2014年08月18日

◆私の情報論

前田 正晶


私は在職中の1955年(昭和30年)から実質的に1993年末まで営業を担当し、その中で主要な部分を占め多くの時間を費やしてきたのが情報収集だった。情報とは"information"という言葉出てくるように、何となく諜報機関を思わせるものがあります。

1932年頃だったか、担当した我が国最大の印刷会社の購買担当者に「あなた方流通機構の方々は我々に市況報告をしたがる傾向がある。これは認識不足で、市況を作り出しているのは我々需要家側である。

私が知りたいことは競争相手の動きであり、メーカー側の経営方針であり、世界の変化の状況である」と指摘され、初めて情報には"intelligence" の側面があると知りました。

そこで不見識かも知れませんが、何となく開始したのが業界での交際範囲を広げて方々に顔を売り、情報網を構築することでした。その際に当時の上司からは「話し合っている相手が何気なく語ったことが、こちらにとっては飛び上がるほどの重大な情報であることが間々ある。それと知ったならば、直ちに話し合いを止めて帰社し私に報告せよ。その重大性の判断は私がするが」と指導されました。


また、業界の言わば(私が嫌うカタカナ語ですが)ベテランからは「何か聞き出そうと思ったらメモを取るような愚かな真似をしないこと。全て記憶力で勝負せよ。要するに聞き上手になれ」とも教えられました。何れも重要な情報収集のテクニックだと思うのです。とは申せ、私はその頃から熱心に情報収集活動をしていた訳ではなく、他人様から話を聞く(聞ける?)ことを楽しんでいた側面もありました。


その間に解ってきたことは「情報収集活動は何処までいっても所謂「ギブ・アンド・テーク」(give-and-take=持ちつ持たれつ?)である点でした。何かを得るためには時には「肉を喜んで提供し、骨を奪う」くらいの覚悟が必要だったということでした。

次ぎに重んじたことはアメリカの会社で痛感した「伝聞をそのまま伝えるのではなく、自分で十分に消化・咀嚼して、自分の意見を加えて報告するというか提供すること」でした。単純な例を挙げれば「業界新聞の特ダネかも知れないことを伝えるようなやり方は情報提供でも何でもない」とでもなるでしょうか。


上記の「自分で消化・咀嚼して」は1995年からお手伝いした紙パ業界の専門出版社の社長と意見を交換した時に主張して「私は常に当社の記者たちにその点を心掛けよ。記事はそうしてから書けと指導している」と賛成されました。これは偉そうに言うことではなく、単なる基本だと思っております。


もう一つ忘れてはならない重要なことは「自分の独自の情報網を築き上げて、これに関連することは何処の誰にその場で電話しても聞き出せる次元にまで持っていっておくこと」でした。

これに関しては、日本の会社からアメリカの会社に変わって原料の分野に出た時には、如何に速く情報網を築くかに注力しました。結果的には各分野で作った情報網は何処に行っても役に立ったということでした。

最後に書き物にしにくい点があります。それは如何にして「良き聞き手になるか」でした。ここには勿論「ギブ・アンド・テーク」の技法もありますが、意外だったのはテレビ番組で(見たくもないグループの)エクザイル(EXILE)の一人が、語りかけている相手が微動だにせず熱心に聞いていた時に「話し辛い」と悲鳴を上げたことでした。

実は、私は生まれつき(?)ジッとしていられないので、話し合っている間に同じ姿勢を2分も維持できないのです。それかあらぬか、屡々「何故貴方にこんな事まで語ってしまうのだろうか。不思議だ」と言われたほど「そこまで他社の私に語って良いのですか」と言いたくなったほど社外秘かも知れないと思う事柄を聞かせて貰ったことがありました。



2014年08月17日

◆岩手?の偉人東條英機

渡部 亮次郎


岩手のNHKに記者として在勤中(1960-64年)、ほぼ県政を担当したが、県の幹部も県議会の幹部級も「東條英機は岩手県人」と言って譲らなかった。

原 敬(歴代19代)、斉藤實(30代)、米内光政(37代)。それに東條(40代)も岩手だと言うのだった。しかし父親は岩手人だが、本人は東京生まれの東京育ちだ。今になってみれば、その後、鈴木善幸が総理になった。岩手出身の総理はやはり4人だからいいじゃないか。

東條はアメリカとの戦争を始めた総理大臣で、敗戦後その責任を戦勝国に問われて極東軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられた。

その後何年もしてから靖国神社に合祀されていることが分って、さらに何年もしてから中国、韓国が「戦犯を祀っている靖国神社に総理大臣が参拝する事は許されない」と騒いで、若い人でも耳にするようになった名前である。

インターネットで「大日本帝国陸海軍資料館長」と言う方が「東條英機陸軍大将について」として東條の事績を詳細に記録しておられる。
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/toujou-memo.htm

これによると東條は、明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第1期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の3男(2人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生した。

因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條の三男である東條俊夫元空将補によると、次のような事情があったためだ。

本籍は既に東京に移していたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、英機も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していた。

このため、「東條は岩手出身」であると言われていたそうだ。いわば周囲の勘違い、といったらそれまでだが、「偉い人」を身びいきするのはどこにもあることで、岩手の人たちも東條が偉かったうちは身びいきし、戦犯になったら、無情な人たちはあれは本籍は岩手に無かったといいたいのだろう。


<東條と不仲で東條に予備役にされた山形出身の石原莞爾は戦後、盛岡に講演に来て「東條はご当地の出身」とわざわざ揶揄したと伝えられている・・・これは誤っています。

昭和16年の陸軍異動で東条陸相は、京都師団長だった石原莞爾中将を解任、予備役に編入したのですが、これを契機にして石原は東亜連盟顧問として活動します。昭和17年9月14日に盛岡に招かれ、東亜連盟主催の講演会で講演しました。

石原は開口一番「諸君は内閣総理大臣東条英機なる男を同郷の先達と誇っておられるようだが、これは大きな誤りで、東条の先祖はそもそも」・・・ここで臨監の警官が立ち上がって「弁士、注意!」。

だが石原は「東条は盛岡出身でない。彼の先祖は江戸からの流れ者。風来坊の一芸人で南部藩の出ではない」とやって「弁士、中止」となった。古津四郎氏の「同郷の将星たち」に詳しく出ております。

「陸軍の異端児 石原莞爾」を書いた小松茂朗氏も、盛岡講演会で「あの東条という男は、盛岡の本当の市民ではない。祖父が能役者で・・・」と石原発言を書いています。揶揄どころか師団長を首になった憎しみが露骨。

東条の出生は明治17年12月30日とされていますが、これは戸籍上の届け出。実際には7月30日生まれで、本籍は岩手県。長男と次男を亡くしていた東條英教が、英機を里子に出したためだといいます。東條英教の陸軍中尉説と大尉説が分かれるのも、これが理由のようです。>(この項、古澤襄氏のご指摘)。

東條英機少年は、城北中学校から東京地方幼年学校に入り、陸軍中央幼年学校を経て明治37年6月陸軍士官学校に入校、翌38年3月陸軍士官学校を360人中10番の優秀な成績で卒業した。

明治42年4月11日、当時日本女子大学国文科の学生だった伊藤勝子(かつこ)と結婚、同44年には長男英隆が誕生している。

次男の東條輝雄はゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1(輸送機)の設計に携わった有能な技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。

他に三男東條敏夫、長女東條光枝、次女東條満喜枝、三女東條幸枝、四女東條君枝らの子がいた。家族の殆どが軍閥であり日本最大の軍閥名家でもあった。 A級戦犯分祀に強硬に反対し続ける東條由布子は孫(英隆の子)。

アメリカ軍は残酷なことをする。東條ら7人の絞首刑執行を日本の皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日の1948年12月23日にした。

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬にされた。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

しかし、小磯国昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺の住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画して成功した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。

回収された遺骨は全部で骨壷1つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。

1958年には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

靖国神社へのA級戦犯合祀が問題になった際、木村兵太郎陸軍大将の妻で、処刑されたA級戦犯の遺族の会である白菊遺族会の会長でもあった木村可縫夫人らがA級戦犯分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。

一方、東條家の墓所である。元共同通信社常務理事の古澤襄さんの調べによると、東條家の墓は岩手県盛岡市大慈寺町1の5の曹洞宗・久昌寺にある。

墓石には「東条英・・・」と刻まれているが、後の字が風化して読み取れない。裏側には「明治10年2月18日没」とあるから英教の母、英機の祖母のものだろう。他の刻字は、やはり風化していて読みとれないとか。

久昌寺は享保14年の盛岡大火(1932戸全焼)で罹災して、過去帳を焼失しているが、2月18日没の人物については過去帳が現存していて、戒名が本照院現安妙大姉、在世年数が41年8ヶ月、続柄が妻、戸主が東条英俊とある。英俊も南部藩士。

東条英機の墓は東京にあるというが、骨は無いのだから遺髪か何かが納められているのだろう。

東条家の先祖は江戸の能楽師だったという。28代南部藩主・重直が江戸で能楽宝生流に凝って、宝生流わき方の能楽師を盛岡に連れ帰ったとされている。

この能楽師が非凡な人物で、南部の窮状を見てとり、芸を捨てて武士となり重直に仕えている。爾来、「英」の一字を子孫に伝えて、英勝、英正、英照、英俊と代を重ね、英教は6代目。東条英機は7代目に当たる。

英教は盛岡中学(現在の盛岡一高)の出身。明治陸軍の建軍で功労があったプロイセン(ドイツ)のメッケル少佐の愛弟子であった。

陸軍大尉(東京・青山連隊)の時に英機が生まれた。東京生まれの東京育ち。それなのに岩手出身とされた事情は既に述べた。

古澤さんは<東條は私の母校・東京府立四中の1年修了で、陸軍東京幼年学校に入学している>と結んでいる。
文中敬称略。007・04・22。参考:フリー百科「ウィキペディア」


◆初代「安全保障法制担当相」は誰?

峯 匡孝


安倍晋三首相(59)は9月第1週の内閣改造にあわせて「安全保障法制担当相」を新設する。7月1日の集団的自衛権の行使容認に向けた閣議決定を踏まえ、必要な法整備を担わせるのが狙いだ。自民党内では、初設置となる安保担当相をめぐり、複数の議員の名前が取り沙汰されている。

■求められる答弁能力

首相は安保担当相起用の条件として「安保法制の整備は国民の理解が第一であり、丁寧で分かりやすく説明できる能力を持った人」と述べている。

政府は一連の関連法案を一括して来年の通常国会に提出する構えだ。国会審議では、行使容認に反対する一部野党の追及に理路整然と反論し、「徴兵制につながる」「米国の戦争に巻き込まれる」といった歪曲(わいきょく)された批判をはね返す力が求められる。

つまり、集団的自衛権の行使容認の意味は、日本が紛争に巻き込まれないための「抑止力」であるということを国民に理解させる能力だ。

そこで名前が挙がるのが、自民党の石破茂幹事長(57)だ。元防衛相の石破氏は政界随一の安保政策通で、行使容認を議論した与党協議会のメンバーでもある。

だが、石破氏は首相からの安保担当相就任の打診に難色を示したとされる。首相が石破氏を閣内に取り込み、次の総裁選に向けた動きを封じ込めようとしていると見て、石破氏周辺が自重を促しているためともいわれる。

与党協議会の座長を務めた高村正彦自民党副総裁(72)も外相や防衛相時代に「スーパー政府委員」と呼ばれ、国会答弁は安定している。弁護士でもあり、法理に明るいが、産経新聞のインタビューで、自身の就任は「ない」と明言している。

■中谷氏を推薦

石破氏が自身の就任の代わりに推挙したのが、中谷元・元防衛庁長官(56)だ。元陸上自衛隊員で与党協議会のメンバーも務めた。石破氏は「安保法制にも詳しく適任だ」と推薦した。

党内では、同じく与党協議会に参加し、「防衛計画の大綱」や「中期防衛力整備計画」の改定に向けた党内議論を引っ張ってきた岩屋毅安全保障調査会長(56)の名前も挙がる。

今回の閣議決定に深く関わった礒崎陽輔首相補佐官(56)も安全保障法制に通じている。総務官僚出身の礒崎氏は安全保障・有事法制担当の内閣参事官を務め、首相補佐官としても、国家安全保障会議(NSC)創設、国家安全保障戦略(NSS)策定、集団的自衛権の行使容認に向けた議論について、政府と与党の調整役を務めた。


だが、礒崎氏については、安倍首相自らが他の補佐官とともに留任させる考えを既に表明している。

自民党内には、小野寺五典(いつのり)防衛相(54)の安保担当相兼任も取り沙汰されている。ただ北朝鮮や中国といった日本を取り巻く安全保障上の脅威に迅速に対応するため防衛相は危機管理に専従させべきだとの見方もあり、首相の判断が注目される。

小野寺氏を防衛相として留任させるかどうかも内閣改造のポイントの一つだ。日米両政府は年末までに、自衛隊と米軍の役割分担を定める「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を再改定する。

この作業には、日本政府が7月に閣議決定した集団的自衛権の行使容認や、有事に至らない「グレーゾーン事態」への対処などが反映される見通しで、これまでチャック・ヘーゲル米国防長官(67)と良好な関係を築いてきた小野寺氏を敢えて変える必要があるのか、思案のしどころとなるためだ。


仮に小野寺氏が防衛相を外れるとしたら、その後任には岩屋氏や今津寛元防衛副長官(67)、江渡聡徳前防衛副大臣(58)らの起用が党内ではささやかれている。
産経ニュース2014.8.16

       

◆岡晴夫 糖尿病の犠牲者

渡部 亮次郎


昭和を明るい歌声で駆け抜けた岡晴夫。戦前昭和14年「国境の春」でレコード・デビューしたが、全盛期は戦後。「憧れのハワイ航路」が最も有名である。地方巡業に忙しくて紅白歌合戦に1度も出場できなかった。

そんな岡も糖尿病を放置した為に54と言う若さで悲劇的に世を去ったのである。今のようにインスリンを患者自身が注射できていればあと30年は存命しただろう。

本名 は佐々木辰夫  1916年1月12日 神奈川県横浜市で生まれ、日千葉県木更津市で育った。死没 1970年5月19日

幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。

6年生の時に音楽の先生から勧められて歌を歌うことに興味を持った。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その1年後には上野松坂屋に勤める。

昭和9年に作曲家志望の上原げんとと出会う。上原げんとは青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身。本名上原治左衛門。1936(昭和11)年から、演歌師などをしながら全国放浪をする。

1938(昭和14)年2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。

岡は上原とともに浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。この時、当時、人気絶頂だった東海林太郎から激励されて力を得た。

昭和13年にキングレコードのオーディションを受け上原とともに専属となる。 昭和14年2月「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし一躍スターとなる。

昭15年に奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。昭和19年にインドネシア領アンボン島に配属されるが現地の風土病にかかり余儀なく帰国。

それからが岡の全盛期であった。底抜けに明るい歌声が、平和の到来と開放感に充ちた時代にはまったのである。

「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などの大ヒットをとばす。

「東京の花売娘」ではブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、「憧れのハワイ航路」では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒いも無く理想郷に置き換えた。

作詞:石本美由起石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜〜ホノルル〜サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。

その為作詞のイメージは、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船の伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)

作曲:江口夜詩。岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいた。近年では氷川きよしもカバーしている。いずれも終戦直後という時代が生んだ楽曲である。

当時連載が始まった「サザエさん」に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面があり、当時の岡の人気の程がうかがわれる。 リーゼントのヘアスタイルでも人気をあつめた岡は、歌手の傍ら、ポマードの販売を行うなどの話題を集めた。

課長の月収が200円の時代、ワンステージ1万円でも引く手あまただった。地方巡業を優先したため、紅白歌合戦には生涯一度も出場することはなかった。

昭和29年頃からはヒット曲に恵まれず糖尿病を発症、白内障を併発。それを救ったのが妻の支えと親友上原げんとの「逢いたかったぜ」のカムバックだった。インスリンの自己注射もまだ許可されておらず、治療は不十分だったと想像される。

ところがカムバック後再び病床に伏す。加えて上原げんとの死という不幸にも見舞われた。上原は岡の2歳年上だったが殆ど兄弟のように暮らした。

その上原は1965(昭和40年8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を起こして急死。僅か50歳。上原の葬儀に出席した岡はほとんど失明状態で一人で歩けなかった。おそらく眼底出血を起こしていたのだろう。まだ48歳なのに。

それでも岡は舞台に立ちたい執念で昭和43年2度目のカムバックを果たす。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放送された歌謡番組『なつかしの歌声』に頻繁に出演して往年の大ヒット曲を披露した。

さすがに、長年の闘病生活が原因で身体は痩せ往年の美声も失われるなど悲壮な姿であったが、ファンの声援を受け、彼自身もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。

昭和45年4月、大阪府守口市で読売テレビ公開歌番組『帰ってきた歌謡曲』収録中倒れ、同年5月19日に逝去。(満54歳没)

この年夏に大阪万国博覧会でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演して十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定で、死の直前まで万博の舞台に立つことを言い続けていた。本番ではかしまし娘と坂本九とが「啼くな小鳩よ」を歌って偲んだ。

法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に葬られた。現在千葉県市川市の葛飾八幡宮には岡晴夫顕彰碑が建立されている。


   

2014年08月16日

◆情報は入手方法さえ

渡部 亮次郎


「情報っていうのは、すべて知る必要はなくて、どこでこの情報が手に入るかということを知っていれば、知っている必要はないんだ」。リチャード・ソウル・ワーマン(アメリカの情報デザインの巨匠)

それはそうだろう。すべての事を記憶しようとしたら、受験生の頭になってしまって、世間の常識の入り込む余地がなくなってしまう。女性の口説き方なんか知らないまま、ウジのたかる中年鰥夫になってしまう。或いは幼女の連続殺人事件を起こして死刑になったりする。

だから、大抵の人間はワーマンなんかに言われなくとも、情報の処理の仕方は追々知って行くものと決っている。しかし最近の朝日新聞を読むと、頭がおかしくなるそうだ。だから読まないが、知人によると「情報」がちっともなくて、押し付けがましい論文ばかりだそうである。

政治記事など「無」に等しいとか。自らの20年ばかりの記者体験からすると、政治記事とは記者たちが持ち寄る断片情報(ベタ=1段記事)をキャップが幾つも寄せ合わせて大きな記事に仕立てる。だからベタ記事こそは大見出しの基礎なのである。

ベタ記事1本には一見、何も見えない。だが幾つものベタ記事を集め、重ねてみると派閥再編成への共通項が見えてきたりする。だからベタ記事が少なくなって行くという事は朝日新聞政治部の取材力の落ちた事を宣伝しているようなもの。先輩の築いた偉大な業績を無駄遣いしている。


「粗末な情報収集力しかありませんから購買しないで下さい」。広告が集まらなくなったのは不景気の所為ばかりではありません。

特ダネは遊んでいる記者だけが拾ってくる。遊んでいる記者相手では相手も気を許して口が緩むからである。それを経費節減で、車代を締め上げたり、取材雑費を喧しくすると記者たちは派手な動きだけして相手を警戒だけさせて情報を遠ざける結果になる。

死んだ宮澤喜一は悪い酒癖で有名だったが、酔いながら情報を提供すると言うサービス精神も結構あって。ポロリともらした。酔いが進んだ時によせばいいのにクソ真面目な記者が「さっきの話の確認ですが」というと「そんな話を私がいつしましたか」と言って否定するのが常だった。確認しなけりゃ特ダネだったのに。そんな類の記者が増えたそうだ。

日教組教育のどん詰まり。さらにその結果面白い記事が減ってゆくから販売部数が落ちて行くという蟻地獄に落ちて行くことになる。優秀でなかった政治記者が社長なった新聞社が落ちて行く構造はここにある。政界を読めなかった記者は社員心理の読めるわけが無い。

ワーマンが言っているのは、すべての情報を独りで握る事は無理だが、誰を取材すればどういう種類の情報を掴む事が出来るかを知っておくことが肝腎だといっているわけだろう。いわゆる情報の「引き出し」を幾つもっているかが重要だと言う事だろう。

しかし情報の引き出しの豊富さは、人脈の豊富さを裏付ける以外の何物でもない。

政界の取材を何年かしたり、政権に大臣秘書官として入ってみたこもがあるから、政界に通じているだろうと私を誤解する向きがあるが、既に政界に関係しなくなってからの方が長い。

だから政界情報はインターネトで大先輩の古澤 襄(のぼる)さん(元共同通信社常務理事)や拓殖大学大学院教授の花岡信昭さん(元産経新聞政治部長)に「判断」を依存している。(だが古澤さんは入院し花岡さんは亡くなられて私は落胆している)。

この人たちには「昔執った杵柄」と長い経歴で築いた人脈からのナマの情報が入っていて私の立ち入るところではない。他に現役記者のブログを覘けばナマの動きを知ることも出来る。毎日新聞編集部顧問岩見隆夫さんも独特の視点で公平な見方があり、それをを学ぶ事が出来て助かる。其の岩見さんも亡くなった。

福島香織さんとか阿比留 瑠比(あびるるい)さん(共に産経新聞政治部記者)ブログを覘くと政府・与党はもちろん民主党の動きもかなり明確に理解できる。特に福島さんは中国特派員から代ったばかりで、政界初体験への戸惑いぶりから逆に政界の不思議さを感じ取る事が出来る。(福島さんはその後、フリーになられた)。


現役の阿比留さんは社会部や文化部の経験もあり、政治のプロらしくない視点で政治家を見ているので、政界の「透視」にその新鮮な神経が役立つ。

特筆しなくてはならないのが、宮崎正弘さん。三島由紀夫研究の第一人者だが英語に堪能、独学で中国語をマスター。その配信する「国際ニュース早読み」は抜群というより、宮崎さんに敵う国際情報通は無い。

アメリカに土地勘を持っているほか中国については全土を踏破している。そんな人は日本には宮崎さん以外に居ないから中国情報の分析は随一となる。加えて李登輝元総統を初めとする台湾人脈が台湾情報の確かさを裏付けている。その情報量と分析の確かさは記者上がりの俄か評論家の及ぶところではない。


元々は親友の国際問題評論家加瀬英明氏を通じてアメリカで知りあった。その加瀬さんにはその博識に基づく内外に対する洞察力に溢れた評論で助けられている。

山堂、馬場、平井、前田、毛馬各氏の評論は私の及ばない視点に目が及んで精彩を深くしてくれている。中でも馬場さんのは人生をほっとさせてくれる親子、兄弟姉妹の愛情と言うものの大切さに目をひらかされる。

変な結論になったが、わがメールマガジン「頂門の一針」は豊富な「情報の引き出し」である。先輩、同僚諸氏に感謝するのみ。
                           09・04・13


   

2014年08月15日

◆ジョン・レノン空港

渡部 亮次郎


<リバプール・ジョン・レノン空港 (Liverpool John Lennon Airport)は、イギリスのリバプールにある空港である。


が、リバプール出身の偉大なアーティストであるジョン・レノンを称えて、2002年「リバプール・ジョン・レノン空港」という名称に変わった。

空港内にはジョン・レノンの銅像が建つ。また空港のロゴには、彼の曲である「イマジン」の歌詞の一節“above us only sky”が使われており、この歌詞は空港の屋根にも書かれている。

近年、ヨーロッパの空港の中でも格安航空会社の乗り入れによって発展している空港の一つであり、1998年から2007年の間に乗客数は約7倍になっている。>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

若い頃、と言っても40は過ぎていたが、ニューヨークのダコタ・アパートに住んでいたレノン夫妻を訪ね、イタリア街のレストランでご馳走になったことがある。

案内してもらった友人の加瀬英明氏(国際問題評論家)がレノン夫人のオノ・ヨーコさんと従姉弟だから出会えたのである。加瀬氏の母上とヨーコさんの父上が兄妹だった。

それまでの私はビートルズもジョン・レノンもまるで知らなかった。NHKは前田義徳(よしのり)会長の一声で長髪青年を番組から締め出した時代。わたしもまた、政治記者としてニュース以外の番組を見る暇はなかったから、ジョン・レノンは知らなかった。

古い、と言うか重厚なアパートがダコタ・アパート。薄暗くしてあるのは上品なたたずまいの演出とか。エレベータの扉が開いたらレノン氏が待っていた。長髪。

ロビーに幾つもの三角テントを張り、一人息子のショーンとうずくまっていた。何とかのエネルギーが身体に宿って丈夫になれると言っていた。「よくいらしてくださいました」とヨーコさんはにこにこ。

勿論、私も英会話の個人授業を受ける以前の時代だから、会話はすべて加瀬氏の通訳。

「僕は今、音楽活動を休んで主夫としてショーンの養育に専念している」と自己紹介。「僕の発音が叫んでいるようで、可笑しいでしょう。これは生まれたリバプールというところが坂のきつい港町。坂を登ってくる海風もまたきつい為、皆、叫ぶようにして喋らないと通じないんだ、だから大人になってもこういう発音は直らないんだ」とも。

「それじゃ出かけようか」となって下へ降りたら玄関でリムジン(大型高級ハイヤー)が待っていた。

案内されたところはイタリア街の小さなレストラン。勿論馴染の店なんだろう。ふと気づくと、ファンと思しき若い男女が大勢、レストランを取り巻いていた。

イタリア街というところは中華街に接し、「決して上品一点張りというわけではないが、とにかく料理が美味しいんだ」と薦めてくれる。ワインもじゃんじゃん。

食事の後、ヨーコさんを先に帰し、私たちを市内の印刷所に案内した。間もなく来るヨーコの誕生日。シルクのスカーフを一枚、印刷してプレゼントする。そのためにこの印刷所を買収したのだ、と。

何しろヨーコはモナリザにそっくりだろう、とヨーコさんの顔を印刷したスカーフ。その試し刷りを繰り返していた。

それから2年。レノンはリムジンの待っていたあの玄関で狂人に射殺されてしまった。

<レノンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」などの根拠に欠ける陰謀説も持ち上がったが、その後の捜査により現在は単独犯行として結論づけられている。

しばしば犯人は「レノンの熱狂的なファン」と言われるが、実際には彼は特に熱狂的なファンではなかったとされ、また一種の精神疾患的な症状があり、現在この説は疑問視されている。>(ウィキ)

2014年08月14日

◆他人に教える難しさ

渡部 亮次郎


日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれ ば田舎弁を覚える。私の英語はアメリカ訛りで日本語は秋田訛りだ。アメ リカ語は50を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究が あるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋 田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留 学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語 を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できな かった。

アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だっ た。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではな い、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3 日ぐらい分からなかった。

日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさ しの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、 わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。し かも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思 うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日 米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカ のパートナーである教育省は共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭う から力が無い。

私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが会議はしばしば地下室で開 かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さずカネを出し渋るから である。

最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことから しても日本における英語教育の責任は教師一人ひとりの肩に架かっている と言わざるを得ない。

英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということでもある。ただ英語 教師に願いたいのは、生徒に対して、君たちになぜ、今、英語を習わせる のかを最初に説明してやってほしい。「今のあなたの頭脳は柔軟で英語を 覚えやすいから」と。(わたなべ りょうじろう 1936年1月生まれ NHK 政治記者約20年 外相・厚相秘書官約5年 社団法人日米文化振興会理事 長17年。 最後は日本健康医療専門学校校長7年。 78歳。

2014年08月13日

◆APECの中国批判トーン軟化

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)8月12日(火曜日)通巻第4312号>  

〜焦点は11月の北京APECに移行したが
     中国の攪乱工作つづき、APECの中国批判トーンが軟化〜


ミャンマーの首都ネピドーで開催されていたAPEC外相会議は、議長国ミャンマーが「中立」の立場を貫いたため、加盟国全体での中国批判はなかった。27ヶ国全部が賛同することは考えにくいが、米国のケリー国務長官が、中国の挑発的行為をいさめると、中国は「部外者は介入するな」と開き直った。

日本のマスコミは岸田外相が王毅外相と秘密会談をもったこと、北朝鮮外相と会談したことを「成果」のように伝えたが、まったくノー天気である。

岸田は必死になって11月北京での習近平、安倍首相会談の実現を迫ったようだが、「まだ条件は整っていない」と王毅にあしらわれた。

逆ではないか。日本が言うべき台詞を中国に先に取られた格好である。

中国が条件として提示したのは安倍首相の靖国参拝をやめること、尖閣諸島では「領土問題が存在することを日本が認めよ」と高飛車な要求で、とくに後者は絶対に飲めない条件、要するに日中首脳会談は開かなくても良いと暗示しているのだ。

しかし安倍首相は「対話のドアはいつでも開かれている」と何回も表明してきたのであり、会談の必要性があるとすれば、中国の方から歩み寄るべきである。関係悪化の元凶はすべて中国にあり、日本が歩み寄る必要性は一つもないのではないか。

一方で中国は北京APECで中国の外交的成果を狙い着々と手を打っている。

インドのモディ首相が米国訪問に先立ち、習近平は9月15日にインド訪問を打診していることが分かった。インドのマスコミに拠れば、「日程的に都合がつかないので9月17日に延期を要望している」。

習近平はインドの米国、日本への篤い接近にくさびを打つ方針なのである。

9月初旬に日本を訪問するモディ首相は、明らかに中国に批判的スタンスをとるが、経済となると話は別物である。

日本は9月のプーチン訪日を実現させたいが、米国が不快感を表明しており、難しい情勢とも言われる。外交関係で、いつものように日本の独自性が失われている。

こうした環境のもと、11月APECは、海洋ルールの確立、法の支配などを大会決議として謳えるのか、どうか。北京は「アジアインフラ銀行」の設立で日本主導のアジア開発銀行に正面から揺さぶりをかけており、APEC加盟国への大盤振る舞い外交を展開して比較優位を回復しつつあるともみられる。
   

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から十代、二十代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、59年を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している>。

2014年08月10日

◆私の「身辺雑記」(131)

平井 修一


■8月7日(木)。朝は室温30度、快晴、すごい日射し。風はあるものの8時には32度、犬はハーハー、クーラーをつけた。

「朝雲」8/7から。

<防衛大学校1期生として、創成期から自衛隊とともに歩み、冷戦後は海上幕僚長として、ペルシャ湾に機雷掃海部隊を派遣、国際協力への扉を開けた佐久間一氏が、7月18日に亡くなられた。

掃海部隊の派遣前、氏は隊員に死傷者が出た時のことを考えていた。「国内ではごうごうたる非難が沸き起こるかも知れない。しかし、自衛隊は何のためにあるのか。国のためだ」――。そう自ら納得して送り出した。

今では9割を超す国民が、「信頼できる」と答える自衛隊だが、かつては陰湿な非難や中傷も多かった。作家の大江健三郎氏が毎日新聞に寄稿した一文もその一つ。「防大生を『恥辱』と決めつけたあの言葉は許せない」。

自衛隊を語る口調も、時に優しく、時に厳しかった。不祥事に対しては、「若い集団だからトラブルは避けられない。しかし、犯罪を犯すようでは組織はダメになる。軍の規律は厳しいが、必要性があって積み重ねてきた知恵だ」と言い切る。

退官の日は、次の世代に自衛隊を託すかのように、創隊記念日の7月1日だった。「自衛隊の任務の高さ、尊さは、我々を無視し、あるいは非難する人々を含めた、すべての日本人の平和と安全を守るということにある」との言葉で締めくくった。

集団的自衛権をめぐって国内を二分する議論が続いている。「常にあらゆる問題に対し、周到な準備と心構えを持ち続けてほしい」が、氏の願いだった。享年79歳。合掌>(以上)

オーエ真理教徒などのアカを封じないと国を守れない。

同じ紙面から小倉春樹氏(外交評論家)の論考。

<(ガザは)地区全体がいわば「巨大な監獄」状態に置かれ、住民は生活物資不足と物価高に苦しみ、停電が慢性化している。若者の失業率は40%を超える。これが、地下トンネルで密輸品を入れ、イスラエルへの敵意をあおるハマスへの支持を強めている。

ラビン(イスラエル)首相(当時)の下でオスロ合意をめぐるパレスチナ側との交渉を担当したダニエル・レヴィ氏は「今回の作戦目的はガザの征服ではない。軍はいずれ撤退し、ハマスは当分、ガザの統治者であり続けるだろう。ハマスと粘り強く交渉し、ロケット攻撃停止を働きかけるほかない。海上封鎖の緩和といった当方の譲歩も必要だろう」と提言する。

ホロコースト研究で知られる歴史学者イェフダ・バウアー氏も「ハマスのようなイデオロギー集団を武力のみで攻めるのは逆効果。こちらが交渉に応じる意向を示せば相手の立場を弱くできる」と説く。

そして「イスラエル軍にはアラブ系の兵士がいる。彼らはハマスや『イラクとシリアのイスラム国(ISIS)』のような組織がイスラム教徒全体にとって危険な存在だと知っており、イスラエルとパレスチナの相互理解に貢献できる」と語る。

両識者の見解は、国際社会にとっても傾聴に値するヒントを含んでいるのではないか>(以上)

小倉春樹氏は以前、こんなことも書いていた。

<歴史認識をめぐる日中・日韓の感情的対立のエスカレートは、余りにも大人気ない。数年前まで、3国の歴史学者や教師たちによる学術的な対話が行われ、東アジアの歴史の副教材(共同編纂)も出版されていた。政治家や圧力団体の声高な論争を凍結し、3国の専門家による冷静な歴史教育対話を日本の主導で再開させることを願う>

かなり甘い(赤い)見方だ。小生はイスラエルは大切な友好国と思っており、その視点から以下指摘する。

1)今回のガザについては、イスラエルの存在自体を抹殺したいハマスが秘密トンネルなどを使ってロケット砲を搬入し、ガザ全体を「人間の盾」で基地化して攻撃していたことに、イスラエルが反撃したものだ。トンネルはイスラエル軍の兵舎近くまで掘られており、奇襲されかねなかった。イスラエルの危機感はとても強い。

2)相手の生存権を認めないハマスとの対話はあり得ない。共存を認めるファタハの汚職に愛想を尽かしてハマスを選挙で勝たせたのはパレスチナ民衆である。汚職豚を捨てて人食い狼を選んだ代償は大きい。

3)まずハマスを駆逐してから「共存共栄」の対話を始めるべきだ。豚のファタハは少しは役立つ犬になるかもしれない。

次の問題。反中嫌韓の小生は東アジアの歴史認識、歴史解釈を共有する件についてこう思う。

1)日本ではどのような歴史認識を持つかは個人の自由である。明治維新について薩摩、長州、会津、徳川家では歴史認識はバラバラだろう。同じだったら異常だ。

中国は独裁国家で中共中央の歴史認識以外は排除、禁止されている。言論の自由はなく、中共中央に都合の良いように歴史は解釈されており、反日が国是だ。

韓国も同様に反日が国是で、憲法より上位の“国民感情法”により「すべて日本が悪い」ことになっている。それに反する言論は一切許されず、その論者は社会的に抹殺される。事実上、言論の自由はない。

2)日本と中韓が共有できる歴史認識はない。「過去の歴史認識が同じではないから、日本との関係改善は現在も未来もない」という中韓。一方で「70年以上も前の過去に縛られて現在と未来を見つめないのは双方の利益にならない」という日本。

接点はまったくない。なくていいのだ。朱に交われば赤くなってしまう。政冷経温あるいは政冷経冷で充分である。

夕方から風が吹いて21時には28.5度まで下がったが、体感温度は27度くらい。「涼風」で結構だ。夕方には空が高くなっていわし雲。そうか、今日は立秋だ。

■8月8日(金)。朝は室温29度、晴のち曇、9時過ぎに久々の微雨、それほど暑くない。アジサイがへたっていたので、もう少し降るといいが。

中共が「中国の人権白書2014」を発表したそうだ。中共の言うとおりにクチパクしていれば刑務所に送られないという支那に人権はない。“人権派”も“公民権派”も人権や最低限の生きる権利を求めたら刑務所行きになった。その中共が「人権白書」? 嗤うべし。「金権・利権・汚職白書」でも書くがいい。

不正手段で莫大な資産を築いた中共幹部は、それを隠匿するのに大いに悩まされている。ばれれば資産没収のみならず刑務所送りになるからだ。いかに隠すか、清貧の小生には関係ないと思っていたが、とんでもない、チャイナマネーが日本に押し寄せそうな印象だ。

アジア問題ジャーナリストの日暮高則(ひぐらし・たかのり)氏の論考「スイス、米国の銀行口座情報公開で、中国幹部、富裕層の金の持ち込み先がなくなった 」(霞山会8/5)が現況を伝えている。以下要約。

              ・・・

米国が2010年に成立させた外国口座税務コンプライアンス(FATCA)法の影響が今、中国の富裕層、腐敗幹部らの身辺にも及んでいる。FATCA法によって米当局はまず、個人情報の秘匿を“売り”にしていたスイスの金融機関に迫り、情報開示を約束させた。

同国には、中国共産党の高級幹部らが大量の資金を預託しているとされ、口座内容の暴露はすなわち幹部らの不正の証拠にもなりうるため、不安感を募らせている。そして、米中間も、7月1日から相手国の国民が自国内金融機関に口座を持つ場合、その情報を互いに開示することで合意した。

これは、米国政府が国内にある中国人口座情報を要求があり次第、中国当局に伝えることも意味する。このため、「今後、中国人が脱税した金や、汚職などで得た金を米国に持ち込むことが難しくなった」とも指摘される。海外資金を持つ人たちは今後、どういう対応をするのか。

スイスの金融機関は1934年成立の「連邦銀行法」に裏打ちされて、長い間、顧客の秘密保持に厳格対応し、それをまたセールスポイントとしていた。このため、世界各国の独裁者たちは、たとえ自らの政権が倒れることがあっても、その後に逃亡先の外国で悠々自適の生活ができるよう、その資産管理をスイスの銀行に任せるケースが多かった。

ムバラク元エジプト大統領、ベンアリ前チュニジア大統領、カダフィー元リビア最高指導者らの中東の独裁者は言うに及ばず、北朝鮮の権力者である金正日、金正恩親子もスイスの銀行に頼った。金正恩第一書記に至っては、自らスイスに滞在し、学校生活を送りながら、直接資産管理するほどだった。

スイスの銀行には、中東、アジアの独裁者ばかりでなく、中国の高級幹部も多額の金を預金している。2013年に出されたウィキリークス情報によれば、中国政府幹部でスイスに個人口座を持っているのは5000件以上、そのうち3分の2は党中央・政府の要人だという。

党幹部の多くはそのランクの高低にかかわらず口座を開き、特に2002年以降、香港に勤務した党局級幹部のほとんどはスイスに口座を持ち、賄賂の預入先にしていたという。

ある香港情報によれば、「江沢民(元国家主席)はスイス銀行に3億5000万ドルの秘密口座を持っている」という話がある。「(今回正式に党内処分が公表された)周永康前政治局常務委員は、汚職した金を海外に運び、海外に100億ドル以上をため込んでいるが、その多くはスイス銀行にある」という指摘もある。

米FATCA法は、米国人が海外金融機関に口座を持ち、税逃れするのを防ぐことを目的に、各国の金融機関に対して口座情報を米側に報告するよう求めたものだが、引き換えに、米側も自国金融機関の情報を各国に開示する義務を負うことになった。

すでに多くの国が報告義務順守を米側に約束してきたが、米中両国も6月26日、相互に情報交換を約束する協定に調印した。中国人民大学反腐敗・清廉政策研究センターの毛昭輝主任は香港文匯報の取材に対し、

「これは、中国の反腐敗キャンペーンに対する米国の態度が根本から変わったサインだ。すでに米国にいる汚職幹部がびくびくするばかりでなく、これから国外逃亡を図ろうとする連中にも大きな警告、圧力になる」

と評価した。

スイスの銀行の秘匿性がなくなり、米国の金融機関もあてにならない。さらに、カナダが投資移民を制限し、オーストラリアもそういう動きに出ている。となると、中国人の金はどこに行くのか。

今年3月下旬、日本のある大手商社が上海市内のホテルで、都内一等地の新築マンション展示会を開催したが、中国各地の不動産関係者が多数集まった。もちろん、投資目的の販売を目指したものだが、移住を目的にした人を意識していないわけではない。というのは、展示会では、日本の医療制度や教育制度などを詳細に説明したところもあったからだ。

「中国の不動産はバブル消滅で値下がり必至。そこで住宅価格がほとんど下がらない東京都心の物件が注目されている」とある不動産業者は話す。
(日中は)国家関係が悪いから却って情報開示などあり得ないとばかり、中国人は新たな投資先として日本に目を向け始めたのかも知れない。(以上)

                 ・・・

チャイナマネーが東京の住宅を買い漁る→高騰する→普通の真面目で勤勉な日本人中流階層が買えない→支那人が増える→公立の小中高は支那人の子供でいっぱいになる→日本人中流階層は郊外や地方へ逃げる→中共の「オキュパイ!東京」は成功する、平和的手段で……

チャイナマネーが日本を狙う!最悪の事態を考えて対策をとるべきだ。

■8月9日(土)。朝は室温27度、曇、涼しい。秋が遠慮がちにやってきたか。久し振りにホッとする。

長年愛用していたパンツが擦り切れて穴が空いてしまったので、カミサンに「当て布をして繕ってよ」と頼んだら、侮蔑を込めた顔つきになって、こう反論された。

「アンタねえ、パンツくらい買いなさいよ、パンツ屋が泣くわよ、まったくアンタって人は・・・」

呆れられた。

小生は「ものには寿命があるから、傷んでも直しなおし、もうどうしても直らないときは諦めて買い換える」という考えだ。小生の子供の頃まで木綿の寝間着は何回も繕って、やがてオムツになり、最後は雑巾になった。もったいない、ということを父母から、さらには本から学んだ。

ただ、カミサンの言うことにも道理はある。パンツ屋が泣くのだ。資本主義では質素倹約されると成長しないのだ。皆が、たとえ1年間でも質素倹約、窮乏生活、欲しがりません勝つまでは、とやったらパンツ屋のみならず全産業が激しく衰退する。

日本人は食品など生活必需品以外、たとえば小生の衣料品などは数年分のストックがあるから、実は衣料品なんて買う必要はないのだ。カミサンなんて箪笥から押入れまで衣料品が溢れている。もう買う必要はないのに「あら素敵」と飽きずに買ってくる。

ところが不要なのに買ってもらわないと資本主義は成り立たない。国民すべてが質素倹約すると、企業は売上減で人員カット、給料は低下、人々の購買力は落ちる、税収も減る、福祉を削る、乞食が溢れる、道路の補修もできない、結婚できないから人口も減る・・・亡国になってしまう。

たとえ無駄遣いであれ、去年より多少なりとも消費を増やし、企業の売上が伸び、給料と雇用が増え、消費が増えないと国の体力が減退するのが資本主義なのだ。自転車操業みたいに停まったら倒れてしまう。

だから企業は新型の商品を開発し続け、国民は旧型を捨て新型に買い換えるということを永遠に続けることになる。新型とか最新技術を開発しないと国際競争に敗けてしまうから、最低でもトップグループ(G7)にいないとまずいこともある。

とにもかくにも毎年GDPをそこそこのプラス成長にさせないうまくいかない。“失われた15年”のように活気がなくなる。とにもかくにも国民はできる限り消費し続けるしかない、たとえ借金してでも。

小生は成長率ゼロとかマイナスでも、そこそこ国民が幸せに暮らせる経済システムはないものかと考えているが、発見あるいは発明すればノーベル賞ものだろう。

先日、生まれて初めて民族衣装を着たブータンの青年を見かけたが、「国民総幸福量(Gross National Happiness、GNH)」をトレードマークにしているブータンは参考になるのどうか。

<ブータンの1人当たりの国民総所得は1,920米ドル(世界銀行,2010年)であるにもかかわらず,国勢調査(2005年)ではブータン国民の約97%が「幸せ」と回答しています。

「国民総幸福量(GNH)は国民総生産(GNP)よりも重要である」と,1970年代にGNHの概念を提唱したのは,先代のジグミ・シンゲ国王でした。

GNHは,経済成長を重視する姿勢を見直し,伝統的な社会・文化や民意,環境にも配慮した「国民の幸福」の実現を目指す考え方です。

その背景には仏教の価値観があり,環境保護,文化の推進など4本柱のもと,9つの分野にわたり「家族は互いに助け合っているか」「睡眠時間」「植林したか」「医療機関までの距離」など72の指標が策定されています。

国家がGNH追求のために努力することは憲法にも明記され,政策を立案,調整するGNH委員会が重要な役割を担っています>(日本外務省)

一方で「幸福の王国ブータンで苦しむ若者たち」(AFP2013/6/26)という記事もある。以下要約。

               ・・・

そこは「最後の理想郷」として知られている──美しい自然と仏教文化あふれるヒマラヤ奥地の国、国民の幸福が経済成長より重視される所。

だがそのバラ色の評判に、ブータン王国の都市に暮らす若者たちは迷うことなく異議を唱える。

「人びとが幸福でないことは見てとれる」と、ソーシャルワーカーのジグメ・ワンチュクさん(24)は語る。薬物依存から立ち直ったワンチュクさんは、首都ティンプーにある薬物依存の若者たちの相談所で働いている。

「私たちはとても多くの課題に直面しており、多くの人が苦しんでいる」

薬物乱用、アルコール依存、犯罪率上昇・・・最大の懸念は、多くの人と同じく、ブータン国内に若者向けの望ましい雇用がないことだ。しかもブータンの年齢中央値は26歳。今後さらに多くの人びとが生産年齢に到達する。

公式には、ブータンの失業率は2009年の12.9%から、2012年には7.3%に減少しているが、この統計には疑問の声も上がっている。

民間事業が発達していないことから高学歴のブータン人向けの事務職はごく限られている。一方で、成長する建設産業での手仕事は、国境を越えて来るインドの労働者が大半を担っている。

問題の背景にあるのは、ブータンが隣国インドに投資、支援、輸入で大きく依存していることだ。昨年、過剰な需要の結果、ブータンはインドルピーが枯渇し、結果として大規模な信用危機が起きた。

この経済危機のピークは、ちょうどジグメ・ティンレイ首相がニューヨークの国連会議で幸福哲学を説いていたころ訪れた。(以上)

             ・・・

表と裏、光と陰か。GNHも決め手にはなりそうもない。「資本主義に代わる経済システム」……一時期はソ連式計画経済の共産主義が有望だったが、全部失敗した。中共やロシアの国家独占(寡占 or 利権?)資本主義もやがて失敗するだろう。小生が昇天する前に解を見つけられるかどうか、本当に難しい問題だ。

夕べ遅く、帰省ラッシュの魁として長男一家3人が来たが、今朝は臨月の嫁さんが“お印”があったそうで朝食後に急遽帰宅した。大丈夫だろうか。

夕方には長女一党とN母子がジョインする予定だったが、長女の3歳男児が発熱してキャンセル。キッチンのカレンダーには娘たちが「SummerVocation イェーイッ! 西瓜わり、宝探し、プール、花火!」、小生との連絡ノートには食べたいメニューが書かれていたが、10人前用意した食材は他に転用するしかない。

夕食は結局、N母子と4人で、宴会の予定通りに冷やし中華、鶏もも唐揚げ、野菜炒め、生ハムサラダなど。想定外ばかりでいささか脱力、困惑。人生は、まあこんなものだろう。

午後に一時間ほど小雨、夜には25度になった。秋めいた風が心地よい。ツクツクホウシの声を聞く。(2014/8/9)

◆首相、内閣改造「菅長官は留任」

渡部 亮次郎


3副長官・5補佐官も 産経紙単独インタビューと9日付 けの産経新聞が以下のよう報じた。安倍首相の「守り」の姿勢がありあり。これだと注目の幹事長の処遇も大山鳴動ねずみ1匹と言う事態もありうる。

安倍晋三首相は8日、官邸で産経新聞の単独インタビューに応じ、9月第1週の内閣改造・自民党役員人事について「内閣の要である菅義偉(すが・よしひで)官房長官には引き続きやってほしい」と述べ、菅氏を留任させる考えを明らかにした。

加藤勝信、世耕弘成、杉田和博の3官房副長官に加え、木村太郎、礒崎陽輔、衛藤晟一、和泉洋人、長谷川栄一の5首相補佐官も留任させることをした。

首相は改造の狙いを「9月に自民党総裁に就任して2年になる。その機をとらえて、新たな気持ちで新たな目標にみんなが向かうことで、さらに政策推進力をパワーアップしたい」と説明した。

官房長官人事について「官房長官は政策を推進していく上で軸になる。官房長官には引き続きやってほしい。副長官も留任していただく」と語った。

閣僚や党四役への女性起用に関し「自民党には能力を持った女性陣がたくさんいるので生かしたい」と積極的に登用する考えを重ねて表明した。

民間人の閣僚登用については、「基本的には、国会議員の中からと思っている」と否定的な姿勢を示した。

一方、野党などから「集団的自衛権の行使容認が徴兵制につながる」との批判を受けていることについて「議論をゆがめる不真面目な対応だ。攻撃のための攻撃だ。徴兵制は憲法違反なのでやらないということを明確に申し上げている」と語った。

北朝鮮による拉致被害者らの再調査に関しては「調査の進捗(しんちょく)状況を慎重に見極めたい。その中で誠実に対応しているかどうか明らかになる」と述べた。

首相がかねて意欲を示してきた憲法改正については「国民的な関心と理解が深まらなければできない。どの条文からやるべきかも含め議論を深めたい」と述べるにとどめた。産経新聞 8月9日(土)7時55分配信


◆園田をたじろがせたヘイグ

渡部 亮次郎


<唯一、園田外務大臣をたじろがせた男の死が2010年2月21日、ひっそりと産経新聞の国際蘭で寂しく報じられた。レーガン米政権で国務長官を務めたアレグザンダー・ヘイグ氏。20日、感染症による合併症のため、米メリーランド州ボルチモアの病院で死去した。85歳だった。

鈴木善幸政権時、レーガン政権の国務長官に就任、日本の防衛費の飛躍的増額要求を表明。マニラでの初会談を前に、あの強気で通った園田氏をたろがせた。

<園田氏死して既に26年だが、園田氏はあの世でもヘイグ氏にたじろぐだろうか。いや、会談してみたら、戦闘士としては自分がはるかに上だったことを確認できたのだったから、もはや、絶対たじろぐような事は無いはずだ。>(「頂門の一針」2010年2月22日號)

ヘイグ死は1924年生まれ。園田氏は1913年生まれだから、園田が一回りも年上だったのに、たじろいだのは就任したばかりのレーガン政権を背景に、日本に対する防衛予算の莫大な増額要求の圧力の為だった。

園田氏は既に外務大臣を福田、大平の両政権で務めた後、鈴木政権では、厚生大臣のピンチヒッターとして入閣した後、日米首脳会談に伴う共同声明を巡って引責辞職した伊東正義外務大臣の後任として3度目の外務大臣に横滑りしたばかりであった。

鈴木・園田の交流は河野一郎時代は全く無かったが、「三木降し」で急速に接近、ポスト三木で「福田・大平2年後に政権譲渡」の密約交渉で深い関係が成り立った。

一方のヘイグ氏。陸軍軍人として朝鮮動乱、ヴェトナム戦争に従軍。ニクソン、フォード両政権で首席補佐官、北大西洋条約機構(NATO)の最高司令官を務めた。

そうした経歴を背景に、この年(1981)発足したレーガン政権に国務長官(外務大臣に相当)として入閣、日米安保体制のもと、日本の国防予算の格段の増額を要求するレーガン大統領の尖兵として初の日米外相会談を行なうべく、フィリピンの首都マニラで待ち受けていた。

鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。19日はマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートでヘイグ氏と相対した。

会談前はやや緊張気味だった園田氏だが、ヘイグ氏の要求する、韓国防衛に関する防衛費の負担については、筋論を展開、結論を急ぐヘイグ氏を押さえ込んだ恰好で、1時間は過ぎた。ヘイグ氏に言質を与えなかったのである。

結論を先に言えば、鈴木総理は翌年、突如、退陣。この問題は次の中曽根政権の宿題として持ち越され、中曽根氏が、瀬島龍三氏を韓国に派遣するなどして解決した。

それ以前に園田氏は11月の内閣改造で下野、急速に健康を害し、人工透析を余儀なくされ3年後の1981年4月2日に、僅か70で死んだ。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシードに限るとのお達し。

主従ともにそれを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

園田氏の死に先立ってマニラでは2月25日、コラソン・アキノ女史が大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。(「ウィキペディア」)

ヘイグ氏の訃報に接し、こうして29年前を思い出した。お退屈様。
                            (再掲)


     

2014年08月08日

◆メシに良く合うのが洋食

渡部 亮次郎


洋食(ようしょく)は狭義では日本で独自に発展した西洋風の料理を指す。岡田哲は『とんかつの誕生』で、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」という説を唱えた。

私は東京向島の洋食屋へ良く行くが、そういえばここでパンをちぎっている客は見たことが無い。「米飯と合うのが洋食」とは良く言ったものだ。

幕末から明治期にかけて来日した西洋人(おもにイギリス人)たちを相手に生まれた西洋料理店の料理がルーツである。それらの店で下働きしていた日本人コックたちは、のちに独立開業し、日本全土にその料理を広めた。

この流れとは別に、日本海軍はイギリス海軍を手本にして早くから西洋式の食事を取り入れ、洋食の普及に大きな役割を果たした。

これらの西洋料理は、日本の伝統的な「和食」に対して、次第に「洋食」と呼ばれるようになった。

かつて日本では肉食を忌避する習慣があったため、肉料理を主体とする西洋料理は日本人には馴染みにくかった。

しかし、1872(明治5)年、明治天皇が「これまで肉食を忌避してきたのは謂われのないことである」という趣旨のことを言われて初めて牛肉を召し上がられたよいう報道などもあり、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まった。

当時の洋食黎明期の日本で、西洋料理の食材を揃えることは難しかったが、徐々に改善された。日本人の味覚に合わせるためのアレンジが加えられることもあり、日本生まれの洋食としては、ポークカツレツ、カキフライ、エビフライ、ポテトコロッケ、ハヤシライス、オムライス、ドリアなどが挙げられる。

「とんかつ」のように、ほとんど和食と化したような料理もある。またエスカロップ(北海道根室市)やトルコライス(長崎県)のように、郷土料理と呼ばれている料理もある。

マカロニグラタン、クリームコロッケ、コンソメスープ、ポタージュ(フランス料理)、ビーフシチュー(イギリス料理)、ピカタ(イタリア料理)などは、西洋の調理法をほぼそのまま踏襲している洋食である。

これらは第2次世界大戦前では非常に高価であったが、戦後になってGHQの指導により西洋食材の普及が進んだこともあって、急速に日本人の食生活に広まり、ポピュラーな洋食となった例である。

1863(文久3)年、日本初の西洋料理店「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の渋澤栄一と五代才助。外国人や薩摩藩士に重用された。

1868(慶応4)年、「築地ホテル館」開業。レストラン初代料理長はフランス人コックのルイ・ベギュー。このレストランが日本で最初のフランス料理店とされる。

1872(明治5)年、西洋料理のレシピ集「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。

1876(明治9)年、日本人で初めて「フランス料理店」を名乗る上野精養軒が開業。後年、家人の父親がシェフを務めた。

1987(昭和62)年、和洋折衷料理という言葉が流行。東京の洋食店は1500店に膨らむ。

このうち、銀座の「煉瓦亭」は天ぷらのように大量の油で揚げるポークカツレツや、カキフライなどを考案し、のちの洋食に大きな影響を与えた。

1917(大正6)年、『コロッケー(コロッケの唄)』が流行。歌の内容は「ワイフを貰ってうれしかったが、いつも出てくるおかずはコロッケー、年がら年中コロッケー、アハハッハ、是りゃ可笑しい」。

新妻は、女学校で学んだ当時のハイカラな洋食であるコロッケを毎日張り切って作っていたのだが、亭主はうんざりしてしまったという内容である。

1924(大正13)年、東京神田に和・洋・中華のすべてを扱う大衆食堂「須田町食堂」が開店し、廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せるなどして人気となった。

このころ、お好み焼きのルーツである「一銭洋食」が駄菓子屋で人気となる。小麦粉を水で溶き、刻みネギなどを乗せて焼き、ウスターソースをかけて売られた。

1956(昭和31)年、アメリカ政府の「小麦戦略」により、日本で栄養改善運動と称して各地にキッチンカーが走り、洋食(および中華料理)が宣伝された。フライパン運動とも呼ばれ、4年余り続いた。

洋食でよく用いられる調味料のひとつであるウスターソースは、もともとイギリスの調味料であったが、大正時代に三ツ矢ソース、イカリソースなどのソースメーカーが関西に誕生して広まり、「新味醤油」「洋式醤油」などと呼ばれて様々な料理に用いられるようになった。記録によると阪神百貨店の大食堂では一人当たり160ccも使用したという。

ドミグラスソースやホワイトソース(ベシャメルソース)は、19世紀頃のフランス料理では主流のソースであったため、現在の洋食店でそれがよく用いられるのは、その当時の名残りと考えられる。

トマトケチャップが大衆化したのは第2次世界大戦後にアメリカ進駐軍が大量に日本に持ち込んで以降である。

一般的に「洋食」は、西洋料理全般から西洋風の料理まで幅広く意味する言葉であり、「和食」に対する概念として用いられている。

しかし近年においては、フランス料理は「フランス料理」、イタリア料理は「イタリア料理」というように、国名で呼ばれることが多いため、日本で独自に進化した西洋風の料理のことを「洋食」として区別される。

また石毛直道は『講座 食の文化 第二巻 日本の食事文化』で、「「洋食」は特定の欧米に限定されたモデルをもたない。それは、日本人が漠然とイメージした欧米一般のことであり、いわば日本で再構成された外来風の食事システムである」(同書p381)と述べている。また村岡實は、平凡社の『世界大百科事典』の「洋食」の項のなかで、「洋食には多分に日本的な要素がふくまれている」と指摘している。

私がすでに20年近く通っている向島の洋食屋「あきら」での定番はイギリス料理「ビーフシチュー」だし、品切れならハンバーグ。2014・8・7 
<ウィキペディア>