2012年12月02日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎


日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなかった。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからである。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部になると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪された前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘された。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官として日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといって田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れた。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたのだ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図していた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼としていたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていたのである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論もなしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなったように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのときは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇するためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪ってしまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。

2012年11月30日

◆干拓された懐しの八郎潟

渡部 亮次郎


秋田県南秋田郡大潟(おおがた)村は、昭和32(1957)年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きい”八郎潟”(はちろうがた)という湖だった。東沿岸の飯田川町に生まれた私は子の汽水湖特産の蜆貝を潜って捕るために水泳ぎを自然に覚えたものだ。

八郎潟は、男鹿市船越(ふなこし)で日本海とつながっていて、淡水と海水がまじるから汽水湖だった。そのため、淡水と海の両方の魚がとれた。八郎潟のまわりの町や村の人々は、美しい”潟”の景色を眺めながら、漁業や農業でくらしていた。

ワカサギ・シラウオ・フナ・ハゼ・ボラなど、淡水の魚と海の魚をあわせて約60種類もの魚がたくさんいた。潟のまわりには、約3000人もの漁民が生活しており、春から秋には船で網を引き、冬には氷を割って網をかけ、いろいろな道具を使いながら、たくさんの魚をとっていた。

また、工場で佃煮をつくる人もたくさんいた。このように、八郎潟は、まわりの町や村の人々に多くの恵みを与えていた。しかし、雨が多い時などは、岸の近くの人々に水害をもたらすこともあった。

干拓は海産物に恵まれなかった秋田では、八郎潟の水産資源はかけがえのないものだった。また、秋田では昭和23(1948)年頃になると米の自給体制が終わっていていた。

しかし、日本全体としては食糧難という事情があった。

干拓への計画

八郎潟周辺では、昔から、いろいろな人が干拓をして土地をつくることを考えていた。江戸時代には、払戸(ふっと)村(若美町)の渡部斧松(わたなべ おのまつ)という人が、岸の浅い場所を干拓して田を造っ
た。

明治時代には、島義勇県令(県知事)がはじめて大がかりな干拓計画を立てたが、実行できなかった。大正、昭和にはいると、こんどは国の力で干拓しようと、何度も計画を立てたが、戦争が始まり、実行できなかった。

昭和20年、長く続いた戦争が終わり、日本全国が大変な食糧不足になった。そこで、今度こそ八郎潟を干拓して広い土地をつくり、米を作ることになった。

しかし、漁業をやっている人々は、魚が捕れなくなるので反対した。そこで、漁業をやっている人々には、お金でつぐなったり、干拓した土地を与えたりすることで賛成してもらった。私の父の「干拓運動」もやっと実を結んで終わった。

私の祖父は日露戦争に駆り出されたが、その留守の間に、家督を継いでいた兄が氷上漁業中、氷が融けて流され水死していた。祖父が家督を継いだ。その長男が私の父慶太郎だが、若いころから八郎潟干拓論を唱えて奔走。「ワタケイ バカケイ」といわれたものらしい。

私は長じてNHKの政治記者になり、当時の「実力者」河野一郎の担当記者になったが、元農林大臣の河野さんは八郎潟かんたくろんじゃの「バカケイ」を知っていたので父のことを改めて思ったものだ。

干拓が始まる

昭和27(1952)年7月、秋田県庁に八郎潟干拓調査事務所が発足し、干拓の計画づくりが始まった。

調査計画には、国の土地の約2分の1が干拓地というオランダから応援してもらうことになった。昭和29年に、オランダのデルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が計画について報告した。この年の春、私は大学入学のため秋田を後にした。

昭和29年の世界銀行、翌30年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められた。昭和31年に農林省でオランダの協力を得て、今の大潟村を作るための計画ができあがった。

昭和32(1957)年、いよいよ干拓工事が始まった。最初は八郎潟の内側に堤防をつくり、南部都北部の排水機場も作った。堤防に使う石をとるために、八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。

昭和38年に堤防や排水機場などができてから、堤防でかこまれた中の水をかき出した。さらに2年後の昭和40年、すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15,600ヘクタールの陸地になった。この面積は、一辺が100mの正方形の15,600倍もある広さ。

この干拓工事は、当時の最も進んだ科学技術の力で行われ、延べ約300万人もの人々が働き、20年におよぶ歳月と852億円の巨費を投じ、20世紀の大事業と言われるほどの大きな工事だった。

ヤンセン教授 (1902-1982)

日本滞在中は、八郎潟だけでなく全国の干拓地を見てまわった。

干拓をするためには、台風や洪水などの自然災害に遭わないよう、工期を短くすること、そのために徹底した調査と設計の必要性を説いた。

フォルカー技師 (1917-2000)

干拓地に村をつくる

干拓でできた新生の大地に、いよいよ村をつくることになった。村の名前は、全国から募集して、「大潟村」と決定。この名前は、八郎潟のことを昔「大潟」とよんでいたことから。

村の誕生日は、昭和39(1964)年10月1日。そのころ、無数の貝殻でおおわれた大地があらわれはじめた。干拓で陸地になったと言っても、村には何もなかった。大潟村に住む人々が安心して暮らせるように、その後、道路や田んぼ、用水路や排水路、それに家やいろいろな建物が少しずつつくられた。


村民の入植

大潟村は、広い農地で大型機械を使った新しい農業のモデルをめざし、たくさんの食糧を生産するためにつくられた村。入植する村民は、全国から募集した。入植した人々は、試験を受けて合格し、1年間、入植指導訓練所で新しい農業の勉強をした。

それから家族といっしょに大潟村に住むことになった。このようにして、北は北海道から南は沖縄まで、全国38の都道県から589戸の農家の人々が入植した。また、農家だけでなく、他の職業の人々も住むようになったのは当然。

新しい農業 

全国から入植した人々は、希望にもえて新しい農業に取り組んだ。しかし、もともと湖の底だった土地は、ヘドロというたいへん柔らかい粘土でできた土。そのため、大きなトラクターやコンバインが土に埋って動かなくなったり、ヘリコプターで田んぼに直接種をまいても失敗したりして、たいへん苦労した。

そこで村の人々は、力を合わせて一生懸命頑張った。そのかいがあって、今では、たくさんの米もとれるようになったし、麦や豆、カボチャなども作られるようになりました。また、たいへんおいしいと評判のアムスメロンやリンゴも作られるようになった。

ac.ogata.or.jp/kantaku/kantaku.htm  2012・11・26

2012年11月27日

◆ホスピスで死んだ船木

渡部 亮次郎


必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた。

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということだ。最近も高校の同級生船木克己君が膵臓癌のため秋田市内のホスピスで死んだ。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

モルヒネ (morphine モルフィン、モヒともいう) はアヘンに含まれるアルカロイドで麻薬のひとつ。モルヒネからは依存性のきわめて強い麻薬、塩酸ジアセチルモルヒネがつくられる。

塩酸塩・硫酸塩は鎮痛・鎮静薬として種々の原因による疼痛(とうつう)の軽減に有効であるが、依存性が強い麻薬の一種でもあるため、各国で法律により使用が厳しく制限されている。

名前の由来は、ギリシア神話に登場する夢の神モルペウス (Morpheus)。夢のように痛みを取り除いてくれることから。

医療では、癌性疼痛をはじめとした強い疼痛を緩和する目的で使用される。モルヒネは身体的、精神的依存性を持つが、WHO方式がん疼痛治療法に従いモルヒネを使用した場合は、依存は起こらない。

しかし16年前に義母が末期癌で危篤状態になったときは、その病院の若い医師はWHO方式癌疼痛治療法のことを知らず、元厚生大臣秘書官として教えてやって、やっと義母を阿鼻叫喚から救うことができた。

医療とは人間の苦しみを救うものと広く考えれば、見込みのない患者を痛みを感じない状態で終末に導く、いわば死ぬ医療も大切なことであるはずだ。

薬剤の剤形としては錠剤、散剤、液剤、坐剤、注射剤があり、それぞれ実情に応じて使用される。

軍事用途でも、戦闘の負傷による強い疼痛を軽減する目的で、主に注射剤の形で使用され続けている。資格を持った衛生兵だけが携帯でき、トリアージを行っている間に投与処置を行うこともある。

モルヒネの副作用には依存、耐性のほか悪心嘔吐、便秘、眠気、呼吸抑制などがある。便秘はほぼ 100%、悪心嘔吐は 40%?50% の症例でみられる。眠気はモルヒネ使用開始から1週間の間にみられ、その後は自然に改善することがほとんどである。

1804年、ドイツの薬剤師フレードリッヒ・ゼルチュルナー ( FriedrichSerturner ) により、初めて分離される。モルペウスにちなみ、モルフィウム ( morphium ) と名づけた。

しかし、1853年の皮下注射針の開発までは、モルヒネは普及しなかった。鎮痛の為に用いられ、また、アヘン・アルコール中毒の治療として用いられた。

南北戦争ではモルヒネは広く使用され、軍人病(モルヒネ中毒)による40万人を超える被害者を生み出した。また普仏戦争において、同様のことが西欧で起こった。

1874年に、ヘロインはモルヒネを材料に生成された。ヘロインが使用され始めるまでは、モルヒネは一般的に最も誤用された麻薬性鎮静剤であった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年11月25日

◆習近平は中共最後の国家主席

渡部 亮次郎


先日のには誤植があったので、校正して再掲します。

「習近平は中共最後の国家主席」と国際政治学者の藤井厳喜氏が11月15日付けの新聞「青年運動」に執筆している。「ウィキペディア」によれば、藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日―)は、日本の国際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。

東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締
役。

論文の要旨を紹介するが、国家主席就任に先立って「最後の主席」と論じ「共産中国の終焉」を指摘したのは藤井論文が初めてである。

「秦帝国は万里の長城建設のために崩壊した。「中共 は海洋国家を目指した為に滅亡する」と言っている。

「中共体制の崩壊を物語る兆候は、あらゆる分野で噴出している。貧富の差の拡大による暴動の多発、富裕層の海外への逃避、止むことのない共産党幹部の腐敗、闇雲な軍事的膨張主義、国内の環境汚染の深刻化、等々、数え上げればきりがない」

「最も強烈に中共体制の命運が尽きたことを思わせるのは、遂に胡金錦濤指導部が第18回共産党大会で、建国の父・毛沢東の思想を党の規約から外す動きを見せていることだ」

「経済発展を重視するトウ小平理論が党の基本方針となって来た。

その結果、貧富の格差が広まってしまった現在では、毛沢東の革命思想は極めて危険な反体制の思想となりうるからである。毛沢東の作った党が毛沢東思想を否定し、共産党が共産主義思想を否定するのである。これ程明々白々且つ巨大な矛盾は存在しない」

「今日のシナにもし若き毛沢東がいたならば、彼は間違いなく共産党を打倒しようとするに違いない」

「過日の反日デモでは、毛沢東の写真を掲げて“打倒共産党”というプラカードが出現するまでに至った。毛の写真を掲げながら“薄煕来を人民に返せ”と叫ぶデモ参加者も目撃されている。共産党幹部は薄煕来を失脚させた上、遂に大衆の毛沢東思想まで禁止せざるを得なくなったのである。

「あらゆる帝国の崩壊に共通したパターンが存在する。それは帝国の版図が最大限に達した時に、帝国の崩壊が始まるという法則である。拡大しすぎた帝国を維持するためには膨大なメンテナンスコストが必要となるが、このコストに押しつぶされるかたちで帝国は滅亡への道を歩み始める」

「本来は大陸国家(ランドパワー)の中国が南シナ海に進出し、更に尖閣列島を含む東シナ海を侵略しようとしている。航空母艦を中心とする海軍機動隊まで編成して海洋国家(シーパワー)になる為に必死の努力を続けている。」

「冷徹なる地政学の法則に従えば、ランドパワーがシーパワーに変身する事はあり得ない」

「中共にとっての空母機動部隊は、秦帝国にとっての万里の長城となるであろう。万里の長城は完成したが、建築に国力を使い尽くしたため帝国はたちまちのうちに崩壊した」

「中共は経済的にあらゆる無理を押し通して軍拡に邁進しているが、その負担が支配体制を蝕む深刻な病弊と化してゆくだろう。ソ連邦はアフガニスタンに侵攻し、その版図を最も拡げた時から崩壊のプロセスが始まった。尖閣侵略や台湾併合は、シナ共産党の終わりの始まりを告げる予兆である」

習近平の任期は向こう10年。それまでに中華人民共和国はおかしくなっているという「予言」である。              2012・11・13

2012年11月24日

◆知らなかったさるかに合戦

渡部 亮次郎


自宅で昼食のあと、卓上に柿と梨を並べて食べていたら家人が突然「柿梨合戦じゃなかった、あれはさるかに合戦か。そういえばどういう筋書きだっけ」ときかれて私は知らなかった。

父は八郎潟干拓運動で留守勝ち、母は独りで農耕と家事にてんてこ舞いとあっては猿蟹合戦を子どもたちに聞かせる何処路じゃなかった。或いは猿蟹合戦そのものを知らなかったかもしれない。

さるかに合戦。江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』。古典の絵巻で「さるかに合戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる。さるかに合戦(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺害し、殺された蟹の子供達に仕返しされるという話。「因果応報」が主題。

あらすじ(地方などにより色々あり)

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は厭がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。

そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

『猿蟹合戦絵巻』より、子供の蟹たちの敵討ちの場面。本作品では臼、蛇、蜂、荒布、包丁が集まっている。その子供の蟹達は親の敵を討とうと栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せた。

栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをして猿は火傷をおい、急いで水で冷やそうとしたら蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとしたら牛糞に滑り、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

現代では蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されたものが多く出回る。これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためである。

しかし、本来の内容を復活させるべきという声も多く上がっている。タイトルが「さるかに話」などといったものに変更されている場合もある。また、牛糞は登場しない場合もある。

近代日本を代表する小説家である芥川龍之介は蟹達が親の敵の猿を討った後、逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いている(題名は『猿蟹合戦』)。

また、1887年に教科書に掲載された『さるかに合戦』にはクリではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃している。また、牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしている。

地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在する。

なお、近年の派生作品としてはパスティーシュを得意とする作家清水義範による「猿蟹合戦」をネタに司馬遼太郎の文体を真似たパロディ小説『猿蟹の賦』及び丸谷才一の文体を真似たパロディ評論『猿蟹合戦とは何か』や、漫画家吉田戦車による中国の少数民族に伝わる同様の説話「ひよこの仇討ち」と「猿蟹合戦」をヒントにした作品『武侠 さるかに
合戦』などがある。

家人は「あなたも政界に当てはめて何か書いてみたら・・・」というが、政界は猿ばかりだから、起きるのは「あてつけ」ばかり。書く気が起きない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
                    2012・11・22

2012年11月21日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎


経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだから起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げている。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して緊張感を高めるよう求めた。>時事通信 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているから起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならない。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。 2012・11・20

2012年11月20日

◆納豆OK「プラザキサ」なのに

渡部 亮次郎


納豆食べても大丈夫!ワーファリンに代る脳卒中予防の新薬ダビガトラン(商品名:「プラザキサ」)承認

血管を詰まらせる血栓をできにくくして脳卒中を予防する新しい抗凝固薬の製造・販売が厚生労働省から承認され、2011年4月から国内で発売された。私も2012年4月から服用し始めた。

従来薬「ワーファリン」は、納豆を食べると効かなかったが、新薬は食べ合わせなどの影響はない。

独製薬大手べーリンガーインゲルハイムが開発した「プラザキサ」(成分名ダビガトラン・エテキシラート)。血液を固めるトロンビンという酵素に直接作用する。

心臓病の一種の「心房細動」(不整脈)の患者が1日2回服用すると、従来薬よりも35%、脳卒中や全身性塞栓症の発症が減る。

1950年代から使われているワーファリンは、心房細動後の脳卒中予防のほか、人工関節や人工心臓弁の装着など血栓ができやすい手術の後に欠かせないが、血液中の凝固成分を増やすビタミンKの作用を抑える薬なので、納豆やクロレラなどビタミンKを豊富に含む食品は禁忌だった。

畏友石岡荘十さんは心臓手術をしているのだが、無類の納豆好き。我慢し切れなくて食べたら、ワーファリンの効き目はたちどころに消えてしまったそうだ。だから石岡さんにとって「プラザキサ」の発売は実に待ち遠しいものだった。ところが、弁膜症経験者にはまだ許可がでないのは残念至極。

さりながら実は新薬だから医師は厚生労働省の指示で1回に処方できるのは2週間分だけだったが、2012年4月からは指示が消えた。

もともとワーファリンは抗凝固薬として脳梗塞の予防などに用いられていて、脳梗塞の発症は、心房細動(不整脈)などの「心原性」と「非心原性」の2つに大別される。

非心原性にはアスピリンやクロピドグレル、シロスタゾールなどの抗血小板薬が、心原性には抗凝固薬の投与が推奨されている。

これは、心原性脳塞栓症については、大規模臨床試験の結果から、抗凝固療法の効果が抗血小板療法の効果を上回ることが明らかにされているためだそうだ。

ダビガトランは、経口直接トロンビン阻害剤で、血液凝固カスケードの下流にあるトロンビンを阻害して抗凝固作用を発揮する。NEJM誌電子版に報告された大規模臨床試験によって、ワーファリンの代替として有用であることが明らかになった。

ワーファリンは、食べ物や他の薬物の影響を受けやすい上に、個人による変動が大きいため、プロトロンビン時間国際標準比(PT-INR)をモニタリングしながら、至適用量を決める必要がある。だからせめて1ヶ月1回の採血検査も欠かせない。

ところがプラザキサは治療域が広く、凝固モニタリングの必要性がないことや、肝臓の薬物代謝酵素の影響を受けにくいこと、早期の効果発現などの点で明らかにワーファリンよりも優れている。

ワーファリンは安価だが、凝固モニタリングの費用などを考えると、経済的にも「プラザキサ」が優れている。

一昨年発刊された「脳卒中治療ガイドライン2009」では、心房細動を原因とした脳梗塞が含まれる心原性脳塞栓症については、ワーファリンが第一選択薬として推奨されている。しかし、この「プラザキサ」や現在、開発が進められているファクター?a阻害剤などが次々に出てくるので、このガイドラインも近々変わるだろう。

心原性脳梗塞の予防薬としてはワーファリンが唯一の経口剤だったが、!)納豆などの食品、薬品に対する相互作用が多い?感受性に個人差があり、血中濃度の安全域が狭く、定期的な採血検査を必要とする。など制約が多い薬だった。

これに対して「プラザキサ」は納豆などのビタミンKに対する制約もなく、採血をし、血液凝固能を測定する必要もない。今までワーファリンのマイナスとされていた部分の多くを克服している。

またワーファリンとの比較試験ではワーファリンよりも有効性が高く、大出血のリスクは有意に低かったという結果が出ている。
しかし、よい点だけではない。問題のひとつとしてワーファリンに対して薬価が高いこと。プラザキサの標準量1回150mg1日2回だと132.60×4=530.4円/日、ワーファリン1mgが1錠9.7円なのでかなり値段が上がる。

60日分が3万円強。高齢期後半は1割負担だからそれでも3000円強。しかもなぜか尿酸値が急上昇したため、納豆向こう2ヶ月間禁止を言い渡された。

2012年11月15日

◆習金平は中共最後の国家主席

渡部 亮次郎


「習金平は中共最後の国家主席」と国際政治学者の藤井厳喜氏が11月15日付けの新聞「青年運動」に執筆している。「ウィキペディア」によれば、藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日―)は、日本の国際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。

東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。

論文の要旨を紹介するが、国家主席就任に先立って「最後の主席」と論じ「共産中国の終焉」を指摘したのは藤井論文が初めてである。
「秦帝国は万里の長城建設のために崩壊した。「中共 は海洋国家を目指した為に滅亡する」と言っている。

「中共体制の崩壊を物語る兆候は、あらゆる分野で噴出している。貧富の差の拡大による暴動の多発、富裕層の海外への逃避、止むことのない共産党幹部の腐敗、闇雲な軍事的膨張主義、国内の環境汚染の深刻化、等々、数え上げればきりがない」

「最も強烈に中共体制の命運が尽きたことを思わせるのは、遂に胡金錦濤指導部が第18回共産党大会で、建国の父・毛沢東の思想を党の規約から外す動きを見せていることだ」

「経済発展を重視するトウ小平理論が党の基本方針となって来た。
その結果、貧富の格差が広まってしまった現在では、毛沢東の革命思想は極めて危険な反体制の思想となりうるからである。毛沢東の作った党が毛沢東思想を否定し、共産党が共産主義思想を否定するのである。これ程明々白々且つ巨大な矛盾は存在しない」

「今日のシナにもし若き毛沢東がいたならば、彼は間違いなく共産党を打倒しようとするに違いない」

「過日の反日デモでは、毛沢東の写真を掲げて“打倒共産党”というプラカードが出現するまでに至った。毛の写真を掲げながら
“薄煕来を人民に返せ”と叫ぶデモ参加者も目撃されている。共産党幹部は薄煕来を失脚させた上、遂に大衆の毛沢東思想まで禁止せざるを得なくなったのである。

「あらゆる帝国の崩壊に共通したパターンが存在する。それは帝国の版図が最大限に達した時に、帝国の崩壊が始まるという法則である。拡大しすぎた帝国を維持するためには膨大なメンテナンスコストが必要となるが、このコストに押しつぶされるかたちで帝国は滅亡への道を歩み始める」

「本来は大陸国家(ランドパワー)の中国が南シナ海に進出し、更に尖閣列島を含む東シナ海を侵略しようとしている。航空母艦を中心とする海軍機動隊まで編成して海洋国家(シーパワー)になる為に必死の努力を続けている。」

「冷徹なる地政学の法則に従えば、ランドパワーがシーパワーに変身する事はあり得ない」

「中共にとっての空母機動部隊は、秦帝国にとっての万里の長城となるであろう。万里の長城は完成したが、建築に国力を使い尽くしたため帝国はたちまちのうちに崩壊した」

「中共は経済的にあらゆる無理を押し通して軍拡に邁進しているが、その負担が支配体制を蝕む深刻な病弊と化してゆくだろう。ソ連邦はアフガニスタンに侵攻し、その版図を最も拡げた時から崩壊のプロセスが始まった。尖閣侵略や台湾併合は、シナ共産党の終わりの始まりを告げる予兆である」

習金平の任期は向こう10年。それまでに中華人民共和国はおかしくなっているという「予言」である。          2012・11・13



2012年11月14日

◆竹島「密約」のあった時代

渡部 亮次郎


韓国のビジネスマン(政治経済学博士)が日本語で「竹島密約」という本を書き、2008年11月、東京の出版社「草思社」から出版した。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について(共に領有を主張しない)という密約があったことを喝破する本である。

この事実は韓国でも広く知られているので韓国政府も大衆も共に焦っている動機でもあるらしい。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月、日韓基本条約が締結された際、先立って1月11日、日本側河野一郎国務大臣と韓国の丁一権国務院総理との間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事の無い文字通り「密約」なのだ。

当時、この事実を日本側でオフレコで、河野氏から聞かされていた政治記者は4人いたが皆死去し、生き残りは私だけになってしまった。

著者のジャーナリストはロー・ダニエルさん。2008年の夏、突然の来訪を受け、東京中央郵便局の8番スポットで初対面し、その後江東区内のレストランで焼酎を酌み交わしながら、当時を偲んだ。

平成6年2月  Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
平成18年9月 (社)東アジア平和投資プログ
平成21年6月(財)未来工学研究所 研究参与
平成23年4月日文研外国人研究員就任(〜平成24年3月)

ダニエルさんは既に2007年3月19日発売の韓国の総合雑誌「月刊中央」(中央日報社発行)4月号に概要を発表。

それを基に産経新聞が、2007年3月20日付けで「竹島棚上げで合意」国交正常化前”密約“存在韓国誌が紹介と言う見出しで、「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名独島]に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論煮は異議を唱えないとの”密約“があったーーと報道。

更にこれに基づいて鈴木宗男代議士が、竹島密約に関する質問主意書(平成19年3月26日提出)を提出。日本政府は「合意があったとは理解していない)と答弁、一応否定している。

ダニエルさんによれば、端的に言って、日韓の国交正常化のために領土扮を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、その秘書的存在だった宇野宗佑代議士(後に首相)、嶋本謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国は丁一権、金鐘ラク(金鐘泌の兄)。

さらに密約を承認した佐藤栄作首相と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元首相で、2000年6月のこと。ダニエルさんは驚きをもって裏付け取材に奔走、私のところにも来て事実を確認した。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三には引き継がれなかった。それで金泳三大統領は突如「倭(日本)の奴の悪い行儀を治す」と公言して「わが領土独島」にあらたに接岸施設を作り「密約」を無視して今日に及んでしまった。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれなかった。これを外交の敗北と受け取った大統領李承晩は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから争いが始まった。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新)を成就するためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのために韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏とその姪の夫である金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の急死で交渉のエンジンは冷えた。

そこで登場するのが河野一郎氏である。池田首相の懇望で大野後継を受諾。代行者に元秘書で衆議院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金鐘泌氏に代わって兄の金鐘ラク氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領とは革命同志であり且つ日本語を話せる日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのは当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋元氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父のもと、中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは私に河野さんも認めていた。

宇野・金両氏の作業は順調に進み1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成による「メモ」に丁一権総理が署名。直ちに朴大統領の裁可を得た。嶋元記者は逐一メモをとっていた。

宇野氏は嶋元氏を伴ってソウル南部にある米軍基地から特別回線を使って東京の河野氏に報告。それを河野氏は折からワシントンに滞在中の佐藤首相に報告した。「竹島密約」成立の瞬間だった。

かくて日韓基本条約は6月22日に調印されたが、既に閣外に去っていた河野氏は表に立つことのないまま、7月8日夜、腹部大動脈瘤破裂の為、急死した。67歳だった。

韓国ではその後、朴大統領が部下に射殺された。竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘ラク氏は身の危険を感じた。だから1980年5月17日に連行される前にメモを焼却した。

日本側ではメモの作成を逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが、韓国側では外務部長官は勿論中日大使にも知らされなかった。だから日本外務省には残っているはずだが外務省は否定している。

日韓間に「密約を交わせる時代があった」と悲観的に回顧する以外にないのは残念なことだ。
<月刊誌「自由」1980年10月号から転載。>

2012年11月12日

◆汚職贈収賄で潰れる国

渡部 亮次郎


私を中国に詳しい人間と誤解して「あの国に綱紀粛正とか公徳心は無いのか」と尋ねる人がいる。私は確かに中国には3度訪れたが、暮したことは無いから良く分からない。

最初は日中正常化実現のために初訪中した田中角栄総理の記者として同行した。万里の長城八達嶺のトイレには紙が無かった。

6年後の1978年には外相秘書官として日中平和友好条約の締結交渉に従事しトウ小平との会談に立ち会った。女性がおしなべて化粧を始めていた。3度目は観光で杭州へ。低血糖昏睡を体験した。

しかし、政治が共産主義独裁で経済が資本主義では汚職と贈収賄は構造的問題、「必須」であるから、共産党が政権を握っている限り
綱紀粛正も公徳心も怒りようが無い。

東京湾岸に近い江東区毛利にある都立猿江恩賜公園の公衆トイレでは補充しても補充しても「紙」が盗まれる事態が長くつづいたので調べたところ、在日中国人の仕業と判った。

ある大型マンションで台所のゴミを水を切らないまま捨てる住人が出てきたので管理組合が調べたところ、最近引越してきた女性が中国人であることが分かった。そうした事はしてはいけないことだという公徳心を彼女に求める事は不可能である。

中国で公衆便所に入っても紙は無い。それは普通。紙を備えても誰かが持ち去ってしまうのである。他人(ひと)の物は自分の物。紙が無かったら次に入った人が困るだろうという公徳心がなくなっているのである。

中国の工場では働いている人と働かない人が同居している。働いてもは働かなくても給料は同じだから働かない人が存在するのは当然だ。

役人は威張っているだけなのに懐は十分暖かい。賄賂を沢山受け取っているからである。経済は資本主義で競争社会。工場を拡張し設備投資を続けなければ会社は成り立っていかない。

しかしそれを政治(共産党)が監視、監督するにあたっておいそれと許可しない。賄賂を要求する。それがまるで風習化しているから
工場側はすぐに贈賄する。すると許可はすぐ出る。ここで贈収賄は習慣化する。

つまり経済は改革、解放で資本主義化したが、それを指導、監督する政治は独裁共産党とあっては物事は贈収賄でしか前進しない。

資本主義経済は「自由」と「競争」が前提だが、監督する「独裁政党」にとって「自由」は敵である。それでも今の中国共産党は自らの存在理由を「半日」と「経済発展」に求めるしかない。だが経済発展を求めるには共産党の存在そのものが邪魔であることに気づこうとしていない。漫画だ。

中国で共産党が政権を握って資本主義経済を運営している限り汚職贈収賄は続き、民心は日々離反していくことだろう。

「そうした国家が長期に亘って発展した例を知らない」とアメリカの国務長官クリントン女史は述べたと聞いたことがあるが、私も同感である。

胡錦濤は尖閣を盗み、太平洋を支配し、GDPを倍増させると豪語しているけれど大丈夫か。その前に中国そのものの潰れる心配はないのか。

宮崎正弘氏の指摘する如く住宅バブルのパンクは極く近いという。そうなれば経済成長連続8%が無理になってくるだろう。そうなれば経済にとって共産党は邪魔という「世論」が起きてくるのではないか。

世界史に詳しい加瀬英明氏はナチス・ドイツとソ連を例にとっ手指摘している「全体主義国家がオリンピックを開催すると、10年後に国家が崩壊するのが例だ」と。北京オリンピックは2008年だったね。2018年は後6年後だ。やらなきゃよかった?                                     2012・11・10

2012年11月10日

◆好きな作詞家星野哲郎

渡部 亮次郎


流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなって大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。クラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は福島県の塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 ?―2010年11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

闘病期間中に作詞を学び、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めている(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地である小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想して星野が名付けたものである。>ウィキペディア
                         2012・11・3


2012年11月09日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎


毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2012年11月08日

◆カキの季節になった

渡部 亮次郎


既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅地下に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

ニューヨーク本店の雰囲気を再現した店内では、常時10種類以上のフレッシュ―オイスターをはじめ、新鮮な魚介類を使用したバラエティー豊かな料理の数々が提供されるそうだ。

一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

日本での主な食用種

マガキ(真牡蠣) Crassostrea gigas(Thunberg,1793)

最も一般的な種で、日本でカキといえば本種。寒い時期に食べる。大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され市場に出ている。広島県、宮城県、三重県産が有名。韓国からの輸入品も相当量ある。

イワガキ(岩牡蠣) Crassostrea nippona(Seki, 1934)

「夏ガキ」とも言われる。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通する。天然物と養殖物の両方がある。

スミノエガキ(住之江牡蠣) Crassostrea ariakesis(Fujita, 1913)

有明海沿岸で食用にされるが、他所へはほとんど出回らない。マガキにごく近縁な種で、殻の表面はやや滑らか。

イタボガキ属 Ostrea [編集]イタボガキ(板甫牡蠣) Ostreadenselamellosa(Lischke, 1869)

かつては多く食用にされ、能登半島や淡路島周辺が有名な産地であったが、現在は瀬戸内海地方で僅かに市場に出回る程度で、絶滅危惧種状態。

食用のみならず貝殻が最上質の胡粉の原料となる点でも重要であり、本種の復活と養殖技術開発の努力がなされている。

ヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis(Linnaeus, 1758)

ヨーロッパ原産で、イタボガキに似た外観で輪郭が丸く平たい貝。別名:ヨーロッパガキ。市場ではフランス牡蠣、ブロン、フラットなどとも呼ばれる。

日本では宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などで僅かに養殖され、高級食材としてフランス料理店などに卸される。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えば本種のことであったが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになった。それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキであるという。

アメリカで人気の日本原産の牡蠣 クマモト(熊本牡蠣)

1946年頃熊本県八代市鏡町からアメリカに輸出された牡蠣の子孫が現在アメリカ西海岸でクマモトの名で養殖されている。

クマモトは小振りながら味が濃く、クリーミーとしてアメリカ市場で最も人気が高い高級牡蠣。

カキは食用としての歴史は非常に長く、世界中で食され、最も人類が親しんできた貝の一つである。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていた。

生ガキはフランス料理における定番のオードブルとなっている。また、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも存在する(ニューヨーク)。ナポレオン、バルザック、ビスマルクなどがカキの愛好家であったことが知られている。

日本では縄文時代ごろから食用されていたとされ、多くの貝塚から殻が発見されており、ハマグリに次いで多く食べられていたと考えられている。

室町時代ごろには養殖も行われるようになったという。大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていた。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食された。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られている。

日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降であり、生食文化が欧米から輸入された珍しい食材である。

古来より食べられてきたカキであるが、その一方で「あたる」食品(食材)としても知られている。カキの食中毒が注目されるのは非加熱状態で食べられる機会が多いことと関係している。

現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために生産・流通段階で対策がとられている。 生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられている。 さらに、保存基準、表示基準も規定されている。

貝毒以外は十分に加熱することで食中毒を回避できるカキを含むいずれの二枚貝も、同様の処理で食用にする限り食中毒の危険度に関しては変わらないという点である。

一方、魚では鮮度を基準として「生食用」「加熱用」の区別がされていることから、カキも同様であると思い込んだ消費者が酢ガキなどに、「鮮度がいい」という理由から加熱調理用のものを生で出す事例が後を絶たないのは残念だ。ウィキペディア 2012・11・06