2015年06月06日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



あなたはアベサダって知ってる?

阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから78年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定は、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・05・13

2015年06月05日

◆七夕の朝に倒れた河野一郎

渡部 亮次郎



半世紀前の話だが、それだけに 先の短い身だから、私が居間ここで証言しておかないと記録に残話になる。昭和40年、自民党の実力者河野一郎は「中曽根クンを河野派から除名する」と 爆弾発言を私にしたまま、翌朝、中目黒の私邸で倒れ、8日に死んでしまった。 

だから「中曽根氏 河野派から除名」という大特種はならなかったわけだが、もし現実のものとなっていたら、中曽根政権はあった老化、と考えたりする。中曽根さんにこの話をしたことはない。

<「中曽根君を除名する!」

         渡部亮次郎

河野一郎さんの命日がまた巡って来る。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため、退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は洋平の長男である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。

2015年06月04日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎



私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の犠牲者?ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるように
なった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。(ウイキペディア)

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2015年06月03日

◆リラかライラックか

渡部 亮次郎


日本語にすると何かしらロマンチックになるのだろうか、アルプスの牧場には楡(にれ)の木に鳥が啼いたり、札幌の時計台には楡の花が咲くと、高校の先輩東海林太郎(しょうじ たろう)が歌っている。

同じように情緒的に歌われるのが「リラ」の花である。長じてヨーロッパへ旅するまでは実物に出会ったことはなかった。ブリュッセルのレストランの庭に紫色の薫り高い花が満開だった。「あれはライラック即ちリラの花だよ」とドイツ育ちの友人が教えてくれた。

吉岡妙子「リラの花かげ」、岡本敦郎(あつを)「リラの花咲くころ」倍賞千恵子「リラの花散る町」、加門 亮「リラ冷えの街」は、みんな「ライラック」を歌っていたのだ。それを知っていたかどうかは無関係だ。リラはフランス語、英語がライラック。

ライラック(Lilac、学名:Syringa vulgaris)はモクセイ科ハシドイ属の落葉樹。ライラックの呼称は英語の仮名転写に由来し、他にフランス語由来のリラでも呼ばれる。和名はムラサキハシドイ(紫丁香花)。

ヨーロッパ原産。春(日本では4―5月)に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく香水の原料ともされる。

日本には近縁種ハシドイ(紫丁香花) (Syringa reticulata) が野生する。開花はライラックより遅く、6―7月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある。

花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達など。

ハシドイの名は、木曽方言に由来する。属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという。

欧州の民間伝承では白い花のライラックを家に持ち込むと不吉なことが起こるとされている。(「ウィキペディア」)2010・7・4

リラ=Lilas、Lilac。そう、リラはライラックの別称ですが、音楽にも乗り安いし、何となく情緒的な叙情的な感じがするから、リラの方が良いでしょう。寺尾智沙・田村しげる夫妻の手によるものですが、白い花の咲く頃より、より抒情的でよりメランコリックな出来上がりになっております。

この作品も岡本敦郎が歌って大ヒットさせました。リラの花弁は白、ピンク、薄紫、紫と色々ありますが、宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」のフランス原曲も実は原詩を訳すと「リラの花咲く頃」。この場合は白いリラの花です。さらに、このフランス曲にも原曲があって、ドイツ原曲の「ニレトコの花が咲く時」というらしいです。ニレトコ(ドイツ)→リラ(フランス)→すみれ(日本)となったわけです。リラの花咲く頃

   JASRAC Code No.094−2028−2

   リラの花咲く頃
    
作詞:寺尾智沙
   作曲:田村しげる
   歌唱:岡本敦郎
   MIDI制作:滝野細道

   1.リラの花が 胸に咲く今宵
     ほのかな 夢の香に
     ああ 思い出の あの囁き
     遠く遥かに 聞こえ来るよ


   2.リラの花が 胸に散る今宵
     やさしく 手を組し
     ああ 過ぎし日の あのメロディー
     霧の彼方に 流れ行くよ


   3.リラの花が 胸に哭く今宵
     はるばる 別れきて
     ああ 懐かしの あの面影
     ひとり狭霧の 小径(みち)を行くよ

2015年06月02日

◆駅弁大学の日5月31日

渡部 亮次郎


秋田県に大学は無かったが、占領軍によって各県に1つは国立大学を置くべきだとの考えから秋田師範学校と秋田鉱山専門学校が合併する形で秋田大学が出来た。昭和24年5月31日である。

新制国立大学設置法がこの日、公布されたことに伴うもので、この日、全国で68もの国立新制大学が発足。国立山形高等学校は格下の山形師範学校と一緒にされて山形大学となった。

北隣の青森県・師範学校と国立弘前(ひろさき)高校を一緒にして青森ではなく弘前大学とした。青森大学はその後出来た私立大学である。

同時に東京では東京商科大学は一ツ橋大学、東京女子高等師範学校がお茶の水大学と改称された。

占領米軍は対米戦にいたる軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足を指摘し、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになったわけだ。

しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。

とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。

その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。

そこで辛口論評を得意としていた評論家の大宅壮一がこれを諷して「急行の停まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言した。

かつての進学校生徒などが「地元の駅弁を出て、でもしか教師になり、気楽な一生をすごすのさ」などと使うのが、典型的な用例であった。先生に「でも」なろうか、先生に「しか」なれない人を称して「でもしか先生」と揶揄した。


戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。

この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになった。

その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。

なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。

一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。

その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。

これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。

大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。

「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないか。

主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」(小樽、東京、神戸)などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。

1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い各地の帝国大学は改称し、学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。

その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各旧制大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学
も無くなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年06月01日

◆ジャガイモで命拾い西欧

渡部 亮次郎


16世紀に南米からヨーロッパにもたらされたジャガイモは当初はその見た目の悪さ(現在のものより小さく、外皮も黒かった)からなかなか受け入れられずにいた。

さらに民衆は、ジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるという理由で「悪魔の作物」として嫌った。

しかし、ヨーロッパで栽培される主要な作物よりも寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、17世紀にヨーロッパ各地で飢饉が起こると、各国の王はジャガイモの栽培を広めようとした。

とくに冷涼で農業に不適とされたアイルランドや北ドイツから東欧、北欧では食文化を替えるほど普及した。

またアメリカ合衆国など北米地域や日本などアジア地域にも普及し、ジャガイモが飢餓から救った人口は計り知れないといわれる。

2005年にはジャガイモの原産地の一つであるペルーが国連食糧農業機関(FAO)に提案した「国際イモ年(IYP International Year of Potato)」が認められ2008年をジャガイモ栽培8000年を記念する「国際イモ年」としてFAOなどがジャガイモのいっそうの普及と啓発を各国に働きかけた。

<イングランド>

ジャガイモがヨーロッパにもたらされた当初、ヨーロッパには芋という概念が無かった。そのため、芋というものを食べると分かるまで、本当は有毒である葉や茎を食用とする旨が書かれた料理本がイングランドで出版され、それを真に受けたイングランド人がソラニン中毒を起こした。

<アイルランド>

アイルランドでは栽培の容易さや収量の為だけではなく、征服者のイングランド貴族が熱心に勧めたことにも原因があった。ジャガイモの栽培を増やして農民がそれを食べるように仕向ければ自分達が収奪する麦の分量が増えると考えてのことである。

結果としてアイルランドでは主食としてジャガイモが非常に重要になった。このため1840年代にジャガイモの疫病がヨーロッパに蔓延した際に、ジャガイモに依存していたアイルランドではジャガイモ飢饉が起こり、大勢のアイルランド人が北アメリカに移住することになった。

その移民の中に後に第35代アメリカ合衆国大統領になるジョン・F・ケネディの曽祖父・パトリックがいたのはよく知られている話である(ケネディはパトリックの次男の孫、すなわち4代目である)。


<ドイツ>

ドイツ料理にはジャガイモが多用される。ドイツでジャガイモが普及したのはプロイセンである。プロイセンの支配地であるブランデンブルク地方は南ドイツなどとは違い寒冷で痩せた土地が多くしばしば食糧難に悩まされた。

そのため荒地でも育つジャガイモは食糧難克服の切り札とみなされ、フリードリヒ大王が栽培を奨励した。しかし、他のヨーロッパ諸国同様、不恰好な外見から人々から嫌われた。そのためフリードリヒ大王は自ら範を垂れ、毎日ジャガイモを食べたという。


<フランス>

フランスでは、王が王妃にジャガイモの花を飾って夜会に出席させると、貴族は関心を持った。 しかし食用としては他の国々の例に漏れず、当初は民の間で嫌われた。

ジャガイモを国に広めたいと思った王は一計を案じ、自分が作らせたジャガイモ畑に昼間だけ衛兵をつけて厳重に警備した後、夜はわざと誰も見張りをつけなかった。

王がそこまで厳重に守らせるからにはさぞ美味なのだろうと考えた民の中から、夜中に畑にジャガイモを盗みに入る者が現われた。結果的に、王の目論見通りジャガイモは民衆の間に広まって行ったという話が残っている。

<北朝鮮>

北朝鮮では、90年代の後半から食糧危機が発生したが、この時政府(朝鮮労働党)は「ジャガイモ農業革命」を提唱してジャガイモの生産拡大を、同時に種子改良(種子革命方針)、二毛作方針を徹底した。

朝鮮中央放送では「偉大なる指導者金正日同志は、ジャガイモは白米と同等であるとおっしゃった」などと報道しており、平壌にはジャガイモ料理専門店が開店したとも報じている。

行き過ぎた二毛作によって、土地の栄養分が不足する事態も発生しているといわれているが、白米に比べて、気候や土地に依存せず大量に生産できるジャガイモにより(連作障害などによる弊害もあるが)、北朝鮮の食料危機はある程度の解決をみた。
出典:ウィキペディア 

2015年05月31日

◆園田直のサバイバル論

渡部 亮次郎


園田直(そのだ・すなお)は昭和59(1984)年の4月2日に70歳で死んだ。九州・天草の村長から代議士となり、衆議院副議長、厚生大臣、官房長官、外務大臣2期、再度厚生大臣に続いて3期目の外務大臣を務めた後3年して死んだ。病名は腎不全。

ところでこの人は、戦場に11年もいた。しかも日本陸軍落下傘部隊第1期生、天雷特別攻撃隊(いわゆる神風特攻隊)隊長を経験した。

そのかん中国、東南アジアで銃撃戦を体験し、最後の特攻隊では原爆を積んだアメリカの艦船に体当たりすべく飛び立つ予定だったが天候不良に阻まれ、では17日に飛べ、と言われたが15日に敗戦、万事休すであった。

その経歴をみて気づくのは彼ははじめから「死」を求めて戦っていたことである。それなのに生き延びたのだ。それだからこそ、戦場においていかに死の恐怖を乗り越え、いかに部下を統率すべきかをよく聞かされた。

私がNHK政治記者を辞めて彼の秘書官になったのは、そういう彼の戦争哲学に酔わされたためだった。秘書官になってからは出張先の外国のホテルのスイートで、従いてきた外務省の役人が夜は勝手に遊びに出掛けたあと、自身、酒を呑めないものだから、大酒呑みの私に自らウイスキーの水割りを作ってくれながら話をした。初め、私42歳、彼は65歳であった。

 1.ジャングルで道が2股に分かれている。右に行こうか、左にしようか。部下たちが一様に注目する。私も判断がつかない。私が敵だったらどうするかと考えると、来て欲しい道は来て欲しいように整えるだろう。

そうだ整備されてない道を行こう。それが正しかった。良い道の先では敵が待ち構えていた。初めはそれが判らず失敗した。それで会得した。だから失敗を恐れちゃいかん。

2.代議士になってすぐ今で言う不倫を野党の女性代議士と起し、相手を妊娠させた。どうするか。事態から逃避できないわけじゃないが、あえて妻と離婚しこの代議士と結婚した。

随分非難されたが、選挙区の女性は好意的だった。事件への対処の仕方が真面目だ、というものだった。そのせいか以後も落選しなかった。

 3.逃げる時は一番先に逃げなきゃいかん。2番目は撃たれる。トーチカ(ロシア語。コンクリートで堅固に構築して、内に銃火器などを備えた防御陣地=広辞苑)にこもって敵と対峙する時がある。

膠着状態だな。最後にいざ出て逃げようとした時、初めに出た人は助かるが、2番目の奴は必ず足を撃たれる。相手は あ、逃げた、撃てというが、今まで長い事、待っていたものだから、あ、と一息ついちゃうんだね、一番の奴はそれで逃げられるが、二番手は足を撃たれる事になる。

だから何でも逃げる時は一番先に逃げなきゃ駄目さ。戦場では日中条約を遅疑逡巡する福田さん(当事の首相)のような人の態度はダメだ。遅疑逡巡していては戦争は出来ない。

部下の信頼を得られない。それと、弾というのは逃げる奴を追ってくるような気がするよ。弾に対してこちらが向かっていけば弾が俺を避けたよ。

 4.野戦では、弾の流れが見えているうちは大丈夫だよ。見えなくなったらコトだ。そうだろう、こっちに向かっている弾は点になるもの。点になって初めて緊張すればいいんだ。初めから構える事はないのさ。部下にバカにされるよ。

戦争とか喧嘩とかは常時、緊張しているわけじゃない。いわゆる戦機というものが必ずある。その時だけ緊張すればいいのさ。あとは風の吹くまで待とう風車。

 5.どんなに今のようなコンピューターが付いたって、大砲の射手は連続して同じ着弾点に命中さすことは不可能だよ。だから、さっきの弾の炸裂した穴に飛び込めば、弾には当たらない。「弾に向って進めば弾がよけてくれる」と言ったな。一番良くないのが逃げること。

そのうちに部下たちも心得たものだ、みんなそうするようになって1人も戦死者が出なかった。逆にいえば人生、同じ失敗を2度繰り返すのはかなり難しいものだということでもあるね。

 6.ある時、士官学校出の若い隊長が着任した。いやに張り切っとる。ダダダダダ。いきなり敵が撃ってきた。隊長、上がってしまった。「あれは敵か、味方か」そればっかり。士官学校では銃の撃ち方は習ってきたが撃たれ方は習うわけがない。

それが着任と同時に撃たれたのだから舞い上がって仕舞うのは当然だ。撃った事はあるが撃たれた事はない。ところが、こっちだってどっちの弾かわからん。でたらめに「あれは味方でございます」といってやったらフッとため息をついてたっけ。まだ22か3だものね。

角さんが幹事長、私が国対委員長のとき佐藤総理が法案の採決強行が遅いと角さんをどなりつけたらしい。おまえ何とかなだめてくれと言うからなだめてきた。

「総理、今日は仏滅、明日は大安」と言ったら総理は「そうか」と納得した。角さんが「ほんとにそうか」と聞くから「わしゃ知らん」と言ってやった。要は総理が採決の延期を納得すればいいわけだから、理屈はいらん。

 7.ある隊長は銃撃戦のさなか、先頭に立とうとするが、戦死されて困るのはこっちだから、みんなは「隊長、そこでは危のうございます」と言うばかり。士官学校出が危ないと言われて引っ込むわけに行かない。ますます弾に身を晒そうとする。

仕方ないから出て行って「隊長、そこじゃ戦況が良く見えません、どうぞこちらへ」と岩陰に案内したらため息をついていた。そんなもんさ。誰でも怖いものは怖いんだよ。

 8.角栄は俺のことを「俺は人を殺した事は無い」と言う。殺したくて殺す奴なんかいないよ。殺さなければ殺されるから殺すんだ。戦争好きなんているのかね。

 9.人間は何時死ぬか分からないから生きていられるんだよ。癌で余命幾許も無いと宣告されて自殺する人居るじゃないか。すぐ死ぬのに。特攻隊でも「明日出動」の命令がくだった途端、クビを吊る奴がいたよ。何時死ぬか分からないから生きていられるんだとつくづく思ったね。

逆に言えば明日とわかってなお生きている奴は大変なものだ。オレはそこらに落ちているちり紙を拾い、他人の鼻をほほにこすり付けていた。それに「生」を感じ取ったのだろう、と思い返すね。

最後に国会対策も女口説きも戦争と同じ、違うところは弾と口説と言ったので、顔を見た。戦争は人間をかくも鍛えるものか。

ガン治療の蓮見ワクチンの蓮見博士から「喉頭ガンの疑い濃厚です」と診断された帰り、車の中では高鼾だった。真実は糖尿病による腎臓の機能低下を死神が捕えたのだった。

田中角栄は国民要求の最大公約数を即座に実行して人気を得た。園田氏の頭脳は同じぐらい良かったが、ただ言ったりやったりすることに奇策が多かったので、並みの人は従(つ)いていけなかった。だから派閥を作れなかった。日本の政治家として唯一最大の欠陥だった。(再掲)

2015年05月30日

◆マスコミは金儲けだけ

渡部 亮次郎



最近のインターネット界ではマスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで

全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。79歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーがはなれて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元職員の会社が多い。勢い本部の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。

2015年05月28日

◆「風立ちぬ」の命日

渡部 亮次郎



5月28日。名作「風立ちぬ」の作者。20世紀の業病(号病)肺結核をモチーフにし、肺結核に倒れた堀辰雄の命日である。今から61年前、1953(昭和28)年のことだった。

「風立ちぬ」という松田聖子のアルバムもあるが「立ちぬ」という感傷的な語感を借りただけで、堀の作品とは無関係である。

堀 辰雄(ほり たつお)のことを知ったのは中学生の頃で、兄が読んでいたのを勝手に読んだのかも知れない。死去した時は既に高校2年生。関心は別のところに変わり、その死は知らなかった。

堀 辰雄は 明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町(現在は東京都千代田区)で生まれた。 最終学歴は東京帝国大学国文科。

東京府立三中から第一高等学校へ入学。入学とともに神西清と知り合い、終生の友人となる。

高校在学中に室生犀星や芥川龍之介とも知る。一方で、関東大震災の際に母を失うという経験もあり、その後の彼の文学を形作ったのがこの期間であったといえる。

東京帝国大学文学部国文科入学後、中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、プロレタリア文学派と芸術派という、昭和文学を代表する流れの両方とのつながりをもった。

1930(昭和5)年に『聖家族』で文壇デビュー。 このころから肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多くのこしたことにもつながっていく。

1934年、矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所にふたりで入院する。しかし、綾子はその冬に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となった。

この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用している。このころから折口信夫から日本の古典文学の手ほどきを受ける。

王朝文学に題材を得た『かげろふの日記』のような作品や、『大和路・信濃路』(1943年)のような随想的文章を書き始める。また、現代の女性の姿を描くことにも挑戦し、『菜穂子』(1941年)のような、既婚女性の家庭の中での自立を描く作品にも才能を発揮した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の中にも多くの支持を得た。また、堀自身も後進の面倒をよく見ており、立原道造、中村真一郎、福永武彦などが弟子のような存在として知られている。

戦争末期からは症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信濃追分で闘病生活を送った。

代表作「風立ちぬ」は1936(昭和11)年から執筆、『改造』などに分載されたのち38年4月野田(のだ)書房より刊行。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」とバレリーの詩句の引用をもって始め、リルケの『鎮魂歌(レクイエム)』をエピローグに置く。

高原療養所とそこから山一つ隔てた「K村」とを舞台に、婚約者節子の病床に寄り添い、やがて彼女に先だたれていく「私」が、死にさらされた自分たちの生の意味と幸福の証(あかし)とを模索し、ついにそれらについての確信を得ていく過程を描く。

婚約者矢野綾子の死という自らの痛切な体験を、詩情あふれることばのなかで昇華し永遠の生の思想を訴えかけてくる点において、堀文学の代表的名作となっている。

昭和28( 1953)年5月28日信濃追分(現・長野県北佐久郡軽井沢町)で死去(満48歳没)    出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月27日

◆木津川だより 相楽神社 A

〜 郷土の式内社 〜                

白井 繁夫



式内社「相楽神社(サガナカ)」は、古代の郡名(旧相楽郡木津町:現木津川市)を負っているところから、相楽地方の中心的神社の一つと考えられて来ました。

木津川沿いの左岸に在り、水陸交通の要衝として、重要な大和の玄関港「泉津」の地に佇み、外交にも関係する神社でした。

重要な拠点に在る神社と云われた訳は、藤原京、平城京建設に必要な膨大な資材等が木津川の水運を利用して、全国から「泉津」へと集められ、陸揚げ仕分けされて、木津の浜(奈良街道)や吐師の浜(歌姫街道)から大和へ運びだされたからです。

例えば、藤原京建設の檜材の場合:近江の田上山(たなかみやま)大神山の峰々(大津市田上)から宇治川経由で檜を筏に組んで木津川を遡上し、泉津まで運び大和飛鳥へ陸送されました。

天武天皇は壬申の乱後、中国の唐の都を参考にした「都城」(新しい律令国家に相応しい都):藤原京建設のプランを立てたのですが、我が国最初の条坊制を布いた本格的な都城「藤原京」の完成は、夫の遺志を継いだ持統天皇から文武天皇まで要した、大事業になりました。

「都城」は、飛鳥淨御原宮から694年藤原京へ遷都して、10年後の704年やっと完成したのです。

奈良時代の泉津(木津)は平城京の外港として整備されました。

その結果、相楽地方の重要度が更に高まり、相楽神社近くには郡役所である相楽郡衙(大里付近)や大寺院(東大寺、興福寺等)の木屋所等が出来ました。政府の泉木屋所では領(うながし)が塩、海産物なども取り締まっていました。

泉津の周辺は、中央官司や大寺院の荘が建ち並び、川船が頻繁に出入りし繁栄しましたが、
陸上交通の場合も、平城遷都後の幹線道路網は奈良盆地の南起点から平城京中心に再編されました。

和銅4年(711)正月、各幹線道路には岡田駅(うまや)などの諸駅が設置され、北へ向う東山道と北陸道は泉津で木津川を渡るようになりました。律令制支配の深まりと共に、交通量も増加し、渡河点(泉津)の重要性はさらに増してきました。

この相楽村の産土神は同時にここを通る旅人の安全も守る神社でもありました。

祭神 足仲彦命(仲哀天皇) (たらしなかひこのみこと)
   誉田別命(応神天皇) (ほむだわけのみこと)
   気長足姫命(神功皇后) (おきながたらしひめのみこと)
  (武勇の神でもある、八幡神を祭祀しているので、「八幡宮」と呼ばれてきたのです。)

★相楽神社の有形文化財

相楽神社本殿  明治44年(1911)重要文化財に指定されました。
   室町時代初期に造営:三間社流造檜皮葺(さんけんやしろながれつくりひわだぶき)
   本殿は技法から南北朝期の建立と推測されています。身舎(もや)正面の欄間や蟇
   股(かえるまた)の透彫などを初め各所に秀麗な建築彫刻が施されています。
 
若宮神社本殿(末社) 昭和60年 京都府登録文化財に指定されました。
   室町時代後期に造営:一間社春日造檜皮葺
   相楽神社本殿の左(南側)にあり、室町後期の古式を留めている造営です。
   末社は他に南側に3社、北側に2社、拝殿の南側に豊八稲荷社が祀られています。 

その他
 氏子より寄進:
手洗石 ... 旱魃で苦しみ雨乞い祈願が成就 寛政5年(1793)
   鳥居  ... 大坂での商い成功       元禄14年(1701)
        氏子が信じる神の加護に感謝し、寄進された礼物です。
 
無くなった建造物:
   神宮寺(不動寺) 明治の廃仏毀釈の結果、廃寺となり境内から撤去
(昔からの土着の神教と伝来の仏教との神仏混淆が廃止されたのです。)
   能舞台      明治29年、鎮守の森の東部を小学校用地に提供した結果、
            大正6年倒壊 現在は礎石のみ (台風の破壊力に敗北)
 
南座籠所の南側にあった鐘撞堂からの朝夕の鐘の音も、不動寺の廃寺と共に消えました。
相楽神社所蔵の大般若経600巻(欠巻11巻)の僧の声明も唱えられなくなりました。
しかし、鳥居をくぐり、神社に参詣する神社正門は古式豊かな四脚門の寺院形式を留めており、南山城地区の神社では、貴重な遺産です。

★相楽神社の無形民俗文化財

「相楽神社」の宮座は南北両座合わせて、9座90人の十人衆が輪番で、一老(又は二老)が当番神主(宮守)となり、宮座祭祀を執り行ってきました。昔は宮座の上部に「一族:帯刀を許された郷侍.郷士」がいて、秋の大祭の場合、流鏑馬等の神事を采配していました。

その後、一族は江戸時代末、文化3年(1806)以降、藤井.吉田の二姓のみになり、権力も弱まり、流鏑馬も無くなりました。代わりに宮座(村方)から「競べ馬」が奉納されました。しかし、現在はそれも有りません。

「相楽神社」の行事として、無形民俗文化財に指定されている正月行事「豆焼:降水量占」や「御田祭:豊作祈願」、2月1日の「餅花祭」、秋の大祭等に関して大変ユニークな祭事の伝統文化を綿々と伝えてきています。

それらの文化は次回につづけます。

参考資料: 木津町史 本文篇  木津町
      相楽の民俗    京都民俗学談話会 南山城調査会

2015年05月25日

◆沖縄での米軍訓練の実態

渡部 亮次郎



私は通常では絶対見ることのできない、米軍基地での訓練の実態を詳しく見た経験が有る。沖縄特派員(NHK)だった時期があるからである。

作家の石原慎太郎が参院選挙に出馬、300万票をとって最高点で当選した(7月7日)昭和43(1968)年。この後の11月10日には沖縄で初の主席(知事)の公選が行なわれ、NHKから特派員として私が旅券をたずさえて派遣された。

言うまでも無く、昭和43年は沖縄の悲願とされた「祖国復帰」は実現していない。日本にとっては「外国」だったから、私がパスポートを所持した所以である。

したがって出張旅費もドル。私は1日40ドルを支給された。1ドルは360円。360×40=14,400(円)。大名旅行だった。なぜなら下宿代(2食、6畳間)が1日5ドル、タクシー雇い上げ代1日10ドル。残り25ドルは使い道なし。

とはいえ、選挙情勢を探るのに、何処へ行けばいいか、皆目見当が付かない。何しろ琉球(当時は沖縄県ではなかった)選挙管理委員会で「開票状況の速報体制はどうなっておりますか」とたずねたところ、「速報って何ですか」と言う答え。

投票が済めば、結果は投票箱を何時空けても同じ。慌ててあける必要は何処にも無い、と実に哲学的な答え。繰上げ投票など、何でする必要がありますか。ダメダコリャ。

妙なのだ。雇い上げたタクシーを毎日、ナショナル電気洗濯機とわき腹に書いたワゴンが決って尾行してくる。問いただしたらアメリカ政府の高等弁務官の依頼で私の24時間を監視しているのだ、とアッケラカンと白状する現地人。

昨夜は何処のバーで何の銘柄のウイスキーを何杯呑んだか、ホステスを誘惑したか否かも米軍は把握しているという。なぜならホステスそのものがスパイに仕立てられているからだという。

言論自由のアメリカ、けしからんと弁務官に抗議。「ミスター・ワラナベ 不都合な記事を載せた新聞は那覇空港で検束すれば済むが、NHKの電波は検束できない。だから発信元を監視する以外に手段がないのです」とあっけらかん。

「これも何かのご縁ですから、我々の訓練を視察なさいますか「といってIDカードを呉れた。その時瞳の色を問われて「黒」と答えたら「黒は琉球人、日本人はブラウン(茶褐色)ですと訂正された。

基地の名前を忘れたが、たしかキャンプ・コートニーだったと思う。ジャングルの中を進むと、細い道の向こうに盛り上がったところがある。合理的に考えれば地雷。避けて通ると、よけたところにこそ地雷。頭が早くも混乱。

掘り抜き井戸がある。予め射撃で破壊。安心して通りぬけたら後ろから撃たれた。ベトコンはかねて射撃を予測。井戸に横穴をくりぬいて隠れていたのだ。文明人を端から信用どころか、バカにしているのだ。

先に掘っ立て小屋がある。焚き火して湯を沸かしていたようだ。逃げられた直後らしい。徹底的に射撃したあと近付くと薪の山の中に自働射撃の銃が隠されていて撃ってきた。

喉がからから。「戦友」に貰ったコーラで潤し、空き缶をポイと捨てたら、それが火炎ビンとなった返ってきたではないか。これでは文明的な生活に慣れたアメリカ人は価値観の余りな違いに戸惑い、終いにノイローゼになる人が出て当然とのことだった。

専門家ではないからよく分からないが、合理主義と物量のアメリカは、間もなくヴェトナムから敗退した。

なお琉球主席選挙の予測は4万票差で野党統一候補の屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏が当選。その通りとなった。投票前日に東京へ送った私の電話をアメリカ軍はちゃんと録音していた。

2015年05月24日

◆ペンシルロケット

渡部 亮次郎


1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。

東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に従いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそ
いだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城(いわき)町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月に県の大館市へ転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者こそ出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は鹿児島県内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪、東京と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2015年05月23日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007年10月24日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町によく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名された。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えながらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25執筆 再掲

(池部良は2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。92歳没)

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