2012年06月05日

◆エンパイア・ステート・ビル

渡部 亮次郎


「エンパイア・ステート」はニューヨーク州の愛称である。そのニューヨークを生まれて初めて訪れたのは1978(昭和53)年2月のこと。国際問題評論家の友人加瀬英明に案内してもらっての贅沢な旅だった。もう34年前だ。

最初がロス・アンジェルス。折から解禁されて間もないポルノ映画を鑑に入ったが、観客は我々だけというのに驚いた。なるほどポルノは一度は珍しいが、そんなに見るのは変質者なのだ。

その夜、本場?でステーキを食べようと所望したが、硬いし、味が拙い。醤油とか或いは大根おろしでもなけりゃ食えたもんじゃない。以後何十回と無く訪れる事になるが、アメリカでステーキは食べない。

さりとて海岸縁のレストランで焼き魚を注文したら、蒸した白身の魚が出てきた。何しろ大振りで味が無い。それこそ醤油でもあれば御の字だが、当時は醤油が殆ど普及してなかった。塩トタバスコだけ。

その後、日本駐留体験の帰還兵を通じて飛躍的に普及。どんなレストランでも「キッコマン」は備えるようになった。キッコーマン社にとって米国はドル箱のはずである。

問題はNYを象徴する超高層のエンパイア・ステート・ビル。話のタネだからと最上階までエレベーターで昇った。最上階102階部分は地上381mの高さにある。不思議な事に加瀬氏が中心部に突っ立ったまま展望鏡も覗こうとしない。元はといえば私は高所恐怖症者。「ナベちゃん、このビル、最上階は風で40Cmずつ揺れているんだよ」といわれたら、もう怖くて壁のふちへは行けなくなった。

加瀬氏の従姉オノ・ヨーコさんとその夫ジョン・レノンにイタリア街でご馳走になったら、窓の外に黒山の人だかり。彼らがそれほどの有名人である事を私は知らなかった。ビートルズを知らない政治記者だった。

翌日、世界貿易センターの最上階のレストランへ知人に招待された。エンパイア・ステートより高いビル。窓の下をヘリコプターが飛んで行く。途端に怖くなった。出されたムール貝を急いで口に入れて帰ろうとしたら「そんなにお好きならもう一皿」という奨めには参った。帰り道、加瀬氏「ボクも高所恐怖症なんだよ」。

エンパイア・ステート・ビルディングは、同じくマンハッタンを代表する高級ホテルであるウォルドルフ=アストリアが建っていた跡地に建設された。

工事はクライスラービルから「世界一の高さのビル」の称号を奪うために急いで行われ、1931(昭和6)年5月1日に年に竣工した。私の生まれる5年も前だ。

ところが折からの世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くの部分が空室であり、「エンプティ(空の)ステートビルディング」と揶揄されたこともあった。

その後は約1万のテナントが入り,約2万5000人を収容。世界最高の建物として約40年間王座を保ってきたが,今日ではさして高さは誇れない時代になった(世界大百科事典)。

73基のエレベーター(貨物用の6基を含む)、1860個の階段などで構成されている。

ビルの、1950年代に付け加えられた電波塔をあわせると443・2mになる。頂上部分では電飾がされており、日によって色が変化する。

日本との戦争が終わる寸前の19454年7月28日の9時49分に、深い霧の中ニュージャージー州のニューアーク国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍のB-25爆撃機が、79階の北側に衝突して機体が建物に突入、搭載エンジンが衝突の衝撃で機体から脱落し、エレベーターシャフトを破壊した。

この際に79階と80階で火災が発生したが約40分で消火した。 着陸直前で燃料の搭載量が少なかった上、比較的小型の機体であったことから、14人の死者を出したものの建物自体への損害は比較的少なかったこともあり事故後2日で営業を再開した。

日本の建築基準法は英国法に倣って作成されたもので、建物の高さについては、原則として100フィート(百尺、約31m)という制限が課されていた。この制限は、関東大震災を教訓として長い間維持され、これが撤廃される1962(昭和37)年まではおよそ8階建て程度の建物しか建てられなかった。この当時、日本で最も高い建物は国会議事堂の中央塔(65m)であった。

60年代には、隆盛していたメタボリズムの建築家から、超高層ビル建築を伴った丹下健三の築地再開発計画や磯崎新の新宿計画などの様々なプランが提案されたが、いずれも実現には至らなかった。

しかし、1963年および1970(昭和45)年(佐藤栄作内閣)の建築基準法改正により、高さ制限が「無制限」とされたために、高さ60mを超える超高層ビルが次々に建てられるようになった。

東京ではビジネス街の中心たる皇居濠端のビルは軒並み8階建てだったが、このところ建て替えられるのがすべて超高層なのは以上の経緯があるためである。

現在日本で最も高い超高層ビルは、横浜市・みなとみらい21地区に1993年に竣工した横浜ランドマークタワー(設計:三菱地所・ヒュー・スタビンス)で、高さ296m、地上70階建てである。

日本では未だに300mを超えるビルは建設されていない。これは、耐震構造・地盤・建設費等の理由もあるが、航空法に基く高さ規制が大きく関わっており、概ね空港滑走路からの距離で定まる。

東京都新宿区西新宿の東を十二社通り、西を山手通り、南を甲州街道、北を水道通りに囲まれた一画で「仮称:西新宿三丁目西地区再開発」が進められており最も高いオフィス棟の高さは338mとなる予定である。

これが完成すれば、横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高さとなる。ただし現在のところ地元住民の立ち退きや着工の目処などは一切たっていない。また事業者により、規模縮小を含めた見直しが進められている。

2012年06月03日

◆角栄の坐り方で特ダネ

渡部 亮次郎


これは何処にも誰にも話したことの無い、NHK政治記者時代の話。自慢しているわけじゃない。珍しい話もあるもんだという程度に読んでください。

佐藤栄作政権(1964・11-72・6)時代の話。私はこの間、主として自民党担当記者だった。その頃も今もおなじだろが、政治記者の特ダネの最たるものは「年号」。昭和とか平成とかをスクープするのである。

昭和の場合はスクープされた当時の政府があえて別の年号に変更するという騒ぎのあったことが伝説に残っている。平成は各社発表待ちに転じ、スクープはなかった。

その次の特ダネは衆議院の解散日を当てることである。滅多に無いが「衆院、今日解散」という特ダネがありうるのである。

あれは佐藤栄作首相による衆議院の解散だったから、たしか昭和40年代のいつかだったが、解散は決ったが投票日が未決定だったことがある。当時の選挙責任者たる自民党の幹事長は田中角栄。後に佐藤派を簒奪して政権を奪ったことから推察されるように、既に佐藤派のNo2にのし上がっていた。

佐藤栄作と言う人は昔気質の縁起担ぎ。大事な事はすべて「大安」にやるという人だった。だからこのときの総選挙投票日も「大安」の日だろうと一般は予測した。ところが田中幹事長は大安でない別の日取りを言い出したのだ。

佐藤も愈々角栄任せにしたのかと我々は思った。しかし、佐藤と田中の関係は本当にそうなっているのか。当時国対委員長だった園田直に確かめたところ、どうもおかしいのだ。

幹事長は園田従えて佐藤首相に会いにいった。ところが、田中は向かいの椅子に極めて浅くしか腰掛けなかった。緊張していたというのだ。佐藤が田中に全権を委任しているような雰囲気では決してなかったというのだ。田中は投票の日取りについて佐藤総理の了承は取らなかったことが判明。「田中の言っているのは佐藤のハラではない」。

政治部に上がってこのことを部長に報告したが、多勢に無勢、無視された。田中番記者の手で幹事長のいう日取りの原稿が放送された。

ところが投票日が決ってみれば、幹事長の言っていた日ではなく、矢張り佐藤の好きな大安の日だった。

部長に言われて投票日に関する「訂正ニュース」を書かされた。それにたいして報道局長賞(特ダネ賞)が出た。NHKには結局19年在職したが、特ダネ賞はこれ1回きりだった。「訂正ニュース」で特賞というのも珍しい話でしょう。
                     (2012・6・2)

2012年06月01日

◆万策尽きたか小沢氏

渡部 亮次郎


31日未明の産経ニュースは「2閣僚ら交代、党役員も」との副見出しで来週にも内閣改造へと1面トップで報じた。だから私は「首相ようやく小沢切りを決断」とメルマガ及びブログに書いた。と

<野田佳彦首相は30日、消費税増税関連法案の今国会での成立に向け、来週にも内閣改造を行う方針を固めた。複数の首相周辺が明らかにした。参院で問責決議を受けた田中直紀防衛相と前田武志国土交通相に加え、鹿野道彦農林水産相らを交代させ、中規模の改造となる見通し。併せて党役員人事も検討している。

首相は30日昼、小沢一郎民主党元代表と党本部で会談した。首相は「消費税増税は待ったなしだ。今国会中に採決して成立を期すのが私の立場だ」と協力を求めたが、小沢氏は「政権としてやるべきことがある。賛成というわけにはいかない」と拒み、決裂した。

これを受け、首相は消費税増税法案成立に向け、自民党との修正協議を本格化させる構え。民主党幹部には会期末の6月21日までに法案を衆院で採決するよう指示した。新体制を早急に固め、原子力規制組織設置など懸案を一気に解決したいと考えているという。>
(産経ニュース 2012.5.31 01:37 )


これについて、藤村官房長官、内閣改造の必要性否定せず

<藤村修官房長官は31日午前の記者会見で、参院で問責決議を受けた前田武志国土交通相、田中直紀防衛相を交代させる必要性について「あるとも、ないとも申し上げない」と述べ、否定しなかった。

一方で「党や政府で、その件をまだ検討した事実はない」とも語った。

また、自民党が社会保障と税の一体改革法案の修正協議に応じる方針を決めたことについて「歓迎したい。法案成立に向けて修正がなるように期待している」と述べた。>
(産経ニュース 2012.5.31 12:28 )


30日の【野田・小沢会談】について小沢氏、再度会談しても合意は困難と自ら語っていた。

<野田佳彦首相は30日、消費税増税関連法案に反対する小沢一郎民主党元代表と党本部で会談した。首相は6月中旬以降に想定される採決に向け、100人以上の党内最大勢力を抱える小沢氏に法案成立の協力を要請した。小沢氏は増税反対の意向を重ねて示し、会談は物別れに終わった。

会談には輿石東幹事長が同席し、約1時間半にわたり行われた。首相は「今日の財政事情、少子高齢化の問題に鑑み、消費税増税は待ったなしだ。この国会中に採決して成立を期すのが私の立場だ。ぜひ協力をお願いしたい」と述べた。

これに対し小沢氏は「国民に大きな税負担をさせる前に政権としてやるべきことがある。賛成というわけにはいかない」と反論し、法案に反対する考えを伝えた。

その上で小沢氏は反対理由として(1)「統治の仕組み」を変える大改革が緒に就いていない(2)これまで描いてきた年金制度改革のビジョンが忘れ去られて一体改革とは言えない(3)東日本大震災から立ち直っていない−の3点をあげた。

小沢氏は会談後、記者団に再会談の可能性について「党代表から呼び出されれば、党員として行かなくてはならない」と述べた。だが「一致点を見いだせるか分からない」とも語り、再度会談しても合意は困難との見方を示した。

首相は記者団に「1時間半、かなり率直な天下国家の議論ができた。もう1回反(はん)芻(すう)しながらどうするか考えたい」と言葉を濁した。

会談で溝が埋まることはなく、首相は今回の会談を機に、自民党との連携に本格的に舵を切る可能性もある。その場合、自民党が求める法案成立と引き換えに行う「話し合い解散」が視野に入る。だが、党分裂回避に向けて再会談を求める声は党内に根強くある。

首相は28日に「会う以上は乾坤(けんこん)一擲(いってき)だ」と語っていた。今後、法案成立か党内融和かの選択を迫られることになる。>
(産経ニュース 2012.5.30 13:38 )

参院で問責された2閣僚について野田首相はその後も一応、庇ってきた。2人とも幹事長にして民主党参院の議員会長を務める輿石東氏の推薦で入閣させたものであり、輿石氏の背後には小沢氏がひかえているから「党内融和」と言う大義名分上、簡単に更迭はできなかった。

しかし、会談が決裂し、今後は自民党など野党への協力要請に軸足を移さざるを得ない以上、自民党が最終的に要請している衆議院の解散要請はともかく、2閣僚の更迭に踏み出さざるを得なくなったのである。

さらに小沢氏との宥和路線を破棄するのだから、小沢氏への配慮からあえて参院から起用していた輿石幹事長も不要になる。むしろ、より協力的な前原政調会長の幹事長起用などもあり得るかもしれない。

尚中国人外交官によるスパイ容疑で事件との関連が浮上した農水大臣鹿野道彦氏も、この際更迭されるかもしれない。

さてやゝ野田を舐めてきた小沢氏が今後ドウ出るか、見ものである。結論の先送りを狙ってきた小沢氏だが、もはや再会談の望みは無い。残るは新党結成だが、刑事被告人の身で新党ブームに乗るのは難しい。「小沢氏も愈々万策尽きたのか」(産経ニュース)。
2012・5・31

2012年05月31日

◆王座譲らぬ台湾バナ

渡部 亮次郎


熱帯植物であるバナナの商業生産地としては台湾は北限に位置する。フィリピンバナナに押されているが、品質、味の点で依然「王座」にある。

]台湾はバナナ生育の条件である気候的には寒く、フィリピンでは8か月で収穫できるのに台湾では収穫まで12か月から13か月かかるものもあり、促成栽培でなくじっくり成長するため味、香りが濃くなる。

台湾は小さい島だが、富士山より高い山があったり、熱帯地域があったり、北と南では気温も違い、均一な気候風土ではない。また台風銀座とも呼ばれ、毎年多くの台風が通過し、バナナ畑にも被害をおよぼす。

台湾が日本の統治下にあった時代に、日本人が現地の農民に日本の果物の端境期である春先から初夏の時期にあわせて出荷できるように、バナナ栽培を指導していた。

同じ台湾バナナでも、時期によって色、形態が微妙に変化する。

1月中旬から3月中旬は「冬蕉」(冬バナナ)と呼び、3月中旬から4月中旬は「花竜仔蕉」、4月中旬から5月中旬は「黒皮春蕉」等々。

名前のように緑が濃く「黒い皮」のようなバナナや、「白い皮」のバナナ、頭が丸く大きいバナナ、さきが尖ったバナナといった違いがある。

明治36年、都島金次郎によって日本に初めて台湾バナナが輸入された。当時の日本は冬季のミカンから夏季のスイカまでの間の果物需要を満たす果実が少なく、台湾バナナは日本人好みに品種改良が行われ、次第に日本の食卓へと浸透していった。

台湾総督府もこの新たな特産物を奨励し、大正13年には半官半民の「台湾青果株式会社」を設立。流通を担い、昭和12年に台湾バナナの出荷がピークを迎えたが、第2次世界大戦の勃発により、戦時中、台湾バナナの出荷量は激減した。

戦後、まずはGHQ向けに出荷が再開され、その後は民間向けにも再び日本への出荷が始まったが、当時の日本政府は外貨不足から輸入割当制度を行っており、その総量はなかなか回復しなかった。

一方では、依然として高い消費需要があったため台湾バナナは値上がりし、特に上質の台湾バナナは料亭やホテルに買い占められていたため、昭和30年頃まで台湾バナナは「高級品」の位置づけにあり、庶民が上質の台湾バナナを購入できるのは病気見舞いなどの際にほぼ限られていた。

台湾バナナは度々台風の直撃を受けたことと、昭和37年にコレラが流行ったことにより出荷量がさらに減少するが、同時期にエクアドルが日本市場に売り込みを開始し、一時は市場の8割を占めるまでにエクアドル産バナナが台湾バナナのシェアを奪った。

だが、エクアドル産バナナは長距離輸送と管理において台湾バナナに品質の面で大きく水をあけられており、台湾バナナは昭和42年頃に再びシェア8割を確保するようになった。

一方、昭和49年になるとフィリピン産バナナが台湾バナナの前に立ちはだかった。昭和42年頃のフィリピン産のシェアは2%代だったが、日本の商社が大規模生産を開始し、昭和48年には約5割、昭和49年以降には7割のシェアを奪うまでになる。

品質は台湾バナナに及ばないものの、輸送距離の短さによる品質劣化が少なかったことが、フィリピン産バナナの躍進に繋がった。

しかし、バナナの消費大国だった日本ではこの時期、急激にバナナの消費自体が減少していく。これには経済成長と輸送技術の進歩、収穫期をずらして果実を収穫できるハウス栽培の一般化によって、バナナ以外にも果実の選択肢が広がったことが原因としてあげられている。

平成19年の市場シェアは約2%となっているが、バナナは再び健康食品として注目を集めており、バナナの消費は増加傾向にある。特に高品質の台湾バナナは健康やダイエットを求める消費者の嗜好に合致するものとして近年売り込みを行っており、大規模ショッピングセンターなどでは台湾バナナはラインナップの一つとして定着しつつある。(「ウィキペ
ディア」)

台湾バナナの到来

台湾バナナが日本に到来したのは、明治36年頃、当時台湾は日本領で基陸(キールン/台湾北端)の商人(都島金次郎氏)が神戸に持ち込んだのが始まりとされています。その後、台湾に地理的にも近い北九州市の門司港に大量の台湾バナナが荷揚げされ、市場が設けられました。

バナナの商品化に問題発生

バナナは硬くて青い状態で台湾から輸入され、問屋の地下の加工室(むろ)で追加熟成され、甘く黄色く色付けされた後、市場に出て売られます。ところが、台湾から輸送中に蒸れた物とか、加工中に生じた一部の不良バナナは、二級品として商品化出来ない物が出ていました。

現在では、菓子やジュースといった加工を施して、別の商品として生まれ変われますが、明治、大正期は、その技術はなく、捨てるしかなかった。

●「バナナのたたき売り」この二級品バナナをどうするか、早く換金する手段はないかと考え、明治41年頃から北九州市の門司港の桟橋通りで、口上宜しく、客を集めて売りさばかれたのが「バナナのたたき売り」の始まりとなりました。

当時、門司は、九州の大都市でJR門司港駅前(西海岸地区)から桟橋通り付近までの街道には露天商や夜店が並び、その中でひときわ目立ったのが「バナナのたたき売り」だったそうです。


●危機と復活

第2次世界大戦(1941年〜)の激化につれて、昭和19(1944)年初め戦況悪化によりバナナの姿 も次第に消え、やがて終戦後、門司校区自治協会長だった井川忠義さんが、たまたま中学校時代に見聞した、「バナナのたたき売り」の口上を作詞・作曲し、持ち前の美声で当時流行した覗き調で披露したことで復活しました。 

昭和33年・・・門司港地区活性化に向け、「門司港発展期成会」を発足、平成11年・・・「門司港バナナのたた売り保存会」に改名現在は、門司区役所の委託を受けて「バナちゃん道場」と称し、芸能の継承者育成活動もある。

<口上> ♪春よ三月春雨に 弥生のお空に桜散る
バナちゃんの因縁聞かそうか

生まれは台湾台中の アリサンふもとのかた田舎

台湾娘に見初められ ポッと色気のさすうちに

国定忠治じゃないけれど 一房二房もぎ取られ

唐丸籠に詰められて アリサンふもとを後にして

ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所がキールン港
キールン港を船出して 金波銀波の波を越え
海原遠き船の旅 艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司港(みなと)・・・

この項 「知って得するまめ知識」より
http://www.geocities.jp/mikkey_hp/tisiki/menu.html

                        2012・5・25

2012年05月30日

◆ソースが食べられない

渡部 亮次郎


私はソースが食べられない。幼少期を秋田の片田舎、それも大東亜戦争の前後に送った者だからである。戦争中は醤油も無くなって味噌の「たまり」で野菜の「ひたし」を食べた。

決して貧しかったり親の所為(せい)では無い。戦争の所為である。戦争が敗戦で終わっても食糧難は大人になりかかるまで続き、とうとう洋食を味わう機会のないまま大人になってしまったのだ。

だから実はしばしば登場する東京・向島のハンバーグも醤油をかけて食べている。家人は上野精養軒のシェフだった男の娘だから、文句を言いそうだが、黙認しているから助かっている。なんだかソースを食べられないのは恥かしいのだ。

ソースが駄目だから関西のお好み焼きも駄目、となる。大阪時代、数多の美女とお好み焼きのデートが皆無だったのは堅物だからではなく、ソースの所為。戦争の?犠牲者ここにもあり!

イギリスの元祖ウスターソースはアンチョビ、タマリンド(果実の一つ)、エシャロット、クローブ、やニンニクなどを材料にしている。

これに対し日本のウスターソース類は、トマトやリンゴなどといった野菜・果実の絞り汁・煮出し汁・ピューレ、またはそれらを濃縮したものに、糖類、食酢、食塩、香辛料、でん粉、カラメルなどを加え、貯蔵熟成させて作る。

日本で最も一般的な調味料のひとつであり、茶褐色や黒色をしていて、塩味のほかに、ほのかな辛さと野菜や果実に由来する甘味・酸味に特徴のある日本独自の調味料である。私には酸味が苦手の原因。

ウスターソース類は、粘度の違いにより、最もさらっとしたウスターソース、ややとろみのある中濃ソース、中濃よりもさらに粘度が高い濃厚ソースに分けられる。

濃厚ソースには「特濃ソース」などの商品名を付けているものが含まれる。粘度はでんぷんを加えて高められることが多い。

また、とんかつソース(他に各種材料を配合して用途をフライ専用に特化している)、お好みソース、やきそばソース、たこやきソースなど、ウスターソースから派生し、商品名に用途を冠し、粘度や風味を調整したソースもある。多くは濃厚ソースに属する。

中京圏では、こいくちソースと呼ばれる独特の濃厚ソースが好まれている。

ウスターソース類は、日本には明治時代に登場した。当初は、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであったが、戦後間もなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができた。

その中間の中濃ソースは昭和30年代(すでに社会人になっていた)に登場したものである。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、しばしば家庭に常備されるようになった。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。欧米のレストランでは見られないことだ。

調味料は、地域や個人により好みが分かれており、なかなか統一的ではない。ウスターソース類についても同様で、メーカーやタイプ(濃度や風味など)も、地域ごとに受け入れられ方が異なるため、各地域でメジャーに思われている商品のタイプやブランドも異なっている。

一説によると、関東地方以北では中濃ソースだけを使い、近畿地方、西日本などではウスターソースととんかつソースを分けて使うことが好まれるという。

これは西日本では中濃ソースの存在そのものが近年までほとんど一般に知られていなかったという事情によるもので、近畿地方に本部があるメーカーが中濃ソースを販売するようになった現在でも、この傾向はあまり変化していない。

また、地方でのみ、あるいは個別のメーカーのみが作っている風味や用途の異なるウスターソース類もある。

例えば、長崎県には皿うどんソース(チョーコー醤油製)というものがあった。

近畿地方では辛味が強く、濃度の高い「どろソース」(オリバーソース製)の人気も高いほか、近年は大量生産された大手のソースにない味が評価され「地ソース」が静かなブームを呼んでいる。

特に手作りの小規模な地ソースは人気が高く、メーカーによっては生産が注文に追いつかない状態となっている。
(ウイキペディア)


2012年05月26日

◆一番好きな果物は柿

渡部 亮次郎


夜はともかく、朝と昼の食後は果物を必ず食べる。春は連日苺である。最近は保存状態のよい林檎も出るが、なんと言っても好きなのは柿であ
る。

秋田の水田地帯にはなかったため、大人になってから初めて食べてそのねっとりした歯ざわりと甘さには驚いたものだ。最近は秋になれば和歌山とか奈良、岐阜辺りの柿が待ち遠しい。

日本では5月の終わり頃から6月にかけて白黄色の地味な花をつける。果実は秋に橙色に熟す。枝は人の手が加えられないまま放って置かれると、自重で折れてしまうこともあり、折れやすい木として認知されている。

東アジアの固有種で、特に中国長江流域に自生している。熟した果実は食用とされ、幹は家具材として用いられる。葉は茶の代わりとして加工され飲まれることがある。

果実はタンニンを多く含み、柿渋は防腐剤として用いられ。現在では世界中の温暖な地域(渋柿は寒冷地)で果樹として栽培されている。

柿は学名もkakiだそうだ。その理由は日本から1789年にヨーロッパへ、1870年に北アメリカへ伝わったことからだという。

英語で柿を表す「Persimmon」の語源はアメリカ合衆国東部の先住民であるアルゴンキン語族の言葉で「干し果物」を意味する名詞「ペッサミン」であり、先住民がアメリカガキ(Diospyros virginiana L.)の実を干して保存食としていた事実によるという。

近年、欧米ではイスラエル産の柿(渋抜きした「Triumph」種)が「シャロンフルーツ(Sharon Fruit)」という名称で流通するようになったため、柿は「Persimmon」よりも「Sharon Fruit」という名で知られている。

国際連合食糧農業機関(FAO)の統計データ(2005年現在)によると、全世界におけるカキの生産量は256万1732トンである。このうち、72%(183万7000トン)を中国一国が生産している。

次いで韓国(25万トン)、日本(23万トン)、ブラジル(15万トン)、イタリア(5万1000トン)、イスラエル(4万トン)である。以上6カ国で生産量の99.8%を占める。他にニュージーランド(1300トン)、イラン1000トン)、オーストラリア(650トン)、メキシコ(450トン)などの諸国でも生産されている。

ニュジーランドでは食べてみたが一向に甘くなかった。

地域別ではアジア州が92%、南アメリカ州(ブラジルのみ)が6%、ヨーロッパ州(イタリアのみ)が2%という比率である。

柿は北海道と沖縄県を除く日本の全都府県で栽培がされており、柿の栽培面積が多い県は和歌山県、福岡県、奈良県の順である。

日本国内の収穫量 2007年度 24万4800トン

全国1位:和歌山県 5万2400トン(21%)
全国2位:奈良県 2万8100トン(11%)
全国3位:福岡県 2万400トン(8%)

「柿が赤くなると医者が青くなる」と言うことわざがあり、豊富なビタ
ミン類とミネラルが栄養価摂取の低い時代では医者いらずの万能薬とし
て重宝された。

柿の季語は”秋(晩秋)”であり、多くの人物に詠まれている。

祖父親まごの栄や柿みかむ(芭蕉)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)

山柿や五六顆おもき枝の先(飯田蛇笏)

髪よせて柿むき競ふ燈下かな(杉田久女)

さみしさの種無柿を食うべけり(三橋鷹女)

柿むく手母のごとくに柿をむく(西東三鬼)

柿もぐや殊にもろ手の山落暉(芝不器男

柿色の日本の日暮柿食へば(加藤楸邨

つまらなく夫婦の膝の柿二つ(石川桂郎)

柿食ふや遠くかなしき母の顔(石田波郷)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
               2012・4・23

2012年05月25日

◆一番好きな果物は柿

渡部 亮次郎


夜はともかく、朝と昼の食後は果物を必ず食べる。春は連日苺である。最近は保存状態のよい林檎も出るが、なんと言っても好きなのは柿であ
る。

秋田の水田地帯にはなかったため、大人になってから初めて食べてそのねっとりした歯ざわりと甘さには驚いたものだ。最近は秋になれば和歌山とか奈良、岐阜辺りの柿が待ち遠しい。

日本では5月の終わり頃から6月にかけて白黄色の地味な花をつける。果実は秋に橙色に熟す。枝は人の手が加えられないまま放って置かれると、自重で折れてしまうこともあり、折れやすい木として認知されている。

東アジアの固有種で、特に中国長江流域に自生している。熟した果実は食用とされ、幹は家具材として用いられる。葉は茶の代わりとして加工され飲まれることがある。

果実はタンニンを多く含み、柿渋は防腐剤として用いられ。現在では世界中の温暖な地域(渋柿は寒冷地)で果樹として栽培されている。

柿は学名もkakiだそうだ。その理由は日本から1789年にヨーロッパへ、1870年に北アメリカへ伝わったことからだという。

英語で柿を表す「Persimmon」の語源はアメリカ合衆国東部の先住民であるアルゴンキン語族の言葉で「干し果物」を意味する名詞「ペッサミン」であり、先住民がアメリカガキ(Diospyros virginiana L.)の実を干して保存食としていた事実によるという。

近年、欧米ではイスラエル産の柿(渋抜きした「Triumph」種)が「シャロンフルーツ(Sharon Fruit)」という名称で流通するようになったため、柿は「Persimmon」よりも「Sharon Fruit」という名で知られている。

国際連合食糧農業機関(FAO)の統計データ(2005年現在)によると、全世界におけるカキの生産量は256万1732トンである。このうち、72%(183万7000トン)を中国一国が生産している。

次いで韓国(25万トン)、日本(23万トン)、ブラジル(15万トン)、イタリア(5万1000トン)、イスラエル(4万トン)である。以上6カ国で生産量の99.8%を占める。他にニュージーランド(1300トン)、イラン1000トン)、オーストラリア(650トン)、メキシコ(450トン)などの諸国でも生産されている。

ニュジーランドでは食べてみたが一向に甘くなかった。

地域別ではアジア州が92%、南アメリカ州(ブラジルのみ)が6%、ヨーロッパ州(イタリアのみ)が2%という比率である。

柿は北海道と沖縄県を除く日本の全都府県で栽培がされており、柿の栽培面積が多い県は和歌山県、福岡県、奈良県の順である。

日本国内の収穫量 2007年度 24万4800トン

全国1位:和歌山県 5万2400トン(21%)
全国2位:奈良県 2万8100トン(11%)
全国3位:福岡県 2万400トン(8%)

「柿が赤くなると医者が青くなる」と言うことわざがあり、豊富なビタ
ミン類とミネラルが栄養価摂取の低い時代では医者いらずの万能薬とし
て重宝された。

柿の季語は”秋(晩秋)”であり、多くの人物に詠まれている。

祖父親まごの栄や柿みかむ(芭蕉)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(正岡子規)

山柿や五六顆おもき枝の先(飯田蛇笏)

髪よせて柿むき競ふ燈下かな(杉田久女)

さみしさの種無柿を食うべけり(三橋鷹女)

柿むく手母のごとくに柿をむく(西東三鬼)

柿もぐや殊にもろ手の山落暉(芝不器男)

柿色の日本の日暮柿食へば(加藤楸邨)

つまらなく夫婦の膝の柿二つ(石川桂郎)

柿食ふや遠くかなしき母の顔(石田波郷)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
               2012・4・23

2012年05月24日

◆戦争を知る人知らぬ層

渡部 亮次郎


取材陣が来て「今の政治家と昔の政治家はどこが違うか」と聞かれた。一瞬考えて「戦争を知ると知らぬ、の違いでしょう」と答えた。

戦場に出たかでないだけでなく、戦争を時代として生き抜いたか否かなのである。

消費税率の引き上げに野田総理は命を賭けるというが、命がけとはどういうことか知っての発言だろうか。は思えない。

命がけとは文字通り命を賭けることであり、失敗すれば死ぬことを約束することである。政治家を辞めることとは違うのである。野田は余りにも簡単に「命」を使う。

私が見た昭和時代の政治家は戦争体験を持っていた。しかし平成の政治家は幸福にも戦争を知らない。知っているのは平和だけである。

戦争を知る最後の総理大臣は宇野宗佑だった。彼はシベリヤ抑留も体験し、戦場には慰安婦はいたが、あれは国家が運営するものではなかったと体験を交えながら語っていた。

それ以後の総理大臣は戦争体験は無い。

陸軍航空隊の隊員で、特攻隊生き残りだった故園田直によると、戦争を体験するとは命を敵に晒すこと。だから「俺は大砲の弾が炸裂したら、その穴の中に飛び込んで助かった」と良く言っていた。「どんな名手だって砲弾を同じところには着弾させる事は不可能だもの」とさらりと言ってのけた。

隊長として士官学校出の若者が戦場へ着任する。学校で鉄砲の撃ち方は習ってきたが、撃たれるのは生まれて初めて。(あの砲音は)「敵か、味方のか」と五月蝿い。

弱気だと見破られないか、とやたら危険に身を晒したがる。「其処じゃ危険であります」と言っても下がらない。園田が「其処では敵情が見えません、こちらへどうぞ」と岩陰に案内するとほっと溜息をついていた。インテリの弱さか。

昭和50年ごろまで、国会議員の大半はこうした戦場体験をもっていて「命」とは何かを知っていた。

そうした議員は決して利己主義者ではなかった。戦争の苦難のなかで利害得失を仲間と分かつべきことを哲学としていた。小沢 佐重喜は安保改訂に身を投げたが、息子の一郎はカネを懐にするのに忙しいのはこの差を物語るものではないか。

昨今の政治家は徹底的な利己主義に陥っている。小選挙区制になった所為もあって、「競争相手より立派に見える」工夫はするが、それ以外の事は絶対しない。

もっと言えば選挙民の幸福などは考えたこともない。選挙民の幸福を「考えているように振舞う」ことを知っているだけだ。鳩山や菅はその典型だと思う。

だから政治評論は憂鬱な作業だ。(敬称略)。2012・5・20

2012年05月22日

◆消費税法案棚上げを決断?

渡部 亮次郎


このところの野田首相の言動を分析すると、消費税率引き上げ法案の今国会での成立は見送り、小沢氏との関係を修復した上で、9月に党代表の再選に全力を挙げると決断したのではないか。

マスコミはそれに気づかないで報道しないのか、引き上げに命を掛けるといった首相の気迫に、まだ、騙されているのいずれかだ。昔の島ゲジ流に「色眼鏡」で首相の言動を分析すると、首相は引き上げ法案よりも再選に舵を切り替えたとしか思えない。

まず、自民党など野党各党との協力路線を自ら封じてしまった。問責決議案が可決されてしまった田中防衛大臣ら2閣僚の罷免要求を断然、拒絶した。

ワシントンでこの発言をマスコミは G8参加で気分が高揚していたからと論じたが、違うだろう。仮令、高揚したって政局運営には
一文の価値もない。

2閣僚を推薦した輿石幹事長のカオを立てたのである。部下たる輿石などのカオを何故立てる必要があるのか。それは当面の政局運営の主導権を輿石に渡すという意味である。

輿石が考えは、幹事長兼参院民主党議員会長と言う今の権力を保持することにしかない。このために引き上げ法案などで身を崩すことなど絶対に考えていない。与党少数の参議院で民主党勢力を束ねて行くという快感は味わることのない衆院議員には理解不能の境地である。

昔、自民党時代の参議院は「重宗雄三議長の不可侵地」といわれた時代があった。今は輿石の不可侵地が参院なのでる。

良く考えてみれば、この9月に小沢自身が代表選挙に出馬することは、例の「控訴」で不可能になった。小沢としてはチルドレンを束ねて「圧力」の維持を図るのが精一杯。

そこらを読んで輿石はかねてから消費税率引き上げ法案の「継続審議」を画策してきた。そこで、2閣僚の罷免に抵抗すれば、法案成立の唯一のカギにつながる野党との話し合い路線が断絶する。

その上で野田・小沢直接会談に持っていけば、二人が口にしなくても「法案の今国会見送り」が暗黙のうちに合意され、ひいては野田の党代表再選もおのずとかたまるというもの。つまりこれぞ「党内融和」となり輿石自らの地位も安泰というものだ。

野田はワシントン出発前のわずか30分間の輿石との会談でこのシナリオを聞かされ、膝をいうってワシントン入りしたのである。同行記者団に「高揚」と見えたのは党代表再選決定による高揚だったのである。

敷衍すれば、衆院解散は遠のき、自民党での谷垣降しが激化するだろう。実は政局の目は民主党からいつの間にか自民党に移動していたのだ。輿石はただの日教組ではない、大変な狸なのである。
        (文中敬称略) 2012・5・21

2012年05月21日

◆80にして初納豆

渡部 亮次郎


76を過ぎた最近、納豆を毎朝食べてみて飽きない。脳卒中予防には血をさらさらにするしかない、そのためには毎日「ワーファリン」を飲むことになったが、困ったことに、この薬は納豆や青汁などをたべると効果がなくなる。

子供の頃、親父が納豆作りに殆ど失敗した為に、これまでは納豆を食べたいと思うことは無かった。ところが、4月から薬が代わって「プラザサキ」になり、納豆はOKということになった。

それで4月の末から毎朝、納豆を食べ、14日に血液検査をしてもらったら「プラザサキ」の効果には矢張り全く影響していなかった。「好きならいくらでもOK」ということになったわけだ。

納豆は大豆を原料として、納豆菌で発酵させた日本の発酵食品である。日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができ、現在多くの日本人に食べられている。茨城県・福島県を中心とした関東地方・東北地方では郷土料理としても親しまれている。

血液凝固因子を作るのに不可欠なビタミンKや大豆由来のタンパク質も豊富であり、現在でも重要なタンパク質源となっている。「ワーファリン」の効果が減殺されるのはこのため。

総務省統計局の全国物価統計調査の調査品目にも採用されている。食物繊維は100グラム中に44・9−7・6グラムと豊富に含まれる。

食物繊維はオリゴ糖等と共にプレバイオティクスと呼ばれる腸内環境に有用な成分であり、納豆菌はプロバイオティクスと呼ばれ、これも腸内環境に有用と考えられている。

O157を抗菌することがわかっている。納豆には殺菌作用が認められ、抗生物質のない昔は、赤痢、チフスなどの伝染病に対し、納豆が一種の薬として使われていた。

病原性大腸菌あるいはサルモネラ菌に対する抗菌作用も立証されている。納豆には血栓を溶かす酵素が含まれており、納豆から単離したナットウキナーゼを経口投与したイヌで血栓の溶解が観察されたという報告がある。

納豆をかき回して食するのは、納豆のねばりの中にあるグルテンの構造が一定の方向になると美味しく感じるという経験を持つことによる。

途中から逆方向に混ぜるとこの構造が壊れて味が損なわれる(江戸東京グルメ歳時記:林順信著)。納豆に含まれるビタミンK2は骨タンパク質の働きや骨形成を促進することから、ビタミンK2を多く含む納豆が、特定保健用食品として許可されている。

また、ポリグルタミン酸にはカルシウムの吸収促進効果があるため、納豆から抽出されたポリグルタミン酸が特定保健用食品として許可されている。

納豆菌の一部には、安定した芽胞のまま腸内まで生きて到達してビフィズス菌を増やし腸内環境を正常化する効果があることから、そのような効果を持つ納豆が特定保健用食品として認可されている。

納豆菌を使用して発酵させる為、納豆菌特有の発酵時の香りがある。68種類のにおい成分から構成されている。代表的な「ピラジン」は、アーモンド・ココア・パン・味噌・醤油にも含まれる香りである。

中には「アンモニア」成分もある事から、古くなったり製品管理が悪い場合は、このアンモニア臭が強くなる。「わら納豆」は、藁の香りが加わる。

医薬品との相互作用

ビタミンK2は抗凝血薬(ワーファリン)の作用を弱めることから、ワーファリンの服用中は、納豆は避けるべきとされる。

大阪に30年前、単身赴任した頃は、何処にも納豆はうっていなかったが、いまでは製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、この40年間を見ても国内各地域での消費量の差(一番少ない近畿・中国・四国と福島・水戸など一番多い地域との差)は大きく縮まっているそうだ。

「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、納豆の時期は冬である。

7月10日は「納豆の日」とされている。これは1981年、関西での納豆消費拡大のため、関西納豆工業協同組合がなっ(7)とう(10)の語呂合わせで制定したもの。1992年、全国納豆工業協同組合連合会が改めて「納豆の日」として制定した。

「納豆」という語句が確認できる最古の書物は、11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』である。同作中に「腐水葱香疾大根舂塩辛納豆」という記述があることから、平安時代には納豆という言葉が既に存在していたことが確認できる。

この記述の読み下しには諸説あるが(「舂塩辛」「納豆」、「舂塩」「辛納豆」、「大根舂」「塩辛納豆」など)、「辛納豆=唐納豆」など、これは本来の意味の納豆、つまり現在の「塩辛納豆」を指すものであろうという意見が多い。

納豆、つまり糸引き納豆についてであるが、「煮豆」と「藁」の菌(弥生時代の住居には藁が敷き詰められていた。また炉がある為に温度と湿度が菌繁殖に適した温度になる)がたまたま作用し、偶然に糸引き納豆が出来たと考えられているが、起源や時代背景については様々な説があり定かではない。

大豆は既に縄文時代に伝来しており、稲作も始まっていたが、納豆の起源がその頃まで遡るのかは不明である。戦国時代において、武将の蛋白源やスタミナ源ともなっていた。

また江戸時代では、京都や江戸において「納豆売り」が毎朝納豆を売り歩いていた。戦時中は軍用食として、戦後は日本人を救う栄養食として食べられ、日本に納豆が普及していった。

納豆は元来精進料理として納所(なっしょ、寺院の倉庫)で作られた食品でこれが名前の由来という説が『本朝食鑑』という書物に載っている。

納所に勤めていた僧侶が納豆造りをしていたので、納所の字をとって「納豆」になったという。又言う、『新猿楽記』の中で「精進物、春、塩辛納豆」とあるのが初見で、この『猿楽記』がベストセラーになったことにより、納豆という記され方が広まったとされる。

納豆が日本独自の言葉であるのに対し、豆腐は中国から伝来した食品であり中国でもこの名前で呼ばれている。

(ウィキペディア)2012・5・19


2012年05月19日

◆「青い山脈」の頃

渡部 亮次郎


(再掲)恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなっている。2007年10月24日のラジオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。『ウィキペディア』

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900年1月25日―1986年10月7日)は、青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』
など。

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005年8月15日新聞記事による)。

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であったのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何のためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折からの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピソ−ドがある。

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎 、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガンちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太郎(芸者):木暮実千代だった。

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。2007年2月、東京池袋の新文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」と池部が質問され、

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソードを話している。

「ウィキペディア」による誕生日は1918年2月11日(建国記念の日)89歳 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は1916年生まれ」だとすると92歳(2008年6月現在)になってしまう。映画俳優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。『ウィキペディア』

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町によく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名された。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。家では教科書を広げる事はなかった。

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えながらの映画鑑賞。

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入社(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。2007・10・25

なお、池部良さんは2010年10月8日病没された。

2012年05月15日

◆5・15も2・26も知らない

渡部 亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、知らないのは当然か。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政治を否定し手起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁固刑でしかならなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だったという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡状態となった。経済は復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違い。私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られたほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡する)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。

6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。

この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年。戦後、事故死。

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年

(「ウィキペディア」)

2012年05月13日

◆俺の女房だと毎日は叫べない

渡部 亮次郎


「これは俺の女房だと毎日叫ぶのは恥ずかしいことだ、と同様、尖閣諸島はわが国固有領土だと毎日叫び続けることは恥ずかしい」と日本外務省。「嘘も百編唱え続ければ真実になる」よろしく中国。これが尖閣諸島問題の真相だ。

1968年 10月12日―11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。この話は元首相岸 信介から直接聞いた。

その岸は総理辞任後、個人事務所を構えたのが新橋駅に近い日本石油の一郭だった。元通産官僚として、石油に深く関係する岸だった。

海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。

だが、関係者はともかく、日本国民の殆どは、この事実を知らず、尖閣諸島の名も知らなかった。後に外務大臣の秘書官になって深く知らざるを得なくなる私も、政治記者時代は全く関心がなかった。

1971(昭和46)年 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、いわゆる保釣運動へと発展した。

6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。

6月17日:日米が沖縄返還協定に調印。この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している。

12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。

72年7月5日、田中角栄が「角福戦争」を制して政権を獲得。

7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入
義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。

この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです」とする主張を証明するものである。

なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない。

9月27日:田中角栄内閣総理大臣が日中国交正常化交渉のため中国を訪問。私はNHK記者として同行した。

周恩来国務院総理との第3回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島
について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている。

この事実は同行記者団には発表されなかったので、最近知った次第。
中国では当時まだ毛沢東が存命中。経済改革・開放論者のトウ小平は下放中。将来、中国共産党の首を絞めるほどの重要資源になることを周恩来は自覚できなかった。

9月29日:日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。

1973年8月、田中批判をTVや「文芸春秋。赤坂太郎」で展開することで田中側近の竹下登副幹事長がNHK政治部長に渡部亮次郎記者の左遷を要求。NHKはこれに抗することなし。

渡部は3度も辞表を提出するが受理を拒否される。止む無く大阪に転勤。3年後東京・国際局に副部長として戻ったが、1977年11月にNHKを退職、福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に横滑りした園田直の秘書官に就任(内閣総理大臣辞令)。日中平和友好条約の締結交渉の従事。

1978年4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。青嵐会(せいらんかい)の石原慎太郎らが主権の侵害だと福田政権を突き上げる。

この時私が日本外務省野幹部に質したところ「これは俺の女房だと毎日叫ぶ事は日本人の感性からすると恥ずかしくてとてもできることではない」という説明があったのだ。だから日本は始めから負けていると言えなくもない。

8月8日、園田外相が日中平和友好条約締結の最終交渉のため特別機で訪中。渡部随行。

滞在期間中、トウ小平副首相が園田外相に対し尖閣諸島問題の棚上げを表明。

10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国のトウ小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。

今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。
中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べる。

「ウィキペディア」によれば、<中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。

中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネールの平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した。

当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった]。

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。

日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる>。2012・5・12