人は努力したといっても、解決した案件は一つも無い。ああじゃ
ない、こうじゃないと、口から出任せを喋っているだけで、
どうすれば解決するか、考える事もできない。

多分、母親が元気なら、官邸に据えて、厄介を頼むところだろう。すべて
そうしてきたからだ。だが、いまや87歳ともなれば、面倒を見てもらうわ
けには行かないから、すべてが頓挫してしまったのである。

一方、月額1500万円の小遣いは何に使ったのか。あるいはブレインになる
人の買収、接待費に使ったのか。その割には碌なブレインがいない。使え
ない商社マンしかいない。左翼に凝り固まって有害だ。

アメリカとの同盟関係を可笑しくし、中国に叩頭外交を展開する事になっ
たのは、彼の誤れる哲学と偽情報に頼ったからである。「努力した」ので
はなく「壊し」に専念した100日だったのだ。

早く総辞職し、議員も辞めたほうがいい。それも1分でも1秒でも早い方
が日本のためだ。2009・12・24




2019年05月08日

◆「検閲」を知っているか

渡部 亮次郎


「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一 歌 二葉あき子。

敗戦後昭和22(1947)年 の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷
のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世
には出なかった。

戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分と
なったからである。

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、
柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召さ
れての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。

若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命であ
る。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最
近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。

新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫が
コロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国
との戦時下、女々しいと「発売禁止」。

<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なもので
あった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦
争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。

満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主
義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。

すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制
を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新
聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディア
の支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。

国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべ
て排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」
が存在したのである。

作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し
「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者も
R・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを
外国人と思って捜している。

戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌で
ヒットしたのが昭和22年だった。

戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で
発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。
社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。2008・06・22

◆5・15も2・26も知らない

渡部 亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大
日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校
たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、せめて「ウィキペディア」に頼ら
ざるを得ない。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政
治を否定して起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した
2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁
固刑でしかなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だっ
たという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち
向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡状態となった。経済は
復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違い。
私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相
次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られた
ほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府は
これを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和
7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍
との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮
次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物
だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を
知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡し
た藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和
維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、
大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説い
て、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映
範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行
計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終
の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期し
て行動を開始。

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣
官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投
げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近
辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、こ
の機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に
陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人
を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官
邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡す
る)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引い
たが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日
本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部
を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らは
すぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の
若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語った
と言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱
銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。


6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、
橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提
供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。


この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高
明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多
かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結
果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日
し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで
相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」と
して、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮
15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人
未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年

2019年05月07日

◆3橋が国重要文化財に

渡部 亮次郎


春のうららの隅田川には有名ないくつもの橋が架かっているが、下流に近
い勝鬨(かちどき)橋、永代(えいたい)橋、清洲(きよす)橋の3橋が2007
年4月20日に国の重要文化財(建造物)に指定された。隅田川にとっては初
めてのことである。

また敗戦時からの復興著しく、最近は「水彩都市」を自称する江東区(一
部は元深川区)は松平定信の墓、旧弾正橋(八幡橋)、明治丸に次ぐ4、5件
目の重要文化財指定だと喜んでいる。

と言っても橋そのものは江東区ではなく国の所有物だ。永代橋と清洲橋
は、共に関東大震災(1923年9月1日)後の帝都復興事業の象徴として内務省
(現在の国土交通省)直営で作られた。

また勝鬨橋は当時、最先端の技術を駆使した日本で最大規模の跳ね橋とし
て作られ、いずれもわが国橋梁技術史上、高い価値があると評価された。
遊里深川に渡る永代橋は男性的、清洲橋は曲線の美しさから女性的といわ
れている。

永代橋が架橋されたのは、元禄11(1698)年8月であり、江戸幕府5代将軍
徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央
区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)
のあった場所である。隅田川で4番目に作られた。

当時は深川新地の象徴として歌川広重などの錦絵にもよく描かれている。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたから
という説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説
(「永代島」は「永代橋」から採られたとする説)がある。

幕府財政が窮地に立った享保4(1719)年に、幕府は永代橋の維持管理を
あきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費
を町方が全て負担することを条件に存続を許した。

文化4(1807)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛け
た群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。

橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が
次々と押し寄せては転落し、死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事
故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を基にしている。

明治30(1897)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス
橋が現在の場所に架橋されたが、関東大震災に被災し、木製の橋床が損傷
し大正15年に震災復興事業の第1号として現在の橋が再架橋された。

「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言
われたこの橋は、ドイツライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデ
ルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた
橋でもある。

平成12(2000)年に清洲橋と共に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺
産」に選定された。

構造形式
中央径間:スチールアーチ橋
両側:鋼桁橋
工法 ニューマチックケーソン工法
橋長 184.7m
幅員 25.0m

着工 1923年(大正13年)12月
竣工 1926年(大正15年)12月20日

施工主体 東京市復興局
設計 田中豊原案、竹中喜忠設計
橋桁製作 神戸川崎造船所
施工 太丸組/間組

清洲橋(きよすばし)は、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を
通す。西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目。「清洲」と
いう名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中
洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された。「帝都東京
の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」と
も呼ばれた優美なデザインである。

当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルに
している(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではな
い)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さ
くする努力がなされた。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

構造形式  自碇式鋼鉄製吊り橋
橋長 186.3m
幅員 22.0m

着工 大正14年3月
竣工 昭和3年3月

施工主体 東京市復興局
設計 鈴木精一
橋桁製作 神戸川崎造船所

勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区で隅田川に架かる橋。晴海通
り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。

日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給
も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させ
ようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用
(約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることか
ら、実現のめどは立っていない。

1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として
有志により「勝鬨の渡し」が設置された。

築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島に
は石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったこ
とで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によ
りようやく架橋が実現することとなった。

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を
優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋
として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする
案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。

勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年に完成を見た。1940年に「皇紀
2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス
路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を
誇示できるような橋が求められた。

そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工
を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対によ
り中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほど
の評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947
年から1968年まで橋上を都電が通行していた。

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ
1953年ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次
第に跳開する回数は減少し、1964年以降は年間100回を下回るようになった。

1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に1度ほど試
験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはな
くなり、1980年には電力供給も停止された。

構造形式
中央部 跳開型可動橋
両側 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 双葉跳開型(可動支間長 44m)

橋長 246m
幅員 22m

着工 1933年(昭和8年)6月
竣工 1940年(昭和15年)6月14日

施工主体 東京都・銭高組

橋桁製作
月島側アーチ橋 石川島造船所
築地側アーチ橋 横河橋梁製作所
跳開橋 川崎車両
橋脚 宮地鉄工所
可動部(機械)渡辺製鋼所 (電気)小穴製作所

参考資料:ウィキペディア    2007・05・01


2019年05月06日

◆ASEANの口頭試問

渡部 亮次郎


ASEAN(アセアン)東南アジア諸国連合は、2010年現在は加盟10カ国だが、
当初は5カ国だけだった。

東南アジア諸国連合Association of South‐East Asian Nations)は、東
南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。
略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。

域内の人口は約5億8000万人(2005年)と多く、近年の目覚しい経済成長
に拠り、欧州連合 (EU)、北米自由貿易協定 (NAFTA)、中国、インドと比
肩する存在になりつつある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結成当初から日本は会談参加を希望していたが拒否されていた。後でわ
かったが、フィリピンが強硬に反対していたからだった。1978年になっ
て、ようやく外相会談への参加が認められ、当時、福田赳夫内閣の外相園
田直(そのだ すなお)がインドネシア・バリ島での会議に出発した。秘
書官の私にとって東南アジアへの同行は初めてだった。

政治記者から秘書官に転身してまだ数ヶ月。記者の癖は抜けなかった。園
田氏もそこを利用していた。中でも締結を目指す日中平和友好条約に関す
るマスメディアの反応探りに期待していた。

さて、バリ島。西洋式の立派なホテル。朝早く、会議会場の下見に出かけ
た。事務の秘書官(後の国連大使佐藤行雄氏)は会議での大臣発言の打ち合
わせに忙しいが、政務の私は、この場合は閑である。

しかし、見ておどろいた。ASEAN側が一列の5人が並び、向かいに日本の席
がただ1つ。「これじゃまるで口頭試問だ」と大臣に報告。大臣は「佐藤
君、せめて6角形にして貰えんかね」と命令。

希望通り、椅子は6角形に配置換えされた。面白かったのはその後。

会議の冒頭、園田氏が発言を求め「このたび皆様の口頭試問を受けに参り
ましたソノダです」と言ったから、会場は爆笑。一気に日本のペースに
なってしまったのだ。

その実、ASEAN側は「口頭試問」を考えていたのだ。特に、太平洋戦争
中、フィリピンに軍事顧問として滞在していたアメリカのマッカーサーに
副官(秘書官)として付いていたロムロ外相は、例の「アイ・シャル・リター
ン」以来の憎しみを消せないでいたから、この会議への日本の参加反対の
急先鋒だった。

聞けば園田はあの戦争中、特攻隊の生き残りだという。この際、徹底的に
虐めてやろうと企んでいたのだ。私がどこかから拾ってきた情報を耳にし
ていたわが外相は、「口頭試問」の企みを逆手に取ることで、一瞬にして
ASEANの懐に入りこむのに成功したのだ。

しかも、それ以来、ロムロは園田と親友になった。

園田氏は旧制中学しか出ていない。シナ事変以来、昭和20年の敗戦まで11
年間を戦場で過ごした。敗戦時は陸軍の戦闘機の操縦士から「特攻隊」の
隊長に指名。出撃の2日前に敗戦となった。

郷里、九州の天草で町の助役から衆院選に出馬して落選。町長を経て当
選。厚生大臣2度、官房長官、外相3度。、腎不全により僅か70で逝去。

ASEANでのやり取りから、私は政治家は学歴では無い。頭の良さ、機転の
利かせ方にカギがあるとつくづく思った。鳩山や菅にあるのは学歴だけ
だった。2010・11・24

2019年05月04日

◆100万円は100g

渡部亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。
だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」とし
て、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに
現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界
じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さん
は「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露し
て私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが
「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、
角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出
るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも
実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切
手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すの
が普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、
昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが
角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙
だった。

しかし、福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。
1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎であ
る。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。
文中敬称略  2011・1・24

2019年05月03日

◆「ぎりぎりセーフ」の小沢氏

渡部 亮次郎


<小沢氏、辞任の時機「ぎりぎりセーフ」 今後にも意欲

民主党の小沢一郎・前幹事長は12日、和歌山市で連合和歌山との懇談に出
席し、鳩山由紀夫前首相との「ダブル辞任」について、「もう少し早けれ
ばという思いもあったが、ぎりぎりセーフのタイミングだった」と述べ、
参院選を視野に辞任時期を以前から探っていたことを明かした。>Asahi
 Com 2010年6月12日15時9分

<出席者によると、小沢氏は「鳩山首相と政権の両輪としてやってきた
が、こういうことになって迷惑をかけた」と陳謝。「幹事長時代のように
地方を回ることはできないが、ぼちぼちやっていく」と語り、今後の政治
活動に意欲を示したという。

この日は幹事長辞任後、初めての地方行脚。会合後は、世界遺産に登録さ
れた紀伊山地の霊場と「熊野古道」の散策に向かった。小沢氏は今後も連
合の地方組織との懇談をこなしながら、小沢氏主導で擁立した参院選複数
区の2人目の新顔候補らの陣営を回って支援する考えだ>。

この発言を信じれば、自らの幹事長辞任を早くから決意していたことにな
るが、真実は総理が交代しても、自身は幹事長留任の途を捜していた。

それが証拠に、菅直人氏からの代表選立候補の挨拶要請をあくまで拒否し
たことである。小沢氏は6月1日夜おこなわれた鳩山・菅による極秘会談の
席で、辞任の決意を打ち明けられた菅氏が「それじゃ小沢を斬りましょ
う」と提案したことを知って激怒。

その後鳩山総理から電話で「私の意向で辞任する形でいいですね」と言わ
れて了承したものの、菅氏の挨拶は最後まで受け入れなかった。「裏切っ
た菅に斬られた」と思っているのである。

元々小沢氏は菅氏を己のカードと思っていた。ところがその菅が裏切った
ことを知ったので、挨拶を拒否しただけでなく、対立候補を立てようと田
中真紀子氏にまで働きかけた。

こともあろうに、小泉内閣で外相どころか政治家の資格そのものの
皆無であることを天下に晒した真紀子氏にまで断られるほど、彼の周辺に
は人材と言える政治家が育ってないのだ。独裁者の末路を連想する。

一方の菅総理である。所信表明演説で「私を信じて下さい」とやって却っ
て中身が何も無いことを表すと言う阿呆なことをやったが、口蹄疫の宮崎
には土曜を返上して駆けつけ、農家の現場を視察するなど、鳩山を反面教
師にしたオポチュニストぶりは徹底している。

これは、水泳に譬えれば一種の立ち泳ぎというべく、参院選もこれで凌ぐ
心算だろう。何とかV字を描く内閣支持率を維持したまま
選挙を凌ぐには立ち泳ぎ意外に方策はない。

その結果、参院選は「50」議席と菅氏が設定する勝敗ラインを何とか超えら
れるのではないか。

だとすれば<辞任の時機「ぎりぎりセーフ」 今後にも意欲>と雖も小沢
氏の近未来は決して明るくは無い。つまり「本番は9月だ」と捲土重来を期
しているにしても、概ね菅氏の代表再選となれば、
党内に坐る椅子は皆無だ。

またまた離党すると言っても150人のグループの中から従いて行く者は何
人いるやら。寂しい秋の夕暮れになるのでは無いか。
2010・6・12

◆1秒でも早く政界引退を

渡部 亮次郎


<鳩山首相「私腹を肥やしたわけではない」と辞任否定 元秘書起訴で会
見(12月24日18時10分配信 産経新聞)

鳩山由紀夫首相は24日、自らの資金管理団体「友愛政権懇話会」の偽装献
金問題で、東京地検特捜部が元公設秘書を在宅起訴するなど一連の処分を
行ったことを受け、東京・平河町のホテルで記者会見を行った。

首相は国民に謝罪しながらも首相辞任は否定、その上で実母からの12億6
千万円の資金提供を贈与と認め、平成14年に遡って修正申告し、贈与税約
6億円を納める考えを表明した。

偽装献金事件について「国民が疑問に思うのは当然だが、(秘書が献金処
理を)滞りなく処理していると任せていた」と説明。贈与についても「承
知してなかった」と繰り返した。

一方、首相は、過去に「秘書の行為の責任は議員の責任だ」などと発言し
てきたことについて「私は私腹を肥やしたり、不正な利得を得た思いは一
切ない」と釈明。>

<「努力だけは認めて」=政権3カ月で鳩山首相>(12月16日11時19分配
信 時事通信)。努力したのではなく、すべての難問を先送りしただけで
はないか。嬶を連れての派手な外遊を続けただけではないか。

<「すべてがまだ完ぺきとは言えないと思う。一生懸命努力していること
だけは認めていただきたい」。鳩山由紀夫首相は16日午前、政権発足3カ
月を迎えたことについて、記者団を前にこう訴えた。

米軍普天間飛行場移設問題や2010年度予算編成作業などの懸案に関し「閣
僚の中でいろいろと声が上がって、(首相の)指導力がどうだという話が
ある」と認め、「それは分かっているが、いずれ国民もこの答えが最適
だったと分かるときが来ると思う」。

重要課題の政策決定で足踏みが目立つことへの理解を求めた。> 

私が国内政治の現場を去って既に30年。したがって、現場の情景は全く知
らないが、鳩山由紀夫の馬鹿さ加減だけは、インターネットを通じてよく
分かる。

政治家になったのに、常識が無い。哲学が無い。困ったことがないから他
人の痛みが分からない。したがって戦略も戦術もない。努力を認めろと
いっても、見える努力は一つも無い。

母上から一と月に1500万円もの小遣いを貰っておいて、知らなかったとい
う。そんなことが世間に通用すると思っているから、宇宙人だといわれ
る。だが宇宙人は確認されていない。

それなのに宇宙人と、敢えて言われるのは、無形人といわれているのと同
じだ。まず悩みがない。有っても悩まないから、悩みが無いのと同じなのだ。

だから本人は努力したといっても、解決した案件は一つも無い。ああじゃ
ない、こうじゃないと、口から出任せを喋っているだけで、
どうすれば解決するか、考える事もできない。

多分、母親が元気なら、官邸に据えて、厄介を頼むところだろう。すべて
そうしてきたからだ。だが、いまや87歳ともなれば、面倒を見てもらうわ
けには行かないから、すべてが頓挫してしまったのである。

一方、月額1500万円の小遣いは何に使ったのか。あるいはブレインになる
人の買収、接待費に使ったのか。その割には碌なブレインがいない。使え
ない商社マンしかいない。左翼に凝り固まって有害だ。

アメリカとの同盟関係を可笑しくし、中国に叩頭外交を展開する事になっ
たのは、彼の誤れる哲学と偽情報に頼ったからである。「努力した」ので
はなく「壊し」に専念した100日だったのだ。

早く総辞職し、議員も辞めたほうがいい。それも1分でも1秒でも早い方
が日本のためだ。2009・12・24


2019年05月02日

◆「08憲章」石平氏の見方

渡部 亮次郎


中国の民主化を求める「08憲章」は世界人権宣言採択60周年にあわせ、
2008年12月10日、インターネット上で発表された(AP)

中国の学者や弁護士ら303人が公表したものだが、89年の天安門事件で母
国と「精神的に決別し」、2007年日本に帰化した石平(せきへい)氏は12
日の産経紙上で論評した。

「共産党政権おそらく彼らは、08憲章の発表を中国の発展を阻害しようと
する外国勢力の陰謀だと決めつけ08憲章」の連邦共和構想を「祖国を分裂
させるたくらみだと断罪した上で、いわば愛国主義の大義名分において民
主化運動を潰しにかかってくるのであろう」と分析した。

石平氏はさらに「それでも事態の収拾がつかなくなる場合、国民的なナ
ショナリズム情念をもう1度焚付け、対外的な危機を人為的に作り出すこ
とによって、内部統制を強化して生き延びていくというのは、政権にとっ
ての魅力的な選択肢の一つとなってくるはずである」とし以下のように述
べている。

「08憲章」の原文に接したとき、昔の天安門民主化運動にかかわったこと
のある私は、久しぶりに血が湧くような思いをした。民主化の夢は再び、
かの国の大地で蘇ってくるのか。

「08憲章」の示した民主化の理念と構想は、私たちの時代の単純な「理想
論」と比べれば、実によく成熟して高次元なものとなった。

それは、中国の現状に対する冷徹な分析と、民主化の障害となる諸問題に
対する深い洞察の上、政治・経済・教育・司法・宗教などの多方面におけ
る変革の構想と問題解決の道筋を提示し、中国民主化のための総合的なガ
イドラインを打ち出したものである。

その中で、たとえば「軍の国家化」の主張はまさに現体制の核心部分を突
いた鋭い切り口であり、「連邦共和制」の構想はまた、「中国のような巨
大国で民主化が実現可能なのか」という長年の難題の解消に方向性を示し
た歴史的な突破である。

発起人の多くが天安門民主化運動の中心人物の生き残りであることからす
れば、今の成熟は過去の運動の挫折に対する反省の結果であると思うが、
完成度の高い「08憲章」の発表自体は、民主化運動の一歩前進を示した画
期的な出来事である。

何よりも注目すべきなのは、天安門事件から19年目の2008年に、この「08
憲章」が発表されたタイミングの重大な意味である。

天安門事件以来の19年間、中国の民主化運動が低潮期に入ったことは事実
だが、その最大の原因はやはり、1990年代から始まった市場経済への本格
的な移行と、その結果としての高度経済成長にある。

つまり、時代のパラダイム(思考の枠組み)が「政治」から「経済」へと
変えられていく中、この国のエリートと民衆が富と豊かさを求めて市場経
済の波に呑(の)み込まれていくと、民主化の理想と欲求が徐々に忘れ去
られる。そして高度成長のもたらす経済の繁栄はまた、共産党の一党独裁
に新たな正当化の根拠を与えて政権安定の基盤を作った。

その結果、党と政府の思惑通りに、十数年にわたる「繁栄と安定」の時代
が「めでたく」出現したわけである。

しかしその半面、政治的一党独裁と経済的市場化との矛盾が棚上げにされ
たままの経済成長は、やがて腐敗の蔓延(まんえん)や貧富の差の拡大や
農村の疲弊などの問題を生み出し、経済が繁栄しながらも年間に数万件の
暴動が起きるようないびつな社会を作り出すに至った。

かくて運命の2008年から、肝腎の経済繁栄も陰りを見せ始め、特に08年後
半に入ってからは、「急落」、「減速」、「減産」、「リストラ」、「倒
産」などの不吉な単語が毎日の新聞記事に登場してくる中、十数年間の高
度経済成長はその終焉(しゅうえん)を告げようとしている。

これまで経済の繁栄によって覆い隠されていた社会的諸矛盾が一気に噴出
してきて、経済の後退がもたらす失業の拡大が社会的不安をさらに増大さ
せる事態の発生が必至だ。つまり今度は、「繁栄と安定」の時代に取って
代わって、衰退と混乱の時代が再びやってくるのである。

そうすると、中国はどこへ向かうべきか、という忘れ去られていた根本問
題が再び浮上してきて、変化と改革を求める声は再び時代のパラダイムと
なってくる。

したがって、このような歴史的な節目に堂々と登場してきた「08憲章」
は、まさに中国の直面する難局を打開し、国づくりの新しい道を切り開こ
うとする民主化運動の「再出発宣言」となるのである。

インターネットが発達し、市場経済の広がりが党の直接支配の及ばない自
由空間を作り出したこの時代、彼ら民主派知識人や人権活動家を中軸に、
いびつな経済繁栄から取り残された農民工や都市部労働者、経済衰退の中
で生活破綻(はたん)をきたしていく中産階層、卒業しても職にありつけ
ない大学生、そして「中華帝国」の支配に反発するウイグル人やチベット
人などが、自由・人権・民主の普遍的価値を掲げた「08憲章」の旗印の
元に結集してくるのであれば、それが間違いなく、中国の行方を決定する
大きな流れを作り出していくのであろう。

日本がどう対応すべきかこそはわれわれにとっての大問題であるが、とに
かく、08年12月から、巨大隣国・中国の変革と激動の時代がいよいよ
その幕を開けようとしていることを、まず認識しておくべきであろう。



■天安門事件 1989年6月、中国政府が軍隊を出動させ、民主化を求める
学生らを弾圧した事件。4月15日に急死した中国共産党の改革派指導者、
胡耀邦氏の追悼を契機に、学生らが北京の天安門広場でデモを繰り返し、
党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。トウ()小平氏ら指
導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて、軍を動
員して広場を制圧し、少なくとも数百人の死者が出た。


 ■せき・へい 1984年北京大哲学科卒。88年に来日。89年の天安門事件
で母国と「精神的に決別」。95年神戸大大学院で博士課程修了。2007年日
本に帰化し08年拓殖大客員教授。「私は『毛主席の小戦士』だった」
(飛鳥新社)など著書多数。四川省出身。46歳。産経ニュース2008.12.23
18:18

2019年05月01日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを
夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原
稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても
発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27


2019年04月30日

◆「107」人が目指すもの

渡部 亮次郎


「せんたく議連」超党派の107人で発足

<北川正恭・前三重県知事らが結成した「地域・生活者起点で日本を洗濯
(選択)する国民連合」(せんたく)と、これと連携する超党派の議員連
盟「せんたく議員連合」の合同発足総会が3日、都内のホテルで開かれた。

議連には、自民(51人)、民主(47人)、公明(8人)、国民新(1人)
各党の計107人が参加した。

議連の共同代表は、自民党の河村建夫・元文部科学相、民主党の野田佳
彦・元国会対策委員長が務めるほか、自民党から園田博之政調会長代理、
菅義偉選挙対策副委員長、民主党から岡田克也、前原誠司両副代表ら党幹
部も加わった。

議連は、国会改革、地方分権、「霞が関」改革、地球環境問題の各テーマ
で分科会を設けて議論し、次期衆院選の各党政権公約(マニフェスト)に
反映させていく考えだ。河村氏らは当面、国会改革を重点として、会期制
の見直しなどを検討課題に位置づけた>。3月3日19時32分配信 読売新聞

顔ぶれを見ると、改革小泉支持者と小沢忌避者ばかりである。公明から
入ったのは忍者であろう。果たしてこれが「新党」まで進むだろうか。新
党が出来れば大変な人気を博するだろうが、身を捨てて奔走する「竜馬」
が居ない。誰か立て!竜馬

自民党支持者では、票欲しさに創価学会・公明党の「たかり」に唯々諾々
と応ずる自民党に相当強い不満が高まっている。特に連立重視の立場から
国会対策上、公明党への譲歩続きだから福田首相への支持率低下はそれを
裏付ける何物でもない。

一方、民主党の党運営について小沢路線への党内不満も高じている事は隠
せない。小沢のピノキオが山岡国対委員長だが、硬直した自民党対決が、
果たして来るべき衆院選挙での民主党勝利に結びつくとは限らない、との
批判が燻っている。

判官贔屓というものがある。源義経を薄命な英雄として愛惜し、同情する
こと。転じて、弱者に対する第三者の同情と贔屓。日銀総裁人事への不同
意をあからさまにする民主党に対しては財界だけでなくビジネスマン幹部
からも自民党への「判官贔屓」が出ている。

去年の参院選挙。あれを民主党の勝利と見るか自民党の敗北と規定する
か。私は自民党安倍坊ちゃん政治に対する地方住民、農村の拒否反応と見
る。決して民主党歓迎ではない。二者択一だから民主党に入れただけである。

そう分析しない菅直人代表代行や鳩山幹事長は「反自民」の姿勢を強める
ことで次期衆院選挙でも勝利できると考え審議拒否という強行策をとって
いるが、これは大失敗に終わるはずだ。審議拒否をした野党が果実を手に
した事は憲政史上あり得ない。

日本の有権者は審議拒否を最も嫌悪するからである。而して「判官贔屓」
だ。ヒラリー・クリントンの失敗も「判官贔屓」にやられた事だと言うで
はないか。判官贔屓は洋の東西を問わず国を動かす力なのだ。

小沢氏が審議拒否の期間を「1週間」と定めたが、有権者はその意味が理
解できていない。しかも審議に復帰する時、如何なる理屈を用意できるの
か。その時、用意できるはずが無い。有権者は小沢氏を見捨てるだろう。

「107」人は反福田と反小沢の立場だけで超党派で集まってみただけだろ
うが「107」となると本人たちも驚愕する数字だった。
「現政界の閉塞感はこれほど強烈なのか」と意識し合えば新党結成に走る
のは早いかも知れない。

蛇足ながら現福田政権はあくまでも麻生太郎政権阻止だけを企図した野中
広務氏と手下古賀誠選挙対策委員長の思惑だけで生まれた「陽炎」政権。
人気の出るわけが無い。だから野中氏らは困惑して新勢力の結集に汚く反
応するはずである。2008・03・04