2013年10月15日

◆反日ハインツ・キッシンガー

渡部 亮次郎


政治記者の先輩・古澤 襄さん(ふるさわ のぼる 元共同通信社常務理事)が、<キッシンジャーはかつて1971年の米中秘密会談で、周恩来に「日米安保条約は日本に核武装させない便法である」と言明したと喝破。

そのキッシンジャーは「日本は2050年までに核武装国家になる」と繰り返し警告を発している。どちらもキッシンジャー得意の外交技術とみていい>と「キッシンジャーの言葉の武器』を自らのブログで書かれたので、キッシンジャー嫌いだったわが師故園田直とともにキッシンジャーに思いが及んだ。

杜父魚ブログ http://blog.kajika.net/

外務大臣3期を通じて秘書官を私が務めた園田直(そのだ すなお)は福田赳夫内閣の官房長官当時から「キッシンジャーは反日だ」ときめつけていた。生涯を通して面談しようとはしなかった。だから当然、私もキッシンジャーとは面識が無い。

おそらく園田は、官房長官当時、外務省幹部の誰かから、相当強く吹き込まれたものと思われる。キッシンジャーもまた日本への認識を改めたフシはない。餌としか思ってない。

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry AlfredKissinger,1923年5月27日―)は、アメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。

ノーベル平和賞受賞者 (1973年) 受賞理由: ベトナム戦争の和平交渉 。

1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。

父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したため一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住。第2次世界大戦中の 1943年に同国に帰化。だからアメリカで大統領は望めない。

ハインツ少年の頭には反ナチが刷り込まれており、そのナチと組んでアメリカに刃向かった日本に対して親密感を持ち得ないのは当然といわざるを
得ない。

ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第2次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。

さらにハーバード大学で学び、教授となる。大統領リチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置と役割を果たした。

1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に2度訪問、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつける。この「神没鬼没」ぶりで世界に名を売った。

当時、日本は佐藤栄作政権下。対中関係を頭越しで遣られた政権は弱体化した。これが次の田中角栄首相をして日中国交回復の拙速を招いた。

一方でキッシンジャーは、中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。但し日本の頭越しを遣ったはずの米中国交正常化は日本に遅れること6年だった。

日本が台湾をそれこそ弊履の如く斬って捨てたのにアメリカは工夫をこらし、台湾を捨てなかった。そのために6年も掛けたのである。

私に言わせれば「外交役者」とも言えた。世界注目の場に美女を伴って現れるなど「たいした役者ぶり」だった。ニクソンの頭越しにノーベル平和賞を受賞するなど、ニクソンは面白くなかったに違いない。

彼はニクソンとは、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「1度として2人きりで食事を摂ったことはなかった」と語っている。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は大きいと評価されている。


日本ではテレビ東京の番組「日高義樹(元NHKアメリカ総局長)のワシントン・リポート 」に年1回出演し1月に放送されるのが恒例。読売新聞への寄稿は屡々。

日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。

特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。

冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。

2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正や核武装については「日本が決めることだ」と発言している。(文中敬称略)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2013年10月14日

◆スパイからの領収書

渡部 亮次郎


朴正煕(パク・チョンヒ)氏が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。

スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いていた。

岡田外務大臣(当時)は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力中である。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だ。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。

戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えているようだが、国益優先に考えれば、行為はよほど慎重に運んで然るべきだ。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。



◆80にして納豆初食い

渡部 亮次郎


77で最近、納豆を毎朝食べてみて飽きない。脳卒中予防には血をさらさらにするしかない、そのためには毎日「ワーファリン」を飲むことになったが、困ったことに、この薬は納豆や青汁などをたべると効果がなくなる。

子供の頃、親父が納豆作りに殆ど失敗した為に、これまでは納豆を食べたいと思うことは無かった。昔はコンビニは無かったから納豆売りのいない田舎では納豆はすべて自家製だった。

ところが、4月から薬が代わって「プラザサ キ」になり、納豆はOKということになった。11日の定期健診でも教授から 「納豆食べてますか」と聞かれた。

80 近い歳になる。別に納豆を食べたかったわけではない。だが食べちいけないといわれるとたべてみたくなる。臍曲がり。食べてみたらうまかった。

それで4月の末から毎朝、納豆を食べ、14日に血液検査をしてもらったら「プラザサキ」の効果には矢張り全く影響していなかった。「好きならいくらでもOK」ということになったわけだ。

しかし尿酸値が高くなる。これが高くなると通風になるという。風が吹いても足の先がいたくなるというあの通風だ。だから一日おきにしている。

納豆は大豆を原料として、納豆菌で発酵させた日本の発酵食品である。日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができ、現在多くの日本人に食べられている。茨城県・福島県を中心とした関東地方・東北地方では郷土料理としても親しまれている。

大阪に30年前、単身赴任した頃は、何処にも納豆は売っていなかったが、はあの匂いが厭なのだ。

だが、いまでは製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、この40年間を見ても国内各地域での消費量の差(一番少ない近畿・中国・四国と福島・水戸など一番多い地域との差)は大きく縮まっているそうだ。

「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、納豆の時期は冬である。

2013年10月08日

◆「あきたこまち」の誕生

渡部 亮次郎


郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、比べるのもおかしいぐらい秋田産が美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかった」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに県外における知名度向上に弾みがつき29年の歴史が流れた。

29年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥羽292号」から早熟性を受け継いでいる。このことから、寒冷地北部でも新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、戦前(1945年以前)の200!)台から1950年頃には350!)台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450!)、1965(昭和40)年には550!)と大幅な伸びを示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、1980年には「単収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけられた。また、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出するなど、多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まった。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれる、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒカリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善した早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズを発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種?類の中で破格の仮渡し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味しい米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

出典:秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹 氏作成の資料。

2013年10月07日

◆日中正常化同行取材

渡部 亮次郎


日中国交正常化41周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたときのこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底にしゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見られているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよう、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはならん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたところ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行くバスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこちらは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。41年経ってフランス語はすっかり忘れた。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バスは40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書けた。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だから同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから36年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には低血糖に陥り死に掛けた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知ったのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後初めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。

今から6年ぐらい前、つまり田中同行から36年後、上海を訪れる機会があったので、確か10階建てだったあのホテルを捜したが、猛烈な高層都市化の波に呑まれてホテルは捜せなかった。

2013年09月29日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎


1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、4度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなか
った

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

                       初出 2006.05.07


2013年09月22日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎


「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。

2013年09月18日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎


日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなかった。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからである。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部になると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪された前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘された。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官として日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといって田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れた。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたのだ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図していた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼としていたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていたのである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論もなしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。

あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなったように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。

政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのときは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇するためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪ってしまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。

2013年09月17日

◆おやつの無い子供時代

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」2008・10・27

2013年09月12日

◆河野一郎・田中角栄ありせば

渡部 亮次郎


<田中角栄が首相でいたら、ブルドーザー部隊を先頭に立てて、瓦礫で埋まった道路を切り開き、タンクローリー車や物資輸送のトラック部隊を送り込んでくれただろうな!」と被災地で声があがる。

批判はあっても住民生活の動脈は”道路”にあると、田中角栄は鋭い直感力を持っていた保守政治家で、抜群の行動力があった。

河野一郎にも同じことを感じる。そういう迫力のある政治家がいなくなった。被災地は、さながら戦場のような姿を曝している。いまこそ戦時宰相が求められる。>元共同通信社常務理事 古澤襄氏の杜父魚=かじかブログより。

私は若いころの角栄と最晩年の河野一郎氏を担当した記者である。自民党で当時河野担当だった各社の記者は殆ど鬼籍に入り、河野一郎を語る最後の記者になったわけだ。

私が担当した頃の河野さんは池田勇人内閣の無任所大臣で、東京オリンピック担当相。折からの東京都の水不足対策も任されていた。

それ以前は建設相として新潟の大地震や雪害を担当したが、「私が現場に行くからには、いちいち閣議に諮っていては時間が勿体無い、全権を委任してれなけりゃ行かない」と池田首相に掛け合い、災害をあっという間に解決したという逸話があった。

政治記者から代議士になり、敗戦後は鳩山一郎を総裁に担いで自由党の幹事長になったが、鳩山が組閣直前にマッカーサーによる公職追放されたため夢は水泡に帰した。

以後はバトンをなかなか返還しない吉田茂に徹底的に逆らい、蛇蝎の如く嫌われたが遂に奪権を成就。鳩山を晴れて首相の座に就け、ソビエト(現ロシア)との国交正常化を達成した。

その頃から党内に派閥を構成し、自らを実力者と称した。やがて首相岸信介と対立、新党結成を策したこともあったが、岸後継の池田勇人氏と組んで党主流に坐るようになった。

酒を一滴も呑めない河野さんなのにクレムリンで渡り合ったフルシチョフにウオッカを飲まされる羽目になったことを懐かしく思い出していた。

盛岡から転勤してきたばかりの若造をリンカーンに「箱乗り」させたり、自宅で照子夫人と3人で夕食を一緒にしてくれたりしたのは、「あなたの右目は義眼ですか」と質問したからだった。「ほら、義眼じゃないだろ。こんな質問、君が初めてだ。君はいい記者だ」と褒められたのがきっかけだった。

2013年09月11日

◆真相はお邪魔虫!!共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。私欲が無くなるはずもないのに共産党を名乗るのは矛盾である。矛盾が永遠に続くはずが無いから共産中国はいずれ倒れる。

共産党が政権を掌握している限り人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。影でわたしは彼らを単純性脳膜炎と呼んでいる。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。


2013年09月07日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部 亮次郎


若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座の真ん中にあって1年だけ住んだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だから、内風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソメイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種という概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とされたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えることのないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につながり、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえる。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致することが確認されている。

これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種より1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となっており、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソメイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くのソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメイヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていたそうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべての個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値がないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えられている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐って心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点もある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切ることは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

2013年08月31日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部 亮次郎


小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が韓国で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

16世紀になって新大陸での植民地開発に伴い生産が急増、ヨーロッパ人の食生活に大きな影響をあたえるようになる。17世紀以降、紅茶とともに一般に普及していった。

日本には754年唐僧の鑑真(がんじん)によって伝えられたとされる。室町時代に中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入量も増えたが、江戸時代に砂糖が国内生産されるまでは貴重品であった。

毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言《附子(ぶす)》の滑稽には,当時(鎌倉時代)の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

少なくとも農村でも砂糖を舐めていたのは極一部の地主だけだった。砂糖を知らない農村の次男、三男がたちが、食べた事もない白米をたらふく食べた事によって脚気に悩みながらロシアに勝ったのが日露戦争だった。

こうして、砂糖に慣れ親しんだ日本人も大東亜戦争中は主産地台湾との往来もまま成らなかったため、戦後を含む数年間は砂糖とは無縁の生活を余儀なくされた。

この数年間はあらゆる店先から菓子らしい物は一切姿を消した。戦後、2-3年して、農家にコメを供出させるエサとして白砂糖が配られて、再び砂糖にありついたのだった。

余談だが、戦時中に姿を消した物に鮭の缶詰がある。戦争が始まる前は樺太方面にサケ漁の出稼ぎが盛んだったから鮭缶は溢れていたのに、対米戦争開始と同時に姿を消し、戦後も暫くしなければお目にかかれなかった。