2013年05月04日

◆私は高所恐怖「癖」?

渡部 亮次郎


厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる。こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ、怖がるのは正常な反応であるからだ。

私のは単に高いところが苦手というのだから「癖」だと思うが、高い所にいることを想像しただけで気が滅入るし、タマが上がるからやはり「症」ではないかな、と思ったりする。

不思議なことに飛行機に乗るのは全く怖くない。その昔、迫水久常氏は池田内閣の閣僚に任命された際、首相訪米に同行を求められた。

私、飛行機が嫌いですから・・・」と断るもならず、ワシントンまで一睡もせず、前座席の背も立たれに掴まって行った、と聴いた。

それに比べれば私のは「症」と「癖」の中間かもしれない。40を過ぎた頃、評論家の加瀬英明氏の案内でアメリカを旅行した。加瀬氏は私と同年。アメリカ留学経験者であるから贅沢な旅行だった。

ある日、某銀行のNY支店長から招待されてまだあった世界貿易センター最上階のレストランに出かけた。窓際の席である。特等席なそうな。

坐ってひょいと外を見たら目下をヘリが飛んで行く。それでもういけません。タマが上がって震えがきた。生まれて初めての経験。これが高所恐怖症と言う奴か。出されたムール貝を急いで掻きこみ帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう1皿どうぞ」といわれてぎゃふん。

自分が高所恐怖症患者であることを初めて知った旅だった。その後何度もアメリカへは旅をした。家人を案内してエンパイア・ステートビルへも仕方なく登ったが、屋上ではどうしても外壁近くに歩いてゆけずに笑われた。

今すんでいるアパートは20階建ての9階の一部だが、初めは怖かった。寝ていても滑り落ちてゆくような恐怖に駆られた。住んで十数年、おかしなことに、慣れたのか恐怖心は去った。

高所恐怖症は精神科医の手助けが必要な不安障害だそうだ。真性患者は高さ1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み、動けなくなってしまう。高所で作業している人間を見ただけで気分が悪くなる者もいるという。私もそうなる。

極端な例を挙げれば、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも怖いわけで、こういう「危険が目に見えている状況」で怖がるのは本能として当然のことである。

むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない方が病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」は怖いのではないかという説もある(実際、TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。<ウィキペディア>

北側の窓の先1Kmのところにある634mの「スカイツリー」が開業したが、私は誘われても昇らない。


2013年05月02日

◆光無き砂漠の静寂

渡部 亮次郎


試みに中東の沙漠に、深夜、独り、降り立ったことがある。勿論ネオンも街灯も無い。歌に歌う星も、本当は地球を照らしてはいないことを知った。本当の暗闇とはあの事。1978年1月のある深夜。

その夜は風も全く無かったので、耳をいくら澄ましても聞える音は何も無かった。どこから外敵に接近されようと関知する事は不可能だった。

つまり東京という都会に暮らしていれば、漆黒の闇と言う事はあり得ない。また全くの沈黙という名の静寂も求める事はできない。都会では何かしらの光が漏れ、どこからとも無く音が聞えてくる。

しかし中東の沙漠の夜には音も光も全く消えてしまうのだ。米のブッシュ大統領はこの事実を体験せずにアフガンやイラク攻めを命令したのだ。沙漠を知らずに攻め入った兵士たちの戸惑いが中東での米軍の苦戦を証明している。

光無く音さえ絶った沙漠。一旦、風が吹いたとなると、地上も空もすべてを遮る嵐と化すらしい。そこではいかに対処すべきか協議している暇は無い。首長の命令一下に従うしか命は無い。

音の全く無い暗闇の中。これ以上の孤独は無い。その時私はかつてロンドン郊外で体験した濃い、霧のことを思っていた。多分、牛乳の中に体ごと突っ込まれたら同じ思いをするかもしれない。真っ黒と真っ白の違いはあるが、何も見えないという点では共通だ。

日本であれほどの濃い霧を体験できる場所を知らない。早朝、いきなり霧に包まれ、前後左右、上下、乳白色一色.鼻をつねられても頭を殴られても誰にやられたか全く判らないだろう。

だから北ヨーロッパでは霧は犯罪とすぐ結びつく。迷宮入りした殺人事件の犯人は霧とされるらしい。

翻って中東の沙漠の暗闇の中で人々は何を考えるのだろうか。翌日サウジ政府差し回しの軍用ヘリコプターで油田の上空を飛んだら、耳をつんざく騒音の中でぐっすり眠っていた。

「テレビが五月蝿くて眠れない」と家族に文句を言うが、アレは嘘だ。人間、眠くなれば、飛んでいるヘリの中で眠られるのだから。

2013年05月01日

◆おやつの無い子供

渡部 亮次郎


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた年の翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべてが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら大勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土へは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―2)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995―2004年度の10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し、加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。
    平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」


2013年04月29日

◆忘れられぬ文世光事件

渡部 亮次郎


文世光事件が起きた時、私はNHK大阪放送局でぶらぶらしていた。2006年の今から数えると39年前のこと。知らない人も多いだろう。

文世光事件(ムン・セグァンじけん)は1974(昭和49)年8月15日に元大韓民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修さんら2人が大阪から出掛けて行った在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)に射殺された事件である。

この日の韓国は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席していた。

事件当日、文は日本政府高官になりすまして国立劇場に入り、朴大統領が祝辞を読みあげている途中、壇上に向け何発か拳銃を撃った。が、元軍人の朴大統領は反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。

目標を失った文は大統領夫人の陸さんに向け4発撃った。 陸さんはその後病院に搬送され5時間40分にもおよぶ手術もむなしく、死去した。また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生1名も銃撃を受け、死亡した。

一報が報じられた途端、「あいつ、わいのだちこうや」とNHK出入りフィルム運搬会社の職員が叫んだ。何やて、そらまたどうしてや。身元の確認が警察よりも早かったわけで、NHKの特種となった。

このとき大阪府警の担当記者をしていたのが石岡荘十さんだった。交番でのピストル盗難事件のお宮入りで腐っている矢先だった。

もともと、朝鮮半島の赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。その後朝鮮総連の支援を受けながら、用意を着々と進めて(大阪府内の派出所で拳銃を盗んだり、韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成した)8月6日、韓国に入国した。

一方の朴大統領は、1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹フ善を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、国民の反対の声がありながらも日本との国交を回復(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)。

またベトナム戦争への派兵も決定するが、西ドイツへ労働者を派遣やその給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結やベトナム派兵により有償・無償の資金供与を日米等から受ける様になる。

内政においては典型的な開発独裁で、国家主導で産業育成をはかるべく財閥、国策企業を通じ、重工業にカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに浦項製鉄所がある。

この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げたものの農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。

政治的なスローガンとしては「維新体制」を標榜したが、開発独裁といわれる朴正煕の経済開発手法は彼が実際に見聞した満州国における政府主導の重工業化からヒントを得ているとする分析がある。

また、数次にわたる5カ年計画方式は、北朝鮮の計画経済をモデルにしているといわれ、必要と思えばイデオロギーに関係なく何でも取り入れる現実主義的柔軟性は注目される。

こうした実績を見れば、共産主義体制による韓国併呑を企図している北朝鮮の焦燥感、反朴感情の高まりは当然だったから、事件の陰の北朝鮮の存在は疑われた。

それを裏付けるかの如く1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。

(この襲撃未遂事件で犯人側の唯一の生き残りにKCIAで1973年にインタビューした話は以前、書いた)。

一方、国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていたが、1974年8月15日、日本統治から「解放」されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受けたのだった。

この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し日本警察から強奪したものであったこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪に陥った。理由は、朝鮮総連が関連している事件であるのは韓国側の捜査で明白だったのに対し、日本側は総連の関与はないという姿勢を見せた事、文が所持していた拳銃が大阪の派出所より盗まれた物であった事に因る。

謝罪のない日本側(田中角栄総理)に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。 その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前までいった。

しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、最悪の事態はまぬがれた。 なお、日本を「赤化(共産化)工作基地」とみなす認識は、韓国人にとってしばしば反日感情を正当化する根拠の一つでありつづけた。今では想像もつかないだろう。

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、1審、2審、終審の全てで死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日、ソウル拘置所で処刑された。

朴大統領自身は、釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。遺体は国葬となり、現在、国立墓地、顕忠院に葬られている。葬儀には岸信介元総理が政府代表として参列した。このとき私はNHKを退職し、外務大臣秘書官だった。


2013年04月28日

◆ゴールデンウィークへの誤解

渡部 亮次郎


町医者の看板なんかに、休診日は「祝祭日」と書いてあるのが目立つのだが、「祭日」とは戦前の話であり、今は国民と祭日は無関係になったのだ。「国民の祝日」しかない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、祝祭日(しゅくさいじつ)とは、第2次世界大戦(大東亜戦争)以前の日本において行われていた祝日と大祭日の総称で、正式には祝日大祭日と言った。

明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)によって定められていた。

1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祭日は全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。現行の国民の祝日のことを「祝祭日」と呼ぶのは誤用である。つまり「国民の祝日」はあるが「祭日」は存在しない。

むかしの祝祭日一覧。

1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。

「祝日」
四方拝(新年) - 1月1日
紀元節 - 2月11日
天長節 - 4月29日
明治節(明治時代には天長節) - 11月3日
新年宴会 - 1月5日

このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)という。

「大祭日」にはどんなものがあったのか。

元始祭 -   1月3日
春季皇霊祭 - 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 - 4月3日
秋季皇霊祭 - 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 -   10月17日
新嘗祭 -   11月23日
大正天皇祭 - 12月25日

今の法律では春分の日と秋分の日しか残っていない。昭和11年1月生まれの私には春季皇霊祭と秋季皇霊祭の言葉が耳に残っている。こうした記憶を基に考えると、祝日をずいぶん増やしたものだなぁと思う。

NHKのアナウンサーは、いわゆる団塊の世代がぼちぼち定年退職して「ラジオ深夜便」に移行しているが、彼らとて「ゴールデンウィーク」が昔からあったようなことをのたまうからやりきれない。

調べてみると憲法記念日(5月3日)もこどもの日(5日)も昭和24年(1949年}から始まった。当時の天皇誕生日(4月29)にメーデー(5月1日)を休日扱いに無理にしてみてもゴールデンにはならなかった。まだ土曜日は「半ドン」で休日ではなかったからだ。

その後、5月4日を無理無理、「国民の休日」なんて、休みたいための国民の祝日にしたり、昭和天皇誕生日を昭和の日としてのこしたりしてとうとうゴールデンウィークに仕立て上げたのは平成に入ってからだ。

その後の経過と現状。

祝日法改正「ハッピーマンデー」〜平成12年から3連休増加〜

成人の日(1月15日)と体育の日(10月10日)をそれぞれ各月の第2月曜日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(通称・ハッピーマンデー法)が、平成10年10月21日に公布され、平成12年(2,000年)1月1日から施行されました。

改正祝日法(祝日3連休化法)と改正老人福祉法〜平成15年から3連休増加〜

海の日(7月20日)と敬老の日(9月15日)をそれぞれ各月の第3月曜日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律が、平成13年6月15日に可決成立、同6月22日官報で発表されました。

4月29日の「みどりの日」を「昭和の日」に、5月4日の「国民の休日」を「みどりの日」の祝日に変更。平成17年5月13日に可決成立。同5月20日官報で発表されました。平成19(2007)年から施行。

祝日

 1月 1日 元日  
 1月 第2月曜日 成人の日 満20才になった青年男女を励まし祝福する日
 2月11日 建国記念の日 国を記念する日 紀元節(1966年制定)
 3月232日頃 春分の日 注)暦により変動する。
 4月29日 みどりの日
  ↓
昭和の日(2007年から。昭和天皇の誕生日)
 5月3日 憲法記念日 日本国憲法が施行記念日(1947年)
 5月4日  みどりの日2007年から。 この日は祝日でなく休日で、日曜日の場合振替はされませんでした が、2007年から。祝日となりました。

 5月 5日 こどもの日  
 7月 第3月曜日 海の日 海や自然に感謝する日(1996年制定)平成15年より第3月曜日になりました
 9月 第3月曜日 敬老の日 老人を敬う祝日(1966年制定)  平成15年より第3月曜日になりました

 9月23日頃 秋分の日 注)暦により変動する。
 10月 第2月曜日 体育の日 東京オリンピック(1964)開会の記念日(1966年制定)
 
11月3日 文化の日 新憲法公布を記念し、日本の平和と文化の発展を祝う日

 11月23日 勤労感謝の日 勤労を尊び、生産を祝い、国民が互に感謝しあう日

12月23日 天皇誕生日 現在の天皇、今上天皇(きんじょうてんのう) の誕生日
(了)

2013年04月27日

◆私は高所恐怖「癖」?

渡部 亮次郎


厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる。こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ、怖がるのは正常な反応であるからだ。

私のは単に高いところが苦手というのだから「癖」だと思うが、高い所にいることを想像しただけで気が滅入るし、タマが上がるからやはり「症」ではないかな、と思ったりする。

不思議なことに飛行機に乗るのは全く怖くない。その昔、迫水久常氏は池田内閣の閣僚に任命された際、首相訪米に同行を求められた。

私、飛行機が嫌いですから・・・」と断るもならず、ワシントンまで一睡もせず、前座席の背も立たれに掴まって行った、と聴いた。

それに比べれば私のは「症」と「癖」の中間かもしれない。40を過ぎた頃、評論家の加瀬英明氏の案内でアメリカを旅行した。加瀬氏は私と同年。アメリカ留学経験者であるから贅沢な旅行だった。

ある日、某銀行のNY支店長から招待されてまだあった世界貿易センター最上階のレストランに出かけた。窓際の席である。特等席なそうな。

坐ってひょいと外を見たら目下をヘリが飛んで行く。それでもういけません。タマが上がって震えがきた。生まれて初めての経験。これが高所恐怖症と言う奴か。出されたムール貝を急いで掻きこみ帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう1皿どうぞ」といわれてぎゃふん。

自分が高所恐怖症患者であることを初めて知った旅だった。その後何度もアメリカへは旅をした。家人を案内してエンパイア・ステートビルへも仕方なく登ったが、屋上ではどうしても外壁近くに歩いてゆけずに笑われた。

今すんでいるアパートは20階建ての9階の一部だが、初めは怖かった。寝ていても滑り落ちてゆくような恐怖に駆られた。住んで十数年、おかしなことに、慣れたのか恐怖心は去った。

高所恐怖症は精神科医の手助けが必要な不安障害だそうだ。真性患者は高さ1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み、動けなくなってしまう。高所で作業している人間を見ただけで気分が悪くなる者もいるという。私もそうなる。

極端な例を挙げれば、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも怖いわけで、こういう「危険が目に見えている状況」で怖がるのは本能として当然のことである。

むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない方が病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」は怖いのではないかという説もある(実際、TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。<ウィキペディア>

北側の窓の先1Kmのところにある634mの「スカイツリー」が開業したが、私は誘われても昇らない。


2013年04月23日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相について日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hardwater がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変えて定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。助けてくれた若い友人はその後、脳梗塞で急死した。何たる皮肉。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

2013年04月21日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから35年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったの
である。

あれから35年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。

(文中敬称略)2013・4・19


2013年04月20日

◆キャベツが大好物

渡部 亮次郎


野菜で何が好きかと聞かれたらキャベツと答えるが、実は生のキャベツを初めて食べたのは学生食堂であった。生まれた秋田の農村にもキャベツはもちろん生えてはいたが、多分回虫がいたから母はすべて煮るか炒めるか茹でて食べさしてくれた。

日本の野菜に回虫がなくなったのは昭和20年夏の敗戦からさらにしばらく経ってからの事だ。昭和29(1954)年の学食では生のキャベツが無料だったような気がする。

しかし、その頃はキャベツを生では食べられなかった。社会に出て生の野菜サラダを食べるようになって、レタスよりも生だったらキャベツのほうに味があるように思えて食べるようになった。しかし、幼少の頃食べたことの無かったソースは今も苦手。

例の向島(むこうじま)の洋食屋でハンバーグにキャベツを添えてもらうと家人やその兄姉たちのすべてが野菜を食べないから、4-5人分のキャベツが私のところに集中。それを私は醤油をちょっぴり掛けて平らげる。焼酎の肴もキャベツになる。

キャベツ料理としてほかに好きなものはロールキャベツとか油炒め。

キャベツ Cabbage 食用、飼料用として温帯地域でひろく栽培されている2年生のアブラナ科の野菜。普通のキャベツの他に類縁のものとしてメキャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、ケール、コールラビなどがある。

どれもヨーロッパ沿岸地域に自生する野生のキャベツから作り出されたものと見られる。

キャベツはフランス語で「大きな頭」という意味の「カボシュ」から来た名で、大きな葉が球状に密集し、茎が短く、さらに食用になる葉がある。

葉は種によって長楕円形、楕円形、ほぼ円形などがあり、大きさは約30cmで、色は緑、紫、赤などがある。チリメンキャベツのようにしわのあるものと、なめらかなものがある。世界の各地域でいろいろな品種が栽培されている。

日本へは、江戸時代に結球しないキャベツが入って来ているが、結球キャベツが導入されたのは1868年(明治元)で、北海道、東北、東京で栽培が始まった。明治末期以降、日本独自の品種がつくりだされ、西洋野菜の代表種となっている。

2013年04月17日

◆ミネソタの卵売り

渡部 亮次郎


昭和26(1951)年2月発売のレコードに「ミネソタの卵売り」という割に流行した歌謡曲があった。41歳の若さで死ぬ事になる暁テル子が元気に唄った。東京浅草生まれ。SSK(松竹少女歌劇団)出身。佐伯孝夫作詞、利根一郎作曲である。

「コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 人気者 つやつや生みたて 買わないか 卵に黄身と 白味がなけりゃ お代は要らないコッコッコッコッ コケッコ」(2番省略)

悪い事に後年、NHK記者から園田直外務大臣の秘書官になったとき、その「ミネソタ」に出張するよう用事ができた。米国ミネソタ州の「ミネアポリス」にあるミネソタ大学である。

そこで大学関係者に確かめてみたが、何方も???

ミネソタが卵の特産地と言う事は無いとの結論だった。その後、どこかで作詞の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへ卵売りが来たので、この唄ができたという放送を聞いたような気がする。

暇にあかせて本をひっくり返したり、インターネットを暫く逍遥してみたが、いまのところ「確証」はつかめない。「卵とミネソタはなぜ結びついたか」お教えを乞う。

3番

コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 美人です皆さん卵を 食べなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩までコッコッコッコッ コケッコ

序に卵の豆知泉 。

国民1人当たりもっとも卵を食べるのはイスラエル人。

ちなみに日本人が1年間に食べる卵の量は313個平均。1週間に6個食べている計算になる。

東京ではLサイズ・Mサイズがよく売れる。名古屋では小さめのMサイズとMSサイズがよく売れる。大阪では圧倒的にLサイズがよく売れる。

日本以外では、生卵をそのまま食べるということはあまりしない。


生卵をごはんに掛けて食べた元祖は東京日日新聞(毎日新聞)編集長の岸田吟行。円筒状の容器を持歩き、そこに卵を割り入れシェイクした物を、洋皿に盛ったライスにかけて食べた。つまり明治10年頃に日本で考案された洋食の一種だった。

目玉焼きで白身は65℃ぐらいで固まり始まり、黄身は70℃でゲル状、73℃で半熟になる。

卵の黄身の色が濃いと栄養価がありそうな気がするが、それは間違い。与えるエサによっていくらでも濃い色を出すことができる。

卵の丸い方に針で3ヶ所くらい穴をあけてゆでると、不思議な事に黄身は真ん中に落ち着く。

卵は尖った方を下にしておくと長持ちする。

ニワトリの卵には殻が白いものと赤いものがある。一般的には白が普通で、赤い卵は栄養素が多く含まれていると思われているが、実際は両者に差はない。この色の差はニワトリの品種の違いが原因。

産卵用のニワトリとして知られている白色レグホンが産むのは白い卵。それに対して赤い卵を産むのはハーバードコメットを始めとしていくつか種類がいる。

実はそれ以外にアローカナと言うニワトリは青い卵を産む。この色付の卵を産む理由は、野生だったニワトリが外的から卵を守るためのカモフラージュだったと言われている。

ファイト一発!? それは江戸時代からあった商売ですが、江戸時代に玉子売りが出現するのは多くは吉原などの遊郭でした。

と言うのも、卵は精力増強に役に立つ、それも即効性があると信じられていた為に、遊郭で頑張るぞ!?と言う人々が買い求めたのです。当時の川柳などを見ても、奥さんが旦那にむりやり生卵を飲ませると言う話がいくつか残されています。《玉子割って飲ます女房の下心》《もう一つお吸いねぇと生玉子》

2つ目の川柳などは1つでは足りず、2つ飲ませればいつもの倍の働きをするのではないか?と言う女房のたくらみが描かれていたりするのです。

この「生卵=即効性の精力増強」と言う考えは江戸時代の中期に出てきた俗説で、現代でも信じている人も多いものです。しかし実際に医学的に考えると、そのような即効性の精力増強剤としての効能はほとんどありません。

温泉卵

白身が半熟、黄身が固まっている温泉卵を作るのは意外に簡単。白身は70度で固まり、黄身は60度で固まる性質を持っているので、65度程度のお湯に漬けておけば簡単に作れます。

酒を飲む前の生卵

酒を飲む前に生卵を飲んでおくと酔いの回りが遅くなります。

これは卵の黄身に多量の脂肪分が含まれている為で、胃の中で脂肪に解けたアルコールは吸収されにくくなる為です。

鳥の卵は、もともとは白くてまん丸だった物が、次第に現在のような「卵形」と呼ばれる形に変わったものといわれます。これは親鳥が卵を抱いて温める際、誤って転がしても、そのまま転がっていかずに卵は軸を中心に回転して、自然に元の位置に戻ってくるようになっていると言うのです。同じ鳥でも、その産卵条件によって形が違って来ます。

ウミガラス?やペンギンなどのように、断崖や岩の上に産卵する種類の鳥ほど、その卵の一方の端がとがり、反対にフクロウなどの卵は木の穴に産卵する鳥は、落とす心配がなく球形だといわれています。

この地球上でもっともたくさんの卵を産むのは、魚のマンボウ。1度の産卵で3億程の卵を産むが、もともと体の弱い魚で、成魚になるのはその中で2、3匹と言う少ない数なので、海がマンボウで埋まるという事はない。和泉Wikiによる。


2013年04月14日

◆下駄屋の内儀歌手「音丸」

渡部 亮次郎


私は福島県の独学作曲家古関裕而(こせき ゆうじ)こそは天才だと思っている。独学で作曲家となり、遂に東京オリンピックの入場行進曲を作るまでの実績を残し、80歳で逝去した。

2009年はその古関の生誕100年で、郷里では記念に様々な催しが行われたが、はじめに古関を流行歌の作曲家として世間に認めさせたのが、下駄屋の内儀から歌手になった「音丸」である。古関の作曲した「船頭可愛いや」を大ヒットさせた。

1935(昭和10)年、裕而26歳の時。世界の舞台でも活躍した三浦環(みうら たまき)がレコードに吹込んだ。古関は大満足だったが、コロムビアのディレクターのアイディアで、改めて音丸を起用。結果は音丸ものが大ヒットとなり、古関をも売り出すこととなった。

とはいうものの昭和11年生まれの筆者は実物にお目にかかったことがない。テレビ時代になったときは音丸は既に第一線を退いていたらしく映像も見ていない。ただし手許にあるたった1枚のCDはステレオである。

音丸の持ち歌の中でも、「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」の3曲は特に有名で、「船もの」と呼ばれており、音丸の死後も広く親しまれている。(NHKラジオ深夜便 07年9月3日)

また「満洲想えば」「満洲吹雪」「君は満洲」などの満洲ものも彼女のレパートリーとして知られている。

他にも、「米山三里」「潮来追分」などの民謡調の歌も多く、これらの歌では音丸の巧みな節回しや美しい高音が最大限に生かされており、また彼女自身が民謡調の歌を非常に好んでいたために、音丸の本領発揮といった感がある。

明治39(1906)年12月8日東京市麻布箪笥町にあった老舗の履物屋の一人娘として生まれた。

常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。

17歳のときには春日派の小唄を始めている。しかし、25歳のときに大変可愛がっていた弟が亡くなり重いノイローゼになる。

その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。

そこでその民謡の会に出席して披露した彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され本名で「草津湯もみ唄」を吹き込んだ。

そのレコードを聴いた古賀政男は当時重役をしていたテイチクに誘い「泪の京人形」を吹き込ませた。

ちょうどその頃、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが、芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかった。

そこで、苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性を探していたところ、下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立った。

その後、昭和9(1934)年9月から正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューした。

芸名を音丸としたのは同年に吹き込んだ「君は満洲」からである。音丸の芸名の由来は「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。

コロムビアでは当初家庭の主婦からレコード界入りしたことを隠していたが、音丸本人がファンに「下駄屋の姉御!」と声をかけられても「よくご存知」と返すなど腹の据わったところを見せたという。

翌昭和10(1935)年には「船頭可愛や」が大ヒットした。この曲は沖縄民謡の普久原恒勇が「日本最高の歌謡曲」と絶賛している。

続いて昭和11(1936)年には「下田夜曲」、「博多夜船」が大ヒットし小唄勝太郎や市丸などの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。

また「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満州に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの。

13年の「皇国の母」は、戦地へ出征する兵士を乗せた船が出る港でスピーカーで流していたところ、泣く者が余りに多かったので中止されたという逸話がある。

次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり生活も派手となり家業の下駄屋は人手に委ね下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し音丸は歌一筋の道を歩み始める。

その後弁士の井口静波と再婚し二人は二枚看板で全国を慰問、興業に歩いた。

戦後も全国巡業が続き昭和22(1947)年には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。

昭和23(1948)年にはキングレコードに移籍、同年に人吉を訪れた際に「五木の子守唄」を見つけ出し初めて同曲をレコーディングする。後に人吉市長から感謝状を受けている。しかしヒットは出せずその後コロムビアに復籍した。

コロムビアに戻った音丸はその後懐メロブームに乗って東京12チャンネルのなつかしの歌声に番組出演をしたり昭和47(1972)年にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込みオールドファンを喜ばせたが、この頃から急に視力が低下、活動に支障をきたし始める。

昭和51(1976)年1月18日午後12時30分に世田谷区世田谷のマンションで急性心不全により死去。享年70。

墓は東京都品川区にある天妙国寺にあり、墓の横には舟の帆をかたどった碑がある。 この碑は音丸の生前に作られ、「船頭可愛や」の一番の歌詞が音丸の直筆によって彫られている。本名永井満津子。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「誰か昭和
を想わざる」
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer02.htm


2013年04月12日

◆さようなら岡本敦郎さん

渡部 亮次郎


歌手の岡本敦郎(おかもと あつを)さんが2012年12月28日に88才で亡くなり、わが青春を偲ぶよすがを失った気がして、あわてて録音を聴いている。

小樽市出身。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。日本コロムビア所属。本名 尾加一夫  出生 1924年12月25日

1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲であった。

応募した森まさるはペンネームで、本名は森勝治、参議院議員(日本社会党)をされた人。全逓幹部を経て政治家になった。私がNHKで参議院を担当したころ森さん自ら「朝は何処から」の作詞者だと名乗った。

さいたま市太田窪在住でしたが、その後86歳で亡くなられた。「お早よう、今日 は、今晩は」の3つの言葉のあいさつは、楽しい明るい家庭から生まれて来る。

「朝はどこから」は明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲である。抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを皮切りに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。

「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった。私はこのころが高校生で「チャペルの鐘」はNHKのど自慢に出て唄った。鐘3つ。

チャペルの鐘

作詞:和田隆夫、作曲:八洲秀章、唄:岡本敦郎

1 懐かしのアカシアの小径(こみち)は
  白いチャペルにつづく道
  若き愁い 胸に秘めて
  アベマリア 夕陽に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

2 嫁ぎゆくあの人と眺めた
  白いチャペルの丘の雲
  あわき想い 風に流れ
  アベマリア 静かに歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

3 忘られぬ思い出の小径よ
  白いチャペルにつづく道
  若きなやみ 星に告げて
  アベマリア 涙に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

《蛇足》 昭和27年(1952)にNHKラジオ歌謡として放送された。

八洲(やしま)秀章の端正なメロディを岡本敦郎が端正に歌った。

惹かれあっていることがお互いにわかっているのに、打ち明けることができないまま別れてしまう若い男女の心が詠われています。最近はどうも、こうした繊細な恋のかたちを理解できない人が増えているようで……。(二木紘三)

その後も岡本さんは「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡(NHK)を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

NHK紅白歌合戦に7回出場した。

舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹込みを想定して作られたものである。また歌手業の傍ら、音楽教師としても活躍。1980年から84年には日本歌手協会の理事長を務めた。

1995年には戦後50年及び自身のコロムビア専属50年を記念し、同じく専属50年の並木路子・池真理子(いずれも故人)と共に新曲を発売し、日比谷公会堂でジョイントコンサートを行った。

80歳を超えても「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ出演。2007年9月18日に脳梗塞のため入院するも早期発見が幸いして投薬治療で回復。

翌2008年1月21日放送の「ラジオ深夜便」で仕事復帰した。2010年頃からは心臓の不調もあり仕事から遠ざかっていたが、2012年8月10日放映の「懐かしの昭和メロディ」(テレビ東京)へ出演。約2年半ぶりのテレビ出演となったが、これが生涯最後の仕事となった。

2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。

2012年12月28日、脳梗塞のため東京都内の病院で死去。88歳没。

代表曲

朝はどこから(1946年)共唱:安西愛子
街の艶歌師(1948年)
ビルの窓から(1949年)

白い花の咲く頃(1950年)
あじさいの唄(1950年)共唱:山田陽子
さよならマルセーユ(1951年)

リラの花咲く頃(1951年)
美しい乙女(1951年)
青いガス燈(1951年)

時計台の鐘(1951年)
まぼろし慕いて(1952年)
草笛の唄(1953年)

チャペルの鐘(1953年)
みどりの馬車(1953年)
花のいのちは(1953年)共唱:岸恵子

高原列車は行く(1954年)
もぐらこおろぎ(1954年)共唱:伴久美子
ピレネエの山の男(1955年)

秋の匂い(1955年)共唱:伴久美子
秋の子(1955年)共唱:伴久美子
みおつくしの鐘(955年)

自転車旅行(1955年)
ここは静かなり(1955年)共唱:湯川きよ美
登山電車で(1957年)

人工衛星空を飛ぶ(1957年)
今日の日はさようなら(1974年)
小諸なる古城のほとり(1977年)

元気で行こうよ仲間たち(1997年)
狐の花嫁(1997年)
四谷大塚進学教室の歌(カセットテープ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                2013・4・10


2013年04月07日

◆ASEAN外相会議へ初参加のころ

渡部 亮次郎


1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。

しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

35年も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊のメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマン」という情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と断じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

そこで、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍への恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意を渋々呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。コーン・パイプを咥えながら。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。(再掲)