2013年12月06日

◆おやつの無い子供時代

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」

2013年12月02日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎


「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

お気づきのように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっている。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は2010年10月21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならない。再掲

2013年11月27日

◆日本人死刑囚111人を救った歌手

渡部 亮次郎


「あゝモンテンルパの夜は更けて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952(昭和27)年9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、歌唱:渡辺はま子、宇都美清。

実は、この唄が第2次大戦で戦争犯罪人としてフィリピンに身柄を拘束されていた日本人死刑囚111人を救出するきっかけになった。あまり古い話な ので知る人はすくない。私も26日の散歩中偶然に聴いたMDの歌で思い出し たのである。60年前の話だ。

1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。中に、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた。作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されている日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交の無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。

渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。

慰問のステージでは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』を披露した。

曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊東も涙を流していた。

その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯全員の帰国が叶った。(ウイキペディア)

渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名 加藤 浜子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。


◆スーパースパイの末路

渡部 亮次郎


1985(昭和60)年、中国国家安全部対米国情報工作の当時の総責任者、北米情報司の司長、外事局の主任だった兪強生は、米国に政治亡命した。兪強生が政治亡命した動機は不明だが、両親が受けた迫害と関連していると見られる。

兪強生の父親は、中国共産党の最高指導部のメンバーで、共産党の政権確立後、天津市の初代市長を務めた黄敬(本名、兪啓威)。その母親範瑾も、北京市副市長や共産党機関紙「北京日報」の社長などを務めていた。

ところが1960年代に始まった「文化大革命」で、両親がともに「粛清」の対象となり、迫害を受け、父親が死亡、母親も危うく命を落とすところだった。

この中共の北米情報司司長が米国政府に亡命した際、金無怠という「1981年に定年退職するまでに、CIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた人物」。その金無怠が実は対米スパイだという証拠を兪強生は手土産として米当局に提供した。

その直後に、FBI(米国連邦調査局)が金無怠を逮捕、中国当局のスパイとして起訴した。

金無怠は1922(大正11)年北京生まれで、燕京大学新聞学部を卒業、1938(昭和13)年に駐上海米国領事館の通訳となったが、一方で1944(昭和19)年に当時の周恩来首相に認められ、中共のスパイとなった。もちろん米国側には極秘である。

1949(昭和24)年、駐香港の米国総領事館に転勤、1952(昭和27)年に米国中央情報局(CIA)に配属され沖縄でCIAの対外国ラジオ情報機構に在籍していた。

このころ、金無怠は当時の台湾の人気アナウンサー周謹予と結婚し、1965(昭和40)年に米国国籍を取得した。1981(昭和56)年に定年退職するまでに、金無怠はCIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた。

退職後に、在職中の「功績」が評価され、CIAの表彰までに受けた、1985年にスパイの身分が割れるまでCIAの顧問を務め続けた。

兪強生が米国に提供した証拠には、金無怠が中国国家安全局での略称や通信証拠などが含まれている。これらの証拠を前に、金無怠は中共のスパイだったことを認め、一部の情報提供を自供せざるを得なかった。

金無怠が非常に優れたスパイ素質の持ち主で、逮捕されるまでに、数十年間生活を共にしてきた台湾人妻は、夫は中国当局のスパイであることにまったく気づかなかったという。

また、「中国当局側でも、このスーパースパイが提供した米国情報に触れられる幹部はわずか数十人しかいない上、金無怠の本当の姿を知る人はさらに限られていた。

兪強生のような中共の情報局の高官から本件が明かされなければ、恐らく真相は永遠に闇に包まれたであろう。

当時、中国当局の最高指導部の高官・兪強生が米国に亡命したことよりも、米国CIAのエリート幹部が中国当局のスパイであることが、世界に強い衝撃を与えた。

中共のスパイと認めた後、1986年2月、米国裁判所は金無怠に対し17の罪が成立すると判定した。一方、金無怠本人は中国当局に対し、旧ソ連が米国と情報部員の人質交換をしたように助けを求めた。

その間、中国語新聞の取材を受けた際に、彼は、中国当局に監禁されている民主活動家・魏京生氏との身柄交換を望んでいると明らかにした。(魏京生氏は依然、滞米中であり、2007年6月に日本に立ち寄りを拒否されて話題になった)。

しかし、最後の助け舟を求めている金無怠に対し、中国外交部の当時の報道官・李肇星氏は記者会見で、冷酷に切り捨てた。

「金無怠事件は、米国の反中国勢力が捏造した寸劇。中国政府は従来から平和を愛するため、米国に一切スパイを派遣していない。中国政府はこの事件を絶対に認めない。この自称中国スパイである金無怠という人物をまったく知らない」と完全否定し、突き放したのだ。

米国裁判所の最終判決が下される直前の1986(昭和61)年2月21日、金無怠は完全に絶望し、米国バージニア州の刑務所で、ビニール袋を頭から被り、靴紐で首を絞め、自殺した。63歳だった。中国当局のスーパースパイは、このよう形で人生の幕を閉じた。日本では中曽根内閣の頃。新聞には報じられなかった。

当時の米国陪審団が、金無怠のスパイ活動の内容は主に以下であると結論付けた。

!)朝鮮戦争中に、国連通訳の身分を利用して、中国当局に捕虜の収監場所を知らせ、米国の作戦計画を遅らせることに成功。

!)1960年代、中国当局に米国の対中国政策の情報を提供し、米中両国の外交交渉において、中国に優位な立場に立たせた。

特に、米中が外交関係を回復する過程で、金無怠は当時のニクソン米国大統領が中国との国交回復を望んでいるとの情報を掴み、中国当局に流した。結果、米国が中国当局との関連交渉中に、多くの重大な譲歩が引き出せた。

この時期はソビエトからの離脱を決断した毛沢東が「敵の敵は味方」との見地から、以後はアメリカや日本との接近の画策し始めた時期であり、特に大国アメリカの対中方針が明かされた事は大成果だったはずだ。

同様、国交回復前の日本の実情と政府の真意を中共に密かに通報していた大和人金無怠は居なかったのだろうか。

!)ベトナム戦争期間中に、中国とベトナム両国に米国政府の対べトナム政策などを知らせた。戦争の発動や、戦争の終結などの情報も含まれている。

金無怠スパイ事件を通して、米国CIAは、国家安全上、中国の直接かつ現実的な脅威を認識した。金無怠は事件発覚後、CIAの安全管理が非常に緩んでおり、機密情報を得るのにそれほど難しくないと語ったという。

また、金無怠が取調べで一貫としてスパイ活動の詳細な内容を自供しなかったため、本件による被害規模や中国当局のスパイ手段は依然外部に知られていない。

一部では、金無怠スパイ事件が米国にもたらした損失は計り知れず、その影響はそれまでに判明したスパイ案件の総計を超えているとの認識もある。

2005年、中国駐シドニー領事館の政治参事・陳用林氏が豪州政府に政治亡命した。陳氏が提供した資料や証言によると、中国当局は豪州を含め、世界各国に厖大なスパイ・ネットワークを構築している。

豪州だけでも、1,000人以上の工作員がいるという。同年、豪州で庇護申請をした天津国家安全局(中国当局の情報機構)の元幹部、●鳳軍(ハオ・フォンジュン)氏も、公に同様なことを証言した。(●…赤+おおざと)

金無怠スパイ事件は、当事者となる国々やスパイ本人に、中国のために長年身を捧げた者をあっさりと切り捨てる中国共産党の本質を認識させる1つの典型的な事例であると言える。

2013年11月26日

◆井泉をイセンと読む江戸っ子

渡部 亮次郎


私は少年時代、砂糖を舐めすぎて脚気(ビタミンB1欠乏症)になり、心臓が危なくなったことがある。そこで夏はできるだけ「とんかつ」を「井泉」で食べ、ビタミンB1を補うようにしている。

砂糖は消化にビタミンB1を大量に消費する。疲労回復に特段の効果のある砂糖だが舐めすぎるとビタミンB1欠乏症の脚気になる危険があるわけだ。

そこへ行くととんかつの豚肉はビタミンB1を多量に含んでいるから、夏バテ気味のときはとんかつ屋に走るわけだ。8月16日の病院で待たされ続けたので、上野の「井泉」本店に行ってきた。

ここは「お箸で切れる柔らかなとんかつ」という初代石坂一雄の言葉とともに、昭和5年上野の地に“井泉”は誕生した。爾来,のれん分けした人、独立して行った人には「井泉」か「泉」の屋号が与えられる。今や主たる都市には暖簾が展開している。

ところで「井泉」の読み方である。創業者石坂一雄は俳句読みの趣味人でもあったので、有名な俳人萩原井泉水(せいせんすい)にちなんで「井泉=せいせん」を店の名前とした。1929年、今から約80年前のことだ。

ところが当時、「豚(とん)カツレツ=とんかつ」を食する江戸っ子で「井泉」を「せいせん」と読める趣味人は極めて少なかったらしく、客は誰もが「いせん」と呼んだ。「ヒル飯ゃイセンにしようぜ」と「いせん」が定着してしまった。

「荒城の月」の作詞者土井(つちい)晩翠」がいくら「土井じゃない」と主張しても「つちいばんすい」と読んでもらえず、晩年はとうとう「どいばんすい」を認めたように。私が「せいせん閉口」と言っても江戸っ子は知らん振りをする。

ギヨエテというかゲーテみたいだ。ショパンをチョピンを言うが如し。江戸っ子は気風(きっぷ)はともかく学の方では田舎ものが多かったらしい。井泉をいせんと読んだのでは明らかな「湯桶読み」で「学」のある人はいちいち指摘して厭がられた。それで沈黙。無学派が「いせん」にしてしまって80年が過ぎた。

萩原井泉水(俳人)はぎわらせいせんすい/Hagiwara Seisennsui 1884〜1976 東京都生まれ。名は藤吉。別号に愛桜、随翁がある。

河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し、「層雲」を創刊する。句集『原泉』『長流』がある。門人に種田山頭火・尾崎放哉らがいる

湯桶読み。湯桶のように,漢字二字の熟語の上の字をお「訓」で、下を「音」で読む読み方。他に消印(けしいん)、手本(てほん)など、反対に「重箱読み」というのがある。


2013年11月24日

◆サッチャーは87歳没

渡部 亮次郎


イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret HildaThatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう30年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

70近くまで喫煙していた親族は最近肺癌の4期だといわれて往生している。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」。


2013年11月23日

◆冬はおでん風土記

渡部 亮次郎


大人になって上京して初めて食べたものは数々ある。おでんもその1つ。吉祥寺北口駅前の具が爾来、好きになって、今の下町のには馴染めない。時々は1時間もかけて吉祥寺へ行く。

それにしても東京でおでんを肴にして呑んだのは専ら日本酒だったせいいか、焼酎党の今でも、おでんの時は日本酒が欲しくなる。郷里秋田の冬は鍋の町だからおでんは無かった。今はどうだろう。

おでんは元来は日本でだけ食べられていたが、併合時代に台湾や朝鮮半島などにも広まり、現地では今でも日本語の「おでん」の名称で親しまれているそうだ。

台湾語では「?輪」と書いて「オレン」と発音する(台湾語には濁音のダがなく、ラと訛った)。なお、現在の台湾のコンビニエンスストアや屋台などでは、大阪風の「關東煮」という表記で広く売られている(台湾のセブンイレブンでは「関東煮」と日本の新字で表記)。

韓国では練り物そのものを一般にオデンといい、醤油ベースの出汁で煮込んだり(日本のように他の具が入ることはまずない)、辛子味噌で炒めたりする。

上海の日系コンビニエンスストアなどでもおでんが売られているが、日本のコンビニおでんと異なり、串に刺し、使い捨てのコップに入れて売るという違いがある。

上海では「熬点」と書いて発音するが、語源は日本語の「おでん」で、煮込んだスナックというような字義をかけてある。

タイの日系コンビニエンスストアでもおでんが人気となっており、ほぼ日本と変わらないスタイルで供され、好評を博している。

おでんは室町時代(1392-1573年)に出現した味噌田楽、田楽と言われる食物が原型である。

古く田楽と呼ばれた料理には、具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた煮込み田楽があった。

のち、煮込み田楽が女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ば
れるようになり、単に田楽といえば焼き田楽を指すようになった。

その後、江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが関西に伝わり「関東炊き」、「関東煮(「かんとだき」と発音される)」と呼ばれるようになった。

関西では昆布や鯨、牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に工夫され変化していった。NHK大阪放送局の食堂にはおでんが年がら年中置いてあったが、白っぽいのが気持悪かった。

おでんは明治時代、関東では廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。

しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが主流となった。現在東京で老舗とされる店の多くが薄味であるのはこのような理由によるものである。地震の被害の最も大きかった下町が関西風なのはこのためだろう。

もともとの「関東炊き」(濃い醤油味)は、老舗の味として関西で残っていることもあるし、東京でも一度は消えたが江戸の味はこうだったらしい、ということで作っている店はある。

日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に関東では濃い味付け、関西では薄い味付けが好まれるとされているが、おでんに関しては別で、上記のような複雑な発展の経緯があったために関東では薄味、関西では濃い味が伝統的とされる。

ただし、現在の東京やその近郊のおでん屋の味は、関東人好みの濃い味のほうが優勢のようである。

また関西では、濃い味のものを関東煮、薄味のものをおでんと呼び分ける傾向もある。

薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方でも関東風のおでんが一般的ではあるが、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。

2013年11月20日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎


この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うものそして悲しくうたうものよしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)再掲

2013年11月16日

◆「中国の夢」と「冬季五輪招致」

山本 秀也


中国の習近平体制が初めて本格的な路線討議に臨んだ共産党中央委員会(第18期3中総会、11月9〜12日開催)では、政権のお題目とも言うべき民族復興(すなわち「中国の夢」)を念頭に、経済改革と党の権力強化に議論が集中した。固い分析は別の記事に譲ることにして、ここでは3中総会の直前に公表された2022年冬季五輪大会の北京招致を考えてみたい。

簡単に触れておくと、22年の冬季五輪は15年7月にマレーシアのクアラルンプールで開かれる国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まる。今月14日の立候補期限を前に、カザフスタンのアルマトイ、ノルウェーのオスロ、ポーランドのクラクフなどが立候補。北京は約200キロ離れた張家口との2都市共催という構想だ。

中国といえば、08年夏の北京五輪がまだ記憶に新しい。続いて22年の冬季大会も北京となれば、中国初の冬季大会となるのはむろん、同一都市での夏冬両大会開催という「五輪史上初」の快挙である。中国が狙っているのはまさにこの大金星だが、ことはそう簡単ではない。

スポーツ関係者がそろって指摘するのが、直前の18年冬季五輪が韓国の平昌で開催される点だ。地域バランスの観点から「アジアで2大会連続は困難」というのが普通の見方だ。

将来の北京招致に向けて、22年は「手を挙げておくだけ」というクールな声も。微小粒子状物質PM2・5をはじめとする北京周辺の環境問題となると、中国紙「環球時報」の世論調査ですら、過半数の回答(54・7%)が招致実現の足を引っ張ると指摘している。

実際、過去の五輪招致でも、中国が頭を悩ませたのがこの大気汚染である。シドニーに敗れた2000年五輪の北京招致活動では、IOC評価委員の視察中、汚染源となる工場操業のほか、石炭を使う暖房用の熱供給も止めて青空を呼び戻した。

ところが、中国は至って強気だ。国際バレーボール連盟の魏紀中・前会長は、北京放送へのコメントで、五輪開催を支え得る発展こそが招致の鍵だとして、「中国の招致申請は、中国の経済がよい方向に発展するというメッセージを世界に発信したのだ」と豪語した。

大会関連施設を含むインフラ整備による内需拡大や、招致に向けた環境対策そのものを否定する気はない。ただ、官製メディアを挙げての招致宣伝には、経済効果や国民向けのイベント効果を通り越し、「政治」の影がくっきりと浮かぶ。

すなわち、12年11月に発足した習近平政権が、2期10年を務め上げた最終年を飾る大舞台として、冬季北京五輪の招致は中国が本気になれる目標なのだ。

22年冬季大会は、習政権の「中国の夢」を象徴する大会として喧伝されるだろう。よって筆者はスポーツ関係者の懐疑論にはくみさない。中国は本気で22年の誘致活動を進めるはずだ。(産経新聞中国総局長)産経ニュース2013.11.15

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月15日

◆日露2+2は異例にあらず

宮家 邦彦


これまで日本では2プラス2(外交・防衛閣僚協議)の相手は同盟国と相場が決まっていた。それだけに2日に開かれた日露2プラス2会合は開催自体が「異例」とも「画期的」とも評価された。この閣僚会合の成果と課題について考えてみたい。

まずは主要紙の関連社説をじっくり読み比べてみた。論旨はさまざまだが、筆者が気になった論点は3点に集約される。ここは誤解を恐れず、感じたままを書いていこう。

第1に、旧仮想敵国ロシアとの2プラス2会合は「異例」という論調が一部ながら目立ったことだ。確かに、ロシアとは平和条約を結んでいない。だが、2プラス2会合は必ずしも同盟国や友好国とだけ開くものではない。現にロシアだって仏、米、伊、英と同種の会合を開催しているではないか。

今や日本も2プラス2会合の戦術的効用を考えるべき時期に来ている。その意味で今回のロシアはもちろんのこと、例えば中国、さらにはイスラエル、エジプトといった中東諸国との2プラス2会合だって決して異例ではないはずだ。

外交と防衛を一体として考えるこうしたアプローチは、日本政府部内で国家安全保障政策を企画・実施する上で極めて有効だ。大変失礼ながら、防衛官僚・制服組の中には日米同盟以外の重要問題に関する知識と経験に乏しい向きも少なくない。

例えば、2プラス2会合をイスラエル、エジプトなど中東諸国とも開けば、日本政府の安全保障問題に関する発想そのものが深化し、より戦略的な政策作りが可能になると信ずる。

第2に筆者が強調したいのは、日露2プラス2会合が領土問題を解決するための場ではないということだ。

一部の社説は領土問題に焦点を当て、「領土問題につなげよ」とか、「領土問題を置き去りにするな」といった論調が目立った。しかし、冷静に考えてほしい。

今回は日露間で初めて2プラス2会合が開かれ、経済だけでなく安全保障分野の協力をも議論する場が設定されたにすぎない。同会合と領土問題は直接関係なく、これで直ちに領土問題が進展するなどと期待すること自体現実的ではない。

最後は、日露閣僚会合が中国を念頭に置いたものとか、対中牽制を意図したものと期待すべきではないことだ。

政府関係者はともかく、主要紙社説の多くは日露の「対中牽制狙い」を前提に書かれていた。こうした発想は事実でないばかりか、戦略的な読み誤りにもなりかねない。

同会合の直前、ロシア外務省高官はインタビューで、「ロシアは中国と日本について議論しておらず、日本とも中国につき議論することはない」との趣旨を述べ、日本の一部にある日露による対中牽制論にくみしない姿勢を明らかにしている。

恐らくこれはロシア側の本音だろう。日本人は日本側の望むような形でロシア側が対中牽制に乗ってくる可能性がないことを正確に知るべきだ。

今回はテロ・海賊対処のための共同訓練、サイバー安全保障に関する協議の立ち上げなどに合意するとともに、安倍晋三首相の「積極的平和主義」についてロシア側から理解が示されたという。日本がロシアとの関係改善を進めることには大賛成だ。

しかし、現在のロシアの対日政策はロシア側の戦略的決断の結果として進められているわけでは決してない。このことは対露関係で常に念頭に置くべきである。もちろん、ロシアは中国を意識している。

だからといって、今のロシアに対中牽制を慫慂(しょうよう)すれば結果は逆効果だろう。ロシアは懸念を深めるし、中国側もさらに警戒心を高めるだけだ。

今日本にできることは、日露間で信頼醸成が着実に進み、一定のルール作りが可能であることを中国に具体的に示すことだ。ロシアの対中戦略観が変わるまで日露による対中牽制を期待すべきでないだろう。

【プロフィル】宮家邦彦
みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京
大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東ア
フリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。第1次安倍内閣では首相公
邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル
戦略研究所研究主幹。産経ニュース【宮家邦彦のWorld Watch】2013.11.14

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月14日

◆「大村益次郎」暗殺の件(3)

平井 修一


大村益次郎が官軍の事実上の最高司令官として京都から江戸に入ったのは明治元年5月初頭である。それまでは西郷隆盛が参謀として指揮していたのだが、幕臣の勝海舟らとの取り決めで江戸の治安回復は官軍に恭順した徳川家臣団に任せていた。

ところが治安は回復するどころか悪化する一方でありながら、西郷は信義に篤いし情にもろいから“融和政策”を変えない。京都の大総督府(有栖川宮熾仁=ありすがわのみやたるひと親王)では「西郷は勝に籠絡されたのではないか」などという声が高まり、西郷は上京を促されて江戸を留守にしていた。

つまり西郷に代わって大村が長州藩士を率いて、全員が薩摩藩士だった江戸の参謀局に乗り込んできたのである。ひと騒動は避けられない。

5月初旬、前触れもなく大村が長州藩士を引き連れて参謀局に現れ、まともな挨拶もなしに海江田らにこう指示した。

「君が参謀局の長か。この頃の庄内地方の紛擾はますます激しくなってきた。宇都宮の官軍を庄内に派遣しなくてはならないから速やかにその準備を整えるように」

愛想も何もない。薩摩藩の海江田はペリー来航以前から国事に携わっている志士であり、長州藩においても新人の大村をまったく知らないから“何だこいつは”とカチンときた。当たり前だ。

「あの・・・あなたはどなたですか」

「う・・・私は軍務官判事の大村益次郎だ。京都で朝廷から軍務の委任を受けて江戸に来た」

「・・・そうですか」

普通なら「そういうことか、この人が俺の上司なのか」と思うのだが、突如現れた大村が「朝廷」の威厳で「よろしく」という挨拶もなしに命令すれば、海江田でなくても“何だこいつは”とは思うだろう。

西郷が江戸を留守にしていて賊軍掃討作戦の総責任者だった海江田は反論した。

「お言葉ですが・・・宇都宮の官軍は連戦で死傷も少なくなく、疲弊しています。これを庄内に転戦させるというのは得策ではないでしょう。むしろ白河に派遣して仙台の応援を断ち、会津を攻撃させた方がいいと思いますが」

大村は幕府の第二次長州征伐を撥ね返し、西日本から賊軍を平らげてきた自分の作戦指揮に自信をもっていたから、この反論に当然ながらムッとした。

「君は、宇都宮の官軍はすでに戦に疲れて使えないというのか」

海江田は「疲弊していても軍令が下れば粉骨砕身も辞さないでしょう
が・・・」とこう続けた。

「今もし白河と会津の危急をさておいて宇都宮軍を庄内に転戦させるのなら、それよりもむしろ江戸に召還したほうがいい。今の江戸の実況はあなたはまだ詳しく知らないかもしれないが、干戈も兵火もなく江戸城の授受を終えたとはいえ、いつ火がつくか分かったものではありません。

庄内地方の戦略は現地に任せ、援助の要請が来たら応ずることにしたらいい。庄内では伊地知正治など軍事に熟練した者がいますから、失敗はまずないでしょう」

大村にこれだけ反論した者はいなかったからカッとした。

「君は何を言っている、白河は大したことはないし、仙台の弱兵を恐れる必要なんかない。私は朝廷の委任を受けてきたのだから、他人の指揮に従う必要はない。君は私の命令を実行すればいいのだ」

高飛車な嫌な野郎だと海江田も当然思うから、“売り言葉に買い言葉”になっていく。

「驚くべきことを言いますね。たとえあなたが朝廷の委任を受けていても、私も参謀官の一人として軍事の得失を考えているのであり、あなたの専決に任せるというものではありません。たとえあなたが宇都宮軍を庄内に送るといっても、私は必ずこれを阻止します」

事実上の官軍の最高司令官に正面から逆らうのだから海江田も相当頑固である。互いに非難し、もはや喧嘩腰になった。お互いが方言で言い合うのだから迫力はかなりのものだったろう。参謀局の空気が一気に緊張した。

大村「わっちは朝廷の委任を受けてきたのじゃけ、わっちはのんたのへーたらこーたらに従う必要はなか。なんバカんこといっとん、のんたはわっちの命令を実行すればよか。じらあくいあげるいのお」

海江田「何ゆとう。たとえおはんが宇都宮軍を庄内に送るちゅうても、おいは必ず阻止しもんで。何も知らんくせに、なむうなよ」

理工系の合理的な大村、体育会系の血盟重視の海江田。大村はウエットではなく人間の感情にあまり斟酌しないだろうが、喜怒哀楽の感情に富んでいる熱血漢、薩摩隼人の海江田は最初の出会いで大村を大嫌いになった。まことに不幸な出会いだった。

「結局、大村の案は参謀局の採用にならず沙汰止みになった」と海江田は言っている。

大村と海江田の不幸な出会いから始まった齟齬は拡大していく。

初対面での衝突から数日後、宇都宮の官軍から至急に大砲が必要だと依頼が来た。海江田は臼砲を幾門か送り出したが、翌日に大村がこれを聞き、「君は昨日、宇都宮軍に臼砲を送ったそうだが、私に報告せずに勝手に軍事を決済することは越権だ。控えたらどうか」と海江田を難じた。

畏れ入る海江田ではない。反論した。

「確かに臼砲を送りましたが、みだりに専断で処理したいわけではない。あなたが席にいたら必ず相談するが、ことは緊急を要した。一瞬でも遅速は許されず、間髪をいれずに処理しなければならなかった。至急の要件でなければ今日にでもあなたと相談するが、そんな暇はなかったのです。昨日あなたが席にいなかったのは私にとって残念でした。

大砲が一日でも遅れれば官軍は機を失って負けるかもしれない。もしあなたが昨日、席にいたなら大砲を送らなかったと言うのですか」

「いや・・・」

「それならば専断だなどとあえて私を責めることはないでしょう」

こんな風にまた互いを非難して喧嘩になるところだった。

その後また宇都宮軍から「白河口はすでに賊兵に侵奪された。速やかに援軍を送ってくれ。戦況を回復しないと賊兵は制し難くなる。宇都宮軍は参謀局の命令を待たずに直ちに白河に向かう」と急報があった。

続報によれば宇都宮軍は白河口の戦いに参戦し、敵はすこぶる勢いがあり苦戦を強いられ死傷も多かったが、奮戦してどうにか戦況を回復した。海江田が急送した臼砲が役立ったのだろう。(2013/11/12)

<「頂門の一針」から転載>

◆トウ小平は賢明で狡猾

渡部 亮次郎


トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年、毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたので国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命の本当の目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウは「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウは自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

10月の中央工作会議で行ったトウの自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。トウは賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

トウ小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

            

2013年11月13日

◆だまこもち食べる?

渡部 亮次郎


「だまこもち」は、秋田県中央部の郷土料理。干拓以前の八郎潟の東側沿岸(湖東部といった)が発祥地である。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれ、主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

潰すご飯は新米が望ましい。したがって私が育った頃は、秋から冬にかけての定番料理。お袋は鶏肉と一緒に煮たが、シベリヤから飛んでくる鴨(かも)の肉が一番美味しかった。だまこ抜きでも。なお、「だまこ」は秋田弁で「丸める」である。

隣町の五城目町(ごじょうのめまち)で、1959(昭和34)年に三笠宮崇仁親王がだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、周辺地域を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。

鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。


八郎潟周辺地域の、山林で働く木こりが弁当の飯を切り株の上に乗せ、斧の背で潰したものが起源とされている。一方、マタギ料理が起源であるとも言われ、だまこもちがきりたんぽの原型になったとする説もある。

以前は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

鍋に残っただまこを、翌朝、串刺しにし、囲炉裏の焚き火にかざして、こんがり焼けたところを食べるのが好きだった。70年前の話だ。

実を言うと、東京では、鮟鱇鍋や牡蠣鍋などを知ったし、冬は加えて「おでん」も美味であるため、だまこもち鍋はしたことがない。

2010年の正月鍋は同じ秋田県でも角館の隣「田沢高原」でとれた「山の芋」鍋をした。

グローブに似た「山の芋」を摩り下ろすと、強い粘りの為、団子状に丸める事ができる。これを鶏肉と「舞茸」、葱などを煮た鍋に落とし込んで食べるもの。なかなか風味があってよろしかった。