2012年07月14日

◆3度の失脚と復活

渡部 亮次郎


私は中国については国交回復のとき記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うトウ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

トウ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたトウ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、トウ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

いずれ広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後1977年7月に生涯3度目の復権を果たす。

中国では政治家や軍人の動静や異動についていちいち発表がないから、在中日本大使館といえどもトウ小平3度目の復活の確認作業をどのようにしていたかは知らない。

しかし、個人的に廖承志氏とのパイプを維持していた官房長官(当時)園田直氏は早くに知っていた可能性がある。日中平和友好条約の締結に極めて積極的だったからである。

日中国交回復してから既に5年になろうと言うのに両国の政治・経済関係の憲章となるべき日中平和友好条約が中国側の頑なな態度によってなかなか締結できない。その中にあって福田内閣の官房長官園田直だけが早期締結を唱えて自民党内右派の非難を浴びていたほどだ。

77(昭和52)年7月に復活したトウ小平は、秋には党副主席、78年春には第1副総理、全国政協主席に選出された。一方の園田は77年11月には官房長官から外務大臣に追われて就任。

そこで中国育ちの武道家をしばしば旧知廖承志の許(もと)に派遣。その結果、中国政府がトウ小平副総理の下、条約の早期締結にカジを切り替えたことを確認する。

私は外相秘書官とはいえ、元は一介の政治記者であり、特に外交については素人である。

だが、条約締結の見通しについて福田総理と園田外相の間に決定的なミゾの広がりだけは痛感するようになっていた。トウ小平の存在を知った外相と全く知らない総理。総理には外務省情報しか入っていない。

トウ小平の胸には既に経済の改革開放路線が出来上がっており、そのためには日本の資本と技術の導入が不可欠であり、更にそのためには日中平和友好条約の早期締結が不可欠だったのだ。日本外務省はそこを読めなかった。

中華人民共和国は共産主義国家であるが、それは極端な独裁的人治国家であることを見抜いていなかった。トウ小平が以後1997年2月19日の死に至るまで中国を振り回す人物であることを見抜けなかった。

3度の失脚、3度の復活。地獄から這い上がったと思ったら失脚。さながらジェットコースターのような人生の中で人生と人間と言うものの本質をやや究めた人物トウ小平。彼は毛沢東を乗り越えた。

毛は死体となっても水晶の箱で薬品漬けで君臨しているようにしているが、トウの遺骨は胡錦濤の手で上空に撒かれて墓はない。文中敬称略 参考:ウィキペディア他

2012年07月13日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎


私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の?犠牲者ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。私には酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるようになった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。
(ウイキペディア)


2012年07月09日

◆恥を知れルーピー鳩山

渡部 亮次郎


外国へ行って母国を批判したら、その国の人に笑われる。まして首相まで務めた人が北京まで出かけて、何をとち狂ったか野田内閣の悪口を吐いた。今頃、北京中が笑っていることだろう。

若い頃、外務省で数年、大臣秘書官を務めたことがある。と言っても外交に直接携わったわけじゃなく、いわば党人である外務大臣の与党内の地位を守る仕事をしただけだったが、官僚からたった一つ教えられたことがある。「外国へいって自国内閣の悪口をいってはならない。その国の国民の失笑を買う」だった。

それはそうだろう。当に「天に唾する」行為、笑われるのが当然なのだ。

鳩山という元総理大臣はアメリカではルーピーと馬鹿にされているそうだが今度、北京では「馬鹿」を中国語でなんと言うのだろうか。

<不信任案同調の可能性も 鳩山氏、北京での講演で示唆

民主党の鳩山由紀夫元首相は7日、北京で講演し、野田内閣不信任決議案が提出された場合の対応について「政策的には同調したい部分もあるが、簡単に結論を出せる状況でもない」と述べ、同調する可能性を否定しなかった。

野田佳彦首相の政権運営に関し「民主党の本来の政策とは懸け離れてしまっている。同意できないところがたくさんある」と強調。同時に「不信任案は、野田首相だけでなく民主党のこれまでの歩みに対して不信任という形になるので慎重な判断も求められる」と指摘した。>
(産経ニュース 2012.7.7 21:17)

2012年07月08日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部 亮次郎


(再掲」)河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。

奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。

翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、 NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05

◆解散時期は自民党次第

渡部 亮次郎


ジャーナリストの先輩、元共同通信常務古澤 襄さんが有力な政治情報「10月臨時国会 11月総選挙」を掴んで教えてくれた。

<自民党筋によると、野田首相周辺は11月総選挙を想定した「話し合い解散」を打診してきているという。野田首相は10月にも臨時国会を召集し、景気対策のための2012年度補正予算案を成立させた後に解散、11月総選挙を想定している。

現状で早期の解散・総選挙に踏み込めば、民主党内の混乱で大敗することも予想されるので、9月の党代表選での野田再選を行い、党内体制を固めたうえで、10月に臨時国会を召集し、景気対策のための2012年度補正予算案を成立させたいというのが首相周辺の考え方。>

これについて古澤さんによると自民党内の受け止め方は二つに分かれている。

<谷垣総裁は消費増税法案の成立に協力した後は、今国会中の衆院解散を求めて内閣不信任決議案や首相問責決議案の提出も検討している。早期の総選挙が自民党にとって有利という判断があるから、11月選挙は「事実上の解散先送り」と反発している。9月の党大会で谷垣再選を狙っている。

党内の長老クラスには11月総選挙を想定した「話し合い解散」に乗る空気がある。11月総選挙になっても自民党に有利な政治情勢は変わらないという選挙情勢判断があるうえ、民主党と喧嘩別れした状態で政権を握っても、参院で自民党は多数派を形成していないから、野田政権以上に困難な政局運営を強いられる。

政権の安定化を図るためには、自民・民主・公明三党の提携を軸とした政治図が欠かせないというのが長老クラスの政局観となっている。突き詰めれば「9月の党大会で谷垣再選」は眼中にはない。

小沢新党が立ち上がった後は、解散時期をめぐる自民党内の動きに焦点が移る。>

いうなれば解散・総選挙の時期を左右するのは自民党の党内情勢次第ということに裏ではなりつつあるらしい、ということなのだ。

党内で、谷垣総裁は総選挙に勝ったうえで総裁再選をはたしたいから、必死に早期解散を要求し、「少し下品だ」という党内の批判さえ出ている。

これにたいして森喜朗氏ら長老組みは「11月で結構」と悠長な構え。谷垣が嫌いなので。人事にしろ何にしろ、相談に来ない谷垣を再選させる気などさらさらないのだ。

こうした臭い話は所謂小沢政局にかくれて表面に出てこなかったが、実情はかなり深刻らしい。
2012・7・7

2012年07月06日

◆福島原発事故は「人災」

渡部 亮次郎


若き中曽根康弘と老獪 正力松太郎が組んではじめたわが国の原子力発電。

資源というものの無いわが国にとっては太陽にも替わる存在だった。友人がこの世界のPRに関係しているので、誘われて原発の現場を視察して「安全神話」を叩き込まれてきた。

しかし神話はウソだった。津波の無い国で設計したものを、津波に素っ裸にさらした福島原発。東京電力も経済産業省も「危険」はとっくに承知していたはず。それなのに彼らは国民をだましていたのだ。

ばれてみれば馬鹿げた話では無いか。福島原発の敷地はもともと海抜50mの高台だった。だから今度の津波でも絶対、大丈夫のはずだった。それなのに津波に呑まれたのは、高台をわざわざ削り取って低くしていたからである。

建設工事の資材を海から荷揚げするのに不都合だと、簡単に削り取ってしまったのである。ここまでだけでも「人災」は明らかである。

<福島原発事故は「人災」=官邸介入で被害拡大―国会事故調が報告書

東京電力福島第1原発事故を検証してきた国会の事故調査委員会(委員長=黒川清・元日本学術会議会長)は5日、「事故の根源的要因は『人災』で、政府、規制当局、東京電力は人々の命と社会を守るという責任感が欠如していた」とする報告書を公表した。

報告書は約640ページ。事故の背景として、「これまで何度も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局と東電経営陣が先送りしてきた」とした上で、「今回の事故は自然災害ではなく、明らかに『人災』だ」と断定した。

また、事故直後の対応について、経済産業省原子力安全・保安院の機能不全や東電本社の情報不足に不信を募らせた首相官邸が、現場に過剰に介入したと指摘。「重要な時間を無駄にしただけでなく、指揮命令系統の混乱を拡大した」と批判し、「事故の進展を止められず、被害を最小化できなかった最大の要因」と述べた。> . 時事通信 7月5日(木)14時23分配信

2012年07月03日

◆石原氏や維新に嫌われる小沢新党

渡部 亮次郎


何処からも祝われないまま、小沢一郎氏がまた新党を立ち上げる。彼が新党を立ち上げるのはこれで何度目か。数え切れない。民主党に入り込んで政権を手にしたら、もう嫌気がして、また新党なのだ。

しかし、読売新聞が2012年7月1日12時56分に報ずるところによれば、彼が新党の提携相手に考えている石原都知事や橋下大阪市長の維新は否定的だという。

<民主党の小沢一郎元代表が結成を目指す新党は、50人超の規模となる見通しだ。

小沢氏が狙っているのは、次期衆院選で「小沢新党」と他の地域政党などが緩やかに連携する「オリーブの木」による政権獲得だが、展望は開けていない。

小沢氏は、次期衆院選について「オリーブの木みたいな形でやればいい」と周辺に語っている。

連携相手は当面、「新党大地・真民主」(鈴木宗男代表)や、地域政党である愛知県の「減税日本」(代表・河村たかし名古屋市長)、「日本一愛知の会」(会長・大村秀章知事)とみられる。

さらに、石原慎太郎東京都知事を担ぎ出す「石原新党」や、関西圏を中心に国民的関心が高く、民主・自民2大政党と対抗する「第3極」の中核になる可能性がある「大阪維新の会」(代表・橋下徹大阪市長)との連携にも、熱い期待を寄せている。

小沢氏は28日にグループ議員を集めた会合で、「自分の皮膚感覚では、反増税で選挙をやれば国民の共感を得られる」と語ったという。原子力発電所へのエネルギー依存の是非も争点に据えれば、「反増税・反原発」の政治勢力を結集できる、という読みも働いているようだ。

しかし、維新の会幹事長の松井一郎大阪府知事は、小沢氏との連携に「政策など異なる点が多く、一緒になれない」と否定的だ。

石原都知事も、28日収録のラジオ「ニッポン放送」の番組で、「小沢氏の作る新党には誰も期待しない。(連携は)死んでも厭だ」と語った。

30日には訪問先のシンガポールで、尖閣諸島購入計画を「やりかけた仕事だ」とし、石原氏は当面の新党結成を否定した。>

2012年07月01日

◆民主分裂へ…小沢氏ら2日離党

渡部 亮次郎


輿石が民主党の分裂に恐れおののいているのは、分裂すれば民主党は参議院で第1勢力から脱落する結果、己の「参議院議長」の夢が絶たれるからであることが暴露された。

その夢を絶たれないよう、小沢と2日も会談する予定らしいが、すでに小沢自身、知恵の無いことを暴露しているから会談を何度やっても問題は先に進まない。

それを見てとったかのように野田首相は30日、小沢ら造反者の処分に敢えて触れ2日には厳正処分の方針を明らかにすると表明した。これで輿石も道を断たれ、小沢は離党せざるを得なくなった。

<民主党が、2日に分裂することが確実となった。

野田首相は30日、社会保障・税一体改革関連法案に関する26日の衆院本会議採決で反対票を投じた小沢一郎元代表ら造反議員に対する処分問題で、2日に党役員会を招集して処分を発議する意向を表明した。

輿石幹事長による小沢氏への慰留工作を事実上打ち切る考えを示したものだ。小沢氏も党内にとどまることは不可能と判断、離党届を同日提出して新党結成に動き出す方針で、離党者の規模は衆参合わせて50人超にのぼる見通しだ。

首相は、東京・内幸町の帝国ホテルで開かれた読売国際経済懇話会(YIES)で講演し、小沢氏らの処分について「役員会で発議をし、常任幹事会で承認・決定し、倫理委員会に諮る。来週早々にも役員会を開く」と述べた。

「党のルールにのっとって厳正に対処する。私も役員会に出て方向性を出す」として、自ら処分を主導する考えを表明した。>
読売新聞 7月1日(日)3時21分配信

しかし、離党、新党結成でも小沢に展望は無い。「連合」の支持を失っ無党派層」の支持に期待をかけているようだが、各種世論調査では小沢支持は10%台にすぎない。その政治力に国民は一致して疑問を持ち出している。それなのにそれに気づこうともしないその無神経さにあきれているのだ。

「消費税を上げる前になすべきことがある」と言うのが野田首相への反対理由だが、自身、鳩山政権の幹事長時代「政府の無駄を絞れば16・8兆円ぐらいすぐ出てくるといいながら出せなかったではないか。
                        (文中敬称略)

◆造反に「厳正対処」と野田首相

渡部 亮次郎


輿石が民主党の分裂に恐れおののいているのは、分裂すれば民主党は参議院で第1勢力から脱落する結果、己の「参議院議長」の夢が絶たれるからであることが暴露された。

その夢を絶たれないよう、小沢と2日も会談する予定らしいが、すでに小沢自身、知恵の無いことを暴露しているから会談を何度やっても問題は先に進まない。

それを見てとったかのように野田首相は30日、小沢ら造反者の処分に敢えて触れ2日には厳正処分の方針を明らかにすると表明した。これで輿石も道を断たれ、小沢は離党せざるを得なくなった。

<野田佳彦首相は30日昼、都内で開かれた読売国際経済懇話会で講演し、消費増税関連法案の衆院採決で造反した民主党議員の処分に関し、「党のルールにのっとって厳正に対処するのが基本的な方針だ。来週早々にも役員会を開き、私も出席するつもりだ。そこで方向性を出す」と述べ、7月2日の役員会で処分案を示す考えを表明した。

民主、自民、公明3党による修正合意を見直す可能性について、首相は「あり得ない。できるはずもない」と明確に否定。

民主党の輿石東幹事長が小沢一郎元代表との会談で見直しに言及したとの一部報道に関しては「(3党合意を)修正するかのような話は(輿石氏からは)全くしていない。処分の軽い、重いの取り引きもしていない」と説明した。

首相は、消費増税に反対する小沢氏らを念頭に「先送りをすればするほど将来世代に負担を残す」と強調。「(小沢グループの)『増税の前にやるべきことがある』との言葉は響きのいい言葉だが、そう言い続けて今まで来たのではないか」とも語った>。【時事通信】 2012/06/30-13:58〔情報収録 − 坂元 誠〕

しかし、離党、新党結成でも小沢に展望は無い。「連合」の支持を失った後を「無党派層」の支持に期待をかけているようだが、各種世論調査では小沢支持は10%台にすぎない。その政治力に国民は一致して疑問を持ち出している。それなのにそれに気づこうともしないその無神経さにあきれているのだ。

「消費税を上げる前になすべきことがある」と言うのが野田首相への反対理由だが、自身、鳩山政権の幹事長時代「政府の無駄を絞れば16・8兆円ぐらいすぐ出てくる」といいながら出せなかったではないか。
                        (文中敬称略)

2012年06月30日

◆輿石氏、憂鬱のワケ…「参院議長」の夢

渡部 亮次郎


粘り「過ぎる」輿石幹事長、と考えていたが、その理由は全く別のところつまりは「参議院議長」になるという、私利私欲にあった。それを6月30日の産経が暴いている。

これを小沢氏はしりながら、時間稼ぎの間、己の権勢を何とか広げようとずるい考えをしているわけだ。野田総理は二人に虚仮にされているわけだ。

<【民主分裂】輿石氏、憂鬱のワケ…「参院議長」見果てぬ夢 6人離脱で民主−公明ラインも「水の泡」

小沢一郎元代表との会談を終えた輿石東幹事長は記者団に、結論を週明けに持ち越したことを明かした「輿石さんから『月曜日まで待ってくれ』と言われたんだけど中身がないんだよな」

29日夕、民主党の輿石東幹事長と約40分間の会談を終えた小沢一郎元代表は、衆院議員会館の自らの事務所に戻ると側近議員にこう明かした。

3度目の会談でも輿石氏は「とにかく党を割りたくない」の一点張り。かといって小沢氏が求める消費税増税法案撤回はさすがにのめない。

ある党幹部は「もう歩み寄る余地はないな」とこぼした。確かにこれ以上小沢氏らを慰留しても野田佳彦首相に得はない。にもかかわらず輿石氏が恥も外聞も捨て小沢氏にすがりつく理由は別にある。

参院(定数242)は衆参ねじれにより野党が過半数を占めるが、最大会派はなお「民主党・新緑風会」(104議席)だ。ところが、19人以上が小沢氏に同調して離脱すれば、第2会派「自民党・たちあがれ日本」(86議席)を下回り、参院のパワーバランスは大きく崩れるからだ。

そうなると、議長は第1会派から選出するのが慣例であり、輿石氏の悲願である議長就任は一気に遠のく。来年夏の参院選で民主党が第1党に返り咲くことも期待できないだけに「輿石議長」は見果てぬ夢となる。

それだけでは済まない。

民主党と国民新党(3議席)に公明党(19議席)を合わせると126議席で過半数を上回る。実はこれが水面下で公明党に協力を呼びかけるテコになってきた。

衆院選挙制度改革で公明党は比例代表への連用制導入を熱望するが、自民党の反対で宙に浮いたまま。そこで輿石氏は民主、公明で成立させる密約を結び、協力を取り付ける青写真を描いていたのだ。

人事院を廃止し、公務員に労働協約締結権を付与する公務員制度改革関連法案の存在も大きい。民主党の集票マシンである連合は今国会での成立を厳命するが、自民党の協力は期待できない。これも国会終盤で民主−公明ラインで押し切る算段だった。

ところが、民主党から6人が離脱するだけでこの構想はご破算となる。そうなれば、公明党は、自民党と手を組み一気に倒閣に舵(かじ)を切る公算が大きい。

ある意味では、55人以上が離党しない限り、与党過半数を維持できる衆院よりも事態は深刻だといえる。

言うまでもなく「参院のドン」を気取っていた輿石氏の権威も地に落ちる。輿石氏が首相の意向を踏みにじっても「党内融和」を唱え続けた理由が透けてみえる。

もちろん小沢氏もそのへんの事情を熟知している。すでに参院民主党13人分の会派離脱届は手中に収めた。「ゴネればゴネるほど譲歩を引き出せる」。そう思ったからこそ輿石氏の会談要請に何度も応じているのだろう。

29日の会談前も小沢氏はご機嫌だった。側近が「地元の反応はいいです」と報告すると「そうか、よかったな!」と満面の笑みを浮かべ、日に日に憔(しょう)悴(すい)する輿石氏をこう気づかってみせた。 「輿石さんをあんまり責めるのも気の毒だからなあ…」

(坂井広志)「産経ニュース」 2012.6.30 00:02


2012年06月29日

◆ロマンに満ちた鰻の生態

渡部 亮次郎


ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態をとる。

従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

少年の頃、作家火野葦平がそれをテーマにした小説を毎日新聞に連載し、熱心に読みふけったものだった。しかし、今となっては題名すら思い出せない。ネットで捜したが分からなかった。

火野は53歳で急死したが、のちに服毒自殺と公表された。

鰻の話である。

2006年2月、東京大学海洋研究所の教授・塚本勝巳をはじめとする研究チームが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。


これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認された。。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6-7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

2008年6月および8月には、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが、同じくマリアナ諸島沖の水深200-350 mの範囲で、成熟したニホンウナギおよびオオウナギの捕獲に世界で初めて成功した。

雄には成熟した精巣が、雌には産卵後と推定される収縮した卵巣が認められた。また、水深100-150 mの範囲で、孵化後2-3日経過したと思われる仔魚(プレレプトケファルス)26匹も採集された。

さらに、プレレプトケファルスが生息する層の水温が、摂氏26.5-28度であることを初めて確認した。この結果から、比較的浅いスルガ海山の山頂付近ではなく、もう少し深い中層を遊泳しながら産卵をしているという推定を得ることができた[。

この推定を基に、塚本らの研究チームが周辺海域をさらに調査したところ、2009年5月22日未明、マリアナ海嶺の南端近くの水深約160メートル、水温が摂氏約26度の海域で、直径約1.6 mmの受精卵とみられるものを発見。

遺伝子解析の結果、天然卵31個を確認した。天然卵の採集は世界初である。同時に、卵は水深約200 mで産まれ、約30時間かけてこの深さまで上がりながら孵化することも判明した。

さらに同チームでは、2011年6月29日学術研究船白鳳丸に搭載したプランクトンネットを用いて、産卵直後から2日程度経過した147個の受精卵の採取に成功した。

新月の2-4日程度前の日没から23時の間、水深150-180 mで産卵されたと推定される。卵から2-3日で孵化した仔魚はレプトケファルス(葉形幼生、Leptocephalu s)と呼ばれ、成魚とは異なり柳の葉のような形をしてい
る。

この体型はまだ遊泳力のない仔魚が、海流に乗って移動するための浮遊適応であると考えられている。レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、扁平な体から円筒形の体へと形を変え「シラスウナギ」となる。

シラスウナギは体型こそ成魚に近くなっているが体はほぼ透明で、全長もまだ5 cmほどしかない。シラスウナギは黒潮に乗って生息域の東南アジア沿岸にたどり着き、川をさかのぼる。

流れの激しいところは川岸に上陸し、水際を這ってさかのぼる。川で小動物を捕食して成長し、5年から十数年ほどかけて成熟する。その後ウナギは川を下り、産卵場へと向かうが、その経路に関してはまだよく分かっていない。

海に注ぐ河口付近に棲息するものは、淡水・汽水・海水に常時適応できるため、自由に行き来して生活するが、琵琶湖や猪苗代湖等の大型湖沼では、産卵期に降海するまで棲息湖沼と周辺の河川の淡水域のみで生活することが多い。

また、近年の琵琶湖等、いくつかの湖沼では外洋へ注ぐ河川に堰が造られたり、大規模な河川改修によって外洋とを往来できなくなり、湖内のウナギが激減したため、稚魚の放流が行われている。(「ウィキペディア」)
                     

2012年06月26日

◆わが兄 81歳の死

渡部 亮次郎


我が兄、渡部誠一郎が2012年6月24日、入院先の秋田市中通病院で肺炎の為、12時05分に息を引き取った。81歳だった。自分では「夢枕に立った親父がお前は87まで生きるよといっていたよ」と言っていたのに6年も早く死んでしまった。痛恨の極みだ。

6月5日が81の誕生日だった。祝いの心算でかけた電話に出たのは嫂の玲子だった。「実は肝臓膿腫で入院しています」というので驚いた。5月27日からだという。

嫂の説明では肝臓に膿のたまる病気だそうで、針で吸いとる気長な治療を受けているということだった。しかし、昔の人流に言えば、夢見が悪いので気にしていたが、当日12時15分頃、弟からの携帯電話で12時05分誤嚥下による肺炎のため死亡したと知らせてきた。

昭和6年6月5日早朝、父慶太郎 母鈴江の第2子、長男として誕生した。どういうわけか学校の成績が抜群に良く、両親は渋ったが、県立秋田中学に合格した。

また陸上競技部に入り、長距離ランナーとして活躍。夕方、帰宅してからも走りこんでいた姿が瞼の裏に残っている。

学校はその後、学制改革により秋田高校となったが、卒業までの3年間通して学年首席で通した。しかし家が貧しく、兄弟も多かったので、東大医学部に行き医者になるという夢はあきらめるしかなかった。

仕方なく近くの五城目中学校で代用教員をつとめていたが、間もなく地元紙「秋田魁(魁)新報」の取材記者に採用されてジャーナリスト生活を始めた。

彼の高校卒業から4年後、間違って私も秋田高校に合格したが、そこで出合った五城目中学出身者は皆、兄の教え子で成績優秀だったので、なんとなく嬉しかった。

そういえば中学時代、私は中学で野球の選手になった。ある日、五城目中学と対戦したら兄があちらの監督だった。私はたしか三塁打を叩きつけたように思う。兄は後で「あの時は参ったぜ」といっていた。

兄はその後論説委員長、常務取締役を歴任。次は専務かとおもったが、先に交通事故に遭って左目を失明していたこともあって奨めをことわって退職してしまった。

趣味とてなく、退職後は退屈だったとおもうが、よく、入院はした。肝内結石で手術2度。結石は胆嚢が融けてなくなったため行き場を喪った胆石が肝臓に入り込んだものだった。

1か月入院して石は除去したが、退院前の念入りの撮影をしたところ、肝臓の中にもう1個石が有るとわかって再手術。私なら医者をなぐるところ。短気な兄はよく我慢した。

このときの手術で胃癌が発見されて全部摘出、更に頭蓋骨を2度開けている。くも膜下出血予防の為だったが、初めの手術が失敗したためのやり直し手術をした。

私よりさきに糖尿病を発症。今年にはいってから「低血糖」で緊急入院したようだ。

それが良くなって退院したと思ったらこんどは肝臓が痛くなって再入院しらべたら肝のう胞だった。

私はじめ多すぎるほどの兄弟姉妹に足を引っ張られたために出世できなかった兄。良く頑張った。ありがとう。静かに眠って下さい。

2012年06月25日

◆巴里だより ジョギングする人が増えた

岩本宏紀(在仏)


今日は出張で巴里に来ている。
メトロに乗るためにチュイルリー公園のそばに来ると、
少なくとも5,6人のジョギングする男女。

初めて巴里に来たのは1980年、今から32年前。
その頃はまだジョギングという言葉も知らなかった。
もちろん巴里で走っている人は一人も見なかった。

初めて住んだのは1992年。西郊外サン・クルー。
大きな公園やセーヌ、さらにブローニュの森から遠くない町だが、
ジョギングする人はまれだった。
フランス人に言わせると、走るのはアメリカ人で、フランス人は走らないよ、とのこと。

ここ数年走る人が本当に増えた。
それに連れてシューズ、ウェアの店が多くなったのに驚く。

写真は1年前のゆめ。
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