2013年02月07日

◆お前の女房はいい女だから元から俺のもの

渡部 亮次郎


わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969 (昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

「俺の女房は俺の物」と年がら年中叫んでいたら、日本では気違い扱いされる。

だが中華人民共和国になるまえから、中国では嘘も百回言っていれば、聴いている方は本当と思うと信じている、信じ難い人々なのだ。気違いの真似をするのが厭ならば、指をくわえて尖閣を見捨てることになりかねない。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

                         2013・2・6加筆

2013年02月03日

◆大平を死に追いやった者

渡部 亮次郎


四十日抗争(よんじゅうにちこうそう)は、1979年に起きた自由民主党内の派閥抗争。自民党史上最大の危機といわれた。

1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙における自民党の敗北から、11月20日の第2次大平内閣の本格的発足までの約40日の間、自民党内で抗争が行われたためこの名がある。

衆院選での敗北 。1979年の衆院選で自民党は248議席しか獲得できず、前回1976年の衆院選の獲得議席249議席を割った。1976年当時党総裁だった三木武夫は選挙結果を受け辞任に追い込まれており、当然のごとく大平正芳総裁への責任を問う声が上がった。

しかし大平は、田中角栄の支えもあり、続投を表明した。そのため、大平政権下で反主流派となっていた福田派・中曽根派・三木派・中川グループは辞任要求を強めた。

主流派の大平派と田中派は中道政党との連立政権を模索し、反主流派は最終手段として自民離党、新党結成を画策するなど、党内は修復不可能なまでに分裂した。

自民党は首相候補が一本化できないために、国会を開会することができなかった。日本国憲法の規定による国会開会の期限が迫ってきたので、10月30日に特別国会を開会するも、開会日は首相指名投票なしで散会という異常事態となる。

大平は選挙後に行われた三木・中曽根康弘・福田赳夫との会談で、党分裂を心配した中曽根の「実力者会談に大平の進退を預け、最終的に福田が判断する」という案を蹴り、党機関に進退を一任すべきと主張、政権に固執する姿勢を鮮明にした。

そのため、大平になんらかの形で責任を取らせた上で政権存続を認めようと考えていた福田の怒りや中曽根の失望を買い、反主流4派は辞任要求を強めた。

副総裁である西村英一は調停に奔走し、三木・中曽根・福田と相次いで会談した。福田の「総理・総裁分離案」または「期限付き政権存続」の方向で話が進むのであれば責任をとった形になるため、大平との会談に応じるという意向をもとに、西村は大平に大平自身の進退を自分に一任しなければ調停できないと主張した。

大平も玉虫色表現で一任を認めた。西村はそれを基に福田と大平の会談をセットしたが、大平は西村に非主流派と主流派の意見をとりまとめを一任しただけで、最終的には自分で判断すると考えていたため、大平が進退を含めて一任したと解釈した西村・福田との間で食い違いが生じ、会談は決裂に終わった。

その後、大平は西村への進退の一任を決断したものの、時すでに遅く、非主流派では強硬論が台頭し、結束が高まっていた。首相候補問題と大平首相の責任問題は党機関へ一任することで進められていったが、ここでもその党機関を代議士会(衆院議員のみからなり、反主流派優勢)とするか、両院議員総会(衆参両院の議員からなり、主流派優勢)とする
かで対立することになる。

主流派の大平派と田中派は、両院議員総会での首相候補決定を決断する。

一方、反主流派は福田を首相候補とするために、「自民党をよくする会」を結成した。

反主流派は両院議員総会が行われるはずの党ホールを、椅子でバリケードを作って封鎖し、物理的に両院議員総会を阻止しようとした。浜田幸一が反主流派と交渉に臨むも解決できず、交渉を打ち切って実力行使でバリケードを強制撤去し、何とか両院議員総会を開催にこぎつけた。

両院議員総会では大平首相を首相候補とすることを決定するが、反主流派はそれを無視する形で、独自に福田赳夫を首相候補とすることを決定した。

党分裂を回避したい一部勢力は、分裂回避のために、「大平総理・福田総裁」という総理・総裁分離案、「次回総裁公選を翌年1月に繰り上げ・翌年1月まで大平体制維持」とする妥協案を出した。

前者は大平や田中が「第一党の総裁が総理となるのが議会制民主主義の常道」としてこれを蹴り、後者は反主流派の領袖である福田・三木・中曽根・中川一郎が大平が1度辞任するということで了承はしたものの、山中貞則ら強硬派が「大平が次回総裁公選に出馬しないことを了承しなければ認められない」と主張し、不調に終わる。

11月6日、首班指名選挙が行われるが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという、前代未聞の事態となった。

衆議院・1回目投票の結果

大平正芳 135票、福田赳夫 125票、飛鳥田一雄(社会党) 107票、竹入義勝(公明党) 58票、宮本顕治(共産党) 41票佐々木良作(民社党) 36票、田英夫(社民連) 2票。

この結果、誰も過半数の票を得ることができず、野党各党を退けた、自民党の上位2名による決選投票にまでもつれ込んだ。衆議院では大平138票・福田121票という投票結果となり、17票差という僅差で大平が指名された。

野党各党は、新自由クラブが1回目から大平に投票した他は決選投票では棄権に回り、また複数の党が協力して決選投票に駒を進めようとする動きも見られなかった。

大平派が公明党を、福田派が民社党を取り込む動きもあったが、両党とも棄権を選んでいる。

なお、参議院では1回目が大平78票・飛鳥田51票・福田38票と続き、大平と飛鳥田の決選投票となったが、福田派とミニ政党の一部が大平に回った他は棄権に回り、大平97票・飛鳥田52票で、衆議院同様大平が指名された。

組閣において、首班指名で大平に投票した新自由クラブと閣内連立を模索して閣僚入りさせようとしたが、反主流派が反発して組閣は難航した。

11月9日、大平は文相を自らが臨時代理として兼任する形で第2次大平内閣を発足させ、新自由クラブとの連立枠としての閣僚人事の余地を残す形で急場を凌いだが、11月20日、最終的に閣内連立を断念し、文相は自民党の谷垣専一を起用して抗争は一応終結した。

しかし、この対立感情はその後も依然としてくすぶり続け、翌年のハプニング解散につながることになる。

四十日抗争のあと1980年5月16日、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。

解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派である自民党刷新連盟が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。

これに先立ち、社公民の野党3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は不信任案提出で合意した。

これに対し、春日一幸民社党顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた民社党の佐々木良作委員長は提出に難色を示すが、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・玉沢徳一郎を通じて衆院本会議に上程された。

自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。

しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。 前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グル−プなどの議員69人は本会議を欠席した。

これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。

中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。

反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、本会議場において森喜朗ら若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。

また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。

不信任可決を受けて大平内閣は閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。

内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。内閣は6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施することを決め、史上初の衆参同日選挙となった。

野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し、結果として解散に至ったため、「ハプニング解散」と呼ばれる。

なお、大平首相は新聞記者に対し「政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあっても、どうということはない。俺も鳩山内閣不信任案に欠席をしたことがある。政党は分離と独立を繰り返していくものだ」。

「昨年の首班指名の時は別の名前を書かれたが、今回は欠席だから状況はよくなっている。諸君は事実上の分裂選挙と言うが、総裁以下号令一下、挙党一致で闘ったことなど一度もないんだよな」と語っている。

自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。

当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。

22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。

これは自民党に多くの同情票が集まったためと言われることが多いが、一方で石川真澄(朝日新聞記者)などは「四十日抗争、ハプニング解散、そして現職首相の総選挙中の死という異常な出来事が1年の間に次々と起きたことが、有権者の政治への興味、関心を高め、投票所に向かわせたことが勝因である」との見解を示している。

また、一般的には敗北とみなされている前年の衆院選でも、自民党の得票率は回復傾向を見せていた。自民党の勝利は、都市部で投票率が大きく上がり、それがそのまま得票増になったところが大きく、都市住民の自民回帰も指摘された。

ともあれ、大平の死によって形としては党の一致団結を見せたものの、解散の引き金となった福田・三木派といった反主流派は、ポスト大平において声を上げることが困難となり、鈴木善幸の後継選出につながった。

この混乱過程で主流派入りを宣言した中曽根は、行管庁長官という立場でポスト鈴木の最右翼につけることになった。こうして、ハプニング解散は以後の自民党政治の帰趨に大きな影響を与えた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1978年の自民党総裁選挙で「まさか」の敗北により、無念の下野を余儀なくされた首相福田赳夫氏は、大平の背後に「金権の田中角栄あり」として大平を徹底的に「虐め」抜いた。

その結果が四十日抗争であり、ハプニング解散であり、大平の急死であった。予ねて糖尿病を患っていた大平の死は「イジメ」のストレスによる心筋梗塞だった。

歴史にIfはないが、仮に福田が大平いじめをしていなければ、大平の後継者は確実に福田だった。それを知る主流派は福田のふの字も言い出さず、本人も期待してなかった鈴木善幸を据えた。

なお言えば、この一連の騒動で中曽根が浮上し、鈴木の後に政権を樹立するという「得」をした。             2013・2・2

2013年02月02日

◆歴史を歪曲する福田康夫

渡部 亮次郎


友人の元林野庁長官から1月26日の宴席で小さな新聞の切抜きを渡された。<人物抄 園田直 派を除名「心はさわやか」>とあった。わが師園田のこと、高校同期のよしみで、わざわざ持って来てくれたのか、ありがとう。宴席でもありポケットに入れた。

ところが翌日改めて見ると記事には並んで「証言 大福密約はなかった」という元総理大臣福田康夫さんの談話が載っているので、些か驚いた。歴史を歪曲し、相手の大平正芳氏を誹謗するものである。

切り抜きは読売新聞からの物だが、残念ながら日付をたしかめようがない。手渡された経緯から判断して2013年1月中のことと思われる。

ご承知のように康夫さんは先の総選挙に出馬せず、イスを長男達夫さんに譲られた。肩書きは元総理大臣だけれども、その前は父親赳夫(たけお)氏が総理大臣のときは首席秘書官だった人物。

福田赳夫内閣で私は外務大臣園田直(すなお)の秘書官だった。康夫さんからは「親父の総裁再選に直(ちょく)さんがもっと真剣に取り組むよう、ナベさんから、つっついてくれよ」と赤坂の料亭に呼ばれてそれこそ突っつかれたものだ。

しかし私は返事の仕様が無かった。「密約」の事実を大臣から聞かされていたし、事実、園田を官房長官から外務大臣に追う際、総理が園田に囁いた理由は「例のことをしゃべりすぎたね」だった。総理自信「密約」を再確認していたのである。

園田は官房長官の末期、幹事長の大平氏と何度も極秘に会談し「任期2年」の密約をせめて1年延長するよう懇願し、大平氏も了承に傾きかけていた。

私は左遷先の大阪から東京に戻っていたが政治部のある報道局ではなく国際局の副部長と暇な部署だったので、予ねて懇意の園田氏と夜に公邸で度々会って経過を聴いていた。大阪へ飛ばされる1年前は福田派担当記者だった。

だから昭和52年11月の内閣改造の際、私に園田氏から「秘書官になってよ」と言う電話があったとき、当然官房長官秘書官だと確認し家を出た。ところが総理官邸に着いてみたら園田氏は前閣僚からたただ一人居残り、ポストだけが外務に変わっていた。

後で調べると、福田総理は早くから園田氏を官房長官から外すことを決意していた。それは昔の親分岸 信介氏からの要請に応えるためだった、<晋太郎(女婿)を官房長官にしろ>。

とはいえ、政権樹立最大の功労者園田をいきなり外に放り出すと何を仕出かすか分からない。危険だ。そこでただ1人残し、No2の外務大臣なら文句あるまいと踏んだのである。

このとき世間もマスコミも此れは日中平和友好条約締結への積極論者だった園田をして条約を締結させるものと総理のハラを読んだ。しかし園田の受け方は全く違っていた。まず怒った。「密約反古の人事だ」。

確かに福田氏は次第に大平氏と距離を保つようになり、あろうことか自らは「降ろした」筈の三木武夫氏や選挙区ではライバルの中曽根氏と距離を縮め、とくに中曽根を総務会長に起用した。長期政権を展望させる布陣ではないか。

かくて大福密約は軽々しく反古にされ、総裁選挙は予備選挙で「死闘」の展開となったが、福田氏は「予備選挙に負けて方は本選挙を辞退すべき」など自信満々だったがあっさり敗北。大平と角栄の恨みを買ったのだ。なのに全く反省のないまま「天の声にも時には変な声がある」と嘯いて官邸を去った。

園田は既にこの結果を予測し、田中・大平陣営に近付いていたので外務大臣は再選。しかし、「大平のあとは再び福田」と言って福田陣営をけん制したが、40日抗争を経て福田派を除名され、「政界の逸れ鴉」と成り果てた。

しかし大平が急死した後、角栄邸にかけつけあっという間に鈴木善幸を次の総理に祭り上げた。外人記者たちは言った。
Zenkou Who?

康夫さんは紙に書かれた「密約」を見ていない。私はみた。それはそうだ赳夫親父としては「ほれ、この通り密約があるのだ」と息子にみせるわけにはゆかない。恥辱だもの。

康夫さんは、だから悪いのは大平で「密約なんて無かった」と言いたいのは当然かもしれない。しかし約束を破ると言う罪を初めに犯したのは福田赳夫であり、予備選で負けたことを逆恨みしたのは矢張り福田である。

福田に苛め抜かれて死んだのは大平だった事は歴史的事実である。
予ねて糖尿病を患っていた大平さんの心筋梗塞は政争のストレスによる急死だったのだ。

康夫さんがあんなことを言わなければ私はこんなことを書きたくなかった。

赳夫さんはその5年前、角福戦争に敗れた。政権はその後更に三木に渡り、今度こそ獲得しなければ永遠に遠くなりそうだった。だから「たとえ半年でも3ヶ月でも」と懇願するように呟いた。だから園田はまだ「政敵」だった角栄に頭を下げた。それが「密約」だった。

園田と言う人はその実、実直で、小心な人だった。一番嫌いだったのは注射。だから糖尿病なのにインスリン注射から逃げまくった。小心だから却って武道家としても名をなし、結婚を3度もした。嘘をつけない人だった。その園田も政界はぐれ鴉に成り果てた末、糖尿病の悪化で人工透析をする身となり最期は盲目で死んだ。まだ70だった。 2013・2・1

2013年01月31日

◆戦犯死刑囚を救った歌手

渡部 亮次郎


捨てられる運命にある歌謡曲のCDたち。せめてその前に聞き収めてやろうと若干をMDに納め、散歩しながら聴いているが、2013年1月30日に聴いたそれには渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が納まっていた。

何十年かぶり、涙を抑えながら聴いた。私が涙を抑えるなんて。戦犯死刑囚を救ったこの歌の経緯を振り返ってみよう。

「ああモンテンルパの夜はふけて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康。

2人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。フィリピンは日米戦争でマッカーサー元帥相手で最大の激戦地だったところ。

戦争が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われた。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれた。

A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」。

戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為である。B級は従来の戦争法規に規定されていたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科だ。

日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われた。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告さた。

しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくなかったが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていた。

文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりあった。

勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがない。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通だ。

昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。

戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。

6月になって、当時神奈川県鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。封書には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていた。

「モンテンルパの歌」は、収監されていた日本人111人の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

(一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのこと)。

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいるなんて。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡辺はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフフィリピンへ渡ろうとした。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり1年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。

それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。

会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあった。

半年後の昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から1つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。

そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。

暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。

じっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。

しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。

横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。 参考(「二木紘三のうた物語」) 2013・1・30

2013年01月30日

◆作文に不可欠なリズム

渡部 亮次郎


私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHKだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だ。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を悪文という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのはきるべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、そしてでつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。

2013年01月29日

◆100万円は100g

渡部 亮次郎


こんな事をご存知ですか。1000万円は1000gつまり1Kgである。だから1億円は10Kg。とても持ちきれない。車で運ぶしかない。

金大中拉致事件を田中角栄政権が「政治的に」解決した時、「お礼」として、当時の「日本担当閣僚」が目白の田中邸に買い物袋2つに現金を詰めて運んだ。

買い物袋に入る重さの限度はどのくらいだろう?5Kg=5000万円が限界じゃないか。閣僚は袋を両手に下げて「1つは奥様へ」といったら角さんは「そうか大平君(外務大臣)だね」と答えたという。

この話は閣僚を案内した田中後援会の幹部が月刊誌「文芸春秋」で披露して私を驚かせたが、世の中にはあまり評判にならずに終わった。角さんが「色紙を書こうか」と言った。領収書代わりである。

だが閣僚は不要と答えた。大平外相に渡ったかどうかは知る由も無いが、角さんが猫糞するような人ではなかったことは確かである。

ところで紙幣を重さで量る話は田舎の県会議員なんかを相手にした時は出るわけもない。やはり中央の政界である。私に教えたのは政界の、それも実力者と言われる人物だった。

政界と言うところは人にカネを掴ませる時は確実に現金を掴ませる。小切手なんかではない。それも新聞紙にくるんだり、買い物袋に入れて渡すのが普通だ。相手がかしこまらないよう、気を遣うわけだ。

石橋湛山政権の出来るときが現金買収のはじめと言われているが、昭和30年代前半のあの頃は精々100万単位だった。それを10倍にしたのが角福戦争といわれた田中角栄対福田赳夫による昭和47年の自民党総裁選挙だった。

石橋・岸時代はまだ1万円札はなかったから「買収」にもなんだか「重み」があったのじゃないか。

福田は現金は全く使わず、使ったのは専ら角さんといわれた。1000万円はサントリーだるまの空き箱に納まるといわれた。

現在の政界ではこうした話は無縁。ただ1人知っているのは小沢一郎である。目方で量る話も知っているはず。角栄、金丸信の教育である。

                       (文中敬称略)


2013年01月27日

◆作詞家の罪の数々

渡部 亮次郎

楡(にれ)の木に鳥が鳴く アルプスの牧場よ と灰田勝彦が良く歌っていたが、楡の木を見たことが無かった。高校の先輩、東海林太郎も「楡の花咲く時計台」と言う歌を歌っている。よほど詩心を揺すられる木なのだろうか。

私の生まれた環境は四方が水田ばかり。写生する風景がどこにも無かった。ところが老年になって東京湾岸、江東区に住むようになって、都立猿江恩賜公園で楡の木を見つけた。なんとも穢い樹皮をまとった木では無いか。

公園事務所がわざわざ「にれ」と言う札を付けてくれなければ見向きもしなかっただろう。とにかく、樹皮は黒くひび割れて、ばらばらと今にも剥げ落ちてきそうである。

にれ(楡)はニレ科ニレ属の落葉樹と半落葉樹の総称である。シベリアからインドネシア、メキシコ、日本まで北半球の広範囲で見られる。にれの実は丸い翼果である。にれの全ての種は土壌pHに耐性がある。

にれには20から45の種類がある。数の曖昧さは種の範囲設定についての困難さに起因する。にれの木材は木目が絡み合っていて、結果的に分割に抵抗がある。主に車輪、椅子のシート、棺に使われる。この木材は腐食にも強い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和38(1963)年に大ヒットした歌謡曲に西田佐知子の「エリカの花散るとき」と言う実に詩情溢れる歌がある。

エリカという響きはなんとなくロマンティックだが、実物を見ると、わたしなら見て詩を書くような気にはならない。詩人は現物よりも名前の響きに詩心を寄せるものらしい。

「青い海を見つめて 伊豆の山かげに エリカの花は咲くという 別れた人のふるさとを 尋ねてひとり 旅をゆく エリカ エリカの花の咲く村に 行けばもいちど 逢えるかと」。ベテラン水木かおるが謳いあげた。

エリカ Erica ヨーロッパからアフリカに分布するツツジ科エリカ属の常緑低木群(→ 低木)の総称。

荒地や岩場に生える(→ ヒース)。高さは15cmくらいから3mまでさまざま。葉はふつう3〜6枚で輪生し、線形で厚く、裏面に深い溝が1本はいっている。花は総状または散形花序(→ 花序)につき、花の色には白、ピンク、赤などがある。

日本では南アフリカ原産のジャノメエリカが切り花、鉢植え用としてよく栽培される。喫煙用のブライヤー・パイプは地中海沿岸から西南アジアに分布するエイジュの根からつくられる。

ギョリュウモドキはエリカ属ではないが、花がエリカに似ているので、園芸上、エリカとみなされることもある。

「空の雲に聞きたい 海のかもめにも エリカの花の 咲くところ 逢えなくなって なおさらに はげしく燃える 恋ごころ エリカ エリカの花が散る時は 恋にわたしが 死ぬ時よ」

確かにエリカには「孤独」と「寂寞」という花言葉がある。詩人はそれを知って歌をつくった。西田佐知子の代表作として残っている。作詞家とは何も無いところから恋の歌もつくる。罪なことをなさる。

反対に川内康範氏のような「生命を賭けて」作詞する人もいる。大島紬を着た女性が出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。

だから「おふくろさん」に関して起きた森進一氏とのトラブルの行方は森氏が考えるような簡単なものではない。私も何度か会って、その激しさを知っている。その理由を2007年3月15日発売(東京)の「週刊新潮」が詳しく書いている。

参考. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.
2007.03.03

「愛染(あいぜん)かつら」。昭和13(1938)年に公開された松竹映画。明治天皇の落胤と伝えられた作家川口松太郎の原作。当時、物凄くヒットした映画であり、主題歌「旅の夜風」も大ヒットした。

当時2歳だった私はそんな事は知らない。愛染桂という木があるのかと捜したがなかった。桂といえば、昔赴任した秋田県大館市の昔の城は桂城。桂とは何となくロマンティックだが、猿江公園で確認した桂は穢い肌の木に過ぎなかった。

カツラ(桂) 山地の渓流沿いに生え、新緑と黄葉がうつくしいカツラ科の落葉高木。北海道から九州までと、中国、朝鮮半島に分布。日本各地の庭や公園などにも植えられている。高さ20〜30m。

樹皮は縦に割れ目があり、はがれやすい。葉は対生し、丸みのある広卵形で、基部はへこむ。雌雄異株。4月ごろ、葉に先だって雄花と雌花が短枝に多数ひらく。

花には萼(がく)も花冠もないが、雄花の多数の葯が赤紫色でうつくしい。果実は円柱形の袋果でややそりかえる。黒紫色に熟すとわれて、先端に種子をだす。

カツラ材は香りがよく、緻密で耐久力があるので、建築、家具、船舶、楽器、彫刻、鉛筆などにつかわれる。

近縁種に葉がカツラより大きいヒロハカツラがあり、中部地方以北に分布する。

桂という漢字は、元来ニッケイやモクセイ(木犀)など香りが高い木にあてられるものであった。景勝地として知られる中国の桂林などはキンモクセイにちなむとされる。また中国では、月に生えると想像された木にもこの字があてられた。

文句をつければ只の栃の木をわざわざフランス語で「マロニエ」と言って、上等のように見せるのにも腹が立つが、いい加減に止めておこう。


2013年01月26日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて1972年、特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそう
であろう。

「ウィキペディア」は<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」(蒋介石)からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

田中訪中の1972年から「支那」と言わなくなったと唱える人が居るが、間違いなく、それ以前から「中国」と言っていた。国交正常化に備えたNHK政治部の研究会も「中国研究会」だったもの。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。
2009・07・16執筆 再掲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年01月24日

◆iPS細胞から世界初の腎細胞作成

渡部 亮次郎


産経ニュースは2013.年1月23日、
<iPS細胞から世界で初めて腎細胞作成 京大グループ>と報じた。

世界中に多くの患者がいる腎臓病の治療薬研究に役立つほか、将来的には、腎臓を作製(再)することにもつながると期待されている。

<ヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から腎細胞を作り出すことに、京都大iPS細胞究所(所長、山中伸弥教授)に所属する長船健二准教授らのグループが世界で初めて成功した。22日付の英科学誌ネイチャーコミュニケーションズに掲載された。

作製した細胞を腎臓の5種類の部位に分化させることにも成功。これらを使って腎疾患なを再現できれば、世界中に多くの患者がいる腎臓病の治療薬研究に役立つほか、将来的には、腎臓を作製(再生)することにもつながると期待されている。

グループは、皮膚から作ったヒトiPS細胞に、腎細胞への分化を誘導するとみられる化合物と2種類のタンパク質を加えて培養した。10日目には全体の90%以上が、腎細胞の元になる「中間中胚葉」と呼ばれる細胞群になったという。

さらに約2週間培養を続けた結果、尿細管など腎臓の一部になり、腎臓に分化する能力があることが確かめられた。マウスの体内に中間中胚葉を移植して培養しても、同様に腎臓の一部に分化した。

また、中間中胚葉にマウスの胎児の腎臓細胞を加えて培養したところ、管状の器官が作られることも確認、立体的な腎臓の作製につながる可能性も確認できたという。

今回、作製したのは、約20種類ある腎臓の部位のうち5種類だが、残りも作製可能とみており、部分的に腎臓に移植する細胞療法での活用も期待される。

これまでiPS細胞からは心筋や網膜、肝臓などの細胞が作製済み。しかし腎臓は、他の臓器と比べて構造が複雑で、再現は比較的難しいとみられていた。

長船准教授は「腎臓病は患者が多く新たな国民病ともいわれる。将来的には、人工的に腎臓を再現できる可能性も確かめられた」と話している。>(産経ニュース 2013.1.23 11:30 )

私は幸いまだその状態には至ってないが、糖尿病患者のかなりの人が腎臓を痛めて腎不全に陥り、命を落とす。それを避けるには今の医学では人工透析によって血液の浄化をする以外にない。

しかもその人工透析には1回5〜6時間を必要とし2日に1回ぐらいのペースで受診する必要がある。殆ど仕事ができない状態に追い込まれる。精神的な苦痛も大変なようで、自殺に追い込まれた人もいる。

要するに腎臓の移植しか透析を回避する道はないのだが、ヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から腎細胞を作り出すことができるとなればこうした人々にとって、このニュースは最高の福音である。

ノーベル賞を受けた山中伸弥教授は授賞直後、あるインタビューで次のように語り、今日を予測していた。弟子たちの仲から次のノーベル賞授賞者が出るかもしれない。長船健二准教授かも。

<山中:ですから、やはり今後はこのiPS細胞は、他の幹細胞(とともに)、再生医療の応用というのは進んで行くと思うのですが、逆に言えば、将来、そういった再生医療の分野で画期的な仕事をされた方は、またノーベル賞をもらわれる可能性は、充分あると思います。

竹内:つまり、iPS細胞を利用して、創薬ですとか、再生医療の道を切り開いた方が、将来この分野でノーベル賞を受賞される可能性があると。

山中:充分あると思います。例えば脊髄損傷、いま受傷すると、もう麻痺が治らないのを、ある幹細胞を使って、iPS細胞かもしれないし、他の幹細胞かもしれないのですけども、そういった治療で、もう皆が治ると。そういう本当の意味の治療にする方が出て来たら、かなりの可能性で、その方はノーベル賞をもらえると思いますし。他の疾患でも、今、治らない病気がたくさんありますので、そういう病気の、本当の意味の治療法を作られた方っていうのは、これから新たなノーベル賞、それはノーベル医学賞の方ですよね。

竹内:医学賞の方で、取られる。

山中:はい。これ、1つの賞なのですが、これまでの受賞者を見ましても、明らかに医学賞だと思われる人と、生理学賞だと思われる人と、ちょうど中間の人と、いろいろおられると思いますが。        2013・1・23

2013年01月22日

◆さようなら岡本敦郎さん

渡部 亮次郎


ホームソングの歌手岡本敦郎(あつを)さんが旧ろう 2012年12月28日び亡くなった。満88歳没だった。私の青春は岡本さんの歌と共に在ったようなものなので、実にがっかりした。

一つの時代が終わったと言うなどという軽いものじゃなくて「俺も終わりがちかいのだなぁ」という思いである。

岡本さんとは言うけれど会う事は遂になかった。

敗戦の翌年1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲である。明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲だったそうだが、そのころ、家にはラヂオが無かったから知らない。

ラヂオが来て「ラヂオ歌謡」にしばしば登場するようになり、類稀なる美声と歌謡曲に無い、豊かな詩情に、のめりこむようになった。あれは高校に入ったころだった。以下「ウィキペディア」による。

本名 尾加一夫 。 1924年12月25日、北海道小樽市に生まれる。 武蔵野音楽学校 (現武蔵野音楽大学声楽科卒業。日本コロムビア所属。

抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを手始めに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章(北海道出身)で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。

「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり、岡本敦郎の代表曲となった。

私の入った高校は秋田県でもトップクラスの進学校。息がつまった。息抜きにNHKののど自慢に出場した。その曲は「チャペルの鐘」(1952年)だった。

チャペルの鐘

作詞:和田隆夫、作曲:八洲秀章、唄:岡本敦郎

1 懐かしのアカシアの小径(こみち)は
  白いチャペルにつづく道
  若き愁い 胸に秘めて
  アベマリア 夕陽に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

2 嫁ぎゆくあの人と眺めた
  白いチャペルの丘の雲
  あわき想い 風に流れ
  アベマリア 静かに歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

3 忘られぬ思い出の小径よ
  白いチャペルにつづく道
  若きなやみ 星に告げて
  アベマリア 涙に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

<昭和27年(1952)にNHKラジオ歌謡として放送れた。

八洲(やしま)秀章の端正なメロディを岡本敦郎が端正に歌った。

惹かれあっていることがお互いにわかっているのに、打ち明けることができないまま別れてしまう若い男女の心が詠われている。

最近はどうも、こうした繊細な恋のかたちを理解できない人が増えているようで……>(二木紘三)


岡本はその後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持った。

NHK紅白歌合戦に7回出場した。岡本を支えた作詞家や作曲家といえば岡 灯至夫、寺尾智沙、田村しげる、八洲秀章、古関裕而と言った人たち。

舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹込みを想定して作られたものである。また歌手業の傍ら、音楽教師としても活躍。1980年から84年には日本歌手協会の理事長を務めた。

1995年には戦後50年及び自身のコロムビア専属50年を記念し、同じく専属50年の並木路子・池真理子と共に新曲を発売し、日比谷公会堂でジョイントコンサートを行った。

80歳を超えても「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ出演。2007年9月18日に脳梗塞のため入院するも早期発見が幸いして投薬治療で回復。

翌2008年1月21日放送の「ラジオ深夜便」で仕事復帰した。

2010年頃からは心臓の不調もあり仕事から遠ざかっていたが、2012年8月10日放映の「懐かしの昭和メロディ」(テレビ東京)へ出演。約2年半ぶりのテレビ出演となったが、これが生涯最後の仕事となった。

2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。

2012年12月28日、脳梗塞のため東京都内の病院で死去。88歳没。

2度目の脳梗塞は殆ど手の施しようもなかったのではないか。


私の好きな歌 ピレネエの山の男 
_
作曲者古賀 政男

岡本敦郎さんのヒット曲。ピレネー山脈は、フランスとスペインの国境に位置する。作詞の西条 八十がフランス留学中、ピレネーを訪れたことがあった。


  (1) ピレネエの 山の男は
  いつも一人 雲の中で
  霧に濡れ 星を眺めて
  物言わず 切るは樅の木
  ハイホー ハイホー
  千年の古い 苔の木

  (2) ピレネエの 山の男は 
   いつも一人 何を想う
   雨降れば 小屋の小鳥に
   ひげ撫でて 昔を語る
   ハイホー ハイホー
   思い出の 愛の駒鳥

  (3) ピレネエの 山の男は 
   春は行き 夏が来るよ
   角笛は 風に流れて
   旅馬車は 今日も急ぐよ
   ハイホー ハイホー
   故郷の おまえの町へ


岡本の代表曲

朝はどこから(1946年)共唱:安西愛子
街の艶歌師(1948年)
ビルの窓から(1949年)
白い花の咲く頃(1950年)
あじさいの唄(1950年)共唱:山田陽子
さよならマルセーユ(1951年)
リラの花咲く頃(1951年)作詞寺尾智沙 作曲田村しべる
美しい乙女(1951年)
青いガス燈(1951年)
時計台の鐘(1951年)
まぼろし慕いて(1952年)
草笛の唄(1953年)
チャペルの鐘(1953年)作詞和田隆夫 作曲八洲秀章
みどりの馬車(1953年)
花のいのちは(1953年)共唱:岸恵子
高原列車は行く(1954年)作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而
もぐらこおろぎ(1954年)共唱:伴久美子
ピレネエの山の男(1955年)作詞西条八十 作曲古賀政男
秋の匂い(1955年)共唱:伴久美子
秋の子(1955年)共唱:伴久美子
みおつくしの鐘(955年)
自転車旅行(1955年)
ここは静かなり(1955年)共唱:湯川きよ美
登山電車で(1957年)
人工衛星空を飛ぶ(1957年)
今日の日はさようなら(1974年)
小諸なる古城のほとり(1977年)
元気で行こうよ仲間たち(1997年)
狐の花嫁(1997年)
四谷大塚進学教室の歌(カセットテープ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013・1・20


2013年01月21日

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎


流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」

梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。

筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィア(オランダ領。今のジャカルタ)へ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年(1714年)に 西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
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作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

「涙の渡り鳥」(作詞:西条八十、歌:小林千代子)
「島の娘」(作詞:長田幹彦、歌:小唄勝太郎)
「僕の青春」(作詞:佐伯孝夫、歌:藤山一郎)
「東京セレナーデ」(作詞:佐伯孝夫、歌:山口淑子 (李香蘭))
「無情の夢」(作詞:佐伯孝夫、歌:児玉好雄)
「雨の酒場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「あなたなしでは」(作詞:佐伯孝夫、歌:能勢妙子)
「長崎物語」(作詞:梅本三郎、歌:由利あけみ)
「燦めく星座」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「新雪」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「明日はお立ちか」(作詞:佐伯孝夫、歌:小唄勝太郎)
「月よりの使者」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎、藤原亮子)
「別れの夜汽車」(作詞:佐伯孝夫、歌:竹山逸郎)
「桑港のチャイナタウン」(作詞:佐伯孝夫、歌:渡辺はま子)
「アルプスの牧場」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「高原の駅よ、さようなら」(作詞:佐伯孝夫、歌:小畑実)
「野球小僧」(作詞:佐伯孝夫、歌:灰田勝彦)
「お俊恋唄」(作詞:吉川静夫、歌:榎本美佐江)

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                    2013・1・19

2013年01月19日

◆阿る人を侮る中国人

渡部 亮次郎


だとすれば、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えに訪中した鳩山由紀夫元首相は軽蔑される為にわざわざ訪中したことになる。東大出に馬鹿が案外多いと言うのは単なる噂じゃなかった、と言うことか。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)外務大臣は、就任に先立って「言っておくことが2つある」と言った。中国についてだった。折から日中平和友好条約交渉の真っ最中だったからだろう、と思って聞いた。

<中国人は阿(おもね)る人間を軽蔑する。だからゴマすりをしてはいけない。もう一つ。政治家が儲け話を持ちかけると軽蔑される。
絶対しちゃいけない>

園田氏は大東亜戦争を含めて戦場で11年を過ごしたが、そのほとんどは中国大陸だった。スパイ行為をして掴まり、路上に落ちていた牛の糞を口に突っ込み狂人と思わせて難を逃れたこともあった。

そうした体験から割り出した「中国人」分析だったのである。だから北京における対中交渉でも下手(したて)に出る事は一度もなかった。「だから交渉を有利に纏めることができたのだ」と自負していた。

それはそうかも知れない。田中訪中のときの高島益郎条約局長が良い例だろう。日中国交正常化に先立つ両国交渉で高島氏は周恩来を相手に筋論を展開。周恩来は激怒した。しかし陰では「ああいう気骨のある外交官をわが国にも欲しいものだ」と言う話。

この時私は田中角栄首相に同行しながら、会談の期間は日本側代表団に近付くことが一刻も許されなかった。したがって以上の話は帰国後に聞かされて話である。

ところが「頂門の一針」2851号(1月18日)によれば訪中した鳩山氏のは徹底した阿り。鳩山元首相は「国賊」=小野寺防衛相が語った。

<小野寺五典防衛相は17日夜、BSフジの番組に出演し、「尖閣諸島を係争地と認めることが大事だ」との鳩山由紀夫元首相の中国での発言について「日本にとって大きなマイナスだ。言ってはいけないが『国賊』という言葉が一瞬、頭をよぎった」と述べ、強く非難した。

防衛相は「係争などなく(尖閣は)固有の領土なのに、中国側は、日本の元首相はこう思っていると世界に宣伝し、いかにも係争があるかのように国際世論がつくられてしまう」と懸念を示した。>
時事通信 1月17日(木)22時37分配信

<鳩山元首相 尖閣は「係争地」と発言 古澤 襄

訪中した鳩山元首相は、北京で楊中国外相と会談、「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べた。

日本政府の見解を真っ向から否定し、「棚上げ論」についても中国側の主張におもねったことになる。もっとも鳩山氏が希望していた習近平氏との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語っている。

<【北京=川越一】「個人の立場」で訪中している鳩山由紀夫元首相は16日、北京で賈慶林全国政治協商会議主席、楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相らと会談した。終了後、記者団に対し、沖縄県・尖閣諸島について日中間の「係争地」との持論を伝えたことを明らかにした。

鳩山氏は「日本政府は『領土問題は存在しない』というが、歴史を眺めれば分かる話だ。今係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ。領土問題は存在しないと言っていたら、いつまでたっても答えは出ない」と述べ、日本政府の見解を真っ向から否定した。

「棚上げ論」についても中国側の主張におもねった。

賈氏らは鳩山氏の発言に同意したという。ただ、鳩山氏が希望していた習近平国家副主席との会談は実現せず、中国側が鳩山氏の訪中が日中間の関係改善につながると期待していないことを物語る。

中国側が鳩山氏を招待したのは、親中的な同氏に自国の立場を吹き込み、特使派遣を検討する安倍晋三政権に圧力をかけるのが目的だ。17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」に鳩山氏を招くのも、歴史問題に絡み同氏を利用する狙いがうかがえる。(産経)>

鳩山発言は「わが国の立場と相反」と官房長官が批判  古澤襄

菅義偉官房長官は17日の記者会見で、北京で中国要人と会談した鳩山由紀夫元首相が沖縄県・尖閣諸島について日中間の係争地との認識を伝えたことに関し「わが国の立場と明らかに相反する発言で極めて遺憾だ」と述べた。

「日本の首相をされた方の発言として非常に残念だ」とも語り、鳩山氏の言動を批判した。

鳩山氏は16日に北京で賈慶林全国政治協商会議主席や楊潔●外相と会談し、沖縄県・尖閣諸島を日中間の係争地とする持論を展開。その後、記者団に「係争が起きていることは事実で、お互いに認めることが大事だ」と語った。(●は簾の广を厂に、兼を虎に)(産経)
2013.01.17 Thursday name : kajikablog

昔の人はよく言った。「バカにつける薬は無い」
                 2013・1・18

2013年01月16日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。