2012年08月07日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎


1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人169名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名全員が、脚気にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

(この点について、2006年5月14日の産経新聞は海軍兵学校生徒を含む乗組員は397人で、脚気にかかったのが169人と報じて「全員」ではない、としている)。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年の時をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった。

脚気は日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、東京の風土病と疑われた時期もあった。

2012年08月05日

◆タンゴの源流に立つ

渡部 亮次郎


死んだ兄がタンゴ狂なものだから、子供の頃から聞かされた。あまり上品じゃないと嫌う人もいる。そんなこととは無関係に、私はあのリズムに息が苦しくなってくる。散歩の時もタンゴは聴かない。

ミロンガなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

タンゴは、今から約140年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として酒場で、日頃の不満を歌にし、単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったのがタンゴの始まりと言われる。その後、娼婦を相手に踊られるようになり、男女で踊る形式が確立されたといわれる。

首都ヴェノスアイレスのボカ地区は、古くから港があった地域で、ヨーロッパから来た移民たちは、こ の地で、新しい第1歩を踏みしめた。19世紀終わりごろのラ・ボカは、イタリア、スペイン系を中心とした、ヨーロッパからの移民や、アフリカ系の人々など様々な人種の人々であふれていた。

タンゴは、そういった環境の中、様々な文化の混合によりブエノスアイレス南部(ラ・ボカ、サンテルモ地区)で生また。

ラ・ボカ地区では、カミニート、ボカ・ジュニオールス・スタジアム などを訪れることが出来る。しかし・・・「ラ・ボカ地区は、中心街から少し離れると、あまり雰囲気の良くない地域もあります。そういった地域にはあまり近づかないようにしてください。(中心街には、警察官も多く立ち安全が保たれております)」と観光案内は呼びかけている。

私がここを訪れたのは1981(昭和56)年の8月上旬、南半球に位置するヴェノスアイレスでは真冬とあって深い雪に包まれていた。外務大臣を福田、大平内閣で務めた後、鈴木善幸内閣の途中から厚生大臣(2度目)として入閣した園田直さんが、この年の5月18日からまたまた外務大臣に鞍替え。

7月中旬にカナダのオタワでのサミットに参加。22日に一旦帰国したあと29日、再度機上の人となり南米歴訪の旅となった。アルゼンチンに入ったときは日本を離れて10日も経っており私ですら疲れを覚えていた。

まして重篤な糖尿病患者の大臣は腎臓の機能が極端に悪化。連続して100メートルは歩けない、という状態を無理しての外遊(事実このあと11月30日の退陣後間もなく人工透析を受け始め、これから3年後、1984年4月2日、腎不全のため70歳で死亡したのだ)。

アルゼンチンはドイツのナチの残党が逃げ込んだ国としても知られていた。アイヒマンの追跡劇が当時は有名だった。

ヴェノスアイレスには2泊した。1976年3月に軍事クーデターで政権の座に就いたデビラ大統領を表敬したところ、自民党を輸出して、下さらんか、といわれて笑ったが、アルゼンチンの経済状況は悪化していたのである。

折角だと言うので夜はタンゴを聴きに小さな店に入った。翌日は雨だったが、タンゴ発祥の地とされるカミニートと訪れた。カミニート (Caminito)はスペイン語で小道の意。 タンゴの名曲でもある。ブエノスアイレスには、この曲に因んだ細長い公園があるのだ。

折からの雨。タンゴの始まりに思いを馳せているうちに園田さんの余命があまり長くないことに思いがいたり涙が止まらなくなった。案内して来てくれた大使館の人が怪訝な顔をしていたのは当然である。

園田外相の外遊はこの後もう1回あった。メキシコのカンクンで開かれた南北サミットへの出席。

11月30日午前11時に臨時閣議が招集され、内閣改造のための辞表とりまとめで辞職、外務省に戻って記者会見。公式な場に姿を見せた最後だった。死ぬ前は糖尿病に伴う眼底出血のため全盲になっていた。

2012年08月02日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎


<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告をしていた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは当然だ。

安倍政権(当時)にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであり、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。>産経新聞{主張}(2006/12/28 05:10)

産経の主張は最後に≪安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。≫と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要があ
る。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。

さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて行ったところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。

ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。

議会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費だけで賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。

そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

佐田氏の政治団体が平成2年の発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、事務所費や光熱費の名目などで約7800万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費に秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。

それは殆ど警察の目をくぐる。警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。

カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。冒頭の産経論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。

2012年08月01日

◆64%「中国人以外に生まれたい」

渡部 亮次郎


<【産経新聞2006年9月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。>

このサイトは9月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。再掲

アレから6年。数字はもっと酷くなっているだろう。外交評論家 加瀬英明さんによると、オリンピックをやった独裁国(ナチ、ソ連)は10年ぐらい後に崩壊しているそうだ。北京オリンピックは何時だった?

2012年07月31日

◆転失気総理森喜朗

渡部 亮次郎


「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。

『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場したもの。

森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。

「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。

私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。

「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。

三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後官邸から自宅に居た私電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁいいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、「てんしき」さんなら思うのか。

園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。
そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授、故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。


安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。30年以上も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私は幸せだった。(了)

2012年07月28日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。

歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

この映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。

<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、60年以上を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している。

2012年07月26日

◆増加!子供の糖尿病

渡部 亮次郎


<1型糖尿病

1型糖尿病(いちがたとうにょうびょう)(ICD-10:E10)は、インスリンの供給異常による糖尿病。血糖を下げるホルモンであるインスリンの分泌が低下するか、ほとんど分泌されなくなるため血中の糖が異常に増加する病気である。

20世紀前半にインスリンが治療応用されるまでは、極度の食事制限を要する致死的疾患の1つであった。膵臓のランゲルハンス島でインスリンを分泌している細胞が死滅する事によって起こる。

根本の原因は現在解明されていないが、膵組織にはリンパ球の浸潤が見られ、炎症性のメカニズムが想定されている。血中に自らの膵細胞を攻撃する自己抗体が認められるものを1A型(自己免疫性)、ないものを1B型(特発性)とする。

飲み薬は無効で、患者はかならず注射薬であるインスリンを常に携帯し、毎日自分で注射しなくてはならない。インスリンを注射しなければ、容易に生命の危険に陥る。また、1型糖尿病のなかでも、「劇症1型糖尿病」という数日間でインスリンが枯渇するさらに危険な病もある。

2型糖尿病

2型糖尿病(にがたとうにょうびょう)(ICD-10:E11)は、インスリンの消費の異常による糖尿病。欧米ではインスリン抵抗性が高まる事が原因のほとんどを占めるが、日本では膵臓のインスリン分泌能低下も重要な原因である。

前者では太った糖尿病、後者ではやせた糖尿病となる。遺伝的因子と生活習慣がからみあって発症する生活習慣病。糖尿病全体の9割を占める。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本では糖尿病といえば中年のかかる2型が大部分。しかもこれは、遺伝的因子があるとはいえ、殆どのきっかけは運動不足と肥満であるから「生活習慣がからみあって発症する生活習慣病」と言われ、中年だけの病気と考えられてきた。

ところが1990年代に入って子供の肥満による糖尿病が数千人に1人の割合で見つかるようになってきた。飽食の時代が始まって何年だろう。戦中戦後の貧食?の時代は糖尿病なんて聞かなかったし、まして子供の2型糖尿病なんて、聞いたことがなかった。

これは発見のきっかけがあったからでもある。つまり子供の身体検査で尿糖検査なんてしなかったものだが″、1990年代からするようになったからである。

産経新聞によれば、肥満度50%以上と言う高度肥満の子供が最近増えた。中3男子生徒の例。母子家庭で母親が留守がちのためインスタントや冷凍食品中心の食生活。運動らしい運動は殆どしなかった。

その結果、中学入学前後に一気に20-30キロも太り体重は100キロを超えて、検査の結果「2型糖尿病」と診断された。

糖尿病は発症しても自覚症状がない。自覚症状が出るまで10年以上かかることが多いそうだ。しかも自覚症状が出たときには深刻な状況となっている。この生徒も太ったとはいえ検査しなければ糖尿病は発見できなかった。

血液の中の糖分の過剰な状態が続くと、ガソリン車に砂糖をぶち込むと、エンジンが駄目になるのと同じで、毛細血管が内部から破れたり詰まったりする。脳卒中、心臓病、腎不全、目の網膜症(盲目)、足の壊疽などが起きる。

世間では「子供は2型糖尿病にはかからない」との「迷信」が流布されているし、太った子ども自身も自覚症状がない以上、インスタントやレトルトの食品を食べ過ぎるな、運動をやれと言われても、守る事は難しかろう。

この病気は今の医学では一生、治癒はしないが、医師の適切な指示を守れば、若死にすることはない。何もしなければ他人より10年は早く死ぬとされている。

私の周囲の例では60に満たない女性が、最近のある日、突然、目が見えなくなり、病院に行ったところ糖尿病による網膜症と分った。しかも全身の浮腫みは腎機能の不全からと分り、いきなり週3回の人工透析開始と宣告されてしまった。

女性は若いときに遺伝的因子から糖尿病と診断されていた。しかしこれといった自覚症状のないまま油断していた。その間、高すぎる血中高糖度は毛細を含む血管を内部から蝕み続けていて、気がついた時は既に手遅れだったのである。

本人の落ち度であることは尤もだが、仮に夫たる人に糖尿病の知識があれば、こうはならなかっただろう。本人が厭がっても通院させ、適正な対処療法が施され、いきなり人工透析という悲劇にはならなかったはずだ。

だから、身内の子供が最近、太りすぎと言うことなら、積極的に診察を奨めたほうがよい。本人は厭がっても周囲が気をつければ何も怖いことにはならない。説得をしり込みする大人が悪いのである。子供の健康には大人が責任を負っているのだから。

2012年07月24日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎

リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

新聞に依れば2005年の農林水産物(タバコ、アルコール飲料、真珠を除く)の輸出額は、前年より12・1%増えて3311億円。輸入量が年間7兆円を超す日本だが、輸出量は年々伸びているのだという。

<例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという>

<青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている>。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。

2012年07月22日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こす。少し横になっていれば治るが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。血圧を毎朝、計測するようにしている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。
2012・7・19


2012年07月19日

◆ロマンに満ちた鰻の生態

渡部 亮次郎


ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態をとる。

従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

少年の頃、作家火野葦平がそれをテーマにした小説を毎日新聞に連載し、熱心に読みふけったものだった。しかし、今となっては題名すら思い出せない。ネットで捜したが分からなかった。

火野は53歳で急死したが、のちに服毒自殺と公表された。

鰻の話である。

2006年2月、東京大学海洋研究所の教授・塚本勝巳をはじめとする研究チームが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。


これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認された。。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6-7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

2008年6月および8月には、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが、同じくマリアナ諸島沖の水深200-350 mの範囲で、成熟したニホンウナギおよびオオウナギの捕獲に世界で初めて成功した。

雄には成熟した精巣が、雌には産卵後と推定される収縮した卵巣が認められた。また、水深100-150 mの範囲で、孵化後2-3日経過したと思われる仔魚(プレレプトケファルス)26匹も採集された。

さらに、プレレプトケファルスが生息する層の水温が、摂氏26.5-28度であることを初めて確認した。この結果から、比較的浅いスルガ海山の山頂付近ではなく、もう少し深い中層を遊泳しながら産卵をしているという推定を得ることができた[。

この推定を基に、塚本らの研究チームが周辺海域をさらに調査したところ、2009年5月22日未明、マリアナ海嶺の南端近くの水深約160メートル、水温が摂氏約26度の海域で、直径約1.6 mmの受精卵とみられるものを発見。

遺伝子解析の結果、天然卵31個を確認した。天然卵の採集は世界初である。同時に、卵は水深約200 mで産まれ、約30時間かけてこの深さまで上がりながら孵化することも判明した。

さらに同チームでは、2011年6月29日学術研究船白鳳丸に搭載したプランクトンネットを用いて、産卵直後から2日程度経過した147個の受精卵の採取に成功した。

新月の2-4日程度前の日没から23時の間、水深150-180 mで産卵されたと推定される。卵から2-3日で孵化した仔魚はレプトケファルス(葉形幼生、Leptocephalu s)と呼ばれ、成魚とは異なり柳の葉のような形をしてい
る。

この体型はまだ遊泳力のない仔魚が、海流に乗って移動するための浮遊適応であると考えられている。レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、扁平な体から円筒形の体へと形を変え「シラスウナギ」となる。

シラスウナギは体型こそ成魚に近くなっているが体はほぼ透明で、全長もまだ5 cmほどしかない。シラスウナギは黒潮に乗って生息域の東南アジア沿岸にたどり着き、川をさかのぼる。

流れの激しいところは川岸に上陸し、水際を這ってさかのぼる。川で小動物を捕食して成長し、5年から十数年ほどかけて成熟する。その後ウナギは川を下り、産卵場へと向かうが、その経路に関してはまだよく分かっていない。

海に注ぐ河口付近に棲息するものは、淡水・汽水・海水に常時適応できるため、自由に行き来して生活するが、琵琶湖や猪苗代湖等の大型湖沼では、産卵期に降海するまで棲息湖沼と周辺の河川の淡水域のみで生活することが多い。

また、近年の琵琶湖等、いくつかの湖沼では外洋へ注ぐ河川に堰が造られたり、大規模な河川改修によって外洋とを往来できなくなり、湖内のウナギが激減したため、稚魚の放流が行われている・             (「ウィキペディア」)
                    

2012年07月18日

◆「の」で初入閣した園田直

渡部 亮次郎


建国記念「の」日を迎えるたびに園田衆院副議長時代を思い出す。

佐藤栄作内閣は発足間もない1995(昭和40)年12月12日未明、日韓条約案件を衆議院本会議で強行採決で批准した。当時私はNHK政治部の一員で衆院本会議番の記者だった。

時の自民党幹事長は田中角栄で、記者たちから採決をいつ断行するのか連日責められ、その都度「きょう」といい続けた。NHKとしては歴史的な事件として残るであろう採決の瞬間をTVで実況中継する計画。

そのためにはTVの中継スタッフを何十人も国会に待機させ3食を補給しなければならない。担当は報道局庶務部。担当者は食事の手配のうえからも「何時」への関心が高い。

だが幹事長は毎日「きょう」と言いながら採決を引き延ばすものだから、庶務に突き上げられたNHKの幹事長番はとうとうノイローゼになる始末。

採決の瞬間は突然やってきた。船田中議長が暮も近い12日、未明、「この際あらゆる手続きを省略し、案件を採決いたします。賛成の諸君の起立を求めます」とやったから議場は総立ち。「起立多数。よって本案は可決されました」となった。

与党、野党の若い議員が議長席に詰め寄った。楢橋代議士の上着がセンターベンツのところで真っ二つにさかれていたのをおもいだす。しかし船田議長はさっさと議長席を下り、後ろのドアから退出、そのまま青山の産科病院(親戚)に入院してしまった。

日韓条約は12月11日、参院本会議でも強行採決で可決、成立した。衆議院の船田、田中伊三次の正副議長は混乱の責任を取るとして辞任。

後任に議長は山口喜久一郎、副議長園田直がさ党総裁の推薦により
本会議で選出された。奇妙なことに、二人とも佐藤のライバル河野一郎派閥所属だった。私は河野はを担当しながら、正副議長を引き続き担当することになった。

園田氏は当選9回ながら未入閣の代議士だった。50を過ぎていた。
このポストでなにか功績を上げ、入閣を狙うのじゃないか。試みに毎日のように副議長室へ通った。他の記者は議長室で山口議長若い頃の自慢話を聞いているようだった。

毎日通っているうちに、奇妙なことに気づいた。副議長室の本棚がどけられ、直接、議長応接室へ出入りできるようになっている。
「これは何かある。園田は何かをやらかそうとしている」。私は気づかぬふりをして去った。

遠くから見張っていると議長室に入った社会党の石橋政嗣国対委員長が、暫くして副議長室からでてきたではないか。つまり議長室と副議長室を結ぶ議長応接室で何か密議がおこなわれているのじゃないか。

佐藤内閣が解決すべき日韓条約の次の案件は何か。そうだ、紀元節復活法案の成立だ。園田はこれを解決して初入閣を果たそうとしているのだ。

ある日、園田さんに正直にこれをぶつけてみた。園田氏は驚く様子も見せず「あゝたはワシの腹の中をいつみたとですか」と肯定した。しめた。正月に伊勢神宮参拝に同行したとき「菅原通済に勲1等をやれる方法は無いものか」と呟いたでしょう。あれがヒントです」といった。

つまり社会党と自民党の間で妥協点を見出す。その過程で菅原氏を使う、と言う方法。自民党からは田中幹事長の一任を取り付け、社会党へは国対族として通じ合う石橋国対委員長と渡り合って妥協点を見出す、と言う案では無いですか、と追い討ちをかけた。

これで園田氏は「降参」し、以後すべてを教えてくれるようになった。しかし書かなかった。大きな特ダネにするためには、コトが仕上がるまで極秘にすべきだと考えた。キャップにもデスクにも報告しなかった。

やがて園田・石橋間で、法案の名称を建国記念「の」法案とする。
法案を「建国記念日法案」としたのでは社会党内で「紀元節復活法案」として反発が強いが建国記念「の」だとやわらぐというのだ。

日取りは「2月11日とせず審議会で決める、審議会の会長は菅原氏とする」の線でまとまった。昭和41年6月3日、話は「山口衆院議長の斡旋案」として公表された。特ダネは直前に放送された。

やがて建国記念「の」日は佐藤内閣の意図のとおり「2月11日」に決まり、園田氏は副議長として3代の議長に仕えた後、佐藤改造内閣の厚生大臣として初入閣した。「の」が決め手だった。

2012年07月16日

◆帰郷叶わぬクニマス

渡部 亮次郎


秋田は生まれ育った郷里ではあるが、山の中の田沢湖には行ったことがなかった。

田沢湖。秋田県の中東部に位置する。最大深度は423.4mで日本第1位(第2位は支笏湖、第3位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。

湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。

少年時代は鉄道も開通して無かった。それが50近くなってから頻繁に通うようになったのは、理事長として社団法人日米文化振興会のシンポジュームを毎年開催するようになったからである。

通うたびに地元の人たちt酒を酌み交わすようになって、人々が口にする言葉が「クニマスに逢いたい」だった。昭和15年、田沢湖の水で発電所ができ、それに伴って下がる水位を補う為、1940年1月20日より玉川の水を導入した。

その水は玉川毒水と呼ばれる塩酸を含む強酸性の水だった。1948年の調査では表層付近の pHが4.8前後と急速に酸性化し、1948年にはクニマスの捕獲数はゼロになり絶滅した。

現在ならば環境問題として大きく取り上げられるところであるが、当時は国家を挙げての戦時体制の真っ只中であり、この固有種の存在などが顧みられる事は全くなかった。また、1965年の水質調査でも、湖の全域でpH 4.5程度であった。

クニマス(国鱒、学名:Oncorhynchus nerka kawamurae)は、サケ目サケ科に属する淡水魚。別名キノシリマス、キノスリマス、ウキキノウオ。産卵の終わったものをホッチャレ鱒、死んで湖面に浮き上がったものを浮魚(うきよ)という。

かつて秋田県の田沢湖にのみ生息した固有種だったが、田沢湖の個体群は1940年頃に絶滅し、液浸標本17体(アメリカ合衆国に3体、日本に14体)のみが知られていた。

このため環境省のレッドリストでは1991年、1999年、2007年の各版で「絶滅」と評価されていた。

ところが2010年に京都大学研究チームの調査により、山梨県の西湖で現存個体群の生息が確認された。

きっかけは、京都大学教授の中坊徹次がタレント・イラストレーターで東京海洋大学客員准教授のさかなクンにクニマスのイラスト執筆を依頼したことであった。

さかなクンはイラストの参考のために日本全国から近縁種の「ヒメマス」を取り寄せた。このとき、西湖から届いたものの中にクニマスに似た特徴をもつ個体があったため、さかなクンは中坊に「クニマスではないか」としてこの個体を見せ、中坊の研究グループは解剖や遺伝子解析を行なっ
た。

その結果、西湖の個体はクニマスであることが判明したとし、根拠となる学術論文の出版を待たずして、12月15日にマスコミを通して公式に発表された。

1935年、田沢湖から西湖に送られたクニマスの受精卵10万個を孵化後放流したものが、繁殖を繰り返して現在に至ったと考えられている。

西湖の漁師には、この発見以前から「クロマス」と呼ばれて存在自体は知られていたが、「ヒメマスの黒い変種」程度にしか認識されていなか
った。

このため、西湖周辺では普通に漁獲されていたほか、一般の釣り客も10尾に1尾程度の割合で比較的簡単に釣り上げており、2010年以前にも「西湖でクニマスを釣り上げた」と再発見説を唱える者がいたという。

産卵を前にして黒くなったヒメマスは不味いとされることから、「クロマス」は釣れてもリリースされることが多かったというが、当然ながら「クロマス」を食する者もおり、伝承どおり、塩焼きにしてもフライにしても美味であったと語られている。

「クロマス」の正体がクニマスであるとの知らせを受けた西湖漁業協同組合は、クニマス繁殖域の禁漁区指定など、保護対策を検討しており、2011年3月20日の漁解禁より、クニマスが生息している可能性の高い湖北岸の約1万平方メートルを新たに自主禁漁区域に設定する方針を固めた。

また、クニマスの生息確認の知らせを受けた秋田県の仙北市と田沢湖観光協会は、国や県と協力して田沢湖の水質改善を進めるなど、将来的にクニマスを田沢湖に戻すことを前提とした諸活動を計画している。

2010年12月15日のクニマスが再発見されたと言うニュースから2日後の2010年12月17日、秋田県は仙北市と共同で「クニマス里帰りプロジェクト」を発足させることを決定、12月21日から正式に活動を開始した。

しかし、田沢湖の水は依然として強い酸性を保っており、クニマスを田沢湖に戻すには程遠い状況であるため、当面はクニマスの生態調査に力を注ぐと同時に、県内の他の場所でもクニマスを養殖できないか、山梨県とも協力しながら検討を続けていく方針だ。

2011年3月5日には「クニマス里帰りプロジェクト」の一貫として、さかなクンの講演会が開かれた。この講演のなかで、さかなクンはクニマスは従来ベニザケの亜種と考えられてきたが、一年を通じて産卵期があるなど、独立した種である可能性が高いことを説明した。

2012年2月には中坊らと同行したNHK取材班が産卵の様子の撮影に成功。伝承通り冬季に産卵することが証明された。生きたクニマスのカラー映像の撮影成功は初。

撮影時にカメラを全く警戒する様子がなく、また深い場所で低い水温の砂利地帯という環境から、天敵の居ない環境がクニマスが生き延びた要因である見方が強まった。

江戸時代に秋田藩主・佐竹義和が田沢湖を訪れた際にクニマスを食べ、お国特産の鱒ということから国鱒と名付けられたといわれていたが、角館佐竹家(佐竹北家)の記録である佐竹北家日記に、義和の生誕よりも以前から国鱒との表記が見つかっている。

角館を領した佐竹北家(角館佐竹家)の歴代の記録である『佐竹北家日記』(秋田県公文書館所蔵)において、クニマスに関する記事は正徳5年(1715年)を初出とし、18世紀には記述が少ないが19世紀に入ると頻出し、角館佐竹家から秋田藩主佐竹本家への、または佐竹本家から他藩諸家への献上品・贈答品として利用され、長期の運搬がなされたと記録さ
れる。このことからも、干物・粕漬けなどの加工が開始されていたと考えられている。

文化2年(1805年)の記録に「国鱒塩引き」が秋田の佐竹本家へ献上輸送された記録がある。翌々日に秋田藩城詰めの家老名義での礼状が届き、同文中には「在国中であった藩主がとても喜び、残った分は江戸藩邸に送った」旨が記されている。

これらは当時クニマスに対し、長期輸送に耐えうる加工がなされていた史料となる。当時の佐竹北家の当主は佐竹義文(佐竹河内)、秋田本藩藩主は佐竹義和。数年後、佐竹義和は田沢湖を訪れ、文人としても知られる義和は紀行文を残しているが、同文中にはクニマスに触れた記述はない。

義和は秋田蕗の逸話が残るように、藩内特産品の開発にも力を入れていたとされることから、前述のクニマスを江戸に送った行為は、江戸藩邸の家族や家臣らに対する贈り物に留まらず、諸国に対する特産品の宣伝および国内特産品の殖産興業の面もあった、とも推測される。

ただし、このように藩主献上品(または他藩への贈答品、藩の特産品)として扱われたことにより、クニマスの価値・価格は上昇し、価格面でも”価値”の面でも、たとえ地元の人間であろうが庶民にはなかなか手が出し難いものとなった、とも伝わっている。

資源のある高級魚であったため、専業の漁師が居た。クニマス漁は一年中行われ、刳り舟(丸木舟)を使用した。漁法は刺し網漁法で、夏は深部に、冬は浅く網を下ろす。

ただし少数であるが、雑魚網や一本釣も行われていたようである。1月 ー3月が最盛期で、漁で上がったクニマスはすぐに死に、徐々に白く変色したという。

深所に生息するためか皮が硬いのが特徴であるが、白身で柔らかく非常に美味であった。地元でも祝い事や正月などのときにしか食べることのできない高級魚で、昭和天皇に献上された事もあり、大正時代には1尾が米1升と交換するほどの魚であったという。

豊漁の年でも冠婚といった特別のとき以外は食べなかったといい、大半は雑魚箱に入れて角館町に売りに出るが、 その角館でも買う家は地主、上級武士、豪商など決まっていた。

このため売り子は「軒打ち」と称い、あらかじめ買ってくれそうな家を覚えておいて売り歩いたという。一般が口にするのは妊産婦か病人に限られており、田沢湖町田沢、元田沢湖町役場総務課長の羽川は「子供のころよく獲れたものだが、なかなか食べさせてもらえなかった。それでも風邪をひいたりすると、『早く治れ』と母が出してくれた」と当時に
ついて語っている。

料理する場合は焼魚にする事が多かったようである。現在のヒメマスも美味な高級魚であるが、これと比較してもなお高品位であったとされている。

クニマスと同じく、かつて田沢湖に生息し、酸性水の流入で絶滅した魚にクチグロマス(口黒鱒、学名なし)がある。こちらは非常に資料が乏しく詳しい事は不明だが、体長は25 - 35センチ・メートル程度で水深50- 100メートル付近に生息していたと思われる。また、クチグロマスはヒメマスとクニマスの雑種だとの説もある。

漫画『平成版・釣りキチ三平』(『週刊少年マガジン特別編集2001年9月18日増刊号』掲載[26])には、「三平の祖父・一平が、クニマスを密かに地図に載っていない山中の湖に移殖し、そこで繁殖していたものの生息が確認される」というストーリーがある。

あくまでフィクションであったが、2010年に生息が確認された個体は実際に漫画と同じような経緯で移殖され繁殖していた。作者の矢口高雄は発見の一報を大変喜び、関係者やファンから多くの祝福を受け「必ず生きていると信じていた」「漫画にしたけれど、うそじゃなかったでしょ?思い通りです」と語った。

ちなみに矢口は田沢湖のある秋田県の出身で、将来的にはクニマスを田沢湖に里帰りさせることを強く望んでいるという。2012・7・12
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆本稿は7月15日(日)刊 渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」2666号に
掲載されました。

◆<2666号の目次>
・帰郷叶わぬクニマス:渡部亮次郎
・迷走の挙句政党政治の危機:山堂コラム 427
・対北朝鮮の米イージス艦配備状況:古澤 襄
・世に流布される「陰謀論」:阿比留瑠比
・たかがヒゲ、されどヒゲ:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2012年07月15日

◆国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンが、私のメルマガ「頂門の一針」に、次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ
  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること
  (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだ、こうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったというのが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

密約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとしても密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかわらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのが、現状ではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がも
たらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、
台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。