2012年05月09日

◆圭子の「夢は夜開く」

渡部 亮次郎


NHKの深夜放送「ラジオ深夜便」は今や大変な人気番組になったとマスコミでも話題になっている。眠れない時や早すぎる明け方にスイッチを入れるとクラシック音楽や昔の流行歌、民謡、落語などが、年季の入ったアンカー(ベテランのアナウンサー)の司会で静かに流れてくる。始まって既に20年以上になる。

ところで気になるのはアンカーの皆さんの歌謡曲についての知識の無さである。藤圭子が1970(昭和45)年大阪万博の年、三島由紀夫自決の年に歌った「圭子の夢は夜開く」という歌がある。

作家の五木寛之が褒めちぎって「これは怨みの歌、怨歌だ」と書いたものだ。とにかく歌われた。園まりも、ちあきなおみも「なおみの夢は夜開く」を歌った。だから圭子の夢は夜開くは圭子の「夢は夜開く」とアナウンスすべきであって「圭子の夢は」夜開くではない。

圭子のなおみのそれぞれの「夢は夜開く」なのである。ドイツで暮らしたことのある人と高い位に昇って定年になった共に女性元アナウンサーが同じ誤りを放送していた。

特にドイツ生活女史はトワ・エ・モアのペアを夫婦で無いのに夫婦にしてしまって、2週間後に謝っていた。彼女はまた建国記念「の」日の「の」ははじめは付いていなかったと放送して怒られていた。

あの「の」は、あれが付いたが故に国会で成立したという大変な「の」なのである。自民党はそれまで紀元節復活を狙って建国記念日法案を何度も何度も出し、ことごとく社会党の反対で封殺された。

それを「の」を入れることによって打開したのは衆議院副議長(自民党所属)園田直(そのだすなお)と社会党国対委員長の石橋政嗣である。そういう歴史的な「の」なのであるから「はじめはのがなかった」というのは事実として存在しない話だ。

時々聴いていると、歌謡曲は戦前のまで放送している。だから60前のアンカーなら聞いたことも無い歌を紹介しなければならない例は幾らでもあるのは当然である。「愛染かつら」をあいそめかつらと読みたい時もあろう。しかしあいぜんかつらなのである。

リスナーたる老人たちに馬鹿にされないためには事前調査とか下読みとかが欠かせないであろう。それなのに少なくとも「日本の歌 心の歌」(午前3時台)のおさらいをしてから本番に入る人は殆ど無いようだ。

現役のアナウンサー時代ならそれでも良かった。読む原稿や台本は記者やディレクターが下調べをし、振り仮名を予めつけてくれた。ところがアンカーとなると歌の題名から歌詞の内容に至るまで全責任を独りで負わなくてはいけない。それだからアンカー(司会者)という名を考えて自分たちで付けたのではなかったか。

そういいながら下読みや下調べを怠ると言うのでは話が違うのではないか。たかが歌謡曲と言うなかれ、深夜便のいわば命ではないか。

深夜便の延長で東京・代々木の古賀政男記念音楽博物館ではNHKが関連した催物をやっていた時期がある。。評論家と言っても民放で歌謡曲のディレクターを長いこと務めた男性を講師にして毎月1回、2年間、歌謡曲の歴史を紐解く会があって、必ず参加していた。

その模様は編集されて深夜便で放送もされていた。ところが終わりごろ近くなってぷっつり行かないことにした。鶴田浩二は特攻隊か否かで納得のいかないことを聞いたからである。

生前、鶴田は大東亜戦争で特攻隊として敵(アメリカ)軍艦に体当たりして死ぬべきところ、俺は生き残ってしまった身だ、仲間に申し訳ないといろいろなところで言い続けた。

それに対して特攻隊の生き残りたちは本名(小野栄一)を探しても、名簿には存在しないことを明かしつつも大声は出さなかった。

またまた引いて失礼だが、私の仕えた故・園田直外務大臣は明らかに特攻隊生き残りだった。昭和20年8月13日だかの夜、千歳から飛び立って体当たりすべきところ天候不良のため飛行は17日に延期されたが、15日に敗戦と決まったため生き残って「しまった」といっていた。その園田氏は鶴田は特攻隊には確かにいなかった、と断言した。

鶴田氏はそれでも言い続けたため、その死の床に臨んで長女の方が真偽を追及したところ、本人が嘘と認め、ご長女はその顛末を新潮社の月刊雑誌「新潮45」に連載した。しかし世間の話題にはならなかったが、私の脳裏には深く刻まれた。

それなのに例の評論家氏は「鶴田は特攻隊の生き残りだった」と番組の中で解説したので、自宅に電話して「間違いではないのか」と質したところ「ご本人から直に聞いた」といって譲らない。

「あとでご本人が死の床でご長女に嘘だったと言ったと雑誌に出ていた」と言ったら「いずれは特攻隊員になるはずだったのだ」と言って逃げた。いずれを付ければ、あの時代、全国民が特攻隊員だったよ、と悪態をつくのはやめて、以後参加を止めた次第であった。

人気商売とはこんなものかも知れない。鶴田浩二の経歴ひとつとってもこれだけの問題がある。ましてドラマとなるともっと問題と言うか、作り事の中にさらに作り事があろう。

たとえば「おしん」だ。冒頭、親子の別れに際して、おしんが父ちゃん母ちゃんと叫ぶが、当時、口減らしのために幼子を奉公に出すような東北地方の貧しい農家で父や母を父ちゃんだの母ちゃんだのと呼ぶ農家は絶対無かった。

地主階級でもそう言ったかどうか怪しい。橋田ドラマとしては父ちゃん母ちゃんの真実を書くと、都会の人には絶対判らないから、書けない。だから冒頭から嘘で始めるしか無かったわけだ。とするとドラマのすべてが信用できなくなる。

圭子の夢から話はとんだところへ飛んでしまったが、NHKが国民の放送局であろうとし続けるなら、歌謡曲に対する深夜便アンカーの態度は改めなければならない。

あくまでも深夜6時間の長丁場に全責任を持たなければならないアンカーマンなりアンカーウーマンなのだから是非、下調べとか、読む投書の下読みとかを欠かすべきではない。プロなら当然の話だ。


2012年05月04日

◆M・サッチャーの登場

渡部 亮次郎


マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語: Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日〜 )は、イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任:1979年 - 1990年)。

5月4日は首相就任記念の日である。就任直後、表敬する園田直外務大臣に随行して首相官邸を訪れた。煙草を吸っても灰皿を出してくれないので弱った。それを機に私は禁煙して今日に至っている。

彼女が極端な煙草嫌いであることを知らなかった私が悪かったのであり、その業績は尊敬している。

以下「ウィキペディア」によれば、首相退任後は1992年から貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)あるいはアッティラ(Attila the Hun)の異名を取った。

首相退任後の2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載した。

それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている。現在は表舞台には姿を見せていない(2012年初頭現在)。

1925年、リンカンシャー州グランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

父・アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。

大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革(所謂サッチャリズム)の源流になった。

950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選。翌1951年には10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「ミルク泥棒」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ(現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した。

皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。

仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった。

選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしてい
ると言われる。

1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣した。

多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。

この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土は国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。

イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。

フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。

1990年の党首選では苦戦。結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。2012・5・3

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌っていた。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館駐在の通信員として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースをカバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で出身の作曲家、故成田為三の記念音楽祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜 9時ごろの奥羽線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で4−5本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタクシーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこは坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみたら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであった。デスクには秘匿した。76歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子として生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。

在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へりにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行われ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強いが、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったことはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。2012・5・1

2012年05月03日

◆「巴里だより」 りんごの花

岩本 宏紀


ときどき愛犬「ゆめ」と散歩するオランダの道に、りんごの木が何本かある。
今日久しぶりにそこを通ると、りんごの花が咲いていた。

「りんご追分」でしか知らないりんごの花。
上品で可憐なピンクっぽい白だった。

ゆめに匂いをかがせたが、まったく反応せず。
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2012年05月02日

◆日米共同声明のからくり

渡部 亮次郎


久しぶりの首脳会談で日米共同声明が発表されたが、共同声明は首脳会談の議事録ではなく、実は両国官僚によって、会談以前に完成していることを知っている人は極めて少ないだろう。

それを知らされず、共同声明は議事録と勘違いして、とうとう首相再選辞退に追い込まれた首相がいた。第70代の鈴木善幸である。1980年7月17日から82年11月27日まで2年4ヶ月務めた。

<鈴木は、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強い一方で、苦手だった安全保障外交を中心に度々発言を修正することがあるなど発言に隙が出た。1981(昭和56)年5月のレーガン大統領との会談後、記者会見で日米安保条約は軍事同盟ではないと発言。

これに宮澤喜一内閣官房長官も同調したが、外務大臣の伊東正義は「軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発して辞表を提出し、外相を辞任した>。(「ウィキペディア」)

当時、園田直は厚生大臣だったが、伊東の後任に急遽、横滑りした。秘書官だった私も横滑り、3度目の外相秘書官となった。

鈴木善幸は池田内閣の末期、内閣官房長官を務めたとはいえ、極く短期間だった。もともと自民党内では池田派に属しながら、佐藤派の田中角栄の子分同然だった。

その関係で自民党総務会長を10期も務めるなど、党内では「調整型」の人間として通り、外交や安保問題には全く、暗かった。それが大平首相の突然死で急遽、首相になったものだから、外交への暗さを指摘して、屋山太郎(時事通信記者)は「暗愚の帝王」と命名した。

だからと言って外務省幹部としては鈴木に今更、外交を手に取る如く教えるのも失礼と、やゝ突き放した。だから日米共同声明に首脳会談で議題にもならなかった「日米安保条約は軍事同盟」という文言が何故出てきたのか理解できなかった。

この文言は、当時の世界情勢を両国の外務官僚が判断した結果、日米安保条約が持っている軍事同盟色をこの際、顕在化させようとするレーガン大統領の意向を反映させて共同声明に盛り込んだものであった。

つまり、共同声明は両国の官僚によって、首脳会談以前にできあがっているのである。私も外務省の大臣秘書官を務めるようになってはじめて知ったことだった。

だから後に善幸は「踊りを教えるなら最後まで教えなきゃいけないじゃないか」と外務官僚への不満を漏らした。野田首相はキャリアが短い分、官僚も今回は丁寧に教えたのではないか。今のところ問題は起きていない。

<鈴木はまた中国と韓国から戦争に関する記述に反発する歴史教科書問題に直面した際には、外交懸念を抑えるために中韓の意向を受けることになったが、後世で保守派から「鈴木首相、宮澤官房長官は事実確認を怠ったまま謝罪に走った」と激しく批判されている。

首相就任以来、一部マスコミからは直角内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。

また、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ、税収減の恐れと支出削減の限界が出てきたため、増税無しでは1984(昭和59)年まで赤字国債脱却が困難な状況に直面した。これらの経緯により対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていた。

しかし党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982(昭和57)年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982(昭和57)年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。

10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。

田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。

首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。

後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争を繰り広げた迫力のある政治かはいなくなった>。(「ウィキ」)(文中敬称略)。2012・5・1

2012年05月01日

◆アイ・ジョージが不明16年

渡部 亮次郎


アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )は日本の元歌手、俳優。本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。芸名の由来は本名の石松譲治から苗字のイニシャル(「I」)から取ってアイ・ジョージとしている。


1933(昭和8)年、香港(当時の英国領)生まれ。父は石油会社の役員、母はスペイン系フィリピン人。外地生まれで、なおかつ混血児であったこともあり、戸籍上は1940年4月15日生まれ・父方の祖父母の第三子として届出がなされているらしい。

アメリカを放浪しているという噂もあるが、なにしろ行方不明になって16年がすぎた。私は彼の歌が好きで時折MDで聞くが行方ふめいだから当然、ナマでは聴けない。


1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。

NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。

外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として現在でも親しまれている。

1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。

当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったものの興行的には失敗に終わった。

他にも1967年にはソ連公演を果たすなど、「世界の流し」として活躍した。またこの年には富豪令嬢と結婚、一女を儲けるも1976年離婚した。原因はジョージの乱れた女性関係にあるとされる。


1972年、長年所属していたテイチクからコロムビアへ移籍(〜78年?)。この頃から実業家としての活動がさかんになり、沖縄国際海洋博覧会を見込んで作ったレストラン、八丈島のホテル、六本木のメキシコ料理店などを経営するもすべて失敗に終り、十数億の借金を抱えることになった。

1987年、借金をようやく返し終えたこともあり、NECアベニューへ移籍し、本格的に歌手活動を再開するも、同年末に金銭トラブルを起こす。そのこともありメディア出演はさらに減っていき、1996年暮れテレビ東京の懐メロ番組に出演したのが現時点で最後のテレビ出演となった。

1998年頃、永六輔がジョージを探すが、見つけ出すことは出来なかった。友人である坂本スミ子のもとには今も時折電話がかかってくることはあるが、連絡先を聞くと口ごもるという。現在はアメリカ合衆国ロサンゼス市在住でロスと日本を往復して生活を送っているという噂があるものの真偽は不明。出典:「ウィキペディア」 2012・4・29

2012年04月28日

◆尖閣は1895年から日本領土

渡部 亮次郎


「ウィキペディア」によれば、尖閣諸島が日本領に編入されたのは日清戦争中の1895年1月14日である。尖閣諸島は現在、沖縄県石垣市に属している。

私は1968年秋、当時はまだ沖縄県と呼ばれず「琉球」とよばれていた時代、アメリカの施政権下で主席(知事相当)が初めて住民の公選で選ばれるというので、NHK特派員として派遣され多方面の取材に当った。

朝日新聞から派遣されていたのは筑紫哲也氏だった。かつて岩手県政をともに担当していて顔見知りだった。しかし、私は米軍に尾行されながら選挙の取材に忙しく、尖閣諸島のことなど関心外だった。

日本政府は尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に編入した。

その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海鳥の剥製の製作そして鰹節の製造などが行われた。特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。

ところが、南洋諸島からの安価な製品が出回るようになると経営が苦しくなり、鰹節工場は閉鎖され1940(昭和15)年に無人島となった。無人島になってからも日本の実効支配は継続していた。

中国側は、明の時代、琉球への冊封使の報告書である古文書に釣魚台を目印に航行したとの記述があることや、江戸時代の日本の学者が書いた書物にある地図の彩色などを主張の根拠に挙げているほか、密やかに「領有」を実現し国際社会に宣言しなかった等の歴史的な経緯から見ると、日本のいわゆる「領有」は国際法上の意味を持たないと主張している。

人民日報の沖縄に関する記事。冒頭で尖閣諸島は琉球群島に含まれるとの主旨が記述されている(1953年1月8日付け) 。

台湾の中華郵政が発行した中華民国政府金門、馬祖を守る。金門島と馬祖列島について記述はあるが、尖閣諸島と南海諸島については記述されていない(1959年9月3日づけ)。」

第2次世界大戦後は一時連合国(実質的にはアメリカ合衆国)の管理下に置かれた。連合国の一員であった中華民国は1945年10月25日に、台湾総督府が統治していた台湾と澎湖諸島を接収し、日本もサンフランシスコ平和条約で最終的に放棄した。

台湾は1945年以降に中華民国台湾省となったが、尖閣諸島は含まれていなかった。

尖閣諸島を行政的に管轄していた八重山支庁が米軍占領で機能不全に陥り八重山自治会による自治が行われていたが、12月になって11月26日に告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」によってアメリカ軍による軍政下に入り、その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。

またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図では尖閣諸島を日本領として明記している)。

日本は1952年に台湾に逃れた蒋介石中国国民党政権との間で、その支配下にある台湾を適用範囲とする日華平和条約(1972年失効)を締結しており、2条で台湾における日本の領土権の放棄を規定している。

ここでは「日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第2条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」としているものの尖閣諸島は台湾に属するとは解釈されていなかった。

また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙人民日報は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は我国(中国)の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隈諸島など7つの島嶼から
なっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると紹介している。

尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による不法操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。1955年には第三清徳丸襲撃事件が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。

1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が「不法入域」し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。

日本の気象庁離島課は絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し琉球大学の高良鉄夫教授らを1963年春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく不法に居座っている台湾漁船を発見した。

この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に海鳥や卵を収奪していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。

そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語った[5]が、実行力のある対処は行われなかった。

これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の傍若無人ぶりを抗議できなかったという。

そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾当局が積極的な取締りをしなくても、台湾の蒋介石政権との「米華関係」を重視したため不問にしたとみられている。

1968年に行われた調査では台湾漁民による資源の収奪による激減ぶりが明らかになった。5年前の調査と比較して南小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。

これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。

調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を不法占拠しているのも確認している。

アメリカ政府の無策もあり、このような台湾人による領土不法占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の竹島になる危惧を指摘する声もあった。

だが、この当時は日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域は殆ど重要視されることはなかった。

その後も台湾漁民による不法入域は続き、朝日新聞1969年7月11日付け夕刊には「沖縄の島に招かざる客」との題で、北小島に不法停泊している台湾漁船と漁の合間に海鳥の卵を取っている漁民の写真が掲載されている。

この記事を執筆した筑紫哲也は、「(沖縄への)日本人の出入域にはきわめてきびしい統治者の米国もこの"お客様"には寛大」と揶揄するともに、「地元の声」として台湾との間で第二の竹島になる可能性があることを警告していた。

当時の琉球政府も、尖閣諸島が石垣市に属することを前提に警察本部の救難艇による警備を実施し、接近した台湾漁船に退去を命令する等の活動を実施していた。1970年7月には領域表示板の建立を行っている。

1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1971年に中国、台湾が領有権を主張しはじめた。

1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され
た。

結果、周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えた。

1970年9月2日には、台湾の水産試験所の船が魚釣島に上陸、台湾の国旗である青天白日旗を掲揚した。この際周辺海域で操業中の台湾漁船からは拍手と万歳の声が挙がったという。

台湾当局はこの時の「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。なおこの「青天白日旗」はその後間もない9月中旬に琉球政府によって撤去され、米国民政府に保管されている。

1971年2月にはアメリカ合衆国在住の中国人留学生らによる尖閣諸島は中国固有の領土だと主張する反日デモが発生し、6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。

1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本へ返還されており、沖縄返還の直前に主張し始めた。その根拠は、尖閣諸島が中国側の大陸棚に接続しているとの主張にくわえ、古文書に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述が見られることで、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈による。中国人が先に発見したから領有権を主張できるというものである。

ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議したことはない。

このため、日本国内では中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めた動機として 海底油田が欲しいだけだ。そのため、国際判例上、以前に黙認によって許容した関係に反する主張は、後になって許されないとする禁反言が成立するはずだ。

◆木津川だより 中津道の散策E−2

白井 繁夫


前回訪ねた「奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)」(地図Z:2番)から3〜400m位南へ行くと、コスモスの花で有名な「般若寺」に着きます。(地図Z:3番)
地図Z:http://chizuz.com/map/map127235.html

「般若寺」の草創期は、飛鳥・白鳳・奈良・平安時代と諸説あり、それ故、開基者も慧灌(えかん),蘇我日向臣(そがのひむかいのおみ)、聖武天皇、行基、観賢(かんげん)等々によるのかどうか、未だ分かっていません。

それは、この寺院が古代より兵火等による焼失、再興、破壊が繰り返されたため、重要な資料や文化財の多くが焼失し、残されていないことが大きな原因です。

しかし、嘗て3万6千坪(約12万m2)も有した境内が、明治初期の廃仏毀釈に因り2千坪(18分の1)に減じ、昔日の大寺院としての面影はないかも知れませんが、「般若寺」を訪ねた時、我々を魅了する本堂の仏像や、国宝、重文等の建造物などが暖かく出迎えてくれることです。

創建時の「般若寺」の位置を平城京から見ると、東七坊大路(平城京の東端を南北に通る大路)の北への延長線奈良街道(京街道)に面し、古来より栄えた街道の国境に建立されています。

当寺院の創建は寺伝によると、『舒明天皇元年(629年)高句麗の僧慧灌法師が開いた一精舎「般若台」から始まる』とあります。しかし、他の文献ではまだ確認されていません。

一般的に云われている説は、『奈良時代天平七年(735)、平城京の鬼門鎮護の為、聖武天皇が「大般若経」を納め、勅願寺として伽藍を整え、『般若寺』と命名し、住持第一世に行基を迎えた。』という説です。(住持:寺の主長である僧、住職)

当寺院の本尊: ◆(重文)木造文殊菩薩騎獅像は、後醍醐天皇の御願成就のため慶派仏師康俊が1324年に製作した仏像です。
最初の丈六文殊菩薩像は平重衡の南都焼き討ち(1180年)の兵火で焼失、その後再興され叡尊が造立した文殊菩薩も(1490年)焼失したので、経蔵に安置されていた(現)文殊菩薩をお祀りしています。


◆(国宝)楼門: 鎌倉時代(13世紀後半)に建立された入母屋造り.本瓦葺きの回廊門です。和様を基調としながら上層の組物など細部に大仏様(よう)の意匠を多くとりいれています。
P1000998般若寺楼門.jpgP1010002十三重石塔.jpg
写真左:国宝の楼門           写真右:重文の十三重石塔

◆(重文)十三重石塔: 高さ約14m 重量約80トン
建長五年(1253)に宋の石工:伊行末(いぎょうまつ)が、東大寺再建のため来日した際に、この石塔も彼らによって建立されました。石塔は四方仏(東)薬師、(西)阿弥陀、(南)釈迦、(北)弥勒の顕教四仏です。
(顕ヘ:けんぎょう:密教との対比語で釈迦如来が姿を示現して明らかに説き顕した教え)

ところが、治承4年(1180)以来、伽藍は灰燼となり、廃墟化してきた寺院を鎌倉時代に僧良慧(りょうえ)が石塔建立の供養をし、その後西大寺の協力で叡尊が七堂伽藍を再興して、丈六の弥勒菩薩を祀り、貧者、病人の救済などに力を注ぎました。

◆北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと):国の史跡
叡尊の弟子:僧忍性(にんしょう)は、更に弱者の救済のため、特に当時は不治の病と云われたハンセン病の患者を収容するための施設を「般若寺」の北側に建立しましたが、焼失してしまい、江戸時代に現在地に再建されました。

ところで、本尊の文殊菩薩像の造立は建長七年(1255)から文永四年(1267)の開眼供養まで12年間を要して獅子の上に乗った巨像がやっと完成しましたが、永徳2年火災にあい、永禄十年(1567)松永久秀の兵火で、またもや七堂伽藍も焼失しました。

般若寺は度重なる戦火の被害に遭いながらその都度再興されて来ましたが、とりわけ明治の廃仏毀釈の時は興福寺と同様、荒廃は特に酷く、そのうえ僧侶は還俗し、石塔は引き倒され、無住の寺と化しました。

しかし、民衆の厚い信仰心と西大寺の応援を得て徐々に敷地も買い戻され、(現在2500坪)境内に徐々に整ってきたのです。

それから僧良光師のもと、昭和39年(1964)の十三重石塔の修復が行われた時に、特筆すべきことが起こりました。それは塔内より、何と白鳳時代の銅造阿弥陀如来立像、仏舎利、宋版法華経、小型五輪塔、小型仏像などが出現したのです。これは驚きでした。

その後は境内の整備も更に進み、花の寺の別名の如く、『春(山吹)、夏(紫陽花)、秋(コスモス)、冬(水仙)』と四季折々の花が咲きました。

重文の本堂には文殊菩薩騎獅像を中心に不動明王、四天王などの各仏像が安置されておりまして、境内の三十三観音石仏、重文の経蔵、重文の笠塔婆など、このお寺は皆が注目する国宝の楼門、十三重石宝塔以外にも古代から綿々と受け継がれてきたいろいろな文物などが深い歴史と感動を与えてくれる寺院となって来ました。
  参考文献: 古寺巡礼奈良 5  般若寺   淡交社 1979年

次回の木津川(泉津)からの中津道の散策も、大和の佐保路に面する東大寺転害門(てがいもん)となると古代の藤原京と平城京の「中ツ道」の領域?と思いつつ訪れる予定です。
                               (郷土愛好家)

2012年04月27日

◆国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったというのが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとして密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がも
たらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、
台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25--
渡部 亮次郎

◆中国の領土拡張戦略による尖閣奪取

渡部 亮次郎


尖閣諸島に関する歴代政府の出方はあまりに弱腰だとして、巷間「日中間に密約があるのでは無いか。そうでなければこの弱腰は理解できない」というものである。

たとえば、ある一流商社マンは最近、私のメルマガ「頂門の一針」で次のような論を展開した。

<尖閣諸島については、日本と中国の外交当局のあいだに、公然の密約があるはずだ。

 (1) 日本人は尖閣諸島に立ち入らず、自衛隊も駐留させない。

 (2) 中国人は尖閣諸島に立ち入らず、中国共産党軍も駐留さ
  せない。

 (3) 領土の帰属は、本気で議論することは避ける。

 (4) 以上の代償として中国はxxxxxxxすること
  (ないしxxxxxxxしないこと)。

日本の外交当局がラクをしたいがために、日本側が百歩しりぞいた密約が結ばれているにちがいない。

そう考えないと、尖閣諸島についての日本政府の異常な弱気さが説明できない。

自国領なのに、自国人が上陸することを取り締まる日本政府。密約なしにはありえないことだ。

密約の相手方は中国政府当局だが、中国はいまや公然の二重権力の軍国主義国家で、政府のコントロールがきかない共産党軍が経済利権にまで踏み込んで勝手に行動する。

共産党軍が密約を破るたびに、中国外交当局はああだこうだと言い訳をしてきたろうが、日本側がものわかりのよすぎるお人よしなものだから、中国外交当局すらいまや密約を守る必要がないと考えるに至ったという
のが、今日の状況だ。

密約を洗い落して、常識あるパワーポリティクスの世界に引き戻すことが、国家間の関係を成熟させることになる。

密約は、日米間にだけ存在するのではない>。

密約があるとしても密約だからして確認は不可能だ。少なくとも福田赳夫内閣が1978年8月に日中平和友好条約を締結した際、帰属確認を迫った外務大臣・園田直に対し、トウ小平副首相(当時)は「棚上げは」提案
したが「合意」はしていない。

1978年10月23日、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても
構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

田中角栄首相も園田外相も「合意」した事実は無いにもかかえあらず中国側は「合意」を既成事実化したしまった。あれ以後、両国は「棚上げ」以上の行動はとっていない。中国側が武力を背景に挑発を繰り返すことによって「既成事実化」に焦っているというのがげんじょうではないか。

「ウィキペディア」によれば、 中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張し
た。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる。

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった。

しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。

政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているものの活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを
無視している。

地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されている。

台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている。

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望むしかないから情けないかぎりだ。

国連は国連憲章第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。

特に安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。しかし、当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否
権をもっている。

第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄
権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在するのは当然だ。

たしかに中国が軍事力でアメリカのそれを上回ったと判断した時、尖閣は収奪される。オリンピックの9年後に、ファッショ国は滅びるという加瀬英明原則を信じたい。       2012・4・25



2012年04月26日

◆「尖閣」から身を隠す米国

渡部 亮次郎


「尖閣」問題にアメリカは如何なる態度をとってきたか。調べる為に「ウィキペディア」にあたってみた。

その結果言える事は安保条約も有りながら、何よりも中国への刺激を避けることを最優先に考えており、私から言えば「アメリカは尖閣問題から常に身をかくそうとしている」との印象である。

1972年5月に、アメリカ・ニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。

同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。

この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。

同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。

この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない)した。

その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。

ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。

ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない
(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。

むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。

つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。

国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。


なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。

つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。

もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たすとし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。

2012年04月25日

◆お助け橋・「新」大橋

渡部 亮次郎

今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡るしかない。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかる。

車だと2Km走って新大橋で隅田川を渡れば日本橋と銀座だ。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

余談だが「川向こう」には韓国という意味もある。日本海を川に見立てるからである。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が運河を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また錦糸町駅周辺の再開発も進んでマンションや高層ビルが建った結果、両国の花火は我が家からは見えなくなって久しい。

東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口はいまや 48万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとはただの「大橋」だった。だから1つ下流は新大橋。

新大橋(しんおおはし)は、東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2丁目・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目(元安宅町)。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。

橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。


「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、

町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩(やすら)うべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m  着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm

2012年04月24日

◆尖閣で騙し続ける中国

渡部 亮次郎


日中国交正常化するとき、1972年9月、田中角栄首相と周恩来の首脳会談で両者が尖閣諸島の帰属問題を話し合ったという発表はなかった。

この時、私はNHKの記者として田中首相に同行したが、会談内容を発表する官房長官二階堂進は「内容は一切発表できません」と繰り返した。

しかし、最近の「ウィキペディア」によると、

<9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うた。

周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べている。

これより1年前の1971年7月28日、日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員(公明党)と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この件は、2010年9月30日に行われた衆議院予算委員会の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する集中審議で取り上げられている(質問者は富田茂之衆議院議員)。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及び、はじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

1978年8月8日、福田赳夫内閣で官房長官から外務大臣に横滑りしていた園田直(すなお)が日中平和友好条約締結への最終交渉のため、特別機を仕立てて訪中。私は記者から彼の秘書官に転じていて随行した。

これに先立ち4月、約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行った。

5月11日には日本の右翼団体「大日本赤誠会」の「尖閣諸島領有決死隊」上陸。日章旗を掲揚。

尖閣諸島の帰属問題では、自民党内でも石原慎太郎ら青嵐会(せいらんかい)が中心で、「帰属問題を解決しない限り、園田外相には平和友好条約には調印させない」と息巻き、福田首相を突き上げていた。

こうした情勢を受けて園田大臣はトウ小平副首相と会談した際、「4月の約100隻の中国漁船による領海侵犯もんだいもあり、この際帰属問題をはっきりさせたい」と提議した。

するとトウ小平はすかさず「この問題は今は棚上げしたい。互いに次世代が知恵をだすだろう」と逃げを打った。園田はなおも食いついたがトウは逃げるばかりだった。

トウはその後、条約の批准書交換のために黄華外相に同行して、この年の秋、日本を初訪問。日本記者クラブで行われた会見の席上で、

「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国(田中首相と周恩来総理)はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れると、はっきり言えなくなる。

こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べた。

だが周恩来もトウ小平も完全に日本政府を騙したのだ。「知恵」なんて少なくとも中国は出さず、とにかく領有の既成事実化だけを焦って、いまでは武力をちらつかせて日本を脅しにかかっている。
文中敬称略             2012・4・22