2013年03月19日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した人物。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付いて保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスにのっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やすくに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現した>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれて評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルにいた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方がいいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えていた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なところでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談するという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だという外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田をまたピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんてどうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なんだから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当るか、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国からの批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のなか、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴としていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く受け「角影内閣」との異名をとった。
                   日本大百科全書(小学館)



2013年03月18日

◆「味の素」発明は105年前

渡部 亮次郎


「味の素」に特許権が降りたのは105年前の7月25日だった。経済産業省特許庁は発明した東大教授池田菊苗(いけだ きくなえ)を日本の10大発明家の1人として顕彰している。

また、食品添加物として広く普及し日本のみならず世界の人々の食生活を豊かにした、と言っているが、昭和20年代の東北や北海道には味の素は無かった。昆布があり過ぎたからでもあるまいが。

発明した池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれた。明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学した。

帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任した。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々の研究を行ったが、この中に昆布の「うまみ」の研究があった。

彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果、うまみの成分が「グルタミン酸ソーダ」であることを突き止めた。

これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得た(特許第14805号、明治41(1908)年7月25日。我が母の生まれし年なり。今から105年前)。

「グルタミン酸ソーダ」は、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出された。このグルタミン酸ソーダは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物として広く普及し日本人の食生活を豊かにした。

これが今日の「味の素」である。工業化をどこにさせるか。熟慮の結果、池田が依頼した先は鈴木三郎助。味の素株式会社の創設者である。

また、海外にも調味料として広く受け入れられた。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ソーダ製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液を原料としたグルタミン酸ソーダの製造法の研究に従事した。昭和11年(1936)没。

ところで「味の素」株式会社の事である。

<味の素[株] あじのもと 〈味の素〉で知られる総合食品化学会社。2代目鈴木三郎助とその家族によって1888年創業された鈴木製薬所が前身。

神奈川県葉山で,ヨード製造を家内工業で行っていたが,化学薬品にも手を広げ1907年合資会社鈴木製薬所に改組(1912年鈴木商店)。

東大教授池田菊苗が08年に取得したグルタミン酸調味料製造法の特許の工業化を依頼された鈴木は,新化学調味料の製造に取り組み,同年11月〈味の素〉の名で売り出した。

しかし当初はまったく売れず,軌道に乗るまでに10年近い年月を要した。大正の末からは順調に伸び,海外へも輸出されるようになった。

35年宝製油(株)を設立(1944合併),味の素の原料となるダイズ油の製造を開始。第2次大戦後,46年2月社名を現社名に変更,50年に原料・製品の統制撤廃後は,急速に生産水準を回復,52年には戦前水準に戻った。

その後,グルタミン酸ソーダの製法転換(植物タンパク分解法から発酵法へ)に協和鍋酵工業に続き成功(1959製造開始)。これに伴い油脂関連部門を拡大,この部門でも大手になった。

また,多角化を進め,総合食品化学会社への脱皮に成功した。とくに加工食品部門の拡大が著しく,61年にスープ,63年コーンフレーク,68年マヨネーズ,70年マーガリン,調理済み冷凍食品と,相次いで新分野に進出した。

73年にはゼネラル・フーズ社と提携し味の素ゼネラルフーヅを設立,インスタントコーヒー等にも進出。最近では,飲料・乳製品部門,加工食品部門が調味料部門を上回る。

さらに海外進出の面では,戦後も1958年にフィリピンで味の素の生産を開始したのを最初に,欧米,東南アジアを中心に進出しており,海外売上高比率は連結ベースで2割に達する。

また近年は発酵技術を生かして,医薬品分野への進出に力を入れている。

                    世界大百科事典

2013年03月15日

◆先輩・アカの東海林太郎

渡部 亮次郎


東海林太郎しょうじ たろう(1898-1972)秋田市出身。秋田中学校(現県立秋田高校)から東京音楽学校ヴァイオリン科に合格。しかし南満洲鉄道(満鉄)に居た父に猛反対されて,断念。早稲田大学商学部へ進み、卒業してすぐに満鉄の社員として8年間勤務。

ところが早大在学中から佐野学に師事して共産主義思想に傾倒する。

<佐野 学(さのまなぶ 1892年2月22日 - 1953年3月9日)は昭和初期の日本共産党委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。

東京帝国大学法学部卒、新人会に参加。卒業後、後藤新平の伝手で満鉄東亜経済調査局に勤務した後、早稲田大学で教鞭を取る>

東海林太郎はこの時に教え子となって左翼思想にかぶれた。当時はそれをアカにかぶれたと言って、敬遠された。

東海林は卒業間際に庄司久子と結婚した。後に静と再婚。

東海林は1923(大正12)年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。関東大震災の時である。

東海林は既に満洲に渡っていたようだ。入社後「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、当然ながらあまりにも左翼的ということにより、1927年、鉄嶺の図書館に「左遷」される。

図書館長は「出世」だと NHK深夜便は調査不十分の放送をするので立腹するという友人は多い。図書館には4年もくすぶっていた。

一時期は特高(特別高等警察=日本共産党員或いは共産主義者取締り警察官)にマークされるほどの活動的共産主義者であったという。

満鉄勤務ながらクラシック歌手への夢を捨て切れずに退職して上京。

歌手として売り出すまで弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。そこに早稲田出身の政治家河野一郎が客として訪れたという話を河野から聞かされた。

声楽を下八川圭祐に師事し昭和8年に時事新報の音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。

34歳で歌手に転身というわけ。荘司史郎などの芸名で一時期、コロムビアなどで歌っていた。

しかしコロムビアでは松平晃を売り出すため、東海林との契約は断った。9年、キング専属だったのだが、1曲だけとの依頼でポリドールで吹き込んだ「赤城の子守唄」が大ヒット。クラシック歌手の夢と現実の乖離である。

同曲のアトラクションのため、日比谷公会堂で白塗りで浅太郎を演じるなど、とても晩年のイメージから想像がつかない奮闘ぶりを見せるが、その際に東海林に背負われる子供役だったのが後年のスター高峰秀子だった。秀子を養女に考えたこともある。


<高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924(大正13)年3月27日 ー2010・12・28)は函館市出身の女優、エッセイスト。愛称デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名は松山秀子>。

<1929年映画『母』に子役でデビュー、1979年に引退宣言。引退後は普段の生活に根ざしたエッセイを多数発表した。>

ところで東海林は澄んだバリトンを生かして日本調歌謡で東海林太郎〔本名〕時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。

島崎藤村の「椰子の実」を最初に歌ったのも東海林である。しかし売れるのは股旅物などとあっては不本意ながら流行歌手の道を歩まざるを得なかった。

その後も「一つ山越しゃ、ロシアの星が」の歌詞を「他国の星が」に改めた「国境の町」も大ヒットし歌手としての地位を確立した。「夜が冷たい」の歌詞を文法がおかしいと作詞者に猛烈に抗議し、不承不承に吹き込んだ「旅笠道中」。

長谷川一夫の映画「雪之丞変化」の主題歌「むらさき小唄」、野崎観音〔大坂・大東市〕のPR盤として制作された「野崎小唄」、軍歌という呼称を嫌って戦時歌謡を主張し続けた「麦と兵隊」など次々とヒットを飛ばした。

ところが、敗戦後の一時期、戦前のヒット曲が軍国主義につながる国粋的なヤクザものは禁止され進駐軍から睨まれ不遇の時代が続いた。ビクターへの入社も、ビクターが竹山逸郎を売り出す事からられ、レコード会社も弱小のマーキュリーなどを転々として恵まれなかった。

1946(昭和21)年ポリドール復帰第1作が「さらば赤城よ」。1949年キングレコードへ復帰。1953年マーキュリーへ移籍。

その後、次第に地方公演で人気を回復、1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。

空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演したりして脚光を浴びた。

しかし健康に問題を抱えた。昭和23、30、39年にそれぞれ直腸ガンの手術を行って、28年には最愛の妻の静を亡くすなど私生活でも苦難の日々であった。渡部は昭和28年秋、秋田高校創立80年記念祭に先輩を招聘する計画を立てたが無視された。

終戦近くから南軽井沢に住み、大好きなクラシックのレコードをボリュームいっぱいにかけたりしていたが、晩年の数年間は仕事の関係で東京でのホテル暮らしが多く、46年7月からマネージャーの住む東京・立川市の羽衣町3丁目に引越した。

地元に溶け込もうと、付近をよく散策したり、チャリティコンサートを開き収益を地元の障害者施設に寄付するなどした。しかし体調悪化は抜き差しならないところまできていて、燕尾服の下に血の滲んだ晒しを巻いてステージをつとめ、薬の服用から顔が紫色になるために、人前では化粧をしていたという。

昭和40(1965)年に紫綬褒章、44年に勲四等旭日小綬章、47年には勲三等瑞宝章を受章。

同年9/26午後2時半に立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われて、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、9/27午前には病院へ入院。

次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られて10/4午前8時50分に立川中央病院で死去。享年73。

最後のレコードは46年10月の「ある少尉の遺書」と「わが命暁まで」のカップリングとなった。「東海林太郎後援会」「東海林太郎歌謡芸術保存会」のメンバーは3000人を数え、中高生などの若いファンも多く、47年10/19午後1時からの青山葬儀所での葬儀には佐藤首相など多数が参列した。

「佐藤栄作日記」〔朝日新聞社〕第5巻には「一時から東海林太郎君歌手協会葬に出席して協会顧問として弔詞をよむ。秋田市出身のいわれをもって石田博英君も弔詞。その他古賀政男、ビクター等等で盛葬だった」とある。

秋田市の西船寺に眠る。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは有名だが、「場末のキャバレーでもコンサートのつもりで歌う」「歌の心をつかみ、歌の美しさを知るために」直立不動で歌っていると語るなど、生涯、歌に関する真摯な姿勢は変わらなかった。

毎日1時間の発声練習を死の直前までかかさず、病床につく数日前までテレビ録画の仕事をしていた。「ステージは一尺四方の道場」「シューベルトを歌う心で歌謡曲を歌う」と語り、ステージの4時間前には必ず食事を済ませたり、ホテルもピアノのない処には泊まらないなど、徹底したプロ意識を見せていた。

「心の底から歌っていない」演歌は技巧に走るから嫌い、リサイタルも嫌い、戦後の歌手は「歌の本質を知らない」と評価していなかったが、ピンキーとキラーズの今陽子だけはお気に入りだった。

酒豪としても知られ、歌手協会でも「良きにはからえ」の親分肌の人間であった。どんな目下の人間にも礼儀正しく接する人で、読書家でもあった。藤山一郎との不仲も有名である。

直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、「一唱民楽」の言葉のごとく、歌は民のためという信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。

また、彼の人生は癌との闘いのそれでもあり、病魔を克服しての音楽人生だった。遺した名曲のリスト。

昭和9年   赤城の子守唄
       山は夕焼
       国境の町
昭和10年   旅笠道中
       むらさき小唄
       野崎小唄
       お駒恋姿
昭和11年   お夏清十郎
        椰子の実
昭和12年   すみだ川
昭和13年   上海の街角で
        麦と兵隊
昭和14年   名月赤城山
昭和16年   琵琶湖哀歌(小笠原美都子と)
戦後      楡の花咲く時計台など多数。

「人物昭和流行歌史・直立不動の精神-東海林太郎」(菊池清麿)及びフ
リー百科事典ウィキペディア、誰か昭和を想わざる(作者不詳)等を参
考。


2013年03月14日

◆手布を拾えぬカースト

渡部 亮次郎


昔、英会話の先生(NYの若い女性)が「インドだけは2度と行きたくない。なんだか国中が臭いし、カーストが特に嫌い」と言っていた。ホテルの玄関でハンカチを落しても、ボーイは拾ってくれない。拾っちゃいけないカーストに属しているからだという。

<列車に乗っているときなど、空いている席に座ろうとした人を隣のインド人が手厳しく怒鳴りつけ追い払う場面や、僕らに向かって彼らの悪口を言うような場面に出くわした。僕らは、「あゝ、これがカーストという奴だな。」と思った。

僕らは、その程度しかカーストを実感する出来事に出会わなかったが、実際には様々な形でカーストが深い根をおろしているようだ。表向きは身分差別を否定しているが、カーストは人々の生活に密着しすぎている。

自分はバラモンの家系の出だと誇らしげにしゃべる人もいる。ホテルの従業員に汚いから掃除してくれといったら「自分のジャーティーではないから」と断られたとか、下位カーストの人を伴ってレストランに入ったら入場を断られたなどというのはよく聞く話だ>。
http://asia.papara.net/topics/caste.html

一種、被差別階級。最低のカーストは、乞食(こじき)の下着を洗濯するカーストだと同僚は言うが本当だろうか。私は両極とインドは訪問した事は無い。

カースト Caste インドに古くから伝わる社会制度。個々人の階級を規定すると同時に、携わるべき職業をはじめ、結婚その他さまざまな社会生活のありようを決定する。子は親のカーストを必ず継承していくため、世代を超えて受け継がれることになる。

もともとインドではジャーティ(「生まれが同じ者」の意)という語で呼ばれているが、16世紀にインドにやってきたポルトガル人が、これに母国語のカスタcasta(階級、血筋)という語をあてたため、カーストとも称されるようになった。

日本では一般に、カーストといえば、大きな4つの階級区分(4種姓)が想起されがちだが、これはカーストと密接な関係にあるものの、正確にはバルナというべきものである。

バルナvarna(本来は「色」の意)は、紀元前1500年ごろ、インド・ヨーロッパ語を話す遊牧民、いわゆるインド・アーリヤ人が北方からインドへ進入し、やがて農耕社会を築き上げた頃に成立した。

インドの聖典文学によれば、アーリヤ人のバラモン教(ヒンドゥー教)司祭が社会を4つの階層に分けたとされている。前200年〜後300年のある時期にアーリヤ人の司祭・律法者がマヌ法典を編纂した。

その中で世襲制の4つの階級区分を規定し、司祭階級自らをその最上位においてブラフマン(バラモン)と称した。2番目に王侯・武士のクシャトリヤ、3番目に農民や牧夫、商人のバイシャ、4番目に3つの階級、とくにブラフマンに隷属するシュードラをおいた(のちに農民や牧夫はシュードラに移される)。

さらにその下、社会の枠組みのまったく外(アウトカースト)に、不浄な人々とみなす不可触民(アンタッチャブル)を設け、下賎とされる職業につかせた。

こうしてアーリヤ人の農耕社会のシステムにおさまらなかった先住部族民が不可触民とされたが、その後、ヒンドゥー教の戒律を犯したり、社会の掟にそむいて4つの階級から締め出された者もこれに加えられていく。

こうして司祭が作ったバルナの制度は、ヒンドゥー教の戒律と切り離せないものとなり、神の啓示によって造られたという大義名分のもとに、延々と存続してきたのである。

バルナを大きな枠としながら、実際の社会で機能しているのがカーストである。1つの村に司祭、銀細工、大工、床屋、羊飼い、仕立て屋、洗たく屋、汚れもの清掃、乞食といった種々さまざまな職をもつカーストが、10〜30程度あり、それぞれが村の中で近隣に集まって暮らしている。

カーストの数は、インド全体で2000〜3000あるといわれている。このカーストは、上に記したバルナの、不可触民も含めた5つの階級のいずれかに属している。

カーストは、地縁、血縁、職能が密接にからみあった排他的な集団で、その成員の結婚や職業、食事にいたるまでを厳しく規制し、また自治の機能ももっている。

結婚の規制は、個々のカーストの結束を強める上で、またカースト制度全体を維持強化するうえで、特に大きな意味をもっている。

カーストのメンバーは、自分と同じカーストの相手を選ばなければならず( 内婚)、しかし、同時に自分と同一のカースト「集団」のメンバーとは結婚できない。また、男性が自分より下のカーストの女性と結婚することはある程度許容されるが、その逆はタブーとされている。

食事に関する規制は地域差が大きい。しかし一般に、他のカーストのメンバーと食事を共にしたり、下のカーストの者から飲食物の提供を受けることができないといった規制や、とくに上位カーストに厳しい、肉食の制限もある。

普通、カースト名から職業が分かるほど、カーストが特定の職業とむすびついていることが多い。しかもカーストが親から子へ継がれていく以上、原則として子は親の職業を代々継いでいくことになる。

カーストと職業の密接な関係はとくに職人カーストに顕著にみられるが、いっぽう同じカーストに属しながら、別々の職業にたずさわる例もめずらしくない。また、各カースト間の社会的・経済的な互助的関係が、近代化の波に洗われて崩れはじめた今日では、カーストと職業の関係は薄まりつつある。

カーストは、インドの社会の安定要因として機能してきた一面はあるが、一方で近代化を妨げる要因にもなっており、今日ではカースト間の障壁が次第に取り除かれようとする方向にある。

イギリスがインドを植民地支配していた時代に、カースト制度の規制はかなり大きく緩和された。さらに第2次世界大戦後の1947年、インドの独立とともに、憲法でカースト差別は禁止され、49年の議会で不可触民制の廃止も宣言された。

その間、不可触民の解放を強く主張してインド社会に大きな影響力をもった人に、ガンディーと政治家・社会運動家のアンベードカルがいる。

ガンディーは、不可触民にハリジャン(神の子)の名を与えた(今日では、不可触民は公式には指定カーストとよばれている)。しかし、そうした動きにも拘わらず、地方と都市の差はあるにしろ、今なおカーストは日常生活の面で強固に生き続けているのが実態である。

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2013年03月12日

◆「食育」の魁・石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育という言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺るがす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除くことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではないかと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったとい
う。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。

1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。

1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本(もと)なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るような自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であるという天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をとる。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバランスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウムの多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によって陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少ない食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランスに注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短くなってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つように食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     (再掲)


2013年03月10日

◆米国は日本の番犬サマ

渡部 亮次郎


椎名悦三郎(故人)と言う興味のある政治家がいた。

外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁した。

日米安保条約上のアメリカ軍の存在意義を問われて「米軍は日本の番犬です」と答弁し、驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰する
と、

平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことで知られる。これだけ聞くと問題発言のようにも聞こえるが、全体を通して聞けばそれほど問題発言ではない<(第51回国会(1966年3月)の議事録)>。

特に、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたとにはなっていないのである。第51回国会(1966年3月)の議事録とは昭和41(1966)年3月18日(金)午前10時すぎから開かれた衆議院外務委員会でのことである。


○椎名国務大臣(外務大臣) 核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。

ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。

ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。

そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。

○岡良一委員(日本社会党) しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。

○椎名国務大臣 遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。

<驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁>したというから議事録を最後まで再三通読したが、遂に発見できなかった。いずれにせよ伝説は作られて行くもののようだ。

横路ながら質問に立った岡 良一氏とは石川1区(当時)選出のお医者さんだった。たしか作家五木寛之さんの岳父だったはずだ。医者を開業しながら金沢市会議員、県会議員をへて社会党の衆院議員になった。1度の落選を経験したが6回当選した。

椎名の父の後藤広は、小学校の教師から岩手県水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。悦三郎は錦城中学(現・錦城高等学校)、旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。

同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は、蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。ウィキペディアの後藤新平の項目では椎名が血の繋がった叔父のように書いているが、ここでは血は繋がっては居ない。

東大卒業後、1923年に農商務省に入省。農商務省が農林省と商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満洲国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。

日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。1945年、終戦と共に退官する。

岸信介の誘いで、1955年の第27回衆議院議員総選挙に日本民主党公認で立候補し当選する。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。

出身地の岩手2区(当時)からの初出馬、初当選だったわけだが、大変な買収選挙を展開したと見られ、総括責任者が何年か後まで逃走し、私が岩手に在任中にとうとう逮捕され、関連して椎名夫人も逮捕された。このとき私はNHK記者として盛岡放送局にいた。

NHK水沢通信部の記者が其処をフィルムでテレビ撮影したところ、夫人が記者にツバをかけた、とその記者が私に語った。選挙とはそういうもので、代議士の代わりに家族や周辺が犠牲になる。

当選2回で岸信介内閣で内閣官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では「細かいことは総理に聞いてくれ」とおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。

岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫を徹底的に嫌いだったから、川島正次郎、赤城宗徳らと行動を共にした。「赤城・川島派」の一員だった。

選挙区の岩手で自民党県連会長を引き受けたのはこの頃で、私は県政記者クラブの一員として一杯ご馳走になったことがある。宴たけなわとなって、やおら踊りだした踊りが野糞踊りだったので、度肝を抜かれた。それから間もなく私は東京へ転勤し、政治記者となった。

椎名の人となりは、ものぐさとして知られる一方でカミソリともいわれるものであった。座右の銘は「菜根譚」の中から「不如省事(事を省くにしかず)」を見つけた「省事」。

物事を処理する時は、些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが大切である、枝葉末節にこだわり大切な根本をおろそかにしないということを人生訓とした。

自身が語ったところでは役人時代は、決裁の印鑑を部下に預けていたそうである。それで居て「いぶし銀の椎名」と呼ばれた事は、判断が的確で部下の厚い信頼を勝ち得ていたことを物語る。

池田勇人内閣で、自民党政務調査会長、通商産業大臣、1964年には池田内閣最後の組閣で畑違いの外務大臣に就任した。その時、マスコミからは奇想天外人事と評された。本人も「何でこんな人事を考えやがったんだ」と難色を示していた。

しかしこの人事は、韓国との国交正常化の困難を予知した幹事長前尾繁三郎の強い推薦によるものであったとされる。

佐藤栄作内閣でも外相再任となり、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結に向けて韓国側と交渉。さらに批准をめぐる「日韓国会」で政府を代表し答弁に立ち「名外相」と言われる。

日韓基本条約の締結問題については池田内閣当時から実力者河野一郎が担当大臣をしており、元秘書だった宇野宗佑代議士(のちに総理)が黒衣となってしばしば渡韓し実際の交渉に当っていた。

私はその結果を河野から聞きだし、NHKで外務省を担当していた島桂次(のちに会長)に報告すると大変喜ばれた。

韓基本条約の批准国会では私が衆院本会議番だった。自民党を指揮する幹事長は田中角栄。幹事長、採決は何時やるんですか、あなたは昨日は今日やるといったでしょう。キミ、昨日の話を今日しちゃいかんよ。東大出の幹事長番は秀才記者だけにノイローゼになった。

1972年7月、田中内閣が発足し、椎名は同年8月に自民党副総裁に就任した。しかし、田中内閣は、経済政策に失敗したことと金脈問題のため退陣を余儀なくされる。

田中の後継をめぐり、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に選出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもってむかえられた。

しかし私は三木自身が青天の霹靂だとは実は思っていなかったはずだと思う。田中が後継者に椎名を推そうと考えて居ることを知った元総理佐藤栄作が田中を諭し、引退後、自分が金銭的に世話になっている親戚筋からの要請で早くから三木を推薦していたフシがる。

椎名は三木内閣でも副総裁に留任。更に「三賢人の会」の一人である灘尾弘吉を党総務会長に推挽し、三木内閣を通じて党改革に取り組もうとするが、1975年(昭和50年)4月には早くも三木との間に党改革・近代化をめぐり亀裂が生じる。

ロッキード事件や独占禁止法改正、党内改革をめぐり、椎名の三木首相への不満は嵩じ、「三木おろし」へと繋がっていく。1976年(昭和51年)椎名は田中、福田、大平と三木退陣で一致し、8月24日挙党体制確立協議会(挙党協)を結成。

三木は9月に内閣改造、党役員改選を経て12月5日の任期満了にともなう第34回衆議院議員総選挙で敗北し退陣を余儀なくされた。後継は密約により、椎名が一番嫌いな福田赳夫になってしまった。

それから2年後の1979年(昭和54年)9月30日死去。享年81。

<椎名 素夫さん(しいな・もとお=元参院議員)が2007年3月16日、肺炎で死去、76歳。葬儀は近親者で済ませた。近く関係者で「偲(しの)ぶ会」を行う予定。喪主は妻秀子さん。自宅は公表していない。

自民党副総裁を務めた故椎名悦三郎元外相の次男。79年に衆院旧岩手2区から立候補し初当選。4期務めた。

92年参院選でくら替え当選。その後、同党を離れて「無所属の会」を結成、代表に就任した。知米派の論客として知られ、03年に日本人として初めて米国務長官特別功労賞を受賞した。>Asahi Com 3月23日。

親子2代に亘って小沢佐重喜、一郎父子にはじかれ続けた人生だった。文中敬称略 

2013年03月05日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部 亮次郎


小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口から入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が朝鮮で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

16世紀になって新大陸での植民地開発に伴い生産が急増、ヨーロッパ人の食生活に大きな影響をあたえるようになる。17世紀以降、紅茶とともに一般に普及していった。

日本には754年唐僧の鑑真(がんじん)によって伝えられたとされる。室町時代に中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入量も増えたが、江戸時代に砂糖が国内生産されるまでは貴重品であった。

毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言《附子(ぶす)》の滑稽には,当時(鎌倉時代)の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

少なくとも農村でも砂糖を舐めていたのは極一部の地主だけだった。砂糖を知らない農村の次男、三男がたちが、食べた事もない白米をたらふく食べた事によって脚気に悩みながらロシアに勝ったのが日露戦争だった。

こうして、砂糖に慣れ親しんだ日本人も大東亜戦争中は主産地台湾との往来もまま成らなかったため、戦後を含む数年間は砂糖とは無縁の生活を余儀なくされた。

この数年間はあらゆる店先から菓子らしい物は一切姿を消した。戦後、2-3年して、農家にコメを供出させるエサとして白砂糖が配られて、再び砂糖にありついたのだった。

余談だが、戦時中に姿を消した物に鮭の缶詰がある。戦争が始まる前は樺太方面にサケ漁の出稼ぎが盛んだったから鮭缶は溢れていたのに、対米戦争開始と同時に姿を消し、戦後も暫くしなければお目にかかれなかった。

通常の砂糖の製法は原料から搾汁・浸出などの方法で糖液を作り、精製・濃縮・結晶化・分蜜・乾燥・冷却の工程をたどる。

砂糖の種類は原料によるもの以外に、製法や結晶の状態によっても分けられる。製法の違いによる種類には、糖蜜分を含む含蜜糖と糖蜜分を分離した分蜜糖がある。

黒砂糖などの含蜜糖は、糖蜜を含んでいるため色が濃く、甘みも強い。分蜜糖は糖蜜が分離され、精製されているため色が白く、日常使用されているのはほとんどが分蜜糖である。

結晶の状態による種類には、分蜜しないで夾雑物を漉してそのまま濃縮した黒砂糖、結晶の大きいざらめ糖(白ざら糖、中ざら糖、グラニュー糖)。

小さくてしっとりした車糖(上白糖、中白糖、三温糖)、加工糖(角砂糖、氷砂糖、粉砂糖、顆粒状糖、コーヒーシュガー)、液糖などがある。

砂糖の主な用途は勿論、甘味料で、砂糖漬けやジャムなどは砂糖の保存性を利用したものである。また、キャンディや飴などの菓子材料としても重要である。コンビニ弁当は保存料として砂糖を多用していると関係者に聴いたことがある。

資料:Microsoft(R) Encarta(R)及び平凡社「世界大百科事典」

2013年03月03日

◆焼夷弾開発は畳に困った

渡部 亮次郎


東京・下町を壊滅させた米軍の東京大空襲の日「3月10日」が又巡ってくる。

アメリカ軍が使用した焼夷弾(しょういだん、英: Incendiary bomb)は、爆弾・砲弾の一種で、攻撃対象を焼き払うために使用する。

そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っているもの(焼夷剤)が燃焼することで対象物を火災に追い込むのが目的。

焼夷剤として使う物としては、テルミットや油脂、黄燐の他にも重油などが用いられている。

良く知られているように、米軍は東京の下町を全焼させる為に焼夷弾を開発、1945(昭和20)年3月10日、隅田川左岸の門前町・深川に1発目を投下した。

この爆撃に先だってアメリカ軍は関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証しており、木造住宅の密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめていた。

この成果を爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させたため、東京大空襲の被害地域は関東大震災の延焼地域とほぼ一致し、かつ大震災時を上回っている。

米軍は木造家屋は簡単に作れたが、肝腎なのは畳。2階の畳を貫かないことには目的は達成できないということだ。さりとて、まさか日本から調達は不可能。

考えあぐねている時、知恵者がいた。「移民の多い、ハワイで調達できるかもしれない」。結論は正しかった。実験はスピードが速まった、という。

被害規模当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

死亡:8万3793人

負傷者:4万918人

被災者:100万8005人

被災家屋:26万8358戸

なお人的被害の実数はこれよりも多い。上記の被害数の死者数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在するためである。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。

わずか1回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km2)が焼失した。

ちなみにアメリカ側の損害は、撃墜・墜落が12機、撃破が42機であった。

米軍が東京大空襲で使用した集束焼夷弾はE46。

木造の日本家屋を効率よく焼き払う為のもの。子弾として38発のM69焼夷弾を内蔵するクラスター構造を取っており、投下後上空700m程度でこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐ仕組みになっていた。

焼夷弾は建造物等の目標を焼き払う為の兵器であるが、M69は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、人体への直撃による即死の事例が、多くの被災者の証言により伝えられている。

例えば戦争を題材にしたアニメ・映画では、落下した焼夷弾が家屋や地面に激突し大爆発を起こし燃え上がる描写が多く見られる。

だが実際には避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま燃え上がるという凄惨な状況が多数発生した。

なおM69焼夷弾1発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2・4kg程度。

江東区の生き残りは2万5000人しかいなかった。今の江東区は工場跡地や倉庫の跡にマンションなるものが林立する若夫婦の町に変貌。人口は48万189。うち外国人20,449人。2013・3・2

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年03月02日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎


郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳(ペギー葉山の夫=故人)である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。
誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。

2013年03月01日

◆吉原遊廓(よしわらゆうかく)

渡部 亮次郎


学生時代はカネがなくて行けなかった。だが社会人になったと同時に今度は吉原そのものが消滅した。だから吉原を語る資格は、この場合「ウィキペディア」にしかない。

江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあった。一面「葦」が生えていたが、アシでは語呂が良くないので「ヨシ」原といったらしい。人形町にあった三業地は「ヨシチョウ」だった。

明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。

明暦の大火(めいれきのたいか)は明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。

被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。

火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。

防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。

徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。

家康は東海地方ら多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めた。

また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。

江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。

そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、

1.客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

2.偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

3.犯罪者などは届け出る。

という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。

その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。

結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。

ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。

寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。

江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。

吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。

1.吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)

2.夜の営業を許可

3.風呂屋者を抱える風呂屋(遊郭の競合)を200軒取り潰し

4.周辺の火事・祭への対応を免除

5.15,000両の賦与

この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。

折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。

移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。

寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」
と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた。

明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。

一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になるようになり、昭和年間には大半が東北地方出身者で占められるようになっていった。

彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。

まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために遊女を購った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女が生涯を遊廓で終えることとなった。この背景には農民層の貧困が存在していた。

戦後、純潔主義を掲げるキリスト教女性団体である婦人矯風会の運動などにより、昭和31年(1956年)5月21日に売春防止法が可決成立し、翌昭和32(1957)年4月1日に施行されると、吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身する。

江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。

それらの中でも吉原遊廓は最大級の規模を誇っていた。敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。江戸市中の中でも最大級の繁華街と言うことができ、吉原と芝居町の猿若町と日本橋が、江戸で一日に千両落ちる場所といわれていた。

江戸時代を通じて吉原遊廓は男性の最大の社交場所であったが、吉原遊廓にとっても競争相手は常に存在していた。元吉原時代は、湯女と呼ばれる風呂屋で隠れて商売をする遊女屋があった。

江戸は富士山の火山灰が堆積した土地で埃っぽく、さらに初期の江戸は都市開発の真っ最中だったために泥まみれ、埃まみれになる仕事が多く、風呂屋が繁盛したが、その中には女性を置いて客の相手をさせる場合があった。「丹前風呂」などがその例である。

また、その後も江戸は膨張を続け、深川などに岡場所が出来てきたり、各街道の最初の宿場町が手軽に行ける遊興場所を兼ねるようになってきたりすると、吉原遊廓は激しい競争に晒されるようになった。それでも、江戸時代を通じて吉原遊廓は江戸では最大の繁華街としての地位を維持し続けた。

明治期以降になると吉原遊廓は縮小されていくが、それでも、昭和32年(1957年)4月1日の売春防止法施行まで、元吉原の時代から数えて340年に亘って、吉原遊廓は営業を続けることになる。

「志んよし原大なまづゆらひ」。大鯰を懲らしめる遊女らを描いた鯰絵。多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は、常に8割を超えた。

しかし、一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に「〜売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。

しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし(客の財布を盗む事)」「起請文(お気に入りの客に宛てた手紙)乱発」「足抜け(脱走)」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。

この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。

なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政2年10月2日(1855年11月11日))の安政江戸地震で600人余の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。

遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。

遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。

花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、なかなか相手にしてもらえなかったといわれる。

そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。また、男性の下心をうまくつかってお金を搾り取るのが遊女のテクニックであった。しかし、現代で言う「ぼったくり」を店が行うことは良しとはされず、ぼったくり行為を行った店の主人が処刑された例もある。

江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。

茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという不文律があった。

ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたようである。

多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。

これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。

幕府は自ら公認した吉原遊廓を“悪所”として江戸から遠ざけようとしたが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。2013・2・28


2013年02月27日

◆毛沢東の晩年とその後

渡部 亮次郎


1972年の春、ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。

田中角栄首相が北京に乗り込んで日中国交正常化を一気に成し遂げたころ(1972年9月)であり、毛は田中首相らを引見した。このとき周恩来は国務総理として上海まで見送りに来て「天皇陛下によろしく」と田中に言った。

1975年には毛は両眼の白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。

このころになると最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するだけとなった。革命中のどさくさに生ませた子ども華国鋒はまだ側に呼び寄せてない。

毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。

そこで毛は周恩来の補佐として、1973年にトウ小平を復活させ、1974年にはトウを国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。

トウ小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。トウ小平は一気に文革路線からの脱却を図ろうとした。

しかし文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・トウ小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対してトウ小平批判を伝えていた。

毛沢東も文革を否定するトウ小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛はトウ小平をまたまた失脚させた。

周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。

毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は華国鋒主席によって逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。私も見た。

毛の死去後、江青ら四人組を逮捕・失脚させて党主席に就任した華国鋒は毛が革命中にある女性に生ませた子である。それを背景にある時期から「ヘリコプター式」に出世し「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。

これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。

先に復活していたトウ小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。

園田直外務大臣ら日本側の一行が北京に乗り込んで日中平和友好条約の調印に応じたのはこのころである。華国鋒主席は園田氏と会見したが、同席した私には全く元気がなく見えた。

党と軍の大勢はトウ小平を支持し、その後トウ小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。

また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。

毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。

内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。

しかし文化大革命で失脚したうえに迫害されたトウ小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。

毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。

例えば1989年の第2次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。

一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。

第2次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。

毛沢東の死後、中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大や党幹部・官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。

かような状況の下、困窮に苦しむ人々が「毛沢東は平等社会を目指した」と信じ、毛の肖像や『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。

毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った。

私見だが、党幹部の汚職や私腹肥やしに対する大衆の反発で共産党支配が壊滅する時、大衆は「公平」を旨とした国家の祖として毛沢東を再評価するという矛盾を犯すだろう。
                 ウィキペディア 2013・2・26


2013年02月26日

◆韓国における売春の現状

渡部 亮次郎


韓国政府の発表通りだとすると、韓国女性の4%が売春婦ということになる。しかも、最近は国内で稼げないから、日本に3万人、アメリカに2万人が「遠征」しているという。

以下のすべては「ウィキペディア」からの引用である。

韓国では、チケット茶房、ルームサロンなどを通じて売春が行われている。売春業の規模が2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)でGDP比で約4%、20歳以上の韓国女性の25人に1人が娼婦であるという調査結果を韓国の刑事政策研究院は公表した。

(2007年に韓国政府の女性家族部が実施した実態調査では、韓国の風俗産業の経済規模はGDP比で約6%で、約27万人が従事している)

また、外国人女性を騙して入国させ、監禁の上で売春を強要する事件もあった。このような状況から韓国政府は2004年に売春行為を厳しく取り締る「性売買特別法」を施行した。

この法の施行にあたり、約3000人の売春婦が集まり「売春をさせろ」「生存権を保証しろ」とのデモがおこなわれ、その後も規制により生活が苦しくなった売春婦たちのデモが各地で発生するに至っている。

2011年には売春婦たちによって規制撤廃を求める大規模なデモがソウルで行われ、裸になった売春婦たちは町に火を付けたり自らガソリンをかぶるなどの恣意行動を外国メディアの前で行った。

「性売買特別法」施行後、韓国内の規制が厳しくなったことで、日本や米国をはじめとした海外へ「遠征売春」をしに出かける韓国女性が増加しはじめ、韓国政府関係者によると日本で働く売春婦は3万人にのぼるとされる。

それを追いかけて韓国人ホストも毎月100人以上が日本へ上陸していることが伝えられた。

米国ではロサンゼルス警察局の関係者によると、毎月逮捕される売春女性のうち、9割が韓国人であることが伝えられ、韓国の売春事情は海外にも影響を及ぼしている。

海外で売春をする韓国人は、米国では売春宿に「東京サウナ」、「東京ヘルス・スパ」などの店名を付けたり、オーストラリアでは韓国人売春婦らが「日本人女子大生18歳、(中略)紳士求む」という新聞広告を出して逮捕されたりと、日本人に成り済まして売春行為を行っている姿が見られる。

なお、戦時中売春婦だった人は旧日本軍に従軍慰安婦として強制連行されたと主張して、日本政府に謝罪と賠償を求めている。

一方、アメリカ国務省は2006年に発表した人権報告書で、韓国を人身売買国と規定して、「韓国が人身売買の発生地と同時に中間地、または終着地」としながら、「 主に性売買の目的で韓国女性が、カナダとメキシコを経由してアメリカや日本などへ渡っている」と明らかにした。

2009年には韓国の業者が同性愛者の韓国人男性をインターネットで募り、不法に日本で売春を行い暴力団などに上納したなどとして韓国で検挙される例があり、海外からの違法な売春者が流入していることが明らかとなっている。

また、エイズ患者の韓国人ブローカーにより強制的にエイズに感染させられた韓国人同性愛者が日本に売春目的で派遣されていることも明らかにされている。

2009年7月15日には、韓国の求職サイトで「海外の風俗店で働くと月3000万ウォン以上を稼げる」との広告で高校生を始めとする若い女性達を募り、100人余りを日本などに送り込んでいた韓国人親子ブローカーが摘発されている 。2013・2・23

2013年02月25日

◆世界は売春合法化の流れ

渡部 亮次郎


何気無し「ウィキペディア」に「売春」と打ち込んでみて驚いた。世間を知らないとは恐ろしいもの。近年、世界的に売春は合法化の流れがあるとされる、というのだ。

アジアでは、タイで完全に合法化され、台湾でも合法化が検討されている。欧米では、売春自体は合法である国がほとんどである。

ただ、斡旋を違法としている国も多いが、2000年にオランダが斡旋を含む売春行為を完全に合法化したのを手始めに、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなども斡旋合法化に踏み切っている。

何しろ合法化の理由としては、性病対策、性犯罪対策などがあげられる。出現した恐ろしい性病「エイズ」の伝染力、女性の権利の主張などがからんで、日本の売春防止法などは時代遅れといわれそうだ。

タイや中国などアジアでは、現在でも、特に地方での貧困から、少女・少年が都市部の闇で売春をするケースが多いといわれ、エイズなどの性病が蔓延し、大きな社会問題となっている。

タイでは、性病の蔓延を防ぐため、衛生管理を徹底し、かつ税収を確保する目的で昨今、国の許可の下での管理売春が合法化された。ドイツでは斡旋を伴う売春を完全に合法化し、売春地帯を一定の場所に隔離し、政府が性病管理をすることによって性病が減少したとされており、タイはドイツを参考にしたといわれる。

ヨーロッパにおける売春合法化と売春の現状

デンマークは1999年の刑法改正により、18歳以上の売春は完全に合法化された。もっとも、それ以前も事実上黙認されていたといわれる。いわゆる街娼は少ないとされ、多くはサロンやマッサージ店のような場所で売春が行われている。売春婦は約6000人おり、3割が外国人であるといわれている。

オランダでは2000年に16歳以上の売春が完全に合法化され、一般の企業と同様の活動が可能となった。アムステルダムなどの主要都市に売春宿(隠語で「飾り窓」と呼ばれる)や街娼(隠語で「立ちんぼ」と呼ばれる)が多数存在し、毎日朝から深夜まで料金等の交渉が行われている。

脅迫などにより売春を強要される女性がいると指摘されていることから、近年売春強制の罰則が強化されている。これに対し、移民は仕事を確保することが困難であり、自らの意思で売春に従事する人が多いといわれる。

デンマーク、フランス、スイス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、チェコなどにおいても合法で、オーストリアなどでは外国人が働くために売春ビザで滞在許可を得ることができる。

スイスでは売買春は合法で、自治体に登録することで、営業することが可能となる。EUの自由化により、外国人売春婦が増えているとされる。

売春合意年齢は16歳であることから、現在18歳未満であっても売春が可能である。ただ、18歳未満がブランド品を買うために体を売る「ブランドセックス」が問題視されており、売春合意年齢を18歳に引き上げるべきであるとの議論がなされている。

なお、イタリアやフランスの売春合意年齢は18歳、ドイツは21歳であり、スイスは特に若いことが指摘されている。

ドイツでは2002年に売春が合法化された。売春合意年齢は21歳とされている。現在、ベルリンだけでも700もの売春宿があり、売春婦の数はドイツ全土で40万人といわれる。

合法化したことにより、「セックス税」が得られるようになったとされる。また、ドイツW杯時には大きな売り上げをあげたとされる。

ただ、経済不況の波はドイツの売春産業にも大きな影響をあたえており、価格が低下しているといわれ、近年では、多様化により、外国に支部を持つオーナーも多くいる。

オーストリアでも売春は合法で、路上や店舗で活動するためには営業免許証が必要とされる。海外からの移住性労働者のための滞在ビザ、つまり売春ビザもある。売春ビザで働いている場合、売春以外の職種(ダンスショーなど)に従事することも裁判で認められた。

チェコでは売春、売春宿の経営は合法である。チェコのEU加盟により、従来最大で24時間近く待たされた国境通過が容易になったとされる。そのため、トラックドライバーを主な顧客とするオーストリア国境地帯の売春宿の多くが廃業したといわれる。

ベルギーでは従来から売春自体は合法だったが、斡旋行為等は違法とされていた。しかし、ドイツ、オランダの合法化に伴いベルギーにおいても斡旋行為、売春宿の経営等が合法化された。

イタリアでは1958年に売春防止法が施行された。ただ、売春行為自体は適法であり、売春合意年齢は18歳である。売春の斡旋や売り込みなどは違法とされている。

イタリア政府は政府公認の売春公認地域の設置や売春合法化を検討しており、8割の国民が賛成しているとの世論調査結果が出ている。現在、イタリアの売春婦は7万人で、多くが外国人とされる。

オーストラリアでは売買春そのものは合法である。組織・施設・勧誘行為の規制は州により異なる。売春が合法化されている州では、一部上場している売春宿もある。

合法化を推進したのがキャンベラの女性市長である。売春を違法にしたところで、貧しい人達がいる限り売春は無くならないし、「モラルを押し付けておきながら、福祉を充実させずに貧しい生活を甘受せよというのは金持ちの身勝手である」との反発もあり、合法化した。

合法化したことで、売春に従事する女性達は社会保障を受けることができ、また賃金を不当に踏み倒されることもなくなり、また衛生管理も向上する。そういった点で、女性議員達の支持をうけたのが、合法化に成功した理由といわれる。

同様の理由でニュージーランドでも合法化された。ただし、合法的に売春するには、ライセンスを受ける必要があるとされる。

イギリスでは売春すなわち「性的なサービスの代価に金銭を受け取る」こと自体は合法であるという判例がある。しかし法律的には、街娼、ポン引き、売春宿および売春組織の形成は違法である。

したがって、個人が新聞やインターネットで広告を出し売春をすること (Independent Escort) は完全に合法である。

これに対し、Escort を派遣するいわゆる Escort Agency や、日本のソープランドのようにマッサージと称して売春するマッサージパーラー(Massage Parlour)は、違法ではないかとの指摘があるが黙認されている。

フランスでは売春は合法である。ただ、斡旋や公道での勧誘は違法である。売春合意年齢は18歳である。フランス在住のジャーナリストである鎌田聡江によると、近年、女子学生が生活費を稼ぐために売春するケースが増えているとされ、その数は4万人にのぼるといわれる。

彼女達の多くは貧しい家庭の出身であり、社会的な成功を夢見て勉学に励んでいる。しかし、労働法令により、労働者の解雇が困難なフランスでは、労務者の数を少なく抑えようとする傾向があり、バイトを探すことが困難となっている。

そのため、彼女達が勉学を続けながら収入を得ることは難しい。その上、パリでの生活費は一般的に高いといわれる。それが、インターネットを利用した売春が女子学生の間で流行している原因であるとされる。

スペインの売春は合法とされる。多くは、貧しい移民達が生活費を稼ぐために売春に従事している。ただ、売春宿の経営については、規制が設けられており、新規出店は難しい。そのため、マッサージ店に偽装する店が多いとされる。

ギリシャでは売春自体は合法であるものの、街頭での客引き等の行為は違法とされ、規制も厳しいといわれる。売春宿を経営するためには、市の許可が必要となる。

アテネ五輪の際に、五輪特需を見込んで、アテネ市が230件の売春宿の新規許可を出したことに対して、北欧諸国から五輪の精神に悖るとして非難が起きた。
22013・2・17