2014年10月18日

◆カキの季節になった

渡部 亮次郎



既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅地下に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

ニューヨーク本店の雰囲気を再現した店内では、常時10種類以上のフレッシュ―オイスターをはじめ、新鮮な魚介類を使用したバラエティー豊かな料理の数々が提供されるそうだ。

一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

日本での主な食用種

マガキ(真牡蠣) Crassostrea gigas(Thunberg,1793)

最も一般的な種で、日本でカキといえば本種。寒い時期に食べる。大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され市場に出ている。広島県、宮城県、三重県産が有名。韓国からの輸入品も相当量ある。

イワガキ(岩牡蠣) Crassostrea nippona(Seki, 1934)

「夏ガキ」とも言われる。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通する。天然物と養殖物の両方がある。

スミノエガキ(住之江牡蠣) Crassostrea ariakesis(Fujita, 1913)

有明海沿岸で食用にされるが、他所へはほとんど出回らない。マガキにごく近縁な種で、殻の表面はやや滑らか。

イタボガキ属 Ostrea [編集]イタボガキ(板甫牡蠣) Ostreadenselamellosa(Lischke, 1869)

かつては多く食用にされ、能登半島や淡路島周辺が有名な産地であったが、現在は瀬戸内海地方で僅かに市場に出回る程度で、絶滅危惧種状態。

食用のみならず貝殻が最上質の胡粉の原料となる点でも重要であり、本種の復活と養殖技術開発の努力がなされている。

ヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis(Linnaeus, 1758)

ヨーロッパ原産で、イタボガキに似た外観で輪郭が丸く平たい貝。別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。

日本では宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などで僅かに養殖され、高級食材としてフランス料理店などに卸される。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えば本種のことであったが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになった。それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキであるという。

アメリカで人気の日本原産の牡蠣 クマモト(熊本牡蠣)

1946年頃熊本県八代市鏡町からアメリカに輸出された牡蠣の子孫が現在アメリカ西海岸でクマモトの名で養殖されている。

クマモトは小振りながら味が濃く、クリーミーとしてアメリカ市場で最も人気が高い高級牡蠣。

カキは食用としての歴史は非常に長く、世界中で食され、最も人類が親しんできた貝の一つである。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていた。

生ガキはフランス料理における定番のオードブルとなっている。また、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも存在する(ニューヨーク)。ナポレオン、バルザック、ビスマルクなどがカキの愛好家であったことが知られている。

日本では縄文時代ごろから食用されていたとされ、多くの貝塚から殻が発見されており、ハマグリに次いで多く食べられていたと考えられている。

室町時代ごろには養殖も行われるようになったという。大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていた。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食された。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られている。

日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降であり、生食文化が欧米から輸入された珍しい食材である。

古来より食べられてきたカキであるが、その一方で「あたる」食品(食材)としても知られている。カキの食中毒が注目されるのは非加熱状態で食べられる機会が多いことと関係している。

現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために生産・流通段階で対策がとられている。 生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられている。 さらに、保存基準、表示基準も規定されている。

貝毒以外は十分に加熱することで食中毒を回避できるカキを含むいずれの二枚貝も、同様の処理で食用にする限り食中毒の危険度に関しては変わらないという点である。

一方、魚では鮮度を基準として「生食用」「加熱用」の区別がされていることから、カキも同様であると思い込んだ消費者が酢ガキなどに、「鮮度がいい」という理由から加熱調理用のものを生で出す事例が後を絶たないのは残念だ。ウィキペディア (再掲)

2014年10月16日

◆お助け橋・新大橋

渡部 亮次郎



今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡る。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかるけれど。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)大島(おおじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が川を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺や湾岸の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口は間もなく50万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとは「大橋」だった。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。


橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。

「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

2014年10月14日

◆カネで事件を葬った

渡部 亮次郎


金大中事件の直後、田中角栄首相と大平正芳外相宛に朴政権の日本担当相から厖大な現金が届けられた。そのために事件は真相究明が見送られ、朴政権が倒れないで済んだ、と月刊誌『文藝春秋』がすっぱ抜いて久しい。バックナンバーを捜せば出ているはず。

<金大中事件

1973年8月8日、韓国の朴正煕政権を批判し、民主化運動を展開していた野党指導者、金大中氏が滞在中の都内のホテルで拉致され、5日後にソウルで解放された事件。

拉致現場からは韓国中央情報部(KCIA)要員で在日韓国大使館の金東雲1等書記官(当時)の指紋が見つかるなど、KCIAの関与が疑われていたが、政治決着が図られた。過去史真相究明委員会は2005年にこの事件の調査に着手した。>産経新聞 2007.10.23 19:38

<韓国政府が謝罪へ? 金大中事件調査結果

産経ソウルの黒田勝弘支局長(当時)によると韓国政府の「過去史真相究明委員会」は2007.10.24日、金大中拉致事件(1973年、日本で発生)の再調査結果を発表したが、関係筋によると、事件は当時、韓国政府の中央情報部(KCIA)が組織的に行った“犯行”だったことを明らかにした。

こうなると事件は韓国の公的機関による日本に対する「国家主権侵害」ということになり、韓国政府として日本に“謝罪”しなければならないため、盧武鉉政権の対応が注目された。

日本側の捜査で在日韓国大使館1等書記官だったKCIA出身者らが関与したことが明らかになったが、韓国政府は情報機関による「組織的犯行」とは認めず、書記官の免職や金鍾泌首相(当時)を“謝罪特使”として派遣することなどで外交決着が図られた。

このため日本では野党や世論の間で「真相解明をおろそかにした政治決着」として批判の声が強く、金大中氏の政治的活動の保証など「原状回復」や、韓国政府の公的機関による「国家主権侵害」の有無などが未解決の課題として残った。

金大中氏はその後、政治的自由を得て大統領にまでなったため「原状回復」問題はすでに解決している。

今回、調査結果は事件が李厚洛KCIA部長ら情報機関の組織的な計画・承認の下で進められたという内容だから、その結果、韓国政府としては「国家主権侵害」問題で日本に対し何らかの外交的措置を迫られることになる。

盧武鉉政権は当時の朴正煕政権を“軍事政権”として批判、否定の立場で「真相究明」にあたってきた。しかし「真相」が明らかになった場合、国家として責任を取らざるを得ず、対応に苦心しているといわれる。>産経新聞 2007.10.23 19:38

これに先立ち東亜日報が98年に報じたKCIAの内部文書によれば、金書記官らKCIA要員25人が周到に役割分担し、朴大統領も報告を受けていた。

3カ月後に金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が訪日、田中角栄首相との会談で政治決着に至ったが、会談録では、紛糾の長期化を恐れた日本側が「金大中氏には来日して欲しくない」「これで終わった」と言質を与えるなど、首脳間の生々しいやりとりが明らかになった。

公文書によると、73年11月2日の日韓首相会談(東京)では冒頭、田中首相が「捜査の進展状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば改めて問題提起せざるを得ない」と迫った。

金首相が「それは必ずそうすることか、建前として一応、話をしておくことか」と聞くと、田中首相は「建前としてだ」と応じた。

また田中首相は「金氏が日本に来るような政治的センスのない人ならば将来性もない。来ないで欲しい」と捜査当局と逆の立場を述べ、金氏が真相を明らかにすれば後の政治活動に支障が出ることを示唆した。

さらに日本側で捜査が続いていることに話が及ぶと、田中首相は「建前はそうだが実際、日本の捜査は終結する」。「これでパー(終わり)にしよう」と言った。金首相は「この前、ホールインワンしたから自信を得たのか」とゴルフ談議に。

田中首相は「ホールインワンは偶然だが、こっちは本物だ」と応じた。公開されたのは事件直後から翌74年までの約2500ページ分>(asahicom2006年02月05日21時29分)

田中内閣は事件の1年前に成立。9月には特別機で中国を訪問、毛沢東主席、周恩来首相らと会談して共同声明に調印、日中国交正常化を達成した。これに私は同行取材した。マオタイ酒を一緒に飲んだ。

翌年になると老人(70歳以上)の医療費を無料化するなど意気が上がっていたが、持論の日本列島改造論に刺戟されて卸売物価が8・5%も上昇、野党から内閣の責任を追及されていた。角さんとすれば「いやぁ、チトいきすぎたわな」と頭をかいているところだった。

とはいえ月刊誌「文藝春秋」でペンネームながらしつこく田中批判をする渡部亮次郎というNHKの記者。無断で韓国訪問をしたことを口実に大阪への左遷をNHKにやらせてホットしているところへ持ち上がったのが金大中拉致事件だった。

政治記者が、商売の街大阪に行ってもやることがない。毎日、記者たちが書き損じてポイと捨てる紙くず拾いと辞書読みで過ごした。辞書は「漢字書き順辞典」。読破した。

ところで事件の顛末と結末は新聞の通りなのだが、問題は2つある。政府も知らなかった情報が1つ、多くの国民が話題にしなかった田中首相、大平正芳外相への韓国政府?からの謝礼金。

NHKが問題にした私の韓国行きは、まさにKCIAの招きによるもので毎日、読売、東京、時事に私を加えた5人が6月に出かけたもの。朝日の記者は直前になって取りやめた。当時の朝日は朴政権を認めずの立場だったから当然だろう。

出発に先立って東京で韓国大使館との打ち合わせがあり、金在権という名刺を差し出してきた公使と会った。しばらくして打ち解けたところで私が、東京で盛んに反朴政権活動をしている金大中について「このまま放置しておくのですか」と尋ねた。

金公使は中肉中背、外見も目つきも誠に温厚な感じの50近い男。おとなしい声で「そのうちに、何とかなりますよウフフ」とうめくように答えた。

不気味ともなんともない感じだったが「何とかする」事がどういう意味かは聞かないでも分かる。暗殺だと受け止めた。

大阪で新聞を読んでいると、金在権という公使は事件とともに姿を消した。そのご「アメリカへ逃亡した」という噂が流れたが、そのままである。流暢な日本語。と言っても、あの時代は韓国人は成人の殆どは日本語を話せたが。

もうひとつは何年か前、文藝春秋に元新潟県議が署名入りで書いたもので、事件の直後、朴政権の日本担当相(当時はそういうポストがあったのだ)李さんを目白の田中邸に案内したところ、李さんは持ってきた紙袋2つを角さんに示し「1つは奥さんに」といった。

すると角さんは「そうだ1つは大平君にだな」と答えた。(領収証代わりに)「色紙を書こうか」と聞くと李さんは「結構です」と断った。となっていた。雑誌の発売当時、このことをどこかに執筆したように思うが、思い出せない。文藝春秋のバックナンバーを探せば出てくるはずだ。

ソウルでは李さんと随分ウイスキーを飲んだ。「ワッタリ ガッタリ」。朴大統領の軍人時代以来の側近であったから、日本担当と言うウラの必要な仕事を任されたのだろう。

色紙を断ったところがそれを証明している。 一体いくら入っていたのだろうか、「謝礼金」。

重さは新札だと100万円で 100g,1000万円で1kg,1億だと10kg。両手で2つの紙袋は計2億円が限度か。ちょっと無理だな。いずれにしろ調達は都内の韓国企業だったはずだ。いずれ登場人物はみなあの世だ。2006.02.06再録 2006・07・26

2014年10月12日

◆「孤立覚悟で周囲見えてない」

渡部 亮次郎



夕刊フジが掲題の見出しを掲げて「検察の暴挙許した朴大統領、その心理を分析」と言う記事を11日に発売した。優れた記事だと判断するので、以下紹介する。 

韓国のソウル中央地検が、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(48)を情報通信網法の名誉毀損(きそん)で在宅起訴した問題が世界に波紋を広げている。

検察当局が、民主主義社会の根幹をなす「言論の自由」を踏みにじった背景には、朴槿恵(パク・クネ)大統領(62)の意向が強く働いていたとされる。米政府が外交ルートを通じて韓国側に照会するなど、国際的批判が噴出するなか、朴氏の心理を専門家が分析した。

「国民を代表する大統領に対する冒涜的な発言の度が過ぎる」

朴氏は先月16日、青瓦台(大統領府)での閣議でこう声を荒らげた。続けて、「(大統領への冒涜は)国民への冒涜であり、国家の立場を傷つけ、外交関係にも悪影響を与えかねない」と不快感をあらわにした。

朴氏が「冒涜」と指摘したのは、野党が言及した自身のプライベートに関する噂だ。旅客船「セウォル号」が沈没した4月16日に男性と会っていたというもので、加藤前支局長は8月3日、韓国紙「朝鮮日報」の報道などを紹介したコラムを発表し、検察が名誉毀損容疑で捜査していた。

この朴発言から22日後の今月8日、検察は加藤前支局長の在宅起訴に踏み切った。韓国の名誉毀損の要件には「被害者の意思」があるため、検察が朴氏の意向をくみ取り、判断したものとみられる。

権力による言論弾圧ともいえる暴挙に、米国務省のサキ報道官は「韓国の法律に懸念を有していることは既に明らかにしている」と発言。

国連のステファン・ドゥジャリク事務総長報道官も、「われわれは普遍的な人権を擁護するため、報道の自由を尊重する側に立っている」と強い懸念を示すなど、世界中から批判が集まっている。

それにしても、朴氏はなぜ過敏な反応をみせたのか。

新潟青陵大大学院の碓井真史教授(社会心理学)は、「今回の件に関しては、国際社会のみならず韓国メディアからも批判を浴びている。『周囲から孤立してもいい』という覚悟があっての判断なのだろう。

まじめ過ぎる性格の人がとりやすい反応だ。そういう人は余裕がない状況に追い込まれると、周囲が見えなくなってやり過ぎてしまう」と分析する。

朴氏は、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の娘として、エリート一家に育った。自叙伝『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす』(晩聲社)などによると、名門の聖心女子中学校で禁欲的な寮生活を送り、研究者を目指してミッション系私立大学の西江大で電子工学を専攻した。

自ら「勉強の虫」を自称し、成績は常にトップクラス。大学を首席で卒業するなど、模範的な学生だった。

正義感が強く、頑固な一面から「話が通じない」という意味で「不通(プルトン)」と皮肉まじりの呼称もある。ことあるごとに手帳にメモを取ることから、「手帳姫」とも呼ばれている。

壮絶な悲劇も経験している。フランス留学中の1974年に母の陸英修(ユク・ヨンス)氏が、79年には父が暗殺された。母を暗殺した犯人は大阪で生まれ育った在日韓国人。こうした特異な性格や気質、「反日」姿勢に影響しているのか。

韓国事情に詳しい『コリア・レポート』編集長の辺真一氏は「朴氏を語るうえで、もう1つ、欠かせないキーワードが『自己犠牲』だ。大統領の令嬢ということで、女学生時代からアンタッチャブルな存在で、厳しい逆風にさらされたことがなかった。それゆえに、理想主義的な正義感をいまだに持ち続けている。生涯独身を貫いているのは、『自分は国家と結婚した』という意識ゆえだろう」と語る。

朴氏が政治活動をスタートさせたのは、アジア通貨危機が起きた1997年。その時の心境を自叙伝に「私は『政治家朴槿恵』の道を行くことに決めた。大韓民国発展のため、自分の生活を全てささげる覚悟を固めた」とつづっている。

そんな朴氏だけに、自身が選挙で選ばれた大統領(公人)であり、その論評は「報道の自由」の範囲内であるのが世界の常識だとしても、前出のような噂に触れられるのは、我慢できなかったのか。

先の碓井氏は「国に身をささげるという思いが強すぎるがため、自身の私生活の話題が出たことに過剰な反応をしてしまったのではないか。女学生のようなメンタリティーがあるのだろう。

朴氏は、自分自身に『韓国民の理想的な母親像』や『聖母像』を投影している。そのイメージを傷つけられたのが、何より許せなかったのかもしれない」と分析する。

朴氏は自叙伝で、こんな本音もみせていた。

「誰もがしている合コンにも一度も行けず、友人たちと一緒に夜遅くまで街中を歩くこともない」「思えば、私の人生に恋愛らしきものは一度もなかった」

祖国のために、自らを犠牲にしてきた朴氏には頭が下がる。ただ、今回の在宅起訴によって、その愛する祖国が、世界中から「言論弾圧国家」「まともな民主主義国家ではない」とみられているのも事実だ。

                    夕刊フジ 2014.10.11




◆リンゴ主産地は中国

渡部 亮次郎



秋の果物の王者リンゴ。生まれ在所秋田や隣の山形県にもあるが、なんと言っても北隣の青森県、それも日本海岸の津軽だ。尤も敗戦後間もなく流行した霧島昇と並木路子の「リンゴの唄」の映画のロケ地は秋田県増田町である。

リンゴの原産地はなんとなくアメリカだと思っていたが原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地だといわれている。

現在日本で栽培されているものは、明治時代以降、西洋から導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。

だから台湾にリンゴはなく、日本からの土産が珍重される所以である。

江戸時代に栽培されていたリンゴは、中国から入ったワリンゴ(ジリンゴ)1種だけで、明治以後に導入されたリンゴとは別種である。

現在、和リンゴは長野県上水内郡飯綱町で1軒の農家が栽培してその姿を伝えている。

和リンゴの実は、大きさ直径3 - 4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 また2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存するワリンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した実はお盆に各地の寺社に奉納している。

リンゴをはじめてアメリカにもたらしたのは種子を携えて行った初期の開拓者だった。マサチューセッツ・ベイ・カンパニーの記録によると、早くも1630年にニユーイングランドに生育していたという。

種子は宣教師、貿易業者、アメリカ先住民によって西方にもちこまれた。ジョン・チャップマンがたったひとりでアメリカ中西部にひろくリンゴの木を植えたといわれている。しかし品種改良はあまりしなかったのかニューヨークあたりの辻で売られているリンゴは極小さい。

セイヨウリンゴがはじめて日本に入ったのは、江戸末期の1861〜64年(文久年間)江戸・巣鴨の屋敷に植えられたものとされるが、本格的な導入は1872年(明治5)に開拓使によっておこなわれた。

それ以来、600種をこえる品種が入ってきたが、現在、市場に出荷されている品種は、日本で育成されたものを含めて十数種にとどまる。

明治初期に導入され、現在も栽培されている品種には、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、旭(あさひ)などがあり、大正期に導入されたものに、デリシャス、スターキングデリシャス、ゴールデンデリシャスがある。

敗戦後、弘前周辺から国鉄奥羽線に乗っておばさんたちが秋田へ手作りのリンゴを売りに来た。それより前の戦時中は売りに来なかったものだ。高校の頃は1日に紅玉を6個も食べた。歯も当然丈夫だったから皮も剥かずにかぶりついた。

第2次世界大戦後は日本国内でも品種の育成がおこなわれ、青森県りんご試験場の育成のつがる、陸奥(むつ)が登場した。

農林水産省園芸試験場盛岡支場(現、果樹研究所リンゴ研究部)が育成した「ふじ」などが登場してきた。

「ふじ」は国光とデリシャスの交配から選抜育成されたもので、甘みと酸味のバランスがよく、母種の国光にかわって人気品種となった。日本のリンゴ栽培面積の約3分の1をふじが占める。

このほか日本産の品種には、北の幸、王林、王鈴(おうれい)、世界一などがある。

2006年現在世界では年間約6千万tのリンゴが栽培されている。生産量は中国がトップでアメリカ合衆国、フランスなどが続く。

日本では青森県、長野県、岩手県で主に栽培されており、青森県は全国の50%のリンゴを生産している。日本の都市でリンゴの生産量が最も多いのは弘前市で全国の約20%を生産している。

和名 林檎 英 Apples

リンゴ(林檎)は、バラ科リンゴ属に属する樹木、またはその果実。学名は Malus pumila var. domestica。

中国の書物『本草綱目』に「林檎一名来禽,言味甘熟則来禽也。」(林檎(りんきん)の果は味が甘く能く多くの禽(鳥の意)をその林に来らしむ。故、来禽(らいきん)の別名がある)との記述がある。

平安時代中頃の書物『和名類聚抄』には「利宇古宇(りうこう、りうごう)」としてリンゴが記述されており、これが訛って「りんご」になったと考えられている。


       

2014年10月10日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎



2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨で、それでも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究によってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。

音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。
出典:フリー百科「ウィキペディア」


        

2014年10月09日

◆アリナミンがあったなら

渡部 亮次郎



子供のころ「函館大火」を歌ったレコードがあり「あの時、オートバイがあったなら、こんな苦労はせずともえ」と唄っていた。それに倣えば「日露戦争にアリナミンがあったなら、脚気で?外も苦労せずに済んだのに」だ。

脚気を巡る日本の海軍と陸軍の争いは、ビタミンB1の発見(鈴木梅太郎)によって、あっさり海軍の勝利で決着した。黴菌説を譲らず、明治天皇から嫌われた陸軍軍医総監森 林太郎(森 鴎外)は「死後、皇室から如何なる沙汰があっても拒否せよ」と悪たれ遺言をして死んだ。

文学の世界ではこの遺言が謎とされているが、医学の面で見れば単純明快。脚気栄養説の海軍軍医総監高木兼寛は明治天皇に陪食を3度も賜ったが、陸軍の森には1度も無い。明治天皇も脚気になったが,高木のいう栄養説を聞いて治ったからである。

陸軍がその後、脚気について、どのような対処の仕方をしたかは詳らかでないが、そもそも明治37−8年の日露戦争で戦死者に匹敵するぐらいの脚気死者を出したのだから、以後も脚気対策には神経を使ったものと思われる。

日露戦争で徴兵したのは農村、山村、漁村の次男、三男。長男は除外。徴兵たちは実家では年に盆と正月しか食えなかった白米飯が只で食えると言うので夢中で食った。おかず代は現金で支給されたが、実家へ仕送りした。結果、脚気にみな掛かった。

実家では雑穀や米糠に漬けた沢庵を食べてビタミンB1を十分摂取していたが、軍隊に沢庵は無い。それにビタミンB1の豊富な豚肉もまだ食べる習慣がなかった。いずれ誰も脚気がビタミンB1欠乏症とは知らない。

陸軍は大阪発祥の薬会社「武田薬品」に対して、脚気治療薬の開発を要請していた。それで完成したのが、いまも疲労回復剤として売れている「アリナミン」。ただし発売は戦争中じゃ無く、軍が無くなって7年も経った昭和27年。「泥縄」もいいところだった。

ビタミンB1誘導材の形であれば高吸収率を維持したまま体内で再合成されることが明らかとなったのが戦後になってからだったから仕方が無い。化学合成する手段の開発とともに昭和27年に発売されたわけ。

当時、いまだに少なからず脚気患者が居たことと疲れに効果があるという宣伝文句が合わさって、当時から爆発的に売れた商品となった。隆盛期の昭和30年代は武田薬品工業の利益の半分をこの商品から捻出していたとも言われる。

2014年10月08日

◆ノーベル平和賞の怪しさ

渡部 亮次郎



<赤崎、天野、中村氏にノーベル賞=青色LED開発―物理学、日本人6年ぶり

スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2014年のノーベル物理学賞を、実用的な青色発光ダイオード(LED)を開発した赤崎勇名城大教授(85)と天野浩名古屋大教授(54)、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)に授与すると発表した。

青色の登場でLEDは赤、緑とともに光の三原色がそろい用途が拡大。消費電力が少なく、耐久性が高い特長が注目され、白熱電球や蛍光灯に代わる白色照明のほか、携帯電話などのディスプレー、交通信号などに広く利用されている。

日本人のノーベル賞は、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発で医学生理学賞を受賞した山中伸弥京都大教授以来。米国籍の南部陽一郎米シカゴ大名誉教授を含め計22人となった。物理学賞は08年に南部氏と小林誠高エネルギー加速器研究機構名誉教授、益川敏英名古屋大特別教授が受賞して以来6年ぶり。

LEDは先に赤色や黄緑色が開発され、電気機器の動作表示ランプなどに応用されたが、発光に高いエネルギーが必要な青色の実現は難しかった。1970年代に炭化ケイ素系半導体の青色LEDが作られたが、暗くて実用的ではなく、次に結晶が作りやすいセレン化亜鉛系での実現を目指す研究が主流だった。

しかし、赤崎氏は松下電器産業(現パナソニック)東京研究所に在籍して73年、性能がはるかに優れた窒化ガリウム系の青色LEDの開発を始めた。名古屋大工学部教授に転身後の89年、天野氏らと同系の青色LED開発に世界で初めて成功した。

製品化に向けた技術開発は、当時日亜化学工業(徳島県阿南市)に在籍していた中村氏が先行し、93年に同社が発表。赤崎氏の技術は豊田合成(愛知県清須市)によって95年に製品化された。特許をめぐり両社は訴訟合戦を繰り広げたが、青色LEDは急速に普及した。

赤崎氏らは窒化ガリウム系半導体で青色レーザーも開発。この技術を発展させた青紫色レーザーにより光ディスク「ブルーレイ」が実用化された。
 
授賞式は12月10日にストックホルムで行われ、賞金計800万スウェーデンクローナ(約1億2000万円)が贈られる。> 
時事通信 10月7日(火)18時52分配信

以下は2009年に執筆したものである。

ノーベル賞は日本人にとって遠いものだったが、受賞者は2009年7月23日現在 1949年の湯川秀樹氏(物理学賞)をはじめとして12人に達している。科学者以外でも佐藤栄作(元首相)、大江健三郎(作家)がいる。


<賞を作ったノーベルはスウェーデンの人で、ダイナマイトの発明などで富を得て、1896年に亡くなりました。彼の遺言で物理、化学、医学、生理学の科学部門3賞と文学賞、平和賞の授与が始まりました。

ほかに経済学賞がありますが、これはノーベルの遺言とは関係なく、スウェーデン銀行(中央銀行)が1969年から授与しています。

ノーベル平和賞だけはちょっと違う。

ほかの賞はスウェーデンの首都ストックホルムで選考され、授与されますが、平和賞だけは選考はノーベル財団ではなくノルウェー国会による委員会が選んでノルウェーの首都オスロで授与されます。ノーベルがなぜ平和賞だけをノルウェーに任せたのかは、はっきりしません。

賞の対象も、平和賞以外が学問研究や文学作品で世界的な成果をあげた人におくられるのに対し、平和賞は、国と国の関係を良くしたり、戦争のための設備を減らしたりといった社会的な業績に贈られてきました。

最近では環境問題への取り組みも選ばれるようになっています。

2007年は地球温暖化の危機を訴えている前の米国の副大統領アル・ゴアさんと、この問題を調べて対策を提案している国際組織に決まりました。

温暖化問題と平和とは何の関係もないように見えます。でも温暖化が進むと、水や食べものが不足したり、土地が水没して住む場所を失う人が大量に出たり、資源の奪い合いが起きたりする危険が大きくなります。

2004年にはアフリカで植林活動をしたケニアのワンガリ・マータイさんが平和賞を受賞しました。マータイさんは「戦争は資源をめぐって起きる。環境保護は平和につながる」と話しています。>岐阜新聞Web(2007年10月29日)より。
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/nie/news/news20071029.htm

宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 2009年7月22日(貳)通巻第2672号に依ると、中国で「08憲章」の起草者劉暁波にノーベル平和賞を、という動きを巡って共産党政府との対立が予想され「平和賞」とは裏腹なことになりそうだ。中国政府は猛烈に反対し、まず米国に圧力をかけるだろう、というのだ。

それによると、「中国民主論壇」は米国の人権団体と中国人留学生らが中心のグループで、劉暁波にノーベル平和賞を!のキャンペーンを開始するための委員会を設立する(多維新聞網、7月21日付け)。

劉は「08憲章」起草者として著名な活動家で、現在中国当局に拘束されている。

同憲章は中国の平和的発展と民主化を基軸に中国政治の変革を希求したもので、300人あまりの知識人らが署名した。

「世界の普遍的価値観と中国の特殊状況は乖離し過ぎており、世界最大の人口を抱える国が平和に発展することは世界の平和に繋がる」ので、あり、この価値観を推進する劉暁波に、この時点でノーベル平和賞を与えることは有意義である、と「中国民主論壇」は声明で述べている。

宮崎氏によると中国の反応はまだないが、嘗て魏京生のノーベル平和賞を直前で巧妙に潰し、昨年はカディール女史(「世界ウィグル会議=在ワシントン=代表」の平和賞受賞も政治力を駆使して潰した「実績」があるだけに、ノーベル財団やノルウェー議会に巨大な圧力をかけることが予測される、という。

この際、佐藤元首相の受賞についての論評は避けるが、ノーベル平和賞を巡る争いは当に戦争である。多分、戦いは共産党が勝つだろう。負けたら共産党政府が立ち行かなくなるから。

最後に「Yahoo智恵袋」から。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119726571

<中国人は基本的にノーベル賞が大っ嫌いです?

ダライラマが受賞したなんか、やつらからすると、われわれの感覚で言ったら麻原がノーベル賞取ったぐらいの感覚なので。そりゃ嫌いになりますよ。

あくまで「あいつらにとっては」ってことですよ。断っておきますが、私はダライラマを尊敬してます。あと台湾人がとってるのも気に入らないらしいです。

中国人の知り合いがノーベル賞のことぼろっかす言ってました。あんなものは欧米人の感性ですばらしいということで、われわれ東洋人は関係ない。

「あんなものに迎合していてはいけない。日本人の皆さんは、いっそのことノーベル賞なんか全部お返ししてしまったほうがいいです。そして中国が中心になって、アジアのノーベル賞を作るべきだ」と主張していました。

中国からは当分ノーベル賞に値する研究は出ないと思います。最近中国は数学オリンピックなんかで頑張っていますが、はっきり言って方向性間違えてます。

特に大学教育はひどいものだと思います。奴ら論文がまともに書けないんですよ。

自分で考えて、理論を組み立てることがまったく出来ません。本を引き写して、最後に「私もそう思います」みたいな、しょうもない論文しか書けません。それが、結構勉強ができる優秀な連中なんですよ。

中国人は勤勉だといわれます。確かに非常に勤勉です、でも「勉強」と「研究」は違います。中国は優秀な奴らに「研究」ではなく「がり勉」させて、ドンドン潰しています。
「公文式」で研究はできません。

国としては都合がいいんでしょうね、従順な奴が増えて。

実際に、中国人での受賞者は例外なく、海外の研究施設で受賞してますよね。おそらく北京大学からも、上海大学からも、当分はノーベル賞は出ないでしょう>。2009・7.22

2014年10月06日

◆朝日と3人目の「吉田」

平井 修一


世界日報9/13が「朝日新聞と3人の吉田氏」で朝日記者が窃盗で得た報告書を元にスクープ記事を書き、何と記者は日本新聞協会賞を得ているのだとこう報じている。泥棒に追い銭だ。新聞協会もイカレている。

             ・・・

「慰安婦」問題と「福島第1原発事故」で大きな影響を与えた2人の名前は偶然、「吉田」だったが、朝日新聞が世界的スクープとしてこれまで誇示してきた「チェルノブイリ原発事故報告書」(ロシア語)のスクープ報道は、ウォーターゲート事件報道のような地道な取材によるものではなく、国際原子力機関(IAEA)の広報部長のテーブルにあった報告書を盗んだ結果だったことが後日、当時のIAEA広報部長自身が認めているのだ。

その広報部長とは、NHK国際局報道部次長から国連職員に転身した吉田康彦氏だった。

それにしても朝日新聞社は「吉田」という名前の人物と不思議と縁があるのだ。3人の「吉田」氏は本人の意向と関係なく、「天下の朝日」を崩壊へ導いているのだ。(以上)

            ・・・

世界日報は2009年にもこの件を報道している。

            ・・・

ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)は創設されて早や50年以上が過ぎ、2005年にはその活動が評価されノーベル平和賞が与えられた。多くある国連専門機関の中でも花形だ。そのIAEAの外部への窓口が広報部。IAEAを取材するジャーナリストの最初の取材先でもある。

ところで、人間でも50年以上生きていると、良し悪しは別としてさまざまな体験を重ねるが、IAEA広報部も例外ではない。その中でもチェルノブイリ原発事故報告書の「横流し事件」は広報部の「汚点」として今も語り継がれている。

読者のために同事件を少し説明する。

チェルノブイリ原発事故発生(1986年)、IAEAから事故の詳細な報告書の提出を要請されたソ連政府(当時)はウィーンに報告書を送付したが、朝日新聞がIAEA広報部長(当時)から同事故報告書を入手し、その内容をいち早く報道したのだ。朝日新聞社は当時、「世界的スクープ」と豪語したものだ。

しかし、真相は公文書の窃盗事件だった。朝日新聞本社は事前にロシア語翻訳のためにロシア語専門の学者たちを本社に待機させ、ウィーンから報告書が届くと即訳し、報じたのだ。

報告書を朝日に横流しした広報部長は当時、「朝日だからあのような離れ業ができたのだ。他社だったら、送られてきたロシア語の報告書の訳に手間取ったはずだ」と告白していることから、この公文書窃盗事件は朝日と当時のIAEA広報部長による確信犯罪だったわけだ。

ハンス・ブリクス事務局長(当時)は報告書を横流しした広報部長を即解雇しようとしたことはいうまでもない。(以上)

               ・・・

しかし、国連機関初の「日本人広報部長」ということで注目されていた吉田氏の解雇はまずいと判断した日本外務省の要請を受け、IAEA側は吉田氏を後日、ジュネーブの国際機関に異動したという。

窃盗なのか横流しなのか。吉田が「俺はトイレに行ってくる」(その間に持っていけ)と離席し、阿吽の呼吸で朝日記者が持ち去ったのだろう、と小生は思う。

調べたらこの記者は朝日新聞東京本社企画報道室・原発問題取材班代表/科学部の西村幹夫氏のようで、1987年度新聞協会賞を受賞している。あるいは報告書を実際に入手したのは彼の部下なのかもしれない。

ネットにはこうあった。

<西村幹夫氏 元朝日新聞記者、ジャーナリスト

1940年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。1964年朝日新聞社入社、西部本社社会部記者、東京本社科学部デスク、大阪本社科学部長、東京本社調査研究室主任研究員、編集委員などを経て、フリージャーナリスト。

編著訳書に『心のデザイン』(86年、朝日新聞)、『地球被爆 チェルノブイリ事故と日本』(87年、朝日新聞)、『スペースシャトルチャレンジャーはなぜ爆発したか』(92年、朝日新聞調査研究室社内報報告211)など。

現在、水俣病事件の詳細な年表を作成中>

西村は新聞協会賞受賞という「名誉」を自身の履歴に載せていないようだ。窃盗を恥じたのか。ウィキによれば吉田康彦もかなり怪しい人物だ。

<吉田康彦氏は大学院情報学環・学際情報学府修士課程中退。

日本放送協会(NHK)に23年間勤務し、ジュネーヴ支局長、国際局報道部次長を務めた後、1982年に国連職員となる。ニューヨーク、ジュネーヴ、ウィーンにて勤務し、国際原子力機関(IAEA)広報部長などを務め、1990年に帰国。

1993年より埼玉大学教養学部教授となり、国連、国際機構、NGO(非政府組織)、核・原子力問題、朝鮮半島問題についての解説・評論記事を数多く執筆。また、テレビ・新聞等のメディアで頻繁に登場し、発言している。

北朝鮮による日本人拉致問題について、1997年に「(拉致は)伝聞に基づくものであり、工作員の特定もされておらず、実態として韓国安企部の情報操作に躍らされている」と述べ、北朝鮮による犯行を否定していた。

これらの発言などから、拉致被害者家族の支援者や右派系メディア・論壇などから「拉致否定派」として批判を受けることがある。

批判に対して吉田は、北朝鮮による日本人拉致そのものを否定したことはないと弁明しているが、「拉致軽視」と取られかねない主張を自身のホームページや毎日新聞などへ寄稿しており、「私は拉致疑惑事件は韓国公安機関の安全企画部による謀略ないしデッチあげ、と信じる」とも述べていたこともあったが、北朝鮮が拉致を認め、謝罪してからは不明を恥じ、謝罪した>

謝罪で済む問題か。嘘つきだろう。朝日や岩波と同じく中朝の手先、代弁者としか思えない。

朝日とNHKは赤い糸で結ばれている。ともに慰安婦で大騒ぎをし、原発再稼働にブレーキをかけている。アカのネットワークには警戒しなくてはならない。(2014/9/13)

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2014年10月05日

◆マスコミは正義に味方せず

渡部 亮次郎


信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような
マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから顔をした。

だが民放が本格的になって来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」人間だったからだ。

流石に大衆はもう気づいていたから先の東京都知事選では小泉が原発即時廃止といくら叫んでも小泉にはそのための備えも対策も無くただ叫んでいるだけだと見破っていたから細川は惨敗した。

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦はかじった人は「騙された」という批判をしたくなる。

衆院「解散」を巡る動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。麻生は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことだからである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしないでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。なぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)

2014年10月03日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2014年10月01日

◆情報は入手方法さえ

渡部 亮次郎



「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠) 

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。


「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。(だが古澤さんは入院し花岡さんは亡くなられて私は落胆している)。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。其の岩見さんも亡くなった。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。(福島さんはその後、フリーになられた)。


現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だが英語に堪能、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。


元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。

2014年09月29日

◆しゃべろん松岡洋右

渡部 亮次郎

細川護貞(故人)によれば、外務大臣時の松岡洋右(まつおか ようすけ)は大変な話し好きで朝から晩まで喋っていた。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにそのまま持帰ったということもあった。

また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していた。話が途中でも、時間がくれば1時間なら1時間で話相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという(伊藤隆編「語りつぐ昭和史」第2巻)。

妹:藤枝(山口県、医学者佐藤松介に嫁する)―佐藤松介は佐藤栄作元首相、岸信介元首相の叔父にあたる。藤枝・松介の長女・寛子は佐藤栄作に嫁いだ。安倍晋三も血が繋がっている。

日本の国際連盟脱退を進め、アメリカ敵視の日独伊三国同盟の推進者、戦争犯罪人として68歳で病死した「まつおか ようすけ」。

1978年、日中平和友好条約の締結を急ぐ園田直外相は2代目松岡と党内から非難されたものだ。

1880(明治13)年3月4日、山口県光市室積で廻船問屋の四男として生まれる。11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米。

オレゴン大学法学部を1900年(明治33年)に卒業する。ポーカーの名手だったという。母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。

1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格、外務省に入省する。外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。

その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本粂太郎の知遇を得る。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内正毅内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。

1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。すぐに山本条太郎の引抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本粂太郎)。

1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月第17回衆議院議員総選挙で郷里山口2区から(政友会所属)当選する。議会内では、外務大臣幣原喜重郎の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。

なおイタリアを訪問した際に、同国で独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニと会見しているが、このころから親ファシズムの論調をとり始め、「ローマ進軍ならぬ、東京進軍を」などと唱えた。

1932年10月、松岡は国際連盟総会に日本首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも当時の文芸春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。

日本政府は、満洲建国に関するリットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が1面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切 」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年2月まで)。

1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。

松岡はまず、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官四十数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

日独伊三国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年(昭和16年)3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにヨシフ・スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐アメリカ大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、「アメリカ側の満州国の事実上の承認」や、「日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること」が盛り込まれていた。

この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血を注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められていたことを松岡の自尊心が許さなかった。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛文麿は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし涙を流したという。

しかし、開戦2日目に徳富蘇峰に送った書簡が最近発見され、松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第2次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。

その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語った。

しかし、結核悪化のため東京裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年(昭和21年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。

辞世の句
「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉 (よみじ)」

山田風太郎(小説家 故人)は「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。

昭和天皇は松岡を嫌っていたといわれる。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれている。

1978年に靖国神社がA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードもある。

妻:龍(工学博士進経太長女)
長男:謙一郎(実業家) - 山口淑子の恋人
長女:周子(愛知県、元宮内庁長官田島道治の長男譲治に嫁する)
甥:松岡三雄(政治家・元山口県光市市長) - 三雄の長男は元参議院議員の松岡満寿男である。

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