2015年05月06日

◆3度目は意識的失脚

渡部 亮次郎



トウ(!))小平は、1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】(83)第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長=当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「?(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」
                         執筆2007・07・19

2015年05月05日

◆「チョロ」の国家機密

渡部 亮次郎


日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうことか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前はNHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等とはとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ラインとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかったのだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろうと春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパートを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれた。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行っていない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国側とりなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそうだ。(文中敬称略)2007・07・31  (再掲)

2015年05月04日

◆加瀬俊一氏の再登場

渡部 亮次郎



日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に小沢一郎が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10時55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(のちの日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

その後、外務大臣秘書官、通商局3課長、アメリカ局1課長、政務局6課長、大東亜大臣秘書官、政務局5課長、情報局第3部長、情報局報道部長などを歴任し、この際に東郷平八郎海軍元帥の通訳を務めたこともあった。

また、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行した他、1935年(昭和10年)にロンドン海軍軍縮会議へ参加した。

1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)までは駐イギリス日本大使館に1等書記官として駐在し、首相になる前のウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージと親交を持った。

また、その後の松岡外務大臣秘書官時代の1941年(昭和16年)4月には、ソヴィエト連邦のモスクワで行われた日ソ中立条約の締結時に随行し、ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフとの交渉にも関わっている。

アメリカで教育を受け、さらに駐イギリス日本大使館への駐在経験もあったことから高い英語力を持ち、幣原喜重郎や吉田茂と近い親英米派として知られた。

1941年12月の日本と連合国との開戦時には、東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局6課(北米担当)課長であった。

第2次世界大戦終結時の1945年(昭和20年)9月2日に連合軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印には、重光葵外相ら全権団に随行し隻脚重光を艦上に担ぎ上げた。同年には報道局報道部長等を経て外務省参与に就任した。

その後、1955年(昭和30年)4月に行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の政府代表特命全権大使を務めたあと、同年から国際連合代表部特命全権大使。

1958年(昭和33年)から初代駐ユーゴスラビア特命全権大使などを務める。国連への加盟に尽力し、国連代表部特命全権大使就任の翌年である1956年(昭和31年)に、日本の国連加盟が実現した。

1960年(昭和35年)に退官し、外務省顧問等を歴任。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問を務める。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞にも尽力し、後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と『佐藤榮作日記』で述べている。

外務省退官後は鹿島出版会会長、京都外国語大学教授等を歴任し、外交評論家として数多くの著作を執筆した。松岡、東郷、重光、吉田といった第2次世界大戦前後の歴代外務大臣の側近であった加瀬の証言は、大戦前後の日本外交を知る上で貴重なものとなった。

また、保守・右派系の国民運動・政治団体である日本を守る国民会議(現日本会議)議長も務めた。2004年(平成14年)に神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年101。死の直前までフランス語を学んでいた。

妻寿満子は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。外交評論家でオノ・ヨーコの従弟の加瀬英明は息子。参照:「ウィキペディア』文中敬称略。


2015年05月02日

◆「生きている化石」の木

渡部 亮次郎


それは「メタセコイア」。東京都江東区の都立猿江恩賜公園近くに暮らすようになって20年近く経つ。その公園を毎日の散歩コースにしいるのだが、さすが昭和天皇から下賜された公園らしく、昭和天皇が好まれていたと言う「生きた化石」の木「メタセコイア」を沢山植えて、都民の「謝意」を表しているようだ。

まず、公園の入り口(新大橋通り側)に横並びにメタセコイアがそろって6本植えられ、公園のシンボルとなっている。通りを挟んで向かい側は区立江東公会堂(ティアラ江東)である。

私が散歩して居るのは「北部」地区。1周1・1キロ。3000歩である。その途中に、メテセコイアが数十本植えられている。木場(きば)の材木置き場を埋めたてて公園にしたのが昭和56年と言うから、既に34年、経っている。

メタセコイアはいずれも高さ30メートル近い大木に成長している。壮観だ。

メタセコイア。学名 Metasequoia glyptostroboides和名 アケボノスギ(曙杉)イチイヒノキ 和名アケボノスギは、英名dawnredwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と、現生種を別種とする学説もある)。

葉はモミやネズに似て線のように細長く、長さは1〜3cm程度、幅は1,2mm程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。樹高は生長すると高さ25〜30m直径1.5mになる。

1939年に日本で常緑種のセコイアに似た、落葉種の植物遺体(化石の一種)が発見された。発見者の三木茂博士により『メタセコイア』と命名され、1941年に学会へ発表された。

当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサ)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることが多い。

その後、1949年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地に植えられているのだそうだ。

英国の種苗会社などから、インターネットで種子が入手できる。タネは直径2〜3mmの、淡黄色のおがくず状の物で、発芽率はあまり良くないが、日本の気候にはよく合い、生育が早いので、栽培してみる価値は十分にある。

早めにタネを入手し、1月中旬か下旬に浅鉢、浅箱などに蒔き、タネが隠れる程度に覆土し、乾かさないように管理する。櫻が咲く頃に、徐々に発芽してくるので、数センチになったら3寸のポットに仮植えする。

秋には30cmくらいの苗に生育する。翌春発葉する前に、定植する。苗は一年で1m近く生育し、最終的には30〜40mになるので、株間は7〜8mは必要である。

冬のソナタ。メタセコイアの並木道が登場し、ドラマのファンからはシンボルの一つとして扱われる。

三木町―発見者・三木博士の出身地。博士の功績を記念し、メタセコイアを町のシンボルとしている。三木町(みきちょう)は、香川県東部に位置する町。高松市のベッドタウンとなっている。

また香川大学医学部ならびに農学部を擁する、三木キャンパスの学生街でもある。9月下旬に行われる『獅子舞フェスタ』で知られる。

近年、香川県農業試験場にて開発された讃岐うどん用国産小麦・さぬきの夢2000の試験栽培が開始され、同品種の名産地として脚光を浴びている。

この事はNHK総合のドキュメンタリー番組「プロジェクトX 挑戦者たち」第149回(2004(平成16)年7月6日放映分)にて「さぬきうどん 至高のうまさとは」というタイトルで紹介された。         2010・6・15執筆    
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2015年05月01日

◆暗い日本メーデー史

渡部 亮次郎



1936年、二・二六事件発生。陸軍将校たちが政治・経済の改革を叫んで政府転覆を狙った事件。これにより戒厳令が敷かれた後、同年3月19日付けで治安維持を目的とする内務省警保局通牒が発せられた。

「集会及多種運動の取締方に関する件」(「多衆運動ハ従来慣行ニ依リ許容サレツツアルモノト雖(イエド)モ右期間中ハ凡テ之ヲ禁止スルコト、従テ愛国労働祭又ハメーデー等の計画アル向ニ対シテハ予メ之ヲ中止スル様諭旨スルコト」)が発せられたのである。

3月24日に予定されていたメーデーが開催禁止された。体制は共産中国でも明らかなように大衆が纏まって動く事を嫌う。しかしこれに反対する無産政党や日本労働組合全国評議会(全評)の組合らは3月26日にメーデー禁止措置反対行動を起こし、内務省や警視庁へ抗議。

4月27日に全評の山花秀雄が組合幹部個人の名義でメーデー実施を指令し、当日は小規模ながらも全国で様々な形の集会やデモが開催された。

指令を発した山花はメーデー終了まで愛宕署に検束拘置された。この年から1945年まで日支事変激化などの理由で開催されることはなかった。

私は全くの子供だったし、当時は新聞が読めない。ラジオもテレビもない時代だったから、こうして改めて勉強するまではメーデーの歴史など知る由もなかった。

大東亜戦争敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)。小学校5年生。草深い秋田では何も知らなかった。

1951年の第22回大会では、サンフランシスコ講和条約締結を控えて反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて芝公園で実質的な中央メーデーを開催し、戦後初の分散メーデーとなった。

日本の主権回復後に行われた1952年の第23回大会では、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約への抗議も主張に含まれた。その際に皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突した(血のメーデー事件)。

米軍政下で琉球政府時代の沖縄でもメーデーは開催されていた。1951年に恩納村万座毛に300人が集まったのが沖縄で初のメーデーであった。

1952年には「即時本土復帰」「サンフランシスコ講和条約第3条撤廃」などを掲げた本格的なメーデーとなり、これをもって第1回沖縄メーデーという。昭和27年、高校生だった。

1954年の場合、労働運動から反米運動への展開を恐れた米民政府はカール・マルクスの実際の誕生日は5月5日であるにもかかわらず、「5月1日はマルクスの誕生日であるため、非共産主義者はメーデーに参加しないように」という声明を出し、開催阻止に向けて圧力をかけた。東京で大学生だったが労組や社会党が大嫌いだったから近付かなかった。1度も参加しないまま、無縁になった。

高度成長期には総評、同盟などの共催で統一メーデーが続けられ、1984年の第54回大会では特別決議としてメーデーの祝日化要求が採択された。

「時短(労働時間短縮)元年」と位置づけられた1985年の55回大会ではサブスローガンで「週40時間制」、前年の祝日化要求決議を引き継ぐ「太陽と緑の週」の法制化など、労働時間短縮(時短)の実現が掲げられた。

新たに「スポーツ祭典」が併催されて「お祭りメーデー」と呼ばれる家族ぐるみの行事に発展したが、他方で労働運動としての意義の喪失に繋がると社会党や共産党、日本高等学校教職員組合(日高教)などいくつかの労組から反対や再検討を求める批判がなされた。

その後、労働組合の全国中央組織の再編による組織対立の激化で、1989年以降は統一メーデーの開催ができなくなり、連合と非連合系の全労連や全労協による分裂開催となった。

また、前後がゴールデンウィークで長期休暇を取る例が増え、労働組合活動が低調になってきて参加者数が減少したことを理由に、連合系メーデーは2001年以降4月29日や土曜日に行うようになった。

一方で全労連や全労協のメーデーは5月1日開催を続けており、その分裂と対立の構図は解消されていない。

2008年、連合は4月26日土曜日、東京の代々木公園で中央大会を開き、主催者発表で約4万5千7百人が参加した。「暫定税率の復活による増税反対」「後期高齢者医療制度廃止」などののぼりが立ち並んだ。

一方、平日の5月1日に同じ場所で開かれた全労連系中央大会は「貧困と戦争をなくせ!」を主テーマとし、主催者発表で約4万4千人が参加した。

連合と全労連のメーデーは、どちらも1920年からの通算回数をカウントしており、2015年で第86回目を迎えたとしている。
出典「ウィキペディア」

2015年04月30日

◆俺の女房だと毎日は叫べない

渡部 亮次郎


「これは俺の女房だと毎日叫ぶのは恥ずかしいことだ、と同様、尖閣諸島はわが国固有領土だと毎日叫び続けることは恥ずかしい」と日本外務省。「嘘も百編唱え続ければ真実になる」よろしく中国。これが尖閣諸島問題の本質だ。

1968年 10月12日―11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。この話は元首相岸 信介から直接聞いた。

その岸は総理辞任後、個人事務所を構えたのが新橋駅に近い日本石油の一郭だった。元通産官僚として、石油に深く関係する岸だった。

海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。

だが、関係者はともかく、日本国民の殆どは、この事実を知らず、尖閣諸島の名も知らなかった。後に外務大臣の秘書官になって深く知らざるを得なくなる私も、政治記者時代は全く関心がなかった。

1971(昭和46)年 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、いわゆる保釣運動へと発展した。

6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。

6月17日:日米が沖縄返還協定に調印。この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している。

12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。

72年7月5日、田中角栄が「角福戦争」を制して政権を獲得。

7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

9月27日:田中角栄内閣総理大臣が日中国交正常化交渉のため中国を訪問。私はNHK記者として同行した。

周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている。

この事実は同行記者団には発表されなかったので、最近知った次第。中国では当時まだ毛沢東が存命中。経済改革・開放論者のトウ小平は下放中。将来、中国共産党の首を絞めるほどの重要資源になることを周恩来は自覚できなかった。

9月29日:日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。

1973年8月、田中批判をTVや「文芸春秋。赤坂太郎」で展開することで田中側近の竹下登副幹事長がNHK政治部長に渡部亮次郎記者の左遷を要求。NHKはこれに抗することなし。

渡部は3度も辞表を提出するが受理を拒否される。止む無く大阪に転勤。3年後東京・国際局に副部長として戻ったが、1977年11月にNHKを退職、福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に横滑りした園田直の秘書官に就任(内閣総理大臣辞令)。日中平和友好条約の締結交渉に従事。

1978年4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。青嵐会(せいらんかい)の石原慎太郎らが主権の侵害だと福田政権を突き上げる。

この時私が日本外務省野幹部に質したところ「これは俺の女房だと毎日叫ぶ事は日本人の感性からすると恥ずかしくてとてもできることではない」という説明があったのだ。だから日本は始めから負けていると言えなくもない。

8月8日、園田外相が日中平和友好条約締結の最終交渉のため特別機で訪中。渡部随行。

滞在期間中、トウ小平副首相が園田外相に対し尖閣諸島問題の棚上げを表明。

10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。田中内閣による国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べる。

「ウィキペディア」によれば、<中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった]。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる。



  

2015年04月29日

◆つつじとさつき

渡部 亮次郎



今は都立猿江恩賜公園の躑躅(つつじ)の豪華さに酔っているが、私はこれでも20代の終わりごろ、三鷹で皐月(さつき)の盆栽作りに夢中になっていたことがある。

当時は花の色香よりも木が曲がりくねって生長してゆく様に魅かれた。花が終わったらすぐに剪定にかかり、薬剤散布もちゃんとやらなければ油虫が花の芯を食ってしまって咲くべき来春の花が咲かない。

だから忙しい政治記者の手には負えなくなって横浜の知り合いに全部くれてやったが、彼は手入れをし過ぎてすべてを枯らしてしまった。水のやりすぎによる根腐れ病を起こしたのかも知れない。

私に盆栽造りを奨めてくれたのは河野一郎氏の側に秘書官みたいにして付いていた藤尾正行代議士。選挙区の栃木県鹿沼まで招待してくれた上に何十鉢の皐月の盆栽を貰って下さったのである。

躑躅(ツツジ)の花には薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の花のような豪華さはないが、庶民的で親しみのもてる可憐さがある。そのような点にひかれてか,古くから世界各地で多くの園芸品種が育成されている。

冬にも枯れない常緑性ツツジの園芸品種は日本,落葉性ツツジの園芸品種はヨーロッパで育成されたものが多い。

日本で造られたツツジの園芸品種は、ケラマツツジからヒラドツツジ、サタツツジが、ヤマツツジからキリシマやクルメツツジなどが、マルバサツキからサツキの各園芸品種が育成されているように,日本固有の野生種を利用しての品種改良が行われてきた。

一方,ヨーロッパでは中国産、日本産やアメリカ産のジャコウツツジ,カフカス産などから各園芸品種が改良されているように,他の地域から導入されたツツジの野生種をもとに品種改良が行われている。

現在世界のツツジの園芸品種の総数は2000以上にのぼるものとみられ,栽培が容易であるため庭園用,鉢植え用として広く利用されている。

今後,より耐寒性,耐暑性の品種,あるいは花色が黄色や青色のツツジ園芸品種が育成されるならば,さらに利用されるようになるであろという。

ヒラドツツジは長崎県平戸市の旧武家屋敷の裏庭に植栽されている大型ツツジの中から選抜されたツツジとその近縁種の総称で,直径10cm前後の大輪の花をつけ,葉や樹姿も大型となり,平戸市内にある古木では高さ4m以上に達するものがある。

南九州から沖縄にかけて自生しているケラマツツジを母体に,モチツツジやキシツツジ,リュウキュウツツジが自然交雑してできたものである。

花色は紅,紫,桃,白と多彩であり,早く育つので公園や街路植栽用によく利用されている。耐寒性が弱いので利用は西日本が中心になるが,オオムラサキのような耐寒種もこの仲間に入る。


キリシマ R. obtusum Planch. は,小輪で濃紅色の花を数多く咲かせる。枝がよく伸び背の高い樹姿となるので,公園などに植え込むとたいへん美しい。

また,枝が伸びる性質を利用して,枝物として生花材料として利用されることも多い。鹿児島県の霧島山に自生するヤマツツジから江戸時代に品種選抜されたもので,日本の園芸ツツジ栽培の草分けとなった品種である。

クルメツツジは,キリシマと鹿児島県南部に自生するサタツツジを親に,江戸時代末期に久留米で品種改良されたツツジである。小輪で多花性,枝があまり伸びないのでコンパクトな樹型になり,花時には樹冠一面が花でおおわれるようになる。

花色は赤,白,桃,紫,淡紫,絞りなどと多彩で非常に派手な色彩のツツジであるため,公園や庭木としての利用が多い。大正年間にウィルソンE.H. Wilson によってアメリカに導入されて以来,ヨーロッパ,アメリカでもクルメ・アザレアの名で広く利用されている。

ミヤマキリシマ R. kiusianum Makino は九州の1000m以上の高山にだけ自生している極小型のツツジで,花の直径は2cm内外,枝は短くつまり,ツツジ類中ではもっとも小型の部類に属する。

可憐な花型とコンパクトな樹姿から小盆栽として利用される場合が多いが,耐寒性もあり庭木としても利用できる。ヨーロッパではダイヤモンド・アザレアとして近年注目をあびるようになっている。


リュウキュウツツジ R. mucronatum G. Don は日本に野生のあるキシツツジとモチツツジの間の雑種性のツツジとみられる。たいへん丈夫で,耐湿性,耐寒性があるため,江戸時代からリュウキュウツツジの名で栽培されてきた。花色は白であるが,近縁種には淡紫のもの,絞りのものもある。

皐月(サツキ 陰暦5月のこと)はツツジの仲間であるが,江戸時代からツツジと区別されてきた。花型,樹姿にそれほど差はないが,花の時期がサツキは5〜6月でツツジより際だって遅いのが特色で,サツキの名もこれにちなんでいる。

西日本各地に野生しているサツキと吐菓喇(とから)列島(九州南端から約130キロ南にある火山島群)付近に野生しているマルバサツキの交雑によって品種ができたもの。

両親の形質が対照的であるため,サツキの園芸品種は変異の幅がたいへん広く,サツキ愛好熱の高まる一つの理由になっている。

花色は紅紫,桃,白のほか,絞り花や底白花など,変化のおもしろ味があることや,樹姿,葉姿の均整がとれて美しいことから盆栽としてよく利用されている。

また,刈込みにも耐える性質をもっていることから,庭園用樹としても利用が盛んである。

ところでツツジの繁殖は一般に挿木による。常緑性ツツジはほぼ一年中挿木できるが,地温が15〜20℃の季節がいちばん早く発根する。ツツジは陽光を好むので,日当りのよい場所に植えるのがよい。

水はけが悪いと根腐れを起こしやすい。酸性土壌を好むので,植え穴にはピート,腐葉土などの有機質を多量に混入するのがよい。花芽は7〜8月に分化するので,それ以後に刈り込むと翌年の花が咲かなくなる。

剪定(せんてい)は花後すぐに行うのがよい。肥料は油かすを株の周辺の地表に置肥するのが安全で,化学肥料は根を傷めるおそれがある。ダニ,グンバイムシなどの害虫や褐斑病の発生がよくみられるので,5月から9月までは定期的に薬剤散布を行うとよい。

参考:平凡社『世界大百科事典』 2008・4・17

2015年04月27日

◆トウ小平のタン壷

渡部 亮次郎



記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞) =故人が2012年9月22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、トウの足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>ちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて北にしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した。ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだろうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的だった。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか。

2015年04月26日

◆北京で遺体を曝す毛沢東

渡部 亮次郎


モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けでは無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されている。

私が毛の遺体と初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。

そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。

帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現したケ(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。

毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。
http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php

その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。

観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。

さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。

田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。

それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる4人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。

それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もないケ(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。

1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ小平による改革開放路線の展開となる。

それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。

だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来とケ小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。2009・01・06


2015年04月25日

◆官邸襲撃のドローンは中国製だった

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)4月24日(金曜日)参 通算第4526号 > 
 
〜やっぱり首相官邸襲撃のドローンは中国製だった
   化学兵器を無人機に搭載して攻撃する軍事行動の予行演習ではないのか?〜


首相官邸の屋上に飛来した、セシウムを摘んだ無人機ドローンが中国製であることが判明した。危機管理の手抜かり、政府中枢が、これほど外敵の攻撃に脆弱なことが図らずも曝されることとなった。

現段階では推測の域を出ないが、もし某国が日本攻撃をするシナリオを想定した場合、こうした無人機に化学兵器を積んで、いちどに何十機も飛ばしたらどうなるのか。中枢が麻痺し、日本は身動きが取れなくなる。米国のように地下壕が造られ中央司令部がただちに置かれる状況が、平和国家日本では想定もされていない。

専守防衛を掲げるのであれば、皇居、首相官邸、国会、防衛省本部など、無人機の攻撃からいかに防御するかを真剣に考え、対策を講じなければなるまい。

この奇貨をいかそう。

◆“大阪都構想”論争に考えたこと A

眞鍋 峰松(評論家)
       

(承前) また、現在の“都構想”について、市民の間に大きな誤解を生じていると思われる点がある。
 
それは、大阪府を「大阪都」に変えるには、例えば「大阪府を大阪都にする」といった新法をつくらなければならない。だが、特定の自治体だけに適用される法律をつくるには憲法上、住民投票にはかる必要があり、府民全体に名称変更の是非を問うことになる。 

ほかに、名称を変更できるよう地方自治法を改正する方法も考えられるが、そもそも“都”という名称は何を意味するのか。常識的に考えれば、“都”は一国の首都を意味するのではないのか。 

それで果たして、現在当然の前提のように思われている“大阪都”というネーミングそのものが、法律名称として採択されるものだろうか、甚だ疑問である。
                    
さらに、大阪復興の観点からみれば、今の議論で完全に抜け落ちていると思うのが、学術・文化の発信機能の復権である。

元気なのは吉本興業系列ばかりという状況からの脱却である。考えれば、この問題もマスコミや印刷・出版界等のいつしか行われた首都圏とりわけ東京への一極集中に起因する事柄である。


橋下市長はこの問題にどの程度の危機意識を抱いているのだろうか。
                           
故会田雄次京大名誉教授は、文化面からの大阪の地盤沈下についてその著書「リーダーの条件」の中で『ハレとケの精神学:大阪は天下の台所、その住民も庶人気質を以て任じかつそれを売り物にして来た。だから大阪にはハレの場所は育たず、その機会もなかった。だが、そのことから思いもかけぬ結果が出て来た。大阪の地盤沈下である。

それは単に東京が政治の中心だということが原因ではない。それも大きな原因だろうが、その逆手をとる方法だってある。だが、そのケ主義のためケで満足する人は大阪に集まってもハレを求める人材は大阪に来なくなった。大学は育たない。出版社も生まれない。作法・デザイン文化は展開しない。インテリは住みたがらない。

ヨーロッパ風のおしゃれの町、日本調の凝った町、六本木風植民地的風景の町も出現しない。外人も興味を示さない。京都と神戸がなかったら大阪は巨大な場末都市になり終わるところだった。

こういう環境からは科学技術も、一般学問も醸し出されて来ない。情報文化は育たない。漫才と落語だけでは困るのだ。高度な知識産業の時代、情報化社会では大阪の地盤沈下は当然の結果であろう。』と、辛辣に指摘されている。

大阪府民・市民にとって敬聴するべき意見だろう。
      
最後に、橋下市長が問題提起するように、この狭い府域に、府知事と大坂市長という実際上同格の権力者が存在しているのは現実であり、二頭建て権力を一元化しようとする試みが“都構想”である。 

まさに橋下市長の言う「いまの大阪府と大阪市は中途半端な財布をそれぞれ持っている。大阪府と大阪市という行政体を1回ぶち壊して、新たな大阪をつくっていく」のだろう。
 
確かに「両雄並び立たず」「船頭多くして、船、山に登る」の状況は避けなければならない。 この点は誰しもが理解できるし、納得もできる。 


だが、果たして、大阪“都構想”がこの状況を解消のための唯一無ニの手法なのだろうか。

今、多大の経費をかけ採るべき手法なのだろうか。現在の知事と市長の法律上の両者間の権限分与が時代の変化に立ち遅れ、現状に合致していないのであれば、どう改変すれば良いのか、という判断もあろう。
 
もし都制にとなった事後に誤解と偏見に基づいたものであったと気付いても、今回のような巨大な体制・組織の本格的変更はそうそう簡単に修正の効くものではない。
 

本当に将来の大阪を真剣に考えるならば、マスコミの行った各種の世論調査の結果が“都構想の内容がもう一つ分からない”という回答が絶対多数を占める状態での住民投票の強行が果たして正しいのだろうか。 

また、こう言えば実も蓋もないことになるが、最近マスコミ等もよく指摘しているように、単なる就職先と化している状態の中での地方議員と首長との間の政党紛争や政策論争にのみ行方を委ねることにも危惧を抱く。 
過日の朝日新聞で記載されていた大阪大大学院北村亘教授(行政学)の話のように「大都市のあり方には様々な選択肢があっていいが、住民サービスへの影響が大きく、イチかバチかで進めてはいけない。提案者は街づくりの仕組みや教育、福祉がどう変わるのかしっかりと示し、市民がチェックできるようにすることが必要だ」との見解もある。 

また、同新聞で中田宏・元横浜市長(1964年生まれ。2002〜09年横浜市長。12年に大阪市特別顧問として橋下徹氏を支えた)は、「政令指定市長と知事は連携ができていない。二重行政やメンツの張り合い、責任の壁もある。大都市ではシステム論でないと改革できない。

指定市の市長経験者として限界は共有しているから、都構想の基本的方向性は大いに賛同します」としながらも、「橋下さんは正直、たいしたもんだとうなる力量です。ただ、結果は「100」か「0」かになってしまう。橋下政治のリスクは、結果が出るのかわからないというところですね」と指摘している。                                             
既に今月27日に告示、5月17日にはいよいよ住民投票が実施されようという現時点では若干遅きに失した感があるが、これらの発言からしても、私はやはりもっと地道な行政運営実態についての検証と政策提言の下、地方行政に精通した学者や識者の点検・検証結果を踏まえた上で、これを解り易く公開し、住民判断を求める方が良いのではないか、と考えるが、どうだろうか。(終)

2015年04月22日

◆トウ小平の吐いた壮大な嘘

渡部 亮次郎



「この問題は次世代の話し合いに任せましょう」そういって当時の中国共産党副主席トウ小平は尖閣列島の帰属問題の棚上げを提案。あれから37年、中国政府は話し合いのテーブルに就こうともしない。一方的に領有権を主張。「この際、一気に強行」と言う姿勢である。

<1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告され、結果、周辺海域に石油があることがほぼ確実であると判明した。

ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えるとともに、尖閣諸島に上陸し「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。

1971年6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していて、米国の施政時代にも米国統治へ抗議した事実がないことなどから、日本国内では領有権を主張し始めた切っ掛けとして海底油田の可能性が高いと唱えられている。>(ウィキペディア)

1978(昭和53)年8月、中国の経済開発を助成する為の日中平和友好条約の締結交渉に赴いた園田直(すなお)外務大臣に対し、在京の総理大臣福田赳夫から「尖閣列島の帰属問題に何らかの回答を得るように」と言う訓令が届いた。9日のことだった。

この背景には総務会長中曽根康弘の強い意向があった。そこで園田は10日午後4時半から人民大会堂で行われたトウ小平副主席との会談で持ち出した。これに対し、トウは既に察していたらしく「この問題は後世の世代の話し合いに任せよう」と提案。園田はこれを呑むしかない空気だった。

議論すれば、このとき、帰属問題にここで決着を付けなければ2日後に控えた日中平和友好条約の署名は拒否するという選択があった事は確かだ。

事実、この半年後にトウは経済の改革開放を決断するわけで、これにはとりあえず日本の資本と技術は不可欠。それを裏付けるのが日中平和条約だから、署名延期か拒否となれば、トウは往生したはずだ。

この辺りがお人好し日本人の限界なんだろうか、福田内閣は署名に応じたのである。秘書官の私は複雑な思いで署名調印の筆先を見つめていた。

日中平和友好条約の締結は1972年9月、訪中した田中角栄首相が日中共同声明で公約したものである。しかしソ連の反発を恐れる両国の交渉は遅々として進まず、続く三木内閣でも宮澤喜一外務大臣が大幅な譲歩をしたにもかかわらず成就しなかった。

続く福田赳夫内閣でも外相鳩山威一郎時代は全く進展しないままバトンは官房長官から横滑りした園田に引き継がれた。その時、私はNHK国際局報道部(当時)副部長のポストから招かれて福田首相から外務大臣秘書官に発令された。

内閣改造に際して官房長官1人だけが留任して外相に横滑りだから、世論は福田首相が日中条約の締結に本気と受け取った。しかしこれは世論の誤解だった。カギは「大福密約」である。

「福田は首相を2年務めたら後を幹事長大平に譲る」という文書に署名した密約。これを成就させた功績者は園田。しかし福田は親分岸信介にせがまれて彼の娘婿安倍晋太郎を官房長官に据えなければならなかった。だから園田を怒らせないよう閣内ナンバー2の地位を与えたというのが真相であった。

園田は「密約」を遵守して「大平政権」樹立に軸足を移しつつ、日中条約の調印に向けて懸命の突っ張り。持病の糖尿病に起因する腎不全と闘いながら、最後は命がけの北京行となったのだった。もはや調印拒否の気力は残ってなかった。調印後、程なくして全盲となり死亡。

今から考えれば、中国では周恩来首相に続いて毛沢東主席が逝去。失脚していたトウ小平が復活。持論の経済の改革開放(資本主義化)に向けて着々と党内の地歩を固めていた時期である。

これに対して日本側は佐藤正二大使以下中国大使館が情報収集活動が全くできないでいた。そこで園田が個人的に放った黒衣からの情報だけが変わってゆく中国政府部内の様子を伝えていた。

イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵」はトウも既に知るところ。後にはアメリカが国運を賭けて攻め入ったイラク。トウが自らの行なった資本主義化が、どれほどの石油を必要とするかを具体的に予測できていたとは思えないが、「ここで騙して踏ん張らなければ後世、墓を暴かれる」と決意して吐いた嘘が「次の世代云々」という壮大な嘘だったのである。

あれから37年。中国は世界制覇のための海軍強化に乗り出し、そのためには基地としての尖閣の存在は何物にも替えがたくなってきた。中国は尖閣に伸ばした手を引っ込める事は絶対に無い。
(文中敬称略)2015・4・21

2015年04月19日

◆松茸がスカンク?

渡部 亮次郎

幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本何万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。

ところでマツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。2006年10月13日の毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。

ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち05年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。毎日新聞「余録」 2006年10月13日 0時04分)

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなどの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場所に生育する。

古くから日本人にこのまれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。

これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所を好むので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。

兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さんは「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>
とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。

中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。

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