2015年08月18日

◆安保法制反対派が語らない奴隷の平和

古森 義久


いまの日本では「平和」という言葉が暴力的な効果をも発揮するようである。より正確に述べるならば、「平和」が日本の国民や国家を守ろうとする努力を破壊する政治的武器に使われる、という印象なのだ。

朝日新聞などが扇動する安保法制関連法案への反対運動での「(同法案成立は)この国を再び戦争に巻き込む」という類の主張が例証である。

同法案は平和を崩し、戦争を求めるのだという虚構の非難が放たれる。集団的自衛権解禁への賛成側は平和の敵と断じられる。個々の政治家の片言隻句を軍国主義とか好戦主義と攻撃する乱暴さは暴力的という表現まで連想させる。

一方、原爆と終戦の8月の日本では平和は国民の心から真に祈られるといえよう。平和の恩恵と戦争の惨禍を語ることは貴重である。だがその種の言葉が「日本の平和主義」という域まで進むとなると、その「平和」を政策として点検することも欠かせなくなる。

日本でとくに8月に語られる「平和」は単に「戦争のない状態」を指すといえよう。平和の内容が決して論じられないからだ。戦争さえなければ、他国に支配された「奴隷の平和」でもよいのか。自由も人権も民主主義もない平和でもよいのか。

この点で忘れられないのは40年前、ベトナム戦争の終わりに目撃した「独立と自由より貴いものはない」という民族独立闘争の標語だった。独立や自由のためには平和も犠牲にして戦争をする、という意味のベトナム共産党のホー・チ・ミン主席の言葉だった。

米国の歴代政権が国家安全保障の究極の目標として「自由を伴う平和」と条件をつけるのも同じ趣旨である。オバマ大統領もノーベル平和賞の受賞演説で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳に基づかねばならない」と述べた。

単に戦争のない状態の平和を守るには絶対に確実な方法がある。外部からの軍事力の威嚇や攻撃にすぐ降伏することだ。相手の要求に従えば、この平和は保たれる。尖閣諸島も中国に提供すれば、戦争の危険は去るわけだ。

だが安保法制反対派もここまでは語らない。そのかわり戦争には侵略と自衛の区別をつけず、すべて邪悪として排する。日本は現行憲法でも自衛戦争の権利は有しているのに、反対派は日本の自衛のための防衛力や抑止力の整備さえも認めないようなのだ。

反対派が悪だとする日本の「植民地支配」や「侵略」は米国の対日戦争で除去された。その手段はまさに戦争だった。だから米国は、そして中国も、あの戦争は正当で必要だったと宣言する。オバマ大統領も前記演説で「正義の戦争は存在する」と強調していた。

8月の米国では対日戦争の勝利が必ず祝われる。日本にとっては悲しいが「原爆投下に神への感謝を」(大手米紙の今年8月5日の論評)という主張さえ出る。

どんな戦争も否定しようとする日本の一部の認識が、国際的にいかに異端かがわかるだろう。それでも安保法制法案は自衛ではない戦争はきわめて明確に排している。だが、その趣旨に賛成する側はあたかも平和自体に反対するかのようなぬれぎぬを着せられるのだ。
(ワシントン駐在客員特派員)
産経ニュース【あめりかノート】8・16

◆カツ丼で勝てるか

渡部 亮次郎



受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。

福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えてくれた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはデミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

ソースカツ丼
福井県ヨーロッパ軒のソースカツ丼。キャベツを下に敷かない。おおよそのスタイルとして、ウスターソース系のソース(トマトケチャップ・酒などを加えたソース)にとんかつをくぐらせてから丼飯の上に盛ったものである。

北海道の訓子府町では、ご飯の上に海苔を敷いて揚げたてのカツを乗せ、それにタレをかける。

カレー風味カツ丼
山形県西村山郡河北町の料理。醤油やソースをベースに数種類のスパイスを加えてカレー風味にしたタレをかける。

かつ皿
静岡県富士市の料理。ご飯の上にゆでキャベツとカツをのせた後、卵をそばつゆで伸ばしたタレをかける。

タルタルカツ丼
群馬県安中市の料理。醤油だれがかかったトンカツの上にタルタルソースが載せられている。

味噌カツ丼
名古屋市の料理。味噌カツを丼にしたもの。味噌だれの卵とじが本来の形であるが、愛知万博に合わせた名古屋ブームを創るにあたって、ソースかつ丼風で付け合わせとしてキャベツの千切りも乗った形のものが開発された。

あんかけカツ丼
岐阜県瑞浪市の料理。鰹節やムロアジでとった和風だしと醤油、砂糖などをベースとしている。戦後、卵が貴重だった時代に考案されたとされ、卵加えて、とろみをつけた餡をかけている。

てりカツ丼
岐阜県土岐市の料理。ドミグラスソースにソース、ケチャップ、和風だしを加え、ワインなどで味を調えたタレをかけた洋風のカツ丼。

塩カツ丼
ソースやタレを使わず、塩味をつけたカツをそのまま丼飯に乗せて供する。下味以外に、味を付けない豚カツを丼飯の上に乗せ、塩ダレをかけたもの。

おろしカツ丼
下味以外に、味を付けない豚カツを丼飯の上に乗せ、大根おろしを乗せたもの。好みで、一味唐辛子、七味唐辛子、白醤油、濃口醤油、ポン酢、刻み海苔、刻みネギなどをかけて食べる。

大阪周辺では一般的なメニューになりつつある。「別れ」(具を丼飯の上に乗せず、調理時の手鍋に入れたままの状態)で供する店も多い。冷製のものもある。

カレーかつ丼
カツ丼の上にカレーをかけたもの。カツカレーに近い。主体がカレーである店では「カツカレー丼」と呼ばれることもある。
洋風カツ丼の例

(新潟県長岡市)カツを載せたご飯に、ハヤシライスのソース・ケチャップ・醤油などを混ぜたもの、もしくはデミグラスソースをかけた料理。

福岡県大牟田市にあった百貨店「松屋」の食堂(現在は閉店)や、新潟県長岡市周辺などで供されるものが知られている。兵庫県加古川市の「かつめし」に近い。

「卵とじカツ丼」が一般的でありそれを単に「カツ丼」と呼ぶエリアで、ソースカツ丼などそれ以外のカツ丼をさすときの名称。逆に「ソースカツ丼」などが一般的でありそれを単に「カツ丼」と呼ぶエリアでは、卵とじカツ丼のことを「煮カツ丼」などと呼んで区別する場合がある。

トマトカツ丼
豚カツを丼飯の上に乗せ、トマトとタマネギなどを煮た酸味のあるソースをかけたもの。

煮カツ丼
カツ煮カツ丼の山梨や新潟における呼称。醤油味、玉子とじである一般的なカツ丼によく類似する。やや煮込み時間が長く、カツの衣はとろける状態になっている。

さらに山梨県、新潟市近郊におけるカツ丼は、酒、醤油、ケチャップ、みりん等を煮詰めたたれにカツをくぐらした、通称タレカツ丼を意味する。

えびカツ丼
カツ丼のトンカツを海老カツに置き換えたもの。店によっては、えびカツではなくエビフライが載っていることもある。

ビフカツ丼
カツ丼のトンカツをビフカツに置き換えたもの。牛肉料理の専門店では、単に「カツ丼」と呼ぶ事がある。

チキンカツ丼
カツ丼のトンカツをチキンカツに置き換えたもの。鶏肉料理の専門店では「カツ丼」として供される。

メンチカツ丼
カツ丼のトンカツをメンチカツに置き換えたもの。

わらじカツ丼
埼玉県秩父郡小鹿野町の料理。甘めのタレがかかった2枚の大きなカツが乗っている。

変わりカツ丼
チーズ、キムチなどを合わせた変わりカツ丼を販売している店もある。

沖縄県のカツ丼
沖縄県の大衆食堂に見られるもので、カツの上にニンジンやタマネギ、もやし、キャベツ、ピーマンなどの野菜の煮込みや野菜炒め、野菜入りあんかけをかける。濃厚な味付けに特色があり、卵でとじない例も多い。

カツ丼は戦後しばらく日本が貧しかった時代に庶民にとってはご馳走であった。その頃の刑事ドラマの取調室のシーンでは、刑務所に行ったら二度と食べられないだろうと、刑事が自分の安月給から店屋物のカツ丼をとってやり、被疑者に食べさせると、被疑者はその情にほだされ、泣きながら「私がやりました」と、犯行を自供をするというシーンがあった。

だが、それがモチーフとなってパロディ化されたものが広まったことから、「本来やってはいけない事を被疑者を信じて特別にした人情刑事」というエピソードのはずが「取調中の食事はカツ丼が出る」「自白するとカツ丼を食べさせてもらえる」などと誤解されるようになってしまった。

ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こした際、取調中に捜査員から食事を促されたときに「取調べで食事といえばあれしか無いだろう」とカツ丼を注文したが食後に代金を請求されたため(捜査員から「600円オールね」と言われたらしい)、「金取られる位なら注文するんじゃなかった」と毒舌交じりに語っている。(1987年6月25日、『たけし軍団のオールナイトニッポン』にて)

現在では通常、留置中の被疑者については専用の弁当が用意されており、留置所での食事時間が必ず取られている。また、投げつけるなどして警察官がひるんだ隙をついて逃走される可能性もある事から、取調室で食事が出されることはなく、仮にあったとしてもその費用は被疑者の自己負担であり、警察官が費用負担した場合は利益誘導として裁判の際に供述の任意性が否定される場合がある。

ここで出される店屋物がカツ丼である根拠としては、店屋物の発注先として歴史的に最もポピュラーな店舗は蕎麦屋であり、蕎麦屋に注文可能なもので取り調べのスケジュールを阻害せず、時間が経っても伸びずに、冷めても魅惑的なメニューがカツ丼であったからとする見解がある。

2006年9月6日、埼玉県警所沢署の警部が、取調室で被疑者にカツ丼を食べさせるなどしたとして、減給100分の10(3か月)の懲戒処分を受けた(この警部は同日に依願退職)。

このカツ丼は被疑者の両親の知人が持ち込んだものだが、県警の規定では食事は留置場内で取ることとなっており、これに違反していた(ただし、上記のドラマとは異なり、被疑者が暴力団関係者だったために接見室ではなく取調室で家族と接見させるなど、今後の捜査で利用できないかと思い便宜を図ったことが重い懲戒処分に至った原因であり、単に取調室でカツ丼を食べさせたことだけが原因ではない)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年08月17日

◆北東風「やませ」は凶作の使者

渡部 亮次郎



江戸時代には天候不順や噴煙による日照不足などで「飢饉」が屡々起きたようだ。天明の飢饉の言い伝えは、生まれ故郷・秋田で子供のころ聞かされた。

私の生まれた昭和11(1936)年の2月26日に起きた「2・26事件」の遠因も「やませ」による東北地方の米の凶作にあるといわれている。

凶作の生活苦に追い詰められた実家の両親が、兵隊の姉妹を東京の苦界に身売りしている惨状に、兵隊たちが政界、財界への反発を募らせたのだと言う説。

流石に敗戦後は品種改良で冷害に強い品種を創り上げたり、秋田県知事(当時)の提唱による「三早栽培」の普及などで凶作は遠くなったように見える。

種まきを早くし、田植えを早く済ます。稲刈りも早くして台風の被害を少なくする、というのが三早栽培。確かにその通りなのだが、それを裏づけたのが「ビニール」の普及だった。

「温床」に代わる「ビニール・ハウス」で苗が雪消えの前の播種を可能にし、田植えの早期着手を可能にしたわけだ。しかし「やませ」が来たらひとたまりもない。しかも東北では8月中旬、つまり、出穂(しゅっすい)時に来て「日照不足」に生ると稲は命をとられる。稔らないのだ。

海から上陸する「やませ」(山背)は、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)だ。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。

やませは、北海道・東北地方・関東地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。なお、オホーツク海気団と太平洋高気圧がせめぎあって発生する梅雨が遷延しても冷害となる。

夏季にオホーツク海気団から吹く北東風は冷涼・湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると日照時間の減少や気温の低下の影響を及ぼす。

若い頃、青森県の太平洋岸八戸海岸でこれを実際に見た。早朝、海で発生した霧は、海岸から這うように上陸し、山肌を舐めるように登って行った。地上の花や野菜はぐっしょり濡れた。私は身震いした。

秋田県の旧八郎潟沿岸の農家に生まれた私は、夏の暑さよりも寒さの心配を親から聞かされて育ったが、目にしたのははじめてだった。ただし、やませは奥羽山脈などを越えるとフェーン現象が発生するため、日本海側では日照時間の増大と気温上昇となる。

「やませ」は、農作物や漁獲に悪影響を与えるこの風の太平洋側の呼称である。また、やませが続いた場合、大阪と東京の気温差が10度以上になることもある。

やませが吹き付ける範囲を「影響範囲」とすると、北海道の影響範囲では元々稲作をおこなわず、牛馬の牧畜や畑作がなされており、やませが長く吹き付けても農業への影響は少ない。

青森県の太平洋側(南部地方など)から三陸海岸の影響範囲も畑作や牧畜が中心で、北海道と同様にやませの影響は折込済みである。また、関東地方の太平洋岸の影響範囲も畑作・牧畜中心であり、且つ、やませが到達する回数自体が少ないので、「冷害」とはなり辛い。

影響範囲で最もやませの影響を受けるのは、稲作地である岩手県の北上盆地・宮城県の仙台平野・福島県の浜通り北部である(福島県中通りも影響を受ける場合がある)。

熱帯原産である稲の日本での栽培方法は、春季は熱帯ほど暖かくないためビニールハウスなどで育苗し、気温が上がると露地栽培が可能となるため晩春に田植えをし、熱帯並みとなる夏季の高温を利用して収量を確保する。

このため、やませが長く吹き付けて日照時間減少と気温低下が起きると、収量が激減して「冷害」となる。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、上述の稲作地に相当する盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方全域に凶作を引き起こした。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱した。

戦後は冷害に強い品種がつくられ、飢饉に至ることはなくなった。

しかし、一億総中流以降、大消費地のブランド米志向が顕在化し、冷害に弱くとも味のいい品種が集中栽培される傾向が進んだため、再び冷害に弱くなって「1993年米騒動」が発生した。その反省から、冷害対策は「多品種栽培」が趨勢となった。

近年は、米の市場価格下落のため、ブランド米志向に再び戻りつつあり、「1993年米騒動」の再来が危惧されている。梅雨明けも報じられな米どころに「やませ」が吹いている。マスコミは「山瀬」を知らない。農水省が発表するまで報じないだろう。
出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年08月15日

◆戦前・戦中の真の平和追求団体

天下の無法松



本当に暑くてたまりませんね。

北九州地方は梅雨が明けるのが非常に遅く、先月末近くになってようやく梅雨が明けたと思ったら、北九州地方も猛烈な激暑が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。

今週は大東亜戦争後の事では無く、戦前・戦中のことについて先に述べた国民文化研究会の前身の各団体、人物を再度、取り上げてみます。

その団体は先に述べた様に、大きくは日本学生協会と精神科学研究所と言う2つの団体があり、今回は次のURLの内容を紹介しながら、その団体におられた方々の人物像について触れたいと思います。

国民文化研究会Wikipedia:https://goo.gl/k32476

戦前の東京帝国大学で、日本学生協会のメンバーであられた小田村寅二郎先生は戦前から既にマルクス・レーニン主義に侵されていた東大教授達の共産主義的洗脳教育を批判して、当時の新興宗教団体の一つの「生長の家」の機関紙にその批判を投稿したそうです。

東京帝国大学における学生思想問題と学内管理に関する研究:http://goo.gl/2PEQvz

小田村寅二郎先生は日本反日協会の大河ドラマに出ている小田村伊之助(楫取素彦)の御子孫ですが、この公然たる東大学風批判事件(小田村事件)が、帝国議会でも大きく取り上げられたそうです。

そして、日本学生協会の運動を精神的に指導者したのが、三井甲之、田所廣泰、黒上正一郎先生達でありましたが、その運動は大東亜戦争中に東條内閣と対立し、開戦後は、南方作戦の終了後も東條内閣が一向に終戦工作に取り掛からないのを見て、早期講和を求める運動を展開したそうです。

また、古代の防人や日露戦争中の軍人の和歌には、家族と別れて入営する辛さ悲しみも素直に詠まれていたにもかかわらず、大東亜戦争中はこの様な歌を発表すること自体を軍部が禁止したことを強く批判したそうです。

そして、国のために尽くしたいとする「公」の気持ちも、家族を心配する「私」の気持ちも共に偽りなき人間の「まごころ」であると主張したそうです。

つまり、戦争当時に流行した「滅私奉公」のスローガンに対して、「私」を大切に思いながらも、尚「公」に向かおうとする「背私向公」こそが人間の自然な感情とするものであると主張したのでした。

ところが、東條英機は司法省や内務省に取締りを命じ、彼らに同情的であった両省とも取締りをサポタージュしたため、東條英機は自ら子飼いの憲兵隊を使って、徹底的な弾圧を実行して日本学生協会及び精神科学研究所を壊滅に追い込んだとのことです。

この様な団体こそが本当に平和を追求する団体であり、戦前に前身を持つ戦後の平和団体の殆どは、大東亜戦争遂行の為に組織化された大政翼賛会的団体を前身としているのではないかと無法松は考えております。

では、今週も国民文化研究会の合宿を次に紹介して終わります。

国民文化研究会:http://goo.gl/YGUdGY

このホームページから合宿参加の申し込みができ、大学生のみならず一般社会人も参加できますので、是非とも皆様のお申し込みをお勧め致します。

日程は8月29日(土)から9月1日(火)の3泊4日で、費用は大学生2万円、社会人3万5千円(その他、交通費・必携書書籍費必要)で、講師は「長谷川三千子」先生(演題:三種の神器の謎を解こう!)です。

今年の合宿は60回目で、還暦を迎えます。

■無法松の本音

今年は大東亜戦争終結後70周年と言うことで、日本半日協会ことNHKを始めとして多くのマスゴミでは色々な反戦映画の放送を行っておりますが、先週の8日(土)より全国で半藤一利原作の「日本のいちばんながい日」の映画が放映されております。

無法松は昨年の今頃も次の様なことを述べましたが、なぜあの大東亜戦争はもっと早く終結できなかったのかと言う問いに、無法松は我が大和民族の魂がちょうどこの8月15日を大東亜戦争終結の日に選んだと答えたいと数年前より思っております。

明治以来、我が国は西欧列強の制度を形振(なりふ)り構わず採り入れ、暦は旧暦より新暦へと改暦され、西欧合理主義を知らぬ我が大和民族の悠揚たる精神は、侍の没落と共に次第にせせこましい、余裕のない窮屈な精神へと変貌を遂げて行ったのであります。

それでもまだ明治時代には侍の末裔達が生きており、日清・日露戦争に勝利するなど、我が国は一応の近代化には成功したものの、西欧合理主義に侵された我が大和民族の精神は明治45年の乃木さんの自決と共に、大きく変貌していきました。

しかしながら、ラフカデェオハーンこと小泉八雲先生が明治時代と言う大きく変わろうとしている時代においても感じられた大和民族の魂は今でも生きております。

その大和民族の魂が、蘇るのが盆なのです。

だからこそ、この盆の最終日の8月15日が大東亜戦争終結の日となり、翌日16日には送り火を焚き大東亜戦争で亡くなられた人々の魂を、70年間、大和民族の魂の故郷へお送りしているのです。

そこで話しは総理大臣談話に変わりますが、この大東亜戦争終結後70周年の談話としては、本来はこの大和民族の魂に触れ、先の戦いに斃れし人々の魂を御慰め申し上げることが先決であります。

そこから始めなければ戦中、戦前に亡くなられた人々の魂に対する戦後70年間の裏切りと偽善の時代はこれからも続くことになり、真の平和な時代は来るどころか、またも今よりも酷い時代がやって来ることでしょう。


天下の無法松

本当に暑くてたまりませんね。

北九州地方は梅雨が明けるのが非常に遅く、先月末近くになってようやく梅雨が明けたと思ったら、北九州地方も猛烈な激暑が続いておりますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。

今週は大東亜戦争後の事では無く、戦前・戦中のことについて先に述べた国民文化研究会の前身の各団体、人物を再度、取り上げてみます。

その団体は先に述べた様に、大きくは日本学生協会と精神科学研究所と言う2つの団体があり、今回は次のURLの内容を紹介しながら、その団体におられた方々の人物像について触れたいと思います。

国民文化研究会Wikipedia:https://goo.gl/k32476

戦前の東京帝国大学で、日本学生協会のメンバーであられた小田村寅二郎先生は戦前から既にマルクス・レーニン主義に侵されていた東大教授達の共産主義的洗脳教育を批判して、当時の新興宗教団体の一つの「生長の家」の機関紙にその批判を投稿したそうです。

東京帝国大学における学生思想問題と学内管理に関する研究:http://goo.gl/2PEQvz

小田村寅二郎先生は日本反日協会の大河ドラマに出ている小田村伊之助(楫取素彦)の御子孫ですが、この公然たる東大学風批判事件(小田村事件)が、帝国議会でも大きく取り上げられたそうです。

そして、日本学生協会の運動を精神的に指導者したのが、三井甲之、田所廣泰、黒上正一郎先生達でありましたが、その運動は大東亜戦争中に東條内閣と対立し、開戦後は、南方作戦の終了後も東條内閣が一向に終戦工作に取り掛からないのを見て、早期講和を求める運動を展開したそうです。

また、古代の防人や日露戦争中の軍人の和歌には、家族と別れて入営する辛さ悲しみも素直に詠まれていたにもかかわらず、大東亜戦争中はこの様な歌を発表すること自体を軍部が禁止したことを強く批判したそうです。

そして、国のために尽くしたいとする「公」の気持ちも、家族を心配する「私」の気持ちも共に偽りなき人間の「まごころ」であると主張したそうです。

つまり、戦争当時に流行した「滅私奉公」のスローガンに対して、「私」を大切に思いながらも、尚「公」に向かおうとする「背私向公」こそが人間の自然な感情とするものであると主張したのでした。

ところが、東條英機は司法省や内務省に取締りを命じ、彼らに同情的であった両省とも取締りをサポタージュしたため、東條英機は自ら子飼いの憲兵隊を使って、徹底的な弾圧を実行して日本学生協会及び精神科学研究所を壊滅に追い込んだとのことです。

この様な団体こそが本当に平和を追求する団体であり、戦前に前身を持つ戦後の平和団体の殆どは、大東亜戦争遂行の為に組織化された大政翼賛会的団体を前身としているのではないかと無法松は考えております。

では、今週も国民文化研究会の合宿を次に紹介して終わります。

国民文化研究会:http://goo.gl/YGUdGY

このホームページから合宿参加の申し込みができ、大学生のみならず一般社会人も参加できますので、是非とも皆様のお申し込みをお勧め致します。

日程は8月29日(土)から9月1日(火)の3泊4日で、費用は大学生2万円、社会人3万5千円(その他、交通費・必携書書籍費必要)で、講師は「長谷川三千子」先生(演題:三種の神器の謎を解こう!)です。

今年の合宿は60回目で、還暦を迎えます。

■無法松の本音

今年は大東亜戦争終結後70周年と言うことで、日本半日協会ことNHKを始めとして多くのマスゴミでは色々な反戦映画の放送を行っておりますが、先週の8日(土)より全国で半藤一利原作の「日本のいちばんながい日」の映画が放映されております。

無法松は昨年の今頃も次の様なことを述べましたが、なぜあの大東亜戦争はもっと早く終結できなかったのかと言う問いに、無法松は我が大和民族の魂がちょうどこの8月15日を大東亜戦争終結の日に選んだと答えたいと数年前より思っております。

明治以来、我が国は西欧列強の制度を形振(なりふ)り構わず採り入れ、暦は旧暦より新暦へと改暦され、西欧合理主義を知らぬ我が大和民族の悠揚たる精神は、侍の没落と共に次第にせせこましい、余裕のない窮屈な精神へと変貌を遂げて行ったのであります。

それでもまだ明治時代には侍の末裔達が生きており、日清・日露戦争に勝利するなど、我が国は一応の近代化には成功したものの、西欧合理主義に侵された我が大和民族の精神は明治45年の乃木さんの自決と共に、大きく変貌していきました。

しかしながら、ラフカデェオハーンこと小泉八雲先生が明治時代と言う大きく変わろうとしている時代においても感じられた大和民族の魂は今でも生きております。

その大和民族の魂が、蘇るのが盆なのです。

だからこそ、この盆の最終日の8月15日が大東亜戦争終結の日となり、翌日16日には送り火を焚き大東亜戦争で亡くなられた人々の魂を、70年間、大和民族の魂の故郷へお送りしているのです。

そこで話しは総理大臣談話に変わりますが、この大東亜戦争終結後70周年の談話としては、本来はこの大和民族の魂に触れ、先の戦いに斃れし人々の魂を御慰め申し上げることが先決であります。

そこから始めなければ戦中、戦前に亡くなられた人々の魂に対する戦後70年間の裏切りと偽善の時代はこれからも続くことになり、真の平和な時代は来るどころか、またも今よりも酷い時代がやって来ることでしょう。

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだが、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィルミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出などを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア)』

2015年08月11日

◆ハマ「ナス」は「ナシ」の訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお印でもある。晩夏の季語。

東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培される他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれる園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道

市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町、岩手県 - 野田村青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市新潟県 - 村上市、聖籠町石川県 - かほく市、内灘町福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」といい、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うのも、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナスはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティーもなかなか美味しいですよ。>(唸声)

2015年08月09日

◆黒衣の功績日中友好条約

渡部 亮次郎



2008年の「八月八日は吉祥にて北京五輪」の開会式だが37年前のこの日は外務大臣園田直(そのだ すなお)が吉祥と思って訪中したものの、後になって見ればトウ小平に騙された日だった。

いうまでも無く日中平和友好条約の締結こそは日中友好の「鉄の橋」(福田赳夫首相)と信じて羽田から日航特別機で出発したのだった。1978年。今年が2015年だから、ちょうど37年前だ。

その6年前、NHK記者として同行した田中角栄総理大臣が、国内世論に押されたとは雖も、昭和47年7月の就任から僅か3ヶ月にも満たないうちに対中国との国交正常化を決断。9月末に共同声明を発表して目的を遂げた。

その共同声明の第8項目にこうある。

<日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行なうことに合意した。>

つまり日中平和友好条約は共同声明にそって日本からの経済・技術協力など支援策を具体化するための基本条約だから、中国側はすぐにでも手にしたい条約である。それなのに中国が反対して田中に続く三木内閣でも締結できなかった。6年が流れていた。

ソ連(当時)が日中離間を策して条約締結に反対を表明。これが「覇権」条項となって交渉は乗り上げたからである。改革開放派のトウ小平は失脚、下放中。主導権を握る強硬派はいわば原理派であった。

三木に続く福田赳夫内閣。外務大臣は大蔵事務次官から参議院議員になって間が無い鳩山威一郎。目立つ実績を挙げられないまま1年で退任。その後を襲ったのが官房長官だった園田直(そのだすなお)。初外遊をソ連にして環境整備に成功した。

その前に内閣改造の朝に自宅へ電話を掛けてきて「ナベしゃん、ワシの秘書官になってよ」というから「いいですよ、何大臣ですか」「ま、官房長官留任だと思うがね、なんでもいいじゃない」

簡単に転身を了承してしまったが、電車で総理官邸に辿り着いてみたら「外務大臣園田直」になっていて私は足を踏み入れた事も無い外務省で大臣秘書官になっていた。

マスコミや世間は園田の外相への転出を誤解した。予て官房長官時代から、鳩山外相よりも日中条約締結に積極姿勢を見せていた園田氏を外相に据えたのだから福田首相は愈々条約締結を決断という誤解である。

確かに園田氏は締結に積極的な態度を示していた。国交の無い時代に政府の制止を振り切って中国入りした過去もあるし、非公式に来日した廖承志(対日関係責任者)と面談するなどの実績もあるから誤解も当然といえた。

しかし福田首相のハラは逆だった。日中平和条約の締結よりも「総裁(総理)の任期2年」という大平正芳幹事長との密約を反故(ほご)にする事に、密約の立会人たる園田に了承を求めるための外相起用だった。確かに内閣改造では園田だけが残留、横滑りだった。

予て記者の則を越えて親しくしていた園田さんだったが、さすが秘書官(使用人)になってみると私邸に伺っても以後は玄関ではなく勝手口から入れとう言われるなど「矩」を強いられた。

その分、大臣との一体感を要求されてゆくわけだが私の場合は違って、もう1人の自分が自分を冷静に見るようになっていった。その目で見ると、園田の対中戦術の要点が見えてきた。官房長官時代から対中「黒衣(くろこ)」を密かに放って直に中国首脳の動きを掌握していたのである。

この人物は父親が石炭採掘の学者だった故を以て終戦後も中国残留を余儀なくされた人の息子で、園田氏とは趣味の剣道の弟子として結ばれていた。

この人物にカネを渡し、予て交流のあった廖承志(対日関係責任者)とその周辺の動きを探らせ、定期的に情報を得ていたのである。それが裏付けとして黒衣と会うのは記者たちが押しかける前の早朝、私邸の寝室に限られていた。

私は黒衣氏との直接の接触は極力避けたが、絶無ということは無かった。黒衣氏から報告を聴取した後の園田氏の表情から逆に報告の内容を推測できるようになっていった。

1978年の2月ごろから「とにかく園田外務大臣が訪中してくれさえすれば絶対恥はかかせない」という報告が入り始めた。外務省でアジア局長や中国課長からは全く入ってこない情報だった。彼の秘密訪中は計14回に及んだ。

後で考えれば前年(1977年)7月、生涯3度目の復活を果たしたトウ小平が毛沢東、周恩来亡き後の党主導権を握り、念願とする経済の改革開放に向けてカジをきり始めた頃である。廖承志氏はトウに近いから園田大臣への黒衣情報はトウ情報だったのである。

この頃、外務省も北京大使館もトウ氏の動きは全くつかめていなかった。だから1978年8月8日に至って有田圭輔事務次官が日航特別機で飛び立って下さいと言ってきたとき、園田氏は黒衣氏の情報と外務省の情報の一致は無いものの北京での「成功」を最早疑っていなかった。

確かに北京では2回目の外相会談であれほど「覇権問題」に拘ってきたのにあっさり日本案を受け入れた。あっけなかった。「引退の花道にされる」として条約の締結に消極的だった福田首相は日中間に鉄の橋がかかった」と喜んだ。しかし、自らの任期延長作戦には失敗、大平に敗れた。

かくて中国のその後の発展を見るとき、地下の福田、園田両氏は如何なる感慨を持っているだろうか。秘書官に過ぎなかった私から見れば資金や技術のとてつもない援助。トウ小平にしてやられたという反省が消えない。

日中平和友好条約の締結と時を同じくするように東京ー大阪の新幹線のスピードに鞭を入れられたケ小平が経済だけの改革開放政策を実施。日本は今日の繁栄の貢献者なのだが感謝されたことはない。元秘書官風情としては何か起きる事を期待する。騙されたままで終わってはならない。

2015年08月07日

◆いっそ小田急で逃げましょか

渡部 亮次郎



「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は歌が大変な宣伝になったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

佐伯孝夫は「有楽町で逢いましょう」をつくり、は「高校三年生」を作詞した。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田
英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の影に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

東京は7月22日に梅雨明けとなり本格的な夏に突入。秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。

 
渡部 亮次郎

「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は歌が大変な宣伝になったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

佐伯孝夫は「有楽町で逢いましょう」をつくり、は「高校三年生」を作詞した。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田
英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の影に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

東京は7月22日に梅雨明けとなり本格的な夏に突入。秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。

2015年08月06日

◆これほどの大物が居た 後藤新平

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項のみ広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てんきょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者ではない。悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結することになった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の下で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

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2015年08月04日

◆五輪担当大臣の貫禄

渡部 亮次郎

メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても50年以前に開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だったことを久々に思い出した。

先日、ある酒席で今度の五輪担当大臣の貫禄が話題になった直後昔を思い出すには時間がかかった。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない田舎者のあいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そのうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさがありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目になるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してくれた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛細血管も走っているから義眼ではない。

これはね若いころ弟の謙三からトラホームを伝染され、小田原の眼医者で手術を受けた晩、安静にしろと言う医者の忠告を振り切って悪所に通ってこじらせたから殆ど見えなくなったんだよ。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門も脇で待っていると出てきた河野さんが私てn招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさせるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人きりの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬかとおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。まだ67歳だった。        2015・8・3執筆。

2015年07月25日

◆「喧嘩は済みましたか」

渡部 亮次郎



「喧嘩は済みましたか」と開口一番言ったのはかの毛沢東。田中角栄日本首相に対してである。角栄氏、ノモンハン事件で陸軍に召集された事はあったが、中国を訪れたのは初めて。それがいきなり国家主席の開口一番が「喧嘩」だったから驚いたに違いない。

1972(昭和47)年9月27日、未明のことである。釣魚台の迎賓館で寝ているところを起こされての「表敬訪問」、しかも事務方の随員や通訳の同行は不可。外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけでの「表敬」。

ご記憶のように田中首相は、先立つ自民党総裁選挙に当って「日中国交即時回復」を訴えてライバル福田赳夫を蹴落として、9月25日、北京入りを果たし、直ちに首相の周恩来と「国交正常化共同声明」の案文を巡って「喧嘩」を続けてきた。

「喧嘩」が済んだので毛沢東の「引見」が許されたわけだった。しかし随員も通訳も連れてゆけなかったから、関係者の殆どが死亡した現在、「証人」は中国人通訳だけである。

私はNHKを代表して田中首相に同行していた記者だったが、毛沢東の「引見」は知らされず、夜が明けてからいきなり、カラー写真を手交されて初めて知った次第。

それはともかく毛沢東はじめ中国人は「喧嘩」抜きの和平はあり得ないと考えていることである。ところが日本人は「和をもって貴しとなす」とばかり「隣国」との関係は常に平和でなければならないと考え勝ちである。

民主党政権では菅(かん)首相も仙谷官房長官(いずれも当時)も「平和状態」をいつも望む余り、中国への「刺激」を悉く避け、結局「事なかれ主義」に陥ってしまっていた。中国に嫌がられながら「尊敬」されているのはただ一人前原外相(当時)のみである。

中国人は利権が好きだ。だが利権を求めて中国訪問をする政治家を最も軽蔑するのも中国人である。

日中正常化交渉の時、日本側の条約局長はとうとうと原則論を展開して周恩来首相を怒らせた。しかし周は陰では「わが方にもあれぐらい骨のある奴がいたらなあ」と局長を褒めちぎった。

詰まり中国人は、なびいたり媚びたりする相手は軽蔑したり舐めたりするが心の底では徹底的にバカにする。船長を即時釈放しろといったらすぐ釈放した菅首相、仙谷官房長官は、表面的には歓迎されているが、心底では「骨の無い奴らだ」と軽蔑されているのである。

<【北京=大木聖馬】中国外務省の胡正躍・外務次官補は21日、記者会見で、前原外相の日中関係に関する一連の発言について、「なぜこんなに(ブリュッセルでの首脳会談で合意した関係改善を)刺激するのか。(前原外相の発言は)深く考慮するに値する」と述べ、今月末のハノイでの日中首脳会談の調整に影響を及ぼしていることを示唆した。

胡次官補は、ハノイでの首脳会談開催について、「ふさわしい条件と雰囲気が必要」とした上で、前原外相が 16日に「(首脳会談開催の)ボールは向こう(中国)にある。開催時期は焦らなくてもいい」と発言したことについて、

「中日関係の改善には共に努力しなければならない。なぜ焦らなくてよいのか。なぜ中国にボールがあるのか」と批判。「こんなにも絶えず、両国関係を傷つけ、弱め、破壊することに耐えられない」と非難した。(読売)>

これに驚いて菅や仙谷らが前原を抑えさせようと言うのが中国側の狙いだが、実際に前原外相を抑えたり、前原自身が萎縮したりすれば心の底から「くだらない政治家」とバカにされるだろう。

以上は多少の取材経験と、軍隊時代、中国戦線で経験の深かった故園田直(外相3期)の遺言的警告である。

「尖閣問題棚上げ」を提案してきた中国は、これで日本を油断させ、そのうちに実効支配体制を完成し、どうしても尖閣は勿論沖縄も奪取するハラである。菅や仙谷は余りにも中国人を知らなすぎる。

特に仙谷は日本的法体系で中国人を考えることを直ちにやめなくてはならなかった。

2015年07月22日

◆犀星 遠きにありても

渡部 亮次郎



ふるさとは遠きにありて思ふもの、と歌った金沢出身の作家室生犀星はなぜ「そして悲しく歌うもの、たというらぶれ異土のかたいとなるとても かえるところにあるまじや」とうたって嘆いたのだろうか。

高校で国語の先生は多くを語らなかった。最近はお盆や正月に都会から人々が田舎へ帰省する理由として、阿呆なアナウンサーが、一つ覚えに使うが、歌の真意を知っていれば使えないフレーズとは知らないのだろ
う。

2006年7月24日の産経新聞でコラムニストの石井英夫さんがコラム「蛙の遠めがね」で、犀星が遠きにありて思うもの、それは、ふるさとの先に存在したはずの真の母、真の父だったと紹介した。芸者と小学校長(妻子持ち)の間に出来た子だったという。

本名照道(てるみち)1889〔明治22〕年、加賀藩の足軽頭だった小畠弥左衛門吉種と母春の間に生まれるが、生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院の住職、室生家に養子に出される。

筆名の犀星は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。

石井さんに最近、情報を寄せた金沢市出身の詩人で文藝詳論家安宅夏夫さんのリポートによると母は既に明らかになっていたように芸者「ちか」だが父は吉種ではなく息子の生種と分ったのだそうだ。昭和51年、小畠家の仏壇の後ろから出てきた1通のハガキがきっかけだった。

「山崎ちか(のちに林)は20歳の時、高岡市〔富山県〕の遊郭の芸者になり、犀星の本当の父小畠生種と出会い、犀星を産んだ。しかし生種は26歳ながら小学校の校長であり、妻子を残しての単身赴任だった。

宴会に出る機会も多く、そこでちかを知り、愛し合うようになった。妻子ある教育者が芸者と懇ろになって子を成したというのでは世間に顔向けができない。そこで父の吉種の子としたのだ。吉種は当時63歳で、21歳の芸者を身籠らせるには無理がある」と石井さん。

1902年金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受ける。

新聞へ投句を始め1904年10月8日付け北國新聞に初掲載。この時の号は照文。その後、詩、短歌などにも手を染める。1913年 北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。

同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。 1916年 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年までに32号まで刊行した。この1919年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。

1929年初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年 『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言。(実際にはその後も多くの詩作を行っている。) 1935年 芥川賞の選考委員となり、1942年まで続ける。

1959年 野間文芸賞を受賞。この賞金から翌年 室生犀星詩人賞を設定。1962(昭和37)年3月26日、肺癌の為に死去。抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。>

「生前の犀星はこれらの事実を知っており、生母にも会ったフシがある。しかしすべてを胸の奥、腹の底に折りたたんで苦悩してきた。父の伝記を書いた室生朝子も、書けない、書いてはいけないこととし、室生家のタブーとして封印してきたのである」

「安宅さんはすべての経緯を今年6月発刊の『人物研究』第17号(近代人物研究会)に発表。・・・若き日のちかの写真には、鹿鳴館スタイルのもある。モダンな感じもあるが、細面の寂しげな眼差しを持つ美しいひとだった」。(石井)

朝日新聞社の「現代人物事典」1977年3月1日刊では室生犀星について滝口雅子氏が「9歳の時、生母が行方不明となり、その後母に会わなかった」と書いているが、これも訂正しなければならない。

明治時代のことである。犀星の出生の秘密を近所の人たちは早くに知っただろう。知って照道少年を芸者の子として差別しただろう。だからふるさとは犀星にとっては決して帰るべき懐かしいところでなんか無かった。しかし父と母にはどうしても逢いたかった。胸つぶれる想いの詩なのである。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)
2006・07・24

2015年07月19日

◆マロニエとは栃の木のこと

渡部 亮次郎



日本の歌で、「栃の木」は出てこない、なぜかフランス語「マロニエ」と歌われる。「ウィキペディア」で「マロニエ」と索引したら「栃の木」と出てきた。

なんとなくシャンソンといえば洒落ているが「栃の木」では歌になりにくいのか。尤も、日本人は「7月14日」を「パリ祭」とはしゃぐが1789年 フランス革命: パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃・占領、政治犯を解放。フランス革命の勃発の革命記念日なのである。

私は1978年のこの日、パリのコンコルド広場に展開された軍事パレードを観て、自分が世界の田舎者であることを痛感した。フランス人にとって7月14日はギロチンの日であり、祭りだけの日ではないのだ。

だからマロニエは、はじめっから栃の木なのである。

トチノキ(栃、橡、栃の木、学名:Aesculus turbinata)とは、トチノキ科(APG植物分類体系ではムクロジ科とする)トチノキ属の落葉広葉樹。

近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキ (Aesculus hippocastanum)が、フランス語名「マロニエ:marronnier」としてよく知られている。

日本では東日本を中心に分布、中でも東北地方に顕著に見られる、と「ウィキペディア」は言うが、郷里秋田ではお目にかかったことがない。

落葉性の高木で、温帯の落葉広葉樹林の重要な構成種の一つ。水気を好み、適度に湿気のある肥沃な土壌で育つ。谷間では、より低い標高から出現することもある。サワグルミ(猿江公園には2本だけある)などとともに姿を見せることが多い。

木はとても大きくなり高さ25m、太さも1mを越えるものが少なくない。葉も非常に大きく、この区域では最大級の葉である。葉柄は長く、その先に倒卵形の小葉5〜7枚を掌状につけ(掌状複葉)、全体の長さは50cmにもなる。葉は枝先に集まって着く。

5月から6月にその葉の間から穂状の花序が顔を出す。穂は高く立ち上がり、個々の花と花びらはさほど大きくないが、雄しべが伸び、全体としてはにぎやかで目立つ姿である。花は白〜薄い紅色。

江東区の猿江公園では花は未だ咲かない。

秋にツバキのものを大きくしたような丸い果実が熟すと厚い果皮が割れて少数の種子を落とす。種子は大きさ、艶、形ともに、クリのてっぺんのとんがりをなくして丸くしたようなものを想像すれば、ほぼ間違いない。ただし、色はより黒っぽい。

日本では渋抜きをした上で「栃餅」という和菓子をつくるが、友人安宅峯夫がパリで実を拾ったところ、ホテルのボーイが「食べられない」といったので捨てた。

どうも品種が違うようだ。

栃の無垢一枚板木材として家具などの材料となる。巨木になるものが多いので、昔はくり抜いて臼を作るのにもよく使われたが、最近は乱伐が原因で産出量が減り、主にテーブルなどに使用される。

木質は芯が黄金がかった黄色で、周辺は白色調。綺麗な杢目がでることが多い。また真っ直ぐ伸びる木ではないので変化に飛んだ木材となりやすい。比較的乾燥しにくい木材であるが、乾燥が進むと割れやすいのが欠点であるが、21世紀頃にはウォールナットなどと同じ銘木級の高価な木材となっている。

デンプンやタンパク質を多く含有する種子は栃の実として渋抜きして食用になる。同様に渋抜きして食用になるコナラやミズナラなどの果実(ドングリ)よりも長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど高度な技術が必要で手間がかかるが、かつては米がほとんど取れない山村ではヒエやドングリと共に主食の大きな一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(飢救作物)として重宝された。

そのために森林の伐採の時にもトチノキは切り残す慣習を持つ地域もあった。私有の山であってもトチノキを勝手に伐採することを禁止していた藩もあったほどである。

また、各地に残る栃谷や栃ノ谷などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。現在では、渋抜きしたものをもち米と共についた栃餅(とちもち)などとしてあちこちの土産物になっている。

縄文時代の遺跡からも出土しており、ドングリやクルミ同様、古くから食用とされてきた。保存もきくので、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。

花はミツバチが好んで吸蜜に訪れ、養蜂の蜜源植物としても重要であったが、拡大造林政策などによって低山帯が一面針葉樹の人工林と化していき、トチノキなどが多い森林は減少し日本の養蜂に大きな打撃を与えた。

そのほか、街路樹に用いられる。パリの街路樹のマロニエは、セイヨウトチノキといわれ実のさやに刺がある。また、マロニエと米国産のアカバナトチノキ (Aesculus pavia) を交配したベニバナトチノキ(Aesculus x carnea) も街路樹として使用される。

日本では大正時代から街路樹として採用されるようになった。しかし湿気のある土地を好むため、東京などの大都市とは相性が悪い。

小学校の国語の教科書にも採用されている斎藤隆介著の児童文学『モチモチの木』に登場する木は、このトチノキである。

トチノキは栃木県の県木であり、関連用語としてトチノキの葉を表す「栃の葉」(とちのは)や「マロニエ」共々栃木県に関連する物象に冠される。(「ウィキペディア」)

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