2013年04月23日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相について日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hardwater がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変えて定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。助けてくれた若い友人はその後、脳梗塞で急死した。何たる皮肉。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

2013年04月21日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎


「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから35年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったの
である。

あれから35年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。

(文中敬称略)2013・4・19


2013年04月20日

◆キャベツが大好物

渡部 亮次郎


野菜で何が好きかと聞かれたらキャベツと答えるが、実は生のキャベツを初めて食べたのは学生食堂であった。生まれた秋田の農村にもキャベツはもちろん生えてはいたが、多分回虫がいたから母はすべて煮るか炒めるか茹でて食べさしてくれた。

日本の野菜に回虫がなくなったのは昭和20年夏の敗戦からさらにしばらく経ってからの事だ。昭和29(1954)年の学食では生のキャベツが無料だったような気がする。

しかし、その頃はキャベツを生では食べられなかった。社会に出て生の野菜サラダを食べるようになって、レタスよりも生だったらキャベツのほうに味があるように思えて食べるようになった。しかし、幼少の頃食べたことの無かったソースは今も苦手。

例の向島(むこうじま)の洋食屋でハンバーグにキャベツを添えてもらうと家人やその兄姉たちのすべてが野菜を食べないから、4-5人分のキャベツが私のところに集中。それを私は醤油をちょっぴり掛けて平らげる。焼酎の肴もキャベツになる。

キャベツ料理としてほかに好きなものはロールキャベツとか油炒め。

キャベツ Cabbage 食用、飼料用として温帯地域でひろく栽培されている2年生のアブラナ科の野菜。普通のキャベツの他に類縁のものとしてメキャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、ケール、コールラビなどがある。

どれもヨーロッパ沿岸地域に自生する野生のキャベツから作り出されたものと見られる。

キャベツはフランス語で「大きな頭」という意味の「カボシュ」から来た名で、大きな葉が球状に密集し、茎が短く、さらに食用になる葉がある。

葉は種によって長楕円形、楕円形、ほぼ円形などがあり、大きさは約30cmで、色は緑、紫、赤などがある。チリメンキャベツのようにしわのあるものと、なめらかなものがある。世界の各地域でいろいろな品種が栽培されている。

日本へは、江戸時代に結球しないキャベツが入って来ているが、結球キャベツが導入されたのは1868年(明治元)で、北海道、東北、東京で栽培が始まった。明治末期以降、日本独自の品種がつくりだされ、西洋野菜の代表種となっている。

2013年04月17日

◆ミネソタの卵売り

渡部 亮次郎


昭和26(1951)年2月発売のレコードに「ミネソタの卵売り」という割に流行した歌謡曲があった。41歳の若さで死ぬ事になる暁テル子が元気に唄った。東京浅草生まれ。SSK(松竹少女歌劇団)出身。佐伯孝夫作詞、利根一郎作曲である。

「コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 人気者 つやつや生みたて 買わないか 卵に黄身と 白味がなけりゃ お代は要らないコッコッコッコッ コケッコ」(2番省略)

悪い事に後年、NHK記者から園田直外務大臣の秘書官になったとき、その「ミネソタ」に出張するよう用事ができた。米国ミネソタ州の「ミネアポリス」にあるミネソタ大学である。

そこで大学関係者に確かめてみたが、何方も???

ミネソタが卵の特産地と言う事は無いとの結論だった。その後、どこかで作詞の佐伯孝夫さんの家にミネソタからの客が来ているところへ卵売りが来たので、この唄ができたという放送を聞いたような気がする。

暇にあかせて本をひっくり返したり、インターネットを暫く逍遥してみたが、いまのところ「確証」はつかめない。「卵とミネソタはなぜ結びついたか」お教えを乞う。

3番

コッコッコッコッ コケッコ コッコッコッコッ コケッコ私はミネソタの 卵売り 町中で一番の 美人です皆さん卵を 食べなさい 美人になるよ いい声出るよ 朝から晩までコッコッコッコッ コケッコ

序に卵の豆知泉 。

国民1人当たりもっとも卵を食べるのはイスラエル人。

ちなみに日本人が1年間に食べる卵の量は313個平均。1週間に6個食べている計算になる。

東京ではLサイズ・Mサイズがよく売れる。名古屋では小さめのMサイズとMSサイズがよく売れる。大阪では圧倒的にLサイズがよく売れる。

日本以外では、生卵をそのまま食べるということはあまりしない。


生卵をごはんに掛けて食べた元祖は東京日日新聞(毎日新聞)編集長の岸田吟行。円筒状の容器を持歩き、そこに卵を割り入れシェイクした物を、洋皿に盛ったライスにかけて食べた。つまり明治10年頃に日本で考案された洋食の一種だった。

目玉焼きで白身は65℃ぐらいで固まり始まり、黄身は70℃でゲル状、73℃で半熟になる。

卵の黄身の色が濃いと栄養価がありそうな気がするが、それは間違い。与えるエサによっていくらでも濃い色を出すことができる。

卵の丸い方に針で3ヶ所くらい穴をあけてゆでると、不思議な事に黄身は真ん中に落ち着く。

卵は尖った方を下にしておくと長持ちする。

ニワトリの卵には殻が白いものと赤いものがある。一般的には白が普通で、赤い卵は栄養素が多く含まれていると思われているが、実際は両者に差はない。この色の差はニワトリの品種の違いが原因。

産卵用のニワトリとして知られている白色レグホンが産むのは白い卵。それに対して赤い卵を産むのはハーバードコメットを始めとしていくつか種類がいる。

実はそれ以外にアローカナと言うニワトリは青い卵を産む。この色付の卵を産む理由は、野生だったニワトリが外的から卵を守るためのカモフラージュだったと言われている。

ファイト一発!? それは江戸時代からあった商売ですが、江戸時代に玉子売りが出現するのは多くは吉原などの遊郭でした。

と言うのも、卵は精力増強に役に立つ、それも即効性があると信じられていた為に、遊郭で頑張るぞ!?と言う人々が買い求めたのです。当時の川柳などを見ても、奥さんが旦那にむりやり生卵を飲ませると言う話がいくつか残されています。《玉子割って飲ます女房の下心》《もう一つお吸いねぇと生玉子》

2つ目の川柳などは1つでは足りず、2つ飲ませればいつもの倍の働きをするのではないか?と言う女房のたくらみが描かれていたりするのです。

この「生卵=即効性の精力増強」と言う考えは江戸時代の中期に出てきた俗説で、現代でも信じている人も多いものです。しかし実際に医学的に考えると、そのような即効性の精力増強剤としての効能はほとんどありません。

温泉卵

白身が半熟、黄身が固まっている温泉卵を作るのは意外に簡単。白身は70度で固まり、黄身は60度で固まる性質を持っているので、65度程度のお湯に漬けておけば簡単に作れます。

酒を飲む前の生卵

酒を飲む前に生卵を飲んでおくと酔いの回りが遅くなります。

これは卵の黄身に多量の脂肪分が含まれている為で、胃の中で脂肪に解けたアルコールは吸収されにくくなる為です。

鳥の卵は、もともとは白くてまん丸だった物が、次第に現在のような「卵形」と呼ばれる形に変わったものといわれます。これは親鳥が卵を抱いて温める際、誤って転がしても、そのまま転がっていかずに卵は軸を中心に回転して、自然に元の位置に戻ってくるようになっていると言うのです。同じ鳥でも、その産卵条件によって形が違って来ます。

ウミガラス?やペンギンなどのように、断崖や岩の上に産卵する種類の鳥ほど、その卵の一方の端がとがり、反対にフクロウなどの卵は木の穴に産卵する鳥は、落とす心配がなく球形だといわれています。

この地球上でもっともたくさんの卵を産むのは、魚のマンボウ。1度の産卵で3億程の卵を産むが、もともと体の弱い魚で、成魚になるのはその中で2、3匹と言う少ない数なので、海がマンボウで埋まるという事はない。和泉Wikiによる。


2013年04月14日

◆下駄屋の内儀歌手「音丸」

渡部 亮次郎


私は福島県の独学作曲家古関裕而(こせき ゆうじ)こそは天才だと思っている。独学で作曲家となり、遂に東京オリンピックの入場行進曲を作るまでの実績を残し、80歳で逝去した。

2009年はその古関の生誕100年で、郷里では記念に様々な催しが行われたが、はじめに古関を流行歌の作曲家として世間に認めさせたのが、下駄屋の内儀から歌手になった「音丸」である。古関の作曲した「船頭可愛いや」を大ヒットさせた。

1935(昭和10)年、裕而26歳の時。世界の舞台でも活躍した三浦環(みうら たまき)がレコードに吹込んだ。古関は大満足だったが、コロムビアのディレクターのアイディアで、改めて音丸を起用。結果は音丸ものが大ヒットとなり、古関をも売り出すこととなった。

とはいうものの昭和11年生まれの筆者は実物にお目にかかったことがない。テレビ時代になったときは音丸は既に第一線を退いていたらしく映像も見ていない。ただし手許にあるたった1枚のCDはステレオである。

音丸の持ち歌の中でも、「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」の3曲は特に有名で、「船もの」と呼ばれており、音丸の死後も広く親しまれている。(NHKラジオ深夜便 07年9月3日)

また「満洲想えば」「満洲吹雪」「君は満洲」などの満洲ものも彼女のレパートリーとして知られている。

他にも、「米山三里」「潮来追分」などの民謡調の歌も多く、これらの歌では音丸の巧みな節回しや美しい高音が最大限に生かされており、また彼女自身が民謡調の歌を非常に好んでいたために、音丸の本領発揮といった感がある。

明治39(1906)年12月8日東京市麻布箪笥町にあった老舗の履物屋の一人娘として生まれた。

常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。

17歳のときには春日派の小唄を始めている。しかし、25歳のときに大変可愛がっていた弟が亡くなり重いノイローゼになる。

その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。

そこでその民謡の会に出席して披露した彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され本名で「草津湯もみ唄」を吹き込んだ。

そのレコードを聴いた古賀政男は当時重役をしていたテイチクに誘い「泪の京人形」を吹き込ませた。

ちょうどその頃、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが、芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかった。

そこで、苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性を探していたところ、下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立った。

その後、昭和9(1934)年9月から正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューした。

芸名を音丸としたのは同年に吹き込んだ「君は満洲」からである。音丸の芸名の由来は「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。

コロムビアでは当初家庭の主婦からレコード界入りしたことを隠していたが、音丸本人がファンに「下駄屋の姉御!」と声をかけられても「よくご存知」と返すなど腹の据わったところを見せたという。

翌昭和10(1935)年には「船頭可愛や」が大ヒットした。この曲は沖縄民謡の普久原恒勇が「日本最高の歌謡曲」と絶賛している。

続いて昭和11(1936)年には「下田夜曲」、「博多夜船」が大ヒットし小唄勝太郎や市丸などの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。

また「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満州に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの。

13年の「皇国の母」は、戦地へ出征する兵士を乗せた船が出る港でスピーカーで流していたところ、泣く者が余りに多かったので中止されたという逸話がある。

次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり生活も派手となり家業の下駄屋は人手に委ね下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し音丸は歌一筋の道を歩み始める。

その後弁士の井口静波と再婚し二人は二枚看板で全国を慰問、興業に歩いた。

戦後も全国巡業が続き昭和22(1947)年には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。

昭和23(1948)年にはキングレコードに移籍、同年に人吉を訪れた際に「五木の子守唄」を見つけ出し初めて同曲をレコーディングする。後に人吉市長から感謝状を受けている。しかしヒットは出せずその後コロムビアに復籍した。

コロムビアに戻った音丸はその後懐メロブームに乗って東京12チャンネルのなつかしの歌声に番組出演をしたり昭和47(1972)年にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込みオールドファンを喜ばせたが、この頃から急に視力が低下、活動に支障をきたし始める。

昭和51(1976)年1月18日午後12時30分に世田谷区世田谷のマンションで急性心不全により死去。享年70。

墓は東京都品川区にある天妙国寺にあり、墓の横には舟の帆をかたどった碑がある。 この碑は音丸の生前に作られ、「船頭可愛や」の一番の歌詞が音丸の直筆によって彫られている。本名永井満津子。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「誰か昭和
を想わざる」
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer02.htm


2013年04月12日

◆さようなら岡本敦郎さん

渡部 亮次郎


歌手の岡本敦郎(おかもと あつを)さんが2012年12月28日に88才で亡くなり、わが青春を偲ぶよすがを失った気がして、あわてて録音を聴いている。

小樽市出身。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。日本コロムビア所属。本名 尾加一夫  出生 1924年12月25日

1946年にラジオ歌謡のホームソング「朝はどこから」でデビューした。この曲は当時、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が企画した懸賞応募曲であった。

応募した森まさるはペンネームで、本名は森勝治、参議院議員(日本社会党)をされた人。全逓幹部を経て政治家になった。私がNHKで参議院を担当したころ森さん自ら「朝は何処から」の作詞者だと名乗った。

さいたま市太田窪在住でしたが、その後86歳で亡くなられた。「お早よう、今日 は、今晩は」の3つの言葉のあいさつは、楽しい明るい家庭から生まれて来る。

「朝はどこから」は明るいその曲調から、広く親しまれ愛唱された曲である。抜群の伸びのある美声と正統派の歌唱で、戦後の歌謡界で活躍した。1949年の「街の艶歌師」の小ヒットを皮切りに流行歌のヒットが増えて行った。ちなみにこの作曲は八洲秀章で岡本敦郎にしては珍しい演歌である。

「白い花の咲く頃」の大ヒットや「チャペルの鐘」「あこがれの郵便馬車」などのヒットを経て、1954年にリリースした「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった。私はこのころが高校生で「チャペルの鐘」はNHKのど自慢に出て唄った。鐘3つ。

チャペルの鐘

作詞:和田隆夫、作曲:八洲秀章、唄:岡本敦郎

1 懐かしのアカシアの小径(こみち)は
  白いチャペルにつづく道
  若き愁い 胸に秘めて
  アベマリア 夕陽に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

2 嫁ぎゆくあの人と眺めた
  白いチャペルの丘の雲
  あわき想い 風に流れ
  アベマリア 静かに歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

3 忘られぬ思い出の小径よ
  白いチャペルにつづく道
  若きなやみ 星に告げて
  アベマリア 涙に歌えば
  白いチャペルの ああ
  白いチャペルの鐘が鳴る

《蛇足》 昭和27年(1952)にNHKラジオ歌謡として放送された。

八洲(やしま)秀章の端正なメロディを岡本敦郎が端正に歌った。

惹かれあっていることがお互いにわかっているのに、打ち明けることができないまま別れてしまう若い男女の心が詠われています。最近はどうも、こうした繊細な恋のかたちを理解できない人が増えているようで……。(二木紘三)

その後も岡本さんは「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡(NHK)を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

NHK紅白歌合戦に7回出場した。

舟木一夫の大ヒット曲「高校三年生」は岡本の吹込みを想定して作られたものである。また歌手業の傍ら、音楽教師としても活躍。1980年から84年には日本歌手協会の理事長を務めた。

1995年には戦後50年及び自身のコロムビア専属50年を記念し、同じく専属50年の並木路子・池真理子(いずれも故人)と共に新曲を発売し、日比谷公会堂でジョイントコンサートを行った。

80歳を超えても「思い出のメロディー」(NHK)やテレビ東京の懐メロ番組へ出演。2007年9月18日に脳梗塞のため入院するも早期発見が幸いして投薬治療で回復。

翌2008年1月21日放送の「ラジオ深夜便」で仕事復帰した。2010年頃からは心臓の不調もあり仕事から遠ざかっていたが、2012年8月10日放映の「懐かしの昭和メロディ」(テレビ東京)へ出演。約2年半ぶりのテレビ出演となったが、これが生涯最後の仕事となった。

2008年、第50回日本レコード大賞で功労賞を受賞。

2012年12月28日、脳梗塞のため東京都内の病院で死去。88歳没。

代表曲

朝はどこから(1946年)共唱:安西愛子
街の艶歌師(1948年)
ビルの窓から(1949年)

白い花の咲く頃(1950年)
あじさいの唄(1950年)共唱:山田陽子
さよならマルセーユ(1951年)

リラの花咲く頃(1951年)
美しい乙女(1951年)
青いガス燈(1951年)

時計台の鐘(1951年)
まぼろし慕いて(1952年)
草笛の唄(1953年)

チャペルの鐘(1953年)
みどりの馬車(1953年)
花のいのちは(1953年)共唱:岸恵子

高原列車は行く(1954年)
もぐらこおろぎ(1954年)共唱:伴久美子
ピレネエの山の男(1955年)

秋の匂い(1955年)共唱:伴久美子
秋の子(1955年)共唱:伴久美子
みおつくしの鐘(955年)

自転車旅行(1955年)
ここは静かなり(1955年)共唱:湯川きよ美
登山電車で(1957年)

人工衛星空を飛ぶ(1957年)
今日の日はさようなら(1974年)
小諸なる古城のほとり(1977年)

元気で行こうよ仲間たち(1997年)
狐の花嫁(1997年)
四谷大塚進学教室の歌(カセットテープ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                2013・4・10


2013年04月07日

◆ASEAN外相会議へ初参加のころ

渡部 亮次郎


1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。

しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

35年も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊のメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマン」という情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と断じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

そこで、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへの脱出を命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍への恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意を渋々呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。コーン・パイプを咥えながら。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。(再掲)


◆14歳までの訛は抜けない

渡部 亮次郎


記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は、私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れするが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。ここでは東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。 「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。

2013年04月04日

◆共産中国何時まで保(も)つか

渡部 亮次郎


共に評論家の加瀬英明氏と宮崎正弘氏が共産中国の近い将来を懸念している。肝腎中国国内でも習近平主席の恩師が「共産党はせいぜい5年」と発言して反響をよんでいる。一体、共産中国はいつまで保(も)つのだろうか。

加瀬さんは「全体主義国家がオリンピックを開催すれば、その大体10年後に国家の崩壊を招くのは歴史的事実だ」とかねて指摘している。

加瀬説によればナチス・ドイツは1936(昭和11)年にヒトラー総統指導の下、ベルリン・オリンピックを開催下が、9年後の1945年に崩壊した。

またソヴィエト連邦はモスクワ・オリンピックを1980年7月に主催したが11年後の1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された。

一方、今や中国ウオッチャーとしては当代一流たる宮崎氏は就任したばかりの習近平主席(任期10年)を「ラスト・エンペラー」と評してはばからない。

所得格差の拡大の収まらない国家、構造的汚職の絶えない国家が発展したためしがないとするヒラリー・クリントン前米国務長官の発言を踏まえたものだ。

私が中国を初訪問したのは1972年。日中国交正常化のための田中角栄首相に同行取材するためだった。その時は文化大革命こそ下火に名って掃いたが、共産党革命の最大指導者毛沢東はまだ存命中。

走資派トウ小平は失脚中。中国全体は極めて貧しかった。


それから6年後、1978年8月に日中平和友好条約の締結交渉に外務大臣秘書官として同行したときは。共産党主席こそ華国鋒だったが、
中心を握っていたのは復帰を果たしていたトウ小平。間もなく条約の批准書交換のために初来日。帰国後「改革開放路線」を定着させた。

これは経済発展のために「開放」により日本を初め外国資本の導入を促し「経済は資本主義」化するが政治は依然共産党」主導というものだった。かくて「共産主義」とは相容れないはずの収入の格差拡大と汚職の蔓延に留めがかからなくなってしまった。

これは「矛盾」を正当化するからである。

もともと資本主義こそは「自由」と成長が原則である。それにも拘らず「共産党」という「政治」がそれを束縛しようとする。法治国家ではない中国においてはこの束縛をくぐりぬける唯一の手段が賄賂であり、汚職となる。

共産主義体制でありながら経済は資本主義というのは、ある種の自己否定である。毛沢東は走資派のトウを殺しはしなかったものの側近には決して取り立てようとしなかったのはこのためである。

一方、共産主義体制は「情報の管理」を強制しなければならない。人民の口をふさぎ目を塞ぎ。手を縛らなければ共産主義体制の統制がたもてなくなるから当然である。共産中国がネットを強制管理しているのはこのためである。

しかし共産中国としては自らの正当性を誇示するためにしなければけない事は経済の持続的成長もさることながら、国際的な地位の向上も誇示しなければならない。その一例がオリンピックの招致
であろう。

シカシオリンピックは大量の国際観光客の流入と共に共産党にとっては好ましくない情報の流入も必然的に招く。ソ連は閉鎖国家だったがオリンピックにより国民は資本主義情報に汚染された。自分たちが共産党によって貧困に貶められていること、共産党体制の非合理性を知ってしまった為にソ連は間もなく崩壊したのだった。

現代中国における唯一の反体制団体の一環【大紀元日本】が4月1日に報じたところによると、習近平国家主席がかつて名門・清華大学法学院で博士号取得に向けて研究を行っていたときの指導教官孫は立平という教授だった。その教授が、「共産党政権もあと10年は存命不可能で、せいぜい5年」と言い切った。

<孫教授は政治に関与せず、独自な哲学と自由な思想をもつ学者として注目されている。

孫教授は昨年末、中国の有力紙『財経』が主催したシンポジウム「2013:予測と戦略」において行った演説で「各級の政府は目的達成のためにいかなる手段も辞さず、悪事を働く権力さえ与えたた
め、中国を法治と無縁の国に落とし入れてしまった」と容赦なく批判した。

孫教授は「革命が静かながらすでに起きている」とし、「もし共産党が歴史と断絶するチャンスを失えば、何年かの内に必ず異変が起きる」と警鐘を鳴らし、「共産党政権もあと10年は存命不可能で、せいぜい5年」と言い切った。

参加者が1000人を超え、国内外の著名な学者や商務省大臣の陳銘氏、前全人代副委員長の成思危氏などの高官が臨席しただけに、孫教授の発言は強い衝撃を与えた。

孫教授は講演で、特に「維穏」(安定維持の運動)に言及し、「維穏は実際、法治に対する大きな破壊であり、法治を無視することだ」と厳しく批判した。

維穏は共産党に反体制と判断されたすべての人々を取締っている。その体制は胡錦濤時代を経て、習近平時代に至っている。

元中央政治局常務委員であり、「維穏」の最高責任者であった周永康氏は在任中、「維穏」は共産党政権を守るための不可欠なものだと位置づけたため、「維穏」任務に当たる政法委(警察、司法、公安関係)が絶大な権力と潤沢な資金を手にすることができた。

こうした背景で、政法委は制約、監督されることがなくなり、手にした特権を武器に職権乱用し、違法的な取締りを行ってきた。中国の幹部の腐敗が山ほどあるが、もっとも深刻で国民に憎まれるのは政法委関係の司法腐敗なのだ。

司法の腐敗や高圧的な「維穏」によってもたらされた結果の危険性について、習近平氏はむろん十二分に知っている。そのために、習氏が国家主席になってから周永康氏が掌握していた政法委のトップは最高指導部メンバーから除外された。

しかし、現体制の下でいかなる改革や腐敗是正を行っても、いずれも失敗に帰すに違いない。習主席は、無駄な努力をするよりも「国師」の警鐘に耳を真摯に傾け、そして中国、世界、人類の未来のために知恵を絞って根本的な対策を講じればいかがだろう>。(大紀元日本)            2013・4・3  
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2013年04月03日

◆記者会見は嘘つき大会

渡部 亮次郎


「記者会見は嘘つき大会。会見を基に記事を書いてはいけない」といい続けたのは、NHKで政治記者から会長になったシマゲジこと島 桂次。ならば今どきの記者は記者会見だけを基に記事を書いているから、嘘を報道していることになる。国民がマスコミを信用しなくなっている原因がここにある?

何故、記者会見は嘘つき大会か。

「な、分かるか。記者会見の記者とは不特定多数、何処の馬の骨とも分からぬ奴らを相手に真情を吐露する政治家なんていない。そうだろ。適当に辻褄を合わせて話しているだけ。嘘のつきっぱなしサ。分かるだろう。

それが証拠に、政治家は記者会見の後、必ず小便に行く。人間、嘘をつくと小便をしたくなるものなんだ。だから国会の便所では並んで小便をしながら、本当はどうなんですか、と聴いてみろ。本当はね、と必ず答えるよ」。

私は幹事長時代の田中角栄にこれを試してみてしばしば成功した。本当だった。

島はだから、政治の取材は特に一対一、いわゆる「差し」の取材で得たネタ以外は信じてはならないといい続けた。

島は昭和2(1927)年6月30日、栃木県足尾町(現日光市)に生まれる。44年海軍兵学校に合格。戦後、旧制新潟高校を経て東北大学文学部美学美術史科を卒業。1952(昭和27)年3月、NHKに記者として入局。仙台、盛岡勤務の後、東京転勤、政治記者となる。

短期間、三木・松村派担当を経て池田勇人はを長く担当。池田を始め大平正芳、鈴木善幸らの他、早くから佐藤派の田中角栄の知遇を得る。

私もNHK記者としては仙台、盛岡、政治部と全く島と同じコースをたどったが、そんなことに気を配る島ではなかった。とにかく当時の首相、池田勇人との仲を誇示し「蚊帳の中に入ってまで話を聞ける」と豪語していた。

しかしあまり法螺を吹くものだから先輩たちに妬まれ、政治部長にはなれず、政治部から追われるように同じ報道局でも政経番組部長に就任した。ここで政治家との距離の近さを踏み台にたちまち出世して行った。

島はいわばその異能ゆえ、国会逓信族に狙われ、最後は追われるようにNHKを去った。しかし「記者会見を信じるな」を始め後輩に遺した「忠告」は数限りない。だが、後輩に当る今の政治ジャーナリストたちが箴言を守っているかと問われれば、竦むばかりじゃないか。

島の残した言葉はジャーナリズムの原点とも言うべきもの。記者会見と、ぶら下がりばかりのテレビ・ジャーナリズムにいつの間にか活字ジャーナリズムが引きずられている。そこに国民のマスコミ不信の根があるように思えてならない。

記者会見もぶら下がりも「絵」にはなるからテレビの編集には好都合だ。しかし、島が指摘したように記者会見に真実が無いとすえれば、視聴者は嘘を聞かされながら真実に裏切られている。

まして「ぶら下がり」に真相があるとは思われない。下がられた首相や政治家は真実よりも言い逃れを並べているだけでは無いか。森喜朗が自ら首相になってぶら下がられた時にそう言っていた。

新聞こそはぶら下がりに頼ることなく、率先して「差し」に取材の原点を戻す努力をして欲しい。新聞はテレビに隷属して堕落した。国民はそこに失望している。敬称略。

2013年04月01日

◆マスコミ用語の変遷

渡部 亮次郎


NHKの記者研修で厳しく言われたことは○○を「上回った」と言う表現はあっても「下回った」と言ってはならない。上回ることは表面張力の点からある現象だが「下まわる」事はあり得ない物理現象だから、と厳しく言われた。

しかし、現在、NHKでは「下回る」がおおっぴらに使われている。

NHKだけでない。新聞も使っている。天気予報など気象情報でもそうだ。マスコミが使えば、世間が使う。

先ごろ「未成年」はいまだ成年にあらず。未は「まだ」と「ず」と2回読む「漢文」から来ているのだから「まだ未成年」といっちゃいけないと自分のメルマガに書いた。

そしたら国語教師だった人から「使ってもおかしくない」といった趣旨の反論があった。あまり恥かしいから没にしたらご不満の様子である。国語の教師でも漢文を習わぬ時代になっているのだ。

私の若いころは政局の見通しについて判らなければ「成り行きが注目される」と逃げる記者が居た。これを称して「なり注原稿」と揶揄したものだが、いまの政治記者連中は「不透明」と言う言葉で逃げる。

「不透明」とは状態を示す言葉であって、記者の主観から逃げている。無責任な原稿と言われても仕方がない。例えば小澤が辞めるか否かは「不透明」なのではなく「ご本人も決断できない状態」であるのだから「不透明」というべきで「判らない」と書くべきだ。

最近はテレビも新聞も問題の見通しは「不透明だ」という表現を使う。見通しが立たない、解決の目途(めど)は立たないと言っていたものが、一層、他人事(ひとごと)に突き放したいいかたをする。

ニュースは利用者に「断定」の材料を提供する仕事である。それなのに「成り行きが注目」されたり「不透明」だと逃げたのではニュースとはいえない。

就中、私が1968年に入社したNHKでは聴取者からの反発を恐れて断定的な結論を出す事を嫌った。あとで結果的に外れた時の反発や抗議の電話集中的にかかってきて、交換機が炎上すると脅かされた。事実かどうかは知らない。

当方は血の気が多い方だからこれに反抗。「ああでもない、こうでもないでは,どうでもないニュースといわれるではないか」とむくれた。独自の見解を披瀝しないのだったらNHKは糊と鋏の頭文字かと毒づいたりもした。

佐藤栄作内閣時代のことだ。衆議院の解散に伴う投票日の設定が焦点になった。幹事長田中角栄は何日といい、国対委員長園田直はそれとは違う「大安吉日」を指定した。「総理はなんと言っても大安吉日が好きな性格だから、間違いない」との断定的な解説付きだった。

だが幹事長と国対委員長では総理・総裁との政治的距離が圧倒的に違う。幹事長の方が格段に上なのだ。だからNHKは角栄のいう説を選んだ。しかし、角栄は間違っていた。

佐藤栄作研究は時間的には角栄のほうが長かったが、突っ込み方は園田の方が鋭かった。解散日を決める三者会談の際、角栄は椅子に半分しか腰掛けていなかった。これは栄作を恐れている証拠。

園田は嘗ては栄作とライバル関係にあって戦っていた故河野一郎の直系の子分。従って総理と幹事長の関係を冷静に観察する余裕がある。園田説が真実に近い。だが私の主張は部長の決断で否定された。

だがやはり園田説が正しかった。投票日の日取りに間違いがあったという「訂正記事」を書かされ、それに対して報道局長賞(金一封)が出た。訂正記事に特ダネ賞はNHKでは空前絶後では無いか。

果たせるかな後年、ポスト佐藤の場面になった時、佐藤が自分に信を置いていないことを知っていた角栄は腕力で佐藤をねじ伏せるようにした。参議院の天皇は「カネを積んだのだ」と非難した。これで「禅譲確実」と言われていた福田赳夫を角栄は蹴落とした。

福田側についていた園田はこの結果、田中,三木亮政権の数年間、冷や飯をくうことになった。園田の佐藤研究は鋭かったが、田中研究はまるでなって居なかったのである。とんでもない方へ話は流れてしまった。乞ご寛恕。


2013年03月31日

◆今明かされる日中首脳会談

渡部 亮次郎


私もはや傘寿が近い。死ぬ前に体験記を出来るだけ遺そうと努力している。中でも日中国交回復同行取材記は最重要だと思うが、当時,同行記者団(80人)に、責任者の官房長官二階堂進は一切、発表しなかった。中国側に口止めされていたからだろう。

2012年10月、桜美林大学教授早野 透は中央公論新社から新書「田中角栄 戦後日本の悲しき自画像」を上梓し日中国交正常化について田中自身の「回顧談」を明らかにしている。

日中国交正常化に先立って田中は首相就任前から、外務省中国課長橋本恕(ひろし)に個人的にレクチュアを受けていた。

日中国交正常化は歴史の流れではあったが、ポスト佐藤を狙うに最高の政策は日中国交正常化であることを田中は承知していた。以下早野の著書から引用する。

「毛沢東、周恩来の目玉の黒いうちにやらなきゃと思ったんだよ。二人は何度も死線をくぐって共産党政権を作った創業者だ。中国国民にとって肉親を殺されたにっくき日本と和解して、しかも賠償を求めないなんて決断は、創業者じゃないとできないんだ。毛沢東と周恩来が言えば、中国国民も納得する。ふたりがいなくなって2代目になったら、日本に譲るなんてことはできるわけがない」

角栄と周恩来の第1回会談は、角栄が北京に着いた1972年9月25日の午後早速行なわれた。周恩来は「大同を求めて小異を克服したい」「日本人民に賠償の苦しみを負わせたくない」(日米関係はそのまま続けて問題は無い)などと語った。

角栄談。
「私は、日本は中国に迷惑をかけっぱなしだったと言ったんだ。すると周恩来はそれじゃあんたはどうするんだと切り込んでくる。

だから、私の方からここ(中国)に来たんだと答えた。

そうしたら周恩来は、日本に殺された中国人は1,100万人であると言って、どこどこでどれだけ中国人が殺されたかを言うんだ。大平(外相)も二階堂(官房長官)もたまげて聞いていたね。私は、死んだ子を数えてもしょうがないと口に出しそうになった。しかし田中角栄も政治家だ。黙っていた。

しかし黙っていてもしょうがないので、日中両国が永遠の平和を結ぶ以外に無いと話した。だけど、あなた方も日本を攻めてきたことが在ったけど上陸に成功しなかったでしょ、と言ってしまった。

周恩来は色をなして怒った。「それは元寇のことか、あれはわが国では無い、蒙古だぞ」という。そこで私は引き下がらない。1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか、その時も台風で失敗した、と言い返したら周恩来はたいしたもんだ「あんたよく勉強してきましたね」と鉾を収めた。首脳会談というのは、そういうものだよ」。

田中と周恩来の公式会談については日本外務省も既に公表しているから、いずれ明らかにするが、日本側に全く記録の無いのが毛沢東との会見記録である。中国側には有るだろうが、日本側には1行もない。

その理由は会見に日本側随員が一切認められなかったからである。
記録員はもちろん、通訳の同行も認められなかったからである。同行記者団に朝になっていきなり会見の模様を写したカラー写真が中国側から手交されて、はじめて「引見」の有ったことが知らされたのである。

9月27日の深夜、田中と大平外務大臣、二階堂官房長官はたたき起こされ毛の邸宅で毛と会った。毛が昼夜逆転日常を送っているのにあわされたのである。随員も通訳もなし。これでは「引見」でしかない。

<「もう喧嘩は済みましたか」と毛沢東が言った有名な会見である。角栄が「周総理と円満に話しました」と答えると。毛沢東はそばの日本通の寥承志を指して、「彼は日本生まれなので、帰るときぜひ連れて行ってください」という。

角栄は「寥先生は日本でも非常に有名です。参議院全国区に出馬されれば必ず当選するでしょう」と答える。話が下世話である。

毛沢東も調子をあわせて「日本は選挙があって大変ですね」と聞く。
角栄は「街頭演説をしなければ、なかなか選挙には勝てないのです」
「国会も言うことを聞きません」と答える。

角栄がマオタイを飲んだと言うと、毛沢東は「あまり飲むとよくないですよ」と答える。

「中国には古いものが多すぎて大変ですよ。あまり古いものに締め付けられると言う事は、良くないこともありますね」と毛沢東がいうのは「造反有理」の文化大革命のさなかでもあったからだろう。
角栄はどこまでも無手勝流である>。

<角栄は周恩来の日本訪問を誘った。しかし青春時代を日本で過ごした周恩来は「自分は生きては日本を二度と訪問するすることは無いでしょう」と答えた。周恩来は癌におかされていた>。
それから3年後、周恩来は死んだ。

角栄が調印した1972年の共同声明には「日中平和友好条約」の締結が記されていたが、実現したのはライバルだった福田赳夫政権で
園田直外相によってだった。その時私はNHKを辞め園田の秘書官になっていた。

条約の批准書を交換のため初来日したトウ小平が1978年10月24日、東京・目白の田中邸に角栄を訪ねた。

<その日、角栄は朝からうきうきしていた。「あれから6年、那害遥で瞬く間だ。人生そんなものだな。明治以来、日本の歴史は半分くらい日中問題が占めた。平和条約ができてよかった。中国大陸で自分の子を失った母、夫を失った妻の心もこれで整理がつくだろう」

トウ小平が現れた。
角栄「日中の新しいスタートですな」

トウ「東洋人ですので、古いことも忘れ難い。こうしてあなたを訪問できるのはうれしい」

角栄「周恩来さんと会って入る様な感じです」

トウ「あなたが北京にこられたときは、北京の郊外にいました」
トウ小平は文化大革命で「走資派」と指摘されて失脚、強制労働をさせられていた。

――ー庭では二階堂創め田中派議員の面々40人もが待っていた。白いグラスに新潟の酒を注いで乾杯シタ。―――

角栄の政治家人生を観望して、日中国交正常化の成功は「上機嫌の時」だった。その後は「不機嫌の時代」ばかりである。しかし中国だけは角栄を「井戸を掘った人」として大事にした。どんなにありがたかったことだろう> 敬称略2013・3・30

2013年03月30日

◆したたか大阪人・服部良一

渡部 亮次郎

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かな
い。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一

1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞(東京新聞)学芸記者の奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲み、アルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』