2016年08月06日

◆戊辰戦争を知らずに老いる

渡部 亮次郎



私は大学まで出る事が出来たが、戊辰戦争のことは中学・高校はもちろん、大学でも近現代の日本史を教わる事は無かった。政府の方針だったのだろう。

そこで、ある日、自分で学ぶことを決意した。NHK記者になってから秋田、大館、仙台、盛岡に合計6年間駐在したが、生まれ在所の秋田とは、なんとなしの違和感が、いつも感じられた。

大館駐在の際は、隣の鹿角郡をも担当したが、大館に対する敵意みたいなものすら感じた。あの郡は元は盛岡藩だったが、戊辰戦争で割譲されたのだった、と後で知った。

高校を出るとき、仙台にある東北大学にだけは進みたくなかった。これも戊辰戦争以来、秋田人は仙台を敵視する風習が子供にまで浸みていた
からだろう。

そういう戊辰戦争なのだが、今となっては「ウィキペディア」を丸呑みする以外に簡単な手段はない。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 -1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められる
こととなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

 1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)

 2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)

 3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。いずれの陣営とも外国の軍隊の直接派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。

つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。

12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。

12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生。

これも薩摩藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・老中格大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸
臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。

翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩なども新政府軍に参加した。

逆に旧幕府軍は賊軍とされることにより、佐幕派諸藩の動揺を招いた。1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。

1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。

慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。

9日、長州軍が大阪城を接収、大阪は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。

11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督高倉が発遣された。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。

また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じ、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩へ進軍させた。

ところが彦根藩はすでに尊王に藩論が転換しており9日東海道軍は大津にて桑名藩の征討に移った。22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。

藩主の座を追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の命により粛清が行われ、藩論は勤皇に一本化された。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に属していたが、東山道軍の先鋒となった。

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。

そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。

27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府支持に統一された。

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老三浦義建及び御用係関藤藤陰に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政山田方谷は城を無血開城した。

姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏した。

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。

日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。

天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩・府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志のないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。

その一方で松平容保は、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。 しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣退助が率いる別働隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること

江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること

江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。

この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。

一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。

近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。

途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。

しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝海舟との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。

大総督府は西郷隆盛を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。

会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督九条道孝・副総督沢為量・参謀醍醐忠敬・下参謀世良修蔵・大山綱良を数えることができる。

3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。

会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。

閏4月4日、仙台藩主席家老但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。

会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定し、藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。

赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。 閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。

さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったが、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。なお、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であった。

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。

その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。

閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。

続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。

次に沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖された。そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。

こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。

庄内藩の軍勢は久保田城の目前にまで迫ったが、列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため一斉に領内へ撤退した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、庄内藩は降伏した。盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することが決定した。

8月9日、盛岡藩兵は久保田藩に攻め込んだが一進一退のまま奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。

仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに亘って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1000人の死者が出た。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。

5月2日、新政府軍の岩村精一郎は長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に行わせていた各種支援を拒否し、武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。

これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。

同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。

新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵及び会津藩兵は城下全域に放火し撤退した。

一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1500人となった。

6月24日、新政府軍は板垣退助が白河から小隊を率い、平潟との中間にあった棚倉城を占領した。7月14日、新政府軍は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、三春藩が新政府軍に進んで降伏した。7月29日、二本松城を新政府軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が新政府軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。

また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。新政府軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。

当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。

またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。

この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。

9月22日会津藩が新政府に降伏した。明治天皇の新政府は会津藩に対し、戦死者の調査終了後に命を落とした会津藩士や農民・町人らの遺体を埋葬することを許した。

それまでの間は会津城下に無残な姿の遺体が山のように放置され異臭を放った。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。

8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。

北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。

10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。

その後新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典

永世禄 10万石-島津久光父子(薩摩)・毛利敬親父子(長州) 4万石-山内豊信父子(土佐) 3万石-池田慶徳(鳥取)・戸田氏共(大垣)・大村順煕(大村)・島津忠寛(佐土原)・真田幸民(松代) 2万石-佐竹義尭(久保田)・

藤堂高猷(津)・井伊直憲(彦根)・池田章政(岡山)・鍋島直大(佐賀)・毛利元敏(長府)・松前兼弘(松前) 1万5千石-前田慶寧(金沢)・戸沢正実(新庄)・徳川慶勝父子(尾張)・浅野長勲(広島)・大関増勤(黒羽) 1万石-松平慶永父子(福井)・六郷政鑑(本荘)・榊原政敬(高田)・津軽承昭(弘前)・戸田忠恕父子(宇都宮)・黒田長知(福岡)・有馬頼咸(久留米)・秋元礼朝(館林)など

処分された藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)


長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた。

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老但木成行・仙台藩江戸詰め家老坂英力・会津藩家老萱野権兵衛・盛岡藩家老楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老玉虫左太夫・若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩は議論の末に斗南を選択した。

斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。猪苗代地域では明治新政府によって開拓が行われ現在の郡山市都市圏が誕生した。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。これに感激した庄内の人々は西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。

この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

戊辰戦争以降、明治新政府は明治維新として総称される一連の改革を行うが、これについては主に敗北者側からは「この程度の内容の改革なら大戦争をしなくても実行可能であった」とする意見がある。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名をそそいでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」とする「仙台首都説」がある。

遺恨戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。(2012/4/5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年08月05日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部 亮次郎



若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座
の真ん中にあって1年だけ住んだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だからアパートに、内
風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから
帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソ
メイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシ
ノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務
省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイ
ヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現
在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種とい
う概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓
国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、
NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓
国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶
滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集
落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザク
ラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠
まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とさ
れたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは
異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多い
ヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で
染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられ
ている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用
には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接
木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイ
ヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えること
のないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え
替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につなが
り、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえ
る。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致
することが確認されている。これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一
斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に
弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国
の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲
かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種よ
り1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学
式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多
い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となって
おり、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木
から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆
発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、
以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論
争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木
になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソ
メイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くの
ソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメ
イヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていた
そうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべて
の個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予
想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマ
ザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命
説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値が
ないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えら
れている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早
いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガス
などで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているとい
うことも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐っ
て心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイ
ヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点も
ある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド
現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気
の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い
土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは
煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を
折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切る
ことは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。
例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以
上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹
齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応
用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を
回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変
えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を
要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の
現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

2016年08月04日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2016年08月02日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部 亮次郎



若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座の真ん中にあって1年だけすんだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だから、内風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソメイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種という概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とされたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で
染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えることのないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえる。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致することが確認されている。これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多
い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となっており、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメイヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていたそうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値がないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えられている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐って心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点もある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切ることは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

2016年08月01日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊
重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済 の改
革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。 特
にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2016年07月31日

◆星野哲郎えん歌4000曲

渡部 亮次郎



戦後、演歌界の大御所作詞家は石本美由紀だが、それに優るともおとらな
い作詞家は星野哲郎だろう。2人ともこの世の人では既にない。

星野は、石本に遅れること1年、2010年11月15日,85で死んだ。若い頃、高
等商船を出て船員になったものの、腎臓結核で断念、腎臓の片方を摘出す
るなどしたが、幸運にも長生きだった。

晩年の美空ひばりの「みだれ髪」、北島三郎の「なみだ船」を作ったかとお
もうと「黄色いサクランボ」や渥美清の「男は辛いよ」も星野の作詞。演
歌だけでなく応援の援歌だとも言って4000曲を遺した。

世に出していない「遺作」が数千曲があるといわれており、今後も新作が
出現するだろう。

星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 - 2010年11
月15日)は日本の作詞家。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身
で、東京都小金井市に在住していた。妻(1994年没)との間に一男一女が
おり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結
核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチ
ロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。

しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎
臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

4年に及ぶ闘病期間中に作詞を独学。家庭教師の傍ら1952(昭和27)年に
雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石
本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発
表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしらがいる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マ
ドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査
員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属
契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村
徹の作品を数多く世に輩出することになる。1964(昭和39)年にクラウン
レコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー
作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に
4000曲に及んだ。

1996(平成8)年7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協
会の会長を務め、2001(平成13)年10月1日には社団法人日本音楽著作権
協会 (JASRAC) の会長を務めた(2004年9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日
には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の
名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地であ
る小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与
された。

1985(昭和60)年2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」(歌唱:北島三郎)
の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の
「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない
奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の
病院でで死去。享年85。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀
所で営まれた。喪主は長男の有近真澄が務めた。

葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子
が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺され
た。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

星野哲郎の死去に当たり、日本放送協会が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲
郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ
作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、
そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人
がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにあり
て歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称してい
た。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いた
ことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という[。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手
も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想し
て星野が名付けたものである。

主な作品
青山ミチ 叱らないで(1968年)
渥美清 男はつらいよ(1970年)

北島三郎
なみだ船(1962年) 兄弟仁義(1965年)
函館の女(1965年) 風雪ながれ旅(1980年)
北の大地(1991年)
小林旭  自動車ショー歌(1964年)
昔の名前で出ています(1975年)

小林幸子  雪椿(1987年) 福寿草(1989年)

島津亜矢
愛染かつらをもう一度(1991年)母ごころ宅配便(1993年)
海鳴りの詩(1995年)女にゃ年はいらないよ(1996年)
感謝状〜母へのメッセージ〜(1997年)
波(2001年) 海で一生終わりたかった(2003年)
大器晩成(2005年) 温故知新(2010年)

水前寺清子

涙を抱いた渡り鳥(1964年)
いっぽんどっこの唄(1966年)
いつでも君は(1967年)
三百六十五歩のマーチ(1968年)
真実一路のマーチ(1968年)

スリー・キャッツ、ゴールデンハーフ
黄色いサクランボ(1959年)

瀬川瑛子
函館の雨はリラ色(1970年)
たそがれ港町(1971年)
高知の夜(1972年)
あのひとの雪国(1972年)
再見上海(1973年)
釧路の夜白い夜(1974年)
噂・モトマチ・涙町(1974年)
たばこ(1975年)
長崎霧情(1977年)
東京夜景(1978年)
月あかり(1978年)
相生橋(1981年)
サザン瀬戸ブルース(1987年)
春の海(1989年)
潮騒の町(1989年)
海の城下町(1990年)
帰らぬ夢(2006年)

鳥羽一郎
兄弟船(1982年)

西方裕之
北海酔虎伝(1987年)
流れる(1988年)
恋文流し(1993年)

美川憲一
お金をちょうだい(1971年)(2010年)

美空ひばり
みだれ髪(1987年)
塩屋崎(1987年)
都はるみ
アンコ椿は恋の花(1964年)
夫婦坂(1984年)

山形英夫
親子鯨(1958年)
山口瑠美
寿宝船 ことぶきたからぶね(1999年)

山本譲二
長州の男(1986年)
七夕月(萩の花咲く頃)(1993年)
生きる(2003年)

鰐淵晴子
春うらら(1967年)

その他 母校の後継校である東京海洋大学の新校歌を作詞している。作
曲は鈴木淳。また、旧東和町の大半の小中学校の校歌の作詞を手がけている。

長崎国際大学の校歌の作詞している。作曲は都倉俊一。

周防大島の伊保田港と柳井港・松山港を結ぶ周防大島 松山フェリーの就
航船「しらきさん」は周防大島の白木山にちなんで星野が命名したもので
ある。

自らが元船乗りと言うこともあってか、海や船・港にちなんだ歌詞が多
く、これがきっかけで1971(昭和46)年には運輸大臣より海事功労賞が、
1985(昭和60)年には運輸大臣より交通文化賞を送られている。
(「ウィキペディア」)12・5・3


      

2016年07月30日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎



納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン
(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬
の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売され
た。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ
合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分
名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素
に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬
よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほ
か、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせ
ないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、
納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し
切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまっ
たそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」
の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者には
まだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるの
は2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられてい
て、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」
の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小
板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固
療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているため
だそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下
流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報
告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用である
ことが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による
変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリ
ングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の
採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないこ
とや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現など
の点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済
的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因
とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一
選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発
が進められているファクター]a阻害剤などが次々に出てくるので、このガ
イドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、@
納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多いA感受性に個人差があり、
血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多
い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もな
く、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンの
マイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大
出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。

しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して
薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと
132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段
が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかも
なぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。


2016年07月29日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、

血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性に
ついて、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経
口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だったのである。このような状況に対して、当時の
「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自
己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚
生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳
情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自
己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を
要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイン
スリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容は
当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するというも
のであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血糖
自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証へ
と繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24


      
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話 の 福 袋
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 ◎前代未聞! 上杉隆氏ら都知事選候補6人がテレビの「偏向報道」に宣
戦布告

山口一臣 | ジャーナリスト(元『週刊朝日』編集長)

東京都知事選挙に立候補している候補者有志が連名で在京のテレビ局など
に選挙報道の公平性を求める文書を送っていることがわかった。有志に名
を連ねたのは、上杉隆氏、山口敏夫氏、中川暢三氏、マック赤坂氏、立花
孝志氏、七海ひろこ氏の6人だ。

今回の都知事選ではテレビが「主要3候補」と呼ばれる小池百合子氏、増
田寛也氏、鳥越俊太郎氏ばかりを取り上げ、他の候補者はほとんど画面に
出ない状況が続いている。ツイッターなどSNSやネット上では「テレビ報
道に偏りがあるのではないか」と盛んに指摘されていた。

実際はどうなのか? いま手元に幸福実現党によるテレビの選挙報道の実
態調査の結果がある。選挙戦最中の7月18日から22日までの間に、各テレ
ビ局の代表的なニュース番組を選んで主要3候補とその他の候補が何秒づ
つ取り上げられたを比べたものだ。予想はしていたが、これが驚くべき数
字なのだ。

調査対象となったのは、テレビ朝日「報道ステーション」、日本テレビ
「NEWS ZERO」、TBSテレビ「NEWS 23」、フジテレビ「ユアタイム」、テ
レビ東京「ワールドビジネスサテライト」、NHK「ニュースウォッチ9」の
6番組で、結果は上のグラフだーーーー※


・テレビ朝日 「主要3候補」940秒対 「その他の候補」33秒(3%)
・日本テレビ 「主要3候補」502秒対 「その他の候補」16秒(3%)
・TBSテレビ 「主要3候補」1082秒対 「その他の候補」34秒(3%)
・フジテレビ 「主要3候補」1212秒対 「その他の候補」26秒(2%)
※テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」は選挙に関する報道がなかった

「主要3候補」に対してその他の候補18人全員が束になってかかっても、
たったの2%〜3%の時間しか報道されていなかったのだ。

この民放4社の数字がいかに異様で異常な数字であるかということは、同
じ期間のNHK「ニュースウォッチ9」が主要3候補54%、その他の候補46%
と、ほぼ平等に扱っているのと比べるとよく分かるだろう。
https://info.hr-party.jp/2016/3404/

上杉氏ら候補者有志6人はこうした報道姿勢を、有権者に対して多様な情
報を提供し、多様な選択肢の存在を伝えるという報道機関としての責務を
放棄しているばかりか、「政治的に公平である」とする放送法第4条1項2
号に違反する可能性があると批判し、上記の民放4社に即時の是正を求め
る「要求書」を26日付で送付した。

候補者有志らは同時に、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証
委員会に対しても、この不公正な報道姿勢について審議対象にするよう要
望する「要望書」を送った。放送業界全体がこの問題に対して、どう対応
するかが注目される。

それにしても、情けない話である。民放なので視聴率などを気にしなけれ
ばならない事情もよく分かる。だが、テレビ局は報道機関でもあるはず
だ。主要候補3人に関する放送時間が、その他18人の候補の合計の30倍以
上もあるというのは、いくらなんでも不公平に過ぎるだろう。

公職選挙法第151条の3では、選挙に関する報道であっても編集に自由は制
限されないと謳われているが、同時に「表現の自由を濫用して選挙の公正
を害してはならない」と明確に書かれている。

局内で、それを指摘する声はなかったのだろうか。今回の選挙では、有権
者の中には、立候補者は3人しかいないと思っている人も多いという。こ
うした偏った報道は、何より有権者の不利益にもなっている。そういうこ
とに、局内の誰一人、思いが至らなかったということなのか。

さらに言うと、各局とも「その他の候補」の扱いが2%〜3%とまるで談合で
もしたかのように同じ数字になっていることも気になる。テレビ報道の世
界では、メディアごとの独自判断が薄れ、画一した横並びの判断が横行し
ていることの表れのような気もする。

いずれにせよ、候補者有志6人と民放4社のバトルの行方は、もう先が見え
てきた都知事選の帰趨よりも何倍も面白そうだ!

なお、今回、申し入れをした候補者有志による記者会見が27日(水)午後
4時から道玄坂会見場(東京都渋谷区道玄坂1-20-8 寿パークビル2階)
であるという。取材申し込みは、http://fpaj.jp/?p=6853まで。

山口一臣
ジャーナリスト(元『週刊朝日』編集長)
1961年東京生まれ。ランナー&ゴルファー。早稲田大学第一文学部卒、週
刊ゴルフダイジェスト記者を経て大手新聞社へ中途入社。週刊誌記者とし
て9.11テロを、編集長として3.11大震災を経験する。週刊誌歴約27年。こ
の間、テレビやラジオのコメンテーターなども務める。現在は堅気のサラ
リーマンとして勤務する傍ら、市民ジャーナリストとして情報発信を続け
ている。
【Yahoo! ニュース】 2016年7月26日 18時49分 〔情報収録 − 坂元 誠〕



 ◎7/27の新聞記事からいくつかご紹介します。唸声

▼唸声ネタ帳/7月27日、石原元都知事が鳥越氏をバッサリ、小池氏が知事
では都合が悪い?等ネタ帳は新聞などのニュースを唸声風に一言解説&コ
メントしています。

◇産経7/27:【東京都知事選】鳥越俊太郎氏は「売国奴だ、こいつは」 
小池百合子氏は「あの人は嘘つき」…石原慎太郎元知事バッサリ 長男・
伸晃氏には「苦労している」

石原慎太郎元東京都知事が26日、自民党都連が党本部で開いた会合に出席
し、都知事選(31日投開票)に立候補しているジャーナリストの鳥越俊太
郎氏(76)=民進、共産、社民、生活推薦=について「売国奴」、小池百
合子元防衛相(64)についても「嘘つき」「大年増の厚化粧」と述べ、激
しく批判した。

かつて自民党で長く国会議員を務めた石原氏は、都知事を辞任後、日本維
新の会などで衆院議員を務めた。久々に“古巣”を訪れたのは、自民、公
明、日本のこころ各党が推薦する増田寛也元総務相(64)の応援のため
だった。

石原氏はまず、鳥越氏について「売国奴だ、こいつは」と断言。中国に
尖閣諸島(沖縄県石垣市)を攻め込まれた場合の対応をめぐり、鳥越氏が
過去に「自衛隊が出動したら人が死ぬ。そんなことだったら尖閣なんか中
国にくれてやったらいい」と発言したとして、「こんなばかなことを言う
やつが東京を代表したり日本人を代表しておこがましいことができるか」
と怒りをあらわにした。

矛先は小池氏にも向けられた。「もう一人、大年増の厚化粧がいる。あの
人は嘘つきだ」と言い放った。また、小池氏が石原氏に都知事選出馬を促
されたと発言しているとして「全くそんな覚えはない。虚言癖で困ったも
のだ」と否定した。

会合には、自身の長男で都連会長の石原伸晃経済再生担当相も出席。慎太
郎氏は、小池氏が都連執行部に無断で出馬表明した経緯を念頭に「そこに
私の息子がいて苦労している」と述べ、ねぎらう場面もあった。産経電子版

「そこに私の息子がいて苦労している」?と石原氏は完全な親バカをご披
露してしまいました!外国人参政権を推進する増田氏を石原氏が応援する
のもどうなのでしょうか?

あなたを応援していた日本人は苦労しますよ! 今のところ明確なサイン
を出しているのは、この3人の中では小池さんだ けです。虚言癖?耄
碌?どちらかがウソを吐いていますが、自民を応援し ているだけでも石
原さんは大丈夫なのかと疑ってしまいますよ。そう、自 民ではなく、息
子を応援しているのかな?


◇産経7/27:【東京都知事選】小池百合子氏演説詳報(26日)「言いたく
て、うずうずしていたけど、つい言っちゃいました。要は、私が嫌な人が
いるということなんです」

この知事戦、あと5日。あっという間でございました。最初、たった一人
での船出だなと思っていたら、「東京を一緒に変えていきましょう。だっ
て首都・東京なんだもの」という思いで、例えば、若狭勝さんという現職
の自民党衆院議員。私は自民党からの推薦受けてないですよね。私を応援
している議員は自民党を除名処分の対象。だけど、応援するんだといっ
て、ずっと一緒に運動していだたいている。

私が知事になると都合が悪い人がいるんですかね。いるんでしょうね。だ
から要は推薦も何もなかった。私、これ言いたくて、うずうずしていたん
ですけど。つい言っちゃいました。要は私が嫌な人がいるということなん
です、都連の中にはね。扱いにくいだろうな、まずいだろうな、いろいろ
暴かれちゃうんだろうな、いろいろな思いの方がおられるんでしょう。

でも東京五輪は2020年。パラリンピックも控えている。2025年には団
塊世代が75歳以上に。つまり高齢化というよりは超高齢社会がやってく
る。続き↓産経電子版
http://www.sankei.com/politics/news/160727/plt1607270004-n1.html

石原さんの息子は小池候補を「今日をもって自民党ではない」と話してい
ます。つまり、昨日までは自民党だったのでしょうね。それにしても増田
候補は自民党なのですか???何だか、旗色が悪くなってきましたね。石
原さんの息子は話さない方がいいみたいですよ。親父さんが話しても何だ
か変だし・・・。風向きが変わったことを敏感に察知できないと政治家は
できませんよ。


◇日経7/27:相模原殺傷、予兆把握も防げず 事件前に措置入院 退院の判
断難しく

相模原市の障害者施設殺傷事件では、大量殺人を示唆する植松聖容疑者
(26)の発言を行政や警察が把握しながら、事件を未然に防ぐことはでき
なかった。2月には「他人を傷つける恐れがある」として強制的に入院
(措置入院)したものの、2週間弱で退院。精神科医療における診断の難
しさが浮き彫りになった。

措置入院は精神保健福祉法に基づき、精神疾患のため自分や他人を傷つけ
る恐れがある患者を本人らの意思と関係なく、行政が強制的に入院させる
制度。厚生労働省によると、2013年6月末時点の措置入院の患者数は約
1600人。

2人以上の精神保健指定医が「自傷・他害の恐れがある」と判断すること
が条件で、入院期間に定めはない。指定医が「入院の必要がなくなった」
と診断すると、病院が自治体に「症状消退届」を出し、都道府県知事らが
退院を決定することが多いという。

退院は指定医1人が判断すれば可能だ。ただ関東の病院で働く指定医は
「精神科医療において百パーセント退院して大丈夫という判断は難しい。
患者と話し、言動などから判断するしかない」と判断の難しさを語る。

措置入院は患者の同意を得ない入院のため、患者団体や専門家から人権上
の問題を指摘されている。指定医は「医師は人権に配慮し、最短で退院さ
せる道を探っている」という。続き↓日経電子版
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO05305060W6A720C1CR8000/?n_cid=NMAIL001

先日、精神的におかしくなった友人に付き添って精神科へ行ってきまし
た。躁状態であり、自傷はあり得ないのですが、全く仕事もできない様子
で精神科の先生の意見を聞きに行った次第です。その時は、入院して薬で
治していくとの話でしたが、本人が急に入院は嫌だと言い出し、人権を考
えると強制措置入院はできないとの話になりました。

ただ、このままの状態であれば、必ず何かを起こす可能性があると医者は
話しているにも関わらず、強制措置入院はできないのです。家に居れば、
アルコールを飲んでしまうために入院してアルコールを断ち、早く薬で治
していくこともできるのですが・・・。人権とは何でしょうか?その人の
ことを最大限に考えても人権の壁に突き当たります。


◇時事7/27:刃物5本を使用か=現場で新たに2本−遺族に謝罪も・障害
者刺殺容疑者

相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺さ
れ、26人が重軽傷を負った事件で、殺人未遂などの容疑で逮捕された元
職員植松聖容疑者(2)が出頭時に所持していた3本の刃物の他に、事件
現場で新たに2本の包丁が押収されていたことが27日、神奈川県警への
取材で分かった。
 県警津久井署捜査本部は同日、容疑を殺人に切り替えて植松容疑者を送
検し、自宅を捜索した。入所者を大量殺害する目的で少なくとも5本の刃
物を用意し、職員が手薄な夜間を狙い襲撃したとみて、動機の解明を急ぐ。
 県警などによると、同容疑者は「障害者なんていなくなればいい」とい
う趣旨の供述をする一方、遺族に対しては「突然のお別れをさせるように
なってしまい、心から謝罪したい」と話しているという。
 捜査本部によると、包丁2本は施設内の別々の場所に落ちており、いず
れも血が付着していた。26日に出頭した際に所持していたバッグ内から
は、いずれも血の付いたナイフと包丁計3本が見つかっている。
 植松容疑者は26日午前2時ごろ、居住棟の窓ガラスを割って侵入。職
員の頭部や顔面を殴り、持参した結束バンドで縛った後、部屋を移動しな
がら就寝中の入所者を次々と刺していったとみられる。乗っていた車や施
設近くの路上からは、結束バンドも見つかった。(2016/07/27-12:22)

殺害したことを謝罪しているのではなく、突然の別れになってしまったこ
とを謝っています。自身も強制措置入院をさせられており、全ては容疑者
のシナリオ通りなのでしょう。精神鑑定で無罪となる事が本人のシナリオ
かもしれませんが、死刑判決が出た時はどうなるのでしょうか?それもシ
ナリオの一部でしょうか?たとえ、無罪となっても一生病院からは出られ
ません。「障害者なんてなくなればいい」は自身にも当てはまります!そ
れにしても、この容疑者を好青年だと判断していた人たちは・・・???


◇中国映像:膨大剤を使った西瓜に怒った群衆が畑の西瓜を叩き割る!
https://youtu.be/3eC3I5LIW1I
YouTubeが削除されていたら以下の秒拍まで
http://www.miaopai.com/show/EKQM2cLKUReZQI2sbGev4Q__.htm
人体に有害であるとは証明されていない成長促進剤ですが、中国では爆発
する西瓜で有名になり、中国国民が気にしています。お腹の中で爆発する
のではないかと誰もが考えますから・・・!


唸声の気になるニュース↓映像や写真などは以下にてお楽しみください。
http://ameblo.jp/unarigoe/



 ◎3メガバンク、利益3割減…マイナス金利影響

3メガバンクの2016年4〜6月期連結決算の税引き後利益は、総額で5000
億円程度となる見通しだ。

日本銀行のマイナス金利政策の影響で、前年同期(7036億円)と比べて、
約3割減少する。預金を元手に企業などに貸し出しをして得られる「利ざ
や」の縮小が続いているためだ。

金融市場の動揺を背景に投資信託などの販売が低迷したことや、国債な
どの運用益が減っていることも利益を押し下げた要因とみられる。三菱
UFJフィナンシャル・グループと三井住友フィナンシャルグループ
(FG)は、ともに1800億円前後、みずほFGは1200億円以上の利益を確
保した模様だ。

「マイナス金利政策の効果で資金の需要が高まっているとは言えない」
(メガバンク幹部)との指摘も出ている。銀行の収益環境は引き続き厳し
い状況が続きそうだ。
読売新聞 7月27日(水)9時1分配信

2016年07月28日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋か
ら春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日
に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平
賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万
葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ
云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋
と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わ
ずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・
臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さな
うなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さな
いので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシと
は関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギ
に転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼
にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむ
し)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶ
し」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀す
ることから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出
来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となった
が、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺し
て焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期から
で、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文が
あってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てく
るまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。し
たがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとって
は一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで
東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、
湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎ
のぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこ
に潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出
し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の
深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品
があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場
所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギ
の産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に
産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年に
は三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成
功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も
低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚に
なるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖
産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸
出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が
確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸
出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対
立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的
にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に
発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸
入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出さ
れた物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性
が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたこと
がある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であ
り、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。出典:
フリー百科「ウィキペディア」2007・11・16


2016年07月27日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。
悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。
結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年07月26日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07

2016年07月21日

◆トウ小平の刺身以後

◎<22日(金曜)から整形外科病院に入院しますので、再刊は26日
(火曜)となります。 「百家争鳴 主宰者>


渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。

2016年07月19日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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