2012年06月24日

◆海千山千を知らないと

渡部 亮次郎


外務大臣の秘書官だったとき、英語の通訳が「うみせん やません」の意味を知らなくて往生したことがある。この通訳はいわゆるキャリアでなった外交官だったが、「手練手管 てれんてくだ」も知らなかった。

こういう官僚が局長、官房長、大使になるのが日本外務省である。

なるほど灘高や東大はこんな言葉を知らない方が良いかもしれないが、外交の現場では困る。アメリカの外交官は何回も会っているうちに「うみせん やません」「てれん てくだ」を日本語で覚えてしまった。

「海千山千」とは蛇が山に千年、海に千年住むと龍になるというもの。そこから『広辞苑』の説明は「世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪な人」「――海千山千の事業家」と説明している。

通り一遍の説明をしないで有名な金田一京助まで遡る三省堂の国語辞典『新明解』は「あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて悪賢い人」となっている。

また「手練手管」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。だが政界の寝業師から外務大臣になった園田直氏は褒め言葉と思っていたらしく、言われて怒らなかった。

蛇が千年山で住むと海に降りて蛸になるという話は各地にあり、実際にヘビがタコに変身するところを見た、という目撃談も数多くあるらしい。

この蛇が変身した蛸は足が8本ではなく7本しか無いと言われており、そのため、タコを捕まえて足が7本しかなかった場合、海に帰すという習慣が、かなりの地域に分布しているとか。

海千山千と似たものとしては「古狐」「古狸」の言葉もある。妖怪の類と見られることも多いが、年を経た狐はお稲荷様のお使いになるという説もあり、狐には蛇と同様の神聖な面も見られていたのでしょう。

英語にもold fox という言葉があるが、いい意味はあまりない。古狸については古狐以上に良くないイメージがあるが、日本では年を経た狸が、病気で動けない和尚に代ってお寺の勧進をして回ったという話もあり、狸の持つ親しみやすいイメージから、そういう方向も出てきたのかも知れない

http://www.ffortune.net/symbol/12si/s06/mi02.htm

日本の政界では川島正次郎、大野伴睦、三木武吉といったような人たちはみな「海千山千」で「手練手管」に優れ「歴戦の勇士」といわれ、喜んでいた。

彼らから一時代遅れた田中角栄、保利茂、鈴木善幸、園田直といった人たちは、後から同じように言われて嬉しかったのだろう。実に官僚派に対抗して地位を固めるには海千山千と手練手管で行くしかなかっただろう。それが多少、ずるくても、軽蔑されても官僚を使いこなした。角栄は甘やかしたが。

今の政界には2世、3世は腐るほどいても、官僚を使いこなせる海千山千は与野党のどこにもいない。舐められっぱなしだ。文中敬称略 

2012年06月22日

◆大丈夫なのか鮪(まぐろ)

渡部 亮次郎


私が鮪(まぐろ)を寿司や刺身で食べられるようになったのは、実は60歳近くになってからである。それまでは中国人のように「淡水魚には肝臓ジストマがいて毒だ」といわれて食べないでいるうちに、すべての魚をナマでは食べられなくなっていたのである。淡水魚の秋田県八郎潟沿岸で生まれ育ったからである。

長じて政治家に新橋、赤坂などで日本料理をご馳走になっても、刺身は残して芸者に不思議がられて恥ずかしかった。

それが或る時、60近くになった時、友人に都内の飲み屋に引っ張られて入ったところ、料理は刺身は刺身しか無いといわれて鮪の赤身をたべてみたら抜群に美味かった。以後、刺身好きになり、誘われれば寿司屋にも喜んでゆくようになっている。

余談だが、毛沢東は生魚は食べなかったが、なぜか晩年は好んで生魚をたべたという。悪妻江青の策謀に乗せられたのではないか、肝臓ジストマにかかる前に死んだからばれなかったという説もあるが、江青も死んだ今となっては永遠の謎だ。

ところが今の中国人は日本人の長命の理由は生魚にあると見たのか、盛んに鮪を生でたべるようになって。われわれ日本人の胃袋を脅かすようになった。

以下「ウィキペディア」を引用する。

中国都市部で日本食ブームが起きている。それもマグロ需要が急増し、日本の漁獲減少の隙を突いて、中国漁船による活動が拡大し、競争が激化している。

また、乱獲防止と資源保護のため漁獲量が2割減が決まりさらに高騰するといわれる。そのために近年では世界中でマグロの代替品が増えている。

過去、米国およびオセアニアでは、脂身であるトロは商品的価値・需要が低かったので、日本の商社はトロを安価で購入することが出来た。ところが、近年の日本食・「sushi」ブームの影響で欧米でもトロに対する需要が起こり、かつてのような値段では購入出来ない状況にある。

また、1990年代後半には台湾で、2000年代に入ってからは中国で、日本食を中心とした海産物の人気が高まり、中国向けの漁獲が急増しているため、競争はますます熾烈になっている。

前述のように相対的な個体数が少ない上に需要増加・価格高騰が拍車をかける形で世界中でマグロが乱獲され、国際的な資源保護が叫ばれている。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されている。

過激な保護運動を行う環境団体には、クジラ並みにマグロ漁禁止を求める強硬派もいる。こういった国際的な動きに対して、日本は2001年から02年にかけて、水産業界を中心に不利な規制が多数決で押し通される恐れがあると「中西部太平洋マグロ類条約」の準備会合をボイコットした。

だが、結局2004年に日本抜きで発効され、翌年に日本が加盟することになった。食糧農業機関(FAO)水産局長の林司宣(早大教授)は日本は世界中の海でマグロを取りまくっていながら、規制強化には後ろ向きだ、という悪いイメージを与えたとしている。

その後、2010年3月、ドーハでのワシントン条約締結国会議において21世紀初頭の個体数が1970年代と比較して90%減少したタイセイヨウクロマグロの附属書Iへの掲載の是非について審議が行われたが、18日の採決では大差で否決された。

マグロ価格高騰と天然物の漁獲量低下の追い風もあり、蓄養による養殖の出荷量は増加している。低コスト化・安全性向上の他、トロの割合を多くし価値を高める研究も行われている。

クロマグロの蓄養は、幼魚が黒潮に乗って回遊してくる西日本各地で行われている。蓄養マグロの出荷量は、1位の鹿児島県が2位の長崎県以下を大きく引き離している。完全養殖による生産は始まったばかりであり、現在流通している養殖のマグロはほぼ蓄養によるものである。

これに対し稚魚の乱獲になるという批判もある。

2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて、商業化に向けて研究を続け世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功、2004年には市場へと出荷が開始された(近大マグロ)。

近畿大学は和歌山県串本町の大島実験場と奄美大島の奄美実験場を拠点に技術開発を進め、稚魚の生産が増えたことと稚魚の輸送技術が確立された事などから、2007年12月から自身の完全養殖稚魚(人工孵化の第三世代)を他の蓄養業者に出荷する事業を開始。

2009年には約4万匹の稚魚を育成、内約3万匹を養殖業者へ出荷している(4万は日本の海で漁獲されている幼魚の10分の1の量)。今後は、2010年現在3から5パーセントの稚魚の生存率を10から20パーセント程度に向上させるのが目標となっている。

また、マルハニチロは2015年に約1万匹出荷を目指して完全養殖に取り組んでいる。東京海洋大学では、移植によってサバにマグロの精子を作らせることより、マグロを量産する方法の研究を進めている。

日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されているが、江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビと呼ぷ声の死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえず、腐敗しやすいことも相まってむしろ下魚とするのが普通であった。「大魚(お
ふを)よし」は、「鮪」の枕詞。

江戸時代の豊漁の際、腐敗を遅らせるためにマグロの身を醤油づけにした「ヅケ」が握り寿司のネタとして使われ出したのが普及のはしりとい
う説がある。

近代以降も戦前までは大衆魚で、主として赤身の部分が生食されていた。北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していた。

脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気で、もっぱら加工用だったが、冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。

なお、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯は-30℃以下であり、実際の流通上では-50℃の超低温冷蔵庫に保管する。なお、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化する。

1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万t。そのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費している。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)と呼ばれるサラダオイル漬けの缶詰が多い。

日本の各県庁所在地での家計調査によると、一世帯当たりのマグロの購入量は年々減少している。消費率はマグロ水揚げ日本一の静岡県および隣接する山梨県、関東地方が上位を占める。

一方で西日本の数値は軒並み低く、食文化の相違がみられる。 2012年1月6日、築地市場で青森県大間産のクロマグロ(269キロ)が5649千万円の史上最高値で落札された 。

近年の史上最高値更新は、2001年に青森県大間産2020万円(202キロ)、2011年に北海道戸井産に3249万円(342キロ)となっていた。

2012年06月19日

◆戦争を知る人知らぬ人

渡部 亮次郎


取材陣が来て「今の政治家と昔の政治家はどこが違うか」と聞かれた。一瞬考えて「戦争を知ると知らぬ、の違いでしょう」と答えた。

消費税率の引き上げに野田総理は命を賭けるというが、命がけとはどういうことか知っての発言だろうか。命をかけているとは思えない。

命がけとは文字通り命を賭けることであり、失敗すれば死ぬことを約束することである。政治家を辞めることとは違うのである。野田は余りにも簡単に「命」を使う。

私が見た昭和時代の政治家は戦争体験を持っていた。しかし平成の政治家は幸福にも戦争を知らない。知っているのは平和だけである。

戦争を知る最後の総理大臣は宇野宗佑だった。彼はシベリヤ抑留も体験し、戦場には慰安婦はいたが、あれは国家が運営するものではなかったと体験を交えながら語っていた。

それ以後の総理大臣は戦争体験は無い。

陸軍航空隊の隊員で、特攻隊生き残りだった故園田直によると、戦争を体験するとは命を敵に晒すこと。だから「俺は大砲の弾が炸裂したら、その穴の中に飛び込んで助かった」と良く言っていた。「どんな名手だって砲弾を同じところには続けて着弾させる事は不可能だもの」とさらりと言ってのけた。

隊長として士官学校出の若者が戦場へ着任する。学校で鉄砲の撃ち方は習ってきたが、撃たれるのは生まれて初めて。(あの砲音は)
「敵か、味方のか」と五月蝿い。

弱気だと見破られないか、とやたら危険に身を晒したがる。「其処じゃ危険であります」と言っても下がらない。園田が「其処では敵情が見えません、こちらへどうぞ」と岩陰に案内するとほっと溜息をついていた。インテリの弱さか。

昭和50年ごろまで、国会議員の大半はこうした戦場体験をもっていて「命」とは何かを知っていた。

そうした議員は決して利己主義者ではなかった。戦争の苦難のなかで利害得失を仲間と分かつべきことを哲学としていた。小沢佐重喜は安保改訂に身を投げたが、息子の一郎はカネを懐にするのに忙しいのはこの差を物語るものではないか。

昨今の政治家は徹底的な利己主義に陥っている。小選挙区制になった所為もあって、「競争相手より立派に見える」工夫はするが、それ以外の事は絶対しない。

もっと言えば選挙民の幸福などは考えたこともない。選挙民の幸福を「考えているように振舞う」ことを知っているだけだ。鳩山や菅はその典型だと思う。

だから政治評論は憂鬱な作業だ。(敬称略)。2012・6・18

2012年06月18日

◆特ダネにタイミングは無い

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に対する読者からの「反響」である。

<タイミングが良過ぎるのでは:

週刊文春6月21日号の見出しです。その内容までをここで云々する必要はないでしょう(小沢一郎夫人が選挙区有力者たちに「離婚しました」という手紙を昨年11月に出していた。

私が感心したのは、この記事が登場したタイミングの良さというか何というか、6月14日だったことです。17日朝のTBSで野中広務は「党に復帰したばかりなのだから、あのような行動は党を離れてせよ」と厳しい口調で非難していました。

そういう時期に、既に終わったという説もある小澤一郎という存在に、その終わりの念を押すような記事が出てきたのには感心しております。あの記事には消費税増税の後押しをする勢力が関係しているのでしょうか。そう思わせてくれる「公人の私的な弱みを衝いた」ニュースだったと思わずにはいられませんでした。>

私は若い頃、マスコミの世界にいた(文芸春秋社にも縁があった)ので、この投書には驚いた。この読者は大学を出てアメリカの会社でビジネスマンも経験した、いわば常識豊かな後期高齢者である。

という事は、この投書は案外、私の読者の「常識」になっているかの知れないのだ。マスコミというものを知らない人がマスコミの読者だとすれば、却ってマスコミも注意してかからなければならないのだ。

マスコミは握った特ダネは可及的迅速かに手放さなければならないという鉄則がある。何時あい方にすっぱ抜かれないとも限らないからだ。従って、特ダネをにぎったら、寝かしておく事は不可能なのだ。

今回、週刊文春は小沢夫人が離婚の事実を地元の後援会幹部らに手紙で知らせたらしいという噂は早い段階でつかんでいたようだ。だが、夫人自身が雑誌のインタビューを受けない以上、ネタとして掲載するには、手紙の実物を入手することが、不可欠だった。しかし、筆者が誌上で明らかにしているように、手紙の実物を提供する人物はなかなか現れなかった。

実物を入手できた以上は、可及的速やかに報じた、それが消費増税問題を巡って小沢本人が格別注目されている時期とタイミングが合ったのが真実ではないか。タイミングが合いすぎたので、雑誌側がタイミングを合わせたのではないかと疑う向きが出てきた、仕方の無いことだろう。

重ねていうが、特ダネにタイミングは無い。タイミングを狙って取れるものではない。掴んだらすぐ報道(放す)しないことには、何時、敵(ライバル)にすっぱ抜かれないとも限らないからである。

マスコミと他の業種との違いはこの点にあるかも知れない。2012・6・17

2012年06月17日

◆中国は気骨者を尊敬

渡部 亮次郎


産経新聞の特別記者待遇でワシントンに駐在する古森義久氏は、以前は北京で中国総局長を務めていた。その古森さんが自らのブログで6月15日、「首相靖国参拝は日中関係に影響ない」とは小泉純一郎氏の金言です」と次のように書いた。

<もう9か月前の発言ですが、いまになってその意味が輝いてきます。首相が靖国神社に参拝すると、中国が態度を硬化させ、日中関係が悪くなる。これはお経の文句のように繰り返された言葉ですね。  

でも首相の靖国参拝がなくても、中国の態度は硬化しています。日中関係は険悪になっています。  今一度、吟味したい小泉語録です。>

<「靖国参拝せずとも尖閣摩擦」 小泉氏 産経新聞 東京朝刊 総合・内政面 2011年09月19日

小泉純一郎元首相は18日、川崎市内で講演し、日中関係について、「『靖国神社に参拝しなければ中国とうまくいく』なんていうのは関係ない。参拝しようがしまいがいまだに沖縄・尖閣諸島で摩擦が起こっている」と述べ、民主党政権の対応を批判した。

野田佳彦首相は首相在任中、閣僚を含め内閣として靖国神社に公式参拝しない方針を表明している。

小泉氏は講演で、首相在任中の平成16年11月、チリで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、日中首脳会談の設定をめぐり、強硬姿勢に出ても会談が実現したエピソードを紹介した。

胡錦濤国家主席との2国間会談をめぐり、中国側から「来年、靖国神社を参拝しないなら受ける」と打診されたのに対し、外務省を通じ「必ず参拝します。それで会談を拒否するならかまわない」と返答したという。これに対して中国は最終的に、小泉氏が参拝を明言しないことを条件に、会談を受け入れたという。>

私が大臣秘書官として仕えた故・園田直(そのだ すなお)さんは福田赳夫内閣で官房長官のあと外務大臣、続く大平内閣でも外務大臣、鈴木善幸内閣で厚生大臣と外務大臣を務めた。それらの秘書官を務めたのが私だった。

特に福田内閣の外務大臣としては田中角栄、三木武夫両政権で達成できなかった日中平和友好条約の締結交渉に尽力し、遂に1978年8月12日、北京で締結調印した。

園田氏は元々将校として野戦に11年間在任し、特に中国工作の長かった人であった。工作員として活動中、敵に拘束されそうになった時、路上に落ちていた牛の糞を口にいれ、狂人を装って難を逃れたことがあったと言っていた。

その園田氏が口癖のように語っていたのが「中国人は自分たちの言いなりになる相手を馬鹿にする。理不尽な要求にガンとして反撃し、抵抗する気骨ある人間を尊敬する」だった。「だから政治家が儲け噺を持ち出したりしたら徹底的に軽蔑される」とも話していた。

小泉氏が明らかにした総理大臣在任中のエピソードは当に園田さんの口癖を裏付けるような話。

嘗てNHK記者として日中国交正常化交渉に田中角栄首相に同行した際、笑えわれの目の触れないところで行なわれた毛沢東の「引見」で、後で聞けば毛沢東が田中首相に放った第一声は「喧嘩は済みましたか」であった。交渉は「喧嘩」のような激しさでやってこそ、そのあとで「友好親善」が生まれることを毛沢東がいみじくも言い当てているようなものだ。

これらを考えると、中国に対してもみ手ばかり、ゴマばかり摺ってよしとしている今の駐中国日本大使の丹羽氏は陰で徹底的に馬鹿にされているだろう事はあきらかである。そんな人間を大使に起用した首相は頭がおかしい。東大を出ただけの鳩山である。2012/・6・16

2012年06月15日

◆小沢一郎夫人が支援者に「離婚しました」

渡部 亮次郎


「週刊文春」編集部が14日、雑誌発売と同時に掲げたWebの記事を以下のけいさいするが、一言で言えば、これで小沢は人間としての価値が疑われる結果「オシマイ」という感じがする。

同時に私は政略結婚の恐ろしさを感じる。これだけ人間性を喪失した人間と3人もの子をなさなけれればならなかった現実。わたしはそこに「地獄」を感じる。

<「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃

民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、昨年11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていたことがわかった。

便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、昨年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。

岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。

手紙では、小沢元代表の愛人や隠し子の存在についても触れている。8年前に隠し子の存在がわかったとき、小沢元代表は和子夫人に謝るどころか、「いつでも離婚してやる」と言い放ち、和子夫人は一時は自殺まで考えたとも記している。

そして、このように綴っている。

「それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水を差すようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。

ところが3月11日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました」

「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」

こうした大震災後の小沢元代表の言動がきっかけとなり、和子夫人は昨年7月に家を出て別居を始めたという。その後も現在まで別居は続いているが、小沢事務所は「離婚の事実はない」としている。

和子夫人はこうも綴っている。

「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」

現在、消費税増税法案の採決をめぐって、小沢元代表は造反をちらつかせて野田政権を揺さぶっているが、和子夫人の手紙はそうした政治情勢にも大きな影響を与えそうだ。

(2012年6月21日号)2012.06.13 18:03
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1442


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2012年06月13日

◆カツ丼で勝てるか

渡部 亮次郎


受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。

福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えてくれた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはデミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。

卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年06月08日

◆鰹なら生で食べられた

渡部 亮次郎


恥ずかしながら刺身を老人になるまで食べられなかったが、鰹(かつお)だけは食べられた。秋田県に有った旧八郎潟沿岸で生まれ育ったため、(淡水魚)の生食は堅く禁じられて育ったのである。それでも、鰹だけは生臭く感じられなかったので大人になってから食べられたのだ、と思う。

老人になった今は初鰹より戻り鰹が好きだ。老人のくせして脂ののったのが好きなのである。

鰹は全世界の熱帯・温帯海域に広く分布する。日本では太平洋側に多く、私の生まれ育った日本海側には殆どいない。だから冷蔵庫なんて物の無かった幼少の頃はお目にもかかってない。

摂氏19 - 23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるが、日本近海では黒潮に沿って春に北上・秋に南下という季節的な回遊を行う。食性は肉食性で、魚、甲殻類、頭足類など小動物を幅広く捕食する。

大型のものは全長1 m・体重18 kgに達するが、漁獲が多いのは全長50 cm程である。体は紡錘形で尾鰭以外の各鰭は小さい。鱗は目の後方から胸鰭・側線周辺だけにある。背側は濃い藍色で、腹側は無地の銀白色だが、興奮すると腹側に4―10条の横縞が浮き出る。また、死ぬとこの横縞が消え、縦縞が現れる。

また、流木やヒゲクジラ(主にニタリクジラ、カツオクジラ)、ジンベエザメの周辺に群がる習性もある。これはカジキから身を護るためといわれているが、反面カツオが集めた鰯を鯨が食べたりもするため、水産庁の加藤秀弘に共生ではないかと指摘されている。

これらの群れは「鯨付き」、「鮫付き」と呼ばれ、「鳥付き」とともに、漁業の際のカツオを見つける目安にもなっている。

カツオは日本の水産業の中では重要な位置を占める魚種の一つである。

日本の太平洋沿岸に生息するカツオは、夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する。夏の到来を告げるその年初めてのカツオの水揚げを「初鰹(はつがつお)」と呼び、珍重される。

とはいえ、3月初旬のころのものは、型が揃わず、脂ものっていないため安価である。脂がのりだすと高値になっていく。 初鰹は港によって時期がずれるが、食品業界では漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期をもって毎年の「初鰹」としており、消費者にも浸透している。

南下するカツオは「もどり鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂がのっており、北上時とは異なる食味となる。もどり鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。

北上から南下に転じる宮城県・金華山沖では、「初鰹」といっても脂がのっているため、西日本ほどの季節による食味の違いがない。また、南下は海水温に依存しており、陸上の気温との違いがあるため、秋になった頃には既にカツオはいない。

日本では古くから食用にされており、大和朝廷は鰹の干物(堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は身が堅いという意で堅魚(かたうお)に由来するとされている。

「鰹」の字も身が堅い魚の意であるが、中国ではこの字はウナギを指す。

鰹節(干鰹)は神饌の一つであり、また、社殿の屋根にある鰹木の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を「勝男武士」と漢字をあてることがあった。

織田信長などは産地より遠く離れた清洲城や岐阜城に生の鰹を取り寄せて家臣に振る舞ったという記録がある。

鎌倉時代に執筆された『徒然草』において、吉田兼好は鎌倉に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介している。

鹿児島県枕崎市や沖縄県本部町などでは、端午の節句になるとこいのぼりならぬ「カツオのぼり」が上る。

江戸時代には人々は初鰹を特に珍重し、「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という山口素堂の俳句は有名である。この時期は現代では5月から6月にあたる。

殊に江戸においては「粋」の観念によって初鰹志向が過熱し、非常に高値となった時期があった。「女房子供を質に入れてでも食え」と言われたぐらいである。

1812年に歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入した記録がある。庶民には初鰹は高嶺の花だったようで、「目には青葉…」の返歌となる川柳に「目と耳はただだが口は銭がいり」といったものがある。

このように初鰹を題材とした俳句や川柳が数多く作られている。但し、水揚げが多くなる夏と秋が旬(つまり安価かつ美味)であり、産地ではその時期のものが好まれていた。

9月から10月にかけての戻りカツオは脂が多い。質の良い物はマグロのトロにも負けない脂のうまさがある。

結晶インスリンの生成方法が発見されるまでの間は、カツオのランゲルハンス島から、糖尿病の治療に用いるインスリンが精製されていた時期もある。

しかし、魚類のインスリンのヒトに対する効果は若干低く、魚からランゲルハンス島を集める作業に手間がかかることもあり、他の方法へと置き換えられた。
(「ウィキペディア」)                  2012・6・6


2012年06月05日

◆エンパイア・ステート・ビル

渡部 亮次郎


「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に案内してもらっての贅沢な旅だった。もう34年前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは一度は珍しいが、そんなに見るのは変質者なのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと所望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食べない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時は醤油が殆ど普及してなかった。塩トタバスコだけ。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はNYを象徴する超高層のエンパイア・ステート・ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベちゃん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁のふちへは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノンにイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。ビートルズを知らない政治記者だった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「ボクも高所恐怖症なんだよ」。

エンパイア・ステート・ビルディングは、同じくマンハッタンを代表する高級ホテルであるウォルドルフ=アストリアが建っていた跡地に建設された。

工事はクライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急いで行われ、1931(昭和6)年5月1日に年に竣工した。私の生まれる5年も前だ。

ところが折からの世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くの部分が空室であり、「エンプティ(空の)ステートビルディング」と揶揄されたこともあった。

その後は約1万のテナントが入り,約2万5000人を収容。世界最高の建物として約40年間王座を保ってきたが,今日ではさして高さは誇れない時代になった(世界大百科事典)。

73基のエレベーター(貨物用の6基を含む)、1860個の階段などで構成されている。

ビルの、1950年代に付け加えられた電波塔をあわせると443・2mになる。頂上部分では電飾がされており、日によって色が変化する。

日本との戦争が終わる寸前の19454年7月28日の9時49分に、深い霧の中ニュージャージー州のニューアーク国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍のB-25爆撃機が、79階の北側に衝突して機体が建物に突入、搭載エンジンが衝突の衝撃で機体から脱落し、エレベーターシャフトを破壊した。

この際に79階と80階で火災が発生したが約40分で消火した。 着陸直前で燃料の搭載量が少なかった上、比較的小型の機体であったことから、14人の死者を出したものの建物自体への損害は比較的少なかったこともあり事故後2日で営業を再開した。

日本の建築基準法は英国法に倣って作成されたもので、建物の高さについては、原則として100フィート(百尺、約31m)という制限が課されていた。この制限は、関東大震災を教訓として長い間維持され、これが撤廃される1962(昭和37)年まではおよそ8階建て程度の建物しか建てられなかった。この当時、日本で最も高い建物は国会議事堂の中央塔(65m)であった。

60年代には、隆盛していたメタボリズムの建築家から、超高層ビル建築を伴った丹下健三の築地再開発計画や磯崎新の新宿計画などの様々なプランが提案されたが、いずれも実現には至らなかった。

しかし、1963年および1970(昭和45)年(佐藤栄作内閣)の建築基準法改正により、高さ制限が「無制限」とされたために、高さ60mを超える超高層ビルが次々に建てられるようになった。

東京ではビジネス街の中心たる皇居濠端のビルは軒並み8階建てだったが、このところ建て替えられるのがすべて超高層なのは以上の経緯があるためである。

現在日本で最も高い超高層ビルは、横浜市・みなとみらい21地区に1993年に竣工した横浜ランドマークタワー(設計:三菱地所・ヒュー・スタビンス)で、高さ296m、地上70階建てである。

日本では未だに300mを超えるビルは建設されていない。これは、耐震構造・地盤・建設費等の理由もあるが、航空法に基く高さ規制が大きく関わっており、概ね空港滑走路からの距離で定まる。

東京都新宿区西新宿の東を十二社通り、西を山手通り、南を甲州街道、北を水道通りに囲まれた一画で「仮称:西新宿三丁目西地区再開発」が進められており最も高いオフィス棟の高さは338mとなる予定である。

これが完成すれば、横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高さとなる。ただし現在のところ地元住民の立ち退きや着工の目処などは一切たっていない。また事業者により、規模縮小を含めた見直しが進められている。

2012年06月03日

◆角栄の坐り方で特ダネ

渡部 亮次郎


これは何処にも誰にも話したことの無い、NHK政治記者時代の話。自慢しているわけじゃない。珍しい話もあるもんだという程度に読んでください。

佐藤栄作政権(1964・11-72・6)時代の話。私はこの間、主として自民党担当記者だった。その頃も今もおなじだろが、政治記者の特ダネの最たるものは「年号」。昭和とか平成とかをスクープするのである。

昭和の場合はスクープされた当時の政府があえて別の年号に変更するという騒ぎのあったことが伝説に残っている。平成は各社発表待ちに転じ、スクープはなかった。

その次の特ダネは衆議院の解散日を当てることである。滅多に無いが「衆院、今日解散」という特ダネがありうるのである。

あれは佐藤栄作首相による衆議院の解散だったから、たしか昭和40年代のいつかだったが、解散は決ったが投票日が未決定だったことがある。当時の選挙責任者たる自民党の幹事長は田中角栄。後に佐藤派を簒奪して政権を奪ったことから推察されるように、既に佐藤派のNo2にのし上がっていた。

佐藤栄作と言う人は昔気質の縁起担ぎ。大事な事はすべて「大安」にやるという人だった。だからこのときの総選挙投票日も「大安」の日だろうと一般は予測した。ところが田中幹事長は大安でない別の日取りを言い出したのだ。

佐藤も愈々角栄任せにしたのかと我々は思った。しかし、佐藤と田中の関係は本当にそうなっているのか。当時国対委員長だった園田直に確かめたところ、どうもおかしいのだ。

幹事長は園田従えて佐藤首相に会いにいった。ところが、田中は向かいの椅子に極めて浅くしか腰掛けなかった。緊張していたというのだ。佐藤が田中に全権を委任しているような雰囲気では決してなかったというのだ。田中は投票の日取りについて佐藤総理の了承は取らなかったことが判明。「田中の言っているのは佐藤のハラではない」。

政治部に上がってこのことを部長に報告したが、多勢に無勢、無視された。田中番記者の手で幹事長のいう日取りの原稿が放送された。

ところが投票日が決ってみれば、幹事長の言っていた日ではなく、矢張り佐藤の好きな大安の日だった。

部長に言われて投票日に関する「訂正ニュース」を書かされた。それにたいして報道局長賞(特ダネ賞)が出た。NHKには結局19年在職したが、特ダネ賞はこれ1回きりだった。「訂正ニュース」で特賞というのも珍しい話でしょう。
                     (2012・6・2)

2012年06月01日

◆万策尽きたか小沢氏

渡部 亮次郎


31日未明の産経ニュースは「2閣僚ら交代、党役員も」との副見出しで来週にも内閣改造へと1面トップで報じた。だから私は「首相ようやく小沢切りを決断」とメルマガ及びブログに書いた。と

<野田佳彦首相は30日、消費税増税関連法案の今国会での成立に向け、来週にも内閣改造を行う方針を固めた。複数の首相周辺が明らかにした。参院で問責決議を受けた田中直紀防衛相と前田武志国土交通相に加え、鹿野道彦農林水産相らを交代させ、中規模の改造となる見通し。併せて党役員人事も検討している。

首相は30日昼、小沢一郎民主党元代表と党本部で会談した。首相は「消費税増税は待ったなしだ。今国会中に採決して成立を期すのが私の立場だ」と協力を求めたが、小沢氏は「政権としてやるべきことがある。賛成というわけにはいかない」と拒み、決裂した。

これを受け、首相は消費税増税法案成立に向け、自民党との修正協議を本格化させる構え。民主党幹部には会期末の6月21日までに法案を衆院で採決するよう指示した。新体制を早急に固め、原子力規制組織設置など懸案を一気に解決したいと考えているという。>
(産経ニュース 2012.5.31 01:37 )


これについて、藤村官房長官、内閣改造の必要性否定せず

<藤村修官房長官は31日午前の記者会見で、参院で問責決議を受けた前田武志国土交通相、田中直紀防衛相を交代させる必要性について「あるとも、ないとも申し上げない」と述べ、否定しなかった。

一方で「党や政府で、その件をまだ検討した事実はない」とも語った。

また、自民党が社会保障と税の一体改革法案の修正協議に応じる方針を決めたことについて「歓迎したい。法案成立に向けて修正がなるように期待している」と述べた。>
(産経ニュース 2012.5.31 12:28 )


30日の【野田・小沢会談】について小沢氏、再度会談しても合意は困難と自ら語っていた。

<野田佳彦首相は30日、消費税増税関連法案に反対する小沢一郎民主党元代表と党本部で会談した。首相は6月中旬以降に想定される採決に向け、100人以上の党内最大勢力を抱える小沢氏に法案成立の協力を要請した。小沢氏は増税反対の意向を重ねて示し、会談は物別れに終わった。

会談には輿石東幹事長が同席し、約1時間半にわたり行われた。首相は「今日の財政事情、少子高齢化の問題に鑑み、消費税増税は待ったなしだ。この国会中に採決して成立を期すのが私の立場だ。ぜひ協力をお願いしたい」と述べた。

これに対し小沢氏は「国民に大きな税負担をさせる前に政権としてやるべきことがある。賛成というわけにはいかない」と反論し、法案に反対する考えを伝えた。

その上で小沢氏は反対理由として(1)「統治の仕組み」を変える大改革が緒に就いていない(2)これまで描いてきた年金制度改革のビジョンが忘れ去られて一体改革とは言えない(3)東日本大震災から立ち直っていない−の3点をあげた。

小沢氏は会談後、記者団に再会談の可能性について「党代表から呼び出されれば、党員として行かなくてはならない」と述べた。だが「一致点を見いだせるか分からない」とも語り、再度会談しても合意は困難との見方を示した。

首相は記者団に「1時間半、かなり率直な天下国家の議論ができた。もう1回反(はん)芻(すう)しながらどうするか考えたい」と言葉を濁した。

会談で溝が埋まることはなく、首相は今回の会談を機に、自民党との連携に本格的に舵を切る可能性もある。その場合、自民党が求める法案成立と引き換えに行う「話し合い解散」が視野に入る。だが、党分裂回避に向けて再会談を求める声は党内に根強くある。

首相は28日に「会う以上は乾坤(けんこん)一擲(いってき)だ」と語っていた。今後、法案成立か党内融和かの選択を迫られることになる。>
(産経ニュース 2012.5.30 13:38 )

参院で問責された2閣僚について野田首相はその後も一応、庇ってきた。2人とも幹事長にして民主党参院の議員会長を務める輿石東氏の推薦で入閣させたものであり、輿石氏の背後には小沢氏がひかえているから「党内融和」と言う大義名分上、簡単に更迭はできなかった。

しかし、会談が決裂し、今後は自民党など野党への協力要請に軸足を移さざるを得ない以上、自民党が最終的に要請している衆議院の解散要請はともかく、2閣僚の更迭に踏み出さざるを得なくなったのである。

さらに小沢氏との宥和路線を破棄するのだから、小沢氏への配慮からあえて参院から起用していた輿石幹事長も不要になる。むしろ、より協力的な前原政調会長の幹事長起用などもあり得るかもしれない。

尚中国人外交官によるスパイ容疑で事件との関連が浮上した農水大臣鹿野道彦氏も、この際更迭されるかもしれない。

さてやゝ野田を舐めてきた小沢氏が今後ドウ出るか、見ものである。結論の先送りを狙ってきた小沢氏だが、もはや再会談の望みは無い。残るは新党結成だが、刑事被告人の身で新党ブームに乗るのは難しい。「小沢氏も愈々万策尽きたのか」(産経ニュース)。
2012・5・31

2012年05月31日

◆王座譲らぬ台湾バナ

渡部 亮次郎


熱帯植物であるバナナの商業生産地としては台湾は北限に位置する。フィリピンバナナに押されているが、品質、味の点で依然「王座」にある。

]台湾はバナナ生育の条件である気候的には寒く、フィリピンでは8か月で収穫できるのに台湾では収穫まで12か月から13か月かかるものもあり、促成栽培でなくじっくり成長するため味、香りが濃くなる。

台湾は小さい島だが、富士山より高い山があったり、熱帯地域があったり、北と南では気温も違い、均一な気候風土ではない。また台風銀座とも呼ばれ、毎年多くの台風が通過し、バナナ畑にも被害をおよぼす。

台湾が日本の統治下にあった時代に、日本人が現地の農民に日本の果物の端境期である春先から初夏の時期にあわせて出荷できるように、バナナ栽培を指導していた。

同じ台湾バナナでも、時期によって色、形態が微妙に変化する。

1月中旬から3月中旬は「冬蕉」(冬バナナ)と呼び、3月中旬から4月中旬は「花竜仔蕉」、4月中旬から5月中旬は「黒皮春蕉」等々。

名前のように緑が濃く「黒い皮」のようなバナナや、「白い皮」のバナナ、頭が丸く大きいバナナ、さきが尖ったバナナといった違いがある。

明治36年、都島金次郎によって日本に初めて台湾バナナが輸入された。当時の日本は冬季のミカンから夏季のスイカまでの間の果物需要を満たす果実が少なく、台湾バナナは日本人好みに品種改良が行われ、次第に日本の食卓へと浸透していった。

台湾総督府もこの新たな特産物を奨励し、大正13年には半官半民の「台湾青果株式会社」を設立。流通を担い、昭和12年に台湾バナナの出荷がピークを迎えたが、第2次世界大戦の勃発により、戦時中、台湾バナナの出荷量は激減した。

戦後、まずはGHQ向けに出荷が再開され、その後は民間向けにも再び日本への出荷が始まったが、当時の日本政府は外貨不足から輸入割当制度を行っており、その総量はなかなか回復しなかった。

一方では、依然として高い消費需要があったため台湾バナナは値上がりし、特に上質の台湾バナナは料亭やホテルに買い占められていたため、昭和30年頃まで台湾バナナは「高級品」の位置づけにあり、庶民が上質の台湾バナナを購入できるのは病気見舞いなどの際にほぼ限られていた。

台湾バナナは度々台風の直撃を受けたことと、昭和37年にコレラが流行ったことにより出荷量がさらに減少するが、同時期にエクアドルが日本市場に売り込みを開始し、一時は市場の8割を占めるまでにエクアドル産バナナが台湾バナナのシェアを奪った。

だが、エクアドル産バナナは長距離輸送と管理において台湾バナナに品質の面で大きく水をあけられており、台湾バナナは昭和42年頃に再びシェア8割を確保するようになった。

一方、昭和49年になるとフィリピン産バナナが台湾バナナの前に立ちはだかった。昭和42年頃のフィリピン産のシェアは2%代だったが、日本の商社が大規模生産を開始し、昭和48年には約5割、昭和49年以降には7割のシェアを奪うまでになる。

品質は台湾バナナに及ばないものの、輸送距離の短さによる品質劣化が少なかったことが、フィリピン産バナナの躍進に繋がった。

しかし、バナナの消費大国だった日本ではこの時期、急激にバナナの消費自体が減少していく。これには経済成長と輸送技術の進歩、収穫期をずらして果実を収穫できるハウス栽培の一般化によって、バナナ以外にも果実の選択肢が広がったことが原因としてあげられている。

平成19年の市場シェアは約2%となっているが、バナナは再び健康食品として注目を集めており、バナナの消費は増加傾向にある。特に高品質の台湾バナナは健康やダイエットを求める消費者の嗜好に合致するものとして近年売り込みを行っており、大規模ショッピングセンターなどでは台湾バナナはラインナップの一つとして定着しつつある。(「ウィキペ
ディア」)

台湾バナナの到来

台湾バナナが日本に到来したのは、明治36年頃、当時台湾は日本領で基陸(キールン/台湾北端)の商人(都島金次郎氏)が神戸に持ち込んだのが始まりとされています。その後、台湾に地理的にも近い北九州市の門司港に大量の台湾バナナが荷揚げされ、市場が設けられました。

バナナの商品化に問題発生

バナナは硬くて青い状態で台湾から輸入され、問屋の地下の加工室(むろ)で追加熟成され、甘く黄色く色付けされた後、市場に出て売られます。ところが、台湾から輸送中に蒸れた物とか、加工中に生じた一部の不良バナナは、二級品として商品化出来ない物が出ていました。

現在では、菓子やジュースといった加工を施して、別の商品として生まれ変われますが、明治、大正期は、その技術はなく、捨てるしかなかった。

●「バナナのたたき売り」この二級品バナナをどうするか、早く換金する手段はないかと考え、明治41年頃から北九州市の門司港の桟橋通りで、口上宜しく、客を集めて売りさばかれたのが「バナナのたたき売り」の始まりとなりました。

当時、門司は、九州の大都市でJR門司港駅前(西海岸地区)から桟橋通り付近までの街道には露天商や夜店が並び、その中でひときわ目立ったのが「バナナのたたき売り」だったそうです。


●危機と復活

第2次世界大戦(1941年〜)の激化につれて、昭和19(1944)年初め戦況悪化によりバナナの姿 も次第に消え、やがて終戦後、門司校区自治協会長だった井川忠義さんが、たまたま中学校時代に見聞した、「バナナのたたき売り」の口上を作詞・作曲し、持ち前の美声で当時流行した覗き調で披露したことで復活しました。 

昭和33年・・・門司港地区活性化に向け、「門司港発展期成会」を発足、平成11年・・・「門司港バナナのたた売り保存会」に改名現在は、門司区役所の委託を受けて「バナちゃん道場」と称し、芸能の継承者育成活動もある。

<口上> ♪春よ三月春雨に 弥生のお空に桜散る
バナちゃんの因縁聞かそうか

生まれは台湾台中の アリサンふもとのかた田舎

台湾娘に見初められ ポッと色気のさすうちに

国定忠治じゃないけれど 一房二房もぎ取られ

唐丸籠に詰められて アリサンふもとを後にして

ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所がキールン港
キールン港を船出して 金波銀波の波を越え
海原遠き船の旅 艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司港(みなと)・・・

この項 「知って得するまめ知識」より
http://www.geocities.jp/mikkey_hp/tisiki/menu.html

                        2012・5・25

2012年05月30日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎


私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の?犠牲者ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。私には酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるようになった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。
(ウイキペディア)