2013年03月01日

◆吉原遊廓(よしわらゆうかく)

渡部 亮次郎


学生時代はカネがなくて行けなかった。だが社会人になったと同時に今度は吉原そのものが消滅した。だから吉原を語る資格は、この場合「ウィキペディア」にしかない。

江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあった。一面「葦」が生えていたが、アシでは語呂が良くないので「ヨシ」原といったらしい。人形町にあった三業地は「ヨシチョウ」だった。

明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。

明暦の大火(めいれきのたいか)は明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。

被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。

火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。

防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。

徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。

家康は東海地方ら多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めた。

また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。

江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。

そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、

1.客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

2.偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

3.犯罪者などは届け出る。

という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。

その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。

結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。

ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。

寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。

江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。

吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。

1.吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)

2.夜の営業を許可

3.風呂屋者を抱える風呂屋(遊郭の競合)を200軒取り潰し

4.周辺の火事・祭への対応を免除

5.15,000両の賦与

この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。

折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。

移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。

寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」
と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた。

明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。

一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になるようになり、昭和年間には大半が東北地方出身者で占められるようになっていった。

彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。

まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために遊女を購った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女が生涯を遊廓で終えることとなった。この背景には農民層の貧困が存在していた。

戦後、純潔主義を掲げるキリスト教女性団体である婦人矯風会の運動などにより、昭和31年(1956年)5月21日に売春防止法が可決成立し、翌昭和32(1957)年4月1日に施行されると、吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身する。

江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。

それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇っていた。敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。

江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所であったが、吉原遊廓にとっても競争相手は常に存在していた。元吉原時代は、湯女と呼ばれる風呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。

江戸は富士山の火山灰が堆積した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったために泥まみれ、埃まみれになる仕事が多く、風呂屋が繁盛したが、その中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。「丹前風呂」などがその例である。

また、その後も江戸は膨張を続け、深川などに岡場所が出来てきたり、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになってきたりすると、吉原遊廓は激しい競争に晒されるようになった。それでも、江戸時代を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続けた。

明治期以降になると吉原遊廓は縮小されていくが、それでも、昭和32年(1957年)4月1日の売春防止法施行まで、元吉原の時代から数えて340年に亘って、吉原遊廓は営業を続けることになる。

「志んよし原大なまづゆらひ」。大鯰を懲らしめる遊女らを描いた鯰絵。多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は、常に8割を超えた。

しかし、一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に「〜売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。

しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし(客の財布を盗む事)」「起請文(お気に入りの客に宛てた手紙)乱発」「足抜け(脱走)」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。

この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。

なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政2年10月2日(1855年11月11日))の安政江戸地震で600人余の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。

遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。

遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。

花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、なかなか相手にしてもらえなかったといわれる。

そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。また、男性の下心をうまくつかってお金を搾り取るのが遊女のテクニックであった。しかし、現代で言う「ぼったくり」を店が行うことは良しとはされず、ぼったくり行為を行った店の主人が処刑された例もある。

江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。

茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという不文律があった。

ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたようである。

多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。

これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。

幕府は自ら公認した吉原遊廓を“悪所”として江戸から遠ざけようとしたが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。2013・2・28


2013年02月27日

◆毛沢東の晩年とその後

渡部 亮次郎


1972年の春、ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。

田中角栄首相が北京に乗り込んで日中国交正常化を一気に成し遂げたころ(1972年9月)であり、毛は田中首相らを引見した。このとき周恩来は国務総理として上海まで見送りに来て「天皇陛下によろしく」と田中に言った。

1975年には毛は両眼の白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。

このころになると最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するだけとなった。革命中のどさくさに生ませた子ども華国鋒はまだ側に呼び寄せてない。

毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。

そこで毛は周恩来の補佐として、1973年にトウ小平を復活させ、1974年にはトウを国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。

トウ小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。トウ小平は一気に文革路線からの脱却を図ろうとした。

しかし文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・トウ小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対してトウ小平批判を伝えていた。

毛沢東も文革を否定するトウ小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛はトウ小平をまたまた失脚させた。

周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。

毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は華国鋒主席によって逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。私も見た。

毛の死去後、江青ら四人組を逮捕・失脚させて党主席に就任した華国鋒は毛が革命中にある女性に生ませた子である。それを背景にある時期から「ヘリコプター式」に出世し「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。

これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。

先に復活していたトウ小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。

園田直外務大臣ら日本側の一行が北京に乗り込んで日中平和友好条約の調印に応じたのはこのころである。華国鋒主席は園田氏と会見したが、同席した私には全く元気がなく見えた。

党と軍の大勢はトウ小平を支持し、その後トウ小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。

また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。

毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。

内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。

しかし文化大革命で失脚したうえに迫害されたトウ小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。

毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。

例えば1989年の第2次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。

一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。

第2次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。

毛沢東の死後、中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大や党幹部・官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。

かような状況の下、困窮に苦しむ人々が「毛沢東は平等社会を目指した」と信じ、毛の肖像や『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。

毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った。

私見だが、党幹部の汚職や私腹肥やしに対する大衆の反発で共産党支配が壊滅する時、大衆は「公平」を旨とした国家の祖として毛沢東を再評価するという矛盾を犯すだろう。
                 ウィキペディア 2013・2・26


2013年02月26日

◆韓国における売春の現状

渡部 亮次郎


韓国政府の発表通りだとすると、韓国女性の4%が売春婦ということになる。しかも、最近は国内で稼げないから、日本に3万人、アメリカに2万人が「遠征」しているという。

以下のすべては「ウィキペディア」からの引用である。

韓国では、チケット茶房、ルームサロンなどを通じて売春が行われている。売春業の規模が2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)でGDP比で約4%、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。

(2007年に韓国政府の女性家族部が実施した実態調査では、韓国の風俗産業の経済規模はGDP比で約6%で、約27万人が従事している)

また、外国人女性を騙して入国させ、監禁の上で売春を強要する事件もあった。このような状況から韓国政府は2004年に売春行為を厳しく取り締る「性売買特別法」を施行した。

この法の施行にあたり、約3000人の売春婦が集まり「売春をさせろ」「生存権を保証しろ」とのデモがおこなわれ、その後も規制により生活が苦しくなった売春婦たちのデモが各地で発生するに至っている。

2011年には売春婦たちによって規制撤廃を求める大規模なデモがソウルで行われ、裸になった売春婦たちは町に火を付けたり自らガソリンをかぶるなどの恣意行動を外国メディアの前で行った。

「性売買特別法」施行後、韓国内の規制が厳しくなったことで、日本や米国をはじめとした海外へ「遠征売春」をしに出かける韓国女性が増加しはじめ、韓国政府関係者によると日本で働く売春婦は3万人にのぼるとされる。

それを追いかけて韓国人ホストも毎月100人以上が日本へ上陸していることが伝えられた。

米国ではロサンゼルス警察局の関係者によると、毎月逮捕される売春女性のうち、9割が韓国人であることが伝えられ、韓国の売春事情は海外にも影響を及ぼしている。

海外で売春をする韓国人は、米国では売春宿に「東京サウナ」、「東京ヘルス・スパ」などの店名を付けたり、オーストラリアでは韓国人売春婦らが「日本人女子大生18歳、(中略)紳士求む」という新聞広告を出して逮捕されたりと、日本人に成り済まして売春行為を行っている姿が見られる。

なお、戦時中売春婦だった人は旧日本軍に従軍慰安婦として強制連行されたと主張して、日本政府に謝罪と賠償を求めている。

一方、アメリカ国務省は2006年に発表した人権報告書で、韓国を人身売買国と規定して、「韓国が人身売買の発生地と同時に中間地、または終着地」としながら、「 主に性売買の目的で韓国女性が、カナダとメキシコを経由してアメリカや日本などへ渡っている」と明らかにした。

2009年には韓国の業者が同性愛者の韓国人男性をインターネットで募り、不法に日本で売春を行い暴力団などに上納したなどとして韓国で検挙される例があり、海外からの違法な売春者が流入していることが明らかとなっている。

また、エイズ患者の韓国人ブローカーにより強制的にエイズに感染させられた韓国人同性愛者が日本に売春目的で派遣されていることも明らかにされている。

2009年7月15日には、韓国の求職サイトで「海外の風俗店で働くと月3000万ウォン以上を稼げる」との広告で高校生を始めとする若い女性達を募り、100人余りを日本などに送り込んでいた韓国人親子ブローカーが摘発されている 。2013・2・23

2013年02月25日

◆世界は売春合法化の流れ

渡部 亮次郎


何気無し「ウィキペディア」に「売春」と打ち込んでみて驚いた。世間を知らないとは恐ろしいもの。近年、世界的に売春は合法化の流れがあるとされる、というのだ。

アジアでは、タイで完全に合法化され、台湾でも合法化が検討されている。欧米では、売春自体は合法である国がほとんどである。

ただ、斡旋を違法としている国も多いが、2000年にオランダが斡旋を含む売春行為を完全に合法化したのを手始めに、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなども斡旋合法化に踏み切っている。

何しろ合法化の理由としては、性病対策、性犯罪対策などがあげられる。出現した恐ろしい性病「エイズ」の伝染力、女性の権利の主張などがからんで、日本の売春防止法などは時代遅れといわれそうだ。

タイや中国などアジアでは、現在でも、特に地方での貧困から、少女・少年が都市部の闇で売春をするケースが多いといわれ、エイズなどの性病が蔓延し、大きな社会問題となっている。

タイでは、性病の蔓延を防ぐため、衛生管理を徹底し、かつ税収を確保する目的で昨今、国の許可の下での管理売春が合法化された。ドイツでは斡旋を伴う売春を完全に合法化し、売春地帯を一定の場所に隔離し、政府が性病管理をすることによって性病が減少したとされており、タイはドイツを参考にしたといわれる。

ヨーロッパにおける売春合法化と売春の現状

デンマークは1999年の刑法改正により、18歳以上の売春は完全に合法化された。もっとも、それ以前も事実上黙認されていたといわれる。いわゆる街娼は少ないとされ、多くはサロンやマッサージ店のような場所で売春が行われている。売春婦は約6000人おり、3割が外国人であるといわれている。

オランダでは2000年に16歳以上の売春が完全に合法化され、一般の企業と同様の活動が可能となった。アムステルダムなどの主要都市に売春宿(隠語で「飾り窓」と呼ばれる)や街娼(隠語で「立ちんぼ」と呼ばれる)が多数存在し、毎日朝から深夜まで料金等の交渉が行われている。

脅迫などにより売春を強要される女性がいると指摘されていることから、近年売春強制の罰則が強化されている。これに対し、移民は仕事を確保することが困難であり、自らの意思で売春に従事する人が多いといわれる。

デンマーク、フランス、スイス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、チェコなどにおいても合法で、オーストリアなどでは外国人が働くために売春ビザで滞在許可を得ることができる。

スイスでは売買春は合法で、自治体に登録することで、営業することが可能となる。EUの自由化により、外国人売春婦が増えているとされる。

売春合意年齢は16歳であることから、現在18歳未満であっても売春が可能である。ただ、18歳未満がブランド品を買うために体を売る「ブランドセックス」が問題視されており、売春合意年齢を18歳に引き上げるべきであるとの議論がなされている。

なお、イタリアやフランスの売春合意年齢は18歳、ドイツは21歳であり、スイスは特に若いことが指摘されている。

ドイツでは2002年に売春が合法化された。売春合意年齢は21歳とされている。現在、ベルリンだけでも700もの売春宿があり、売春婦の数はドイツ全土で40万人といわれる。

合法化したことにより、「セックス税」が得られるようになったとされる。また、ドイツW杯時には大きな売り上げをあげたとされる。

ただ、経済不況の波はドイツの売春産業にも大きな影響をあたえており、価格が低下しているといわれ、近年では、多様化により、外国に支部を持つオーナーも多くいる。

オーストリアでも売春は合法で、路上や店舗で活動するためには営業免許証が必要とされる。海外からの移住性労働者のための滞在ビザ、つまり売春ビザもある。売春ビザで働いている場合、売春以外の職種(ダンスショーなど)に従事することも裁判で認められた。

チェコでは売春、売春宿の経営は合法である。チェコのEU加盟により、従来最大で24時間近く待たされた国境通過が容易になったとされる。そのため、トラックドライバーを主な顧客とするオーストリア国境地帯の売春宿の多くが廃業したといわれる。

ベルギーでは従来から売春自体は合法だったが、斡旋行為等は違法とされていた。しかし、ドイツ、オランダの合法化に伴いベルギーにおいても斡旋行為、売春宿の経営等が合法化された。

イタリアでは1958年に売春防止法が施行された。ただ、売春行為自体は適法であり、売春合意年齢は18歳である。売春の斡旋や売り込みなどは違法とされている。

イタリア政府は政府公認の売春公認地域の設置や売春合法化を検討しており、8割の国民が賛成しているとの世論調査結果が出ている。現在、イタリアの売春婦は7万人で、多くが外国人とされる。

オーストラリアでは売買春そのものは合法である。組織・施設・勧誘行為の規制は州により異なる。売春が合法化されている州では、一部上場している売春宿もある。

合法化を推進したのがキャンベラの女性市長である。売春を違法にしたところで、貧しい人達がいる限り売春は無くならないし、「モラルを押し付けておきながら、福祉を充実させずに貧しい生活を甘受せよというのは金持ちの身勝手である」との反発もあり、合法化した。

合法化したことで、売春に従事する女性達は社会保障を受けることができ、また賃金を不当に踏み倒されることもなくなり、また衛生管理も向上する。そういった点で、女性議員達の支持をうけたのが、合法化に成功した理由といわれる。

同様の理由でニュージーランドでも合法化された。ただし、合法的に売春するには、ライセンスを受ける必要があるとされる。

イギリスでは売春すなわち「性的なサービスの代価に金銭を受け取る」こと自体は合法であるという判例がある。しかし法律的には、街娼、ポン引き、売春宿および売春組織の形成は違法である。

したがって、個人が新聞やインターネットで広告を出し売春をすること (Independent Escort) は完全に合法である。

これに対し、Escort を派遣するいわゆる Escort Agency や、日本のソープランドのようにマッサージと称して売春するマッサージパーラー(Massage Parlour)は、違法ではないかとの指摘があるが黙認されている。

フランスでは売春は合法である。ただ、斡旋や公道での勧誘は違法である。売春合意年齢は18歳である。フランス在住のジャーナリストである鎌田聡江によると、近年、女子学生が生活費を稼ぐために売春するケースが増えているとされ、その数は4万人にのぼるといわれる。

彼女達の多くは貧しい家庭の出身であり、社会的な成功を夢見て勉学に励んでいる。しかし、労働法令により、労働者の解雇が困難なフランスでは、労務者の数を少なく抑えようとする傾向があり、バイトを探すことが困難となっている。

そのため、彼女達が勉学を続けながら収入を得ることは難しい。その上、パリでの生活費は一般的に高いといわれる。それが、インターネットを利用した売春が女子学生の間で流行している原因であるとされる。

スペインの売春は合法とされる。多くは、貧しい移民達が生活費を稼ぐために売春に従事している。ただ、売春宿の経営については、規制が設けられており、新規出店は難しい。そのため、マッサージ店に偽装する店が多いとされる。

ギリシャでは売春自体は合法であるものの、街頭での客引き等の行為は違法とされ、規制も厳しいといわれる。売春宿を経営するためには、市の許可が必要となる。

アテネ五輪の際に、五輪特需を見込んで、アテネ市が230件の売春宿の新規許可を出したことに対して、北欧諸国から五輪の精神に悖るとして非難が起きた。
22013・2・17


2013年02月24日

◆饂飩も蕎麦も食べなかった

渡部 亮次郎


うどん=西日本、そば=東日本と言う人がいるが、これは正しくない。

東日本にはうどん処として知られている地域が多く(吉田のうどんなど)、大坂(現在の大阪)では天正12年に蕎麦屋「砂場」が開業し、西日本でも江戸時代には蕎麦文化が広まったとも言われている。

うどんつゆは、西日本では昆布と鰹節・煮干で取った出汁を淡口醤油で調味したもの、東日本では昆布と鰹節の出汁を濃口醤油で調味したものが用いられることが多い。

手軽な庶民食、米食の代用食として、また祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきた。地域によって、調理法や具材が違う。

秋田生まれの私は、子供の頃が大東亜戦争中で、米もうどん、蕎麦も欠乏していた時代に育ったから、もっぱら米飯中心に育ったが、母親はなぜか饂飩を食べたがった。

日々の農作業がきつく、饂飩を食べて農作業を休めた村祭りやお盆の祝いの日が恋しかったのだろう、と今思う。98で急死した。

秋田には有名な「稲庭(いなにわ)うどん」が有るが、子供のころは食べたことが無かったし、存在そのものを知らなかった。知ったのは中年になって、しばしば帰省して、初めて。

稲庭うどん。秋田県の手延べ製法の干しうどん。ひやむぎより若干太い。製造工程は、食用植物油を使用せず打ち粉としてでん粉を使う点や、乾燥前につぶす事による平べったい形状が特徴。

麺は気泡により中空になっており、そのために食感は滑らか。稲庭うどんについて記述のある「稲庭古今事蹟誌」によると、寛文年間以前に秋田藩稲庭村小沢集落(現:秋田県湯沢市稲庭町字小沢)の佐藤市兵衛によって始まると伝えられている。

また、その製法技術は、日本海交易により福岡からもたらされたとする説や山伏から教えられたなどの諸説がある。

各地で食べられているうどんには小麦の生産される土壌、気候、醤油などの醸造業や漁業などの地場産業、流通を担う商人などの存在により、その地域独特の郷土料理となっているものと、村おこしとの一環として地域の名物としているものなど様々な種類がある。

昔、義兄に案内されて、高松市で『讃岐饂飩』を馳走になったが、もともと「饂飩」に馴染の無い身だったから、大部分を残す失態を演じてしまった

讃岐うどんは香川県特産のうどんで、ツルリとして滑らかな麺。トッピングや食べ方は多種多様である。

現在、東京周辺、近畿ともにうどんの専門店は従来の店とチェーン店がある。また日本全国には、うどんとそばの両方を供する「うどん屋」、「そば屋」と称する店が多いが、うどんを主としている

店では「うどん屋」、そばを主としているお店では「そば屋」と呼ぶことが多い。

江戸時代の江戸の市中においても、うどんは一般に普及していた。特に江戸前期にはまだ麺類としてのそば(そば切り)が一般に普及していなかった。

そばがきとして食べられていたこと(記録としては蕎麦がきの様なものが麺状に切られたのが「1574(天正2)年初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認できる)から、麺類としてはうどんに人気があったようだ。

しかし、のちに麺類としてのそばが普及したこと、またそばとそば屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のためにそばが好まれたことなどにより、うどんは江戸における麺類の主流としての地位をそばに取って代わられる。因みに江戸のそばは信州から甲州街道を通して伝えられたものといわれている。

現在の関東地方は、東京都多摩地区、即ち武蔵野(小平市、東村山市など)、埼玉県西部及び北部、群馬県などでは、「武蔵野うどん」をはじめとするうどん専門店も多い。

実際、平成16年度のうどんの生産量でも1位は讃岐うどんで知られる香川県だが、2位は埼玉県であり、群馬県もベスト5に入っている。これらの地域では二毛作による小麦栽培が盛んで、うどんは日常的な食事である。

大阪、京都を初めとする近畿圏内ではうどんは麺類の主役として、今も老若を問わず根強い人気を誇る。これは近世以前より近辺には播磨や河内など良質の小麦産地が多かったこと、関東地方とは異なり、近畿地方から採れる地下水は軟水であったため昆布との相性が良かったことなど、美味しいうどんを作るのに最適な条件であったことが挙げられる。

そのため、関西、とりわけ大阪では麺よりだしに重きを置き、うどん玉はだしを吸いやすいように、しなやかで柔らかい麺が好まれるようになった。

腰がないといわれる(とりわけ、讃岐うどんと比較して)のは、このような文化的な背景があるためである。

20世紀後半から21世紀初頭にかけて4回の讃岐うどんブームがあり。また讃岐うどんを供するチェーン店が2002年より首都圏から日本各地にオープンし、2005年頃まで続いた。

香川ではうどんの専門店が多く、そばとうどん両方を供している店は少ない。

現在でも大阪では「うどん屋」が多く、京都では「うどん屋」も多い一方で、専門の「そば屋」が多い。江戸時代には既に西と東の物資の交流は盛んであった。

西日本方面では、うどんといなり寿司をセットにして食べることが好まれ、多くのうどん店ではいなり寿司を二つずつ載せた小皿で販売する。


2013年02月21日

◆ホルモンは放るもん

渡部 亮次郎


首都ソウルの繁華街、明洞(ミョンドン)には焼肉店の看板がひしめき合い、24時間営業の店も登場している。1人当たり3万〜4万ウォン(約3〜4千円)も出せば十分にお腹が満たされる。

最近では、競争の激化により肉質をアピールするために韓牛と掲げる店が増えている。

最近の韓国ではアメリカからの牛肉輸入許可に反対して、就任したばかりの大統領の辞任要求まで掲げられているが、韓国の「食」のイメージとして一般的な“キムチ”のほか“カルビ”などの焼肉料理に代表される牛肉が韓国の食生活に広く浸透し始めたのは、ここ20年程のことといわれている。

私は1973年6月に韓国を初めて訪れた際、朴政権の閣僚から「明日は大和(やまと)焼きをご馳走します」といわれ、てっきり和食を期待して行って見たら大阪で予て盛んだった「焼肉」を裁ち鋏で切り分ける店だったのでちょっと驚いたものだ。

なぜ韓国焼肉料理を「大和焼き」というのか。日本人が遺して行ったレシピだったからである。軍事クーデタにも加担したこの閣僚の説明によれば、併合時代の日本人は現地人に牛肉と砂糖を食べさせなかった。牛肉を砂糖醤油にまぶした牛肉の「焼肉」を現地人が食べたのは1945年の「解放」後である、と。

「解放」後韓国人がまず群がったのは砂糖だった。だから韓国の砂糖消費量は人口当たりで世界のトップに躍り出たそうだ。併合時代の日本人の悪業を聞かされたようで厭だった。

日本での焼肉は戦後、大阪で始まった。やがて韓国人たちが「放るもん)=棄てる物」の牛の内臓を「ホルモン」と名づけて「精力」のつくものとして売り出し、遂に語源が分からないぐらい、全国的に普及させた。大阪勤務3年、猪飼野で「通」になった。

ところで、韓国ではその後、牛肉需要は、1988年のソウルオリンピック開催に伴う国内経済の発展が、大きな影響を与えた。1980年代当時の1人当たりの年間牛肉消費量を見ると、わずか2.6kgであったものが、90年には4.1kgに増加し、2000年には8.5kgとこの20年間で3倍以上の伸びを見せている。

2001年1月には、韓国の牛肉市場が自由化されたことで、米国などからの牛肉の輸入量増加が見込まれており、消費量はさらに拡大して行くものと見込まれている。

しかし、一方では、輸入牛肉に対抗して国内各地で「高級肉」としての韓牛(韓国原産の肉牛)の積極的な品種改良や育成が進められている。

韓国で韓牛肥育が本格的に開始されたのは、1970年代に入ってからだ。その後、経済の急激な成長を背景に、国内各地では積極的な生産基盤の整備が進められている。

最近では、京畿道(キョンキドウ)、江原道(カンウォンドウ)など北部地域を中心に、輸入牛肉に負けないための韓牛のブランド化も始まった。日本の「和牛」の遺伝子を用いた品種改良が盛んだ。将来は「そんな事実は無い」と否定するだろう。

ソウルから南へ約60km、京畿道安城(アンソン)市で200戸の韓牛肥育農家を束ねる「韓牛会」会長の禹(ウー)さん。自らも 350頭の韓牛を肥育し、「韓牛会」としては年間2,000頭を出荷する。

平均出荷体重は約650〜700kg、大手百貨店との契約により販路は安定している。最近の韓牛価格の上昇で、農家の生産意欲も高まっており、100頭以上を肥育する大規模経営が増えてきた。

韓牛に対する消費者の信頼感を維持することが大切と訴えている。

韓国では、現在、国内に114ヵ所のと畜場が設置されているが、枝肉市場を併設しているものは、わずか14ヵ所となっている。このうち6ヵ所が農協により運営され、残り8ヵ所は民間での運営となっている。
・参考:韓国政府発表資料 

2013年02月19日

◆証言 戦後政治の舞台裏

渡部 亮次郎


こう言う本を元労働大臣・防衛庁長官の栗原裕幸さん(故人)が残した。正式には「証言 本音の政治 戦後政治の舞台裏」内外出版株式会社発行 ISBN978-4-931410-C0031 1715円。

1993年に政界を引退したが31年に亘った政治家生活を振り返って、後世に自らを伝える事も意義あることと考え、敢えて刊行に踏み切った、とある。

参院時代、自民党国対委員長代行として採決強行の末に成立を見た大学紛争解決のための大学運営臨時措置法案の処理をめぐる真相を初め、関係する政治家が殆ど墓場に持て行ってしまった数々の緊迫する場面についてできる限り「本音」を吐露し、或いは暴露している。

有名な重宗雄三参院議長4選出馬断念の声明を執筆したのは当時NHKの政治記者だった渡部亮次郎君だったと、私も登場している。恥ずかしい次第だ。

栗原裕幸(くりはら ゆうこう)1920年6月5日、静岡県三島市に生まれる。1944年東京帝国大学法学部を卒業。学徒動員を経て戦後、静岡県農業会に就職。1962年以来静岡地方区から参院議員に2回当選。

1972年、衆院に転じ旧静岡2区から連続7回当選。旧池田派(大平、鈴木、宮澤派)に属す。1978年第1次大平内閣に労働大臣として初入閣。1983年第2次中曽根及び86年第3次中曽根内閣でいずれも防衛庁長官を務める。93年引退。

大学法案に始まり、沖縄国会、日中平和友好条約、大福提携から対立、雇用国会、大福40日抗争、防衛費のGNP1%突破、FSX交渉、リクルート事件、伊東正義の反骨など、栗原氏にしても引退後15年経ってようやく語れる話ばかりである。

いわゆる大福密約について片方の福田赳夫氏は「密約文書」の存在を著者で否定して逝去したが、私は連署者の1人である園田直氏からそれぞれ署名の入った現物を見せられている。

この動きについて大平側近だった栗原さんは「東京品川のホテルで福田、大平、保利茂、園田、鈴木善幸会談で大福提携が正式に決った夜、福田さんから私に電話があり『園田君から経過をよく聞いております。有難うございました』と丁寧なお礼の挨拶があった」として、事実を裏付けている。

従って、1978年5月25日大平氏としては総裁選に事実上の出馬表明はしたものの「大平さんは、この段階では、心中、福田さんは必ず自分に譲ると考えていた」。

「それは、先ず福田さんを先に総裁に推した事。保利、鈴木、園田の立会いの上で「2年で交替」という話を福田サイドが提案した事。福田さんと時折交わす話の節々などからいえばそう考えるのも無理は無い」。

しかし「福田側の見方は・・・懸案の成田開港、日韓大陸棚協定、日中平和友好条約などを処理し、福田内閣の国民的評価は高い。今更2年交替の古証文など馬鹿げている」

しかし約束は約束。それを破って喧嘩しようというのなら「やってやろうじゃないか」と怒ったのは大平派よりもロッキード逮捕後「闇将軍」と揶揄された角栄に率いられる田中派だった。

知将・後藤田正晴の陣頭指揮の下、一糸乱れぬ絨毯爆撃を展開。あっという間に形勢を逆転。福田氏は「天の声にもたまには変な声もある」との棄て台詞を吐いて退場。

したがって続く「40日抗争」は何のことは無い福田氏の私怨晴らしに過ぎなかったのだが、面子上、これを公憤にすり替えたから自民党はあわや分裂の瀬戸際まで追い込まれたのであった。

こうした政局の舞台裏は殆ど明かされぬまま闇に消えるのが普通だが栗原さんは引退後15年にして突如344ページの大作を世に問うて舞台裏を敢えて明らかにした。

ほかにF−1の後継機FSXの開発をめぐる日米交渉の凄まじいまでの迫力ある防衛庁長官としての主張なども臨場感溢れる書き込みは、当事者が明かす事実だけに読んでいて緊張して来る。政局取材に当たるものの必読の書である。

さらに敢えていえば、これから防衛大臣たらむ政治家は政治の鑑として読むべきである。

内外出版株式会社は目黒区鷹番3−6−2
電話03−3712−0141

執筆:07・12・25


2013年02月17日

◆中国改革開放の陥穽

渡部 亮次郎


日中平和友好条約が締結された直後だから1978年秋のことだ。外務大臣秘書官であるわたしのところへ中国共産党の大幹部から話が来た。「個人的にウランを日本の電力会社に売り込みたいから適当な会社を紹介して欲しい」と。

私は仰天した。仮にも国家のエネルギー資源を中国共産党幹部が「個人的」に差配することなんてあるのか。中国の共産主義はどうなってるんだ。「私腹を肥やす」が日常茶飯事になってるのか。

それから間もなくトウ小平が経済の改革開放政策がはじまり、今日、の経済の格差拡大、大贈収賄国家の出現を見ることになった。

改革開放(かいかくかいほう)は、中華人民共和国のケ小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。初訪日を果たしたトウ小平ガ帰国して直後だった。

毛沢東時代の大躍進、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派のトウ小平は「4つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。

基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。

これはそれまでの絶対平等主義(ネガティブウェルフェア)を切り離した象徴といえる。これに則り、農村部では人民公社が解体され、生産責任制、すなわち経営自主権を保障し、農民の生産意欲向上を目指した。

都市部では外資の積極利用が奨励され、広東省の深セン、福建省のアモイなどに経済特区が、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区が設置される。

華僑や日欧米資本を積極的に導入することで、資本や技術の移転など成し遂げる一方、企業の経営自主権の拡大などの経済体制の改革が進んだ。

改革開放政策は、しかし同時に中国社会に大きな矛盾を生み出した。農村部と都市部、沿岸部と内陸部における経済格差が拡大し、官僚の汚職や腐敗が一層深刻なものになった。

インフレや失業も目立つようになり、共産党に対する不満は高まっていった。1989年には天安門事件が発生、改革開放は一時中断することになる。

北京大学の張維迎教授は「最初の15年間は価格自由化に終始した」と分析している。

1992年以降、再び改革開放が推し進められ、経済成長は一気に加速した。しかし、都市と農村、沿海部と内陸部の地域格差は深刻化し、とりわけ農民の不満が高まった。

社会主義市場経済体制のもとで、江沢民・朱鎔基政権は格差是正と一層の経済改革に取り組むことになる。格差是正のための西部大開発、国営企業改革に伴う失業者の増大、民工潮、三農問題といった新たな問題も発生した。

このような問題を抱えながらも、表面的には今や中国経済は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長し、生産大国としてだけではなく、米欧日に次ぐ第4の市場としても期待されている。2001年には、悲願だったWTO加盟を果たす。

しかし経済は資本主義(自由)でも、それを監督する政治は共産主義で経済活動を抑制する。そのため猛烈な贈賄と収賄が構造的に展開されることになる。

共産党の抑制的指導を打破する為には政治体制の大変革=政治の民主化の確立が不可欠なのだが、共産党は自己の消滅を認めるわけにはゆかないから経済を「虐める」。経済はそれを賄賂で打開する以外に無い。

中国共産党は格差是正策などは打ち出すけれども汚職根絶策は打ち出せてない。「死刑」による見せしめだけだ。根絶できるはずがない。政治も改革開放をする以外に策は無い。政治の改革解放をすれば共産党の存在意義が無くなる。汚職国家は共産党が消滅するまで続く。当に改革開放の陥穽(おとしあな)である。

2002年からの胡錦涛政権は2020年のGDPを、2000年の4倍にし(年平均7.2%成長)、中進国となる戦略を打ち出し、さらに全面的な「小康社会」を建設することを新たに目標に掲げた。

「小康」とは、いくらかゆとりがあることを指す中国語で、ここでは、衣食がなんとか間に合う状態から、さらに生活が向上し、衣食が足りた状態に達することを指す。沿岸部だけでなく、内陸部の経済水準を引き上げることが狙いである。

2004年には、私有財産権保護を明記した憲法改定案が全人代で採択され、株式制度、企業統治制度など、国有企業の改革のための政策も打ち出されている。

また、2007年の全人代では、私有財産の保護を明記した物権法、国内企業と外資企業の所得税率の格差を是正する企業所得税法が採択された。2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博開催も実現した。

中国政府は1978年経済体制の改革を決定すると同時に、対外開放政策も計画した。1980年から順次、広東省の深セン、珠海、汕頭、福建省のアモイ及び海南省に5箇所の経済特区を設置した。

1984年にはさらに大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14沿海都市を開放した。

1985年以降、長江デルタ、珠江デルタ、?南トライアングル(アモイ・泉州など)、山東半島、遼東半島、河北省、広西チワン族自治区を経済開放区として沿海経済開放地帯を形成した。

1990年、中国政府は上海浦東新区の開発と開放を決定し、一連の長江沿岸都市の開放をさらに進め、浦東新区を竜頭とする長江開放地帯を形成した。

1992年以降は辺境都市や内陸の全ての省都と自治区首府を開放した。さらに一連の年に15箇所の保税区、49箇所の国家級経済技術開発区と53箇所のハイテク技術産業開発区を設定している。

このように中国は沿海、沿江、沿辺、内陸地区を結合して全方位、多次元、広領域の対外開放構造を形成している。対外開放地区ではさまざまな優遇政策を実施し外向型の経済、輸出拡大、先進技術導入などの面で大きな役割を果たしている。

わたしにいわせれば、これらは「仏造って魂入れず」。格差益々拡大。汚職増加、時たま偽の飴玉をしゃぶらされて人民の不満は募るばかりだろう。畏友加瀬英明のいう「五輪を主催した全体主義国家は9年後に崩壊する」に説得力が出てきた。

『ウィキペディア(Wikipedia)』2013・2・16

2013年02月16日

◆文化大革命の毛沢東

渡部 亮次郎


1972年9月、日中国交正常化の際、毛沢東はまだ健在だったが、訪中団で面会できたのは首相田中角栄、外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけ。通訳や随員も不可。もちろん記者団にも姿を晒さなかったから私も見なかった。

私はその6年後、こんどは外務大臣秘書官として訪中したがその前の1976年9月9日に毛は82歳で死んでいたので、面会したのは毛主席紀念堂に飾られた遺体であった。

ところで1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。

だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。

「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開された。

結果的に約1,000万人以上(異説では3,000万人)と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。

始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。

林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大衆を巻き込んだ大粛清であったに過ぎない。

共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となった。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。

その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言われている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であ
ったこと

(2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと

(3) 中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとする見方もある。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目されたトウ小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。

実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉?、儲安平らは自ら命を断った。

極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。

1973年8月から1976年まで続いた林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動は後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする四人組側の目論見で行われたものであった。

毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出的な意見を述べた。日本共産党は「内政干渉だ」として関係を断絶した。その後1998年に日本共産党と中国共産党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係を修復した。

評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れているようすを「ジャリタレ革命」と批判した。この最中の1972年9月、田中角栄首相は特別機で北京入りし、日中国交正常化を成し遂げた。

同行した私は天安門広場に残された佐藤前政権非難のたて看板多数を目にした。北京は敗戦直後の東京を想像させた。チップは取るはずが無いという日本外務省の説明は嘘。ソヴィエトの建てたホテッルは湯が出なくて苦痛だった。

そうした矛盾を何とかしようと周恩来首相やトウ小平は現実路線を採ろうとしていたが、これを毛沢東は修正主義として非難。世の中を知らぬ青少年に倒させようとしていたのである。トウは「下放」されていて現れなかった。

1976年には、文革派と実権派の間あって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去し、新しく首相となった華国鋒は四人組を逮捕した。

翌1977年8月、中国共産党は、1966年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。

トウが復活して1978年8月、日中平和友好条約が締結され、日本の資金と技術が驚異的な経済の改革・開放を可能にし、北京オリンピックを可能にした。だが、全体主義国のオリンピックはいずれも9年後に国を滅亡させたと不気味な分析を突きつけられている。

1981年6月に中共11期6中全会では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。

文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放された為、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。

1954年生まれの中華人民共和国前駐日大使の王毅ら、中華人民共和国の指導的人物に若い世代が多いのもこれが原因である。紅衛兵、吊るし上げられた人の相違を問わず現在の中国を無批判に評価している人物は少ないと推測される。

公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言うトウ小平の発言が公式見解のようだ。

2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。

紅衛兵は、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下されるにあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。

他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。

当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。

旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。

1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。

寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。

毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。

2013年02月15日

◆日本軍は売春宿を経営せず

渡部 亮次郎


だから戦時中、陸軍を追いかけさせられた女郎は沢山いたし、韓国(当時は日本人国籍)女郎もいたが、軍が女郎をかき集めたり女郎屋を経営したりしたことは無かった。当時を知る人たちはだから「従軍慰安婦」とはなんぞや、と聞いてくる。

女性問題で総理の椅子を喪った宇野宗佑(うの そうすけ)という政治家は、それなりにさばけ政治家。今どき、あれほどの政治家はなかなか育つまい。

私がNHKで自民党の実力者河野一郎(こうの いちろう)を担当した時、宇野は河野の秘書から代議士に当選したばかりだったが、既に政治歴はすでに滋賀県会議員を2期務めた経歴があり、河野の信頼は抜群だった。

「ウィキペディア」によれば

<宇野は1929(昭和4)年に吉身尋常小学校に入学。このころから成績がよかった。絵もうまく『少年倶楽部』に漫画を送ってよく当選し、このころに乗馬も覚えた。

1935(昭和10)年に滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。中等学校時代は映画に夢中になり、剣道を始めるようになった 。1940(昭和15)年に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。

宇野は外交官を目指して、1943(昭和18)年10月に旧制神戸商業大学(現神戸大学)に進学。しかし2か月後の 1943(昭和18)年2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。

満州の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。

1945(昭和20)年の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから2年間ソ連に抑留された。

1947(昭和22)年7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」で帰国した。

1948(昭和23)年11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語で「東京に帰る」の意味)を出版。この本は1952(昭和27)年に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。

1949(昭和24)年2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪・廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を、北野天満宮に祈願していたことからだった>。

河野派担当記者として、宇野とは銀座や六本木でしばしば痛飲した。そうした間に宇野は従軍体験を自ら語った。私は彼より14も下だから軍隊経験は皆無。秋田では9つ年上の大先輩が予科練に行ったのを知っているだけ。

朝鮮北部では既に将校だったから、日本人の女郎を抱いた。「兵は朝鮮ピーや」と宇野。女郎は軍の所属ではないが、引き連れる親父は女郎を連れて、軍を何処までも追いかけてきた。

女郎たちは本土でよりも多く稼げたから、悲しんでいる風はなかった。事情は朝鮮ピーも同じで、既に親によって女郎屋に身売りされ、その後、経営者に引率されて将兵を追っているのであって、決して拉致とか収容されてここにいるわけじゃなかった。

これらを見ている軍の上層部は、「ルーデサック」と称する性病予防具を支給はするが、それ以上はすべて見て見ぬふりをしただけだった。女郎屋を管理するとか経営するとかは絶対しなかった。皆無。

だから日本軍がいわゆる「従軍慰安婦」なるものを引率しながら戦争をしたという事実は断じて無いというのが当時の現場を知る人たちの述懐だ。女郎屋の親父に引率されて女郎たちが兵隊を追っかけていたというのが事実だった。

従って政府であろうが誰であろうがいくら調べても「従軍慰安婦」を裏付ける証拠は出てくるはずが無い。

2013年02月13日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎


福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いした。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えたように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<?首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。
!)退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

!)ところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポンサー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

!)後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる)。

!)福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になるからである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。

総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。


1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。!)福田総裁に任期は2年 ?幹事長は大平)1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けることになる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章 (執筆:06・07.04)
 

2013年02月12日

◆ドレミファの受難

渡部 亮次郎


ラジオ深夜便が2月11日午前3時台「作家で綴る流行歌」米山正夫作品集で高橋淳之アンカーが「森の水車」は戦後流行したが、実は昭和17年に高峰秀子(三枝子にあらず)で発売されたが、4ヒ後に発売禁止になった、と解説したまでは良かったが、理由を言わないでおわった。

先年、女性アンカーも「こんな平和な歌がなんで発売禁止になったのでしょうね」で結論をいわなかった。回答はドレミファソラシドにあったのである。

「森の水車」

作詞:清水みのる、作曲:米山正夫、唄:荒井恵子

1 緑の森の 彼方から
  陽気な唄が 聞こえましょう
  あれは水車の 廻る音
  耳を澄まして お聞きなさい

(*)コトコトコットン コトコトコットン
   ファミレド シドレミファ
   コトコトコットン コトコトコットン
   仕事に励みましょう
   コトコトコットン コトコトコットン
   いつの日か
   楽しい春がやって来る

2 雨の降る日も 風の夜も
  森の水車は 休みなく
  粉挽(こなひ)き臼(うす)の 拍子取り
  愉快に唄を 続けます
  (* 繰り返し)

3 もしもあなたが 怠けたり
  遊んでいたく なった時
  森の水車の 歌声を
  独り静かに お聞きなさい
  (* 繰り返し)


《蛇足:二木紘三》< 昭和17年(1942)9月に映画女優・高峰秀子の歌でポリドール(当時は大東亜レコード)からレコードが発売されました。

戦後の昭和26年(1951)4月9日に荒井恵子の歌で「NHKラジオ歌謡」として放送されてから、多くの人たちに愛唱されるようになりました。

荒井恵子は、NHKラジオ「素人のど自慢」のチャンピオンになったのをきっかけにキングレコード専属のプロ歌手になりました。

しかし、作曲の米山正夫が日本コロムビア専属だったため、キングではレコード化できず、昭和26年8月1日に並木路子の歌で日本ンコロムビアからがレコードが発売されました。

私の子どもの頃、田舎では何カ所にも水車がありました。その響きは、勤勉さを刺激するよりも、「のんびり行こうよ、マイペースでいいじゃない」といっているように私には聞こえました。>

この方も判っていない。戦後派なのかな。

戦時中は「敵性語」は禁止された。ファミレド シドレミファは
イタリア語なのに検閲官は教養が足りなかったか慌て者だったか、
これを敵性語と判断して「発売禁止」処分にしていまったのだ。

もちろん当時のイタリアはドイツと共に同盟国であったのだからイタリア語を敵の言葉としたのはおかしい。しかし検閲官はみんなおかしかったのであろう。   2013・2・11

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2013年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部 亮次郎


建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。敗戦後に来た米軍中心の占領軍が禁止した。

もともと紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。

社会党は「建国記念日」法案には断乎反対をさけんできたが「建国記念”の”日」法案には反対しないとなったのである。

1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させたのだ。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。
(文中敬称略)2008・2・10   (再掲)