2015年10月23日

◆次の大物失脚が近いか、大事件発生か

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)10月22日(木曜日)通算第4694号 >

 
〜王岐山、じつに24日間の雲隠れ
  次の大物失脚が近いか、大事件発生か〜


中国共産党政治局常務委員の王岐山といえば、泣く子も黙る中国版の長谷川平蔵。

ばったばったと腐敗幹部を摘発し、拘束し、逮捕、起訴に踏み切り、これまでの失脚幹部は数えきれず、石油派、鉄道閥、通信閥、そして電力閥をかたづけ、ついには「大虎」に手を出す寸前とまでいわれた。

ところが9月3日の軍事パレードに江沢民、曽慶紅、李鵬らが雛壇に立つたので、大虎対峙はこれまでと手打ちが言われた。

また天津大爆発以来、権力闘争も新局面に入ったようで、マスコミ種となる摘発はない。

そもそも王岐山がおおやけの場に現れなくなって、すでに24日間も経つのである。

トップセブンのトップ、習近平は訪米、訪英と重ね、李克強首相は北京のハイテク特区中関村に現れ、張徳江は月末に詳細を審議するAIIB会議準備に余念が無く、愈正声は民主諸党派との調整に忙しい。

劉雲山は北朝鮮訪問、張高麗は一帯一路の具体的討議の場に現れるなど、六人は毎日のようにマスコミに登場している。

なのに王岐山だけが、「所在不明」なのである。
 
とはいえ、彼の神出鬼没は、これまでも数回あり、7月には20日間あまりも所在不明だった。

3月には河南省に現れ、いずれもが省長クラスの失脚に繋がり、先に大物だった郭伯雄の拘束へと連動した。したがって、今回の雲隠れも、相当深く潜り込んでの捜査網の中枢にいるものと推測されてはいる。
   

2015年10月21日

◆「わが祖国」を聴きながら

渡部 亮次郎



高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジオ深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベートーヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌やフォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の風物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にある会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭のオープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧場と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴けば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、この出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの大きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の栄枯盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻まれている。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまでの様子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気持ちが現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に登場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を決意した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺しにする、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい風景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった民族的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の名である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを描いている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用いられているが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の山地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守護聖人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼らがよみがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、という内容である。

ベドジフ(またはベドルジハ、ベトルジヒ)・スメタナ(Friedrich)Smetana, 1824年3月2日― 1884年5月12日)

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリトミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。のち1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を終えた。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)
『売られた花嫁』(1863)
『ダリボル』(1867)
『リブシェ』(1872)
『二人のやもめ』(1874)
『口づけ』(1876)
『秘密』(1878)
『悪魔の壁』(1882)
『ヴィオラ』(未完)

管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853)
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62)
連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)
プラハの謝肉祭

室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880)

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして発売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14

2015年10月19日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部 亮次郎



オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。従業員の賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。

2015年10月18日

◆拒否された通産からの首相秘書官

渡部 亮次郎



1976年、この年12月24日に福田赳夫内閣(自民党)が成立し、官房長官に園田直(そのだ すなお)氏が就任した。

内閣総理大臣 - 福田赳夫

法務大臣 - 福田一(- 1977年10月4日)/瀬戸山三男(1977年10月5日 -)
外務大臣 - 鳩山威一郎
大蔵大臣 - 坊秀男
文部大臣 - 海部俊樹

厚生大臣 - 渡辺美智雄
農林大臣 - 鈴木善幸
通商産業大臣 - 田中龍夫
運輸大臣 - 田村元
郵政大臣 - 小宮山重四郎

労働大臣 - 石田博英
建設大臣 - 長谷川四郎
自治大臣、国家公安委員会委員長、北海道開発庁長官 - 小川平二
内閣官房長官 - 園田直
総理府総務長官、沖縄開発庁長官 - 藤田正明

行政管理庁長官 - 西村英一
防衛庁長官 - 三原朝雄
経済企画庁長官 - 倉成正
科学技術庁長官 - 宇野宗佑
環境庁長官 - 石原慎太郎

国土庁長官 - 田沢吉郎
内閣法制局長官 - 真田秀夫
内閣官房副長官(政務) - 塩川正十郎
内閣官房副長官(事務)- 道正邦彦
総理府総務副長官(政務) - 村田敬次郎
総理府総務副長官(事務)- 秋山進(「ウィキペディア」

官房副長官は塩川正十郎氏だった。そこへ密かに大問題が発生した。各省から出向してくる総理大臣秘書官のうち、通産省からの人物を他の秘書官たちが拒否して秘書官室への入室を断ったのである。

もともと佐藤栄作内閣までは、通産からの秘書官は無かったのだが、次の首相田中角栄氏は、通産大臣時代の秘書官をそのまま首相秘書官に起用した。かねて首相秘書官を派遣したがっていた通産省は喜び、続く三木内閣にも当然の如く送った。

だから福田内閣にも当然、送ってきたのだが、今度はなぜかすんなりとは行かない。秘書官たちが意地悪したのは、首相自身が、通産からの秘書官を不要と考えていたからではないか、と今では推測する。

しかし、既にその人物を総理秘書官として出向を発令してしまった通産省としては、いまさら取り消すわけにはいかない。そこで園田官房長官に事務次官がとりなしを依頼してきた。

ここから先が特攻隊生き残りの直さんらしい解決策である。首相には黙って、首相官邸内の官房長官室に机を入れさせ、そこに問題の人物を坐らせたのである。内閣記者会にたちまち知れ渡り、危く記事にされそうになった。

かくて他の首相秘書官たちが音をあげ、当該人物を秘書官室に引き入れざるを得なくなった。問題は音も無く起き、音も無く解決したのである。

その1年後、内閣改造で園田氏はただ一人留任し、外務大臣に横滑りした。つまり総理官邸を去った。私はここから彼の秘書官となり、1年前のことの次第を知る。通産省のOBから「園田さんに財界から後援会を作って差し上げたい、と言っている。ついては秘書官、打ち合わせに来てください」。

一旦は着任を拒否されたあの首相秘書官が、奔走して財界を説得。「恩返し」を工作していたのである。間もなく日本商工会議所会頭の永野重雄氏を会長とする大規模な園田後援会が発足。住まいが借家、貧乏政治家に初めて財界の後援会ができたのであった。

余談だが、当時、永野さんの政界関係の日程を管理していたのはY社の広告局長。現在某民放の実力会長である。これはどうなっているのだ、と未熟な頭は仰天した。NHKではこんなスケールの記者は育たない。

それから1年後、福田首相は「天の声にも、たまには変な声がある」と言う有名な科白を残して官邸を去った。後継首相は幹事長だった大平正芳氏。園田氏はこの内閣にも外務大臣に指名された。

通産省からのあの人物は内閣が変わったので本省に戻った。やがて省内の頂点である事務次官になった。官邸を「追放」された福田氏は派閥を上げて大平内閣を妨害し、大平氏は遂に急死する。

「社長はポストを譲って会長になり、社長を助けていれば、再び社長にと言うこともある」と福田氏に聞えるように批判していたが、社長を助けるどころか死地に追いやってしまっては返り咲きの余地はなかった。

大平氏を見送った足で目白の田中邸を訪れた園田氏は「後継は鈴木善幸」で合意した。ゼンコウWhoと揶揄された鈴木内閣登場の舞台裏である。

2015年10月17日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎



中国にいる日本の特派員は誰といわず「真実」を取材する自由がない。知ったことを 自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、 二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特 派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない

(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。『ウィキペディア』

2015年10月16日

◆「味の素」発明は108年前

渡部 亮次郎



「味の素」に特許権が降りたのは108年前の7月25日だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の十大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から108年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。
<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れている。>世界大百科事典  

2015年10月10日

◆ジャガイモの不作

渡部 亮次郎



2009年、日本の夏は日照不足だったため、各地からジャガイモの不作が伝えられ、3割以上の値上がりが報じられている。この芋はすでに麦、トウモロコシ、コメについで世界4番目の「主食」の地位を確保している。

日本人が敗戦直後の食糧難に頼った芋はジャガイモではなく、薩摩芋だった。生産の都合でああなったのだろうか。いまでも薩摩芋は好物ではない。ジャガイモが好物だ。

ジャガイモは南米ペルー南部に位置するチチカカ湖の畔が発祥とされ、現在、世界中で広く普及するに至った。

国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計資料 (FAOSTAT)によると、2005年の全世界におけるジャガイモの生産量は3億2310万トンであり、主食となるイモ類では最も生産量が多い。

生産地域は大陸別ではアジアとヨーロッパが4割ずつを占め、インドを除くといずれも中緯度から高緯度北部に分布する。上位5カ国で全生産量の54%を占める。日本の生産量は275万トン(世界シェアはわずか0.85%)。

1.中国 7346万トン(22.7%)
2.ロシア 3728万トン(11.5%)
3.インド 2363万トン(7.3%)
4.ウクライナ 1946万トン(6.0%)
5.アメリカ合衆国 1909万トン(5.9%)
6.ドイツ 1162万トン(3.6%)
7.ポーランド 1037万トン(3.2%)
8.ベラルーシ 819万トン(2.5%)
9.オランダ 678万トン(2.1%)
10.フランス 668万トン(2.1%)

このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシだとされていたが、複数の研究の結果、食基盤はジャガイモであったことが分かった。

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っていない。

スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士達によってもたらされたものであろうと推測されている。

さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない。

いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが登場するのはさらに時を待たねばならない。

さらにジャガイモは18世紀にはアイルランド移民の手によりアメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源と
なった。

このように、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから鳥害にも影響されないジャガイモは庶民の食料として爆発的な普及を見せた。

アダム・スミスは『国富論』において「小麦の3倍の生産量がある」と評価しており、瞬く間に麦、米、トウモロコシに並ぶ「世界4大作物」としてその地位を確立した。

栽培にはpH6前後の酸性の土地が適している。また冷涼な気候や硬く痩せた土地にも強い。その反面、病害や虫の被害を受けやすく 連作障害も発生しやすい。

ジャガイモの地下茎は水分と栄養が豊富なため雑菌が繁殖しやすく、保存状態の悪い種芋や、収穫から漏れて地中へ残された芋は病害の原因となる。そのため、日本では植物防疫法の指定種苗となっており、種芋の売買が規制されている。

ジャガイモは連作障害が発生しやすい。連作を行うと土壌のバランスが崩れ単純に生育が悪くなるだけでなく、病害や寄生虫が発生しやすくなる。

特にジャガイモに大きな被害を与える原因として、ジャガイモシストセンチュウによる生育阻害がある。このセンチュウは地中で増殖し高密度になるとジャガイモの生育を大きく妨げる。

2015年10月05日

◆サッチャーは禁煙の恩人

渡部 亮次郎



イギリス初の女性首相にマーガレット・サッチャー(Margaret HildThatcher)が就任したのは1979(昭和54)年の5月4日。私はその半月後にダウニング街の官邸でお会いしてタバコを止めた。

表敬訪問する園田直外務大臣に秘書官として随行したもので、確か5月21日(月)午後5時15分(イギリス時間)頃から僅か35分間の表敬訪問だった。

園田大臣に警護のため同行したのは警視庁の亀高忠輝警部だった。2階への階段を昇りながら、壁に隙間の無いぐらい絵画が飾られていた事とあわせて妙に記憶が明確だ。

首相面会の直前、同じ官邸内の蔵相室で会談したハウ蔵相は驚くほどのヘビースモーカーだった。園田さんも私も一緒になって喫煙するものだから煙は相手が見えなくなるぐらい立ち込めた。

ハウ蔵相はサッチャー首相との会談にも同席してくれた。首相は立ち上がり「日出ずる国の賓客は窓際へ」と園田外相を案内。

私もその脇に座って「煙草を喫ってもいいですか」と訊いたら「どうぞ」との答え。持っていたロングピースを喫い始めたが、灰皿が出てこない。消すのに苦労した。

後で分かったのだが、サッチャーさんは何が嫌いと言って煙草が嫌い。そういえば、さすがのハウ・ヘビー・スモーカーもあそこでは非喫煙者みたいに振舞っていたっけ。

私は馬鹿にされた気がして、それっきり喫煙を止めた。もう30年を越した。やめた直後は禁煙に失敗した夢まで見たが、もう見ない。

サッチャーはその後日本にもお出でになった。皇居を表敬訪問した際、大広間の広い壁に絵が1点しか飾られてないのを見て「少なくて寂しい。もっと沢山飾らなければいけない」といった。

「大きなお世話だ」、と心の中で毒づいた。「これがわび、さびというものですよ。分からなきゃ仕方ないね」

マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - 2013年4月8日)

女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年―1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。尊敬する政治家は同国のウィンストン・チャーチル元首相である。

1979年の総選挙で、イギリス経済の復活と小さな政府の実現を公約として保守党を勝利に導いた党首だったので女性として初めてイギリス首相に就任した。

新自由主義の立場に基づき、電話会社(1984年)やガス会社(1986年)、空港(1986年)、航空会社(1987年)、水道事業(1990年)などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。

また、改革の障害となっていた労働組合の影響力を取り除く政策を多く打ち出した。さらに、所得税は25%〜80%の11段階から、25%と40%の2段階へ、法人税は50%から35%へ、それぞれ段階的に大きく引き下げられた。

一方で、付加価値税(消費税)は、8%から15%まで大胆に引き上げられた(1979年)。

300万人を数えるまでとなる失業者はその後も1986年半ばまで減少に転じることはなかったため、小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じた。

その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンらはサッチャーの変節を攻撃したが、総じてイギリス国民には受け入れられ、総選挙で連勝を重ね、任期を延ばしていく。

だが、人頭税(community charge)の導入を巡って国民的な反対運動が起こり、最後は辞職に追い込まれた(1990年)。

この時期、日本においても、1982年に誕生した中曽根内閣によって、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。

この間1982年には、南大西洋のフォークランド諸島においてフォークランド戦争に勝った事により経済の低迷から支持低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りはしないのです!」と力強く宣言、支持率は驚異の73%を記録する。

彼女はこれで2度目の総選挙にも勝利し、より保守的でラディカルな経済改革を断行していく。

3回の総選挙で勝利したサッチャーであったが、任期の終盤では人頭税の導入により世論の反発を招き、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したことから、財界からも欧州統合に乗り遅れる危機感が出て与党内にも批判が広まっていた。

1990年11月20日の保守党党首選挙で、1回目の投票で過半数の票を獲得したものの、2位との得票差を15%以上にすることができず、規定により第2回投票に持ち込まれたことで、求心力の低下にさらに拍車がかかり、11月22日に辞任を表明した。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年10月03日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから79年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定はは、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
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2015年10月02日

◆「死んで堪るか」の真実

渡部 亮次郎



河野 一郎(こうの いちろう、明治31(1898)年6月2日 - 昭和40(1965)年7月8日)は、昭和時代の政治家。自由民主党の実力者。従2位勲1等旭日桐花大綬章。国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。しかし河野自身は内山県知事を「天皇」と呼んで対抗していた.

参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長をつとめた河野洋平(引退)は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。

大正12(1923)年早稲田大学を卒業。在学中は箱根駅伝の選手。謙三の方が早かったらしい。朝日新聞社に入社。

昭和6(1931)年犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7(1932)年2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選する。当選後は、立憲政友会に所属した。

鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17(1942)年の翼賛選挙では、非推薦で当選した。

終戦後、昭和20(1945)年11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21(1946)年5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。

組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。弟謙三が身代わりとなって地盤を守った。

昭和26(1951)年8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。

昭和27(1952)年9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。

昭和28(1953)年3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。

11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31(1956)年日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印にこぎつけた。

この時、アルコールを一滴も受け付けない体質なのに、フルシチョフとのやり取りの経緯上、テーブルのウオトカを一気呑み。「部屋へ帰ってから水風呂に入ったり色々したがどうにもならない。あの時は死ぬかと思った」と後年、語っていた。

鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。昭和32(1957)年の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣では党総務会長に就任。

しかし、昭和34(1959)年6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。岸は死ぬまで河野を怨んでいた。

岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。

一時、河野新党(いわゆる第2保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念する。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36(1961)年7月の内閣改造で農林大臣として入閣。

昭和37(1962)年7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の1人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。

この時の前後が私が担当記者となる。NHKでは誰もが恐ろしくて担当したくないというので、新人の私に大役がいきなり回ってきたのだ。昭和40(1965)年6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否した。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

「死にはしないよ」を「死んでたまるか」とNHKニュースで流した犯人は誰あろう、私である。歴史を曲げた。ここに謝罪し、訂正します。

この夜、枕元で無邪気に遊んでいたのが河野太郎と妹の2人で、「心配ないから、子供たちを寝かしなさい、死にはしないから」と言うものだったが、翌日の夜には、あっさり、死んでしまった。

倒れる前日、つまり1965年7月6日の夕方、私は河野さんと単独会見をした。夕方、麻布台の河野事務所を訪ねると、大広間で転寝をしていた。口から涎を垂らし、いうなれば、ダンディらしくないイギたなさであった。

ダンディーぶりはただ事ではなかった。ハリュッドで会ったデボラ・カーに握手を求められた時、差し出した自分の手の爪は汚れていて恥かしかった、と爾来、服装に気を遣い、マニキュアまでするようになっていた。ノー・ネクタイの記者には会わなかった。

参議院選挙の疲れかな。29歳の私はその程度にしか感じられなかった。しかしそれが命取り「腹部大動脈瘤破裂」の前兆だったとは。

隣のビルは建設大臣当時は、建設省分室だったが、その頃は河野さんの私物になっていた。ところが、誰をも入れなかった。それなのに、その日は私を4階の自室まで連れて行った。

そこは畳敷きの和室だった。「ここに入る他人はキミが初めてだよ」と言いながら、「近く中曽根(康弘)クンを派から除名しようと思うんだ」という爆弾発言をした。

河野派4天王の1人を除名するとは穏やかではない.しかし、こういうとき、質問してはいけない。「奴はね、ベトナム戦争の見学と称して川島クンに従いて行きたいというんだよ」

川島正次郎は池田勇人が喉頭癌で政権を投げ出した時、河野の願望を差し置いて後継者にあっさり佐藤栄作を据えた張本の副総裁である。河野さんは許せなかったのだ。

「ボクはこれからデートだ。明日は平塚の(有名な)七夕(たなばた)だからね。参議院選挙の当選祝いを平塚の自宅でするからね、キミも是非来たまえ」と言って別れた。デートの相手は?言わない。

ところが翌朝、腹痛で倒れ、藤尾正行代議士のはからいで日本中の名医が枕元に集まった。腹部大動脈瘤破裂。当時の医学としては手の「施しようの無い」病気だった。翌8日午後7時55分「お隠れになりました」と日本医師会会長にして主治医の武見太郎が発表した。

私はその30分前に、既に死亡原稿を全国に放送していた。枕元に集まった側近たちがお題目を唱え始めたのを「死」と早合点したのである。河野さんの命日のたびに反省とともに思い出すが早合点の癖は未だに治らない。

「河野派から中曽根除名」のニュースは遂に流れなかった。中曽根は「河野精神を体して」とか何とか我田引水の主張を繰り返してとうとう中曽根派の結成に成功し、総理総裁の地位を獲得したことご承知の通り。私はこういう人生は嫌いだ。

なお、腹部大動脈破裂は弟の謙三も奇しくも患うが、医学は進歩していたので、何事も無く助かった。

2015年10月01日

◆哀れ 唐人お吉

渡部 亮次郎



若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別され、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。 

2015年09月30日

◆トウ小平 3度の失脚と復活

渡部 亮次郎



ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(ケ)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたケ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、しかも外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 
(執筆:2007・06・22)再掲

2015年09月26日

◆青年の幼稚化

寺本 孝一



青年の幼稚化現象を非常に危惧しています。 

来日外国人は「日本の大学生の精神年齢は10才の小学生だ」と揶揄します。また、評論家でもある立花隆・東大客員教授は「東大生は驚くほど無知であり、驚くほど幼稚であることが判った」と著書で公表しました。さらに、名古屋大学学長は入学式に際し「諸君の内面に巣食っているであろうその幼稚性を精算せよ」と檄を飛ばしました。

大学という最高学府に通う学生がことごとく幼稚であるという深刻な状況です。

その原因として先ずは中学高校の教育現場を視なければなりません。甲子園高校野球の勝利監督が「子どもたちが頑張った」と答えたりしますが、選手たち或いは生徒たちと言うべきではないでしょうか。実際に、中学校現場でも多くの教師が 「子どもたち」などと表現しています。

中学生ともなればほとんど妊娠し、妊娠させる能力があり、身体はすでに大人となっています。中学を卒業して就職すれば一人の立派な社会人です。

高校に進学して4月から順次16才になる女子生徒は結婚することができます。男子も3年生で18才になれば結婚できます。結婚すれば世帯主として主婦として、子どもが生まれれば父親として母親として、あるいは夫婦として高校に通学することもあり得ます。

それらの年代の青年たちを何故に「子どもたち」などと言うことが出来るのでしょうか。

「所詮子どもは未熟なのだから、大人である教師の言うことに黙って従え」という、生徒を見下し従属させる管理上のご都合からきているようです。

日本の評論家はテレビ番組の中で通学監獄と表現しました。また、イギリスの新聞は報道しました「日本の学校は捕虜収容所だ」と。

カナダから愛知県に来ている大学教授は中日新聞に寄稿しました。「欧米の中学高校生であればとっくに革命を起こしている」と。

あるテレビ番組で愛知県教育長は横に座った塾講師から罵倒されました。
「子どもたちをロボットにしたあなたは犯罪者だ」と。

名古屋でのシンポジウムである母親は叫びました「教育詐欺だ」と。 私は愛知県教育委員会に直接言いました。「生徒たちの個性を殺し、感性を潰し、人格を破壊する。あなた方のやっていることは大量殺人行為だ」と。先方は即答しました、「あなたが言うことは全部その通りだ」と。

NHK総合テレビの教育特集番組でオーストラリアのある公立中学の唯一の校則を紹介していました。「すべての生徒は学校をエンジョイする権利がある」です。もちろん制服強制もありません。それでなぜいけないのでしょうか。大人にさせるには、生徒を先ず強制と禁止の檻から開放することです。

中学高校にいるのは、教師と生徒なのですから、教師は普通に「生徒たち」と言うべきであり、子ども呼ばわり、子ども扱いすることを直ちに止めていただきたい。

来年6月から選挙権が18歳になりますが、日本の近未来のあらゆること(経済・環境・食糧・エネルギー・中国の挑発)が危機的状況の中、国の将来を担う青年の幼稚化は極めて緊急な課題です。

          子どもの感性を育む会 代表 (名古屋市)

        

       

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