2019年12月09日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2019年12月05日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州
夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支
那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出
てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたの
で、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く
機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番
組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺は
ま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育
ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和
国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝
や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼
称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみな
される場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華
民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称を
めぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省
は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に
「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるよ
うになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という
言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取っ
て代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化
している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、
これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事
変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が
学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間で
は特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、
自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権
の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いら
れた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「か
ら、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでか
らは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にあ
る中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支
那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」
「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に
「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来
の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から
取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、
それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする
主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと
同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、
「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われること
もあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるとい
う感覚が生じた。2009・07・16

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2019年12月04日

◆「三猿」中国特派員 

    渡部亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを
自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、
二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特
派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と中国へは行けなくなる。国内で翻訳係で一生を終わる事にな
りかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシ
の食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足許を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



◆「葱」知らずで不合格

渡部亮次郎


葱知らずで不合格は石原慎太郎の息子良純。家人の見ている民放のクイズ
番組で勝ち抜き、最終、「ネギ」を漢字で書けと言われて書けなくて海外
旅行をのがした。

そういいえば、まだ子供のころ笠置シヅ子の歌う「買い物ブギ」(作詞、
作曲服部良一)で「東京ねぎ」というフレーズがあって、ねぎに品種がい
ろいろあることを知らないものだから不思議に思っていた。

長じて大阪に左遷されたら関西では葱の白いところじゃ無しに青いところ
しか食べない。だから白い部分の長い葱は東京葱、と知った。

ネギ(葱)の英名はScallion。植物分類体系ではネギ科ネギ属。原産地は
中国西部・中央アジアとする植物。日本では食用などに栽培される。

ネギは「シボル」とも呼ばれ、古名は「き」という。別名の「ひともじぐ
さ」は「き」の一文字で表されるからとも、枝分れした形が「人」の字に
似ているからとも言う。

ネギの花は坊主頭を連想させるため「葱坊主」(ねぎぼうず)と呼ばれ
る。萌葱色(もえぎいろ)は葱の若芽のような黄色を帯びた緑色のことで
ある。

日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられ
る他、鍋料理に欠かせない食材のひとつ。硫化アリルを成分とする特有の
辛味と匂いを持つ。

料理の脇役として扱われる事が一般的だが、青ネギはねぎ焼きなど、白ネ
ギはスープなどで主食材としても扱われる。ネギの茎は下にある根から上
1cmまでで、そこから上全部は葉である。だから食材に用いられる白い部
分も青い部分も全て葉である。

関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれる。一方、関
東以北では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味
が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれる。また秋田など東北地方で
は「曲がりねぎ」という栽培法もある。

関東と同様に土を盛上げながらある程度育てたら、一度抜いて横向きに植
え直し、植物の光に向かって伸びる性質を利用して曲げる。これは、地下
水位が高い土地で効率よく白葱をつくる方法だと言われる。ただし、栽培
に手間がかかるため、作付面積は減少している。

欧米ではチャイブ、リーキなどが栽培されている。

古くから薬効成分が含まれている植物と知られていた。痰や鼻水を押さえ
る作用があるようで、風邪をひいた時に、ネギをくるんだ手拭やガーゼな
どを首に巻くというものは有名な民間療法である。 お尻に刺しても効果
があると言われるが効果の程は不明である。

病虫害の予防効果を狙って、しばしばユウガオ、トマト、ナス、ホウレン
ソウなどの畑に混植される(→ コンパニオンプランツ)。

ネギの種類
<青葱>
九条葱(京野菜)
万能葱
谷田部ネギ
観音ネギ
ワケネギ(わけねぎ) 株分れ(分けつ)しながら成長する葉ねぎ

<白葱>
深谷ねぎ(埼玉県)
下仁田ネギ(太く短い)
ポロねぎ 地中海料理などで普通に使われるネギ。
曲がりねぎ(白葱)
一関曲がりねぎ(岩手県一関市)
仙台曲がりねぎ(宮城県仙台市)
横沢曲がりねぎ(秋田県大仙市)
阿久津曲りねぎ(福島県郡山市)
その他
越津ネギ 愛知県発祥。日本の東西の中間だけあり、根の部分も葉の部分
も丁度同じぐらいの長さで、白葱と青葱の中間にあたる。
徳田ねぎ 岐阜県特産。白葱と青葱の両方の特徴を持つ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

2019年12月03日

◆「チョロ」の国家機密

渡部亮次郎


日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうこ
とか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘
口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話
だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月
前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦
争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により
総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に
破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な
声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前は
NHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘
われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等と
はとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に
遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の
総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ライ
ンとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかった
のだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を
遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろう
と春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領
は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパー
トを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の
身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察
官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並
ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。
ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備
のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれ
た。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔う
たびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが
大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本
条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に
充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行って
いない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大
拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは
国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭
KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行わ
れ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下
野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会
長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国側と
りなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメ
ルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそう
だ。(文中敬称略)2007・07・31 


2019年12月01日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野
一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議
員、防衛大臣河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都でる・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05

追記:中曽根さんは11月29日逝去された。享年101.

2019年11月29日

◆「中曽根君を除名する!」

                        渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員
河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05

追記:中曽根さんは29日逝去された。享年101.



◆「しょっつる」は苦手?

渡部 亮次郎


「しょっつる」は秋田の冬を代表する名物鍋。標準語でいえば「塩汁」。
秋田弁では「汁」が「つゆ」になり「つる」に訛る。ただし私の生まれた
旧八郎潟沿岸では材料の海魚が獲れないから「しょっつる」は造らない。

だから、おかしな事に秋田生まれの私が「しょっつる」を初めて食べたの
は40歳を過ぎてから、秋田市川反(かわばた)の料亭だった。もう塩辛も食
べられるようになっていたから結構、「美味い」と思った。

「しょっつる」の「汁」だけは瓶詰めで東京・日本橋「三越」でも売って
いて、向島(下町)生まれの家人が好物のようで、冬になると「東京しょっ
つる鍋」を食べる。秋田では名物ハタハタを使うが、無い時は適当な魚を
入れる。

「しょっつる」は秋田の冬の名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在
作られている「しょっつる」はハタハタに限らず色々な魚で作られてい
る。ハタハタ料理にも付き物。

一般的にはハタハタもしくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る
「しょっつる鍋」が有名。「きりたんぽ鍋」など、他の料理の味付けにも
用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。

創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味
として)などの工夫も見られる。

しょっつる=魚醤は魚を塩とともに漬け込み、自己消化、好気性細菌の働
きで発酵させて出た液体成分が魚醤。黄褐色〜赤褐色、暗褐色の液体である。

熟成により、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分
解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚な
うま味を有しており、料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働き
が強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。

日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤
は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、
いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用
されている。

主なものでは、秋田で「しょっつる」(塩汁)のほか、能登で「いしる」
(魚汁)、香川で「いかなご醤油」が製造され、地元を中心に使用されて
いる。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発さ
れ、商品が製造販売されている。

そのひとつに「ほっけ醤油」がある。北海道・寿都(すっつ)町 北海道
日本海、寿都名産のほっけを塩漬けにし、じっくり自然発酵させた天然発
酵・本醸造の調味料(魚醤)。

ほっけ醤油「寿都のだし風」は地元商工会・寿都水産加工業組合所属メー
カーで組織する寿都魚醤醸造委員会が立ち上げ、製造販売している。ほっ
け醤油を使った各種一夜干しなども販売。また、伊豆諸島でくさやを製造
する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。

アジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、日本、中国なども含め、いく
つかの文化圏で用いられており、特にタイをはじめとする東南アジアで
は、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いら
れる。また、これらの文化圏の中には、なれずしを作る伝統を残している
地域もある。

東南アジアでは、タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマム
とも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス(patis)、
カンボジアのトゥック・トレイ、ラオスのナンパー(nam paa)、ミャン
マーのンガンピャーイェー(ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・
イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロ
ウ)も地元で広く使われている。

これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州で?露
(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の
「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。


歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれ
る魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペー
ストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われて
いた痕跡である。

ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっている
が、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚
醤をさす言葉であるとする説が有力である。

もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにした
り、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚
をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。

基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレ
などを、アンチョビなど利用価値の低い小型の魚の場合には、丸ごとを用
いる場合が多い。

原則として、魚を大量の塩とともに漬け込み、そのまま数ヶ月以上発酵さ
せる。熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進
んだものを、漉して用いる。

熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いも
のから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚
と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調え
るものもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・11


2019年11月28日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年11月27日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎


5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモ
チーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、
1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的
な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでい
たのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心
は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京
都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、
終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に
母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間で
あったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合う
かたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学
派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を
病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこし
たことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、
八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその
冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材と
なった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用して
いる。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信
濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の
姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家
庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代
の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、
立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られて
いる。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、
信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載さ
れたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リ
ルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病
床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自
分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについ
ての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのな
かで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的
名作となっている。
昭和28( 195年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去
(満48歳没)2010・5・26
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年11月26日

◆「国策捜査」ってなんだ

渡部 亮次郎


<小沢氏、続投表明 民主党緊急役員会

民主党は4日午前、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反容
疑で逮捕されたことを受け、緊急役員会を開き、小沢代表が経緯を説明し
た。出席者によると、小沢氏は「この時期になってこんなことになって申
し訳ない。しかし、政治資金規正法にのっとって適切に処理している」と
述べ、代表職を辞任しない意向を示した。

小沢氏は緊急役員会終了後、記者会見し、事実関係や役員会の結論につい
て説明。小沢氏は、秘書の逮捕容疑となった西松建設OBが代表を務めて
いた政治団体からの献金に関し「適切に処理している」と違法性を一貫し
て否定。同氏や鳩山由紀夫幹事長らによる3日の幹部会では、党として献
金の正当性を訴えていくことを確認した。

事件が野党第一党党首の秘書逮捕という異例の展開となったことに対し、
民主党内では「国策捜査」と政府・与党に反発する声が上がっている。執
行部には、小沢氏の進退問題に発展する事態は避けたいとする空気が強
い>。 3月4日9時53分配信 産経新聞

「国策捜査」と言う言葉は「鈴木宗男事件」の際、東京地検に逮捕された
外務省元主任分析官・佐藤優の著書『国家の罠』で主張されたもの。

ここから、政府の政治的意図によって行われたものだと関係当事者等が主
張する刑事事件の捜査のこと。

佐藤優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社(原著
2005-03-26)。ISBN 9784104752010。この書の文庫版P365-367によれば、
佐藤氏の取調べに当った西村検事は、逮捕後3日目の時点で「本件は国策
捜査だ」と明言、「我々と闘っても無駄だ」と言う事を理解させようとした。

西村検事の弁。「これは国策捜査なんだから、あなたが捕まった理由は簡
単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけ
じめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、なにか象徴
的な事件を作り出してそれを断罪するのです」

「見事僕はそれに当ってしまったわけだ」

「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」

「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行なわれてき
た,否、それよりも評価されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」

「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下ってくるんだ」

「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」

「しかし、法律は元々ある。その適用基準が変わって来るんだ。特に政治
家に対する国策捜査は、近年驚くほど下ってきているんだ。

一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかっ
た。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下ってい
くんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳
しくなっている。時代の変化としか言えない」

「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショウと週刊誌
の論調で事件が出来ていくことになるよ」

「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」

以上のような方針が東京地検の時代認識ならば小沢氏の判断は甘かったと
言うべきだろう。

東京地方検察庁特別捜査部は特定のマスコミにリークしながら、大きく注
目を集める人物を小さい犯罪でも逮捕することにより世論、ひいては国家
全体を「彼等自身が考える、あるべき姿に直す」という目的で捜査してい
るとされる。

最近では特捜部の捜査手法が社会秩序の安定を目的に、一罰百戒を狙った
逮捕に重きを置くものになっているという指摘もごく一部でなされる。

私が参考人として東京地検特捜部で事情聴取を受けた昨年の防衛省不正事
件も目論見は国策捜査に見えたが、結局は見込み違い。単なる個人の脱税
事件で終わった。

今回の小沢事件は完全な国策捜査だが、検察は確実な証拠を握って居るは
ずで、小沢氏の見込みは甘い。

関係当事者により国策捜査だと主張される例としては他に以下のようなも
のがある。

造船疑獄の指揮権発動

三井環逮捕事件

ライブドア事件における堀江貴文逮捕

日歯連闇献金事件における村岡兼造起訴

構造計算書偽造問題

いわゆるムネオハウス事件における鈴木宗男逮捕
佐藤優起訴

石橋産業手形詐欺事件における田中森一起訴

植草一秀逮捕(りそな銀行国有化の裏側を研究していた)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
09・03・04

2019年11月25日

◆「味の素」発明は108年前

渡部亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特
許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明
家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を
豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無
かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝
国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学
の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような
応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」
の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できる
のではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸
ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第
14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108
年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料と
して広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており
食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の
食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、
池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京
帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注
ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研
究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代
目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手
を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工
業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味
の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。
大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を
開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統
制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法
へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門
を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工
食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨ
ネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,イン
スタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部
門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開
始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高
比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れてい
る。>世界大百科事典  2008・07・27

2019年11月24日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園
田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長
のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の
11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53
歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日で
あった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の
始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された
「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25
号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見ら
れ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員
立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を
「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日
本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して
推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目
を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された
熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記
念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しない
と言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたと
いう事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したの
である。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法
改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛
する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条
に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとす
るときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければな
らない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、
総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、
「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出さ
れた。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日とな
る日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当
に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかっ
た事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策へ
の「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良
さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そ
うした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬
称略)2008・2・10