2012年12月29日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎


福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えたように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<@首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

A退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

Bところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポンサー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

C後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる)。

D福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になるからである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」されたが、私としては如何ともし難かった。

2012年12月28日

◆日本未来の党は漫画

渡部 亮次郎


42歳でNHK大阪(JOBK)を後にしてから実は大阪との縁は薄くなっている。横山ノックを知事に祭り上げたりするから、少々あきれれたこともあった。

「煙の都」でなくなってからの大阪は都市としての目的を失っている。銀行や商社が本社をどんどん東京に移しても、対策を全く講ずることができずに来てしまった。

そこへタレント弁護士が登場して政治をかき回し、とうとう石原慎太郎を垂らしこんで日本維新の会とやらを作ってしまったが衆院議員五十数人では何をしていいやら分からない状態だ。

そうしたら隣の滋賀から女性県知事が、既に政治生命の殆ど残っていない小沢一郎と組んで「卒原発」を唱えだした。しかし衆院当選者は1桁。どうなることやらと見ていたら

「嘉田氏「小沢さんとは成田離婚」…1か月で失速」という。当に「なんじゃらほい」だ。関西と永田町は喧嘩はできても「合併」とか「融合」は無理なのだろうか。実は橋下市長も心配になっているのじゃないか。いずれ漫画だ。

<日本未来の党の代表人事をめぐる嘉田代表(滋賀県知事)と小沢一郎氏ら旧「国民の生活が第一」メンバーの亀裂は、党分裂に発展した。

脱原発勢力の結集を目指して衆院選に挑んだ同党だが、結成からわずか1か月で失速した。

「小沢さんとは『成田離婚』ですね」

嘉田氏は26日、周辺に、早くも党分裂が不可避となったことについて自嘲気味に語った。側近の飯田哲也代表代行と小沢氏は26日、都内で会談。分党について協議したとみられる。

衆院選直前に駆け込みで結成された未来の党には当初から「選挙互助会」との批判があり、「党内対立は不可避」とみられていた。党内抗争を繰り返してきた小沢氏を「学者出身の嘉田氏が制御できるはずがない」との見方もあった。>読売新聞 12月26日(水)20時42分配信

そも嘉田 由紀子とは何者ぞ。<かだ ゆきこ>1950年5月18日 -)は62歳。環境社会学者、文化人類学者である。弁護士になれなかった小沢が頭を下げそうな経歴ではある。

1973年京都大学農学部を卒業、1981年京都大学大学院農学研究科博士課程を修了し、京都大学より農学博士(論文名『琵琶湖の水問題をめぐる生活環境史的研究』)を授与される。

2006年7月2日の滋賀県知事選に当選して全国で5人目の女性知事となる。離婚した元夫は元京都大学農学部教授の嘉田良平(農業経済学、専門は環境保全型農業)である。

座右の銘は、「まっすぐに、しなやかに。」学者出身でありながら海千山千の小沢一郎を取り込んだ心算になったとは余りにも「おぼこ」だ。

<海千山千とは古代中国の故事にある「海に千年、山に千年住み着いた蛇は龍になる」という言い伝えからきた『海に千年山に千年』が略されたもので、長く生き、世間の裏も表も知り尽くしたことでずる賢くなった人やしたたかな人を意味し、古狸や腹黒に通じる。

このように本来褒め言葉ではない海千山千だが、中には「海に千年、山に千年」という部分だけをとり、「あの人は海千山千の苦労人」といった使い方をする人も多い。

また、「日本が海に囲まれ、多くの山を有する国」ということを表した言葉と思っている人もいる。実際、外交会談で日本の通訳が「海が千、山が千」とそのまま英訳し、意図が伝わらなかったというエピソードも残っている(この部分渡部の体験)。>

元は関東人である。埼玉県本庄市に、本庄市議会議員を務める渡辺康雄の娘として生まれる。

埼玉県立熊谷女子高等学校時代に生徒会長を務め、小田実の「なんでも見てやろう」を読みアフリカへ憧れを抱く。左巻きだ。

京都大学農学部へ進学して当時女性部員がいなかった探検部へ、後に夫となる当時の部長と入部許可を求めて口論の上で入部する。3回生の時にタンザニアで半年間生活した。

1981年、京都大学大学院農学研究科博士後期課程を修了し、琵琶湖研究所員として琵琶湖周辺の農村生活、ホタルダスや水環境カルテなどを調査研究する。

1996年開館の滋賀県立琵琶湖博物館に構想段階から深く関わり、後に滋賀県知事の座を争うことになる國松善次とは同僚である。2000年、京都精華大学人文学部環境社会学科教授となる。

2006年、「もったいない」を合言葉に、新幹線新駅の建設凍結、県内に計画されているダムの凍結見直し、旧志賀町に予定している廃棄物処分場の中止などを主張して滋賀県知事選挙に出馬。

最終的に嘉田には、社民党支持と近江八幡支部をはじめとする自民党非主流派の支援が残り、選挙戦の末、自民、公明、民主の3党が推す國松善次前知事を破り、当選する。

2010年7月、滋賀県知事選挙に再選を目指して出馬し、自民党前衆議院議員の上野賢一郎らを破り再選する。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
                      2012・12・27

2012年12月25日

◆トウ小平の歩んだ途

渡部 亮次郎


トウ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記のトウ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、トウは何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

日本との国交が正常化した1972(昭和47)年9月の田中訪中時にはしたがって姿が見えなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏しトウ小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。

1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。

1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行くかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら4人組の率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。

この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、トウ小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。

同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、4人組の逮捕後、1977年に3度目の復活を果たす。

日本との関係では国交正常化時、締結を約束していた日中平和洋行条約の交渉がさっぱり進んでいなかったが、トウの復活に伴って中国側の姿勢に変化が見られた。福田赳夫内閣にあって官房長官の園田直は独自に北京に派遣した黒衣からの情報でそれを確信していた。

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。トウ小平が文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。

この訪日でトウ小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。

トウ小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、トウ小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。

前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視したトウは改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深?市など4つの経済特別区の設置を決定する。

トウ小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、トウ小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、トウ小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な
論争に発展。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、トウ小平を支持するものであった。

華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。

最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記に就任し、トウ小平が党中央軍事委員会主席に就任した。

前年の1980年にはトウ小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここにトウ小平体制が確立した。

トウ小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。

1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、トウは政治改革に全く反対だというわけではなかった。

第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。

ただし、トウ自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、トウ小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していたトウ小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した。

トウ小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れたトウ小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。

中国に帰国したトウ小平は、第11期3中全会において、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。

代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。

但し、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管黒猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していたトウ小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。

経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

一方対日政策では、1982年に成立した中曽根康弘内閣を警戒し、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。

これを受けて1983年、江蘇省党委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館設立を決定し、南京市党委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。

トウ小平は1985年2月に南京を視察、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、トウ小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争40周年に当たる同年8月15日にオープンした。

トウ小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。

本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは娘のトウ楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

中国中央電視台はトウの死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。

死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

トウ小平の死後、トウが唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、トウ小平理論として中国共産党の指導思想に残された。

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「トウ蝟子(ハリネズミのトウ)」、「トウ矮子(チビのトウ)」と呼ばれたりもした。毛沢東はトウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかったトウ小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職から退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的にも有名となった。

フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで一番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

背が伸びなかったのは、フランス滞在中、満足に食事を取れなかったからだと後年、語っていた。

トウ小平の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは四川省の古くからの諺である。実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」である。これは最もトウが好んだ言葉であり、毛沢東がトウを弾劾する際にその理由の一つとしている。

実子であるトウ樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、トウ小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。トウ小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。この経験からか、中華人民共和国内の障害者団体に関わっていたことがある。

1974年の国連資源総会に出席した際、中国は過去も、現在も覇権を求めておらず、将来強大になっても覇権を求めないと演説した。

日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、トウ小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。

その際にトウ小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとした。

近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の第11期3中全会決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。

新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を冗談まじりに残してもいる。

訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、トウ小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。

また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。

ただし後に奥野誠亮大臣の発言や閣僚の靖国神社参拝について後に「日中友好を好ましいと思わない人がいる。」と批判している。「ウィキペディア」2012・8・15


◆カネのくすねられ方

渡部 亮次郎


総理を目指した田中角栄が、身辺の女性問題を女性週刊誌に書かれたくなくて高名な政治評論家に工作費として3000万円を渡した。

それがライターに示された金額は700万円。

ライターは拒否。カネは1銭も田中のもとには還ってこなかった。しかし、田中は評論家に何も言わなかった。だれがどうくすねたのか。以下、大方、推理ではある。

まず評論家が2000万円をくすねた。実はカネをライターに渡す役は高名な小説家兼作詞家だった。相談づくなら半額ずつ分けるところだが、相談はしなかった。

それなら実行役の作詞家に2000万円を渡すか。渡さない。カネを預かったのはオレだものと政治評論家。自分も「彼女」がいてカネに苦労していた。だから、まず自分が2000万円をくすね、残りを作詞家に渡した。

作詞家も評論家の普段を知り尽くしている。あいつがくすねたんだろうからワシもと300万円をくすね、ライターに700万円を提示。ライターは元々堅物だったので怒って拒否。

ところがライターの所属出版社で労働争議。ライターはデスクで使用者側。何処からとも無く噂。「デスクは田中からカネを貰ってあのネタを潰したんだ」。

あのネタの潰れたのは争議が起きたためだったが、弁明もおかしいので、デスクは気まずくなって退社。フリーのライター(早い話、無職)になった。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。この年の7月に田中は総理大臣になった。フリーの「もの書き」は苦しい。必死にテーマを探し、旅費を自腹で切り、現地取材。アパートにこもって執筆。

運がよければ雑誌に載せてもらえる。少しは名が売れてくれば注文も来るが、必ず来るとは限らない。そうやって次のような原稿を方々の雑誌に掲載して貰った。

「極限の中で、兵は天皇を想ったか」(1972年2月 潮出版社「潮」)
「週刊誌を泣かせる朝日新聞広告部」(1972年7月 噂「噂」)

「角栄、天下平定後の武将地図」(1972年8月 講談社「現代」)

「あるアイヌ青年の二十四年」(1972年11月 いんなあとりっぷ社「いん
なあとりっぷ」)

「巣立ち、稼ぎ、ひとり立ち」(1973年2月 東海大学出版会「望星」)

「津軽の白鳥艦隊司令長官」(1973年3月 いんなあとりっぷ社「いんな
あとりっぷ」)

このころ有名な出版社の有名総合雑誌『文藝春秋』から注文が来た。必死に取材し、書いた。

「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだのか」(1973年6月 文藝春秋「文藝春秋」)。

これををきっかけに「児玉隆也」は名を売り、文芸春秋の常連ライターとなった。

「チッソだけがなぜ?」(1973年10月 文藝春秋「文藝春秋」)

「学徒出陣、三十年目の群像」(1973年12月 文藝春秋「文藝春秋」)

「元祖"ふるさとと人間"宮田輝」(1974年8月 文藝春秋「文藝春秋」)

1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用された。11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究−その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」を執筆し、一躍有名となった。

このテーマこそ田中が3000万円で阻止にかかったネタだった。派閥「越山会」の金庫番たる女性は田中の愛人の一人であり、間に不義密通の娘がいることを暴露するものだった。

この記事がきっかけで「田中金脈事件が」勃発し、最終的に田中は政権を投げ出した。のちに生前の田中に直にきいたところ、「金脈なんて堪えなかったが「女王」には堪えた。妊娠している真紀子が『辞めないと飛び降りる』と目白の2階のベランダに突っ立つんだもの』と述懐した。

児玉はこの記事で嘗ての同僚らから受けた「疑惑」を雪いだ。だがその頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。僅か39歳だった。

児玉 隆也(こだま たかや、1937年5月7日―1975年5月22日)兵庫県芦屋市生まれ。

9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。芦屋市立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第2政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。

卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。

遺した単行本

「市のある町の旅−人情と風土にふれる朝市行脚」(1973年5月 産経新聞)

「淋しき越山会の女王 他六編」岩波現代文庫で再刊 2001年

「一銭五厘たちの横丁」 写真・桑原甲子雄 岩波現代文庫 2000年

「この三十年の日本人」 新潮文庫で再刊 1983年

「ガン病棟の九十九日」 新潮文庫で再刊 1980年 他数冊


2012年12月24日

◆田中角栄と園田直

渡部 亮次郎


二人は同じ自民党に在りながら「角福戦争」では両端の別れ目を命を賭けて闘った。直氏は福田派の参謀として。しかし角栄氏が引退同然になってからの二人は元の友人に戻った。それを知らずに福田は大平の足を引っ張った。晩年の福田不幸の原因はそこにある。

二人に対する出会いは園田氏のほうが先。船田中衆院議長と田中伊三次副議長が日韓条約批准案の採決強行の責任を取って辞職した後、佐藤栄作自民党総裁(首相)が指名した後任の候補者は山口喜久一郎に園田直(そのだ すなお)だった・両人とも旧河野派所属。

既に河野一郎氏は、この年の7月8日に急逝していたので、党内では問題にならなかった。むしろ入閣経験の無い園田氏の副議長起用は、嘗ての池田勇人内閣当時、国会対策委員長としての園田氏の手腕を「記憶」していた「人事の佐藤」を称える声が大きかった。

当時、私は政治部配属2年目のNHK記者。1年目を首相官邸記者として過ごした後。衆議院記者クラブに配属されていた。ここは衆議院正副議長を担当しながら衆院本会議や各委員会全般の動きを掌握する部署。3ヶ月ぐらいで殆どを覚えた。

首相官邸当時はキャップの指示で河野氏担当記者の助手みたいなことをしていて、河野氏(当時は無任所相)が担当していた日韓基本条約締結交渉の経緯を河野氏から聞き、霞クラブ(外務省記者クラブ)のキャップ島 桂次記者(のちのNHK会長)に伝えることにしていた。

船田・田中コンビの後任となった山口・園田コンビは何をするか。正月の伊勢参りに同行してみたが、これといったものはかぎつけることができなかった。

ところがある日、議長室にはいった社会党の石橋国会対策委員長が出てきたのが副議長室だった。通じていなかった正副議長室が通じている。これを知ったことが建国記念「の」日創設をめぐる自社両党の妥協をスクープすることになった。

園田氏はそうした手腕を佐藤首相に買われ、副議長を山口、綾部健太郎、石井光次郎と3代の議長を補佐したのが認められ晴れて厚生大臣として初入閣、水俣病とイタイイタイ病を初の「公害病」として認定。

マスコミからは不人気の佐藤内閣にあってただ1人の「好一点」などとはやされたが選挙区でもあった水俣では「恥を暴露した」と不評。総選挙では得票が減った。だからあれを「売名」だったと評価する一部の人はまちがっている。

園田氏は厚生大臣を辞めたところで佐藤首相の希望で国会対策委員長に就任。幹事長田中角栄の許で国会運営の責任を担うことになった。田中は既に佐藤のあと、首相の地位を狙って着々と自派勢力の拡大を進行させていた。これをマスコミは対抗馬福田赳夫外相による角福「戦争」と命名した。

このとき私は福田派担当。園田氏とは昵懇の仲になっていた。彼には田中支持に回るよう助言したが、親分の重政誠之が「昭和電工事件仲間で福田支持だから」と言って福田に走った。結果はご承知のとおり。

園田氏は角福戦争の後約10年を「無冠」で過ごした。その間、武道館に通ったり趣味のラジコンにこって無聊を慰めた。ラジコンで模型飛行機を飛ばすのに良く誘われて茨城県の牛久沼の小屋に泊った。

一方の角栄氏は戦争には勝ったものの、「金脈」でミソをつけた。問題の総合雑誌「文芸春秋」には渡部亮次郎が「赤坂太郎」の名で反田中の政治評論を書いていることをつきとめ、「背後に園田あり」と園田に濡れ衣を着せるという失策を演じた。

それは渡部の大阪左遷でカタをつけたが飛んでもない「ロッキード」事件による5億円の収賄事件が発覚して逮捕される事態に発展した。逮捕させたのは首相の三木武夫だとなり、とんでもない場面で角福共同による「三木おろし」となった。

三木を降ろさなければ田中の協力を得ての福田政権樹立の悲願達成は不可能というわけで園田氏は福田の身代わりとなって三木降しに奔走。私は大阪でやきもきしながら週に一回は上京して園田氏を応援した。

私を大阪に左遷させた田中を私は恨んだが、田中の立場にたてば当然だったと考えるようになっていた。今では人格的には福田より角栄のほうが立派だったと思っている。

園田氏は角栄氏を直接、間接的に説得。ポスト三木で2年間は福田氏、その後は大平正芳氏という密約を結ぶことに成功。品川のパシフィック・ホテルで文書を交わした。

かくて福田氏は70歳にして首相に就任。園田氏は官房長官としてスポット・ライトを10年ぶりに浴びたが、福田氏は「密約」を反古にすべく着々と手を打ち始めた。その第一弾が園田氏の外務大臣への横すべりだった。

世間やマスコミはこれを念願の日中平和友好条約の締結と結びつけて考えたが、そうではなかった。とにかく密約支持の園田を官邸に置いていたのでは「反古」工作がままならない。

加えて親分岸 信介氏からの女婿 安倍晋太郎を官房長官にという熾烈な要求にも応えることが出来る。外交素人の園田を外務大臣で処遇すれば園田は横滑りを納得するだろう。

しかし園田はその昔、重光葵(しげみつ まもる)大臣の許で外務政務次官を勤め外務省新館を建設した実績さえあるし、何よりも密約反古を狙う福田の腹を知って立腹していた。NHK記者から秘書官に転じてきた私にはすべて語った。

園田氏は日中平和友好条約交渉を積極的に進める一方、田中角栄との連絡を蜜にするようになっていった。目白の田中邸に時々午前5時ごろ訪問した。いつも私を帯同した。勿論、いつも車内で待機していた。

福田の腹中は常に話題だった。情報は大平に常に伝えられたはずだ。
既に福田に勝ち味はなかった。こういう戦いにかけては実際に戦争をした党人派に「経験」がある。

福田政権の末期、園田外相は森善朗官房副長官らの作戦参加要請をけってアフリカ訪問を敢行したりした。7月14日、パリで森氏を激しく叱責する場面もあった。

結局福田氏は密約を反古にして総裁選に立候補。しかしマスコミの予想を大きく覆して大平に敗れ「天の声にも変な声がある」との迷言を遺して官邸を去った。

「会長は後任の社長を暖かく見守っていれば返り咲きと言う場面が無いわけじゃない」と園田氏は言い続けた。しかし福田氏のいじめが効いて大平氏は総選挙のさなかに急死した。

虎ノ門病院で遺体と対面した園田氏は「これから何処へ行こうか」と私に言ったあと目白の私邸に田中氏を訪ね「後継首相は鈴木善幸」で一致。外国マスコミは「ゼンコウ Who」と打電した。
2012・12・23

2012年12月22日

◆消えて行く「童謡」

渡部 亮次郎


「童謡」は「唱歌」に対抗するものである。でも私の子供時代はアメリカとの戦争時代だったので学校で教える「唱歌」以外、唄ったことが無い。高校生になって歌謡曲でNHKのど自慢には出たが。

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。

少年少女合唱団・童謡歌手多くの少年少女合唱団が作られ、童謡の普及に貢献した。童謡はまた、多くの童謡歌手を生み出した。

本居長世の長女、本居みどりは日本初の童謡歌手であり、みどり・貴美子・若葉の三姉妹により、レコード録音やラジオ放送が行なわれた。

童謡作曲家の海沼實の主宰していた音羽ゆりかご会からは川田正子、川田孝子姉妹が出ている。

男の子供では、増永丈夫がいた。この少年が後の国民的名歌手藤山一郎である。

その流れはその後も『うたのおばさん』の安西愛子や『おかあさんといっしょ』のうたのおねえさんとして小鳩くるみや茂森あゆみへと受け継がれていた。


「童謡」は学校教育用に創作された「唱歌」や、自然発生的に作られたわらべ歌(自然童謡、伝承童謡)に対して、大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲。厳密には創作童謡(そうさくどうよう)と呼ばれる

大正時代初期以前は子供の歌といえば、いわゆる「わらべ歌」であった。明治期に西洋から近代音楽が紹介されると、学校教育用に「唱歌」(文部省唱歌)と呼ばれる多くの歌が作られた。

これらは徳育・情操教育を目的に、主に「文語」体で書かれ、多くは日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものである。

大正時代後期になって「子供に向けて創作された芸術的香気の高い歌謡」という新しい意味付けをしたのは鈴木三重吉(すずき みえきち)である。

鈴木は1918(大正7)年7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊を契機に「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と名付けた。

さらに当時は「子供たちが書く詩」も童謡と呼んでいた。このため「童謡」という語には1910年代以降、

1.子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌(=自然童謡、伝承童謡)
2.大人が子供に向けて創作した芸術味豊かな歌謡(=創作童謡、文学童謡)
3.子供たちが書いた児童詩

という3つの概念が付与されていた。これらの概念は時代の変遷に伴って変化したり混在したりした。

2000年代現在では狭義の「童謡」という語は(2.)の意味で定着しているが、近年ではその概念は大きく広げられ「童謡=子供の歌」としてとらえ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など全ての子供の歌を「童謡」という語で括ってしまう傾向が目立つ。

ところで、もともと「童謡」(創作童謡)は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したといえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。

創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三(秋田県人)作曲による楽譜を付けて掲載された。これが創作童謡の嚆矢である。

これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。

『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。

北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。

昭和・平成[ 第2次世界大戦前・戦中昭和にはいると児童文学雑誌は次第に不振となり、最も長く続いた『赤い鳥』『金の星』ともに1929年(昭和4年)には廃刊となった。

さらに、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになった。実は私が小学校(国民学校といった)に上がったころ、知っている童謡は一つもなかった。家にはラジオもなかった。テレビは未発明。

一方で『隣組』(1940(昭和15)年作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫)や『戦争ごっこ』のような戦時童謡と呼ばれる歌が作られたりした。現在『汽車ポッポ』(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は『兵隊さんの汽車』という題名の出征兵士を歌ったものであった。

太平洋戦争の終戦後は、ベビーブームもあり、再び子供の歌への関心が高まった。『ぞうさん』(1948年(昭和23年)、作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨)や『犬のおまわりさん』(1960年、作詞:佐藤義美、作曲:大中恩)など、2000年代現在でも歌われる多くの歌が作られ、ラジオやテレビで放送された。

『おもちゃのチャチャチャ』(1963年(昭和38年)、作詞:野坂昭如ら、作曲:越部信義)の野坂昭如など、童謡にかかわったことのある著名人は多い。NHKの「みんなのうた」からも多くの童謡が生まれている。

その後も時折『ピンポンパン体操』(1971年(昭和46年)、作詞:阿久悠、作曲:小林亜星)、『およげ!たいやきくん』(1975年(昭和50年)、作詞:高田ひろお、作曲:佐瀬寿一)や『山口さんちのツトム君』(1976年(昭和51年)、作詞・作曲:みなみらんぼう)、『だんご3兄弟』(1999年(平成11年)、作詞:佐藤雅彦、作曲:内野真澄)のような大ヒットはあるものの、概して低調である。

近年ではアニメソングなどに押され、古くからの童謡が家庭で歌われることは少なくなっている。昔の「童謡」は消えた。2012・12・21


2012年12月20日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎


リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという。

青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。


2012年12月18日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎


毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2012年12月16日

◆監視される中国特派員

渡部 亮次郎


中国に多少通じる人と会うと、「北京や上海の日本人記者は碌な記事を送ってこない」「中国に批判的な記事は1行も書かない」と非難する。

だが、事情を知れば、この非難は的外れだ。日中間には「政治三原則」遵守を義務付けられた「日中記者交換協定」と言うものが存在し、中国における日本人記者の取材活動を縛り、監視しているのである。

しかも、それを暴露すれば直ちに「国外追放」が待っている。追放されたら2度と中国へは入国できない。彼ら彼女らは片時も自由を得られず怯えながら取材をしているのである。

1964(昭和39)年9月には、LT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることになった。

1968(昭和43)年3月、LT貿易は計画の期限を迎えてあらたに覚書「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が交わされ、覚書貿易(MT貿易)へ移行した。

このとき双方が「遵守されるべき原則」として「政治三原則」が明記された。「政治三原則」とは、周恩来・中華人民共和国首相をはじめとする中華人民共和国政府が、従来から主張してきた日中交渉において前提とする要求で、以下の三項目からなる

(1)日本政府は中国を敵視してはならない。
(2)米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、これに基いて各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に抵触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。盗聴は24時間である。

三原則を拡大解釈すれば、少しでも中国に批判的な記事は抗議の対象となる。ひいては日本記者たちに自己規制を強いる結果となる。それが中国の狙いだった。

記者交換協定の改定に先立つ1967(昭和42)年には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この1968(昭和43)年の記者交換協定の改定は日中国交正常化(1972年)の4年前のことだったが、北京で交渉に当たった田川誠一・衆議院議員(故人)らと中華人民共和国政府との間で「結論は一般には公表しない」ことが決められ、その内容も報道されなかった。

筆者は当時、自民党担当のNHK記者だったが、後の「角福戦争」の前哨戦たる派閥抗争を追うのに忙しく、記者協定は勿論、日中そのものに関心が無かった。それにしても大変な「箍(たが)」がはめられていたものである。

後に外務大臣の秘書官に転身。「協定」の改訂にも関心を寄せたが一度味を占めた中国側の壁はもはや鉄壁だった。交渉に応じようともしなかった。

この不明朗な措置は、後に「一部の評論家などから、日中記者交換協定が、中国への敵視政策をとらないという政治三原則に組み込まれ、報道の自由を失っているとの批判を招く」一因になったとされる。

また協定の存在自体により、中国に対する正しい報道がなされず、中国共産党に都合の良いプロパガンダしか報道されていないという批判もある。

その後、中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂(みのる)は、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期は朝日新聞を除いた他の新聞社も、追放処分を受けている。

他社の記者がすべていなくなった北京で朝日の秋岡特派員は林彪が1971年9月13日、逃亡途中に墜落死したにもかかわらず生存説を打電し続けるという有名な誤報事件を起こした。

1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留される(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、中国共産党に都合の悪い記事を書くことは、事実上不可能である。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

中国語習得を売り物に入社した記者は殆ど中国にしか用事が無い。中国に入国できなくなれば商売上がったりだ。だから滞在中は中国から睨まれないよう萎縮して取材するしかない。それを評して「まともな記事を送って来ない」と非難するのは的外れでは無いか。

余談ながら、1972年9月、日中国交正常化のための田中角栄首相の北京訪問の際、同行したが、望遠レンズの使用が禁止された。狙撃銃が仕込まれているかも知れない、というのだ。

また、日中首脳に10nまで近づける記者は「近距離記者」で特別待遇。それ以外の「遠距離記者」は「観衆」扱いだった。外国の商業メディアの記者は「反革命分子」同然なのである。
参考「ウィキペディア」2010・10・30を再掲

2012年12月15日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。来月は7回忌だ。死亡は彼の73歳の誕生日の前日だった。

発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけた。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

2012年12月13日

◆リンゴ主産地は中国

渡部 亮次郎


深夜、周恩来首相を先頭に、中国人たちが「我々にも日本の赤いリンゴを栽培して食べさせろ」とデモをしている夢を見た。しかし世界に於けるリンゴの主産地は中国ではないか。

秋の果物の王者リンゴ。生まれ在所秋田や隣の山形県にもあるが、なんと言っても北隣の青森県、それも日本海岸の津軽だ。尤も敗戦後間もなく流行した霧島昇と並木路子の「リンゴの唄」の映画のロケ地は秋田県増田町であった。

リンゴの原産地はなんとなくアメリカだと思っていたが原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地である。

現在日本で栽培されているものは、明治時代以降、西洋から導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。

亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。

だから台湾にリンゴは無く、日本からの土産が珍重される所以である。

江戸時代に栽培されていたリンゴは、中国から入ったワリンゴ(ジリンゴ)1種だけで、明治以後に導入されたリンゴとは別種である。

現在、和リンゴは長野県上水内郡飯綱町で1軒の農家が栽培してその姿を伝えている。

和リンゴの実は、大きさ直径3 ―4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 また2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存するワリンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した実はお盆に各地の寺社に奉納している。

リンゴをはじめてアメリカにもたらしたのは種子を携えて行った初期の開拓者だった。マサチューセッツ・ベイ・カンパニーの記録によると、早くも1630年にニユーイングランドに生育していたという。

種子は宣教師、貿易業者、アメリカ先住民によって西方にもちこまれた。ジョン・チャップマンがたったひとりでアメリカ中西部にひろくリンゴの木を植えたといわれている。しかし品種改良はあまりしなかったのかニューヨークあたりの辻で売られているリンゴは極小さい。

セイヨウリンゴがはじめて日本に入ったのは、江戸末期の1861〜64年(文久年間)江戸・巣鴨の屋敷に植えられたものとされるが、本格的な導入は1872年(明治5)に開拓使によっておこなわれた。

それ以来、600種をこえる品種が入ってきたが、現在、市場に出荷されている品種は、日本で育成されたものを含めて十数種にとどまる。

明治初期に導入され、現在も栽培されている品種には、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、旭(あさひ)などがあり、大正期に導入されたものに、デリシャス、スターキングデリシャス、ゴールデンデリシャスがある。

敗戦後、弘前周辺から国鉄奥羽線に乗っておばさんたちが秋田へ手作りのリンゴを売りに来た。それより前の戦時中は売りに来なかったものだ。高校の頃は1日に紅玉を6個も食べた。歯も当然丈夫だったから皮も剥かずにかぶりついた。

第2次世界大戦後は日本国内でも品種の育成がおこなわれ、青森県りんご試験場の育成のつがる、陸奥(むつ)が登場した。

農林水産省園芸試験場盛岡支場(現、果樹研究所リンゴ研究部)が育成した「ふじ」などが登場してきた。

「ふじ」は国光とデリシャスの交配から選抜育成されたもので、甘みと酸味のバランスがよく、母種の国光にかわって人気品種となった。日本のリンゴ栽培面積の約3分の1をふじが占める。

このほか日本産の品種には、北の幸、王林、王鈴(おうれい)、世界一などがある。

2006年現在世界では年間約6千万tのリンゴが栽培されている。生産量は中国がトップでアメリカ合衆国、フランスなどが続く。

日本では青森県、長野県、岩手県で主に栽培されており、青森県は全国の50%のリンゴを生産している。日本の都市でリンゴの生産量が最も多いのは弘前市で全国の約20%を生産している。

2012年12月10日

◆政治家が泣いちゃいけない

渡部 亮次郎


私が秘書官として仕えた元外務大臣、厚生大臣の園田直(そのだ すなお)はハンカチを絶対使わなかった。毎朝、天光光(てんこうこう)夫人がズボンのポケットにハンカチを忘れずに入れるのだが、外では絶対使わなかった。

日中平和友好条約の締結交渉は真夏の人民大会堂で行なわれたが、流れる汗は拳で払っていた。

「ハンカチ? 泣いている園田という写真説明を附されたらおしまいじゃないか」。欧米で政治家が大衆の前で泣くという自己抑制力の無さをさらけ出したら政治家失格の烙印を押される。日本とて同様と言うわけだった。

大東亜戦争で陸軍特攻隊に志願しながら敗戦で奇跡的に生き残った園田氏。豪胆にして情感豊かな政治家だったから、水俣病を公害と認定する前など、泣きたいような場面には何度も遭遇した。しかし絶対涙は見せなかった。ハンカチで顔を拭うこともなかった。

ところで古い産経新聞の【産経抄】によると、「▼昭和の政治家に比べ、現代の与野党の皆さんが何ともひ弱に見えてならない。例えばある経済産業相である。菅直人首相の原発政策を批判、辞任の意向を示すなど対立を深めてきた。辞めれば「菅降ろし」の決め手になるという、今「注目の人」だ。


▼首尾よく退陣に追い込めば「次」の有力候補にもなる。その氏が(2011年)7月29日、国会の委員会で「号泣」したのだという。野党議員から「いつ辞めるのか」と突っ込まれると「もう少しこらえてほしい」と涙ぐみ、しまいには大泣きだったらしい。

▼首相への反発や原発政策など苦悩が重なったため、との解説もある。確かに、将来のエネルギー政策という重い課題を背負っている者として感きわまったのかもしれない。

だが国民みんなが政治にイライラしているとき、大臣に泣かれてしまっては、一段と気が滅入る」。とある。テレビニュースでこの場面は私も偶然見た。

記者として、大臣側近として永らく政治の現場を踏んだが、人前で泣いた政治家は初めて見た。逆に言えば自己抑制の利かない政治家の第一号といわれても文句は言えまい。

省みれば昭和の政治家たちは宮澤喜一を除けば、戦争に関係し、戦場で弾丸に晒されながら生き抜いてきた「勇士」だった。だから「度胸」があった。

ある意味で戦争が度胸の据わった政治家を育てたともいえるのだろう。だから戦争を起こせとはいわない。だが、平和な世の中では、「立派な政治家」は高望みなのだと覚悟を決める以外に無い。(文中敬称略)


2012年12月07日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。
出典:フリー百科「ウィキペディア」