2012年12月15日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。来月は7回忌だ。死亡は彼の73歳の誕生日の前日だった。

発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけた。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

2012年12月13日

◆リンゴ主産地は中国

渡部 亮次郎


深夜、周恩来首相を先頭に、中国人たちが「我々にも日本の赤いリンゴを栽培して食べさせろ」とデモをしている夢を見た。しかし世界に於けるリンゴの主産地は中国ではないか。

秋の果物の王者リンゴ。生まれ在所秋田や隣の山形県にもあるが、なんと言っても北隣の青森県、それも日本海岸の津軽だ。尤も敗戦後間もなく流行した霧島昇と並木路子の「リンゴの唄」の映画のロケ地は秋田県増田町であった。

リンゴの原産地はなんとなくアメリカだと思っていたが原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地である。

現在日本で栽培されているものは、明治時代以降、西洋から導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。

亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。

だから台湾にリンゴは無く、日本からの土産が珍重される所以である。

江戸時代に栽培されていたリンゴは、中国から入ったワリンゴ(ジリンゴ)1種だけで、明治以後に導入されたリンゴとは別種である。

現在、和リンゴは長野県上水内郡飯綱町で1軒の農家が栽培してその姿を伝えている。

和リンゴの実は、大きさ直径3 ―4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 また2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存するワリンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した実はお盆に各地の寺社に奉納している。

リンゴをはじめてアメリカにもたらしたのは種子を携えて行った初期の開拓者だった。マサチューセッツ・ベイ・カンパニーの記録によると、早くも1630年にニユーイングランドに生育していたという。

種子は宣教師、貿易業者、アメリカ先住民によって西方にもちこまれた。ジョン・チャップマンがたったひとりでアメリカ中西部にひろくリンゴの木を植えたといわれている。しかし品種改良はあまりしなかったのかニューヨークあたりの辻で売られているリンゴは極小さい。

セイヨウリンゴがはじめて日本に入ったのは、江戸末期の1861〜64年(文久年間)江戸・巣鴨の屋敷に植えられたものとされるが、本格的な導入は1872年(明治5)に開拓使によっておこなわれた。

それ以来、600種をこえる品種が入ってきたが、現在、市場に出荷されている品種は、日本で育成されたものを含めて十数種にとどまる。

明治初期に導入され、現在も栽培されている品種には、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、旭(あさひ)などがあり、大正期に導入されたものに、デリシャス、スターキングデリシャス、ゴールデンデリシャスがある。

敗戦後、弘前周辺から国鉄奥羽線に乗っておばさんたちが秋田へ手作りのリンゴを売りに来た。それより前の戦時中は売りに来なかったものだ。高校の頃は1日に紅玉を6個も食べた。歯も当然丈夫だったから皮も剥かずにかぶりついた。

第2次世界大戦後は日本国内でも品種の育成がおこなわれ、青森県りんご試験場の育成のつがる、陸奥(むつ)が登場した。

農林水産省園芸試験場盛岡支場(現、果樹研究所リンゴ研究部)が育成した「ふじ」などが登場してきた。

「ふじ」は国光とデリシャスの交配から選抜育成されたもので、甘みと酸味のバランスがよく、母種の国光にかわって人気品種となった。日本のリンゴ栽培面積の約3分の1をふじが占める。

このほか日本産の品種には、北の幸、王林、王鈴(おうれい)、世界一などがある。

2006年現在世界では年間約6千万tのリンゴが栽培されている。生産量は中国がトップでアメリカ合衆国、フランスなどが続く。

日本では青森県、長野県、岩手県で主に栽培されており、青森県は全国の50%のリンゴを生産している。日本の都市でリンゴの生産量が最も多いのは弘前市で全国の約20%を生産している。

2012年12月10日

◆政治家が泣いちゃいけない

渡部 亮次郎


私が秘書官として仕えた元外務大臣、厚生大臣の園田直(そのだ すなお)はハンカチを絶対使わなかった。毎朝、天光光(てんこうこう)夫人がズボンのポケットにハンカチを忘れずに入れるのだが、外では絶対使わなかった。

日中平和友好条約の締結交渉は真夏の人民大会堂で行なわれたが、流れる汗は拳で払っていた。

「ハンカチ? 泣いている園田という写真説明を附されたらおしまいじゃないか」。欧米で政治家が大衆の前で泣くという自己抑制力の無さをさらけ出したら政治家失格の烙印を押される。日本とて同様と言うわけだった。

大東亜戦争で陸軍特攻隊に志願しながら敗戦で奇跡的に生き残った園田氏。豪胆にして情感豊かな政治家だったから、水俣病を公害と認定する前など、泣きたいような場面には何度も遭遇した。しかし絶対涙は見せなかった。ハンカチで顔を拭うこともなかった。

ところで古い産経新聞の【産経抄】によると、「▼昭和の政治家に比べ、現代の与野党の皆さんが何ともひ弱に見えてならない。例えばある経済産業相である。菅直人首相の原発政策を批判、辞任の意向を示すなど対立を深めてきた。辞めれば「菅降ろし」の決め手になるという、今「注目の人」だ。


▼首尾よく退陣に追い込めば「次」の有力候補にもなる。その氏が(2011年)7月29日、国会の委員会で「号泣」したのだという。野党議員から「いつ辞めるのか」と突っ込まれると「もう少しこらえてほしい」と涙ぐみ、しまいには大泣きだったらしい。

▼首相への反発や原発政策など苦悩が重なったため、との解説もある。確かに、将来のエネルギー政策という重い課題を背負っている者として感きわまったのかもしれない。

だが国民みんなが政治にイライラしているとき、大臣に泣かれてしまっては、一段と気が滅入る」。とある。テレビニュースでこの場面は私も偶然見た。

記者として、大臣側近として永らく政治の現場を踏んだが、人前で泣いた政治家は初めて見た。逆に言えば自己抑制の利かない政治家の第一号といわれても文句は言えまい。

省みれば昭和の政治家たちは宮澤喜一を除けば、戦争に関係し、戦場で弾丸に晒されながら生き抜いてきた「勇士」だった。だから「度胸」があった。

ある意味で戦争が度胸の据わった政治家を育てたともいえるのだろう。だから戦争を起こせとはいわない。だが、平和な世の中では、「立派な政治家」は高望みなのだと覚悟を決める以外に無い。(文中敬称略)


2012年12月07日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。
出典:フリー百科「ウィキペディア」


2012年12月04日

◆牡蠣の季節になった

渡部 亮次郎


既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅構内に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

我が国の一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

わが郷里・秋田では県南の日本海岸で8月の半ば頃、水深10mぐらいの天然牡蠣を採取して生で食べるから「牡蠣喰い」を一般的でない。まして汽水湖 八郎潟で育った私はNYへ通うまでは牡蠣の生食いは知らなかった。


2012年12月02日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎


日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなかった。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからである。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部になると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪された前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘された。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官として日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといって田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れた。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたのだ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図していた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼としていたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていたのである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論もなしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなったように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのときは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇するためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪ってしまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。

2012年11月30日

◆干拓された懐しの八郎潟

渡部 亮次郎


秋田県南秋田郡大潟(おおがた)村は、昭和32(1957)年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きい”八郎潟”(はちろうがた)という湖だった。東沿岸の飯田川町に生まれた私は子の汽水湖特産の蜆貝を潜って捕るために水泳ぎを自然に覚えたものだ。

八郎潟は、男鹿市船越(ふなこし)で日本海とつながっていて、淡水と海水がまじるから汽水湖だった。そのため、淡水と海の両方の魚がとれた。八郎潟のまわりの町や村の人々は、美しい”潟”の景色を眺めながら、漁業や農業でくらしていた。

ワカサギ・シラウオ・フナ・ハゼ・ボラなど、淡水の魚と海の魚をあわせて約60種類もの魚がたくさんいた。潟のまわりには、約3000人もの漁民が生活しており、春から秋には船で網を引き、冬には氷を割って網をかけ、いろいろな道具を使いながら、たくさんの魚をとっていた。

また、工場で佃煮をつくる人もたくさんいた。このように、八郎潟は、まわりの町や村の人々に多くの恵みを与えていた。しかし、雨が多い時などは、岸の近くの人々に水害をもたらすこともあった。

干拓は海産物に恵まれなかった秋田では、八郎潟の水産資源はかけがえのないものだった。また、秋田では昭和23(1948)年頃になると米の自給体制が終わっていていた。

しかし、日本全体としては食糧難という事情があった。

干拓への計画

八郎潟周辺では、昔から、いろいろな人が干拓をして土地をつくることを考えていた。江戸時代には、払戸(ふっと)村(若美町)の渡部斧松(わたなべ おのまつ)という人が、岸の浅い場所を干拓して田を造っ
た。

明治時代には、島義勇県令(県知事)がはじめて大がかりな干拓計画を立てたが、実行できなかった。大正、昭和にはいると、こんどは国の力で干拓しようと、何度も計画を立てたが、戦争が始まり、実行できなかった。

昭和20年、長く続いた戦争が終わり、日本全国が大変な食糧不足になった。そこで、今度こそ八郎潟を干拓して広い土地をつくり、米を作ることになった。

しかし、漁業をやっている人々は、魚が捕れなくなるので反対した。そこで、漁業をやっている人々には、お金でつぐなったり、干拓した土地を与えたりすることで賛成してもらった。私の父の「干拓運動」もやっと実を結んで終わった。

私の祖父は日露戦争に駆り出されたが、その留守の間に、家督を継いでいた兄が氷上漁業中、氷が融けて流され水死していた。祖父が家督を継いだ。その長男が私の父慶太郎だが、若いころから八郎潟干拓論を唱えて奔走。「ワタケイ バカケイ」といわれたものらしい。

私は長じてNHKの政治記者になり、当時の「実力者」河野一郎の担当記者になったが、元農林大臣の河野さんは八郎潟かんたくろんじゃの「バカケイ」を知っていたので父のことを改めて思ったものだ。

干拓が始まる

昭和27(1952)年7月、秋田県庁に八郎潟干拓調査事務所が発足し、干拓の計画づくりが始まった。

調査計画には、国の土地の約2分の1が干拓地というオランダから応援してもらうことになった。昭和29年に、オランダのデルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が計画について報告した。この年の春、私は大学入学のため秋田を後にした。

昭和29年の世界銀行、翌30年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められた。昭和31年に農林省でオランダの協力を得て、今の大潟村を作るための計画ができあがった。

昭和32(1957)年、いよいよ干拓工事が始まった。最初は八郎潟の内側に堤防をつくり、南部都北部の排水機場も作った。堤防に使う石をとるために、八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。

昭和38年に堤防や排水機場などができてから、堤防でかこまれた中の水をかき出した。さらに2年後の昭和40年、すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15,600ヘクタールの陸地になった。この面積は、一辺が100mの正方形の15,600倍もある広さ。

この干拓工事は、当時の最も進んだ科学技術の力で行われ、延べ約300万人もの人々が働き、20年におよぶ歳月と852億円の巨費を投じ、20世紀の大事業と言われるほどの大きな工事だった。

ヤンセン教授 (1902-1982)

日本滞在中は、八郎潟だけでなく全国の干拓地を見てまわった。

干拓をするためには、台風や洪水などの自然災害に遭わないよう、工期を短くすること、そのために徹底した調査と設計の必要性を説いた。

フォルカー技師 (1917-2000)

干拓地に村をつくる

干拓でできた新生の大地に、いよいよ村をつくることになった。村の名前は、全国から募集して、「大潟村」と決定。この名前は、八郎潟のことを昔「大潟」とよんでいたことから。

村の誕生日は、昭和39(1964)年10月1日。そのころ、無数の貝殻でおおわれた大地があらわれはじめた。干拓で陸地になったと言っても、村には何もなかった。大潟村に住む人々が安心して暮らせるように、その後、道路や田んぼ、用水路や排水路、それに家やいろいろな建物が少しずつつくられた。


村民の入植

大潟村は、広い農地で大型機械を使った新しい農業のモデルをめざし、たくさんの食糧を生産するためにつくられた村。入植する村民は、全国から募集した。入植した人々は、試験を受けて合格し、1年間、入植指導訓練所で新しい農業の勉強をした。

それから家族といっしょに大潟村に住むことになった。このようにして、北は北海道から南は沖縄まで、全国38の都道県から589戸の農家の人々が入植した。また、農家だけでなく、他の職業の人々も住むようになったのは当然。

新しい農業 

全国から入植した人々は、希望にもえて新しい農業に取り組んだ。しかし、もともと湖の底だった土地は、ヘドロというたいへん柔らかい粘土でできた土。そのため、大きなトラクターやコンバインが土に埋って動かなくなったり、ヘリコプターで田んぼに直接種をまいても失敗したりして、たいへん苦労した。

そこで村の人々は、力を合わせて一生懸命頑張った。そのかいがあって、今では、たくさんの米もとれるようになったし、麦や豆、カボチャなども作られるようになりました。また、たいへんおいしいと評判のアムスメロンやリンゴも作られるようになった。

ac.ogata.or.jp/kantaku/kantaku.htm  2012・11・26

2012年11月27日

◆ホスピスで死んだ船木

渡部 亮次郎


必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた。

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということだ。最近も高校の同級生船木克己君が膵臓癌のため秋田市内のホスピスで死んだ。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

モルヒネ (morphine モルフィン、モヒともいう) はアヘンに含まれるアルカロイドで麻薬のひとつ。モルヒネからは依存性のきわめて強い麻薬、塩酸ジアセチルモルヒネがつくられる。

塩酸塩・硫酸塩は鎮痛・鎮静薬として種々の原因による疼痛(とうつう)の軽減に有効であるが、依存性が強い麻薬の一種でもあるため、各国で法律により使用が厳しく制限されている。

名前の由来は、ギリシア神話に登場する夢の神モルペウス (Morpheus)。夢のように痛みを取り除いてくれることから。

医療では、癌性疼痛をはじめとした強い疼痛を緩和する目的で使用される。モルヒネは身体的、精神的依存性を持つが、WHO方式がん疼痛治療法に従いモルヒネを使用した場合は、依存は起こらない。

しかし16年前に義母が末期癌で危篤状態になったときは、その病院の若い医師はWHO方式癌疼痛治療法のことを知らず、元厚生大臣秘書官として教えてやって、やっと義母を阿鼻叫喚から救うことができた。

医療とは人間の苦しみを救うものと広く考えれば、見込みのない患者を痛みを感じない状態で終末に導く、いわば死ぬ医療も大切なことであるはずだ。

薬剤の剤形としては錠剤、散剤、液剤、坐剤、注射剤があり、それぞれ実情に応じて使用される。

軍事用途でも、戦闘の負傷による強い疼痛を軽減する目的で、主に注射剤の形で使用され続けている。資格を持った衛生兵だけが携帯でき、トリアージを行っている間に投与処置を行うこともある。

モルヒネの副作用には依存、耐性のほか悪心嘔吐、便秘、眠気、呼吸抑制などがある。便秘はほぼ 100%、悪心嘔吐は 40%?50% の症例でみられる。眠気はモルヒネ使用開始から1週間の間にみられ、その後は自然に改善することがほとんどである。

1804年、ドイツの薬剤師フレードリッヒ・ゼルチュルナー ( FriedrichSerturner ) により、初めて分離される。モルペウスにちなみ、モルフィウム ( morphium ) と名づけた。

しかし、1853年の皮下注射針の開発までは、モルヒネは普及しなかった。鎮痛の為に用いられ、また、アヘン・アルコール中毒の治療として用いられた。

南北戦争ではモルヒネは広く使用され、軍人病(モルヒネ中毒)による40万人を超える被害者を生み出した。また普仏戦争において、同様のことが西欧で起こった。

1874年に、ヘロインはモルヒネを材料に生成された。ヘロインが使用され始めるまでは、モルヒネは一般的に最も誤用された麻薬性鎮静剤であった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年11月25日

◆習近平は中共最後の国家主席

渡部 亮次郎


先日のには誤植があったので、校正して再掲します。

「習近平は中共最後の国家主席」と国際政治学者の藤井厳喜氏が11月15日付けの新聞「青年運動」に執筆している。「ウィキペディア」によれば、藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日―)は、日本の国際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。

東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締
役。

論文の要旨を紹介するが、国家主席就任に先立って「最後の主席」と論じ「共産中国の終焉」を指摘したのは藤井論文が初めてである。

「秦帝国は万里の長城建設のために崩壊した。「中共 は海洋国家を目指した為に滅亡する」と言っている。

「中共体制の崩壊を物語る兆候は、あらゆる分野で噴出している。貧富の差の拡大による暴動の多発、富裕層の海外への逃避、止むことのない共産党幹部の腐敗、闇雲な軍事的膨張主義、国内の環境汚染の深刻化、等々、数え上げればきりがない」

「最も強烈に中共体制の命運が尽きたことを思わせるのは、遂に胡金錦濤指導部が第18回共産党大会で、建国の父・毛沢東の思想を党の規約から外す動きを見せていることだ」

「経済発展を重視するトウ小平理論が党の基本方針となって来た。

その結果、貧富の格差が広まってしまった現在では、毛沢東の革命思想は極めて危険な反体制の思想となりうるからである。毛沢東の作った党が毛沢東思想を否定し、共産党が共産主義思想を否定するのである。これ程明々白々且つ巨大な矛盾は存在しない」

「今日のシナにもし若き毛沢東がいたならば、彼は間違いなく共産党を打倒しようとするに違いない」

「過日の反日デモでは、毛沢東の写真を掲げて“打倒共産党”というプラカードが出現するまでに至った。毛の写真を掲げながら“薄煕来を人民に返せ”と叫ぶデモ参加者も目撃されている。共産党幹部は薄煕来を失脚させた上、遂に大衆の毛沢東思想まで禁止せざるを得なくなったのである。

「あらゆる帝国の崩壊に共通したパターンが存在する。それは帝国の版図が最大限に達した時に、帝国の崩壊が始まるという法則である。拡大しすぎた帝国を維持するためには膨大なメンテナンスコストが必要となるが、このコストに押しつぶされるかたちで帝国は滅亡への道を歩み始める」

「本来は大陸国家(ランドパワー)の中国が南シナ海に進出し、更に尖閣列島を含む東シナ海を侵略しようとしている。航空母艦を中心とする海軍機動隊まで編成して海洋国家(シーパワー)になる為に必死の努力を続けている。」

「冷徹なる地政学の法則に従えば、ランドパワーがシーパワーに変身する事はあり得ない」

「中共にとっての空母機動部隊は、秦帝国にとっての万里の長城となるであろう。万里の長城は完成したが、建築に国力を使い尽くしたため帝国はたちまちのうちに崩壊した」

「中共は経済的にあらゆる無理を押し通して軍拡に邁進しているが、その負担が支配体制を蝕む深刻な病弊と化してゆくだろう。ソ連邦はアフガニスタンに侵攻し、その版図を最も拡げた時から崩壊のプロセスが始まった。尖閣侵略や台湾併合は、シナ共産党の終わりの始まりを告げる予兆である」

習近平の任期は向こう10年。それまでに中華人民共和国はおかしくなっているという「予言」である。              2012・11・13

2012年11月24日

◆知らなかったさるかに合戦

渡部 亮次郎


自宅で昼食のあと、卓上に柿と梨を並べて食べていたら家人が突然「柿梨合戦じゃなかった、あれはさるかに合戦か。そういえばどういう筋書きだっけ」ときかれて私は知らなかった。

父は八郎潟干拓運動で留守勝ち、母は独りで農耕と家事にてんてこ舞いとあっては猿蟹合戦を子どもたちに聞かせる何処路じゃなかった。或いは猿蟹合戦そのものを知らなかったかもしれない。

さるかに合戦。江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』。古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる。さるかに合戦(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺害し、殺された蟹の子供達に仕返しされるという話。「因果応報」が主題。

あらすじ(地方などにより色々あり)

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は厭がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。

そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

『猿蟹合戦絵巻』より、子供の蟹たちの敵討ちの場面。本作品では臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっている。その子供の蟹達は親の敵を討とうと栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せた。

栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをして猿は火傷をおい、急いで水で冷やそうとしたら蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとしたら牛糞に滑り、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

現代では蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されたものが多く出回る。これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためである。

しかし、本来の内容を復活させるべきという声も多く上がっている。タイトルが「さるかに話」などといったものに変更されている場合もある。また、牛糞は登場しない場合もある。

近代日本を代表する小説家である芥川龍之介は蟹達が親の敵の猿を討った後、逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いている(題名は『猿蟹合戦』)。

また、1887年に教科書に掲載された『さるかに合戦』にはクリではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃している。また、牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしている。

地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在する。

なお、近年の派生作品としてはパスティーシュを得意とする作家清水義範による「猿蟹合戦」をネタに司馬遼太郎の文体を真似たパロディ小説『猿蟹の賦』及び丸谷才一の文体を真似たパロディ評論『猿蟹合戦とは何か』や、漫画家吉田戦車による中国の少数民族に伝わる同様の説話「ひよこの仇討ち」と「猿蟹合戦」をヒントにした作品『武侠 さるかに
合戦』などがある。

家人は「あなたも政界に当てはめて何か書いてみたら・・・」というが、政界は猿ばかりだから、起きるのは「あてつけ」ばかり。書く気が起きない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
                    2012・11・22

2012年11月21日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎


経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだから起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げている。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して緊張感を高めるよう求めた。>時事通信 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているから起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならない。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。 2012・11・20

2012年11月20日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎


納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売された。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほか、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまったそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者にはまだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるのは2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられていて、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているためだそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用であることが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないことや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現などの点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発が進められているファクター?a阻害剤などが次々に出てくるので、このガイドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、!)納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多い?感受性に個人差があり、血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もなく、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンのマイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。
しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかもなぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。

2012年11月15日

◆習金平は中共最後の国家主席

渡部 亮次郎


「習金平は中共最後の国家主席」と国際政治学者の藤井厳喜氏が11月15日付けの新聞「青年運動」に執筆している。「ウィキペディア」によれば、藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日―)は、日本の国際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。

東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。

論文の要旨を紹介するが、国家主席就任に先立って「最後の主席」と論じ「共産中国の終焉」を指摘したのは藤井論文が初めてである。
「秦帝国は万里の長城建設のために崩壊した。「中共 は海洋国家を目指した為に滅亡する」と言っている。

「中共体制の崩壊を物語る兆候は、あらゆる分野で噴出している。貧富の差の拡大による暴動の多発、富裕層の海外への逃避、止むことのない共産党幹部の腐敗、闇雲な軍事的膨張主義、国内の環境汚染の深刻化、等々、数え上げればきりがない」

「最も強烈に中共体制の命運が尽きたことを思わせるのは、遂に胡金錦濤指導部が第18回共産党大会で、建国の父・毛沢東の思想を党の規約から外す動きを見せていることだ」

「経済発展を重視するトウ小平理論が党の基本方針となって来た。
その結果、貧富の格差が広まってしまった現在では、毛沢東の革命思想は極めて危険な反体制の思想となりうるからである。毛沢東の作った党が毛沢東思想を否定し、共産党が共産主義思想を否定するのである。これ程明々白々且つ巨大な矛盾は存在しない」

「今日のシナにもし若き毛沢東がいたならば、彼は間違いなく共産党を打倒しようとするに違いない」

「過日の反日デモでは、毛沢東の写真を掲げて“打倒共産党”というプラカードが出現するまでに至った。毛の写真を掲げながら
“薄煕来を人民に返せ”と叫ぶデモ参加者も目撃されている。共産党幹部は薄煕来を失脚させた上、遂に大衆の毛沢東思想まで禁止せざるを得なくなったのである。

「あらゆる帝国の崩壊に共通したパターンが存在する。それは帝国の版図が最大限に達した時に、帝国の崩壊が始まるという法則である。拡大しすぎた帝国を維持するためには膨大なメンテナンスコストが必要となるが、このコストに押しつぶされるかたちで帝国は滅亡への道を歩み始める」

「本来は大陸国家(ランドパワー)の中国が南シナ海に進出し、更に尖閣列島を含む東シナ海を侵略しようとしている。航空母艦を中心とする海軍機動隊まで編成して海洋国家(シーパワー)になる為に必死の努力を続けている。」

「冷徹なる地政学の法則に従えば、ランドパワーがシーパワーに変身する事はあり得ない」

「中共にとっての空母機動部隊は、秦帝国にとっての万里の長城となるであろう。万里の長城は完成したが、建築に国力を使い尽くしたため帝国はたちまちのうちに崩壊した」

「中共は経済的にあらゆる無理を押し通して軍拡に邁進しているが、その負担が支配体制を蝕む深刻な病弊と化してゆくだろう。ソ連邦はアフガニスタンに侵攻し、その版図を最も拡げた時から崩壊のプロセスが始まった。尖閣侵略や台湾併合は、シナ共産党の終わりの始まりを告げる予兆である」

習金平の任期は向こう10年。それまでに中華人民共和国はおかしくなっているという「予言」である。          2012・11・13