2013年02月17日

◆中国改革開放の陥穽

渡部 亮次郎


日中平和友好条約が締結された直後だから1978年秋のことだ。外務大臣秘書官であるわたしのところへ中国共産党の大幹部から話が来た。「個人的にウランを日本の電力会社に売り込みたいから適当な会社を紹介して欲しい」と。

私は仰天した。仮にも国家のエネルギー資源を中国共産党幹部が「個人的」に差配することなんてあるのか。中国の共産主義はどうなってるんだ。「私腹を肥やす」が日常茶飯事になってるのか。

それから間もなくトウ小平が経済の改革開放政策がはじまり、今日、の経済の格差拡大、大贈収賄国家の出現を見ることになった。

改革開放(かいかくかいほう)は、中華人民共和国のケ小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。初訪日を果たしたトウ小平ガ帰国して直後だった。

毛沢東時代の大躍進、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派のトウ小平は「4つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。

基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。

これはそれまでの絶対平等主義(ネガティブウェルフェア)を切り離した象徴といえる。これに則り、農村部では人民公社が解体され、生産責任制、すなわち経営自主権を保障し、農民の生産意欲向上を目指した。

都市部では外資の積極利用が奨励され、広東省の深セン、福建省のアモイなどに経済特区が、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区が設置される。

華僑や日欧米資本を積極的に導入することで、資本や技術の移転など成し遂げる一方、企業の経営自主権の拡大などの経済体制の改革が進んだ。

改革開放政策は、しかし同時に中国社会に大きな矛盾を生み出した。農村部と都市部、沿岸部と内陸部における経済格差が拡大し、官僚の汚職や腐敗が一層深刻なものになった。

インフレや失業も目立つようになり、共産党に対する不満は高まっていった。1989年には天安門事件が発生、改革開放は一時中断することになる。

北京大学の張維迎教授は「最初の15年間は価格自由化に終始した」と分析している。

1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。しかし、都市と農村、沿海部と内陸部の地域格差は深刻化し、とりわけ農民の不満が高まった。

社会主義市場経済体制のもとで、江沢民・朱鎔基政権は格差是正と一層の経済改革に取り組むことになる。格差是正のための西部大開発、国営企業改革に伴う失業者の増大、民工潮、三農問題といった新たな問題も発生した。

このような問題を抱えながらも、表面的には今や中国経済は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長し、生産大国としてだけではなく、米欧日に次ぐ第4の市場としても期待されている。2001年には、悲願だったWTO加盟を果たす。

しかし経済は資本主義(自由)でも、それを監督する政治は共産主義で経済活動を抑制する。そのため猛烈な贈賄と収賄が構造的に展開されることになる。

共産党の抑制的指導を打破する為には政治体制の大変革=政治の民主化の確立が不可欠なのだが、共産党は自己の消滅を認めるわけにはゆかないから経済を「虐める」。経済はそれを賄賂で打開する以外に無い。

中国共産党は格差是正策などは打ち出すけれども汚職根絶策は打ち出せてない。「死刑」による見せしめだけだ。根絶できるはずがない。政治も改革開放をする以外に策は無い。政治の改革解放をすれば共産党の存在意義が無くなる。汚職国家は共産党が消滅するまで続く。当に改革開放の陥穽(おとしあな)である。

2002年からの胡錦涛政権は2020年のGDPを、2000年の4倍にし(年平均7.2%成長)、中進国となる戦略を打ち出し、さらに全面的な「小康社会」を建設することを新たに目標に掲げた。

「小康」とは、いくらかゆとりがあることを指す中国語で、ここでは、衣食がなんとか間に合う状態から、さらに生活が向上し、衣食が足りた状態に達することを指す。沿岸部だけでなく、内陸部の経済水準を引き上げることが狙いである。

2004年には、私有財産権保護を明記した憲法改定案が全人代で採択され、株式制度、企業統治制度など、国有企業の改革のための政策も打ち出されている。

また、2007年の全人代では、私有財産の保護を明記した物権法、国内企業と外資企業の所得税率の格差を是正する企業所得税法が採択された。2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博開催も実現した。

中国政府は1978年経済体制の改革を決定すると同時に、対外開放政策も計画した。1980年から順次、広東省の深セン、珠海、汕頭、福建省のアモイ及び海南省に5箇所の経済特区を設置した。

1984年にはさらに大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14沿海都市を開放した。

1985年以降、長江デルタ、珠江デルタ、?南トライアングル(アモイ・泉州など)、山東半島、遼東半島、河北省、広西チワン族自治区を経済開放区として沿海経済開放地帯を形成した。

1990年、中国政府は上海浦東新区の開発と開放を決定し、一連の長江沿岸都市の開放をさらに進め、浦東新区を竜頭とする長江開放地帯を形成した。

1992年以降は辺境都市や内陸の全ての省都と自治区首府を開放した。さらに一連の年に15箇所の保税区、49箇所の国家級経済技術開発区と53箇所のハイテク技術産業開発区を設定している。

このように中国は沿海、沿江、沿辺、内陸地区を結合して全方位、多次元、広領域の対外開放構造を形成している。対外開放地区ではさまざまな優遇政策を実施し外向型の経済、輸出拡大、先進技術導入などの面で大きな役割を果たしている。

わたしにいわせれば、これらは「仏造って魂入れず」。格差益々拡大。汚職増加、時たま偽の飴玉をしゃぶらされて人民の不満は募るばかりだろう。畏友加瀬英明のいう「五輪を主催した全体主義国家は9年後に崩壊する」に説得力が出てきた。

『ウィキペディア(Wikipedia)』2013・2・16

2013年02月16日

◆文化大革命の毛沢東

渡部 亮次郎


1972年9月、日中国交正常化の際、毛沢東はまだ健在だったが、訪中団で面会できたのは首相田中角栄、外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけ。通訳や随員も不可。もちろん記者団にも姿を晒さなかったから私も見なかった。

私はその6年後、こんどは外務大臣秘書官として訪中したがその前の1976年9月9日に毛は82歳で死んでいたので、面会したのは毛主席紀念堂に飾られた遺体であった。

ところで1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。

だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。

「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開された。

結果的に約1,000万人以上(異説では3,000万人)と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。

始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。

林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大衆を巻き込んだ大粛清であったに過ぎない。

共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となった。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。

その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言われている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であ
ったこと

(2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと

(3) 中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとする見方もある。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目されたトウ小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。

実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉?、儲安平らは自ら命を断った。

極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。

1973年8月から1976年まで続いた林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動は後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする四人組側の目論見で行われたものであった。

毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出的な意見を述べた。日本共産党は「内政干渉だ」として関係を断絶した。その後1998年に日本共産党と中国共産党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係を修復した。

評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れているようすを「ジャリタレ革命」と批判した。この最中の1972年9月、田中角栄首相は特別機で北京入りし、日中国交正常化を成し遂げた。

同行した私は天安門広場に残された佐藤前政権非難のたて看板多数を目にした。北京は敗戦直後の東京を想像させた。チップは取るはずが無いという日本外務省の説明は嘘。ソヴィエトの建てたホテッルは湯が出なくて苦痛だった。

そうした矛盾を何とかしようと周恩来首相やトウ小平は現実路線を採ろうとしていたが、これを毛沢東は修正主義として非難。世の中を知らぬ青少年に倒させようとしていたのである。トウは「下放」されていて現れなかった。

1976年には、文革派と実権派の間あって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去し、新しく首相となった華国鋒は四人組を逮捕した。

翌1977年8月、中国共産党は、1966年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。

トウが復活して1978年8月、日中平和友好条約が締結され、日本の資金と技術が驚異的な経済の改革・開放を可能にし、北京オリンピックを可能にした。だが、全体主義国のオリンピックはいずれも9年後に国を滅亡させたと不気味な分析を突きつけられている。

1981年6月に中共11期6中全会では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。

文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放された為、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。

1954年生まれの中華人民共和国前駐日大使の王毅ら、中華人民共和国の指導的人物に若い世代が多いのもこれが原因である。紅衛兵、吊るし上げられた人の相違を問わず現在の中国を無批判に評価している人物は少ないと推測される。

公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言うトウ小平の発言が公式見解のようだ。

2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。

紅衛兵は、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下されるにあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。

他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。

当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。

旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。

1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。

寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。

毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。

2013年02月15日

◆日本軍は売春宿を経営せず

渡部 亮次郎


だから戦時中、陸軍を追いかけさせられた女郎は沢山いたし、韓国(当時は日本人国籍)女郎もいたが、軍が女郎をかき集めたり女郎屋を経営したりしたことは無かった。当時を知る人たちはだから「従軍慰安婦」とはなんぞや、と聞いてくる。

女性問題で総理の椅子を喪った宇野宗佑(うの そうすけ)という政治家は、それなりにさばけ政治家。今どき、あれほどの政治家はなかなか育つまい。

私がNHKで自民党の実力者河野一郎(こうの いちろう)を担当した時、宇野は河野の秘書から代議士に当選したばかりだったが、既に政治歴はすでに滋賀県会議員を2期務めた経歴があり、河野の信頼は抜群だった。

「ウィキペディア」によれば

<宇野は1929(昭和4)年に吉身尋常小学校に入学。このころから成績がよかった。絵もうまく『少年倶楽部』に漫画を送ってよく当選し、このころに乗馬も覚えた。

1935(昭和10)年に滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。中等学校時代は映画に夢中になり、剣道を始めるようになった 。1940(昭和15)年に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。

宇野は外交官を目指して、1943(昭和18)年10月に旧制神戸商業大学(現神戸大学)に進学。しかし2か月後の 1943(昭和18)年2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。

満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。

1945(昭和20)年の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから2年間ソ連に抑留された。

1947(昭和22)年7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」で帰国した。

1948(昭和23)年11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語で「東京に帰る」の意味)を出版。この本は1952(昭和27)年に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。

1949(昭和24)年2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪・廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を、北野天満宮に祈願していたことからだった>。

河野派担当記者として、宇野とは銀座や六本木でしばしば痛飲した。そうした間に宇野は従軍体験を自ら語った。私は彼より14も下だから軍隊経験は皆無。秋田では9つ年上の大先輩が予科練に行ったのを知っているだけ。

朝鮮北部では既に将校だったから、日本人の女郎を抱いた。「兵は朝鮮ピーや」と宇野。女郎は軍の所属ではないが、引き連れる親父は女郎を連れて、軍を何処までも追いかけてきた。

女郎たちは本土でよりも多く稼げたから、悲しんでいる風はなかった。事情は朝鮮ピーも同じで、既に親によって女郎屋に身売りされ、その後、経営者に引率されて将兵を追っているのであって、決して拉致とか収容されてここにいるわけじゃなかった。

これらを見ている軍の上層部は、「ルーデサック」と称する性病予防具を支給はするが、それ以上はすべて見て見ぬふりをしただけだった。女郎屋を管理するとか経営するとかは絶対しなかった。皆無。

だから日本軍がいわゆる「従軍慰安婦」なるものを引率しながら戦争をしたという事実は断じて無いというのが当時の現場を知る人たちの述懐だ。女郎屋の親父に引率されて女郎たちが兵隊を追っかけていたというのが事実だった。

従って政府であろうが誰であろうがいくら調べても「従軍慰安婦」を裏付ける証拠は出てくるはずが無い。

2013年02月13日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎


福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いした。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えたように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<?首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。
!)退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

!)ところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポンサー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

!)後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる)。

!)福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になるからである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。

総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。


1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。!)福田総裁に任期は2年 ?幹事長は大平)1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けることになる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章 (執筆:06・07.04)
 

2013年02月12日

◆ドレミファの受難

渡部 亮次郎


ラジオ深夜便が2月11日午前3時台「作家で綴る流行歌」米山正夫作品集で高橋淳之アンカーが「森の水車」は戦後流行したが、実は昭和17年に高峰秀子(三枝子にあらず)で発売されたが、4ヒ後に発売禁止になった、と解説したまでは良かったが、理由を言わないでおわった。

先年、女性アンカーも「こんな平和な歌がなんで発売禁止になったのでしょうね」で結論をいわなかった。回答はドレミファソラシドにあったのである。

「森の水車」

作詞:清水みのる、作曲:米山正夫、唄:荒井恵子

1 緑の森の 彼方から
  陽気な唄が 聞こえましょう
  あれは水車の 廻る音
  耳を澄まして お聞きなさい

(*)コトコトコットン コトコトコットン
   ファミレド シドレミファ
   コトコトコットン コトコトコットン
   仕事に励みましょう
   コトコトコットン コトコトコットン
   いつの日か
   楽しい春がやって来る

2 雨の降る日も 風の夜も
  森の水車は 休みなく
  粉挽(こなひ)き臼(うす)の 拍子取り
  愉快に唄を 続けます
  (* 繰り返し)

3 もしもあなたが 怠けたり
  遊んでいたく なった時
  森の水車の 歌声を
  独り静かに お聞きなさい
  (* 繰り返し)


《蛇足:二木紘三》< 昭和17年(1942)9月に映画女優・高峰秀子の歌でポリドール(当時は大東亜レコード)からレコードが発売されました。

戦後の昭和26年(1951)4月9日に荒井恵子の歌で「NHKラジオ歌謡」として放送されてから、多くの人たちに愛唱されるようになりました。

荒井恵子は、NHKラジオ「素人のど自慢」のチャンピオンになったのをきっかけにキングレコード専属のプロ歌手になりました。

しかし、作曲の米山正夫が日本コロムビア専属だったため、キングではレコード化できず、昭和26年8月1日に並木路子の歌で日本ンコロムビアからがレコードが発売されました。

私の子どもの頃、田舎では何カ所にも水車がありました。その響きは、勤勉さを刺激するよりも、「のんびり行こうよ、マイペースでいいじゃない」といっているように私には聞こえました。>

この方も判っていない。戦後派なのかな。

戦時中は「敵性語」は禁止された。ファミレド シドレミファは
イタリア語なのに検閲官は教養が足りなかったか慌て者だったか、
これを敵性語と判断して「発売禁止」処分にしていまったのだ。

もちろん当時のイタリアはドイツと共に同盟国であったのだからイタリア語を敵の言葉としたのはおかしい。しかし検閲官はみんなおかしかったのであろう。   2013・2・11

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2013年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。敗戦後に来た米軍中心の占領軍が禁止した。

もともと紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。

社会党は「建国記念日」法案には断乎反対をさけんできたが「建国記念”の”日」法案には反対しないとなったのである。

1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させたのだ。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。
(文中敬称略)2008・2・10   (再掲)

◆ノーベル平和賞の虚しさ

渡部 亮次郎


阿呆の鳩山由紀夫がせっせと世界を迷走して国を売ってるわけ(理由)は、ノーベル平和賞が欲しいからだとは知っていましたか。逆に言えばノーベルがルーピーに馬鹿にされていることになりますが。

ノーベル平和賞の選考はノルウェー国会が行うというのは知らなかった。日本の国会程度では無いだろうが信用が一挙に落ちた。これは信用、ならない。

1974年 佐藤栄作(日本)、ショーン・マクブライド(アイルランド)

1974年(昭和49年)晩秋、田中角栄首相の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤榮作前首相は非核3原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて授賞する。

地獄耳が捉えた話では鹿島建設が娘婿の入閣に感謝してスポンサーに成り、日本語より英語が巧みだった元国連大使に「工作」を依頼した末の授賞だった。

佐藤は授賞1年後、1975年(昭和50年)晩春、料亭新喜楽で会食中に脳卒中で倒れ、昏睡したまま6月3日に死去。享年74。墓所は東京都杉並区の本願寺別院和田堀廟所と山口県田布施町にある。

佐藤の受章対象は非核3原則だったが、沖縄への核持込は密約で自由になっていた。明らかになったのは20年後だったのは、良かったね。

1975年 アンドレイ・サハロフ(ソビエト連邦)

1976年 ベティ・ウィリアムズ、マイレッド・コリガン・マグワイア(北アイルランド)

1977年 アムネスティ (人権NGO)


1978年 メナヘム・ベギン (イスラエル)、モハメド・アンワル・サダト (エジプト)

1979年 マザー・テレサ(インド)

1980年 アドルフォ・ペレス・エスキベル(アルゼンチン)

1981年 国際連合難民高等弁務官事務所

1982年 アルバ・ライマル・ミュルダール (スウェーデン)、アルフォ
ンソ・ガルシア・ロブレス(メキシコ)

1983年 レフ・ワレサ (ポーランド)

1984年 デズモンド・ムピロ・ツツ (南アフリカ)

1985年 核戦争防止国際医師会議

1986年 エリー・ウィーゼル(アメリカ)
1987年 オスカル・アリアス・サンチェス (コスタリカ)
1988年 国連平和維持軍

1989年 ダライ・ラマ14世 (チベット)
1990年 ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフ(ソビエト連邦)

1991年 アウン・サン・スー・チー(ミャンマー)

この人も少々怪しい。米英の手先となって祖国をかき回しているだけじゃないのか。

1992年 リゴベルタ・メンチュウ(グアテマラ)

1993年 ネルソン・マンデラ、フレデリック・ウィレム・デクラーク(南
アフリカ)

1994年 ヤーセル・アラファート(パレスチナ)、シモン・ペレス (イスラエル)、イツハク・ラビン(イスラエル)

1995年 パグウォッシュ会議、 ジョセフ・ロートブラット(イギリス)

1996年 カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ、ホセ・ラモス=ホルタ(東ティモール)

1997年 地雷禁止国際キャンペーン (代表としてジョディ・ウィリアムズ(アメリカ))
1998年 ジョン・ヒューム、デヴィッド・トリンブル(北アイルランド)
1999年 国境なき医師団

2000年 金大中(韓国)

この人は北朝鮮を大統領として訪問した事が評価された。しかし、初訪問に先立って厖大なカネを北へ贈与しての訪問だった。ノルウエー国会の目は節穴だ。

それでも81歳になった彼は2007年10月末、京都の立命館大学で在日韓国人教授に招かれて講演し、謝礼1,000万円を受け取っていった(週刊新潮2007・11・15号)。内容に目新しいものは何も無かったそうだ。

2001年 国際連合、コフィ・アッタ・アナン(ガーナ)

2002年 ジミー・カーター(アメリカ)
2003年 シーリーン・エバーディー(イラン)
2004年 ワンガリ・マータイ (ケニア)

2005年 国際原子力機関(IAEA)、ムハンマド・モスタファ・エルバラダイ(エジプト)
2006年 グラミン銀行、ムハマド・ユヌス(バングラデシュ)
2007年 IPCC、アル・ゴア(アメリカ)
2010 劉 暁波 (リウ シアオポー) 54

2009 バラク オバマ 48

2008 マルティ アハティサーリ 71

2007 気候変動に関する政府間パネル

アルバート アーノルド (アル) ゴア 59

2006 グラミン銀行

ムハマド ユヌス 66 バングラデシュ

2005 国際原子力機関 モハメド エルバラダイ 63 エジプト

2004 ワンガリ マータイ 64
2003 シリン エバディ
2002 ジミー カーター 78

2001 国際連合

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年02月09日

◆絨毯に痰を吐く中国外交官

渡部 亮次郎


敗戦直後のわが国内の電車は凄かった。皆が窓から乗り降りした。だが、それは1年してなくなった。電車には行列を作って並んだ。デパートのエレヴェータ前で行列を乱す人はいなくなった。

昔、香港へ観光旅行に出かけた。そこからマカオへ出かけようと港へ行って驚いた。乗船行列への割り込みが常態化しているのである。急いだって急がなくたって、行き先は船内。

何故急ぐのか。要するに自己中心。得手勝手が中国なのである。恥とか外聞なんて気にする奴は中国にはいない。

1972年9月。私は首相特別機に同乗を許されて初めて中国を訪問した。そう、田中角栄首相による「日中国交正常化」交渉に同行取材をするためだった。

しかし、周恩来首相と半ば強制的に記念撮影をされたものの、日中交渉の現場は取材は勿論、撮影すら許されなかった。何が行なわれどのようなメンバーやらも分からないまま、ある日、共同声明の紙を渡されておしまい。これが同行取材の真相だった。

田中首相は周恩来総理に伴われて小型機で上海を訪問したので私たちも別の飛行機で同行したが、市内で我々を見る上海市民の視線には強烈な敵意がこもっており、恐怖を感じてホテルに逃げ帰ったものだ。

「中日友好!」は中国政府が勝手にでっちあげたものに過ぎない。「日中友好」は日本が言うものではない。中国が自分たちの都合のいいときに使う得手勝手の常套句に過ぎない。

こうして同行取材は終わったが、間もなく東京でホテル・ニューオータニの社長に話を聞いてびっくりした。北京からやって来た大使館員たちがホテルの廊下を歩きながら絨毯に痰を吐くので参る、というのだ。

彼らは国交回復に伴って大使館を開設するためやって来た外交官。ニューオータニを宿舎に滞在しているのだが、このように室内外の絨毯に痰を吐くばかりか、ベッドを解体すると言うのである。訊けばスプリングが効きすぎて眠れないとのことだった。

そういえば。余談だが毛沢東は生涯、板敷きのベッドで寝たと聞いたことがある。

それから6年の歳月が流れた。突然、NHK政治記者から福田赳夫内閣の園田直外務大臣の秘書官に発令され、折から熱を帯びていた日中平和友好条約締結を巡る取材合戦を捌く立場になった。

1978年8月8日、特別機で羽田を出発。翌日から人民大会堂で交渉は始まった.しかし難航を予想して来たのに中国側はわが方の主張を全面的に受け入れ、あっという間に妥結した。

そのあとトウ小平副首相との会談が設定された。そこで園田大臣が私に言うことには「何とか、あの痰壷に1度でいいからペツとやってみたい」という。賓客の前で国家の指導者たちが臆面もなく痰を吐くことが如何に失礼かを見せてやりたい風だから、とめなかった。

なるほど日本側には置かれていないがトウ氏の足元には痰壷が予め置かれている。会談の半ば近くなったころ園田氏は「カーツ」とやったかと思ったら、のこのことトウ氏の目の前に行き「ペツ」とやったのである。トウ氏は驚いた風だったが何も言わなかった。

中国人は何故痰や唾を吐くか。常に黄砂が待っているため、口の中が常にざらついているからだといい訳する。しかし仮令そうだとしてもチリ紙に吐けばいいのであって道路や絨毯に吐くのを正当化できるものではない。要するに得手勝手なのである。

国際人前田正晶氏の論である「謝罪の文化」など通用する国民ではないのである。園田氏は帰国後、田中健五編集長との約束により
単独インタビューに応じたが、後日、私のつけたタイトルは「トウ小平の痰壷」だった。
       2013・2・08

2013年02月08日

◆五輪開催10年後の独裁国家

渡部 亮次郎


畏友加瀬英明氏は「オリムピックを開催した独裁国家は10年後に崩壊している。中国だけが例外になれると思うかい」という。国際情勢にも歴史にも詳しい人のこと。なんとか命中して欲しいものだ。

なるほど私が生まれて1936年の8月1日からドイツでは独裁者ヒットラーの下でベルリン・オリムピックが開催された。しかしこの10年後、ドイツは敗戦し、東西に分断される。

1980年には共産党のソ連によりモスクワでオリンピックが開催されたが11年後の9991年12月にソ連は崩壊した。

新興経済大国を目指す中華人民共和国は、2008年8月8日から16まで初のオリムピックを開催した。過去の例からすると2018年つまり今年から5年後は中国の危機の年と言うことになる。

オリムピックをやると為政者たちの気づかぬうちに国家を解体する黴菌が入り込むのだろうか。「情報」という?
                      2013・2・6


2013年02月07日

◆お前の女房はいい女だから元から俺のもの

渡部 亮次郎


わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969 (昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

「俺の女房は俺の物」と年がら年中叫んでいたら、日本では気違い扱いされる。

だが中華人民共和国になるまえから、中国では嘘も百回言っていれば、聴いている方は本当と思うと信じている、信じ難い人々なのだ。気違いの真似をするのが厭ならば、指をくわえて尖閣を見捨てることになりかねない。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

                         2013・2・6加筆

2013年02月03日

◆大平を死に追いやった者

渡部 亮次郎


四十日抗争(よんじゅうにちこうそう)は、1979年に起きた自由民主党内の派閥抗争。自民党史上最大の危機といわれた。

1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙における自民党の敗北から、11月20日の第2次大平内閣の本格的発足までの約40日の間、自民党内で抗争が行われたためこの名がある。

衆院選での敗北 。1979年の衆院選で自民党は248議席しか獲得できず、前回1976年の衆院選の獲得議席249議席を割った。1976年当時党総裁だった三木武夫は選挙結果を受け辞任に追い込まれており、当然のごとく大平正芳総裁への責任を問う声が上がった。

しかし大平は、田中角栄の支えもあり、続投を表明した。そのため、大平政権下で反主流派となっていた福田派・中曽根派・三木派・中川グループは辞任要求を強めた。

主流派の大平派と田中派は中道政党との連立政権を模索し、反主流派は最終手段として自民離党、新党結成を画策するなど、党内は修復不可能なまでに分裂した。

自民党は首相候補が一本化できないために、国会を開会することができなかった。日本国憲法の規定による国会開会の期限が迫ってきたので、10月30日に特別国会を開会するも、開会日は首相指名投票なしで散会という異常事態となる。

大平は選挙後に行われた三木・中曽根康弘・福田赳夫との会談で、党分裂を心配した中曽根の「実力者会談に大平の進退を預け、最終的に福田が判断する」という案を蹴り、党機関に進退を一任すべきと主張、政権に固執する姿勢を鮮明にした。

そのため、大平になんらかの形で責任を取らせた上で政権存続を認めようと考えていた福田の怒りや中曽根の失望を買い、反主流4派は辞任要求を強めた。

副総裁である西村英一は調停に奔走し、三木・中曽根・福田と相次いで会談した。福田の「総理・総裁分離案」または「期限付き政権存続」の方向で話が進むのであれば責任をとった形になるため、大平との会談に応じるという意向をもとに、西村は大平に大平自身の進退を自分に一任しなければ調停できないと主張した。

大平も玉虫色表現で一任を認めた。西村はそれを基に福田と大平の会談をセットしたが、大平は西村に非主流派と主流派の意見をとりまとめを一任しただけで、最終的には自分で判断すると考えていたため、大平が進退を含めて一任したと解釈した西村・福田との間で食い違いが生じ、会談は決裂に終わった。

その後、大平は西村への進退の一任を決断したものの、時すでに遅く、非主流派では強硬論が台頭し、結束が高まっていた。首相候補問題と大平首相の責任問題は党機関へ一任することで進められていったが、ここでもその党機関を代議士会(衆院議員のみからなり、反主流派優勢)とするか、両院議員総会(衆参両院の議員からなり、主流派優勢)とする
かで対立することになる。

主流派の大平派と田中派は、両院議員総会での首相候補決定を決断する。

一方、反主流派は福田を首相候補とするために、「自民党をよくする会」を結成した。

反主流派は両院議員総会が行われるはずの党ホールを、椅子でバリケードを作って封鎖し、物理的に両院議員総会を阻止しようとした。浜田幸一が反主流派と交渉に臨むも解決できず、交渉を打ち切って実力行使でバリケードを強制撤去し、何とか両院議員総会を開催にこぎつけた。

両院議員総会では大平首相を首相候補とすることを決定するが、反主流派はそれを無視する形で、独自に福田赳夫を首相候補とすることを決定した。

党分裂を回避したい一部勢力は、分裂回避のために、「大平総理・福田総裁」という総理・総裁分離案、「次回総裁公選を翌年1月に繰り上げ・翌年1月まで大平体制維持」とする妥協案を出した。

前者は大平や田中が「第一党の総裁が総理となるのが議会制民主主義の常道」としてこれを蹴り、後者は反主流派の領袖である福田・三木・中曽根・中川一郎が大平が1度辞任するということで了承はしたものの、山中貞則ら強硬派が「大平が次回総裁公選に出馬しないことを了承しなければ認められない」と主張し、不調に終わる。

11月6日、首班指名選挙が行われるが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという、前代未聞の事態となった。

衆議院・1回目投票の結果

大平正芳 135票、福田赳夫 125票、飛鳥田一雄(社会党) 107票、竹入義勝(公明党) 58票、宮本顕治(共産党) 41票佐々木良作(民社党) 36票、田英夫(社民連) 2票。

この結果、誰も過半数の票を得ることができず、野党各党を退けた、自民党の上位2名による決選投票にまでもつれ込んだ。衆議院では大平138票・福田121票という投票結果となり、17票差という僅差で大平が指名された。

野党各党は、新自由クラブが1回目から大平に投票した他は決選投票では棄権に回り、また複数の党が協力して決選投票に駒を進めようとする動きも見られなかった。

大平派が公明党を、福田派が民社党を取り込む動きもあったが、両党とも棄権を選んでいる。

なお、参議院では1回目が大平78票・飛鳥田51票・福田38票と続き、大平と飛鳥田の決選投票となったが、福田派とミニ政党の一部が大平に回った他は棄権に回り、大平97票・飛鳥田52票で、衆議院同様大平が指名された。

組閣において、首班指名で大平に投票した新自由クラブと閣内連立を模索して閣僚入りさせようとしたが、反主流派が反発して組閣は難航した。

11月9日、大平は文相を自らが臨時代理として兼任する形で第2次大平内閣を発足させ、新自由クラブとの連立枠としての閣僚人事の余地を残す形で急場を凌いだが、11月20日、最終的に閣内連立を断念し、文相は自民党の谷垣専一を起用して抗争は一応終結した。

しかし、この対立感情はその後も依然としてくすぶり続け、翌年のハプニング解散につながることになる。

四十日抗争のあと1980年5月16日、日本社会党の飛鳥田一雄委員長が、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑など、一連の自民党のスキャンダルを理由として衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。

解散総選挙を警戒していた公明党、民社党も同調の気配を見せ、これに呼応するかのように自民党の反主流派である自民党刷新連盟が動き出し、浜田の証人喚問とKDD事件のため国会に綱紀粛正委員会を設置することを求め、大平正芳首相の回答を求めた。

これに先立ち、社公民の野党3党は不信任案について党首会談を行った。当然のごとく自民党議員全員が反対し否決すると思い込んでいた飛鳥田と公明党の竹入義勝委員長は不信任案提出で合意した。

これに対し、春日一幸民社党顧問から「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」との分析を受けていた民社党の佐々木良作委員長は提出に難色を示すが、この意見は受け流される格好となり、大平内閣不信任決議案は、議事進行係・玉沢徳一郎を通じて衆院本会議に上程された。

自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。

しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。 前年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グル−プなどの議員69人は本会議を欠席した。

これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。

中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。

反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、本会議場において森喜朗ら若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。

また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。

不信任可決を受けて大平内閣は閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。

内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。内閣は6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施することを決め、史上初の衆参同日選挙となった。

野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し、結果として解散に至ったため、「ハプニング解散」と呼ばれる。

なお、大平首相は新聞記者に対し「政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあっても、どうということはない。俺も鳩山内閣不信任案に欠席をしたことがある。政党は分離と独立を繰り返していくものだ」。

「昨年の首班指名の時は別の名前を書かれたが、今回は欠席だから状況はよくなっている。諸君は事実上の分裂選挙と言うが、総裁以下号令一下、挙党一致で闘ったことなど一度もないんだよな」と語っている。

自民党執行部は不信任案に反対した田中・大平両主流派や旧中間派の議員と反主流派のうち本会議に出席して不信任案に反対した中曽根派議員を第1次公認とし、欠席した反主流派の議員は第2次公認という形を取った。

当初は分裂選挙の様相を呈していたが、選挙中であった6月12日に大平が急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。

22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。

これは自民党に多くの同情票が集まったためと言われることが多いが、一方で石川真澄(朝日新聞記者)などは「四十日抗争、ハプニング解散、そして現職首相の総選挙中の死という異常な出来事が1年の間に次々と起きたことが、有権者の政治への興味、関心を高め、投票所に向かわせたことが勝因である」との見解を示している。

また、一般的には敗北とみなされている前年の衆院選でも、自民党の得票率は回復傾向を見せていた。自民党の勝利は、都市部で投票率が大きく上がり、それがそのまま得票増になったところが大きく、都市住民の自民回帰も指摘された。

ともあれ、大平の死によって形としては党の一致団結を見せたものの、解散の引き金となった福田・三木派といった反主流派は、ポスト大平において声を上げることが困難となり、鈴木善幸の後継選出につながった。

この混乱過程で主流派入りを宣言した中曽根は、行管庁長官という立場でポスト鈴木の最右翼につけることになった。こうして、ハプニング解散は以後の自民党政治の帰趨に大きな影響を与えた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1978年の自民党総裁選挙で「まさか」の敗北により、無念の下野を余儀なくされた首相福田赳夫氏は、大平の背後に「金権の田中角栄あり」として大平を徹底的に「虐め」抜いた。

その結果が四十日抗争であり、ハプニング解散であり、大平の急死であった。予ねて糖尿病を患っていた大平の死は「イジメ」のストレスによる心筋梗塞だった。

歴史にIfはないが、仮に福田が大平いじめをしていなければ、大平の後継者は確実に福田だった。それを知る主流派は福田のふの字も言い出さず、本人も期待してなかった鈴木善幸を据えた。

なお言えば、この一連の騒動で中曽根が浮上し、鈴木の後に政権を樹立するという「得」をした。             2013・2・2

2013年02月02日

◆歴史を歪曲する福田康夫

渡部 亮次郎


友人の元林野庁長官から1月26日の宴席で小さな新聞の切抜きを渡された。<人物抄 園田直 派を除名「心はさわやか」>とあった。わが師園田のこと、高校同期のよしみで、わざわざ持って来てくれたのか、ありがとう。宴席でもありポケットに入れた。

ところが翌日改めて見ると記事には並んで「証言 大福密約はなかった」という元総理大臣福田康夫さんの談話が載っているので、些か驚いた。歴史を歪曲し、相手の大平正芳氏を誹謗するものである。

切り抜きは読売新聞からの物だが、残念ながら日付をたしかめようがない。手渡された経緯から判断して2013年1月中のことと思われる。

ご承知のように康夫さんは先の総選挙に出馬せず、イスを長男達夫さんに譲られた。肩書きは元総理大臣だけれども、その前は父親赳夫(たけお)氏が総理大臣のときは首席秘書官だった人物。

福田赳夫内閣で私は外務大臣園田直(すなお)の秘書官だった。康夫さんからは「親父の総裁再選に直(ちょく)さんがもっと真剣に取り組むよう、ナベさんから、つっついてくれよ」と赤坂の料亭に呼ばれてそれこそ突っつかれたものだ。

しかし私は返事の仕様が無かった。「密約」の事実を大臣から聞かされていたし、事実、園田を官房長官から外務大臣に追う際、総理が園田に囁いた理由は「例のことをしゃべりすぎたね」だった。総理自信「密約」を再確認していたのである。

園田は官房長官の末期、幹事長の大平氏と何度も極秘に会談し「任期2年」の密約をせめて1年延長するよう懇願し、大平氏も了承に傾きかけていた。

私は左遷先の大阪から東京に戻っていたが政治部のある報道局ではなく国際局の副部長と暇な部署だったので、予ねて懇意の園田氏と夜に公邸で度々会って経過を聴いていた。大阪へ飛ばされる1年前は福田派担当記者だった。

だから昭和52年11月の内閣改造の際、私に園田氏から「秘書官になってよ」と言う電話があったとき、当然官房長官秘書官だと確認し家を出た。ところが総理官邸に着いてみたら園田氏は前閣僚からたただ一人居残り、ポストだけが外務に変わっていた。

後で調べると、福田総理は早くから園田氏を官房長官から外すことを決意していた。それは昔の親分岸 信介氏からの要請に応えるためだった、<晋太郎(女婿)を官房長官にしろ>。

とはいえ、政権樹立最大の功労者園田をいきなり外に放り出すと何を仕出かすか分からない。危険だ。そこでただ1人残し、No2の外務大臣なら文句あるまいと踏んだのである。

このとき世間もマスコミも此れは日中平和友好条約締結への積極論者だった園田をして条約を締結させるものと総理のハラを読んだ。しかし園田の受け方は全く違っていた。まず怒った。「密約反古の人事だ」。

確かに福田氏は次第に大平氏と距離を保つようになり、あろうことか自らは「降ろした」筈の三木武夫氏や選挙区ではライバルの中曽根氏と距離を縮め、とくに中曽根を総務会長に起用した。長期政権を展望させる布陣ではないか。

かくて大福密約は軽々しく反古にされ、総裁選挙は予備選挙で「死闘」の展開となったが、福田氏は「予備選挙に負けて方は本選挙を辞退すべき」など自信満々だったがあっさり敗北。大平と角栄の恨みを買ったのだ。なのに全く反省のないまま「天の声にも時には変な声がある」と嘯いて官邸を去った。

園田は既にこの結果を予測し、田中・大平陣営に近付いていたので外務大臣は再選。しかし、「大平のあとは再び福田」と言って福田陣営をけん制したが、40日抗争を経て福田派を除名され、「政界の逸れ鴉」と成り果てた。

しかし大平が急死した後、角栄邸にかけつけあっという間に鈴木善幸を次の総理に祭り上げた。外人記者たちは言った。
Zenkou Who?

康夫さんは紙に書かれた「密約」を見ていない。私はみた。それはそうだ赳夫親父としては「ほれ、この通り密約があるのだ」と息子にみせるわけにはゆかない。恥辱だもの。

康夫さんは、だから悪いのは大平で「密約なんて無かった」と言いたいのは当然かもしれない。しかし約束を破ると言う罪を初めに犯したのは福田赳夫であり、予備選で負けたことを逆恨みしたのは矢張り福田である。

福田に苛め抜かれて死んだのは大平だった事は歴史的事実である。
予ねて糖尿病を患っていた大平さんの心筋梗塞は政争のストレスによる急死だったのだ。

康夫さんがあんなことを言わなければ私はこんなことを書きたくなかった。

赳夫さんはその5年前、角福戦争に敗れた。政権はその後更に三木に渡り、今度こそ獲得しなければ永遠に遠くなりそうだった。だから「たとえ半年でも3ヶ月でも」と懇願するように呟いた。だから園田はまだ「政敵」だった角栄に頭を下げた。それが「密約」だった。

園田と言う人はその実、実直で、小心な人だった。一番嫌いだったのは注射。だから糖尿病なのにインスリン注射から逃げまくった。小心だから却って武道家としても名をなし、結婚を3度もした。嘘をつけない人だった。その園田も政界はぐれ鴉に成り果てた末、糖尿病の悪化で人工透析をする身となり最期は盲目で死んだ。まだ70だった。 2013・2・1

2013年01月31日

◆戦犯死刑囚を救った歌手

渡部 亮次郎


捨てられる運命にある歌謡曲のCDたち。せめてその前に聞き収めてやろうと若干をMDに納め、散歩しながら聴いているが、2013年1月30日に聴いたそれには渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が納まっていた。

何十年かぶり、涙を抑えながら聴いた。私が涙を抑えるなんて。戦犯死刑囚を救ったこの歌の経緯を振り返ってみよう。

「ああモンテンルパの夜はふけて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康。

2人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。フィリピンは日米戦争でマッカーサー元帥相手で最大の激戦地だったところ。

戦争が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われた。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれた。

A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」。

戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為である。B級は従来の戦争法規に規定されていたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科だ。

日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われた。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告さた。

しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくなかったが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていた。

文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりあった。

勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがない。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通だ。

昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。

戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。

6月になって、当時神奈川県鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。封書には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていた。

「モンテンルパの歌」は、収監されていた日本人111人の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

(一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのこと)。

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいるなんて。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡辺はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフフィリピンへ渡ろうとした。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり1年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。

それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。

会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあった。

半年後の昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から1つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。

そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。

暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。

じっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。

しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。

横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。 参考(「二木紘三のうた物語」) 2013・1・30