2013年11月07日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎


名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結することになった。

1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤は、シチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 2007・04・15執筆


2013年11月05日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部 亮次郎


古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタン「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をめぐる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(5月18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。
それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。


核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じていない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするも
の」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、立ち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされt密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。
(「ウィキペディア」)

◆チエミ波乱万丈の生涯

渡部 亮次郎


大スター江チエミは失意のうち、吐しゃ物を喉に詰まらせて死んだ。まだ45だった。3日文化勲章を受けた俳優高倉健の元夫人であった。

少女歌手、江利チエミのルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりは母親のなし得なかった「歌手になる」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは無かった。

片やチエミは、三亀松師匠とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。

長兄は陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに彼女はドリス・ディの「アゲイン」などを習得して、ジャズ歌手という方向性に照準をあわせる。

進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドから彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされる。

この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードの試験にパスし、1952(昭和27)年1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのとき15歳。

しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した。しかしこのとき「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議。

少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。母はチエミのデビューを待たず1951年6月に不帰の客となった。

同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。

幅広いジャンルで活躍

チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。

後のペギー葉山、カントリーの小坂一也など、ロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化の魁を果たした。

本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本興業であった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。

後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。

メジャーデビューの翌年、1953(昭和28)年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。

ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカバーしようと準備していたテレサ・ブリュワー「想い出のワルツ」(原題: Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩
せぎすな少女・いづみが空港で出迎え、その屈託の無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて二人は終生の親友となった。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡。

『ジャンケン娘』(1955年)などの一連の映画で共演。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955(昭和30)年4月26日- 5月6日『チエミ海を渡る』がさきがけだった(江利チエミ日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBS『チエミ大いに歌う』は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月 - 11月)であった。

映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。

東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。

1959(昭和34)年、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960(昭和35)年に本格的に復帰。高倉とは義姉(異父姉)による横領事件などがあって1971(昭和46)年にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演しテアトロン賞、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞。

これに遡る1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演も梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍した(翌1962年の新宿コマ『スター誕生』公演で芸術祭奨励賞受賞)。

代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

新宿コマの座長公演は1962(昭和37)年の『スター誕生』から1978(昭和53)年の『サザエさん』まで続いた。松竹系の舞台でも、1978(昭和53)年京都南座で音楽劇『二十四の瞳』に主演。

助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手・女優に留まらず、NHK『連想ゲーム』の紅組キャプテン、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日『象印クイズヒントでピント』では女性軍2代目キャプテンを務めていた。

「エリー」という愛称が定着しているが、親しい友人の間では「ノニ」というあだ名で呼ばれていた。これは、チエミが、「…なのに」と口癖の様に言うことが多いことから使われていたと、彼女との思い出を振り返っていた杉良太郎が歌番組で語っていた。

45歳、突然の死

1982(昭和57)年2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。享年45。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものだった。

数日前から風邪を引き体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、さらに暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ってしまったのが原因と言われる。

その前日は、2日前に行われた熊本での和服卸会社主催のイベントから帰宅したばかりで、亡くなった当日の夜にも北海道でやはり和服関連のイベントが組まれていた。

偶然ではあるが、チエミの柩が玄関を出た2月16日は、奇しくも最期まで愛してやまなかった高倉健との結婚で、花嫁衣装を着て実家の玄関を出た日と同じであった。

その高倉はチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を送り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

波瀾万丈の人生

チエミの実母と幼くして生き別れになり、名古屋で家庭をもって暮らしていた異父姉のY子は、ある日「テネシーワルツでスターになった歌手、江利チエミ」が自分の妹であることを知った(母のプロフィール:谷崎歳子の名でそれを知る)。

彼女は経済的に困窮している、家庭がうまくいっていないと虚実を語り、家政婦・付き人といった形で江利チエミ一家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

Y子は高倉健、チエミにそれぞれの「でっちあげの誹謗中傷」を吹聴し、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、あげくは高利に借金をし、不動産までも抵当に入れた。

事件発覚後も容疑を否定し、チエミへの誹謗中傷を週刊誌で行い、挙句は失踪、自殺未遂まで行う。チエミは自己破産をせず責任は自分でとると決意、断腸の思いで義姉を告訴。

義姉には実刑判決が下る。不遇の境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行であった。

2億とも4億とも言われた動産の被害、不動産担保を、チエミは一人で完済した。

デビュー直前の母の死、3人の兄もチエミ存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も流産、またかわいがっていた甥の電車事故死、そして離婚と家庭運に恵まれなかったところも多かった。

さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、また1970年には自宅を全焼、1972(昭和47)年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇しており、芸能生活の華やかな栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう波乱の生涯であった。
(ウイキペデイア)2013・11・4


2013年11月04日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎


1946(昭和21)年1月19日のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関だった。今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

私も尾高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験ムードに反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」。

   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

大学を出てNHKで政治記者になった。

ある夜、東京・新宿のスナックで唄っていたら、見知らぬ男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴くものと心得ている。2013・10・29

2013年10月31日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理がルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言ったという報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQ
の指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋沢栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んで以降である。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年においては、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第2巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。

また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。<ウィキペディア>

 

2013年10月28日

◆アメリカ料理? 知らないな

渡部 亮次郎


アメリカ料理 (American food) とは、「ウィキペディア」が喝破する如く「今日ではファーストフードとして世界中に普及しているもの」も多い。

昔の日本人のファーストフードは饂飩や蕎麦。せいぜい「お握り」。

晩餐に出るものこそ「料理」というべきもの。アメリカでは美味しいものは食べたことはあるが、殆どはフランス、イタリア料理。他にアメリカ人の好むものといえば日本料理だった。

ニューヨーク、コロムビア大学のある教授は、この指摘に対していや、アメリカにも美味しい料理はあるよ、とレストランに案内してくれたが、出てきたビフテキは硬くて参った。せめて醤油でもあれば、と思ったが、その頃はアメリカ本土にキッコーマンは未進出だった。

ニューヨークではよく、オイスター・バーへ行き、クリーム・チャウダーを食べたが味付けはフランス料理だった。純粋のアメリカ式ならレモン添え生牡蠣だろう。

蟹が安いから大量に食べたが、あれは料理と呼べる物ではない。材料そのものだ。茹でただけだから。

そこでジョン・レノン夫妻にご馳走になったのはイタリア料理だった。

<アメリカ料理とはアメリカ合衆国で生まれた料理、アメリカ合衆国外で発生したもののアメリカ合衆国内で独自の発展をとげた料理、ならびにアメリカ合衆国で普遍的に常食とされている料理である。

トマトを使用したものが多く、トマトケチャップやトマトジュースもアメリカが発祥となっている。

早くから冷凍食品が普及しており、特に冷凍野菜が頻繁に使われる。肉料理はアメリカ南部発祥が多い。>(ウィキ)

ウィキに依れば、以下がアメリカ料理だそうである。要するに余り手を掛けないのがアメリカ料理かと思ってしまう。

美味くないものを多量に押し込むためか、アメリカの人たちはバター、チーズ、砂糖、コーラ、アイスクリームを多量に摂取する。だから肥満を気にしていないアメリカ人は見かけない。肥満は成人病を招く。それを中国人富裕層が追いかけている。

パン類ピザ (Pizza) - 元々はイタリア料理だがアメリカで変化し、イタリアのそれとはかなり違うものになっている。

ドーナツ (Doughnuts)
ベーグル (Bagel)

ビスケット (Biscuit) - イギリス料理のスコーン(Scone)に相当する。
プレッツェル (Pretzel)
パンケーキ (Pancake)
マフィン (Muffin)
ワッフル (Belgian Waffle)
フレンチトースト (French toast)
コーンブレッド (Cornbread)

パスタ類イタリアや日本よりスパゲッティをかなり柔らかめに茹でる習慣がある。

スパゲッティ・ウィズ・ミートボール (Spaghetti with Meatballs) -
ミートボール入りのトマトソースのスパゲッティ。

フェットチーネ・アルフレード (Fettuccine Alfredo) - チーズの入ったクリームであえたフェットチーネ。
マカロニ・アンド・チーズ (Macaroni and Cheese)
飯類ジャンバラヤ (Jambalaya)

カリフォルニアロール (California Roll) - アメリカの寿司は酢を利かさないものが多い。

ホッピン・ジョン (Hoppin' John) - 米と黒目豆を炊き込んだ料理。
シアトルロール (Seattle Roll) - カリフォルニアロールの一種。
スープ類チャウダー (Chowder)
ガンボ (Gumbo)
ヴィシソワーズ (Vichyssoise)
チキンスープ (Chicken Soup)
ピーナッツスープ (Peanut Soup) - ヴァージニア州の名物スープ。
サンドイッチ類ハンバーガー (Hamburger)
ホットドッグ (Hotdog)

スロッピー・ジョー (Sloppy Joe) - トマトソースで煮込んだ挽肉をバンズではさんだもの。

肉料理
バーベキュービーフステーキ (Beef Steak)
バーベキュー (Barbecue)
ミートローフ (Meatloaf)
ローストチキン (Roast Chicken)
フライドチキン (Fried Chicken) - 主に骨付きの鶏肉を揚げたもの。

テリヤキ (Teriyaki) - 日本とは違い、テリヤキソースは肉料理にしか使わない。

ポークチャップ (Pork Chop) - 下味を付けた豚の骨付き肉を焼いたもの。

ローストターキー (Roast Turkey) - 感謝祭に家族で食べる七面鳥の丸焼き。

バッファローウイング (Buffalo Wings) - 辛く味付けした鶏の手羽。セロリとブルーチーズドレッシングが添えられる。

魚介料理ゲフィルテ・フィッシュ (Gefilte Fish)
シュリンプ・スキャンピ (Shrimp Scampi)
ソフトシェルクラブ (Soft Shell Crab)
クラブケーキ (Crabcake) - 蟹肉を寄せて固めたもの。
オイスター・ロックフェラー (Oysters Rockefeller) - カキにホウレンソウ、ホワイトソース、チーズを乗せ、オーブンで焼きグラタン風にしたもの。

野菜料理フライドポテト (French Fries) - ジャガイモのフライ。アメリカではフレンチフライと呼ばれる。
マッシュポテト (Mashed Potato)
ハッシュドポテト (Hashed Potato)
コールスロー (Coleslaw) - キャベツのサラダ。
シーザーサラダ (Caesar Salad)
コブサラダ (Cobb Salad)

デザート
アップルパイアップルパイ (Apple Pie) - リンゴを使ったパイ。
パンプキンパイ (Pumpkin Pie) - カボチャを使ったパイ。
ピーカンパイ (Pecan Pie) - ピーカンを使ったパイ。
キーライムパイ (Key Lime Pie) - キーライムを使ったパイ。
シフォンケーキ (Chiffon Cake)
ジャーマンケーキ (German Cake)
ジンジャーブレッド (Gingerbread)
ブラウニー (Brownie)
カンノーロ (Cannolo)
パーシモンプディング (Persimmon Pudding) - 柿を使ったプディング。
ファッジ (Fudge)
アイスクリーム (Ice Cream)
シャーベット (Sherbet)
サンデー (Sundae)

ミシシッピーマッドパイ (Mississippi Mud Pie) - チョコレートを使ったアイスデザート。

エンゼル・フード・ケーキ (Angel food cake) - 穴のあいた専用の型で焼かれる、卵白のみを使った白いケーキ。

デビルズ・フード・ケーキ (Devil's food cake) - チョコレートやココアを多く使用した、コクのある茶色のケーキ。

シリアルオートミール (Oatmeal)
コーンフレーク (Corn Flakes)
グラノーラ (Granola)
その他ポーク・アンド・ビーンズ (Pork and Beans)

チリコンカーン (Chili Con Carne) - 一般的には通称のチリ (Chili)の
名で呼ばれる。

ポットパイ (Pot Pie)
キャセロール (Casserole)
クロケット (Croquette)
ブリンツ (Blintz)
クレプラハ (Kreplach)
トルティーヤ (Tortilla)
エッグベネディクト (Eggs Benedict)
アメリカンドッグ (Corn Dog) - ソーセージに衣を付けて揚げたもの。
アメリカではコーンドッグと呼ばれる。
チャプスイ (Chop Suey) - 中華風の煮込み料理。

アメリカは土木建築の「飯場」のような寄せ合い所帯の国だから独特の料理が無いのは当然。いうなればランチの国?

          

2013年10月24日

◆明日「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した>。

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年10月23日

◆「大紀元」を知ってますか

渡部 亮次郎


大紀元(だいきげん、英: The Epoch Times)は、新聞とインターネットを報道媒体とする華僑系報道機関である。

2000年5月、ニューヨークで“中国共産党言論統制を突破する”華人たちによって設立された。2011年1月現在、新聞では9ヶ国語、ウェブサイトでは17ヶ国語でそれぞれ各国支局により運営されている。

日本では東京都台東区に事務所を置き、中国語版を2001年、日本語版を2005年から発行している。

数年前、私は東京での社員集会に招かれて講演したことがある。社員の多くは来日後「反共」になった女性が大部分だった。

アメリカ国内に11の支社を持ち、日本やカナダ、イギリス、ドイツなど、世界30カ国にグループ社がある。

ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ボストン、カナダ、オーストリア、香港、台湾では日刊で、他の国・地域では週刊で発行している。 全世界での中国語版の発行は週120万部。他に英語版、ドイツ語版、フランス語版、ロシア語版、韓国語版、日本語版を発行。

紙面およびウェブサイトで、「中国共産党の圧力に屈せずいかなる検閲も受けていない」ことを売りにしており、「中国国内では発信されない自由民主に基づく視点」で、中国時事や文化記事を中心に報道している。

中国大陸以外で生活する中国人向けに記事は書かれており、中国共産党の内政や外交問題を報道し続けている。特に中国共産党に対する報道姿勢は非常に批判的である。

特に中国大陸における法輪功迫害問題(例:大量虐殺罪と拷問罪で中国前江沢民国家主席がスペインおよびアルゼンチン裁判所で民事告訴されるなどについては、他メディアが取り上げない事実を報道している。

他にもチベット民族、ウイグル民族やモンゴル等の少数民族に対する虐殺や人権蹂躙に関する問題、中国共産党員の国外スパイ活動、中国大陸の環境問題、中国の民主化運動などについて盛んに報じている。

『九評共産党(共産党についての九つの論評)』という社説を発表し、この中で大紀元は中国共産党の暴政を糾弾し、同党の解体要因を指摘した。

九評共産党について中華民国元総統・李登輝は、「人も山河もみな、本源へ帰る。奥の細道にたたずむ平安のみなもとを希求するすべての人々に、この本を薦める」と評価し、「道徳的覚醒を促す」と出版社博大書店へメッセージを送った。

中国臓器狩り問題 の追究に熱心だ。2006年3月、中国人ジャーナリストR氏は大紀元の単独取材の中で、東北部の瀋陽市近郊にある大型刑務所に数千人の法輪功学習者が監禁され、当局が彼らを殺害した後、販売目的で臓器を摘出している事を暴露した。

同問題が世界に明るみになった後、カナダの著名人権弁護士デービッド・マタスと、カナダ政府元内閣大臣デービッド・キルガーは中国の臓器狩り問題について調査依頼を受け、2007年7月、法輪功学習者が生きたまま臓器を摘出されるというショッキングな内容を含んだ報告書「血塗られた臓器狩り」を発表した。
 

2013年10月19日

◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は標準語でいえば「塩汁」。秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたのは40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売っていて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっつる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メーカーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっけ醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵させる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。

2013年10月15日

◆反日ハインツ・キッシンガー

渡部 亮次郎


政治記者の先輩・古澤 襄さん(ふるさわ のぼる 元共同通信社常務理事)が、<キッシンジャーはかつて1971年の米中秘密会談で、周恩来に「日米安保条約は日本に核武装させない便法である」と言明したと喝破。

そのキッシンジャーは「日本は2050年までに核武装国家になる」と繰り返し警告を発している。どちらもキッシンジャー得意の外交技術とみていい>と「キッシンジャーの言葉の武器』を自らのブログで書かれたので、キッシンジャー嫌いだったわが師故園田直とともにキッシンジャーに思いが及んだ。

杜父魚ブログ http://blog.kajika.net/

外務大臣3期を通じて秘書官を私が務めた園田直(そのだ すなお)は福田赳夫内閣の官房長官当時から「キッシンジャーは反日だ」ときめつけていた。生涯を通して面談しようとはしなかった。だから当然、私もキッシンジャーとは面識が無い。

おそらく園田は、官房長官当時、外務省幹部の誰かから、相当強く吹き込まれたものと思われる。キッシンジャーもまた日本への認識を改めたフシはない。餌としか思ってない。

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry AlfredKissinger,1923年5月27日―)は、アメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。

ノーベル平和賞受賞者 (1973年) 受賞理由: ベトナム戦争の和平交渉 。

1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。

父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したため一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住。第2次世界大戦中の 1943年に同国に帰化。だからアメリカで大統領は望めない。

ハインツ少年の頭には反ナチが刷り込まれており、そのナチと組んでアメリカに刃向かった日本に対して親密感を持ち得ないのは当然といわざるを
得ない。

ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第2次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。

さらにハーバード大学で学び、教授となる。大統領リチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置と役割を果たした。

1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に2度訪問、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつける。この「神没鬼没」ぶりで世界に名を売った。

当時、日本は佐藤栄作政権下。対中関係を頭越しで遣られた政権は弱体化した。これが次の田中角栄首相をして日中国交回復の拙速を招いた。

一方でキッシンジャーは、中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。但し日本の頭越しを遣ったはずの米中国交正常化は日本に遅れること6年だった。

日本が台湾をそれこそ弊履の如く斬って捨てたのにアメリカは工夫をこらし、台湾を捨てなかった。そのために6年も掛けたのである。

私に言わせれば「外交役者」とも言えた。世界注目の場に美女を伴って現れるなど「たいした役者ぶり」だった。ニクソンの頭越しにノーベル平和賞を受賞するなど、ニクソンは面白くなかったに違いない。

彼はニクソンとは、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「1度として2人きりで食事を摂ったことはなかった」と語っている。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は大きいと評価されている。


日本ではテレビ東京の番組「日高義樹(元NHKアメリカ総局長)のワシントン・リポート 」に年1回出演し1月に放送されるのが恒例。読売新聞への寄稿は屡々。

日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。

特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。

冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。

2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正や核武装については「日本が決めることだ」と発言している。(文中敬称略)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2013年10月14日

◆スパイからの領収書

渡部 亮次郎


朴正煕(パク・チョンヒ)氏が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。

スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いていた。

岡田外務大臣(当時)は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力中である。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だ。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。

戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えているようだが、国益優先に考えれば、行為はよほど慎重に運んで然るべきだ。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。



◆80にして納豆初食い

渡部 亮次郎


77で最近、納豆を毎朝食べてみて飽きない。脳卒中予防には血をさらさらにするしかない、そのためには毎日「ワーファリン」を飲むことになったが、困ったことに、この薬は納豆や青汁などをたべると効果がなくなる。

子供の頃、親父が納豆作りに殆ど失敗した為に、これまでは納豆を食べたいと思うことは無かった。昔はコンビニは無かったから納豆売りのいない田舎では納豆はすべて自家製だった。

ところが、4月から薬が代わって「プラザサ キ」になり、納豆はOKということになった。11日の定期健診でも教授から 「納豆食べてますか」と聞かれた。

80 近い歳になる。別に納豆を食べたかったわけではない。だが食べちいけないといわれるとたべてみたくなる。臍曲がり。食べてみたらうまかった。

それで4月の末から毎朝、納豆を食べ、14日に血液検査をしてもらったら「プラザサキ」の効果には矢張り全く影響していなかった。「好きならいくらでもOK」ということになったわけだ。

しかし尿酸値が高くなる。これが高くなると通風になるという。風が吹いても足の先がいたくなるというあの通風だ。だから一日おきにしている。

納豆は大豆を原料として、納豆菌で発酵させた日本の発酵食品である。日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができ、現在多くの日本人に食べられている。茨城県・福島県を中心とした関東地方・東北地方では郷土料理としても親しまれている。

大阪に30年前、単身赴任した頃は、何処にも納豆は売っていなかったが、はあの匂いが厭なのだ。

だが、いまでは製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、この40年間を見ても国内各地域での消費量の差(一番少ない近畿・中国・四国と福島・水戸など一番多い地域との差)は大きく縮まっているそうだ。

「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、納豆の時期は冬である。