2014年03月23日

◆加瀬俊一氏の再登場

渡部 亮次郎


日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特にの小沢一郎が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10時55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(のちの日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

その後、外務大臣秘書官、通商局3課長、アメリカ局1課長、政務局6課長、大東亜大臣秘書官、政務局5課長、情報局第3部長、情報局報道部長などを歴任し、この際に東郷平八郎海軍元帥の通訳を務めたこともあった。

また、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行した他、1935年(昭和10年)にロンドン海軍軍縮会議へ参加した。

1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)までは駐イギリス日本大使館に1等書記官として駐在し、首相になる前のウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージと親交を持った。

また、その後の松岡外務大臣秘書官時代の1941年(昭和16年)4月には、ソヴィエト連邦のモスクワで行われた日ソ中立条約の締結時に随行し、ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフとの交渉にも関わっている。

アメリカで教育を受け、さらに駐イギリス日本大使館への駐在経験もあったことから高い英語力を持ち、幣原喜重郎や吉田茂と近い親英米派として知られた。

1941年12月の日本と連合国との開戦時には、東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局6課(北米担当)課長であった。

第2次世界大戦終結時の1945年(昭和20年)9月2日に連合軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印には、重光葵外相ら全権団に随行し隻脚重光を艦上に担ぎ上げた。同年には報道局報道部長等を経て外務省参与に就任した。

その後、1955年(昭和30年)4月に行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の政府代表特命全権大使を務めたあと、同年から国際連合代表部特命全権大使。

1958年(昭和33年)から初代駐ユーゴスラビア特命全権大使などを務める。国連への加盟に尽力し、国連代表部特命全権大使就任の翌年である1956年(昭和31年)に、日本の国連加盟が実現した。

1960年(昭和35年)に退官し、外務省顧問等を歴任。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問を務める。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞にも尽力し、後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と『佐藤榮作日記』で述べている。

外務省退官後は鹿島出版会会長、京都外国語大学教授等を歴任し、外交評論家として数多くの著作を執筆した。松岡、東郷、重光、吉田といった第2次世界大戦前後の歴代外務大臣の側近であった加瀬の証言は、大戦前後の日本外交を知る上で貴重なものとなった。

また、保守・右派系の国民運動・政治団体である日本を守る国民会議(現日本会議)議長も務めた。2004年(平成14年)に神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年101。死の直前までフランス語を学んでいた。

妻寿満子は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。外交評論家でオノ・ヨーコの従弟の加瀬英明は息子。参照:「ウィキペディア』文中敬称略。

2014年03月22日

◆「検閲」を知っているか

渡部 亮次郎


「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一 歌 二葉あき子。

敗戦後昭和22(1947)年 の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世には出なかった。

戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分となったからである。

1 星はままたき 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホームの 別れのベルよ
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


2 ひとはちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さようなら
  君いつ帰る


3 窓に残した あのことば
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召されての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。

若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命である。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。

新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫がコロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国との戦時下、女々しいと「発売禁止」。

<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。

満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。

すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。

国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべて排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」が存在したのである。

作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者もR・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを外国人と思って捜している。

戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌でヒットしたのが昭和22年だった。

戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。


◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎
   

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。

それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)

2014年03月21日

◆医学は科学ではない

渡部 亮次郎


「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)でそう主張している。

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の個体差を無視して検査データだけを見て、Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で作られて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか個体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。個体差があるからである。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている医者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても保険では1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。

2014年03月20日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎


中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いにおいしかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。トウ小平の現代化には5つ目があったのか。


        

2014年03月17日

◆インスリン自己注射物語

渡部 亮次郎


日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html

東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのインタビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」より抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本では60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんでした。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省からは、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだということが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受けることで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、という言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だった のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を 打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面 に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。

その内容 は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血 糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証 へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究をスタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといってもいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)

2014年03月15日

◆マッカーサー到着の日

渡部 亮次郎


1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆トウ小平は賢明で狡猾

渡部 亮次郎


トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(SankeiWeb 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」

2014年03月14日

◆ベートーヴェンの命日

渡部 亮次郎


3月26日は楽聖忌として知られるが、これはベートーヴェンの命日だからである。40過ぎの頃、ボンの生家を訪ねたことがあるが、休日で入館できなかった。以下「ウィキペディア」で「勉強」する。

《楽聖》は他にもバッハやモーツァルト、ショパン、エルマン(ヴァイオリニスト)などにも冠される称号であるが、単に《楽聖》とだけ言った場合はベートーヴェンを指すことが殆どである。日本では《楽聖》といえばベートーヴェンが定着している。

ところが、容姿は小太りで身長も低く、黒い顔は天然痘の痕で酷く荒れていたという。表情は有名な肖像画の数々や、デスマスクや生前ライフマスクを作っていたこともあり判明している。生涯独身。

若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。そうした風体のため、弟子のチェルニーは少年時代に初めて会った時、ロビンソン・クルーソーを思わせる、という感想を抱いた。

浮浪者と間違われて逮捕される事も何度も有った。ただ身なりには無頓着だったが手だけは念入りに洗うのが常であった。

性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜であったとされる。頑固さは作品にも反映されている。ゲーテには絶交された。

このように非常に厳しかった反面、実は冗談・語呂合わせを好んだ。諧謔性が発揮された作品も幾つも残っている。また自分も必ずしも楽譜通りに演奏しないのに、楽譜通りに弾かない演奏家には激しい非難を浴びせたという。

日本では、クラシック界の作曲家は「バッハ」、「モーツァルト」のように原語の発音で表記されることも多いが、ベートーヴェンの場合だけなぜか英語読みが一般的になっている。

ドイツ語では“Beethoven”は「ベートホーフェン」、一般的には「ベートーフェン」と読まれる。だから日本でも明治時代の書物の中には「ベートホーフェン(ビートホーフェン)」と記したものが若干ある。

しかしなぜか程なく「ベートーヴェン」が浸透した(唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である)。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、は1770年12月16日ごろ寒村ボンで生まれ1827年に死去した。60歳に満たなかった。

父ヨハン、母マリアの次男。ヨハンは宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患っており、収入はほとんどなかった。

だから一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていた。この祖父が亡くなると一層生活が苦しく
なった。

幼い頃から、ベートーヴェンは父から強制的に音楽の教育を受けた。父の目的は、才能を利用し収入を得ることだった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

10代には、父に代わって家計を支えていた。母マリアは父とは対照的にベートーヴェンを大切に育てた。ベートーヴェンの才能が認められ、収入を得た際には涙を流して喜んだという。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンでかねてから憧れを抱いていたモーツァルトに出会い弟子入りを申し入る。しかし申し入れた矢先に母が死去し、父と幼い2人の弟の世話のためモーツァルトに師事することを断念した。

1792年からウィーンに移住して活動を開始するものの、そのころ既にモーツァルトは死去しておりハイドンに師事した。ウィーンでのベートーヴェンはピアノの即興演奏の名手として名声を高めた。このころに父は死去する。

20歳代後半ごろからベートーヴェンは持病の「難聴」が徐々に悪化、後年には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死に等しい絶望感から1802年には自殺も考えた。

しかし「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる文書を書くことによって、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを手始めに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(作家ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期となる。

晩年は、慢性的な腹痛や下痢など体調の悪化に加え、甥カールをめぐる養育権争いやカールの自殺未遂事件が起こり、苦悩の日々を送っている。

しかし交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した前後からの晩年の作品群はベートーヴェンが到達した境地の高さを示すものとなって
いる。

こうして名実ともに一流の作曲家となったベートーヴェンであったが、長期間の飲酒癖(とくに質の悪いワインを好んだ)により肝硬変から黄疸と肝不全を患って、もはや治癒の見込みはなくなっていた。

1826年、ベートヴェンの病は命を脅かすほどまでに進行し、シューベルトなどが見舞いに訪れるなどしていたが、1827年3月26日、ついに波乱に満ちた56年の生涯を終えた。

ベートーヴェンが亡くなったとき、ウィーンには嵐が吹き荒れていた。臨終の床のベートーヴェンは、稲妻が閃きすさまじい雷鳴がとどろいた瞬間に起き上がり、自分の拳を睨みつけ、目に見えぬ何者かと戦うようなしぐさをしたかと思うと、そのまま息を引き取ったと伝えられる。

医学的に見て、肝不全の患者は光に脳過敏状態となり、大げさに反応するとされ、ベートーヴェンの場合もそれにあてはまる。その葬儀は3万人もの人々が駆けつけるという異例のものであった。

ベートーヴェンの後の音楽家への影響は甚だ大きい。彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。

ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明は、音楽の歴史において重要な分岐点となる。

中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番などの作品に触発された。その後ワーグナーはロマン派の急先鋒として、音響効果の増大に成功し、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音の代表される和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派に加わらず、あくまでもベートーヴェンと同じ音楽形式を用いて作曲をし、ロマン派の時代の中で古典派的な作風を保った。

彼を評価する際に、聾者となりながらも音楽家として最高の成果をあげた不屈の精神からロマン・ロランをはじめ彼を英雄視する人々が多く生まれた。

この考え方により、聴衆や評論家が、ベートーヴェンの恋愛状態・経済状態、シンドラーによる逸話を、鑑賞の際に重視してしまい、客観的な音楽事象より先に立たせ、ベートーヴェンを理解しようとした事は否めない。

ベートーヴェンは、とかく、神童・天才と呼ばれたモーツァルトと比較されるが、モーツァルトが生まれながらの音楽の天才であったのに対し、ベートーヴェンは寧ろ努力肌であり、曲の中に表れるその人間性に惹かれる人が多い。

日本ではモーツアルトよりファンが多いといわれている。私はその日の気分によって好みが違い、ベートーヴェンを聴くと沈む。

出典: 『ウィキペディア』

2014年03月13日

◆下駄屋の内儀歌手「音丸」

渡部 亮次郎


私は福島県の独学作曲家古関裕而(こせき ゆうじ)こそは天才だったと思っている。独学で作曲家となり、遂に東京オリンピックの入場行進曲を作るまでの実績を残し、80歳で逝去した。

2009年はその古関の生誕100年で、郷里では記念に様々な催しが行われたが、はじめに古関を流行歌の作曲家として世間に認めさせたのが、下駄屋の内儀から歌手になった「音丸」である。古関の作曲した「船頭可愛いや」を大ヒットさせた。

1935(昭和10)年、裕而26歳の時。世界の舞台でも活躍した三浦環がレコードに吹込んだ。古関は大満足だったが、コロムビアのディレクターのアイディアで、改めて音丸を起用。結果は音丸ものが大ヒットとなり、古関をも売り出すこととなった。

とはいうものの昭和11年生まれの筆者は実物にお目にかかったことがない。テレビ時代になったときは音丸は既に第一線を退いていたらしく映像も見ていない。ただし手許にあるたった1枚のCDはステレオである。

音丸の持ち歌の中でも、「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」の3曲は特に有名で、「船もの」と呼ばれており、音丸の死後も広く親しまれている。(NHKラジオ深夜便2009年9月3日)

また「満洲想へば」「満洲吹雪」「君は満洲」などの満洲ものも彼女のレパートリーとして知られている。

他にも、「米山三里」「潮来追分」などの民謡調の歌も多く、これらの歌では音丸の巧みな節回しや美しい高音が最大限に生かされており、また彼女自身が民謡調の歌を非常に好んでいたために、音丸の本領発揮といった感がある。

明治39(1906)年12月8日東京市麻布箪笥町にあった老舗の履物屋の一人娘として生まれた。

常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。

17歳のときには春日派の小唄を始めているしかし、25歳のときに大変可愛がっていた弟が亡くなり重いノイローゼなる。

その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。

そこでその民謡の会に出席して披露した彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され本名で「草津湯もみ唄」を吹き込んだ。

そのレコードを聴いた古賀政男は当時重役をしていたテイチクに誘い「泪の京人形」を吹き込ませた。

ちょうどその頃、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが、芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかった。

そこで、苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性を探していたところ、下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立った。

その後、昭和9(1934)年9月から正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューした。

芸名を音丸としたのは同年に吹き込んだ「君は満洲」からである。音丸の芸名の由来は「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。

コロムビアでは当初家庭の主婦からレコード界入りしたことを隠していたが、音丸本人がファンに「下駄屋の姉御!」と声をかけられても「よくご存知」と返すなど腹の据わったところを見せたという。

翌昭和10(1935)年には「船頭可愛や」が大ヒットした。この曲は沖縄民謡の普久原恒勇が「日本最高の歌謡曲」と絶賛している。

続いて昭和11(1936)年には「下田夜曲」、「博多夜船」が大ヒットし小唄勝太郎や市丸らの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。

また「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満洲に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの。

13年の「皇国の母」は、戦地へ出征する兵士を乗せた船が出る港でスピーカーで流していたところ、泣く者が余りに多かったので中止されたという逸話がある。

次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり生活も派手となり家業の下駄屋は人手に委ね下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し音丸は歌一筋の道を歩み始める。

その後弁士の井口静波と再婚し二人は二枚看板で全国を慰問、興業に歩いた。

戦後も全国巡業が続き昭和22(1947)年には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。

昭和23(1948)年にはキングレコードに移籍、同年に熊本県人吉を訪れた際に「五木の子守唄」を見つけ出し初めて同曲をレコーディングする。後に人吉市長から感謝状を受けている。しかしヒットは出せずその後コロムビアに復籍した。

コロムビアに戻った音丸はその後、懐メロブームに乗って東京12チャンネルのなつかしの歌声に番組出演をしたり昭和47(1972)年にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込みオールドファンを喜ばせたが、この頃から急に視力が低下、活動に支障をきたし始める。

昭和51(1976)年1月18日午後12時30分に世田谷区世田谷のマンションで急性心不全により死去。享年70。

墓は東京都品川区にある天妙国寺にあり、墓の横には舟の帆をかたどった碑がある。 この碑は音丸の生前に作られ、「船頭可愛や」の一番の歌詞が音丸の直筆によって彫られている。本名永井満津子。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「誰か昭和を想わざる」
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer02.html

2014年03月10日

◆わたなべりやうじらう

渡部 亮次郎


幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。たとえば産経の阿比留瑠比さんのように。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。

◆園田直のサバイバル論

渡部 亮次郎


園田直(そのだ・すなお)は昭和59(1984)年の4月2日に70歳で死んだ。九州・天草の村長から代議士となり、衆議院副議長、厚生大臣、官房長官、外務大臣2期、再度厚生大臣に続いて3期目の外務大臣を務めた後3年して死んだ。病名は腎不全。

ところでこの人は、戦場11年もいた。しかも日本陸軍落下傘部隊第1期生、天雷特別攻撃隊(いわゆる神風特攻隊)隊長を経験した。

そのかん中国、東南アジアで銃撃戦を体験し、最後の特攻隊では原爆を積んだアメリカの艦船に体当たりすべく飛び立つ予定だったが天候不良に阻まれ、では17日に飛べ、と言われたが15日に敗戦、万事休すであった。

その経歴を見て気づくのは彼ははじめから「死」を求めて戦っていたことである。それなのに生き延びたのだ。それだからこそ、戦場においていかに死の恐怖を乗り越え、いかに部下を統率すべきかをよく聞かされた。

私がNHK政治記者を辞めて彼の秘書官になったのは、そういう彼の戦争哲学に酔わされたためだった。秘書官になってからは出張先の外国のホテルのスイートで、従いてきた外務省の役人が夜は勝手に遊びに出掛けたあと、自身、酒を呑めないものだから、大酒呑みの私に自らウイスキーの水割りを作ってくれながら話をした。初め、私は42歳、彼は65歳であった。

 1.ジャングルで道が2股に分かれている。右に行こうか、左にしようか。部下たちが一様に注目する。私も判断がつかない。私が敵だったらどうするかと考えると、来て欲しい道は来て欲しいように整えるだろう。

そうだ整備されてない道を行こう。それが正しかった。良い道の先では敵が待ち構えていた。初めはそれが判らず失敗した。それで会得した。だから失敗を恐れちゃいかん。

代議士になってすぐ今で言う不倫を野党の女性代議士と起し、相手を妊娠させた。どうするか。事態から逃避できないわけじゃないが、あえて妻と離婚しこの代議士と結婚した。

随分非難されたが、選挙区の女性は好意的だった。事件への対処の仕方が真面目だ、というものだった。そのせいか以後も落選しなかった。

2.逃げる時は一番先に逃げなきゃいかん。2番目は撃たれる。トーチカ(ロシア語。コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地=広辞苑)にこもって敵と対峙する時がある。

膠着状態だな。最後にいざ出て逃げようとした時、初めに出た人は助かるが、2番目の奴は必ず足を撃たれる。相手は あ、逃げた、撃てというが、今まで長い事、待っていたものだから、あ、と一息ついちゃうんだね、一番の奴はそれで逃げられるが、二番手は足を撃たれる事になる。

だから何でも逃げる時は一番先に逃げなきゃ駄目さ。戦場では日中条約を遅疑逡巡する福田さん(当事の首相)のような人の態度はダメだ。遅疑逡巡していては戦争は出来ない。

部下の信頼を得られない。それと、弾というのは逃げる奴を追ってくるような気がするよ。弾に対してこちらが向かっていけば弾が俺を避けたよ。

 3.野戦では、弾の流れが見えているうちは大丈夫だよ。見えなくなったらコトだ。そうだろう、こっちに向かっている弾は点になるもの。点になって初めて緊張すればいいんだ。初めから構える事はないのさ。部下にバカにされるよ。

戦争とか喧嘩とかは常時、緊張しているわけじゃない。いわゆる戦機というものが必ずある。その時だけ緊張すればいいのさ。あとは風の吹くまで待とう風車。

 4.どんなに今のようなコンピューターが付いたって、大砲の射手は連続して同じ着弾点に命中さすことは不可能だよ。だから、さっきの弾の炸裂した穴に飛び込めば、弾には当たらない。「弾に向って進めば弾がよけてくれる」と言ったな。一番良くないのが逃げること。

そのうちに部下たちも心得たものだ、みんなそうするようになって1人も戦死者が出なかった。逆にいえば人生、同じ失敗を2度繰り返すのはかなり難しいものだということでもあるね。

 5.ある時、士官学校出の若い隊長が着任した。いやに張り切っとる。ダダダダダ。いきなり敵が撃ってきた。隊長、あがってしまった。「あれは敵か、味方か」そればっかり。士官学校では銃の撃ち方は習ってきたが撃たれ方は習うわけがない。

それが着任と同時に撃たれたのだから舞い上がって仕舞うのは当然だ。事はあるが撃たれた事はない。ところが、こっちだってどっちの弾かわからん。でたらめに「あれは味方でございます」といってやったらフッとため息をついてたっけ。まだ22か3だものね。

角さんが幹事長、私が国対委員長のとき佐藤総理が法案の採決強行が遅いと角さんをどなりつけたらしい。おまえ何とかなだめてくれと言うからなだめてきた。

「総理、今日は仏滅、明日は大安」と言ったら総理は「そうか」と納得した。角さんが「ほんとにそうか」と聞くから「わしゃ知らん」と言ってやった。要は総理が採決の延期を納得すればいいわけだから、理屈はいらん。

 6.ある隊長は銃撃戦のさなか、先頭に立とうとするが、戦死されて困るのはこっちだから、みんなは「隊長、そこでは危のうございます」と言うばかり。士官学校出が危ないと言われて引っ込むわけに行かない。ますます弾に身を晒そうとする。

仕方ないから出て行って「隊長、そこじゃ戦況が良く見えません、どうぞこちらへ」と岩陰に案内したらため息をついていた。そんなもんさ。誰でも怖いものは怖いんだよ。

 7.角栄は俺のことを「俺は人を殺した事は無い」と言う。殺したくて殺す奴なんかいないよ。殺さなければ殺されるから殺すんだ。戦争好きなんているのかね。

 8.人間は何時死ぬか分からないから生きていられるんだよ。癌で余命幾許も無いと宣告されて自殺する人居るじゃないか。すぐ死ぬのに。特攻隊でも「明日出動」の命令がくだった途端、クビを吊る奴がいたよ。何時死ぬか分からないから生きていられるんだとつくづく思ったね。

逆に言えば明日とわかってなお生きている奴は大変なものだ。オレはそこらに落ちているちり紙を拾い、他人の鼻をほほにこすり付けていた。それに「生」を感じ取ったのだろう、と思い返すね。

最後に国会対策も女口説きも戦争と同じ、違うところは弾と口説と言ったので、顔を見た。戦争は人間をかくも鍛えるものか。ガン治療の蓮見ワクチンの蓮見博士から「喉頭ガンの疑い濃厚です」と診断された帰り、車の中では高鼾だった。真実は糖尿病による腎臓の機能低下を死神が捕えたのだった。

田中角栄は国民要求の最大公約数を即座に実行して人気を得た。園田氏の頭脳は同じぐらい良かったが、ただ言ったりやったりすることに奇策が多かったので、並みの人は従(つ)いていけなかった。だから派閥を作れなかった。日本の政治家として唯一最大の欠陥だった。
          

2014年03月09日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。