2013年12月18日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎

私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見でには建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見と「ぶら下がり」」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。
カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次=後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れた時、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知りでない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。(文中敬称略)

2013年12月16日

◆アルゼンチンの牛肉

渡部 亮次郎


日本アルゼンチン協会報を見ていたら、飛行機で二十何時間も掛かるアルゼンチンから日本への資本進出が行なわれ、鉄鋼大手の「シデルカ」とNKK(日本鋼管)の合併企業「NKK−t」の資本比率は51対49だという。あのパンパス(草原)の国に、そんな強力な鉄鋼会社があったのか。

「つい最近まで世界に冠たる鉄鋼メーカーであり、油田用パイプの最大供給源であった日本の鉄鋼会社がなぜアルゼンチンの傘下に入らざるを得なくなったのか。

「それは独り鉄鋼だけの問題ではなく、モノ造りを続け、貿易立国でしか生存できない日本にとっての深刻な課題といえよう」と協会の専務理事野村秀隆氏が警鐘を鳴らしている。

アルゼンチンの企業は、いち早く規制緩和を進め、民営化に徹した。いち早く世界規模でのマーケット戦略を展開してきた。

これに対して日本は国内マーケットに固執し、グローバルなマーケット動向を見失った、だから国際競争力を失っているのだとも野村氏は言っている。

日本から南米への移民はアルゼンチンにも多い。特に沖縄からの移民が多い。ヨーロッパからのそれはイタリアからも多いが、上層をなしているのはドイツからの移民である。だから第2次大戦後、ナチの残党の多く逃げ込んだ国がアルゼンチンだった。

アルゼンチンを私たちは太平洋の向かいの国と考えがちだが、大西洋を挟んではアルゼンチンはドイツの隣国なのである。

行けども行けども草原の国である。そこに肉牛が放し飼いされている。景色は何処まで行っても同じである。「ですから遠足をやっても意味が無いのです、と日本人学校の先生が笑っていた。

そのパンパスの中でたらふく牛肉を食べてみようとなって草原の中のレストランに入ってみた。やがて出てきた牛肉はやたら大きくて皿からはみ出していた。

だが、がっかり。さっぱり美味しく無い。調味料は塩だけ。どうにも筋っぽくて残してしまった。

日本大使が語るように米国と豪州の牛は少しはトウモロコシなど穀類を食べるがアルゼンチンのは牧草だけの放牧飼育。筋っぽいわけである。

日本の牛肉は草と穀物による人工飼育だから脂っぽく柔らかい。これに慣れて育った日本人はアルゼンチンの牛肉に慣れるのは手間が掛かるだろう。

江戸にやってきたアメリカの黒船が幕府に牛の差し入れを求めた時、えっ、アメリカ人は船の中で農作業をするのかと思ったと伝えられている。殺して食べるなんて想像もできなかった。

その日本人が表向き四足を食べるようになったのは、明治天皇が食した明治4年以降である。それも精々すき焼き。ステーキはもっともっと後である。アルゼンチンの牛肉にはまだ遠い。

2013年12月15日

◆国語は義務教育で詰込め

渡部 亮次郎


「未曾有」で始まった、かつて麻生「首相」の漢字誤読は長崎原爆忌での「しょうせき」(傷跡)で終止符を打った。直後、自分で打った「解散」の結果「首相」でなくなって、いくら誤読しても誰も振り向かなくなったからである。

しかし世間には誤読のタネはいくらでもある。直後、海外在住の評論家女史から配信されたメルマガに「日本を『せき巻き』している」という文章があった。

前後の関係から、あきらかに席巻(せっけん)の読み方を知らずに年老いたものと知れた。何冊も著書が有り、新聞にも時折、評論を寄稿している有名人でも、おそらく中学時代に席巻を習わず、評論を書くようになってから使うようになったための誤読かと同情した。

そうかと思うと、教育関係のある会合に出たら、最近、歴史教科書の版元になって名を挙げた評論家が「先生、なぜこういう子供を『いくむ』ようになったのでしょうか」と下問。

聞かれた某国立大学の副学長女史、暫く考えて「いくむ」が育(はぐく)むと分かって、すらりと答弁。評論家は「はぐくむ」と勉強しなおすチャンスをまた失った。

田中角栄は学歴の無い首相だったが、この種の誤読は一切無かった首相でもあった。尋常小学校の漢字教育が徹底していたからではない。若くして世に出て、徒手空拳、使うべき文字は自分で納得のいくまで自分で叩き込んだためである。

外国の大学に2つも入った麻生太郎は、小中学校で漢字教育を十分うけずとも高校、大学を通過できる「環境」にあったから、漢字使用に伴うある種の痛痒を感じないまま過ぎてしまった。経営者としても国会議員としても先祖の七光りがあって、政治家の頂点に立ってしまった。

かくて首相として活動してみたら、漢字を十分使えない器である事を暴露、人気ガタ落ちになってしまった。政界にはこれからまだまだ2世3世が登場してくる。彼らは日教組の「ゆとり教育」を受けて育っている。漢字教育も「ゆとり」だろうから、第2、第3の麻生が間違いなく出現する。

すべからく、漢字教育は脳みその柔らかな義務教育の間に徹底的に教え込まないと、我々は天にツバする如く政治家の演説にのけぞり続ける事になる。(文中敬称略)

2013年12月12日

◆気の毒な「水に落ちた犬」

乾 正人


永田町でも西新宿(都庁)でも「水に落ちた犬を打つ」のは、政治の性(さが)と言ってしまえばそれまでですが、あまり気持ちの良いものではありません。

都議会では連日、猪瀬直樹都知事が受領した5000万円問題が追及されています。

知事は正直者のようで、日ごろの自信に満ちた輝きがかき消え、答弁も弱々しく矛盾だらけ。事態は好転どころか泥沼にはまっています。辞任必至とみて、はや知事選立候補に意欲をみせている政治家もいます。

あの5000万円がなくても猪瀬氏は選挙に勝ったでしょう。しかし、それは結果論でしかなく、無利子でもらった大金を貸金庫で保管し続けた事実は消えません。

ここで一度、身を引いて再起を期さないと、「東京五輪招致」の功績すら吹き飛びかねません。それにしても世の中に、うまい話はないもんですねえ。(産経新聞編集長)
産経ニュース【編集日誌】 2013.12.12

<「頂門の一針」から転載>

◆マスコミは金儲けに過ぎない

渡部 亮次郎


最近のインターネット界ではマスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。77歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーが離れて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元社員の会社が多い。勢い本社の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からりの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。

2013年12月11日

◆事故死ジェームス・ディーン

渡部 亮次郎


アメリカ映画『エデンの東』(55)『理由なき反抗』(55)『ジャイアンツ』(56)の主演俳優ジェームス・ディーンが自動車事故で息をひきとったのが、1955(昭和30)年の9月30日。

私はまだ大学2年の秋。政界は第2次鳩山一郎内閣の末期。脳溢血を患いながら日ソ国交回復を成し遂げつつあり、11月には退陣する。

愛称: ジミー・ディーンはこの日、カリフォルニア州のサリナで行われるレースに向かう途中、友人のラルフ・ウッタリックと共に愛車ポルシェ・スパイダーを135キロのハイスピードで運転。

横から出てきた学生の運転する車と衝突。ラルフと学生は軽症だったが、ディーンは帰らぬ人となった。まだ24歳だった。

彗星のようにこの世を去った彼は、エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローらと共に50年代を代表するアメリカ文化の象徴だった。

死亡する55年には安全運転をテーマにしたコマーシャルに出演するが、実生活ではスピード狂として知られ、車やバイクを高速で走り回す無軌道ぶりはスタジオの重役や製作スタッフたちの心配の種だった。

彼が事故死する2時間前にはスピード違反で切符を切られており、前夜には激しい恋のトラブルがあったといわれている。

『エデンの東』と『ジャイアンツ』の演技で2年連続してアカデミー主演男優賞候補になるが、ノミネートされた時には既に亡くなっていたため、死後2年連続してノミネートを果たすという珍しい記録を残した。

厳格なクエカー教徒の家庭のひとり息子として1931年2月8日、インディアナ州マリオン生まれるが、9歳の時に最愛の母親をガンで失う。父親は歯科技工士の仕事で忙しかったために、ディーンはフェアマウントで農場を営む伯母夫婦のもと引き取られる。

小学校では絵画の勉強やピアノやドラムの練習に打ち込み、中学に入ると担任の教師アデリーン・ノールに俳優としての素質を見出されて学生演劇に出演。

演じる事の楽しさに目覚めたディーンは、高校に入学すると演劇研究会に入会。演劇以外にバスケットボールなどのスポーツにも熱を入れた。

49年には州政府主催のスピーチ・コンテストに参加。高校生とは思えない迫真の朗読で優勝を果たし、州対抗のコンテストでは6位に入賞した。

高校卒業後は父親の住むカリフォルニアに移り、サンタモニカ市立大学で法学を学ぶものの、成績はあまりよくなく、勉強よりも芝居の練習に熱中するようになる。

ディーンは、さらなる演技の勉強のためにカリフォルニア州立大学に転校して演技科を専攻。アクターズ・スタジオ出身の俳優ジェームズ・ホイットモアのもとで演技を磨く。

舞台『マクベス』で演じたマルカム役の演技が注目されてエージェントと契約を結び、50年には典型的なアメリカン・ボーイのイメージを買われてペプシコーラのコマーシャルに出演。

しかし、俳優としての仕事はほとんどなく、大学の授業をさぼってハリウッドで映画やテレビのオークションに参加する日々を送る。

51年にはテレビ・ドラマ『第一の丘』でヨハネを演じてまずまずの評価を得て、ジェリー・ルイスとディーン・マーティン主演の『底抜け艦隊』(52)では端役として映画デビューを果たす。

俳優としての成功を求めるディーンは、大学を中退してニューヨークに移住。52年にはアクターズ・スタジオの入門テストを受け、150倍の難関を突破してスタジオ史上最年少の研究生となった。

その直後、舞台『ジャガーを見ろ』の準主役に抜擢され、上演はわずか6日で打ち切られたが、ディーンが演じた知能の足りない青年役は大きな注目を集めた。舞台でのキャリアを優先させるために『銀の盃』(54)などの映画出演を断り、54年にはブロードウェイの舞台『背徳者』でアラブの青年役を演じて絶賛を浴びた。

アクターズ・スタジオの創設者の一人であるエリア・カザン監督は、ディーンの才能に注目して新作映画『エデンの東』(55)の主役に抜擢。ワーナー・ブラザース社と1万ドルの契約を結んだ。

ディーンは、父親の愛に飢え、反抗的で孤独感に打ちのめされた息子キャルを熱演。反抗的で傷つきやすい若者像はセンセーションを巻き起こした。

続く『理由なき反抗』(55)では、キャル役の延長ともいえる悩み多きティーン・エイジャー、ジムを持ち前の個性と演技力で見事に演じきった。

『エデン〜』撮影中に知り合ったイタリア人女優ピア・アンジェリと知り合って恋に落ちるが、ディーンの破滅的な性格が災いして4ヶ月で別れてしまう。

その後も、テレビ・ショーの司会者マイラ・ヌルミ、『理由〜』の共演女優ナタリー・ウッド、『007/ドクター・ノオ』のグラマー女優ウルスラ・アンドレスらと浮名を流すが、どれも長続きしなかった。

『理由〜』の撮影が終了すると、共演のエリザベス・テイラーの妊娠で撮影開始が遅れた『ジャイアンツ』(56)に出演。監督のジョージ・スティーブンスに頼み込んで手に入れた、ひねくれ者の牧童ジェット・リンク役を、自分の意志を通すために監督と反目しあいながらも、的確な演技力で演じ切って演技派俳優としての才能の片鱗を見せた。

しかし、映画完成直前の55年9月30日、次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』(56)のロッキー・グラシアノ役は同じアクターズ・スタジオ出身のポール・ニューマンが演じ、彼の死後公開された『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』は大ヒットを記録。若者たちは映画の中のディーンの姿に共感した。
www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/j-dean.html

24歳の死は『ジャイアンツ』の公開前だった。事故原因は長年、ジェームスのオーバースピードだったと信じられていたが、近年発見されたオリジナルの事故記録から対向車の車線はみ出しによるものであると判明している。

死後、その終焉の地に建てられたモニュメントには『James Dean 1931Feb 8―1955 September 30 PM5:59 ∞』の字が刻まれている。

事故を起こしたポルシェは、彼のレース用の愛車で、通常はレース場のみで使用されていたが、この日はこの車を運転する特別な事情があったとされている。

また生前のジェームズは、「レースは危なくないですか?」と記者に問われた際に「車に乗っていて危険を感じるのは、レース場ではなく、一般の車道です」と語っていた。

遺体は故郷のフェアマウントにある公園墓地に埋葬され、現在も献花が絶えない。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのはジェームズを含めて5人しかおらず、また死後に2度ノミネートされたのはジェームズただ一人である。


ジェームズは、とくに『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者はジェームズをモデルにし、その死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。短すぎるキャリアと衝撃的な死、それに公開葬儀がジェームズをまぎれもなく時代を超えた魅力を持つ崇拝の対象にした。

ジェームズ・ディーンの墓はピンクの様な色をしており、多くのファンによってキスマークがつけられている。1961年に21歳で事故死した俳優・赤木圭一郎は、死後「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた。

ジェームス・ディーンの事故車のミニカーが販売されたことがある。

1996年公開の映画『クラッシュ』には、事故の模様を本物のポルシェ550を使って完全再現するシーンが出てくる。

モリッシーの「スエードヘッド」のプロモーション・ビデオのラストシーンにジェームズ・ディーンの墓が登場する。

2002年〜2004年頃にかけて日本のフィギュアメーカーキューティーズから1/4スケールのリアルなフィギュアが発売された。ジェームス・ディーンが「理由なき反抗」と「ジャイアンツ」で穿いていたジーンズは、リー ライダース101で、リーバイスではない。

「理由なき反抗」で着ていた赤いジャケットは、マクレガー社の防寒用上着「ナイロン・アンチフリーズ」で、ゴルフ用ジャケットの「ドリズラー」ではない。

また、スイングトップと呼ぶのは間違い。これは日本のヴァンジャケットが創作した和製英語名称である。

アメリカのロックバンド、イーグルスは3枚目のアルバム、「On TheBorder」に「James Dean」という曲を収録した。『ウィキペディア』

2013年12月09日

◆戦後スパイ事件全容

渡部 亮次郎


これは女性読者が知らせて来てくださった資料である。事件の内容を説明していると誌面をはみ出してしまうの断念したが、とにかく北朝鮮、中国、ロシアのスパイが国土中を自由に徘徊するスパイ天国日本の実態である。

捜査当局はどんな法令を基に検束しているかは知らないが、実際は検束できていない事件のほうが問題であり、件数は其のほうが多いはずである。にも拘らずマスコミと野党はスパイ防止法案を潰しにかかるのである。不思議だ。

       戦後のスパイ事件全 容
mid.parfe.jp/kannyo/supaibousi/siryou/kakonojikenn.htm -
年     事 件 名 相手国
昭和16年 ゾルゲ事件 ロシア
昭和25〜 第1、2、3次北朝鮮スパイ事件 北朝鮮
昭和27年 三橋事件 ロシア
昭和28年 関三次郎事件 ロシア
昭和29年 ラストボロフ事件 ロシア
昭和32年 新光丸事件 北朝鮮弘昇丸事件 北朝鮮
昭和34年 第4次北朝鮮スパイ事件 北朝鮮
昭和34年 滝事件 北朝鮮
昭和35年 浜坂事件 北朝鮮
昭和37年 大寿丸事件 北朝鮮解放号事件 北朝鮮
昭和38年 酒田事件 北朝鮮第1次、2次能代事件 北朝鮮
昭和39年 寝屋川事件 北朝鮮 薫グループ事件 北朝鮮本事件 北朝鮮
     三和事件 北朝鮮
     一宮事件 北朝鮮
     蒲田事件 北朝鮮
昭和40年 神田事件 北朝鮮
        江戸川事件 北朝鮮
        長田事件 北朝鮮
昭和41年 杉並事件 北朝鮮 進展実業ココム違反事件 ロシア
昭和42年 コノノフ事件 ロシア 外務省スパイ事件 北朝鮮
昭和43年 東大阪事件 北朝鮮 都島事件 北朝鮮
昭和44年 岩崎・能代事件 北朝鮮 兵庫県貿易ココム違反事件
中国オダンタラ事件 ロシアセドフ事 ロシア
昭和45年 八王子事件 北朝鮮
昭和46年 足立事件 北朝鮮 コノノフ事件 ロシア石原事件 北朝鮮
昭和48年 温海事件 北朝鮮水山事件 北朝鮮
昭和49年 中川事件 北朝鮮
     切浜事件 北朝鮮
     第11幸与丸事件(レポ船) ロシア
     クプリツキー事件 ロシア
     北総事件 北朝鮮
     第11幸与丸事件(レポ船) ロシア
昭和50年 鶴見・寺尾事件 北朝鮮
     濁川事件 北朝鮮
昭和51年 汪養然事件 中国
     布施事件 北朝鮮
     マチェーヒン事件 ロシア
     ドリユー・ゴツトリーブ事件  ロシア
昭和52年 豊島事件 北朝鮮
     宇出津事件 北朝鮮
昭和53年 研究文献等中国流出事件 中国
昭和55年 コズロフ事件 ロシア
        水橋事件 北朝鮮
        磯の松嶋事件 北朝鮮
        第18和晃丸事件(レポ船) ロシア
        北朝鮮
昭和56年 伏木国分事件 北朝鮮
        六郷事件 北朝鮮
        男鹿脇本事件 北朝鮮
        工作員回収事件 北朝鮮
昭和57年 レフチェンコ証言問題 ロシア
        第35功洋丸事件(レポ船) ロシア ビノグラードフ事件
昭和59年 第12誠良丸事件(レポ船) ロシア
昭和58年 小住・金事件 北朝鮮
昭和60年 第31幸栄丸事件 (白い高速船) 北朝鮮
        日向灘不審船事件
        第5日東丸事件(レポ船) ロシア
        ソウル・辛事件 北朝鮮
        西新井事件 北朝鮮
昭和62年 横田基地中ソスパイ事件 中国
        ポクロフスキー事件  ロシア
       ・李恩恵北朝鮮ら致容疑事案 北朝鮮
        東明貿易ココム違反事件 北朝鮮
        東明貿易ココム違反事件 中国
        東芝機械ココム違反事件 ロシア
昭和63年 横須賀事件 北朝鮮
        渋谷事件 北朝鮮
        極東商会ココム違反事件 中国
        工作員漂着事件 北朝鮮
平成1年 商工連幹部に係るココム違反事件 北朝鮮
        ダイキン工業ココム違反事件 ロシア
        プロメトロンテクニクスココム違反事件 東ドイツ
平成2年 美浜事件 北朝鮮
       シランコフ事件 ロシア
平成3年 第65秀栄丸事件(レポ船) ロシア
        イラン輸出事件に係る武器部分品不正
平成4年 ダヴィードフ事件 ロシア
        イリーガル機関員による旅券法違反事件 ロシア
平成6年 トレーダーズココム違反事件 中国
平成8年 東亜技術工業外為法違反事件 北朝鮮
平成9年 通商代表部員に係る業務上横領事件 中国
        黒羽・ウドヴィン事件 ロシア
        チェルヌィーフ事件 ロシア
        軍人漂着事件 北朝鮮
平成10年 民族民主革命党スパイ事件 北朝鮮
平成11年 能登半島沖における不審船事案 北朝鮮
        菱光社等外為法違反 中国
        ボガチョンコフ事件 ロシア
平成12年 新宿百人町事件 北朝鮮
サンビームに係る武器部分品不正輸出事件 イラン
平成13年 黒部事案 北朝鮮
       
平成14年 元通商代表部員に係る秘密保護法違反事件 ロシア
        日本海中部海域不審船事件 北朝鮮

2013年12月08日

◆スパイ防止法案概要

渡部 亮次郎


密保護法が6日にやっと成立したので安倍政権が次にほしいのはスパイ防止法だろうが、野党とスコミをまともに敵に回すのでおいそれとは取り組めない。

国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案は、1985(昭和60)年の第102通常国会で自民党所属議員により衆議院に議員立法として提出されたが、第103臨時国会で審議未了廃案となった法律案。通称「スパイ防止法案」。

全14条及び附則により構成。外交・防衛上の国家機密事項に対する公務員の守秘義務を定め、これを第三者に漏洩する行為の防止を目的とする。

また、禁止ないし罰則の対象とされる行為は既遂行為だけでなく未遂行為や機密事項の探知・収集と言った予備行為、過失(機密事項に関する書類等の紛失など)も含まれる。最高刑は死刑または無期懲役(第4条)。

憲法が保障する基本的人権に対する配慮から、第14条において「この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならない」と定められているが、飽くまでも政府の努力義務とされており、法律の適用により一般国民の人権が侵害された際の救済措置が担保されていない点が特に批判の対象とされた。

自民党内においてスパイ防止法の必要性は1980年代前半から活発に議論されるようになり、当時の内閣(海部)の許でその気運が高まった。

これに対し一般国民の権利制限に直結する法律であることや報道の自由が侵害されることに対する懸念から、大多数のマスメディアが反対に回った(推進の立場を表明した主たるマスメディアには世界日報がある)。

そのため、政府は内閣法案として提出することを断念するが通常国会の閉会を間近に控えた1985年6月6日に伊藤宗一郎ら10名が衆議院に議員立法として法案を提出した。

これに対し、当時の野党(日本社会党・公明党・民社党・日本共産党・社会民主連合他)は断固反対を主張。法案は継続審議となるものの10月に開会した第103臨時国会でも野党は徹底して審議拒否を貫き、12月21日の閉会に伴い廃案となった。

なお、2001年に改正された自衛隊法において従来の第59条における「秘密を守る義務」規定に加え第96条の2に「防衛秘密」規定が新設され、廃案となったスパイ防止法案の一部と同趣旨の規定が盛り込まれた。

2007年2月には航空自衛隊の一佐が読売新聞記者に機密情報を漏洩し、この規定に違反したとして警務隊が事情聴取や家宅捜索を行ったと報じられている[防衛省、読売新聞に機密漏洩の疑いで一佐宅を捜索(J-CASTニュース)]。

世界基督教統一神霊協会(統一教会)及びその政治組織である国際勝共連合が本法の必要性を特に強く主張しており、系列紙世界日報がたびたび「スパイ防止法の早期制定」を訴える社説や記事を掲載している。その論調は概して「先進国でスパイ防止法が存在しないのは日本ぐらい」というものである。

文献
賛成の立場
スパイ防止法案――その背景と目的(自由民主党広報委員会出版局・1982年)
間接侵略の危機―日本だけにないスパイ防止法(河西徹夫・日高明、日本工業新聞社・1982年)
機密保護と現代――スパイ防止法はなぜ必要か(スパイ防止法制定促進国民会議、啓正社・1983年)
誰にもわかるスパイ防止法―正しく学ぶ三つの章(スパイ防止法制定促進国民会議、世界日報社・1987年)

反対の立場
国家秘密法〈スパイ防止法〉―いま資料の時代 国家秘密法案阻止のマニュアル集(晩稲社・1985年)
暗黒時代を再現する自民党の「スパイ防止法案」に反対しよう(自由人権協会・1985年)
エッ!わたしがスパイ?―あなたも「スパイ防止法」に狙われる(東京弁護士会・1985年)
あなたの目、耳、口ふさぐ国家機密法(日本共産党中央委員会出版局・1985年)
悪魔(サタン)があやつる“スパイ防止法”と霊感商法(荒井荒雄、青村出版社・1985年)

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・09・23執筆。再掲。


2013年12月06日

◆おやつの無い子供時代

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」

2013年12月02日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっている。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は2010年10月21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならない。再掲

2013年11月27日

◆日本人死刑囚111人を救った歌手

渡部 亮次郎


「あゝモンテンルパの夜は更けて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952(昭和27)年9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、歌唱:渡辺はま子、宇都美清。

実は、この唄が第2次大戦で戦争犯罪人としてフィリピンに身柄を拘束されていた日本人死刑囚111人を救出するきっかけになった。あまり古い話な ので知る人はすくない。私も26日の散歩中偶然に聴いたMDの歌で思い出し たのである。60年前の話だ。

1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。中に、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた。作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されている日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交の無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。

渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。

慰問のステージでは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』を披露した。

曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊東も涙を流していた。

その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯全員の帰国が叶った。(ウイキペディア)

渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名 加藤 浜子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。


◆スーパースパイの末路

渡部 亮次郎


1985(昭和60)年、中国国家安全部対米国情報工作の当時の総責任者、北米情報司の司長、外事局の主任だった兪強生は、米国に政治亡命した。兪強生が政治亡命した動機は不明だが、両親が受けた迫害と関連していると見られる。

兪強生の父親は、中国共産党の最高指導部のメンバーで、共産党の政権確立後、天津市の初代市長を務めた黄敬(本名、兪啓威)。その母親範瑾も、北京市副市長や共産党機関紙「北京日報」の社長などを務めていた。

ところが1960年代に始まった「文化大革命」で、両親がともに「粛清」の対象となり、迫害を受け、父親が死亡、母親も危うく命を落とすところだった。

この中共の北米情報司司長が米国政府に亡命した際、金無怠という「1981年に定年退職するまでに、CIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた人物」。その金無怠が実は対米スパイだという証拠を兪強生は手土産として米当局に提供した。

その直後に、FBI(米国連邦調査局)が金無怠を逮捕、中国当局のスパイとして起訴した。

金無怠は1922(大正11)年北京生まれで、燕京大学新聞学部を卒業、1938(昭和13)年に駐上海米国領事館の通訳となったが、一方で1944(昭和19)年に当時の周恩来首相に認められ、中共のスパイとなった。もちろん米国側には極秘である。

1949(昭和24)年、駐香港の米国総領事館に転勤、1952(昭和27)年に米国中央情報局(CIA)に配属され沖縄でCIAの対外国ラジオ情報機構に在籍していた。

このころ、金無怠は当時の台湾の人気アナウンサー周謹予と結婚し、1965(昭和40)年に米国国籍を取得した。1981(昭和56)年に定年退職するまでに、金無怠はCIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた。

退職後に、在職中の「功績」が評価され、CIAの表彰までに受けた、1985年にスパイの身分が割れるまでCIAの顧問を務め続けた。

兪強生が米国に提供した証拠には、金無怠が中国国家安全局での略称や通信証拠などが含まれている。これらの証拠を前に、金無怠は中共のスパイだったことを認め、一部の情報提供を自供せざるを得なかった。

金無怠が非常に優れたスパイ素質の持ち主で、逮捕されるまでに、数十年間生活を共にしてきた台湾人妻は、夫は中国当局のスパイであることにまったく気づかなかったという。

また、「中国当局側でも、このスーパースパイが提供した米国情報に触れられる幹部はわずか数十人しかいない上、金無怠の本当の姿を知る人はさらに限られていた。

兪強生のような中共の情報局の高官から本件が明かされなければ、恐らく真相は永遠に闇に包まれたであろう。

当時、中国当局の最高指導部の高官・兪強生が米国に亡命したことよりも、米国CIAのエリート幹部が中国当局のスパイであることが、世界に強い衝撃を与えた。

中共のスパイと認めた後、1986年2月、米国裁判所は金無怠に対し17の罪が成立すると判定した。一方、金無怠本人は中国当局に対し、旧ソ連が米国と情報部員の人質交換をしたように助けを求めた。

その間、中国語新聞の取材を受けた際に、彼は、中国当局に監禁されている民主活動家・魏京生氏との身柄交換を望んでいると明らかにした。(魏京生氏は依然、滞米中であり、2007年6月に日本に立ち寄りを拒否されて話題になった)。

しかし、最後の助け舟を求めている金無怠に対し、中国外交部の当時の報道官・李肇星氏は記者会見で、冷酷に切り捨てた。

「金無怠事件は、米国の反中国勢力が捏造した寸劇。中国政府は従来から平和を愛するため、米国に一切スパイを派遣していない。中国政府はこの事件を絶対に認めない。この自称中国スパイである金無怠という人物をまったく知らない」と完全否定し、突き放したのだ。

米国裁判所の最終判決が下される直前の1986(昭和61)年2月21日、金無怠は完全に絶望し、米国バージニア州の刑務所で、ビニール袋を頭から被り、靴紐で首を絞め、自殺した。63歳だった。中国当局のスーパースパイは、このよう形で人生の幕を閉じた。日本では中曽根内閣の頃。新聞には報じられなかった。

当時の米国陪審団が、金無怠のスパイ活動の内容は主に以下であると結論付けた。

!)朝鮮戦争中に、国連通訳の身分を利用して、中国当局に捕虜の収監場所を知らせ、米国の作戦計画を遅らせることに成功。

!)1960年代、中国当局に米国の対中国政策の情報を提供し、米中両国の外交交渉において、中国に優位な立場に立たせた。

特に、米中が外交関係を回復する過程で、金無怠は当時のニクソン米国大統領が中国との国交回復を望んでいるとの情報を掴み、中国当局に流した。結果、米国が中国当局との関連交渉中に、多くの重大な譲歩が引き出せた。

この時期はソビエトからの離脱を決断した毛沢東が「敵の敵は味方」との見地から、以後はアメリカや日本との接近の画策し始めた時期であり、特に大国アメリカの対中方針が明かされた事は大成果だったはずだ。

同様、国交回復前の日本の実情と政府の真意を中共に密かに通報していた大和人金無怠は居なかったのだろうか。

!)ベトナム戦争期間中に、中国とベトナム両国に米国政府の対べトナム政策などを知らせた。戦争の発動や、戦争の終結などの情報も含まれている。

金無怠スパイ事件を通して、米国CIAは、国家安全上、中国の直接かつ現実的な脅威を認識した。金無怠は事件発覚後、CIAの安全管理が非常に緩んでおり、機密情報を得るのにそれほど難しくないと語ったという。

また、金無怠が取調べで一貫としてスパイ活動の詳細な内容を自供しなかったため、本件による被害規模や中国当局のスパイ手段は依然外部に知られていない。

一部では、金無怠スパイ事件が米国にもたらした損失は計り知れず、その影響はそれまでに判明したスパイ案件の総計を超えているとの認識もある。

2005年、中国駐シドニー領事館の政治参事・陳用林氏が豪州政府に政治亡命した。陳氏が提供した資料や証言によると、中国当局は豪州を含め、世界各国に厖大なスパイ・ネットワークを構築している。

豪州だけでも、1,000人以上の工作員がいるという。同年、豪州で庇護申請をした天津国家安全局(中国当局の情報機構)の元幹部、●鳳軍(ハオ・フォンジュン)氏も、公に同様なことを証言した。(●…赤+おおざと)

金無怠スパイ事件は、当事者となる国々やスパイ本人に、中国のために長年身を捧げた者をあっさりと切り捨てる中国共産党の本質を認識させる1つの典型的な事例であると言える。

2013年11月26日

◆井泉をイセンと読む江戸っ子

渡部 亮次郎


私は少年時代、砂糖を舐めすぎて脚気(ビタミンB1欠乏症)になり、心臓が危なくなったことがある。そこで夏はできるだけ「とんかつ」を「井泉」で食べ、ビタミンB1を補うようにしている。

砂糖は消化にビタミンB1を大量に消費する。疲労回復に特段の効果のある砂糖だが舐めすぎるとビタミンB1欠乏症の脚気になる危険があるわけだ。

そこへ行くととんかつの豚肉はビタミンB1を多量に含んでいるから、夏バテ気味のときはとんかつ屋に走るわけだ。8月16日の病院で待たされ続けたので、上野の「井泉」本店に行ってきた。

ここは「お箸で切れる柔らかなとんかつ」という初代石坂一雄の言葉とともに、昭和5年上野の地に“井泉”は誕生した。爾来,のれん分けした人、独立して行った人には「井泉」か「泉」の屋号が与えられる。今や主たる都市には暖簾が展開している。

ところで「井泉」の読み方である。創業者石坂一雄は俳句読みの趣味人でもあったので、有名な俳人萩原井泉水(せいせんすい)にちなんで「井泉=せいせん」を店の名前とした。1929年、今から約80年前のことだ。

ところが当時、「豚(とん)カツレツ=とんかつ」を食する江戸っ子で「井泉」を「せいせん」と読める趣味人は極めて少なかったらしく、客は誰もが「いせん」と呼んだ。「ヒル飯ゃイセンにしようぜ」と「いせん」が定着してしまった。

「荒城の月」の作詞者土井(つちい)晩翠」がいくら「土井じゃない」と主張しても「つちいばんすい」と読んでもらえず、晩年はとうとう「どいばんすい」を認めたように。私が「せいせん閉口」と言っても江戸っ子は知らん振りをする。

ギヨエテというかゲーテみたいだ。ショパンをチョピンを言うが如し。江戸っ子は気風(きっぷ)はともかく学の方では田舎ものが多かったらしい。井泉をいせんと読んだのでは明らかな「湯桶読み」で「学」のある人はいちいち指摘して厭がられた。それで沈黙。無学派が「いせん」にしてしまって80年が過ぎた。

萩原井泉水(俳人)はぎわらせいせんすい/Hagiwara Seisennsui 1884〜1976 東京都生まれ。名は藤吉。別号に愛桜、随翁がある。

河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し、「層雲」を創刊する。句集『原泉』『長流』がある。門人に種田山頭火・尾崎放哉らがいる

湯桶読み。湯桶のように,漢字二字の熟語の上の字をお「訓」で、下を「音」で読む読み方。他に消印(けしいん)、手本(てほん)など、反対に「重箱読み」というのがある。