2012年12月24日

◆田中角栄と園田直

渡部 亮次郎


二人は同じ自民党に在りながら「角福戦争」では両端の別れ目を命を賭けて闘った。直氏は福田派の参謀として。しかし角栄氏が引退同然になってからの二人は元の友人に戻った。それを知らずに福田は大平の足を引っ張った。晩年の福田不幸の原因はそこにある。

二人に対する出会いは園田氏のほうが先。船田中衆院議長と田中伊三次副議長が日韓条約批准案の採決強行の責任を取って辞職した後、佐藤栄作自民党総裁(首相)が指名した後任の候補者は山口喜久一郎に園田直(そのだ すなお)だった・両人とも旧河野派所属。

既に河野一郎氏は、この年の7月8日に急逝していたので、党内では問題にならなかった。むしろ入閣経験の無い園田氏の副議長起用は、嘗ての池田勇人内閣当時、国会対策委員長としての園田氏の手腕を「記憶」していた「人事の佐藤」を称える声が大きかった。

当時、私は政治部配属2年目のNHK記者。1年目を首相官邸記者として過ごした後。衆議院記者クラブに配属されていた。ここは衆議院正副議長を担当しながら衆院本会議や各委員会全般の動きを掌握する部署。3ヶ月ぐらいで殆どを覚えた。

首相官邸当時はキャップの指示で河野氏担当記者の助手みたいなことをしていて、河野氏(当時は無任所相)が担当していた日韓基本条約締結交渉の経緯を河野氏から聞き、霞クラブ(外務省記者クラブ)のキャップ島 桂次記者(のちのNHK会長)に伝えることにしていた。

船田・田中コンビの後任となった山口・園田コンビは何をするか。正月の伊勢参りに同行してみたが、これといったものはかぎつけることができなかった。

ところがある日、議長室にはいった社会党の石橋国会対策委員長が出てきたのが副議長室だった。通じていなかった正副議長室が通じている。これを知ったことが建国記念「の」日創設をめぐる自社両党の妥協をスクープすることになった。

園田氏はそうした手腕を佐藤首相に買われ、副議長を山口、綾部健太郎、石井光次郎と3代の議長を補佐したのが認められ晴れて厚生大臣として初入閣、水俣病とイタイイタイ病を初の「公害病」として認定。

マスコミからは不人気の佐藤内閣にあってただ1人の「好一点」などとはやされたが選挙区でもあった水俣では「恥を暴露した」と不評。総選挙では得票が減った。だからあれを「売名」だったと評価する一部の人はまちがっている。

園田氏は厚生大臣を辞めたところで佐藤首相の希望で国会対策委員長に就任。幹事長田中角栄の許で国会運営の責任を担うことになった。田中は既に佐藤のあと、首相の地位を狙って着々と自派勢力の拡大を進行させていた。これをマスコミは対抗馬福田赳夫外相による角福「戦争」と命名した。

このとき私は福田派担当。園田氏とは昵懇の仲になっていた。彼には田中支持に回るよう助言したが、親分の重政誠之が「昭和電工事件仲間で福田支持だから」と言って福田に走った。結果はご承知のとおり。

園田氏は角福戦争の後約10年を「無冠」で過ごした。その間、武道館に通ったり趣味のラジコンにこって無聊を慰めた。ラジコンで模型飛行機を飛ばすのに良く誘われて茨城県の牛久沼の小屋に泊った。

一方の角栄氏は戦争には勝ったものの、「金脈」でミソをつけた。問題の総合雑誌「文芸春秋」には渡部亮次郎が「赤坂太郎」の名で反田中の政治評論を書いていることをつきとめ、「背後に園田あり」と園田に濡れ衣を着せるという失策を演じた。

それは渡部の大阪左遷でカタをつけたが飛んでもない「ロッキード」事件による5億円の収賄事件が発覚して逮捕される事態に発展した。逮捕させたのは首相の三木武夫だとなり、とんでもない場面で角福共同による「三木おろし」となった。

三木を降ろさなければ田中の協力を得ての福田政権樹立の悲願達成は不可能というわけで園田氏は福田の身代わりとなって三木降しに奔走。私は大阪でやきもきしながら週に一回は上京して園田氏を応援した。

私を大阪に左遷させた田中を私は恨んだが、田中の立場にたてば当然だったと考えるようになっていた。今では人格的には福田より角栄のほうが立派だったと思っている。

園田氏は角栄氏を直接、間接的に説得。ポスト三木で2年間は福田氏、その後は大平正芳氏という密約を結ぶことに成功。品川のパシフィック・ホテルで文書を交わした。

かくて福田氏は70歳にして首相に就任。園田氏は官房長官としてスポット・ライトを10年ぶりに浴びたが、福田氏は「密約」を反古にすべく着々と手を打ち始めた。その第一弾が園田氏の外務大臣への横すべりだった。

世間やマスコミはこれを念願の日中平和友好条約の締結と結びつけて考えたが、そうではなかった。とにかく密約支持の園田を官邸に置いていたのでは「反古」工作がままならない。

加えて親分岸 信介氏からの女婿 安倍晋太郎を官房長官にという熾烈な要求にも応えることが出来る。外交素人の園田を外務大臣で処遇すれば園田は横滑りを納得するだろう。

しかし園田はその昔、重光葵(しげみつ まもる)大臣の許で外務政務次官を勤め外務省新館を建設した実績さえあるし、何よりも密約反古を狙う福田の腹を知って立腹していた。NHK記者から秘書官に転じてきた私にはすべて語った。

園田氏は日中平和友好条約交渉を積極的に進める一方、田中角栄との連絡を蜜にするようになっていった。目白の田中邸に時々午前5時ごろ訪問した。いつも私を帯同した。勿論、いつも車内で待機していた。

福田の腹中は常に話題だった。情報は大平に常に伝えられたはずだ。
既に福田に勝ち味はなかった。こういう戦いにかけては実際に戦争をした党人派に「経験」がある。

福田政権の末期、園田外相は森善朗官房副長官らの作戦参加要請をけってアフリカ訪問を敢行したりした。7月14日、パリで森氏を激しく叱責する場面もあった。

結局福田氏は密約を反古にして総裁選に立候補。しかしマスコミの予想を大きく覆して大平に敗れ「天の声にも変な声がある」との迷言を遺して官邸を去った。

「会長は後任の社長を暖かく見守っていれば返り咲きと言う場面が無いわけじゃない」と園田氏は言い続けた。しかし福田氏のいじめが効いて大平氏は総選挙のさなかに急死した。

虎ノ門病院で遺体と対面した園田氏は「これから何処へ行こうか」と私に言ったあと目白の私邸に田中氏を訪ね「後継首相は鈴木善幸」で一致。外国マスコミは「ゼンコウ Who」と打電した。
2012・12・23

2012年12月22日

◆消えて行く「童謡」

渡部 亮次郎


「童謡」は「唱歌」に対抗するものである。でも私の子供時代はアメリカとの戦争時代だったので学校で教える「唱歌」以外、唄ったことが無い。高校生になって歌謡曲でNHKのど自慢には出たが。

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。

少年少女合唱団・童謡歌手多くの少年少女合唱団が作られ、童謡の普及に貢献した。童謡はまた、多くの童謡歌手を生み出した。

本居長世の長女、本居みどりは日本初の童謡歌手であり、みどり・貴美子・若葉の三姉妹により、レコード録音やラジオ放送が行なわれた。

童謡作曲家の海沼實の主宰していた音羽ゆりかご会からは川田正子、川田孝子姉妹が出ている。

男の子供では、増永丈夫がいた。この少年が後の国民的名歌手藤山一郎である。

その流れはその後も『うたのおばさん』の安西愛子や『おかあさんといっしょ』のうたのおねえさんとして小鳩くるみや茂森あゆみへと受け継がれていた。


「童謡」は学校教育用に創作された「唱歌」や、自然発生的に作られたわらべ歌(自然童謡、伝承童謡)に対して、大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲。厳密には創作童謡(そうさくどうよう)と呼ばれる

大正時代初期以前は子供の歌といえば、いわゆる「わらべ歌」であった。明治期に西洋から近代音楽が紹介されると、学校教育用に「唱歌」(文部省唱歌)と呼ばれる多くの歌が作られた。

これらは徳育・情操教育を目的に、主に「文語」体で書かれ、多くは日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものである。

大正時代後期になって「子供に向けて創作された芸術的香気の高い歌謡」という新しい意味付けをしたのは鈴木三重吉(すずき みえきち)である。

鈴木は1918(大正7)年7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊を契機に「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と名付けた。

さらに当時は「子供たちが書く詩」も童謡と呼んでいた。このため「童謡」という語には1910年代以降、

1.子供たちが集団的に生み出し、伝承してきたわらべ歌(=自然童謡、伝承童謡)
2.大人が子供に向けて創作した芸術味豊かな歌謡(=創作童謡、文学童謡)
3.子供たちが書いた児童詩

という3つの概念が付与されていた。これらの概念は時代の変遷に伴って変化したり混在したりした。

2000年代現在では狭義の「童謡」という語は(2.)の意味で定着しているが、近年ではその概念は大きく広げられ「童謡=子供の歌」としてとらえ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など全ての子供の歌を「童謡」という語で括ってしまう傾向が目立つ。

ところで、もともと「童謡」(創作童謡)は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したといえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。

創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三(秋田県人)作曲による楽譜を付けて掲載された。これが創作童謡の嚆矢である。

これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。

『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。

北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。

昭和・平成[ 第2次世界大戦前・戦中昭和にはいると児童文学雑誌は次第に不振となり、最も長く続いた『赤い鳥』『金の星』ともに1929年(昭和4年)には廃刊となった。

さらに、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになった。実は私が小学校(国民学校といった)に上がったころ、知っている童謡は一つもなかった。家にはラジオもなかった。テレビは未発明。

一方で『隣組』(1940(昭和15)年作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫)や『戦争ごっこ』のような戦時童謡と呼ばれる歌が作られたりした。現在『汽車ポッポ』(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は『兵隊さんの汽車』という題名の出征兵士を歌ったものであった。

太平洋戦争の終戦後は、ベビーブームもあり、再び子供の歌への関心が高まった。『ぞうさん』(1948年(昭和23年)、作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨)や『犬のおまわりさん』(1960年、作詞:佐藤義美、作曲:大中恩)など、2000年代現在でも歌われる多くの歌が作られ、ラジオやテレビで放送された。

『おもちゃのチャチャチャ』(1963年(昭和38年)、作詞:野坂昭如ら、作曲:越部信義)の野坂昭如など、童謡にかかわったことのある著名人は多い。NHKの「みんなのうた」からも多くの童謡が生まれている。

その後も時折『ピンポンパン体操』(1971年(昭和46年)、作詞:阿久悠、作曲:小林亜星)、『およげ!たいやきくん』(1975年(昭和50年)、作詞:高田ひろお、作曲:佐瀬寿一)や『山口さんちのツトム君』(1976年(昭和51年)、作詞・作曲:みなみらんぼう)、『だんご3兄弟』(1999年(平成11年)、作詞:佐藤雅彦、作曲:内野真澄)のような大ヒットはあるものの、概して低調である。

近年ではアニメソングなどに押され、古くからの童謡が家庭で歌われることは少なくなっている。昔の「童謡」は消えた。2012・12・21


2012年12月20日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎


リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという。

青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。


2012年12月18日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎


毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣、佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいた。

1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否し、ミサイルで撃墜されたとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。林彪事件には今なお謎が多い。

林彪を失った毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたトウを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。


2012年12月16日

◆監視される中国特派員

渡部 亮次郎


中国に多少通じる人と会うと、「北京や上海の日本人記者は碌な記事を送ってこない」「中国に批判的な記事は1行も書かない」と非難する。

だが、事情を知れば、この非難は的外れだ。日中間には「政治三原則」遵守を義務付けられた「日中記者交換協定」と言うものが存在し、中国における日本人記者の取材活動を縛り、監視しているのである。

しかも、それを暴露すれば直ちに「国外追放」が待っている。追放されたら2度と中国へは入国できない。彼ら彼女らは片時も自由を得られず怯えながら取材をしているのである。

1964(昭和39)年9月には、LT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることになった。

1968(昭和43)年3月、LT貿易は計画の期限を迎えてあらたに覚書「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が交わされ、覚書貿易(MT貿易)へ移行した。

このとき双方が「遵守されるべき原則」として「政治三原則」が明記された。「政治三原則」とは、周恩来・中華人民共和国首相をはじめとする中華人民共和国政府が、従来から主張してきた日中交渉において前提とする要求で、以下の三項目からなる

(1)日本政府は中国を敵視してはならない。
(2)米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、これに基いて各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に抵触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。盗聴は24時間である。

三原則を拡大解釈すれば、少しでも中国に批判的な記事は抗議の対象となる。ひいては日本記者たちに自己規制を強いる結果となる。それが中国の狙いだった。

記者交換協定の改定に先立つ1967(昭和42)年には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この1968(昭和43)年の記者交換協定の改定は日中国交正常化(1972年)の4年前のことだったが、北京で交渉に当たった田川誠一・衆議院議員(故人)らと中華人民共和国政府との間で「結論は一般には公表しない」ことが決められ、その内容も報道されなかった。

筆者は当時、自民党担当のNHK記者だったが、後の「角福戦争」の前哨戦たる派閥抗争を追うのに忙しく、記者協定は勿論、日中そのものに関心が無かった。それにしても大変な「箍(たが)」がはめられていたものである。

後に外務大臣の秘書官に転身。「協定」の改訂にも関心を寄せたが一度味を占めた中国側の壁はもはや鉄壁だった。交渉に応じようともしなかった。

この不明朗な措置は、後に「一部の評論家などから、日中記者交換協定が、中国への敵視政策をとらないという政治三原則に組み込まれ、報道の自由を失っているとの批判を招く」一因になったとされる。

また協定の存在自体により、中国に対する正しい報道がなされず、中国共産党に都合の良いプロパガンダしか報道されていないという批判もある。

その後、中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂(みのる)は、中国の壁新聞(街頭に貼ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期は朝日新聞を除いた他の新聞社も、追放処分を受けている。

他社の記者がすべていなくなった北京で朝日の秋岡特派員は林彪が1971年9月13日、逃亡途中に墜落死したにもかかわらず生存説を打電し続けるという有名な誤報事件を起こした。

1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留される(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、中国共産党に都合の悪い記事を書くことは、事実上不可能である。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

中国語習得を売り物に入社した記者は殆ど中国にしか用事が無い。中国に入国できなくなれば商売上がったりだ。だから滞在中は中国から睨まれないよう萎縮して取材するしかない。それを評して「まともな記事を送って来ない」と非難するのは的外れでは無いか。

余談ながら、1972年9月、日中国交正常化のための田中角栄首相の北京訪問の際、同行したが、望遠レンズの使用が禁止された。狙撃銃が仕込まれているかも知れない、というのだ。

また、日中首脳に10nまで近づける記者は「近距離記者」で特別待遇。それ以外の「遠距離記者」は「観衆」扱いだった。外国の商業メディアの記者は「反革命分子」同然なのである。
参考「ウィキペディア」2010・10・30を再掲

2012年12月15日

◆ウィルス性肝炎

渡部 亮次郎


2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。来月は7回忌だ。死亡は彼の73歳の誕生日の前日だった。

発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけた。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。私は20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

2012年12月13日

◆リンゴ主産地は中国

渡部 亮次郎


深夜、周恩来首相を先頭に、中国人たちが「我々にも日本の赤いリンゴを栽培して食べさせろ」とデモをしている夢を見た。しかし世界に於けるリンゴの主産地は中国ではないか。

秋の果物の王者リンゴ。生まれ在所秋田や隣の山形県にもあるが、なんと言っても北隣の青森県、それも日本海岸の津軽だ。尤も敗戦後間もなく流行した霧島昇と並木路子の「リンゴの唄」の映画のロケ地は秋田県増田町であった。

リンゴの原産地はなんとなくアメリカだと思っていたが原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地である。

現在日本で栽培されているものは、明治時代以降、西洋から導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。

亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。

だから台湾にリンゴは無く、日本からの土産が珍重される所以である。

江戸時代に栽培されていたリンゴは、中国から入ったワリンゴ(ジリンゴ)1種だけで、明治以後に導入されたリンゴとは別種である。

現在、和リンゴは長野県上水内郡飯綱町で1軒の農家が栽培してその姿を伝えている。

和リンゴの実は、大きさ直径3 ―4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前である。 また2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存するワリンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した実はお盆に各地の寺社に奉納している。

リンゴをはじめてアメリカにもたらしたのは種子を携えて行った初期の開拓者だった。マサチューセッツ・ベイ・カンパニーの記録によると、早くも1630年にニユーイングランドに生育していたという。

種子は宣教師、貿易業者、アメリカ先住民によって西方にもちこまれた。ジョン・チャップマンがたったひとりでアメリカ中西部にひろくリンゴの木を植えたといわれている。しかし品種改良はあまりしなかったのかニューヨークあたりの辻で売られているリンゴは極小さい。

セイヨウリンゴがはじめて日本に入ったのは、江戸末期の1861〜64年(文久年間)江戸・巣鴨の屋敷に植えられたものとされるが、本格的な導入は1872年(明治5)に開拓使によっておこなわれた。

それ以来、600種をこえる品種が入ってきたが、現在、市場に出荷されている品種は、日本で育成されたものを含めて十数種にとどまる。

明治初期に導入され、現在も栽培されている品種には、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、旭(あさひ)などがあり、大正期に導入されたものに、デリシャス、スターキングデリシャス、ゴールデンデリシャスがある。

敗戦後、弘前周辺から国鉄奥羽線に乗っておばさんたちが秋田へ手作りのリンゴを売りに来た。それより前の戦時中は売りに来なかったものだ。高校の頃は1日に紅玉を6個も食べた。歯も当然丈夫だったから皮も剥かずにかぶりついた。

第2次世界大戦後は日本国内でも品種の育成がおこなわれ、青森県りんご試験場の育成のつがる、陸奥(むつ)が登場した。

農林水産省園芸試験場盛岡支場(現、果樹研究所リンゴ研究部)が育成した「ふじ」などが登場してきた。

「ふじ」は国光とデリシャスの交配から選抜育成されたもので、甘みと酸味のバランスがよく、母種の国光にかわって人気品種となった。日本のリンゴ栽培面積の約3分の1をふじが占める。

このほか日本産の品種には、北の幸、王林、王鈴(おうれい)、世界一などがある。

2006年現在世界では年間約6千万tのリンゴが栽培されている。生産量は中国がトップでアメリカ合衆国、フランスなどが続く。

日本では青森県、長野県、岩手県で主に栽培されており、青森県は全国の50%のリンゴを生産している。日本の都市でリンゴの生産量が最も多いのは弘前市で全国の約20%を生産している。

2012年12月10日

◆政治家が泣いちゃいけない

渡部 亮次郎


私が秘書官として仕えた元外務大臣、厚生大臣の園田直(そのだ すなお)はハンカチを絶対使わなかった。毎朝、天光光(てんこうこう)夫人がズボンのポケットにハンカチを忘れずに入れるのだが、外では絶対使わなかった。

日中平和友好条約の締結交渉は真夏の人民大会堂で行なわれたが、流れる汗は拳で払っていた。

「ハンカチ? 泣いている園田という写真説明を附されたらおしまいじゃないか」。欧米で政治家が大衆の前で泣くという自己抑制力の無さをさらけ出したら政治家失格の烙印を押される。日本とて同様と言うわけだった。

大東亜戦争で陸軍特攻隊に志願しながら敗戦で奇跡的に生き残った園田氏。豪胆にして情感豊かな政治家だったから、水俣病を公害と認定する前など、泣きたいような場面には何度も遭遇した。しかし絶対涙は見せなかった。ハンカチで顔を拭うこともなかった。

ところで古い産経新聞の【産経抄】によると、「▼昭和の政治家に比べ、現代の与野党の皆さんが何ともひ弱に見えてならない。例えばある経済産業相である。菅直人首相の原発政策を批判、辞任の意向を示すなど対立を深めてきた。辞めれば「菅降ろし」の決め手になるという、今「注目の人」だ。


▼首尾よく退陣に追い込めば「次」の有力候補にもなる。その氏が(2011年)7月29日、国会の委員会で「号泣」したのだという。野党議員から「いつ辞めるのか」と突っ込まれると「もう少しこらえてほしい」と涙ぐみ、しまいには大泣きだったらしい。

▼首相への反発や原発政策など苦悩が重なったため、との解説もある。確かに、将来のエネルギー政策という重い課題を背負っている者として感きわまったのかもしれない。

だが国民みんなが政治にイライラしているとき、大臣に泣かれてしまっては、一段と気が滅入る」。とある。テレビニュースでこの場面は私も偶然見た。

記者として、大臣側近として永らく政治の現場を踏んだが、人前で泣いた政治家は初めて見た。逆に言えば自己抑制の利かない政治家の第一号といわれても文句は言えまい。

省みれば昭和の政治家たちは宮澤喜一を除けば、戦争に関係し、戦場で弾丸に晒されながら生き抜いてきた「勇士」だった。だから「度胸」があった。

ある意味で戦争が度胸の据わった政治家を育てたともいえるのだろう。だから戦争を起こせとはいわない。だが、平和な世の中では、「立派な政治家」は高望みなのだと覚悟を決める以外に無い。(文中敬称略)


2012年12月07日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎


土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋から春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシとは関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギに転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむし)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶし」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀することから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となったが、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期からで、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文があってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。したがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとっては一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎのぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこに潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギの産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出された物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたことがある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であり、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。
出典:フリー百科「ウィキペディア」


2012年12月04日

◆牡蠣の季節になった

渡部 亮次郎


既に故人となられたコロムビア大学のハーバート・パッシン教授は大の日本食ファンだったが、地元では「カキ」好きとして通っていた。だから昔はニューヨークで会うたびに「オイスターバー」に案内された。

ニューヨーク・マンハッタンの玄関口“グランド・セントラル・ステーション”の駅構内に1913年に創業。約100年の歴史と世界的な知名度を誇るアメリカ随一のランドマークレストランとして、連日活気に溢れている。

ものの本によると、日本国内では、世界2号店として、品川駅構内に品川店、第3号店として東京駅にほど近い明治生命館に丸の内店がオープンしたとあるが入ったことはない。

我が国の一般家庭ではカレンダーの月に「R」の無い5月から8月までは生ではたべない。貝毒を避けるためである。

貝毒は貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものである。対策として、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されている。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月。広島県立総合技術研究所の研究によれば、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるとしている。

細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはない。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要である。

カキ(牡蛎、牡蠣、硴、英名:oyster)は、海の岩から「かきおとす」ことから「カキ」と言う名がついたといわれる。古くから、世界各地の沿岸地域で食用、薬品や化粧品、建材(貝殻)として利用されてきた。

食用にされるマガキやイワガキなどの大型種がよく知られるが、食用にされない中型から小型の種も多い。どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通である。

養殖する方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めにホタテの貝殻を海中に吊るすと幼生が貝殻に付着するので、後は餌が豊富な場所に放っておくだけというものである。野生のものは餌が少ない磯などに付着するため、総じて養殖物の方が身が大きくて味も良い。

英語でカキを指す“oyster”は日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、アコヤガイ類やウミギク科、あるいはかなり縁遠いキクザルガイ科などもoysterと呼ばれることがある。

わが郷里・秋田では県南の日本海岸で8月の半ば頃、水深10mぐらいの天然牡蠣を採取して生で食べるから「牡蠣喰い」を一般的でない。まして汽水湖 八郎潟で育った私はNYへ通うまでは牡蠣の生食いは知らなかった。


2012年12月02日

◆日中友好を願うは大罪

渡部 亮次郎


日中国交正常化以前、日本人で日中「友好」なんて口にする者はいなかった。昭和47年、政権を獲得したばかりの田中角栄氏が首相として北京に乗り込んだ途端に中国が言い出した言葉なのである。

日本人は愛する者に「愛している」とは言わない。気恥ずかしいからである。口には出さぬが深く愛しているのである。奥ゆかしいのだ。

中国人は愛して無くても口先では愛しているという。共産党の幹部になると愛人が何十人もいるという猛者がいるそうだ。今回、党籍を剥奪された前重慶市党委書記薄煕来氏は、その理由として愛人問題が指摘された。愛なき愛人が一杯いるのだ。

「多くの女性と不適切な関係を持った」。おゝこわ。

彼らは彼らの都合で日本を餌食にしているだけなのに、こともあろうに対中、対韓関係の改善を急ぐべきだなどと頓珍漢な主張を掲げて自民党内の主導権獲得を目指す人いるのにはのには呆れるばかりだ。

私は1972年9月、田中角栄首相にNHK記者として同行し、日中国交正常化の現場に立ち会った。その6年後に今度は園田直外相の秘書官として日中平和友好条約の締結に力を尽くした。ODA(政府開発援助)供与開始に責任を負ったのである。

このときの中国は毛沢東、周恩来が既に世を去り、共産党資本主義を掲げるトウ小平の時代に入っており、工業、農業、国防、科学技術の近代化(四つの現代化)実現に狂奔しており、わが方の莫大な資金と科学技術が必要不可欠になっていた。

元々中国が佐藤内閣までの聞くに堪えない日本非難を突然止めて中日友好こそがアジアの安定を齎す、そのためには戦時賠償を放棄するといって田中内閣に国交正常化を求めてきた時、わが方は日中戦争の贖罪意識もあって簡単にその手に乗った。彼らが全体主義国家であることを忘れた。人情で考えてしまったのだ。

また日中平和友好条約の時は、彼らの方から「覇権主義称揚の禁止」を条約中に書き込むことを執拗に要求してきたため、田中、三木両政権は対応できず、調印、締結を断念した。

今思えば、この頃わが方は完全に中国の掌の上で裸踊りを踊っていたのだ。なぜなら3度目の政治復活を果たしたトウ小平は、わが世の春を謳い、国の舵を資本主義に切り替え、アジアにおける覇権確立を企図していた。

そのためにはとりあえず日本の資金と技術を獲得することを主眼としていたのであるから、条約の区々たる文言なんかどうでもよくなっていたのである。6年も纏まらなかった条約が、人民大会堂でなんらの議論もなしに妥結したのを思い出す。中国は都合が変ったのである。


あれから34年。江沢民、胡錦濤時代になって急に対日姿勢が厳しくなったように誤解する向きがあるが、違う。所得、地域格差の矛盾に悩む共産中国が体制維持のために求める敵を日本と設定しただけであって、靖国は方便に使われているに過ぎない。それなのに靖国を総裁選挙の争点にするとは売国的大罪である。中国の手に乗ってはいけない。


政治は共産主義のまま、経済だけを資本主義に切り替えたトウ小平。国が僅か30年で世界2位のGNP大国になるとは予想していなかったはず。まさか航空母艦を持つ海軍大国になるなど予想していなかったはずだ。

精々国中を新幹線が走るぐらいの夢しかなかったはずだ。だからあのときは海底に眠る石油とガが欲しくて尖閣棚上げを主張したのである。

それが今や目的が変わった。海軍国家中国として太平洋の半分を制覇するためには尖閣が邪魔でしかたなくなったのである。それなら「奪ってしまえ」となったのである。

この期(ご)に及んでも中国と「友好」でなければいけないと主張する輩(やから)が自民党員にもまだいるらしいが、やめたほうが良い。

「中日友好」は「日本強奪」の包み紙なのである。それなのに「日中友好」を日本人が願う事は当に「大罪」なのである。

2012年11月30日

◆干拓された懐しの八郎潟

渡部 亮次郎


秋田県南秋田郡大潟(おおがた)村は、昭和32(1957)年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きい”八郎潟”(はちろうがた)という湖だった。東沿岸の飯田川町に生まれた私は子の汽水湖特産の蜆貝を潜って捕るために水泳ぎを自然に覚えたものだ。

八郎潟は、男鹿市船越(ふなこし)で日本海とつながっていて、淡水と海水がまじるから汽水湖だった。そのため、淡水と海の両方の魚がとれた。八郎潟のまわりの町や村の人々は、美しい”潟”の景色を眺めながら、漁業や農業でくらしていた。

ワカサギ・シラウオ・フナ・ハゼ・ボラなど、淡水の魚と海の魚をあわせて約60種類もの魚がたくさんいた。潟のまわりには、約3000人もの漁民が生活しており、春から秋には船で網を引き、冬には氷を割って網をかけ、いろいろな道具を使いながら、たくさんの魚をとっていた。

また、工場で佃煮をつくる人もたくさんいた。このように、八郎潟は、まわりの町や村の人々に多くの恵みを与えていた。しかし、雨が多い時などは、岸の近くの人々に水害をもたらすこともあった。

干拓は海産物に恵まれなかった秋田では、八郎潟の水産資源はかけがえのないものだった。また、秋田では昭和23(1948)年頃になると米の自給体制が終わっていていた。

しかし、日本全体としては食糧難という事情があった。

干拓への計画

八郎潟周辺では、昔から、いろいろな人が干拓をして土地をつくることを考えていた。江戸時代には、払戸(ふっと)村(若美町)の渡部斧松(わたなべ おのまつ)という人が、岸の浅い場所を干拓して田を造っ
た。

明治時代には、島義勇県令(県知事)がはじめて大がかりな干拓計画を立てたが、実行できなかった。大正、昭和にはいると、こんどは国の力で干拓しようと、何度も計画を立てたが、戦争が始まり、実行できなかった。

昭和20年、長く続いた戦争が終わり、日本全国が大変な食糧不足になった。そこで、今度こそ八郎潟を干拓して広い土地をつくり、米を作ることになった。

しかし、漁業をやっている人々は、魚が捕れなくなるので反対した。そこで、漁業をやっている人々には、お金でつぐなったり、干拓した土地を与えたりすることで賛成してもらった。私の父の「干拓運動」もやっと実を結んで終わった。

私の祖父は日露戦争に駆り出されたが、その留守の間に、家督を継いでいた兄が氷上漁業中、氷が融けて流され水死していた。祖父が家督を継いだ。その長男が私の父慶太郎だが、若いころから八郎潟干拓論を唱えて奔走。「ワタケイ バカケイ」といわれたものらしい。

私は長じてNHKの政治記者になり、当時の「実力者」河野一郎の担当記者になったが、元農林大臣の河野さんは八郎潟かんたくろんじゃの「バカケイ」を知っていたので父のことを改めて思ったものだ。

干拓が始まる

昭和27(1952)年7月、秋田県庁に八郎潟干拓調査事務所が発足し、干拓の計画づくりが始まった。

調査計画には、国の土地の約2分の1が干拓地というオランダから応援してもらうことになった。昭和29年に、オランダのデルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が計画について報告した。この年の春、私は大学入学のため秋田を後にした。

昭和29年の世界銀行、翌30年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められた。昭和31年に農林省でオランダの協力を得て、今の大潟村を作るための計画ができあがった。

昭和32(1957)年、いよいよ干拓工事が始まった。最初は八郎潟の内側に堤防をつくり、南部都北部の排水機場も作った。堤防に使う石をとるために、八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。

昭和38年に堤防や排水機場などができてから、堤防でかこまれた中の水をかき出した。さらに2年後の昭和40年、すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15,600ヘクタールの陸地になった。この面積は、一辺が100mの正方形の15,600倍もある広さ。

この干拓工事は、当時の最も進んだ科学技術の力で行われ、延べ約300万人もの人々が働き、20年におよぶ歳月と852億円の巨費を投じ、20世紀の大事業と言われるほどの大きな工事だった。

ヤンセン教授 (1902-1982)

日本滞在中は、八郎潟だけでなく全国の干拓地を見てまわった。

干拓をするためには、台風や洪水などの自然災害に遭わないよう、工期を短くすること、そのために徹底した調査と設計の必要性を説いた。

フォルカー技師 (1917-2000)

干拓地に村をつくる

干拓でできた新生の大地に、いよいよ村をつくることになった。村の名前は、全国から募集して、「大潟村」と決定。この名前は、八郎潟のことを昔「大潟」とよんでいたことから。

村の誕生日は、昭和39(1964)年10月1日。そのころ、無数の貝殻でおおわれた大地があらわれはじめた。干拓で陸地になったと言っても、村には何もなかった。大潟村に住む人々が安心して暮らせるように、その後、道路や田んぼ、用水路や排水路、それに家やいろいろな建物が少しずつつくられた。


村民の入植

大潟村は、広い農地で大型機械を使った新しい農業のモデルをめざし、たくさんの食糧を生産するためにつくられた村。入植する村民は、全国から募集した。入植した人々は、試験を受けて合格し、1年間、入植指導訓練所で新しい農業の勉強をした。

それから家族といっしょに大潟村に住むことになった。このようにして、北は北海道から南は沖縄まで、全国38の都道県から589戸の農家の人々が入植した。また、農家だけでなく、他の職業の人々も住むようになったのは当然。

新しい農業 

全国から入植した人々は、希望にもえて新しい農業に取り組んだ。しかし、もともと湖の底だった土地は、ヘドロというたいへん柔らかい粘土でできた土。そのため、大きなトラクターやコンバインが土に埋って動かなくなったり、ヘリコプターで田んぼに直接種をまいても失敗したりして、たいへん苦労した。

そこで村の人々は、力を合わせて一生懸命頑張った。そのかいがあって、今では、たくさんの米もとれるようになったし、麦や豆、カボチャなども作られるようになりました。また、たいへんおいしいと評判のアムスメロンやリンゴも作られるようになった。

ac.ogata.or.jp/kantaku/kantaku.htm  2012・11・26

2012年11月27日

◆ホスピスで死んだ船木

渡部 亮次郎


必要があって、急にホスピスとモルヒネが、身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた。

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということだ。最近も高校の同級生船木克己君が膵臓癌のため秋田市内のホスピスで死んだ。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語が出来た。

歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。

18世紀末、アイルランドは、イギリスの植民地でプロテスタントによる弾圧により居場所を失った人々が居た。修道女 マザー・メアリ・エイケンヘッド(アイルランド「シスターズ・オブ・チャリティ」(慈善修道女会・カトリック)創立者)はその居場所を創る志を立て、19世紀にダブリンに(ホスピスの原型と思われる)「ホーム」が建てられた。

20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設としての近代ホスピスが、イギリス、アイルランドから始まった。

1967年、セント・ジョセフ・ホスピス(ロンドン, ハックニー(アイルランド人の多い地域)で学んだ女医のシシリー・ソンダース(CICELYSAUNDERS)は、セント・クリストファー・ホスピスを建設、緩和ケアを基本とした、現代ホスピスの基礎を作り、世界的な広がりの先駆けとなった。

アメリカ合衆国では在宅ホスピスが中心である。

ホスピスで、患者の苦痛を除去するために主に用いられるのが麻薬のモルヒネである。

モルヒネ (morphine モルフィン、モヒともいう) はアヘンに含まれるアルカロイドで麻薬のひとつ。モルヒネからは依存性のきわめて強い麻薬、塩酸ジアセチルモルヒネがつくられる。

塩酸塩・硫酸塩は鎮痛・鎮静薬として種々の原因による疼痛(とうつう)の軽減に有効であるが、依存性が強い麻薬の一種でもあるため、各国で法律により使用が厳しく制限されている。

名前の由来は、ギリシア神話に登場する夢の神モルペウス (Morpheus)。夢のように痛みを取り除いてくれることから。

医療では、癌性疼痛をはじめとした強い疼痛を緩和する目的で使用される。モルヒネは身体的、精神的依存性を持つが、WHO方式がん疼痛治療法に従いモルヒネを使用した場合は、依存は起こらない。

しかし16年前に義母が末期癌で危篤状態になったときは、その病院の若い医師はWHO方式癌疼痛治療法のことを知らず、元厚生大臣秘書官として教えてやって、やっと義母を阿鼻叫喚から救うことができた。

医療とは人間の苦しみを救うものと広く考えれば、見込みのない患者を痛みを感じない状態で終末に導く、いわば死ぬ医療も大切なことであるはずだ。

薬剤の剤形としては錠剤、散剤、液剤、坐剤、注射剤があり、それぞれ実情に応じて使用される。

軍事用途でも、戦闘の負傷による強い疼痛を軽減する目的で、主に注射剤の形で使用され続けている。資格を持った衛生兵だけが携帯でき、トリアージを行っている間に投与処置を行うこともある。

モルヒネの副作用には依存、耐性のほか悪心嘔吐、便秘、眠気、呼吸抑制などがある。便秘はほぼ 100%、悪心嘔吐は 40%?50% の症例でみられる。眠気はモルヒネ使用開始から1週間の間にみられ、その後は自然に改善することがほとんどである。

1804年、ドイツの薬剤師フレードリッヒ・ゼルチュルナー ( FriedrichSerturner ) により、初めて分離される。モルペウスにちなみ、モルフィウム ( morphium ) と名づけた。

しかし、1853年の皮下注射針の開発までは、モルヒネは普及しなかった。鎮痛の為に用いられ、また、アヘン・アルコール中毒の治療として用いられた。

南北戦争ではモルヒネは広く使用され、軍人病(モルヒネ中毒)による40万人を超える被害者を生み出した。また普仏戦争において、同様のことが西欧で起こった。

1874年に、ヘロインはモルヒネを材料に生成された。ヘロインが使用され始めるまでは、モルヒネは一般的に最も誤用された麻薬性鎮静剤であった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』