2015年07月17日

◆2倍美味しかった豚肉

渡部 亮次郎



秋田の田圃の中で育った私は蛋白質といえば旧八郎潟から網で掬える淡水魚と家で飼っている鶏、それに大豆を摺り潰した呉汁で大きくなった。だから豚肉を初めて食べたのは13歳、刺身を食べたのは60歳だった。

ブタの先祖である野生のイノシシは、アジア、ヨーロッパに広く分布していた。そのため、イノシシを食用にすること、捕えて飼育することは早くから中国やエジプト、ギリシアなどで同時発生的に行われていた。

中国では紀元前2200年ごろにはすでにブタが飼育され、豚肉は羊肉とともに重要な食肉となっている。また、古代エジプトの原始農耕時代(前5000以降)に養豚が行われていたことが壁画にうかがえる。

古代ギリシア(前2000ころ)では豚肉を食べることが一般的に広がり、ハムやソーセージのような肉加工品もつくられている。

一方、イスラム教やユダヤ教、ヒンドゥー教では豚肉をタブー視し、徹底して豚肉を避けている。中国のように豚肉を多く食べる国では、イスラム教徒専門の飲食店が存在し、主として羊肉や牛肉を用いている。

日本では、縄文・弥生(やよい)時代の貝塚からイノシシの骨が出土しており、中には鏃(やじり)の刺さったままの骨片もあった。銅鐸(どうたく)には、イヌを使い、弓矢でイノシシを狩る図も描かれている。

中国の影響を受けて、沖縄地方で早くから豚肉が食用とされていた(室町中期には豚肉を用いた沖縄料理のあったことが記録にある)。江戸時代には、沖縄から養豚が鹿児島に伝わり、鹿児島でも豚肉を食用とすることになった。

長崎では中国から養豚が伝わり、在留する外国人のためにも養豚と豚肉を食べることがかなり一般化していた。全国的には明治になって肉食が奨励されたが、豚肉よりも牛肉が中心で、豚肉が全国的に普及したのは明治中ごろからである。

豚肉は脂肪、タンパク質のよい給源で、ビタミンでは牛肉や鶏肉に比べB1が多い。とくにヒレ、もも肉など脂肪の少ない部位にビタミンB1が多く、牛肉や鶏肉の約10倍含まれる。脂肪は牛肉に比べ、リノール酸が多いのが特徴。

中学3年の夏休み、野球部の合宿中、心臓脚気で死に損なったが、豚肉をもっと食べていれば罹らなかった。だが、貧しくて家では豚肉を滅多に買えなかった。(Yahoo!百科事典検索Yahoo!百科事典)

日本では天武天皇の675年に最初の肉食禁止令が出され、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・ニホンザル・ニワトリ・イヌ)の肉を食べてはいけないとされたがこれに豚は含まれていなかった。

戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。

その後、大部分の地域では豚肉を食べる習慣は廃れ、わずかに薩摩藩と南西諸島では日常的に養豚が為されていた。

琉球では17世紀以前は牛肉がその座を占めていたが、羽地朝秀の改革によりウシの食用が禁止され、その後冊封使節団を接待するため王府によりブタの大量生産が奨励された事なども相まって、牛肉に代わる存在となっていった。

現在の沖縄料理では最も重要な食材となっている。沖縄で飼育されている豚は、1385年に渡来したという琉球王国時代より続く血統の黒豚「アーグ」が有名。「アグー」または「シマウヮー(“島豚”の意)」とも。

一方薩摩でも、豚肉を用いた薩摩料理が発達した。西郷隆盛も脂身のたっぷりついた豚肉が大好物だったという。1827年の佐藤信淵著『経済要録』には、薩摩藩の江戸邸では豚を飼育し、それによって取れた豚肉を町で売っていたという記録が為されている。また、江戸ではももんじ屋などで食べられた。

1845年5月2日の書簡によれば、江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜は、島津斉彬から父・徳川斉昭宛てに豚肉が送られていたという。

そのせいか、彼は豚肉を好んで食べており、下々の者たちから「豚一様」と呼ばれていた。「豚一様」とは、「豚肉がお好きな一橋様」の略称である。

新選組も西本願寺駐屯時に、松本良順の勧めで神戸から子豚を持ち込んで養豚し、食べていた。豚の解体は京都木屋町の医者・南部精一の弟子に依頼していた。

福澤諭吉著『西洋衣食住』には、大坂にあった緒方洪庵の適塾にて学ぶ塾生たちも豚を食べていたとの記録がなされている。

明治維新以後は日本全土で豚肉が一般に食べられるようになり、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にもそのことに関する記述が見られる。

特に関東大震災後の関東地方ではにわかに養豚ブームが起き、豚肉の供給量が増え安価になったため、庶民たちにも比較的手の届くものとなった。関東を中心とする多くの地方で「肉」と言えば豚肉のことを指すようにもなった。

なお、関西で「肉」と言えば牛肉のことを指し、豚肉は「豚」と呼ばれる事が多い。従って関西では、豚肉などを使った中華まんのことを「肉まん」とは呼ばず「豚まん」と呼ぶ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2015年07月15日

◆やくざでない人の刺青

渡部 亮次郎



小泉又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日)―昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。

横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。義侠心にあふれ、人情に厚い大衆政治家で、刺青があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。

又次郎の刺青のわけも分からず、刺青をしていたんだからやくざだったと誤解する向きもあるので、この際、詳しく調べてみた。

そもそも日本での刺青(入れ墨)は江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりである。

これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。

この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。

また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。

初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。

しかし時代が下ると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって専門の彫師も生まれた。

こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804‐30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。

また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。(平凡社『世界大百科事典』)

だから昔を論ずるに、刺青をしていたから即ちやくざ者だったと断定しては教養を疑われる事になる。

小泉又次郎は慶応元年(1865年)5月17日、現在の神奈川県横浜市金沢区大道)に鳶職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる。

又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫等を送り込む人入れ業を始める。

又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入学するが、兄の急死によって家に連れ戻される。

しかしその後も軍人になることを諦めきれず、今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入学するが、またしても父に見つかり「なんとしても家業を継げ」と厳命される。

その際、こんどこそ軍人を諦め鳶職人になることを決意した証に、全身に「昇り龍」の入れ墨を彫って父親に見せつけたという。刺青者は軍人になることができなかったからだ。30歳のころ芸者だった綾部ナオと結婚したが子は出来なかった。子孫は妾腹に繋がる。

その後板垣退助の演説を聴いて政治家を志すようになり、独学で小学校教員となった後、新聞記者などを経て、明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後、議長をつとめる。

神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)に憲政本党から衆議院議員選挙に初当選、以後連続当選12回を数える

昭和4年(1929年)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。

その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した過去に大臣経験のある安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。

昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。

昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった。墓所は横浜市金沢区の宝樹院にある。

妻: ナオ(綾部幸吉二女)
妾: 石川ハツ、寿々英(すずえ)など
女: コウ(養子)
女: 芳江(庶子、母は石川ハツ)
婿: 純也(芳江の夫)
孫: 純一郎、正也ら。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ところでやくざ Yakuza 八九三と字をあてる。2枚または3枚の花札を使ったおいちょかぶとよばれる賭博で、8、9、3の目が来ると上がれないことから、中途半端で役に立たない人間を指した。

のち、一般的には堅気の人とは対照的に、職につかない遊び人や、博徒(ギャンブル)や博打(ばくち)打ちを指す言葉となった。

江戸時代の享保の頃から「やくざ」の名称が流行したが、江戸末期の混乱期になって多く現れ、刀を持ち、脇差(わきざし)をかかえ、背中に刺青(入れ墨)を施すなど、異様な風態をてらった。

人別帳から除かれた無宿者(無宿)などが多く、侠客の親分のもとに寄食した。擬制的な親分、子分関係(擬制的親族)でむすばれ、暴力をふるい、法をおかすことが多かった。

第2次世界大戦後、やくざの世界も激変し、構成原理そのものが変わった。都市部では闇市(やみいち)の利権をめぐって、てきや( 香具師)集団が勢力を伸ばし、博徒もこの利権に目を向けて、従来はっきりと類別されていた組織系統が、複雑に入り混じることになった。

やがて、高度経済成長期を経る中で、大組織による系列化がすすむようになった。現在では、暴力を背景にゆすり、たかりをおこなう者、暴力団の成員(構成員、準構成員)を指す。

組織は、○○組を名のり、親分、子分、兄弟分の強力な支配関係で結ばれている。とくに親分への服従は絶対とされる。

跡目相続、親子盃、仁義とよばれる挨拶など、独特の儀式や慣行や隠語をもちその閉鎖性を維持しているが、その活動は、企業化、知能化の色彩を強めている。現在のやくざは刺青があっては幹部になれないといわれている

2015年07月12日

◆欧米の肥満人口増深刻

渡部 亮次郎



親戚に「体重0・1トン」と自称する男が居る。若いころ、ラグビーの選手だったとかで、相当筋肉質の太り方。体重が100キロを超えているとは想像できない。

そういう自分も85キロに達したことがあった。37歳の頃。健康診断で医者に「痩せなけりゃ駄目ですね」と言われて秋の検診までに13キロ痩せていったら「こんなに急に痩せては身体に悪い」と言われて苦笑した。

しかし、糖尿病になりやすい遺伝子を持った人が肥満をきっかけに発症するとは知らなかった。もともとアジア人は貧困の歴史が長く、過食の歴史がない。そのせいでちょっとの過食で糖尿病になりやすいらしい。

中国でも経済事情も改善された沿岸部では猛烈な勢いで糖尿病が増えている。中国料理を見ればカロリーの高い物は少ない。肉類だってハイカロリーの牛肉はまともに使っていない。

ところが懐が豊かになったものだからステ−キをやたら喰って、結果、糖尿病患者急増という事態を招いている。専門医が各国から招かれ、日本からも相当、駆けつけている。

ところで産経新聞(2007・03・27)によれば、もともと肥満者の多い欧米だが「体重220キロにも対応できる救急車、重い患者を動かすリフトマン」と言う記事。もはや肥満は個人の健康問題にとどまらず、公害問題、社会問題ともなりつつある、というのだ。

以下、産経新聞に記事。

近年の肥満人口の増加ぶりは急激で、医療費の負担増を招くばかりでなく、交通機関の燃料消費も増え、排出される二酸化炭素の増加で環境にも負担がかかる。

欧米における肥満の増加は深刻だ。世界保健機関(WHO)によると、肥満の指標であるBMI(体重÷身長÷身長)数値が30以上の肥満人口は、1995年から2000年の間に世界で2億人から3億人以上に増加した。

人口に占める肥満者の割合(大人の場合)は米国で30.5%、英国で22.14%、オーストラリアは16.4%。日本(3.1%)や中国(2.9%)などアジア諸国に比べると、その数字は際だって高い。

肥満人口の増加に悩む米フロリダ州の病院では、重い患者を運ぶため、男性6人による特別リフトチームが結成された。体重約150キロを超える入院患者は、20年前は年に1人いるかどうかだったが、このごろは毎日のように運ばれてくるという。

一方、豪州のサウスオーストラリア州では、3月、引っ越しトラックのような大型救急車を導入した。体重110キロを超える患者は8年前は年間10人ほどに過ぎなかったが、いまでは100人近くに上るからだ。

ニューサウスウェールズ州でも最近、救急車の担架積載能力を180キロから220キロに強化した。同州では、大型救急車の出動回数が過去3年で2倍以上も増えたといい、救急ヘリコプターも、重い患者を搬送できる機材に変更する予定だ。

大型救急車の導入は、英国などでも相次いでいる。

肥満患者に対応できる救急車は1台約3000万円。行政側の負担も大きい。米国では肥満に関連した医療費支出が年間約750億ドル、うち約400億ドルが税金でまかなわれている。

米国人の場合、1990年代に平均4・5キロ体重が増えたために旅客機の燃料消費を押し上げ、年間380万トンの余分な二酸化炭素を排出しているとのデータもある。

英国では旅客機で太った乗客の隣に乗り合わせたために身動きが取れず、血液が凝縮し筋肉を切断する手術を受けたケースまで報告されている。WHOは「肥満は最も目に見えていながら最も放置されている公共的な健康問題だ」と警告している。(坂本英彰)
(Sankei Web 2007/03/27 22:53)

2015年07月11日

◆伊藤律の帰国事件? 知らん

渡部 亮次郎



伊藤律(りつ)とは日本共産党初期の大物。戦後、マッカーサーに睨まれて地下に潜ったまま行方不明となった。ところが実は中国に密入国で渡り暮していたが1980年9月3日に突然帰国して世間を驚かせた。彼にとって「帰国」は「事件」だったのである。

ところが頼りにしているフリー百科「ウィキペディア」では伊藤律に関しては何方も手を下していない。三省堂の「コンサイス人名辞典 日本編」第1刷(1976年3月20日発行)により生まれは1913(大正2)年、岐阜県出身とわかったが、今のところ没年月日は不明である。

一高中退とあるのは、在学中、共産党運動に参加し放校処分となったため。1933年検挙され、出獄後、39年、満鉄東京支社調査部に入る。

この間、小林陽之助らの「人民戦線グループ」に参加し、40年には満鉄共産党事件で検挙。41(昭和16)年再び検挙され、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなった。

事件の発覚は、日本の特別高等警察(特高)資料などをもとにまとめたアメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件の真相」(1949年に公表)によれば、共産党再建容疑で取り調べ中の伊藤律の自供により、1941年9月、元アメリカ共産党員の北林トモが検挙されたことにはじまる。

伊藤自身は、死後の93年に出版された回想録で、自分は陰謀の被害者で、後の議長野坂参三こそがゾルゲの諜報網を「売った」と主張している。野坂も100歳で死ぬ直前、スパイ容疑で除名された。

ゾルゲ事件 ゾルゲじけん 1941年(昭和16)10月におきたリヒャルト・ゾルゲらの諜報(ちょうほう)活動と尾崎秀実らの反戦活動に対する検挙事件。

41年9月〜42年6月にゾルゲや尾崎ら35名がスパイ容疑で逮捕され、18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法の各法違反などで起訴された。逮捕者の中には、機密情報提供の容疑者として近衛文麿首相のブレーンだった犬養健(たける)や西園寺公一(きんかず)らもふくまれていた。

検挙は極秘にされ、事件が「国際諜報団事件」として司法省から公表されたのは1942年5月だった。

43年の裁判の結果、ゾルゲと尾崎は死刑判決、2名が無期懲役のほか全員が有罪判決をうけた。

西園寺は執行猶予、犬養は上告審で無罪となった。44年にゾルゲと尾崎は上告が棄却され、同年11月7日(ロシアの革命記念日)に死刑が執行された。ブーケリッチや宮城ら5人は獄死した。

伊藤律は、敗戦後、日本農民組合結成に参加しながら日本共産党再建に従事。徳田球一の下で政治局員、書記局員を歴任、農民部長として極左的な農業綱領を作成した。No.2にのし上がった。

1950年、コミンフォルム批判後は徳田と行動を共にし、地下活動に入るが宮本顕治に追われ、55年、スパイ活動を理由に除名された。コンサイス人名辞典はここまでで「その後、消息不明。」で切れている。

後に明らかになるが伊藤は早くに建国間もない中華人民共和国に密航、中国共産党に幽閉されていたらしい。それなのに1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

これが真っ赤な嘘。記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」 と弁明。「戦後生まれ変わった朝日新聞の輝かしいねつ造の扉を開いた金字塔」とは「頂門の一針」798号(07・05・11日)で私が朝日新聞を得意技は捏造?と揶揄した文章である。

伊藤律氏はレッド・パ−ジ(1949-50年に行われた共産党員の公職追放)で地下に潜行中だったが、その記事の見出しは「姿を現した伊藤律氏 本社記者宝塚山中で問答」

「徳田氏は知らない 月光の下 やつれた顔」となっていた。この記事は、3日後の9月30日付け夕刊で「ねつ造記事と判明した」として、陳謝と全文取り消しの社告で抹消され、縮刷版のこの日の社会面の中央は白紙になっている。『朝日新聞社史』昭和戦後編125ページに「伊藤律架空会見記」の項がある。

さて、
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/index.htm

による「事件史探求 伊藤律・帰国事件」によると昭和55年9月3日午後1時45分、日本共産党No.2(昭和20年代前半当時)で潜伏先の中国で死亡したと思われていた伊藤律(当時67歳)が中国民航の臨時便で帰国した。

羽田空港は300人以上の報道陣が詰め掛けて騒然となった。伊藤律は報道陣のフラッシュの中を濃紺のスーツを着て車椅子に乗って現れた。伊藤律は昭和26年9月に忽然と姿を消した日本共産党の大物政治局員で実に30年振りの日本帰国となった。

これに先立つ昭和24年2月10日、米国陸軍省はウイロビー報告で「ゾルゲ事件」の全容を明らかにした。これによって、日本共産党は伊藤律が「党を裏切った密告者」であると断じた。

日本共産党は昭和28年9月、伊藤律をスパイとして処分し除名した。さらに昭和30年には六全共で除名が確認された。公安当局も伊藤律は昭和45年6月に中国で死亡したと判断し捜査を打ち切った。公安は辻褄あわせをして嘘をいうのだ。

当の伊藤律は昭和26年9月に日本を脱出し中国で生きていた。が、帰国後の伊藤律は脱出の経緯、ゾルゲ事件での裏切り行為の真偽、帰国までの活動その他の事実を一切語らぬまま死んだ。

参考:マイクロソフト『エンカルタ総合大百科』2007・08・31執筆

2015年07月09日

◆オイカサラマサ予算

渡部 亮次郎



自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」と判断できた。他社の連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていた。

打ち続く野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やして伝家の宝刀宜しく、採決強行(強行採決)を断行するぞと予告をしているのであった。記事やニュースには出なかったが、記者クラブでは以後しばらくガッポウテキが流行語となった。

それからしばらくして委員長はなんと入閣した。佐藤首相はそれをガッポウテキと判断したのだろう。

日本のみならずどこの国でも、国民に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

どこか大国の大統領ですら、最近、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいるくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかいた。

昔のある代議士は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。お気づきだろうか、追加更正予算のことである。今の世は更正の語を使わないから、オイカサラマサと言われて判る人は少なかろう。

いずれにしろ議場は大爆笑に包まれたか否か。そういえば、演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)やった兵(つわもの)がいたそうだ。

学識が足りないから原稿は誰かに書いて貰ったのだろうが、筆者は気を利かせたつもりで、アドバイスよろしく(このへんで一息入れて、水を飲みなさい)を書いたところ、代議士はそのまま読んじゃった。口に蓋をしたかっただろう。しかしこの場合は書いた方が良くないと思わないか。

津軽(青森県の西側半分)出身の作家・石坂洋次郎の小説「青い山脈」で女学生宛てのラブレターを先生が取り上げていきなり「へんしい、へんしい」と誤字どおり読んで笑わせる場面がある。

もちろん恋しい、恋しいなのであるが、文字とか言葉というものは、子どものうちこそ注意してくれる人があって直せるが、大人になってからでは、誰も失礼と思うから下を向いて笑いを堪(こらえ)たままだから、本人がどでかい恥を掻く事になる。まさに聞くは一時(いっとき)の恥云々である。

「夫妻」を「ふうさい」といって直らない社長がいる。「夫婦」は「ふうふ」だから「ふうさい」と覚えてしまったのである。別の人は「熾烈」を「しきれつ」と発音する。だからか「旗幟」を「きし」ではなく「きしょく」と言って恥じない。

そうかと思えば雑談の中で「さつじん」を連発するが意味は通じない。映画の話だから「殺陣」(たて)のことなのであるこの人は頻繁に国連総会の演説で「漸次」を「暫時」と読み替えて側近を苦笑させた。

「次第に」を「しばらく」に変えたのでは意味が大分違うが、彼はどちらも「ざんじ」とよむのだった。そういえば朝日新聞ですら「まだ」未青年だ、などと書く。漢文をやめたからこうなった。

代議士ではないが「お土産」を「おどさん」としか読めないタレントがいた。さすがにディレクターがそっと呼んで事なきを得たそうだ。NHKのアナウンサーですら「愛娘」を「まなむすめ」ではなく「あいろう」と読んだり、「春日」を「はるひ」と読む。

こうしたことはその人の学識と無関係なことだから、「珍語」と打ってパソコンが「鎮護」としか出せないように、これからもいろいろあって恥をかいたり笑わせたりするだろう。(再掲)

2015年07月08日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎



河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。2人は互いを不倶戴天と言っていた、2008・07・05

2015年07月05日

◆民主党に「言論統制」批判資格ある?

酒井 充



政権時の言論封殺の数々…

民主党は今、「言論統制」批判の大合唱だ。自民党若手議員の勉強会であった報道機関に圧力をかける発言をめぐり、安倍晋三政権への攻勢を強めている。

岡田克也代表は「自民党のおごりだ」と批判し、安住淳国対委員長代理は「マスコミ をコントロールできると思っていること自体が常識がない」と鼻息が荒い。

自民党若手の私的な会合での発言で、党総裁の安倍首相に謝罪を求めているが、果たして民主党は今回の問題を批判する資格はあるだろうか。物忘れが激しい 人たちが多いようなので、民主党政権時代の数々の「言論統制」や「報道への圧力」 を調べてみた。

以下に列挙するもの(いずれも肩書は当時)は、内輪の会合での一議員の発言ではなく、首相や閣僚、党幹部らによる公式の場での出来事ばかりである。

都 合の悪いことは忘れ、立場が変われば、天につばするような批判を平気でできる神経 のずぶとさにはあきれるやら、感心するやら…。厚顔無恥でなければ野党議員は務ま らないようだ。

              ◆ ◆ ◆

【(1)菅直人首相の質問拒否】

平成22年6月8日に就任した菅首相は就任記者会見で、いきなり「ややもすれば取材を受けることによって、政権運営が行き詰まる」と述べ、取材を忌避する 姿勢をあらわにした。当時ルール化していた原則毎日行う「ぶら下がり取材」にも消 極的で、同年11月18日には、首相秘書官が報道陣に「通告外の質問をするなど信頼関 係を壊すことがあった場合は、その場でぶら下がりを打ち切る」と一方的に言い渡した。

東日本大震災発生後の23年4月12日の記者会見で、産経新聞の阿比留瑠 比記者が「野党協議も震災対応も最大の障害は首相だ。一体何のために地位にしが みついているのか」と質問すると、「私とあなたとの見方はかなり違っている」とは ぐらかした上、その後の記者会見では挙手する阿比留記者の質問を一切受けようとし なかった。

【(2)「尖閣衝突事件」映像の公開拒否】

22年9月7日、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領海内に侵入した中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突する事件が起きた。菅政権は漁船が意図的に体当たりした ことが明瞭に分かる海保撮影の映像の一般公開をかたくなに拒み、「国民の知る権 利」に応えなかった。

ところが、11月4日に海保職員によって、その映像がインターネットに 流出した。それでも民主党政権は一般公開を拒み続けた。映像の全面公開が実現したのは25年2月、安倍政権になってからだった。

岡田氏は鳩山由紀夫政権の外相として記者会見へのフリー記者らの参加に道を開いた。しかし、民主党幹事長を務めた菅政権では、映像公開の是非について 「政府が決めることだ」などとだんまりを決め込んでいた。

【(3)民間人発言排除の防衛省通達】

防衛省は22年11月10日付で「隊員の政治的中立性の確保について」と題する事務次官名の通達を出した。「政治的行為と誤解されることを行わないよう参加 団体に要請」「誤解を招く場合は参加を控えさせる」といった内容だった。

きっかけは11月3日、航空自衛隊入間基地(埼玉県狭山市)が開いた航 空祭で、自衛隊を後援する民間団体「航友会」の会長が尖閣衝突事件での政府対応を 挙げ、「民主党政権は早くつぶれてほしい」とあいさつしたことだった。自衛隊施設 での民間人による政権批判の封じ込めを図った形だ。

民主党の長島昭久氏らが「撤回すべきだ」と主張したが、北沢俊美防衛相は拒否。表現の自由を規制する「常識外れ」の通達を行ったときの防衛副大臣は安 住氏だった。これも安倍政権になった25年2月、小野寺五典防衛相が「おかしな通 達だ」として撤回した。

【(4)仙谷由人官房長官の「盗撮」批判】

仙谷官房長官は22年11月9日の衆院予算委員会で、自身が持ち込んだ手 元の資料を新聞社が撮影し、掲載したことを「盗撮だ」と批判した。撮影は当然、国 会の許可を得て行われていた。

仙谷氏は同月12日の衆院内閣委員会で「撤回する」と述べたが、謝罪は拒否。それどころか「国会内の撮影許可の趣旨はカメラが今のように非常に細かいも のまで撮影できる時代の許可ではなかった。時代とともに撮影のあり方も考え直す必 要がある」と述べ、写真取材の規制強化に言及した。

【(5)松本龍復興担当相の「書いた社は終わり」発言】

松本復興担当相が23年7月3日に宮城県庁を訪れて村井嘉浩知事と面会した際、応接室で待たされたとして「お客さんが来るときは自分が入ってから呼べ。長 幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属していた)ならやるぞ」と発言 した。

それだけでなく、面会の取材をしていたテレビカメラに「今の部分はオフレコな。書いた社はこれで終わりだから」と恫喝(どうかつ)した。公開の場で だ。松本氏は同月5日に辞任した。

【(6)輿石東幹事長の「情報管理」発言】

野田佳彦政権の発足で23年9月2日に就任した鉢呂吉雄経済産業相が東京電力福島第1原発事故の現場周辺を「死の町」と表現し、被災地視察後に記者団に 「放射能をうつしてやる」などと発言した。

鉢呂氏は10日に辞任したが、輿石幹事長は報道した民放関係者を事情聴取。12日の記者会見では「報道のあり方について皆さんも、もう一度考えてもらいた い」と、報道に問題があるとの認識を示した。13日の党代議士会では「マスコミ対応 を含め情報管理に徹底していきたい」と宣言している。

【(7)前原誠司政調会長による産経の記者会見排除】

前原政調会長は24年2月23日、産経新聞が『言うだけ番長』などと報じ た前原氏に関する記事を「ペンの暴力だ」として、定例会見から産経新聞記者の出席 を拒否した。前原氏は同月28日に撤回した。

【(8)人権救済法案の閣議決定】

野田政権は24年9月19日、新たな人権侵害救済機関「人権委員会」を新 設する人権救済法案を閣議決定した。11月9日に国会提出したが、直後の衆院解散に より廃案になった。法案には民主党内でも「人権侵害の拡大解釈で憲法21条の表現の 自由が侵される恐れがあり、言論統制につながる」などの反発が根強かったが、野田 政権は提出を強行した。

              ◆  ◆  ◆

記憶を頼りに、少し調べただけでも8例あった。繰り返すが、これは全て公開の場の出来事だ。当時の民主党幹部らによる非公式の産経新聞への「圧力」を 挙げればきりがなく、現実の圧力にはなっていない今回の問題の比ではなかった。

8例のうち、産経以外のメディアも大きく取り上げたのは、尖閣映像の 公開拒否と松本氏の恫喝ぐらいだった。民主党政権の「言論統制」には比較的寛容 だった朝日新聞や毎日新聞、東京新聞が現在、自民党の問題を連日盛んに取り上げるこ とに違和感を覚える。

そもそも自民党の一議員の発言で本当に萎縮すると思っているなら、報道機関であることを返上した方がいい。


産経ニュース【酒井充の野党ウオッチ】2015.7.3
                (採録:松本市 久保田 康文)


◆南のデコポンありがとう

渡部 亮次郎


食後、必ず果物を食べる。大人になってからの習慣。但し菓子は殆ど食べない。

何度も書いたように、私の手足には霜焼の跡、ケロイド状になった傷跡が痛々しく残っている。雪国秋田に生まれ育つ途中、毎年、11月に入ると手と足に霜焼ができた。

<霜焼け
しもやけ chilblain

医学的には凍瘡(とうそう) pernio という。手足,耳たぶ,鼻の先端,ほおなどが寒気に繰り返しさらされ,末端部の血液循環障害が起こるために発生する。凍傷とは異なり,末端部の血液循環障害を起こしやすい素質の人にだけ発生する。最低気温が4〜5℃で,一日の温度差が10℃以上の冬の初めや終りころに発生しやすい。

幼児から学童期の小児に多いが,女子では成人にもみられる。病変部は紫紅色の紅斑や腫張を生じ,ときにはくずれて潰瘍となる。かゆみがあり,とくに温めるとかゆみが強くなる傾向がある。

予防法としては,早めに手袋や靴下で保温に注意し,マッサージにより血行をよくするよう努める。また,手足のぬれたあとは,よくふいておくことが大切である。

治療には,ビタミン E,女性ホルモン剤などを含む軟膏をすりこんでマッサージをし,ビタミン E を内服する。潰瘍には抗生物質軟膏を使う。藤澤 龍  世界大百科事典>

誤解だろうが、柑橘類でビタミンCを摂取すれば、ならなかったと思い込んでおり、冬前に柑橘類を食べておかなければ、と思い込んでいた。秋田にはみかんその他柑橘類は無く、名産の林檎も幼少の戦時中は品薄だった。

冬中は苺をたべたが、最近は妙に外皮がごつごつした果物を家人が買ってきてくれる。聞けば「デコポン」というのだそうだ。子供の頃は無かった柑橘類である。

『ウィキペディア(Wikipedia)』で早速調べてみると、なんとわが師・故園田直の選挙区が主産地と判って少々驚いた。

<デコポンは、日本で交配された柑橘類の果樹であり、果実は果物として食用にする。寒さに弱い為、熊本県産を始めとした九州産が特に多い>。

従ってデコポンの学名 は英名も Dekopon

和名は当然 デコポン(和名および果実商標)
不知火(しらぬひ、品種) である。

1972(昭和47)年は日中国交正常化で私が記者として田中角栄首相に同行して北京を初訪問した年だ。長崎県南高来郡口之津町(現・南島原市)にある農林水産省果樹試験場口之津支場(現・独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所カンキツ研究口之津拠点)で、清見(きよみ)タンゴールと中野3号ポンカンを交配して誕生した。

果形は果梗部にデコが現われやすく不揃いになりやすい、果皮は見た目が粗く成熟するとややくすんでしなびるなど、外見上の弱点が目立ち育成試験場では選抜対象とはならず品種登録はされなかった。

その後、熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市不知火町)に伝わり、品種名を「不知火」として栽培の取り組みが始まった。古くから甘夏の産地として知られていた不知火町および周辺地域では1975年頃から甘夏に代わる柑橘を模索していたという事情も重なって、不知火海(八代海)沿岸の宇土半島、天草諸島、葦北地方などを中心に広がった。

日本国内で食用果実として生産、販売されている品種名は「不知火(しらぬひ)」。流通果実としての「デコポン」は登録商標であり、不知火のうち一定の基準をクリアしたものだけがその名を使用することができる。

生産量の半分近くを熊本県産が占めており、全国統一糖酸品質基準を持つ日本で唯一の果物である。

1991年より不知火の中で糖度13度以上のものを選択して「デコポン」の名称で商品化・出荷が開始された。歪な外見上の特徴を逆にセールスポイントにしようとして命名されている。

1993年7月には熊本県果実農業協同組合連合会(熊本果実連)が出願していた「デコポン」「DEKOPON」の登録商標が認可された(種苗登録はされていない)。

熊本果実連は初出荷日の3月1日を「デコポンの日」として制定し、日本記念日協会に登録された。

デコポンの箱詰め旬は、およそ初冬から翌春にかけて。熊本県では主に宇城、芦北、天草地域の沿岸部で、温暖な気候を利用して栽培されている。

加温ハウス栽培されたものが、12月―翌1月、雨除け栽培ものが2月―3月、露地栽培されたものが3月中旬 -4月一杯まで出荷される。

その後も、低温貯蔵されたものが6月上旬まで出荷される。実の外見上の凸が特徴であるが、凸のあるなしは味や品質に関係ない。果皮は厚いが剥き易く、じょうのう膜も薄く袋のまま食べられ、種もほとんど無い。

日持ちも良く、糖度が高く、食味にも優れる事から市場や消費者の支持を得て、価格が低迷していた甘夏、ハッサク等に代わる有望な中晩生柑橘として、平成以降急速に栽培面積が増加した。

収穫したての露地物で酸味の強いものは、追熟させて酸味を取ることがある。ケーキ・菓子や、加工してジュース・ジャム・果実酒としても利用される。

2015年07月04日

◆いっそ小田急で逃げましょか

渡部 亮次郎



「東京行進曲」の冒頭に ♪昔恋しい銀座の柳♪ という詞があるが、銀座の柳並木は、明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていた。

この歌の当時(昭和4年ごろ)はプラタナスになっていたが、曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、柳が復活した。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言された。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうだ。

  東京行進曲(昭和4年)
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:佐藤千夜子    
  
 (一)
  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

 (二)
  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もあろ
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの子の 思い出に

 (三)
  広い東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

 (四)
  シネマ見ましょか お茶飲みましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

作詞した西條八十は盆踊りで一晩中「東京音頭」を聞かされてのではたまらんと小田急で箱根に避難したが、何と夜になったら、そこでも東京音頭。東京へ逃げてきたという話が残っている。

また小田急電鉄は大変なコマーシャルになったものだから、西條に終身招待乗車パスを贈呈した。佐伯孝夫、丘灯至夫らが西條の弟子だった。

西條そのものは東京府出身。1892(明治25)年1月15日 - 1970(昭和45)年8月12日)は、詩人、作詞家、仏文学者。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919(大正8)年に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。

後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。

象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

今では「銀座の柳」と聞くと、「東京行進曲」の方を思い浮かべる人が多いのは、さもありなん、この唄は作詞作曲も「東京・・・」と同じ、西条八十・中山晋平のコンビで作られた「東京・・・」の大ヒットに触発された続編であったからだ。

「東京・・・」の歌詞の冒頭に、♪むかし恋しい銀座の柳♪、とあるように、昭和4年当時、銀座には柳は無かった。この唄の大ヒットで、銀座に柳並木を復活させようという機運が盛り上がり、昭和12年になって、<銀座の柳並木>が復活
した。

この「銀座の柳」の唄はその完成を記念して作られたもので、それなりのヒットはしたが、曲想が限定されており、二番煎じの感は否めず、「東京行進曲」の影に埋もれて行ったのは仕方のないことだった。

銀座の柳(昭和12年)
  
   作詞:西条八十
   作曲:中山晋平
   歌唱:四家文子
   制作:滝野細道

    (一)
    植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

    (二)
    巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

     (東京行進曲の間奏)

    (三)
    恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り

郷里秋田の盆踊りは歌抜き、大きな太鼓を何台も出して叩くものだった。私は叩くも踊りもせずに東京の人となった。執筆:2010・7・7

2015年07月02日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。

2015年07月01日

◆岡晴夫 糖尿病自己注射禁止の犠牲者

渡部 亮次郎



昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

本名 は佐々木辰夫  1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、日千葉県木更津市で育った。死没 1970年5月19日

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをしながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはなかった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれず糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバックだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの急死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳なのに。

岡が糖尿病を患った頃、厚生省(現:厚生労働省屈して糖尿病患者自身によるインスリンの自己注射を禁止していた。超多忙な岡は悶々としながら死へ向かわざるを得なかった。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たす。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は東京・江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。


同じ犠牲者には矢張り演歌歌手になった村田英雄がいる。自己注射できなかったために右足に壊疽を起こして切断、程なく、死んだ。外国ではインスリン発明時から自己注射が普通だった。

日本で初めて自己注射を許可したのは厚生大臣(鈴木善幸内閣)園田直(すなお)である。日本医師会の抵抗を無視した。秘書官は私だった。

2015年06月28日

◆マスコミは金儲けだけ

渡部 亮次郎



最近のインターネット界ではマスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。

まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。

その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで

全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。79歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーがはなれて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送会社は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元職員の会社が多い。勢い本部の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。

2015年06月27日

◆角栄政権は繊維交渉の勝利

渡部 亮次郎



佐藤栄作政権の次は福田赳夫が獲る。渡部にもたまには良い目を見させてやろうーーこれが当時のNHK政治部長の決断。私が「角福戦争」で福田番に指名された。1971(昭和46)年夏のことだった。

共同通信の古澤 襄さん、時事通信の屋山太郎さんは年齢は先輩だが福田番では仲間だった。

通商産業大臣という厭なポストに就けられながらも肝腎の日米繊維交渉で多大の成果を挙げた田中をアメリカのニクソン大統領が諸手を上げて歓迎。佐藤の福田への政権「禅譲」作戦は失敗、「戦争」で田中は圧勝したのだった。

福田番になって初めに仰天した。田中はカネなどあらゆる力を動員して票の獲得に余念がないのに福田は党内に対する多数派工作を全くしていないのだ。親分佐藤からの「禅譲」を信じているからだ。やれば佐藤に怒られるというのもあるだろうが、今からやっても角栄には追いつけないと言う面もある。

福田赳夫は元々大蔵(現財務省)官僚。幼少時から秀才の誉れ高く、一高、東大を経て難なく大蔵省入り。省内でも順調に出世、主計局長となり、次官目前だった。ところが好事魔多し。折からの昭和電工事件で収賄の容疑をかけられ逮捕、辞職に追い込まれた。

<昭和電工事件とは、戦後間もない1948年におきた贈収賄汚職事件である。昭電事件、昭電汚職、昭電疑獄とも呼ばれる。

復興資金として復興金融金庫からの融資を得るために、大手化学工業会社・昭和電工の日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄事件。

1948年6月に発覚したが収賄側としてGHQの下で日本の民主化を進める民政局(GS)のチャールズ・ケーディス大佐ら高官の名前が取り沙汰され、ケーディスは失脚。裏にGSのライバルで反共工作を行っていたGHQ参謀第2部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将と右翼の三浦義一の暗躍があった。

大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、やがて政府高官や閣僚の逮捕にまで及んだ。栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣の総辞職をもたらした。

戦前軍部に対抗し大政翼賛会にも参加せず、首相としては閣僚の上奏を停止するなど、はっきりしたリベラルであった芦田均を失脚させるための、帝人事件同様の検察ファッショであったと考えることもできる。

その後、前首相であった芦田自身も逮捕されたが、裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった>。(ウィキペディア)

福田は郷里の群馬県に戻り、政界進出を決意。1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬3区から無所属で立候補し当選、岸信介に仕えた。

1958(昭和33)年には当選4回ながら自由民主党政調会長就任。1959(昭和34)年1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。

1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両三年内に破綻を来す」と池田の政策を批判。

岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。

池田から政調会長をクビにされ、福田及び同調者は池田内閣の続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう。

佐藤栄作政権下で、やっと復活。大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。

日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。

また中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して台湾との関係を重視した慎重路線を打ち出す。

これらの「外交タカ派」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会の森喜朗や小泉純一郎、安倍晋三らに引き継がれている。

これに対して田中は、「佐藤が福田に“禅譲”するならいつかの時点でオレをレースから降りろと抑えにくる」と初めから佐藤排除作戦。

内閣改造で福田に帝王学を授けるように外務大臣にしたのに田中には宮澤喜一と大平正芳も解決できなかった日米繊維交渉と言う難問を押し付けるように通産大臣にした。

宮澤と大平は共に大蔵官僚。大蔵大臣時代の池田の秘書官だったが東大出の宮澤は一ツ橋出の大平を軽蔑して不仲だったのは余談。

学歴と抽象論の無い田中は目前の「課題」の「解決」に快感を感じる男

繊維問題こそは沖縄返還の見返りとして焦眉の急だと判断。大臣としての古巣と認識している大蔵省の幹部たちを口説き落としてなんと2000億円を手中にする。

田中はこのカネで国中の機織機のすべてを買収し、破壊してしまった。首相の佐藤も口を開けて承認。日米の永年の懸案は一気に解決をみた。

このやり口にはニクソンも感嘆。佐藤が首脳会談につれてきた福田、田中、水田蔵相の中から田中を最優先に待遇。佐藤はついに「田中を抑える場面」を作る事はできなかった。「禅譲」の消えた瞬間だった。

1972(昭和47)年7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂、松野頼三、園田直、藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。

決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。こういうのを引かれものの小唄という。祭りの後の寂しさか。
(文中敬称略)

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