2014年05月12日

◆3S政策で芯を抜かれた

渡部 亮次郎


3S政策(さんえすせいさく)とは、大衆の関心を政治に向けさせないように採る愚民政策のひとつ。1945年の大東亜戦争敗戦後、日本を占領に来たアメリカのマッカーサー元帥は戦勝国たる連合軍の最高司令官として君臨。

占領軍の最たる目的は日本の魂を抜き、2度と再び世界に覇を唱えさせない国とすることだった。その真髄が3S政策といわれた。文書として残っては居ない。

3S政策の3Sとは、以下の言葉の頭文字を取ったとされる。

Screen(スクリーン)
Sport(スポーツ)
Sex(セックス)

玉音放送(敗戦の詔書)の起草者でもある安岡正篤は、大東亜戦争終結後、連合国総司令官GHQが日本の占領政策を実行するにあたり、基本原則としての「3R」(Revenge―復讐、Reform―改組、Revive―復活)、重点的施策としての「5D」(Disarmament―武装解除、Demilitalization―軍国主義排除、Disindustrialization―工業生産力破壊、Decentralization―中心勢力解体、Democratization―民主化)、そして補助政策としての「3S」を策定したことをガーディナー・GHQ参事官から直接話を聞いているという。

安岡が存在したと主張する、この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。

スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を自由に思うがままに操作し得るとされる。

簡単に言えば「ガス抜き」政策である。あまりにも厳しい占領政策をすると、暴動が起こる恐れがあるので、人々の目を逸らさせるために密かに展開された政策である。


安岡は「日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。

日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります」と警告している。

これらの政策と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」により、日本のマスコミや教育現場が当時のGHQによる検閲を経て、現在に至るまで「自己検閲」を続けることによって日本の弱体化を図ったものとされている。

同様の主張をしているのが自民党で、『党の使命』で“占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が誤っており、主としてわが国の弱体化に置かれていたため”愛国心と国家観念が不当に抑圧された、と断じている。

マッカーサーによる日本歴史、地理、修身の教科禁止は当に大和(やまと)民族の滅亡を図る真髄だった。それなのに、日教組はマッカーサーの狙いの真実を探ろうともせず、さながらそのお先棒を担ぐようにして教育の衰退を招いた。

その担ぎ手を代表して参議院を牛耳っているのが参議院民主党議員会長である。参議院ならぬ衆議院議員選挙で、間違って民主党に政権が渡ったら文教行政は連合軍占領時代に逆戻りし、暗黒時代が再現する。

日教組は占領軍に協力する代償として教員の労働組合結成を許されたものである。それまでの「聖職」との尊敬を投げ捨て賃上げと労働条件改善を叫ぶ一介の労働者にみずからなり下がった珍しい存在である。

私は長じて社団法人日米文化振興会理事長を引き受け、ある年、アメリカの教育事情を調査する機会を得て渡米したが、なるほどアメリカの公教育は「労働者」によって背負われているし、賃金も年収300万円ぐらい、社会的尊敬は全く払われていない。あれじゃストを決行するしかないと納得した。

しかし、日教組は後になってそれらに気付いたが、組織の体質は既に硬直化し、後戻りは不可能だった。『ウィキペディア』

2014年05月11日

◆出てこない「まぼろしの」

渡部 亮次郎


どうしたものか、払暁、古賀政男の作詞・作曲した「影を慕いて」が頭をよぎり、だが冒頭のフレーズが思い出せず、とうとう目が覚めてしまった。まだ明治大学の学生だった古賀が失恋し、自殺しようとした時、この詞を思いつき、珍しく作詞、作曲ともに古賀政男という一曲である。

勿論、私が生まれる前。戦時中は唄えない「軟弱」な歌だから、戦後、ラジオで聴いて耳に残っていたのだろう。なにしろ演歌好きの私も自身で唄ったことは無い。

作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
  永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
  儚(はかな)き影よ 我が恋よ

以下の解説は「二木紘三のうた物語」による。歌にまつわる物語や思い出など配信しています。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_469a.html


<《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなかで、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。

友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。

その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固め、帰京します。このときの懊悩を歌にしたのが『影を慕いて』で、これが作曲家古賀政男のデビュー作となりました。

昭和3年(1928)11月、24歳のとき、古賀政男は、創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会でこの曲を発表することにし、佐藤千夜子に歌を依頼します。

佐藤千夜子は当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれ、無償で出演することを承知します。

彼女が歌った『影を慕いて』はそこそこ好評でした。それがきっかけとなって、古賀政男はコロムビアの専属作曲家となり(のちにテイチクに移籍)、以後順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

『影を慕いて』は佐藤千夜子の唄でレコード化されましたが、あまりパッとせず、昭和7年(1932)に藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。藤山一郎は、まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生でした>。

藤山はこのほかにも流行歌をいくつか吹き込んだ。日本橋にあった実家が倒産した為のアルバイトであったが、学校では禁止していたので、ばれて停学を喰らった。いまでは考えられない出来事。その後、後輩の松平晃も藤山の奨めで流行歌を吹き込み、こちらは退学処分となった。

なお古賀は生涯、独身を貫いた。

<古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学卒。

本名、古賀正夫。少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽。大正琴を愛した。プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、国民的な作曲家としての地位を確立。多くの流行歌をヒットさせた。

東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)首席卒業のクラシックの正統派藤山一郎から、演歌の女王・美空ひばりまで、その作品は5000曲とも言われている>。(「ウィキペディア」)


        

2014年05月09日

◆スパイからの領収書

渡部 亮次郎


朴正煕(パク・チョンヒ)氏が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。

スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いていた。

岡田外務大臣(当時)は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力中である。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だ。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。

戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えているようだが、国益優先に考えれば、行為はよほど慎重に運んで然るべきだ。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。2010・3・7

2014年05月08日

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎


流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」
梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり 「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、 お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年 (1714年)に西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹 介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     
作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで 働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

2014年05月06日

◆ラジオ歌謡の頃

渡部 亮次郎


最近、知り合った前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラジオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、お兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラジオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりもに登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響をえ、大阪の朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽化学工業(現・クレハ)の協賛で民放版のそれともいえる“クレハ・ホームソング”を企画・制作した。

ここからも「踊り子」(三浦洸一)、「白いボール」(王貞治・本間千代子)、「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。仲宗根美樹の「川は流れる」もそうだ(昭和36年)。

1960年代になると、テレビ時代になり、ラジオの名物番組が次々に姿を消すようになり、『ラジオ歌謡』も、1962年に終了し、テレビでも放映される『みんなのうた』に引き継がれた。

昭和28年(?)に岡本敦郎の唄った「チャペルの鐘」は大好きで受験勉強を放り投げてNHKのど自慢に出場したものだ。寺尾智沙作詞、田村しげる作曲(2人は夫婦)。

曲名一覧。「テープ」も「CD」も「MD」も無い時代の事だったから正確な記録はNHKにも無い日本ラジオ歌謡研究会というファン・クラブが出来ていて、「歴史」を記録する事に努めている。

これまで研究会員が収集したり、全国のラジオ歌謡ファンから寄せられ、日本ラジオ歌謡研究会で現在所有している一覧表がある。全曲は845曲だそうだが、録音と楽譜のそろったものは300曲足らずという。

2000年にコロムビアが「20世紀の軌跡 ラジオの時代」としてCD5枚組をモノーラルで発売したが「国民歌謡」を含めてもたった109曲しか入っていない。研究会では、未収集の曲のピアノ譜及び音源を求めているそうだ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆バルチック艦隊の敗因

渡部 亮次郎


5月27日は日露戦争の日本海海戦で東郷平八郎司令長官の下、日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅し、勝利した日である。

昔、対米戦争で敗戦するまでは「海軍記念日」で「祝日」だった。1945年に敗戦とともに廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。 主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。

長途の航海
バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。

カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。

このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。

長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。

また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまった。

編制・装備
当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。

水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。

ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。

航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。

バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。

当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった。鹵獲されたものの沈没は免れた戦艦「オリョール」では乗員達が自主的に木製家具の処分などを行った。

撃沈された戦艦「アレクサンドル3世」などでは「居心地が悪くなる」などの理由で木製品の処分が行われずそれが明暗を分けた。

指揮統率
バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。

結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい。

後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、

力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。

気象
海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。

喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった。
「ウィキペディア」

2014年05月04日

◆そうめん(素麺)知らず

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争(戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼ばれなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付け閣議決定した名称だ)による物資不足で、見たこともなかった。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創刊者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   (新島 繁)

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で始めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。

◆ホルモン料理は明治から

渡部 亮次郎


日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖も絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わさなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』

2014年05月03日

◆和歌に登場する京都山科

渡邊 好造


百人一首など平安、鎌倉時代の和歌集に登場する山科の代表地は、「これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」と、蝉丸が詠んだ"逢坂の関"である。

清少納言や藤原定方ら有名歌人もこの地を取上げているのは以前に紹介した。行政的には隣の滋賀県大津市になるが、現地に立ちその地形をみれば山科エリアだと十分頷けるはず、、。

今回はそのすぐ隣りの"音羽山"など、和歌に詠まれた古都京都の奥座敷、山科の優雅な雰囲気を感じとっていただきたい。
 
音羽山は高さ593メートル、逢坂の関の南西、山科四ノ宮の南東に位置し、山科盆地を囲む山の一角にある。音羽山が登場する和歌として有名なのは次の2首。

紀貫之(平安時代の歌人・土佐日記の作者・原典は古今集)= 「秋風の吹きにし日より音羽山 峰のこずえも色づきにけり」。

貫之の従兄弟にあたる紀友則(歌人・古今集)= 「音羽山けさ越えくれば時鳥 梢はるかに今ぞ鳴くなる」。

逢坂の関と音羽山の両方を詠んだ和歌も多い。

代表例をあげると、、

・源実朝(鎌倉幕府3代将軍・金槐集)=「逢坂の関やもいづら山科の 音羽の滝の音にききつつ」。

・後鳥羽院(鎌倉時代第82代天皇・原典不明)=「逢坂の関の行き来に色変わる 音羽の山のもみぢ葉」。

・源俊頼(平安時代歌人・金華和歌集)=「音羽山もみぢ散るらし 逢坂の関の小川に錦織りかく」。

・慈円(慈鎮・鎌倉時代天台宗の僧・原典不明)=「音羽山卯の花垣に遅桜 春を夏とや逢坂の関」。

・在原元方(平安時代歌人・古今集)=「音羽山音にききつつ 逢坂の関のこなたに年をふるかな」。

この他、当時の和歌集には小野、花山(かざん)、栗栖野、日の岡といった山科の地名が、いくつも登場する。

・藤原権中納言長方(平安時代公家、歌人・続古今集)=「見渡せば若菜摘むべくなりにけり 栗栖の小野の萩の焼原」。

・後鳥羽院(平安・鎌倉時代の天皇・夫木和歌抄)=「秋はけふくるすの小野のまくずはら まだ朝つゆの色ぞにほひぬ」。

・藤原定家(鎌倉時代公家、歌人・定家の歌集拾遺愚草)=「花山の跡を尋ぬる雪の いろに年ふる道の光をぞみる」。

・土御門院(鎌倉時代の天皇、後鳥羽天皇の皇子・続古今集)=「はし鷹のすすしの原 狩りくれて 入り日ノ岡にききす鳴なり」。

和歌に登場する1千年程前の山科の眺望は想像し難いが、現在の山科の絶景はと問われたなら筆者は次の3つを挙げる。

@ 東山ドライブウエー将軍塚辺りから見下ろす京都中心部の眺望(京都タワーは目障りだが、、)。

A 山科疎水道からの山科の展望(写真・左にJR琵琶湖線、白い土手の右下は京阪電車京津線、後方は東山連峰)。

B 音羽山から眺める東山連峰に沈む夕陽。

夕陽については、朝陽のような眩しさや暑さを感じさせないのでじいっと見つめるうち、両手を合せてつい願い事を呟きたくなる。

平安・鎌倉時代の歌人達が眺めた山科の夕陽は、三方を山に囲まれた盆地にあって、今とはまったく異なる自然が一杯の目を見張らせる光景だったはずだが、各種の資料をひっくり返してもこの夕陽を詠んだ和歌は発見できなかった。

京都古人、宮廷人、天上人の視点は、大地、天空、山脈、天下の情勢、庶民生活などを大きく広く見渡すことよりも、恋人、愛人(不倫)、片想い(失恋)、鳥、植物など目前の夢の世界にのみ向けられているかにみえる。

こうした天上人のお気楽な暮らしぶりに対し不満がくすぶり、やがては積重なって鎌倉時代以降の武家社会へと変革していく、そうした様が和歌には窺える。(完)

2014年05月02日

◆ビッグ3が煽った反捕鯨

渡部 亮次郎


アメリカの自動車メーカー「ビッグスリー」こそは日本等の望む捕鯨に対して、資金を出して反対運動を煽った元凶である。排気ガスに対する反対運動に正面から向き合うことを避け手方向を間違えた事が今日の危機を招いたのだと思うと、ビッグ3の救済問題には複雑な陰がある。

このことについてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』も指摘している。

<この問題は一時期、欧米諸国の自然保護団体を始め、彼らに同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、日本人に対しての人種偏見や反日運動ジャパンバッシングなどの一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。>

1970年代から80年代の前半にかけて私は園田直(故人)の下で外務大臣や厚生大臣の秘書官として、捕鯨反対運動に直面した。ワシントンDCでは外務大臣一行の車列にデモを掛けられたことがあり、担当の経済局幹部は欧州での国際会議で反対グループに生卵をぶつけられたりもした。

そこで私はワシントンに留まって背景を詳しく調査してみた。その結果、驚く べき事実が判明した。ビッグ3が、自らに向けられた公害問題とくに排気 ガスの排出責任を追及するラルフ・ネーダー主導の反自動車運動とも言え る消費者団体の攻撃を一時的に回避するため、彼らに莫大な資金を提供 し、運動のうねりを捕鯨反対に向かわせて煽ったのである。

その結果、クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同様の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と食のタブーとする意見が高まるなど資源としてのクジラ問題を離れた問題に捻じ曲げられる結果になった。このため捕鯨問題は感情問題に発展し、解決を一層難しくしている。

最近、反捕鯨の運動にも参入しているグリーンピースやシーシェパードといったNGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブル、特にシーシェパードの暴力的な示威活動。

日本国内の世論の多数は捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、他国による自国文化への干渉に対するナショナリズム的な反応として反捕鯨を非難することが多い。

今でこそビッグ3と反捕鯨は無関係だが、ビッグ3は反捕鯨運動に資金を投入するよりは低燃費や小型車の開発に頭を切り替えるべきだったのに、遠い将来を考慮できないアメリカ式経営としては止む を得なかったのだろう。

一方、オーストラリア政府は牛肉の輸出量の減ることを恐れての捕鯨反対運動支援である。

2014年05月01日

◆2度敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎


公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下から勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるようになった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道され、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認められない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパートで夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことなどを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしているのは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去ったなどの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合されていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」と請求を棄却。矢野は控訴した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコントロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立て手てからおかしくなった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行きとなっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・26

◆中国で糖尿病患者が急増

〜30年で10倍〜
渡部 亮次郎


2012年3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。環球時報(電子版)が伝えた。

この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しきれていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセット」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦しむ人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%から、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さらにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をしのぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられている。(翻訳・編集/NN)Record China2012年04月06日10時09分

主宰者の体験によれば、一般的な中国料理で使われる「肉」はせいぜい鶏肉か豚肉でしかないところが経済が資本主義化して懐が豊かになるに従い豚肉の何倍もカロリーの高い牛肉を多食するようになった。つまりカロリー過多による糖尿病患者が多発するようになったのだ。

加えて糖尿病に詳しい医者が極端にすくない。

そんな状態にも拘らず庶民は医学知識のないまま「過食」に走る。中国の糖尿病患者はこれから増えることはあっても減ることはありえない。

私が学んだところでは糖尿病で死ぬことはまず無いが、おきる合併症で死ぬ。脳卒中、腎不全など。それに眼底出血放置による失明もこわい。なお、高血糖で死ぬことは殆ど無意が、極端に血糖値が低下すると失神し、放置するとそのまま死ぬ。私は中国旅行中、低血糖失神を2度経験した。

其のときは幸い友人が手当てしてくれて助かった。だが友人は、その後自分も糖尿病患者であることを自覚しながら何の手当てもしてなかったので脳梗塞を起こして急死した。

2014年04月30日

◆発送電分離、インフラに不安

橘川 武郎


−−エネルギー基本計画が閣議決定された

「高速増殖炉原型炉『もんじゅ』の役割見直しや、石炭火力発電の位置づけを高めるなど、個々の項目では従来の基本計画より踏み込んだ。一方で、ベストミックス(最適な電源構成)の明示が見送られたため、方向性は分かってもボリューム感が分からない不十分な内容に終わった。全体として『木を見て森を見ず』という印象は否めない」

−−基本計画では原発の活用方針が示された

「多くの国民は『当面は原発を活用せざるを得ない』との考えだろうが、再稼働に向けたプロセスの不透明さが反感を招いている。しっかりと説明するのが政治の責任だ。

また、原子力規制委員会が進める原発の安全審査が見通せないとして、ベストミックスを決められないという理屈もおかしい。原発の推進と規制を分けるために規制委がつくられたわけで、その判断とは切り離してエネルギー政策のあるべき姿を考えるべきだ」

−−再生可能エネルギーの導入拡大に向けた課題は

「当面は固定価格買い取り制度の効果で順調に伸びるが、送電線の整備が進まなければ導入に歯止めが掛かる。例えば、政府が力を入れる洋上風力発電も送電線をどう引くかが問題で、これは再生エネ導入で先行するドイツなどが直面している課題だ。民間事業者で解決できなければ国による支援が欠かせない」

−−電力システム改革に対する懸念は

「電力大手の発電と送配電部門を別会社にする『発送電分離』は、日本の良質な送電網を毀損(きそん)する恐れがある。競争で電力大手の経営に緊張感を与えることは結構だが、電力会社の高い現場力を損なうようなことがあってはならない」(一橋大大学院教授)
産経ニュース【政策を問う】  2014.4.29

                   ◇

【プロフィル】橘川武郎

きっかわ・たけお 東大経済学部卒、東大大学院博士課程単位取得退学。
昭和62年青山学院大経営学部助教授。東大社会科学研究所教授などを経て
平成19年から現職。62歳。和歌山県出身。