2013年08月14日

◆私の8月15日 国民学校4年生

渡部 亮次郎


昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷されたルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行ったと思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される事は無く3機は去って行った。生まれた初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をうけた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげき)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻により、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。

この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだったろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊のほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であった。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地から飛来した第315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これだけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜になっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していたのである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗ったのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈だった。あれから68年。9歳は77になった。(再掲)

<「頂門の一針」から転載>    (「頂門の一針」主宰)

2013年08月09日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎


この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているよ
うだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。

だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。

のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。

それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地に多い小畑を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。麻生首相はこれで失敗したっけ。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」。

まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)


2013年08月08日

◆<今朝のニュース解説・夏休み入り>

杉浦 正章


読者の皆様


国会閉幕に伴い政局もぱたりとなぎにはいりました。
従って筆者の記事も、夏休みに入ります。
 

再開は26日の朝からです。ご愛読有難うございました。


風車風が吹くまで昼寝かな 廣田弘毅
08.08   (政治評論家)

2013年08月02日

◆したたか大阪人服部良一

渡部 亮次郎


大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一

1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年07月30日

◆A面あってのB面

渡部 亮次郎


昔の話。昭和15(1940)年のある日、女優で流行歌手の高峰三枝子の自宅に、当時既に手に入らなくなっていた高級洋服地がどっさり送られてきた。送り主はデビュー間もない伊藤久男。人気の高峰に対する「御礼」のしるしだった。

昭和13年、古賀政男がテイチクを退社。同年、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が霧島昇とミス・コロムビアのデュエットによりヒットした。

次第に流行歌の世界にも軍国調の歌が多くなって来るのも、この頃からであった。軍国調でなくとも、大陸を舞台にした作品も激増して来る。

昭和15年には、戦地からの逆輸入のヒットとして、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がヒット。また、高峰三枝子の「湖畔の宿」もヒットした。

1940年5月、コロムビア・レコードは人気高まる高峰に「湖畔の宿」を歌わせた(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)。さてB面はどうするかとなって作詞:関沢潤一と作曲に新人の八洲秀章(やしまひであき)を起用して「高原の旅愁」。歌手はデビュー後7年になるのにヒットの無い伊藤久男に決定。

榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合と発売中止となるも、それまでに大ヒット。当然B面の伊藤久男もいきなりスターになった。

これを伊藤はA面高峰のお蔭と感謝したわけだ。もともと「高原の旅愁」自体、優れていたとの評価もあるが、伊藤久男の人柄の良さが表れていて心洗われるエピソードである。Aが立派だからこそBも光るのだ。心すべき事である。

高峰三枝子(1918-1990)
東京の高輪出身。筑前琵琶の宗家であった高峰筑風の娘。東洋英和女学校卒業後、父の急死もあり、昭和11年に松竹大船の女優になる。「母を尋ねて」でデビューし、12年には「荒城の月」で主役に。

13年に歌手デビューし、「宵待草」を吹き込む。14年には映画「純情二重奏」「暖流」で人気を博す。

15年の榛名湖を舞台にした「湖畔の宿」は後に、センチメンタルな曲調や歌詞が時局に不適合とプレス中止となる。しかし曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では歌われ続けた。

さらにビルマのバーモ長官が高峰のファンで、来日時に東条首相など政府
首脳の前で高峰が「湖畔の宿」を歌うといった事もあった。放送自粛といっても後世に想像するような厳格なものでもなかったのである。

17年に「南の花嫁さん」でヒットを飛ばし、21年には松竹を退社、英文雑
誌社長と結婚して「百万円の結婚式」と話題になったが29年に離婚。

27、28年には持ち馬のスウヰイスーが、競馬の安田記念を2回、桜花賞、オークスで優勝している。

この間も「懐かしのブルース」などでヒットを飛ばしたが、31年に突然、声が出なくなり歌手活動を引退。しかし40年には再びステージに復帰。

56年からの上原謙との国鉄フルムーンのテレビCMでも話題を呼んだ。60年には紫綬褒章、平成2年には勲四等宝冠章を受章。晩年までテレビ出演で活躍した。昭和天皇の園遊会の席上、感極まって泣いてしまった話は有名。

岐阜県明智町の日本大正村の初代村長もしていた。平成2年3月にはインド旅行に行くなどしていたが、4/18に倒れ、5/24には容態が急変、5/27午後5時30分、世田谷区の日産厚生会玉川病院で死去。上原謙は高峰に取りすがって泣いたという。本名は鈴木三枝子。住まいは大田区田園調布3丁目だった。
 
昭和14年   純情二重奏(霧島昇)
昭和15年   湖畔の宿
昭和17年   南の花嫁さん
昭和23年   懐かしのブルース
昭和24年   別れのタンゴ(引用:同じ)

伊藤久男(1910-1983)
福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男と
する。

昭和4年に東京農大に入るが、豪農だった親の反対を押しきり6年に帝国音楽学校声楽科に入学しピアノを学ぶが、仕送りの停止から生活苦になり、やむなく8年、コロムビアの「旅に泣く」を吹き込んだのをきっかけに宮本一夫として歌手デビュー。

男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、古関裕而が満洲から帰国、神戸から東京までの汽車の中で作曲した「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。

「暁に祈る」の「ああ、あの顔で」の出だしは、陸軍省の「ああでもない、こうでもない」のうるさい注文に難渋した作詞者の野村俊夫の愚痴を聞いた、作曲者の古関裕而が、それを使うように薦めたのがきっかけ。

この間の13年には赤坂百太郎と再婚、4人の子供を設ける。戦火が激しくなった18年暮れには伊藤は福島に帰郷し、レコード吹き込みの度に上京した。

戦後は主にラジオ歌謡で活躍、「イヨマンテの夜」はのど自慢で大人気を誇るヒットとなった。他にも「あざみの歌」「山のけむり」などの叙情的な歌のヒットがある。

私生活では宝塚の桃園みかと同棲し、妻であった赤坂百太郎から「生活費を入れない」と25年、家庭裁判所に訴訟を起こされ、後に離婚している。

53年に紫綬褒章、58年に勲四等旭日小綬章を受章。持病のぜんそくに加え晩年は糖尿病で、浅草の国際劇場のステージでは、痙攣からマイクにすがりつきながら鬼気迫る歌唱をみせたという。

55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。57年春には関係者の間では危篤とされていた。

涙もろく、「酒を飲まない奴は信用できない」が口癖だった。その反面で、極度の潔癖症でもあり、楽屋なども絶対に他の歌手と同室しなかったという。

服装には無頓着で、10年以上前の体に合わなくなった背広でステージに上る事もしばしばであった。レパートリーは何でもこなしたが、本人は抒情歌を好んでいたという。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。

住まいは中野区沼袋だった。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。
 
昭和12年   露営の歌(松平晃、中野忠晴、霧島昇、佐々木章)
昭和14年   父よあなたは強かった(二葉あき子、霧島昇、松原操)
       白蘭の歌(二葉あき子)
昭和15年   暁に祈る
       高原の旅愁
       お島千太郎旅唄(二葉あき子)
       熱砂の誓い
昭和23年   シベリヤ・エレジー
昭和25年   イヨマンテの夜
昭和26年   あざみの歌
昭和27年   山のけむり
昭和28年   君いとしき人よ

引用:『日本流行歌通史』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

2013年07月26日

◆「夜と朝の間に」

渡部 亮次郎


このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように
夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい
夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(61歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、のちになってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラジオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのは当然だが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。


2013年07月24日

◆中国が世界最大の「糖尿病の都」に

渡部 亮次郎


中国が世界最大の「糖尿病の都」に、患者数は米国の4倍と米メディアが報じたのは約2年前、2012年11月10日 のことだった。米国には2370万人の糖尿病患者が存在しているが、中国にはその4倍にも上る患者が存在していることを国際糖尿病連合が明らかにした。

2012年11月6日、参考消息(電子版)によると、米国には2370万人の糖尿病患者が存在しているが、中国にはその4倍にも上る患者が存在していることを国際糖尿病連合(IDF)が明らかにした。

ブルームバーグによると、医薬品メーカー・メルクの責任者は2012年10月25日、上海でインタビューを受けた際、「中国はすでに世界最大の“糖尿病の都”だ」と語り、「これをきっかけに、健康面や経済面でも大きな問題が引き起こされることになる」と指摘している。

2011年に患者14万人を対象にして行われた調査では、米国では患者の70%が血糖値をコントロールできているが、中国では半数以上の患者が血糖値を十分コントロールをできていないことも明らかになっており、こうした状況では患者は様々な障害を引き起こす可能性が高い。IDFは2030年には中国の患者数が4000万人余り増え、年間の治療費は280億ドル(約2兆2400億円)と莫大な額に達すると予測している。

先進諸国では糖尿病患者の年間平均治療費は5000ドル(約40万円)余りだが、中国では194ドル(約1万5500円)にとどまっており、症状の早期発見や基本的な医療システムの面で多くの課題が残されていると指摘されている。

中国で糖尿病が多発するようになったのは経済の改革開放がなされた1980年代、富裕層を中心に高カロリーの食物を摂取刷るようになってからである。それまで中国家庭の食卓にはせいぜい豚肉しか載らなかった。殆どは鶏肉だった。それがい、あやビフテキ(牛肉)や鮪を食べるように大変化したのである。

ご承知のように鶏肉の2倍のカロリーのあるのが豚肉、それのさらに2倍が牛肉である。しかして中華料理にはっ牛肉といえば、チンジャオロースしか出なかったではないか。燕巣のスープとか蚊の目玉のスープは珍重してきたが、中国人にとって高カロリー料理は無関係だった。

1978年10月に初来日したトウ小平氏は日本政府が提供した日本料理のうち、刺身には、手をつけるのを多少手間取っていたものだが、あれから35年、世界市場でいまやマグロは中国が最大の日本とのセリ競争者になって
いる。

それは日本人の長命は刺身にあるらしいと海の尾も込んでいること、海の魚には淡水魚に住み着いている肝臓ジストマという生命を脅かす虫のいないことを知ったからである。 

生まれて初めて高カロリーの高級食を食った膵臓はどうなるか。ひっくりかえってインスリン欠乏をもたらし、結果は糖尿病となるわけである。この病気は絶対完治しない。放置すれば、寿命は10年短くなる。あわてて医者にかけこむことになる。 

さらにあわててインスリンの注射を毎日打つことになるがともなう医療費が馬鹿にならない。

しかも、中国ではこれまで一般的でなかった病気である。専門医が決定的に不足している。中国当局が人民のことを考えて世界中から専門医をかき集めているかどうかは、まだあきらかではない。

糖尿病は痛くも痒くもないから発見が遅れる。遅れれば遅れるほど合併症の発症を招く。脳卒中(脳出血、脳梗塞、クモ膜下出血)、心筋梗塞,癌、失明などだ。

中国は大国面をしているが、気がつけば実は少子高齢化と糖尿病大国のドン底へ陥ろうとしているのだ。       2013・7・23

渡部 亮次郎

2013年07月22日

◆お邪魔虫 中国での共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。

2013年07月18日

◆ジョン・レノンのご馳走

渡部 亮次郎


ザ・ビートルズ(BEATLES)は世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドという事をジョン・レノンにダコタ・アパートで会うまで知らなかった。

1978年2月のその時、私は福田赳夫内閣の外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、僅か数ヶ月前まではNHKの政治記者で、国内政局の追跡に熱中する生活でビートルズなど皆目知らなかった。

それが、いきなり彼ら一家の住まいたるニューヨーク・マンハッタンのダコタアパート5階の自宅に招き寄せられ、2歳の息子を抱きながらフローリングの部屋で三角屋根(ピラミッド)の下に転がるもじゃもじゃ頭の男が「世界一の芸術家」と知って驚いた。

ジョン自身はその時は音楽活動を休んで「主夫で子育てに夢中なんだ。三角屋根は生命に何らかのパワーを与えてくれるんだ」と喋っていた。

「僕の喋り方が叫んでいるように聞えないですか。生まれたリヴァプール(英国)は強い風が吹き上げて来る土地で、その風に逆らうように喋る癖がついてしまったんだ」とも。

イギリスのリヴァプールで結成されたのがビートルズ。アメリカを制圧し、世界中を席巻して現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。

外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年に当時ロックバンドとしては異例のMBE章が授与された。

世界的アイドルとして成功を収める一方、1960年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、また後期になって行くほど世界屈指のアーティスト。

その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。

1960年代の日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。ギネスワールドレコーズには最も成功を収めたロック・グループと認定されている。

その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。

それからほぼ3年後の1980年12月8日の夜、アパートの玄関で精神異常者に射殺され満40歳の人生を終えるわけだが、激しくも偉大だった人物の晩年に会えた事を思うとそのたびに興奮するのである。

なぜジョン・レノンに会えたかというと、2番目の夫人となったオノ・ヨーコさんが私の親友で評論家の加瀬英明氏の従姉だからである。

彼の父俊一氏は昭和史に残る著名な外交官だったが、母親萬寿子さんがヨーコさんの父親の妹という関係。英明氏は、鳩山内閣時代に外務政務次官だった園田氏と当時から親しかった。

外務大臣室にやってきて「大物秘書官がアメリカを知らないではあんたが困る場面が出てくるから、ナベさんをアメリカ旅行に案内するよ」とやや強引に旅費付で了承を取り付けてしまったのだ。

確かに私は国内政治の記者だったから海外特派員の経験といえばアメリカ時代の沖縄に1ヶ月ぐらい駐在しただけ。北京と上海は国交回復の田中訪中に同行のみ。当然アメリカは知らなかった。

ロス・アンジェルスを経てニューヨーク入り。当に摩天楼の都会。ナベちゃん、NYでビルの階数を数えるな、首が折れるというよとからかわれながら、セントラルパークの北隅に接しているダコタアパート5階へ。全フロアを所有していた。

暫くしてヨーコ夫人に促されて階下の玄関へ。3年後に射殺される現場とは当然思いもよらず、べら棒に長い車に乗った。リムジン初体験のおのぼりさん。イタリア街でワインを沢山頂いたが料理は記憶に無い。記念写真が残っている。

外へ出たら黒山の人だかり。なるほど大変な人気。噂は瞬時に駆け巡りこれだけのファンを寄せ付けるとは凄いものだ。

ヨーコさんを先に帰して「ちょっと面白い物を見てくれないか」という。坂の途中の工場に立ち寄った。印刷工場を買収していた。ヨーコの顔を印刷したスカーフを造る、たったそれだけをヨーコに秘密裏に造るため。印刷工の男女数人も雇っていた。写真を撮った。

ヨーコさんの誕生日は2月18日。印刷所を買収して造ったなんて一言も言わない、この世でたった1枚しか存在しない絹のスカーフ。どんなに喜んだ事だろう。

この記事を書くために加瀬氏に電話したところ、あの時は三角屋根は流行中だった。味が良くなると、ジョンはマリファナと煙草と牛肉をあの下に置いていたという。

殺される前に来日した時、「ピラミッド・パワーより天皇パワーが凄いよ」といったら皇居遥拝に行き、さらに伊勢神宮にも参拝した。牛肉好きだったから東京日本橋・人形町のステーキ屋に案内したら神戸牛をお代わりしたそうだ。

加瀬氏によればジョン・レノンは「NYハドソン川の上空でUFOを見た」と言い、その存在を主張してやまなかったそうだ。

「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた名前で、造語である。昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、かぶとむしの複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いついた。

クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。

ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ、でも字を見るとビートミュージックというわけさ」

2013年07月17日

◆ふるさとは遠きにありて

渡部 亮次郎


この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているよ
うだ。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。

だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。

リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。

のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。

それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出身地に多い小畑を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。麻生首相はこれで失敗したっけ。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

イチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。

そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」。

まさにそのとおりだ。西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)


2013年07月14日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎


肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞をまねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをした事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあってはいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはなかったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がすることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎた。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をやられ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がおしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころからの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をしたのだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射に通わなければならない人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もない病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げていたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。       (2013・7・13)




2013年07月11日

◆企業再編について

川原 俊明


会社が事業規模を拡大しようとするとき、もっとも早く実現する手段の一つとして、他の会社を吸収合併する、という方法があります。当該他の会社の事業をそのまま引き継げるからです。
    
合併のメリットとしては、消滅する会社の権利を包括的に承継するという点や、追加の資金を必要としないという点があります。
    
つまり、消滅する会社と取引会社間の契約関係については、個別の同意を取らなくても、吸収する会社が引き継げますし、その対価として自社の株を発行すれば追加資金も必要ありません。
    
他方、デメリットとしては、原則として株主総会決議や債権者保護手続が必要となることや、反対株主買取請求権が発生する場合があることなどがあります。債権者保護手続においては、会社の債権者に会社の決算書等を開示しなくてはなりません。 
    
また、消滅する会社の債務を包括的に承継するため、簿外債務・偶発債務を遮断できないという問題があります。
    
単純に、他の会社の一事業が欲しければ、「合併」ではなく「事業譲渡」や「会社分割」という手段がありますし、他の会社すべてが欲しいときでも「合併」の他に「子会社化」という手段もあります。
    
企業が成長を続けるためには、どこかで組織再編を行う必要がありますが、どの形態(合併なのか事業譲渡なのか等)で行うかについては、各形態のメリットデメリットを吟味しなければなりませんので、その際には当事務所にご相談ください。
    
法律相談はこちらからお気軽にどうぞ。 
http://www.e-bengo.com/mail_it.html
   
また、7月25日には会社法セミナーを開催しますので、内容をより詳しくお知りになりたい方はこちらからお申込みください。   
   ☆http://www.e-bengo.com/mail_seminar.html
                              (弁護士)
   

2013年07月10日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』