2014年07月31日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を惹いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略)

2014年07月29日

◆野鳥捕りで捕まった外相

渡部 亮次郎


九州育ちの人は野鳥を捕まえるのがおしなべて好きなのか、熊本県ながら天草島で生まれ育った故園田直(そのだ すなお)氏は秘書官の私に隠れて東京・多摩地方の山でメジロ捕りの罠を仕掛けて自然保護員に捕まったことがある。

藪の中から引きずり出してみると、これがなんと知らぬ者なき現職の外務大臣閣下。捕まえた方がびっくりしたらしい。ワナは仕掛けていたが幸か不幸か1羽も捕まえていなかったので、何とか放免されたらしい。

というのは、ご本人、存命中は私には絶対語らなかったからである。当日(日曜日)の警護の当った警視庁警護課派遣の警護官2人が、その日のうちにこっそり、教えてくれたのである。

とにかく、野鳥を飼うのが好きで、目黒の借家には常に何かしらの野鳥が縁側の籠に入れられていた。だがその世話は書生任せ。そのくせ日曜日に、秘書官に隠れてメジロ捕りに行くとは。なんとも子供じみて思い出しても噴出しそうになる。

仕掛けやワナをどこでどう細工したのか知らないが、多摩の山中で2人の警護官に警護されて息を潜めていた。そこを自然監視員に補導されてしまった。笑い序に「キミたちは大臣を警護していたはずがメジロに気を抜かれていたのかね」といって笑った。

そういう大臣だったから、とうとうフランスから山にいる亀を持ち帰ったこともあった。当時、OECDの大使をしていた人が有名な亀博士。2人で亀談義に花を咲かせ、遂に1匹を貰ってしまったのである。

後日亀が届けられ、縁側でキャベツを齧っていた。

そんな大臣も糖尿病からくる腎臓の悪化で70歳で死んでしまった。死ぬ直前には網膜症で全盲になっていた。エープリル・フールの翌日「4月2日」が命日である。なおメジロ捕り大臣を警護した警護官の1人は先年、自ら命を絶った。

◆サンドウイッチの日

渡部 亮次郎


過ぎたが、3月13日は(多分日本だけの)「サンドウイッチの日」だそうだ。「366日の話題事典」(加藤迪男編 東京堂出版1999年12月10日再版発行)に出ている。「3」「13」は「サン」が「1」「イッチ」を挟んでいるところから語呂合わせして制定された。

下手な駄洒落にしか聞えないが、70年以上生きてきた私が知らなかったのだから知らない人が大部分では無いか。とはいえ、根っからの田舎ものだから、知らないのは私だけ、ということもありうる。

東京へ出てきたのが昭和29年、まだ18歳だった。食糧難の時代。今のような飽食の時代が来るなんて想像もしていなかった。又、飽食の事態を招くべく働いたという気も無い。賞味期限とやらで、コンビニが大量の食物を捨てる時代は見たくなかった。

そういう貧乏な青春に育ったから、サンドウイッチなるものを初めて口にしたのは多分記者になってからだったろう。記者になったとはいえ、初めは田吾作記者と蔑まれた。農政担当を仙台ではそう呼んだ。コメ担当だったからサンドウイッチは視野に無かった。

待てよ、仙台の次は盛岡(岩手県)の4年。雑穀県だったから、ここでもサンドウイッチなんて物は少なくとも売ってなかった。すると東京へ戻って政治記者になってからだろうか、食べたのは。

それより前、昭和28(1953)年5月に俳優の鶴田浩二が宮川哲夫作詞、吉田正作曲で「街のサンドイッチマン」を歌って発売している。「ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕が笑うだろ」。

尤もこの歌は有名だった職業軍人将軍の子息が銀座でサンドイッチマンをしていると言うことから歌になったもので食べるほうではない。この頃もサンドウイッチではなくサンドイッチと言っていた。

前と後ろから挟まれた状態の事を「サンドウイッチ(された)」という事がある。このことから、広告を書いた板に挟まれた格好で街中で宣伝を行う人間広告塔の事をサンドウイッチマンと呼ぶ。英語では「sand.」と略する事はあるが「サンドする」「○○サンド」の意味で「sand」を使う事はないそうだ。

さて起こりのことである。実は巷に流れている説は事実と違っていて、はっきりしたことは定かでないらしい。つまり18世紀イギリスの貴族で海軍大臣などを歴任したサンドウィッチ伯爵、ジョン・モンタギュー (JohnMontagu, 4th Earl of Sandwich)に因む、と教えられた。

彼が無類のホイスト(トランプ遊びの一種)好きで、食事にかける時間を惜しむ程だった。そこで、ゲームの合間に片手で食事が取れるよう、パンに具を挟んだものを用意させていた事から、いつしかこれがサンドイッチと呼ばれるようになった、というものだった。

ところがこれは彼を「貴族のくせに、庶民の食べ物で済ませるだらしない人物だと印象付ける為に彼のライバルが流したデマ」であると言う説があるそうで、結局いずれにしても、はっきりしたことは定かでない、ということになる。

また彼をサンドイッチの発明者とする話もよく聞かされたが、パンに具を挟むという料理自体は古代ローマのオッフラ、インドのナンとして、古くからあったのだそうだ。人を田吾作といいながら嘘を教えた先輩。

「サンド(砂、sand)とウィッチ(魔女、witch)」以外、どんなものでもパンにはさんで食べられるということから、サンドイッチと名づけられたとする説もあるが、ウィッチのつづりが異なるため俗説の域を出ない。なお、伯爵の領地サンドウィッチ村の名前は、古い英語で「砂の地」を示す言葉に由来するそうだ。

食べる時にフォークや箸などの食器を必要としないので、日本でもすぐ普及した。ピクニックなどの際の食事としても重宝がられた。同様の理由で、列車で旅行する際の車内食や、航空機などの機内食に用いられる事も多い。駅売り(駅弁)のサンドイッチとしては、大船軒が明治32年(1899年)に行ったのが日本では最初である。

日本では、おにぎりと共にコンビニエンスストアにおける定番商品であり、いまや各店とも様々な種類のサンドウイッチを用意している。アメリカ合衆国ではデリカテッセンの主力商品であり、サンドウイッチのおいしさが店の繁盛に大きく影響するといわれている。

日本では食パンに具を挟んだものを指す事が多いが、それ以外の形式のものもサンドウイッチと呼ばれる。例えば、フランス料理における前菜として、食パンベースのカナッペがあるが、これもサンドウイッチの一種と言える。また、ハンバーガーや、イタリア料理のパニーノもサンドウイッチの一種である。

耳をつけたまま、またフランスパン、ベーグル、ロールパン等を使う物もある。パンはそのまま、あるいはトーストにして、普通はバターやマーガリンを塗ってから具を挟む。これにはパンが具材の水分を吸うのを防ぐ目的もある。風味を付ける為、からしやマスタードを塗る事も多い。

食パンの場合は薄切り(1斤を8枚乃至10枚切りにしたもの)が一般的である。具を挟んだ後、布巾をかけて軽く上から重し(本など)を置き、パンと具材の密着度を高めると、食べる際にバラバラにならなくてよい。

具を挟まずに乗せただけの物は、オープン・サンドウイッチ(オープンサンド)と呼ばれる。ライ麦パンの上に多彩な具材を乗せたデンマーク料理・スモーブローは特に有名。

また、サンドウイッチを専用器具に挟んで両面を焼いたものはホットサンド、細切りした耳なしの食パンに薄切りにした具を乗せ、端から円筒状に巻いたものはロール・サンドイッチと呼ばれる。 細長いパンを切って具材を挟んだものを潜水艦に見立ててサブマリン・サンドウイッチ(サブ)という。

バリエーションとして、パンに具材を挟んだものに溶き卵を絡めて油で揚げたモンテクリストサンドイッチなどもある。


2014年07月28日

◆そうめん(素麺)知らず 田舎者

渡部 亮次郎


そうめんを知らずに育った。秋田の田圃ばかりのところで生まれ育ったのと、幼少期、大東亜戦争による物資不 足で、見たこともなかった。

大東亜戦争を始めるとき、日本政府は閣議でそう呼ぶことを決定したほどこだわった。だが敗戦後、占領軍=アメリカの命令で太平洋戦争と呼ぶようになり、以後、日教組の意図もあって大東亜戦争とは呼れなくなっているが、日本政府としてはアジア各国を欧米各国の植民地から解放するという意図を持った戦争と位置付けていた。

昭和29(1954)年春、大学入学のため上京するが、その際、とりあえず1年分のコメを携帯する許可を町役場から父が貰ってきたが、立ち寄った親戚の強欲婆にすべてを取られた。事後、この一家とは断絶したままである。

このとき、蕎麦屋なるものを知った。品書きに「もり かけ 20円」と一番安かったから、その通り注文したら、店員に笑われた。のちに文藝春秋の創史者菊池寛も四国から上京した際、同じ体験をしたと知って安堵した。

世界大百科事典によると、そうめん(素麺)とはめん類の一種。古くは索乏(さくめん)といい,音便で〈さうめん(そうめん)〉。蕎麦屋では夏になると品書きに載った。

むせ返るように暑い東京では、欠かせない食べ物であるように感じた。クーラーなど、まだ、何処にもなかった昭和20時代。

小麦粉を食塩水で練って太めのひも状に切り、その表面にまんべんなく綿実油を塗って細く長くのばし翌朝まで熟成させる。これを2本の棒を用いて絹糸のように細くのばし,天日乾燥したのち切断する。

丸2日の工程を要するもので,極細の手延べそうめんの場合、1kgの粉が2km以上の長さになる。良質の小麦を産し、気象条件が戸外乾燥に適する地方では、農家の冬季の副業として生産されてきた。

1645年(正保2)刊の《毛吹草》には、山城の〈大徳寺蒸素鋒〉、大和の〈三輪素鋒〉をはじめ、伊勢,武蔵の久我(こが)、越前丸岡、能登和嶋(わじま)、備前岡山,長門長府、伊予松山など諸国の名物そうめんがあげられている。

いまは宮城県白石(しろいし)のうーめん、富山県砺波(となみ)の大門(おおかど)そうめん、三重県四日市の三重の糸、兵庫県竜野の揖保(いぼ)乃糸、奈良県桜井の三輪そうめん、徳島県の半田そうめん、香川県小豆島の島の光、愛媛県松山の五色(ごしき)そうめん、および長崎県西有家(にしありえ)の須川そうめんなどが有名で、昔ながらの手延べそうめんが珍
重される。

寒中に製造されたのを倉庫にねかせ、梅雨どきの〈やく〉を過ぎてから出荷される。色つやがよく弾力性のあるものが良品である。たっぷりの熱湯でゆで、さし水は1回だけ。冷水にさらし、冷めてからもみ洗いしてざるに上げ、つけ汁で食べる。これが冷やしそうめん(冷やそうめん)で、流しそうめんと呼ぶのは、誇状の装置を設けてこれを流し、それをすくい上げて食べさせるものをいう。

薬味には、おろしショウガ、刻みネギのほか、青ジソ、ミョウガ、練ガラシなどが用いられる。ほかに淡口(うすくち)しょうゆ仕立ての汁で煮込む煮乏(にゆうめん)があり、また大皿にタイを薄味に煮たのとそうめんを盛り合わせた鯛乏(たいめん)は瀬戸内地方では祝儀に欠かせぬ料理である。   

この通り、秋田には今では全国的に有名な饂飩「稲庭うどん」があるが、そうめんの有名品はない。人は驚くが、ほんとに、そうめん知らずで育ったのだ。だからシーズンと言われてもそうめんを食べたいとは思わない。

稲庭うどんも大人になってから、東京で知ったもので、子供の頃には全く知らなかった。恥ずかしい話だが、パンも高校の売店で初めて対面した。戦争を体験するとはこんなことなのだ。


2014年07月27日

◆鰻は夏ではなく冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が住み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。 出典:「ウィキペディア」

2014年07月24日

◆「核」が日中開戦を抑止する(57)

平井 修一


古森義久氏の論考「中国の首脳陣が憂慮する6つの難題 米国防省が中国の弱みを指摘」6/11が興味深かった。以下引用。

            ・・・

中国の最高指導者たちは自国の軍事力の拡大に懸命のようだが、その一方、国威の発揚にとって陰りや障害となり得る要因にも深刻な懸念を向けている。

それらの気がかりとなる要因とは何なのか。米国の国防総省が6月5日にリポートを発表し、興味深い指摘を行っている。その内容を紹介しよう。

米国防総省が発表した「中国の軍事力と安全保障の展開に関する報告、2014年版」。現在は好ましく見える安全保障環境も、いくつかの要因によって自国(中国)の戦略的な発展が阻害される恐れがあることを懸念している、というのだ。

同報告が挙げるそれらの要因とは以下の6点である。

【経済成長の鈍化】

第1に投資と輸出への過度の依存状態から抜け出せないことが挙げられる。第2には世界の貿易パターンの変化、第3に国内資源の制約、第4に賃金の値上がりと労働力不足、第5にはエネルギーなど海外の資源が入手しづらくなることなどである。

【ナショナリズムの危険性】

中国共産党や人民解放軍の指導層は、共産党の統治の正当性を支え、国内の党への批判を抑えるために、ナショナリズムを一貫して利用してきた。諸外国との対話を拒むうえでも、ナショナリズムをその理由にして、利用してきた。

ところがナショナリズムは首脳陣にとって両刃の剣となりうる。対外戦略上、柔軟な政策を取りたくても、国内のナショナリズムの高まりで、逆にその制約を受けてしまう危険があるのだ。

【東シナ海、南シナ海をめぐる緊張】

東シナ海をめぐる日本との緊張関係、シナ海をめぐる複数の東南アジア国家との緊張関係は、中国の周辺の地域や海域での安定を崩すことになる。中国と対立する各国は、米国のアジアでの軍事プレゼンスの増大を求める。

さらには、それら各国が独自に軍事力を強める可能性や、米国との軍事協力を強める可能性もある。こうした可能性が現実になれば、いずれも中国に対抗する軍事能力の増強につながり、中国の軍事力を相対的に弱めることとなる。(以上)

             ・・・

この他に【蔓延する汚職】【環境問題への対応】【高齢化と少子化】があり、汚職は支那の伝統だし、汚染は今や修復不能レベルだ。利益第一の企業も地方政府も除染に金を出さない。リターンがないから投資しないのだ。少子高齢化は日本も解決策を模索しているがとても難しい。

小生思うに、さらには「治安悪化」もあり、つまりは諸問題を先送りにしてきたから、チリも積もれば山となる、小さな問題は今や巨大な山となり、これがいくつもあるから二進も三進もいかない八方塞がりになってしまったということだ。

国民の不満は、毎年少しずつであれ暮らし向きがよくなっているのなら抑えられるが、

経済の減速→不満の高まり→反日強化→ナショナリズム高揚→軍事力強化→世界からの中共叩き→言論・自由の撲殺→テロ・暴動の頻発→治安費用の急増→環境対策資金不足→不動産バブル崩壊寸前→経済の減速、

という“負のスパイラル”にはまって、中共は身動きできなくなってきた。

習近平は一点突破を狙って汚職腐敗追放に驀進したが、今や軍閥ならぬ利権集団がぶつかり合う権力闘争になってしまった。泥沼というか蟻地獄というか、もはや沈没、自滅するしかない。国民の気概があるのならガラガラポンで新しい国が(多分複数)できるが、IMFやシンガポールなどの華僑の指導力と資金力を仰ぐしかないのではないか。

【新華社ワシントン5月17日】訪米中の中国人民解放軍の房峰輝総参謀長は15日、ワシントンの国防総省でデンプシー統合参謀本部議長と会談した後の共同記者会見で、

「中国の管轄海域での掘削探査は完全に正当な行為で、この作業は必ず完成させる。外部からのいかなる妨害、破壊も恐れない」

と強調した。ご意見無用、俺のやることに口出すな、手出ししたらぶっ放すぞ、と脅したわけだ。

中共は脱法ドラッグで迷走し、どこに衝突するか分からないキ○ガイだ。尖閣に突っ込んでくるかもしれない。日本、ベトナム、フィリピンなどは抑止力、反撃力、集団安保強化で備えなくてはならない。まったく「やっかいな隣人」だ。皆で捕捉し殲滅するしかない。

中共党員8000万人をどう処分するか。1割の800万人は確信犯で、これは人民が処理するだろう。惨殺が大好きな民族性だから嬉々としてやるだろう。残りは去勢し奴隷にして工事現場などで使うといいかもしれない。嫌なら脱党しろ。

なお、習近平が潜り込んだ文革直後の清華大学は、教授がほとんど追放されていたためだろう、レベルが中学校並だったという話がある。習のオツムが単細胞、勧善懲悪的な中坊レベルなのはそのためか。

毛沢東以来、歴代国家主席はワルながらもインテリだったが(江沢民の実父は日本寄りの高級官僚、これではまずいので素性を隠すために養子縁組、彼も大学では日本語専攻!→トラウマになって極端な反日へ)、習は中坊の肉体派。長靴とスコップが似合うから工事現場で使うといいかもしれない。飯場の飯炊き女は朴クネ。さぞ相性がいいだろう。(2014/7/24)
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2014年07月22日

◆ヴィオロンのため息

渡部 亮次郎


2007年5月25日の東京湾岸は一日中雨でも日課とされている散歩を近くの公園で、午前と午後の2回こなした。流石にほかに人はいない。上下を防水着で包み、午後はMDでクラシック音楽を聴きながら黙々と歩いた。

これは7年前のこと、流石に80近くなったいまは雨の日は室内で壇踏身で済ませている。

散歩はいつでも音楽を聴きながらだ。時たま落語を聞くこともある。文楽、志ん朝、枝雀。でも落語の筋は覚えてしまうから、つまらなくなる。そこへゆくとクラシック音楽はとても暗記できないからちょうどいい。

以前はピアノ協奏曲ばかりだったが、雨の中では案外ヴァイオリン協奏曲が合う。この日はスロヴァキア交響楽団で西崎たか子が弾いたチャイコフスキーのOp.35とメンデルスゾーンのOp.64を聞き比べて満足だった。日本の演奏家も世界レベルに到達したのだ。

そういえばヴァイオリン(英語)のことをフランス語ではヴィオロンと言ったっけ。大学時代は英語よりフランス語が得意。NHKの入社試験もフランス語で合格した。今はすっかり忘れた。

「秋の日の ヴィオロンのため息の 身にしみて ひたぶるにうら悲しかねの音にむねふたぎ いろかえて涙ぐむ すぎし日の思い出やげにわれは うらぶれて ここかしこさだめなく とびちらう落葉かな」ポール ヴェルレーヌ 上田 敏 訳 「海潮音」より

ヴァイオリンの音はため息よりも嘆きに聞こえるがなぁ、と思いながら一体、ヴァイオリンってなんだろうと改めて思った。能力もないし意欲もないからヴァイオリンを弾く事は生涯ありえないだろうが、一応、調べてみた。

ヴァイオリンが世に登場してきたのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献でヴァイオリンが描写されている。

最初期の製作者としてはアンドレア・アマティ、ガスパロ・ディ・ベルトロッティ(ガスパロ・ダ・サロとも)、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。当時は舞踏の伴奏など、世俗音楽用の楽器として考えられていた。

17〜18世紀にはニコロ・アマティ、ヤコプ・シュタイナー、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ一族など著名な製作者が続出した。特に卓越していたのがストラディヴァリで、ヴァイオリンの形態は彼の研究よってほぼ完成に至る。

前身であるヴィオール族とはいくつかの相違点が挙げられるが、力学的に改良が施されて音量・音の張りに大きく向上が見られた。

音楽文化の中心が宮廷サロンから劇場・ホールに移るにつれ、弦楽器においてこれまでになく大きな響きを持つヴァイオリンはクラシック音楽を形作る中心となっていく。

ヴァイオリンの出現当初はリュートやヴィオールに比べて華美な音質が敬遠され、芸術音楽にはあまり使用されなかった。一方で舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていた。

しかし製作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。管弦楽でヴァイオリンを用いた最初の例として、マレンツィオのシンフォニア(1589)やモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(1607)が挙げられる。

17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700、「ラ・フォリア」もその一部)で集大成に至る。

また少し遅れて協奏曲の発展も見られるようになった。コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されていたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712)等の作品群で一形式を作り上げた。

ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。

またルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を 融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。

18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。その後ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。

またトルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。

19世紀になると名人芸的技巧がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く出た。その極限がパガニーニである。一方でイタリアではオペラの流行とともにヴァイオリンの人気は少しずつ衰えていった。

19世紀中頃からはヴァイオリン音楽において、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲することが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。

またチャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。

日本には16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが伝わっていたようである。当時ポルトガル修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが、フロイスの「日本史」に書かれている。

しかし日本人が本格的にヴァイオリンを扱うのは明治以降だ。1880年音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが手ほどきをしたのが始めである。

ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。また大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、プルメスター、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。

戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多数いる一方、アマチュアとしての愛好家もピアノに次いで幅広く存在する。

ヴァイオリンの板など各部品はニカワで接着される。蒸気を当てることで分解できるため、木製品でありながら分解修理や部品交換が可能である。この分解修理の可能な点が、300年以上の時を経ても演奏可能な状態を保つ事が出来る所以である。出典:「ウィキペディア」

2014年07月20日

◆英新国防相が集団的自衛権容認を歓迎

内藤 泰朗


「自衛隊は世界で最もプロフェッショナル」

【ロンドン=内藤泰朗】英国のマイケル・ファロン国防相(62)は18日、声明を発表し、日本政府による集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定を歓迎し、日本が世界の平和と安全保障にいっそう積極的な役割を果たすことに期待感を示した。

ファロン氏は15日、キャメロン政権の大規模な内閣改造で就任したばかり。国防相就任後初の公式声明であり、日英両国の安保協力の進展を印象づけた。

ファロン氏は声明で、「自衛隊は世界で最もプロフェッショナルな人材を抱え、平和維持や災害救援活動で優秀な結果を残してきた」と高く評価した上で、「これらの改革は、日本が世界平和と安保により責任を持つようになってきた自然な流れだ」と強調した。

さらに、日英防衛当局の協力分野の拡大と、今年9月に英国で開催される北大西洋条約機構(NATO)サミットへの日本の参加に期待感を示した。

ただ、「隣接国の誤解を避けるため、これらの変化を明確に説明することが重要だ」とも指摘し、中国や韓国と摩擦が深まる現状には懸念を示した。産経ニュース2014.7.19

◆鳩を寄せる悲しみ

渡部 亮次郎


鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階の我が家のベランダにも番(つがい)が産卵しに来る始末。 (その後、反対側に転居。こなくなった)。


ところで、老人と話してみると、たいていは独り暮らし。関東大震災をくぐり、昭和20年3月の大空襲では、親兄弟を失いながら、悲しみに耐えて生きてきたが、寄る年波でもういけねぇ。

ヨチヨチと散歩に来て、エサに寄って来る鳩の羽ばたきが生きてるシルシよ、というのだ。かと思えば、家では嫁に掃きたてられるようにして公園に出てきても話し相手はいない。

なにしろ下町と言っても、個人主義の時代が長すぎた。公園で出合っても挨拶する人は年寄りでも稀になった。仕方が無いから、たばこ銭を詰めて買った玉蜀黍(とうもろこし)を撒いて鳩の群れを寄せ付けるのさ。だから、鳩が頭に立とうが、肩にとまろうが嬉々としてその老人は張り切って
いる。

まさに公園管理所の考えている鳩問題は、鳩問題ではなく、すぐれて老人問題、福祉問題なのである。都知事殿もこのあたりは判らない。

公園には嘗ては常時10人ぐらい住み着いていたホームレスも管理所の妨害作戦により全く居なくなった。だがエサをやる老人たちは管理所に隠れるように木陰に立って撒いている。

犬は放すんじゃないと管理所、幾ら叫んでも、放し飼いだから、何時噛まれないとも限らない。まこと、老人たちの鳩寄せ事業は歩きながらで大変なのである。

ある日から、パンくずを持って仲間入りしてみたが、あれほど面白くないものは無い。第一、鳩は根っからの馬鹿だ。記憶と言うものが無い。ア、昨日のおじいさんだということが絶対ない。わかってない。

エサに興味があるのであって,くれる人に興味は無い。記憶もない。愛がわかない。老人の鳩寄せは実に悲しい限りだ。益々老人になって行く当方だが、エサやりはやめた。

2014年07月17日

◆「三猿」中国特派員

渡部 亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏(故人)が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない

(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28執筆出典: 『ウィキペディア』

2014年07月15日

◆マッカーサー到着の日

渡部 亮次郎


1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは平壌出身の歌手小畑実だったが、気付いた日本人は限られていた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が出席した。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2014年07月14日

◆スパイからの領収書

渡部 亮次郎


朴正煕(パク・チョンヒ)氏が韓国大統領在任中、未入閣時代の衆議院議員園田直氏が表敬訪問したことがあった。その時、雑談の中で大統領が呟くように言ったそうだ。「わが国もお終いだ。会計検査院(?)が言うんです『スパイから、ちゃんと領収書を貰わなくちゃ困ります』って」。

スパイは敵方陣営の所属。いうなれば味方を欺いて、こちらに協力しているわけだから、極秘に受領するカネに領収書など手交するわけがない。それなのに「領収書を貰ってこなくちゃ困ります」とは官僚主義の凝り固まりの発言なわけだ。

帳簿の帳尻は合っても国家の帳尻の合わないことをなんと解釈するのか。

朴大統領はそれを嘆き、「国家の行く末」を案じたわけである。だが、鳩山政権はそれと同じ事をやって「透明な政治」「官僚の秘密主義を断乎、許さない」と息巻いていた。

岡田外務大臣(当時)は「核」をめぐる米政府との密約文書を表に出す事で有権者の人気をとろうとし、平野官房長官は「官房機密費」の内訳を公開しようと努力した。

一見正当な行為のように映るがこれが、結局はめぐりめぐって国益を著しく損ない、最終的に国民を不幸に陥れることになるとは気付かないのだろうか。大学出のバカ?!

まず「核密約」である。核が、日本国土に果たして無いのか、ひょっとしてあるのか。あるのか無いのか、敵を疑心暗鬼にさせることが「抑止力」となって、敵の軍事的行為をためらわせることになる。

佐藤栄作元総理はノーベル平和賞を受けたが、本当の功績は沖縄返還に有るのではなく、非核3原則を謳いながら、密約によって核の存在をあいまいにして「核抑止力」を手中にしたことにあるのだ。

だから密約を外務大臣にも知らせずに京都産業大学教授の若泉敬をしてキッシンジャーと交渉させて成功。ニクソン大統領との間で署名しあった。その姿を若泉にも見せなかった。

若泉は病死する寸前「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と一書を世に問い、莞爾として死んでいった。日本の平和は「核密約」によって保たれてきたものである。

それを岡田克也外務大臣はわざわざ、探し出して公開しようとして大車輪だった。「行政の透明化」だという。密約を透明化して日本の国益が少しでも増すのか。国民の安全になんらか、役立つのか。

岡田氏の功名心を満足させるだけで、1円にもなりはしない。それどころか全国民を裸にして恐怖のどん底に落とし、中国や北朝鮮に晒して喜ばせるだけではないか。当に国賊、売国奴と言わずしてなんと呼ぼうか。

次に「官房機密費」につてである。あれは国民に知らせずに仕事をしているようにマスコミは暴こうとしているが、実態は外国に秘密に仕事をするために行なう「機密」なのである。

特に外交交渉にあたって国民にすべてを公開する事は同時に相手国に手の内を晒すようなものだから「機密」にするわけである。そのことを考えずに内閣や行政から「機密」を無くせば、結局は国益を損じ、国民を不利に追い込むことになる。

戦後、ほぼ一貫して自民党が政権を握ってきた事で、民主党は今回の「政権交代」で密約や機密を公開することが、「永年の膿」を出すかのごとく考えたようだが、国益優先に考えれば、やってはいけないことだろう。政治に暴露趣味や悪趣味はいけない。短期で政権崩壊した所以である。

2014年07月11日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとした毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だった。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だそうだ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革とは資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化である。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことであって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定するのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部にすれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。