2013年03月30日

◆したたか大阪人・服部良一

渡部 亮次郎

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かな
い。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一

1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2013年03月28日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載をした>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年03月26日

◆「頂門の一針」の1週間休刊のお詫び

主宰者 渡部亮次郎


この度は私の不注意から転倒による右手等の負傷のため当「頂門の一針」を8日間も休刊してしまい、大変申し訳ありませんでした。この間多くの方々からお見舞いや激励のお言葉を賜り、允にありがとうございました。

お蔭さまにて右手のギブスが25日夕方取れましてマウスの操作は自由になりましたので配信を再開いたします。

振り返れば18日午前10時半ごろ、猿江公園のトイレに入ろうとしたところ、急ぎすぎて段差に左足をひっかけて前向きに転倒。右手、右胸を強打しました。そのときはさしたる痛みを感じませんでしたが、夕方になって患部に強烈な痛み。

急遽かけつけた整形外科医院で右手首と左胸部肋骨にヒビがはいっており全治1ヶ月との診断。ヒビでは自然治癒を待つしかないためです。

右手首にギブスを装着されたため、PCのマウスは操作することが当分不能となりましたため、当分の「休刊」をお願いせざるをえませんでした。

医師によれば回復は順調で、とりあえずギブスは25日限り不要となりましたので配信再開にいたりました。

うれしいことがもう一つありました。休刊中愛読者が一人だけながらふえていました。ありがたいこと限りありません。

                             以上


◆作詞家の罪の数々

渡部 亮次郎


楡(にれ)の木に鳥が鳴く アルプスの牧場よ と灰田勝彦が良く歌っていたが、楡の木を見たことが無かった。高校の先輩、東海林太郎も「楡の花咲く時計台」と言う歌を歌っている。よほど詩心を揺すられる木なのだろうか。

私の生まれた環境は四方が水田ばかり。写生する風景がどこにも無かった。ところが老年になって東京湾岸、江東区に住むようになって、都立猿江恩賜公園で楡の木を見つけた。なんとも穢い樹皮をまとった木では無いか。

公園事務所がわざわざ「にれ」と言う札を付けてくれなければ見向きもしなかっただろう。とにかく、樹皮は黒くひび割れて、ばらばらと今にも剥げ落ちてきそうである。

にれ(楡)はニレ科ニレ属の落葉樹と半落葉樹の総称である。シベリアからインドネシア、メキシコ、日本まで北半球の広範囲で見られる。にれの実は丸い翼果である。にれの全ての種は土壌pHに耐性がある。

にれには20から45の種類がある。数の曖昧さは種の範囲設定についての困難さに起因する。にれの木材は木目が絡み合っていて、結果的に分割に抵抗がある。主に車輪、椅子のシート、棺に使われる。この木材は腐食にも強い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和38(1963)年に大ヒットした歌謡曲に西田佐知子の「エリカの花散るとき」と言う実に詩情溢れる歌がある。

エリカという響きはなんとなくロマンティックだが、実物を見ると、わたしなら見て詩を書くような気にはならない。詩人は現物よりも名前の響きに詩心を寄せるものらしい。

「青い海を見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は咲くという 別れた人のふるさとを 尋ねてひとり 旅をゆく エリカ エリカの花の咲く村に 行けばもいちど 逢えるかと」。ベテラン水木かおるが謳いあげた。

エリカ Erica ヨーロッパからアフリカに分布するツツジ科エリカ属の常緑低木群(→ 低木)の総称。

荒地や岩場に生える(→ ヒース)。高さは15cmくらいから3mまでさまざま。葉はふつう3〜6枚で輪生し、線形で厚く、裏面に深い溝が1本はいっている。花は総状または散形花序(→ 花序)につき、花の色には白、ピンク、赤などがある。

日本では南アフリカ原産のジャノメエリカが切り花、鉢植え用としてよく栽培される。喫煙用のブライヤー・パイプは地中海沿岸から西南アジアに分布するエイジュの根からつくられる。

ギョリュウモドキはエリカ属ではないが、花がエリカに似ているので、園芸上、エリカとみなされることもある。

「空の雲に聞きたい 海のかもめにも エリカの花の 咲くところ 逢えなくなって なおさらに はげしく燃える 恋ごころ エリカ エリカの花が散る時は 恋にわたしが 死ぬ時よ」

確かにエリカには「孤独」と「寂寞」という花言葉がある。詩人はそれを知って歌をつくった。西田佐知子の代表作として残っている。作詞家とは何も無いところから恋の歌もつくる。罪なことをなさる。

反対に川内康範氏のような「生命を賭けて」作詞する人もいる。大島紬を着た女性が出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。

だから「おふくろさん」に関して起きた森進一氏とのトラブルの行方は森氏が考えるような簡単なものではない。私も何度か会って、その激しさを知っている。その理由を2007年3月15日発売(東京)の「週刊新潮」が詳しく書いている。

参考. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.2007.03.03

「愛染(あいぜん)かつら」。昭和13(1938)年に公開された松竹映画。明治天皇の落胤と伝えられた作家川口松太郎の原作。当時、物凄くヒットした映画であり、主題歌「旅の夜風」も大ヒットした。

当時2歳だった私はそんな事は知らない。愛染桂という木があるのかと捜したがなかった。桂といえば、昔赴任した秋田県大館市の昔の城は桂城。桂とは何となくロマンティックだが、猿江公園で確認した桂は穢い肌の木に過ぎなかった。

カツラ(桂) 山地の渓流沿いに生え、新緑と黄葉がうつくしいカツラ科の落葉高木。北海道から九州までと、中国、朝鮮半島に分布。日本各地の庭や公園などにも植えられている。高さ20〜30m。

樹皮は縦に割れ目があり、はがれやすい。葉は対生し、丸みのある広卵形で、基部はへこむ。雌雄異株。4月ごろ、葉に先だって雄花と雌花が短枝に多数ひらく。

花には萼(がく)も花冠もないが、雄花の多数の葯が赤紫色でうつくしい。果実は円柱形の袋果でややそりかえる。黒紫色に熟すとわれて、先端に種子をだす。

カツラ材は香りがよく、緻密で耐久力があるので、建築、家具、船舶、楽器、彫刻、鉛筆などにつかわれる。

近縁種に葉がカツラより大きいヒロハカツラがあり、中部地方以北に分布する。

桂という漢字は、元来ニッケイやモクセイ(木犀)など香りが高い木にあてられるものであった。景勝地として知られる中国の桂林などはキンモクセイにちなむとされる。また中国では、月に生えると想像された木にもこの字があてられた。

文句をつければ只の栃の木をわざわざフランス語で「マロニエ」と言って、上等のように見せるのにも腹が立つが、いい加減に止めておこう。



2013年03月23日

◆インド直伝のカレーは

渡部 亮次郎


日本のカレイライス乃至ライスカレーは、初めはカレー粉のインドからではなく、英国海軍から明治時代の日本海軍に伝えられたものだった。それは兵士を苦しめる病気「脚気」(かっけ)対策としてだったから、小麦粉(ビタミンB1)一杯の「粉っぽい」ものだったのは当然である。

しかも除隊した海軍兵士たちが家庭にそのまま伝えたから、日本中のカレーが粉っぽいものとして定着したのは当然である。私の義兄が富士屋ホテルだかどこかのホテルで習ってきたカレーは、いま市販されている固形ルーを使ったものより、黄色でもったりして、明治を思わせる。

「こんなものカレーではない」と文句をつけたインド人が1915(大正4)年暮、日本に亡命して来た。ラス・ビハリ・ボースという。このボースが東京・新宿の「中村屋」に入って「純インド式」のカレーを教えた。

<ボース
Rash Bihari Bose(1886‐1945)

インド民族運動の指導者。日本に長く在住して〈中村屋のボース〉として有名。1908年ごろからベンガル民族運動を指導し,当時の風潮のなかでテロリズム系の運動を行う。

12年,インド総督ハーディング(英国人)に爆弾を投てきして負傷させたが,15年ラホール兵営反乱は失敗に終わった。

15年,訪日し時を同じくして亡命中の孫文と邂逅し,知遇を得た。その年の11月,イギリスの圧力による国外退去令に際して,孫文,頭山満などの助けにより,中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに隠れた。

その後相馬夫妻の長女俊子と結婚。41年太平洋戦争勃発とともに,インド独立連盟総裁としてインド国民軍結成のため日本に協力した。

過労のため体調を崩し,東南アジアより日本に戻り,45年1月インド独立をみることなく没した。

2006年5月21日の産経新聞によると、もともと中村屋は東京大学のある本郷で明治34(1901)年、パン屋として創業し、後に新宿に移転。昭和2年に喫茶部を開設したときにボース直伝による「純インド式カリー」を出して東京っ子の舌に衝撃を与えた。

<相馬黒光 そうまこっこう 1876‐1955(明治9‐昭和30)

芸術家を後援した商人で,自身文筆もよくした。本名良。仙台に生まれ,押川方義の影響でキリスト教徒となる。

明治女学校を出て長野県の企業家で社会改良運動家相馬愛蔵と結婚するが,婚家の気風になじまず,1901年夫とともに東京に出,本郷にパン屋中村屋を開業した。

はじめは苦労を重ねたが,店を新宿に移してからは東京の西郊への発展も幸いして事業はしだいに軌道に乗り,山手のインテリ層を中心に顧客をひろめた。

彫刻家荻原守衛,肖像画家中村彝(つね),ロシア人の詩人エロシェンコらのパトロンとなり,また15年インド独立運動家 R. B. ボースを中村屋内にかくまい,長女を嫁がせた。自伝《黙移》がある。岡部 牧夫>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

(相馬黒光のことを調べてみたら、この原稿の途中であることを忘れるぐらい、波乱万丈の人生を送った女性であった。いつか書いてみよう)。

インド人のボース。宗主国として植民地インドを支配するイギリス。そのイギリスの、しかも海軍からの移入と聴いて、独立運動の戦士ボースは耐えられなかっただろう。「東京のカレーうまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸がムカムカする」と昭和7年、日本の新聞に喋っている。

ところでボースのカレー伝授については後で触れるとして、ボースを中村屋に入れた頭山満は友人頭山興助(おきすけ)のお祖父さんだが、失礼ながら、詳しくは知らなかった。

<頭山満 とうやまみつる 1855‐1944(安政2‐昭和19)

明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。

79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。

しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。

87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。

また,一部の大陸浪人がつくった天佑惟と称する団体に資金を与えたり,対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。

金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援したのも,それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。

この後,アメリカの排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは表だった活動をしなくなっていったとはいえ,右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。桂川 光正>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

そこで中村屋の婿になったボースが作った純インド式カリーは海軍と違って小麦粉を全く使わないものだった。だからとろみが無い。その分さらさらしていた。牛を神聖化しているインド人だからビーフも使わない。

蛋白質は最上級の骨付き鶏肉、インドから直輸入したスパイス、当時「日本一美味」といわれていた武州幸手(さって)の白目米(しろめまい)、自社牧場製のヨーグルト、バターなど厳選した高級品。

他のカレー店では10銭前後だったのに中村屋のそれは80銭。コーヒーや果物とセットで1円だった。カリーとご飯は器が別だった。

中村屋は今も新宿本店でインド・カリーを提供している。何千円かは知らない。中村屋を真似たカリーが全国各地に普及しているはずだ。

私の生まれ育ったところは秋田の純農村で、米しかできない。魚は八郎潟の鮒とかなまず、どじょう。肉は飼っている鶏をつぶした時だけ。カレーは戦後になって母が一度だけ作ってくれた。


しかし美味だったという記憶はない。だから脚気にもかかったわけかな。東京へ出てきて大学の食堂では一皿20円だったように思うが、違っているかも知れない。(文中の引用<内>はいずれも世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)。

2013年03月21日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。

歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

この映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。

<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、60年以上を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している。

2013年03月19日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した人物。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えていた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。
                   日本大百科全書(小学館)



2013年03月18日

◆「味の素」発明は105年前

渡部 亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは105年前の7月25日だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の10大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から105年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れている。

                    世界大百科事典

2013年03月15日

◆先輩・アカの東海林太郎

渡部 亮次郎


東海林太郎しょうじ たろう(1898-1972)秋田市出身。秋田中学校(現県立秋田高校)から東京音楽学校ヴァイオリン科に合格。しかし南満洲鉄道(満鉄)に居た父に猛反対されて,断念。早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の社員として8年間勤務。

ところが早大在学中から佐野学に師事して共産主義思想に傾倒する。

<佐野 学(さのまなぶ 1892年2月22日 - 1953年3月9日)は昭和初期の日本共産党委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。

東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る>

東海林太郎はこの時に教え子となって左翼思想にかぶれた。当時はそれをアカにかぶれたと言って、敬遠された。

東海林は卒業間際に庄司久子と結婚した。後に静と再婚。

東海林は1923(大正12)年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。関東大震災の時である。

東海林は既に満洲に渡っていたようだ。入社後「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、当然ながらあまりにも左翼的ということにより、1927年、鉄嶺の図書館に「左遷」される。

図書館長は「出世」だと NHK深夜便は調査不十分の放送をするので立腹するという友人は多い。図書館には4年もくすぶっていた。

一時期は特高(特別高等警察=日本共産党員或いは共産主義者取締り警察官)にマークされるほどの活動的共産主義者であったという。

満鉄勤務ながらクラシック歌手への夢を捨て切れずに退職して上京。

歌手として売り出すまで弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。そこに早稲田出身の政治家河野一郎が客として訪れたという話を河野から聞かされた。

声楽を下八川圭祐に師事し昭和8年に時事新報の音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。

34歳で歌手に転身というわけ。荘司史郎などの芸名で一時期、コロムビアなどで歌っていた。

しかしコロムビアでは松平晃を売り出すため、東海林との契約は断った。9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。クラシック歌手の夢と現実の乖離である。

同曲のアトラクションのため、日比谷公会堂で白塗りで浅太郎を演じるなど、とても晩年のイメージから想像がつかない奮闘ぶりを見せるが、その際に東海林に背負われる子供役だったのが後年のスター高峰秀子だった。秀子を養女に考えたこともある。


<高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924(大正13)年3月27日 ー2010・12・28)は函館市出身の女優、エッセイスト。愛称デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名は松山秀子>。

<1929年映画『母』に子役でデビュー、1979年に引退宣言。引退後は普段の生活に根ざしたエッセイを多数発表した。>

ところで東海林は澄んだバリトンを生かして日本調歌謡で東海林太郎〔本名〕時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。

島崎藤村の「椰子の実」を最初に歌ったのも東海林である。しかし売れるのは股旅物などとあっては不本意ながら流行歌手の道を歩まざるを得なかった。

その後も「一つ山越しゃ、ロシアの星が」の歌詞を「他国の星が」に改めた「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。「夜が冷たい」の歌詞を文法がおかしいと作詞者に猛烈に抗議し、不承不承に吹き込んだ「旅笠道中」。

長谷川一夫の映画「雪之丞変化」の主題歌「むらさき小唄」、野崎観音〔大坂・大東市〕のPR盤として制作された「野崎小唄」、軍歌という呼称を嫌って戦時歌謡を主張し続けた「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。

ところが、敗戦後の一時期、戦前のヒット曲が軍国主義につながる国粋的なヤクザものは禁止され進駐軍から睨まれ不遇の時代が続いた。ビクターへの入社も、ビクターが竹山逸郎を売り出す事からられ、レコード会社も弱小のマーキュリーなどを転々として恵まれなかった。

1946(昭和21)年ポリドール復帰第1作が「さらば赤城よ」。1949年キングレコードへ復帰。1953年マーキュリーへ移籍。

その後、次第に地方公演で人気を回復、1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。

空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演したりして脚光を浴びた。

しかし健康に問題を抱えた。昭和23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。渡部は昭和28年秋、秋田高校創立80年記念祭に先輩を招聘する計画を立てたが無視された。

終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む東京・立川市の羽衣町3丁目に引越した。

地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。しかし体調悪化は抜き差しならないところまできていて、燕尾服の下に血の滲んだ晒しを巻いてステージをつとめ、薬の服用から顔が紫色になるために、人前では化粧をしていたという。

昭和40(1965)年に紫綬褒章、44年に勲四等旭日小綬章、47年には勲三等瑞宝章を受章。

同年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。

次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。享年73。

最後のレコードは46年10月の「ある少尉の遺書」と「わが命暁まで」のカップリングとなった。「東海林太郎後援会」「東海林太郎歌謡芸術保存会」のメンバーは3000人を数え、中高生などの若いファンも多く、47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。

「佐藤栄作日記」〔朝日新聞社〕第5巻には「一時から東海林太郎君歌手協会葬に出席して協会顧問として弔詞をよむ。秋田市出身のいわれをもって石田博英君も弔詞。その他古賀政男、ビクター等等で盛葬だった」とある。

秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。

毎日1時間の発声練習を死の直前までかかさず、病床につく数日前までテレビ録画の仕事をしていた。「ステージは一尺四方の道場」「シューベルトを歌う心で歌謡曲を歌う」と語り、ステージの4時間前には必ず食事を済ませたり、ホテルもピアノのない処には泊まらないなど、徹底したプロ意識を見せていた。

「心の底から歌っていない」演歌は技巧に走るから嫌い、リサイタルも嫌い、戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。

酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。

直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、歌は民のためという信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。

また、彼の人生は癌との闘いのそれでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。遺した名曲のリスト。

昭和9年   赤城の子守唄
       山は夕焼
       国境の町
昭和10年   旅笠道中
       むらさき小唄
       野崎小唄
       お駒恋姿
昭和11年   お夏清十郎
        椰子の実
昭和12年   すみだ川
昭和13年   上海の街角で
        麦と兵隊
昭和14年   名月赤城山
昭和16年   琵琶湖哀歌(小笠原美都子と)
戦後      楡の花咲く時計台など多数。

「人物昭和流行歌史・直立不動の精神-東海林太郎」(菊池清麿)及びフ
リー百科事典ウィキペディア、誰か昭和を想わざる(作者不詳)等を参
考。


2013年03月14日

◆手布を拾えぬカースト

渡部 亮次郎


昔、英会話の先生(NYの若い女性)が「インドだけは2度と行きたくない。なんだか国中が臭いし、カーストが特に嫌い」と言っていた。ホテルの玄関でハンカチを落しても、ボーイは拾ってくれない。拾っちゃいけないカーストに属しているからだという。

<列車に乗っているときなど、空いている席に座ろうとした人を隣のインド人が手厳しく怒鳴りつけ追い払う場面や、僕らに向かって彼らの悪口を言うような場面に出くわした。僕らは、「あゝ、これがカーストという奴だな。」と思った。

僕らは、その程度しかカーストを実感する出来事に出会わなかったが、実際には様々な形でカーストが深い根をおろしているようだ。表向きは身分差別を否定しているが、カーストは人々の生活に密着しすぎている。

自分はバラモンの家系の出だと誇らしげにしゃべる人もいる。ホテルの従業員に汚いから掃除してくれといったら「自分のジャーティーではないから」と断られたとか、下位カーストの人を伴ってレストランに入ったら入場を断られたなどというのはよく聞く話だ>。
http://asia.papara.net/topics/caste.html

一種、被差別階級。最低のカーストは、乞食(こじき)の下着を洗濯するカーストだと同僚は言うが本当だろうか。私は両極とインドは訪問した事は無い。

カースト Caste インドに古くから伝わる社会制度。個々人の階級を規定すると同時に、携わるべき職業をはじめ、結婚その他さまざまな社会生活のありようを決定する。子は親のカーストを必ず継承していくため、世代を超えて受け継がれることになる。

もともとインドではジャーティ(「生まれが同じ者」の意)という語で呼ばれているが、16世紀にインドにやってきたポルトガル人が、これに母国語のカスタcasta(階級、血筋)という語をあてたため、カーストとも称されるようになった。

日本では一般に、カーストといえば、大きな4つの階級区分(4種姓)が想起されがちだが、これはカーストと密接な関係にあるものの、正確にはバルナというべきものである。

バルナvarna(本来は「色」の意)は、紀元前1500年ごろ、インド・ヨーロッパ語を話す遊牧民、いわゆるインド・アーリヤ人が北方からインドへ進入し、やがて農耕社会を築き上げた頃に成立した。

インドの聖典文学によれば、アーリヤ人のバラモン教(ヒンドゥー教)司祭が社会を4つの階層に分けたとされている。前200年〜後300年のある時期にアーリヤ人の司祭・律法者がマヌ法典を編纂した。

その中で世襲制の4つの階級区分を規定し、司祭階級自らをその最上位においてブラフマン(バラモン)と称した。2番目に王侯・武士のクシャトリヤ、3番目に農民や牧夫、商人のバイシャ、4番目に3つの階級、とくにブラフマンに隷属するシュードラをおいた(のちに農民や牧夫はシュードラに移される)。

さらにその下、社会の枠組みのまったく外(アウトカースト)に、不浄な人々とみなす不可触民(アンタッチャブル)を設け、下賎とされる職業につかせた。

こうしてアーリヤ人の農耕社会のシステムにおさまらなかった先住部族民が不可触民とされたが、その後、ヒンドゥー教の戒律を犯したり、社会の掟にそむいて4つの階級から締め出された者もこれに加えられていく。

こうして司祭が作ったバルナの制度は、ヒンドゥー教の戒律と切り離せないものとなり、神の啓示によって造られたという大義名分のもとに、延々と存続してきたのである。

バルナを大きな枠としながら、実際の社会で機能しているのがカーストである。1つの村に司祭、銀細工、大工、床屋、羊飼い、仕立て屋、洗たく屋、汚れもの清掃、乞食といった種々さまざまな職をもつカーストが、10〜30程度あり、それぞれが村の中で近隣に集まって暮らしている。

カーストの数は、インド全体で2000〜3000あるといわれている。このカーストは、上に記したバルナの、不可触民も含めた5つの階級のいずれかに属している。

カーストは、地縁、血縁、職能が密接にからみあった排他的な集団で、その成員の結婚や職業、食事にいたるまでを厳しく規制し、また自治の機能ももっている。

結婚の規制は、個々のカーストの結束を強める上で、またカースト制度全体を維持強化するうえで、特に大きな意味をもっている。

カーストのメンバーは、自分と同じカーストの相手を選ばなければならず( 内婚)、しかし、同時に自分と同一のカースト「集団」のメンバーとは結婚できない。また、男性が自分より下のカーストの女性と結婚することはある程度許容されるが、その逆はタブーとされている。

食事に関する規制は地域差が大きい。しかし一般に、他のカーストのメンバーと食事を共にしたり、下のカーストの者から飲食物の提供を受けることができないといった規制や、とくに上位カーストに厳しい、肉食の制限もある。

普通、カースト名から職業が分かるほど、カーストが特定の職業とむすびついていることが多い。しかもカーストが親から子へ継がれていく以上、原則として子は親の職業を代々継いでいくことになる。

カーストと職業の密接な関係はとくに職人カーストに顕著にみられるが、いっぽう同じカーストに属しながら、別々の職業にたずさわる例もめずらしくない。また、各カースト間の社会的・経済的な互助的関係が、近代化の波に洗われて崩れはじめた今日では、カーストと職業の関係は薄まりつつある。

カーストは、インドの社会の安定要因として機能してきた一面はあるが、一方で近代化を妨げる要因にもなっており、今日ではカースト間の障壁が次第に取り除かれようとする方向にある。

イギリスがインドを植民地支配していた時代に、カースト制度の規制はかなり大きく緩和された。さらに第2次世界大戦後の1947年、インドの独立とともに、憲法でカースト差別は禁止され、49年の議会で不可触民制の廃止も宣言された。

その間、不可触民の解放を強く主張してインド社会に大きな影響力をもった人に、ガンディーと政治家・社会運動家のアンベードカルがいる。

ガンディーは、不可触民にハリジャン(神の子)の名を与えた(今日では、不可触民は公式には指定カーストとよばれている)。しかし、そうした動きにも拘わらず、地方と都市の差はあるにしろ、今なおカーストは日常生活の面で強固に生き続けているのが実態である。

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2013年03月12日

◆「食育」の魁・石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育という言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺るがす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除くことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではないかと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったとい
う。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。

1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。

1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本(もと)なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るような自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であるという天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をとる。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウムの多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によって陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少ない食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランスに注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短くなってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つように食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     (再掲)


2013年03月10日

◆米国は日本の番犬サマ

渡部 亮次郎


椎名悦三郎(故人)と言う興味のある政治家がいた。

外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁した。

日米安保条約上のアメリカ軍の存在意義を問われて「米軍は日本の番犬です」と答弁し、驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰する
と、

平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことで知られる。これだけ聞くと問題発言のようにも聞こえるが、全体を通して聞けばそれほど問題発言ではない<(第51回国会(1966年3月)の議事録)>。

特に、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたとにはなっていないのである。第51回国会(1966年3月)の議事録とは昭和41(1966)年3月18日(金)午前10時すぎから開かれた衆議院外務委員会でのことである。


○椎名国務大臣(外務大臣) 核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。

ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。

ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。

そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。

○岡良一委員(日本社会党) しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。

○椎名国務大臣 遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。

<驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁>したというから議事録を最後まで再三通読したが、遂に発見できなかった。いずれにせよ伝説は作られて行くもののようだ。

横路ながら質問に立った岡 良一氏とは石川1区(当時)選出のお医者さんだった。たしか作家五木寛之さんの岳父だったはずだ。医者を開業しながら金沢市会議員、県会議員をへて社会党の衆院議員になった。1度の落選を経験したが6回当選した。

椎名の父の後藤広は、小学校の教師から岩手県水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。悦三郎は錦城中学(現・錦城高等学校)、旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。

同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は、蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。ウィキペディアの後藤新平の項目では椎名が血の繋がった叔父のように書いているが、ここでは血は繋がっては居ない。

東大卒業後、1923年に農商務省に入省。農商務省が農林省と商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満洲国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。

日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。1945年、終戦と共に退官する。

岸信介の誘いで、1955年の第27回衆議院議員総選挙に日本民主党公認で立候補し当選する。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。

出身地の岩手2区(当時)からの初出馬、初当選だったわけだが、大変な買収選挙を展開したと見られ、総括責任者が何年か後まで逃走し、私が岩手に在任中にとうとう逮捕され、関連して椎名夫人も逮捕された。このとき私はNHK記者として盛岡放送局にいた。

NHK水沢通信部の記者が其処をフィルムでテレビ撮影したところ、夫人が記者にツバをかけた、とその記者が私に語った。選挙とはそういうもので、代議士の代わりに家族や周辺が犠牲になる。

当選2回で岸信介内閣で内閣官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では「細かいことは総理に聞いてくれ」とおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。

岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫を徹底的に嫌いだったから、川島正次郎、赤城宗徳らと行動を共にした。「赤城・川島派」の一員だった。

選挙区の岩手で自民党県連会長を引き受けたのはこの頃で、私は県政記者クラブの一員として一杯ご馳走になったことがある。宴たけなわとなって、やおら踊りだした踊りが野糞踊りだったので、度肝を抜かれた。それから間もなく私は東京へ転勤し、政治記者となった。

椎名の人となりは、ものぐさとして知られる一方でカミソリともいわれるものであった。座右の銘は「菜根譚」の中から「不如省事(事を省くにしかず)」を見つけた「省事」。

物事を処理する時は、些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが大切である、枝葉末節にこだわり大切な根本をおろそかにしないということを人生訓とした。

自身が語ったところでは役人時代は、決裁の印鑑を部下に預けていたそうである。それで居て「いぶし銀の椎名」と呼ばれた事は、判断が的確で部下の厚い信頼を勝ち得ていたことを物語る。

池田勇人内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣、1964年には池田内閣最後の組閣で畑違いの外務大臣に就任した。その時、マスコミからは奇想天外人事と評された。本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と難色を示していた。

しかしこの人事は、韓国との国交正常化の困難を予知した幹事長前尾繁三郎の強い推薦によるものであったとされる。

佐藤栄作内閣でも外相再任となり、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉。さらに批准をめぐる「日韓国会」で政府を代表し答弁に立ち「名外相」と言われる。

日韓基本条約の締結問題については池田内閣当時から実力者河野一郎が担当大臣をしており、元秘書だった宇野宗佑代議士(のちに総理)が黒衣となってしばしば渡韓し実際の交渉に当っていた。

私はその結果を河野から聞きだし、NHKで外務省を担当していた島桂次(のちに会長)に報告すると大変喜ばれた。

韓基本条約の批准国会では私が衆院本会議番だった。自民党を指揮する幹事長は田中角栄。幹事長、採決は何時やるんですか、あなたは昨日は今日やるといったでしょう。キミ、昨日の話を今日しちゃいかんよ。東大出の幹事長番は秀才記者だけにノイローゼになった。

1972年7月、田中内閣が発足し、椎名は同年8月に自民党副総裁に就任した。しかし、田中内閣は、経済政策に失敗したことと金脈問題のため退陣を余儀なくされる。

田中の後継をめぐり、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に選出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもってむかえられた。

しかし私は三木自身が青天の霹靂だとは実は思っていなかったはずだと思う。田中が後継者に椎名を推そうと考えて居ることを知った元総理佐藤栄作が田中を諭し、引退後、自分が金銭的に世話になっている親戚筋からの要請で早くから三木を推薦していたフシがる。

椎名は三木内閣でも副総裁に留任。更に「三賢人の会」の一人である灘尾弘吉を党総務会長に推挽し、三木内閣を通じて党改革に取り組もうとするが、1975年(昭和50年)4月には早くも三木との間に党改革・近代化をめぐり亀裂が生じる。

ロッキード事件や独占禁止法改正、党内改革をめぐり、椎名の三木首相への不満は嵩じ、「三木おろし」へと繋がっていく。1976年(昭和51年)椎名は田中、福田、大平と三木退陣で一致し、8月24日挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。

三木は9月に内閣改造、党役員改選を経て12月5日の任期満了にともなう第34回衆議院議員総選挙で敗北し退陣を余儀なくされた。後継は密約により、椎名が一番嫌いな福田赳夫になってしまった。

それから2年後の1979年(昭和54年)9月30日死去。享年81。

<椎名 素夫さん(しいな・もとお=元参院議員)が2007年3月16日、肺炎で死去、76歳。葬儀は近親者で済ませた。近く関係者で「偲(しの)ぶ会」を行う予定。喪主は妻秀子さん。自宅は公表していない。

自民党副総裁を務めた故椎名悦三郎元外相の次男。79年に衆院旧岩手2区から立候補し初当選。4期務めた。

92年参院選でくら替え当選。その後、同党を離れて「無所属の会」を結成、代表に就任した。知米派の論客として知られ、03年に日本人として初めて米国務長官特別功労賞を受賞した。>Asahi Com 3月23日。

親子2代に亘って小沢佐重喜、一郎父子にはじかれ続けた人生だった。文中敬称略 

2013年03月05日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部 亮次郎


小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口から入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が朝鮮で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

16世紀になって新大陸での植民地開発に伴い生産が急増、ヨーロッパ人の食生活に大きな影響をあたえるようになる。17世紀以降、紅茶とともに一般に普及していった。

日本には754年唐僧の鑑真(がんじん)によって伝えられたとされる。室町時代に中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入量も増えたが、江戸時代に砂糖が国内生産されるまでは貴重品であった。

毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言《附子(ぶす)》の滑稽には,当時(鎌倉時代)の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

少なくとも農村でも砂糖を舐めていたのは極一部の地主だけだった。砂糖を知らない農村の次男、三男がたちが、食べた事もない白米をたらふく食べた事によって脚気に悩みながらロシアに勝ったのが日露戦争だった。

こうして、砂糖に慣れ親しんだ日本人も大東亜戦争中は主産地台湾との往来もまま成らなかったため、戦後を含む数年間は砂糖とは無縁の生活を余儀なくされた。

この数年間はあらゆる店先から菓子らしい物は一切姿を消した。戦後、2-3年して、農家にコメを供出させるエサとして白砂糖が配られて、再び砂糖にありついたのだった。

余談だが、戦時中に姿を消した物に鮭の缶詰がある。戦争が始まる前は樺太方面にサケ漁の出稼ぎが盛んだったから鮭缶は溢れていたのに、対米戦争開始と同時に姿を消し、戦後も暫くしなければお目にかかれなかった。

通常の砂糖の製法は原料から搾汁・浸出などの方法で糖液を作り、精製・濃縮・結晶化・分蜜・乾燥・冷却の工程をたどる。

砂糖の種類は原料によるもの以外に、製法や結晶の状態によっても分けられる。製法の違いによる種類には、糖蜜分を含む含蜜糖と糖蜜分を分離した分蜜糖がある。

黒砂糖などの含蜜糖は、糖蜜を含んでいるため色が濃く、甘みも強い。分蜜糖は糖蜜が分離され、精製されているため色が白く、日常使用されているのはほとんどが分蜜糖である。

結晶の状態による種類には、分蜜しないで夾雑物を漉してそのまま濃縮した黒砂糖、結晶の大きいざらめ糖(白ざら糖、中ざら糖、グラニュー糖)。

小さくてしっとりした車糖(上白糖、中白糖、三温糖)、加工糖(角砂糖、氷砂糖、粉砂糖、顆粒状糖、コーヒーシュガー)、液糖などがある。

砂糖の主な用途は勿論、甘味料で、砂糖漬けやジャムなどは砂糖の保存性を利用したものである。また、キャンディや飴などの菓子材料としても重要である。コンビニ弁当は保存料として砂糖を多用していると関係者に聴いたことがある。

資料:Microsoft(R) Encarta(R)及び平凡社「世界大百科事典」