2019年06月02日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ
り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町
の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ
て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。
もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。
1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い
のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品
で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年
10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの
である。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも
歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し
い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード
は大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた
青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については
「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発
表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、
小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっ
ているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校
の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等
女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学
校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立
横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田
文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸
軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、
「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド
ラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中
央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生
活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞
記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ
たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の
ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手
俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か
らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ
ソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎
、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン
ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太
郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新
文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で
したが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を
渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」
という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前
で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー
ドを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳
 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は
1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳
優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が
終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以
内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に
よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ
ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され
た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。
家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日
があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな
がらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い
出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に
誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山
脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入
社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆


              

2019年06月01日

◆敗訴していた創価学会

渡部 亮次郎


公明党が初めて衆議院に進出した時から、委員長を20年近く務めたのは国
鉄マン出身の創価学会員 竹入義勝氏。政界引退後の1996年、天皇陛下か
ら勲1等旭日大綬章を受けたのをきっかけに創価学会から糾弾されるよう
になった。

叙勲を機に朝日新聞の要請に応えて連載した「回顧録」で公明党と創価学
会の関係は「政」「教」一致であったことを赤裸々に暴露したことが創価
学会・公明党の逆鱗に触れた。

以来10年間、創価学会は機関紙「聖教新聞」で非難し続けた末、2006年5
月19日、公明党は「内部調査により、竹入が公明党委員長在職中の1986年
7月に自分の妻へ送った指輪の購入代金を公明党の会計から支出し着服横
領した」として、総額550万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁
判所に起こした。

翌日には、創価学会の機関紙『聖教新聞』において提訴が大々的に報道さ
れ、提訴後も同紙には折に触れて横領を非難する記事が掲載された。

しかし2008年3月18日、東京地裁は「党の会計から私的流用したとは認め
られない」として請求を棄却。判決文では「横領したという当時は衆参同
日選の最中で、党トップの竹入氏が秘書や警護官もともなわずにデパート
で夫婦そろって高価な指輪を購入するのは不自然」と指摘。

その上で、購入した指輪の具体的な種類や形状が特定されていないことな
どを理由に、流用の事実は認められないとした。公明党側は即日、東京高
等裁判所に控訴した。

2008年12月4日に「互いを誹謗中傷せず、竹入が遺憾の意を表明した場合
は党側が控訴を取り下げる」との条件で和解が成立した。
学会側の事実上の敗訴であった。

この事件について、創価学会の機関紙『聖教新聞』は、着服横領事件を複
数回報道していたが、判決後も竹入との和解条項の全容は公表していない。

しかも一般のメディアも一切報じていない。この事実を明らかにしている
のは「ウィキペディア」だけである。それだけマスコミはいまや創価学
会・公明党に、広告料、コマーシャル料を通じて支配されている事を証明
している。NHKも聴取料不払いで脅されればひとたまりも無い。

創価学会・公明党は後継委員長だった矢野絢也氏苛めも何年も前から開
始。公明党元国会議員らが矢野氏の自宅に上がりこんで手帳を持ち去った
などの奇怪な出来事を巡り訴訟の応酬となった。

2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人
が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報
じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社および同誌編集長
と、記事に実名でコメントを寄せた矢野らを訴えた。

この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、講談社と
矢野の行為が名誉毀損に当たるとして同社と矢野に総額660万円(内330万
円につき矢野と連帯)の損害賠償金の支払いと、同社側、矢野それぞれに
謝罪広告の掲載を命じる判決を言い渡した。

同裁判には、矢野が3人に対して自身の手帳の返還を求める訴訟も併合さ
れていたが、同判決は「被告矢野は、原告らの求めに応じ、自らの意思に
基づき、本件手帖等を交付し、被告矢野宅内を案内したことが認められ」
と請求を棄却。矢野は上告した。

2009年9月1日、最高裁判所第3小法廷は、週刊現代による伏木・大川・黒
柳3人への名誉毀損は認めず逆に矢野のプライバシーの侵害である旨の主
張を認め、持ち去った手帳の返却と300万円支払いを3人に命令した東京高
等裁判所判決を支持、上告を受理しない決定を下した。これもマスコミは
報道していない。

創価学会は2度までも裁判に敗れてしまった。しかもマスコミはそれを報
道しない。

「週刊文春」2009・10・1によると、
<秋谷栄之助会長の時代は、創価学会は矢野氏との関係を上手にコント
ロールしていた。「ところが数年前、体調を崩し入院していた池田大作名
誉会長が退院後、自分が不在でも問題なく組織が運営されていたことで、
秋谷氏を遠ざけるように。

そして池田氏に追従する幹部たちが矢野問題を荒立て手てからおかしく
なった(学会幹部)。

秋谷氏は06年に会長を解任された。「後任の原田稔会長は選挙実務に疎
く、実質的に池田氏が采配している」(同前)が、公明党の比例区の得票数
は、秋谷会長時代の05年衆院選(898万票)をピークに凋落の一途。衆院
選の惨敗は「池田神話」の崩壊とも言えるのだ。

そこへ創価学会が「仏敵」としてきた矢野元委員長への叙勲を民主党の有
力議員が、内閣府に働きかけていることが明らかになった。

「仏罰論」の矛先は、今や創価学会・公明党自身に向かいかねない雲行き
となっている>。出典「ウィキペディア」2009・09・09・26

2019年05月31日

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止、10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における
田中総理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったと
か、青菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから
大学出は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった
話。周恩来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中国
製?」と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレト
ルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品の
具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品自
給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28


2019年05月30日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きた
ようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かさ
れた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も
「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に
身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事
(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように
見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少
なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけ
たのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能に
し、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひ
とたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)
時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。
稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団よ
り吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く
冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿
岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の
原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生
する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を
進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少
や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生
した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行っ
た。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配
を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。
ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、
日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称で
ある。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になる
こともある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では
元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く
吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜
が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地
方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達す
る回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆
地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響
を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないため
ビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため
晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、
収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候で
あったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのた
め、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が
東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・
京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱
した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に
弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱
くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品
種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、
「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どこ
ろに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が
発表するまで報じないだろう。2009・08・18
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2019年05月29日

◆08年の帰化許可者は86%

渡部 亮次郎


居住外国人に地方参政権を付与すべきか否かを巡って、これらの人たちに
日本人への帰化を簡略にすべきでは無いかとの論が起きている。

日本の法務省は、帰化許可数を年間7,000人に抑えていた一時期があった
から、帰化は極めて困難との誤解が生じた。いわゆる「純血主義」の意識
が残っていたからだ。しかし、現在では申請者の90%近くが許可されている。

国籍法(昭和25年法律147号)では、帰化を許可する権限は法務大臣にあ
り、普通帰化、特別帰化(簡易帰化)、大帰化の3種類(この区分名はい
ずれも通称)が認められている。

帰化を望む者は各地の法務局(一部の支局、全ての出張所を除く)又は地
方法務局(前同)へ帰化の申請手続を行う。許否の結果が出るまでの期間
は個々人で異なるがおおむね1年半程度を要するとされる。

帰化申請の内容が認められた場合は、法務大臣による許可行為として官報
に日本国内の現住所・帰化前の氏名・生年月日(元号表記)が告示(掲
載)され、告示の日からその効力を生じることとなる。

告示における氏名表記に外国文字(アルファベット・ハングル等)は用い
られず、すべて日本語(漢字・平仮名・片仮名)に置き換えて表記される。

過去においては、当該告示には帰化前の氏名に加え帰化後の日本名(帰化
前に日本的通称名を複数使用していた者についてはそれら全て)が括弧付
きで原則併記されていたが、1995(平成7)年3月以降は帰化前の氏名だけ
が記載されるようになっている。

1998(平成10)年以降の年ごとの帰化許可申請者数は、約1万3000人から1
万7000人の間で推移している。帰化許可申請者のうち、不許可者数は約
100人から270人の間で推移しており、ほぼ99%の割合で帰化が許可されて
いる。

帰化許可者のうち、およそ6割は韓国・朝鮮籍からの帰化で占められてお
り、およそ3割が中国籍からの帰化で占められている。

2008年(平成20年、暦年)の許可帰化申請者数は15,440人で、帰化許可者
数は86%にあたる13,218人(うち、韓国・朝鮮籍は7,412人、中国籍は
4,322人、その他は1,484人)、不許可者数は269人である

【大紀元日本(06年8月5日】によれば、1952年から2005年末までの間に日
本に帰化した中国人は9万6762人で、そのうち2005年に日本に帰化したの
は4427人であることが、法務省民事局で発表した資料により明らかになった

。日本に帰化した中国出身者の大部分は日本に住まいをもち職も安定し、
まじめに暮らしている。現在、多くの中国人の若者が日本国籍を取得した
後、再び中国に帰って事業を興している。

その理由は日本国籍を持つ中国出身者は中国では特別待遇を得ることがで
き、しかも給料待遇も優れているからであると言われている。1989年以来
日本に帰化しようとする中国人は増加化し続けているという。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・07




2019年05月28日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞
のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の
判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように

夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(62歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長
男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳
しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選
択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのは
これ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセク
シュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公言した。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラヂオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか
「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原
稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だ
が、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょう
は昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになっ
て、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても
発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今
月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になっ
てしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではな
いか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明
後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつ
の今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っ
ていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。

「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治
記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、秋田県大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用
(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正
式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・
砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でな
いのは、その所為だろう。2010・2・27


2019年05月27日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園
田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長
のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の
11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53
歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日で
あった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の
始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された
「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25
号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見ら
れ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員
立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を
「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかっ
た。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日
本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して
推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目
を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された
熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記
念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しない
と言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたと
いう事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したの
である。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法
改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛
する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条
に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとす
るときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければな
らない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、
総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、
「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出さ
れた。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日とな
る日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当
に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかっ
た事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策へ
の「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良
さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そ
うした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬
称略)2008・2・10

2019年05月26日

◆「なめたらいかんぜよ」

渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10

2019年05月25日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎


まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よ
いテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲
み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番
として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜
つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」とし
て、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治
体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人で
さえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解で
きなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲ん
で歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中
したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不
愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さん
は苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年
1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久
地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキ
ングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で
代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒット
させ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶
対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段
馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかった
が、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたそ
の歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングは宣伝にも
力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表し
ないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興
味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎
はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろ
うか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、
その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存知の通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわな
さけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得
ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、
バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常
に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さん
と許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ斬りにあい、お富
さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒
塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだ
が、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際
にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本
橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江らによって芽を吹きは
じめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって
見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みど
りの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を
取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れる
オリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズム
とサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京
音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイト
しながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合
格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌
手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩
歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずら
に年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列
車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の
「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで
「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまた
また大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の
屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの
周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝
居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が
建立されている。

2019年05月24日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら

「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。

奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう副総裁川島正次郎と三木(武夫)幹事長
だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派4天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員
河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05


2019年05月22日

◆「生きている化石」の木

渡部 亮次郎


それは「メタセコイア」。東京都江東区の都立猿江恩賜公園近くに暮らすよ
うになって20年以上経つ。その公園を毎日の散歩コースにしいたのだが、
さすが昭和天皇から下賜された公園らしく、昭和天皇が好まれていたと言
う「生きた化石」の木「メタセコイア」を沢山植えて、都民の「謝意」を
表しているようだ。

まず、公園の入り口(新大橋通り側)に横並びにメタセコイアがそろって
6本植えられ、公園のシンボルとなっている。通りを挟んで向かい側は区
立江東公会堂(ティアラ江東)である。

私が散歩して居たのは「北部」地区。1周1・1キロ。3000歩である。その途
中に、メテセコイアが数十本植えられている。木場(きば)の材木置き場
を埋めたてて公園にしたのが昭和56年と言うから、既に34年、経っている。

メタセコイアはいずれも高さ30メートル近い大木に成長している。壮観だ。

メタセコイア。学名 Metasequoia glyptostroboides
和名 アケボノスギ(曙杉)イチイヒノキ 和名アケボノスギは、英名dawn
redwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と、
現生種を別種とする学説もある)。

葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは1〜3cm程度、幅は1,2mm
程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。樹高は生長す
ると高さ25〜30m直径1.5mになる。

1939年に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉種の植物遺体(化石の一
種)が発見された。発見者の三木茂博士により『メタセコイア』と命名さ
れ、1941年に学会へ発表された。

当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945
年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ)」が
同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼
ばれることが多い。

その後、1949年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り
受け、全国各地に植えられているのだそうだ。

英国の種苗会社などから、インターネットで種子が入手できる。タネは直
径2〜3mmの、淡黄色のおがくず状の物で、発芽率はあまり良くないが、日
本の気候にはよく合い、生育が早いので、栽培してみる価値は十分にある。

早めにタネを入手し、1月中旬か下旬に浅鉢、浅箱などに蒔き、タネが隠
れる程度に覆土し、乾かさないように管理する。櫻が咲く頃に、徐々に発
芽してくるので、数センチになったら3寸のポットに仮植えする。

秋には30cmくらいの苗に生育する。翌春発葉する前に、定植する。苗は一
年で1m近く生育し、最終的には30〜40mになるので、株間は7〜8mは必要で
ある。

冬のソナタ。メタセコイアの並木道が登場し、ドラマのファンからはシン
ボルの一つとして扱われる。

三木町―発見者・三木博士の出身地。博士の功績を記念し、メタセコイア
を町のシンボルとしている。三木町(みきちょう)は、香川県東部に位置
する町。高松市のベッドタウンとなっている。

また香川大学医学部ならびに農学部を擁する、三木キャンパスの学生街で
もある。9月下旬に行われる『獅子舞フェスタ』で知られる。

近年、香川県農業試験場にて開発された讃岐うどん用国産小麦・さぬきの
夢2000の試験栽培が開始され、同品種の名産地として脚光を浴びている。

この事はNHK総合のドキュメンタリー番組「プロジェクトX 挑戦者たち」
第149回(2004(平成16)年7月6日放映分)にて「さぬきうどん 至高のう
まさとは」というタイトルで紹介された。              
                                
2010・6・15執筆    
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年05月21日

◆「わが祖国」スメタナ

渡部 亮次郎


元気の出ない時に聞く曲はスメタナの「我が祖国」だ。ポロン、ポロンと
珍しくハープの演奏から始まる交響詩組曲である。私のクラシック教室に
は先生がいないから、ここ20年ぐらい、手に入るだけのCDをやたら聴いて
好きな曲を探す。スメタナはそうした1人である。

ベドルジハ・スメタナSmetana,Bedrich (1824〜1884)はチェコの作曲
家。幼いころから音楽への才能を示し,ピアノと作曲を学ぶ。1848年フラ
ンスの2月革命がチェコにも及び,プラハで急進派が蜂起したときそれに
参加,革命軍のための行進曲や《自由の歌》を書いた。

革命が鎮圧された後は,リストの援助を得てプラハに音楽学校を開設。56
年から5年間はスウェーデンのイェーテボリ市の音楽協会〈ハーモニー協
会〉の指揮者を務めた。

61年帰国ののちは,再び大きな盛上がりをみせていたチェコの民族運動の
音楽的スポークスマンとして大活躍を始め,チェコ人のための国民劇場完
成までの仮劇場のために,《チェコのブランデンブルク人》(1863)や《ダリ
ボル》(1867)のようなナショナリズムを鼓吹した愛国的なオペラを作曲した。

また,理想化されたチェコの農村の姿をミュージカル・コメディ風に描い
た《売られた花嫁》(1866。1870改訂)の大成功によって,仮劇場の首席指揮
者の地位も手中に収めた。

しかし74年,50歳のときに聴覚を失い,晩年はチェコ北部のヤブケニツェ
村に隠とんし,肉体的・精神的状態の悪化と戦いながら作曲に専念。祖国
の風物と民族を賛美した6曲から成る交響詩組曲《わが祖国》(1879。

その第2曲《モルダウ》はとくに親しまれている)や自叙伝的な2つの弦楽四
重奏曲,《第1番わが生涯より》(1876)と《第2番ニ短調》(1883)を完成したの
ち,プラハの精神病院で狂死した。

作品にはなお合唱曲と歌曲,多数のピアノ曲などもあるが,〈ボヘミア楽
派〉といわれるチェコの国民楽派の創始者であり,ロシアのムソルグス
キーやフランスのベルリオーズと並んで,音楽におけるリアリズムのあり
方を後世に示した先駆者の一1人でもあった。 佐川 吉男

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。


また
http://www.kk.iij4u.or.jp/~takuya/vltava.htm  に拠ると、

スメタナは同じチェコ出身で後輩格であるドヴォルジャークと共に、土地
に根ざした作風を持つ、いわゆる「チェコ国民楽派」として有名な作曲家
である。

ヨーロッパ各地で研鑚を積みつつも、やはり自らが生まれ育ったチェコの
ことが忘れられず、帰国後「ヴィシュフラド(高い城)」「モルダウ」
「シャールカ」「ボヘミアの森と草原にて」「ターボル」「ブラニーク」
という一連の交響詩を次々と世に出し、祖国への熱い思いを託した。

この6曲は1882年11月、この順番で連作交響詩「我が祖国」としてプラハ
にて初演され、大好評を博した。

以来この曲はチェコ国民の愛国心を象徴する傑作として、現在チェコで毎
年行われている「プラハの春音楽祭」の初日は決まってチェコ・フィル
ハーモニーにより「我が祖国」全曲が演奏される等、スメタナの生涯をか
けた愛国心はたくさんのチェコ国民に受け継がれているという。

この「モルダウ」はその連作交響詩の2曲目で、しばしば単独でも演奏さ
れる。幸いなことに作曲者自身により、ここは何を描写しているのか具体
的な注釈が残っており、曲を初めて聴く人でも容易にその場面を想像できる。

以下その必見ポイント(?)を順を追って記す。

○「モルダウの最初の源流」
水源地はチェコ西部の山の奥深くである。2本のフルートにより雪が溶け
てやがて流れとなる様子が表されている。繊細なハープのハーモニクスと
ヴァイオリンのピチカートは、あちこちで陽の光に当たってきらめく水の
しずくである。

○「モルダウの第2の源流」
さきの源流(フルート)にやや温度差のある別の流れ(クラリネット)が
合流し、少しだけ水に温かさが加わる。こうして徐々に楽器の数が増え、
水が集まり、河の流れが出来上がってくる。ここでオーボエを伴った弦楽
器により、最も有名なモルダウ河の主題が提示される。

○「森〜狩り」
流れは森の中に入り、ホルンのシグナルとともに馬に乗った勇壮な狩人が
横切る。角笛の音が森のあちこちにこだまする。牧場のカウベルも時折聞
こえ、弦楽器による河の流れは絶え間なく続く。

○「村の婚礼」
拍子は6/8拍子から2/4拍子に変わり、森を抜けると少し視界が開け、村の
集落が見えて来る。今日は村の若者の結婚式。教会から出てきた若い2人
を、村人たちの陽気なフォークダンスが迎え、祝福するヨーデルの歌声が
響く。

○「月の光〜水の精の踊り」
結婚式の夜も更け、あたりは静けさを取り戻す。ファゴットとオーボエの
先導により水の精が登場し、フルートとクラリネットが冒頭と同じような
無窮動を繰り返しつつ楽しげに浮遊する。弦楽器群によりまた水量が徐々
に増え、さきのモルダウ河の主題が再現される。

○「聖ヨハネの急流」
突如として傾斜が急になり、水の勢いが速くなる。岩にぶつかり、激しい
水しぶきを上げる様子がリアルに描写されている。

○「モルダウの力強い流れ」
曲はホ短調からホ長調に転調し、モルダウ河はプラハ市内に入る。オーケ
ストラ全体によりこの「モルダウ河のテーマ」が賛歌として力強く歌われる。

○「ヴィシュフラド(高い城)の主題」
かくてプラハ市内にある歴史的な古城、ヴィシュフラド(高い城)に挨拶
する。ここは前作である交響詩「ヴィシュフラド(高い城)」(「我が祖
国」第1曲)のテーマが回帰する瞬間でもあり、本来ならば全曲を連続演
奏した時に効果が得られるように作られており、プラハ市内を抜けてなお
果てしなく続く流れを見送りつつ、フェードアウトされて曲は締めくくら
れている。

この「モルダウ」の作曲に着手した頃、スメタナは耳の病が悪化し、あの
ベートーヴェンと同様に聴覚を失ってしまった。したがってこの「モルダ
ウ」以降、スメタナ自身は自分の作品を音として聴いていない。

スメタナは1884年に世を去り、自らの作品で歌い上げたモルダウ河とヴィ
シュフラドのすぐ近くの墓地に静かに眠っている。と書かれているが狂死
とはあまりに可哀想だ。2007・06・08

2019年05月20日

◆浜辺の歌」の取材であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美がNHKのラジオ」深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この
時間には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌って
いた。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1