2012年10月10日

◆機械の黴菌(ウィルス)

渡部 亮次郎


コンピューターのウイルスのことである。私の送った付属文書にウイルスの付いている危険性があるとニフティから警告してきた、と忠告を受けた。これまで何度もウイルスの被害に遭い、被害を及ぼした。

そこでウイルスバスターを取り付けて、しょっちゅう「防御」と「退治」に努めてきた。それなのに、ああそれなのに。酔っていた勢いもあって、言ってはならない言葉で反発したら、ひどくこちらが恐縮する破目になった。極めて反省している。

結果は、「付属文書のタイトルが長すぎるため」、と岩手県立大学の学生さんの調べで分かった。そういえば相手はかなり以前から「あなたのファイルにはウイルスが棲みついているようだ」と言って来ていた。

ほったらかしていたが、今回、機械も我慢ならず警告を発したのかもしれない。こんな始末だから、パソコン1年生はまだまだ、騒動と波紋を広げながら迷惑を撒き散らして行くことだろう。悪しからずお許しください。失敗は成功の基といいますからね。

パソコンを本格的に始めたのは、66歳になった10年前の1月からである。何年も前に東京の秋葉原(本来はあきばはら、と読んだもの)で買ったが、ほったらかしてあった。いまさら頭を馴らすのは厭だった。

若い人たちの使う用語の意味がさっぱりわからない。いちいち聞いてみると訳が違っているとしか思えない言葉ばかりであった。早い話が「投げた」。

こんなことはゴルフでもそうだったし、テニスでもそうだった。ここでは用語ではなくプライド。なにを今更、腰を低くして若い者に教わりたくない。それだから、ちっとも上達しないからますます厭になって「投げた」。

だが、パソコンは家人がどんどん上手くなっているらしく、外国に住んでいる友人と「メイル」とやらで簡単に瞬時に、いうなれば「手紙」をやり取りしている。

年賀状や暑中見舞いも色つきのものをいろいろ作っている。そのうちに「無職」になった私の名刺まで作ってくれた。これは便利だ。それで終わると思っていたら、根が野次馬だから、ポツリポツリと自分で敲きだした。やってみると、若いころテレタイプで原稿を打っていた時の記憶が蘇ったらしく、メイルを打つのはよっぽど早い。

たまたま数年前、アメリカのシリコンヴァレーでノート型パソコンを開発していたという人と知り合って技術的なことをスローペースで教わることが出来た。スローペースが良かった。そこでパソコンを買い替え、本格的に取り組むことになった。

メイルをやりだして遭遇したのが、ウイルスである。ある時、なんだか助平そうなタイトルのメイルが入っていたので開けたら騒動であった。それ以来、シリコンヴァレー先生の指導で、ウイルスバスターを取り付けたりした。

また東京理科大の学生の出張指導(有料)が有ったりして、新聞、雑誌、ホームページ″などへの寄稿のほとんどはメイルで届けることが出来るようになった。

また、私は様々な人から一般的でない情報をたくさん戴くようにもなって原稿書きに役立てている。

こうして、私のパソコン生活は遅まきながら、遅々とではあるが、進行している。郵送しかない原稿でもマス目に活字で打って渡せるようになったから、誠に好都合である。

高校の同期生の東京での集まりには毎年50〜60人が集まるが、パソコンをやっているのは2割ぐらいだ。そのほかの周りを見ても70歳台前半までの先輩が限界。私の兄なぞはFAXすらやっと買ったぐらい。パソコンはつけないで終わるだろう、といったら今年7月に死んだ。

ところで、パソコンという文明の利器を使うようになって、つくづく実感することが「必要は発明の母」ではなく「失敗は成功の基」である。操作方法をいくら記憶しようとしたり、ノートに書き取っても、すぐ忘れるが、失敗すればそのことだけは必ず覚える。

子供の時から、どうしたら失敗せずに成就することが出来るかばかりを考えてきた人は、いつの間にか失敗を恐れるようになってはいまいか。入試教育も失敗を如何にしたらしないで済むかに的を絞っているようだ。

もっとも入試なんてなものは、一回通過すれば良いだけのものだろうから、それで良いのかもしれない。しかし、学んだことが知識として「身」に付き方は少ないだろう。仮に身に付いたとしても知識は多いが知恵は少ない子供のような大人になる。問題のキャリア官僚にはこのてが多い。

そこへ行くと失敗したことは、とても辛い記憶になって残るから、変な話、強烈に記憶する。だから、私の仕えた外務大臣・園田直(すなお)氏は外務省の若いキャリアに「失敗を恐れるな」としつこく言っていたが、キャリアたちは馬耳東風(聞き留めず)だった。

そのことを今になって私もようやく理解できた。だからこの原稿のタイトルは「失敗しなけりゃ成功しない」にしようと思ったが、またウイルスと間違われたら困るので簡単にした。

2012年09月29日

◆トウ小平のタン壷


渡部 亮次郎

記者の同年兵・岩見隆夫さん(毎日新聞)が22日の紙面で故園田直の外相時代の事績について触れられた。

<1978年の日中平和友好条約の締結交渉がある。当時の福田赳夫首相は政権発足時から条約締結を決意し、初の組閣(76年12月)で鳩山威一郎(参院員)を外相に起用した。背景に中ソ対立がある。福田は、

<ソ連が「親ソ的な人物」として評価していた鳩山一郎氏の長男を起用することで、日中条約締結はソ連との敵対関係を生み出すことを意図するものではない、というサインをソ連に送ったわけだ>(著書「回顧90年」)と書き残した。

さらに1年後の内閣改造で、外相を鳩山からベテランの園田直に代え、締結交渉を全権委任した。園田は78年4月訪中の段取りをする。

その矢先、中国漁船が大挙して尖閣諸島に押しかけ、日中間に暗雲が垂れこめた。園田は、

<無視こそ最大の主張>という態度を貫き、終始沈黙を守る。

8月訪中、園田は北京の人民大会堂で中国の実力者、トウ小平副首相と向かい合うと、攻勢に転じた。ガーッとのどを鳴らしながら、足元のたんつぼにペッとたんを吐き、

「ところで、あんた、年いくつ。あ、それなら、私より10年下だな」

などと言う。この時、園田64歳、トウ73歳、園田一流のハッタリだ。漁船事件を難詰、トウから、

「ああいうことは絶対やらない。いままで通り20年でも30年でも放っておけばいい」 と日本の実効支配を認める発言を引き出した。条約は締結、園田外交の成功だった。>

これにはちょっと間違いがある。

このとき私はNHK記者から転じた秘書官として同行していた。昭和 53(1978)年8月10日午後4時30分(現地時間)人民大会堂でのことである。

待っていると、廊下でテレビカメラ用のライトが眩しくつき、とても小柄な老人が歩いてきた。私の肩先ぐらいしかない。まさに小平だ。眼光も鋭くない。3度の失脚と復活という艱難を潜り抜けて来たにしては恬淡とした雰囲気をただよわせているではないか。

両者は会議室で並ぶようにして着席。

いきなりトウが発言。「あんた、幾つだね」。日本でなら考えられないほどの失礼さ。「64です」「あ、私より10歳下だね」園田を飲み込もうとしている。

じつは主題の日中平和友好条約交渉は峠をこしていた。わがほうの主張を中国側が全面的にうけいれ、もう調印を待つばかりだった。

トウ副主席との会談では特定の議題は無かった。東京から訓電してきた尖閣諸島の帰属問題も、園田は、はじめは持ち出す気はなかった。昔から日本に帰属していることがはっきりしているものを、改めて持ち出す事は却って自信がないと受け取られることを恐れたのだ。

ところが痰壷に盛んに痰をはくわ、トシを聞いてくるわで気が変わった。ちょうど痰が出てきた。だがこっちの足元には壷が置かれていない。そこでカーツとやったあと、トウ小平の足元へ歩いて行ってペツとやったあと、きりだした。

そうしたら即座にトウ副主席が遮るように、この前(4月に大量の漁船が押しかけた)のような事は2度とさせない。この件(帰属)は将来の世代にまかせよう。彼らには良い知恵があるはずだから、と言明。これが真相である。

尖閣列島の帰属問題についてはそもそも国交正常化時の昭和47(1972)年9月、田中角栄首相のほうから持ち出した・ところが周恩来総理はこのことについてはここで話したくないと拒否。

これをトウ小平は1978年10月の来日時、日本記者クラブでの会見で1度目の「棚上げ合意」といい園田との会見を2度目の合意と決め付けた。

田中訪中にはNHK記者として同行したが、一連の会談内容については滞在中、一切の発表はなかった。6年経ったあとのトウ小平発言で初めて知った次第だった。

果たして後世の世代は予想される知恵があったか。なかった。単に中国が軍備の近代化に成功。日本を武力的に恫喝するだけの力を得た途端、恫喝し始めただけである。トウはこれを見越していたのだどうか。

アメリカCIAも元々と日本の主張の確かさを支持していた。しかしオバマ民主党政権の腰は引けている。日本もまた、野田首相は理屈をこねるのは上手いが戦争覚悟なんてできていないから、早い話、絶望的ではないか。

ふと、考える。日中平和条約を締結するとき、すでにトウ小平は毛沢東の死後だからかねての主張どおり、日本の資本と技術を頼りにした経済の資本主義化を構想していた。だからこそ条約の締結を急いだのだ。

だからあの時、尖閣の帰属に今後発言しないと約束しないならば日中平和友好条約の締結は延期する、と日本側が強硬に出たらどうなっていただろうか。歴史に「イフ」はないか。2012・9・23

2012年08月08日

◆日中条約には黒衣がいた

渡部 亮次郎


NHK国際局副部長から福田赳夫首相命で外務大臣秘書官に発令されて驚いたのは、田中、三木両政権でお手上げになっていた日中平和友好条約に関する首相・外相間の懸隔の大きさである。

福田首相は壁が高く厚いというが、園田外相は、俺が北京に行って明日にでも調印すると意気軒昂なのである。勿論「情報」は在中国大使館から外相を通じて首相に伝えられるわけだから、認識は一致しているはずなのにである。

そのうちに気づいた。剣道の弟子が早朝、目黒の大臣私邸を訪ねた日に意気軒昂となることである。このことを園田氏は政務秘書官たる私にも絶対説明しない。

説明しないなら元記者たるもの、独自で取材するばかりである。

取材の結果分かったことは、剣道の弟子は中国語がペラペラ。園田が官房長官当時からその都度、多額の工作費を持たされて北京を訪問、中国政府要人の消息を取材して大臣に報告していることが分かった。

父親が鉱山学の権威。終戦後も中国政府の要請で北京にとどまり、鉱石採掘の指導にあたり、昭和30年ごろまで北京に在住した。

この人物を中国に派遣するについては初めから福田首相は了承していた。なぜなら首相私邸に呼び出し、官房長官立会いのもと、首相から中国行きを要請したのは政権発足直後の1977年正月4日だったからである。

中国で彼は主として誰と面会しているのか。廖承志だ。彼は日中国交正常化以前に訪日した際、園田(無役)と箱根で会談した仲である。

<廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 -
1983年6月10日)は中華人民共和国の政治家。

1949年の中華人民共和国の建国以降中国共産党の対外活動の責任者を務め、日本との関係では特に1962年に高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づくLT貿易を開始した人物として知られる。中日友好協会では1963年の設立時から死去まで会長の任にあった。

日本生まれの日本育ちで、廖の話す日本語は「江戸っ子」なみのベランメ
エ調も話すことができるほどであり、1972年の日中国交正常化交渉では
首脳の通訳として活動、中国共産党史上最高の知日家として中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った>。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

時あたかも中国はそろそろトウ小平の時代になりつつあったが、中国の日本大使館ではトウへの接触の手立てがなかった。

トウ氏は1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。トウ小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

廖承志氏はトウとは昵懇の仲。廖承志氏に会えばトウの動きも考えていることも判明する仕掛けだ。この結果、日中平和友好条約の締結をめぐって敷居を高くしていた中国政府はトウの要請を容れて「早期締結」にカジを切り替えていることなど手に取るようにわかるわけだ。

この情報を掴んでいる園田はこれを福田首相には伝えていないようだ。私は両者の会談には立ちあっていないからわからない。しかし条約締結の見通しについての両者の懸隔が大きすぎるのは、大使館情報にしか接していない首相と、直接中国政府情報に接している外相との差の大きすぎること。驚きの毎日だった。

日中平和友好条約の締結は田中首相・周恩来首相による1972年9月の日中共同宣言に盛られていた「約束」だったが、両国の関係強化を歓迎しないソ連(当時)との絡みが有り、田中、三木両政権でも実現していなかった。

続く福田内閣で官房長官となった園田直(すなお)は1年後には外務大臣に横滑りし、その政務秘書官に私が発令されたのだった。

トウ小平の周辺情報を掌握している外相、まったく握っていない外務省事務当局。外務省からの情報しか知らない福田首相。首相と外相の見解の懸隔を批判するマスコミ。昨日までマスコミに在籍したわたしとしては、この内部事情を親しい記者に教えてやりたい衝動にしばしば駆られた。だが最後まで秘匿できた。

1978年8月8日、園田を先頭にした日本側交渉団は特別機で羽田を出発。締結成就を信じているのは「園田さんが北京に来てくれさえすれば調印確実」というトウ小平からの黒衣伝言に接している園田のみ。事務当局は半信半疑だった。

問題の黒衣の名前は明らかにしない。いずれ条約締結まで北京を訪問した回数は「13」に達した。私より若くご存命である。

当時の中国課長田島高志さんは、その後ミャンマーとカナダの大使をつとめて退官されたが、ご健在で「頂門の一針」を愛読者である。しかし今日のこの記事には驚かれたことだろう。2012・8・5

2012年08月07日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎


1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人169名を乗せて、東京湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわいた。なんと169名全員が、脚気にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

(この点について、2006年5月14日の産経新聞は海軍兵学校生徒を含む乗組員は397人で、脚気にかかったのが169人と報じて「全員」ではない、としている)。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏によるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、このあと28年の時をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にありとにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあって「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病といわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献をした研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、ただ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばかり。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させることに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわけ。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒された。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体については、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たんぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかった。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタートした鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経っていた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつけたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポーランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離した」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見した物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたような形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落とした25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミンB1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者というべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった。

脚気は日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずらい」と言われたように、東京の風土病と疑われた時期もあった。

2012年08月05日

◆タンゴの源流に立つ

渡部 亮次郎


死んだ兄がタンゴ狂なものだから、子供の頃から聞かされた。あまり上品じゃないと嫌う人もいる。そんなこととは無関係に、私はあのリズムに息が苦しくなってくる。散歩の時もタンゴは聴かない。

ミロンガなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

タンゴは、今から約140年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として酒場で、日頃の不満を歌にし、単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったのがタンゴの始まりと言われる。その後、娼婦を相手に踊られるようになり、男女で踊る形式が確立されたといわれる。

首都ヴェノスアイレスのボカ地区は、古くから港があった地域で、ヨーロッパから来た移民たちは、こ の地で、新しい第1歩を踏みしめた。19世紀終わりごろのラ・ボカは、イタリア、スペイン系を中心とした、ヨーロッパからの移民や、アフリカ系の人々など様々な人種の人々であふれていた。

タンゴは、そういった環境の中、様々な文化の混合によりブエノスアイレス南部(ラ・ボカ、サンテルモ地区)で生また。

ラ・ボカ地区では、カミニート、ボカ・ジュニオールス・スタジアム などを訪れることが出来る。しかし・・・「ラ・ボカ地区は、中心街から少し離れると、あまり雰囲気の良くない地域もあります。そういった地域にはあまり近づかないようにしてください。(中心街には、警察官も多く立ち安全が保たれております)」と観光案内は呼びかけている。

私がここを訪れたのは1981(昭和56)年の8月上旬、南半球に位置するヴェノスアイレスでは真冬とあって深い雪に包まれていた。外務大臣を福田、大平内閣で務めた後、鈴木善幸内閣の途中から厚生大臣(2度目)として入閣した園田直さんが、この年の5月18日からまたまた外務大臣に鞍替え。

7月中旬にカナダのオタワでのサミットに参加。22日に一旦帰国したあと29日、再度機上の人となり南米歴訪の旅となった。アルゼンチンに入ったときは日本を離れて10日も経っており私ですら疲れを覚えていた。

まして重篤な糖尿病患者の大臣は腎臓の機能が極端に悪化。連続して100メートルは歩けない、という状態を無理しての外遊(事実このあと11月30日の退陣後間もなく人工透析を受け始め、これから3年後、1984年4月2日、腎不全のため70歳で死亡したのだ)。

アルゼンチンはドイツのナチの残党が逃げ込んだ国としても知られていた。アイヒマンの追跡劇が当時は有名だった。

ヴェノスアイレスには2泊した。1976年3月に軍事クーデターで政権の座に就いたデビラ大統領を表敬したところ、自民党を輸出して、下さらんか、といわれて笑ったが、アルゼンチンの経済状況は悪化していたのである。

折角だと言うので夜はタンゴを聴きに小さな店に入った。翌日は雨だったが、タンゴ発祥の地とされるカミニートと訪れた。カミニート (Caminito)はスペイン語で小道の意。 タンゴの名曲でもある。ブエノスアイレスには、この曲に因んだ細長い公園があるのだ。

折からの雨。タンゴの始まりに思いを馳せているうちに園田さんの余命があまり長くないことに思いがいたり涙が止まらなくなった。案内して来てくれた大使館の人が怪訝な顔をしていたのは当然である。

園田外相の外遊はこの後もう1回あった。メキシコのカンクンで開かれた南北サミットへの出席。

11月30日午前11時に臨時閣議が招集され、内閣改造のための辞表とりまとめで辞職、外務省に戻って記者会見。公式な場に姿を見せた最後だった。死ぬ前は糖尿病に伴う眼底出血のため全盲になっていた。

2012年08月02日

◆政治資金を喰うのは有権者

渡部 亮次郎


<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告をしていた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは当然だ。

安倍政権(当時)にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであり、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。>産経新聞{主張}(2006/12/28 05:10)

産経の主張は最後に≪安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。≫と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

カネや利権による政治の腐敗の原因をすべて政治家に押し付けて、世論や論説委員が「政治家よ襟を正せ」と叫ぶのは簡単だが、いくら叫んでも腐敗が根絶しないのは、汚れたカネの行き先が最終的には政治家の懐には止まらず有権者の胃袋や懐だからである。だから襟を正すべきは政治家はもちろんだが、有権者も被害者面をしないで考えてみる必要があ
る。

なんと言っても政治に金のかかり過ぎが原因である。そう言うと「政治家は自分の欲得のために政治家をやっているのだから、どうやってカネを集めようが散じようが勝手だ。有権者の知ったことか」というのが有権者の大部分である。

さらに知らぬ人は何にそんなにカネがかかるのか、理解に苦しむと言う。私も若い政治記者の時はそう思ったこともあった。しかし大臣秘書官になって内懐を見てはいじめて得心が行った。確かに有権者は知らぬ間に政治家に1票を投ずる見返りに説明のつかない用件を押し付け馳走になっているのである。

ある代議士がある省の大臣になった。秘書官に発令されたので従いて行ったところで、秘書官室長に、来客のお茶代として月20万円を拠出してくださいと言い渡された。大臣から現金を巻き上げる役所とは初めて聞いたことだった。

ともかくこれも政治家が負担する政治資金なのである。

議会館と個人事務所にも陳情客が来る。何十人と言う人がやってくる。1杯の御茶と言うがそれだけでも月に何十万円とかかる。昼時になれば蕎麦なり丼物を出さないとけちだと言われる。月にすれば何百万円である。それを国会議員の歳費だけで賄う事は不可能だ。

案外知らないのは日々開かれる議員同士の励ます会と称する資金パーティーへの義理立てである。大物と言われていれば会費2万とか3万円と言われてそれしか包まないと言うわけには行かない。その都度10万円を包んだとすれば、1日に50万や100万はは消えて行く。

そのカネを何処からどう工面してくるのか。談合なり不可解な事件に関係せずには不可能なのである。捕まるまでの田中角栄氏のやり口がそれを実証している。

佐田氏の政治団体が平成2年の発足当初から、賃貸契約のない都内のビルに事務所を置き、事務所費や光熱費の名目などで約7800万円を支出したとする虚偽の政治資金収支報告書を国に提出していたという。

推測だが、これで浮かしたカネは選挙対策費に秘密裏に使われただろう。実際、観ていると、如何なる大物国会議員といえども、解散、総選挙に当って子分を名乗る県会議員、市区町村議員が只では動かない。

選挙違反事件が摘発されるたびに「○○議員に多額の現金を渡して投票のとりまとめを依頼した」と言う決まり文句が出るが、真実は選挙を機会に捉えて日ごろの活動資金を渡しているのである。

それは殆ど警察の目をくぐる。警察も大物のところには手を出さない。新人や小者、無所属候補には目を皿にして内偵し、一番弱い(殆ど落選)候補者を逮捕する。容疑はこれまた殆どが買収となる。いまどき飲み食いで集票はできない時代になったからだ。

いかに民主主義だの勝手連だのといったところで活動資金は裏できっちり取りに来るのが実態である。それをマスコミは知っていながらきれいごとしか書かないから、読まされたり聞かされたりする人はきれいごとを論ずる。

カネをつくる政治家が悪いのではない。作らせるように使わせる有権者が実は犯罪のタネを作っているのである。中には酷い陳情に来る有権者もいる。司法試験の裏口を紹介しろとか、医師の国家試験を裏で合格させろ、伝統ある私立高校の落第を取り消せとか。

有権者様だからできないとはいえない。何とか頑張ってみますと言うしかない。こんなことまで相手にしなければ落選するのが国会議員だというのなら私は辞めた、辞めたと降りてしまった。悔いはない。

マスコミはこうした実態を見ようともしない。冒頭の産経論説のように言語道断だとか手痛い打撃だとか、一応、理屈の立つ論を並べはするが、ことの本質をわかっていなから空念仏に過ぎない。政治の実際を分っていないから記者を廃業し論説委員にさせられたのではないかと疑ってしまう。

2012年08月01日

◆64%「中国人以外に生まれたい」

渡部 亮次郎


<【産経新聞2006年9月25日北京=野口東秀】「生まれ変わっても中国人になりたい?」--中国の大手ニュースサイト「網易」がこんなアンケ−ト調査をしたところ、約3人に2人が「なりたくない」と答えた。中国共産党支配と政策に対する人民の不満を浮き彫りにする結果だった。>

このサイトは9月4日から13日までネット上でアンケートを実施、約11,000人が参加した。

その結果、「中国人に生まれ変わりたくない」という答えが約64%に達した。「生まれ変わりたくない」理由は、「中国人として尊厳が持てない」が約38%、「マイホームを持てないため、幸福感がない」が約18%だった。

中には「私は中国を愛しているが、中国が私を愛してくれない」という回答もあった。生まれ変わりたい理由には悠久の歴史や文化などがあった。

「生まれ変わりたくない」人のうち、「今度は香港人になりたい」と答えた人は、「中国には人権がない。独裁があるだけで、言論が抑圧されている」と指摘していた。

このほか、「親を養い、子供を育て、家のローンを払う。収入は悪くないはずなのに生活は良くならない」「乱れた社会、人が希望を持てない社会。100回生まれ変わっても中国人にはなりたくない」という声も聞かれた。

香港紙●果日報などによると、今月16日、サイトの編集者2人が突然解雇されたという。愛国教育を推し進める党中央宣伝部など当局の意向に沿わなかったためと見られる。再掲

アレから6年。数字はもっと酷くなっているだろう。外交評論家 加瀬英明さんによると、オリンピックをやった独裁国(ナチ、ソ連)は10年ぐらい後に崩壊しているそうだ。北京オリンピックは何時だった?

2012年07月31日

◆転失気総理森喜朗

渡部 亮次郎


「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことである。それを知らずに、知らないことを知っている風に済ます人を「てんしき」と昔は言ったらしい。

『論座』という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森喜朗前総理大臣の生い立ちから今日に至るまでに質問。「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、第13回に森氏が登場したもの。

森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たした翌年のことだったようだ。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回った。

「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。

私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。「証言」で「角さんのカネは森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

角さんがロッキード事件で逮捕されたとき党内反三木派が挙って挙党体制確立協議会を結成して三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。

「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰に決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

真実はそこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。そこで園田氏は嘗ての敵陣に乗り込み「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。森氏は何も知らない。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

だが園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。

三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後官邸から自宅に居た私電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁいいですよ」と応えた。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、「てんしき」さんなら思うのか。

園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。
そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

進んで外相を狙い、功名心から日中条約を締結したというのでは、知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜するもので紳士欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は園田外相の怒りを知っており、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。だから日中条約の交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授、故人)の著書『天皇とトウ小平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活したトウ小平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。


安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。30年以上も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私は幸せだった。(了)

2012年07月28日

◆さくらんぼで焼酎

渡部 亮次郎


秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたとき、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。

だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。、第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表され、日本の戦後のヒット曲第1号となった楽曲。

歌詞は日本語。作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。歌唱は並木路子、霧島昇。並木は映画『そよかぜ』の主演であり、霧島昇も『そよかぜ』に出演している。

この映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。

<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000円ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるだろう。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

発足当時の桜桃忌は、太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし太宰を偲ぶ会であった。常連の参会者は、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫らがいる。

中心になったのは亀井勝一郎で、当日の司会も昭和38年まで続けた。その間に、桜桃忌は全国から10代、20代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていった。

主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継いだ。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのはこのころのことである。

しかし、その世話人会も平成4年、会員の高齢化を理由に解散している。太宰治の死から、60年以上を経て、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の多くが故人となった。

しかし、その作品は今も若い読者を惹きつけてやまず、太宰との心の語らいを求めて桜桃忌を訪れる人々は後を絶たない。>(参考文献:桂英澄『桜桃忌の三十三年』

<サクランボ(桜ん坊:桜桃) Cherry バラ科(→ バラ)の落葉高木、セイヨウミザクラの果実。オウトウ(桜桃)ともいわれる。ルビーにも似たあでやかな色とあまずっぱい味で、さわやかな初夏をつげる果物。

直径2cm、初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。生で食べたり、加工されてジャムや果実酒になる。おもな品種に、果肉のやわらかいタイプの佐藤錦やナポレオンなどがある。

明治時代の初めにアメリカから導入された。バラ科の落葉高木、セイヨウミザクラとその改良種の果実。初夏に熟して黄赤色から暗赤色になる。日本では山形県でもっとも多く生産される。

サクランボの生産量は、アメリカ合衆国が世界トップ。おもにアメリカ北西部や五大湖地方の果樹園で栽培されている。ユーラシアでセイヨウミザクラが栽培化されたのは2000年以上も前だが、チェリーパイなどに使われるスミノミザクラが知られるようになったのは17世紀だった。

英名ではBird Cherryともいうように、鳥などによって種子がはこばれ、有史以前からヨーロッパ各地で野生化している。

2012年07月26日

◆増加!子供の糖尿病

渡部 亮次郎


<1型糖尿病

1型糖尿病(いちがたとうにょうびょう)(ICD-10:E10)は、インスリンの供給異常による糖尿病。血糖を下げるホルモンであるインスリンの分泌が低下するか、ほとんど分泌されなくなるため血中の糖が異常に増加する病気である。

20世紀前半にインスリンが治療応用されるまでは、極度の食事制限を要する致死的疾患の1つであった。膵臓のランゲルハンス島でインスリンを分泌している細胞が死滅する事によって起こる。

根本の原因は現在解明されていないが、膵組織にはリンパ球の浸潤が見られ、炎症性のメカニズムが想定されている。血中に自らの膵細胞を攻撃する自己抗体が認められるものを1A型(自己免疫性)、ないものを1B型(特発性)とする。

飲み薬は無効で、患者はかならず注射薬であるインスリンを常に携帯し、毎日自分で注射しなくてはならない。インスリンを注射しなければ、容易に生命の危険に陥る。また、1型糖尿病のなかでも、「劇症1型糖尿病」という数日間でインスリンが枯渇するさらに危険な病もある。

2型糖尿病

2型糖尿病(にがたとうにょうびょう)(ICD-10:E11)は、インスリンの消費の異常による糖尿病。欧米ではインスリン抵抗性が高まる事が原因のほとんどを占めるが、日本では膵臓のインスリン分泌能低下も重要な原因である。

前者では太った糖尿病、後者ではやせた糖尿病となる。遺伝的因子と生活習慣がからみあって発症する生活習慣病。糖尿病全体の9割を占める。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本では糖尿病といえば中年のかかる2型が大部分。しかもこれは、遺伝的因子があるとはいえ、殆どのきっかけは運動不足と肥満であるから「生活習慣がからみあって発症する生活習慣病」と言われ、中年だけの病気と考えられてきた。

ところが1990年代に入って子供の肥満による糖尿病が数千人に1人の割合で見つかるようになってきた。飽食の時代が始まって何年だろう。戦中戦後の貧食?の時代は糖尿病なんて聞かなかったし、まして子供の2型糖尿病なんて、聞いたことがなかった。

これは発見のきっかけがあったからでもある。つまり子供の身体検査で尿糖検査なんてしなかったものだが″、1990年代からするようになったからである。

産経新聞によれば、肥満度50%以上と言う高度肥満の子供が最近増えた。中3男子生徒の例。母子家庭で母親が留守がちのためインスタントや冷凍食品中心の食生活。運動らしい運動は殆どしなかった。

その結果、中学入学前後に一気に20-30キロも太り体重は100キロを超えて、検査の結果「2型糖尿病」と診断された。

糖尿病は発症しても自覚症状がない。自覚症状が出るまで10年以上かかることが多いそうだ。しかも自覚症状が出たときには深刻な状況となっている。この生徒も太ったとはいえ検査しなければ糖尿病は発見できなかった。

血液の中の糖分の過剰な状態が続くと、ガソリン車に砂糖をぶち込むと、エンジンが駄目になるのと同じで、毛細血管が内部から破れたり詰まったりする。脳卒中、心臓病、腎不全、目の網膜症(盲目)、足の壊疽などが起きる。

世間では「子供は2型糖尿病にはかからない」との「迷信」が流布されているし、太った子ども自身も自覚症状がない以上、インスタントやレトルトの食品を食べ過ぎるな、運動をやれと言われても、守る事は難しかろう。

この病気は今の医学では一生、治癒はしないが、医師の適切な指示を守れば、若死にすることはない。何もしなければ他人より10年は早く死ぬとされている。

私の周囲の例では60に満たない女性が、最近のある日、突然、目が見えなくなり、病院に行ったところ糖尿病による網膜症と分った。しかも全身の浮腫みは腎機能の不全からと分り、いきなり週3回の人工透析開始と宣告されてしまった。

女性は若いときに遺伝的因子から糖尿病と診断されていた。しかしこれといった自覚症状のないまま油断していた。その間、高すぎる血中高糖度は毛細を含む血管を内部から蝕み続けていて、気がついた時は既に手遅れだったのである。

本人の落ち度であることは尤もだが、仮に夫たる人に糖尿病の知識があれば、こうはならなかっただろう。本人が厭がっても通院させ、適正な対処療法が施され、いきなり人工透析という悲劇にはならなかったはずだ。

だから、身内の子供が最近、太りすぎと言うことなら、積極的に診察を奨めたほうがよい。本人は厭がっても周囲が気をつければ何も怖いことにはならない。説得をしり込みする大人が悪いのである。子供の健康には大人が責任を負っているのだから。

2012年07月24日

◆リンゴ・鮑・柿の種

渡部 亮次郎

リンゴ・あわび・柿の種。これが外国でいま人気の日本の食材で、輸出好調とある。青森のリンゴ、岩手のあわび、新潟の柿の種だそうだ。

農林水産省では日本の食材の輸出に力を入れており、2006年3月に千葉県幕張メッセでFOODEX JAPAN・国際食品・飲料展を開いたところ、輸出促進コーナーでは、果物、和菓子、緑茶、インスタント味噌汁が外国人来場者の注目を集めていたそうだ。

日本貿易振興機構(ジェトロ)が中国のビジネスマンを対象に行った調査では、日本産の果物は「安全・安心」36%、「美味しい」19%、「外観が良い」19%、「高級」13%と折り紙がつけられた。

中国共産党がいくら反日教育を行っても人々の味覚などの感覚を支配する事は不可能だから、綺麗な日本のリンゴやナシを見れば、たちどころに食欲がそそられるのは当然だ。

台湾へは土産にリンゴを箱で持っていったことがある。大変喜ばれた。1個1000円以上はするとのことだった。またフィリピンには鳥取の20世紀梨を持参したら、生まれて初めて見る、なんという水々しさだろうと感激の体だった。

新聞に依れば2005年の農林水産物(タバコ、アルコール飲料、真珠を除く)の輸出額は、前年より12・1%増えて3311億円。輸入量が年間7兆円を超す日本だが、輸出量は年々伸びているのだという。

<例えば北海道産の長いもは台湾の薬膳料理の材料として好評。岩手県産の三陸鮑、宮城県産のフカヒレは香港などで中華料理の高級食材として引っ張りだこだという>

<青森県産のリンゴ、山形県産のサクランボや梨は台湾で「贈答用」。和歌山や愛媛のみかんはカナダへ。新潟県の柿の種やビスケットはアメリカなどで「健康的なスナック」として人気。静岡県産の緑茶もアメリカ、台湾、ドイツなどで親しまれている>。

日本発の伝染病皆無、世界一の長い寿命、国民の伝統的な清潔好みといった理解が「世界的な日本食ブームを起こしている」と農林水産省は見ている。

その昔、オレンジの輸入自由化で果物農家は自殺に追い込まれると自民党は騒いだが、来たのを見てみればみかんとは似ても似つかぬ代物だった。みかんはアメリカではテレビを見ながら皮を剥いて食べられる果物=テレビフルーツという珍品なのだ。

もちろんアジアの経済発展が背景にあるが「日本産の食材は安全性や品質管理が徹底していることが知られ、信頼できるとのイメージが広まった」と農林水産庁の輸出促進室。海外の百貨店などに常設店舗を設けたり、見本市や商談会を開催したりして輸出を支援している。

外務大臣の秘書官を勤めたので、世界の国々を訪れ、賓客として先進国も開発途上国の食事を戴いたが、日本ほど細やかな気配りの膳には出会わなかった。特にフルーツが格別に粗末だったのはアメリカだった。

リンゴがアメリカ特産と威張るが、大きさは握り拳ほどもない。街では蝋を塗って売っていて、人々はそれを皮むきなどせずにかぶりつくだけ。おそらく日本の品種改良されたリンゴをみたら「これはリンゴではない」と言うに違いない。

毎度いうが、ソビエト時代のモスクワの迎賓館には厳冬でもトマトが出た。石油を焚いて育てたものだから国賓に差し出しておかしくはない。しかし果物は1個もなかった。果物そのものがあまりないのか、それとも保存技術に優れないのか。

東南アジア各国ではドリアンという人糞そっくりに臭い、しかし抜群に美味な果物とライチに似て毛の生えた茶色の果物が出る。誰かが虎の金玉と言ったら園田直外相が真顔でキミは虎の金玉を見たことがあるのか、と言ったので、爆笑したことがあった。

2012年07月22日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎


脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。

先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血

脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血

脳は、くも膜という膜でおおわれてるが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞

動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血

脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こす。少し横になっていれば治るが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。血圧を毎朝、計測するようにしている。

高血圧性脳症

高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。
2012・7・19


2012年07月19日

◆ロマンに満ちた鰻の生態

渡部 亮次郎


ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態をとる。

従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。

少年の頃、作家火野葦平がそれをテーマにした小説を毎日新聞に連載し、熱心に読みふけったものだった。しかし、今となっては題名すら思い出せない。ネットで捜したが分からなかった。

火野は53歳で急死したが、のちに服毒自殺と公表された。

鰻の話である。

2006年2月、東京大学海洋研究所の教授・塚本勝巳をはじめとする研究チームが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。


これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認された。。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6-7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。

2008年6月および8月には、水産庁と水産総合研究センターによる調査チームが、同じくマリアナ諸島沖の水深200-350 mの範囲で、成熟したニホンウナギおよびオオウナギの捕獲に世界で初めて成功した。

雄には成熟した精巣が、雌には産卵後と推定される収縮した卵巣が認められた。また、水深100-150 mの範囲で、孵化後2-3日経過したと思われる仔魚(プレレプトケファルス)26匹も採集された。

さらに、プレレプトケファルスが生息する層の水温が、摂氏26.5-28度であることを初めて確認した。この結果から、比較的浅いスルガ海山の山頂付近ではなく、もう少し深い中層を遊泳しながら産卵をしているという推定を得ることができた[。

この推定を基に、塚本らの研究チームが周辺海域をさらに調査したところ、2009年5月22日未明、マリアナ海嶺の南端近くの水深約160メートル、水温が摂氏約26度の海域で、直径約1.6 mmの受精卵とみられるものを発見。

遺伝子解析の結果、天然卵31個を確認した。天然卵の採集は世界初である。同時に、卵は水深約200 mで産まれ、約30時間かけてこの深さまで上がりながら孵化することも判明した。

さらに同チームでは、2011年6月29日学術研究船白鳳丸に搭載したプランクトンネットを用いて、産卵直後から2日程度経過した147個の受精卵の採取に成功した。

新月の2-4日程度前の日没から23時の間、水深150-180 mで産卵されたと推定される。卵から2-3日で孵化した仔魚はレプトケファルス(葉形幼生、Leptocephalu s)と呼ばれ、成魚とは異なり柳の葉のような形をしてい
る。

この体型はまだ遊泳力のない仔魚が、海流に乗って移動するための浮遊適応であると考えられている。レプトケファルスは成長して稚魚になる段階で変態を行い、扁平な体から円筒形の体へと形を変え「シラスウナギ」となる。

シラスウナギは体型こそ成魚に近くなっているが体はほぼ透明で、全長もまだ5 cmほどしかない。シラスウナギは黒潮に乗って生息域の東南アジア沿岸にたどり着き、川をさかのぼる。

流れの激しいところは川岸に上陸し、水際を這ってさかのぼる。川で小動物を捕食して成長し、5年から十数年ほどかけて成熟する。その後ウナギは川を下り、産卵場へと向かうが、その経路に関してはまだよく分かっていない。

海に注ぐ河口付近に棲息するものは、淡水・汽水・海水に常時適応できるため、自由に行き来して生活するが、琵琶湖や猪苗代湖等の大型湖沼では、産卵期に降海するまで棲息湖沼と周辺の河川の淡水域のみで生活することが多い。

また、近年の琵琶湖等、いくつかの湖沼では外洋へ注ぐ河川に堰が造られたり、大規模な河川改修によって外洋とを往来できなくなり、湖内のウナギが激減したため、稚魚の放流が行われている・             (「ウィキペディア」)