2015年12月19日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎 
  


北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。 (了)

2015年12月18日

◆好きな作詞家星野哲郎

部 亮次郎

流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなって大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。クラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 –―2010年11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

闘病期間中に作詞を勉強、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で再上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めている(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。>ウィキペディア

2015年12月17日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだが、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィルミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出などを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。

2015年12月16日

◆私の「身辺雑記」(291)

平井 修一



■12月14日(月)、朝は室温14度、曇。昨日からベランダの掃除とペンキ塗り、今朝からはLDKの床のニス塗り直しを始めたから無茶苦茶忙しく、疲労困憊して散歩不可。ニスを買いに雑貨屋へ行ってからスーパーでワインを4本買ったのが、まあ散歩みたいなもの。

自分で自分を褒めてやりたいと、とりあえず今日の分の仕事を終えたから3時から飲酒。「自褒め酒」。アル中一直線だな。

カミサンは昨日からスーパー銭湯へ。マッサージが何とも言えず快適だそうだ。小生は先日2週間ぶりにシャワーを浴びた。湯船にはここ1年ほど浸かったことがない。風呂は子・孫優先で、小生は仕舞湯を使うことに決めているが、それだと10時ころになってしまう。無理だ。

シャワーは3時半に浴びて、4時から料理を作りながらテレテレと飲み、9時には就寝。しょっちゅうウォシュレットでお尻は掃除しているし、股や足先も「ピジョンおしりマット」できれいにして、頻繁に着替えているから冬場は1週間に1回のシャワーで十分だ。

しかし2週間に1回というのはちょっとまずい・・・ヂイヂ臭い、と苦情が来る。いずれにしても「地球にやさしいヂイヂ」ではある。

アーミッシュはコップ1杯の水で清潔を保つというが、砂漠の民はどのようにしているのだろう。夏のスペインでの経験で言うと、乾燥しているから夏でも汗でべたつくことはない。肌はさらさらしている。西欧はそんな気候なのだろう。ベルサイユ宮殿にトイレがないことは知られているが、風呂場もないだろう。池で水浴したのだろうか。

日本では夏は毎晩風呂に入らないととても生きていけない。所変われば品、風習変わる。

疲れ果てて夕食後にソファーで転寝をしていたらカミサンに「布団で寝たら」と起こされたが、腰が半分抜けて歩行困難。もう無理が効かない体になったのだ。トイレへ行ったら尿漏れ防止マットに脱糞もしていた。

残りは数年だな。70歳はとても無理だ。カミサンは3000回愛したし、愛人も300回愛した。(人の3倍仕事をして、稼ぎは1.5倍だった。まあ、そんなものか)

忙しいから愛人をタクシーで送った後、駅のトイレでオシッコをしたら、やたらずっしりと重い。コンドームを付けたままだった。外す時間もなかった。

早く帰宅して(と言っても11時だが)、贖罪でカミサンも昇天させる。「カアチャン、ご免よ、勘弁してよ」と必死で抱いた。

こういう(多分バカな)ことを30歳から49歳までの20年間やった。いいことも悪いことも(人殺しと泥棒、詐欺以外)ほとんどすべてやったから未練なし。あの世では犬と散歩しよう。

■12月15日(火)、朝は4時起床、朝食を作って、そのあと二度寝したら、大いに寝坊して9時起床、エアコンがかかっていたので室温18度、曇。疲れすぎて寝床で新聞を読む。

軽減税率で安倍氏が公明党に譲歩して点を取らせたが、来年の選挙で学会票を目指しただけのことで、公明党は面目躍如だし、自民も大喜び。大体、安倍氏は消費税の10%引き上げをできるわけがないと充分知っているはずだ。

「安倍の晋三」を支持する人々は「蚤の心臓」なのだから。小生のように確定申告で400万円納めたときは誇りに思ったが、これはごく少数派だ(恥ずかしながら分割払いだったが。無茶苦茶な高金利! ほとんどサラ金だ)

明治の煙草王「天狗煙草」の創業者は、正月になると「日本一の納税者」と幟をつけた10台の人力車に愛妾を乗せて正妻に挨拶をさせたという。昔の金持ちはスケールが違う。

正妻もしっかり覚悟ができていた。正月の挨拶の際に「一年間ご苦労様でした。今年も旦那様を大切にしてくださいね」とお手当てを渡していたのだ。

小生は手ぶら、機動隊は「盾」という「矛」を持っていたが、クレーンのアーム上で取っ組み合ったから小生の方が有利だった。機動隊が墜落し、その後は小生も墜落した。一瞬で人はは死んだり気絶するから戦争は恐ろしいことではない。

少しずつ人を殺すのが好きな支那人やイスラム教徒はタチが悪いから、生きて虜囚の辱めを受けないことは正しい。

「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(土佐藩)の件。

<岡田以蔵が護衛した要人:

勝海舟(文久3年)勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。

その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている>(ウィキ)

安倍もトランプもプーチンもエルドアンも殺される覚悟を持っている。殺す覚悟ももっているだろう。習近平もモディもシーシーもジョコもそうだろう。

オランドとメルケルとキャラハンはそんなことは思っていないし、「殺すくらいなら殺される方がいい」という、ほとんど痴呆症。オバマは菅直人と同じくすぐに逃げ出すタイプ、「第4列の男」、人間のクズだ。

山本夏彦翁曰く――

「戦争がないことは何よりだが、以前戦争で解決してきたことが解決できなくなった。大量の破壊がなくて、大量の生産だけがある」

人口が半分になれば生産も半分になり“地球温暖化”とかいう問題もなくなるのではないか。

戦争を辞さない、文武両道のリーダーが望まれる。プーチンに「文=哲学=品格」があれば世界は今のような状態にはならなかったろう。習近平にはマルクス主義しかないから、ただの阿呆だ。

文部省は「実利、金になる学問を奨励しろ」と言ってバカにされたが、「文=哲学=品格」がないと国家経営は間違う。企業も同じだ。

安倍氏の後任は自衛隊出身者が望ましい。めぼしいのは“ヒゲの隊長”佐藤正久氏あたりだが、衆院に鞍替えさせて安倍氏が育てたらどうか。石破は只のリベラル、軍事オタクでしかない。稲田はどうなんだろう。高市の方が根性が坐っている感じがする。

クールビズの小池はなんとなくリベラルっぽい。女性総理でもサッチャーのように国家の名誉にかけて戦う政治家が必要だ。(バラマキをカットしたから貧困層には恨まれているそうだが)

世界は強力なリーダーを求めている。米国がマケインを選んでいたら世界はずいぶん安定していたはずだ。再び民主党のヒラリーになったら・・・防衛予算を減らして(票につながる)福祉に回すから中露は大喜びするだろう。世界はさらに壊れていく。(2015/12/15)

2015年12月15日

◆「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出 

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)12月14日(月曜日)弐 通算第4749号 > 

 〜中国軍の改変は難産、7軍区を「5戦区」に再編は軍全体が不満噴出
         当面「副主任」をひとり増員し、軍紀律委書記に劉源か〜


習近平は軍の再編を指示し、9月の軍事パレードでは30万人を削減し、さらに後日、国連軍に8000名を派遣するとした。

しかし人民解放軍の効率的改変、再編作業は遅れに遅れている。

第一に既存の軍区それぞれが既得権益をもち、これを絶対に手放さないだろう。

また部隊長などは、2軍区が減らされると更迭、左遷、勇退、整理の対象になるのではないかと戦々恐々、再編への不満が爆発気味だという。

第二に軍区それぞれに付随する部隊の人事が必然的にともなくうえ、軍区所管の空軍、第二火砲部隊の再編は誰が決めるのか、どういう体系的方針があるのか不透明、これでは到底再編などとても無理であろうという声だ。

上層部の人事に関しては現在の「副主任」体制を、さらに1人増員させて、習近平側近らを充て、もっと強い人的結び付きで軍を掌握しようとしている。

現在の副主任は許其亮と氾長龍だが、いずれも胡錦濤の置きみやげ人事であり、習への忠誠心疑わしく、このため増員する「副主任」には太子党の張又峡(現「総装備部長」)か、北京武装警察司令員の王寧(習近平の子飼い)を充てるのではないか、との噂が飛んでいる。

他方、習の「軍師格」として昵懇の関係にあるのは劉源(総後勤部政治委員)を、中央軍事委員会の規律委員会書記に当て、反腐敗キャンペーンで、軍の腐敗構造に手をつっこませ、王岐山と同格の配置にするのではないか、との観測もある。

劉源はいうまでもなく劉少奇の息子、太子党でもあり、劉亜州と並んで「習近平のプライベートシンクタンンク」と言われた。

また軍のアルバイトは盛んであり、パキスタンを経由しての中国製武器が大量にISへ密輸されていることが判明した。

博訊新聞網(12月13日)に拠れば、中国は米ロについで世界3位の武器輸出国だが、「紛争当時国への武器輸出禁止」という列強の常識はまったく通じない。おもに小型ピストルなど中国製武器が確認されている。
  

2015年12月14日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」うまれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙にかいていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言っ。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。怪しげなフランス語で交渉したら
共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査した。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継者の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。文中敬称略(再掲)

2015年12月13日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。出典:フリー百科「ウィキペディア」

2015年12月06日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎


先にといっても1974年に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だったことを久々に思い出した。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そのうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさがありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目になるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してくれた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛細血管も走っているから義眼ではない。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門の脇で待っていると出てきた河野さんが私を手招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさせるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人きりの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬかとおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。まだ67歳だった。

2015年12月03日

◆日中正常化同行取材記

渡部 亮次郎 


日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたときのこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底にしゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見られているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよう、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたところ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行くバスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこちらは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフランス語はすっかり忘れた。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バスは40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書けた。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だから同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には低血糖に陥り死に掛けた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知ったのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後初めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28

2015年11月29日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、とされている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植えられている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前からすでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられた。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカスズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がならんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身したみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前にばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良くなった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示しているのかな、と思ったりする。
参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 

2015年11月28日

◆星野哲郎「えん歌」4000曲

渡部 亮次郎



戦後、演歌界の大御所作詞家は石本美由紀だが、それに優るともおとらない作詞家は星野哲郎だろう。2人ともこの世の人では既にない。

星野は、石本に遅れること1年、2010年11月15日,85で死んだ。若い頃、高等商船を出て船員になったものの、腎臓結核で断念、腎臓の片方を摘出するなどしたが、幸運にも長生きだった。

晩年の美空ひばりの「みだれ髪」、北島三郎の「なみだ船」を作ったかとおもうと「黄色いサクランボ」や渥美清の「男は辛いよ」も星野の作詞。演歌だけでなく応援の援歌だとも言って4000曲を遺した。

世に出していない「遺作」が数千曲があるといわれており、今後も新作が出現するだろう。

星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 - 2010年11月15日)は日本の作詞家。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。

しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

4年に及ぶ闘病期間中に作詞を独学。家庭教師の傍ら1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしらがいる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及んだ。

1996(平成8)年7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め、2001(平成13)年10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めた(2004年9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第1号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与された。

1985(昭和60)年2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」(歌唱:北島三郎)の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。享年85。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。喪主は長男の有近真澄が務めた。

葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

星野哲郎の死去に当たり、NHKが追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という[。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。

主な作品
青山ミチ 叱らないで(1968年)
渥美清 男はつらいよ(1970年)

北島三郎
なみだ船(1962年) 兄弟仁義(1965年)
函館の女(1965年) 風雪ながれ旅(1980年)
北の大地(1991年)
小林旭  自動車ショー歌(1964年)
昔の名前で出ています(1975年)

小林幸子  雪椿(1987年) 福寿草(1989年)

島津亜矢
愛染かつらをもう一度(1991年)母ごころ宅配便(1993年)
海鳴りの詩(1995年)女にゃ年はいらないよ(1996年)
感謝状〜母へのメッセージ〜(1997年)
波(2001年) 海で一生終わりたかった(2003年)
大器晩成(2005年) 温故知新(2010年)

水前寺清子

涙を抱いた渡り鳥(1964年)
いっぽんどっこの唄(1966年)
いつでも君は(1967年)
三百六十五歩のマーチ(1968年)
真実一路のマーチ(1968年)

スリー・キャッツ、ゴールデンハーフ
黄色いサクランボ(1959年)

瀬川瑛子
函館の雨はリラ色(1970年)
たそがれ港町(1971年)
高知の夜(1972年)
あのひとの雪国(1972年)
再見上海(1973年)
釧路の夜白い夜(1974年)
噂・モトマチ・涙町(1974年)
たばこ(1975年)
長崎霧情(1977年)
東京夜景(1978年)
月あかり(1978年)
相生橋(1981年)
サザン瀬戸ブルース(1987年)
春の海(1989年)
潮騒の町(1989年)
海の城下町(1990年)
帰らぬ夢(2006年)

鳥羽一郎
兄弟船(1982年)

西方裕之
北海酔虎伝(1987年)
流れる(1988年)
恋文流し(1993年)

美川憲一
お金をちょうだい(1971年)(2010年)

美空ひばり
みだれ髪(1987年)
塩屋崎(1987年)
都はるみ
アンコ椿は恋の花(1964年)
夫婦坂(1984年)

山形英夫
親子鯨(1958年)
山口瑠美
寿宝船 ことぶきたからぶね(1999年)

山本譲二
長州の男(1986年)
七夕月(萩の花咲く頃)(1993年)
生きる(2003年)

鰐淵晴子
春うらら(1967年)

その他 母校の後継校である東京海洋大学の新校歌を作詞している。作曲は鈴木淳。また、旧東和町の大半の小中学校の校歌の作詞を手がけている。

長崎国際大学の校歌の作詞している。作曲は都倉俊一。

周防大島の伊保田港と柳井港・松山港を結ぶ周防大島 松山フェリーの就航船「しらきさん」は周防大島の白木山にちなんで星野が命名したものである。

自らが元船乗りと言うこともあってか、海や船・港にちなんだ歌詞が多く、これがきっかけで1971(昭和46)年には運輸大臣より海事功労賞が、1985(昭和60)年には運輸大臣より交通文化賞を送られている。(「ウィキペディア」)12・5・3

2015年11月22日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争があるからだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28

2015年11月17日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎

肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞をまねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをした事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあってはいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはなかったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がすることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎた。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をやられ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がおしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころからの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をしたのだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もない病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げていたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。

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