2016年09月05日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎



福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派
担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90
歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草
のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪
左遷からNHK東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直
(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってき
た電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事
か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横
滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるもの
を始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大
臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、
形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨
拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると
言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口
しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談
は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、
「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連
絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。い
わゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う
事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さん
から聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<@首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化
にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

A退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

Bところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤は
その頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポン
サー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

C後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政
権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平
のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くな
る)。

D福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石
大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で
出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに
臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出
馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、
密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になる
からである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福
田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態
勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっ
ていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による経
歴。

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(第20代金
古町長)の次男として生まれた。福田家は江戸時代には庄屋をつとめた地
元の名門であった。

小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一
高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に1番の成績で入省し
た。

だが、1948年に昭電疑獄が起こると、当時大蔵省主計局長だった福
田は収賄罪容疑で逮捕された。結局、無罪にはなったものの、これを機
に大蔵省を退官した。

大蔵省では官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経
て戦後、主計局長。

1948年9月13日、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。その後、大蔵
省を退官。

1952年10月、無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

1958年6月、党政調会長に就任。

1959年1月、党幹事長に就任。

1959年6月、農林水産大臣に就任。

1960年12月、再び党政調会長に就任。

1965年6月、大蔵大臣に就任。

1967年2月、党幹事長に就任。(2度目)

1968年11月、再び大蔵大臣に就任。

1971年7月、外務大臣に就任。

1972年7月、自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。

1973年11月、3度目となる大蔵大臣に就任。

1974年12月、副総理・経済企画庁長官に就任。

1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。
@福田総裁に任期は2年 A幹事長は大平)

1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入
し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな
集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢
から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けること
になる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」
とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天
の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞
任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章

2016年09月04日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎



経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだ
から起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総
書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、
習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話
を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」
と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と
危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げて
いる。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾
で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量
の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して
緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与
えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政
治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴
露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」
に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部
の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているか
ら起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は
決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならな
い。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化す
ると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、
共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。
                        (再掲)

2016年09月03日

◆小畑実 (歌手)は北朝鮮出身

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集 してい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。
のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。

特に『星影 の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチッ
クな旋律と 「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加
え、彼の歌唱 の特徴が生かされた傑作である。
NHK紅白歌合戦に3回出場している。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。

           

2016年09月01日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎



納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン
(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬
の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売され
た。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ
合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分
名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素
に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬
よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほ
か、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせ
ないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、
納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し
切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまっ
たそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」
の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者には
まだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるの
は2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられてい
て、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」
の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小
板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固
療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているため
だそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下
流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報
告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用である
ことが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による
変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリ
ングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の
採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないこ
とや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現など
の点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済
的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因
とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一
選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発
が進められているファクター]a阻害剤などが次々に出てくるので、このガ
イドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、@
納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多いA感受性に個人差があり、
血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多
い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もな
く、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンの
マイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大
出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して
薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと
132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段
が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかも
なぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。

2016年08月31日

◆蘖(ひこばえ)知ってる?

渡部 亮次郎

少年の頃、実家はまだ囲炉裏だったし、炊事はすべて薪に頼っていた。だ
から春になったら里山での柴刈りに動員されたものだ。何年も前に刈った
柴の根元から生えた新しい芽を鉈で切り取る作業である。

やがて上京して大学に入った。その頃から実家でも燃料はプロパンガスに
なり暖房は石油に代わったから、山での柴刈りのことはすっかり忘れていた。

最近、散歩する都立猿江恩賜公園では、昨年秋、直系30cmぐらいに育っ
た植木を何本も伐採した。ところが新しい春とともに切られた株のねもと
から横へ新しい芽が吹き出した。これを蘖(ひこばえ)と呼ぶ。

子供のころに里山で刈っていた柴もあれはじつは蘖だったのだ。

蘖(ひこばえ)とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
(以下「ウィキペディア」による)。

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。
春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。

森林伐採の後、切り株からの蘖によって新たな森林ができるようにするこ
とを萌芽更新という。かつての里山はこれによって維持された。カシ類な
どは種子からの株は単独の茎をまっすぐに立てるが、切り株からでた場合
はやや斜め、切り株から外向きにでることが多い。

芽が大きな木にまで成長する頃には切り株自体は枯れて腐って消失する
が、わずかに間を開けて複数の幹が、それぞれやや外向きに伸びていれ
ば、その内側に切り株があったのだと分かることもある。

幹を切らなくても、環境悪化などによって主茎が弱った場合などには蘖が
多数でることがある。

2016年08月29日

◆日本における売春の現状

渡部 亮次郎



私の大学在学中に国会で売春防止法案が審議されて成立。卒業とともに売
春宿はなくなった。しかし法律は「防止」であって「禁止」ではないこと
が示す如く、売春はなくなっていない。

売春防止法は『何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならな
い。』としている。

しかし、売買春そのものに刑罰は設けられておらず、売春防止法におい
て、売春行為自体は禁止されていても、刑罰の対象とはならない。

その理由としては、売春防止法制定当時の官僚による国会答弁が参考となる。

<性欲の捌け口を作ることで性犯罪を防止すること、諸先進国では合法化
されている国が多いこと、風俗業従事者の生活維持、地域経済・税収への
深刻な影響を挙げている>。

他方、売春防止法では単に売春を行ったという単純売春(条例に反さない
範囲において)は刑事処分対象外であるが、売春の勧誘、周旋、売春契
約、売春をさせる業(俗にいう「管理売春」は、これに含まれるなど売春
を助長する行為は禁止されており、刑事処分の対象となる。

売春防止法が売春そのものを禁止するのではなく、売春を助長する行為を
禁止しているのは、そもそもの立法経緯において、女性の性的役務の隷属
被害や、暴力団等や親による搾取行為を無くすのが主目的で、売春行為自
体を取り締まる事が主目的ではなかった。

『売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗もので
あることから、売春を助長する行為等を処罰すると共に、性行又は環境に
照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置
を講ずることによって、売春の防止を図ることを目的とする』為である。

売春防止法の他に、児童買春・児童ポルノ禁止法が存在する。児童に対す
る性的搾取・性的虐待を防止し、児童の権利を擁護することを目的として
いる。

売春の斡旋、あるいは売春をさせる業を為すことは刑罰の対象となってい
るが、斡旋ではなく知り合った男女が売春しているにすぎないという建前
を用いてソープランドでは公然と売春が行われている。

旧赤線地帯などでは、ソープランドのような風呂を設けずに個室で売春さ
せている所も多く、ファッションヘルス、ホテトルなどにおいても、店が
売春を黙認している所もあるなど、売春の斡旋、売春をさせる業を為した
ということで処罰されないよう、店側は関知しないという建前、暗黙の了
解のもとに営業している例は見られる。

この外、テレクラ、出会い系サイトを発端として当事者同士の合意で売買
春がなされる場合や、ラブホテル付近に売春する側が立ってが客待ちを
し、売買春が為される場合などもある。

また、韓国で2004年に性売買特別法が施行された結果、韓国人売春従事者
が日本をはじめとする海外諸国で「遠征売春」が増加しているといわれ
る。「ウィキペディア」


2016年08月28日

◆世の中を見る目

渡部 亮次郎



私に最も強い影響を与えた人は河野一郎、園田直、重宗雄三。いずれも政
治家である。私は大学に行ったが、友人は少なかった。NHKで20年近く暮
らしたが、まともな先輩は後に会長になる島 桂次と政治部長になる飯島
 博だけだった。

この中で政治家を見分ける手段を教えてくれたのは島である。島は海軍兵
学校から東北大学を経てNHKに入局。初任地仙台から盛岡
を経て東京政治部。

私は大学こそ違ったが仙台、盛岡を経て政治部という島と全く同じコース
を辿って島と会ったのだ。だが、島はそうしたことに無関心だった。つま
り「島派」の結成に無関心だった。

それで政治部長になれず、番組部門の部長に飛ばされてから、逆に参議院
クラブにいる私をしばしば訪ねてくるようになって、親しく話した。

政局はフィルターをかけて見なければいけない。ある推論で政治家を見直
すのだ。福田赳夫が佐藤栄作の後継者と目されているが、それは本当か、
佐藤が角栄に傾く事は無いか、カネで福田を見捨てることはないか。

今だったら小沢がまた党代表選挙に立つ事は本当にあり得ないか。
自民党の古手の連中と「大連立」の約束を取り付けて新自由党を立ち上げ
る事はあり得ないか、考えてみろ、と言うだろう。

菅は政権にしがみつくといっているが、果たして可能か。不可能だという
フィルターをかけて見てみろと言うに違いない。島にかかれば「角福戦
争」で角栄は福田を保護している佐藤首相にカネを積むんじゃないかとも
見ていた。

島は、単独会見しか信用しなかった。「不特定多数の記者の前で本音を語
れる、度胸のある政治家なんていない。特定の相手にしか話さないのが人
間の本性だ。だから記者会見を信用する奴はバカだ」

しかし、今の記者諸君は記者会見を頭から信用して紙面やテレビに流す。
単独会見を試みようともしないようだ。だから見通しをしばしば誤る。菅
や仙谷が例のビデオを隠してまで日中首脳会談の実現にはしる「愚」を止
める記事を書けない。

自慢話と受け取られたら不本意だが、昭和40年代に総選挙の投票日を的中
させて報道局長賞を受けたことがある。

NHK政治部の体勢は幹事長田中角栄の言う説を真実と放送したが、
その時佐藤首相と向かい合った角栄が緊張して椅子に極めて浅くかけてい
たといった国対委員長園田直の話から、角栄は投票日の決定を佐藤から一
任されていない証拠とみた。

そこで園田氏にどう見るか尋ねたところ「総理は縁起を担ぐから大安に拘
るよ」だった。この主張が後に真実となり「訂正記事」が報道局長賞と
なったのだった。(敬称略)再掲


2016年08月26日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。糖尿病だったか
ら脳梗塞を招いたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きた。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直が初めてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がお
しきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・
18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが
発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。再掲


2016年08月25日

◆私の昭和20年8月15日 

 
渡部 亮次郎



昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷された
ルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特
徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行った
と思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降
下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上
から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される
事は無く3機は去って行った。生まれて初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をう
けた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細
長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげ
き)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の
艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦
艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始した
アメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフ
ロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻に
より、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。
この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだっ
たろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は
愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同
部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊の
ほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であっ
た。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤
に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引
き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側
に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒
動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋
田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は
20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的
にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、
製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が
破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも
及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港で
も工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人
数は判明していない。

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地か
ら飛来した第315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標
は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン
数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これ
だけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧
弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜に
なっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡
(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していた
のである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗っ
たのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈
だった。あれから71年。9歳は80になった。2011・8・15

2016年08月24日

◆日本のカイロプラクティック

渡部 亮次郎


日本のカイロプラクティックの歴史

日本のカイロプラクティックの歴史は1916年にパーマースクールを卒業
した川口三郎が帰国して横浜で開業したことに始まります。1918年には
神奈川県で「カイロプラクティック取り締まり規則」が制定されました。

1930年に東京府警視庁が「療術行為取締規則」を制定し、カイロプラク
ティック手技は「療術」の一部と定義され各県庁への届出によって営業
が許可されました。

1923年には日本初のカイロプラクティック団体「日本カイロプラクティッ
ク協会」が1921年ナショナルスクール卒業の大澤昌壽、1921年ラトレッ
ジカレッジ卒業の小平粂重によって設立されました。

また美座時中など海外のカイロプラクティックを視察し自己で研究して
日本に積極的に紹介しようとした者もいました。

戦前、アメリカで教育を受け日本に帰国したDC(ドクター・オブ・カイ
ロプラクティック)は14名ほどいました。日本人初のDC、森久保繁太郎
はパーマースクール卒業後アメリカに残りました。

川口三郎を初め、田中酉造、芹野伊勢吉、金沢督、大澤昌壽、小平粂重、
千葉忠八、播谷高山、横矢重孝、鈴木泰三、櫻庭豊、鴫原伊直、桜井真
一、桜井静子。戦争により1930年代から留学者が途絶え、1969年にナショ
ナルカレッジを卒業した竹谷内一愿が戦後初のDCとして帰国しました。

戦後、GHQは医師以外の医業類似行為一切を禁止しようとしましたが、幾
つかは難を逃れ制度化されるに至りました。療術に関しては1955年まで
既得権を認められ営業が許可されました。

1947年に全国療術協同組合(現在の全国療術師協会)が結成されて、
1955年の禁止期限中止を求めて活動した為、ようやく1964年に禁止期限
の解除が認められました。

1960年にはHS式無熱高周波療法を行った元炭坑夫が無資格で「按摩師等
方違反」に問われた事件で、最高裁判決は「人の健康に害を及ぼす恐れ
がある医業類似行為にのみ処罰を与える」と言う判決を下しました。

つまりカイロプラクティックを含めた療術治療は有害な場合だけ制限が
あり、無害なら罪にはならないという結果になったのです。この件は
1964年に再度仙台高等裁判所に差し戻され「人の健康に害を及ぼす恐れ
のあるもの」となり有罪で終結しました。

1961年に日本で初めてカイロプラクティックの7団体が団結し「日本カ
イロプラクティック総連盟」(初期は全日本カイロプラクティック総連
盟)が設立しました。7団体は「日米カイロプラクティック協会」(伊藤
緑光会長)、関西カイロプラクティック協会(長井幸男会長)、

日本カイロプラクティック協会(松本茂会長)、日本カイロプラクティッ
ク医連盟(岸田菱山会長)、全日本カイロプラクティック協会(保坂岳史
会長)、山形カイロプラクティック協会(斉藤利雄会長)、日本カイロプ
ラクタース協会(吉田盛豊会長)。

その後、東京カイロプラクティック協会(竹谷内米雄会長)、香川カイ
ロプラクティック協会、藤川整形外科カイロプラクティック協会(藤川
淳敏会長)、北陸カイロプラクティック協会(木村順二会長)、関東カ
イロプラクティック協会(中島美翠会長)オリエンタルカイロプラクテ
ィック協会(山田新一会長)、旭川カイロプラクティック協会(安原岩
夫会長)、手技整形カイロプラクティック研究会(塩川満蔵会長)の計
15団体が加盟し、アメリカ発祥のカイロプラクティック普及に貢献した
治療家達、伊藤緑光、松本茂、竹谷内米雄が所属していました。

1961年、最高裁判決を踏まえ、衆議院社会労働委員会での質疑で「無届
療術行為者の看板掲示は、医師法・医療法等の規定に反しない限り、職
業選択の自由により制限されない」と答弁しています。按摩・マッサー
ジ・指圧とカイロプラクティックの関係について、1970年宮城県知事の
紹介に対して厚生省医務局長は「カイロプラクティック療法は脊椎の調
整を目的とする点において、按摩・マッサージ・指圧に含まれないもの
と解する」と回答しています。

「整体」や「指圧」は中国から伝わった按摩などの治療法を日本独自に
江戸時代までアレンジを加えて発展させてきたものに、明治後期以降海
外から輸入されたカイロプラクティック(創始者パーマー)、オステオ
パシー(創始者スティル)、スポンディロセラピー(創始者エイブラム
ス 後に衰退)などの脊椎に働きかける手技療法の理論と技法を導入し
誕生したものです。

指圧は1964年、柔道整復師が後に単独法になったため「あんまマッサー
ジ指圧師法」が制定されて、浪越徳治郎の経絡を押す母指圧が主流にな
りました。初期には視覚障害者を保護する目的で制定されましたが現在
では健常者も治療にあたっています。

整体は明治後期から大正にかけて「正体」「整體」など様々な表記がさ
れ昭和初期から「整体」という言葉が主流になりました。この頃、平賀
臨、玉井天碧、高橋迪雄、平田内蔵吉などの治療家が普及にあたり多く
の著書を出しました。

戦後は高橋迪雄の影響を受けた野口晴哉、橋本敬三らが活躍して、業界で
は整体を統一する試みがなされましたが成功しませんでした。現在でも整
体の定義は曖昧で様々な治療法が乱立しています。中にはカイロプラ
ティックのテクニックを取り入れて整体と標榜しているところも多くあり
ます。

1991年、厚生省(当時)は「医業類似行為に対する取り扱いについて」の
通達を
各都道府県庁に送り、「カイロプラクティック療法の医学的効果につい
ての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要である」と
の見解を示しました。

この通達は三浦幸雄研究グループの「脊椎原性疾患の施術に関する医学的
研究」をもとに禁忌対象疾患の認識、一部の危険な手技の禁止、適切な医
療受療の遅延防止、誇大広告の規制を促しました。

以降、今でもカイロプラクティックは免許制度(国家資格)がない医業
類似行為に分類されています。世界では80カ国以上の団体が加盟するWFC
(世界カイロプラクティック連合)が1988年に設立されたり、WHO(世界
保健機関)がカイロプラクティックを代替医療として認めたり、2005年
に「カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン」
を発行したりしています。

世界の中で大きく出遅れている日本の問題点は、カイロプラクティック
を標榜していてもWHO基準のカイロプラクティック学校で教授されている
ものとは全く異なる技術や理論を学び実践している「自称カイロプラク
ター」が非常に多いことです。

海外で正規なカイロプラクティックを取得した者の一部が、WHO基準以下
の学校やセミナーで「自称カイロプラクター」を送り出しているという
矛盾点もあります。またそのために他の医師や医業類似行為者の理解が
得られず、結果として厚生労働省もカイロプラクティックの免許制度を
保留したままです。

1995年にはアジアや日本で初めてのCCE(カイロプラクティック教育審議
会)アクレディテーションを取得したRMIT大学カイロプラクティック学
科日本校(現在の東京カレッジオブカイロプラクティック)が開校しま
した。

現在WFC(世界カイロプラクティック連合)日本代表団体であるJAC(一般
社団法人日本カイロプラクターズ協会)が1998年に設立され
WHOのガイドラインの基準に沿った形でカイロプラクティックが法制化さ
れるよう活動しています。

2016年08月23日

◆粋そのもの西条八十(やそ)

渡部 亮次郎



西条八十は早稲田大学仏文科の教授でありながら、童謡「歌を忘れたカナリヤ」から「とんこ節」「芸者ワルツ」まで数多くの作詞を通じて日本の歌謡界に君臨した粋人である。

文末にリストを掲載しますが、戦前、戦中、戦後と筆者が歌わなかった歌はないくらい、歌謡界に尽力している。それでいて本人は音痴だったと子息らは明かしている。

「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)の作詞をデパート社長から依頼された宴席でのこと。「なんですか、最近の歌は。とんこ節、なんて下品なんでしょう」と社長。「あれは私の作品です」。

それは失礼しました。それよりひどいのは芸者ワルツですと社長が嘆けば八十「あれも私の作詞です」と。結局「有楽町で逢いましょう」は弟子の佐伯孝夫が担当した。ちなみに作曲はシベリア抑留帰り「異国の丘」の吉田正。

「トンコ節(昭和24年)

作詞:西条八十
作曲:古賀政雄
唄:久保幸江・加藤雅夫、

あなたのくれた おびどめの
達磨の模様が チョイト気にかかる
さんざ遊んで ころがして
あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコトンコ

言えばよかった ひとことの
何故に言えない 打明けられない
バカな顔して また帰る
恋は苦しい おぼろ月
ネー トンコトンコ

こうしてこうすりゃ こうなると
知りつつこうして こうなったふたり
ほれた私が 悪いのか
迷わすお前が 悪いのか
ネー トンコトンコ

ゲイシャ・ワルツ 昭和27年(1952年)
作詞:西条八十
作曲:古賀政男
歌唱:神楽坂はん子

(一)
あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスのなやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思い出ワルツ

(二)
空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか

(三)
あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体

(四)
気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し


戦時中は「軍歌」も多く作詞した。

若鷲の歌

作詞 西条八十
作曲 古関裕而
歌手 霧島 昇


若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい

西條 八十(さいじょう やそ 1892(明治25)年1月15日 ー 1970(昭和45)年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。

親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しい。

東京府出身。1898(明治31)年、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。

吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

王将は作詞、作曲 船村徹、歌 村田英雄の3人とも将棋を全く指せなかった。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。


名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。

天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。

森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、4度製作放映された(2009年8月現在)。

1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。

担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。 

主な著作

『西條八十全集』 (全17巻 国書刊行会刊 1991年-2007年)

『西條八十著作目録・年譜』 (中央公論事業出版 1972年)
同刊行委員会、西條八束編 

研究書・著作
『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社 1967年)
『西條八十自伝 唄の自叙伝』(人間の記録29:日本図書センターで再刊、1997年)
『女妖記』(中公文庫で再刊 2008年) 自伝的小説集

詩集(象徴詩・純粋詩)
『砂金』(1919年、自費出版)(復刻:日本図書センター、2004年)
『見知らぬ愛人』(1922年)
『美しき喪失』(1929年)
『一握の玻璃』(1947年)

詩集(その他)

『空の羊』
『少女純情詩集』 (国書刊行会で復刻、1984年)
『水色の夢』
『西條八十詩集』 (角川春樹事務所:ハルキ文庫で再刊、2004年)ISBN4758430942

訳詩集
『白孔雀』(1920年)
『世界童謡集』 水谷まさる共訳 (冨山房百科文庫で再刊、1991年)

『かなりあ』(『赤い鳥』1918年11月号)
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
『水たまり』
『西條八十 名作童謡西条八十…100選』上田信道編 (春陽堂書店、2005年)


歌謡曲(流行歌)

『当世銀座節』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年)
『お菓子と娘』(作曲:橋本国彦、1929年)
『東京行進曲』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)

『鞠と殿さま』(作曲:中山晋平、歌唱:平井英子、1929年)
『愛して頂戴』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)
『唐人お吉の唄(明烏編)』(作曲:中山晋平、歌唱:藤本二三吉、
1930年)

『アラその瞬間よ』(作曲:中山晋平、歌唱:藤野豊子1930年)
『この太陽』(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)
『女給の唄』(作曲:塩尻精八、歌唱:羽衣歌子、1931年)

『侍ニッポン』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)、1931年)
『ルンペン節』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?、(たまき)1931年)
『わたしこの頃変なのよ』(作曲:町田嘉章、歌唱:四家文子、1931年)

『銀座の柳』(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)
『天國に結ぶ戀』(作曲:松平信博、歌唱:徳山?(たまき)・四家文
子、1932年)
『涙の渡り鳥』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小林千代子、1932年)

『東京音頭』(作曲:中山晋平、歌唱:小唄勝太郎・三島一声、1933年)
『佐渡を想えば』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)
『サーカスの唄』(作曲:古賀政男、歌唱:松平晃、1933年)

『来る来るサーカス』(作曲:古賀政男、歌唱:淡谷のり子、1933年)
『十九の春』(作曲:江口夜詩、歌唱:ミス・コロムビア(松原操)、1933年)
『祖国の護り』(作曲:村越国保、歌唱:小野巡、1934年)

『勝太郎子守唄』(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)『花言葉の唄』(作曲:池田不二男、歌唱:松平晃・伏見信子、1936年)『戦友の唄』(『同期の桜』の元歌、作曲:大村能章、歌唱:樋口静雄、1938年)

『旅の夜風』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・ミス・コロムビア、1938年)

『悲しき子守唄』(作曲:竹岡信幸、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)
『支那の夜』(作曲:竹岡信幸、歌唱:渡辺はま子、1938年)

『東京ブルース』(作曲:服部良一、歌唱:淡谷のり子、1939年)
『純情二重奏』(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・高峰三枝子、1939年)
『誰か故郷を想わざる』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)

『春よいずこ』(作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎・二葉あき子、1940年)
『お島千太郎旅唄』(作曲:奥山貞吉、歌唱:伊藤久男・二葉あき子、1940年)
『熱砂の誓い(建設の歌)』(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)

『蘇州夜曲』(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)
『愛馬花嫁』(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・菊池章子・渡辺はま子、1940年)
『そうだその意気』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)

『高原の月』(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)
『若鷲の歌』(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・波平暁男、1943年)
『風は海から』(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)

『湖畔の乙女』(作曲:早乙女光、歌唱:菊池章子、1943年)
『麗人の歌』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)
『悲しき竹笛』(作曲:古賀政男、歌唱:近江俊郎・奈良光枝、1946年)

『旅の舞姫』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)
『三百六十五夜』(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)
『恋の曼珠沙華』(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)

『トンコ節』(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1948年)
『青い山脈』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)
『花の素顔』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)

『山のかなたに』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)
『赤い靴のタンゴ』(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)
『越後獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)

『角兵衛獅子の唄』(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
『こんな私じゃなかったに』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『娘十九はまだ純情よ』(作曲:上原げんと、歌唱:コロムビア・ローズ、1952年)

『ゲイシャ・ワルツ』(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)
『丘は花ざかり』(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)
『伊豆の佐太郎』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1952年)

『ひめゆりの塔』(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)
『哀愁日記』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)
『白鷺三味線』』(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)

『ピレネエの山の男』(作曲:古賀政男、歌唱:岡本敦郎、1955年)
『この世の花』(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
『りんどう峠』(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)

『娘船頭さん』(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)
『別れたっていいじゃないか』(作曲:上原げんと、歌唱:神戸一郎、1956年)
『しあわせはどこに』(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)

『王将』(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
『絶唱』(作曲:市川昭介、歌唱:舟木一夫、1966年)
『夕笛』(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)

『芸道一代』(作曲:山本丈晴、歌唱:美空ひばり、1967年)
『乙女はいつか星になる』 1972年、ツームストーンズの歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。

西條八十の遺作に西田陽一が作曲した1985年発売の乙女隊のデビューシングル。1993年に「西条八十生誕100周年記念曲」として牧奈一慶が作曲し、飛鳥あおいが歌った別の楽曲もある。

「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は、作詞者が柳水巴になっているが、西條八十の変名である。

小説

1924年(大正13年)3月「少女倶楽部」読みきり『はかなき誓』から、1960年(昭和35年)11月「なかよし」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。

『人食いバラ』 ゆまに書房で復刻、2003年、解説唐沢俊一
 
校歌
「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品に
『早稲田中学校・高等学校第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)
『横浜市立大学校歌』
『横浜市立鶴見工業高等学校校歌』
『藤沢市立藤沢小学校校歌』
『富山県立富山中部高等学校校歌』
『茨城県立下館第一高等学校校歌』
『富山県立桜井高校』
『日出学園(千葉県)園歌』
『姫路市立琴丘高等学校校歌』
『岡山県立倉敷工業高等学校校歌』
『高岡市国吉小学校校歌』
『北海道立北海道池田高等学校校歌』
『小松島市立小松島中学校校歌』
『滋賀県立近江八幡商業高等学校校歌』
『兵庫県立加古川西高等学校校歌』
『練馬区立石神井東小学校校歌』
『私立桜丘中学・高等学校校歌』
『平和生命保険株式会社 社歌』
未収録作品には、
『明治大学校歌』(「児玉花外」作詞とされているが、西条の作である)

軍歌
『若鷲の歌』
『同期の桜』
『戦友の唄(二輪の桜)』
『桜進軍』
『比島決戦の歌』
『決戦の大空へ』
『乙女の戦士』
『そうだその意気』
『祖国の護り』
?『学徒進軍歌』
『ああ梅林中尉』

(「ウィキペディア」)


2016年08月22日

◆ハマナスはナシの訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形を
していることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったもの
である。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落
葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花は
お茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお
印でもある。晩夏の季語。


東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南
は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良され
たものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏し
い。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として
市販される。

のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかそ
の場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、
花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培され
る他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれ
る園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立
などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道
市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、
雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町

岩手県 - 野田村
青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町
福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市
新潟県 - 村上市、聖籠町
石川県 - かほく市、内灘町
福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見
ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書
いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」とい
い、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うの
も、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナ
スはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティー
もなかなか美味しいですよ。>(唸声)2011・6・13


2016年08月21日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間を待たなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にあった。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07


広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。