2012年08月01日

◆64%「中国人以外に生まれたい」

渡部 亮次郎


<【産経新聞2006年9月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。>

このサイトは9月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。再掲

アレから6年。数字はもっと酷くなっているだろう。外交評論家 加瀬英明さんによると、オリンピックをやった独裁国(ナチ、ソ連)は10年ぐらい後に崩壊しているそうだ。北京オリンピックは何時だった?

2012年07月31日

◆転失気総理森喜朗

渡部 亮次郎


「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。

『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場したもの。

森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。

「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。

私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。

「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。

三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後官邸から自宅に居た私電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁいいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、「てんしき」さんなら思うのか。

園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。
そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授、故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。


安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。30年以上も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私は幸せだった。(了)

2012年07月28日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。

歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

この映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。

<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、60年以上を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している。

2012年07月26日

◆増加!子供の糖尿病

渡部 亮次郎


<1型糖尿病

1型糖尿病(いちがたとうにょうびょう)(ICD-10:E10)は、インスリンの供給異常による糖尿病。血糖を下げるホルモンであるインスリンの分泌が低下するか、ほとんど分泌されなくなるため血中の糖が異常に増加する病気である。

20世紀前半にインスリンが治療応用されるまでは、極度の食事制限を要する致死的疾患の1つであった。膵臓のランゲルハンス島でインスリンを分泌している細胞が死滅する事によって起こる。

根本の原因は現在解明されていないが、膵組織にはリンパ球の浸潤が見られ、炎症性のメカニズムが想定されている。血中に自らの膵細胞を攻撃する自己抗体が認められるものを1A型(自己免疫性)、ないものを1B型(特発性)とする。

飲み薬は無効で、患者はかならず注射薬であるインスリンを常に携帯し、毎日自分で注射しなくてはならない。インスリンを注射しなければ、容易に生命の危険に陥る。また、1型糖尿病のなかでも、「劇症1型糖尿病」という数日間でインスリンが枯渇するさらに危険な病もある。

2型糖尿病

2型糖尿病(にがたとうにょうびょう)(ICD-10:E11)は、インスリンの消費の異常による糖尿病。欧米ではインスリン抵抗性が高まる事が原因のほとんどを占めるが、日本では膵臓のインスリン分泌能低下も重要な原因である。

前者では太った糖尿病、後者ではやせた糖尿病となる。遺伝的因子と生活習慣がからみあって発症する生活習慣病。糖尿病全体の9割を占める。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本では糖尿病といえば中年のかかる2型が大部分。しかもこれは、遺伝的因子があるとはいえ、殆どのきっかけは運動不足と肥満であるから「生活習慣がからみあって発症する生活習慣病」と言われ、中年だけの病気と考えられてきた。

ところが1990年代に入って子供の肥満による糖尿病が数千人に1人の割合で見つかるようになってきた。飽食の時代が始まって何年だろう。戦中戦後の貧食?の時代は糖尿病なんて聞かなかったし、まして子供の2型糖尿病なんて、聞いたことがなかった。

これは発見のきっかけがあったからでもある。つまり子供の身体検査で尿糖検査なんてしなかったものだが″、1990年代からするようになったからである。

産経新聞によれば、肥満度50%以上と言う高度肥満の子供が最近増えた。中3男子生徒の例。母子家庭で母親が留守がちのためインスタントや冷凍食品中心の食生活。運動らしい運動は殆どしなかった。

その結果、中学入学前後に一気に20-30キロも太り体重は100キロを超えて、検査の結果「2型糖尿病」と診断された。

糖尿病は発症しても自覚症状がない。自覚症状が出るまで10年以上かかることが多いそうだ。しかも自覚症状が出たときには深刻な状況となっている。この生徒も太ったとはいえ検査しなければ糖尿病は発見できなかった。

血液の中の糖分の過剰な状態が続くと、ガソリン車に砂糖をぶち込むと、エンジンが駄目になるのと同じで、毛細血管が内部から破れたり詰まったりする。脳卒中、心臓病、腎不全、目の網膜症(盲目)、足の壊疽などが起きる。

世間では「子供は2型糖尿病にはかからない」との「迷信」が流布されているし、太った子ども自身も自覚症状がない以上、インスタントやレトルトの食品を食べ過ぎるな、運動をやれと言われても、守る事は難しかろう。

この病気は今の医学では一生、治癒はしないが、医師の適切な指示を守れば、若死にすることはない。何もしなければ他人より10年は早く死ぬとされている。

私の周囲の例では60に満たない女性が、最近のある日、突然、目が見えなくなり、病院に行ったところ糖尿病による網膜症と分った。しかも全身の浮腫みは腎機能の不全からと分り、いきなり週3回の人工透析開始と宣告されてしまった。

女性は若いときに遺伝的因子から糖尿病と診断されていた。しかしこれといった自覚症状のないまま油断していた。その間、高すぎる血中高糖度は毛細を含む血管を内部から蝕み続けていて、気がついた時は既に手遅れだったのである。

本人の落ち度であることは尤もだが、仮に夫たる人に糖尿病の知識があれば、こうはならなかっただろう。本人が厭がっても通院させ、適正な対処療法が施され、いきなり人工透析という悲劇にはならなかったはずだ。

だから、身内の子供が最近、太りすぎと言うことなら、積極的に診察を奨めたほうがよい。本人は厭がっても周囲が気をつければ何も怖いことにはならない。説得をしり込みする大人が悪いのである。子供の健康には大人が責任を負っているのだから。

2012年07月24日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎

リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

新聞に依れば2005年の農林水産物(タバコ、アルコール飲料、真珠を除く)の輸出額は、前年より12・1%増えて3311億円。輸入量が年間7兆円を超す日本だが、輸出量は年々伸びているのだという。

<例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという>

<青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている>。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。

2012年07月22日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こす。少し横になっていれば治るが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。血圧を毎朝、計測するようにしている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。
2012・7・19


2012年07月19日

◆ロマンに満ちた鰻の生態

渡部 亮次郎


ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態をとる。

従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

少年の頃、作家火野葦平がそれをテーマにした小説を毎日新聞に連載し、熱心に読みふけったものだった。しかし、今となっては題名すら思い出せない。ネットで捜したが分からなかった。

火野は53歳で急死したが、のちに服毒自殺と公表された。

鰻の話である。

2006年2月、東京大学海洋研究所の教授・塚本勝巳をはじめとする研究チームが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。


これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認された。。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6-7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

2008年6月および8月には、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが、同じくマリアナ諸島沖の水深200-350 mの範囲で、成熟したニホンウナギおよびオオウナギの捕獲に世界で初めて成功した。

雄には成熟した精巣が、雌には産卵後と推定される収縮した卵巣が認められた。また、水深100-150 mの範囲で、孵化後2-3日経過したと思われる仔魚(プレレプトケファルス)26匹も採集された。

さらに、プレレプトケファルスが生息する層の水温が、摂氏26.5-28度であることを初めて確認した。この結果から、比較的浅いスルガ海山の山頂付近ではなく、もう少し深い中層を遊泳しながら産卵をしているという推定を得ることができた[。

この推定を基に、塚本らの研究チームが周辺海域をさらに調査したところ、2009年5月22日未明、マリアナ海嶺の南端近くの水深約160メートル、水温が摂氏約26度の海域で、直径約1.6 mmの受精卵とみられるものを発見。

遺伝子解析の結果、天然卵31個を確認した。天然卵の採集は世界初である。同時に、卵は水深約200 mで産まれ、約30時間かけてこの深さまで上がりながら孵化することも判明した。

さらに同チームでは、2011年6月29日学術研究船白鳳丸に搭載したプランクトンネットを用いて、産卵直後から2日程度経過した147個の受精卵の採取に成功した。

新月の2-4日程度前の日没から23時の間、水深150-180 mで産卵されたと推定される。卵から2-3日で孵化した仔魚はレプトケファルス(葉形幼生、Leptocephalu s)と呼ばれ、成魚とは異なり柳の葉のような形をしてい
る。

この体型はまだ遊泳力のない仔魚が、海流に乗って移動するための浮遊適応であると考えられている。レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、扁平な体から円筒形の体へと形を変え「シラスウナギ」となる。

シラスウナギは体型こそ成魚に近くなっているが体はほぼ透明で、全長もまだ5 cmほどしかない。シラスウナギは黒潮に乗って生息域の東南アジア沿岸にたどり着き、川をさかのぼる。

流れの激しいところは川岸に上陸し、水際を這ってさかのぼる。川で小動物を捕食して成長し、5年から十数年ほどかけて成熟する。その後ウナギは川を下り、産卵場へと向かうが、その経路に関してはまだよく分かっていない。

海に注ぐ河口付近に棲息するものは、淡水・汽水・海水に常時適応できるため、自由に行き来して生活するが、琵琶湖や猪苗代湖等の大型湖沼では、産卵期に降海するまで棲息湖沼と周辺の河川の淡水域のみで生活することが多い。

また、近年の琵琶湖等、いくつかの湖沼では外洋へ注ぐ河川に堰が造られたり、大規模な河川改修によって外洋とを往来できなくなり、湖内のウナギが激減したため、稚魚の放流が行われている・             (「ウィキペディア」)
                    

2012年07月18日

◆「の」で初入閣した園田直

渡部 亮次郎


建国記念「の」日を迎えるたびに園田衆院副議長時代を思い出す。

佐藤栄作内閣は発足間もない1995(昭和40)年12月12日未明、日韓条約案件を衆議院本会議で強行採決で批准した。当時私はNHK政治部の一員で衆院本会議番の記者だった。

時の自民党幹事長は田中角栄で、記者たちから採決をいつ断行するのか連日責められ、その都度「きょう」といい続けた。NHKとしては歴史的な事件として残るであろう採決の瞬間をTVで実況中継する計画。

そのためにはTVの中継スタッフを何十人も国会に待機させ3食を補給しなければならない。担当は報道局庶務部。担当者は食事の手配のうえからも「何時」への関心が高い。

だが幹事長は毎日「きょう」と言いながら採決を引き延ばすものだから、庶務に突き上げられたNHKの幹事長番はとうとうノイローゼになる始末。

採決の瞬間は突然やってきた。船田中議長が暮も近い12日、未明、「この際あらゆる手続きを省略し、案件を採決いたします。賛成の諸君の起立を求めます」とやったから議場は総立ち。「起立多数。よって本案は可決されました」となった。

与党、野党の若い議員が議長席に詰め寄った。楢橋代議士の上着がセンターベンツのところで真っ二つにさかれていたのをおもいだす。しかし船田議長はさっさと議長席を下り、後ろのドアから退出、そのまま青山の産科病院(親戚)に入院してしまった。

日韓条約は12月11日、参院本会議でも強行採決で可決、成立した。衆議院の船田、田中伊三次の正副議長は混乱の責任を取るとして辞任。

後任に議長は山口喜久一郎、副議長園田直がさ党総裁の推薦により
本会議で選出された。奇妙なことに、二人とも佐藤のライバル河野一郎派閥所属だった。私は河野はを担当しながら、正副議長を引き続き担当することになった。

園田氏は当選9回ながら未入閣の代議士だった。50を過ぎていた。
このポストでなにか功績を上げ、入閣を狙うのじゃないか。試みに毎日のように副議長室へ通った。他の記者は議長室で山口議長若い頃の自慢話を聞いているようだった。

毎日通っているうちに、奇妙なことに気づいた。副議長室の本棚がどけられ、直接、議長応接室へ出入りできるようになっている。
「これは何かある。園田は何かをやらかそうとしている」。私は気づかぬふりをして去った。

遠くから見張っていると議長室に入った社会党の石橋政嗣国対委員長が、暫くして副議長室からでてきたではないか。つまり議長室と副議長室を結ぶ議長応接室で何か密議がおこなわれているのじゃないか。

佐藤内閣が解決すべき日韓条約の次の案件は何か。そうだ、紀元節復活法案の成立だ。園田はこれを解決して初入閣を果たそうとしているのだ。

ある日、園田さんに正直にこれをぶつけてみた。園田氏は驚く様子も見せず「あゝたはワシの腹の中をいつみたとですか」と肯定した。しめた。正月に伊勢神宮参拝に同行したとき「菅原通済に勲1等をやれる方法は無いものか」と呟いたでしょう。あれがヒントです」といった。

つまり社会党と自民党の間で妥協点を見出す。その過程で菅原氏を使う、と言う方法。自民党からは田中幹事長の一任を取り付け、社会党へは国対族として通じ合う石橋国対委員長と渡り合って妥協点を見出す、と言う案では無いですか、と追い討ちをかけた。

これで園田氏は「降参」し、以後すべてを教えてくれるようになった。しかし書かなかった。大きな特ダネにするためには、コトが仕上がるまで極秘にすべきだと考えた。キャップにもデスクにも報告しなかった。

やがて園田・石橋間で、法案の名称を建国記念「の」法案とする。
法案を「建国記念日法案」としたのでは社会党内で「紀元節復活法案」として反発が強いが建国記念「の」だとやわらぐというのだ。

日取りは「2月11日とせず審議会で決める、審議会の会長は菅原氏とする」の線でまとまった。昭和41年6月3日、話は「山口衆院議長の斡旋案」として公表された。特ダネは直前に放送された。

やがて建国記念「の」日は佐藤内閣の意図のとおり「2月11日」に決まり、園田氏は副議長として3代の議長に仕えた後、佐藤改造内閣の厚生大臣として初入閣した。「の」が決め手だった。

2012年07月16日

◆帰郷叶わぬクニマス

渡部 亮次郎


秋田は生まれ育った郷里ではあるが、山の中の田沢湖には行ったことがなかった。

田沢湖。秋田県の中東部に位置する。最大深度は423.4mで日本第1位(第2位は支笏湖、第3位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。

湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。

少年時代は鉄道も開通して無かった。それが50近くなってから頻繁に通うようになったのは、理事長として社団法人日米文化振興会のシンポジュームを毎年開催するようになったからである。

通うたびに地元の人たちt酒を酌み交わすようになって、人々が口にする言葉が「クニマスに逢いたい」だった。昭和15年、田沢湖の水で発電所ができ、それに伴って下がる水位を補う為、1940年1月20日より玉川の水を導入した。

その水は玉川毒水と呼ばれる塩酸を含む強酸性の水だった。1948年の調査では表層付近の pHが4.8前後と急速に酸性化し、1948年にはクニマスの捕獲数はゼロになり絶滅した。

現在ならば環境問題として大きく取り上げられるところであるが、当時は国家を挙げての戦時体制の真っ只中であり、この固有種の存在などが顧みられる事は全くなかった。また、1965年の水質調査でも、湖の全域でpH 4.5程度であった。

クニマス(国鱒、学名:Oncorhynchus nerka kawamurae)は、サケ目サケ科に属する淡水魚。別名キノシリマス、キノスリマス、ウキキノウオ。産卵の終わったものをホッチャレ鱒、死んで湖面に浮き上がったものを浮魚(うきよ)という。

かつて秋田県の田沢湖にのみ生息した固有種だったが、田沢湖の個体群は1940年頃に絶滅し、液浸標本17体(アメリカ合衆国に3体、日本に14体)のみが知られていた。

このため環境省のレッドリストでは1991年、1999年、2007年の各版で「絶滅」と評価されていた。

ところが2010年に京都大学研究チームの調査により、山梨県の西湖で現存個体群の生息が確認された。

きっかけは、京都大学教授の中坊徹次がタレント・イラストレーターで東京海洋大学客員准教授のさかなクンにクニマスのイラスト執筆を依頼したことであった。

さかなクンはイラストの参考のために日本全国から近縁種の「ヒメマス」を取り寄せた。このとき、西湖から届いたものの中にクニマスに似た特徴をもつ個体があったため、さかなクンは中坊に「クニマスではないか」としてこの個体を見せ、中坊の研究グループは解剖や遺伝子解析を行なっ
た。

その結果、西湖の個体はクニマスであることが判明したとし、根拠となる学術論文の出版を待たずして、12月15日にマスコミを通して公式に発表された。

1935年、田沢湖から西湖に送られたクニマスの受精卵10万個を孵化後放流したものが、繁殖を繰り返して現在に至ったと考えられている。

西湖の漁師には、この発見以前から「クロマス」と呼ばれて存在自体は知られていたが、「ヒメマスの黒い変種」程度にしか認識されていなか
った。

このため、西湖周辺では普通に漁獲されていたほか、一般の釣り客も10尾に1尾程度の割合で比較的簡単に釣り上げており、2010年以前にも「西湖でクニマスを釣り上げた」と再発見説を唱える者がいたという。

産卵を前にして黒くなったヒメマスは不味いとされることから、「クロマス」は釣れてもリリースされることが多かったというが、当然ながら「クロマス」を食する者もおり、伝承どおり、塩焼きにしてもフライにしても美味であったと語られている。

「クロマス」の正体がクニマスであるとの知らせを受けた西湖漁業協同組合は、クニマス繁殖域の禁漁区指定など、保護対策を検討しており、2011年3月20日の漁解禁より、クニマスが生息している可能性の高い湖北岸の約1万平方メートルを新たに自主禁漁区域に設定する方針を固めた。

また、クニマスの生息確認の知らせを受けた秋田県の仙北市と田沢湖観光協会は、国や県と協力して田沢湖の水質改善を進めるなど、将来的にクニマスを田沢湖に戻すことを前提とした諸活動を計画している。

2010年12月15日のクニマスが再発見されたと言うニュースから2日後の2010年12月17日、秋田県は仙北市と共同で「クニマス里帰りプロジェクト」を発足させることを決定、12月21日から正式に活動を開始した。

しかし、田沢湖の水は依然として強い酸性を保っており、クニマスを田沢湖に戻すには程遠い状況であるため、当面はクニマスの生態調査に力を注ぐと同時に、県内の他の場所でもクニマスを養殖できないか、山梨県とも協力しながら検討を続けていく方針だ。

2011年3月5日には「クニマス里帰りプロジェクト」の一貫として、さかなクンの講演会が開かれた。この講演のなかで、さかなクンはクニマスは従来ベニザケの亜種と考えられてきたが、一年を通じて産卵期があるなど、独立した種である可能性が高いことを説明した。

2012年2月には中坊らと同行したNHK取材班が産卵の様子の撮影に成功。伝承通り冬季に産卵することが証明された。生きたクニマスのカラー映像の撮影成功は初。

撮影時にカメラを全く警戒する様子がなく、また深い場所で低い水温の砂利地帯という環境から、天敵の居ない環境がクニマスが生き延びた要因である見方が強まった。

江戸時代に秋田藩主・佐竹義和が田沢湖を訪れた際にクニマスを食べ、お国特産の鱒ということから国鱒と名付けられたといわれていたが、角館佐竹家(佐竹北家)の記録である佐竹北家日記に、義和の生誕よりも以前から国鱒との表記が見つかっている。

角館を領した佐竹北家(角館佐竹家)の歴代の記録である『佐竹北家日記』(秋田県公文書館所蔵)において、クニマスに関する記事は正徳5年(1715年)を初出とし、18世紀には記述が少ないが19世紀に入ると頻出し、角館佐竹家から秋田藩主佐竹本家への、または佐竹本家から他藩諸家への献上品・贈答品として利用され、長期の運搬がなされたと記録さ
れる。このことからも、干物・粕漬けなどの加工が開始されていたと考えられている。

文化2年(1805年)の記録に「国鱒塩引き」が秋田の佐竹本家へ献上輸送された記録がある。翌々日に秋田藩城詰めの家老名義での礼状が届き、同文中には「在国中であった藩主がとても喜び、残った分は江戸藩邸に送った」旨が記されている。

これらは当時クニマスに対し、長期輸送に耐えうる加工がなされていた史料となる。当時の佐竹北家の当主は佐竹義文(佐竹河内)、秋田本藩藩主は佐竹義和。数年後、佐竹義和は田沢湖を訪れ、文人としても知られる義和は紀行文を残しているが、同文中にはクニマスに触れた記述はない。

義和は秋田蕗の逸話が残るように、藩内特産品の開発にも力を入れていたとされることから、前述のクニマスを江戸に送った行為は、江戸藩邸の家族や家臣らに対する贈り物に留まらず、諸国に対する特産品の宣伝および国内特産品の殖産興業の面もあった、とも推測される。

ただし、このように藩主献上品(または他藩への贈答品、藩の特産品)として扱われたことにより、クニマスの価値・価格は上昇し、価格面でも”価値”の面でも、たとえ地元の人間であろうが庶民にはなかなか手が出し難いものとなった、とも伝わっている。

資源のある高級魚であったため、専業の漁師が居た。クニマス漁は一年中行われ、刳り舟(丸木舟)を使用した。漁法は刺し網漁法で、夏は深部に、冬は浅く網を下ろす。

ただし少数であるが、雑魚網や一本釣も行われていたようである。1月 ー3月が最盛期で、漁で上がったクニマスはすぐに死に、徐々に白く変色したという。

深所に生息するためか皮が硬いのが特徴であるが、白身で柔らかく非常に美味であった。地元でも祝い事や正月などのときにしか食べることのできない高級魚で、昭和天皇に献上された事もあり、大正時代には1尾が米1升と交換するほどの魚であったという。

豊漁の年でも冠婚といった特別のとき以外は食べなかったといい、大半は雑魚箱に入れて角館町に売りに出るが、 その角館でも買う家は地主、上級武士、豪商など決まっていた。

このため売り子は「軒打ち」と称い、あらかじめ買ってくれそうな家を覚えておいて売り歩いたという。一般が口にするのは妊産婦か病人に限られており、田沢湖町田沢、元田沢湖町役場総務課長の羽川は「子供のころよく獲れたものだが、なかなか食べさせてもらえなかった。それでも風邪をひいたりすると、『早く治れ』と母が出してくれた」と当時に
ついて語っている。

料理する場合は焼魚にする事が多かったようである。現在のヒメマスも美味な高級魚であるが、これと比較してもなお高品位であったとされている。

クニマスと同じく、かつて田沢湖に生息し、酸性水の流入で絶滅した魚にクチグロマス(口黒鱒、学名なし)がある。こちらは非常に資料が乏しく詳しい事は不明だが、体長は25 - 35センチ・メートル程度で水深50- 100メートル付近に生息していたと思われる。また、クチグロマスはヒメマスとクニマスの雑種だとの説もある。

漫画『平成版・釣りキチ三平』(『週刊少年マガジン特別編集2001年9月18日増刊号』掲載[26])には、「三平の祖父・一平が、クニマスを密かに地図に載っていない山中の湖に移殖し、そこで繁殖していたものの生息が確認される」というストーリーがある。

あくまでフィクションであったが、2010年に生息が確認された個体は実際に漫画と同じような経緯で移殖され繁殖していた。作者の矢口高雄は発見の一報を大変喜び、関係者やファンから多くの祝福を受け「必ず生きていると信じていた」「漫画にしたけれど、うそじゃなかったでしょ?思い通りです」と語った。

ちなみに矢口は田沢湖のある秋田県の出身で、将来的にはクニマスを田沢湖に里帰りさせることを強く望んでいるという。2012・7・12
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は7月15日(日)刊 渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」2666号に
掲載されました。

◆<2666号の目次>
・帰郷叶わぬクニマス:渡部亮次郎
・迷走の挙句政党政治の危機:山堂コラム 427
・対北朝鮮の米イージス艦配備状況:古澤 襄
・世に流布される「陰謀論」:阿比留瑠比
・たかがヒゲ、されどヒゲ:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2012年07月15日

◆国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンが、私のメルマガ「頂門の一針」に、次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ
  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること
  (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだ、こうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったというのが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

密約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとしても密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかわらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのが、現状ではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がも
たらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、
台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。  

2012年07月14日

◆3度の失脚と復活

渡部 亮次郎


私は中国については国交回復のとき記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うトウ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

トウ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたトウ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、特に外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参考:ウィキペディア他

2012年07月13日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎


私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の?犠牲者ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。私には酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるようになった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。
(ウイキペディア)


2012年07月09日

◆恥を知れルーピー鳩山

渡部 亮次郎


外国へ行って母国を批判したら、その国の人に笑われる。まして首相まで務めた人が北京まで出かけて、何をとち狂ったか野田内閣の悪口を吐いた。今頃、北京中が笑っていることだろう。

若い頃、外務省で数年、大臣秘書官を務めたことがある。と言っても外交に直接携わったわけじゃなく、いわば党人である外務大臣の与党内の地位を守る仕事をしただけだったが、官僚からたった一つ教えられたことがある。「外国へいって自国内閣の悪口をいってはならない。その国の国民の失笑を買う」だった。

それはそうだろう。当に「天に唾する」行為、笑われるのが当然なのだ。

鳩山という元総理大臣はアメリカではルーピーと馬鹿にされているそうだが今度、北京では「馬鹿」を中国語でなんと言うのだろうか。

<不信任案同調の可能性も 鳩山氏、北京での講演で示唆

民主党の鳩山由紀夫元首相は7日、北京で講演し、野田内閣不信任決議案が提出された場合の対応について「政策的には同調したい部分もあるが、簡単に結論を出せる状況でもない」と述べ、同調する可能性を否定しなかった。

野田佳彦首相の政権運営に関し「民主党の本来の政策とは懸け離れてしまっている。同意できないところがたくさんある」と強調。同時に「不信任案は、野田首相だけでなく民主党のこれまでの歩みに対して不信任という形になるので慎重な判断も求められる」と指摘した。>
(産経ニュース 2012.7.7 21:17)