2013年09月22日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎


「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。

2013年09月18日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎


日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなかった。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからである。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部になると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪された前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘された。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官として日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといって田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れた。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたのだ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図していた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼としていたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていたのである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論もなしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。

あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなったように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。

政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのときは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇するためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪ってしまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。

2013年09月17日

◆おやつの無い子供時代

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」2008・10・27

2013年09月12日

◆河野一郎・田中角栄ありせば

渡部 亮次郎


<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。

批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。

河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじかブログより。

私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。

私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。

それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。

政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。

以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。

その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田勇人氏と組んで党主流に坐るようになった。

酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。

盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。

2013年09月11日

◆真相はお邪魔虫!!共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。私欲が無くなるはずもないのに共産党を名乗るのは矛盾である。矛盾が永遠に続くはずが無いから共産中国はいずれ倒れる。

共産党が政権を掌握している限り人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。影でわたしは彼らを単純性脳膜炎と呼んでいる。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。


2013年09月07日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部 亮次郎


若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座の真ん中にあって1年だけ住んだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だから、内風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソメイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種という概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とされたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えることのないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえる。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致することが確認されている。

これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となっており、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメイヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていたそうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値がないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えられている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐って心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点もある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切ることは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

2013年08月31日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部 亮次郎


小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が韓国で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

16世紀になって新大陸での植民地開発に伴い生産が急増、ヨーロッパ人の食生活に大きな影響をあたえるようになる。17世紀以降、紅茶とともに一般に普及していった。

日本には754年唐僧の鑑真(がんじん)によって伝えられたとされる。室町時代に中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入量も増えたが、江戸時代に砂糖が国内生産されるまでは貴重品であった。

毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言《附子(ぶす)》の滑稽には,当時(鎌倉時代)の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

少なくとも農村でも砂糖を舐めていたのは極一部の地主だけだった。砂糖を知らない農村の次男、三男がたちが、食べた事もない白米をたらふく食べた事によって脚気に悩みながらロシアに勝ったのが日露戦争だった。

こうして、砂糖に慣れ親しんだ日本人も大東亜戦争中は主産地台湾との往来もまま成らなかったため、戦後を含む数年間は砂糖とは無縁の生活を余儀なくされた。

この数年間はあらゆる店先から菓子らしい物は一切姿を消した。戦後、2-3年して、農家にコメを供出させるエサとして白砂糖が配られて、再び砂糖にありついたのだった。

余談だが、戦時中に姿を消した物に鮭の缶詰がある。戦争が始まる前は樺太方面にサケ漁の出稼ぎが盛んだったから鮭缶は溢れていたのに、対米戦争開始と同時に姿を消し、戦後も暫くしなければお目にかかれなかった。

    

2013年08月29日

◆スターリン批判の勇気

渡部 亮次郎


子どもの頃、恐ろしかったのは進駐軍だったが、それより恐ろしかったのはソヴィエトのスターリンだった。政敵や邪魔者を何千万人も殺したから、敗戦国に遣ってきて、私も殺されるかも知れないと思うと、夢にまで出てきた。

長じて高校2年の春3月5日に、そのスターリンの死が公表された。年表で見ると、当時はこれで平和が来ると見たのか、東京証券取引所では、軍需株を中心に暴落し、スターリン暴落と記録されている。

入る大学を間違えてマルクス経済学者・大内兵衛を総長に戴くところへ入ってしまった。だが共産党員学生が幅を利かせる学風に反発、子どもながらに物凄い反共主義者になった。

そうしたところへ3年生の春、3月24日、ソヴィエトで第1書記のニキタ・フルシチョフがスターリンを公然と批判した。話題にするだに恐ろしいスターリンを、死後とは言えど、批判するとは、大変な勇気を持った人もいるものだと感服した。

学内の共産党員学生が小さくなった。女子学生が口紅を付け始めたのには笑ってしまった。

1956(昭和31)年3月24日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが政治報告を発表し、スターリン執政期における秘密の一部を暴露し、個人崇拝がを批判した。

1939年、スターリンは次のように述べた。

「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在しない」。

しかし、数多くのソ連国民が、シベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所で強制労働に従事させられていた。

第2次世界大戦後も、スターリンは国際共産主義運動に君臨していた。1951年、日本共産党が所感派と国際派に分裂したときも、所感派に軍配を上げ(スターリン判決)、国際派は涙を飲むより他になかった。

そのスターリンの死から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。

特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。フルシチョフは、全ソ労評議長として、スターリンに直接仕える立場にあった。

すでに西側の共産主義シンパからソ連とスターリン体制への失望が表明されることはあったが、これにより、スターリンは国際共産主義運動の玉座から決定的に引き摺り下ろされる形となった。

フルシチョフの秘密報告の要旨。

<個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニン死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すどころか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。

すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指摘、彼を書記長職から移動させることを提案していた。

だがレーニン死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。

1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。

党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。

スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。

ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義の抹殺の意図を隠さなかったにも拘わらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追放、逮捕さらには処刑に追いやった。

「大祖国戦争」(独ソ戦)の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。

スターリンの専横ぶりは、第2次世界大戦後のソ連と「社会主義兄弟国」(東側諸国)との関係にも悪影響を及ぼした。

その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂しユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。>

ただし、この演説の内容自体はフルシチョフのオリジナルではなく、政敵であるマレンコフが考え出した物であり、フルシチョフがそれを横取りしたということも指摘されている。

また、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に働いたのかを隠していた。大粛清に積極的に加担し、自分の出世に利用した点も考慮する必要があるだろう。

しかし、当時はスターリンに「NO」ということはすなわち「死」を意味する時代であったわけで、一般国民だけでなく党や政府などスターリンに使える立場にあるものまで生命の危険にさらされていただけに、何を思おうがスターリンのやり方に従わざるを得なかった。

数年後、もう一度フルシチョフによるスターリン批判が行われた。この結果スターリンの遺体は撤去され、燃やされた。

時は流れ1987年11月、在任中のゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典でスターリンを批判し、レーニンをもスターリン主義の元凶として批判した。

スターリン神話が崩壊したとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視するという恐怖支配の構図はソ連崩壊まで変わらなかった。

フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民革命(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧された。

また、構造改革などの影響で既にスターリン主義とは一定の距離を置いていた西欧の共産党には、スターリン批判は自己に直接影響を及ぼすものとは受け止められなかった。

かつてスターリンが退けた「国際派」が主流となっていた日本共産党も同様で、スターリン批判と共に打ち出された平和共存の学習の推進を訴えただけだった。

スターリン批判は中国(中華人民共和国)との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降中ソ関係は急速に悪化する事となる。代わりに中国は、アメリカとの関係を修復していった。

朝鮮民主主義人民共和国においては、すでにスターリン型の支配体制を築き上げて、その正統性を人民に要求しつづけていた金日成政権が、中国同様フルシチョフ路線を「修正主義」として強く批判した。

これはソ連との関係が冷却化する契機となった。実際にフルシチョフによる消費財生産重点化政策をきっかけに、金日成派の執権は脅かされていた。一方、延安系とソ連系の幹部がスターリン批判を受けてクーデターを計画したが失敗に終わり、粛清された(8月宗派事件)。

日本において、スターリン批判を重く受け止めたのはトロツキストであった。これと前後して、日本のトロツキストは、新しい前衛党=新左翼の結成に進んだのであった。

1997年のモスクワ放送では『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、内4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送した。(『ウィキペディア』)

2013年08月26日

◆8月15日後、何故軍政布告は止まったか

西村 眞悟


如何にして8月15日に漕ぎ着けたのか。その任を果たした人物のことに触れたい。

それは、鈴木貫太郎(慶応3日泉州堺久世地区生まれ、昭和23年4月17日没)である。昭和20年4月7日、鈴木貫太郎77歳は「江戸時代に生まれた総理」となる。

「老人でございますから」と固辞する鈴木に、陛下が、「もはや卿しかいないのだ」と言われた。

皇太后も、陛下の父親と思って引き受けて欲しい、と言われた。長年侍従長を務めた鈴木の妻は、陛下の乳母であり、陛下は鈴木の妻を母のように慕っておられた。

この陛下の言われた「もはや卿しかいない」という言葉の意味は、戦を収めること、つまり終戦に漕ぎ着けることができるのは鈴木しかいないという意味である。この時、戦を収めることほどの困難はなかったのだ。
 
さて、天は鈴木に、昭和20年8月15日の為に命を与えてきた。鈴木は、幼い頃、暴走する馬の足の下に倒れた。しかし死ななかった。それを観ていた人は、鈴木の運の強さに驚いた。

海軍士官となった鈴木は、水雷艇艇長(日清戦争)そして駆逐艦司令(日露戦争)となって、それぞれの海戦で、敵艦に機銃が届く至近距離まで肉薄して魚雷を放つという命知らずの必殺の戦法をとって敵戦艦数隻を撃沈する殊勲をあげた。つまり、特攻作戦である。生きているのが不思議といわれた。部下は彼のことを鬼貫太郎、鬼貫と呼んだ。

昭和11年2月26日未明、侍従長であった鈴木は、安藤輝三大尉の率いる歩兵第三聯隊の兵に襲われ、頭部、胸そして大腿に銃弾をうけて昏倒した。

トドメをさそうとする安藤大尉に、鈴木の妻が「おやめください。老人ですからトドメはささないでください。どうしてもというなら私がトドメをさします」と言って止めた。

安藤大尉は、鈴木に敬礼して退出した。その後妻が、意識のなくなった鈴木の耳元で、「あなた、しっかりしなさい」と叫ぶと、鈴木は目を開け蘇生した。

昭和23年に鈴木は死ぬが、彼を火葬したあとに遺骨と共に2・26事件の時に撃ち込まれた銃弾があった。

昭和20年4月7日、小磯内閣総辞職をうけて鈴木は総理大臣に就任した。4月12日、アメリカ大統領ルーズベルトが死去する。

鈴木は直ちに、優秀な戦争指導者を失ったアメリカ国民に対して心より哀悼の意を表するとのメッセージを送信した。同時期、ヒットラーがルーズベルトを罵るメッセージをアメリカに送信した。

アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、「東洋の国日本に騎士道が残っている」との賞賛のコメントを発した。

翌4月13日、東京は3月10日に続く大空襲をうけた。トーマス・マンは、ドイツと共にアメリカにも騎士道などないと思い知ったであろう。4月30日、ヒットラー自殺。

我々日本国民は、そして、アメリカ国民も、日本国総理大臣鈴木貫太郎が、都市住民の無差別殺戮という国際法無視の残虐な敵襲の中においても、その敵国のルーズベルトという大統領の死に対して武士道の精神に基づきアメリカ国民に対して哀悼の意を表したことを忘れてはならない。

8月14日、御前会議に於いてポツダム宣言受諾決定。同日、玉音を録音。戦争継続派軍人、録音版奪取失敗、クーデター派自決(宮城事件)。

8月15日、未明、阿南陸軍大臣自決。正午、玉音放送。鈴木内閣総辞職。

以上のように、鈴木貫太郎は役目を果たした。陸海軍は抗戦を止め、武装を解除していくが、次の戦いを担ったのは、武器を持たない隻脚の外交官重光葵(しげみつ まもる)である。
 
鈴木内閣の後を受けて、8月17日、東久邇宮内閣が成立した。この東久邇宮内閣が担う降伏文書調印の全権が、外務大臣に就任した重光葵と陸軍大将の梅津美治郎であった。

8月28日、重光は夜行列車に乗って伊勢に赴き、伊勢神宮に参拝する。

我が国を 造りましたる 大神に 心をこめて 我は祈りぬ
8月30日、マッカーサー厚木に到着9月2日、午前6時45分、重光と梅津ら横浜桟橋から米駆逐艦に乗り戦艦ミズーリ号に向かう。
 
ミズーリ号には大勢の新聞記者とカメラマンが待ちかまえ、シンガポールで山下奉文中将に降伏した英軍のアーサー・パーシバルやフィリピンのバターン半島で本間雅晴中将に降伏した米軍のジョナサン・ウェインライト等も待っていた。

大勢の将兵が鈴なりになって隻脚に義足を付けてタラップを登る重光等を見ていた。
 
つまり、マッカーサーは、日本側全権を晒し者にして勝者としての優位性を効果的に示そうと演出したのである。旅順の敵将降伏に際して、敗者の心情に配慮して各国のカメラマンの取材を許さなかった乃木希典大将の示した武士道精神の奥ゆかしさと、マッカーサーは正反対の人物であった。
 
定刻9時にマッカーサーはミズーリ号の甲板に姿を現す。礼装ではなく簡易な夏服。重光はシルクハットにモーニング。

9月3日、マッカ−サー、GHQは、日本に軍政を実施しようとする。重光は、敢然とGHQ本部に乗り込みマッカーサーと直談判した。

ドイツは政府が崩壊した。従って軍政は致し方ない。しかし、日本政府は壊滅していない、機能している。

重光は、「ポツダム宣言は、日本政府の存在、即ち日本の主権の存在を前提にしている。従って軍政を敷くことはポツダム宣言を逸脱するものである」とマッカーサーに迫った。

この重光の主張に対して、遂にマッカーサーは、軍政の布告を取り下げる、と答えたのだ。このようにして、昭和20年9月以降も、我が国政府は機能し続ける。
 
仮に軍政が敷かれておれば、日本国政府への国民の信頼はなくなり、日本人は植民地の民の如く白人の異民族統治のお家芸である「分割統治」(デバイド アンド コントロール)のもとで「異民族の支配者」に媚びへつらって恩恵を受けようとせざるを得なかったであろう。日本人は徹底的に植民地の被支配民となったであろう。

それは、イギリス軍に支配された体験を綴った「アーロン収容所」(会田雄次著)に書かれたおぞましい世界である。
 
なお、分割統治とは、例えば少数者に特権を与えて多数者を支配させることである。このように、被支配者を分断して利害が相反する構造にしておけば、両者が一致団結して抵抗するという面倒なことは起こらない。これが白人が学んだ異民族支配の方策である。
 
イギリスは、ビルマで大多数のビルマ族を少数民族に支配させた。独立したビルマがミャンマーになった今も少数民族との武力衝突が続いているのは、イギリスのこの分割統治という植民地支配に原因がある。

また、イギリスやオランダは、東南アジアでは、少数の華僑に経済を支配させて大多数の現地民を支配した。この華僑の経済的特権構造は、今もこの地域の政情不安の原因になっている。
 
この白人のアジア統治のやり口を観て、我が国での「軍政」が仮に実施されたらどうなったかを考えるならば、あり得べきは、少数者の朝鮮人に特権を与えて多数者の日本人を支配させるやり方である。

事実、敗戦直後は、朝鮮人が「敗戦国民」の日本人に対してGHQの威光を背景にかなり威張っていたと、その当時を知る人から聞いた。マッカーサーは、軍政を敷こうとして、朝鮮人と日本人の分割統治方式を頭に描いていたのかもしれない。

この我が国の屈辱であり、民族の本性を歪めるおぞましい異民族による軍政。これを断固として止めさせたのが重光葵である。

それは終戦直後、戦時中に鈴木貫太郎の敵対勢力つまり徹底抗戦を強硬に主張していた者ほど、マッカーサーの力にひれ伏して占領軍様に従順な忠犬の如くなっていた時期である。

この時、敢然とマッカーサーに抗議して軍政布告を取り止めさせた重光葵は、やはり真の外交官、つまり、礼服を着た戦士であった。

以上、本日は、我が郷里の堺に生まれた鬼貫こと鈴木貫太郎と重光葵が決死の思いで何をしたのかを書いた。これからも、8月15日以降の戦いを忘れないために、「8月15日の後」を時々書いていきたい。

それは、日本と日本人の戦前と戦後の連続性を自覚すること、つまり、日本を取り戻すことに繋がっていくからである。2013.08.25

<「頂門の一針」から転載>

◆トウ(?)は賢明で狡猾

渡部 亮次郎


トウ(?)小平(1904-1997・8・22)は革命成就3年後の1952年毛沢東(1893・12・26-1976・9・9)により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(?)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたので?国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(?)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(?)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(?)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(?)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。


10月の中央工作会議で行ったトウ氏の自己批判は、「ブルジョア反動路線の先鋒(せんぽう)」とトウ氏攻撃の陳伯達演説に「完全に賛成」した上、「林彪同志から真剣に学ばねばならない」と述べ、「全面降伏」する内容だった。

トウ氏は、「毛沢東思想を真面目に学ばず、大衆から遊離し、大衆を抑圧した」などと自己批判し、「自分はブルジョア階級の世界観から改造されていない小知識分子」であり、「いまは鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」とまで言った。

毛沢東に睨まれたら降伏するほかないことをトウ氏は経験で知っていた。賢明。恭順の意を表せば、寛大になることも。狡猾。

1893年生まれの毛、1904年生まれの自分とは11という歳の差がある。毛が83歳で死ぬことも、自分がその後更に20年も生きるとは知る由もなかったが、オレのほうが生き残る、毛が死ぬまでは死んだフリをする以外にない、と決意したのではないか。「鏡に自分を映し見るのも恐ろしい」は毛に対する殺し文句だ。

実際、毛沢東はトウ氏の自己批判草稿に対し、「もう少し前向きな言葉を入れたらどうか。例えば自分の努力と同志の協力により、過ちを正し、再び立ち上がれるといったように」とアドバイスした、という。?(トウ)は賢明で狡猾だったのだ。政治家で賢明だが狡猾でない者は消される。

下放先では政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。下放先で人民の本当の貧しさを体験し、経済の改革・開放を決意した。

毛の死の直前、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失脚、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年9月9日、」毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年に再々復権を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。

またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。

!)(トウ)小平は自らは決して序列1位にはならなかったが、死去するまで実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。党中央軍事委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重要な問題にはトウ(?)小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

資料:【トウ小平秘録】(72)第3部「文化大革命」 自己批判(Sankei Web 07/06 08:04)及び「「ウィキペディア」2007・07・08執筆
(再掲)


2013年08月24日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられない米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。

2013年08月22日

◆中国にウォシュレット?

渡部 亮次郎


中国人は用便中を他人に見られて平気だ。それに手は滅多に洗わない。日中国交回復のための田中角栄首相の同行しての初訪中(1972年9月)。

このとき万里の長城行きの取材バスに乗り遅れて、特別車を仕立てて後を追いかけたら、天安門から5分も走らぬ北京市内で、肥え桶を担ぐ人に出合って驚いた。まさか日本人記者が来るとも知らずに共産党は通行を許可したのだ。

しかし、次の場面では、それこそ仰天した。万里の長城に登り始めるところにある公衆便所である。仕切りが何も無い。体育館みたいな広さの床に四角い穴が何十もあけられ、人々は他人に尻穴を見せながら用を足すのである。しかも手を洗う水はどこにも無い。

そういえば、街の食堂で料理人はトイレに立っても、事後に手を洗わない。おそらく、中国では水が少ないので、手洗いの習慣が無いのだろう。

そういう中国で、どれほどかは知らないが、用便後、便座にすわったままで尻を洗える「ウオシュレット」が売れているというから、やや驚きだ。改革・開放が尻にまで及んだか。驚き以外の何物でもない。

洗った尻は汚れていないのだからと、ますます手を洗わなくなる事を恐れて、出来ることなら、中国へは行きたくないものだ。

「ウォシュレット」は、TOTOが販売する、温水洗浄便座の登録商標及び商品名である。しかし、世界では日本しか普及していなかったから、大臣に随行して外国出張を重ねていた外務大臣秘書官の時代は携帯水洗器を持ち歩いたものだ。

TOTOのウオシュレットは発売が1980(昭和55)年6月。以来、2005年6月には累計販売台数が2000万台を突破した。

2006年10月現在、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インド・ドバイなどの中東地域・アメリカ・カナダで販売されている。

『頂門の一針』常連執筆者平井修一さんが紹介するワシントン・ポストの記事によると、インドでは人口のおよそ半分の6億6500万人がトイレに不自由しているというから、TOTOの市場は世界にまだ相当残っているわけだ。

最近のアメリカやヨーロッパの方面での実際の普及状況はわからない。古くて歴史を誇るホテルではどうだろうか。古くからビデ完備だったパリのオテル・クリヨンでもウオシュレットを取り付けたろうか。

「ウオシュレット」は温水洗浄便座では高いシェアを誇り、INAX(同社の名称はシャワートイレ)や他社製の同種類のものも含め、「ウォシュレット」と呼ばれるほど定着しているが、ウォシュレットの名称は先に述べた如くTOTOの登録商標(日本第1665963号)であるため、注意が必要だ。

TOTOは1960年代に米国からの輸入によって温水洗浄便座(ウォッシュエアシート)の販売を行っていた。主に病院向けに医療用や福祉施設用に導入されていたものである。

1969年にはこれを国産化したが、当時は販売価格も高く、なおかつ温水の温度が安定しないために火傷を負う利用者もいた。

男装で有名だった女流作家が、ビデを使ったらなんと熱湯が出てきて大火傷をした。係りが呼び出されて謝罪したが、男装なのに、あそこは男性でなかったのかと、帰り途で2人で大笑いしたという話を耳にしたことがある。

TOTOは独自に研究開発を進め、清潔好きな土壌を持つ日本での普及が見込めることなどから、1980年に2機種の設定によって発売を開始した。

特に、肛門位置などの数値データは存在していなかったので、社員などの協力を得てデータを収集し、噴出位置を設計するという工夫をこらし
た。

温水貯蔵式でおしり洗浄のほか、乾燥と「ウォームレット」の機能である暖房便座機能を持つ「Gシリーズ」(Gはゴージャスの意)と、水を瞬間式で温水にし、おしり洗浄と暖房便座機能に絞った「Sシリーズ」(Sはスタンダードの意)の2種類がある。

以後現在まで基本モデルはこの2種類で、これにコンパクトシリーズが1993年以降追加されるようになった。また、便器の大きさによって、レギュラー(標準)サイズとエロンゲート(大型)が用意されている。

1982年には、当時話題のタレント・戸川純を起用したCMで、コピーライター仲畑貴志による「おしりだって洗ってほしい」のキャッチコピー(第2弾コピーは「人の、おしりを洗いたい」)、その独特のCM中の歌によって一気に知名度を高めた。

CMについては、初回の放映時間がゴールデンタイムであったことより、視聴者から「今は食事の時間だ。飯を食っている時に便所の宣伝とは何だ!」などとクレームが入り、おしりという言葉を使用したことなどについても批判されたが、それを乗り越えるだけのインパクトがあった。

以後、すべてのラインナップで着座センサーを導入した(それまでは着座していなくても温水が噴出した)。ふたの自動開閉や便器洗浄、さらには消臭、脱臭、芳香の機能の搭載にも成功した。

ウォシュレットを装備した一体形便器(商品名「ネオレスト」「Zシリーズ」など)の登場、また住宅用に限らず公共施設やオフィス、ホテル用のラインナップも整備された。

抗菌・防汚にも配慮がなされ、ノズル部分は肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度(43度、ビデは53度)に設定されており、格納時やおしり洗浄前にノズルを温水で洗浄する機能も付属している。

また、おしり洗浄とビデ洗浄では吐水する配管も変えられている。他にも、省エネルギーにも配慮して節電機能を設けたほか、操作部も一部機種では壁付けの別体リモコンの採用で使いやすくするなどの改良が加えられている。

また2005年10月には音楽のMP3再生機能が備わったウォシュレットが発売されるなど、多機能化が進んでいる。このようなトイレの多機能化は日本独特のものであり、世界的にはこのような便座はまだ普及しているとはいえない。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、彼女は「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。

しかし、マドンナの発言から類推するところ、アメリカでの急速な普及は想像できない。ヨーロッパ各国でも同様ではないか。日本人は、極端と言われるほどに清潔好きなのだ。

1998年には累計販売台数1000万台を突破したが、この頃から多くの便器で装備するようになり、以後7年で倍の2000万台に達した。他社製品も含めれば、普及率は6割程度まで伸び、新規に建設されるオフィスビルでも標準的に取り付けられるようになっている。


2013年08月19日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎


私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見でには建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見と「ぶら下がり」」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。
カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次=後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れた時、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知りでない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度、そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。
(文中敬称略)2010・5・01