2016年02月13日

◆[建国「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎
  


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。(文中敬称略)

(秋田県出身 元NHK政治記者 元外相・厚相秘書官)2015年2月11日

2016年02月11日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年01月31日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎

経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだから起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げている。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているから起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならない。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。  
  2012・11・20執筆


     

2016年01月30日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎



経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだから起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げている。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているから起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならない。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。    2012・11・20執筆

2016年01月14日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



痛い物、と誤解して糖尿病患者がインスリン注射から逃げていると命を10年ちぢめる。

日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年を超えた。1月13日で満80。園田よりもう10年も長生きしたのである。

糖尿病患者がインスリン注射から逃げていると、命を10年もちぢめる、と言われているが、園田さんより私が既に10年も長生きしたことがそれの証明ではないか。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのインタビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」より抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本では60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんでした。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省からは、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだということが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受けることで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、という言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だったのである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年) このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するというものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究をスタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといってもいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24

2016年01月10日

◆自民に諌言  A

〜 野党統一候補を侮(あなど)らない方がいい!〜

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)



共産党委員長の志位和夫が、小沢一郎と会って、安倍政権に対抗する政治勢力を結集するにはどうすればいいか教えを乞うたという報道には、共産党の「やる気度」が透けて見えます。

政党アレルギーの強い共産党委員長が、政治的影響力を失った個人的アレルギーの強い保守政治家と会ったところで、成果は期待できないと切り捨てるのは早過ぎます。志位は、おそらく、自民党への対抗軸を模索し続けて成功、失敗を繰り返してきた政界再編のプロに率直な助言を求めたのだと思います。

半世紀、政局の表裏を知り尽くしている小沢は、共産党が死守してきた綱領を踏み越える政策と政治姿勢の転換を指摘しているに違いありません。

ですから、今回の野党統一候補の擁立をめざす政治動向の主役は共産党です。
自公両党は、嫌われ者の共産党が主役なら、野党間の選挙協力をめぐる話し合いがまとまるはずがないから心配無用と判断しがちですが、断定しない方がいい。流れによっては、共産党が民主党と同等ないしは民主党以上に、自公批判票の受け皿となる可能性を否定できないからです。

去年(2015年)10月の宮城県議選で共産党が倍増したのは記憶に新しい。安保関連法案の扱いが無縁とは考えにくいでしょう。

その傾向が顕著になってくると、民主党内の圧倒的な共産党アレルギーが薄れて、票をくれるのなら「シロアリ」でも歓迎と変化します。

共産党の参院比例区、最高得票は819万票(1998年、14.6%)。
当面の参議院選挙1人区はゼロの上、当選の見込みはありませんから、もともと失うものがありません。共産党の票は要らないと言われても、黙って野党統一候補に集中します。

一昨年(2014年)暮れの総選挙、比例区は606万票(11.3%)。選挙区、比例区合わせて21議席。この比例区の票を300選挙区ごとに得票実態に従って振り分けますと、2万〜9万票になります。与野党接戦の選挙区の野党統一候補には、なんとも魅力的な数字です。

確かに、これは単純な足し算です。多くの民主党議員の懸念は、もらう共産党の票以上に、穏健な民主党支持票が離れるから、結果はマイナスという予測です。

共産党が発表した「国民連合政府」構想によれば、党綱領に掲げている日米安保条約の廃棄は、「凍結」するだけで「廃棄を放棄」しません。天皇制や自衛隊の解消についても一時的に「棚上げ」するだけです。彼らのいう戦争法案(安保関連法案)を撤回させるためだけの「一点限定共闘」です。

国民の目には、有権者を安心させて選挙の票集めに役立てるための当たり障(さわ)りのない提案と映っています。

ですから、この限りにおいては、「オリーブの木」(イタリア共産党がリベラルな社会民主主義政党になって、中道および左派政党との連合を実現し、右派連合の政権与党に勝利した1996年の選挙の例)にはなり得ません。

多くの民主党議員の指摘は当たっていますし、与党が懸念するには及びません。

流れがホンモノになって与党の脅威になるかどうかは、共産党が日米安保条約の廃棄を「廃棄」して存続を確認し、天皇制を認め、自衛隊の存在を必要とする綱領に変更すること。よし、国民連合政府が成立しても、今回は閣僚を送らない閣外協力に止めると明言することです。

つまり、共産党が市民運動を背景にホントに捨て身になって、国家・国民のためにひたすら尽くす決意をした姿を有権者が実感した時は怖い。

私は重大な関心をもって、この2点のゆくえを注視しています。

自民党が夏に勝つための政治工作としては、衆参ダブル選挙です。野党共闘は複雑に錯綜して統一候補の取りまとめは一段と困難になって、擁立の歩留まりは激減します。

短期の政策課題としては、世界同時株安とはいえ、新年早々「安倍相場、終焉」と駅売り夕刊紙の見出しになるようではダメです。アベノミックスの評価は、株価が基準になり易い。

年金基金の運用を市場の下値の支え役と勘違いしているのではないか。だから、毎回、海外投資機関に美味しいところを浚(さら)われる役割しか果たしていません。下落した相場の後始末しかしていない現状の改善を急ぐことが肝要です。

もうひとつ、中長期の政治課題は、衆議院の選挙区制度の抜本的改正です。端的に申せば、定員3人の全国100選挙区、総数300人の中選挙区の実現です。

日本人の情感に合った制度ですし、政党間の共闘は成り立ちません。選挙結果によって、政治を安定させるために連立政権を組むのは時々の実情に応じて自由です。

憲法改正は、国会の発議を受けて、いずれ国民が決める課題です。
長期安定政権維持のために、今の自民党が取り組むべき最優先課題は、今の陣容なら出来る選挙制度の改正です。
(2015/1月7日、元内閣官房副長官)



2016年01月09日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎



脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。

2016年01月03日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎



1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関だった。

今でも平均12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関でした。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験ムードに反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章
1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。でもあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、教会の所有ではない礼拝堂を指している。」とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場がチャペルだ

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無いが・・・)白いチャペルか・・・フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。

ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあった。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌とはあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴くものと心得ている。

2015年12月31日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこったことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことであるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名ですが、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明ながらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかって いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたため、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動していた訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達との対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではないか」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創ではないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為でしょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツールが、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上でその影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学では統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされていた。>

2015年12月23日

◆言論の自由が勝利した無罪判決 

西岡 力



産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に無罪判決が下された。私は起訴後、加藤記者と何回も会って話を聞いてきた。だから記者本人も、周囲の関係者も無罪判決が出るとはほとんど予想していなかったことを知っている。ただ、私は以下の理由で無罪判決が出ることも十分あり得ると思っていた。

 ≪主張貫き曖昧な決着を拒否≫

韓国の言論界や法曹界では無罪判決が当然だという意見はかなり多かった。行政機関である検察とは異なり、韓国の司法は大統領の意向に左右されることはほとんどないが、世論の影響を受けることはある。

今回の事案 は世論が沸騰する日韓歴史問題や領土問題とは全く関係ない。裁判官の中 に左派的考え方の持ち主が多くなり、北朝鮮スパイ事件などでは過去には あり得ないほど刑が軽くなったりしていたが、韓国内左派はむしろ朴槿恵 大統領のセウォル号沈没事故の処理を問題視し続け、名誉毀損での起訴を 批判していた。

判決は理路整然とした立派なものだった。例えば結論部分に以下のくだりがある。

〈韓国国民として、前支局長の見解には受け入れ難い点が多い。ただ、外国メディアの討論の自由を差別的に制限する合理的な根拠はない。前支局長が公益目的で記事を作成したという側面を考慮すれば、本件の記事も、言論の自由の保護の領域内にある。


不適切な点も多いが、このような言論の自由の側面を法理的に検討すれば、公人である大統領の名誉毀損、誹謗目的があったと断定するのは難しい。公的事案に関する名誉毀損の場合、言論の自由の価値に優位を置いて審査すべきだ。さらに、疑わしくは被告人の利益とすべきだ。〉

このような判決が出た背景の一つは、加藤記者と産経新聞が「記事は言論の自由の範囲の中にある」という点をきちんと主張し続け、曖昧な決着を拒否したことがある。一部では、判決期日が3週間延期されたのは、その期間に加藤記者から改悛(かいしゅん)の意思を引き出し刑の宣告を猶予することが検討されたためといわれている。

 ≪裁判官も共有した「価値」≫

12月16日付産経新聞によると〈宣告猶予とは英国や米国で発達した 制度で、日本は採用していない。裁判所が被告の有罪を認定した上で、刑 の宣告を猶予する。一定期間(韓国の場合2年)、別の件で有罪判決を受けなければ、刑事罰を免れるだけでなく、有罪判決自体が消産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に無罪判決が下された。私は起訴後、 加藤記者と何回も会って話を聞いてきた。だから記者本人も、周囲の関係 者も無罪判決が出るとはほとんど予想していなかったことを知っている。 ただ、私は以下の理由で無罪判決が出ることも十分あり得ると思っていた。

 ≪主張貫き曖昧な決着を拒否≫

 韓国の言論界や法曹界では無罪判決が当然だという意見はかなり多かった。行政機関である検察とは異なり、韓国の司法は大統領の意向に左右されることはほとんどないが、世論の影響を受けることはある。今回の事案は世論が沸騰する日韓歴史問題や領土問題とは全く関係ない。

裁判官の中に左派的考え方の持ち主が多くなり、北朝鮮スパイ事件などでは過去にはあり得ないほど刑が軽くなったりしていたが、韓国内左派はむしろ朴槿恵大統領のセウォル号沈没事故の処理を問題視し続け、名誉毀損での起訴を批判していた。

判決は理路整然とした立派なものだった。例えば結論部分に以下のくだりがある。

〈韓国国民として、前支局長の見解には受け入れ難い点が多い。ただ、外国メディアの討論の自由を差別的に制限する合理的な根拠はない。前支局長が公益目的で記事を作成したという側面を考慮すれば、本件の記事も、言論の自由の保護の領域内にある。〉

2015年12月21日

◆「蕪村銅像」を大阪「淀川神社」に建立

毛馬 一三



平成28年1月から、いよいよ「蕪村生誕300年の年」。江戸時代三大俳人の与謝蕪村は、300年前の1716年享保元年に大阪毛馬村に生まれたことだけは、はっきりしていますが、肝腎の「生誕の日」は未だ不明です。

しかし2016年は上記の通り、「生誕年300年の年」を迎えることになります。

筆者が所属するNPO法人近畿フォーラム21は、6年前から「大阪俳句文化振興を図る活動のひとつとして、蕪村生誕300年を顕彰する「講座・蕪村顕彰俳句大学(学長川原俊明・弁護士)」を立ち上げ、同講座開講を運営しつつ、兜カ學の森とも共同して、全国俳句大会も開催し、最優秀句の表彰式をおこなって来ました。

ところがどうしても困惑極めるのは、「蕪村生誕の日」が分からないことです。分からないことは、大阪毛馬町生誕の「生誕300年」の「御祭り」を、来年のいつの日に、如何なる行事をすすめたらいいかが直面する難問でした。

そこで、まず世間に広く知られている大阪淀川堤防上の「生誕記念碑」に匹敵する「蕪村銅像」を建てることが、効果的だとの考えにNPO法人理事会の意見が合致し、立案作業を進めてきました。

では、「蕪村銅像」を建てる場所をどこにするのかが最大の課題でした。「銅像建立」によって蕪村生誕地が大阪毛馬町であることを、地元だけでなく、全国・諸外国の俳句愛好家にどしどし「銅像」を見に来て貰うための「最適地」は、一体何処がいいのだろうか、これに関して詳しい調査をすすめました。

そんな時に、「最適の建立場所の候補地」が上がったのです。驚嘆でした。これはこれから追々。

蕪村は、摂津国東成郡友渕村字外島(現・毛馬町1−2−11)の庄屋で生まれました。庄屋は近郊にある「八幡神社」と「淀川神社」の「氏子」でした。江戸時代は、ともかく生誕のお祝いや商売発展の祈願、生活安泰の祈願、悩みからの脱皮の祈願などに期を捉えて、氏子たちが「神社」に参詣していたことは、江戸時代の慣習であり、熱の籠った常習でした。

ですから「二つの氏子神社」に、与謝蕪村(寅)が、東成郡友渕村で育った幼少の頃、庄屋の「氏子」の父と母につれられて氏子参詣を続けていたであろうということが、地元毛馬町の情報として急速に浮かび上がって来たのです。

序でながら記しますと、もうひとつの「八幡神社」は、明治に近郊の「桜宮神社」と合祀し、姿を消しました。従って、現存する毛馬町の氏子神社は、「淀川神社」だけになっています。

と云うことは、蕪村が参拝したと称される氏子神社の実像は、今では「淀川神社」だけしか、残っていないということになります。

このことから筆者は、動きだしました。早速注目の「淀川神社」を訪ね、横呂良宮司と神社の座敷で、同神社の歴史と蕪村参詣の歴史的風習を巡る話し合いを交わしたのです。
すると、横呂良宮司は、神社は焼却の過去もあり「淀川神社への参詣書はないものの、江戸時代慣習から察すれば、蕪村氏子一家がここに参詣したことは間違いないことでしょう」と、意見が一致しました。

ですから、蕪村が幼少の頃、悩みに包まれた母と参詣に通ったのは想像に難くなく、生家相続に絡まされ悩みの果てた蕪村が、駆け込み参詣を行ったことも推測出来る経過を飛び出してきました。

更には、17・18歳の頃、生家「庄屋」を整理して江戸に下る決意を問い掛ける参詣も、当然氏子の立場で「淀川神社」に命懸けで詣でたこととは、当然のことだと断言できることも一致しました。

そこで筆者は決意しました。その場で横呂良宮司に「淀川神社の境内」に「蕪村銅像」を建立させて頂けませんでしょうか。望郷の念に終生纏わり付かれた蕪村の心を迎い入れ、蕪村が参詣したのがここの「淀川神社」だと後世に伝承しましょうとお願いしました。

横呂良宮司も話の進み具合を快く受けいれられ、実はこのあと「神社役員会」を開催されて、この問題を協議して頂いたのです。その結果的、何と「神社役員全会一致」で、境内への建立が決定されました。
神社に俳人の銅像が建立されるということは、画期的なことでした。

筆者は歓喜し、早速これを川原俊明学長と「蕪村生誕300年行事実行委員会・村田正博委員長(大阪市大文学部教授)」に報告した処て喜ばれ、勿論NPO法人理事全員も「蕪村銅像建立先」に感動しました。

本当に「淀川神社境内」に歴史的、かつ蕪村幼少時代の本人と父母の参詣心情を取り入れて、「建立」賛同にご努力された横呂良宮司と「神社役員会の方々」に心から御礼を申し上げました。

これから本題。

NPO法人近畿フォーラム21と、淀川神社(大阪毛馬町)は事業協力して、大手建設会社に発注し、平成27年12月21日正午前から、神社境内で「蕪村銅像建立」工事を実施します。工事は、午後1時前には終わる予定です

そこで、出来上がる「蕪村銅像」の形は、下記の通りです。

・「蕪村銅像」自体の、高さは(地面より)1m60p。

・「蕪村銅像」正面は、台座石95pの上に、鉄製の「蕪村像本体」(土台付)65p。「銅像横幅」は、45p。
 
・「蕪村銅像」の正面高さ(台座付)は70p、銅像幅は(台座付)で45p。

・「銅像」正面の台座の中には、「与謝蕪村銅像」、「故郷毛馬生誕300年記念」と記しています。
更にその下に多数の「建立協賛者名」が記されています


そしてこの「蕪村銅像」が完成したあと、来年平成28年からの「蕪村生誕300年の年」のスタートに合わせて28年1月23日(土)13時から、「蕪村銅像建立の除幕式」を「淀川神社」で開催します。

 末尾になりましたが、蕪村銅像建立のため、地元・各界の方々から「賛助」にご協力を頂きましたことに心からお礼申し上げます。

どうか、「蕪村生誕300年の年」幕開けの来年1月23日午後1時には、「淀川神社」での蕪村銅像建立の除幕式を開催致しますので、是非「淀川神社」にお越し頂きます様、お願い致します。 以上

◆なお、全国版「頂門一針」に、上記記事が掲載されました。蕪村顕彰を全国に発信して頂き感謝致します・
全国版「頂門一針」:バックナムバーは http://www.melma.com/backnumber_108241/

  

2015年12月20日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、トウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっついていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマの恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であり、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけにいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だったと知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマに対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はないそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれる。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さんより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけでなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目があったのか。

2015年12月19日

◆知らなかったさるかに合戦

渡部 亮次郎



自宅でぼ昼食のあと、卓上に柿と梨を並べて食べていたら家人が突然「柿梨合戦じゃなかった、あれはさるかに合戦か。そういえばどういう筋書きだっけ」ときかれて私は知らなかった。

父は八郎潟干拓運動で留守勝ち、母は農耕と家事でてんてこ舞いとあっては猿蟹合戦を子どもたちに聞かせる何処路じゃなかった。或いは猿蟹合戦そのものを知らなかったかもしれない。

さるかに合戦。江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』。古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる。さるかに合戦(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺害し、殺された蟹の子供達に仕返しされるという話。「因果応報」が主題。

あらすじ(地方などにより色々あり)

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。

そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

『猿蟹合戦絵巻』より、子供の蟹たちの敵討ちの場面。本作品では臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっている。その子供の蟹達は親の敵を討とうと栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せた。

栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをして猿は火傷をおい、急いで水で冷やそうとしたら蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとしたら牛糞に滑り、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

現代では蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されたものが多く出回る。これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためである。

しかし、本来の内容を復活させるべきという声も多く上がっている。タイトルが「さるかに話」などといったものに変更されている場合もある。また、牛糞は登場しない場合もある。

近代日本を代表する小説家である芥川龍之介は蟹達が親の敵の猿を討った後、逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いている(題名は『猿蟹合戦』)。

また、1887年に教科書に掲載された『さるかに合戦』にはクリではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃している。また、牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしている。

地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在する。

なお、近年の派生作品としてはパスティーシュを得意とする作家清水義範による「猿蟹合戦」をネタに司馬遼太郎の文体を真似たパロディ小説『猿蟹の賦』及び丸谷才一の文体を真似たパロディ評論『猿蟹合戦とは何か』や、漫画家吉田戦車による中国の少数民族に伝わる同様の説話「ひよこの仇討ち」と「猿蟹合戦」をヒントにした作品『武侠 さるかに合戦』などがある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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