2012年11月14日

◆竹島「密約」のあった時代

渡部 亮次郎


韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで、河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が、2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が、竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為、急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。
<月刊誌「自由」1980年10月号から転載。>

2012年11月12日

◆汚職贈収賄で潰れる国

渡部 亮次郎


私を中国に詳しい人間と誤解して「あの国に綱紀粛正とか公徳心は無いのか」と尋ねる人がいる。私は確かに中国には3度訪れたが、暮したことは無いから良く分からない。

最初は日中正常化実現のために初訪中した田中角栄総理の記者として同行した。万里の長城八達嶺のトイレには紙が無かった。

6年後の1978年には外相秘書官として日中平和友好条約の締結交渉に従事しトウ小平との会談に立ち会った。女性がおしなべて化粧を始めていた。3度目は観光で杭州へ。低血糖昏睡を体験した。

しかし、政治が共産主義独裁で経済が資本主義では汚職と贈収賄は構造的問題、「必須」であるから、共産党が政権を握っている限り
綱紀粛正も公徳心も怒りようが無い。

東京湾岸に近い江東区毛利にある都立猿江恩賜公園の公衆トイレでは補充しても補充しても「紙」が盗まれる事態が長くつづいたので調べたところ、在日中国人の仕業と判った。

ある大型マンションで台所のゴミを水を切らないまま捨てる住人が出てきたので管理組合が調べたところ、最近引越してきた女性が中国人であることが分かった。そうした事はしてはいけないことだという公徳心を彼女に求める事は不可能である。

中国で公衆便所に入っても紙は無い。それは普通。紙を備えても誰かが持ち去ってしまうのである。他人(ひと)の物は自分の物。紙が無かったら次に入った人が困るだろうという公徳心がなくなっているのである。

中国の工場では働いている人と働かない人が同居している。働いてもは働かなくても給料は同じだから働かない人が存在するのは当然だ。

役人は威張っているだけなのに懐は十分暖かい。賄賂を沢山受け取っているからである。経済は資本主義で競争社会。工場を拡張し設備投資を続けなければ会社は成り立っていかない。

しかしそれを政治(共産党)が監視、監督するにあたっておいそれと許可しない。賄賂を要求する。それがまるで風習化しているから
工場側はすぐに贈賄する。すると許可はすぐ出る。ここで贈収賄は習慣化する。

つまり経済は改革、解放で資本主義化したが、それを指導、監督する政治は独裁共産党とあっては物事は贈収賄でしか前進しない。

資本主義経済は「自由」と「競争」が前提だが、監督する「独裁政党」にとって「自由」は敵である。それでも今の中国共産党は自らの存在理由を「半日」と「経済発展」に求めるしかない。だが経済発展を求めるには共産党の存在そのものが邪魔であることに気づこうとしていない。漫画だ。

中国で共産党が政権を握って資本主義経済を運営している限り汚職贈収賄は続き、民心は日々離反していくことだろう。

「そうした国家が長期に亘って発展した例を知らない」とアメリカの国務長官クリントン女史は述べたと聞いたことがあるが、私も同感である。

胡錦濤は尖閣を盗み、太平洋を支配し、GDPを倍増させると豪語しているけれど大丈夫か。その前に中国そのものの潰れる心配はないのか。

宮崎正弘氏の指摘する如く住宅バブルのパンクは極く近いという。そうなれば経済成長連続8%が無理になってくるだろう。そうなれば経済にとって共産党は邪魔という「世論」が起きてくるのではないか。

世界史に詳しい加瀬英明氏はナチス・ドイツとソ連を例にとっ手指摘している「全体主義国家がオリンピックを開催すると、10年後に国家が崩壊するのが例だ」と。北京オリンピックは2008年だったね。2018年は後6年後だ。やらなきゃよかった?                                     2012・11・10

2012年11月10日

◆好きな作詞家星野哲郎

渡部 亮次郎


流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなって大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。クラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は福島県の塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 ?―2010年11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

闘病期間中に作詞を学び、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めている(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。>ウィキペディア
                         2012・11・3


2012年11月09日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎


毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2012年11月08日

◆カキの季節になった

渡部 亮次郎


既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅地下に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

ニューヨーク本店の雰囲気を再現した店内では、常時10種類以上のフレッシュ―オイスターをはじめ、新鮮な魚介類を使用したバラエティー豊かな料理の数々が提供されるそうだ。

一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

日本での主な食用種

マガキ(真牡蠣) Crassostrea gigas(Thunberg,1793)

最も一般的な種で、日本でカキといえば本種。寒い時期に食べる。大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され市場に出ている。広島県、宮城県、三重県産が有名。韓国からの輸入品も相当量ある。

イワガキ(岩牡蠣) Crassostrea nippona(Seki, 1934)

「夏ガキ」とも言われる。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通する。天然物と養殖物の両方がある。

スミノエガキ(住之江牡蠣) Crassostrea ariakesis(Fujita, 1913)

有明海沿岸で食用にされるが、他所へはほとんど出回らない。マガキにごく近縁な種で、殻の表面はやや滑らか。

イタボガキ属 Ostrea [編集]イタボガキ(板甫牡蠣) Ostreadenselamellosa(Lischke, 1869)

かつては多く食用にされ、能登半島や淡路島周辺が有名な産地であったが、現在は瀬戸内海地方で僅かに市場に出回る程度で、絶滅危惧種状態。

食用のみならず貝殻が最上質の胡粉の原料となる点でも重要であり、本種の復活と養殖技術開発の努力がなされている。

ヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis(Linnaeus, 1758)

ヨーロッパ原産で、イタボガキに似た外観で輪郭が丸く平たい貝。別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。

日本では宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などで僅かに養殖され、高級食材としてフランス料理店などに卸される。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えば本種のことであったが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになった。それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキであるという。

アメリカで人気の日本原産の牡蠣 クマモト(熊本牡蠣)

1946年頃熊本県八代市鏡町からアメリカに輸出された牡蠣の子孫が現在アメリカ西海岸でクマモトの名で養殖されている。

クマモトは小振りながら味が濃く、クリーミーとしてアメリカ市場で最も人気が高い高級牡蠣。

カキは食用としての歴史は非常に長く、世界中で食され、最も人類が親しんできた貝の一つである。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていた。

生ガキはフランス料理における定番のオードブルとなっている。また、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも存在する(ニューヨーク)。ナポレオン、バルザック、ビスマルクなどがカキの愛好家であったことが知られている。

日本では縄文時代ごろから食用されていたとされ、多くの貝塚から殻が発見されており、ハマグリに次いで多く食べられていたと考えられている。

室町時代ごろには養殖も行われるようになったという。大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていた。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食された。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られている。

日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降であり、生食文化が欧米から輸入された珍しい食材である。

古来より食べられてきたカキであるが、その一方で「あたる」食品(食材)としても知られている。カキの食中毒が注目されるのは非加熱状態で食べられる機会が多いことと関係している。

現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために生産・流通段階で対策がとられている。 生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられている。 さらに、保存基準、表示基準も規定されている。

貝毒以外は十分に加熱することで食中毒を回避できるカキを含むいずれの二枚貝も、同様の処理で食用にする限り食中毒の危険度に関しては変わらないという点である。

一方、魚では鮮度を基準として「生食用」「加熱用」の区別がされていることから、カキも同様であると思い込んだ消費者が酢ガキなどに、「鮮度がいい」という理由から加熱調理用のものを生で出す事例が後を絶たないのは残念だ。ウィキペディア 2012・11・06


2012年11月04日

◆今年六十のお爺さん????

渡部 亮次郎


「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年を取つてもお船を漕ぐときは 元気いつぱい櫓がしなる それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ」

「船頭さん」の一番。「かもめの水兵さん」などと同じく作詞は武内敏子、作曲は河村光陽。

太平洋戦争直前(1941年)に発表された歌で、「六十のおじいさんですら、村のためお国のために休む暇なく働いているのだから、君たちも早く立派な人間になってお国のために尽くしなさい」というメッセージが込められているそうだ。

このような童謡にさえ、そうしたメッセージがこめられる時代だったんですね。それにしても60歳のおじいちゃんですら働いている、とは…。うーむ。

あの時代、戦争だったから、老若男女のうち若い男は戦場に赴き、女性が社会を運営していたのだから「老人」が働くのは当然だった。いまに労働力が少なくなってきたら70歳でも働かなくてはならなくなるかもしれない。

今の日本で「60」を老人と考える人は僅かだろうが、昭和16年、今から70年前は少なくとも60歳は「老人だったのである。

常連投稿者・平井修一さんの調べによると、

<世界各地での定年事情をニールセン・カンパニー合同会社が調べている。オンライン調査で2010年9月に、アジア太平洋、欧州、中南米、中東、アフリカ、北米の世界53カ国2万6000名以上を対象に実施した。主な調査結果は以下の通りだ。

■「年寄り」は70代から何歳からが年寄りだと思うか、という質問に対し、日本では「70代」(54%)、世界平均では「60代」(34%)という回答が最も多い。一方、「80代」からが年寄り、と考えている人の割合が高いのは、北米(43%)、中南米(35%)、欧州(32%)で、日本(4%)と比べても非常に高い数値となっている。>2012・11・03

2012年11月03日

◆モンテンルパの夜は更けて

渡部 亮次郎


11月1日の深夜便が「あゝモンテンルパの夜は更けて」を放送し、珍しく 「解説」を正しくしていたので感心した。この歌ほど当時の国民を感動させた歌は無い。この歌は、フィリピンの刑務所につながれていたBC級戦犯と、ある女性歌手との交流から生まれた。

以下、「二木紘三のうた物語」より引用。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_5fde.html

第2次大戦が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われました。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれました。

A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」で、戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為です。

B級は従来の戦争法規に規定されていましたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科です。

日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われました。

おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告されました。

しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいい加減なものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくありませんでしたが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていました。

文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりありました。

勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがありません。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通です。もし、日本やドイツが勝っていたら、同じような裁判をしただろうし、日独の全体主義体制下では、もっとひどい裁判をしたかもしれません。

戦争は、戦犯の裁判まで含めて戦争と考えたほうがいいのでしょう。

昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きました。

戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送りました。

同年の6月のある日、ニュービリビット刑務所の戦犯から、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られてきました。それが『ああモンテンルパの夜は更けて』です。

作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていました。

渡辺はま子がただちにビクターに持ち込んだところ、そのいきさつに感動した幹部がレコード化を決断、渡辺はま子と宇都美清の歌で発売されました。レコードは瞬く間にベストセラーとなり、現地にも送られました。

しかし、彼女は、それだけでは満足しませんでした。なんとか現地の戦犯たちの前で歌いたいと思ったのです。一般国民の海外渡航が禁止された状況で、フィリピン行きの許可を取るのは困難を極めました。

あらゆる伝手をたどって奔走した結果、同年12月下旬、彼女はやっと念願を果たしました。ニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む109人の戦犯たちを前にして、この歌を歌うことができたのです。

翌28年、同刑務所に駐在していた教誨師・加賀尾秀忍は、奔走してフィリピンのキリノ大統領に面会しました。戦犯たちの釈放や減刑を請願するためでした。

彼はまず『ああモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを聞かせました。「この悲しいメロディはどういう曲か」と尋ねた大統領に、彼は「モンテンルパの死刑囚が作った歌です」と答え、歌詞の意味を説明しました。

大統領はしばらく沈思したあと、自分の辛い記憶を物語りました。それは、マニラでの日米の市街戦に巻き込まれて、自分の妻と娘が亡くなった話でした。

モンテンルパの全受刑囚の日本送還と死刑囚の無期への減刑が同国政府から発表されたのは、この面会から1ヶ月後のことでした。

(二木紘三)

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇都美清

1(男)モンテンルパの夜は更けて
    つのる思いにやるせない
    遠い故郷しのびつつ
    涙に曇る月影に
    優しい母の夢を見る

2(女)燕はまたも来たけれど
    恋し我が子はいつ帰る
    母の心はひとすじに
    南の空へ飛んでゆく
    さだめは悲し呼子鳥(よぶこどり)

3(女)モンテンルパに朝が来りゃ
    昇る心の太陽を
 (男)胸に抱いて今日もまた
    強く生きよう倒れまい
 (男女)日本の土を踏むまでは

2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのことです。

2012年11月01日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎


リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという。

青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。

2012年10月29日

◆竹島「密約」のあった時代

渡部 亮次郎


韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7

◆竹島「密約」のあった時代
渡部 亮次郎

韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。月刊誌「自由」1980年10月号から転載。2012・9・7


2012年10月26日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載をした>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?
平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2012年10月21日

◆老人でも軍隊を知らず

渡部 亮次郎


戦争をテレビ中継で観る時代。昭和11(1936)年生まれの76歳ですら、戦争に征かず、軍隊の実態を全く知らない。だから戦争に反対も賛成もする資格すらないといわれても文句が言えない。

陸軍で言えば師団とか旅団、連隊といわれて、その規模が全く想像できない。小隊、中隊、大隊といった言葉は劇映画で耳にするも、何人ぐらいで編成されるものなのか見当もつかない。

もともと私の世代は柔道、剣道すら知らない。高校に入学した当初はまだアメリカの占領軍がいて、それらを禁止していたからである。あの掛け声が斬込み隊を連想させるからだといわれた。その代わり野球が奨励された。

小(国民)学校入学が、対米戦争の始まった翌年。戦争中はアメリカの艦載機に追いかけられたり、近所の石油タンクの爆撃に震えあがったり、空腹を抱えて逃げ回っているうちに、国の歴史始まって以来の敗戦。

8歳上の男児は予科練や満蒙開拓に動員されて、大半が戦死した。こちらは一寸幼かったから生き延びた。

当然、海軍のことも全く知らない。軍艦と戦艦の区別すら知らない。巡洋艦も駆逐艦の区別が分からない。潜水艦と空母ぐらいは映画を観て知っているだけ。

国連とは、小沢氏に依れば、民主党が最も頼りとする国際組織らしいが、一寸違うんじゃないか。The United Nations だから連合国としか訳せない。どう頑張っても国際連合にはならない。

加盟する際、日本外務省が意識して誤訳したのである。内訳は第2次大戦の戦勝51カ国が1945年6月に結成した「組合」にすぎない。

それが、日本ではいつの間にか「国連中心主義」とかの政策が出てきて公的な国際組織と誤解するようになって今日に至っている。

誤解している人は精神科医に診て貰った方がいいらしい。国連には中心が無い。それなのに国連中心主義を唱える歴代日本政府もまた精神科医の診察が必要なのだ。

国連は世界統一の国会でも裁判所でもない。単なる組合なのだ。そんなものを重視するのは日本だけだ。裏で舐められ、世界で2番目に大金を取られている。

その昔、ある閣僚は「国連は田舎の商工会議所みたいなものだ」と本当のことを言ったら、佐藤栄作首相は、彼をクビにした。あのときから日本は「国連病」にかかってしまった。へんな結論になってしまった。


2012年10月19日

◆だまこもちも怖い

渡部 亮次郎


だまこもちは、秋田県の郷土料理。潰したご飯を直径3センチほどに丸めたもの。だまこ、やまもちとも呼ばれる。主に鍋の具材として用いられ、だまこもちが入った鍋はだまこ鍋と呼ばれる。

五城目(ごじょうめ)町において、1959(昭和24)年に三笠宮崇仁親王が同町でだまこ鍋を食べ、称賛したことを契機に、町を代表する料理として扱うようになった。

うるち米の飯を粒が残る程度に潰し、直径3センチほどの球形にする。家庭によってはこれに塩を振ったり、煮崩れを防ぐため軽く火で炙ったりする。鶏がらの出汁に醤油や味噌などで味をつけ、鶏肉やねぎ、セリ、ごぼう、きのこ(マイタケ等)の具と共に煮る。

これらの調理方法はきりたんぽ鍋とほぼ同じであるが、棒状にして表面を焼くきりたんぽと違い、だまこは団子型で(基本的には)焼かない。

旧八郎潟周辺の地域が発祥とされ、ここで生まれ育った私は少年のころから、厭というほど食べさせられた。昔は八郎潟で獲れたフナなどの魚が使われ、味付けには主に味噌が用いられた。しかし八郎潟の干拓により魚が減ったために、現在の鶏を使う形に変化していった。

なお八郎潟町周辺にはだまこの原型と考えられる「つけご」という料理がある。潰した飯を箸で一口大にちぎって、かやきの汁に浸して食べる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八郎潟の魚は只だったから、家庭で撮る蛋白源は鮒か鯰。海の魚は高価だから子どもの口には全く入らなかった。肉と言えば飼っている鶏を潰すしかなかった。生まれて初めて豚肉を食べたのは中学2年のとき。刺身を食べたのは30歳近くなってから、握り寿司は60歳になってからだった。

少年時代からステーキやトンカツが食べられる境遇だったら、もっと背丈が伸びていただろうと残念に思うことがある。死んだ兄もそう思っていたに違いない。県立秋田高校を3年間1番で通しながら大学へ行けるカネが鳴く、地方の新聞記者で一生を終えた。享年81。 2012・10・18

2012年10月15日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎


福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だったが、命日が7月5日とは事典で調べて分った。1995(平成7)年に90歳で亡くなった。慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい?

1976年12月、内閣総理大臣に就任されたとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977〔昭和52〕年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳にははいらない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を、私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

!)首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

!)退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

!)ところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

!)後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった〔椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる。

!)福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては誠に苦しい立場になるからである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」されたが、私としては如何ともし難かった。