2013年05月10日

◆光無き砂漠の静寂

渡部 亮次郎


試みに中東の沙漠に、深夜、独り、降り立ったことがある。勿論ネオンも街灯も無い。歌に歌う星も、本当は地球を照らしてはいないことを知った。本当の暗闇とはあの事。1978年1月のある深夜。

その夜は風も全く無かったので、耳をいくら澄ましても聞える音は何も無かった。どこから外敵に接近されようと関知する事は不可能だった。

つまり東京という都会に暮らしていれば、漆黒の闇と言う事はあり得ない。また全くの沈黙という名の静寂も求める事はできない。都会では何かしらの光が漏れ、どこからとも無く音が聞えてくる。

しかし中東の沙漠の夜には音も光も全く消えてしまうのだ。米のブッシュ大統領はこの事実を体験せずにアフガンやイラク攻めを命令したのだ。沙漠を知らずに攻め入った兵士たちの戸惑いが中東での米軍の苦戦を証明している。

光無く音さえ絶った沙漠。一旦、風が吹いたとなると、地上も空もすべてを遮る嵐と化すらしい。そこではいかに対処すべきか協議している暇は無い。首長の命令一下に従うしか命は無い。

音の全く無い暗闇の中。これ以上の孤独は無い。その時私はかつてロンドン郊外で体験した濃い、霧のことを思っていた。多分、牛乳の中に体ごと突っ込まれたら同じ思いをするかもしれない。真っ黒と真っ白の違いはあるが、何も見えないという点では共通だ。

日本であれほどの濃い霧を体験できる場所を知らない。早朝、いきなり霧に包まれ、前後左右、上下、乳白色一色.鼻をつねられても頭を殴られても誰にやられたか全く判らないだろう。

だから北ヨーロッパでは霧は犯罪とすぐ結びつく。迷宮入りした殺人事件の犯人は霧とされるらしい。

翻って中東の沙漠の暗闇の中で人々は何を考えるのだろうか。翌日サウジ政府差し回しの軍用ヘリコプターで油田の上空を飛んだら、耳をつんざく騒音の中でぐっすり眠っていた。

「テレビが五月蝿くて眠れない」と家族に文句を言うが、アレは嘘だ。人間、眠くなれば、飛んでいるヘリの中で眠られるのだから。

2013年05月08日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美がある日の未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌っていた。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースをカバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜 9時ごろの奥羽線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタクシーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこは坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみたら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであった。デスクには秘匿した。77歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子として生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へりにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行われ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強いが、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったことはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。


2013年05月06日

◆NHK退職後の36年

渡部 亮次郎


給料を貰っていた日本健康医療専門学校の校長を2008年5月末日限りで退職したので、年金生活者になった。以後はメルマガ「頂門の一針」主宰者。要するに「無職」。

人生で一番嬉しかった事は大館から仙台への転勤だった。見送りは誰もいなかったが、晴れてNHKの正社員。1年後れの「34年組」

3級放送記者に7月10日付で発令された。そこで1年。チリ地震津波を取材した。

今度は岩手県の盛岡放送局。放送部は別棟の木造瓦葺平屋建て。明らかにけ足し」だった。取材で「NHKです」と言うと「聴取料は先ごろ納めましたよ」と言われる時代だった。

NHKがニュースの自主取材を開始したのは敗戦後の昭和26年。どこの官庁でも記者クラブに入れて貰えず、先輩たちは苦労したようだ。そのあとの民報の加入には結構、意地悪したらしいが。

家は秋田の米作農家。しかし長男は地元秋田の新聞記者になったので、親は大學出の私に後継を期待した。折角の大學出、勿体無いとNHK生活を許してくれた。家は妹が婿を迎えて継いでくれた。

盛岡では県政を担当。参院選挙で社会党候補が勝つと予報。東京政治部では奇想天外な事だったらしく、すぐに政治部に発令。あの時も嬉しかった。もはや「通信員上がり」ではなくなっていた筈だからである.盛岡中の芸者が見送りに来た。誰とも寝ていないのに。

昭和40年日韓基本条約の批准案が衆院で強行採決。社会党の楢橋代議士のセンターベンツが自民党代議士に裂かれた。これほどまでに自社対決を招いた朝鮮半島とは何だろう。

1972年、日中国交回復の田中角栄総理に同行して北京を訪問した翌年、韓国の朴政権に招かれて38度線などを視察。それを理由にされて大阪に左遷。単身で3年を過ごした。

大阪には赴任しないと辞表を3度出したが受理されなかった。政治部長が告白したところでは「君の転勤は、田中総理の意向なのだ」。私がTVに出て喋る解説が田中政権の邪魔なのだと言う。受理されれば田中金脈をある雑誌で暴く計画が出来つつあった。

報道局長が「3年経ったら政治部に戻してやるから」と言ったので「そんな事は信じない。3年後にあなたはそこに坐っていない」と憎まれ口を利いた。

3年経ったところで大阪ではこのまま大阪人にする計画のあることを知り、自分で計略を立てて東京に戻った。しかし政治部ではなく国際放送局(ラジオジャパン)だった。

もはや40歳。このまま居てもNHKに自分の居場所は無い、と考えているところへかねた親しかった福田赳夫内閣の官房長官園田直さんから自宅に電話。「なべしゃん、秘書官やってくれんね」。

誰にも相談せずに承諾。国立(くにたち)の自宅からバスと電車を乗り継いで総理官邸に到着したら、内閣改造で園田さんはただ1人居残り、ただし外務大臣に横滑りしていた。私は行ったこともない外務省で大臣秘書官になっていた。

実は福田さんの任期切れが迫っていた。幹事長大平正芳さんとの密約(メモ)で任期は「2年」。既に1年しか残っていない。密約の福田側立会人は園田。園田の機嫌をとりながら密約を反故にするための外相への横滑りだった。

世間は密約なぞ関知せぬところ。これは田中、三木の両政権でも成就できなかった日中平和友好条約の締結を成さしめるための人事と解説した。なるほど、園田氏は官房長官当時から早期締結の主張者ではあった。

側近になって気付いた事実。園田氏は黒衣(くろこ=忍者)を官房長官当時から中国に放って、外務省ルートでは得られない中国中枢部の情報をつぶさに得ていたのである。それは確実にトウ小平氏につながっていた。北京の日本大使館にこのルートは存在しなかった。

この忍者は条約の締結調印まで北京を2年間で14往復した。その結果「園田さんが来てくれさえすれば条約は締結する」という言質を早くに得ていたのだ。なるほど北京到着の翌日、日本側主張のとおりに妥結した。

締結の後、北京の日本大使館では「あれは世界情勢の変化を反映したもので、園田さんの功績でもなんでもない」と偉そうなことを言う人がいたが、それなら「だからじっとしても締結は成る」と電報で進言してきたらよかった、ね。

外務省で園田さんは福田、大平、鈴木の3内閣の大臣を務めた。,鈴木内閣でははじめに厚生大臣も務め、中国残留孤児帰国問題に手をつけた。糖尿病患者80年来の念願だったインスリン自己注射を許可した。昔、初入閣で公害病認定の決断に並ぶ功績である。

秘書官を終えたところで園田さんが70歳で逝去。やがて元防衛庁長官栗原祐幸さんの世話で井上美由紀さん(当時アルバイトニュースの学生援護会社長)を紹介され、井上会長の下で社団法人日米文化振興会の理事長に就任した。改めて英会話を習い日米間を17年間往来した。

続いて私学を手広く世界に展開する創志学園理事長の要請で柔道整復師と鍼灸師などの養成専門学校日本健康医療専門学校の校長となり7年間務めたが、都合で2008年5月一杯で退任した。

気がつけば72になっていた。省みていろいろな方にお世話になりっぱなしの半生だった。有難う御座いました。サラリーマンの退職じゃないから退職金はなかった。18年住んだ毛利のマンションから7日に近くへ転居します。

2013年05月04日

◆私は高所恐怖「癖」?

渡部 亮次郎


厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる。こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ、怖がるのは正常な反応であるからだ。

私のは単に高いところが苦手というのだから「癖」だと思うが、高い所にいることを想像しただけで気が滅入るし、タマが上がるからやはり「症」ではないかな、と思ったりする。

不思議なことに飛行機に乗るのは全く怖くない。その昔、迫水久常氏は池田内閣の閣僚に任命された際、首相訪米に同行を求められた。

私、飛行機が嫌いですから・・・」と断るもならず、ワシントンまで一睡もせず、前座席の背も立たれに掴まって行った、と聴いた。

それに比べれば私のは「症」と「癖」の中間かもしれない。40を過ぎた頃、評論家の加瀬英明氏の案内でアメリカを旅行した。加瀬氏は私と同年。アメリカ留学経験者であるから贅沢な旅行だった。

ある日、某銀行のNY支店長から招待されてまだあった世界貿易センター最上階のレストランに出かけた。窓際の席である。特等席なそうな。

坐ってひょいと外を見たら目下をヘリが飛んで行く。それでもういけません。タマが上がって震えがきた。生まれて初めての経験。これが高所恐怖症と言う奴か。出されたムール貝を急いで掻きこみ帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう1皿どうぞ」といわれてぎゃふん。

自分が高所恐怖症患者であることを初めて知った旅だった。その後何度もアメリカへは旅をした。家人を案内してエンパイア・ステートビルへも仕方なく登ったが、屋上ではどうしても外壁近くに歩いてゆけずに笑われた。

今すんでいるアパートは20階建ての9階の一部だが、初めは怖かった。寝ていても滑り落ちてゆくような恐怖に駆られた。住んで十数年、おかしなことに、慣れたのか恐怖心は去った。

高所恐怖症は精神科医の手助けが必要な不安障害だそうだ。真性患者は高さ1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み、動けなくなってしまう。高所で作業している人間を見ただけで気分が悪くなる者もいるという。私もそうなる。

極端な例を挙げれば、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも怖いわけで、こういう「危険が目に見えている状況」で怖がるのは本能として当然のことである。

むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない方が病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」は怖いのではないかという説もある(実際、TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。<ウィキペディア>

北側の窓の先1Kmのところにある634mの「スカイツリー」が開業したが、私は誘われても昇らない。


2013年05月02日

◆光無き砂漠の静寂

渡部 亮次郎


試みに中東の沙漠に、深夜、独り、降り立ったことがある。勿論ネオンも街灯も無い。歌に歌う星も、本当は地球を照らしてはいないことを知った。本当の暗闇とはあの事。1978年1月のある深夜。

その夜は風も全く無かったので、耳をいくら澄ましても聞える音は何も無かった。どこから外敵に接近されようと関知する事は不可能だった。

つまり東京という都会に暮らしていれば、漆黒の闇と言う事はあり得ない。また全くの沈黙という名の静寂も求める事はできない。都会では何かしらの光が漏れ、どこからとも無く音が聞えてくる。

しかし中東の沙漠の夜には音も光も全く消えてしまうのだ。米のブッシュ大統領はこの事実を体験せずにアフガンやイラク攻めを命令したのだ。沙漠を知らずに攻め入った兵士たちの戸惑いが中東での米軍の苦戦を証明している。

光無く音さえ絶った沙漠。一旦、風が吹いたとなると、地上も空もすべてを遮る嵐と化すらしい。そこではいかに対処すべきか協議している暇は無い。首長の命令一下に従うしか命は無い。

音の全く無い暗闇の中。これ以上の孤独は無い。その時私はかつてロンドン郊外で体験した濃い、霧のことを思っていた。多分、牛乳の中に体ごと突っ込まれたら同じ思いをするかもしれない。真っ黒と真っ白の違いはあるが、何も見えないという点では共通だ。

日本であれほどの濃い霧を体験できる場所を知らない。早朝、いきなり霧に包まれ、前後左右、上下、乳白色一色.鼻をつねられても頭を殴られても誰にやられたか全く判らないだろう。

だから北ヨーロッパでは霧は犯罪とすぐ結びつく。迷宮入りした殺人事件の犯人は霧とされるらしい。

翻って中東の沙漠の暗闇の中で人々は何を考えるのだろうか。翌日サウジ政府差し回しの軍用ヘリコプターで油田の上空を飛んだら、耳をつんざく騒音の中でぐっすり眠っていた。

「テレビが五月蝿くて眠れない」と家族に文句を言うが、アレは嘘だ。人間、眠くなれば、飛んでいるヘリの中で眠られるのだから。

2013年05月01日

◆おやつの無い子供

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた年の翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―2)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。
    平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」


2013年04月29日

◆忘れられぬ文世光事件

渡部 亮次郎


文世光事件が起きた時、私はNHK大阪放送局でぶらぶらしていた。2006年の今から数えると39年前のこと。知らない人も多いだろう。

文世光事件(ムン・セグァンじけん)は1974(昭和49)年8月15日に元大韓民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修さんら2人が大阪から出掛けて行った在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)に射殺された事件である。

この日の韓国は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席していた。

事件当日、文は日本政府高官になりすまして国立劇場に入り、朴大統領が祝辞を読みあげている途中、壇上に向け何発か拳銃を撃った。が、元軍人の朴大統領は反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。

目標を失った文は大統領夫人の陸さんに向け4発撃った。 陸さんはその後病院に搬送され5時間40分にもおよぶ手術もむなしく、死去した。また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生1名も銃撃を受け、死亡した。

一報が報じられた途端、「あいつ、わいのだちこうや」とNHK出入りフィルム運搬会社の職員が叫んだ。何やて、そらまたどうしてや。身元の確認が警察よりも早かったわけで、NHKの特種となった。

このとき大阪府警の担当記者をしていたのが石岡荘十さんだった。交番でのピストル盗難事件のお宮入りで腐っている矢先だった。

もともと、朝鮮半島の赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。その後朝鮮総連の支援を受けながら、用意を着々と進めて(大阪府内の派出所で拳銃を盗んだり、韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成した)8月6日、韓国に入国した。

一方の朴大統領は、1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹フ善を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、国民の反対の声がありながらも日本との国交を回復(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)。

またベトナム戦争への派兵も決定するが、西ドイツへ労働者を派遣やその給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結やベトナム派兵により有償・無償の資金供与を日米等から受ける様になる。

内政においては典型的な開発独裁で、国家主導で産業育成をはかるべく財閥、国策企業を通じ、重工業にカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに浦項製鉄所がある。

この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げたものの農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。

政治的なスローガンとしては「維新体制」を標榜したが、開発独裁といわれる朴正煕の経済開発手法は彼が実際に見聞した満州国における政府主導の重工業化からヒントを得ているとする分析がある。

また、数次にわたる5カ年計画方式は、北朝鮮の計画経済をモデルにしているといわれ、必要と思えばイデオロギーに関係なく何でも取り入れる現実主義的柔軟性は注目される。

こうした実績を見れば、共産主義体制による韓国併呑を企図している北朝鮮の焦燥感、反朴感情の高まりは当然だったから、事件の陰の北朝鮮の存在は疑われた。

それを裏付けるかの如く1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。

(この襲撃未遂事件で犯人側の唯一の生き残りにKCIAで1973年にインタビューした話は以前、書いた)。

一方、国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていたが、1974年8月15日、日本統治から「解放」されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受けたのだった。

この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し日本警察から強奪したものであったこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪に陥った。理由は、朝鮮総連が関連している事件であるのは韓国側の捜査で明白だったのに対し、日本側は総連の関与はないという姿勢を見せた事、文が所持していた拳銃が大阪の派出所より盗まれた物であった事に因る。

謝罪のない日本側(田中角栄総理)に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。 その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前までいった。

しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、最悪の事態はまぬがれた。 なお、日本を「赤化(共産化)工作基地」とみなす認識は、韓国人にとってしばしば反日感情を正当化する根拠の一つでありつづけた。今では想像もつかないだろう。

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、1審、2審、終審の全てで死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日、ソウル拘置所で処刑された。

朴大統領自身は、釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。遺体は国葬となり、現在、国立墓地、顕忠院に葬られている。葬儀には岸信介元総理が政府代表として参列した。このとき私はNHKを退職し、外務大臣秘書官だった。


2013年04月28日

◆ゴールデンウィークへの誤解

渡部 亮次郎


町医者の看板なんかに、休診日は「祝祭日」と書いてあるのが目立つのだが、「祭日」とは戦前の話であり、今は国民と祭日は無関係になったのだ。「国民の祝日」しかない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、祝祭日(しゅくさいじつ)とは、第2次世界大戦(大東亜戦争)以前の日本において行われていた祝日と大祭日の総称で、正式には祝日大祭日と言った。

明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)によって定められていた。

1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祭日は全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。現行の国民の祝日のことを「祝祭日」と呼ぶのは誤用である。つまり「国民の祝日」はあるが「祭日」は存在しない。

むかしの祝祭日一覧。

1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。

「祝日」
四方拝(新年) - 1月1日
紀元節 - 2月11日
天長節 - 4月29日
明治節(明治時代には天長節) - 11月3日
新年宴会 - 1月5日

このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)という。

「大祭日」にはどんなものがあったのか。

元始祭 -   1月3日
春季皇霊祭 - 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 - 4月3日
秋季皇霊祭 - 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 -   10月17日
新嘗祭 -   11月23日
大正天皇祭 - 12月25日

今の法律では春分の日と秋分の日しか残っていない。昭和11年1月生まれの私には春季皇霊祭と秋季皇霊祭の言葉が耳に残っている。こうした記憶を基に考えると、祝日をずいぶん増やしたものだなぁと思う。

NHKのアナウンサーは、いわゆる団塊の世代がぼちぼち定年退職して「ラジオ深夜便」に移行しているが、彼らとて「ゴールデンウィーク」が昔からあったようなことをのたまうからやりきれない。

調べてみると憲法記念日(5月3日)もこどもの日(5日)も昭和24年(1949年}から始まった。当時の天皇誕生日(4月29)にメーデー(5月1日)を休日扱いに無理にしてみてもゴールデンにはならなかった。まだ土曜日は「半ドン」で休日ではなかったからだ。

その後、5月4日を無理無理、「国民の休日」なんて、休みたいための国民の祝日にしたり、昭和天皇誕生日を昭和の日としてのこしたりしてとうとうゴールデンウィークに仕立て上げたのは平成に入ってからだ。

その後の経過と現状。

祝日法改正「ハッピーマンデー」〜平成12年から3連休増加〜

成人の日(1月15日)と体育の日(10月10日)をそれぞれ各月の第2月曜日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(通称・ハッピーマンデー法)が、平成10年10月21日に公布され、平成12年(2,000年)1月1日から施行されました。

改正祝日法(祝日3連休化法)と改正老人福祉法〜平成15年から3連休増加〜

海の日(7月20日)と敬老の日(9月15日)をそれぞれ各月の第3月曜日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律が、平成13年6月15日に可決成立、同6月22日官報で発表されました。

4月29日の「みどりの日」を「昭和の日」に、5月4日の「国民の休日」を「みどりの日」の祝日に変更。平成17年5月13日に可決成立。同5月20日官報で発表されました。平成19(2007)年から施行。

祝日

 1月 1日 元日  
 1月 第2月曜日 成人の日 満20才になった青年男女を励まし祝福する日
 2月11日 建国記念の日 国を記念する日 紀元節(1966年制定)
 3月232日頃 春分の日 注)暦により変動する。
 4月29日 みどりの日
  ↓
昭和の日(2007年から。昭和天皇の誕生日)
 5月3日 憲法記念日 日本国憲法が施行記念日(1947年)
 5月4日  みどりの日2007年から。 この日は祝日でなく休日で、日曜日の場合振替はされませんでした が、2007年から。祝日となりました。

 5月 5日 こどもの日  
 7月 第3月曜日 海の日 海や自然に感謝する日(1996年制定)平成15年より第3月曜日になりました
 9月 第3月曜日 敬老の日 老人を敬う祝日(1966年制定)  平成15年より第3月曜日になりました

 9月23日頃 秋分の日 注)暦により変動する。
 10月 第2月曜日 体育の日 東京オリンピック(1964)開会の記念日(1966年制定)
 
11月3日 文化の日 新憲法公布を記念し、日本の平和と文化の発展を祝う日

 11月23日 勤労感謝の日 勤労を尊び、生産を祝い、国民が互に感謝しあう日

12月23日 天皇誕生日 現在の天皇、今上天皇(きんじょうてんのう) の誕生日
(了)

2013年04月27日

◆私は高所恐怖「癖」?

渡部 亮次郎


厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる。こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ、怖がるのは正常な反応であるからだ。

私のは単に高いところが苦手というのだから「癖」だと思うが、高い所にいることを想像しただけで気が滅入るし、タマが上がるからやはり「症」ではないかな、と思ったりする。

不思議なことに飛行機に乗るのは全く怖くない。その昔、迫水久常氏は池田内閣の閣僚に任命された際、首相訪米に同行を求められた。

私、飛行機が嫌いですから・・・」と断るもならず、ワシントンまで一睡もせず、前座席の背も立たれに掴まって行った、と聴いた。

それに比べれば私のは「症」と「癖」の中間かもしれない。40を過ぎた頃、評論家の加瀬英明氏の案内でアメリカを旅行した。加瀬氏は私と同年。アメリカ留学経験者であるから贅沢な旅行だった。

ある日、某銀行のNY支店長から招待されてまだあった世界貿易センター最上階のレストランに出かけた。窓際の席である。特等席なそうな。

坐ってひょいと外を見たら目下をヘリが飛んで行く。それでもういけません。タマが上がって震えがきた。生まれて初めての経験。これが高所恐怖症と言う奴か。出されたムール貝を急いで掻きこみ帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう1皿どうぞ」といわれてぎゃふん。

自分が高所恐怖症患者であることを初めて知った旅だった。その後何度もアメリカへは旅をした。家人を案内してエンパイア・ステートビルへも仕方なく登ったが、屋上ではどうしても外壁近くに歩いてゆけずに笑われた。

今すんでいるアパートは20階建ての9階の一部だが、初めは怖かった。寝ていても滑り落ちてゆくような恐怖に駆られた。住んで十数年、おかしなことに、慣れたのか恐怖心は去った。

高所恐怖症は精神科医の手助けが必要な不安障害だそうだ。真性患者は高さ1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み、動けなくなってしまう。高所で作業している人間を見ただけで気分が悪くなる者もいるという。私もそうなる。

極端な例を挙げれば、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも怖いわけで、こういう「危険が目に見えている状況」で怖がるのは本能として当然のことである。

むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない方が病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」は怖いのではないかという説もある(実際、TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。<ウィキペディア>

北側の窓の先1Kmのところにある634mの「スカイツリー」が開業したが、私は誘われても昇らない。


2013年04月23日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相について日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hardwater がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変えて定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。助けてくれた若い友人はその後、脳梗塞で急死した。何たる皮肉。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

2013年04月21日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから35年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったの
である。

あれから35年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。

(文中敬称略)2013・4・19


2013年04月20日

◆キャベツが大好物

渡部 亮次郎


野菜で何が好きかと聞かれたらキャベツと答えるが、実は生のキャベツを初めて食べたのは学生食堂であった。生まれた秋田の農村にもキャベツはもちろん生えてはいたが、多分回虫がいたから母はすべて煮るか炒めるか茹でて食べさしてくれた。

日本の野菜に回虫がなくなったのは昭和20年夏の敗戦からさらにしばらく経ってからの事だ。昭和29(1954)年の学食では生のキャベツが無料だったような気がする。

しかし、その頃はキャベツを生では食べられなかった。社会に出て生の野菜サラダを食べるようになって、レタスよりも生だったらキャベツのほうに味があるように思えて食べるようになった。しかし、幼少の頃食べたことの無かったソースは今も苦手。

例の向島(むこうじま)の洋食屋でハンバーグにキャベツを添えてもらうと家人やその兄姉たちのすべてが野菜を食べないから、4-5人分のキャベツが私のところに集中。それを私は醤油をちょっぴり掛けて平らげる。焼酎の肴もキャベツになる。

キャベツ料理としてほかに好きなものはロールキャベツとか油炒め。

キャベツ Cabbage 食用、飼料用として温帯地域でひろく栽培されている2年生のアブラナ科の野菜。普通のキャベツの他に類縁のものとしてメキャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、ケール、コールラビなどがある。

どれもヨーロッパ沿岸地域に自生する野生のキャベツから作り出されたものと見られる。

キャベツはフランス語で「大きな頭」という意味の「カボシュ」から来た名で、大きな葉が球状に密集し、茎が短く、さらに食用になる葉がある。

葉は種によって長楕円形、楕円形、ほぼ円形などがあり、大きさは約30cmで、色は緑、紫、赤などがある。チリメンキャベツのようにしわのあるものと、なめらかなものがある。世界の各地域でいろいろな品種が栽培されている。

日本へは、江戸時代に結球しないキャベツが入って来ているが、結球キャベツが導入されたのは1868年(明治元)で、北海道、東北、東京で栽培が始まった。明治末期以降、日本独自の品種がつくりだされ、西洋野菜の代表種となっている。

2013年04月17日

◆ミネソタの卵売り

渡部 亮次郎


昭和26(1951)年2月発売のレコードに「ミネソタの卵売り」という割に流行した歌謡曲があった。41歳の若さで死ぬ事になる暁テル子が元気に唄った。東京浅草生まれ。SSK(松竹少女歌劇団)出身。佐伯孝夫作詞、利根一郎作曲である。

「コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 人気者 つやつや生みたて 買わないか 卵に黄身と 白味がなけりゃ お代は要らないコッコッコッコッ コケッコ」(2番省略)

悪い事に後年、NHK記者から園田直外務大臣の秘書官になったとき、その「ミネソタ」に出張するよう用事ができた。米国ミネソタ州の「ミネアポリス」にあるミネソタ大学である。

そこで大学関係者に確かめてみたが、何方も???

ミネソタが卵の特産地と言う事は無いとの結論だった。その後、どこかで作詞の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへ卵売りが来たので、この唄ができたという放送を聞いたような気がする。

暇にあかせて本をひっくり返したり、インターネットを暫く逍遥してみたが、いまのところ「確証」はつかめない。「卵とミネソタはなぜ結びついたか」お教えを乞う。

3番

コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 美人です皆さん卵を 食べなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩までコッコッコッコッ コケッコ

序に卵の豆知泉 。

国民1人当たりもっとも卵を食べるのはイスラエル人。

ちなみに日本人が1年間に食べる卵の量は313個平均。1週間に6個食べている計算になる。

東京ではLサイズ・Mサイズがよく売れる。名古屋では小さめのMサイズとMSサイズがよく売れる。大阪では圧倒的にLサイズがよく売れる。

日本以外では、生卵をそのまま食べるということはあまりしない。


生卵をごはんに掛けて食べた元祖は東京日日新聞(毎日新聞)編集長の岸田吟行。円筒状の容器を持歩き、そこに卵を割り入れシェイクした物を、洋皿に盛ったライスにかけて食べた。つまり明治10年頃に日本で考案された洋食の一種だった。

目玉焼きで白身は65℃ぐらいで固まり始まり、黄身は70℃でゲル状、73℃で半熟になる。

卵の黄身の色が濃いと栄養価がありそうな気がするが、それは間違い。与えるエサによっていくらでも濃い色を出すことができる。

卵の丸い方に針で3ヶ所くらい穴をあけてゆでると、不思議な事に黄身は真ん中に落ち着く。

卵は尖った方を下にしておくと長持ちする。

ニワトリの卵には殻が白いものと赤いものがある。一般的には白が普通で、赤い卵は栄養素が多く含まれていると思われているが、実際は両者に差はない。この色の差はニワトリの品種の違いが原因。

産卵用のニワトリとして知られている白色レグホンが産むのは白い卵。それに対して赤い卵を産むのはハーバードコメットを始めとしていくつか種類がいる。

実はそれ以外にアローカナと言うニワトリは青い卵を産む。この色付の卵を産む理由は、野生だったニワトリが外的から卵を守るためのカモフラージュだったと言われている。

ファイト一発!? それは江戸時代からあった商売ですが、江戸時代に玉子売りが出現するのは多くは吉原などの遊郭でした。

と言うのも、卵は精力増強に役に立つ、それも即効性があると信じられていた為に、遊郭で頑張るぞ!?と言う人々が買い求めたのです。当時の川柳などを見ても、奥さんが旦那にむりやり生卵を飲ませると言う話がいくつか残されています。《玉子割って飲ます女房の下心》《もう一つお吸いねぇと生玉子》

2つ目の川柳などは1つでは足りず、2つ飲ませればいつもの倍の働きをするのではないか?と言う女房のたくらみが描かれていたりするのです。

この「生卵=即効性の精力増強」と言う考えは江戸時代の中期に出てきた俗説で、現代でも信じている人も多いものです。しかし実際に医学的に考えると、そのような即効性の精力増強剤としての効能はほとんどありません。

温泉卵

白身が半熟、黄身が固まっている温泉卵を作るのは意外に簡単。白身は70度で固まり、黄身は60度で固まる性質を持っているので、65度程度のお湯に漬けておけば簡単に作れます。

酒を飲む前の生卵

酒を飲む前に生卵を飲んでおくと酔いの回りが遅くなります。

これは卵の黄身に多量の脂肪分が含まれている為で、胃の中で脂肪に解けたアルコールは吸収されにくくなる為です。

鳥の卵は、もともとは白くてまん丸だった物が、次第に現在のような「卵形」と呼ばれる形に変わったものといわれます。これは親鳥が卵を抱いて温める際、誤って転がしても、そのまま転がっていかずに卵は軸を中心に回転して、自然に元の位置に戻ってくるようになっていると言うのです。同じ鳥でも、その産卵条件によって形が違って来ます。

ウミガラス?やペンギンなどのように、断崖や岩の上に産卵する種類の鳥ほど、その卵の一方の端がとがり、反対にフクロウなどの卵は木の穴に産卵する鳥は、落とす心配がなく球形だといわれています。

この地球上でもっともたくさんの卵を産むのは、魚のマンボウ。1度の産卵で3億程の卵を産むが、もともと体の弱い魚で、成魚になるのはその中で2、3匹と言う少ない数なので、海がマンボウで埋まるという事はない。和泉Wikiによる。