2013年06月26日

◆ちゃんちゃら可笑しい

渡部 亮次郎


永野重雄という日本財界の四天王の一人は、実に激しくも気さくな人だった。仕えた園田直が官房長官から外務大臣に転出したとき財界に園田後援会を作ってくださり、毎月の懇親会に秘書官の私も加えるように気配りして下さった。

渡部君、ボクが会社(新日本製鉄会長)から常務会の決裁無しに持ちだせる金額を知ってるかい?たった5万円だよ。これじゃ彼女の手当てにもりゃしない。と、終いには秘密を打ち明けるようになった。

なにしろ持った段位が得意の柔道や囲碁など交えて64段。武道の段位30段の園田も真っ青の大物だった。広島で。裁判官を父とする10人きょうだいの次男として育った。

その永野さんが財界の幹部を引き連れてモスクワのクレムリンに乗り込んだ。当時の日ソ経済協力推進のためである。昭和40年代のことだ。確か共産党書記長のブレジネフと会談した。通訳はモスクワ駐在の日本大使館員。

「そんなこと、解決は簡単、朝飯前です」までは良かったが「ちゃんちゃら可笑しい」の言葉でエリートは詰まってしまった。ちょっとした江戸弁だが、若い人はもう余り使わなくなった言葉。

エリートは舞い上がった。だから永野さんが「そんなことをしたら、こちとら、臍(へそ)で茶を沸かす」と言ったとき、意味が理解できないまま直訳してしまった。

臍で茶をどうやって沸かすのか。堅物のブレジネフが真顔で聞いてきた。往生したのは永野さん。「可笑しい」のたとえで言っただけなのに、通訳が真意を知らぬまま直訳したから場が白けてしまった。「あの時は参た」としみじみ述懐した。

永野さんは男兄弟6人中6人が東大、一人は東北大という優秀な兄弟。「だがボクは殆どを柔道ですぎたね」。

いろいろな曲折を経た後、製鉄業界に入り、敗戦後、先輩たちがクビを並べて公職追放になったため46歳の若さで日本製鉄の常務。そのご日本製鉄は進駐軍により八幡製鉄と富士製鉄に分割されるが、のちに合併により新日本製鉄として再出発、会長になった。

通訳はみな秀才だが、だからこそ世の中の酸い、甘いには通じていない人が多い。勉強は出来るが、常識に欠ける人物は古今、東西を問わないのでは無いか。「海千山千」を知らない通訳に私自身、往生したのはワシントンでだった。

< 四字熟語辞典 >
「海千山千」の意味
長い年月にさまざまな経験を積んで、世の中の裏も表も知り尽くしていて悪賢いこと。また、そういうしたたかな人。▽「海に千年、山に千年」の略。海に千年、山に千年棲すみついた蛇は竜になるという言い伝えら。


2013年06月24日

◆中国特派員は「三猿」境遇

渡部 亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯産経えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆 どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と 非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介し1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を 除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親日派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないすなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させてハナを開かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無いから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化
した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。(再掲)


 

◆トイレットペーパー

渡部 亮次郎


紙は文化のバロメーターといわれるが、もう1つのバロメーターはトイレット・ペーパーの質では無いか。旧ソビエトの迎賓館のトイレに坐りながら、つくづく考えたことだった。

1978年1月、外務大臣秘書官としての初外遊がモスクワでの「日ソ定期外相協議」への随行だった。1月のモスクワは零下20度まで下がるというので、防寒具を整えたが、経験者たる報道課長古川清さんの入れ智恵で、トイレット・ペーパーを多めに携帯した。

なるほど、モスクワの「レーニンが丘」に建っている何棟かの迎賓館のうち泊められた1号館は鉄筋2階建て、警備の警察官が寝ずの警備をしてくれている。

迎賓館の周囲を歩く靴の雪をこする音が夜中中していた。時差ボケでよく眠れないうちに、朝がきて園田大臣が寝室で5時に起きだしたようだが、外はまだ真っ暗。結局、9時にならないと明るくならなかった。

台所には、女性が1人いた。おっぱいがヘッドライトを括りつけたように大きいが、推理小説の読みすぎか、秘密警察の要員かと思って警戒。各部屋には冷蔵庫の備え付けが無かった。ビールも無かった。

トイレに入って驚いた。古川さんの教えてくれた通り。トイレット・ペーパーは、ごわごわと音がする厚さ。多分、ボールペンで字が書けたろう。東京から持っていったものが役立った。

トイレットペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。その当時は皇帝用であった。

便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセフ・カエティによって作られた。カエティの名前はすべての紙に印刷された。

トイレットペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いるか、ぼろ布、かんなくず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。日本では、ちゅう木(糞べら)という細長い板を用いていた。

帝政ロシアでは、部下が皇帝が用いるトイレットペーパーに皇帝の刻印を押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所担当の廷臣がいた。

安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎日二人っきりになる好機であるため、その影響力を得たいためにこの仕事を望む部下は多かったという。

その名残か、ソビエトではトイレット・ペーパーには政府は全く関心が無いようだった。帰国する時に、日本製をすべて彼女にさしだしたら、初めて笑って謝意を示した。金の入れ歯が確認できたわけ。

記者の大先輩、古澤襄(のぼる)さんによれば、最近のロシアはヨーロッパなどから輸入するらしく、「字の書けるトイレットペーパー」は姿を消したらしい。

しかし、私の訪問した13年後、ソビエトは社会主義体制に74年でピリオドを打った。目が爛れ、破れた靴を履いてクレムリンを訪れた市民を見ると、社会主義はとっくに破滅しているのが分かった。

ところで、トイレットペーパーは、日本ではどれもほぼ一定の大きさであって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によってはロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものとなっている。

各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがある。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられている場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。

迎賓館にはそういう指示は無かった。

日本では、従来はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されていたが、水洗式便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途のために次の条件を満たす必要がある。

肌に触れて不快感がないこと。最近では2枚重ねのものが増えてきている。

強度があること。使用中に崩れてしまうと不快であり、また衛生上望ましくない。 吸水性に優れていること。 水に濡れると繊維がほぐれること。下水処理が行いやすくする必要がある。

また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれないようにしなければならない。 安価であること。消耗品であるので、低コストである必要がある。再生紙がよく使われる。

この他にも使用者の利便性のためにミシン目などが入っていたり、香りがつけられていたり、文字が印刷されている物も作られている。

ホテルやアミューズメント施設などで顧客サービスの一環としてトイレットペーパーを三角に折ってあることがあるが、元々は「ファイアーホールド」といい、緊急呼集をかけられるケースの多い消防署で迅速に対応できるように考案されたものである。

一般にも広まったのは帝国ホテルの清掃員が清掃の完了の目印として行っ
たものらしい。

ペーパーホルダーの制約があるので、トイレットペーパーのサイズは標準化されている。

日本、アメリカでは、114 mm幅が主流である。この半端な数値は4インチ1/2に由来する。日本ではJISで114 mm幅に定められている。芯の内径は38mm(1インチ1/2)が主流である。

ヨーロッパではメートル法に基づき100 mm幅が主流である。

日本では、長さは60 m(2枚重ねでは30 m)前後が多い。ロールの状態では直径110 mm前後になる。JISでは、直径120 mm以下と定められている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2013年06月22日

◆「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎


江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。

ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年06月19日

◆ジャガイモの不作

渡部 亮次郎


2009年、日本の夏は日照不足だったため、各地からジャガイモの不作が伝えられ、3割以上の値上がりが報じられ他。今年も旱魃による不作が報じられはじめた。

この芋はすでに麦、トウモロコシ、コメについで世界4番目の「主食」の地位を確保している。

日本人が敗戦直後の食糧難に頼った芋はジャガイモではなく、薩摩芋だった。生産の都合でああなったのだろうか。いまでも薩摩芋は好物ではない。ジャガイモが好物だ。

ジャガイモは南米ペルー南部に位置するチチカカ湖の畔が発祥とされ、現在、世界中で広く普及するに至った。

国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計資料 (FAOSTAT)によると、2005年の全世界におけるジャガイモの生産量は3億2310万トンであり、主食となるイモ類では最も生産量が多い。

生産地域は大陸別ではアジアとヨーロッパが4割ずつを占め、インドを除くといずれも中緯度から高緯度北部に分布する。上位5カ国で全生産量の54%を占める。日本の生産量は275万トン(世界シェアはわずか0.85%)。

1.中国 7346万トン(22.7%)
2.ロシア 3728万トン(11.5%)
3.インド 2363万トン(7.3%)
4.ウクライナ 1946万トン(6.0%)
5.アメリカ合衆国 1909万トン(5.9%)
6.ドイツ 1162万トン(3.6%)
7.ポーランド 1037万トン(3.2%)
8.ベラルーシ 819万トン(2.5%)
9.オランダ 678万トン(2.1%)
10.フランス 668万トン(2.1%)

このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシだとされていたが、複数の研究の結果、食基盤はジャガイモであったことが分かった。

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っていない。

スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士達によってもたらされたものであろうと推測されている。

さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない。

いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが登場するのはさらに時を待たねばならない。

さらにジャガイモは18世紀にはアイルランド移民の手によりアメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となった。

このように、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから鳥害にも影響されないジャガイモは庶民の食料として爆発的な普及を見せた。

アダム・スミスは『国富論』において「小麦の3倍の生産量がある」と評価しており、瞬く間に麦、米、トウモロコシに並ぶ「世界4大作物」としてその地位を確立した。

栽培にはpH6前後の酸性の土地が適している。また冷涼な気候や硬く痩せた土地にも強い。その反面、病害や虫の被害を受けやすく 連作障害も発生しやすい。

ジャガイモの地下茎は水分と栄養が豊富なため雑菌が繁殖しやすく、保存状態の悪い種芋や、収穫から漏れて地中へ残された芋は病害の原因となる。そのため、日本では植物防疫法の指定種苗となっており、種芋の売買が規制されている。

ジャガイモは連作障害が発生しやすい。連作を行うと土壌のバランスが崩れ単純に生育が悪くなるだけでなく、病害や寄生虫が発生しやすくなる。

特にジャガイモに大きな被害を与える原因として、ジャガイモシストセンチュウによる生育阻害がある。このセンチュウは地中で増殖し高密度になるとジャガイモの生育を大きく妨げる。

2013年06月16日

◆鳩を寄せる悲しみ

渡部 亮次郎


鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階のベランダにも番(つがい)が産卵しに来る始末。

ところで、老人と話してみると、たいていは独り暮らし。関東大震災をくぐり、昭和20年3月の大空襲では、親兄弟を失いながら、悲しみに耐えて生きてきたが、寄る年波でもういけねぇ。

ヨチヨチと散歩に来て、エサに寄って来る鳩の羽ばたきが生きてるシルシよ、というのだ。かと思えば、家では嫁に掃きたてられるようにして公園に出てきても話し相手はいない。

なにしろ下町と言っても、個人主義の時代が長すぎた。公園で出合っても挨拶する人は年寄りでも稀になった。仕方が無いから、たばこ銭を詰めて買った玉蜀黍(とうもろこし)を撒いて鳩の群れを寄せ付けるのさ。だから、鳩が頭に立とうが、肩にとまろうが嬉々としてその老人は張り切っている。

まさに公園管理所の考えている鳩問題は、鳩問題ではなく、すぐれて老人問題、福祉問題なのである。都知事殿もこのあたりは判らない。

公園には嘗ては常時10人ぐらい住み着いていたホームレスも管理所の妨害作戦により全く居なくなった。だがエサをやる老人たちは管理所に隠れるように木陰に立って撒いている。

犬は放すんじゃないと管理所、幾ら叫んでも、放し飼いだから、何時噛まれないとも限らない。まこと、老人たちの鳩寄せ事業は歩きながらで大変なのである。

ある日から、パンくずを持って仲間入りしてみたが、あれほど面白くないものは無い。第一、鳩は根っからの馬鹿だ。記憶と言うものが無い。ア、昨日のおじいさんだということが絶対ない。わかってない。

エサに興味があるのであって,くれる人に興味は無い。記憶もない。愛がわかない。老人の鳩寄せは実に悲しい限りだ。益々老人になって行く当方だが、エサやりはやめた。

2013年06月14日

◆閣騒擾はアメリカの責任

渡部 亮次郎


尖閣諸島返還問題に関して1971年当時の繊維交渉が関わっていたとされる。尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還されたが、尖閣諸島の日本への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的な意見が多かったとされる。

その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするためにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国政府の外交文書ふら明らかになっている。(ウイキイペデイア)

このことについて10日発売の月刊誌「文芸春秋」7月号は<スクープ ホワイトハウス極秘テープ発掘>「尖閣領有 アメリカは日本を裏切った」とする早稲田大学大学院客員教授 春名幹男さん執筆の記事を掲載した。たしか元共同通信ワシントン支局長だった方である。

春名氏は冒頭、次のように指摘している。
「尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立、緊張は長期化し,一蝕即発の危機も想定される事態が続いている。・・・中国が公船を派遣して挑発し続けているのはなぜか。

その一因はアメリカ政府の態度にある。尖閣諸島が日本の施政権下にあることを認める一方で、同時に領有権争いが存在することも認め「当事者間で解決すべき問題」との立場をとっているからだ。当に中国は、米国が領有権争いの存在を認定しているからこそ、挑発を続け,尖閣諸島を奪い取ろうとしちるのだ」。

春名教授は過去5年以上に亘って米国立公文書館などで、機密解除された米外交文書、「キッシンジャー電話会話記録」など大量の文書を読み解いた結果,これまで知らされていなかった真相を突き止めた。アメリカの”あいまい戦略“の根本は、沖縄返還の裏で展開された米国と台湾との交渉にあったのである、としている。

当時、「米中接近」で権謀術数をめぐらしていたニクソン=キッシンジャー外交は日本との沖縄返還協定の調印直前、台湾側の要求を容れ手「沖縄諸島の施政権を日本に返還しても中華民国(台湾)の領有権の主張を侵すことはない」との政策をまとめていたのである。しかし、日本側にはきちんと説明されないまま、現在に至っているのだそうだ。

当時、アメリカは沖縄返還問題と並んで「繊維交渉」をかかえていた。われわれは日米間だけの問題だったと思ってしまうが、アメリカは実は台湾とのあいだでも懸案になっていたのである。この問題はニクソン再選への高いハードルになっていた。

こうした中で台湾はアメリカが沖縄を日本に返還しても尖閣列島を返還から除外するなら「繊維交渉を受諾する、との挙に出た。沖縄返還協定調印の直前だった。

これにはホワイトハウス内部でももめたが、結局、尖閣の帰属は日本、台湾の交渉に任せるという形で沖縄返還問題は進んでいったが、台湾と日本の話し合いは進行しないままで終わった。アメリカは世界を驚愕させた「ニクソン訪中」を発表した1971年7月15日の6日後、尖閣諸島の主権問題で日本に対して台湾と話し合うよう「説得」工作を突然、中止した。

だから春名教授は言う。「そもそもアメリカは尖閣諸島の主権返還において「当事国」であったはずだ。それが、日本側に十分な協議も説明もなく、台湾との妥協を強引に進め、最後には台湾との交渉を日本に押し付けたことになる。その“無責任”な対応がいま深刻なつけとして、東アジアに暗い影をおとしているのだ。

このころ政治記者としてNHKにいた私は思い出す。「繊維交渉が解決しなければ佐藤栄作首相の悲願たる沖縄返還は絶対実現しない」。佐藤はニクソンに会うたび「善処」しますと約束しながら頼みの通産大臣大平正芳も宮沢喜一も解決、

しまいにヤケをこしたように嫌がる田中角栄に通産大臣を振ったところ、角栄はあっという間に片付けた。大平や宮沢はことを外交問題と考えて,かえって問題をこじらせたが、田中は国内問題と理解。補助金2000億円でぴしゃり。

直後。佐藤は福田赳夫外務大臣と田中通産大臣を従えてニクソンに会い、自分の後継者として福田を紹介するつもりだったが、ニクソンは会ったら角栄ばかりを歓迎。そのまま田中政権の誕生につながった。佐藤は「糸(繊維)で縄(沖縄)を買ったと揶揄されながらノーベル平和賞を受賞。角福はともに晩年は不遇だった。 2013・6・13

2013年06月12日

◆トウ小平3度の失脚と復活

渡部 亮次郎


私は中国については国交回復のとき記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(?)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を読み返しながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスに渡る。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う?小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていた?小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、?小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、特に外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参考:ウィキペディア他




2013年06月10日

◆金持ちはケチ(吝嗇)

渡部 亮次郎


「金持ちが金にこだわらないと考えるのは貧乏人の考えることだ」と諭(さと)したのは故田中角栄である。その大した遺産を相続した金持ちが真紀子なのだから、真紀子はケチで当然である、と角栄は教えているようなものだ。

昔から世間は人間は得意技で失敗すると教えてきた。得意技にその人間は慢心するから、つい油断と隙ができるのである。貧乏から出発して巨万の富を築いた角栄も得意技のカネ造りを立花隆に暴かれて、首相の椅子を投げ出した。それから云ったのが貧乏人の考え云々の科白である。

「なぜなら金持ちはカネを放さない、ケチだから金持ちになるんだ。金持ちはカネが好きだ。いくらあっても足りない。だから金持ちほどカネにこだわり、カネを欲しがる者はない。

それを金持ちはカネに鷹揚だろうと考えるのは貧乏人の考えることだ。お前のように手にしたカネをすぐ使ってしまうような人は絶対カネ持ちにはなれないよ」。 直話である。

角栄が貧乏に育ったとは周りがいっていることで、本人は如何に貧しかったかなど説明したことはない。父は馬1頭を売って大学にやらしてくれたと宗男はいったが、角栄にその種の逸話はない。

しかし上京後、どうやってカネを作ったかは、時々語った。とくに金脈が「文芸春秋」に暴かれての記者会見で「たとえば他人の土地の隣に土地を買い、石油缶を終日叩けば、隣の人は逃げだしてその土地が安く手に入る」と明かした。もう辞めざるを得ないとはいえ、総理大臣たるものの語ることではなかった。しかし真実だった事は間違いない。

そうやって田中家に財産が残った。真紀子の稼いだものは鐚(びた)1文ありはしない。真紀子は稼ぎ方を知らず、これをただ守って行くしかない。それなのに相続税という名のカネがまるで泥棒のように私から富を奪って行く。

それを補う筈だった数々の会社もなんだか赤字続きでさっぱりだわ。家計を維持し、元総理大臣家の体面を保つための現金収入がどこかにあるの、ないわ。

秘書なんて私の使用人よ、月給をいくらやろうが、やるまいが、私の自由じゃないの。ネコババはこうして成立した。まさに金持ちはカネが必要だったのである。

莫大な(と思うのは貧乏人の考えだが)遺産を相続した真紀子が秘書の月給をねこばばするわけがない、と考えたのは貧乏人の考えだったのだ。

だから真紀子としては証拠の書類などある訳もなく、仮にあったとしても絶対公開することはできないのである。大泣きして辞めたことのある社民党の女性代議士と同じ罪を犯しながらまともに罰せられないのは、自民党内にまだ角栄の怨念が棲みついているからである。

そう考えると、国会にはカネ持ちといわれる人はたくさんいるから、秘書給与のねこばばは、ほかにももっとあるはずで、暴かれることを恐れた先生から突如穴埋めのカネを時ならぬボーナスとして受け取った秘書もいたかもしれない、と考えるのも貧乏人の考えかな。 (敬称略)
  

2013年06月08日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたので、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺はま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみなされる場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称をめぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるようになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取って代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間では特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いられた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「から、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にある中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われることもあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるという感覚が生じた。
2009・07・16(再掲)

2013年06月05日

◆野中発言は「売国的」だ

渡部 亮次郎


野中広務元官房長官が、中国共産党幹部との会談で、1972年の日中国交正常化交渉の際、当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相との間で、沖県・尖閣諸島について「領土問題棚上げで合意していた」と発言して問題なっている。

日本政府は完全否定したが、事実はどうなのか。元NHK政治部記者で、園田直元外相の政務秘書官を務めた渡部亮次郎氏(77)が緊急寄稿した。
            ◇
私は、日中国交正常化の際は、NHK記者として田中訪中に同行し、日中平和友好条約締結の際は、園田外相の政務秘書官として立ち会った。

田中・周会談に同席した二階堂進官房長官からは「尖閣棚上げ」について一切発表はなかった。後日、田中氏が親しい記者を通じて発表した後日談にも「棚上げ」のくだりはない。

その後、私は外相秘書官となり、当時の関係者に聴取したところ、事実は以下のようだった。

尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本領土だが、中国は東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された70年代以降に領有権を主張し始めた。

このため、田中氏から「中国の尖閣諸島に対する態度をうかがいたい」と切り出すと、周氏はさえぎるように「今、この問題には触れたくない」といい、田中氏も追及しなかったという。

私も同席した78年の日中平和友好条約の締結交渉では、園田外相は福田赳夫首相の指示に基づき、「この際、大事な問題がある」と、最高実力者だったトウ小平に向かった。すると、「あの島のことでしょう。あのことは次の世代の知恵をまつことにしましょう」と話し合いを拒否したのだ。

中国側はこうした経緯に基づき「棚上げ」を既成事実化しようとしているが、説明したとおり「棚上げで合意」などあり得ない。中国が勝手に先送りしただけであり、私自身が生き証人である。

野中氏はこれを中国側の都合のいいように誤解し、結果的に中国側に加担している。

日本政府が「日中間に領土問題は存在しない」という限り、中国は尖閣領有の手掛かりを国際的に失うが、日本に「棚上げ」を認めさせれば「手掛かり」を得るわけだ。

こう考えれば、今回の野中発言は「売国的」というしかない。

2013年06月04日

◆砂漠でない「月の沙漠」

渡部 亮次郎


東京音楽学校(現在の国立東京藝術大学)出の流行歌手藤山一郎は太平洋戦争が激化すると、前々から激戦地に赴き慰問演奏をしたいという希望があり、1943年(昭和18年)読売新聞社の企画で南方慰問団を結成、2度南方に赴き、幾度の死線を突破して音楽活動を続けた。

ところが1945年(昭和20年)、インドネシアで終戦を迎え、インドネシア解放軍、イギリス軍の捕虜となる。この抑留体験が大衆音楽家藤山一郎の人生を決意させた。1946年(昭和21年)、航空母艦「葛城」に乗船して復員。この間、巷では藤山一郎、南方死亡説が流れた。

帰国後、コロムビア専属藤山一郎としてスタート。ハバネラタンゴの『銀座セレナーデ』『ふるさとの馬車』が巷に流れたものの放送に出る機会はなかった。ようやく1947年(昭和22年)、ラジオ歌謡『三日月娘』に出てファンは藤山の生還を知り歓喜したのだった。
「三日月娘」は藤山の生還第1声、戦後初のヒットとなった。

私は小学6年生。家には未だラジオが無かったが、向かいの友達が兄さんの買ってきたレコードをかけて呉れて「三日月娘」を聴いた。

「幾夜重ねて 砂漠を越えて 明日はあの娘(こ)のいる町へ
鈴が鳴る鳴る 駱駝の鈴が 思い出させて 風に鳴る」作詞:薮田義雄 作曲:古関裕而。共に軽快である。

しかし砂漠と言うものを見たことの無い少年は、なんとなく「月の沙漠」で砂漠を連想するだけ。しかし「月の沙漠」は千葉県御宿海岸の砂浜をモチーフに書かれたと聞いた事があり、本物の砂漠もそれこそ果てしなく広がる砂丘を連想していた。

ところが41歳の時、想像もしていなかったサハラ砂漠上空を飛んで実見した。果てしなく広がる不毛の土地は間違いないが、岩山あり、谷あり、水なし。迷ったら死ぬ事必定の地獄だった。

時々、油田のガス抜きの炎が高い煙突から拭いているのが見えて、ここがいまや不毛の地が、厖大な冨をこの国にもたらす油を溜めている事を改めて知らされるのである。

私を乗せたのはサウジアラビア政府提供の大型ヘリだったが、猛烈な騒音が子守唄になってしばし眠ってしまった。「時差ぼけ」をあれほど実感した事は無い。

また駱駝に乗ったキャラバンは確かだろうが、厳しいイスラム教の男女関係を律する教えを知れば知るほど、三日月娘は夢の世界と知る。

サハラ砂漠砂漠(さばく、沙漠とも)とは、雨があまり降らず降雨量よりも蒸発量の方が多い土地。植物がほとんど生息せず、水分も少ないため、気温の日較差が激しい。

よって農業には適さず、人間の居住が難しい地域(アネクメネ)である。砂漠地は岩石(メサ、ビュート)、礫(れき)、砂、ワジ(涸れ川)、塩湖、一部人などが生息できるオアシスなどで形成されている。

「砂漠」という表記からの連想もあり、一般的には見渡す限り砂地が広がって風紋を織りなしている情景がよくイメージされるが、実際には岩原など、地形にはバリエーションがある。世界では岩石砂漠、礫砂漠、砂砂漠の順に多い。

地球上の砂漠は、毎年600万ヘクタールの規模で拡大を続けている。これは、上記のような気候による影響だけではなく人間の活動に伴う要素が大きい。

砂漠化によって、その地域に居住する人々の食料生産ができなくなる。二酸化炭素の吸収源である森林が減少し、地球温暖化を加速させる などという深刻な影響がある。

こうした砂漠化を進行させる原因は、熱帯雨林の過剰な伐採により土地の給水能力が衰える、家畜の過放牧、過剰な焼畑農業などが指摘されている。

当用漢字制定前は「沙漠」という表記が使用されていたが、「沙」が当用漢字から外れたために「砂」を用いた「砂漠」という表記が使用されるようになった。なお、「沙」も「砂」も「すな」という意味を持つ漢字であり、「水が少いから『沙漠』と書く」というのは俗説。

学術用語としては「desert」に対して「砂漠」という訳語が当てられる。このため、学術用語の「砂漠」はすなじ(砂地/沙地)だけを指すものではないことは既述のとおり。

中国語では沙漠(砂漠)・(礫漠)・岩漠・泥漠・等の総称として「荒漠」を用いることがある。

世界の砂漠一覧(除サハラ)

アジア
カヴィール砂漠(イラン)
カラクム砂漠(トルクメニスタン)
キジルクム砂漠(ウズベキスタン、カザフスタン)
グルバンテュンギュト(古爾班通古特)砂漠(中国・新疆維吾爾自治区)

ゴビ砂漠(モンゴル、中国・内蒙古自治区)
サルイイシコトラウ砂漠(カザフスタン)
シリア砂漠(シリア、ヨルダン、イラク、サウジアラビア)
タール砂漠(インド、パキスタン)
タクラマカン(塔克拉瑪干)砂漠(中国・新疆維吾爾自治区)
ダフナー砂漠(サウジアラビア)
ネゲヴ砂漠(イスラエル、パレスチナ)
ネフド砂漠(サウジアラビア)
ハジャラ砂漠(イラク)
バダインジャラン(巴丹吉林)砂漠(中国・内蒙古自治区)
ホルチン砂漠(中国・内蒙古自治区):日本から1500kmと最も近
くにある砂漠。

ムウス(毛烏素)砂漠(中国)
モインクム砂漠(カザフスタン)
ルート砂漠(イラン)
ルブアルハリ砂漠(サウジアラビア、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン)

レギスタン砂漠(アフガニスタン)
ダフナー砂漠(サウジアラビア)

アメリカ
アタカマ砂漠(チリ)
グレートサンディ砂漠(アメリカ合衆国)
グレートソルトレーク砂漠(アメリカ合衆国ユタ州)
コロラド砂漠(アメリカ合衆国、メキシコ)
ソノラ砂漠(アメリカ合衆国、メキシコ)
ブラックロック砂漠(アメリカ合衆国ネバダ州)
ペインテッド砂漠(アメリカ合衆国)
モハーヴェ砂漠(アメリカ合衆国カリフォルニア州)

アフリカ
カラハリ砂漠(ボツワナ、ナミビア、南アフリカ共和国)
サハラ砂漠(エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダン)
ナミブ砂漠(ナミビア)
ニーリ砂漠(ケニア)
ヌビア砂漠(スーダン)
リビア砂漠(リビア、エジプト)
シャルキーヤ砂漠(エジプト)
ガルビーヤ砂漠(エジプト)
ワラーヌ砂漠(モーリタニア)
ビルマ砂漠(ニジェール、チャド)
オリエンタル砂漠(アルジェリア、チュニジア)

オセアニア
カウ砂漠(アメリカ合衆国ハワイ州)
ギブソン砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州)
グレートサンディ砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州)

グレートビクトリア砂漠(オーストラリア・ウェスタンオーストラリア州、サウスオーストラリア州)

シンプソン砂漠(オーストラリア・北部準州、サウスオーストラリア州、クイーンズランド州)

タナミ砂漠(オーストラリア)

スタート砂漠(オーストラリア・サウスオーストラリア州、クイーンズランド州)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

2013年05月29日

◆阿波丸撃沈?知らない

渡部 亮次郎


阿波丸は「安導船」ではあったが、禁制の乗客や貴金属を満載していたからアメリカ海軍に撃沈されたことになっている。ところが引き揚げた中国は、財宝的なものは皆無だったと言って園田外相(当時)に相談に来た。撃沈されて68年が過ぎた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用して概要を記す。

<阿波丸事件(あわまるじけん)とは、1945年(昭和20)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」の魚雷3本(4本との説もあり)を受け台湾海峡で沈没した事件。

阿波丸は緑十字船であり、航海の安全が保障されていたにもかかわらずどうして攻撃されたのかなど、謎は多い。この事件で、船員1人を除く2129名が死亡した。(渡部註:乗船者については2003人説、2045人説、2071人説有り、確定していない。朝鮮、台湾人が混じっていたためか。)

この船にはシンガポールからスズ3000t 生ゴム3000t その他の貴金属、希少金属類等が積載されていた、との風聞が立った。また便乗者として官僚や大手民間会社の社員なども乗り込んでいた。

阿波丸は、アメリカ政府の「日本占領地のアメリカ人捕虜へ慰問品を送ってほしい」という要請に人道的に応じた船である。

これに基づき阿波丸は病院船扱いの安導権=Safe-Conductを与えられていた。つまり、このような戦時禁制品や官僚の輸送は本来の許可内容から外れるものであった。

阿波丸の船体は白く塗られ、夜間は船体脇と煙突に緑十字の形を照らし出し、夜間の誤認による攻撃を防ぐようになっていた。

撃沈直後より国際法違反として日本は抗議、アメリカ側もこれを受け入れ責任を認めた上で、賠償問題については戦時であり直ちに交渉することは困難であるとし、終戦後に改めて交渉を行なうことを提案。

戦後になり日本側から賠償の要求が行なわれたが、最終的にはGHQからの意向を受けて賠償請求権放棄の決議が国会で行なわれ(昭和24年)、日本政府は請求権を放棄した。

阿波丸事件を題材とした小説等としては「シェエラザード」(浅田次郎)があり、これを原作としてNHK終戦特集ドラマ「シェエラザード〜海底に眠る永遠の愛〜」が制作された(2004年7月31日・NHKにて放送)>がある。

朝日新聞記者の松井覚進氏が遺族会の協力とアメリカの資料(訪米)を基に1994年5月に朝日新聞社から刊行した著書「阿波丸はなぜ沈んだかー昭和20年春、台湾海峡の悲劇」に私の手記が何ページかに亘って掲載されている。以下の< >内がそこからの引用文。

<亡くなった小説家有馬頼義(よりちか)さんの作品に「生存者の沈黙」と言う作品があり・・・1966年に読んだ。生存者とは2004人(有馬はこの説を採っている)を抱いて撃沈された「阿波丸」からたった1人浮上した人のこと・・・沈黙とは撃沈から救助に至る経緯についての彼の沈黙を指す。

私はこれを読んだとき既に30歳の(NHKの)政治記者だったが、敗戦まぎわの混乱期の事件とはいえ、それまでこの事件を知らなかった不勉強を恥じる一方で、戦火を知らずに少年時代を送った田舎暮らしの幸せをふと思ったりした。

しかし今、園田外務大臣が秘書官の私に言っている。「ナベしゃん(天草訛)これ、何とかならんかなあ」。何ということになったのだ。阿波丸が私の肩にのしかかって来た。

阿波丸の引き揚げに関して中国政府の了解を密かに、と言う事は外務大臣でありながら外務省ルートを通さずに取り付けろ、というのである。

外務大臣園田直が自民党副総裁の船田中氏を東京・平河町の全共連ビルにある船田事務所を訪ねたのは昭和53(1978)年11月7日午後4時半である。

日中平和友好条約の批准書交換式出席のため初来日した中国のトウ小平副総理によるトウ小平旋風が去って間もなくであった(大阪からトウ小平氏が帰国したのは10月29日)。

その園田大臣は船田氏の部屋へ招じ入れられてややしばし(人払いの密談)。(園田氏は福田赳夫内閣の成立に尽力したが、その際、船田氏の協力は不可欠だった。いま外務大臣をさらに1期務めようとしているとき、船田氏の機嫌を損ねる事はできない)。

・・・事務所を出ると、私の手許には新聞紙4ページ大の海図と1通の文書が大臣から渡されていた。「極秘だ、極秘」そういう大臣の声を耳の底に残しながら、私は夜遅くまで、大臣の退出した大臣室に残って宿題に取り組んだ。

海図には阿波丸の沈没地点が×印で明示してあり、文書には前米大統領ニクソン氏の息のかかった「グローバル社」(Global MarineDevelopemennt Inc)と話がつき、日本側は、2億円とか3億円を払うことになって引き揚げ作業の開始が決まった。船は米本土を出てハワイまで来ている。

実は実際に引き揚げ作業を始めると、海底に張る突っ張り綱が何百メートルか中国領海にはみ出すことになるので、その点よろしくと中国政府の某々氏に日本の外務大臣の肩書きで手紙を出してくれ。

また、そういう手紙を出して「中国政府から快諾を得た」「しかしどこへも秘密にしてくれ」と言う手紙をグローバル社あてに書いてくれ、ということなのである。・・・

・・・省内に大っぴらに相談するわけには行かない、ごく限られた事務方と相談し、中国側にはある秘密ルートで連絡した。ただし、肩書きは外した。中国政府からはナシのつぶてだった。

またグローバル社に対しては大臣から副総裁宛の持って回ったような手紙文を起草し、それに英訳にしたものを付して、それをグローバル社に示せばコトは足りるように工夫した。

万一どこかでばれても宝探しに手を貸したのではなく、あくまでも遺骨探しに云々となるように苦心した。事務方の秘書官に逃げの文章と言うものの造り方を習った。>

松井記者の本によれば、船田・園田密談の頃、中国側は既に阿波丸の船体を確認していた。金銀財宝を多量に積んでいたという話に共産党といえども踊ったのである。

自分たちの領海内のことであるから、日本になど相談しないで計画を練り、有ろうことか日本の石川島播磨重工にクレーン船を2度に亘って発注し、既に1隻目は引渡しが済んでいた、1ヶ月前に。

続いて翌79年4月には2隻目の引渡し。合計62億円。大力号と名づけられた2隻目は巻き上げ能力が2500トンもあったので、事情を知らない石川島播磨重工では、中国はこれで原子力潜水艦でも引き揚げる心算かといぶかったそうだ。

「中国感知」というホームページを偶然発見した。「日中友好」を掲げているから中国政府関係のものと思い、引用する。引き揚げが日本政府とあたかも協力して行われたもの、と飾っている。

<<1977年4月5日、中国政府は阿波丸の引揚げに同意し(どこで誰と同意したかは書いてない)、中国史上最大規模の沈没船引揚げプロジェクトが開始されることになった。

5月1日早朝、上海のサルベージ船、滬救撈3号を先頭とするサルベージ船団が牛山島海域に入り、阿波丸の探索を始めた。

最初に海に入ったのは、潜水大隊の馬玉林隊長であった。40m、50m、58m、水圧に体を慣らしながら半時間をかけて海底に下りた馬隊長は、最初に巨大なマストを発見する。馬隊長の報告から、沈没船は1万トン級の船舶と判断された。

この海域で沈没した1万トン級の船舶といえば、阿波丸しかない。その後、第2陣の潜水隊員が犠牲者の遺体を発見する。最初の考察で、この遺体は第2次世界大戦中の日本軍の高級将校のものと判断された。

続いて積荷と見られるスズのインゴットが発見される。これは、アメリカと日本から提供された阿波丸の積載貨物に関する資料と符合していた。

更に、潜水隊員が持ち帰った2枚の名札も、犠牲者リストにある人物のものと確認された。1977年5月1日の早朝から夜半にかけての探索で、サルベージ隊は阿波丸の位置を特定した。

3年後の1980年7月9日、サルベージ船団の滬救撈3号によって、沈没船が阿波丸であることを直接証明するもの、貨客船に備え付けられていたベルが発見された。そのベルには「阿波丸」の3文字が刻まれており、建造年代と所属する船会社の社名も鮮明に読み取ることができた。

アメリカと日本から提供された沈没船の資料(提供なんか誰もしていない)に基づき、潜水隊員は細心に捜索を進めたが、阿波丸伝説に語られる金40トンとプラチナ12トン、それと大量の工業用ダイヤモンドは最後まで発見されなかった。 >>

はじめっからの欲ボケ魂胆はすっかり隠し、初めから遺骨収集のためだったことにしている。日中友好も楽ではない。ここで中国側の話を一旦中断し、松井本に載った私の手記に戻る。

<1979年3月24日(土)の午前9時45分、日本外務省4階の大臣接見室に現れた中国政府の交通部副部長(交通省次官)彭清徳氏がとんでもないことを言い出した。

「阿波丸は中国政府が引き揚げました」「どこを探しても金銀財宝など無い。園田大臣閣下、助けてください」と悲痛だ。

彭氏によると阿波丸の引き揚げをめぐっては日本側から様々な働きかけがあったが、中国側は終始沈黙を決め込む一方で1977年初め(実際は5月)自ら引き揚げるとの決定を下し石川島播磨重工に対し世界に冠たるフローティング・クレーンを発注した。

引き揚げは77年から始め、78年にかけて共産党員の潜水夫ばかりを動員して引き揚げに取り組んだ。余程、機密を重んじたのである(潜水夫による貴金属の持ち逃げを警戒した。つまり私たちが日中平和友好条約の締結交渉のため北京を訪れたときも引き揚げ作業は進められていたのだ!)

船内では至る所で遺体が腐り、毒ガスが発生しており作業は命がけだった。潜水夫1人が死亡)。ところがどこを探しても金銀財宝といったものは無いのである(そのために62億円もかけてサルベージ船を建造したのに!)

本当に積んでいたのか、積んでなかったのか、彭徳清、お前、園田外務大臣のところへ行って聞いて来い、となった。「閣下、積んでいたとすれば何番ハッチの、どのあたりでしょうか」。

この質問は、私の苦心の「陳情」が中国政府にとどいていたことを裏付けるものである。彭氏は阿波丸の模型まで携えていた。もちろん遺品の一部と内部の写真までも持ってきていた。

事は中国政府の正式な申し入れと言うことになったから・・・約1週間後、日本外務省は中国側に対し、阿波丸の積荷リスト(公電)を示した。中国側は「阿波丸に金銀財宝は積まれてなかった」と納得して帰った。>

再び中国側のホームページ。

<<1979年、超重量級のクレーン船、大力号が現場に入ったことで、サルベージ作業はピッチを大幅に上げ、1980年、35年間海底に沈んでいた阿波丸の船首がついに海上に現れた。

阿波丸の船名はすでに海水に浸食されていたが、英語名の省略表記「AAAR」は完全な状態を保っていた。この年、中国政府は世界に向け、正式に阿波丸のサルベージ作業の終了を宣言する。

阿波丸の引揚げの過程で、中国政府は日本側と協力し、引揚げられた阿波丸の犠牲者の遺骨や遺品の収集と鑑定を行った。1980年、中国政府は日本に阿波丸の犠牲者の遺骨の引き渡しを決定し、中国政府を代表して、上海紅十字会が368体分の遺骨と218箱分の遺品を3回に分けて日本政府に引き渡した。

35年の歳月を経て、阿波丸の乗客はその長い航海を終えることができたのである。>>初めから日中友好に徹していれば1人の人命と62億円は使わずに済んだものを。

松井記者は記す。「日本、アメリカ、中国の男たちを駆り立てた「阿波丸は宝船」の夢はこうして終わった。米陸軍省が日本の暗号を傍受、解読した阿波丸関係のマジック情報を見ても、阿波丸が日本から金や紙幣を積んだ情報はあってもその逆はない」

「中国は1979年7月、80年1月、81年5月の3回に亘って遺骨368柱、遺品1683点を日本に渡した。第1回の79年7月には厚相の橋本龍太郎が団長となって訪中している。

遺骨は東京・港区の増上寺境内の阿波丸殉難者合同慰霊碑(1977年10月完成)と、奈良市紀寺町の?城寺境内の阿波丸慰霊塔(1966年11月完成)に分骨された。

遺品は、持ち主が分かり遺族の手に渡ったのは156点で、1527点が不明のままである。万年筆、ひしゃげた水筒、割れた食器、紙幣やみやげの品々・・・石のように硬くなった靴の山。小さな女の子の靴もある」。

最後に事件の誤射について松井記者は「限りなく故意に近い過失」と断言している。昭和59(1984)年4月2日(阿波丸沈没記念の日の翌日)に腎不全のため70歳で死んだ園田氏については2006年3月18日、内輪ながら23回忌を営んだ。それが増上寺で。